※3500字くらいあります。タイトルのとおり、そんなに哲学っぽくないと思います。けど、おっさんが20代アイドルについて書くというキモさがあります。
眉村ちあき
先日、僕が好きなバンドが主催するイベントで「眉村ちあき」を観た。自由で、繊細で、かわいくて、かっこよかったので調べたらアイドルを名乗っているらしい。確かに、ファンの皆さんが祈りを捧げる動きをしていた。(調べたところ、ケチャというオタ芸の動作らしい。)
正直、僕はロックバンド系が好きなので、アイドルにはあまり興味がない。そんな僕が、あのとき「眉村ちあき」のステージを観て受けた衝撃とは何なのだろう。そもそも、(ロックバンドのような)アーティストとアイドルの違いとは何だろう、と考えてみた。
この文章はそんなことを書いたものである。
世間における違い
まずファンのノリ方には違いがありそうだ。ロックバンドだとモッシュやダイブ、アイドルだと(詳しくないけど多分)オタ芸、という違いだ。
だが、サニーデイ・サービスの曽我部恵一が言っていた僕が好きなエピソードとして、「曽我部が高校生の頃、(多分ブルーハーツのライブで)メチャクチャにノッてたら、甲本ヒロトに、そこの高校生、好きなように動いてていいね、というようなことを言われた。」という話がある。僕は、このエピソードのとおり、好きなように動いてノるようにしている。そのほうが楽しいし、体全体で音楽を味わえる。ような気がする。
だから、たまたま、好きなように動いていたら、それがロックっぽくなることもあるし、(僕はならないけど)オタ芸っぽくなることもある。それだけの話にすぎない(というか、それだけの話であるべきだ)。だから、ファンのノリ方は、アーティストとアイドルの決定的な違いにはならないはずだ。
それならば、自分(たち)で作詞作曲をやっているかどうか、という違いはどうだろう。アーティストは自分でやっていて、アイドルは作詞家・作曲家に提供を受けている、という違いだ。まあ、そのような傾向はありそうだけど、境界は曖昧だろう。バンドだって曲の提供を受けたり、カバー曲を演ることもあるし、眉村ちあきはアイドルかつシンガーソングライターらしい。
そのように突き詰めて考えるほどに、アーティストとアイドルの違いは、曖昧で、不明瞭になっていく。
天使性
だが、これは世間の捉え方である。
僕にとっては、明瞭な違いが、アーティストとアイドルとの間にはあるように思えるのである。なぜなら、僕がアイドル「眉村ちあき」のステージから受けた衝撃は、これまでアーティストから受けたものとは異質だったからだ。
僕は、僕が好きなアーティストのライブを観るとき、ステージと客席との間の距離を感じる。時々、客席にダイブしてくるときもあるけれど、それは例外で、たいてい、彼らは一段高いところで、スポットライトを浴びて演奏をしている。僕たち観客は、一段低いところから、それを観ている。
そのとき、僕の心の奥底には羨望がある。率直に言って、僕は彼らのようになりたい。素敵な楽曲をつくり、魅力的なパフォーマンスをして、多くの観客の注目を浴びたい。そして、その何割かの人々の記憶に残り、もしかしたら、そのうちの何人かの人生に大きな影響を与えたい。
アーティストとは、僕が手に入れたいと望むことを手に入れている人々のことだ、という感覚がそこにはある。
(念のためだけど、ただ注目を浴びたいという話ではない。自分がやりたいことをやって、それが成功しているのが羨ましい、という話だ。)
しかし、僕が「眉村ちあき」のステージを観て感じたのは、そういうものではなかった。彼女のステージは、もっと遠くて、僕から隔絶しているものだった。
僕が好きなバンドのステージならば、どこかで、彼らと僕は置き換え可能だという感覚がある。もしかしたら、僕が彼らのように生きていたら、僕がステージに立つこともありえたかもしれない、という感覚だ。まあ、そういうと言い過ぎなので、この人生では無理でも、何度か輪廻転生をしたら、いつかはそういうこともありそうだ、という感覚と言ってもいい。だからこそ、羨ましいと感じることもできる。
