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目的と手段

※この文章は2000字くらいです。

カントは、人間を手段としてでなく目的として扱うべき、と言っている。

これは、広く捉えるならば、目的と手段を取り違えてはいけないという話の一種だと言えるだろう。例えば、子どもにいい会社に入ってもらいたくて、いい大学に入れようとして手段としての勉強をやらせていたら、子どもが勉強自体を好きになってしまって、哲学科に入って、そのまま大学院に進んでしまった、というようなことがありうる。これは、勉強という手段を目的と取り違えてしまった例だと言えるだろう。(この例は笑いを狙っている箇所です。)同様のことが色々なことに言えそうに思う。

特に、このような考え方が役に立ちそうなのは、「幸せ」についてである。

きっと多くの人が「幸せ」とは何だろう、と考えるだろう。そして、明確な答えは出ないだろう。考えた末に自分なりの答えは出ても、それが万人に当てはまる正解にはならない。だから僕たちは色々と悩み続ける。この「幸せ」についての問題も、手段と目的の取り違えに由来しているのではないだろうか。

僕も含めて大抵の人は、「幸せ」とは目的だと考えている。だから、幸せになるためには、お金持ちになればいいのだろうか、とか、健康であればいいのだろうか、なんて考える。これはつまり、「幸せ」が目的であり、お金や健康は、そのための手段であることを意味する。

だけど、実は、「幸せ」とは目的ではなく手段なのではないだろうか。まずは幸せになったうえで、そこから何をするか、というのが、本来の人生の問題の問い方なのではないだろうか。

ドラクエのようなRPGに例えるならば、手段とは、問題のスタート地点で装備する武器である。装備している武器を使って、時には武器をグレードアップして、最終的なゴール、つまり目的に到達することを目指す。

いい会社に就職するために勉強をさせる親の例に当てはめるならば、勉強が初期装備であり、いい会社に入ることが、魔王を倒すのと同じ意味でのゴールである。

同様に、人生の問題とは、実は、「幸せ」を初期装備として、そこから何を目指すか、という問題なのではないだろうか。

当然、初期装備としての「幸せ」を手に入れられていない人は多い。重い病気だったり、貧乏な家庭で育ったり、親が毒親だったりしたら、なかなか「幸せ」だとは思えないだろう。

だけど、それでは、病気が治ったり、お金持ちになったり、毒親から離れられたりしたら、それ「だけ」で幸せになれるかというと、そうはならないはずだ。もしそうだとしたら、健康で、お金持ちで、親がまともでありさえすれば、「幸せ」だということになるけれど、そのような状況でも不幸だと思っている人はいくらでもいる。

客観的な状況と、その人が「幸せ」であるかどうかは究極的には関係がないのではないだろうか。

きっと、どんな状況であっても、初期装備としての「幸せ」を手に入れ、人生というRPGを本当の意味で始められる道はあるはずである。それほど苦労していない僕には「どんな状況であっても」なんてことを言う資格はないけれど、フランクルの『夜と霧』を読んでいると、ナチスの絶滅収容所においても、その道筋は確保されているように思えてくる。

そして、僕自身はそれほど実践できていないけれど、きっと、マインドフルネスや瞑想といったものも、初期装備としての「幸せ」を手に入れるための技法なのだろう。

より正確には、初期装備としての「幸せ」を既に手に入れていることを思い出すための技法だと言ったほうがいいとおもうけれど。

(このように書くと、僕がまるで悟りを開いた人のように思えるかもしれないけれど、偉そうなことを書くのと、実際それを実践できるのではぜんぜん違うので安心してください。)

以上のようにして「幸せ」にまつわる取り違えを訂正し、「幸せ」とは目的ではなく手段であることを確認したならば、さて、僕たちは何を目的とすればいいのだろうか。初期装備としての「幸せ」を既に手に入れていることを思い出し、そこから人生というRPGを開始したならば、僕たちは具体的にどこに向かえばいいのだろうか。

僕はその答えを持っていない。けれど、きっと「遊び」がキーワードになるのではないかと予感している。なぜなら、すでに「幸せ」であるならば、そこにはやるべきことなど残っておらず、あとはすべて「遊び」であるように思えるからである。

