月別アーカイブ: 2021年5月

NO PHILOSOPHY, NO LIFE

1 音楽と哲学

僕はNO MUSIC, NO LIFE という言葉が好きだ。タワレコのポスターに色んなアーティストが登場して格好よかった。僕が好きなCOCCOや怒髪天も、そういう名前の曲を作っていたし。(タイアップなのかな?)

確かに彼らはNO MUSIC, NO LIFEだし、僕もその仲間でありたいと思っている。だから僕も、それにならってNO PHILOSOPHY, NO LIFEだと思って生きてきた。

だけど、最近、その言葉に込められた意味には違いがあるのではないかと気がついた。

僕は英語が得意じゃないけど、NO MUSIC, NO LIFE の場合、音楽は既に手に入れている。手元にある音楽を手放したら生きていけない、そんな意味だと言っていいだろう。一方で、NO PHILOSOPHY, NO LIFE は、僕の解釈では、手元にまだ哲学はない。生きるために哲学を探している、そんな意味が込められている。すでに手元にあるものとしての音楽と、いまだ手元にないものとしての哲学という違いがそこにはある。

ミュージシャンは音楽とともに生きている。音楽に愛されて、音楽と添い遂げるような人こそが理想的なミュージシャンのような気がする。手術をして舌を失って生きている「つんく」よりも手術を拒否して歌いながら死んでいった忌野清志郎のほうが、よりミュージシャンという感じがある。(念のためだけど、僕は「つんく」と同じ選択を、忌野清志郎にもしてほしかったと思っている。)

では、同様に哲学者も哲学とともに生きているのかというと、そうは言えない気がする。ウィトゲンシュタインだってニーチェだって、きっと哲学を手元に置くことは叶わなかった。哲学とは、いくら手を伸ばしても届かない理想のようなものなのだと思う。

このような解釈は僕の個人的な感覚に過ぎないのかもしれない。この世界のどこにもない理想の音楽を追い求めるようなミュージシャンもいれば、日々の探求の実践それ自体が哲学であるような哲学者もいるのかもしれない。ただ、僕にとっての音楽とは手元にあるものであり、僕にとっての哲学とは手元にはないものである。

僕にとっての哲学とは、このよくわからない世界で第一歩を踏み出すために不可欠となる確かな足場だ。そのような基礎がなければ生き始めることなどできる訳がない。そんなふうに高校生の頃の僕は思っていた。だから僕は本来的には哲学の基礎付け主義者と言っていい。

当然、哲学においては、そんな僕が期待しているような確かな足場や基礎など未だ発見されていないから、僕の手元には哲学はない。きっと今後も手に入ることはない。だから僕のNO PHILOSOPHY, NO LIFE は、決して手に入れることができないものについてのキャッチコピーだとも言える。

2 高校生の僕と今の僕 空虚を埋める

実は、僕が最近気づいたのは、このことではない。

僕が気づいたのは、更に、NO PHILOSOPHY, NO LIFE には二つの異なる意味がありうる、ということだ。

ひとつめの意味は、まさしく、ここまで書いてきたような意味だ。高校生の頃の僕がそうだったように、「哲学がなければ生きることはできない。そして僕の手元には哲学がないから、僕はそもそも生き始めることすらできていない。」というような意味だ。その頃の僕には周囲の人に比べた劣等感のような、気後れのような感覚がつきまとっていた。僕は「皆は生き始めることができているのに、僕だけがスタートラインに立つことすらできていない。皆は世界が確かにあり、そこで何かができるということに疑問を抱かずに暮らしているけれど、僕はどうでもいいところにひっかかってしまい、個別具体的で内容のある人生を生き始めることがそもそもできていない。」と思っていた。(※)そんな空虚さを示す言葉としてNO PHILOSOPHY, NO LIFEを解釈することができる。

もうひとつの意味は、高校生時代から数十年経ち、今の僕が NO PHILOSOPHY, NO LIFE と呟くときの意味だ。今の僕にはとにかく生きてきたという実感がある。何十年もの間、働いたり子育てをしたり、悩んだり楽しんだりという月日が僕のなかを流れていったという感覚がある。高校時代に感じた空虚さは現に生きてきたという実績によって埋められてしまっている。それでも僕はまだ、哲学を手に入れることはできていない。そこにあるのは、空虚さとは違う、もうひとつの  NO PHILOSOPHY, NO LIFE だ。

いや、このような表現だと誤解を与えるかもしれない。僕は、ここで個別具体的な思い出のことを取り上げているのではない。哲学的な思考実験によれば、僕のなかのそのような思い出はすべて夢かもしれないし、悪霊に改ざんされた記憶かもしれない。僕は懐疑論者的な傾向が強いから、そのような思考実験を単なる思考実験と捉えることができず、それを額面通りに受け取ってしまうところがある。僕の半生は夢だったのかもしれないと心から思っている。正確には夢や悪霊も比喩に過ぎないから、そのような言葉では捉えることができないとも思っている。それでもなお、僕には空虚ではないという実感がある。高校生の頃の僕にとって、とても身近なものだったあの空虚さは、いつかどこかで埋め立てられ、すでに失われてしまったのだ。

この空虚さを埋めたものが何なのかはここでは論じない。なぜなら、そのことを論じること自体がきっと僕の哲学にとっての最大の問題につながっているから、そう簡単に論じることはできない。(※※)そもそも、空虚を埋めるという比喩が適切なのかどうかも怪しい。

ただここで指摘しておきたいのは、今の僕が空虚ではない何かを抱えているということだ。高校生の頃の空虚な僕と、今の空虚ではない何かを抱えた僕という対比があるということをイメージしてもらえたなら、それで十分だ。

