月別アーカイブ: 2021年8月

心と世界のチューニング

ファイルを整理していたら発掘しました。数ヶ月前のメモ書き。

今のところ、これ以上は書き足せないけど、また埋もれたらもったいないので、ちょっとだけ体裁を整えてアップしておきます。

心と世界。

調和だと、ちょっと高尚すぎる。

境界の消去だと、ふたつのものの和になってしまう。

止揚だと、新しい特定の何かが生じるかのようだ。

そうではない。関わり合いを精緻にしていくのだ。

呼吸や瞑想を使って。

それならばチューニングという言葉がちょうどいいかもしれない。

ただし、心と世界を直接関わらせることはできない。

身体を介在させなければならない。

だから2箇所でチューニングを合わせる。

心と体、そして体と世界。結果として、心と世界のチューニングも合うはず。

心が体に気づき、そして世界に気づいていく。

世界も体に気づき、心に気づいていく。

より気づき、よりチューニングが合うにつれ、時間は経過する。

成長という意味での時間の動性。

動物倫理学

1 肉食の問題

詳細の説明は控えるけれど、最近、僕は、自分が工場式畜産の関係者だということを実感させられる経験をした。そして僕はベジタリアンになろうかと真剣に考えてしまった。積極的にベジタリアンを目指すというより、肉食は勘弁してほしいというような逃げ出したい気持ちになったのだ。

僕は牛・豚・鳥・羊と色々な種類の動物の肉を比較的安い費用でたくさん食べる。それは当たり前のことだと思っていた。だけど実は、当たり前のことではあっても当たり前の肉ではない。僕が食べるのは、当たり前のようにのんびりと牧場で育つ動物の肉ではなく、生まれたときから狭いところに閉じ込められ、外を走り回ったことなど一度もないような異常な状況で育てられた特殊な動物の肉なのだ。そのようなものを僕は喜んで食べてきたし、値段や栄養バランスやおいしさや円滑な人間関係を考えるならば、これからも喜んで食べるのだろう。だけど、色々なことに折り合いをつけつつも、せめて、少しでも何かを変えるべきではないだろうか。そんなことを考えている。

この文章は、少し混乱した僕の心情を整理するために書いている。自分のため、ある程度まで、吐きつくして考え尽くしたいと思って書いている。だから冗長になっているし、脇道に逸れたりもしている。という点をご容赦ください。

2 はじめての動物倫理学

他の文章でも繰り返し書いているように、今、僕の中では倫理学がブームだ。それならば、肉食について倫理学的に考察するのもいいのではないだろうか。そんな思いつきで田上孝一の『はじめての動物倫理学』という本を読んでみた。

この本によれば、(ウィリアムズの『生き方について何が言えるか』でも勉強したとおり、)規範倫理学には功利主義(帰結主義)と義務論と徳倫理学という大きな3つの流れがある。その規範倫理学を応用するのが応用倫理学であり、動物倫理学は応用倫理学の一部門である。だから動物倫理学にも、功利主義的動物倫理学と義務論的動物倫理学と徳倫理学的動物倫理学があることになる。

田上によれば、動物倫理学は義務論と相性がいいようだ。なぜなら、動物倫理学とは、(人間生活に影響がない範囲で)動物を極力大事にしましょうね、というような動物福祉的な観点を超え、動物自体に権利があると考えるものだからだ。ダイレクトに動物と権利をつなげるためには、つまり功利計算や動物を愛する人間の徳といったものを媒介せずに動物と権利をつなげるためには、カント的義務論の道筋がうまくいくのは確かだと思う。カント的に述べるならば、動物はなにかの手段ではなく、人間と同様に目的とすべき存在なのだ。なんら条件付けなく、ただ動物は動物であるだけで人間と同様に尊重されるべき存在なのだ。とても切れ味がよい。

このように論ずる動物倫理学は歴史が浅い若い学問なだけあって、突っ込みどころが満載だと思う。チンパンジーやゴリラのような動物とサンマやカブトムシのような動物は全く対等なのだろうか。もしノアの方舟が陸地を見つける前に海の中に沈んでしまいそうになったら、救命用ボートでどの動物を助けるべきなのだろうか。(サンマは助けなくていい気もするけれど。)また、なぜ動物に権利はあるのに植物には権利がないのだろうか。サンゴのような動物には権利はあるのだろうか。動物プランクトンと植物プランクトンとの間にある違いとはなんだろうか。動物に権利があってもロボットには権利はないのだろうか。等々。僕から見ると、動物倫理学は、これらの問いに対して、大多数の人を納得させられるような答えは持っていないように思える。動物という視点から倫理について考えるのはなかなか難しい。

なぜ、動物という視点からのアプローチが難しいのかというと、動物の問題の裏には人間の問題がまとわりついてくるからなのだろう。動物倫理学とは、いわば「動物」という範囲を設定する議論だから、その延長にある「人間」という範囲設定の問題ともつながる。つまり「動物の権利」よりも前に「人間の権利」が問題になるということだ。そもそも人間には権利があるとはどういうことだろうか。本当に、友人や家族と見知らぬ異国の人々とでは同じ権利を持っているのだろうか。もし同じ権利があるならば、僕は腕を一本骨折した友人のことなど放っておき、腕を二本骨折した見知らぬ人のことを考えなければならないのだろうか。人間のことすら整理しきれていないのに動物のことに手を出すのは時期尚早のような気もする。

3 動物倫理学の自然科学的な正しさ

一方で、動物倫理学を支持する人たちは、僕が抱く懸念は既に解決していると言うだろう。彼らならば、動物倫理学はどうして動物が人間と同等に扱われるべきかをきちんと根拠付けて議論できていると主張するだろう。また、将来的には、どの程度の範囲の動物を人間と同等に扱うべきかを定義できうると主張するだろう。

確かにそうなのだ。彼らの主張には自然科学という根拠がある。現在の自然科学の知見を踏まえれば、人間と動物の間には決定的な差はない。人間が言葉を使うように、言葉を使う動物もいる。道具を使うのも人間だけではない。動物も苦痛を感じて苦痛から逃れようとするし、人間と動物の間の遺伝子上の差はわずかなものだ。機能面だけを比較するならば、生まれたばかりの赤ちゃんや認知症の老人よりも成熟した健康なチンパンジーのほうが人間的だとすら言うこともできる。

また、今のところは達成できていないが、近い将来、自然科学的な知見を用いて、一定の範囲の動物を人間と同等の機能を有するものとして明確に定義づけることも実現しそうな勢いもある。(なんとなくそれは、大型霊長類やイルカのような一部の動物を人間と同等だと定義づけるようなものになりそうな気がする。)

動物倫理学は、人間の機能に着目し、自然科学の知見を用いて動物にまで拡大するという、かなり成功を見込めそうな道筋を発見したのだ。人間の主体としての機能を自然科学的に把握し、それを人間という従来の枠組みにとらわれずに動物にまで拡張することで、倫理の主体の範囲を明確に捉えきることができるようになるのだ。だから、この議論は、動物倫理学という枠には留まらず、人間も含めたものとしての、自然科学的機能主義に基づく主体論だと言ってもいいと思う。

正直、僕の直感ではそのような解決方法はなかなか受け入れがたいけれど、自然科学が大多数の人にとっての常識となっている現代においては、動物倫理学が持つ力を無視することはできない。それならば、先程僕が列挙したような動物倫理学に対する疑問は、自然科学によりいずれ解決することになるのかもしれない。

4 自然科学的な議論の威力

再度、我々、動物倫理学反対論者の立場に身を置いてみよう。

動物と人間を同一視するような動物倫理学の主張にはいくつもの反論を思いつく。動物倫理学は、これから成熟した人間になる赤ちゃんや、過去に健康な人間であった老人の特別さを無視している。人間が扱う言語と動物が扱う言語では複雑さが違う。等々。だけどそのような理由付けは、自然科学の知見という決定的な正しさと比べれば恣意的で怪しいもののように思える。どうも我々の旗色は悪いようだ。

だが、より決定的な我々の問題は、そもそも、動物と人間を同一視することに反対する人は、本当に赤ちゃんの成長可能性や言語の複雑さこそが自らの主張の根拠だと心から信じてはいないという点にある。そのような人は心の底では、赤ちゃんはこれから大人に成長するかどうかとは関係なく人間だと言いたいはずだ。また人間特有の言語の複雑さを論拠とはしても、仮に人間と同等以上に複雑な言語を話すカラスを発見したとしても、そのカラスを人間として扱いたくはないはずだ。反対論者の心の奥底には、論理では割り切れない極めて人間的で強力な感情がある。だけどその感情が「感情」として議論の俎上に乗ってしまったら、その「感情」は自然科学を味方につけた動物倫理学に対しては無力である。動物倫理学反対論者が本当の拠り所としている「感情」は、「感情」を離れたところで行う論理的な議論とは相性が悪い。

別の言い方をするならば、根源的な動物倫理学の議論の強さは、僕たち人間は肉食すべきか、という問いを立てた途端、その問題は、自然科学的な動物倫理学的な議論の土俵に取り込まれてしまうという点に由来しているとも言える。

