※7000字くらいあります。ただ、少しでも読みやすくなるよう、本論については、表を多用して4400字くらいに留め、あとは蛇足としています。

「A事実」「B事実」「A変容」「B変容」

これまでした話と被っているかもしれないけれど、まとめておきたくなったので、まとめておく。

ここでしたいのは、『〈私〉の哲学をアップデートする』という永井均、入不二基義、青山拓夫、谷口一平の共著に登場する、時間にまつわるいくつかの概念についての話である。

この本の中で、谷口が「A変容」というものを新たに持ち出し、それに対して永井は、それも大事だけど、やっぱり大事なのは「A事実」だぞ、と応答し、一方で、入不二は、更に「B推移」というものを付け加える。

これに対して、僕は新たに「B事実」を付け加え、「A事実」「B事実」「A変容」「B変容」の4つの概念の絡み合いとして時間の問題に切り込んでみたい。

まず、ざっくりと誤解含みの述べ方をするならば、次のように言えるだろう。

A事実内側から把握された事実。主観的事実。クオリアを伴う認識的事実。〈私〉と〈今〉にだけある事実。
B事実外側から把握された事実。客観的事実。伝達し、共有可能な言語的事実。世界的な年表的な出来事としての事実。最も成功したB事実の体系として自然科学があるが、自然科学的事実には限らない。
A変容ヒバリが空を飛んでいく、というような〈今〉における未分の全体としての変容。
B変容出来事が生じるという変容。入不二の現実論に即すならば、潜在性が顕在化するという変容。

 このAやBというのは、マクタガートのA系列やB系列の話に由来していているのだけど、その話を知らない方はそのままでいいけれど、もし、知っている方は、一旦、マクタガートの話は忘れたふりをして読み進めてほしい。僕は、A系列やB系列といった話は、、「A事実」「B事実」「A変容」「B変容」という4つの概念を間違えたかたちで構造化してしまったために生じた問題なのではないか、と考えている。(このことは蛇足として後ほど論じたい。)

マクタガートのような誤りを招かないためには、事実がひとつしかない状況から出発するべきなのである。

事実がひとつしかない状況

事実がひとつしかないとはどのようなことか。

それは、谷口のヒバリが空を飛んでいく場面を例とするならば、①ヒバリが赤い屋根の家の上を飛んでいるという状況と、(そのヒバリが大空を横切り、やがて、)②そのヒバリが鉄塔の上を飛んでいるという状況とを、別の二つの事実であるとしないということである。

そして、事実をひとつにするやり方には二通りあるだろう。ひとつは縮減するやり方であり、もうひとつは拡張するやり方である。

縮減①ヒバリが赤い家の上にいるという事実だけに着目し、②ヒバリが鉄塔の上にいるという事実を、①時点での単なる予期であるとして切り捨てるやり方。この場合、①時点におけるヒバリの知覚と②の予期の両方を行っているという事実だけがあることになる。(②事実にだけ着目し、①事実を②時点での単なる想起であるとしても同じ。この場合、②時点におけるヒバリの知覚と①の想起の両方を行っているという事実だけがあることになる。)この場合、〈今〉は限りなく縮減された一瞬であることになる。
拡張①ヒバリが赤い家の上にいるという事実と、②ヒバリが鉄塔の上にいるという事実とを一連のひとつの、ツバメが空を横切るという事実であるとするやり方。この場合、〈今〉はある程度の時間的な幅があることになる。

そして、この二つのやり方を極端に推し進めるならば、次のように特定の哲学的立場につながる。

縮減の極限化すべてがこの瞬間における知覚と、この瞬間における想起と、この瞬間における予期である。いわば、5分前世界創造仮説を局限まで推し進め、この瞬間にすべては創造されたと考えることになる。独今論。
拡張の極限化ツバメが空を横切る数秒が〈今〉であるならば、ライブで一連の演奏を聞いている数分間も〈今〉であり、海外旅行など濃密な時間を過ごしている渦中においては旅行中の数日間もひとつながりの〈今〉であり、その先には、この人生はすべてひとつながりの〈今〉である、と考えることにつながる。

