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反出生主義再考

僕は反出生主義について少し触れたことがある。(『○○をしたい』http://dialogue.135.jp/2021/10/24/shitai/ という文章を書いています。)

そこで書いたとおり、僕は、反出生主義は間違えていると思っている。だけどそれは「生命とはこの僕によく似たものである。」と考える限りにおいてである。生命のことを客観的に考え始めると、反出生主義も捨てがたいものとなる。

例えば僕は、工場式畜産に対する嫌悪感から肉食に対して疑問を持っている。家族で焼き肉を食べることもあるけれど、自分ひとりのときはなるべく肉は食べないようにしている。(『動物倫理学』http://dialogue.135.jp/2021/08/15/animal/ という文章も書いています。)なぜそうするかと言えば、劣悪な環境で飼育され、短期間で殺される動物を減らしたいからだ。僕は家畜については反出生主義である。

僕が家畜について反出生主義をとるのは、僕は神様のように家畜たちを俯瞰し、この家畜たちの苦しみを減らしたいと願うからだ。家畜たちの生命を数えられるものとして捉え、苦しむ生命の数を減らしたいと思っている。

人間についても同様で、僕はアフリカなどではもっと避妊が広まり、人口が抑制されるといいと思っている。幸せに生きる準備ができていないところで、その許容量を超えて生命が誕生することは決して喜ばしいことではない。

僕が、家畜であれ人間であれ、絶滅を目指した究極的な反出生主義をとらないのは、幸福を分け与えることができるような適度な数量が維持できるのであれば、生命の数を調整しつつ残していくほうがいい、という考えがあるからだ。僕は穏健な反出生主義者である。

だけど、それはどうも自己欺瞞のような気がする。そういう穏健な反出生主義を選ぶことで、自分自身も生命の一員であるという事実から目を逸らしているだけではないだろうか。

反出生主義が真に問いかけるのは、当事者である僕も含めた生命のあり方である。もし僕が生まれようとする家畜の子供だったり、アフリカの子供だったりしたならば、その僕が悲惨な人生をおくるのが確実なのだから、僕は生まれるべきではない。僕は無のほうがいい。反出生主義はそのように主張する。だが本当にそうなのだろうか。僕が考えるべきはこのような問題である。このような難問を穏健な妥協策で切り抜けることはできない。(以前の文章での切り抜け方は、いわば、「僕という生命と僕以外の生命とは切り離すことができ、僕に対してだけは、反出生主義は無効である。」と答えたことになる。だがこの文章では、その切り離しはできないとしたらどうだろう、と考えていることになる。)

僕はこの問いに対する答えを持っていないけれど、答えを検討するにあたって重要なのは「時間」だと思う。僕は時間論が好きで、時間について色々と考えているからか、どうしても自分の好きな分野に結びつけてしまう。

常識的には「未来はやがて過去になる」という時間観があり、その時間の流れに沿うようにして「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な生命観がある。反出生主義の主張に力を与えているのは、この常識的な時間観であり、この常識的な生命観であるとも言える。過去に生まれたから、今ここで苦しみ、そして未来においては死んでいく。そのようなあり方をしている生命ならば、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにすればよい。

けれど、僕は、時間というものを「未来はやがて過去になる」というようなかたちで単純に捉えることにはどうも無理があると思っている。確かに時間にはそのような側面もあるけれど、それだけにはとどまらないものがあると考えている。それならば、「生まれ、やがて死んでいく」という生命観にも同様に無理があるということである。だから、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにする、という反出生主義の単純な処方箋の有効性には疑問がある。

今のところ、僕はここから先の答えは持っていない。僕は「生まれ、やがて死んでいく」ことを全否定している訳ではないから、反出生主義が提起する問題は依然として深刻なものである。一方で、新たな時間論に光明を見出すこともできそうな気もする。僕が哲学的に考えていれば、いつか反出生主義を乗り越えることができるかもしれない。

そのような未来への希望を持つことも、「未来はやがて過去になる」「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な時間観・生命観からのささやかな離脱の試みであるとも言える。

『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んで

はじめに

森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んだ。色々なことを考えたので、ひとつの流れにまとめて書こうと思ったけれど、うまくまとまらないので断片的に書き残すことにする。多分僕にとっては、この本はそういう本なのだと思う。考えるきっかけとしての本ということである。

五蘊と霊

この本によると、仏教では、物質、感覚、識別、意思、認識という5つの要素を五蘊(ごうん)と呼び、これをあたかも、持続して存在する実態としての「私」であるかのように錯覚するところから、執着が起こり、苦しみが生じるとするそうだ。(p.179)だから、持続し、輪廻するのは「私」ではなく五蘊という執着である、ということになる。(pp.180-181)仏教的には常識なのだろうけれど、僕は初めて知った。

なんとなく、この話は「怖い話」に似ていると思った。僕は気分転換に怖い話をSNSで読むことがあるけれど、僕が好きなのは、死者の念のようなものがひっそりと残っているような話だ。昔の事故現場で被害者らしき霊が佇んでいるのが見えたり、親の葬式のときに物が落ちたりするような。僕は、霊魂とまでは言わないけれど、その人が生きていたときの思念の痕跡のようなものが残存することはありうる気がしている。まるで急ブレーキをかけたかのように、ある人の人生が突然の死により急に途切れてしまったとき、止まりきれず、慣性により進み続けてしまう何かがそこにあるのではないか。

ただし、それを「何か」というと、何らかの実体があるもの、残存する思念のようなものをイメージしてしまい、誤解を招くかもしれない。あくまで、その何かとは、影のようなもの、あるいは、あえて、錯覚と言ったほうがいいだろう。

五蘊という執着も、これと同じ話のような気がする。霊とは、その人が生きていたという錯覚がリプレイされ続けているようなものだとするならば、仏教によるならば、この現世そのものが錯覚だということになるのだろう。