だけど、僕が「眉村ちあき」に対して抱いた感情は、そうではなかった。「ああ、いくら輪廻を繰り返しても、僕が彼女になることはできないんだろうな。」という感じ。だから、羨望を感じることもなかった。
なお、この隔絶した感覚は、もちろん、僕が50代男性で、彼女が20代女性だということも影響しているけれど、それだけではないだろう。僕は何人か、20代(だった人も含む)女性のアーティストが好きだけど、僕はどこかで彼女たちのようになりたいと思っている。だけど、「眉村ちあき」については、どうやったらそのようになれるか見当すらつかない。
この感覚は、人間という種に対して抱くものではない。神様と言ったら大げさだとしたら、天使に対して抱く感覚に似ているように思う。アイドルはよく「天使」と表現されるけれど、こういうことなのかもしれない。
推し活
アイドルが持つこの天使性は、自分自身からの隔絶に由来しているのだろう。自分から遥か遠くにある眩しいほどの輝きに対して抱く気持ちのことである。彼女/彼は自分とは全く違う存在である。だから、自分が彼女/彼のようになることはできない。というか、彼女/彼のようになるとはどういうことかすらわからない。彼女/彼そのものにアクセスする回路が完全に閉ざされているのである。
つまり、僕たち一般人はアイドルの内面をうかがい知ることはできず、ただ外側から彼女/彼の輝きを観ることができるだけである。それが、ファンとアイドルとの距離感なのだろう。
だから、あえて僕の哲学に絡めるならば、アイドルとは絶対的な他者であると言っていい。アーティストのファンならば、多少なりともアーティストの内面にアクセスし、理解できるという感覚があるけれど、アイドルに対しては、そのような内面へのアクセス可能性はない。
それがアイドルの天使性であり、内面へのアクセスを不可能とするほどの眩い輝きこそがアイドルの証である。
だからアイドルにこそ推し活が似合っているのだろう。アーティストに対しても似たことはできるけれど、アイドルのファンのほうが推し活はより重要なものとなる。
なぜなら、アイドルの場合、内面への質的なアクセスが不可能であるため、外面的な量的な働きかけしかできないからである。
例えば、アーティストの場合、ファンの目線として、アーティストのグッズをたくさん買うよりも、楽曲を何度も聴いて深く理解したり、生活に溶け込ませたりすることのほうが重要だろう。アーティストの側も、生活のために売上が重要ではあるけれど、そのような質の高い関係性を築くことができるようなファンを求めているように思う。(アーティストならば、TシャツよりもCDを買ってほしいと思うはずだ。)アーティストとファンの間には、そのような、内的で質的な関係性がある。
一方、アイドルの場合、アイドルのグッズをたくさん買ってアイドルの人気を存続させることや、一人のファンが何枚も買ってCDの売上ランキングの上位を目指すことこそが、ファンとアイドルの共通の目標となりうる。これは、質よりも外側から測定できる量を重視する態度である。
つまり、アーティストに関しては、アーティストとファンの双方にとって内的な質が重要であり、アイドルについては、アイドルとファンの双方にとって外的な量が重要なのである。(完全に二分できるものではなく、比較的、と言うべきにせよ。)
そして、アイドルにとって重要となる、外的な「量」を目指すファンの活動こそが推し活なのである。(だから、外的な存在である「神様」に対するお布施も「量」が重要となるのだろう。)
最後に
このように考えると、僕はあえて「眉村ちあき」ファンになろうとはしないだろうなあ、と思う。だけど、もしかしたら、僕の意思にかかわらず、彼女の天使性に絡め取られて「眉村ちあき」ファンになってしまうことはあるかもしれない、とも思う。
そのような危うさを感じるほど僕を揺り動かす魅力が彼女のステージにはあったと思う。けれど、彼女のどこにその魅力があったのかはよくわからない。(僕が好きな変なテンション、才能あふれる魅力的な楽曲、ポニーテイル、健康的でセクシーな衣装といった要素が大きそう。)
「眉村ちあき」の動画。この衣装だったけど、もっと緩いステージでした。