5800字くらいです。哲学カフェ活動を再開するついでに、せっかくだから僕の活動にキャッチコピーをつけてみようと思い立ったものです。

キャッチコピー

日本のロックバンドでは、差別化のため、自分の音楽にキャッチコピーをつけることがある。例えば、怒髪天だと「R&E」(Rock&演歌)、バックドロップシンデレラだと「ウンザウンザ」、岡崎体育(バンドじゃないけど)だと「BASIN TECHNO」。それにならって、僕も自分がやっている哲学対話(哲学カフェ)活動にキャッチコピーをつけてみることにした。「Reverse Engineering Dialogue」略してRED。

この文章は、このキャッチコピーの名付けの理由を書き残しておくためのものだ。

はじめに断っておくと、ゴールデンウィークのロックフェスでの興奮冷めやらぬ中、ちょっと思いついたネタです。だから、それほど深い哲学的含意はありません。

Reverse

さて、この名付けの中身の話に移るけれど、この「Reverse Engineering Dialogue」において重要なのは「Reverse」の部分だ。普通の会話は順方向だけど、僕の哲学対話は逆方向だということを強調したいのである。

普通の会話が順方向だというのは、例えばこんな感じだろうか。

A「ゴールデンウィークにロックフェスに行ったんだよ。」

B「どんなバンドが出たの?」

A「怒髪天とかバックドロップシンデレラとか岡崎体育とか。」

B「怒髪天ってベースの人が辞めちゃったよね。」

A「亜無亜危異のベースがサポートに入ってたよ。」

などなど。

この会話の例では、前の発言が前提となり、その前提を受けて、次の発言がなされている。会話の中で、例えば、ロックフェスや怒髪天(というバンド)を互いに知っているという前提を次々に生み出しながら、それらの前提をもとにより詳細の話に移っていく。先行する発言を受けて先へ先へと話題が進んでいくという意味で、このような普通の会話は順方向だと言えるだろう。

一方で、哲学対話においては、会話が逆方向となる。

A「ロックフェスは楽しいよ。」

B「どういうふうに楽しいの。」

A「非日常が味わえるからかな。」

B「どうして非日常が味わいたくなるの。」

A「いつも通りに変わらない日常を生きてると飽きてくるからかな。」

B「仕事でトラブルが起きても非日常だけど、そういう非日常は嫌だよね。」

A「確かに、嬉しい非日常と嬉しくない非日常があるのはどうしてだろうね。」

などなど。

この会話の例では、前の発言を前提とするのではなく、前の発言が意味するところを吟味するようにして会話が進んでいく。この会話では、例えば、ロックフェスの楽しさや、非日常性の価値といった概念が用いられるが、それらの概念は互いの共通認識となることができない。だから、哲学対話における会話は、概念の意味を確認するようなかたちで、先行する発言の手前へ手前へと遡っていく。そのような意味で、僕は哲学対話における会話は逆方向であると考えている。

そのようなことを考え、僕の哲学対話のキャッチコピーに「Reverse」という言葉を入れ込んでみた。哲学対話とは、誰かが発した言葉をそのまま受け入れるのではなく、吟味し、時には疑い、その正しさを確かめるようにして遡るようにして進んでいくものなのである。

Reverse Engineering

だが、単に「Reverse」ではなく「Reverse Engineering」としたのは、第一に語感がいいからであり、英語が苦手な僕でも思いつく範囲では、かっこいい言葉だと思ったからだ。更には「Reverse Engineering Dialogue」ならば、REDという、覚えやすい略称になる。

だが、一応、後付けの理由をつけ足しておくと、僕は、そもそも言葉とは、リバース・エンジニアリングのようにして理解されるものだと考えているからでもある。

リバース・エンジニアリングは、例えば、コピー商品を作るときに行われる。特許のことなど気にせずにダイソンの掃除機を作りたくなったら、まず、ダイソンの掃除機をお店で買ってきて分解し、内部の構造を写しとるようにして設計図を書き、同じ形の部品を自分で作って量産するのがいいだろう。それをコピー商品として売り出せば、開発費をかけずに大儲けできる。設計図から部品を作って完成品を組み立てるのが普通のエンジニアリングだとしたら、逆に完成品を分解して設計図を書くからリバース・エンジニアリングである。

そして、僕は、言語の理解とは、すべからくこのようなものであると考えている。

(なお、ここでのリバース・エンジニアリングは違法だけど、ちょっとネットで調べたところ、自社で作成した試作品から図面を書き起こすというような、違法ではないリバース・エンジニアリングもあるようだ。だが、違法性の有無は、ここでの説明には関係がない。)

