※ あっさり書くつもりが12,500字になっちゃいました。けど書き足りないので続きを書くかも。アイキャッチ画像は動物園にいた檻の外のカラスです。
0 はじめに
先日、「ちょうどよく生きる」という指針について書いた。
気合が入りすぎて、26,000字以上の長文になってしまったし、内容も、僕の他の哲学的アイデアとの整合性など、(僕には重要だけど)読者には興味がなさそうなことを、くどくど書いてしまった気がする。
だから、この文章では、読者の皆さんに伝えたい、「ちょうどよく生きる」という指針の魅力に絞って、あっさり書きたい。
ただ、そうは言っても、伝えるために必要な説明もあるから、くどくどと脱線めいた話はしてしまうと思うけれど。
1 「ちょうどよく生きる」の紹介
まず、「ちょうどよく生きる」という指針について簡単に紹介すると、この指針には三つの特徴がある。
①「ちょうどよく」に着目していること
②「生きる」に着目していること
③「ちょうどよく」という副詞と「生きる」という動詞で表現していること
の3点である。
これらの特徴が何を意味しているのか、ひとつずつ説明する。
1-1 「生きる」に着目していること
まず②の「生きる」に着目していることから言えるのは、この「ちょうどよく生きる」という指針は、僕達の人生の生き方についての指針だということである。僕は、評論家のように自分を棚に上げて何かを批評するのではなく、当事者として関わる「この人生」の生き方についての指針を提案しているのである。
1-2 副詞と動詞で表現していること
次に、③の副詞+動詞で表現されているという特徴から言えるのは、形容詞+名詞では表現できないということである。つまり「ちょうどよい人生」ではダメなのである。
(「ちょうどよい人生」は、「ちょうどよい人生とは何か」というWHATの疑問文で問われ、「ちょうどよく生きる」は、「どのように、ちょうどよく生きるのか」というHOWの疑問文で問われるが、僕は、HOWで問うべきと主張している、と言ってもよい。)
なぜそうなるのかについて、「ちょうどよい/ちょうどよく」ではなく「豊かな/豊かに」という別の例で考えてみよう。(「ちょうどよく」の中身は次節で扱うため。)
「豊かな人生」とすると、そこには何らかの明確な状況が思い浮かぶ。例えば、資産がある、家族や友人に囲まれている、穏やかな気持ちでいる、といった状況である。
そこから、これらの特定の状況にあるならば、それは「豊かな人生」であり、そうでなければ「豊かな人生」ではない、という選別が生じる。
つまり、「豊かな人生」という言葉は、ある特定の状況とそうではない状況を選別する言葉なのである。残念ながら、「豊かな人生」と呼ぶに相応しい特定の状況にない人は「豊かな人生」にアクセスすることはできない。
だが、「豊かに生きる」ならば、そうはならない。資産がなく、孤独で、悩みで心が安らいでいなくても、それでも、何かを見出して「豊かに生きる」ことはできうるからである。
なぜそうなるかというと、形容詞と名詞で表現された「豊かな人生」は静的な状況を指すが、副詞と動詞で表現された「豊かに生きる」は動的な過程である、という違いがあるからである。どんな状況にあっても、より豊かに生きようとする動的な過程に身を置くことは可能であり、それが「豊かに生きる」ということである。
「豊かに生きる」は、どのような状況に置かれているかに関わらず、すべての人に門戸が開かれているのである。
(念のため「ちょうどよい人生」に戻るならば、この言葉からは、例えば、働きすぎず、郊外に家を建てて、子供が二人いて、犬を飼って、といった、ささやかな幸せを伴う静的状況を思い浮かべるだろう。(この例が現代社会では不適切だとしても、何らかの別の具体的な状況を思い浮かべることはできるだろう。)一方で、「ちょうどよく生きる」は、より「ちょうどよく生きる」という動的な過程である。だから、どんなに平均から外れた不幸な人でも、「ちょうどよく生きる」ことはできうる。)
このような違いがあるから、僕は、選別し、誰かを排除しないために、動的な過程を捉えることができる、副詞+動詞表現を用いているのである。
1-3 「ちょうどよく」に着目していること
最後に、例えば「豊かに」や「前向きに」といった他の言葉ではなく、「ちょうどよく」を選んだ理由についてである。その理由は簡単に言うと、「豊かに生きる」や「前向きに生きる」のように副詞+動詞としても、そこに何らかの選別は生じうるからである。
たしかに、副詞+動詞とし、動的な過程として捉えれば、誰にも門戸は開かれている。動的な過程にいれば、いつかは「豊か(さ)」や「前向き」に到達できるかもしれない。だが一方で、もしかしたら「豊かさ」や「前向きさ」に到達できないかもしれず、最終的に選別が生じることは避けられない。
なぜそうなるかというと、「豊かに」や「前向きに」には、選別の基準が含まれているからである。
