※4000字くらいあります。僕が好きな入不二先生の円環モデルの話。

無を巻き込んだ力

まだ本にはなっていないけれど、入不二によれば、入不二の円環モデルを駆動する現実性の力とは、「無を巻き込んだ力」であるとのことである。

と書いただけでは何のことかわからないと思うので僕の理解の限りで簡単に説明すると、入不二の円環モデルには、0時の始発点から、それ以前に遡ることができない、という始発点のギャップがあるのだけど、「無を巻き込んだ力」は、この始発点のギャップと関わっている。

始発点のギャップとは、つまり、無から有が生じ、何かが始まるという描写は不可能である、という意味での、無と有との間のギャップであるとも言える。そして、この不可能性により、無を目指しながら無に到達できないという(ネガティブな)事態が生じる。

そこから、無を目指し、無に到達できないことは(ポジティブな)現実である、というかたちで、ネガとポジが逆転し、逆流するようにして無を巻き込んだ力が解放され、円環モデルを経巡る現実性の力が駆動する。これが「無を巻き込んだ力」である。

(以上の説明は、あくまで僕なりの不正確なものです。特に、ネガとポジという言いまわしは僕のアイディアで、そもそも肯定も否定もないので誤解を生むけど、イメージしやすいかな、と思い書いてみました。一応、入不二先生には、僕の勝手な解釈で書くことについては了解を得ています。きちんとした話は、入不二先生の次回作にご期待ください!)

僕の驚き

この話は、僕にとっては結構驚きだった。なぜなら、入不二の現実性の力というのは、どこまでも肯定的で、そこに無などというものが入る余地などないと思っていたからだ。

これまでの僕の理解では、入不二哲学とは極めて肯定的なものだった。その肯定性が最も現れているのが『あるようにあり、なるようになる』(『あるなる』)での運命論だろう。ここで入不二哲学は、ケセラセラの未来を提示し、ビッグウェーブに乗るような運命との関わり方を提示した。これは、肯定的か否定的かといった議論など届かないところにある根源的な肯定性であり、いわば、肯定性とも言えないような肯定性である。

だから、『あるなる』の次に書かれた『現実性の問題』に登場する円環モデルについても、そのような方向性で理解することができ、円環モデルとは、根源的な肯定性を構造的に示して見せたものである、と僕は解釈していた。根源的な肯定性が、円環モデルを経巡るような動的なあり方をしており、それこそが現実性の力である、という解釈である。

だが、どうもそうではないらしい、というのが僕の驚きである。

僕の問題

確かに、そう言われてみれば、「無を巻き込んだ力」というように、無に着目することは重要なことのように思える。なぜ、僕がそう思うのか、入不二の論じ方とは外れるが、僕自身の問題に即して述べてみたい。

僕には、高校生の頃から、確かなものなど何もない、という懐疑論の底なし沼にはまっているという感覚がある。だから、底なし沼から抜け出すための第一歩を踏み出す確かな足場を見つけ出したくて、哲学をしている。

そのような懐疑は、入不二哲学をはじめ、世の哲学に出会っても解消していない。彼らの哲学を面白いと思いつつも、直接的に、僕の問題には答えてくれていない、という思いを抱いている。だから自分で考えている。

そうこうしているうちに、数十年が経った。その間、僕の問題は全く解決していないけれど、その問題の切迫さが徐々に薄れ、僕はそれなりに楽しく日常を生きることができるようになってきている。これはどういうことなのだろうか、というのが、ここでの僕の問題である。

所与の無という幻想

そんなことを考えているなかで出会ったのが、入不二の「無を巻き込んだ力」という描写である。

僕の哲学が行き詰まってしまっているのは、問題設定の仕方に問題があるからなのではないか。僕は、第一歩を踏み出すための確かな足場がないことを問題にしていたけれど、そうではなく、問題は、第一歩を踏み出すことを、無から有への第一歩のように捉えていたことのほうに問題があったのではないか。つまり、問題は、無を所与のものとしていたことのほうにあったのではないか。

僕の問題とは、すでに無にいる僕が第一歩を踏み出すことの困難についての問題ではなく、実は、無への底なし沼に落ちきることなどできない、という問題であり、無に落ちるという描写の限界の問題であったのである。

無に到達することはできない。そこから、すべては始まる。それが無を巻き込むということであり、入不二の円環モデルにおける現実性の力である。

潜在性

だから、円環モデルにおいて、現実性の力が経巡り、転回点を越え、潜在性の領域に至るとき、そこにあるのは、やはり、無を巻き込んだ現実性の力である。つまり、潜在性とは、無を巻き込んだ現実性の力のひとつの現れであると言っていいだろう。

