ウィリアムズのこと(2) 倫理否定主義者と哲学対話

1 はじめに

以前、僕は哲学対話においては、継続性と誠実性が重要だと論じたことがある。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

ウィリアムズは『生き方について哲学は何が言えるか』第2章において道徳否定主義者を想定した道徳的生活の正当化についての議論を行っているが、この議論と僕の議論とは重なるところが多いと気づいたので、書き残しておくことにする。

2 道徳否定主義者との倫理的議論

ウィリアムズはプラトンの『ゴルギアス』に登場するカリクレスのような倫理否定主義者(※)を念頭に置き、倫理的生活の正当化がどのようにして可能となるのかを考察する。

※ ウィリアムズは道徳否定主義者としているが、ウィリアムズは場合によってより広義な倫理と、倫理のなかの特殊システムとしての道徳とを使い分けるので、ここでは、より広義な倫理否定主義者と言い換えている。

  また、倫理否定主義者というと、なんとなく、泥棒をしたりいじめをしたりと悪いことばかりする人のようにも思うかもしれない。だが、義賊のように、実は道徳的な動機で悪事を働くような場合もあるので、真に道徳否定主義者かどうかは何らかの説明が必要となる。だからここでの道徳否定主義者とは道徳を否定するように実際に行為するひとではなく、プラトンの対話篇に登場する人物のように道徳否定的な主張を行う人を想定したほうがいいのだろう。(この話の続きは最終章で行う。)

僕は『ゴルギアス』を読んでいないので、あくまでこの本に沿って理解する限りだけど、道徳否定主義者とは気まぐれに倫理的な議論に参加し、倫理システムを否定することはあっても、いつまでもその議論に留まることはないような人のことだ。勝手に議論から退場もするし、力づくで議論の相手を引きずり出すことすら厭わない。ドラえもんのジャイアンのような奴をイメージしてもいいだろう。彼は倫理的な見地からの説得(例えば、功利主義的な利益への配慮を書いているというような)にも耳を貸すことはないし、論理法則に反する(例えば、自己矛盾を犯すなど)といった批判を気にすることもない。そもそも非倫理的なので、自らが一貫性を欠くことに何の抵抗もない。その点では男気があるジャイアンだとちょっと違うかもしれない。どちらかというと倫理的でないというよりも論理的ではないと言ったほうがいいかもしれない。(※)

※ ここでのウィリアムズは倫理的であることと合理的・論理的・理性的であることを同一視しているように思える。(非倫理的な理性の居場所をなんとか確保しようとはしているけれど、僕には失敗しているように思える。)これはかなり正しいけれど、論ずべきことが残っているように思う。ウィリアムズ的には倫理的生活は論理を超えたところにあると言うだろう。逆に、形而上学的な理性はウィリアムズが捉えた倫理的な理性を超えている、というような述べ方をして、論理が倫理を超えているということもできるのではないか。

そのようなものとしての道徳否定主義者(A)を念頭に置くならば、彼と道徳主義者(B)の議論は次のようなものになるだろう。

B 「君が道徳否定主義者なら、目の前に溺れる子供がいても、誰も見ておらず、あとで非難されるような恐れがなければ、助けないのかい。」

A 「助けようとすると思うよ。」

B 「どうして。」

A 「そうしないと後で嫌な気分になるからね。」

B 「じゃあ、君も道徳主義者なんだよ。」

A 「それなら、やっぱり助けない。」

B 「なんで意見を変えるの。」

A 「いいじゃん、別に。」

B 「助けないままにして、後で嫌な気分になってもいいの。」

A 「嫌な気分になんかならないよ。」

B 「さっきと話が違うよね。」

A 「うるさいな。もういいよ。」(Aは立ち去る。)

このような状況について、ウィリアムズは、道徳主義者Bの言葉が道徳否定主義者Aに対して威力(force)を持たなかった、と描写する。ウィリアムズによれば、倫理的主張は、その相手が倫理システムの内部にいる場合にのみ威力を持つことになる。

3 道徳否定主義者が道徳主義者になるためのステップ

では、この例のどこに問題があり、どう修正すればBの言葉がAに対して威力を持つことになるのだろうか。言い換えれば、どうすればAは倫理システムの内部にいる者、つまり道徳主義者であることになるのだろうか。