3 哲学的堕落

その対比と重なるようにして NO PHILOSOPHY, NO LIFE は二つの意味を持つ。高校生の僕にとっては、それは「哲学がなくては生きていけない」だったけれど、今の僕には、その同じ言葉が「哲学がなかったら生きたことにならない」という意味を持つものとして迫ってくる。高校生の頃の僕は人生のスタートラインに立つことができないと感じていた。それなのに、いつのまにか、スタートしたつもりもないのに何かが始まり、僕は既に何かを抱えてしまっている。僕はなんだかわからない得体のしれないものに既に巻き込まれてしまっている。その得体のしれないものは人生を生きるということと深く関わっているはずだから、それを哲学的に捉えなければ生きたことにならない。そういう感じが僕のなかにはある。

つまり、NO PHILOSOPHY, NO LIFEとは、当初は、高校生の僕の空虚さを表現するものとしての「哲学がなくては生きていけない」であったが、いつのまにか、既に何かを抱えた僕にとっては「哲学がなかったら生きたことにならない」となり、その意味するものが変化したということだ。これはひとつの哲学的堕落だと思う。なぜなら、今の僕は、自らの哲学をするうえで、何かを既に抱えている ということを出発地点とせざるを得ないからだ。今の僕は、哲学は余計な夾雑物を取り込んでしまったという点で、高校生の頃の僕に比べて、哲学的に劣る存在となってしまったのだ。

4 空虚を回復する二つの方法

だけど、まだ僕は大丈夫かもしれない。なぜなら、多少意味は変わってしまっているにせよ、僕にはまだ通奏低音のようにNO PHILOSOPHY, NO LIFE の言葉が響いているのだから。それならば、何かを抱えてしまった今の僕でも、どこかに高校生の頃と同じような空虚さを見出すことはできるのではないだろうか。

その見出し方の候補としては、二通り思いつくことができる。

ひとつは、今の僕にも、未来というかたちで空虚は残っている、という描写をすることができうるのではないか。今の僕の手元にあるものは、その正体が何であるにせよ、きっと未来に対しては無力だろう。なぜなら、既に何かを抱えてしまっている僕でも、未来だけは素手で捉えるしかないからだ。それは、哲学的精度をあえて落として描写するならば、年齢を重ねて硬直化した僕であっても、未来に向けては、成長して変化する可能性がどこまでもあるということだとも表現できるだろう。

もうひとつのやり方としては、僕が既に抱えてしまった何かを手放すことで空虚を回復するという道筋がありうる。僕が子供の頃読んだ絵本の「ぼくを探しに」で、「ぼく」はやっと見つけた自分の片割れをそっと置いて去っていく。僕もようやく手に入れた何かをあえて手放し、空虚について歌うというやり方をとることはできる。高校生の頃の僕はスタートラインに立つことができず、スタートを切ることを切望していた。今の僕はいつのまにか既にスタートを切り、高校生の頃切望していたものを手に入れていることに気づいた。ここで、ようやく手に入れたものを手放し、そのうえであえてスタートラインに立てないという空虚さを再び歌うことは、欺瞞かもしれないけれど、そのような道筋はありうる。

5 おやすみなさい

これが欺瞞にならないために必要なのは丁寧さだろう。僕はいつのまにか抱え込んでしまった何かを乱暴に棄て去るのではない。愛情を込めて、それをあるべきところに置いていく。そのようにして適切なかたちで手放すことにより、僕は空虚さを適切なかたちで回復することができるのではないか。

そんな芸当をどのようにしたらいいのかと思うかもしれないけれど、僕たちはそれを日々、既に行っているのではないか。それを象徴的に示すのは「おやすみなさい」という言葉だ。一日を過ごしたあと、僕たちは「おやすみなさい」と言う。それは今日という日への別れの挨拶であり、今日のことは明日には持ち越さないという宣言でもあるのではないか。僕たちは、「おやすみなさい」という言葉とともに、今日のことを今日の場所にそっと置いていくのだ。

当然、これは比喩でしかない。実は僕たちは一日という単位ではなく、瞬間ごとにその瞬間を置き去って未来に向かっていると言ったほうが正確だろう。または、もっとも重大な「おやすみなさい」は一日の終わりではなく、人生の終わりに言うものだろう。その時、僕ならば「ありがとう、さようなら」と言うかもしれない。(そのように言えるといいなあ、と思う。)僕が「おやすみなさい」という言葉で示した一日という単位は、一瞬よりも長すぎるし、一生よりも短すぎるという点で中途半端な比喩でしかない。

それでも、なんとなく「おやすみなさい」は丁度いいようにも思う。僕は抱えてしまった何かに「おやすみなさい」と挨拶をして別れを告げ、空虚な未来に進んでいく。そんなふうにして溜め込まない人生を送れるといいなあ、と思わせる何かがそこにはある。

※ 蛇足だけど、その頃の僕は、実は、僕のような人は多数派ではないにせよ、それほど少数派ではないと思っていた。かなりの割合の人が、僕と同じようにスタートラインに立つことができずにいるのではないかと思っていた。だから後日、哲学カフェなどをして、僕のような人はほとんどいないということを知って驚いたという経緯がある。

※※ 僕が最も近いと思うのが、入不二の現実性の議論だ。その議論に基づくならば、僕の空虚を埋めたのは、現実性である、ということになるのかもしれない。

二種類の哲学カフェ

1 はじめに

最近、哲学カフェでなにかトラブルがあったようだ。詳しくないので推測だけど、進行役の対応により参加者を傷つけてしまったという問題のようだ。その詳細にはあまり興味がないけれど、僕は初心者向けに哲学カフェを紹介するサイトを運営している立場でもあり、きちんと僕自身の考えを表明しておいたほうがいいように思ってこの文章を書くことにした。(だから今回の件が全く筋違いだったらすみません。)

