「チ。―地球の運動について―」という漫画を読んでいる途中で書いたものです。さっき読了しましたが、そうするとまた違う感想になってくるかも。約6800字あります。

宣言

この文章は、「離・科学」を宣言するものだ。

「離」とは、「脱」や「反」や「非」ではなく、科学の役割は認めつつ、科学が主役となるべき議論領域から、その外側にそっと離れよう、といったような意味である。では、その外側とはどこかというと「形而上学」の領域だ。だから言ってしまえば、「離・科学宣言」とは「入・形而上学宣言」なのである。

僕は、科学一辺倒のこの世界に革命を起こしたい。移り気な僕の中で、そんな気分が一時的に高まったから、こんな文章を書いている。

地動説

なぜ、そんな気分になったのかというと、今、「チ。―地球の運動について―」という漫画を読んでいるからだ。この漫画は、一言で言うと、「(あくまでフィクションとしての)中世の宗教弾圧の中で地動説という科学的真理を求める人々の熱き戦い」とでも言うべき話であり、僕は一時的にその熱にやられている。

それならば「宗教から科学へ」の話なのだから、「離・科学宣言」ではなく「科学宣言」ではないか、と思われるかもしれない。そのとおりだけど、この漫画を斜めから読むと、そうはならない。

僕の見立てでは、現代とは、「科学による形而上学弾圧の時代」ではないのだろうか。宗教にも宗教が役立つ宗教的領域があるように、科学にも科学が役立つ科学的領域がある。だが、それが全てではないはずだ。科学的領域の外には、それを形而上学と呼ぶかどうかはともかく、なんらかの領域があるはずなのである。しかし、現代社会は、その外領域を科学で塗り潰し、弾圧している。

多分、このような考えは、あまり賛同が得られないだろう。なぜなら、科学で説明できないなんてオカルト的で非常識だし、偉い科学者の発言や、科学を前提とした様々な世の中の仕組みとも整合がつかないからだ。

だが、地動説が唱えられる前の天動説だって同じだったのではないか。中世のキリスト教(漫画ではC教という架空の宗教)社会では、キリスト教とアリストテレスが混じったような世界観があって、それなりに整合し、完結した世界があった。それなのに、地動説のような非常識なことを言って、教会の神父やアリストテレスのような偉い学者に反旗を翻し、社会の整合性を乱したからこそ、その行為が問題になったのだろう。

現代を生きる僕たちは、天動説が誤りで、地動説が正しかったことを知っている。だがそれは、宗教をすべて否定して科学に置き換えたということではないはずだ。地動説は、神を頭ごなしに否定するものではない。宗教的領域における宗教的真理には手を付けず、それとは別に科学的領域には科学的真理があることを示したということである。そして、天文学的な問題は、宗教的領域ではなく科学的領域に位置づけるべきことを明らかにしたということである。

それならば、科学的領域における科学的真理を完全に認めたうえで、それとは別に形而上学的領域における形而上学的真理があることを認めてもいいはずだろう。そして、これまで科学が扱ってきた問題の中には、科学的領域ではなく、形而上学的領域に位置づけるべき問題があるということを認めるのである。

だが現代社会はこのようになっておらず、科学が不当に領域を侵食し、形而上学を抑圧している。これが問題であると僕は考えている。僕は革命を起こし、その抑圧から形而上学を解放し、形而上学的領域を取り戻したい。

発見

なお、科学的領域の外に何らかの領域があるかどうかとは別に、「科学は全く抑圧などしていない。」という反論はありうるだろう。確かに、科学者は哲学者を拷問にかけたり火あぶりにしたりすることはない。形而上学の本は普通に出版されているし、大学でも平和に研究されている。

きっと、この抑圧は極めて巧妙に行われているのだろう。当然、黒幕がいて云々というような陰謀論ではなく、社会全体が無意識に、科学的領域の外の問題を覆い隠しているのである。