事実がひとつしかない状況についての4つの捉え方

更には、ここまでの描写は主観的なもの(つまりA事実的なもの)ばかりだったので、客観的な出来事(つまりB事実的なもの)として捉えるならば、拡張の極限化は二通り想定することができる。

縮減の極限化独今論。
拡張の極限化主観的把握(A事実的)この人生はすべてひとつながりの〈今〉。
客観的把握(B事実的)この世界の出来事はすべて因果律(や何らかの関係性)で結びついているから不可分である。つまり、この世界の出来事はすべてひとつながりの〈今〉である。

また、縮減のほうも、主観と客観が未分化となっていたので、二通りに切り分けることができる。

縮減の極限化主観的把握(A事実的)この瞬間に私が知覚し、想起し、予期したものがすべて。主観的独今論。独我(かつ)独今論
客観的把握(B事実的)この瞬間に生じた出来事がすべて。その出来事の中には、我々人類が想起し、予期したこと全てが含まれる。客観的独今論。
拡張の極限化主観的把握(A事実的)この人生はすべてひとつながりの〈今〉。
客観的把握(B事実的)この世界の出来事はすべてひとつながりの〈今〉。

こうして、事実がひとつしかない状況についての捉え方を極端に推し進めると、次の4つの考え方を導けることになる。

縮減の極限化主観的把握(A事実的)主観的独今論。独我(かつ)独今論
客観的把握(B事実的)客観的独今論。5分前世界創造仮説の極限化バージョン。
拡張の極限化主観的把握(A事実的)この人生はすべてひとつながりの〈今〉。
客観的把握(B事実的)この世界の出来事はすべてひとつながりの〈今〉。

変容

そのうえで、谷口はA事実にはA変容があるとし、対して、入不二はB事実にはB変容があると主張していると理解すべきである。(入不二はそう論じていないけれど、そう考えるべき、というのが僕の指摘である。)

変容とは、一挙の動性であると言ってよいだろう。谷口は自らのA変容を描写するにあたってヒバリを例にするけれど、谷口は、動きがない大空から分節化されたヒバリだけが動性を有しているとは考えてはいないだろう。このヒバリが空を横切るこの情景すべてが活き活きとした動性を有しているのである。また、入不二のB変容についても、ヒバリや、僕の目の前にあるヘッドホンといった事物だけが顕在化するという場面は想定してはいないだろう。この情景すべてが一挙に顕在化するのである。

つまり、A変容とは、A事実が有する一挙の動性のことであり、B変容とは、B事実が有する一挙の動性のことなのである。

このことを、先ほどの、事実がひとつしかない状況についての捉え方を極端化した4つの考え方に当てはめてみると次のようになるだろう。

縮減の極限化主観的把握(A事実的)この瞬間における私の知覚や想起や予期における動性こそがA変容
客観的把握(B事実的)この瞬間におけるすべての出来事が一挙に顕在化するという動性こそがB変容
拡張の極限化主観的把握(A事実的)この私の人生というひとつながりの出来事を貫いている動性こそがA変容
客観的把握(B事実的)この世界(科学的に述べるならビッグバンによる宇宙造からビッグチルによる宇宙終焉までのひとつながりのプロセス)全てが創造され、顕在化するという動性こそがB変容

縮減の極限化と拡張の極限化の接続

ところで、縮減の極限化と拡張の極限化は接続できる。

なぜなら、〈今〉がこの瞬間を指すにせよ、この人生を指すにせよ、この宇宙の始まりから終わりまでを指すにせよ、その〈今〉が有意な内容を持つためには、「非今」の領域を確保し、その対比として〈今〉を描写しなければならないが、縮減の極限化と拡張の極限化により、「非今」の領域は確保不可能となるからだ。

例えば、5分前世界創造仮説であれば、実は、捏造ではない、10分前の時点が非今として存在していて、その対比として、捏造されたものとしての10分前の主観的な記憶や客観的な記録が〈今〉、創造されたということになる。それが可能となるためには、5分間はきちんと過去があるという点が重要で、5分間の捏造ではない過去の延長線上に捏造ではない10分前の時点を想定できるからこそ、捏造された10分前の記憶や記録と対比できる。(この話の元ネタが入不二の本にあった思うけど、どこだったかな。))