どういうことか少し丁寧に言葉を補おう。「僕たち人間は肉食すべきか。」という問題設定は、個人的な問いではなく、「僕たち人間」という人間一般についての問いであると言える。そうだとすると、肉食すべきか、という問いに答える前に、人間一般という問題領域の設定の是非について考えざるを得ないはずだ。つまり、まずは、人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題について整理せざるを得なくなるということだ。

そして、その答えは、私という個人ではなく、誰もが共通に持っている人間一般の特徴から論ずることになるはずだ。それならば、その答えは、人間には46本の染色体があって、道具や言語を使えて・・・というようなものになるだろう。つまり、「僕たち人間は肉食すべきか。」という問いは、「46本の染色体があって、道具と言語を使える者としての人間一般が肉食すべきか。」という問いであることが明らかになったことになる。これはほぼ、自然科学的な人間の機能に関する問題設定であり、さきほどの動物倫理学の議論の土俵に乗っている。

議論の出発地点が定まったならば、あとは簡単だ。自然科学的な道筋に入り込んだなら、そこから先に逃げ道はなく、動物倫理学の議論の流れに沿って、僕たちは人間と動物を同列に扱うべきだという帰結に向かって一直線に進んでいくことになる。

以上の考察が明らかにしているのは「僕たち人間は肉食すべきか」という問い方が既に自然科学的な動物倫理学への道筋をつけてしまっているということである。

5 個人的な道筋

だが本当に人間一般という問題設定から必然的に自然科学的な答え方が導かれ、動物倫理学的な議論に帰結せざるを得ないのだろうか。人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題に対しては、DNAがこうなっていて、道具と言語を使えて、というような自然科学的な答え方とは違う対応の仕方は本当にないのだろうか。

対案としてはきっと色々なアイディアがあり、それぞれについて丁寧に検討していくべきなのだろう。だが紙幅の都合から、また、僕の興味はそこにはないという理由から、その問題には立ち入らず結論だけ述べたい。僕は、それらの対案はいずれも失敗すると考えている。自然科学的な議論の道筋を突き進む以外には、人間一般についての問いとすることを諦め「僕にとって」という個人の領域に進む道を選ぶしかないと考えている。

自然科学的な方向に進まず、かといって個人的な方向にも全く入り込まずに「人間一般にとって」という問題領域に完全に踏みとどまったまま、議論を深めることは不可能なのだ。そのような議論は、一見成功したように見えても、どこかで個人的な視点や自然科学的な知見を密輸入してしまっているはずだ。(例えば、優しさを持っているのが人間だ、という主張があったとしよう。だが優しさというものを定義するにあたっては、主張するその人が個人的に知っている優しさを用いているか、そうでなければ、客観的に自然科学によって記述できる優しさを用いているはずである。)

それならば、これから進む道は二つしかない。個人的な道筋に進むか、客観的で自然科学的な道筋に進むかの二者択一である。残念ながら僕は、動物倫理学が進んだような客観的で自然科学的な道筋では納得しきれないので、個人的な道筋に進むしかない。こうして僕にとっての肉食の問題は、「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題として立ち現れることになる。

6 議論の向き

ここからの議論では「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題をどこまで個人的な問題として純度を保って論ずることができるかが肝要となる。

当然ながら、ものごとを個人的な問題として論ずるにあたっては、個人的な視点を徹底することが重要だ。なぜそんな当然なことを強調するのかというと、議論というものは、複数で行う場合でも、このように一人で文章を書きながら行う場合でも、どうしても客観的な視点というものが混入しがちだからだ。そうならないように注意深く議論を進める必要がある。

議論の純度を保つための僕が最重要だと考える留意事項は、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向けるということがある。議論というものは本質的に双方向的なものだが、双方向性は個人的な視点を純粋なかたちで保つことを困難にする。個人的な視点を保ちつつ議論を行うということには、避けがたい困難がある。もし完全に避けることができないならば、そこに意識を向け、双方向性という障害物からどのような影響を受けざるを得ないかを慎重に見極めるしかない。

さて、双方向性という障害物は議論のなかにどのように潜んでいるのだろうか。複数の人の間で行う議論を思い浮かべてもらえればわかりやすいと思うけれど、議論においては話す人と聞く人がいる。AがBに対して「私(A)はネコが好きだ。」と言ったなら、ネコが好きなのはBではなくAだ。だから「私(A)はネコが好きだ。」というAの言葉は、Bにとっては、「あなた(A)はネコが好きだ。」と理解される。Aが発した「わたし」という言葉をBは「あなた」と変換して理解する。AからB、BからAと議論の向きが変わるごとに、「わたし」という言葉は「わたし」と「あなた」の間で揺らいでいる。

同様に、「僕は肉食すべきか。」という、この文章の筆者(つまり僕)の問いは、この文章を読んでいるあなたにとっては、「(この文章の作者である)あなたは肉食すべきか。」として理解されるべきだ。だが、言葉が持つこのゆらぎに無頓着でいると、もしかしたら、あなたは「(この文章の読者である)私自身が肉食すべきか。」という問いとして解釈してしまうかもしれない。これはつまり、僕からあなたに向かうべき議論の向きを逆に取り違え、あなたは僕とあなたを同一視してしまったということである。これが双方性という障害物に衝突してしまった状況だ。

こうなってしまったら、あとは話が早い。僕とあなたは同じ人間であり、人間という種であり、DNA構成がこうなっていて、言語を使えて、道具を使える。つまり僕たち人間は動物倫理学的な主張に基づき、肉食を拒否すべきである。

そのような道筋に入り込まないためには、議論とは本質的に双方向で行われるものであることに留意し、議論の向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ったまま、議論を進めなければならない。つまり、「僕は肉食すべきか。」という問題は、どこまでも作者である僕の問題であり、読者であるあなたの問題ではない。あなたは僕の問題に何ら関わることはできない。ということになる。

だけど、このようにして純度を保つのはなかなか困難だ。そのように言われたら、きっと、読者であるあなたは、僕のそのような対応が面白くないだろうし、この文章を読み続けることすら止めたくなるかもしれない。

現に、ほとんどの哲学はそのような道には進まず、作者も読者も同列なものとして扱われ、読者は作者に置いていかれることなく議論は進んでいく。

だが、これこそが問題なのだ。「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題は、作者と読者を同列なものとして扱うような語り方では、その問題の本質を捉えることはできない。極めて個人的な問題を極めて個人的な問題のままに論ずるというのは不可能と言えるほどに難しいことなのだ。

7 権利という幻

だけど、厳格に作者と読者を切り分けたままでは、読者が面白くないだろうから、少しは柔軟に対応し、読者を大切にしたほうがいいかもしれない。(より重大なのは、僕は、作者としての私の時空的連続性も怪しいと思っていて、その意味では、私自身も一人称としての作者ではなく二人称的な読者性を含んでいると思っている。つまり厳密な一人称的な作者など、どこにもいないと考えていることになる。)

だから、多少譲歩して、作者と読者という区別ではなく、主体と客体という区別に置き換えてみよう。(永井均ならば、これは多少の譲歩どころではなく、決定的な問題の取り逃がしがあると言うだろう。)

そうすると、ここまで僕がしてきた話は、主体から客体へという議論の向きに意識的になるべきだ、という話になる。主体から客体へという議論の向きは一方通行であり、向きが逆転したり、その結果、両者の関係性が均されたりすることはありえない。世の中では、この議論の向きを軽視することによって様々な問題が生じているように僕には思える。哲学的な問題の多くは、主体と客体の同一視という問題に由来しているように思える。

その最たるものが、ここで取り上げている倫理の問題だろう。特に、権利や義務にまつわる問題は、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方向性に留意することで、かなり見通しがよくなるのではないだろうか。

結論から言えば、主体と客体を区別する視点に立つならば、権利とは、どこにも実体を見出すことができない幻のようなものだと僕は考えている。まずはこの僕のアイディアを、主体から客体へという議論の向きに言及せずに説明してみよう。

例えば、僕が道を歩いていたら、いきなりバッグをひったくられたとする。そのとき、僕のバッグの所有権はどこにあるのだろうか。僕は泥棒に向かって「返せ!」などと叫んで追いかけるかもしれない。そのとき、僕は所有権に基づき叫んでいるのだろうか。どうも僕にはそうは思えない。そのときの僕は、ただ夢中で泥棒を追いかけていて、権利のことなど念頭にはないはずだ。

権利が登場するのは例えば、警察で泥棒にバッグを盗られたと訴えるような場面だろう。交番でちょっと間の抜けた警察官に事情を説明したところ、どうしてそんな主張ができるの、と問われたら、きっとその警察官に向かって「僕には権利がある」と怒鳴るだろう。権利とは、あえて登場する必要がなければ登場せずに済むものだ。あえて言なくても僕はバッグの所有権があることを前提に泥棒を追いかけるし、泥棒も同じ前提を共有して逃げる。それが問題となるのは、間抜けな警察官が登場したときくらいである。その警察官ですらも一旦権利について理解したならば更に権利について問いただすことはない。権利が言葉として登場するのは権利が権利として機能していないときだけである。