僕は僕が運営するサイトのなかで、独自考察だと前置きしつつ、哲学カフェには「特にルールはない!」ということを強調している。つまり僕は、哲学カフェが放任的という意味での自由に深く関わっていると考えている。それならば、今回のように、その自由奔放さ故に参加者が傷つくことについての僕なりの考えを述べるべき立場にあるのかもしれない。

2 癌の思考実験

僕はこの問題の具体的な内容を知らないけれど、僕自身、似たような問題に出会ったことがある。僕は数年前癌になった(今は問題ありません)のだけど、手術をしてそれほど経たない頃、哲学カフェに一参加者として参加した。話の詳細は忘れてしまったけれど、そのなかで、別の参加者が、確か「癌のような病で死ぬのと、事故で死ぬのとでどちらがいいか。」というような思考実験的な文脈で、癌についての発言をした。そのとき、僕はその場にいる人達と僕自身との距離を感じ、何も言えなかった。それを傷ついたと言うのかはわからないけれど、「この人達は癌に関する本当のことを何も知らないのだから、話しても仕方ない。」というようなどこか悲しい気持ちになって黙ってしまったのを覚えている。きっと今回の問題は、この僕の体験と同じ方向のものだろうと思っている。

3 放任型哲学カフェと配慮型哲学カフェ

このような問題設定を踏まえると、哲学カフェは二種類に分類できるのではないだろうか。ひとつは、放任的で、このような問題が発生することに頓着しないもの。これを放任型哲学カフェとしよう。そしてもうひとつが、このような場合には参加者が傷つかないような配慮が必要である考え、参加者への配慮を重視するもの。これを配慮型哲学カフェとしよう。僕は、放任型哲学カフェと配慮型哲学カフェの違いはとても大きいものだと考えている。

(僕は、哲学対話には哲学を重視する「哲学」対話と、対話を重視する哲学「対話」がある、という話をしたことがあるけれど、同じ話だ。放任型が「哲学」対話で配慮型が哲学「対話」となる。)

4 継続性と誠実性

当然、僕は放任型哲学カフェを信奉する立場にある。どうしてそのように考えるのかを説明しようと思う。

そこでキーワードとなるのは、継続性と誠実性だ。

僕は以前、哲学カフェにおいて重要なのは継続性と誠実性である、という考察をしたことがある。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

継続性とは、哲学カフェのなかで対話を継続させるということであり、いわば、言葉のキャッチボールをしっかり行うことだと言っていいだろう。また誠実性とは自分に正直に発言するということで、変に格好をつけたり、取り繕ったり、ということも含め、広い意味で嘘をつかないということだ。

きっと、多くの人が、哲学カフェにおいてそのようなものが重要だということは認めてくれるだろう。だけど僕が強調したいのは、哲学カフェにおいて重要なのはそれだけだ、というところにある。つまり、継続性と誠実性のほかには、他者への配慮といったものも含め、何も要らないと僕は考えている。(ここまでは以前の文章でも書いていないし、明確なかたちで述べたこともないと思う。)

5 継続性と誠実性が重要であるということの現実的な切り口からの説明

僕がそう考える理由について、現実的な切り口と、論理的な切り口との二通で示したいと思う。まず現実的なほうから。

先ほどの癌の例で考えてみよう。癌になったばかりの人を前にして、癌を思考実験に使うという場面では、どうすれば、より望ましい哲学カフェになっていたのだろうか。

まず、癌のようなセンシティブな話をそもそも持ち出さないという選択肢がありうるだろう。つまり参加者自身が発言を控えるという方策だ。次に、もし参加者が発言してしまったなら、進行役が軌道修正するという方策がありうる。「そのような具体例だと他の参加者が嫌な気持ちになるかもしれないから違う例にしましょう。」などと仕切ればそれ以上の問題は生じないに違いない。最後の手段として、もし進行役も対応してくれなかったなら、発言の聞き手(癌の例だと僕自身)が対応するという方策が残っている。「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」などと指摘することで、それ以上被害が及ばないようにすることができる。つまり、問題が生じないようにするためには、①話し手の対応、②進行役の対応、③聞き手の対応という3段階のチャンスがあったはずだということになる。

ここで重視したいのは、最終段階の聞き手の対応だ。確かに、話し手や進行役が配慮してくれれば問題は解決する。だけど、もし僕が「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」と発言していれば、僕が嫌な気持ちを抱えることはなかったはずなのだ。だけど実際の僕はそうせず、黙ってスルーしてしまった。だから問題が生じたのであり、問題はここに尽きているのではないだろうか。

いや、それはあくまでも次善の策ではないか、という反論がありうるだろう。いくら事後的に異議を唱えても、既に僕は嫌な気持ちになってしまっている。それよりも発言者が発言自体を控え、進行役が積極的に軌道修正することで未然防止したほうがより望ましいはずだという考え方だ。

だけど僕の哲学カフェでの経験上、このような問題は一旦顕在化させたほうがうまくいく。僕が癌の思考実験の不快さを指摘したとしても、それを更に否定するような配慮に欠けた参加者は少ないし、少なくとも進行役が僕の発言を尊重しないということは考えられない。だから未然防止にはそれほど利点がない。

さらに重要なのは、僕の「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」という言葉こそが哲学カフェが求めるものだ、という点だ。大抵の場合、僕のこのような言葉は他の参加者(や進行役)に気付きを与え、その哲学カフェをより意義深いものとする。僕自身にとっても、困難を乗り越えて、僕の癌を他者に受け入れてもらえたという体験は、とても意義深いものとなるだろう。そのように考えると、受け手自身が異議を申し出るという対応は、最後の選択肢であるとともに最善の選択肢だと言えるのではないだろうか。

