月別アーカイブ: 2022年4月

議論の頑健さ

※2500字くらいです。考えていることの断片です。

色々と書いている断片のうち、切り離して完結させておいておいたほうがよさそうなことを保存しておく。

これは、僕という懐疑論者が、なぜ入不二基義の現実性の議論に魅力を感じるのかについての文章である。

1 入不二の現実論の頑健さ

懐疑論者である僕にとっての入不二の哲学の魅力の一つは、その頑健さである。入不二の議論は驚くような頑健さを持っているように思えるのだ。まずはその頑健さについて述べることにする。

入不二の現実論によれば、現実性は遍在している。その遍在性は「現に」という副詞はどのような文にも付加できるということに象徴的に示されている。「現に」僕はパソコンで文章を書いているし、「現に」ウクライナでは戦争が起こっている。日常は「現に」現実である。入不二が強調する現実の遍在性は、そのようにして日々の生活の中から掬い取ることができる。入不二の現実性の議論とは、誰もが共有できるような、極めて当たり前の日常の実感から理解できるものなのである。入不二の文章を読む限り、入不二自身も、そのような経路で遍在する現実性を理解することを読者に期待しているように思える。

だが一方で、現実の遍在性は、あえて日常の実感に基づく常識的な理解の経路にこだわる必要はないという点にも注意しておくべきである。現実の遍在性は、日常から離れ、特殊な状況を想定してみても同じことである。たとえ僕が水槽の中の脳みそであったとしても、また、この世界が5分前に創造されたとしても、入不二の現実論は全く影響を受けず、全く揺らぐところがない。なぜなら、「現に」僕は水槽の中の脳みそであり、「現に」5分前に世界は創造されたのだから。それがどんなに特殊な状況でも、それは「現に」現実なのである。入不二の現実性は、日常でも、日常から遠く離れた思考実験的な状況設定でも全く揺らぐことはない。現実性は状況設定に全く影響を受けない。

僕が考える入不二の現実論の頑健さとはこのことであり、入不二の議論の魅力のひとつはここにあると僕は思う。

2 懐疑論

なぜ懐疑論者である僕にとって入不二の現実論の頑健さが魅力的なのか、少し描写しておこう。

他の懐疑論者がどういう動機で懐疑論者になるのかは知らないけれど、僕の懐疑は単なる思考実験上の産物ではなく、本当にそんな懐疑に包み込まれたような、何らかの実感を伴ったものである。つまり、本当に水槽の中の脳みそかもしれない、本当に5分前の世界と今の世界は断絶しているのかもしれない、と思ってしまうときがあるということである。(実は、僕の懐疑はちょっと違うのだけど、わかりやすい例として、そういう懐疑だということにしておいてほしい。)

当然いつもではないけれど、時々、本当にそんな気持ちになるときがあるのだ。そんなとき、僕は、何もかもを失い、底なし沼にはまったような気分になる。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく無力感に襲われる。こんな気持ちを論理でどうにかしたい、というのが僕の哲学を始めた動機のひとつである。

同じようなことを考えたことがある人ならば以上の説明だけで伝わるだろうけれど、これでわかってくれる人は少ないだろうから、別の伝え方を考えた方がいいかもしれない。それは、死んだらどうなるのだろう、と想像するときの不穏な感じを思い浮かべてもらえればいいかもしれない。多くの人は死後が全くわからないことに対する不安を感じるのではないだろうか。たいていのひとは地獄も天国も信じていないだろうから、なんとなく死後は無だと思っているだろうけれど、そもそも、その無というものがどういうものかはさっぱりわからない。わからないから不安になる。僕が懐疑により感じる不安とは、この死後に向けた不安が拡大し、死ぬ前の世界も覆い尽くすような不安だと想像してもらえればいいかもしれない。

入不二の現実論は、そんな僕にひとつの足がかりを与えてくれる。もし、全てが疑わしいとしても、それは「現に」疑わしいのだ。僕の手元には「現に」という手がかりだけはある。そのように考えることで、「本当は」水槽の中の脳みそかもしれない、僕は底なし沼にはまっている、という残酷な現実が180度反転し、「現に」水槽の中の脳みそかもしれない、「現に」僕は底なし沼にはまっている、という救いの言葉に転換する。そう思うことで、とにかく僕は現実とのつながりを確認し、安堵できる。懐疑論者にとっては、入不二の議論の頑健さは救いとなりうる。

わかりにくいかもしれないので、引き続き死後の世界の比喩を用いるならば、「現に」死後の世界はあるのだし、もし、死後の世界がないのだとしたら、「現に」死後の世界はないといとも言える。現実性の力は、死後の世界にすら及んでいる。よって、確かに死後の世界はわからないが、現実性によってアクセス可能な程度にしかわからなくはない、とも言うことができる。僕たちは入不二の現実論によって、わからなさを飼いならすことができる。

入不二は、現実性の力を光に喩えるけれど、その点で、懐疑論者にとっては、現実性の議論とは救いの光であると言えるかもしれない。

以上が入不二の現実論の頑健さであり、僕にとっての入不二の現実論の魅力である。言い換えるならば、入不二の現実論の魅力は、僕のような懐疑論的な人間であっても、その議論を懐疑に付することなく真正面から受け入れることができるところにある、とも言える。

3 驚き(補足)

ここまでの文章は、僕が先日書いた文章『驚きと疑い』(http://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を書く前にすでに書いていたものだから、多少、話がつながっていない。

補足するならば、僕の底なし沼にはまったような無力感とは、〈世界〉に驚き、圧倒されたことによる無力感であるということになる。そして、僕が入不二の現実論に感じる安堵とは、取り付く島もない圧倒的な〈世界〉に対して、多少は効果的な対応ができるという希望である、ということになる。

永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比

7200字くらいあります。最近入不二・永井関係ばかり書いている気がする・・・

1 はじめに

先日の永井や入不二らによるワークショップについて、文章を書いた。

『永井・入不二・青山・谷口・僕』http://dialogue.135.jp/2022/03/19/nagaikoki/

うち入不二による発表については、動画もアップされている。

『〈 〉についての減算的解釈 ─永井の独在性から入不二の現実性へ』https://youtu.be/qDAshhcWTdA

このワークショップについては、いずれ本になるそうなので、そこまで待ってもいいのだけど、特に入不二の発表について、考えたことがあったので書き残しておく。

入不二の動画の17:10くらいから『「一方向性(〈私〉→実在世界)」の内に含まれる「断裂」と「循環」』という発表がされている。入不二の発表のなかでも、特にこの部分から思いついたことについての話である。

2 〈私〉から実在世界への一方向性

永井の独在論によれば、〈私〉と実在世界の関係は、〈私〉から実在世界に行き着くことはできるが、逆に、実在世界の側から〈私〉に行き着くことはできない、という一方向性があるとされる。

確かに、普通の意味での「私」、つまり人物個体としての「私」しかいない実在世界をどこまで調べ尽くしても、そこに独在的な〈私〉を見つけることはできない。実在世界から〈私〉に至る経路は閉ざされている。だからこそ永井は偉業を成し遂げたのだとも言える。永井は、実在世界のなかには見つけることができないはずの〈私〉をなぜかみつけ出してしまい、更には、それを明確に独在性の問題として捉えることに成功してしまったのだ。

だが、一旦永井が成し遂げたとおりに〈私〉の高みに立ってしまった後に、そこから「私」の実在世界に下りることは容易である。なぜなら、独在的な〈私〉は、実存的な概念により描写できる《私》や、人物個体としての「私」として当たり前に理解されるのだから。〈私〉を私という言語で捉えた途端、それは《私》や「私」になってしまうことになる。