では、そのような事態を生じさせている「何か」とはなんだろうか。何かには実体はない。錯覚である。だが錯覚を生じさせる何かがそこにはあるのだから、そこに何もないということではない。このとらえどころがない何かを僕の言葉でどのように表現すればいいのだろうか。

喩え話を用いたほうがいいかもしれない。ある人の人生をテニスボールの動きに喩えよう。そして人生を観察する第三者の視点を、テニスのラリーを観戦することに喩えよう。つまり観戦者は、誰かの人生の比喩としてのボールの動きを目で追っているということになる。そして、ラリーのなかでボールがネットにかかってしまったとしよう。つまり死である。そして観戦者はボールの行方を見失しなったとしよう。ボールを見失った観戦者は、ボールが進むはずだった方向に視線を動かし続けることもあるだろう。僕が考える何かとは、そのような視線の動きのことである。五蘊とも同視できるだろう何かとは、急にその人の人生が途切れたということを受け入れきれず、その人の人生を観察し続けようとする観察者の視線の動きのことだということになる。視線は(科学的な語用ではないけれど)慣性により動き続けたと表現したと言ってもいいかもしれない。そのような意味で、これは、慣性により生じた錯覚だということである。

重要なのは、そこで重要な役割を果たすのは、当事者であるボールやある人の人生ではなく、それを観察する第三者の視線の動きだという点だ。ここでは、ボール自身からテニスの観戦者へ、または、人生を送って死を迎えた人自身からその人生の観察者へ、という人称的なズレが生じている。当事者ではない観察者だからこそ、予測して視線を動かす必要がある。予測するから予測が外れると慣性により間違えた動きをすることもある。当事者であれば自らのことについて間違いを犯すことはない。

僕の考えでは、この一人称から三人称への人称的なズレと仏教における五蘊という執着はイコールで結ぶことができる。三人称的に自分自身を捉えざるを得ないという人間の業こそが、自分自身に対する執着、五蘊、つまり物質、感覚、識別、意思、認識を生じさせている、ということである。だから、仏教における悟りとは、このズレを逆転させ、三人称から一人称に自分を捉え直すということなのではないだろうか。

だが、この三人称から一人称への逆転は、悟りという言葉を使わなければならないくらいに困難なことだろう。きっとそれは、自らをテニスの観戦者の立場からテニスボール自身として捉え直すくらいに根源的な転回であるはずだ。だから、本来立ち返るべき、目指すべき一人称とは、きっと僕自身も含め、ほとんどの人が垣間見ることもできないものなのだろう。

(それでもあえて想像するならば、純粋な一人称と純粋な無人称は一致するはずだ。僕が学んだ哲学によれば、そういうことになる。)

実験哲学

この本によれば、ニーチェは実験哲学を行ったそうだ。

実験哲学とは、つまり、自分自身がその哲学を生きるということだ。これは世間での哲学という言葉の使い方に近いように思える。人生哲学や経営哲学というように、信条や思想を哲学と呼ぶことがある。これは、その信条や思想ともに人生を過ごしたり、経営を行ったりするということである。

僕は従来から、哲学と思想は全く違うと思っていた。違っているどころか正反対のものだとさえ言ってよい。哲学とはそのアイディアをも疑い、吟味するものだが、思想とはそのアイディアを信じ、従うということだ。だから立憲主義や共産主義という思想は共産主義を信じるものであり、立憲主義や共産主義を疑うことは許されない。

ニーチェの実験哲学という用法には、そのアイディアを信じ、実践するという意味合いが込められている。その点で僕の考えによれば、ニーチェの実験哲学は哲学ではなく思想に位置づけられるということになりそうだ。

だが、僕の判断では、ぎりぎりでニーチェの実験哲学は哲学として踏みとどまっていると言いたい。僕は思想よりも哲学を好ましいと思っているので、あえて言うならば、ニーチェの哲学はぎりぎりのところで思想への堕落から免れていると言ってもいい。なぜかといえば、ニーチェは自らの哲学を信じ、従うことを他者に押し付けていないからだ。

従来の僕は思想と哲学の違いについて、信じるか疑うかという線引きをしていたけれど、より厳密に捉えるならば、その信じたことを他者に対して主張し、押し付けるか、それとも、自分自身のなかだけで信じるか、というところで区分したほうがいいのかもしれない。

その理由はいくつか考えられる。

まず、哲学とはあらゆるものをその対象とするから、当然、何かを信じて実践することについても哲学の対象となりうる。それならば、哲学は「何かを信じて実践すること」をその内容に含んでいなければならない。つまり、哲学は「何かを信じて実践すること」から完全に離れることはできない。

もう一つの理由として、哲学において真なる知に至るやり方として、とりあえず、あるアイディアに沿って実践してみて、それが成功するかどうかで真偽を確かめるというやり方が有効である可能性があるという点がある。まさに実験である。そのような手法を認めるならば、仮にとりあえず、信じて実践するということはありうる。

他にも理由は考えられるかもしれないが、重要なのは、人様に迷惑をかけない、ということだろう。思想の押し付けは迷惑だが、自分だけがその思想を信じる分には迷惑ではない。その謙虚さが哲学と思想を分けるのだとすれば、謙虚な思想に哲学という別名を与えることはそう悪いことではないと思う。

物理主義

僕は、(永井的な)私やクオリアといった問題領域における物理主義というものにどうやったら魅力を感じられるのかがよくわからなかったけれど、この本でヨーナスの代謝型生命論(pp.334~335)を知り、こういう考え方なら物理主義に乗る人もいるかもしれない、と思った。

ヨーナスは生命が常に行っている新陳代謝に着目する。コンピュータと違って生物は、細胞レベルでは常に新陳代謝をして微小物質の入れ替わりを行っている。つまり生物とは、テセウスの船のように、その身体を構成する物質をどんどん入れ替えながら、生命としての同一性を保って生き続けている存在なのだ。つまり肉体は入れ替わっていくのに、意識は継続しているということであり、意識を生命として捉えるならば、物質レベルとは別次元で生命が存在するということである。

