(この話は、あまりフェミニズムに興味はないし、詳しくもない僕が書いたフェミニズムについての話です。だから話半分で読んでください。フェミニズムはあくまで話の枕で、実はフェミニズムの話ですらないかもしれません。)

1 フェミニストな妻

僕の妻はフェミニズムっぽい考え方を持っている。だから時々、食卓でそういう話もする。そんなときはたいてい、二人の話は少し噛み合いつつも、少しすれ違ってしまう。僕は多分、フェミニズムには総論賛成各論反対の立場なのだろう。男女平等という姿勢には賛同しつつ、その論理構成の細部には疑問を感じてしまうのだ。

例えば、妻は、会社での人事評価は男性のほうが優遇されていると言う。僕もそれに同意する。更に妻は、その理由について、育児休暇をとると悪い評価がつくのはミソジニー的な意識が男性社会のなかにあるからだと言う。そんなとき、僕の中に違和感が生じる。確かに少なくない割合の男性がミソジニー的ではあるだろう。また、育児休暇をとると評価が低くなるのも確かだろう。だけど、育児休暇をすると評価されない主な理由は、単に仕事をしていないからではないだろうか。当然、女性が仕事を休まざるを得ないのは子育てのせいだし、子育ては男性がもっと関わるべきだ。その現状を踏まえるならば育児休暇を理由に低評価をすべきではない。だが、そのうえで、ミソジニーの問題はあまり関係ないように思えるのだ。育児休暇と同様に、あまり残業をしない人や、病弱で休みがちな人は評価が低くなりがちだ。全く同列に語ってよいかどうかは別として、僕には、そこに大きな違いはないように思えてしまう。あくまでこれは評価全般の難しさの問題なのではないだろうか。

僕の主張が正確かどうかは別にして、こんなふうに、僕は、フェミニズム的な主張にはどこか粗雑なところがあるように感じてしまうのだ。

2 交差するベクトル

ずっと僕は、それはフェミニズムの欠点だと思っていた。僕のほうが精緻で正しくて、妻のほうが粗雑で間違えていると思っていた。

だけど、もしかしたら、そうではないのかもしれないと気づいた。二人は、向いている方向が違うだけなのではないだろうか。言い換えれば(僕にとっての)哲学とフェミニズムではベクトルが違うということかもしれない。

僕にとっては、議論とは、たとえ夫婦の間でのものあっても、当事者の思い入れから解き放たれ、真実に向かうべきものだ。僕自身や妻といった当事者の思いのいかんに関わらず、いわば客観的な視点から真実を描き出そうとするものだ。僕は哲学とは、そういう営みだと考えている。(「客観的」という表現が、哲学的には問題含みではあるけれども。)

一方で、フェミニズムとは、生き方なのだろう。きっと、妻は女性であることで苦労してきたのだろう。そして、それを乗り越えてきたという自負もあるはずだ。そのような半生とフェミニズムは切り離すことができない。彼女にとって、男女差別は人生の大きな課題だった。だから彼女が自分自身の人生を描写するとき、男女差別という視点は極めて重要なものとなる。いわば、彼女はフェミニズムというストーリーのなかで生きていると言ってもいい。僕のような視点が客観的なものだとしたら、彼女の視点は主観的と言ってもいいだろう。

 このようにして、僕の視点と彼女の視点は交差する。僕は客観的で全体的な視点から個別のものごとを捉えようとし、彼女は主観的で個別的な視点からすべてを捉えようとする。僕はまず、育児休暇の低評価やミソジニーといった社会的問題を見渡すような視点に立ち、そこから共通の問題構造を見出していく。その分析のなかで男女差別を見出すかもしれないし見いださないかもしれない。全体構造が先で男女差別は二の次だ。一方で彼女は、育児休暇の低評価の問題もミソジニーの問題も、男女差別というひとつながりのストーリーとして捉える。男女差別という物語は彼女の人生とは切っても切り離せない必須のものとして立ち現れる。

 だから問題が生じるのだろう。僕は、フェミニズムを切り刻むように扱う。育児休暇の低評価問題には、男女差別が関わっている部分と、そうでもない部分があるよね、というように問題を腑分けする。だけどそれは、彼女からしたら、自分の人生を切り刻み、腑分けされているようなものかもしれない。彼女にとっては、男女差別の観点から語ることができる限り、育児休暇の低評価問題もミソジニーも、完全に男女差別の問題なのだ。つまり、すべてが彼女の人生のなかで渾然一体となり、男女差別=育児休暇の低評価問題=ミソジニー問題という図式が成立する。これこそが、僕とは異なる、僕があまり得意としない、もうひとつの世界の捉え方なのだろう。僕はこのような捉え方を否定すべきではない。