だが、もし、全ての過去が、今、創造されたものならば、過去自体が存在せず、その結果、今に対比される非今という領域自体が存在できないことになる。

すべてが今という瞬間である、という極限まで今が縮減された考え方と、人生のすべて、または、宇宙の開闢からのすべてが今である、という考え方は、非今という領域がどこにもないという点で、きれいに重なる。いずれにせよ、そのような極限化された考え方の元では、今と非今の区別は意味をなさず、つまり、過去・現在・未来という時制は意味をなさない。そこでは、せいぜい、知覚し、観察できることを現在と呼び、記録され、想起されることを過去と呼び、予期されることを未来と呼ぶ、というような、時間とは関係のない用語の使い方が残るだけである。

AとB

こうして、問題は、主観的なA事実(変容)と客観的なB事実(変容)という問題に収斂していくことになる。

ここからは、永井がさんざん議論してきた問題である。(永井ならば、ここまで僕が行ってきた、主観や客観という用語からして問題がある、ということになるのだろう。)

僕がここで着目したいのは、A事実とは、クオリアを伴う認識的事実であり、一方で、B事実とは言語で伝達可能な言語的事実である、という点である。

ヒバリが空を飛ぶという状況は、A事実として捉えるならば、ヒバリが空を横切るという動性を伴う、ありありとしたクオリアを伴った心象風景である。その同じ情景をB事実として捉えるならば、ヒバリが空を飛ぶという出来事が生じているという状況の描写である。更に少し錆びた鉄塔や雲一つない青空といった描写はいくらでも加えることはできるが、そこには言語しかなくクオリアはない。あえて言えば、観察者である谷口の心にはクオリアが生じているという言語による描写はできるが。

そして、常識的には、A事実としての描写とB事実としての描写はきれいに重なって一致する。なぜなら、言語を使用するためには、その言語使用を支える認識が必要だし、認識が認識として表現されるためには、言語を使用して表現する(または非言語的な表現を言語的に理解する)必要があるからだ。言語と認識が協働するから、クオリアを伴うかたちでの言語的描写という、常識的な営みが可能となる。だから、A事実とB事実は混同され、その違いが隠蔽されることになる。

(ここで話は区切りなのだけど、蛇足的に話を続ける。)

蛇足:永井と入不二

そのような、言語と認識の協働作業にくさびを入れたのが永井であるとも言える。永井は、言語では回収できない認識があることを発見し、それを独在性と名付けた(、と僕は考えている)。永井が独在性を説明する際には、「殴られたら現に痛い〈私〉」といった話が用いられるが、これは、永井の独在性が認識を経由する必要があるということを示している。(一旦、独在性に至ってしまえば、認識によらない議論はできるとは言え。)

もし、そうであれば、入不二は逆に、認識では回収できない言語があることを発見し、それを現実性と名付けたとも言えるだろう。

入不二は、「現に」という言葉が、どのような(真なる)文にでも付け加えられることを発見した。「ヒバリが空を飛んでいる。」は「現に、ヒバリが空を飛んでいる。」なのである。だが、「ヒバリが空を飛んでいる。」という認識を表明するためには「ヒバリが空を飛んでいる。」と言えばよい。この「現に」は認識を表明する上では余剰だ。入不二は、認識に対して言語が過剰となっている部分を発見し、その差分を現実性と名付けたのだ。

ちょっと入不二については説明がわかりにくかったかもしれないので、僕独自の説明を加える。入不二の主張ではないが、僕は、入不二の「現に」の力は、真なる文だけでなく、例えば、「ソクラテスは宇宙飛行士である。」といった偽なる文にも付け加えることができる、という点に真の威力があると考えている。「現に、ソクラテスは宇宙飛行士である。」なのである。