このことを、(永井的な)私やクオリアといった問題領域に当てはめるならば、新陳代謝という物質的な道具立てにより、生命や意識というものを物理的に捉えることができるということであり、そこに私やクオリアといった現象の発生源を位置づけることもできるということになる。つまりクオリアとは、物理的な微小物質の入れ替えにも関わらず、生命として一体性を保つことにより生じる物理的な現象であり、その一体性こそが私なのである、ということになる。

僕はそれに与しないけれど、僕の仮想敵国としての物理主義というものがどういうものかが少しはわかった気がする。

(僕は、例えば、地球や太陽や焚き火の炎も、微小物質を新陳代謝しながら一体性を維持しているけれど、それらも僕たちと同等の生命なのか、とヨーナスに反論してみたい。)

二人称的な指し示し

この本を読み、そして『まんが哲学入門』を思い出し、なんとなく、森岡の立ち位置が少しわかった気がする。森岡の単著はこの2冊しか読んでないけれど、僕なりに腑に落ちたので書き残しておくことにする。

『まんが哲学入門』で最も印象に残るコマは、哲学をまんまるくんに教える先生がこちらに向かって指差しをする場面だ。(p.167)

この場面は、ひとり存在(『生まれてこないほうが良かったのか?』では独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、ということを表現している。この箇所が(少なくとも、僕にとっての)森岡の哲学の最重要点だと思う。

この森岡のアイディアは興味深い。だけど、僕の理解では、このようなアイディアは似たようなかたちで別の哲学者が行っている。何人かの哲学者に、独在的存在者はどれか、と質問する場面を想像してみよう。(以下、不正確だけど雰囲気として、こんな感じかな、という描写となります。)カントならば、独在的存在者は、それぞれの人間としての超越論的統覚である、と答えつつ、あたりにいる人間を指差すだろう。永井均ならば、独在的存在者は「私」である、と答えつつ、自分自身を指差すだろう。入不二基義ならば、独在的存在者は「現実」である、と答えつつ、周囲を包み込むように指し示すだろう。そして、森岡正博ならば、独在的存在者は「あなた」である、と答えつつ、その質問者のことを指差すだろう。

それぞれ、やり方は違うけれど、それぞれのやり方で独在的存在者を指し示すという動作は行うことができているし、その指し示す動作ができるというところに、彼らの哲学の正しさが含まれていると僕は理解している。

更に重要なのは、いずれの指し示し方をしても、そこで話は終わらず、結局はそこから「全て」に話が波及していくという点だ。森岡の描写に従うならば、カントの超越論的統覚とはアートマンであり、ショーペンハウアーによればアートマンとは物自体である。つまりカントが指差した超越論的統覚とは、結局は、この世界の全てとも同一視できるだろう物自体とつながっている、ということになる。永井の「私」についても、この世界全ては「私」の世界であるという独在論的な世界把握につながっている。入不二は、出発地点からして「現実」という全てである。そして森岡の「あなた」もアートマンと接続するかたちで論じていることからも、物自体としての全てへの道筋に乗っていることは明らかである。指差しの仕方の違いは、単なる出発地点の違いであり、到達するところは「全て」であるという点で大きな違いはないとも言える。

以上のように考えるならば、森岡が行った、独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、という語り方は、新しくはあっても、既にいくつかある指し示し動作の新たな派生型のひとつだと理解しても、それほど間違えていないだろう。無人称のカント、一人称の永井、超人称?の入不二に加えて、二人称の森岡ということになる。

二人称と生命

この本を読むまで、正直、どうして森岡が二人称にここまでこだわるのかがわからなかった。二人称の問題というのはせいぜい、一人称と無人称の中間に位置づけられる、派生的な問題だと思っていた。だけど、森岡自身は語っていないが、彼が二人称にこだわる理由を僕なりに整理できた気がするのだ。ここからはそのことを書き残しておきたい。

 森岡の哲学は「生命の哲学」だ。僕は、森岡における生命とは何かについて興味があったのだが、この本を読んだ限り、そこに大きなひねりはなく、自然科学的に真正面から生命を定義している。つまり生命とは、何十億年前に微生物として誕生し、人間にまで進化した、この生命である。だから当然、森岡も、僕も、人間は皆生命であるということになる。正直、僕は、哲学的にはあまり面白くないなあ、と思った。

だけど、ここで、森岡が行った二人称的な指し示しを思い出してみるとパズルの最後のピースがはまったような感覚があった。独在論的存在者というような形而上学的な次元を出発地点として、このような常識的な生命像を描くためには、二人称的な指し示しが必要なのではないか。

森岡(まんまるくんの先生)は、僕を指差し、独在的存在者は「あなた」だと言う。それを受けて、僕は「独在的存在者とは、ああ、この僕のことなのか。」と思いたくなる。だけど、実はそうはならない。なぜなら、独在的存在者とは、どこまでも、この僕ではなく、「あなた」でなければならないからだ。僕は、僕自身のことを独在的存在者として指差すことは許されない。(それをしてしまったら永井の道筋となる。)僕は、独在的存在者である「あなた」として、更に別の人を指差さなければならない。そして、その指さされた誰かは、同様にまた別の人のことを指差すことになる。その誰かも、また別の誰かを・・・このようにして指差しの連鎖が生じることになる。

この連鎖が生命というアイディアと整合するように思えるのだ。なぜなら、この連鎖は、「あなた」として指差し可能な対象すべてに指差しが行われるまで続けられるからだ。その対象とはきっと、指差されることが可能な存在、つまり生命を持つものすべてと一致するだろう。つまり、この連鎖は、生命の連鎖である、ということになる。太古の昔に地球に生命が生まれてから、そして将来、生命が絶滅するまでの間のすべての生命が、「あなた」という指差しによりつながっている。森岡が描こうとした生命とはそのようなものなのではないだろうか。