「私」から《私》に至り、更にそこから〈私〉に至ることは不可能と呼べるほどに困難な道のりだが、逆に、〈私〉から《私》、更に「私」に至ることは、そのような道筋を歩んだことに気付かないほどに容易である。永井はそれを一方向性と呼んでいる。

それに対して入不二は、その前半は認めつつ、後半を否定する。独在的な〈私〉からこの地球上に何十億人もの「私」がいるような実在世界に至る道はそれほど容易なことではないのだ。

入不二はその問題を断裂と循環として示す。

断裂とは「一」未満ということであり、〈私〉から実在世界への一方向の推移を完遂することはできないということである。なぜなら、〈私〉を実在世界と接続し、《私》という主体を現出させることはできても、その主体が実在世界というようなものを構成する力はないからだ。つまり一方向の推移を「1」とするならば、その推移は道半ばの「0.5」で断裂するということである。(なお、なぜそのような力がないかというと、〈私〉とは(永井的な用語としての)無内包の現実であり、内包(イコール内容と僕は解釈している)に満ちた実在世界を構成する力はないということであろう。)

独在的な〈私〉の世界と、人物個体としての「私」が複数いるような常識的な実在世界との間には断絶という問題があるということを入不二は示している。

もう一方の循環の問題とは、もし、〈私〉から実在世界への推移を成し遂げてしまったならば、それは一方向の推移ではなく「両」方向の循環になってしまう、という問題である。

〈私〉から「私」への推移を完遂するということは、つまり、出発地点の〈私〉と到着地点である「私」が私という語で結び付けられるということである。それならば、私という語を手がかりにして、不可能なはずだった、「私」から〈私〉に至ることは極めて容易なことである。「私」から〈私〉に至る道筋が(永井が見出した道筋以外では)不可能なのは、目的地点である〈私〉が無内包であり、実在世界のなかでは無内包なものを見つけることは不可能だからである。だが、それを〈私〉と表記できてしまった途端、そこに到達することは容易なことである。

入不二はそのことを、〈私〉と《私》と「私」の三水準の私が、私という表記を貫くことにより、自在に行き来できてしまう、という自体として述べている。これはつまり、一方向の推移を「1」とするならば、その推移は横溢し「2」の循環に至ってしまうということである。

よって、永井の一方向性は「1」として完遂することはできず、断裂の「0.5」または循環の「2」となってしまう。一方向性の「1」とは、「0.5」の断裂と「2」の循環の合成物なのである。

以上の説明は、入不二の説明に僕なりの言葉を補ってはいるが、説明として概ね間違ってはいないと僕は思う。そして僕はその説明に同意する。

2 〈私〉を固定的に捉えることはできない

入不二は直截には言っていないが、僕は、この困難は、永井の独在性を〈私〉という固定的な表現で示すことの困難に由来するものだと思う。

永井は確かに〈私〉を発見した。正確には、自明なものについて〈私〉という輪郭を与えた。だが、より正確に言うならば、永井は〈私〉があるはずの方向を指し示すことに成功したに過ぎないとも言える。人は、あちらに北極星がある、と真北を指差すことはできても、(現代の科学技術では)北極星に到達することはできない。同様に、人は〈私〉の方向を指し示すことができても、そこに到達することはできない。

入不二は、僕が比喩的に述べたことについて、次のように表現している。

「〈私〉へ至らんとするルートは無限の否定性を特徴として持つ。私という人物個体や概念・形式ではないという無限の否定としてのみ〈私〉は存在する。」

〈私〉を北極星に喩えるならば、北という方角は、無限の否定性である。無限の否定を完遂することはできないから、〈私〉に到達することはできない。しかし、都度、無限に否定し続けることによって、〈私〉の方角を指し示すことはできる。〈私〉とは、そこに到達することはできないが、指し示すことはできるものなのである。

〈私〉とは蜃気楼のようなものだと言ってもいいかもしれない。蜃気楼は、光の屈折がはるか遠くのオアシスを間近に見せる幻である。(蜃気楼にいつかは到達できるという違いはあるけれど。)入不二は、そのような側面を強調し、永井の〈私〉を虚焦点と呼んでいる。永井の本に従い人々が理解することができる〈私〉とは、そのようなものなのである。永井の〈私〉を捉え切り、概念として固定的に手元に置くことはできない。

さきほど、〈私〉から実在世界への一方向の推移は完遂できない、と言ったが実は、そもそも我々は、〈私〉という固定的な出発地点に立つことなど、できていなかったということである。一方向の推移の不可能性はここに由来するものである。

なお、この問題について永井は十分に自覚的だと思う。なぜなら、永井は、永井が書いた文章を読んだ読者が、〈私〉について理解することをも否定しているからである。永井の〈私〉は、第一発見者である永井だけがアクセスできるという秘教的なあり方をしている。だから、僕のような悟っていない者が〈私〉を固定的な地点として捉えることなどできないのである。当然、この文章を読んでいる(永井以外の)あなたであっても、青山拓央や入不二のような永井哲学の理解者であっても同じである。ここにも無限の否定が及んでいる。

きっと、永井の〈私〉に至る道筋の最も根源的なところにある否定とは、言語で表現されることの否定であり、永井以外の者が永井と同様に理解することの否定なのだろう。

なお、僕は語感としては、否定というよりは拒否としたほうがいいように思うので、これからは〈私〉に至る道筋が持つこの性質を、拒否性と呼ぶことにしたい。

〈私〉に接近するためには、〈私〉が持つ拒否性を受け入れ、〈私〉の拒否性に十分に自覚的であることが必要である。〈私〉とは〈私〉に接近することを〈私〉から拒否されることによってのみ近づくことができるものなのである。だから、本質的に、そこに到達することは決してできない。よって、〈私〉を到達地点として固定的に描写することは誤りである。

入不二の一方向性の困難は、そのことを指し示していると僕は理解している。

3 入不二の道筋

ここまで、永井が示した〈私〉への道筋の特殊さについて論じてきたが、実は入不二は、永井とは全く別の〈私〉へと至る道筋があると考えている。永井とは全く反対に向かい、大きく迂回して、裏から〈私〉に至る道筋である。日本からロンドンに行こうとして、シベリア上空を飛ぶのではなく、太平洋を横断し、アンカレジ経由で向かうような道筋である。

入不二が現実論として示す道は、「現に」という副詞で表現されるような、遍在的な現実の力を使う道筋である。

入不二の現実論において重要な役割を果たす現実性という語を理解するにあたって特殊な状況を想像する必要はない。ごく当たり前の状況において、ごく当たり前に、現実性はあまねく働いている。僕は「現に」会社に出勤したり、「現に」昼寝をしたりする。「現に」ウクライナで戦争が起きたし、僕は「現に」そのことを嘆いたり、「現に」そんなことを忘れて楽しく過ごしたりしている。

どんなにつまらない日常であっても、どんなに特別な非日常であっても、それは「現に」現実である。何もせずに昼寝をした一日も「現に」昼寝をしたのであり、何億円もかけて宇宙旅行をした一日も「現に」ロケットに乗ったのである。どんなにありえないような思考実験的な状況であってもそれは変わらない。「現に」悪霊がデカルトを騙しているのだし、「現に」水槽の中の脳なのである。

日常も非日常も、「現に」現実である。そのような理解を、「現に」という副詞を付け加えることでそのことを誰もが極めて当たり前に共有できる。入不二の現実論はそこに尽きている。永井の独在論につきまとっているような理解の困難さは全くない。永井の独在論が門戸を閉ざし秘教的であるのに比べて、入不二の現実論はあっけらかんと門戸が開かれており顕教であると言ってもいいだろう。もし、入不二の現実論を理解するのが難しいと感じるならば、それはきっと、そこに何らかの理解の困難があるはずだと疑っているからなのではないか。だが残念ながら、入不二の議論には、読者が自力で悟らなければならないような障壁はない。きちんと入不二が示す議論を追っていくことでそのとおりに理解できるものである。以上のような入不二の議論の特徴について、永井の独在論には拒否性があるのに対して、入不二の現実論には受容性があるとまとめておきたい。