3 人生というストーリー

 更に言うならば、きっとそれが自分の人生を生きるということなのだろう。彼女は、育児休暇の低評価問題を現実に男女差別の観点から説明できないような経験を実際にするまでは、どこまでもそのように生き続けるのだろう。それしかできないのだろうし、そうすべきだとすら思う。

 どうしてそう思うのかというと、実は僕も同じだからだ。僕も彼女と同じように、ひとつのストーリーのもとで生きているからだ。言うなれば、僕自身も、客観性というひとつのストーリーのもとで生きている。(哲学的にもう少し正確に表現するならば「メタ」という視点を重視するストーリーのもとで生きていると言ったほうがいいかもしれない。)彼女のフェミニズムを外部の視点から批判することは容易であるのと同様に、僕の客観(メタ)を重視するドグマを外部の視点から批判することも簡単にできる。そして、僕は、僕のドグマを擁護する術を持たない。その点で僕たちは同じ穴のムジナだ。

 なお、僕自身がドグマを抱えているということについてわかりにくいかもしれないので少し具体的に説明しておこう。それは例えば、相対主義の自己適用の問題と似ている。AとBの二人が堕胎は是か非か、というような二つの意見が対立している場面で、相対主義者Cが「人それぞれ」なのだから相手の意見も認めるべきだ、と調停したとする。それに対して、非相対主義者Dが「では相対主義者(C)は、相対主義を否定するという俺(D)の意見も認めるべきではないのか。」と批判するような場面だ。CはAとBよりもメタ的な視点に立っている。だけどDはCよりも更にメタ的な視点に立ち、なぜそこに留まるのかと批判する。CはDからの批判を正面から否定することはできないだろう。そして僕は、僕自身が、この相対主義者Cと同じような立場にいると考えている。「どうしてメタ的な視点をとるのか。(どうしてメタ・メタ的な視点をとらないのか。)」とメタ・メタ・メタ的な視点から問われたとき、僕はそれに対して答えることはできない。(なお、Cは正面からではなく、ずらして答えることができる、と考えるのが入不二であり、僕はそれに賛同する。)とにかく客観性や、相対主義や、メタ的な視点というもの自体がひとつのドグマであるという批判はたしかに成立する。

 人は生きる限り、ストーリーまたはドグマからは離れられない。世の中には、フェミニズムや客観性のほかにも、民主主義、資本主義、愛、優しさ、神といった様々なストーリーであふれているけれど、人は自分自身に染み付いたストーリーからは離れることができないのだ。

 ここで述べたことは哲学的にはそれほど深い話ではないけれど、僕はその知識を実生活で使えていなかったのだ。妻との議論において、無頓着に客観的でメタ的な立場に立つことができると考えていた僕は、(意識的かどうかは別として、その限界に忠実であった)妻に比べてもナイーブすぎたのだろう。僕は妻との議論という実生活の場面でも、ようやく、この問題に気づくことができたということなのだ。

4 現実世界と思考世界

 なお、僕はストーリーに上下の序列があるとは思っていない。うちの奥さんのフェミニズムよりも僕の客観性のほうが上だなんて思っていない。または、未開の部族のアミニズム的な神様よりも洗練された民主主義のほうが上だとは思っていない。これは、単に評価を留保し、すべてのストーリーを平等なものとして捉えるということではない。むしろ、フェミニズムやアミニズム的な神様のほうが上かもしれない。なぜなら、そちらのほうが、客観性や民主主義といったものよりも生々しくて人間のにおいがするからだ。フェミニズムには客観性よりも人を動かす力がある。アミニズム的な土着の神様が信者に対して持つ力は、民主主義が現代国民に対して持つ力よりもはるかに大きい。これらには、いわば現実世界での実行力がある。その点で、ある種のストーリーは他のある種のストーリーよりも力強いと言える。

 一方で、現実世界での力をあまり持たないようなストーリー、例えば、客観性や民主主義といったストーリーは、逆に、思考の世界での力は強い。だから、言葉での議論においては、フェミニズムは客観性には敵わないし、奥さんは僕には敵わない。その点も踏まえるならば、それぞれのストーリーには上下はなく、ただ得意な土俵に違いがあるに過ぎないとも言える。現実世界と思考世界のどちらで力を発揮するかという特性の違いである。

僕はどちらかというと思考世界の住人だけど、思考世界の住人にとっても、現実世界は当然重要だ。哲学をするだけでは生きていけない。一方で、現実世界の住人にとっても、思考世界というものが、すごろくの一回休みのように、一息つくことができるところとしての意義があるといいなあ、と思う。そう思ってもらえれば、お互いが理解し合うことが少しはできそうだから。

(この文章のBGMは『絶対彼女』(大森靖子)です。僕は疎いけど、ハロプロ的なアイドル文化には、この文章で書いたことの更に外の視点が含まれているような気がする。思考すら届かないような、更に外側の世界があるという予感といえばいいのかな。)