それは、人種差別や女性差別の問題に似ている。社会がその問題に気づくまでは、そもそも抑圧や差別はなかったのである。ただ不幸な黒人や女性がいるだけで、彼らの不幸は、災害による不幸や病気による不幸との違いはなかった。だが、あるとき社会がその問題に気づき、そのとき、いわば差別は発見されたのである。

同様に、きっと社会は形而上学を抑圧などしていない。ただ、社会が科学的領域の外にある問題に気づいていないのである。僕は革命を起こすというより、社会にそれを発見させたいだけなのかもしれない。

惑星・クオリア

それでは、社会が気づいていない、科学的領域の外にある問題とは何だろうか。

これについても、天動説と地動説の比喩を用いて説明したい。

天動説にはキリスト教の教えと整合するという利点があった一方で「惑星」という問題があった。地球が星の回転の中心にあるならばありえないような、停止や逆行といった動きをする惑星があるという問題である。天動説は小円を加えて惑星の奇妙な動きを説明しようとしたが、地動説は、よりエレガントにその問題を解決してしまった。

この話が示しているのは、「惑星」という明確な問題があったからこそ、天動説か地動説かという問題を顕在化することができた、ということである。(天動説には、その他にも重力やニュートン力学といった他の科学的アイディアと整合しない、という問題があるけれど、それが問題となるのは、地動説を経て、より科学が精緻化したあとの話である。)キリスト教社会においてはデフォルトが天動説であり、地動説を選ぶためには具体的な理由が必要だったのである。

それならば、キリスト教(天動説)に対する「惑星」の問題と同様に、この科学社会においては、科学に対して何か、具体的な問題を提示する必要があるだろう。できれば、科学では解き明かせていないけれど、なんとか無理をしてでも乗り切ろうとしているような問題がいい。

この条件にうまく該当する問題として、「クオリア」の問題がある。僕の手元にある黒いキーボードには「黒さの”感じ”という質」がある。今、僕の足元に来たネコには「柔らかさの”感じ”という質」がある。そのような感覚の「質」つまり「クオリア」を科学は説明できていない。

当然、科学もなんとか説明をしようと色々と工夫をしているが、僕にはそれらが成功しているようには思えない。それはあたかも、キリスト教の教理やアリストテレス哲学を出発地点として宇宙を説明しようとした天動説が、惑星の動きを説明するために小円を付け加えたような、無理のある試みのように見える。

この無理は、これまでの自然科学の知見を出発地点とし、そこからなんとかクオリアの解明という目的地点に向かおうとすることにより生じているのだろう。それはまるで月に行こうとして、飛行機に乗り込むような試みである。飛行機では大気圏を離脱できないように、自然科学ではクオリアの問題に到達することはできない。

AIの問題

なぜ、この「クオリアの問題を科学は解決できない」という問題を今、僕が指摘するのかというと、(まずは単なる個人的興味ではあるけれど)あえてこじつけるならば、社会がまさにこの問題に正面から向かい合うべきタイミングにあるからである。

今、AIが注目されているけれど、AIの問題のうちのいくつかは、このクオリアの問題を解決しなければならないはずなのだ。

具体的には「AIは意識を持てるか」という問題と、その派生としての「AIは知の担い手として、人類の後継者となれるか」という問題である。

今、AIについての文章を並行して書いているので詳述はしないけれど、現在、AIはかなり出来が良くなっている。最近、僕もChatGPTを使っているけれど、このような文章にも的確に感想を述べてくれて、「いい文章ですね」なんて褒めてもくれる。

ここでの問題は、「いい文章ですね」とAIが褒めてくれたとき、そこに「よさの”感じ”という質」つまり「よさ」のクオリアはあるのか、という問題である。普通に考えてシリコン製のCPUや電子基板には意識など宿っておらず、当然クオリアもないだろう。だからといって、素材をタンパク質に変えたところで意識が宿るとも考えにくい。つまり、どうしたらAIが意識を持ち、クオリアを持つようになるのかは明らかではない。