だから、入不二の現実論には、永井の独在論のような、ひりひりするような緊迫した中心性がない。あっけらかんと現実は遍在している。

入不二はそこに、なんらかの事情で中心性が加わることで、〈私〉という特異点が生じると考えている。つまり、入不二によれば、〈私〉とは、「遍在性+中心性=独在性」という極めて単純なかたちで描き切ることができるものなのだ。入不二はそのことについて、動画の最後のほうで唯一中心分有型の〈私〉として述べている。

以上が実在世界から独在的な〈私〉へと向かう東廻りのルートである。永井が東京からロンドンまで西廻りで直行しようとしたのに対し、入不二は実在世界から、純粋な現実性を経由し、そこから〈私〉に至るというアンカレジ経由の迂回ルートを発見したのだ。

4 永井と入不二の対比

 なお、入不二は、現実性を力として捉えている。「ウクライナで戦争が起きた。」という文を「現に、ウクライナで戦争が起きた。」とすることで、現実性が付与され、文が現実のものとなる。これが現実の力である。なお、この力は透明であり、「現に」という言葉を、それを可視化するためにあえて用いているにすぎない。だから、「現に」という言葉を外しても、実は「ウクライナで戦争が起きた。」という文には現実性がある。

 このことは、永井の〈私〉の独在性には、拒否によってのみ迫ることができる、ということに似ている。永井の独在性にある拒否性も、拒否という力である。入不二の現実性にも、永井の独在性にも力動性がある。

 その点で、永井と入不二は、ちょうど背中合わせのような関係にあると思う。永井の議論を駆動しているのは、拒否の力であり、入不二の議論を駆動しているのは受容の力である。そこにあるのは、全く同質なのに、向きだけが違う二つの力だ。

 その力は、入不二ならば、すべての文に「現に」という言葉を付与することができる、という普遍性として表現できる。一方で、永井の場合には、あらゆる言葉の内で、「私」(と「今」)に限定して特別性を認め、更に、その「私」(と「今」)も、通常の用法ではなく、更に《私》(と《今》)に限定して特別性を認め、それでも飽き足らず、更に〈私〉(と〈今〉)に限定して特別性を認める、ということをやっている。つまり、二人が言語に対して行っている作業も、ちょうど、普遍化と特別化という真逆のことである、と言える。

 その結果、表現されるものは、入不二ならば全てを受容するような、凪いだ普遍性であり、永井ならば全てを拒否し、せり上がるような中心性である。

 入不二は、ベタとスカという言葉を用いたこともあるが、入不二の現実性はベタである一方で、永井の独在性は、すべてを拒否し、内容がなくてスカスカだという意味で、スカと呼ぶこともできると思う。

 永井の独在論は、拒否の力であり、そこで用いられるのは限定され特別化した私や今といった用語であり、そこで見出されるのはせりあげるような中心性であり、全てを拒否した結果としてのスカである。一方の入不二の現実論とは、受容の力であり、そこで用いられるのは、「現に」という普遍的な用語であり、そこで見出されるのは凪いだ遍在性であり、全てを受容した結果としてのベタである。二人の議論は、異常のような対比ができると思う。

※ なお僕は、入不二の受容という言葉には、何ら倫理的な意味合いはないと思っている。あえ て言えば、善も悪もすべて受容するという意味で、極めて非倫理的な考え方だと言ってもいいと思う。この点でも、すべての倫理を拒否するという意味で非倫理的な永井とは対象的な立場にあると言えるだろう。

5 無内包の現実

 背中合わせに立っていた二人が、ぐるっと思索の旅をし、また出会う場所が「無内包の現実」である。永井はシベリア上空を通ってロンドンに着き、入不二はアンカレジ経由でロンドンに着く。二人が落ち合う場所が「無内包の現実」(純粋現実性)である。

 同じ場所であっても、そこまで至る経路が違うから、見える景色は異なる。永井の「無内包の現実」とは、内包をすべて拒否し、内包がありえないという意味での無内包である。一方で入不二にとっての「無内包の現実」とは、内包はあってもなくてもよいが、内包と関係ない次元での現実という意味での無内包である。そのせいだと思うが、最近の入不二は、あまり「無内包の現実」という語は使わず、純粋現実性というような別な表現を好んでいる。

 よって、二人が指し示すものは全く異なるとも言える。だが、それでも同じ地点に到達していると僕に思えるのは、それが、この常識的な実在世界から最も遠いところだからである。二人が見ている景色は全く異なるが、ここから最も遠いところを見ているという点で二人が見ているものは重なるはずである。二人が重なる地点としての「無内包の現実」とは、まさに無内包であり、そこに現実性であれ、独在性であれ、何らかの意味を込めることはミスリーディングである。「無内包の現実」とは、この常識的な実在世界から最も遠いところを地点として意味するだけの言葉なのである。

 だから、二人の議論をロンドン旅行に喩えるよりは、日本の反対側のブラジルあたりを持ち出したほうがよかったかもしれない。二人は、ここから最も遠いところへ旅をしようとしていただけなのだ。

6 補足 中心分有型の〈私〉

そのように考えるならば、このワーキンググループで入不二が中心分有型の〈私〉というようなものを持ち出し、永井の議論に合わせたことは過剰なサービスだったと言ってもいいだろう。この中心分有型の〈私〉の議論とは、二人は「無内包の現実」というロンドンで待ち合わせればよかったのに、あえてモスクワあたりまで入不二が永井を迎えに行ったようなものだからである。

その無理は、入不二が、遍在するベタの現実性に、中心性を加え、〈私〉という特異点を立ち上げたところに現れている。僕は、この中心性の付け加えは、入不二の議論の弱さだと思っている。

確かに、ここでも現実の偏在性は働いており、現実においては、「現に」中心性は加えられ、「現に」〈私〉という特異点が立ち上がる。その点では、この事象は入不二の現実論の圏内で行われているとは言える。だが、入不二の現実論は、そこで特異点として特権的に立ち上がるのが、なぜ〈私〉(か〈今〉)なのか、ということが説明できない。永井と比べた場合、入不二の議論にはそのような弱さがある。

ただし実は、これはどうでもいい弱さである。なぜなら、入不二の現実論の目的地は、「無内包の現実」(純粋現実性)だからである。入不二はロンドンに着いたのに、あえてそこで飛行機を乗り換え、永井を迎えにモスクワに行く必要はない。ロンドンでのモスクワ行きの飛行機への乗り換えとは、ベタの遍在する現実に、あえて、〈私〉という特異点を付け加えることを意味している。 

2種類の疑問文

※7000字くらいあります。

1 決定疑問文と補足疑問文

疑問文には、はい/いいえで答えられる決定疑問文と、はい/いいえでは答えられない英語の5W1Hのような補足疑問文という区分があることを最近知った。「ここにリンゴはありますか。」が決定疑問文であり、「ここに何がありますか。」や「リンゴはどこにありますか。」が補足疑問文である。

僕がここで提示したいアイディアはふたつある。一つ目が「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」というものであり、二つ目が「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」というものである。

2 質問と確認

まず、一つ目の、「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」から始めよう。

疑問文は質問をするために用いられるということまでは言っていいだろう。では、なぜ人は質問をするのだろうか。人は、何かわからないことがあるから質問をするのだろう。「ここに何がありますか。」「リンゴはどこにありますか。」というように。これはつまり、知識が欠けていて、「ここに◯◯があります。」とか「△△にリンゴがあります。」といったことしかわかっていないことを意味する。欠けている知識を埋めようとして、質問者は質問をする。

