※約3700字くらいあります。これは入不二基義の本を読んでないとわからないだろう文章です。
現実性に向き合う姿勢
僕は今、このブログでもたびたび取り上げてきた、入不二基義という哲学者の最新刊『現実性の極北』を読んでいる。この本は、前著『現実性の問題』の続編であり、そのテーマは、タイトルのとおり「現実性」である。
内容に触れない範囲で、入不二の「現実性」の議論のすごさを一言で述べるならば、「まったく新しく、これまでなかったほどに極めて普遍的なことを論じている」と表現できるだろう。従来の哲学の議論は、意味論(言い換えるならば、「言葉」論)・認識論・存在論と分類できる。入不二は、それらの議論が成り立つ手前において、まず遍在する現実性があると考えるのである。これはつまり、入不二が、従来の哲学よりも普遍的で、まったく新しい議論領域を切り開いているということである。本のタイトルによるならば、そのような議論が、極北にまで進んでいくなんてワクワクする。
議論の具体的な内容については、この本を読み終え、じっくりと考えた後に、改めて書きたいけれど、現時点でも語れることはある。というか、語ってしまわないと読み進めるのが難しい。なぜなら、好きすぎて、読み進めるうちに、形にならない思考が頭の中を駆け巡り、脳の内圧が高まってきてしまうからだ。だから、ガス抜きのために、こんな文章を書いている。
書くからには中途半端な内容にはしたくないから、「現実性」の内容については後回しにして、「現実性」に向き合う姿勢について書くことにする。なぜなら、「現実性」については、その議論の中身と同じくらい、そこに向き合う姿勢が重要となるように思えるからだ。
「現実性」とは、僕の周囲をとりまくこの世界にとどまらず、この僕自身にも関わる問題である。僕は、いわば現実性に貫かれていて、僕が今、現実性という問題に向き合っているということにさえ、遍在する現実性は及んでいる。それならば、僕が「現実性」に向き合うこと自体が現実性の問題であり、その向き合う姿勢においてこそ、「現実性」が最も先鋭的に発露している、とも言えるはずだ。
きっと入不二自身も、このことには自覚的であり、自らが現実性についての本を書くこと自体が、遍在する現実性の一場面であると考え、そのように意識して執筆作業を行っているに違いない。
遊戯性
それでは、入不二はどのような態度で現実性に向き合っているのか。
まだ『現実性の極北』は読み始めて間もないので、前著『現実性の問題』の限りでの描写となるが、例えば、入不二は、現実性について、円環モデルという全く新たな構造を提示し、Actu-Re-Alityという造語までしている。このような例からもわかるように、入不二は、『現実性の問題』を通じて、心の赴くままに縦横無尽に現実性を論じている。途中まで読んだ限りでは、『現実性の極北』でも、その続きをやっているように思える。
こんな入不二のふるまいを眺めていて感じるのは、入不二は、「現実性」で心底楽しんでいるなあ、ということである。
現実性はまさに遍在し、どんなところにでも顔を出す。それも思わぬところから。そんな現実性の動的な力に乗っかって進んでみると、思いもしなかった新しい景色に出会うこともできる。きっと、入不二は、そんなふうに楽しんでいて、読んでいると、僕にもその楽しさが伝わってくる。
入不二の「現実性」に対する向き合い方を一言で表すならば、入不二は現実性と戯れているのである。僕のような読者は、その戯れに引き込まれ、ともに戯れる喜びを感じる。このような「現実性」に向き合う姿勢を「遊戯性」と呼びたい。
この「遊戯性」というキーワードは、現実性の重要な一面を表しているのではないか。入不二によれば、現実性とは遍在する動的な力であるとされる。同様に、遊戯性も遍在し、どんなところにでも顔を出す。それも思わぬところから。そんな遊戯性の動的な力に乗っかって進んでみると、思いもしなかった景色に出会うこともできる。
「現実性」自体に向き合うという、現実性が最も先鋭化される場面において、現実性は、遊戯性として表現されるのである。
それだけ感
いったん現実性の話から離れて、この「遊戯」というものについて考えてみよう。
遊戯という行為には、「遊戯を通じて何かを実現する」といった目的はなく、ただ遊ぶことだけが目的である、というニュアンスがある。さらには、遊ぶことが目的、というと、楽しむことや、アドレナリンを出すことが目的、というように誤解される可能性もあるので、より正確に述べるならば、遊戯とは、何も目的などなくて、ただ遊ぶものである、と言った方がいいかもしれない。
