0 はじめに

昨夜、飼っているネコの調子が悪くなった。慌てて夜間でもやっている救急病院に連れて行ったところ、原因は不明とのことで様子見となった。診察料30000円+タクシー代6000円がかかってしまったし、なんだか寝不足だ。ネコは今のところ元気そうだけど、何かあるかもしれないとちょっとドキドキしながら見守っている。新しく買った自転車を整備して出かけようなんて思っていたけれど、そんな気になれない。ネコはそんな気持ちなど知らず、どこかに隠れてしまっている。どこにいるのだろう。

ということで、なんだかマイナスな出来事が多かったので、少しでも取り戻すため、そのなかで思いついたことを書き残しておくことにする。

(1と2はそれほど難しくない割にいいことを言っているような気がするのでどうぞ読んでください。3と4は自分の土俵に入り込んだ独りよがりな議論だから、読み飛ばしてもらったほうがいいような気がします。)

1 ネコ中心主義

昨夜、ネコのことを心配しつつ布団に入り、ネコの病気や治療法についてスマホで調べながら、ふと、こんなことを考えた。ネコを心配しているのは、ネコのためなのだろうか、自分のためなのだろうか。ネコは病気を治療してもらいたいのだろうか、僕が治療させたいだけなのだろうか。ネコの病気を治療することの価値はどこにあるのだろうか。

このような複雑に入り組んだ問題について、その問題に巻き込まれた当事者(つまり僕)が、少しでもその問題を解きほぐすためには、適切な思考実験が有効だろう。

目の前に神様が現れたとする。神様が僕に問いかける。「このネコは近いうちに、1%の確率で死んでしまう可能性がある。だが、もし私(神様)がこのネコを別の世界に連れていったなら、そこでは100%、この家で過ごすのと同じように生き続けることができる。さて、君はこのネコを手放すかい。」つまり、この神様は、このネコ自身の幸せと、僕がネコと一緒にいることによる僕の幸せを天秤にかけ、どちらかを選ばせようとしている。

1%という僅かな差であるところがミソである。これが、死んでしまう確率が50%とかなら多分、ほとんどの飼い主はネコを手放すだろう。もし、1%だとうまくなければ、5%とか0.1%とか、ちょうど、悩んでしまうような数字に置き換えてください。

昨夜、僕は布団に入りつつそんなことを考え、0.1%でも、0.01%でも、ごくわずかな差であっても、ネコと別れ、神様に託すことを選ぶのだろうなあ、と思い至った。ネコ自身の幸せを最優先に考えるということが、きっと、飼い主であるということであり、親であるということだろうからだ。無理をして理想的な飼い主や親になろうと心がけるのではない。自ずとそういう判断をするということこそが、きっと、ネコを飼うということなのだろうと思う。

そのように整理したら、少し楽になった。僕はネコの幸せだけを考え、ネコのためにできることを、ただ事実としてやればいい。ネコのことを心配して思い悩むことなんてネコは求めていない。ただ金だけ出して、動物病院に連れていき、専門家の判断に従うということだけをすればいい。ネコを心配しながら見つめる必要などなく、ただネコに異常がないかどうかを事実として観察さえすればよい。あとは楽しくネコと過ごせばいい。ネコを心配し、ネコを救うという結果に執着するということは、つまりネコと一緒に暮らすという自分に執着しているということであり、それは全くネコのためにならない。僕が確保すべきは、自分中心ではなく、ネコ中心の視点なのだ。つまりネコ中心主義である。

2 人格の触れ合い

 だけど、そこでふと考える。神様は、別の世界にネコを連れていった後、そこでどのようにして、この家にいるのと同程度に幸せにするのだろうか。きっと、神様は、そこで、この家のコピーを作り、僕や妻のロボットも作ってネコの世話をさせるのではないだろうか。だけど、偽物の家と偽物の飼い主と過ごして、ネコは本当に幸せなのだろうか。

 この疑問の根底には、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるという考え方がある。ネコだから正確には人格とニャン格の触れ合いによって幸せは生じるはずだ。そこに僕や妻という人格が確かにあるからこそ、ネコは幸せになることができる。

