2016年11月23日作

PDF:反知性主義と政治家

関係ないと思っていた二つの事象に隠されていた繋がりに気付くことがある。
風土病の原因を発見するプロセスがよい例だろう。病の原因を発見した学者は、多分、色々と悩んでいるうちに、何かの拍子で、その地方でだけ特定の病が発生することと、その地方に特定の生物が分布していることの繋がりに気付いたのだろう。そして、その仮説をもとに調査を行い、風土病の原因がその生物を宿主とした寄生虫が原因であることを突き止めたのだろう。
風土病に限らず、二つの事象の関係性が明らかになり新たな知識を得るというのは、温暖化と二酸化炭素濃度の関係のように、自然科学の世界ではよくある話だ。

この文章では、僕が気付いた、反知性主義と政治家のマスコミ対応という二つの事象の繋がりについて述べることにする。
僕は、現代において、大学教授のような知的エリートが独占している知識というものに対する反発、いわゆる反知性主義が広まっていることに興味があった。論理的に正しいとされることが、どうして正々堂々と軽んじられてしまうのだろう、と。
また、全く別のこととして、世間で人気がある政治家が、きちんとマスコミのインタビューに対応しないということが気になっていた。テレビのニュースで記者会見を見ていると、たいてい政治家と記者との話は噛み合っていない。これは、どういうことなのだろう、と。
こうして二つの疑問を並べてみると、なんとなく似ている。反知性的で、かつ、人の話にきちんと対応しない政治家は結構いるし、明らかに似た事象であり、関連性がありそうに思える。だけど、これまで、この関連性を気にすることはなかった。
最近、ふと、その関連性に気付いたので、書き残しておくことにする。

・・・

政治家が、マスコミのインタビューにしっかり対応しない実例は色々とありそうだが、あまり生々しいのもなんなので架空の例で話を進めよう。
政治家Aが記者会見で「就任時には憲法改正反対と言っていましたが、憲法改正賛成に回るのですか。」と突っ込まれ、「いずれにせよ、日本の未来を見据えた判断をしていきたいと考えています。」と答える例はどうだろう。
これは、文字どおり解釈するなら、記者の質問に全く答えていない。きちんと答えるならば、「憲法改正反対だったが、日本の未来を見据え、憲法改正賛成に立場を変えた。」というように明確に結論に言及しなければならない。
しかし、言外にそのような含みを持たせつつも、はっきりと言わないことで、「主張を変えるのですか。」「日本の未来を見据えるとどうして憲法改正が必要なのですか。」などと突っ込まれずに済む。
記者の質問に正面から向かい合わず、なんとなく前向きに聞こえる言葉ではぐらかすことで、政治家Aは、更なる質問から逃げている。
これは、政治家が、過去の既に行った発言との連続性が問題となるのを避けようとする例と言えよう。

また別の例として、このような問題の発生を予防するため、事前に、尻尾をつかまれるような発言自体を避けようとするケースもある。
また憲法でもいいのだが別の例として、これまで消費税について公に全く意見を述べたことがない政治家Bが「消費税増税に賛成ですか。反対ですか。」と聞かれ、「現在の日本をとりまく諸般の情勢等を鑑み、慎重に判断すべき問題だと考えております。」と答える場面で考えてみよう。
これは、なぜ明言を避けているのかというと、将来、消費税増税への賛否を明言すべき機会が到来したときに、過去の発言との連続性を突っ込まれないようにするためだ。そして、この突っ込まれるリスクは、多く発言すればするほど大きくなる。うかつに「消費税増税に反対です。」と発言し、記者に「どうしてですか。」と問われ、「企業の活力を損なう増税は経済にマイナスだからです。」などと答えてしまったら、今後、増税賛成に転向する必要が生じた際に、うまい理由がみつからなくなってしまう。だから、「現在の日本をとりまく諸般の情勢等を鑑み」などと言葉を並べて、明言を避け、リスクを避けるという戦略をとることになる。

政治家Aの憲法改正にせよ、政治家Bの消費税増税にせよ、いずれのケースも、マスコミ対応で肝要なのは、発言の連続性について尻尾をつかまれるような発言はしない、ということに尽きる。
しかし、何も発言しない訳にはいかないので、慎重に結論への言及を避けつつ、不明確な言い回しをする必要がある。
不明確な言い回しのテクニックとしては、語尾を濁すというような初歩的なやり方もないでもないが、それでは簡単に見抜かれてしまうので、大抵は、より高度な、応答を捻じ曲げるというやり方をとる。
先ほどの「日本の未来を見据えると」とか「現在の日本をとりまく諸般の情勢等を鑑み」といった、あまり意味を持たない枕詞を使うのも、応答の捻じ曲げの一種だ。記者が、そんな枕詞を聞きたくて質問をしている訳ではないのは重々承知で、あえて捻じ曲げてどうでもいい言葉を付け加えている。