いかに遊ぶか、それだけが人生の問題なのではないだろうか。

なお、この目的と手段の取り違えの話は、人生と幸せの話の他にも色々と当てはまりそうだと僕は思っている。今、僕が考えているのは、「思考」のことだ。僕は「思考」にも「幸せ」に負けず劣らず難しい哲学上の問題が色々あると思っている。特に僕が考えているのは、「思考により真実にたどり着けるのだろうか。」とでも言うべき問題である。

まだ考えている途中だけど、そもそも、思考を真実にたどり着くための手段だと考えているところに、この問題の難しさの原因があるのではないか、なんてことを考えている。

この話はまた別に書いてみたい。

死後のストーリー

※3500字くらいあります。哲学のことは書いてないつもりです。というか哲学じゃないことを書くことで哲学のことを書いているのかも。

1 方便としての死後のストーリー

子どもの頃の僕にとって、死んだらどうなるか、というのは大問題だった。死後は真っ暗で何もなくなっちゃうかも、それとも地獄に落ちるのかも、なんていうことを考えて、とても怖かったのだ。

その問題は今も解決はしていないけれど、今の僕にとっての大問題とは、とにかく、いかに生きるかであり、更には、そもそも生きるとはどういうことか、というものだから、子どもの頃の僕を捉えた、死後の問題は色褪せてしまっている。

だけど、生きるにあたって、死後についてひとつのストーリーをつくっておくことは役に立つかもしれない。なぜなら、いかに死ぬかを明確にしておくことで、いかに生きるかも明確にすることができるからだ。

加えて、科学が幅を利かせている現代においては、生きている間のことはすべて自然科学の知識を持った専門家が説明してくれてしまう、という事情もある。専門家に頼らず、素人が自由に考えられることは死後にしかない。せめて、そのくらいは自分で好きに考えさせてほしい。僕は、僕自身で死後のストーリーを考えたいのだ。

きっとそれが宗教なのだろう。もともとは、宗教は、死後のことだけでなく、生きている間の現世のことも決めることができていた。神様が海をかき回して日本をつくった、太陽は天使が動かしている、というように。だけど、そういう話はすべて科学的な説明に置き換えられてしまって、死後のことだけが宗教の管轄となっている。現代において、宗教とは、死後のストーリーなのである。

さて、僕が考えたストーリーはこうである。

「この人生は、5回繰り返される最初の1回の人生である。そして、この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」

このように考えるのは、臨死体験や神の啓示のような証拠があるからではない。そう考えることが、この現世を生きる力になると僕自身が感じるからだ。つまり、このストーリーは単なる方便なのである。

だけど僕はそれで満足だ。なぜなら、冒頭で述べたとおり、今の僕にとっての問題は、いかに生きるかであり、死後のことなどどうでもいいからだ。よりよく生きることができるならば、死後のことなど方便でかまわない。

(当然、ここにはいくつも問題がある。方便に基づき、よりよく生きることなどできるのか、とか、そもそも、よりよく生きるべきなのか、といった問題である。だけど、これらは哲学の問題であり、この文章では哲学には踏み込まないと決めているので、これらの問題は無視する。)

2 方便としてのストーリーの効能

なぜ、あえて方便に過ぎないストーリーについて書くのかというと、このストーリーが役立つと思うからだ。だから、ここからは、僕が考えた死後のストーリーの効能について紹介したい。

僕が考えるストーリーとはこのようなものであった。

「この人生は、5回繰り返される最初の1回の人生である。そして、この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」

では、どのようにして、僕のストーリーが役に立つのだろうか。

まず、5回輪廻が繰り返されるというところがミソである。1度限りの人生では寂しいし、無限に繰り返されるのではうんざりしてしまう。5回ではなくてもいいけれど、それほど多くない回数、繰り返されるくらいが丁度いい。

そして、そのうちの最初の1回目というのも重要である。5対5のポケモンバトルをしたとしよう。別にポケモンバトルじゃなくて、日本シリーズでもいいけれど、とにかく何回か戦って、その最終結果で勝ち負けを決める勝負を想像してみよう。そのとき、最初の負けはそれほど困らない。次は頑張るぞ、と思うことができる。だんだん勝負が進むにつれ、負けは諦めにつながるけれど、最初の1敗で諦めることはないだろう。