このようにして描かれる形而上学的な生命の姿は、そこから生命の哲学を描き始めるためのキャンバスとしては必須のものとなるはずだ。なぜなら、そのように連鎖しているものとして描かれた生命は、平等であり、独立であり、動的であるはずだからだ。(カントの無人称は静的であるという点で、永井の一人称は不平等であるという点で、入不二の超?人称は非独立であるという点で、それぞれ常識的な生命像と折り合いが悪いような気がする。)

そして、この「あなた」の指し示しによる連鎖は、きっと、出産して子孫を残すという、この本で問題となってきたような意味での生命の連鎖とも重なり合うように思える。つまり、出産とは、「あなた」の指し示しと等しいとも言えるのではないか。反出生主義とは、この生命の連鎖に正面からNOを突きつけようとするものなのだから、森岡としては、是非とも反論しておく必要があったのだろう。

指差しの差し返しと時間

ここまでうまくまとめたような気もするけれど、少々怪しいところもある。なぜ、(永井のように)自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。また、指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。(指差しを一部で循環せず、生命全体に広げていくためには、別の人を指指ささなければならない。)

このことに答えるためには、時間論に話を広げる必要があるだろう。

僕は、ある瞬間とある瞬間の間にある時間的な断絶を深く捉えている。一瞬前の僕は今の僕とは違うし、一瞬後の僕も今の僕とは違う。瞬間ごとに僕は断絶している。僕はそう考えている。ちょっと常識とはかけ離れているけれど、過去に対しては記憶を想起するというかたちでしかアクセスできないということを考えるならば、きっとそれは揺るぎない事実である。

だけど、一方で時間は完全に断絶しているのではない。僕は一瞬前も僕であり、一瞬後も僕であるはず、なのだから。これもまた、揺るぎない事実である。

この断絶しているのに断絶していないという不思議さは、時間論における大問題なのだろうけれど、この不思議さと「あなた」という指差しの不思議さは重なり合っているように思う。「あなた」という指差しが成立するためには、私とあなたが独立していなければならないけれど、指差しが可能である程度には関係づけられていなければならない。「独立しているけれど、関係がある。」このような不思議な関係性は、人称と時間の両方で同じように生じており、その意味で、この二つを重ね合わせることは可能であるように思える。

もし、私から「あなた」へという人称的な指差しと、今から過去へという時間推移とを重ね合わせることが許されるならば、先程の二つの指差しの問題、つまり「自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。」と「指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。」という二つの問題はいずれも解決するように思える。つまり、現在の私が現在の私を指差しできないのは、そこに時間推移があるからであり、私を指さそうとしても、それは別の時点の私という「あなた」になってしまうからである。また、指差した人のことを指差し返そうとしてもできないのは、それも別の時点の「あなた」になってしまうからである。

このようにして、時間的な断絶を深く捉え、そしてそれを人称的な断絶と重ね合わせ、それでもその断絶を指差しにより連鎖させることで、繋がっているけれど独立であるという不思議な生命の存在をうまく描写できるのではないだろうか。

正直、僕は、森岡と哲学的な問題意識をあまり共有しておらず、なぜ森岡はそこにこだわるのか、と理解できないことも多いけれど、一方で、興味深く、刺激となるところも多いなあ、と思う。僕と森岡との哲学的関係も、断絶しているようで連鎖している不思議な関係なのかもしれない。

『あるようにあり、なるようになる』から『現実性の問題』へ

1 どのような視点から書かれたものなのか

入不二基義の二つの著作、『あるようにあり、なるようになる』(以下、『あるなる』)と『現実性の問題』について書こうと思う。僕は入不二のファンであり、この二つの著作については既に長文を書いている。『「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~』(以下、『あるなる』についての僕の文章)と『「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた』(以下、『現実性の問題』についての僕の文章)である。そこに更に書き足したいことを思いついたので、この文章を書くことにする。

(僕はあまり自分の文章を読み返すことはないのだけど、この文章書くのに先立ち、僕の文章をななめ読みで読み返してみた。すると、なかなかいいこと言っているところもあるじゃん、と思いつつ、何を言っているかさっぱりよくわからないところも多かった。特に『あるなる』についての僕の文章はひどかった・・・。ということで、僕の長文のほうは読まなくていいです。)

さて、僕がこの文章で問題にしたいのは、入不二の二つの著作は、どのような視点から書かれたものなのか、ということである。なぜ、そのようなことを問題にするのかといえば、議論がどのような領域において繰り広げられているかを見極めることは、その議論の正しさを評価するにあたって極めて重要なことだからだ。そして、議論の領域が正しく設定されているかどうかを見極めるためには、その議論を行っている者の視点を無視することはできないからだ。

例えば、アフリカの野生動物を保護するべきである、という文章が、象牙でできたペンで書かれていたらどこかおかしいと感じるし、男女平等参画社会を目指す会議が男性ばかりで構成されていたら説得力がない。懐疑論に対する最も力強い批判は、懐疑論者が懐疑論を確かなものとして主張するということに対するものであろう。つまり、お前はどのような立場から言っているのか、という批判である。

議論の領域は、その議論を行っている者の視点も考慮のうえ、設定されなければならない。

2 『あるなる』における中間という内側の視点

『あるなる』については、どのような視点から描かれているかという問題に対する答えは明確である。『あるなる』は、どこまでも「内側」から描かれたものであると言っていいだろう。

なぜなら『あるなる』は中間についての話であるからだ。中間とは、現実と言語の中間であり、時間的には連続と断絶(時間原理Ⅰと時間原理Ⅱ)の中間である。(ここから先、注意すべき点としては、『あるなる』における現実性は『現実性の問題』における現実性とは異なるということがある。『あるなる』の現実性とは、ざっくりと対比するならば、『現実性の問題』における潜在性に近いと考えてよいだろう。)

中間であるとは、つまり両極にはみ出ることなく、その内側に留まるという意味がある。当然、入不二の極限まで突き詰められた議論においては、内側や留まるという言葉すら常識から離れているが、それでも、内側という言葉をうまく当てはめることはできる。