ここで用いられるのは補足疑問文である。

一方で、決定疑問文においては、質問者は「ここにリンゴがあります。」ということは知っている。知っているからこそ、「ここにリンゴはありますか。」という言葉遣いをすることができる。ただ、その知識に自信がないから、確認しようとして、決定疑問文を発話する。もし、リンゴがない、ということを知っているならば、「ここにリンゴはありませんか。」と発話するだろう。

これを広義の質問と呼んでもいいけれど、欠けている知識を埋めようとする、という動機がない点で、(狭義の)質問とは大きく異なる。その点を考慮すると、僕は、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別したい。

2-1 例外

この話には例外があると思われるかもしれない。テストの設問では「リンゴが2つ入っているカゴに3つのリンゴを加えると全部で何個ですか。」(答えは5個だと先生は知っている。)などと補足疑問文を用いることもある。また、15行くらい前で僕が用いたように「なぜ人は質問をするのだろうか。」(僕なりの答えを提示する準備ができている。)などと、話を進める上でのレトリックとして用いることもある。これらは確かに、欠けている知識を得ようとして行う質問ではない。

だが、本来の質問としての補足疑問文と、テストやレトリックとしての補足疑問文との違いは、ある種の真剣さの有無により見分けられるように思う。真剣に補足疑問文を用いていれば、それは質問だが、一見、同じように補足疑問文を用いていても、そこに真剣さがなければ、それは質問ではないということになる。当然、テストの出題者である学校の先生や、この文章を書いている僕は、真剣に補足疑問文を用いてはいるが、ある種の真剣さには欠けている。ここでは二種類の真剣さが登場しており、僕はその違いについて説明しなければいけないのだけど、結構難しい問題で、話が長くなりそうなので省略したい。今のところはなんとなく、真剣に生きることと、真剣に発話することくらいの違いがあるという予感がある、という程度にとどめておきたい。

なお、その場合でも、補足疑問文の受け手である生徒(児童)や読者の立場に立つならば、それがある種の真剣さを獲得し、質問になるということはありうる。この点でも真剣さの有無はわかりにくい。

3 区別の理由

話がややこしくなるので例外については横に置いておき、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別できることまでは同意いただいたことにしよう。

さて、なぜ僕は、あえてこのような区別を強調するのだろうか。ここからは、その理由について、二つのやり方で説明を試みたい。この説明を通じて、この問題は単なる言葉の分類の問題ではなく、少なくとも僕にとっては、切実な問題であるということが伝わることを願っている。

3-1 確認はきりがない

第一の理由は、質問に比べて確認は問題含みの行為だと思うからである。

確認というのは、実はきりがない行為である。外出したとき、家から数歩離れてから、家の鍵をかけたか気になって戻って確認する、という経験は多くの人があるだろう。たいていは一度確認すれば安心するけれど、病的な人ならば、もう一度戻って確認するかもしれない。もしかして、さっき戸締まりを確認したのは記憶違いかもしれない、なんて哲学的懐疑を始動してしまったら、原理上はその確認は無限に何度でも行うことができる。AがBに対して戸締まりをしたか確認する場面を考えよう。

A「戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に、本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」・・・

というように。この応答は無限に続けることができる。

戸締まりだと思考実験的すぎるかもしれないけれど、日常的な実感として、例えば本の校正などではきっと何度も文章を確認し、その確認作業はきりがないと思うのではないだろうか。そのような意味で確認はきりがない。

一方で、補足質問により「リンゴはどこにありますか。」と話し手が質問したなら、聞き手は「テーブルの上にあります。」などと応答することで質問は終了する。ここには大きな違いがあるように思える。

通常の決定疑問文はもっと穏やかなかたちで用いられるという反論もあるだろう。A「戸締まりをしましたか。」B「はい。」というやりとりは通常一回限りで終えられ、しつこく続けられることはない。

だが、そのような場合には、その決定疑問文は、実は決定疑問文ではなく補足疑問文であったのだと考えることができるのではないだろうか。実際は次のような補足疑問文の省略表現であると考えられる。

A「戸締まりをしたかしていないかのどちらですか。戸締まりしている可能性のほうが高   いので、戸締まりしていた場合には省略して、はい、と答えてください。」

B「はい。」

つまり、穏健な質問としての決定疑問文とは、実は、答えの予測と答え方の省略を組み合わせた補足疑問文なのである。

3-2 文化的要因

このような説明だけだと、僕が単に細かいところにこだわっているだけに見えるかもしれないので、もう一つの理由に移ろう。

僕が決定疑問文と補足疑問文との区別を意識するのは、決定疑問文の存在は、多分に文化的な要因によるものだと考えられるからだ、とも言える。決定疑問文は便利で広く使われているから実例があるかどうかは知らないが、理屈上は、決定疑問文がない言語というものも想像できる。例えば「リンゴがテーブルの上にありますか。」は完全に「リンゴがテーブルの上にあると思われますが、確認をお願いします。」という表記で置き換えることができる。

一方で補足疑問文は、どのような疑問詞を用いるかは文化による違いはあっても、全く補足疑問文がない言語は想像できない。時間についての疑問詞がなく「いつですか。」を「いずれの時点ですか。」としか表現できない言語体系はありえても、全く補足疑問文がない世界は想像ができない。もし、そんな世界があったとしたら、それは、つまり話し手が不知の事項について聞き手に質問することができない世界が存在してしまうということである。

決定疑問文が表現する確認という行為は、疑問文によらずとも表現が可能だが、補足疑問文が表現する質問という行為は、何らかの専用の表現が必要なのである。つまり、他の表現で置き換え可能である確認としての決定疑問文は本当の疑問文ではなく、置き換えができない補足疑問文こそが真の疑問文なのである。

3-3 純粋に知的な行為としての発話

二通りのやり方で、質問としての補足疑問文から、確認としての決定疑問文を区別することの意義を強調してきたが、実はこの二つの説明は同じ一つの動機から行ったものである。

僕は、純粋に言語的な行為と、純粋でない言語的な行為を区別したいと考えている。純粋に言語的な行為とは、例えば、(理想状態としての)哲学カフェなどで行われるような、言葉を交わすことだけを目的とした発話のことであり、純粋でない言語的な行為とは、そこに僅かではあっても、言葉を交わすこと以外の何らかの目的が混入しているような、より日常的にありがちな発話のことである。

そして、僕は、質問としての補足疑問文のほうに純粋性を見出し、確認としての決定疑問文のほうに言語以外の夾雑物を見出そうとしている。「リンゴはどこにありますか。」は不知のものを知りたいという動機による知的に純粋な発話だが、「本当に戸締まりをしましたか。」は、不安を払拭して安心したいという不純な動機による発話だ、という方向で僕は考えたいと思っている。※1

当然、補足疑問文を使っていても、純粋な発話ばかりではない。(殺人を認めていない被疑者に対して)「あなたが殺していないと言える証拠はどこにあるんですか。」などと問い詰め、罪を自白させ、憎い犯罪者を牢屋にぶち込もうとするだけの発話もあるだろう。※2

きっと、ほとんどの補足疑問文がそのようなものなのだろうが、それでも僕は、補足疑問文というものの中に、純粋に知的な行為としての発話の萌芽を見出している。

※1 このように述べてみて明確になったが、僕は、純粋に言語的な行為と、純粋に知的な行為とを結びつけているようだ。つまりそこには、言語とはどこまでも知的なものであり、純粋な言語とは知的な目的にのみ用いられるものである、という思想がある。この思想を別のかたちで表しているのが、このブログのタイトルにしている「対話の哲学」というアイディアである。

