※本文5000字とおまけ800字くらいです。

はじめに

先日、僕は、『超越と超越論の交差(永井と入不二の交差)』(https://dialogue.135.jp/2024/08/14/kousa/)という文章を書き、その中で「現実と言語の一致」の問題を取り上げた。この文章はその話の続きである。

ただし、多分、先の文章との繋がりは薄いものになるから、独立してお読みいただけると思う。

言語と「何か」の一致

僕は言語の問題に興味がある。

言語とは言語ではない何かを正確に写し取ったものであるはずだ。「机の上に赤いコップがある。」という文(言語)は、言語ではない「何か」と一致しているはずである。

僕は以前、その「何か」を世界と言っていたし、先日の文章ではそれを現実と呼んだ。とにかく、その「何か」と言語は一致しているからこそ、言語は有効であるはずなのだ。

そして、ここでの言語の有効性とは、つまり思考の有効性であり、さらには理性の有効性でもあると僕は考えている。(ただし、理性については、先日の文章によるならば、言語を超えた理性というものを認めるかどうか、という論点があるだろう。だが、この文章は、そちらの問題には進まない。)

そのような訳で、僕は、言語と言語外の「何か」(世界や現実)との一致という、言語の有効性の問題に興味があるのである。

世界と現実

当然、そう簡単に、このような大問題に最終的な答えを出すことはできない。だが、問題の整理ならば多少はできるのではないかと考え、この文章を書いている。

まず、言語と一致するとされる「何か」とは何なのか、という問題について整理を試みたい。

以前、僕はそれを「世界」と呼び、そして、入不二基義にならい、先日の文章ではそれを「現実」と呼んだ。

まず、「世界」という呼び方は誤解を生むから不適当だとは言えるだろう。

「世界」という言葉には、そこに時空的広がりがある、といった常識が含まれている。だが、僕は、時間や空間というものをアプリオリに認めることには反対だ。もし、それを実在するものとして認めるにせよ、人間の認識の形式として認めるにせよ、それを認めてしまったら、僕にとっては、ほとんど全ての哲学的問題が解決したことになってしまう。だからこそカントは純粋理性批判を書いて、哲学的問題を雲散霧消させようとしたのだろうけれど、僕は、カントの提案に乗ることはできない。

どうして僕がカントに反対するかは省略するけれど、カントの提案に対して、永井ならば私の独在性の問題を解決できない、と言うだろうし、ヴィトゲンシュタインならば言語の働きの問題を解決できない、と言うのではないだろうか。まあ、永井やヴィトゲンシュタインがどう言うかはともかく、カントに対してはいくつかツッコミどころがあると思う。

一方で、内容のあるものごとが成立するためには、時間や空間ではないにせよ、内容のあるものごとの成立を可能とするような場が必要だ、とは言えるように思う。土俵とでも言うべき、広がりのある場である。

なぜそうなるのかの詳述は避けるけれど、AというものごととBというものごとが異なる内容のものごとであるためには、複数のものごとが成立するための場の広がりが必要だろう。更に、もし複数のものごとが成立することさえ認めなかったとしても、その唯一のものごとが、内容を持つものごとであるために必要な場の広がりというものがあるだろう。なぜなら、内容が豊かなものであるためには、その豊かさを許容するような広がりのある場が必要であるはずだからである。僕が考えているのは、そういう方向の話である。

そのような広がりのある場というものを表現するためには、時空という形式を連想させる「世界」という言葉よりは、「現実」という言葉のほうが問題は少ないだろう。入不二が論じる通り、現実とは、どうあっても、とにかくそれが現実だからである。つまり、時空的な場であろうが、時空的な場でなかろうが、それが現実という場なのだと言えるからである。

更に、現実については、何も顕在せず、何も現前していなかったとしても、それが現実である、と言うことさえできる。入不二はそれを現実が潜在していると捉え、全てが潜在しているという究極的な状況(が持つ性質)について最深潜在性と呼んでいる。

だから、先ほど述べたような思考実験的な状況、つまり、複数のものごとが成立しておらず、唯一のものごとしか成立していないような状況であっても、それが現実であり、それどころか、何も成立していない状況であっても、入不二に習うならば、それは最深潜在性という現実なのである。