当然、このような文は、やがて反証され否定されるだろうが、それまでの間、そう発言した者が「現に、ソクラテスは宇宙飛行士である。」と考えていたことは揺らがない。または、「ソクラテスは宇宙飛行士である。」という文が、「現に」発話されたことは揺らがない。

「ソクラテスは宇宙飛行士である。」という文は、「ソクラテスは宇宙飛行士である。」という状況だけでなく、発話者がそう考えていることや、そのような発話が行われたということも一挙に指し示す。言語にはそういう特殊な能力があり、逆に言えば、状況と発話者の信念と発話の事実とがごちゃまぜになってしまうという欠点がある。

この言語の特殊な能力または欠点を前提とするならば、「ソクラテスは宇宙飛行士である。」は、「現に、ソクラテスは宇宙飛行士である。」なのである。入不二の「現に」という言葉は、偽なる文も含め、すべての文に付加できるという強力なものなのだ。

なお、当然、永井の独在性と同様に、入不二の現実性も、そこには留まらず、形而上学な考察は進んでいく。だが、議論の出発地点において、永井の独在性は認識を通じて見出され、入不二の現実性は言語を通じて見出されることは確かだろう。

以上の話を、この文章での話につなげるならば、永井は、A事実についての哲学をしており、入不二は、B事実についての哲学をしている、ということになる。そのうえで、いかにAとBを繋げるのか、というところに彼らの哲学の面白さがある、ということになる。

蛇足:事実が複数ある状況

ここまで、AにせよBにせよ事実がひとつしかない状況を前提に置き、全ては、その事実の内部における変容である、と論じてきた。そして、ここまでの議論で極めてシンプルに時間にまつわる問題を整理できた、ということをもって、その正しさを示すことができたと考えている。

だが、常識的な感覚に基づき、事実がひとつしかないという状況設定に違和感を抱えたままの方も多いかもしれない。そのような方に対して蛇足的な説明を試みたい。

確かに、素直に考えるならば、①ヒバリが赤い屋根の家の上を飛んでいるという事実と、(そのヒバリが大空を横切り、やがて、)②そのヒバリが鉄塔の上を飛んでいるという事実とは個別の二つの事実である。そして、①の事実と②の事実との間には変化がある、と考えることになる。複数の事実と、その事実間の変化とで時間を説明するのである。

そのような普通の考えに立ったのが、A系列やB系列という考え方である。複数の事実があるから、それを系列化し、その事実間の関係性をA変化やB変化として描写するのである。だが、残念ながら、この試みはうまくいっていない(、と僕は思う)。

その理由は明らかで、A系列というかたちで、A的な議論をしようとしているにも関わらず、「出来事が生じる」というかたちでB変容を混入させているからだ。または、B系列というかたちで、B的な議論をしようとしているにも関わらず、「出来事が推移する」というかたちでA変容を混入させているからだ。

そもそも、事実が複数あるという状況自体が想定として混乱している。複数ある事実のうちのひとつひとつを出来事と呼ぶならば、複数の出来事が起きるためには、「出来事が生じる」というB変容が必要である。そのうえで、それぞれの出来事が、同じ「出来事」という言葉を使って描写できるような関係性を持つことが必要であり、そのためには、「出来事間の推移」というA変容による関係づけがなされなければならない。こうして、A変容とB変容をうまく組み合わせることで、ようやく、出来事が複数あるという状況を作り出すことができるのである。

だが、A変容とB変容は、ここまでの僕の考察では全くの別物であり、どうして、そのような都合のよい組み合わせが可能となるのか、僕にはさっぱりわからない。端的に言って、出来事の複数性と変化に基づくA系列やB系列は、無根拠な砂上の楼閣である。

(入不二は、この本で、A変容とB変容とを組み合わせた図を書いているが、僕は、それが成功したとは考えていない。確かに入不二は、正しいことを述べているが、それは、より深いAとBとの関わりのひとつの現れにすぎないのではないか。)

それよりは、当面は、事実はひとつしかない、と考え、AとBとを切り分けて考えたほうがはるかにスマートだろう。そして、将来、永井や入不二のような人が、AとBをうまく繋げる道筋を見つけるのを待つか、自分で探したほうがいい。