だが、ここまでだと、まあ政治家というか役人あたりが使いそうな戦略だ。政治家ならば、より積極的な言い回しをするだろう。例えば、「日本の未来を見据えるとどうして憲法改正が必要なのですか。」という記者の質問に対して「日本の未来を担う子供に、誇ることができる日本を残していきたいのです。」と答えるような場面が思いつく。これは、憲法改正についての問いを、未来についての質問として捻じ曲げつつ、なんとなく憲法との関連性もあるように思わせるような勢いある応答をしている。
ともあれ、たいていの政治家がマスコミ対応の場で必要となるのは、尻尾をつかまれるようなリスクのある内容のある発言はせずに、内容のある発言をしているように見せかける技術だけだといっていいだろう。そう見せかけるために、政治家は、ある種の機転が求められる。

しかし、より優秀な政治家には、過去の発言により、マスコミに尻尾をつかまれても、それを振り切る能力がある。
これは、先ほどの捻じ曲げる能力を、さらに強化したものと言ってよいだろう。
「何があっても絶対に消費税増税反対と言っていたのに、賛成するのですか。」と記者に問われ、論理的にはかなりの窮地に陥っても、優秀な政治家は動じない。僕は優秀な政治家ではないので、なかなかいい例が思いつかないが、例えば、「そんな重箱の隅をつつくような質問はやめなさい。もっと将来の日本を背負ったような質問をしないとだめだよ。」などと教え諭すというのはどうだろう。うまくいくかわからないが、こんなアイディアでも、とびきりカリスマがある政治家だったら意外とうまくいく気もする。
例の良し悪しはともかく、政治家がこの域にまで達すれば、もう怖いものはない。たいていの発言は、都合が悪くなれば闇に葬ることができるのだから、何にも縛られず、どんどん積極的に発言できるようになる。そうすれば、人気が出て、更にカリスマ性も帯びてくるので、過去の発言との連続性など怖くなくなる。と、無敵へのスパイラルに入ることができる。

・・・

僕は、これらの政治家の態度こそが反知性的の意味だと言いたい。反知性的とは、質問や疑問にきちんと向き合わない態度のことなのだ。

思うに、知識とは、質問や疑問にきちんと向かい合うことでのみ深めることができるものだ。他者からの質問であっても、自分自身の内に生じる疑問であっても、きちんと向かい合い、考え、答えを出そうとするからこそ、研究を深め、新たな知識の獲得に繋げることができる。
そうでない知識の獲得の道筋を、僕は思いつくことができない。疑問を持たずに暗記した知識は、自分のなかに体系付けられた知識ではない。新たな知識を、自分の頭のなかの知識体系の中に組み込むためには、既存の体系との整合性を確認する必要があり、そのためには、既存の体系との衝突、つまり疑問や質問を伴う必要がある。そのようなプロセスを経ていない知識は、かりそめの知識であり、実生活で引き出し、活用することはできない。知識の根幹に、疑問・質問はある。

しかし、ここまでは同意してもらえたとしても、質問・疑問にきちんと向き合わないことは反知性の現れのひとつに過ぎないと思うかもしれない。
反知性の現れとしては、質問に向き合わないということよりも、ステレオタイプ的な決め付けをしたり、差別的な発言をしたり、共同体共通の価値観の保護を重視したり、といったイメージの方が強いだろう。こういったものこそが反知性主義なのではないか。しかし、ここで僕は、質問・疑問に対して正面から向き合わないということこそが反知性の本質であり、その他の特徴は、そこから派生するものだ、という強い主張をしたい。