「無」の扱い

だが、入不二の議論を認めたとしても、潜在も何もない無については、それを「現実」という言葉で捉えることはできない。つまり、言語と一致するとされる「何か」が「無」であった場合、その「無」としての「何か」を「現実」という言葉で表すことは不適当なのである。

だが、この「無」の扱いは、当然、入不二の現実論において大きな問題にはなるのだけど、この文章で、言語と一致するとされる「何か」について考える限りは問題は生じない。なぜなら、言語と「無」が一致することはありえないからである。

「無」という文字や、「無」という発話は、無ではない。だから、言語が無と一致することはありえない。少なくとも、言語においては、言語という有が成立しているから、言語は無ではありえないのである。

そのように考えるならば、無を除くすべてを捉えることができる「現実」という言葉は、言語と一致する「何か」を表現するのに、非常に適していることになる。

一致と有効性

言語と、前節で現実と名付けた「何か」のことについて考えるうえで、もうひとつ提起したい問題は、言語と「何か」(現実)の一致が、本当に言語の有効性なのか、という問題である。実は、僕はそこに疑問を持っていて、あえて、一致と有効とを分けて表現している。

確かに、言語が有効であるためには、言語が現実(「何か」)と一致していることが最もわかりやすい。だが、そう言えるためには、言語と現実とを見渡すような視点に立ち、言語と現実を対応させ、これは一致していて、あれは一致していない、などと判断できる必要がある。

これは、まさにヴィトゲンシュタインが不可能だと論じた道筋であり、だから彼は、言語は、言語ゲームであると捉えたのである。

僕たちは、言語や現実の外に立つことはできない。僕たちは言語や現実の内側で、言語や現実に巻き込まれて生きていくしかない。だから、言語と現実の一致について判定することはできないし、論ずることはできない。

そこで話は終わってしまうのだろうか。実は僕は諦めるしかないと思っていた。

だが、僕はここで踏みとどまるという道筋を思いついた。言語と現実の一致を諦めるしかないとしても、言語の有効性についても諦めなければならないのだろうか。と一致を有効性に置き換えることで踏みとどまるという道筋である。僕は、そのことを問題提起したい。

言語の一致について論じることはできないとしても、言語は、現実に対して、有効に関わることができるのか、という言語の有効性の問題は別に論じることが可能ではないのか。これが僕の問題提起である。

対応説と整合(使用)説

常識的には、文が有効であるということは、その文が偽ではないということで、つまり嘘ではないということである。真であるとは、その文が現実の状況と一致しているということである。「雪は白い」という文は、雪は白いという状況と一致していれば真である、というように。哲学史的には、これは真理の対応説と呼べるだろう。

だが、ここまでの議論を踏まえれば、そのような素朴な対応関係は、自明のものとは言えないことは明らかだ。

例えば、真理の整合説という考え方がある。ある文が真であるということは、それ以外のあまたある文と整合している場合である、という考えである。「富士山は日本一高い山である。」という文は、「北岳は日本で二番目に高い山である。」という文と整合している。というように。そのような真であるとされる文は有効なものであるはずだろう。

ただ、このような素朴な整合関係に基づくことには様々な問題がある。例えば、整合関係だけに着目するならば、「富士山は日本一高い山である。」と「高尾山は日本で二番目に高い山である。」も同様に整合していることになってしまう。どちらの整合性を選べばいいかどうかの判断がつかなくなってしまうという問題は簡単には解決できない。

僕は、単なる整合性ではなく、文の使用の場面として、問答の場面に着目して考えるのはどうだろうかと考えている。「高尾山は日本で二番目に高い山ですか。」という文に対して、「いいえ、日本でに場面目に高い山は北岳です。」という文が整合的に成立しているならば、それが有効ということだと考えてみるのである。

だが、僕のこのアイディアも問答の場面でしか使えないという問題がある。また、問答の分析の中で「高尾山は日本で二番目に高い山ですか。」という文を単独で切り出し、その文の有効性を捉えようとする限り、何らかの対応関係のようなものが混入することは避けられないように思われる、という問題もある。

僕のアイディアを整合説の派生としての使用説の更なる派生と捉えるならば、言語の有効性については、対応説や整合(派生説)説といった様々な議論が可能である、ということになる。僕はそういうことをやっていきたいのかもしれない。