このような僕の捉え方を支えているのは、哲学カフェにおいては継続性と誠実性が重要だという信念だ。つまり、哲学カフェではどんな困難でも、誠実な対話を継続することによって乗り越えることができるはずだという信念だと言ってもいい。あのときの僕は、癌を思考実験とするような発言に反応せず、受け流してしまった。それはつまり、対話を打ち切り、継続性を損なったということである。そして、そのような発言に傷ついたという自分自身の心に正直になることができず、いわば誠実性を欠くことになったということである。僕は哲学カフェにおいて大切なものである継続性と誠実性を欠いてしまったのだ。対話で生じた問題は対話により乗り越えることができるはずなのに。

以上が、現実的な述べ方による、哲学カフェにおける継続性と誠実性の重要性の話である。哲学カフェにおいては継続性と誠実性さえ十分に満たしていれば、癌の思考実験を控えるというような他者への配慮は不要であるばかりではなく、邪魔なものでさえありうると僕は考えている。

6 継続性と誠実性が重要であるということの論理的な切り口からの説明

 以上が現実的な切り口からの説明となるが、同じことを論理的、または形而上学的な切り口からも説明しておこう。つまりこれから行う説明は、「この活動が哲学カフェと呼ばれる活動であることから、継続性と誠実性の重要性や、更には継続性と誠実性のほかには重要なものはないということが自ずと導かれる。」というものになる。

 さて、哲学カフェとは、どのようなものなのだろうか。

この問いに対する答え方のひとつとして、哲学カフェという言葉に含まれる「哲学」とは何か、という切り口から答えるというやり方がありうるだろう。なぜなら少なくとも哲学カフェと広義の哲学との間には何らかの関係があるはずだから。

では哲学とは何だろうか。答え方を更に恣意的に限定してしまうが、答え方の一つとしてはphilosophyという言葉の語源から答えるというやり方があるだろう。Philosophyとは知を愛するということだ。つまり知を愛することこそが哲学であり、それを何人かで集まって行う営みを哲学カフェと呼ぶのだということになる。

哲学カフェとは、複数人で集って知を愛する営みである。このような定義を出発地点とするならば、どのような帰結に至ることになるだろうか。

ひとつ考えられるのは、過去の偉大な哲学者の知的遺産などの知的な創造物に敬意を払うべきだ、というような帰結である。哲学カフェを「哲学」と名付けるからには、何かしらの知性の尊重があるべきだという考えが哲学カフェ関係者に広まっているように思うし、僕もそれは否定しない。

だけど僕は、その手前に注目したい。知的遺産であれ何であれ、それを哲学カフェで考慮するためには、まず、対話の場に提出されなければならない。そこでまず必要なのは発言することであり、そして、それをきちんと聞き届けることだろう。そのうえで、その発言が真に知性の尊重に値するものであったかどうかを判断すればよい。そのような意味で、哲学カフェにおいて最重要なのは、発言することと聞き届けることであり、つまり対話することである。

更には、発言が知的なものとなるためにも対話は必要である。経験上、対話が知的なものとなるためには、一定時間対話を継続し、対話が深まり、議論がせり上がっていくことが必要だ。そうして偉大な哲学者の議論が登場する必然性が生じるからこそ、ようやく過去の知的遺産が登場する素地ができあがる。そのように議論が盛り上がっていない状況で単に哲学者の言葉を引用しても、それは知的活動とは程遠いものとなってしまう。

加えて、対話ののなかでの発言が知的なものかどうかを判断するためにも対話は必要であるという点も重要だ。一見、粗雑で考慮に値しないような言葉であっても、実は深い知的意図が隠されているということはありうる。または当初は無意識の発話であっても、対話を続けた結果、そこに新たな哲学的含意を見出すということもありうる。これらは対話についての対話であり、いわばメタ対話と言ってもいいだろう。そのようなものも含めて、対話は継続されていくことで、知性が尊重されたものとなっていくのであり、更に言えば、知性を尊重するためには対話の継続が必要なのである。

当然、単に言葉を重ねれば良い訳ではない。そこにはある種の真摯さが必要だろう。自分の内面に正直であり、自らが語るべきと思ったことだけを語る必要がある。僕はそれを誠実性と呼んでいる。(ただし、最重要なのはあくまで誠実性よりは継続性だろう。なぜなら、対話を継続してさえいれば、偽りの言葉もいつか訂正され、誠実なものになる可能性を秘めているからだから。)

以上のような意味で、僕は哲学カフェにおいては継続性と誠実性が重要であると考えている。

重要なのは、知を愛するというphilosophyの語源から出発する限り、哲学カフェのどこにも他者への配慮などといったものは登場しないという点にある。知性を尊重することのみに合意※した参加者が対話を真摯に継続さえしていれば、他には何も要らないのだ。

(※知性の尊重への合意が、哲学カフェにおいて必要かどうかは議論がありうるだろう。僕は話を先に進めるためにとりあえずは必要ということにしているが、実は、対話の継続性さえ理想的に確保されていれば、対話のなかで二次的に獲得可能と考えている。つまり知性の尊重への合意は継続性のなかに含意されているということになる。)

7 哲学カフェの時間制限

ここまで僕は、哲学カフェにおいては、継続性と誠実性のほかには、他者への配慮などといったものは要らない、ということを二通りのやり方で示してきた。では、他者への配慮は本当に要らないのか。

 僕は自分でも時々哲学カフェを開催しているけれど、実は、参加者への配慮について大いに気にしている。自分自身の癌の思考実験の体験も踏まえて、同じようなことが起きないようにと心がけて進行役をしている。

