※2000字くらいです。序章的なふわっとした文章です。
子供たちの詩集『サイロ』
帯広に行き、バターサンドなどで有名な六花亭が『サイロ』という子供が書いた詩を集めた月刊誌を出していることを知った。
美術館的なところで展示されていたので、ひとつひとつじっくり読んだのだけど、意外といい。作者は小学生くらいの子供なのだけど、子供かどうかは関係なく、ある人のある瞬間における世界との出会いが、豊かな奔流のように表現されていたのがよかった。
作者自身のための詩
実は、僕は、詩が苦手だ。人の思いつきを、どうして時間をかけて読まなければいけないんだ、と思ってしまうからだ。
小説ならば、読者に対する配慮がある。読む人が楽しんだり、何かを感じたりすることを意図して書いている。だが、詩は、自らの心の奥底から湧き出してくるものを書き留める。詩とは、詩人が自らに正面から向き合うところから始まるものであり、詩人という他者のためのものなのである。
ただ、このような捉え方は一面的すぎるとは言えるだろう。小説にも、作者自身とばかり向き合っている私小説があるし、詩にも、韻や構成に強い意識を向けたものもある。ポップソングの歌詞だって、詩の一種と呼べるだろう。
だから、僕が苦手とするのは、詩と呼ばれるかどうかに関わらず「詩なるもの」と呼ぶべきだろう。(私小説における「私」や、ポップソングに散りばめられている作詞家の心の断片もその一種である。)
「詩なるもの」とは、作者が作者自身のために書くということである。少なくとも、文学には、読者寄りの文学と、作者寄りの文学というグラデーションがある。そして僕は、作者寄りの文学が苦手なのである。(読者である僕のためではなく、他人である作者自身のために書かれたものを読まされるなんて、苦痛でしかない!)
感性としての詩
だが、帯広に行き、改めて、詩というものを真面目に読んでみて、こういうのも、この世界にあったほうがいいんだろうなあ、という思いが、ふと心に浮かんだ。
子供にせよ大人にせよ、こうして自分自身のために言葉を紡ぐことを応援される世界って、そうではない世界より、きっと、百倍すばらしい世界だろう。
僕は、美術館のようなところで、ゆっくり読むことを強いられたことで、毛嫌いしてきた詩の魅力を、ちょっと知ることができたのである。
詩とは、きっと、詩人自身と世界との出会いの瞬間の解像度を上げ、深度を深める作業である。言葉を媒体にして、言葉を梃子にして、世界は詩人の心に染み渡り、そして詩人は世界に染み渡っていく。あえて詩的に表現するならば、「詩なるもの」とはそういうものなのだろうと思う。
そのような営みと、僕がやっている哲学とはどこが違うのだろう。
感性によって言葉を選ぶ詩と、論理によって言葉を選ぶ哲学とはぜんぜん違う、という意見もあるだろう。確かに、そのように分類できそうな哲学領域もある。
だが、特に、僕がやっている形而上学は、既知の論理のその先に向かおうとする営みとも言えるから、どうしても、非論理的な、いわば詩的な言葉を使わざるを得なくなる側面もある。(例えば、僕は、形而上学においては、「非A的A」という詩的言語が役立つと考えている。これは、カモノハシは「非哺乳類的哺乳類」である、私は「非存在的存在」である、というように使うのだけど、こういった論理的には矛盾となる表現を使わざるを得ない形而上学的領域があると考えている。)そのような場面では、哲学と詩は見分けがつかなくなりがちだ。
それでも、僕は、全然違うと言いたくなる。僕は、やむをえず詩的な言葉を使ってしまってはいるけれど、詩とは全然違うことをやっていると言いたくなる。これまで、僕は、論理、認識、存在と様々なものと対決してきたけれど、これからは「詩なるもの」とも対決しなければいけない、僕は帯広でそんなことに気づいた。
対決の営みとしての詩
もしかしたら、過去の詩人たちも、自分が書いたものは「いわゆる世間が褒めそやす詩」などではない、などと考え、詩と対決してきたのかもしれない。そうだとしたら、僕の対決と、彼らの対決との違いはなおさらわからなくなる。
それでも僕は、僕がやっていることは、そんな彼らの営みとも全然違うのだ、と言いたい。彼らの営みをひっくるめて、三たび「詩なるもの」と名付けるならば、僕は、そのような営みとも対決する必要があると考えている。
果し状
ここまで、「詩なるもの」という言葉について、作者が作者自身のために書くという意味、感性によって言葉を選ぶという意味、過去の詩人たちによる対決の営みとしての意味、という三つの意味を持たせてきた。
あくまで予測だが、この三つの意味は、全くの別物ではないだろう。「他者としての作者」、「感性の言葉による表現」、「すでに行われた過去の営み」は、互いに絡み合って、ひとつの「詩なるもの」を指し示しているように僕には思える。ただ、その先の構想はまだない。
僕は、いつか刀を交え、切り結びたいと願いつつ、「詩なるもの」に対して果し状だけを出して、この文章をいったん終えることにする。
続きはいつか書きたい。