一応、『あるなる』の議論が、中間という内側の視点から描かれたものである、ということについて、僕なりに『あるなる』の内容に即して示したい。

入不二の区分とは異なるが、僕の理解では、『あるなる』は大きく3つの部分に分けることができる。①プロローグ「概念を動かしてみる」、②第1章~第24章「反復する〈中間〉」、③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」という区分である。

『あるなる』とは①プロローグにあるとおり「概念を動かしてみる」話である。当然、その動かされる概念とは「運命」という概念である。そして、②第1章から第24章までを通じて入不二が行ってきたことは、入不二自身が「論理的運命論をめぐる私の考察は、運命論の重心を移動させ、内側から書き換えるような思考であった。」(あるなるp.305)と述べているとおり、その実践の記録である。

僕はこの、概念を動かすという姿勢のなかに内部性を読み取る。僕のイメージでは、概念を動かすとは、子供が粘土遊びをするように、概念をこねたり丸めたりするような作業である。あくまで粘土という素材だけを用いて、その素材が持っているポテンシャルを最大限まで引き出そうとするような作業だと言っていいだろう。粘土という素材から離れていないという意味で、この作業は内側からの作業と呼ぶことができる。一方で、例えば、子供のブロック遊びは外側の作業であると言えるだろう。おもちゃ箱という外側から、どんどん足りない部品を持ってきて付け加えることで、例えばロボットを作り上げる。

入不二の作業はブロック遊びとは異なる。あくまで、既存の運命論という素材だけをこねたり丸めたりすることで、入不二独自の運命論を作り上げるものであり、まさに「運命論の重心を移動させ、内側から書き換えるような」ものであった。なぜ、内側にこだわるのかといえば、哲学においては、おもちゃ箱という外側などないからだ。運命というような極めて大きな問題を相手にするならば、運命の外側から何かを持ち込むということには極めて慎重にならなければならない。

ここで、②第1章~第24章「反復する〈中間〉」において、どのように中間という内側の視点からの議論が行われてきたかを簡単にまとめておこう。

『あるなる』についての僕の文章における僕の理解では、中間とは、ベタとスカの中間であった。ベタのほうには絶対現実(繰り返すが『現実性の問題』の現実とは少し違う)とも同一視できる想起阻却過去とベタな(連続する)時間推移が割り振られており、スカには言語(による分割)とケセラセラの(断絶した)未来とが割り振られている。これは入不二が述べていることに僕独自の考えを付け加えたものだ。入不二は明確に、現実と言語の対比、連続と断絶(時間原理Ⅰと時間原理Ⅱ)を対比している。僕はそれに加え、過去と未来とを対比し、現実・連続(時間原理Ⅰ)・過去というセット(ベタ)と、言語・断絶(時間原理Ⅱ)・未来というセット(スカ)をつくりあげたということにある。そのうえで、両者の間に〈中間〉を見いだしたということになる。この〈中間〉についてしつこいほどに述べている第24章は『あるなる』のひとつのクライマックスだと言ってよいだろう。

僕の理解では、②第24章までで描かれたものは、大きな川のうねりのようなものである。僕はベタとスカという対比で入不二の議論を理解したけれど、そのうち、現実・連続(時間原理Ⅰ)・過去というベタのセットで描かれたものは、『現実性の問題』の用語も用いるならば、遍在的なマテリアルである。それは巨大でそこに全てが含まれていると言ってもいいけれど、そこには動きだけがない。そこに動性を持ち込むのが、言語・断絶(時間原理Ⅱ)・未来というスカのセットである。ベタにスカが加わることにより、遍在的なマテリアルがうねり動き出すことになる。

だが、そこで終わらないというところに『あるなる』の魅力がある。③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」において、更にその先が描かれるのだ。そこで行われることは、遍在的なマテリアルのうねりが持つ力強さを竜に喩えるならば、その竜に目を描くことである。画竜点睛である。(僕がここで竜を持ち出しているのは、本文では明言しないけれど、『現実性の問題』における野生の猛獣の力の議論と関係を持たせたいからである。)

目ということを、より正確に述べるならば、そこで描かれるのは筆者入不二基義の立ち位置であり、僕の哲学的な問題意識に引き寄せるならば、それは、「今ここの私」という特異点の場所である。

『あるなる』の最終章において入不二は、「今ここの私」という特異点の居場所は、運命論の内側にしかないということを明確にする。入不二の運命論における最深部の運命とは、「今ここの私」はどこまでも中間から逃れることは出来ず、その居場所は運命論の内側にしかありえないという運命のことだったのである。

このような描写をすると、入不二の議論が運命に囚えられた、閉塞感のあるようなものとして受け止められてしまうかもしれない。しかしそうではない。確かに、第24章までの『あるなる』の議論は、緻密に、執拗に、どこまでも中間に立ち戻るようなかたちで進められる。だから閉塞感とまでは言わなくても、そこには緊張感が常にただよっている。

しかし、第25章に至り、その緊張感が一気に解放される。そこにあるのはケセラセラの未来にも似た、まさに「あるようにあり、なるようになる」という解放感である。僕は第25章における「ビッグウェーブに乗る」という比喩が好きなのだけど、そこにあるのは、アメリカ西海岸のサーファーのような?解放感である。

もし、③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」がなければ、入不二の運命論とは、竜のうねりのようなものであり、僕たちは、そのうねりに巻き込まれ、翻弄されるだけだっただろう。僕たちは竜に囚えられた悲しい犠牲者である。だが、入不二はその竜に目を描き、その竜の力を我が物にすることに成功したのだ。当然、それは竜を使いこなすこととは違う。竜というビッグウェーブにサーフボードで乗り、拮抗するというかたちで、その力と、一時的にせよ一体化することに成功したということである。

当然、入不二は、レスリングはしてもサーフィンはそこまで上手ではないだろう。入不二のサーフボードとはきっと、マックブックか何かであり、つまり、入不二にとっては、この『あるなる』という文章を書くという実践こそが、ビッグウェーブに乗るということであったのだろう。