僕の収穫

ここまで読んできた方の中には、僕が何を問題としているのかさっぱりわからないという方もいると思う。話は全然前に進んでいないのではないか、長々と何を書いているのだろうか、と疑問に思う方もいると思う。そのことを多少なりともわかっていただくためには、非常に私的な意味で、僕自身にとって、この話がどのような収穫だったのかを明記しておく必要があるだろう。

この問題は、僕が高校生の頃からずっと考えているもので、ずっと僕を苦しめるものだった。(これが哲学ならば、僕にとっては哲学とは苦しいものなのだ。)

長らく僕は、僕の問題を解決できないだけではなく、僕の問題を言葉で表現することすらできず、苦しんでいた。

この文章での表現に即すならば、僕は、僕の問題の対象である「何か」を言葉にすることすらできなかったし、更に、表現すらできない「何か」について、言語との一致という解決方法しか思いつくことができなかったのだ。長い間、僕は、何だかわからないものを、どうすれば言語と一致させることなんてできるのだろうか、という壁に突き当たり、袋小路の中にいたのだ。

当然、これは、今、この文章を書いたからこその表現であり、当時の僕は、そんなふうに考えることすらできていなかった。ただただ、僕は僕の問題を表現することはおろか、自ら、把握することすらできていなかった。

(なお、当時の僕は、この問題を「確実に証明できる確かなことなんてあるのだろうか。」というように表現していた。今の述べ方によるならば、確実な証明というのが、言語による確実な把握ということであり、言語と、言語による把握の対象(つまり現実)との一致ということである。)

だから当時の僕は諦めるしかなかった。僕は、その諦めこそが懐疑論なのだろうと思っていた。きっと、世の懐疑論者は、懐疑に積極的な意義を見出しているのだろう。それがニヒリスティックな態度であったにせよ、そのような態度をとればいいという答えをみつけることで、心はきっと穏やかになるはずだ。だけど僕は、そうは思えなかった。僕にとっての懐疑論とは、単なる諦めであり、そこには何ら積極的な意義はなく、ただただ苦しいものだった。僕は、懐疑論であれ何であれ哲学のスタートラインに立つことすらできておらず、そして、人生のスタートラインに立つことすらできていなかった。

だが、何十年も生き、アラフィフになって、ようやく僕は、僕が問題としている「何か」にようやく現実という名前をつけることができた。更に、僕の問題は、言語の有効性の問題であると気付くことができた。僕がやっているのは懐疑論ではない。僕は、「現実に対する言語の有効性」の問題について哲学をしているのだ。これが僕の収穫である。

おまけ:この思考

この「現実に対する言語の有効性」の問題を考える上では大きな困難が待ち構えている。

なぜなら、僕の考えでは、言語とは思考全般に関わるものであり、つまり、この文章自体も含め言語だからである。どうしても、この問題は自己言及的なものにならざるを得ないのである。僕は、思考をしながら文章を書きつつ、その文章の中で、思考をしつつ文章を書くということについて論じなければならない。これは大きな困難であろう。

そのためには僕は、永井の独在論や、入不二の現実論のような、自己言及に耐えうる(というか、自己言及自体を積極的に問題としている)議論を視野に入れ、僕の哲学を組み立てていかなければならないだろう。これから僕が書くことは自己言及的なものになるから、自己言及的な永井の独在論や入不二の現実論と整合し、それらを拡張するようなものでなければならないのである。

そのように考えると、僕が取り組むべきことは、形而上学すべてに広がるような広大な領域に広がっていることになる。というか、形而上学とは、そういうふうに全体として扱うようにしてしか取り組むことができないものなのだろう。

おまけ2:青山の累進構造

この文章を書くことで、前に読んだ文章が、新しいかたちで理解できたので書き残しておく。

その文章とは、『〈私〉の哲学をアップデートする』において、青山拓央が、「『S』は真である ⇔ S」が累進構造を持っていると主張する個所である。(pp.252-261)

これは、まさに「S」という文と、Sという現実の対応・一致の問題であり、この文章で僕が論じたことそのものである。

「『S』は真である ⇔ S」が累進構造を持つのは、「S」という文と、Sという現実が対応するとは言えないからなのである。

青山は、この累進構造と、永井の独在性における累進構造との間に同型性を見て取っている。これは、暗に、文と現実の不一致の問題と、永井の「私」の独在性とが無縁ではないことをほのめかしているとも言える。