このような解釈ができることも、僕にとっては大発見だった。

実は、これまで僕は、入不二哲学において、現実性という力と、潜在性というマテリアルという二つのものが登場するということに、魅力を感じるとともに、疑問を持っていた。なぜ、力とマテリアルという重要な概念が二つも登場するのだろうか、という疑問である。

しかし、「無を巻き込んだ力」という描写に着目するならば、潜在性というマテリアルとは、つまりは、無を巻き込んだ現実性が、マテリアルとして立ち現れているような事態である、と捉えることができるのではないだろうか。ミルフィーユケーキのように、無が無に積み重なるようにして無が量化したものこそが潜在性である、という解釈である。

そのように捉えるならば、潜在性の中に潜む、顕在化しようとする潜在性が発揮され、ものごととして顕在化する、という描写には全く問題は生じないこととなる。なぜなら、特定のものごととして顕在化していようが、全く潜在していようが、それは無を巻き込んだ現実性の一側面であり、いずれも現実性のあり方のひとつでしかないからだ。

魔界的なもの

潜在性についての、無が無に積み重なってマテリアル化したもの、という描写は、入不二の『予備校文化(人文系)を「哲学」する』に登場する「魔界的なもの」という言葉で置き換えることもできるように思う。

入不二は、「魔界的なもの」という言葉を、脳梗塞により発症した視野欠損に関する描写として用いている。入不二の実体験に即すならば、視野欠損とは単なる欠損ではない、余計な何かとしての「魔界的なもの」である。だが、入不二があえて「魔界的なもの」と表現しているとおり、当然そこには、余計な何かという肯定的なものがある訳ではない。それならば、魔界的なものとは、無というマテリアルであると言えるだろう。

このようにして、無を巻き込むようにして駆動する現実性の力という捉え方を貫徹することにより、僕の子供の頃からの疑問は解決され、入不二哲学を首尾一貫したものとして捉えることができる。

これは、「無を巻き込む」という着眼点の素晴らしさによるものだと思う。

始発点のギャップ

だが、僕は、円環モデルの始発点のギャップにこだわっていて、入不二の潜在性についての描写に完全に賛同することはできない。入不二は、潜在性の中に潜む、顕在化しようとする志向性・傾向性が発揮され、ものごととして顕在化する、というような描写をする。だか、もし、そのような描写がなされてしまったら、始発点のギャップはないものとされてしまうのではないか。そして、もし、ギャップがなければ、そもそも、無を目指しながら無に到達できないことにより始動する、無の巻き込み自体が生じないことになってしまうのではないか。

僕は、やはり、始発点のギャップを重視するならば、入不二哲学を根源的な肯定性に基づき解釈するほうがよいように思える。そのような根源的なギャップを乗り越えてしまうものこそが、根源的な根源性であり、ケセラセラの未来であり、ビッグウェーブに乗るという態度だからである。

入不二哲学の二面性

だが、一旦、無の巻き込みというかたちで、無に関わってしまったからには、根源的な肯定性だけに固執することはできないだろう。

極めて安易に結論だけ述べてしまうならば、根源的な肯定と、無の巻き込みという二面性を持っているのが入不二哲学だということなのではないだろうか。入不二は、ビッグウェーブに乗るような健全性と、魔界的なものというような不健全性を兼ね備えている。入不二哲学において、現実性の力とは、根源的な肯定の力であり、かつ、無を巻き込み駆動する力である。そのように捉えるのである。

それならば、無に到達できないということこそが根源的な肯定であり、そして、根源的な肯定とは無に到達できないということによって、その肯定の輪郭を持つことができることである、ということになる。永井の最近の本の表現だけ流用するならば、現実性とは、超越的には肯定であり、超越論的には無なのではないか。そして、両者を両立させることによってこそ、現実性とは、無を巻き込む根源的な肯定の力である、という捉え方ができるのではないか。

僕の問題再考

僕は、懐疑論とずっと格闘してきたと思っていた。だけど、実は僕がやっていたことは、無を哲学的思考のなかに押し込めようとする作業だったのではないだろうか。

日常生活は、挫折や失敗といったものに満ちている。そこにあるのは否定であり、要は巻き込まれた無の一形態である。

だが、僕は懐疑論に基づき、そのような日常レベルの無が成立することを懐疑し、つまり、無の巻き込みを否定してきた。そんなことを続けてきたからか、僕はかなり楽天的なほうだと思う。僕自身、無や魔界という言葉よりは、根源的な肯定やケセラセラといった言葉のほうがしっくりくる。

僕がやってきたことは、落ち葉を集めるようにして、無を一か所に集め、そこに哲学的懐疑という名前をつけるような営みだったのではないだろうか。無を巻き込む根源的な肯定の力という二面性から逃れることはできない。