僕の理解では、この『あるなる』という本は、特異点としての入不二自身が運命論に関する考察を行うという運命についての、その運命の内側から描かれた記録である。そのような意味で『あるなる』は、この『あるなる』という本の内側から描かれ、入不二自身の運命の内側から描かれたものである。そのような意味で『あるなる』はどこまでも内側から書かれた本なのである。

3 コペルニクス的転回

そして入不二は、『あるなる』という本を経て、『現実性の問題』を書いた。僕は以前、『現実性の問題』について『あるなる』と対比して、このようなことを書いている。

この点で、「あるなる」とこの本を比較すると面白い。前者は、自己抑制的に、いわば緊張的な筆致で運命論に絞って描写することを通じて、最終章のサーフィンにつながるような自由を描いていた。後者は、いわば好き勝手に自由に主題を行き来しながら、円環モデルやn位一体と表現されるような緊張的な構造を描いている。ここには自由と緊張の交差関係を見いだせるように思う。

この文章を書いたときの僕の理解では、『現実性の問題』は、『あるなる』においてはあれほどこだわっていた中間・内側という制約からいきなり離れ、神のような視点に立つところから議論が始まっている。神のように俯瞰した視点に立つことができるからこそ、円環モデルのような構造を描き出すことができるということである。入不二の二つの文章を対比するならば、『あるなる』においては、中間・内側という人間の視点にどこまでもとどまりながら、そこで概念を動かすという作業を通じて、ビッグウェーブに乗るというかたちで神を垣間見ることに成功した。一方で、『現実性の問題』においては、神の視点に立ち、そこで円環モデルという構造を描くという作業を通じて、円環モデルを経巡る人間という存在を描くことに成功したことになる。

だから、この対比は、概念を動かすという作業と、(円環モデルのような)構造を描くという作業との対比でもある。『あるなる』の議論においては、論理を用いて概念を動かすという地道な作業の積み上げにこそ、その議論の正しさの源泉があったが、『現実性の問題』の議論の正しさは、円環モデルのような議論の構造の美しさに由来する部分が大きい。円環モデルには円という図形の美しさがあるし、あとがきでのActu-Re-alityの考察についても、複雑なパズルをいとも簡単に解いたような美しさと快感がある。

このようなものとしての『あるなる』と『現実性の問題』の関係を、僕は、自由と緊張の交差関係と呼んだが、僕は、これは内側から外側への転向、または人間から神への転向であり、その転向を正当なものとして支えているのは、入不二が暗黙裡に行ったコペルニクス的転回だと思っていた。

入不二は、『あるなる』で行き着くところまで行ってしまった。そして、そこから先に歩みを進めるために、視点を切り変え、『あるなる』で行ったような議論を支えるためには、どのような構造が必要なのかということを考えたのではないか。(と僕は推測した。)つまり「ある主張が成立するのか。」を問題とするのではなく「ある主張が成立するための必要条件は何なのか。」を自らの問題に据えたということである。(と僕は推測した。以下、省略。)

当然、入不二自身が考察しようとしたのは、『あるなる』で描写したようなビッグウェーブや大河の流れや竜のうねりに喩えられるようなものがある、ということについてである。

だから、当然『現実性の問題』においては、『あるなる』におけるビッグウェーブ(または大河の流れ、または竜のうねり)とは何なのか、ということが問題となる。ビッグウェーブというものを正確に把握することが、ビッグウェーブに乗るという主張が成立するための条件を探るためには必要不可欠だからだ。

その答えとして、入不二は円環モデルを描いたのだ。(正確には波及と還流モデル(p.234)を描いたのだ。)つまり、円環モデルとは、ビッグウェーブのあり方を描いたものであり、ビッグウェーブとは、経巡る円環の一場面を描写したものであるということになる。

つまり、ビッグウェーブを成立させるためには、円環モデルのようなものを想定することが必要条件なのである。僕はこのように、入不二は、『あるなる』と『現実性の問題』の間に、コペルニクス的転回とでもいうべきものを成し遂げたのだと考えていた。

4 『あるなる』と『現実性の問題』の関係

そのような僕の捉え方は、後ほど否定することになるけれど、ある程度は成功しているように思える。

円環モデルにおいて、もっとも重要な区分は、円環モデル自体と、円環モデルに対して三次元的に描かれる矢印との間にある区分である。最近の入不二の用語では、現実性1~4と現実性0の間にある区分であり、『現実性の問題』の用語を用いるならば事実性・様相・潜在性とも描写される現実と、力としての現実の間にある区分である。

『あるなる』と比較しての『現実性の問題』の最も大きな成果は、この現実性0、力としての現実を抽出することに成功したところにある。だから『あるなる』と『現実性の問題』を見通しよく対比するためには、この新規要素である力としての現実を無視すると、ある程度うまくいく。

円環モデルから力という要素を捨象すると、そこには、潜在性と事実性の対比を見出すことができるだろう。これは、『あるなる』において僕が見いだした、ベタとスカの対比と同列のものである。

ベースにはベタの潜在性がある。『あるなる』ではそれを絶対現実と呼んでいたし、時間の連続性を強調した時間原理1も含まれる。僕ならば更に想起阻却過去をそこに加えたい。

そこからスカが対比される。スカとは特定のものごとPであり、そこにある可能性・偶然性という様相であり、『あるなる』ならば言語による分節化であり、時制区分を強調した時間原理Ⅱのことである。僕ならば更にケセラセラの未来をそこに加えたい。

ただし、スカは不徹底なものにならざるを得ないから、いずれの例もスカそのものではない。それぞれがそれぞれの程度までベタを含んだスカである。だからこそ、円環モデルにおいては、スカは徹底されず、いずれ半円の右側の事実性の領域から左側の半円の潜在性の領域に転回し、回収されることになる。

これらの例のなかで最もスカ性が高いのは言語とケセラセラの未来だろう。ただし、言語は、複数の人間が共有する(または個人が通時的に理解できる)公的言語である限り、共有という連続性、ベタ性が含まれてしまっている。また、ケセラセラの未来についても、それが未来として差し示されてしまっている限り、指し示す現在と連続し、そこに連続性、ベタ性が含まれてしまっている。