※2 僕は、刑事の取り調べが非倫理的で劣っていると言っている訳ではない。僕は発話には、言語としての側面と、行為としての側面があると考えている。(ネーミングはともかくとして。)そして、通常の意味での倫理性は、行為がその評価対象となる。だから、刑事が凶悪犯を自白させることは、溺れる人を助けに海に飛び込むのと同じように、行為として倫理的な行為である、ということになる。

4 懐疑論者

では、二つ目の「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」という話に移りたい。

ところで、いろいろな文章で繰り返し書いているけれど、僕は懐疑論者だ。だから、この問題は、つまり、「懐疑論者である僕が行っている懐疑は、一見すると質問のような見かけをしているが、実は、それは知識を求めようとするものとしての(狭義の)質問ではなく、確認としての決定疑問文をつくる作業に過ぎないのではないか。」という問題であることになる。

要は、ここまで僕が行ってきた補足疑問文と決定疑問文の区別の話は、懐疑論者である僕のための話だったということになる。きっと読者の多くは懐疑論者ではないだろうから、ここからの話はあまり役に立たない話になってしまうだろう。そのような方にとっても少しでも役立つ話をしようとここまで頑張ってきたので、それで勘弁していただきたい。ここまでの話は、流れとしては、ここからの話のための枕に過ぎないとは言え、懐疑論者ではない方にとっても独立した価値がありうるものだと僕は思っている。

さて、懐疑論者である僕にとっての目下の悩みは、懐疑に答えが出ないことである。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑に対して、「そのとおり、夢である。」という答えも、「いいや、夢ではない。」という答えも出すことができない。

だが、ここまで行ってきた、質問としての補足疑問文と、確認としての決定疑問文という区別を当てはめるならば、この問題は雲散霧消してしまう。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は決定疑問文であり、質問ではなく確認なのである。だから、戸締まりの確認が無限に可能なように、このような懐疑も無限に可能なのである。この懐疑を打ち切るためには、答えを見つけるのではなく、ただ確認を打ち切るしかない。それが答えなのである。

戸締まりの確認との類比性を強調するならば、「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は不安の表現である。この世界というものに不穏さを感じ、その不穏さを解消するためには質問に対する答えを探さなければならないと誤解し、僕は懐疑論者になったということである。

または、先日書いた文章、『驚きと疑い』(http://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を踏まえるならば、僕はこの世界への驚きの表現として、このような決定疑問文を用いているに過ぎないとも言える。

どちらにせよ、僕の懐疑は、純粋に言語的な行為ではなく、大いに不純な夾雑物が含まれている。つまり、言語性に対比するものとしての行為性の混入である。

5 わからない

以上の話は、ここで終わればうまくまとめられていると思う。だが、残念ながら、当初の計画どおりにはいかず、不器用に付け足さなければいけないことを思いついてしまった。

懐疑論者が行う懐疑には、補足疑問文も用いられる。例えば「この世界において確かなものは何か。」というような懐疑である。これをどのように扱えばいいのだろうか。

まず言えるだろうことは、この懐疑は、「この世界は巨大な夢なのではないか。」のような懐疑とは種類が違うということである。夢の懐疑にせよ、「これはプラスではなくクワスなのではないか。」という規則の懐疑にせよ、思考実験的な具体的状況を想定した懐疑は、(多分)決定疑問文で表現することできる。一方で、「この世界において確かなものは何か。」という懐疑には具体的な状況想定がない。そこに違いがあるように思える。

なお、具体的な状況を想定した思考実験的な補足疑問文を作ることもできるだろう。例えば、「この世界が巨大な夢だとしたら、夢から覚めた世界はどのようなものなのか。」という補足疑問文は成立する。

だが、これは懐疑論者の懐疑ではない。なぜなら、「この世界が巨大な夢だとしたら」という状況設定が揺るぎないものとして確定しているからだ。懐疑論者ならばまさに疑うべきところが前提になってしまっている。やはり決定疑問文を用いて、夢の懐疑のように、思考実験的な状況設定をまるごと疑うのでなければ、懐疑論者の懐疑を十二分に表現することはできないのだ。

残念ながら、僕はこの問題について、これ以上の答えを今は持ち合わせていない。あえて答えの方向を予想するならば、それは「わからない」という答え方に関係しているように思う。

「この世界において確かなものは何か。」という質問に対しては、「わからない」という答え方がありうる。その場合でも、「この世界において確かなものは◯◯である。」という知識の欠如に対して、「この世界において確かなものは「わからない」である。」という穴埋め(補足)がされる。つまり、質問に対するきちんとした回答となっており、新たな知識を獲得しているという点で、純粋に知的で言語的な活動だと評価することができる。その証拠に、「この世界において確かなものが何かはわからない。」ということを前提にして、どうしてわからないのか、とか、いつかわかるときがくるのか、というような思考を続けることができる。

だが、「わからない」という言葉は、補足疑問文だけではなく、決定疑問文の答えとしても用いることができる。「リンゴは机の上にありますか。」「わかりません。」という応答である。もし、補足疑問文に対しても、決定疑問文に対しても、同じ「わかりません。」という答え方を認めるならば、ここまで論じてきた、質問としての補足疑問文、確認としての決定疑問文という議論の枠組みがすべて壊れてしまうように思える。なぜなら、見かけ上、補足疑問文であっても、決定疑問文であっても、結局は、「わかります」か「わかりません」かの二者択一の返答がまずあるはずだ、ということになるからだ。

「リンゴはどこにありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

「リンゴは机の上にありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

という応答である。補足疑問文か決定疑問文かを区分するためには、「(その答えは)わかります」という応答があった場合に、更に「では、リンゴはどこにありますか。」という補足疑問文や「では、リンゴは机の上にありますか。」という決定疑問文を重ねなければならない。

どうも、「わからない」という答え方には、ここまで論じてきた補足疑問文か決定疑問文かという問題とは、別の問題が潜んでいるように思える。そのことと、「この世界において確かなものは何か。」という「わからない」としか答えられないような補足疑問文についての問題はつながっているように思える。

驚きと疑い

※この文章は1万字少々あります。

1 あれは何だったのか

僕は懐疑論者だ。僕は昔からずいぶん疑い続けて生きてきた。当然、四六時中疑い続けている訳ではないけれど、ふとしたきっかけで疑いが頭をもたげてきて、それに対応することにかなりの労力をかけて生きてきた。

だけど、年を取るにつれ、そのようなことが徐々に少なくなってきている。僕の疑いとは哲学的な疑いだから、当然、そう簡単に解決するはずがないのだけど、解決しないまま、疑うことが減ってきたのだ。

きっと歳をとったということであり、仕事やなにやらに忙殺されて余裕もなくなってきたということなのだろう。懐疑というのはこのようにして解決していくものなのかもしれない。世の中の人々はそうしているのであり、僕はそれに少々時間がかかっただけなのかもしれない。それは、ちょっと寂しいけれど、ちょっと心休まることでもある。ようやく人並みになれたという安心感である。

当然、それにより問題から離れられる訳ではない。話は逆であり、ようやく、冷静に、腰を据えてこの疑いに取り組めるようになったと言ってもいい。懐疑の真っ只中では問えなかったようなかたちで、(「これは何だ。」ではなく)「あれは何だったのか。」と問うことができるのだから。

そこで、この文章では、「あれは何だったのか。」について、少し考えてみたい。

2 驚きから疑いへ

哲学に触れているうちに、僕はこの懐疑を(永井均から学んだ語である)タウマゼインと結びつけられることに気付いた。この疑いは、僕の哲学の第一歩であり、僕の哲学の源泉であるという意味で、伝統的にタウマゼインとも呼ばれる哲学的驚きとかなり近いものとして捉えることができる。「あれは何だったのか。」とは疑いの表現であると同時に驚きの表現でもあると言えるということである。