遊戯には、そんな「それだけ感」がある。ただ遊ぶ、それだけなのである。
現実性についても同じである。現実性も、目的や価値といったものとは無縁である。言葉や認識や存在からも無縁であると言ってもいい。現実性とは、ただ現実である、それだけなのである。ただ「遊ぶ」のだし、ただ「現実」なのである。
入不二はケセラセラという言葉も使うけれど、このあっけらかんとした「それだけ感」を強調するならば、現実性と遊戯性は根底で重なり合っているのではないか。
過程性
僕は、現実性を「遊戯」という言葉で描写するのが気に入っているけれど、現実性を「過程」と表現するほうが見えやすい側面もある。
現実性の動性を強調するならば、現実性とは、特定の静的な状態ではなく、特定の状態に至る過程において働く。いや、より正確には、どんな状態にも至らなくても、そのどこにも至らない過程において働く。過程というと、どうしてもその先のゴールをイメージしてしまうけれど、ゴール抜きの過程というものをイメージできるならば、それは、現実性の動性の近似値と言えるだろう。
このように、現実性のある一面を強調するならば、それは過程性という言葉で表現できる。
入不二哲学の過程性
そのうえで、この過程性は、(遊戯性と同様に)「現実性」に向き合う場面で最も発露されると言えるだろう。
その最も顕著な例が、入不二自身が現実性を論じる際の態度である。入不二は、『現実性の問題』を書き、驚異的なスピードで続編とも言える『現実性の極北』を書いている。入不二の現実性に関する語りは、まさに過程の真っただ中にある。
さらに言うならば、入不二は、デビュー作『相対主義の極北』以降、相対主義、時間論、運命論と様々な分野について論じてきたが、振り返ってみれば、入不二がこれまで論じてきたテーマは全て、実は「現実性」の別名であり、いわば変奏曲であったとさえ言える。(だから、入不二の現実性に関する議論は、これまでの入不二の議論の集大成とも言える。)
入不二は(きっと生涯を通じて)「現実性」について書き続けてきたのだし、そして、これからも書いていくはずだ。きっと、入不二の人生は始めから終わりまで書き続けるものであるのだろうし、きっとそれも「現実性」について書くものであり続けるのであるのだろう。そのような、執筆作業の真っ只中にあるという「過程性」こそが、現実性に向き合う際の最も適切な態度なのである。そして、僕たち読者は、それを読み続け、自ら考え続けるという過程にあり続ける。これこそが、現実性に向き合う際の最も適切な態度である、ということになる。
現実性には、現実性について考える過程であり続けることを強いるような不思議な引力がある。その引力は、僕を捉え、そしてきっと入不二を捉えている。現実性について理解するとは、この引力を受け入れることなのだろう。
遊戯としての過程としての読書
このように、現実性と遊戯性には深い関係があり、現実性と過程性も深い関係がある。同様に、遊戯性と過程性にも深い関係があるだろう。鬼ごっこの楽しさは、鬼が逃げる人間を捕まえるという静的な状態にはなく、鬼が人間を追う過程にある。スキーの楽しさは、早くふもとに到着することにはなく、滑り降りる過程にある。このように考えるならば、現実性・遊戯性・過程性は密接に絡み合う、三兄弟のような言葉である。(入不二ならば、長男はあくまで「現実性」だとするのだろうが、僕ならば、書き・読むという場面を重視し、長男は「遊戯性」である、と主張したい。いずれにせよ過程性は派生的な三男の位置づけだろう。)
現実性を論ずることは、入不二の生涯を通じた、過程としての遊戯である。僕は読者として、入不二の遊戯に巻き込まれ、ともに遊んできたし、僕が読者である限り、これからも、そうしていくのだろう。そのようにすることが現実性を論じ、理解するためには不可欠であり、遊戯の過程にあることこそが、現実性に向き合うために取るべき姿勢なのである。
『現実性の極北』を読んでいると、時に理解が追い付かず、苦しくなることもある。だけど、そのわからなさ自体が楽しさであり、現実性と戯れているということなのだろう。そして、そのような過程にあるということ自体がまさに現実性の極北に向かう道なのだと思う。
と、多少は吐き出したので、続きを読もうっと。内圧マシマシ、期待してます。