怒髪天概念

リバース・エンジニアリングの仕組みについて、具体例を用いて説明しよう。

あなたが、僕から「怒髪天が好きなんだ。」という言葉を聞いたとする。あなたは怒髪天を知らず、話の流れからしてバンドの名前だろう、という程度のことしか想像がつかない。だから、あなたは僕に「怒髪天ってどういうバンドなの。」と質問する。

ここで重要なのは、あなたは、怒髪天概念の完成品を一応は手に入れているという点である。だからこそ、「怒髪天ってどういう食べ物なの。」でも「怒髪天ってどういう状況なの。」でもなく、「怒髪天ってどういうバンドなの。」という言葉を発することができる。概念を使用できるということは、とりあえず概念の完成品を手に入れているということである。

そのうえで、「怒髪天ってどういうバンドなの。」という言葉を発するためには、完成品としての概念を分解しなければならない。怒髪天とはバンドだろう、名前からして怖そうな人たちだろう、多分、日本人(日本語話者)だろう、などと、怒髪天に関して思いつく限りの事柄を頭の中で書き出す。これは、いわば、怒髪天概念を分解し、頭の中で怒髪天概念の設計図を描くということである。

そのうえで、現時点で書き出しうる限りでの設計図を眺め、足りない部品を見極め、その穴を埋めるべく質問をする。「怒髪天ってどういうバンドなの。」という言葉を発するにあたっては、以上のプロセスを経ていると僕は考えている。

怒髪天概念の完成品をまずは手に入れ、怒髪天概念についてわかっていることを書き出すようにして概念を分解して設計図を書くという、この一連のプロセスが、リバース・エンジニアリングなのである。

なお、「怒髪天ってどういうバンドなの。」というあなたの問いに対して、僕は、怒髪天は自分の音楽を「R&E」(Rock&演歌)と名乗ってるんだよ、50代のおっさんバンドなんだよ、4人組だったけどベースが脱退して3人組になっちゃったんだよ、などと説明することになる。

こうして、あなたは、より解像度が高い怒髪天概念の完成品を手に入れる。だが、当然、あなたは完璧な怒髪天概念は手に入れてはいないし、僕も手に入れていない。きっと、怒髪天のメンバーだって手に入れることは不可能だろう。なぜなら、完璧な怒髪天概念のなかには、怒髪天のライブをきっかけに不倫を始めた中年カップル※といった、怒髪天のメンバーでも知ることができない事柄が含まれているはずだからだ。

(※別に不倫じゃなくてもいいのだけど、怒髪天のファン層は高齢化しているので、リアルさを出すために中年カップルの不倫にしてみた。)

だが、完璧な怒髪天概念に到達することはできなくても、怒髪天についての会話を続けていくことで、怒髪天概念の解像度をどこまでも高めていくことは可能だろう。ここでの会話には、怒髪天のメンバーのSNSの書き込みや、ライブレポやインタビュー記事を読むことも含む。そのような会話のたびに、僕たちは、リバース・エンジニアリングを繰り返し、怒髪天概念の解像度を高めていく。

自由、幸せ、愛

ここまで怒髪天概念ばかり用いてきたが、当然、その他の言葉についても同様である。というか、リバース・エンジニアリングがより重要な問題となるのは、怒髪天よりは、自由、幸せ、愛といった哲学的な諸概念についてであろう。

なぜ、哲学的諸概念のリバース・エンジニアリングが重要かというと、そもそも、これらの概念が重要だからという理由もある。だが、僕が強調したいのは、これらの哲学的概念は抽象的で、明確な把握が難しいから、概念把握に個人差が大きく、すれ違いが生じがちだ、という理由である。だからこそリバース・エンジニアリングにより、ともに解像度を高め、すれ違いを埋める必要があるのである。

抽象的概念がすれ違いを生むという問題の具体例を挙げておこう。例えば、怒髪天ならば元4人組の3人組のおっさんバンドというように、誰もが共有できる具体的な描写が可能だ。だが、自由という抽象的な概念については、具体的な描写がうまくいかない。例えば、冤罪で長期間勾留された人が無罪が認められ釈放された状況は、多くの人が自由と呼びそうだが、連続殺人鬼が脱獄した状況が自由かどうかは意見が分かれそうだし、これらの自由と、自然科学上の自由電子の自由とが同じ自由かどうかも更に意見が分かれそうだ。