なお、ベタについても同様に、ベタを指し示すと、そこに個別性としてのスカ性が混入してしまうという困難があるのだけれど、その困難を乗り越え、ベタのベタ性を余すことなく指し示すことができたというのは、『あるなる』と『現実性の問題』に共通する、入不二の成果だと思う。

指し示しの困難の問題はともかくとして、このようにして『あるなる』と『現実性の問題』は接続することができる。だから、『あるなる』のビッグウェーブと『現実性の問題』の円環モデルとが接続しているという僕の考えも、そう間違えていないと思う。

5 『現実性の問題』の神の視点の現実への取り込み

先ほど僕は、入不二は『あるなる』から『現実性の問題』にコペルニクス的転回を行った、とした。もしそうだとしたら、その転回は成功しているのだろうか。

ある一面では明らかに成功していると言えるだろう。なぜなら、円環モデルというような美しい構造を描き出すことに成功したのだから。だが、そのような構造を描くことができるような俯瞰した神の視点に立つことがなぜできるのだろうか。入不二の(入不二が行ったと僕が勝手に思っている)「ある主張が成立するのか。」から「ある主張が成立するための必要条件は何なのか。」へのコペルニクス的転回は本当に成功しているのだろうか。

この転回は、ある種の撤退だとも言えるだろう。カントにせよ入不二にせよ、本当に知りたいことを本当に知りたいようなかたちで問うことを諦め、その代用品のような問いで満足するということは撤退であり、問いの劣化である。もし、本当に知りたいことを、人生を賭けて問い続けることを哲学的人生と呼ぶならば、人生の劣化と言ってもよい。

同じことを、不誠実という言葉を使って表現することもできるだろう。俯瞰した超越的な視点を設定するということは、その視点だけはその視点から描かれる議論の圏域に囚われていないということを意味する。例えばカントの議論ならば、カントの超越論的な視点は、カントの超越論的な議論領域からはみ出てしまっているように思える。(その問題を指摘しているのが永井均の独在論であるとも言えるだろう。)このような特権的なものごとをこっそりと密輸入するのは不誠実と言っていいだろう。

だが、一方で、入不二に限っては撤退などしていないし、不誠実でもないとも言える。なぜなら、入不二の議論には遍在的な力という現実性があるからだ。入不二の現実性の力は、その遍在性により、入不二が設定した俯瞰した神の視点をも覆い尽くす。入不二の議論は、その始発点において、特権的な神の視点を設定し、そこから俯瞰するように議論を始動しながらも、そこから遂行的に、自らの視点をも遍在的な現実の力で取り込んでしまうのだ。それは例えば「入不二は、現実性の圏域を離れた神の視点に立っている。」という文にも、「〈現に〉入不二は、現実性の圏域を離れた神の視点に立っている。」というかたちで「現に」を付加できることにも現れている。つまり入不二は、神の視点に立ちながら、それが撤退や劣化や不誠実ではなくするという芸当を遂行的に行っているということなのである。

ここで述べたことは、そのまま、円環モデルで描き直すことができるだろう。「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つ」が任意の出来事Pである。そこから出来事Pは「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つことができていない」というPの否定を生み、そこから様々な可能性が生じる。更に、潜在性の領域への転回を経て、「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つ」という出来事は潜在的なマテリアルの大きな流れに取り込まれる。これがつまり、自らの視点をも現実の遍在性の力で取り込んでしまうということである。入不二の議論を入不二の議論自体にメタ的に適用することにより、入不二の議論は、撤退や不誠実といった追及から逃れ、遂行的に自らを正当化するのだ。

6 やや脱線:力としての現実と潜在性としての現実の関係

この文章での本筋から脱線するけれど、ここで、『現実性の問題』における力としての現実と潜在性としての現実の関係について考えてみたい。

入不二の描写では、明らかに力としての現実が最優位であり、全てを支配し、その力により、潜在性としての現実も生じているとさえ言っていいと思う。それが言い過ぎでも、少なくとも、潜在性としての現実よりも力としての現実が優位であるということまでは言っていいだろう。

だが、ここまで述べてきた限りでは、力としての現実と、潜在性としての現実とは互角だと言ってもいいのではないだろうか。なぜなら、現実の遍在性は現実の潜在性に由来しているとも言えそうだからである。

円環モデルの転回点において潜在性の領域が立ち上がるのは、可能性が飽和し、事実化していない可能性で埋め尽くされるからである。そのとき、事実化してい〈ない〉ところにも、現実は〈ある〉と気づくということが潜在性の発見であると言えるだろう。この、「ないところにもある」ことこそが現実の遍在性とするならば、あえて力としての現実に遍在性を持たせなくても、潜在性としての現実に遍在性を持たせれば用は足りるようのではないだろうか。

少なくとも、入不二が行ったように、円環モデルに三次元で差し込む力のようなものとして、力としての現実を描くならば、それでよいように思える。

円環モデルをはみ出た三次元の領域とは、つまり、潜在性すらも及ばない、無の領域のことであり、力としての現実は、そのような無の領域すらも貫く力であるところに、この描写の要点はあると言えるだろう。

だが、「ないところにもある」という潜在性が持つ遍在性は、そのような無の領域にすら及ぶはずである。潜在性は、円環モデルを横溢し、三次元の無の領域にまで及び、力としての現実の純粋な描写をどこまでも阻害するのだ。

それならば、力としての現実と潜在性としての現実が重複するところに見いだされる遍在性を、潜在性としての現実の側に帰さず、あえて力としての現実の特徴とすることには根拠はないと言えるだろう。

それならば、潜在性としての現実がマテリアルとしての遍在性を供給し、力としての現実がその動性を供給するというかたちで、両者は並立し、相補的なあり方をしていると言うこともできるのではないか。更に言えば、マテリアルとしての潜在性のなかに動性をも取り込んでしまえば、力としての現実を抜きにして、潜在性一本で全てを説明できてしまう余地もあるように思える。(実際、『あるなる』はそのような方向の議論であったように思える。)