それでも権利が幻だとするのは否定が強すぎると思われるかもしれない。権利というものは潜在的には存在すると描写することも可能だという反論はありうる。なぜなら人は潜在的に心のどこかで権利を意識しながら生きているとも言えるのだから。

だけど実際には、潜在的にでも僕たちが意識しているのは、権利よりも義務だと言ったほうがいいように思える。たいていの場合バッグを盗まれないのは、所有権があるからではなく、泥棒(になるかもしれない人)の側に盗らない義務があるからだと言ったほうが適切なように思える。

なお、そのように義務優位の理解をしてしまうのは、泥棒は作為的であり、泥棒をしないことは不作為的だからだという反論もありえるだろう。泥棒をしないというデフォルトの不作為の状態と義務とが結びつくから、義務のほうが権利よりも表面化しているということになる。

しかしこの反論に対しては再反論ができる。例えば、待ち合わせの約束を守るといった作為的な義務がある。待ち合わせの時間に渋谷のハチ公前に行くよりも、このまま家で寝ているほうがデフォルト状態だけど、だからといって、待ち合わせを守る義務と、守らせる権利とのどちらが基本かと言えば、義務だろう。待ち合わせを守らせる権利を主張する前に、そもそも待ち合わせを守らなければならないという直感がそこにはある。つまり、作為、不作為に関わらず、義務がまずあり、権利とは、義務から反射的・派生的に生じる幻のようなものなのだ。

8 主体と客体

以上の議論の流れは少々複雑だし、ちょっと危うい不確かなところがあるように感じられるだろう。だけど、さきほど述べたとおり、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視することで、同じことをより明確に、より深く捉えることができる。やってみよう。

権利にせよ義務にせよ、主体の側にしか、それを帰することはできない。バックを盗まれた私であっても、約束の時間に合わせてベッドから起きようとしている私であっても、その私にだけ、権利や義務がある。泥棒やハチ公前で待っている友人には権利や義務はない。いや、人間なのだから泥棒や友人にも権利や義務はあると言いたくなるかもしれない。常識的にはそのとおりである。だけど、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視するならば、そのようなことは言えない。着目できるのはあくまで主体だけであり、泥棒や友人のような客体に対して何かを帰することなどできない。

非常識だと思うかもれないが、個人的な観点を徹底するならば、このような帰結となることは明確である。明らかに、客体としての誰かに権利や義務を帰することなどできず、ただ主体である私にしか権利や義務を帰することはできない。私以外の人間一般、つまり客体にまで幅広く権利や義務といったものを帰することができるように思えたのは、主客を混在化し、私を「私たち」に読み替え、人間一般の権利・義務のようなものを措定するという常識的な道を歩んでしまったからである。

常識的な道を外れることに抵抗があるかもしれない。だが、常識的な道をそのまま突き進んでも、待っているのは動物倫理学という茨の道だ。動物倫理学とは、何か大事なものを取り逃がしながら、その大事なものについて決して気づくことはできないという点で、倫理学の袋小路だと言ってもいいと僕は思う。

9 主体の権利

常識的な道から離れ、個人的な観点を徹底し、主体にしか義務や権利を帰することができないことを受け入れたとしよう。では、「権利を主体に帰する」とはどういうことだろうか。

「義務を主体に帰する」ならばよくわかる。主体としての僕には泥棒をしない義務や待ち合わせの約束を守る義務がある。それらの義務を意識的にでも無意識にでも胸に留め、僕はそのように生きている。主体である僕は言われなくとも様々な義務とともに生きている。

一方で、「権利を主体に帰する」とはどういうことか僕にはよくわからない。確かに常識的には僕にはバッグの所有権があるし、友人に約束を履行させる権利もあるだろう。だからといって僕は権利に基づき泥棒を追いかけ、約束に遅刻してきた友人を叱責しているのではないという実感がある。僕は日々の生活において、権利を使っていない。

これは自由という概念を介在させたほうが伝わりやすいかもしれない。

僕の義務は僕の自由を制限している。泥棒ではない人にむやみに追いかけないという義務に従うかどうか決定するにあたって、僕は自由ではない。僕に義務があるならば、その義務には従うべきだ。

一方で、僕の権利は僕の自由を制限しない。僕に泥棒をおいかける権利があるとしても、追いかけるかどうかは自由である。権利があっても追いかけないかもしれないし、より重要なことは、権利がなくても僕は追いかけるかもしれない。権利は僕の行動に何の影響も及ぼさない。

いや、権利や義務の有無を考慮して人間は生きている、という反論はあるかもしれない。権利がないのに人を追いかけたりしたら、警察に捕まってしまうかもしれない。そのようなリスクは考慮に値する。

だが、僕が言っていることはそういうことではない、あくまで僕は純粋に個人の視点に立っている。僕がここで想定しているのは、主体である僕が僕自身に対して課している義務であり、僕が僕自身に対して認めている権利のことである。人は自分自身に対して課した義務からは絶対に逃れることはできない。義務を履行しないことはできるが、その場合には罪悪感という罰が課される。一方で、自分自身に対して認めた権利は何らその人の行動に影響を及ぼさない。もし影響があるとしたら、それは、自分自身に対して認めた権利を超えたことをしてはいけない、という義務だからである。権利を自分自身に認めるということには何の意味もない。

以上のように考えるならば、義務と権利を同列に取り扱うことはできないことは明らかだろう。義務は主体に帰するものだが、権利はそのようにはなっていないのだ。

では権利はどこに登場するのかと言えば、客体の側である。主体である僕は約束を守るという義務を抱えているとき、その約束の相手である友人という客体に、権利という幻を見るのだ。僕がバッグを欲しがっているときでも同様だ。僕はむやみにバッグを盗らないという義務を抱えつつ、バッグを陳列している店や新品のバッグを持っている通行人に所有権という幻を見ている。重要なのは、僕はここで個人的な一方通行の議論をしているから、僕がその客体の側に立つことは不可能だということである。だからどこまでも主体である僕は権利を理解することはできない。

10 脱線1:主体の義務・言語の限界としての他者への配慮・自由

(この章は、書いてはみたものの、議論の流れとしては余計なものなので読み飛ばして結構です。)

主体である僕は権利を理解できない。だが、先ほど、泥棒をすべきでないというような義務については理解できるとした。ここでの義務とは他者への配慮と言い換えることもできるだろう。

 だけど、どこまでも主体的である僕に、義務、つまり他者への配慮の何を理解できるというのだろう。主体から客体に向かうベクトルの一方通行性を思い起こすならば、僕は客体つまり他者の側に立つことはできない。他者の側に立つことなく、他者についての何がわかるというのだろう。

 明らかに僕は、他者という、本来わかるはずがないものをなぜかわかってしまっている。これはつまり個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまることに失敗しているということである。僕は純粋であるべき議論のなかに、客体に原点性を認め、客体を原点として主体に向かう逆向きの議論を混入させてしまっている。だから他者への配慮や義務といったものに言及することが可能となってしまっている。これはつまり、先ほど、権利は幻だと述べたよりも更に根源的なレベルにおいて、義務についても本来言うことができないはずのことを言っているという問題が生じてしまっているということである。

 この問題は、明らかに、先ほどの妥協、つまり作者と読者という視点から、主体と客体という視点への移行が影響している。だから、この義務の成立の問題はかなり根源的であり、他者や言語といったものの成立と、ほぼその起源をともにしているものだと言えるだろう。「個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまる」というスローガン自体が、他者も理解可能な言語で表されているし、個人と他者という二項対立を前提としたものである。それならば、そこから他者への配慮という意味合いでの義務が導入されるのは必然だとも言えるだろう。

 そして蛇足として付け加えるならば、このような最小限の描写としての義務から、自由という概念が生まれる。ここでの自由とは、他者への配慮という意味での義務に衝突しない範囲内で確保される選択肢のことである。

 僕の見立てでは、この地点こそが倫理学における言語の限界ではないかと考えている。この地点こそが、義務・自由・他者・言語といったものが一挙に立ち上がるようなビッグバンである。ビッグバン以前を語ろうとすると、言語で言語を語るという意味での困難が生じ、言葉が空回りしてくる。

 ただし、この文章で僕が強調したいのは、主体の権利と義務のうち、義務については言語の限界の瀬戸際での議論が必要だが、権利はそうではないということである。権利については、通常の議論の道具立てのなかで、個人の視点を純化して捉えることにより、それが幻であることを明確に解き明かすことができたと僕は考えている。(よって次章以降は、この章での議論は引き継がない。)

11 主張することの問題

 ここまでで明らかになったのは、個人的に一方通行的に捉えるならば、客体には権利も義務もないということ、そして、主体には義務はあるが権利はないということだ。まとめると、つまりは主体の義務しかないということだ。