 なぜそのような配慮をするのかといえば、哲学カフェには時間制限があるからだ。例えば2時間という時間制限のなかで、哲学カフェでの対話を進め、ひとつのイベントとして完結させ、形を整えるためには、ある程度のコントロールが必要となる。コントロールのひとつとして、他者を傷つけそうなリスクを冒さない、という点は重要だ。

 理想的には、無制限に対話を継続していれば、たいていの問題は解決するはずだ。どんなに攻撃的で、知的なるものに敬意がない参加者であっても、無限に話し続ければ、いつかはわかってもらえるはずだし、傷ついた参加者の傷を言葉で癒やすこともできるはずだ。少なくとも、哲学カフェでの対話を終わらせない限り、哲学カフェを通じて参加者が傷ついてしまったという帰結に至ることを先送りすることはできるはずだ。

 だが当然、現実にはそのようなことは不可能で、大抵は2時間というような時間制限がある。その時間が過ぎたら対話で生じた問題を対話によって解決することはできなくなる。だから進行役は対話をコントロールし、そのような問題が生じないようにしなければならない。

 つまり、継続性と誠実性というような哲学カフェにおいて本質的な事柄とは別次元の問題として、もっと処世術的で現実的な意味で、時間制限がある哲学カフェにおいては、他者への配慮が必要となるのだ。

 僕は他者への配慮の重要性は認める。だがそれは、あくまで運営上の現実的な理由によるもので、哲学カフェが本質的に持つ特徴に由来するものではない。

8 哲学カフェの本質的重要性と処世術的重要性の違いの重要性

僕はここまで哲学カフェにおいては、継続性と誠実性という本質的に重要な事項と、他者への配慮のような現実に即した、いわば処世術的に重要な事項とを分けて捉えるべきことを強調してきた。

なぜ、そのようなことを強調する必要があるのか訝しがる人もいるかもしれない。どちらも重要ならば、その重要性の由来などどうでもいいではないか。2時間であれ一週間であれ、哲学カフェには時間制限は不可欠なのだから、他者への配慮が時間制限に由来するならば、それは本質的に重要だと言ってもよいのではないか。

だが、僕はこの違いはいくつかの意味で非常に重要だと思う。

第一に、この違いが哲学カフェでの議論における前提条件の設定の仕方に影響するからだ。もし哲学カフェにおいて、他者への配慮が本質的に重要ならば、それは哲学カフェと呼ぶべきではないだろう。あえて名付けるならば、それは「他者への配慮カフェ」と呼ぶこともできるだろう。なぜなら、他者への配慮が本質的に重要であるならば、そこで行われる議論も、それを前提とするはずであり、それを否定することを許さないはずだからだ。前提を加え、議論を限定しているという点で、そこでの活動は前提を置かない哲学カフェほどに広い分野をカバーしていないことになるのだから、その活動には異なる名前が与えられてもよいのではないか。(同様に、もし民主主義の重要性を前提に対話するならば、それは民主主義カフェ、人種差別的な発言を禁じて対話するならば、それは反人種差別カフェというように名付けたほうがいいのではないだろうか。)

僕はそのような活動があること自体を否定しないが、なんら前提を置かない哲学カフェとは混同しないようにしなければ、参加者が誤解してしまうという実害が生じるのではないだろうか。

哲学カフェの本質的重要性と処世術的重要性を区別する第二の理由は、そこにこそ、哲学カフェの終了時間になったときに言われる「モヤモヤを持ち帰りましょう」という言葉の含意があると思うからだ。

確かに哲学カフェには現実的な理由により時間制限があり、そこで対話を終えざるを得ない。だけど自分だけでも問題意識を持ち帰り、その後も自分との内なる対話を続けることはできる。もしかしたら友人や家族をつかまえたり、次回の哲学カフェに参加したりして対話を続けることもできるかもしれない。現実にはなかなか難しい理想論かもしれないけれど、そのような意味を込めて「モヤモヤを持ち帰りましょう」と言っているのだろう。

実際、僕は数年前のあのときの(癌という発言をめぐる)モヤモヤを持ち帰り、考え続けたからこそ、このような文章を書いているのだし、きっと、今回の問題の当事者やそれに触発された僕のような人はモヤモヤと考え続けているのだろう。そのようにして行っていることも哲学カフェの延長戦と考えるならば、哲学カフェでの対話はどこまでも続いている。

もし僕たちが哲学カフェの参加者であり哲学者であるならば、僕たちはモヤモヤを持ち帰り、一生哲学をし続けるのだ。そのように考えるならば、哲学カフェにおいては継続性と誠実性だけが必要であり、それ以外は何も要らないと考えることは、現実から乖離した単なる理想論ではないのかもしれない。

9 さいごに

以上のような理由から僕は放任型哲学カフェを信奉する。そこでは継続性と誠実性だけが重要であり、そのように対話が続けられることですべての問題はいつか解決するはずだ。そのような楽観主義に僕の哲学カフェ観は裏付けされている。

僕も大人だし、色々と経験しているから、そんなにうまくいかないことは知っている。だから、処世術的な配慮として、人を傷つけるような不用意な発言がないように気をつけもする。それ以外にも、皆が自由に話しやすいような雰囲気をつくったり、2時間の対話の時間が終わったときに、ある程度満足できるように対話のテンポをコントロールしたりもする。このような配慮はすべて、哲学カフェの理想と現実とをなんとかすり合わせるための工夫だと言ってもいいだろう。

重要なのは、このような工夫や配慮はあくまで便宜的なものであり、可能な限りできればよいような類のものであり、決して哲学カフェの本質に由来するような必須の事柄ではないという点だ。だから哲学カフェの主催者や進行役が十分に配慮や工夫ができなかったからといって、そのことを責められるべきではない。本人がもう少しうまくやりたいと願うくらいでちょうどいい。哲学カフェは危険ではないか、と非難されたら、残念ながらそのとおりです、なるべく気をつけますが・・・と答えればいい。そのような不完全さこそが哲学カフェにはふさわしいと僕は思う。