最も問題だったのは、Aが途中で話を打ち切り、立ち去ったことだろう。これは、ウィリアムズが「なぜ、そういう人たちが、おとなしく議論を聞くと考えてよいのだろうか?」(p.58)としている問題である。ウィリアムズが持ち出した例の場合は、道徳否定主義者Aは逆に(倫理学の)先生のほうを殴って引きずり出してしまうが、実力行使で議論を強制的に終了させるという点では変わりがない。もし、Aが相手を殴ったり立ち去ったりせず、おとなしくその場にいることができれば、Aは道徳主義者に一歩近づく。

だが、それでもAは道徳主義者になることはできない。なぜなら、平気で主張を変え、その理由も示さずに、一貫性のないことばかり言っていたら議論に参加していることにならないからだ。

例えば、Aが立ち去ったり、殴ったりするのを我慢し、先ほどの議論を続けるならば、次のようになるだろう。

B 「助けないって言ったり、助けるって言ったり、なんで意見を変えるの。」

A 「変えちゃいけないの。」

B 「理由がなかったら変えちゃだめだよ。」

A 「じゃあ変えてない。」

B 「変えたじゃん。おかしいよ。」

A 「じゃあ変えた。」

B 「変えた理由は何。理由がないまま勝手に変えちゃ駄目だよ。」

A 「やっぱり変えてない。」

 これでは議論にならない。そもそもAが議論に参加しているとは言えないだろう。Aが議論に参加していると言えるためには、主張にあたっては一貫性を意識する必要があるし、主張を変更したならば、主張を変えたということを認めなければならない。

 そして、もし、Aがこれも受け入れたならば、Aはようやく道徳主義者となったと言えるだろう。なぜなら、立ち去ることも許されず、一貫性を尊重せざるを得ないこととなったAにはBの倫理的な説得を逃れる術はないからだ。理性的に議論を行う限り、Aには勝ち目はないはずだ。

 もし仮にAが溺れた子供を助けないと主張し、倫理的な判断にコミットしないことを選んだとしても、Bが持ち出すだろうすべての事例で全く倫理的な判断から離れることはなかなかできないだろう。ウィリアムズは例外的に完全に倫理から逃れる方法として(※)「倫理的な言説を用いることからすっかり身を引いてしまうという手」(p.64)を持ち出しはする。だがそれはかなり困難なことだろうし、もし仮にそれを実現してしまったとしたら、その人のことを道徳否定主義「者」と呼ぶことができるかどうかは疑問だ。ひとつも倫理的なことはせず、完全に倫理的な言動から距離をとった人のことを、そもそも「人」と呼ぶことなどできないのではないだろうか。もし、ひたすら悪を行い、全く言葉を交わすこともできないような存在があったなら、それは、たとえ人間のかたちをしていても、人間として扱われることはないのではないはずで、文字通り悪魔として扱われるのではないだろうか。つまり人間が人間であるためには多少は倫理的であらざるを得ないのではないだろう。そのうえで、人間が必ず多少なりとも持っているその倫理性を首尾一貫して保持してしまったら、その人は道徳主義者にならざるを得ないということになる。

※ ウィリアムズは倫理的懐疑主義者と道徳否定主義者を分けて考察しているが、ここでは議論の簡素化のためひとくくりにして論じている。

4 哲学対話との接続

以上のような描写と、僕が、哲学対話においては継続性と誠実性が重要であるとしたこととは重なる。つまり、相手を殴ったり立ち去ったりせずに、その場にいるということが継続性にあたり、主張の一貫性を意識して議論を行い、主張を変更したならばそれを素直に認めるということが誠実性にあたる。つまりウィリアムズと僕の議論は関係があり、倫理的であることと、哲学対話に参加することとは深い関係があるのだ。

 ここで強調したいのは、重要なことは継続性と誠実性の二つだけだという点にある。先ほどの道徳者の描写はひとつの例しか用いていない雑駁なものであり、十分に論じきれていないが、僕は、人が倫理システムの内部にいるためには、継続性と誠実性だけがあれば十分だと考えている。そして、哲学カフェ(哲学対話)についても、重要なのは継続性と誠実性だけだと考えている。つまり、倫理的であることと哲学対話とはこの点で全く等しく、両者は関係があるどころか全く重なると言ってもよい。