 そこから客観的に双方向的に捉えていくことで、主体の義務から反射的・派生的に客体の権利が生じ、そこから類推するようにして、主体の権利や客体の義務といったものも生じることになる。

 では、一旦このようにして常識的な義務・権利システムが構築されてしまったら、ここまで僕が行ってきた議論は全く無意味なものとなってしまうのだろうか。ここまでの僕の議論を何らかのかたちで活かすことは全くできないのだろうか。

 僕はこの義務・権利システムにはもうひとつの突破口があると思っている。

 それは「権利を主張する」という言い方のおかしさである。

 さきほど確認したように、義務・権利システムの出発点は、主体の義務にある。つまり主体である僕が「(私自身の)義務を主張する」とは言える。そこから客観化し、双方向化する過程のなかで、僕は「(客体であるあなたの)権利を認める」とも言えるだろう。なぜなら義務から反射的に創造されるものとしての権利を認めるのだから。更には、主語が僕からあなたに譲り渡されることにより、あなたは「(あなた自身の)義務を主張する」と言えるようになるし、更には、あなたは「(あなた自身から見た客体としての私の)権利を認める」とも言えるようになるだろう。このように義務と権利は世界中の人に確かに拡大していく。

 だけど着目してほしいのは、この過程のなかで生じるのは、あくまで「義務を主張する」と「権利を認める」のペアだけだという点である。そこには「義務を認める」や「権利を主張する」はない。にもかかわらず(「義務を認める」はあまり使われないので無視すると)世間では「権利を主張する」という言葉が広く用いられている。そこに何らかの誤解があるのではないだろうか。

12 ルサンチマン・内省

ニーチェだったらこの誤解を、ルサンチマンと呼ぶのかもしれない。ニーチェ的に述べるならば、弱者は、あえて権利と義務を転倒し、本来できないはずの「権利を主張する」ことを可能とし、弱者ならではの武器を発明したということになる。

 強者であれば権利を主張する必要などない。腕力に自信があるならばバッグを盗られたなら追いかけて取り返せばいいし、部下が約束の時間に遅れたなら、ただそのことを咎めればいい。だけど弱者はそうはいかない。女性が男性の強盗に抵抗することは難しい場合が多いだろうし、上司が待ち合わせに遅れても、多くの部下は異議を唱えることはできない。腕力や人脈や権力という面での強者ならばなんでもないことでも、弱者は何ら対処できず、そんなとき、弱者はおとなしくしているしかない。

 だけど弱者であっても、権利を主張することでなんとかなる場合もある。盗難を警察に届け出たり、裁判を起こしたりして、法的に救済してもらう余地はある。きっと法制度というものが「権利を主張する」制度なのだろう。または法制度に頼ることができなくても、権利を主張することで、悪いのは相手であり、力が足りなかった自分ではないと自分を慰めることはできる。

 だから「権利を主張する」に至った経緯には、やむを得ない面もある。だが忘れてはならないのは、先ほどの考察を踏まえるならば「権利を主張する」ことは端的に誤りであり、あくまで方便であり、次善の策であり、必要悪でしかないということだ。

 では、どうすればいいというのか。僕が提案するのは内省だ。内省については最近書いているので詳細は省略するが、簡単に言うと、理想的には、強者も弱者も「権利を内省する」ことでルサンチマンを経ずとも強者と弱者の間に横たわる問題は解決すると僕は考えている。権利は主張するものではなく、内省するものなのだ。

(内省については、『オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた』(http://dialogue.135.jp/2021/07/23/janaihou/)で書いています。)

13 肉食の倫理学的問題

ここまで、個人的な視点を徹底するため、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向け、主体から客体へ向かうベクトルの向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ち議論を進めることにより、どのようなことが導かれるのかを見てきた。

その帰結は、倫理学的には、客体の権利・義務や主体の権利というものは導くことはできず、主体の義務しか導くことはできないというものであった。また、そこから義務・権利システムとしていくら拡張しても「権利を主張する」ことは導けないというものであった。更に、その対応としては、現実にはルサンチマン的に「権利を主張する」ことはやむを得ないけれど、理想的な対応としては「権利を内省する」べきだと僕は考えている。

 では、そのような知見を踏まえて冒頭の問いに戻りたい。さて僕は肉食すべきなのだろうか。

ここでまず留意すべきは、この問いは主体である僕だけの極めて個人的なものだという点である。つまりこれは、一義的には、主体である僕にとっての義務の問題である。そこではまだ義務・権利システムは立ち上がっていないから、反射的に生じるだろう客体の権利や、そこから更に派生するだろう主体の権利や客体の義務といったようなものは未だ存在しない。

この地点に立ち止まり、そこから先に進まないならば、この問いに対する答えは、僕は肉食をしてもよいし、しなくてもよい、というものになるだろう。なぜなら、そこにはそれ以上の議論の材料がないからだ。そこにあるのは好みや選好とでも呼ばれるような非哲学的な材料だけである。それならば好きにすればよい、ということになる。僕は僕自身の好みに応じて肉食したりしなかったりすることになる。

このままでは議論にすらならないのでもう一歩進み、義務・権利システムを立ち上げてみよう。そこは、僕の義務だけが佇んでいるようなさきほどまでの寂しい世界ではなく、義務や権利があふれる世界であり、それはつまり、生々しい他者が存在する世界でもある。だが注意しなければならないのは、そこにはまだニーチェ的なルサンチマンはなく、だから「権利を主張する」というような事態は生じることがないという点である。そこには確かに動物の権利はある。だけどそれは、あくまで主体である僕が動物を保護する義務があると考える限りにおける反射的な権利である。だから、その権利は主張されることはない。これはつまり、動物福祉的な捉え方のことである。この段階で僕は動物福祉的な考え方を手に入れることができたということになる。

更にもう一歩進むならば、僕はついにニーチェ的なルサンチマンを手に入れ、「権利を主張する」ことを覚える。これはつまり、完全に主体と客体を同一視し、自他を同一視するということである。ここで「僕は肉食すべきか」という極めてプライベートな当初の問いは「僕たち人間一般は肉食すべきか」という問いに変貌することになる。つまりここからは、自然科学的に基づく動物倫理学の道を進むことになる。このように、自然科学的な動物倫理学に進むプロセスとニーチェ的なルサンチマンにより「権利を主張する」こととなるプロセスが完全に同時並行で進行するのは偶然の一致ではない。動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を主張するものであることは必然なのだ。

なお、先ほど僕は、ルサンチマン的に「権利を主張する」よりも、もう少し上品に「権利を内省する」ほうが望ましいということを提案した。だけどそれでも、ここまでのプロセスは大きくは変わらない。ただ、動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を内省するものへと変貌するだけである。

僕が倫理学的に考察できるのはここまでである。このような知見を活かして、僕は肉食に対してどのように向き合うべきなのだろうか。更に考えてみよう。

14 肉食の実践的問題

 ここまでの整理で、倫理学的問題は、①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域に分けて扱うことができることが明らかになった。

 さて、実践的に僕は肉食についてどうすべきなのだろうか。

まず、①完全に個人的な領域においては、僕は僕の好み・選好・直感を重視するしかないと思う。僕の肉食の問題の出発点は、工場式畜産に対する嫌悪感だ。僕が『はじめての動物倫理学』を読んでつくづく感じたのは、第二次世界大戦以降主流となっている工場式畜産には特有の倫理的問題があり、大昔からの「生きるためには殺さなければいけない」論理は通用しなくなっているということである。確かに僕たちは、生きるために仕方なく、ではなく、ただ少しでも食費を安く上げるためだけに、不必要に劣悪な環境で動物を飼育するという倫理的な罪を犯している。僕はこの直感を大事にしたい。

ただし、僕はそれ以外にも色々な直感を持っている。僕は、美味しいご飯を食べて人生を楽しく生きるべきだと思っているし、動物だけでなく人間のことも大事にすべきだと思っている。それらとうまくすり合わせるべきという直感もある。

僕はこれらの直感に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き入れることにしよう。

次に「②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域」において重要なのは、どこまで、僕が先ほどの直感を丁寧にシステム化することができるかどうかであり、僕だけではなく、世の中の人々にも適用できるようなかたちで一般化できるかだと思う。

ここで役立つのはウィリアムズの近接性の議論(『メンタリストDaiGoの話』(http://dialogue.135.jp/2021/08/14/daigo/)で書いています。)だろう。例えば、友人との待ち合わせのために歩いていたら、溺れる子供を見つけたような場合、友人との約束の時間までに待ち合わせ場所に到着する義務よりも、子供を見殺しにしないという義務のほうを優先する。ウィリアムズによれば、これは対立する二つの義務のうち、より近接性の高い義務を優先したということである。

