※1000字くらいです。サラっと書きました。暑いし。

※多分、ネタバレはないと思います。

別に哲学的に新しいアイデアを思いついたわけでも、特段面白い着眼点があるわけでもないけど、せっかく3時間もある映画を観たので、感想を残しておく。

この映画のキーワードは、今の僕にとっては、ただひたすら「友情」と「天命」だった。こういう映画は、誰がいつ観るかによって、その受け取り方が大きく変わりそうだけど、きっと、「友情」と「天命」が僕の人生の一大事なのだろう。

僕は、映画でありがちな、単なる勘違いによる仲違いや、つまらない失敗が苦手だ。そういうトラブルが発生しないか気になって、話に集中できないこともある。けれど、観ているうちに、この映画では、そういう出来事は起きなさそうだ、と気づき、落ち着いて観ることができた。

主人公と準主人公の二人が、その置かれた状況におけるベストを尽くし、二人の「友情」を紡ぎ、歌舞伎という「天命」に向き合っていく。それが心地よかった。

なお、「天命」が歌舞伎であることは、僕にとってはあくまで方便に過ぎなかった。映画を観る前は、全く歌舞伎に興味はなかったし、観終わったあとも、特に歌舞伎を観たいとは思わなかった。二人の友情と天命を描くには、歌舞伎である必然性はあるし、画面における美しさもあった。ただ、それだけに過ぎない。

では、僕がこの映画で何を観ていたかというと、当然、歌舞伎を通じ、哲学という僕自身の「天命」を見つめていた。

この映画では、歌舞伎という天命に対する二人ののめり込みが、狂気的に描かれる。全てを投げ捨てても、歌舞伎に向かうという狂気である。そこに衝撃を受ける観客もいるのだろう。

だが、僕も、哲学という天命を持つ者の端くれである。映画俳優のように美しくないし、映画の中の物語のように潔くもないけれど、僕なりに、「天命」に向かう狂気を抱えているつもりだ。

だから、この映画で、いくら狂気じみた描写をしても、「天命」単体では、それほど、僕の心には残らなかっただろう。

この映画が僕の心に残ったのは、あくまで、彼らの歌舞伎という「天命」が「友情」と結びついていたからである。あるいは、その「友情」が、「天命」が介在する「友情」だったからである。僕には、そのような「友情」はない。それが羨ましいと思ったのだ。

だが、この映画の登場人物のことを、歌舞伎と哲学という違いはあれど、ともに狂気的に「天命」にのめり込む同志のように思える瞬間はあった。だから、擬似的には、彼らと、「天命」が介在する「友情」を育むことができたと言えなくもない。ちょっと強引だけど、そう言えたらいいな、と思う。