それなのに、自由、幸せ、愛といった概念については、皆がそれなりに考え、わかったような気になっている。実際、「そんなの俺の自由だろ。」「残業なんかしないで温泉行けたら幸せだろうな。」なんていうふうに頻繁に使用しているから、自らが所有する概念について、見解の相違が生じるなんて思いもしない。いわば馴染みがありすぎて、自らの自由概念や幸せ概念が、実は不十分なもので、解像度が低いなんて思いもしない。だから考える必要なんてない、という訳だ。

または、(僕のように)歳を取った人にとっては、このような人生の根幹にある概念についての自らの理解が不十分であることを認めること自体が怖い、という事情もあるのだろう。これまでの数十年の半生をかけて求めてきた幸せが、実は全然見当違いなものだった、という事実には、できるなら目を向けたくないはずだ。

そういうわけで、これらの概念のより解像度が高い把握は、必要なことであるにも関わらず、とても困難なのである。だが、だからこそ、丁寧なリバース・エンジニアリングを積み上げていく必要があるとも言える。

哲学対話

そこで役立つのが哲学対話である。僕が考える哲学対話とは、このリバース・エンジニアリングに特化した会話のことである。

まず、哲学対話という名称からわかるように、哲学対話イベントの開催に先立つテーマ設定の時点で、自由、幸せ、愛といった、いわゆる哲学的な概念が取り扱われがちだ。

また、「どうしてイジメをしてはいけないのか。」といったような、一見、哲学的とはされないような問いから出発したとしても、先ほど「Reverse」として述べた、遡及する方向での議論がなされることにより、やがて、自由、幸せ、愛といった哲学的概念に行きつくことになりがちだ。哲学対話はそのようにデザインされていると言ってもいい。

更には、この「Reverse」という遡及の力が、自由、幸せ、愛といった強固な哲学的概念を解体するのに役立つ。

他者から、「そもそも自由って何。」というように日常生活ではめったにぶつけられることのない問いを問われることにより、強固に自己完結した完成品であるはずの自由概念に亀裂が走り、分解される。分解し、「自由とは制限がないことだ」「自由とは欲望に忠実であることだ」なんていうふうに、自由についてわかっていることを書き出し、自由の設計図を描いていく。つまり、自由概念をリバース・エンジニアリングしていく。

そして、できあがった設計図を眺め、不足している個所を補うようにして対話を進めていく。「制限があっても自由であることができるんじゃないのかな。」なんていうふうに。そして、その問いに答えることで、より解像度が高い自由概念の完成品を手に入れる。そして、その完成品はまた解体されていく。このようにして、哲学対話のなかで、リバース・エンジニアリングは繰り返され、自由概念の解像度は高まっていく。

布教活動

だから、僕は自らの哲学対話活動を「Reverse Engineering Dialogue」と名付けた。僕は、自由、幸せ、愛といった強固な哲学的概念を解体し、より解像度が高い概念に作り変えたいのだ。

当然、そこには、対話の力を借りて、僕自身が抱える強固な哲学的概念を解体し、作り直したいという動機がある。だが、それに加えて、僕以外のこの哲学対話イベントの参加者にもそうしてほしいという動機もある。いわばリバース・エンジニアリングの押し売り、布教活動である。

そして、なぜ、こんな布教活動のような押し売りをするのかといえば、ただ、僕が好きなことを広めたいからである。リバース・エンジニアリングを通じて解像度を高めることは、きっと哲学の根幹にあり、こんなに面白いことを皆に知ってもらいたいからだ。

だが、書いてみて気付いたが、この哲学対話の営みには、単なる面白さとは別に、参加者間の共通理解の醸成という意義もある。もともとは大きく異なっていた自由、幸せ、愛といった哲学的概念への理解が、哲学対話の場を通じて、ともにリバース・エンジニアリングを行い、ともに解像度を高めていくことで、その違いはより小さなものになっていくのである。

概念というものは、ある人のそれまでの人生を背負っているものだから、当然、完全に同じものに重ね合わせることは不可能だろう。だが、参加者間での哲学的概念のすれ違いを、より少なくしていくことはできる。

それは、この社会において大きな意義があることである。哲学対話というものに公共的な意義を見出そうとする人は、このことを重視しているのかもしれない。

だが、僕は、あまり、そういうことは考えない。確かに、哲学対話の場において、僕と参加者との概念理解の距離が狭まったと感じることはある。それは、とてもワクワクして満たされる瞬間である。だが、そこに、それ以上の意義を込めたくはない。ワクワクして面白い、それだけでいいじゃないか、と思う。