それでも、神様は完璧なロボットを作るのだから、そこに人格が宿るという考え方もできるかもしれない。だけど、その場合ですら、神様が人格を持っているからこそ、ロボットに人格を吹き込むことができるとも言えるだろう。つまり、ロボットの僕とは神の似姿のことであり、そこには、ニャン格と神の人格(神格?)との触れ合いが確保されているからこそ、ネコは幸せになることができる。

ややこしいので、ニャン格も神格も人格に含めるならば、やはり、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるということになる。これを幸せの法則と呼ぶことにしよう。ネコの調子が悪くなり、僕はそんなアイディアを思いつくことができた。悪いことばかりではない。

3 哲学的蛇足1:別の時点の自分自身という人格

ただし、これには反論があるだろう。人間は誰とも触れ合わず、独りであっても幸せになる道筋があるはずではないか。例えば、無人島にいても、思い出に浸ったり、無人島から脱出した未来を思い描いたりして幸せになることはできるのではないか。

僕もそれは認める。だけどそれもやはり、未来や過去の自分自身という人格との触れ合いだと言えるだろう。時空的に連続する自分自身の存在という先入観があるから見えにくくなってはいるけれど、あえて時間による断絶を強調して捉えるならば、そこにあるのは別の時点の自分との触れ合いだとも言える。だから、この場合も「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則からは逸脱していない。

(僕は、異なる二時点間での人格の触れ合いというあり方こそが、時間は連続しているけれど、時間は断絶もしている、という時間の不思議なあり方をかたちづくっていると思っている。)

4 哲学的蛇足2:内側から湧き出る幸福感

更に、たとえ無人島に独り、他の時点のことを思うことなど全くなくても(つまり過去を思い出したり、未来を思い描いたりしなくても)、きれいな景色を見たときなどには、唯一の時点で、ただ独り、幸せになることもできる、という反論があるかもしれない。この、きれいな景色を見たときの幸せは、きっと、瞑想やマインドフルネスのときに感じるとされる幸福感に似ている。ただ内側から湧き出る幸福感である。

瞑想と異なり、きれいな景色を見たときの幸せについては、景色を見るという原因と幸福感が生じるという結果、つまり因果関係があり、その点で異なるとも言える。だが、原因と結果という二つの時点を認めてしまったら唯一の時点とはならなくなってしまう。唯一の時点にこだわるならば、やはり、きれいな景色を見たときにあるのは、瞑想と同じく、ただ内側から湧き出る幸福感であるはずである。

では、この内側から湧き出る幸福感とは、先ほどの「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則の例外なのだろうか。

これに対しては、まず、内側から湧き出る幸福感と人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せという二種類の幸せがあるのだ、という対応がありうるだろう。または、更に強く、人格と人格の触れ合いによって生まれるものこそが幸せであり、内側から湧き出る幸福感は「幸せ」ではない、とする対応もありうるだろう。

僕は後者の対応をとりたい。なぜなら、独り・唯一の時点ということにとことんまでこだわるならば、そもそも、「幸せ」という言葉を用いることはできないはずだからだ。言葉というものは、別の人格か、または少なくとも、別の時点の自分自身の人格というものを措定しなければ存在することはできない。ただ独り、唯一の時点において生じた内側から湧き出る幸福感に、「内側から湧き出る幸福感」という名前をつけることはできない。それは幸せという言葉で捉えることなどできない何かである。

一方で、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せは、明確に言葉で捉えることができる。言葉で捉えることができる幸せこそが幸せと呼ぶに相応しい。

以上の考察は、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せと、瞑想によって生じる内側から湧き出る幸福感(とも呼べない何か)の間には大きな違いがあるということ以上のことを指し示しているように思える。人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せとは、つまり、言葉を用いることができるという幸せのことなのではないだろうか。僕は人と語り、ネコと語り、冒頭での思考実験のように神とも語り、この文章を読んでいるあなたとも語っている。だからこそ僕は幸せに生きている、ということなのかもしれない。