同様に、人生で失敗しても、この人生は最初の1回目で、これからまだ4回人生が残っていると思えば、悔しいけれど諦めとはならない。失敗から立ち上がることができる。そう思えることが、僕の死後のストーリーの効能である。

僕は、旅行の初日が好きだ。海外旅行だと初日は移動で終わってしまうときもあるから、正確には、着いた最初の夜、ホテルで寝て、起きてこれから何をしよう、と考える、あの瞬間が好きだ。そこには、4泊5日という有限の期間のなかに、無限の可能性が秘められている。有限と無限が混ざったような、あの感覚が僕は好きなのだ。もし、この人生が、5回の人生の最初の1回目の人生であるならば、この人生は、きっと、旅行の初日のようなワクワクするような人生となるだろう。

僕はそんな人生を送りたいと思っている。僕が死後のストーリーをつくりあげるということは、つまり、この今、現に僕が送っている人生を生きるストーリーをつくりあげるということでもある。

これは、つまり、方便としての死後のストーリーをつくりあげ、方便としての人生を生きることにもつながるため、哲学的にはやや危険なことではある。だけど、ライフハック的には悪くないような気がする。もし、宗教がライフハックなのだとすれば、僕のこの死後のストーリーもひとつの宗教になりうる。オーダーメイドの僕だけの宗教である。

3 もうひとつの効能

 僕のストーリーには、5回の輪廻転生のうちの1回めの人生ということに加えて「この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」ということも含まれる。

なぜ、こうなるのかといえば、もし、知識や記憶を来世に持ち越すことができたとしたら、この世の中にはそういう人がたくさんいるはずなのに、そうではないからだ。知識や記憶を来世に持ち越すことができたら色々便利だとは思うけれど、残念ながら、この世の中のあり方に反している。

また、なぜ人格的な成長の成果だけは持ち越すことができるのかといえば、知識や記憶は持ち越せないにしても、何かしらを持ち越すことができなければ、そもそも輪廻転生にはならないからだ。僕が僕として輪廻転生をするためには、何らかの連続性がなくてはならない。その何かとは、きっと、人格的な成長の成果に違いない、と僕は思うのだ。

当然、僕の輪廻転生の連続性を確保するのは他のものでもいい。例えば、僕は納豆が好きなのだけど、来世でも納豆が好きであれば、僕の連続性は確保されるだろう。または、僕は扁平足なのだけど、来世でも扁平足なら、僕の連続性は確保されるだろう。そのような嗜好や身体的な特徴でもいい。では、僕は、なぜ、あえて、人格的な成長の成果により、連続性を確保するというストーリーを描くのだろうか。

それは、僕の勝手な思いつきであり、僕の押し付けがましい思想であるのは確かだろう。僕は、校長先生のつまらない長話のように、だらだらと、人格的な成長が大事だと主張しているに過ぎない。

だけど、一応、多少はフォローしておくと、納豆好きというような嗜好や、扁平足であるというような身体的特徴は、それが変わらないということで、僕の連続性を確保している。一方で、人格的な成長とは、つまり僕の人格が変わっていくということであり、僕の人格が変わっていくことで、僕の連続性が確保されているのであるという違いがある。変化により連続性を確保するというストーリーには、他のストーリーにはない特別さがあるのである。

その変化を人格的な成長と呼ぶかどうかは別にして、僕は、この人生のなかで変化していき、そして、その変化こそが、来世の人生と今の人生とを結ぶ紐帯になる。そう考えることで、今、僕がやっていることが無駄ではないと少しだけ思える。それは、無根拠な思想ではあるけれど、このストーリーのもうひとつの効能だと思う。

こうして、死後のことについて思いを馳せることで、僕は、僕なりの宗教と僕なりの思想をひねり出し、多少は心穏やかにこの人生を過ごすことができることになる。

残念ながら、哲学者としての僕は、宗教や思想は哲学にとっての夾雑物だと考えている。だから、僕がぼんやりと、宗教や思想に心の安らぎを求めようとしても、心の中のどこかから、そんなものは方便であり、まがい物ではないか、という声がする。哲学者としての僕が、生活者としての僕を追い詰めてしまっているのだ。

だから時々は、そんな声など無視して、こんなことを考えるのもいいかもしれない。僕は死後について考えることで、僕の宗教と僕の思想に身を委ね、僕自身を癒やすのだ。そのような意味で、死とは癒しなのかもしれない。