では、この疑いと驚きとは全く同じものなのだろうか。違うとしたら両者はどのような関係にあるのだろうか。

僕の実感としては、疑いは驚きから始まるように思える。例えば「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」という疑いは、まず、そのような可能性を思いついたことの驚きとして始まる。疑えることの驚きである。つまり、驚きは疑いに先行する。

そう考えるならば、疑いとは驚きの表現の仕方のひとつだと言えるかもしれない。人が「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」と疑うとき、それは単に疑っているのではなく、そのような疑いが成立することの驚きを表現しているのである。

哲学に限らず日常的にも、驚きから疑いへ、という法則性は成立しているように思える。圧倒的な光景を目の当たりにしたとき、人はただ立ちすくむ。初めてローマでフォロ・ロマーノの遺跡を見たときや、テレビ中継で田畑を遡上していく津波の映像を見たときの僕がそうだった。まず、ただすごいとしか言いようがない驚きがあったうえで、ようやく、そのことについての思考を巡らすことができる。順序は、驚きから疑いなのである。驚きこそが疑いの本質であると言ってもいいだろう。

それが顕著に現れるのが旅行(特に海外旅行)である。フォロ・ロマーノの例のとおり、旅は驚きの連続である。景色であれ、料理であれ、人であれ、日常では出会わない新奇なものに出会い、それに驚くのが旅の醍醐味だと言ってもいいだろう。

旅先で未知の景色や料理に出会ったとき、「すげえ、なんだこれ。」と僕はつぶやく。僕の哲学的懐疑も、実は同じことで、この世界に驚嘆し、「すげえ、なんだこれ。」とただつぶやいているだけなのかもしれない。そのような意味で、懐疑とは驚きの表現のひとつなのである。なおその懐疑については、海外旅行であればガイドブックに書いてある答えを読めば済むけれど、哲学の場合にはそうはいかない。(哲学書に答えらしきものが書いてあることはあるけれど、僕は納得できないから、僕は自分で答えを探している。)

とにかく以上のとおり、順序としては、まずは驚きがあり、そこから派生するようにして懐疑という症状が生じると描写できるだろう。

3 疑いから驚きへ

だが旅も驚きの連続ばかりではない。やがて旅も飽きる。僕は海外旅行が好きなのだけど、僕の場合、4日目くらいから、旅が日常となり新奇なものに出会うことが日常となっていく。そして、大学生の頃の記憶を探ると、2週間を超えると旅に疲れて何にも出会いたくなくなる。

同様に、歳をとると、若い頃に感じた哲学的驚きが薄れていくのではないだろうか。その結果、あれほど僕を包んでいた懐疑も、どこか他人ごとのような気がしてきているのかもしれない。

ここで旅と哲学の違いが生じる。旅に飽きたならば家に帰ればいいが、哲学の場合には帰るべきところはない。なぜなら僕は、哲学的驚きから派生する哲学的懐疑により、帰るべき当たり前の日常を疑っているのだから。

だから今の僕は、歳を取るにつれて驚きは消えつつあるのに、ただ懐疑だけがしぶとく残っているという状況である。僕は、この懐疑を解決しないことには、死んでも死にきれないなあ、と思っている。(いつもではないけれど、そういう気分になるときがある。)

その懐疑について考えるためには、どうしても、昔から抱いていた哲学的驚きのことを思い出さなければならない。だから、今や順序は逆であり、驚きから疑いへ、ではなく、疑いから驚きへ、である。

なお、この驚きと疑いの関係性の逆転は悪いことばかりではない。なぜなら、先ほど述べたとおり、驚きの只中では疑うことさえできないからだ。哲学に限らず、驚きにより言葉を失っているときに懐疑の思考などできる訳がない。驚きについて思考するためには、ある程度の時間経過による飽きや慣れが必要なのだ。

以上の驚きと疑いの関係についての考察は、僕に新たな気づきをもたらしてくれる。これまで僕は、自分自身が懐疑論者であり、それも世の哲学者たちが想定する懐疑論者よりもはるかに徹底した超・懐疑論者だと思っていた。僕には、世の懐疑論者は、懐疑という行為を遂行可能な確かなものとして確立し、懐疑自体を疑っていないように見えていた。例えばデカルトは「我思う(疑う)故に我あり」と言うけれど、なぜそんなことが言えるのかさっぱりわからなかった。疑いにより何かに到達できるなんてどうして言えるのだろうと僕はずっと思っていた。

だが実は、僕がやっていたのは懐疑ではなく、ただ驚きの只中にあり、言葉を失っていたにすぎなかったのだ。僕は徹底的に懐疑していたと思っていたけれど、実はそれは言葉を失うほど驚いていたことの表現であったにすぎない。僕がデカルトの議論に不徹底さを感じたのは、デカルトが僕の驚きを十二分に表現できていなかったことに対する不満であり、それは、画家が書いた富士山の絵が富士山の美しさを十二分に表現できていないことに感じる不満と大差ないものだったのである。

僕はようやく熱病から醒め、思考のためにあえて疑い、あえて萎えた驚きを思い出すことで、僕は、驚きについて思考し、疑いについて思考することができるようになってきた。僕は言葉をとりもどし、言語以前の僕だけの哲学ではなく、思考を言葉で表現するものとしての、いわゆる哲学を開始することができるのだ。

こうして僕は歳を重ねることにより「驚きから疑いへ」から「疑いから驚きへ」という逆転を成し遂げることができた。少し寂しいけれど、この逆転は、驚きと疑いから距離を置き、驚きと疑いについて思考するためには必須のものだったのだろう。

ここからは、この逆転を成し遂げた視点から、驚きと疑いについての考察を行う。それはつまり若い頃に抱えていた驚きと疑いを変質させてしまうということである。それは少し残念なことだけど、それしかできないのだから仕方ない。せめて極力その変質を自覚しつつ考察を進めるほかはない。

4 視点の固定

さて、考察を始めるにあたって、まずは驚きと疑いのうち、疑いに着目してみたい。疑うとはどういうことなのだろうか。

例えば、「私は水槽の中の脳かもしれない。」と疑うという例を取り上げてみよう。そこで疑われているのは、目の前にペットボトルがある、というような外的な認識である。実際はペットボトルなんてないのに、脳を操作されてペットボトルの映像を見せられているのかもしれない、という懐疑が生じている。だから、疑われているのはペットボトルがあるという外的な認識である。一方でペットボトルの映像が見えている、という内的な認識は疑われていない。内的な認識が確実なものであるからこそ、そこから外的な認識を疑うことができる。ここには疑われていない内的な認識と疑われている外的な認識という対比がある。

なお、ここで確実視されている内的な認識とは、つまりは疑っているという私の認識だとも言える。だからこそデカルトが言うとおり私の存在は確実であることになる。コギト、つまり私の認識という確実な地点があるからこそ、そこを梃子の支点として、外界を有意味に疑うことができるのだ。

確実な地点と不確実な地点という対比は他の例でもあてはまる。例えば、「5分前に世界は創造されたかもしれない。」という疑いがある。ここで疑われているのは5分前より古い時間である。一方で疑われていないのは5分前より新しい時間である。5分前よりも新しい時間については常識的な時間が確保されているからこそ、それより古い時間を疑うことができる。なお、5分前というのは便宜的なものであり、3分前でも1分前でもいい。だが少なくとも、過去の時間を疑うという行為を成立できる程度には時間の幅を確保する必要があるだろう。思考できる程度の幅の現在を固定された支点とすることで、有意味に過去を疑うことができるようになるのである。ここにあるのは確実な現在と不確実な過去という対比である。

以上のことから明らかなように、疑うためには、固定された支点が必要である。支点さえあれば、どんなに巨大な疑いでも遂行可能である。だが、どんなに巨大な疑いであっても、その支点だけは疑うことができない。