動物と人間とのいずれかを選んで助けなければならないとき、または、動物のなかでも、飼っているネコと見たこともない家畜とのいずれかを選んで助けなければならないとき、毛が生えて温かい哺乳類と昆虫とのいずれかを選ばなければいけないとき、僕はきっと、人間を、飼っているネコを、哺乳類を選ぶだろう。それは、ウィリアムズの言う通り、自分に近いかどうかという近接性に基づく判断があるように思える。この近接性という視点だけでどこまで完璧にシステム化できるかはわからないけれど、かなり有効な戦略であることは確かだと思う。僕はこの知見に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)」と書き加えることにしよう。

最後に「③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域」において重要なのは、やはり「権利を内省する」ことだろう。ここでの内省とは要は、他者とであれ自問自答であれ、権利についてしっかりと議論することだと言い換えてもいいだろう。(議論という言葉を使うならば、「内省する」とは議論であり、ルサンチマン的な意味で「主張する」ことも議論の一種であるという点で、内省と主張との間には大差はない。ただし、内省は受容的であるのに比べて、主張は攻撃的であるという意味で、その態度だけが決定的に違う。他者との共同作業がうまくいくのは当然、受容的なほうである。その意味では、議論よりも対話のほうが好ましい表現かもしれない。)

(議論というより)対話という視点から考えるならば、ここで考慮すべき他者とは、ともに対話を深め合うことができる人間だけである。動物とは対話ができないから、動物は他者ですらない。そうすると、ともに対話をする存在である人間は尊重すべきだが、ともに対話をできない動物のことは尊重しなくていいということになる。

だが本当にそうだろうか。他者との対話は言葉でしかできないものなのだろうか。言葉が通じない他者は殺しても構わないのだろうか。そのことを考えるために動物と対話を行おうととする場面を想像してみよう。僕個人の感覚で申し訳ないけれど、僕はそのとき動物の眼差しを思い出す。動物とは言葉は通じないけれど、動物とはその眼差しで対話することができる。そんな気がする。いや、それでは十分ではないだおう。では目がない動物ならばどうなのか、とった疑問が生じた場合のことも考えて更に踏み込んで述べるならば、動物とはその全存在をかけて対話することができる。僕はそう思う。

そこで僕はToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)心を通わせることができるように思える動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き加えることにしよう。このようにして出来上がったToDoリストが今回の考察の成果だ。

大事なのは「なるべく」という言葉だ。僕にとっては、家族や友人と円滑に社会生活を営んだり、美味しいご飯を食べたりすることも大事だ。そういうときは躊躇なく、楽しく肉を食べたいと思う。そういう考え方を、最近はフレキシタリアンとか、ゆるベジとかと呼ぶらしい。長々と書いた割にありがちな結論になってしまいました。すみません。

15 脱線2:環境倫理学・想像力

 (この章は脱線なので、読まなくて結構です。)

 「なるべく」という結論になってしまうのは、きっと、倫理的には、動物のことだけでなく、色々なことを考慮する必要があるからなのだろう。動物倫理学に近いものとして『はじめての動物倫理学』でも取り上げられているのが環境倫理学だ。動物も環境の一部ではあるけれど、人間に似た存在のである動物という視点ではなく、環境を環境そのものとして考慮しようとするのが環境倫理学だ。環境倫理学によれば、動物だけでなく生態系としての環境そのものも考慮しなければならない。

 僕の気力はもう限界で、環境倫理学の考察にまで手を出すことはできないが、僕がこの本を読む限り、田上の環境倫理学批判は成立しておらず、環境倫理学にはもう少し引き出せるものがありそうだと思う。

 環境倫理学に関わることとして、その手前の問題として書き残しておきたいのは、やはり、倫理とは想像力の問題なのだなあ、という実感である。

僕は①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域を進むようにして議論を進めてきたけれど、最も重要なのは①完全に個人的な領域であり、その領域における限りでの個人的な選好や直感というべきものである。今回の話でいえば、工場式畜産に対する嫌悪感である。この嫌悪感が議論を駆動し、僕をここまで連れてきてくれた。

この嫌悪感は想像力の賜物だとも言えるだろう。僕は工場式畜産の悲惨な状況で飼育される動物のことを想像し、想像力により堅固なひとつの物語を作り上げた。この想像力を根源的な力として、倫理が駆動している。

今回、想像力は工場式畜産に対する嫌悪感を生んだけれど、きっと、想像力は、それとは全く別に、生態系の美しさ、完全さへの憧れのようなものを生むこともあるだろう。そうしたら僕は環境倫理学的な思考をするのかもしれない。なんとなく、環境倫理学に対しては、そんな可能性を感じる。想像力は色々なものを生み出す可能性を秘めている。

なお、僕の想像力は、そんなに上品なものばかりではない。例えば、僕は女性に対する征服欲のような想像力だって持っている。そんな想像力だって、非倫理的という意味での倫理を駆動する力を持っている。善いにせよ悪いにせよ生きる道筋を決めることが倫理なのだとしたら、そこで多種多様な想像力が重要な役割を果たしているのは間違いないと思う。僕は色々なことを想像し、色々な物語をつくりあげ、複数の物語に折り合いをつけ、それぞれの物語を「なるべく」尊重するようにして生きているのだろう。

メンタリストDaiGoの話

僕は時々、時事ネタを導入として自分の考察を述べることがある。時事ネタを使ってはいるけれど、それはあくまで「つかみ」に過ぎず、そこで行っている考察にはある程度の深みがあり、オリジナリティもあるという自負がある。だけどこの文章はそれほどの深みはなく、ただの時事ネタだ。

なぜそんな文章を書くのかというと、僕にとって文章を書くということは排泄行為でもあるからだ。思いついたことを書いて外に出さなければ次の思考が進まず、次の文章も書けない。だからこの文章は、書きたいことを書く準備のためにやむを得ず書くものである。

この文章を書いている2021年8月半ば、オリンピックも終わり、世間はメンタリストで有名なDaiGoの発言でちょっとした騒ぎになっている。僕はきちんとチェックしていないけれど、ホームレスの命よりネコの命のほうが大事だというような発言をしたそうだ。本当かどうかわからないけれど、北川景子と結婚したほうのDAIGOにも飛び火しているそうだ。混乱しないよう、仕方ないので問題を起こしたほうは正式にDaiGoと書くことにする。

DaiGoの問題に対する世間の評価は、ホームレス差別でとんでもないというものだ。だけど僕の見立てだとちょっと違う。その違和感を形にするために、この文章を書きたくなったのだ。

僕の理解だと、DaiGoは言うべき「真実」(念のためだけど、僕はこれを真実だと考えている訳ではないからカギカッコをつけている。)を言い損なったのだろう。彼がどこまで意識していたかどうかは別にして、僕ならば彼が言いたかったはずの「真実」を次のように言い表してみたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

② 私(DaiGo)はホームレスのことが不潔で不快だから嫌いで、ネコのことは好きだ。

③ ①・②より、私(DaiGo)は自分から遠くて嫌いなホームレスより、身近で好きなネコのほうを大切にする。

このように書いてみると、この限りではDaiGoが言っていることはそれほどおかしくはないと思う。どちらかというと、このような意見に反論することのほうが問題となる場合が多いと思う。例えば、身近な家族や友人と、異国の名前も知らない人とを等しく取り扱うべきだという主張は極端すぎるだろう。もしその主張を貫徹するならば、アフリカのすべての難民の生活レベルが向上するまで、その人やその周囲の人は難民と同レベルの生活をすべきだということになる。もしそれができないならば、常に罪悪感を持ち続けるべきということになる。また、DaiGoという個人がホームレスのことを嫌いなのはおかしいという主張をする人が仮にいたとしたなら、その人は他人の好みに首を突っ込みすぎで、余計なおせっかいだと感じる人が多いだろう。丁寧に論じれば、もしかしたら、「真実」は真実ではないということになるかもしれないけれど、なかなか困難な道筋であることは確かだろう。そのような意味で、DaiGoが述べるべきだったことは、(カギカッコ付きの)「真実」だと僕は思う。

では、DaiGoがどこで間違えてしまったのかというと、①・②・③と分けるべき主張をごっちゃにして述べてしまったというところにあるのだろう。彼は、ホームレスが嫌いだということを自分の好みではなく、すべての人に共通の当然のことだと誤解してしまった。だが実は、すべての人共通なのは、嫌いなものより好きなものを尊重するという態度なのだ。彼はそこにある区別に気づかず、人は誰もが、ホームレスという嫌われ者よりもネコのほうを尊重すべきだ、と述べてしまったということになる。

そう考えると、世間から叩かれたDaiGoが反省し、ホームレスについて勉強しようと思い立ったことも筋が通っている。彼は自分の主張のうち、②にあたる部分が間違いだったと思っているのだろう。つまり、自分がホームレスを怠惰で不潔だと思っていたのは間違いかもしれない、ホームレスになった事情を勉強すれば、ホームレスのことを忌み嫌わなくなるかもしれない。彼はそのように思ったのだろう。

 だけど僕の見立てだと、そういう話ではない。きっと人は、無条件に何かを好きだったり、何かを嫌いだったりすることからは逃れられない。仏教ならば、そのような愚かさから少しでも抜け出せるように学ぶべきであり、そのような執着から抜け出すことこそが人生の意義だと言うのだろう。だけどそれはちょっと次元が違う話で、この文章が取り扱っているような日常レベルでは、人は当然に好悪とともに生きている。