7 遂行性による解放

だが、そのように論じておいてなんだけど、僕はそれを否定したい。

なぜなら、それでは面白くないからだ。現実性の遍在的な力というアイディアにはワクワクするものがある。それを活かせないのはつまらない。

また、一つ前に行った、入不二の議論を入不二の議論自体にメタ的に適用することにより、神の俯瞰した視点に立つという議論を正当化するという議論も、僕は否定したい。なぜなら、やはりそれでは面白くないからだ。

この二つの僕の議論に共通するのは、その閉鎖性、閉塞感である。一方で、入不二の議論は遂行的な正当化などといった迂回を経ずとも、現にワクワクして正しいもののように思えるし、現実性の力は、潜在性が持つ遍在性の下支えなどなくても、現に生き生きと遍在性を獲得しているように感じる。そこには、あっけらかんとした解放感がある。僕の議論は、その解放感を拾いきれていない。

『現実性の問題』における入不二の議論が持つ解放感という魅力を掴み取るためには、一度、『あるなる』のビッグウェーブに乗るところまで戻らなければならないのではないだろうか。そこには、僕が入不二の文章に感じる魅力が詰まっているように思えるからだ。

僕は、『あるなる』から『現実性の問題』に至るにあたって、入不二のなかにコペルニクス的転回があったと考えた。それは、内側の人間の視点から外側の神の視点への転回でもあり、緊張した議論の先に自由(解放)を見出すという『あるなる』の議論スタイルから、自由な議論の先に緊張した構造を見出すという『現実性の問題』の議論スタイルへの転回でもあった。

しかし、入不二は転回などしなかったのではないだろうか。入不二は、ビッグウェーブに乗るということの続きを、ただ『現実性の問題』でやっただけなのではないだろうか。

もしそうだとしたら、入不二は『現実性の問題』においても、俯瞰した神の視点になど立たず、内側の視点に立ち続けたということになる。内側から、ただ遂行的に、このような壮大な構造を描ききったということになる。

だが、もしそうだとするならば、やはり疑問が立ち上がる。『現実性の問題』の正しさは、何に由来しているのだろうか。

『あるなる』であれば、その答えは明らかである。『あるなる』の正しさは論理の正しさである。『あるなる』における入不二の運命論は、ほぼ論理的運命論と言い換えることができるものである。『あるなる』において入不二は、概念を動かし、論理のぎりぎりのところで、論理だけに従うならばどのようになるかという論理の運命とでもいうべきものを見いだしたのだ。

そうだとするならば、『あるなる』の先を描いた『現実性の問題』の正しさは論理的な正しさではない。なぜなら、論理的な正しさは『あるなる』で出し尽くしているからだ。

僕は先ほど、『現実性の問題』の正しさは、円環モデルのような構造の美しさに由来すると言った。だが、もしそれだけだとするならば、入不二が自由に描いた構造が偶然にも円という美しさを持っていたということになり、そこに正しさが由来する、とするのは心もとない。

そのうえで僕は、『現実性の問題』の正しさとは、遂行的な正しさであると言いたい。入不二はビッグウェーブに乗ることは、生と死の〈中間〉にある享楽であると言っている。また、「あるなる」のタイトルについて入不二は、そこに諦めと執拗・楽観があると言っている。入不二のこの『現実性の問題』という文章の正しさは、それが入不二の人生を賭けて行う享楽であり、そこに諦めと執拗・楽観があるというところにこそ、由来するのではないだろうか。

また、そう考えると『現実性の問題』という文章は、諦めと執拗・楽観の〈中間〉にあり、生と死の〈中間〉にあるという点で、内側の視点が確保されているのは確かであるように思える。

この『現実性の問題』において見いだされた内側の視点からの享楽としての正しさのことを、僕は遂行的な正しさと呼びたい。実は僕はこのような正しさを持ち出すことに躊躇している。だけど、今のところそうとしか考えられないし、もしそうだとしたら、入不二は『現実性の問題』を通じて、全く新しい語り方をも手に入れたということになる。

そのように考えることができるとするならば、現実性の力というものについての理解も深まってくる。この現実性の力は、明らかに、この内側の視点からの享楽としての遂行的な正しさに由来している。現実性の力とは、入不二の内側からの遂行的なものであるからこそ、入不二の議論のすべてに遍在している。また、その現実性の力という動性は、遂行という動性に由来している。生と死を賭けた享楽だからこそ、その力にはあっけらかんとした肯定性が含まれている、ということになる。

更に付け加えるならば、この遂行的な正しさは、読者の僕としての遂行性にも由来しているだろう。現実性の力とは、僕の『現実性の問題』という本の読書体験を通じた内側からの遂行的なものであるからこそ、この『現実性の問題』という本のすべてに遍在している。また、その現実性の力という動性は、僕の読書の遂行という動性に由来している。そして、僕の入不二の哲学の読解が、生と死を賭けた享楽だからこそ、その力にはあっけらかんとした肯定性が含まれている、ということになる。

ここまで言ってしまうと大げさかもしれないので、もう少し同意が得られそうな範囲で言い直しておきたい。僕は、この『現実性の問題』に書かれていることの新しさにワクワクした。この新しさこそが、現実性の力の動性なのではないだろうか。そして、人生においては常に新しいものに出会うという意味での新しさの遍在性こそが、現実性の力の遍在性なのではないだろうか。

ただし、そのような新しさも、語られた途端、古いものとなってしまう。そうすると、それは、マテリアルとしての潜在性としての現実と見分けがつかなくなってしまう。油断すると、僕がコペルニクス転回として論じてきたような誤った道筋へと入り込んでしまうことになる。これは新しい未来を古い過去に取り違えてしまうということである。

入不二はきっと同意しないけれど、僕はそのような意味で、現実性の問題は、過去と未来という時制区分と繋がっていると思っている。