僕は配慮型哲学カフェを信奉する人に、放任型哲学カフェを信奉してほしいとは思わない。「他者への配慮カフェ」というような別の名前を名乗るべきというのも単なる誇張表現だ。だけどせめて、配慮型哲学カフェとは全く別なものとしての放任型哲学カフェという道筋がありうるということは知っておいてほしいと願う。

きっとそこでも必要なのは放任型哲学カフェ信奉者と、配慮型哲学カフェ信奉者との間での対話なのだろう。

10 蛇足:私的な怨念

 ここまで、かなり配慮型哲学カフェを攻撃的に論じてきたけれど、その動機としては実は私的な怨念がかなり含まれている。

僕は子供の頃から、あまり他者への配慮ができない子供だった。大人になり、場数をこなし、なんとなくそういうこともできるようになってきたけれど、どうしても他者への配慮が求められるこの世の中に馴染むことができない。そんな違和感を癒やしてくれるのが哲学であり、哲学カフェであったような気がする。

他者への配慮について、その要否を留保して客観的に議論することによって、ようやく僕は他者への配慮という呪縛から自由になることができる。そのような作業を自分一人で哲学というかたちでやることは楽しいし、何人もの人と哲学カフェというかたちでできることはなお楽しい。

だから僕は、哲学カフェの中に僕にとっての夾雑物が入り込んでくることに敏感だ。この僕の聖域にまで、世間の風が吹き込んでくることが正直、不快になってしまう。

他者への配慮を主張する人には、こういう人がいるということを、きっと極めて少数だろうけれど、このような人がいるということを知っておいてほしいと願う。

バーナード・ウィリアムズの利己主義にまつわる議論と純粋で無私の悪意」について

1 はじめに

今、バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読み、色々と考えている。第1章を読んで思いついたことについて、文章を書く練習(リハビリ)がてら、書き残しておくことにする。

2 ウィリアムズの利己主義についての議論

ウィリアムズはこの本における議論を「人はいかに生きるべきか」というソクラテスの問いから始める。

そして、この問いには少なくとも二つの前提があるとする。まず、「人」はいかに生きるべきか、という表現からも明らかなように、各人の「私はいかに生きるべきか」を包摂し、「各人」という視点から始めることを前提としているとする。また、現在・今のような人生の一部分ではなく、一生涯としての人生ということも前提としている。つまり、「各人にとっての一生涯」という、いわば①人称的な広がりと②時制的な広がりとを前提としているということになる。

僕はこのあたりを読んでいて、すっかりウィリアムズが好きになっていた。僕は倫理学をあまり知らないのではっきりとはわからないけれど、このような語り方をする倫理学者はそう多くないのではないだろうか。ここで行われている議論は、明らかに永井均の(独我論的で独今論的な)独在論に接近している。永井の「今ここの私」という問題意識と似たものをウィリアムズは確かに持っている。

永井的な問題があることを確認したうえで、そこからウィリアムズは、永井とは異なる道を進み、「各人にとっての一生涯」をいかに生きるべきか、というソクラテスの問いへと進んでいく。その分岐点となるのが第1章第3節(p.36~)における利己主義についての議論だろう。

ここでウィリアムズは3段階の利己主義を提示する。

第一が我利我利亡者主義という意味での利己主義である。これは、ただ自分の利益のみを追い求め、他者の利益は全く無視するというものである。きっとたいていの倫理学においては一顧だにされない立場だろうが、ウィリアムズはこのような立場にも居場所を与える。なぜなら、他者の人生というものが、たとえ、単に尊重されず、無視される対象としてであっても登場するという点で、「各人にとっての一生涯」についてのソクラテスの問いに答えるものではあるからだ。この立場は、いわば「人はいかに生きるべきか」という問いに対して、「私だけが自分の利益が充足されるように生きるべきであり、他の人は自分の利益は犠牲にしてそれに貢献すべきである」というような答えをしているということになる。これは酷いものではあっても理解可能な応答ではあることから、そのような立場を議論から外すことはできないとウィリアムズは考える。ウィリアムズは名付けていないが、あえて独我論的利己主義とでも呼べばよいだろうか。

ウィリアムズによれば第二の利己主義は倫理的利己主義である。これは、各人が自らの利益を追求すべきであるという立場だ。第一の独我論的利己主義と異なるのは、私だけでなく、各人が自らの利益を追求すべきであるとしているという点にある。反省的な視点に立ち、ものごと一般化して捉えているという点で、倫理的な方向に一歩前進していると言ってよいだろう。だが、この立場は、ソクラテスの問いに対して、各人が「私だけが自分の利益が充足されるように生きるべきであり、他の人は自分の利益は犠牲にしてそれに貢献すべきである」と回答することにつながる。これでは現実世界において整合がとれるはずがないという大きな欠点がある。だがウィリアムズは、このような欠点はあっても、この立場がソクラテスの問いに対する理解できる応答であるという点を踏まえ、倫理的利己主義にも彼の議論の中に居場所を与える。

最後に登場するのは自由放任の資本主義的な利己主義である。リバタリアニズム的利己主義と言ってもいいだろう。これは、各人が自己利益を追求するという事態が発生すべきである、という主張を掲げるものだ。この立場が倫理的利己主義と異なるのは、自分以外の他者の利益が充足されることに協力的な立場をとる、少なくとも邪魔をしないようにする、という点にある。リバタリアニズムがひとつの倫理的立場として認められていることからも明らかなように、これは明らかに利己主義者が通常の倫理的考慮を持っている状況である。こうして、ウィリアムズは、利己主義者を段階的に倫理的考慮のなかに取り込んでいく。