頭がいいキャラで売っているDaiGoには申し訳ないけれど、残念ながら、彼が抱えていた問題は、心がけや性格に起因するものではなく、単に論理的な問題であり、彼がきちんと思考できなかったために生じた問題なのだ。

詳しくは知らないけれど、今回の発言は、DaiGoがYou Tubeか何かで彼のファンと応答するなかで出たもののようだ。DaiGo個人の問題というよりも、きっと、誰かが誰かに一方的に知を与えるような場のあり方が、きちんと思考をすることに適していないのだろう。

最後に、彼が言うはずだった「真実」のうち1つ目を再掲しておきたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

これは、バーナード・ウィリアムズが「近接性」(『生き方について哲学は何が言えるか』pp.360-361)と呼んだものの僕なりの言い換えだ。遠くにいるホームレスの人が骨折して苦しんでいるのと、自分が飼っているネコが骨折しているのを同時に知ったなら、一定割合の人はきっと、ホームレスの人より飼っているネコのほうに駆けつけるだろう。それがネコではなくて自分の子供だったら100%の確率で子供を選ぶだろう。この「近接性」の議論はかなり説得力のあるものであり、DaiGoが述べるべき「真実」はこれだったのだろう。

だけど、僕はこの「真実」では満足できないから、その先を考えている。だけど、これ以上の「真実」はなかなか見つからない。その意味で、あくまでこれはカギカッコ付きの真実なのだ。

つまらない真理

僕がここに色々と書き連ねている動機の少なくともひとつは「未だ知られていない真理を記述したい」というものだ。

だけど、その真理は、新しくはあっても、つまらないものかもしれない。例えば、初めて「空気を吸うことが身体の維持に重要だ」ということを発見するような場合を想像してみたらいいだろう。そんなことをあえて言われなくても、全員が既に空気を吸い、身体を維持し、生きている。言葉としては知らなくても、皆がそのように実践している。つまり、このような知識は実生活には何の役にも立たない。新しくはあってもつまらない真理というものは確かにありうる。

そんな真理をあえて記述することに何の意味があるのだろうか。僕が一生を賭け、幸運にも真理を手に入れ、その真理を自慢げに書き残したならば、きっととても滑稽に見えるだろう。僕は、皆が既に知っている当たり前なことを得意げに大声で叫んで回る子供のようだろう。

確かにそうだ。僕も世の中がひっくり返るような真理を発見したいと願っている。初めて文字を発明した人や、初めて貨幣を発明した人のことを僕は知らないけれど、そういう人に僕は憧れる。僕は、この人が存在する前と後では世界が変わったと言われるような存在になりたい。せっかくなら、ADやBCといった記号付きで僕の存在を刻みつけたい。

一方で僕は全く何の役にも立たない真理を発見することにも憧れる。本当のすごいのはそういうものかもしれない。誰もが既に知っていたはずなのに、誰も言語化できていなかったことを捉えて表現する。言語化したからと言って、何の役にも立たないし、ほとんどの人にはその凄さもわからない。哲学の世界ではそういう知識(まだ真理とまでは呼べないにせよ。)がゴロゴロしている。例えば、永井均の〈私〉などはその典型例だろう。

(僕は正直、自分の哲学にだけ興味があって、学術的な意味での哲学という分野には興味がない。だけど哲学という分野にはこういう無駄だけど凄い知識がたくさんあるという点では素晴らしいと思う。)

 僕は矛盾している。僕は、生活者としては哲学的すぎるし、哲学者としては生活的すぎる。実生活なんてどうでもいいと思いつつ、実生活への意義というものにも強いこだわりがある。どうもそのあたりが、僕が大成しない理由なのかもしれないなあ。

ローカル・サイクル

山口尚の『日本哲学の最前線』を読んだ。山口は最近の日本哲学(J哲学)の潮流を不自由論という切り口で鮮やかにまとめ上げている。僕の理解では、ここでの不自由論とは、常識的な意味での自由に不自由をぶつけ、自由と不自由とをかき乱し、その撹乱の中に、より深い自由を見出そうとする議論だと言ってもいいと思う。

その撹乱のやり方は、この本に登場する6人の哲学者によって、それぞれ違う。また、撹乱自体に注力するか、それとも撹乱を手段としてその先に何を見出そうとするか、といったウェイトの置き方も違う。(多分、千葉と苫野がそれぞれの両極にいる。)だが、大ざっぱに捉えるとそのような潮流にあると言われると、確かにそんな気もしてくる。

この話と、僕が考えていることをつなげてみたい。

僕がやっていることも、この流れに位置づけられそうに思える。

僕が重視するのはある種の動性だ。自由と不自由という両極を捉えて論じるためには、その両極を媒介するようななんらかの動きが必要となるはずだ。

動性を拒否し、自由と不自由という両極を静的に論ずるためには、その両極を一挙に捉える視点が必要となる。もしそれが成功したとすると、ひとつの視点のなかに自由と不自由が含まれてしまうから、そこでの自由と不自由は両極性を失ったものとなってしまう。以上のように考えるならば、自由と不自由の両極性と静的な議論とは両立しないと言えるだろう。

僕は動性を議論に導入することによって、自由と不自由とを撹乱しようとしているとも言えるだろう。

僕から見ると、この本で紹介されている6人の哲学者も似たようなことをしているように思える。國分にとっての中動態とは静的なものではなく、そこに巻き込まれてしまうようなものであり、そこに動性がある。青山は自由の肯定と否定を一挙に成し遂げることにより、ゆらぎとでも言うべき動性を浮かび上がらせる。千葉の偶然性に動性が含まれているのは言わずもがなだろう。伊藤と古田と苫野はこの本でしか知らないから怪しいけれど、伊藤は身体をうごかしていると言えるだろうし、古田は言葉が動くのを待っているように思える。苫野の議論にも弁証法という動きがある。

僕が重視する動性を僕なりの言葉で表現すると、対話や呼吸といった言葉で表現することもできる。対話という双方向の動きとして、私(一人称)とあなた(二人称)とが接続する。呼吸という双方向の動きとして、私の身体と世界とが接続する。そんなイメージだ。

なぜ僕が対話や呼吸という言葉を使うのかというと、対話なら私とあなた、呼吸なら身体と世界という二つの対となるものを導入することができるからだ。

僕の実感として、ひとつだけの道具立てで豊かにものごとを描写することは難しい。僕は独我論者的だけど、完全な独我論、つまり「我」だけでものごとをうまく説明することはなかなかの困難だ。だけど、私とあなた、私と世界といった二元論を出発点に置くことが許されるならば、かなり容易にいろいろなものごとをうまく説明できるようになる。常識的な二元論を立ち上げることができるという点で対話や呼吸といった動性は使い勝手がよい、と言ってもいいだろう。

対話や呼吸といった動的な仕組みを使って、私とあなた、身体と世界といった複数のものごと(または地点)をまとめあげるという点を強調するならば、僕がやっていることはシステム的だと言ってもいいだろう。システムだと静的ならば動的なサイクルと言ったほうがいいかもしれない。対話ならば、私からあなたに向かうフェイズとあなたから私に向かうフェイズという2つのフェイズを含むサイクルがある。呼吸ならば私から世界に向かう(呼気という)フェイズと世界から私に向かう(吸気という)サイクルがある。そういったサイクルが何度も繰り返される。

何度もサイクルが繰り返されることで、そのサイクルの居場所としての場のようなものが成立するだろう。それこそが人間と呼ばれるものだったり、日常や実践と呼ばれるものだったりするのだと思う。そこにある現実の厚みのようなものこそが、このサイクルの場なのではないだろうか。

このような場が成立することにより、場の外側にあるものも浮き彫りになってくる。サイクルが届かないところに、人間でも日常でも実践でもないものがあることが明らかになる。きっとそれは神や(純粋な)理性や論理と言われるものだろう。なお僕はそこに言語を加えることもできると思っている。更には(ちょっと問題含みだけど)、永井的な(究極的な)私や実存といったものも加えられると思っている。

比喩的に描写するならば、神や理性を象徴するものとしての天と、(究極的な)私や実存を象徴するものとしての地の間に人間の日常の実践の領域があるという感じとなる。いわば、これは天と地の間にある僅かな人間との土地で行われているローカルな営みである。そして、先ほど述べたとおり、この人間の日常の実践とは、動的なサイクルである。そのような意味で、僕はこれをローカル・サイクルと名付ける。僕が重視する動性とは、天と地の間でささやかに行われているローカル・サイクルのことなのだ。

なぜ、ローカル・サイクルという名前にしたかというと、この本の第4章で伊藤の哲学について説明する際に、ローカル・ルールという言葉が登場したからだ。僕はこの言葉が気に入って、そこに動性を意味するサイクルという言葉を入れ込み、ローカル・サイクルとした。伊藤のローカル・ルールとは、僕のローカル・サイクルについての(ちょっと静的な)描写のことだと思う。