なお、僕が哲学を学んだ限りでは、その固定された支点とは、たいていは「今ここの私」である。さきほど二つの例を出したけれど、一つ目の例は「私」を支点とした場合であり、二つ目の例は「今」を支点とした場合である。この二つはとても強力で使い勝手のよい支点だ。僕は永井均の哲学が好きなのだけど、彼の哲学が人気なのは、このあたりに理由があるように思う。(このことは後ほど取り上げる。)

5 「今ここの私」が「この世界」を疑う

以上の疑いについての話はある種の正しさがあると思うけれど、それほど新しい話ではない。僕は本当は、このような話ができてしまう手前の話をしたかったはずなのだ。若い頃の僕のタウマゼインを思い出すならば、疑いとはあくまでも派生するものであり、その手前には驚きがあったはずだ。年月が経ち、多少擦り切れてしまったけれど、まずは驚きがあったはずなのだ。それを取り逃さないためには疑いから驚きへと議論を移す必要がある。

驚きについて論じるためには、多少は驚きについての具体的な輪郭を与えておいたほうがわかりやすいだろう。実は具体的な輪郭を与えることで、すでに変質があり、驚き自体を取り逃がしてしまうはずなのだが、伝わりやすさを優先し、あえて便宜的に、直接的に驚きを描写しておきたい。(この変質については後ほど取り上げる。)

先ほど、懐疑について述べるなかで、懐疑を成立させるための固定された支点としてありがちなのは「今ここの私」だと言った。それに対応するかたちで述べるならば、ありがちな哲学的驚きとは「この世界」に対する驚きだろう。なぜなら、僕たちは、この世に生まれて「この世界」と出会うからだ。生まれてきた赤ん坊は周囲を見渡し、ここは何なのだ、と思うに違いない。そのような意味で、多くの人は「この世界」に驚いていると言えるのではないだろうか。

そして、ありがちな情景の描写を更に続けるならば、人は「この世界」に対する驚きを表現するため、「今ここの私」を固定した支点として「この世界」を疑っているということになる。多くのひと、多分僕自身も含めたほとんどの人は「この世界」に驚く。だが懐疑論者と呼ばれる一部の人は、その驚きを驚きとして素直に表現するのではなく、その驚きを「この世界」に対する懐疑として表現しようとする。その懐疑を成立させるために便宜的に設けたのが、「今ここの私」という支点である。「今ここの私」という揺るがない支点があるからこそ、十二分に「この世界」に対する懐疑を遂行することができる。以上が哲学的驚きから懐疑論者が誕生するまでのおおまかな道筋である。

ここまでの議論でわかるように、懐疑論者は大きな取り違えをしている。本当に疑い得ないのは驚いた「この世界」のほうであり、「今ここの私」とは、その驚きを疑いとして描写するために便宜上導入した仮置きの支点に過ぎない。初発としての哲学的驚きを踏まえるならば、決して手放してはいけないのは「この世界」のほうであり、「今ここの私」などどうでもいい。「今ここの私」から「この世界」を疑う我らが懐疑論者は、本当はどうでもいいガラクタのようなものを大事に抱えつつ、真に大事だったはずのものに疑いの眼差しを向けているということになる。

なぜこんなに簡単にわかることを懐疑論者が間違えてしまうのかといえば、今ここで論じているような立場には実は決して立つことができないはずだからだ。僕は今、驚きと疑いを俯瞰的に眺める、決して立つことができない神の地点に立ってしまっている。決して立つことができない地点に立ったならばこんなにクリアに捉えられることが、哲学を遂行する当事者になった途端、全く見えなくなってしまう。それはつまり、これほどクリアに述べていることには無理があり、便宜的な嘘が混入しているということである。

無理は、「この世界」という言葉にあらわれている。導入時に注意喚起した通り、「この世界」という言葉は不正確だ。僕が本当に驚いたものを十二分に表現することができていない。はっきり言うならば、僕が驚いたものは「この世界」などというものではない。僕は「この世界」が「この世界」などというものではないということに驚いたと言ってもいい。そのことを真摯に表現しようとするならば、僕は懐疑の道に進むしかなかったのだ。

だが、一方で、驚きと疑いについて考察するために、「この世界」という用語を導入することは悪いアイディアではないだろう。永井の〈私〉や〈今〉も似た動機で導入された言葉である。哲学にはそのような言葉がたくさん転がっている。だから僕も、〈世界〉などと表現することが許されるだろう。(なお、永井は〈私〉や〈今〉を〈世界〉より優位にとらえているが、僕は、〈私〉や〈今〉よりも〈世界〉を優位に捉えることになる。)

6 懐疑論以外の処理方法

6-1 通常の場合

以上でおよそのところは語りきったが、補足しておきたい事項がある。さきほど、「この世界」への驚きを処理しようとして、多くの懐疑論者が「今ここの私」が「この世界」を疑うという理路に至る、と述べた。そのうえで、実はそれは便宜上の仮置きの視点から揺るぎないはずのものを疑うという転倒をしてしまっているということを述べた。懐疑論者以外の人はどうしているのだろうか。当然、そこには色々なバージョンがあるだろうが、いくつか思いついたものを列挙しておきたい。

まず、懐疑論者でない大多数の人たちがとるだろう通常の解決策に触れておくべきだろう。僕とは違う道筋なので、あくまで推測であり、どれだけ一般化できるかはわからないが、彼らは、その驚きを忘れるか、または、より個別具体的な驚きとして理解するか、のいずれかなのではないだろうか。

前者の忘れるという解決をとった場合、彼らは、驚きに慣れて飽きた今の僕に近い状況に最初から立つことができる。つまり、最初から「この世界」を思考により捉え、言語により描写可能なものとして理解できるということである。いわゆる常識的な世界観である。タウマゼインから哲学が始まるとするならば、彼らは哲学を始めないという選択をしたということであり、また、その選択をしたことすら忘却するという選択をしたということである。僕はそれはとても健全なことだと思うし、どこか羨ましい。

 後者の個別具体的な驚きとして理解する、というのも、かなりポピュラーなやり方だろう。「この世界」の驚きを、この世界へ因果への驚きと解釈するならば、そこから科学が始まるだろうし、この世界の美しさへの驚きとするならば、それは芸術への道である。この世界の人間に着目するならば、それは倫理や道徳となるだろう。「この世界」を我が国と解釈すれば国粋主義者となるだろうし、家族などの身近な人と解釈することもできそうだ。「この世界」のなかの何かに着目し、それに驚くならば、それがその人の哲学の始まりとなる。美学や倫理学はそのようにして始まるのだろう。

なお、強調しておきたいが、「この世界」の全体ではなく一部に着目すること自体は決して哲学の劣化や堕落ではない。なぜなら、そうせざるをえない当事者にとっては、それが全てであるはずだからだ。彼らにとっての全部が、僕のような部外者が傍から見ると一部であるように見えるに過ぎない。そして、きっと、〈世界〉を「この世界」としか描写できない僕も、傍から見れば個別具体化からは免れられていないに違いない。だが、それは決して恥じることではない。

6-2 入不二の場合

僕も含めた多くの人が、哲学的驚きに対しては、このような対応をとっていると思うが、ごく少数の天才たちは、少し毛色の違う対応をしているように思える。ここではそのうち二人だけ取り上げておきたい。

まず取り上げたいのは僕がファンである入不二基義だ。繰り返し述べた通り、僕を含めた多くの懐疑論者は「この世界」への驚きを表現しようとしながら、驚きと疑いを転倒し、「今ここの私」が「この世界」を疑うという懐疑を遂行している。

入不二も「この世界」に驚くというところまでは同じだが、彼はそこから、何も転倒せず、ただ素直に「この世界」への驚きを表現することに(少なくともある程度まで)成功しているのではないだろうか。