このような議論を駆動するのは、哲学が持つ「反省」の力である。ウィリアムズは、「ある探求を哲学的探究にするものは、反省を通じて到達する一般性の確保、そして理性に訴えるとされる議論のスタイルである。」(pp.17-18)とする。哲学的探究のそもそものあり方からして、自ずから、我利我利亡者主義的な独我論的利己主義者は、リバタリアニズム的な利己主義者にまで歩を進めていくこととなるのだ。

3 永井均の独在論/独我論的・独今論的利己主義

本当にそうなのか。そこにはまだ語るべきことがあるのではないか。いや、そこにこそ真に語るべきことがあるのではないか。そのように考えて歩を止めるのが永井均である。

永井の議論の詳細は説明しないが、永井ならば、ウィリアムズが歩んだ道は転落の道だと言うだろう。それどころか、我利我利亡者主義的な独我論的利己主義でさえすでに転落が始まっていると言うだろう。本当のスタート地点はもっと手前にあるのだ。

独我論的利己主義は、「各人にとっての一生涯」ではないにしても、「私にとっての一生涯」をスタート地点としているという点で徹底していない。「一生涯」という時間的幅を想定するのではなく、「今ここ」の「私」のみをただ考慮するという主張があってよいはずではないか。例えば、年を取ったときの自分のことなど気にせずに宵越しの金など持たずに散財すべきだというような考え方はありうる。これはつまり、独我論的・独今論的利己主義という立場である。

永井ならば、少なくとも、①独我論的・独今論的利己主義、②独我論的利己主義、③倫理的利己主義、④リバタリアニズム的利己主義、という4段階の利己主義があるということになる。(②´としての独今論的利己主義や③´としての独今論的倫理的利己主義といったものを除けば。)

4 「純粋で無私の悪意」

永井的な議論から独我論的・独今論的利己主義を追加することには、ウィリアムズの議論のなかでも意味があると思う。

そのウィリアムズの議論とは「反倫理的」なるものをめぐるものである。ウィリアムズは、歪んだ享楽的な悪意とは異なるものとしての「純粋で無私の悪意」を想定する。

通常の享楽的な悪意とは、意地悪をして苦しむ姿を見ることで喜びを感じるような学校のいじめの場面が典型的だろう。いじめをする人は、いじめをすることが本人のなんらかの利益になるからこそいじめる。「純粋で無私の悪意」はそのようなものとは異なる。

また、「純粋で無私の悪意」は「反正義」とも異なる。反正義を標ぼうする人は、社会のルールを破り、社会から非難されること自体に価値を見出す。正義とは何かについて注意を払っているからこそ、反正義を行うことができる。だが「純粋で無私の悪意」は、正義に注意を払うような不純なことはしない。

「純粋で無私の悪意」は、自らの利益や世の中の正義などに全く気を留めず、ただひたすらに悪を目指す。それが他者の不利益につながるかどうかや、自らの(歪んだ)利益につながるかどうかなどに関係なく、ただ悪を目指す。以上が僕が読み取ったウィリアムズの議論だ。とても面白い。

だが、この「純粋で無私の悪意」への着目は、極めて重要だとは思うけれど、どうも、ウィリアムズがこの本で行っている議論からは浮いているように感じてしまう。何か間を繋げるものが欠けている。この「純粋で無私の悪意」の議論とウィリアムズの利己主義の議論とを繋ぎ合わせるものこそが、永井的な独我論的・独今論的利己主義なのではないだろうか。

5 独我論的・独今論的利己主義の困難

独我論的・独今論的利己主義とは、なんとなくわかるような気になるけれど、よく考えると、実は捉えどころがない、生きたうなぎのようなアイディアだ。きちんと捉えようとすると、手元からすり抜けてしまう。

先ほど僕は、独我論的・独今論的利己主義について、「今ここ」の「私」のみをただ考慮し、例えば、年を取ったときの自分のことなど気にせずに散財すべきだというような考え方だと説明した。きわめてイメージしやすいし、どこか享楽的で刹那的な生き方だというような具体的な感想さえ抱くかもしれない。

だが、実はそこには無理がある。このような捉え方をするためには、その人の生き様を観察する第三者の視点に立たなければならないが、残念ながら、独我論を徹底するならば、そのような第三者の視点などありえないのだ。独我論的には私のこの人生が唯一の人生なのだから、その人生を眺めるような視点に立つことを可能とするような別の人の別の人生など存在しない。また、それならば、自分自身の人生の別の時点、例えば、死ぬ間際のような視点に立とうとしても、それは独今論的には認められない。なぜなら、今ここしかないのが独今論だからだ。今ここで、今ここのことをジャッジしなければならない。独我論かつ独今論である限りそこには別の視点という逃げ場はない。いわば袋小路なのだ。

言い換えるならば、評価される対象である「今ここの私」と、評価する視点としての「今ここの私」は完全に重なり、癒着している。さらには、それは唯一の実例である。それでもなんとなく評価が可能のように思えてしまうのは、こっそりと他者の視点か他時点の視点を密輸入してしまっているからなのだ。こうして視点の複数性を確保し、比較を行うことにより、そこで行うことを語り、描写することを可能としているに過ぎない。その誤魔化しを拒否するのが、独我論的・独今論的利己主義なのである。

ここで困難に陥るのは、利益という用語である。利益というからには、利益が達成できている状況と利益が達成できていない状況の両方が想定でき、比較できるのでなければならない。それは欲求や選好などと言い換えても同じことだ。利益や欲求や選好が成立するためには、美味しい酒を飲んでいる状況と飲んでいない状況の両方が想定でき、溺れる子供を助ける状況と助けない状況の両方が想定できるのでなければならない。だが独我論的・独今論的利己主義においては、そこにはただ唯一の実例しかありえない。(だから、利益・欲求・選好だけでなく、義務や自由という用語も、義務を満たす状況と満たさない状況、自由な状況と不自由な状況の両方を想定できないという点で、同様の困難に陥る。)