実は、ステレオタイプ的な決め付けをしたり、差別的な発言をしたりすること自体は反知性的ではない。なぜなら、ステレオタイプ的な決め付けをし、差別的な発言をしていること自体に気付いていないか、または、少なくとも、その問題性に気付いていないだけからかもしれないからだ。そのようなケースは、反知性ではなく無知性と言った方がいいだろう。無知性を非難することはできない。子供がそのような態度を取ったとしても、わからないのだから仕方ないと許し、教育しようとするはずだ。
僕が反知性として問題視するのは、そこに問題があることに気付きながら、あえてステレオタイプ的な決め付けをしたり、差別的な発言をしたりするようなケースだ。たとえ明確には気付いていなくても、万人に受け入れられる主張ではないと、どこかで気付いているようなケースも含む。
差別的な発言と気付きながら、あえて差別的な発言をするとき、人は、反撃を意識する。だから、インターネット上のような安全な場所で発言したり、権威で武装したりすることで、反撃を封じ、反撃から逃れようとする。
僕は、反知性と無知性とを分けるのは、この反撃を逃れようとする意識にあると思う。差別的な発言が反知性的だと言われるのは、差別的な発言自体が反知性的だからではなく、その発言に対する反論から逃れようとするからなのだ。
そして、この反撃から逃れようとする意識と、質問・疑問に対して正面から向き合わないこととはイコールだと言いたい。根幹には、質問・疑問の軽視がある。

同じことは、共同体共通の価値観の保護を重視する、という、もう少しましな反知性主義の現れについても言える。
共同体共通の価値観とは何か伝わっていないかもしれないので具体例を挙げると、例えば、神様というものについて、衒学的な神学論争を戦わせるのではなく、もっと素朴に、信仰の心で捉えるべき、といったかたちで登場する。僕は結構、こういう考え方が好きだ。
うちの近くにはお地蔵さんがあるのだけど、今でも立ち止まり、祈っていく人がたくさんいる。僕も時々お参りをする。地域にすっかり馴染んでいて、こういうのこそ本当の神様だよなあ、なんて思う。もし、仏教よりキリスト教の神のほうが正しいから、とか、そもそも宗教なんて論理的に間違えているから、なんて理由で、このお参り文化が廃れてしまったら悲しい。これが反知性主義だとするなら、反知性主義も悪くない。
しかし僕は、このお地蔵さんに対する態度が反知性主義とされるのは、共同体共通の価値観の保護を重視する立場にあるからではなく、そこには、やはり質問・疑問に向き合わないという、あの反知性主義の特徴があるからだと思う。
例えば、子供に「このお地蔵さんは、祈っても何もしてくれない石のかたまりなのに、どうして神様なの?」と聞かれたなら、僕は「なんだか答えにくい、粋じゃない質問をするなあ。」と思ってしまう。その態度には、質問・疑問に向き合わないという反知性主義的傾向が生じている。
だから、僕は、一瞬躊躇しつつも、その質問にはきちんと答えてあげたい。答えられないかもしれないけれど、答えようとはしたい。それこそが、知的な態度だと思う。どんなに素敵な共同体共通の価値観だって、その保護を名目に、子供の素朴な質問を抹殺してしまったら、反知性主義に陥ってしまう。
共同体共通の価値観の保護という、一見素敵な場面でも、質問・疑問に対して正面から向き合わないという、政治家におなじみのあの態度が潜んでいる。これこそが反知性主義の本質なのだ。

このようにして、反知性主義と政治家のマスコミ対応という二つの事象は、根源的な部分で繋がる。これが、僕が最近発見したことだ。

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ここまで、僕自身の偏った価値観に基づき、政治家を攻撃し、知性を脅かす反知性主義を攻撃してきた。しかし、公平さを担保するためには、反知性主義には、ある種の強さがあることにも触れなければならない。それは、先ほどの政治家の強さでもある。
政治家に求められるのは、知識ではなく決断力・実行力だ。政治家は、マスコミの受けや過去の発言との整合性などに囚われず、決断しなければならないときがある。当初は消費税増税に賛成していても、大きく経済状況が変われば、躊躇なく撤回しなければならない。いくらマスコミにたたかれても、決断しなければならない。そこでは、マスコミを恐れ、過去の発言との整合性に囚われ、ずるずると消費税増税に突き進み、皆を不幸にしてしまう弱い政治家よりも、決断できる強い政治家が求められる。政治家はマスコミの質問を無視できる胆力があるほうが望ましいとさえ言える。
この決断力は、どこまでも問いを投げかけ続ける知性の営みとは相反する。この知的な営みを打ち切ることこそが決断だ。人間は反知性的だからこそ、一歩を踏み出すことができる。
知性を重視する僕としては忸怩たる思いだけど、知性を重視し、疑問・質問の力を信じるならば、この知性を重視するという態度をも疑問に付して、反知性の力を認めなければならない。