伊藤だけでなく、この本に登場する哲学者たちは、皆、このローカル・サイクル的な議論を繰り広げていると思う。そのように言える根拠は、彼らが皆、内側の視点からの議論を繰り広げているという点にある。彼らは、神や実存といった振り切った特別な視点を所与の出発点として議論を始めるようなことはせず、人間の日常の実践を踏まえて議論を丁寧に進めているように見える。それがローカルだということである。当然、ただ日常の実践に留まっていては話が深まらないから、形而上的な領域まで議論を動かしている。そのときに使っているのが何らかの動性だ。その動性は一度限りのものではなく、サイクルとして繰り返されることで、議論が力を持ち、形而上学的な領域にまで議論を進めることができる。だから彼らの議論はローカル・サイクル的だということになる。

だけど、そのようなやり方は、この本に登場している世代の哲学者の専売特許ではないだろう。その上の世代に位置づけられる、僕が好きな永井均や入不二基義もそのようなことをやっている。永井の議論の妙は、私の独在性という極を、あくまで内側の視点からの「ひたりつく」ような議論によりあぶり出しているという点にあり、その際に用いているのは〈私〉と《私》といったサイクルを回すという動性だとも言える。入不二の場合はもっと明確で、『現実性の問題』において円環モデルという、いわばローカル・サイクルそのものを描き出している。実は、僕がローカル・サイクルと呼ぶときに常にイメージしているのは、この入不二の円環モデルである。入不二はこの円環モデルにより、形而上学的な思索を深め、ついには神と実存を内側の視点から捉えることに成功している。つまり僕の評価だと、最も成功し最も大きなサイクルを描くことに成功しているローカル・サイクルとは、入不二の円環モデルである。ローカル・サイクルの起源は少なくとも永井と入不二に遡る。

なお、入不二や永井の議論は、外側の視点から客観的に神や実存を捉えているのではなく、あくまで内側の視点で捉えているという点が重要である。その重要さを強調するために、僕は「ローカル」サイクルと名付けていると言ってもいいだろう。決してローカルという言葉により何らかの限定や限界を強調している訳ではない。

そのように考えるならば、この本に取り上げられているような、永井や入不二の次の世代に位置する哲学者たちは、先人たちが発見し、すでに手元にあるローカル・サイクルを使って何ができるかを考えていると言ってもいいだろう。永井や入不二がローカル・サイクルの限界・地平を明らかにしたことを受け、そこから具体的に何が帰結するのかを考えていると言ってもいい。

山口の見立てでは、この本に登場する哲学者たちがやっていることは不自由論であるということが、僕の見立ての正しさを示唆していると思う。

不自由論に対比するならば、永井や入不二がやっていることは、不実存論であり不現実論だと言ってもいいだろう。または「不」論だと言ってもいいかもしれない。これらは、いわば形而上学の極北に位置づけられるような議論だと言えると思う。

それに比べて不自由論というのは、もう少し人間の日常の実践に寄ったところに位置づけられそうだ。きっと形而上学と倫理学が重なるあたりに自由は漂っているのだろう。そのようなものと格闘する思索はより倫理学的で実践的だと言ってはずだ。対比するならば、永井や入不二がローカル・サイクルのギリギリを攻め、ローカル・サイクルと格闘しているとするならば、この本の哲学者たちはローカル・サイクルに乗っかり、ローカル・サイクルの力をどれだけ引き出せるのかを試していると言ってもいいと思う。

当然、この本に登場する哲学者たちに形而上学的な思索が足りない訳ではない。その思索の方向づけにちょっとした違いがあると感じるのだ。

僕は彼らよりちょっと年配だからか、僕の好みは永井や入不二のほうにある。正直、この本に登場する哲学者たちの議論がちょっと物足りない。なんというかぶっ飛びきれていないのだ。だけど、そういうことではないのかもしれない。例えば、この本を読む限り、伊藤の魅力は、ぶっ飛んでいないというところにこそあるように思う。このあたりはちょっとわからないから、ぶっ飛んでない哲学の魅力を確かめてみたいから、まずは伊藤亜沙の『手の倫理』をポチってみようと思う。

哲学のひとつの効用 死の恐怖への処方箋

きっと多くの人がそうだと思うけど、僕も死ぬのは怖かった。死んだ後に僕はどうなっちゃうのだろう。子供の頃からそんな不安を抱えていた。だから死はなるべく先のことになるよう望んでいた。だけど、そのような意味での死への恐怖は哲学で克服された。ような気がする。と言っても、哲学で何かを理解して安心したという訳ではない。はっきり言えば、哲学によりもっとわからなくなったのだ。
僕らは誰も体験したことのない死を未知のものとして怖がっているけれど、そもそも、生というものすらよくわかっていないではないか。死とは生を失うことなのだとしたら、失うもののことを何も知らないのに、失うことを怖がるなんておかしいような気がする。更には、死のわからなさに気づいていない人はあまりいないけれど、生のわからなさに気づいていない人はかなり多いことを思い起こすならば、死のわからなさより生のわからなさのほうが根が深いとすら言える。僕がそのようなことに気づくことができたのは哲学の実践によるひとつの成果だと思う。
だからこそ僕は更に哲学することにかなりの時間を割いている。生きている間にこの生というものをしっかりと捉えきりたいと願っている。だけど残念ながら、どんなに頑張ってもそれは無理な相談だろう。生きている人間には絶対に無理なことを僕は目指しているのだ。それでも僕は無理を承知でそういうふうに生きていくしかないと決心はしている。
僕がもし痛みで苦しんだりせず、まともな精神状態で死ぬことができたなら、きっと僕は無念さとともに死ぬのだろう。もしかしたら一筋の涙でも流しながら、やっぱり僕の人生では生を捉えきることはできなかったなあ、なんて思いながら死ぬのだろう。だけど、それは明日死んでも、1年後に死んでも、10年後に死んでも全く変わることはない。いつ死ぬにせよ、僕は似たような感想とともに死んでいくことになるはずだ。
そう考えると、僕は哲学により、少なくとも早死にすることへの恐怖を克服したとも言えなくはない。まあ、早死にというほど若くもないけれど。

こんこんと湧き出る泉のような人

これは僕が僕だけのことを考えて書いたものだ。だから本質的に僕にしか意義がない話だけど、もしかしたら何か役に立つかもしれないので書き残しておくことにする。

僕は高校生の頃から、好きなタイプは「頭がいい人」だった。頭がいいといっても色々ある。学校の成績がいい人、知識がある人、機転が利く人、堂々と主張する人、大人びた人、浮世離れした人などなど。僕は高校生、大学生、社会人とその時ごとに、色んなタイプの頭がいい人を好きになってきた。また、真剣に恋をするときも、身近な人にちょっと好意を持ったようなときも、単にアイドルを気に入ったようなときも、色んな機会ごとに頭がいい人を好きになってきた。客観的には「頭がいい人」ではなくても、どこかに頭のよさを読み込んで来たように思う。(例外はあったかもしれないけど。)

今朝、職場に向かって歩きながら、ふと、昔好きだった人のことを思い出した。そしてそこから、歴代の僕が好きになった人たちに対して「頭がいい人」という表現をすることによって、僕はどんな思いを込めてきたのかな、なんて考えた。

そのとき僕の心に浮かんだのは、水がこんこんと湧き出る泉のイメージだ。僕が好きになる人は、泉のように、僕にとって未知で新鮮なものを目の前に見せつける人たちだった。僕は彼女たちに触れることで(肉体に接触するだけでなく精神的に出会うという意味も含め)僕は新しさを手に入れ、僕の人生は更新されるはずだ。僕が好きになるのは、そんな予感を感じさせる人たちだった。

僕が「頭がいい人」という言葉に込めてきたものを、近似値的にでもかなりうまく表現できているのが、この「泉」という言葉だと思う。

僕が泉のような人を好きになるのは、彼女たちが僕に無いものを持っているからであり、要は無いものねだりなのだろう。なぜなら絶対に、僕は泉のようにはなれないからだ。

思い返すと、僕も他の誰かに対して新しいものを供給できる存在になりたいと思って生きてきた気がする。「泉」なんてキーワードを思いついたのは今朝のことだけど、昔から僕は誰かにとっての泉のような存在になることを望んで生きてきたような気がする。そして多少は、僕は他の誰かにとって、そのような存在になれることもあったような気がする。

だけど、僕は僕自身にとっての泉にはなれない。僕は僕自身にとっては馴染みがありすぎる存在だ。時々は、何かを閃いたりして自分の中にある新しさに驚くこともあるけれど、すぐにそれは自分のものとなり、自分に馴染んでしまう。その仕組み上、僕は僕にとっての泉になることは決してできない。

では、僕は泉にとって何ら意味がない存在なのかといえば、そうではないだろう。泉には湧き出た水が貯まる場所が必要だ。泉に池がなければ、泉の水は消え去ってしまう。泉から湧き出た水が維持され存在し続けるためには、それを受け止める場所が必要だ。僕はきっと彼女たちにとっての池という場所になることはできる。