ネコを撫でる

※1700字くらいの短い文章です。

チーズという飼い猫のことを何回か書いたけれど、もう、チーズが死んで4ヶ月になる。

だけど、あんまり、チーズのことを悲しむ暇はなかった。その後、残されたもう一匹のネコのタックンがなんだか元気がなくて、そっちの心配ばかりだったのだ。

あまり水も飲まないし、妙に甘えてくるし、ストレスからか、毛づくろいのしすぎで、お腹の毛もなくなってしまった。チュール(という麻薬のようなネコのおやつ)を水に溶かして水を飲ませたり、時間をかけてなでてあげていたら、少しずつ元気になってきたけど、前のタックンとは変わってしまったなあ、と心配だった。

そうこうしていたら、妻がやっぱりもう一匹飼いたいということで、3週間くらい前に新しいネコがお試しで来た。すると、先住猫タックンはすっかりもとに戻った。新参ネコに追いかけられたり、逆に、うざ絡みしたり、一緒に寝たり、楽しく過ごしている。もう、水も飲むし、ご飯も食べ過ぎなくらいで、僕に甘えてくることもあまりない。ようやく、僕らは落ち着き、心穏やかにチーズのことを思い出しながら、タックンのことを撫でることもできている。(新参ネコとも遊んでます。)

タックンのことを撫でながら僕は思う。タックンは幸せかなあ、と。そして僕は思う。きっとタックンは幸せなのだろうなあ、と。僕は、きっと、このタックンのことを幸せにできている。この僕の手の動きが、タックンのことを幸せにしている。

そして、撫でることで、撫でられるタックンだけでなく、撫でる僕も幸せを感じている。さわり心地がいいし、心が落ち着くし、何より、タックンが幸せそうにしているのがうれしい。この撫でるという作業は、タックンと僕の両者を幸せにしている。

僕にとって、タックンとは他者の象徴である。より厳密に言うならば、タックンとは愛すべき他者の象徴である。だから、撫でるという作業は、僕と他者との理想的な関係性を象徴していると言ってもいいだろう。他者が幸せになり、そして、僕自身が幸せになる、というのは極めて理想的なことである。

それならば、理想的な人生とは、ネコを撫でるような人生なのかもしれない。もし、ネコを撫でることが仕事で、ネコを撫でていればお金に困らず暮らしていけるならば、それは、多くのネコ好きの人にとって理想的な生活だろう。(ちなみに僕は、実はイヌ派です。)

ちょっと哲学的に味付けをすると、僕は時間論が好きだ。僕は、時間と人称の問題は同型の問題として論ずることができると考えている。永井均は、〈私〉と〈今〉は同型性があるとしているけれど、そういう意味である。

それならば、ネコを撫でるという、人称的な他者についての作業は、時間論的に拡張することができるはずだ。つまり、ネコを撫でるように、他の時点の自分自身を幸せにし、そして、そうすることが今の時点の自分自身も幸せにするような、理想的な作業があるはずではないか、ということである。

今の僕が、過去の僕や未来の僕を撫でる。そうすることで、過去の僕や未来の僕が幸せになる。そして、そうすることが、今の僕の幸せにもなる。もし、そのような理想的な作業を発見できれば、それが、僕の理想的な人生の送り方となるのではないだろうか。

残念ながら、今のところ、そんな理想的な作業の具体的な中身を想像することもできない。例えば、幸せな思い出を思い出すことは、今の僕を幸せにするけれど、過去の僕をより幸せにすることはできない。また、将来の目標に向かって努力することは、未来の僕を幸せにするけれど、今の僕を必ずしも幸せにしない。いずれも、ネコを撫でるほどにはうまく、現在と過去・未来の両者の幸せを両立してくれない。

ただし、過去と現在と未来をひとつながりのものとして捉え、過去を想起し、未来を予期することが、異なる時点における「私」の幸せを両立させるための鍵になるのは確かだろう。もし、過去を撫で、未来を撫でるように生きることができれば、それが幸せの道なのだろう。人称的には、他者を撫で、そして時間的には、過去を撫で、未来を撫でるということである。

ただ、僕には、過去の撫で方や、未来の撫で方はわからないし、むやみに他者を撫でたら犯罪になってしまうので、とりあえずはネコを撫でることにしよう。