 それならば、哲学対話とは人が倫理的であることを学ぶための最も基礎となる場であると言うことができるのではないだろうか。プラトンは政治によって社会を変革し、倫理的なるものに威力を持たせようとした。現在、学校教育のなかに哲学対話をとりいれようとする動きがあるが、これは、形は違っても、プラトンの国家論の現実化ということさえできるのではないか。

5 哲学者の日常生活

 なんだかバラ色の未来を描いてしまったが、倫理学と哲学対話の一致はもうひとつのあまり愉快ではない話にもつながるだろう。

 哲学対話とは、単なるイベントのひとつではなく、哲学という営みのある側面を非常に純粋なかたちで体現するものだと僕は考えている。哲学対話とは哲学そのものだからこそ、ウィリアムズが道徳否定主義者と対比するかたちで描写した道徳・倫理というものとここまできれいに一致するのだ。この本のタイトルは原文では「Ethics and the Limits of Philosophy」である。倫理というもののあり方と(ある種の)哲学の限界とを重ねて議論することができるというウィリアムズの洞察は、確かにそのとおりだと思う。

 倫理や哲学(対話)には限界がある。その限界は継続性と誠実性というかたちで示されている。では、その限界の外には何があるのだろうか。そこには日常生活があるのではないだろうか。

 当然、僕たちは四六時中哲学(対話)をしている訳ではないし、ウィリアムズだって常に倫理学的な考慮に基づいて生きている訳ではないだろう。そんなとき、僕たちは継続性と誠実性を失い、非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的に生きていることになる。僕たちはそんな日常を生きている。

つまり、道徳否定主義者とは、どこかに思考実験的に存在するような架空の人格破綻者のことではなく、日常を生きる僕たちのことなのだ。僕たちは、日常において、時間がないからと相手の話を十分に聞かずに話を打ち切ったり、眠くて適当に相槌を打ったり、場の雰囲気に流されて誤解を訂正しないままにしたりする。そんなとき、僕たちは非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的な存在となる。ウィリアムズの言葉によるなら、僕たちは道徳否定主義者となる。

いや日常生活においても道徳はある、という反論があるかもしれない。日常生活においても、溺れる子供を助けるというような、道徳的に評価される行為は確かに存在する。

だが実は、道徳的に望ましい行動をとるかどうかと、道徳主義者か道徳否定主義者のいずれであるかは関係がない。なぜなら、両者の違いはあくまで議論の場面で生じるものだからだ。道徳主義者とは、あくまで道徳的な議論を行う者のことで、道徳否定主義者とは道徳的な議論を行わない者のことである。道徳を否定するにせよ、肯定するにせよ、議論のなかで培われた道徳という観点を議論の外に持ち出すためには、議論の内外の間に横たわる断絶を飛び越える必要があるが、それは不可能なことである。溺れた子供を助けるべきといくら論じても、その人が溺れた子供を助けるとは限らないし、逆に、助ける必要はないと論じた人がいたとしても、その人が、実際に子供が溺れている場面に遭遇したとき、英雄的な行動をとることは、かなりありうることである。

それでも、事前に哲学対話を積み重ね、倫理的な力を高めておくことにより、心構えができ、日常生活においても培った道徳の力を発揮しやすくなるというような傾向性は見出すことができるかもしれない。もしそれを認めるならば、哲学生活の場面と非哲学的な日常生活の間にある断絶を架橋するような何らかの媒介物、例えばコナトゥスと呼ばれるようなものを想定しなければならないだろう。だが、そのような議論も、それが議論である限りは哲学生活としての範囲に留まらざるを得ず、それが日常生活の側に届くことはない。そこには哲学の限界を哲学によって論じるという問題が残っている。どうやら、この考察も行き着くところまで来たようだ。

6 注意点

 最後に注意点を述べておくと、ここで論じたのは、哲学のうちの倫理学と呼ばれる分野に限定してのことだ。僕が好きな形而上学や、または、美学や論理学といった他の分野の哲学については、哲学対話と相性がいいかどうかさえ、まだわからない。実感としても、哲学対話を実践していると倫理学的な話題と哲学対話は相性がいいと感じるけれど、それ以外の分野についてはそうでもないような気がする。だから、哲学対話は当面、倫理学対話と呼んだほうがいいように思うし、哲学カフェも倫理学カフェとしておいたほうがいいような気がする。そのように限定することで、ものごとをかなりクリアに捉えられる気がする。

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