だとしたら、今、人類は、どうすればAIが意識を持つのかもわからずにAIを開発しようとしていることになる。これは喫緊の問題だ。僕たちは、もう少し真面目に、科学に頼らず、クオリアの問題を考えるべきなのだ。

コペルニクス的転回

ではクオリアの問題をどのように考えればいいのだろうか。

そのためには、天動説から地動説への移行のようなコペルニクス的転回が必要だろう。だが、このコペルニクス的転回とは、単なる視点の転回ではない。彼らが行ったのは、キリスト教的世界観という、これまで築き上げたものの外に出ることであり、キリスト教の引力から脱出することである。つまり、脱・キリスト教である。キリスト教を否定する反・キリスト教ではなく、宗教的領域の宗教的成果には手を付けないまま、彼らはそこから、そっと立ち去ったのである。(実際は、ついでに、宗教的領域にも手を付けたとも言えるけれど。それはあくまで「ついで」である。そして、ここでの僕の宣言は、この「ついで」にやられてしまった分を、非科学のほうに取り戻そうとしているのだとも言える。)

同様に、ここで僕たちは、科学的領域における科学的成果は認め、そこには手を加えずに、そっと立ち去るべきなのである。そして全く異なる形而上学的視点に立つべきなのである。その地点においてならば、惑星の周天に小円を付け加えるような操作をせずとも、もっと直截にクオリアの問題を捉えることができるはずなのである。

外側から内側へ・体から心へ

この、科学的領域から形而上学的領域へ、という視点のコペルニクス的転回は、「天動(説)から地動(説)へ」とパラレルに捉えるならば、「外側から内側へ」と名付けることができるだろう。つまり、科学は、クオリアの問題を外側から捉えようとしているが、そうではなく、内側から捉えるべきなのである。

この、”外側/内側”という表現が抽象的すぎてわかりにくいと感じるならば、まずは入口として、「体」と「心」の対比と捉えてみてもいいだろう。クオリアの問題は、身体の機能上の問題としてではなく、心の問題として捉えるべきなのである。だから、脳をいくら眺めても、または、アンケートを統計処理するなどして身体的な振る舞いを分析しても、クオリアの問題に到達することはできない。クオリアの問題は、人が自らの心の動きを見つめ、自らの内なるものとして捉えるところから始めるしかないのである。

なお、繰り返しだけど、この話はあくまで入口であって、この心と体の問題は、いわゆる心身問題を経て、更に深いところに進んでいく。だから、どこかで「体」と「心」という捉え方は放棄しなければならない。

永井均・入不二基義

このように述べていると、僕が全く新しいオリジナルな話をしているように思われるかもしれない。だが、そうではない。地動説だってコペルニクスより前に似たような説を提唱していた人がいた(らしい)のと同じことで、「体」と「心」、外側と内側という捉え方は決して新奇なものではない。

僕は、僕がファンである永井均や入不二基義といった哲学者がすでに述べていること(のごく一部)を述べているだけである。

当然、彼らは、形而上学的領域のすべてを捉えきってはいないだろう。だが、重要なのは、クオリアの問題については、彼らがなしとげたとおり、形而上学的な視点から(少なくとも部分的には)鮮やかに説明できており、すでに科学から形而上学へ、という離脱の道筋がついているということである。

今ここにある問題は、クオリア問題を解くのは科学と形而上学のどちらなのか、ではない。すでに決着がついている「科学ではなく形而上学こそがクオリア問題を捉えることができる」という結論が、いまだ社会に受け入れられていないことが問題なのである。

あとは「哲学的に」ではなく「社会的に」この問題を解決するだけである。これが僕の「離・科学宣言」である。

数学的な美しさ

最後に、クオリア問題に対する形而上学的な答えについて少し説明しておくことにしよう。

ただ、永井や入不二が出した答えの詳細については、彼らの本を読んでもらえればいいので、ここでは僕なりのオリジナルな説明をする。

まず、永井や入不二がよく用いる、認識論、意味論、存在論という区分を使って考えてみよう。

認識論とは五感による感覚的な把握を前提とした議論であり、ここでの把握には、目や耳だけではなく、顕微鏡や望遠鏡、コンピュータでのシミュレーションや概念モデルといったものも含んでいる。