僕に受け止められることで、彼女の新しさは固定され、理解可能なものとなり、そして古くなる。僕はその人の新しさを陳腐化し消費するだけの存在とも言える。だけどだからこそ、その人の新しさは確かに新しいものとして存在したことになるとも言える。

そして大事な点は、泉は僕にいくら消費されても、こんこんと湧き出るというところにある。僕が彼女たちを好きになるとき、その人たちは、いつまでも僕に新しいものを供給してくれるように感じられた。幻想かもしれないけれど、そんな幻想により僕は恋におちたということなのだろう。

こんなふうに考えていたら、僕は二つのことに気づいた。第一に、昔から僕は、男性であっても、僕に新しいものを供給してくれるような人に知り合いたいと思っていて、実際に時々は知り合うこともできたということ。第二に、ただし、そのような男性は、恋愛という幻想が働かない分、極めて少ないということだ。(女性に対しては、僕の性欲を正当化するため、あえてその人を泉のように思い込むような嘘をつくこともあったように思う。)

このことから得られる教訓は、今後も、男女問わず、なるべく幻想抜きでしっかりとその人を見極めて、泉のように思える人とつきあっていくべきだということだろう。

多分、僕が「泉」に喩えたものは、他者性そのもののことなのだろう。僕は他者を好きになる。そんな当たり前のことを僕はしてきたし、今後もしていくのだろう。それはとても当たり前のことだとも言える。

自然科学について

本当はもっときちんとまとめたいけれど、まだまとめられそうにないから、とりあえず書き残しておくことにする。

 僕の哲学における目下の最重要課題は自然科学だ。疑問文で表現すると「自然科学はどうしてこんなにうまくいっているのか。」という問題だ。

 形而上学や倫理学については僕の中でそれっぽいアイディアがなんとなくまとまりつつある。そのまとまったアイディアの先に何があるのか、という問題はあるけれど、それは手元にあるアイディアを形にしないと見えてこないだろう。それは将来のお楽しみだ。

 そのような将来の問題とは別に、とりあえずのアイディアを取りまとめるなかでジグゾーパズルの最後のピースがうまくはまらない。手元にある自然科学というピースが、僕の哲学体系というジグゾーパズルにうまくはまらないという目下の大問題があるのだ。

 僕は形而上学が好きだから、まず形而上学から考えている。形而上学において僕が考えているアイディアはかなり独我論的な色彩の強いものだ。もし僕が考えていることを知ったら、きっと多くの人は観念論的だと思うだろう。(当然、普通の独我論や観念論とは全く違うものだという自負はある。)

 そしてそこから、倫理的なものを紡ぎ出すことにも成功したと考えている。独我論から他者との関わりが前提となる倫理を紡ぎ出すなんて不可能だと思うかもしれないけれど、僕はそれに成功したと考えており、僕はそこに僕のアイディアの新しさがあると思っている。(とにかく成功したということにして話を進めさせてほしい。)

 だけど、どうしてもそこから自然科学を引き出すことができないのだ。独我論的で観念論的なアイディアから自然科学を引き出せないのは当然だと思うかもしれない。確かにそうなのだけど、もう一息だという気もしている。

 僕の(形而上学的な)哲学の出発点は、とてもざっくりと言うならば、「今ここの私」にあると言っていいだろう。この出発点を従来の哲学者よりも精緻に捉えられたことが僕の成果だと考えている。そして、僕はそれと同様の精緻さで自然科学を捉える必要があると考えている。なぜならば、僕にとっての自然科学とは、僕が取り組んできた独我論的な哲学体系の真逆にあるものだからだ。自然科学とは僕の独我論的な哲学から最も遠いところにある最終到達地点だとも言える。僕の哲学はそこに到達することでとりあえずは完成することになる。

 では自然科学を精緻に捉えることを試みてみよう。それはいわば常識的な意味での自然科学を濾過し、純化する作業だとも言える。

まず常識的な意味での自然科学が成立するためには、時空・因果・観察者といった道具立てが必要だろう。水に熱を加えるとお湯になるという常識的な意味での自然科学の描写が成立するためにはガスコンロとヤカンが配置される場としての空間が必要だし、その空間が持続的に存在するという意味での時間も必要だ。そのようにして成立する時空のなかで水からお湯になるという変化も生じる。また、水からお湯に変化したのは熱を加えたからだ、という意味での因果も必要だろう。そして意外と重要となるのがそれを観察する視点だ。誰も観察をしなかったら水からお湯になるという状況が観察されることはない。このようにして自然科学を成立させるために時空・因果・観察者といったものが登場することになる。

 これを独我論的に言い換えるならば、ヤカンがガスコンロにかけられているのを僕が見るところから始まる。観察者としての僕は、ヤカンではなくお鍋をガスコンロにかけることも可能だったというような意味で空間的にその場を解釈し、更にそこに時間推移も見る。こうして僕は時空を見出す。そしてガスコンロの火とヤカンとを関係付けるようなかたちで因果的な解釈を行う。このようにして、観察者・時空・因果といったものが登場することになる。

 つまり独我論的には、僕が観察者として時空や因果を見出すからこそ自然科学がこのようなものとして成立するのであり、もし観察者がいなかったら、そこに時空や因果はなかったはずだ、ということになる。

 以上の描写は常識的な自然科学についてのものである。僕はそれには満足できない。その先には真の純粋な自然科学があるはずだ。

 そのような自然科学に対する僕のアプローチの仕方とは、僕が観察する前の世界について思いを馳せることだと言ってもいいだろう。僕によって汚染される前に世界があったはずだ。その純粋な世界とはどのようなものだったのだろうか。

 今の僕はそれをはっきりと捉えることはできないけれど、その世界のことを自然科学的世界と呼びたい。なぜなら、自然科学はなぜかこんなにも上手くいっているからだ。自然科学が成功しているのは、自然科学が観察者・時空・因果といったものを通じて立ち現れるからではないはずだ。もし自然科学の成功の原因が観察者・時空・因果にあるのだとしたら、成功の秘訣は、要は人間と世界の関係性にあるということになり、いわば自然科学の成功は人間の思い込みだということになってしまう。

 だけど僕は直感として、自然科学の正しさの源泉は人間の手が届かないところにあるように感じてしまう。僕は自然科学に詳しくないけれど、人間がどんなに探求しても、そこにはブラックホールやら素粒子やらと新たな謎があり、その謎を解き明かすことで更に次の謎が登場する。簡単でもなく、全く手が届かないでもない、ちょうどいい謎が世界には散りばめられている。そしてそれらの謎は、相互に有機的に結合し、壮大な自然科学の体系を作り上げている。それはまるで人間には決して触れることができない神の所業のようにも思える。真の自然科学的世界は、観察者・時空・因果といった道具立ての向こうにあるはずではないか。

 僕は、その、決して人間には手が届かないもの、神や世界と呼ぶべきものを僕の哲学体系のなかに位置づけたい。人間には決して手が届かないものを哲学体系に位置づけるなんて無謀だと思うかもしれないけれど、それは決して不可能だとは思っていない。なぜなら、僕の出発点は既に人間ではないからだ。僕が出発点としている「今ここの私」は、人それぞれという意味での人間ではない。いわばもう一方の神である。人間には手が届かなくても、一方の神からもう一方の神への橋渡しならば、僕にもできるかもしれない。それは単なる交通整理なのだから。

 観察者・時空・因果を超えたところにある、真の自然科学的世界とはどのようなものだろう。僕はその世界が整合性・無矛盾性を持っていることは確かだと思う。なぜなら自然科学とはそのようなものだからだ。確かに観察者・時空・因果を使った人間的な把握は、その真の世界のごく一部にしか到達していないかもしれない。だけど、その一面的な把握においても、世界は整合し無矛盾的なものとして立ち現れている。これはその世界が本来的に有する整合性・無矛盾性の一部を垣間見ているからに違いない。

 そして、きっと、その世界とは一体性・全体性も有しているのではないか、とも考えている。なぜなら、整合性・無矛盾性に満ちた世界が分割されていたり、何個もあったりすると考えることはオッカムの剃刀に反するからだ。世界は唯一であり、それが全体でもあるから、整合し無矛盾なのではないか。他にも世界の整合性・無矛盾性を説明する道筋はありえるのかもしれないが、そこには余計で不要な想定が入り込むことになりそうな気がする。

 もし、ここまで述べたことが正しかったとしたなら、そのように描写された世界と「今ここの私」はどのように関わることになるのだろうか。つまり「純粋な自然科学の世界」という神と「今ここの私」という神はどのようにして出会うのだろうか。

 僕はその地点にこそ人間があると言いたいのだけど、そう考えることは人間中心主義すぎて我田引水のような気がする。それに、せっかく純粋さを維持することを心がけて考察してきたのに、全てぶち壊しになってしまう気がする。

 僕は時々そんなことを考えている。