入不二がやっているのは現実論である。つまり、入不二の用語によるならば、「この世界」とは現実であるということになる。当然、僕がとりあえず「この世界」と名付けたものは、精緻な哲学的議論を経ていない問題含みな概念なので、入不二ならば、自らが重視する現実と「この世界」というようなものを同一視することは拒否するだろう。だが、入不二哲学の雰囲気を伝えるための方便としては、彼の現実を「この世界」と表現することは、そうおかしいことではないだろう。確か、入不二も、現実を指示する動作として、両手を広げ、天に向けてかざすような動作を挙げていたと思う。入不二の現実を〈現実〉と表記し、僕の表記としての〈世界〉と並べるならば、そこにはかなりの一致を見出すことができるように思う。

多少の議論の粗さはあるが、ポイントは、入不二にとっては、「この世界」という現実が出発地点かつ目的地点であり、その他の要素、例えば「今ここの私」というようなものは途中経過としての議論の材料に過ぎないというところにある。だから「今ここの私」などというものは、疑っても何をしても構わない、あくまで付随的な問題なのである。

入不二は独我論についての本(『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』)も出しており彼には懐疑主義的なところがある。僕は入不二のそういうところも好きなのだが、僕が切実に懐疑しているのに対し、彼はどこか道具的に懐疑をしているように感じていた。それは僕と彼の興味の違いなのだろうと思っていたが、より正確には、僕と彼の哲学的驚きへの対処の仕方の違いに由来するものだったのだろう。つまり彼に比べて、僕が単に回り道をしているに過ぎないということである。

6-2 永井の場合

もう一人の天才とは、「今ここの私」的思考の親玉とでも言うべき永井均である。

永井も入不二と同様に、多くの懐疑論者が驚きと疑いを転倒し、驚くべきものを疑うという不可避的な誤りを犯しているのに対して、何も転倒せず、ただ素直に驚き、驚いたままに哲学を遂行することに成功しているように見える。ただし、何に驚いているかが入不二とは違う。僕の見立てでは、入不二が「この世界」に驚いているのに対し、永井は「今ここの私」に驚いている。

そして、そこからぶれることなく、ただ「今ここの私」への驚きに始まり、「今ここの私」に終わるものとして、独在論的な哲学を遂行し続けている。「今ここの私」への驚きにひたりつき続けている。

だから、彼が「この世界」について述べたとしても、それは途中経過としての議論の材料として触れているに過ぎない。だから「この世界」などというものは疑っても何をしても構わない。永井は様々な思考実験を行い、そこで「この世界」に対する懐疑も様々なかたちで行う。それは一見すると、僕のような懐疑論者が行うあの懐疑によく似ている。だが、動機は全く異なり、永井が行っていることは、あくまで「今ここの私」への驚きを表現するための手段としての懐疑でなのである。

ここに(入不二と比べた場合の)永井特有の難しさがある。永井が行っていることは、「今ここの私」が「この世界」を疑うという点で、多くの懐疑論者と全く同型なのだ。ただし、その動機が全く異なる。それがわかりにくくて誤解されやすい。永井の人気は、この誤解に支えられていると言ってもいいように思う。

永井にとっては「この世界」などどのようなものであっても構わない。よって「この世界」は容易に懐疑に付することができるものとなる。確かに永井は、「今ここの私」が「この世界」を疑うということをやってはいるが、その懐疑の内実が大多数の懐疑論者とは全く異なるのだ。多くの懐疑論者は取り違えながらも切実に懐疑しているのに比べ、永井の懐疑は、あくまで「今ここの私」への驚きを語るための道具であり、付随的なものである。

7 無頓着さ

永井と入不二のことを僕なりに考察してみて、ひとつのことを確認できたように思う。僕はなんとなく、二人には懐疑論者的なところがあると思っていたけれど、彼らは懐疑論者ではなく、単に無頓着なだけなのだ。永井は「この世界」に無頓着であり、入不二は「今ここの私」に無頓着である。無頓着だからこそ、容易に懐疑に付すことができる。やっていることは一見懐疑論者に似ていても、懐疑論者ならば切実に懐疑に付す一方で、彼らは無頓着に懐疑に付している。そこには、大人が怨恨から人を殺めることと、幼児がアリの巣を水攻めすることくらいの違いがある。彼らが天才だとするならば、そこに天才たるゆえんがあるように思われる。僕のような凡人には、彼らの無頓着さが羨ましい。

実は、僕の懐疑とは「全てが疑わしい」というものであり、その疑いを成立させるための支点として言語を想定していた。僕は、言語を揺るぎないものと信じている訳ではないが、便宜上、僕の懐疑をとりあえず近似値としてでも描写するためには、言語という支点が最もマシなものとだろうと考えていた。だからこそ、僕のこのブログのタイトルは「対話の哲学」となっている。対話としての言語こそが、僕の哲学にふさわしいと思っていたのだ。

だが、彼らの無頓着さをみていると、そんな妥協などせずに、ただ驚いたものを驚きっぱなしでいればいい、とも思えてくる。まだ疑い始める前の、ただ圧倒され、ただ驚いていた「あれ」のことだけを、余計なことなど頓着せず、ただ考えればいいとも思えてくる。本当の哲学とは、そういうものなのかもしれない。

8 「あれ」を探しに

だが、僕はここで困ってしまう。僕が驚いた「あれ」とは何なのだろう。僕はまだそれをうまく語ることができない。永井や入不二には、自らが驚いた「あれ」について、懐疑などという迂回路を通らず直線的に把握するだけの力量があった。だからこそ、無頓着でいられたのであり、それが天才ということなのだろう。

残念ながら、きっと天才ではない僕には、今のところ迂回路が必要であり、これまで行ってきた懐疑の積み上げも無駄にはならない。だけど、このままではまずいので、迂回の仕方、つまり懐疑の使い方は考え直さないといけないように思う。

今回考えてみて、僕を含めたたいていの人は、驚きと疑いが逆転し、本来、疑ってはいけないものを疑い、拠って立ってはいけないところに立ってしまっていることがわかった。ただし、驚いているからこそ注目し、注目しているからこそ疑っているということだから、決して見当違いという訳ではない。そこに注目しつつも、そこに向けていた疑いから慎重に離れ、疑いを成立させるために仮置きしていた足元の支点に疑いの眼差しを戻すという作業をすればよいはずだ。僕ならば、言語という僕が仮置きしていた支点にこそ疑いの眼差しを向けつつ、今のところ「すべて」としか言いようがない何かに「驚きの目を向ける」ということである。それは当たり前のことを当たり前にやろうとする、ということである。

意識的に驚きの目を向ける、という表現に違和感があることからも明らかだが、当然、不可逆の逆転を遡るような芸当をそう安々と成し遂げることはできない。きっとどこかで無理が生じるだろう。だが、無理を承知で逆転を再逆転しようとすることで見えてくるものもあるはずだ。失敗が運命づけられた試みをあえて繰り返す果てに、わずかに垣間見えるものがあるかもしれない。

僕が今のところ想定している新たな迂回路とはそのようなものである。

こう書くと少々悲観的に聞こえるだろうけれど、僕が求める「あれ」は、そのような動的な試みと相性がいいようにも思えている。なぜなら、永井の独在性も、入不二の現実性もいずれも動的なあり方をしているからだ。永井や入不二が、原始的な驚きから離れずに哲学を遂行することに成功しているのは、そこに力動性が宿っているからではないだろうか。

そして、これから僕がやろうとしているトライアンドエラーの動的な運動には、驚きと疑いの間をつなぐ動性があると同時に、永井の独在性と入不二の現実性の間をつなぐ動性があるような予感がある。うまくいけば、僕は永井と入不二を架橋するような動的な何かを見つけることができるかもしれない。それはなかなか面白い目標設定ではないだろうか。