また、意味論とは言語により概念を共有し、人々の間でやりとりできるということを前提とし、その成果を材料として用いる議論である。

科学はこの認識論と意味論を用いている。つまり科学は、五感により把握でき、言葉で共有できることを根幹とした営みであると言える。

しかし、「五感では把握できず、言葉で共有できないものがある。」と考えることもできる。それが存在論である。

例えば、五感では把握できない例としては、「2+1=3」のような「数式」がある。「ミカン2個にミカン1個を加えたらミカンが3個になる。」であれば五感での認識が可能である。一方、ミカンなどの具体的なモノに関わらない「2+1=3」自体は認識不可能である。なぜなら「2個」のような単位のない「2」という数字の概念自体が、空を漂うことなどないからだ。これが認識論では取り扱うことができないことである。

また、言葉で共有できないこととしては、例えば「美しさ」「美味しさ」「青さ」といったものがある。何人かで同じお花畑を見て、「美しいね」「そうだね」などと言葉を交わすように、大まかな傾向は言葉で理解し合うことはできる。だが、Aさんが感じた「美しさ」そのものは、どれだけ言葉を交わしても、Bさんと共有することはできない。これが意味論では取り扱うことができないことである。

これらを重ね合わせることで、五感では把握できず、言葉でも共有できないこと、つまり認識論と意味論のいずれでも取り扱うことができないことを見出すことができる。

例えば「数学的な美しさ」である。ある種の魔法陣や、「E=mc^2」といった数式は美しいとされるが、その美しさは、五感で把握したり、言葉で共有しようとすると、たとえば単なる「単純さ」になってしまい、「美しさ」ではなくなってしまう。

つまり、「数学的な美しさ」とは、認識論的にも意味論的にも捉えることはできない、存在論の問題領域に属するものなのである。

これはいわば、クオリアの問題の最深部であり、科学では決して到達することのできない、存在論的領域における、形而上学固有の問題の具体例だろう。

タウマゼイン

では、「数学的な美しさ」のような問題を、形而上学的に、つまり存在論的に扱うにはどうすればいいかというと、僕の考えでは、現に美しいと実感するしかない。この、五感や言葉といった装置を経ずに、いきなりやってくるとしか言いようがない実感は「タウマゼイン」(哲学的驚き)と呼ばれる。

この「驚き」から始め、内側からクオリア問題を捉えようとするのが、永井や入不二の形而上学(の少なくとも一側面)だと言える。形而上学的領域において、形而上学的な視点から、つまり内側から捉えるならば、クオリアの把握には何の困難もなくなる。

これは、天動説に対する地動説のように、非常にエレガントな捉え方だと思う。

科学と非科学の往復運動

更に付け加えると、科学に対して形而上学が人気がないのは、形而上学が宗教に先祖返りしているように見えるからだとも思われる。

確かに、形而上学とは(広義の)存在論であり、存在論は中世における「神の存在」論と深くつながっている。

だが、それは先祖返りではない。宗教と形而上学をともに非科学と一括りにするならば、「知」とは、歴史的に、非科学と科学とを往復するようにして、相互依存的に深化していくようなあり方をしているのかもしれない。

まずはじめに宗教があり、宗教の発達に伴い、非科学としての宗教の限界を明らかにするかたちで科学が生まれた。そして、科学の発達に伴い、科学の限界を明らかにするかたちで、非科学としての宗教が形而上学と名を変えて生まれ変わろうとしている。それならば、今後、形而上学の発達に伴い、非科学としての形而上学の限界を明らかにするかたちで、科学が科学的領域を明確し、更に発達していくこともあるだろう。

その一場面に僕達は立ち会っているのだ。