純粋に独我論的・独今論的な立場に立つならば、「今ここの私」の利益(またはそれに類するような何か)を考慮するような独我論的・独今論的利己主義は成立しない。そこには何も倫理学めいたものを見出すことはできず、ただ独我論的・独今論的な形而上学があるだけの景色が広がっているだけ、ということになるだろう。

6 「純粋で無私の悪意」の議論との接続

以上の(永井自身が展開したかどうかは別として)永井的な議論と、ウィリアムズの「純粋で無私の悪意」の議論とを接続することができるだろう。

純粋に独我論的・独今論的な立場においては、それだけが唯一の実例であるという意味で、カント的な義務論に基づく高尚な選択であっても、滅私奉公的な功利主義的な選択であっても、利己主義的な利益・欲求・選好によるものでであっても、「純粋で無私の悪意」に基づくものであっても、それらは全く等しい。複数のものが存在することを前提とした評価から超越している(または評価の手前にある)という点で、悪意の「悪」という言葉さえ意味をなさない。

そのような究極的に倫理から遠く、倫理の光が届かない地点を想定することで、ようやくウィリアムズの「純粋で無私の悪意」は、倫理の議論のなかに回収されることとなる。しかし、そのときには倫理も消え去ってしまっているが。ここにこそ、ウィリアムズが論じた「純粋で無私の悪意」の含意はあると思う。

7 ウィリアムズの射程

以上、僕なりにウィリアムズの第一章の議論を解釈したが、少なくとも僕にとっては、ウィリアムズが行った議論は明らかに通常の倫理学的な議論より深いところから始まっている特別なものだ。少なくとも独我論的利己主義というものをスタート地点としていることは明らかだし、「純粋で無私の悪意」の議論を踏まえるならば、独我論的・独今論的な地点、つまり利己主義や倫理が生まれる手前を射程に捉えているとさえ言える。

だが、永井的に述べるならば、ウィリアムズはそこで踏みとどまることができず、長い転落の道を進んでいくことになる。これは単なる失敗なのだろうか。

そうとも限らないように僕は思う。なぜなら、ここからのウィリアムズの議論を駆動するのは、哲学が持つ「反省」の力だからだ。ウィリアムズは第1章の最後で、哲学というものと反省との関係についての議論を行い、更には本書が存在するということとの関係についての議論を行っている。そして最後に以下のように述べている。

もし本書がこの問題(「人はいかに生きるべきか」というソクラテスの問題)を立てることにコミットしてしまっているならば、それはまたこのように(反省し、一般化し、倫理的な観点をとるかたちで)答えることにもコミットしていることになるのだろうか。倫理的なるもの、そしてよい生き方へのいかなる哲学的探究も、答の一部として哲学自体の価値、および反省的知的態度の価値[の承認]を要求するのだろうか。(p.55)(カッコ内は僕が補っています。)

これは極めて重要な問題提起だと思う。なぜなら、もしこれを認めるならば、反省を本分とする哲学は、必然的に倫理学につながるということを意味するからだ。つまりこれは、永井倫理学の敗北であり、ひいては形而上学の敗北でもある。

永井倫理学であれ、形而上学であれ、それが哲学である限り、それは反省を要求するはずだ。反省を有効に機能させるためには、そこに何らかの複数性を導入しなければならない。これは永井的に述べるならば、〈ものごとの理解の基本形式〉に乗せるということである。つまり、永井が行ったような独在論的な倫理学は語りえないということであり、哲学的に語られる限り、倫理学はウィリアムズが示したような道にしか進むことができない、ということである。そして、形而上学は、そのような倫理学に沿うようなかたちで、常識的で(つまらない)世界観を供給せざるを得ないということでもある。

以上のような僕の読み方は、決して偏ったものではないと思う。なぜなら、この本の原文でのタイトルは、「ethics and the limits of philosophy」だからだ。これは、哲学の限界と倫理学のスタート地点とはきれいに重なるということを意味しているのではないだろうか。ウィリアムズは、永井の独在論が転落し、利己主義としてはじまるところに、それを見出している、ということになるのではないか。

8 さいごに

だが、僕はそこまでは同意できない。

たしかに、永井の独我論的・独今論的利己主義とも読めるような独我論的倫理学は、それをあたかも哲学的に語ることができるかのように描写しているという点で不徹底だろう。永井の倫理学的な主張を何らかのかたちで伝達しようとするならば、それは、哲学書ではなく、永井自身が行っているように、ヴィパッサナー瞑想のような、実践によらざるを得ないに違いないからだ。

だが、永井のものも含めた形而上学であれば、倫理学から独立を保つことは可能だろう。なぜならば、複数性を前提とした語り方、永井的に述べるならば〈ものごとの理解の基本形式〉に沿った語り方は、倫理学においては必須ではあっても、形而上学においては必須とは限らないのだから。

そう考えるのは、形而上学と倫理学は全く異なることをしているという予感があるからだ。形而上学は生きるうえで必要ないが、倫理学は生きるために必要だ。少なくとも、形而上学をやる人は、それが生きるために必要だから、と説得されたらやる気を失うだろうが、倫理学をする人ならば、それが生きるうえで有用だとどこかで信じているに違いない。また、形而上学においては他者との対話や議論は本質的に必要なく、「人それぞれ」という調停の仕方がありえるが、倫理学においては他者との対話や議論を避けることはできず、「人それぞれ」はありえない。そんな違いがあるように思える。そして、それが両者の違いをつくりあげているように思える。