例えば、「前向きに」における基準は、ものごとを肯定的に捉えているかどうか、といったものだろう。その基準に従って、「前向きに生きる」と「前向きでなく生きる」を容易に選別できてしまう。
一方で「豊かに」という言葉には、物質面や精神面での豊かさといった様々な含意がある。だから「前向きに」よりは基準が明確ではない。だが、それでも、物質面か精神面かいずれか(または人間関係面のような別の側面において)で「豊かに」生きることだ、という程度の意味では、選別基準が含まれてしまっている。
よって、「豊かに」や「前向きに」といった選別基準に基づき、誰かを排除し、門戸を閉ざすことになってしまうのである。(様々な含意がある「豊かに」のほうが「前向きに」よりはマシではあるけれど。)
一方で、今回僕が人生の指針として提案する「ちょうどよく生きる」ならば、それだけでは何が「ちょうどよく」なのかさっぱりわからないという点で、「豊かに」に比べても、さらに一段、基準性が薄まっている。だから、僕は選別基準を混入させたくなくて「ちょうどよく」としたのである。
(「ちょうどよく」の「わからなさ」については次章で述べる。)
まとめるならば、「ちょうどよく生きる」という指針とは、「①僕自身が当事者であるこの人生を生きるにあたっては、②動的な過程に着目し、③選別の基準が混入しないようにする」といった意味を込めたものなのである。そして、そうするのは、人生の指針とは、「僕自身を含めたすべての人に門戸を開かれるものであるべき」と考えるからなのである。
2 「ちょうどよく」の美点
このうち、特に注目し、さらに考えてきたいのは、選別基準が混入しないようにするために用いた「ちょうどよく」についてである。
2-1 「ちょうどよく」の役立たなさ
前章で僕は、「ちょうどよく」はさっぱりわからない、と述べたが、素朴なイメージとして、「ちょうどよく」という言葉には、中間、穏当、バランスがとれているといったイメージが含まれているように思える。そのようなイメージから、「ちょうどよく」とはさっぱりわからないものではなく、「バランスがとれていることがよい」といった明確な基準が含まれているように思える。
だが、実は、「ちょうどよく」には、「ちょうどよく」逸脱することも含まれている。
それは、たとえば、(僕、つまり、この現代日本を生きる中高年男性のファッション感覚を例にすると、)全身ユニクロファッションは悪くはないけれど、そこから逸脱しすぎない程度に「ちょうどよく」逸脱して個性を発揮したほうがおしゃれだ、というような意味である。
さらには、かなり攻めた(例えばヘビメタ)ファッションで、全然「ちょうどよく」ないとしても、それがファッションとしてまとまっている限りは「ちょうどよく」着こなしているとも言える。
そのような、一見、全然ちょうどよくない場合も含めて「ちょうどよく」は成立する。だから、少なくとも「ちょうどよく」とは真ん中や平均のような特定の状況を意味するのではない。様々な逸脱も含め「ちょうどよく」は成立しうるのである。
そこから導かれるのは、「ちょうどよく」とだけ言われても、どうすればいいか、さっぱりわからないということである。要するに、「ちょうどよく」は選別基準として役に立たない。
これは、「ちょうどよく生きる」という指針が持つ、誰かを拒絶しないという意味での美点であると考えている。
2-2 ホロコーストの思考実験
ところで、なぜ僕がこれほどすべての人に門戸を開き、誰かを拒絶しないことにこだわるのかというと、僕は倫理の指針とは、どんな不幸な人にも適用できるものであるべきだと考えるからである。
僕は、フランクルの『夜と霧』(絶滅収容所から生還したユダヤ人心理学者が書いた自伝です。)が好きで、不幸な人を思い浮かべるときは、いつも、絶滅収容所のユダヤ人を思い浮かべる。(最近は、イスラエルのガザ問題があるので、色々と複雑な気持ちにはなるけれど、それでも、ホロコーストが持つ意味は何も変わらないだろう。)
僕は、倫理の方針とは、ガス室に閉じ込められたユダヤ人にも適用できるべきと考えるのである。
そのような状況では、「無病息災」や「家内安全」や「豊かな人生」や「豊かに生きる」といった指針は役に立たない。今、まさに孤独で理不尽で苦しい死に向かおうとする、その一瞬において、これらの選別基準を含む人生の指針は役に立たないどころか、傷つける道具にしかならない。なぜなら、これらの選別の指針は、彼らを、指針の達成に失敗した存在として位置づけることにしかならないからである。
僕は、そんな瞬間でも達成可能な指針を探してきた。そしてみつけたのが「ちょうどよく生きる」という指針なのである。
ガス室においても、死に至るその瞬間までは生きることができるし、どんなに不幸な状況のなかでも最大限「ちょうどよく」生きることはできる。
泣き叫ばずに家族のことを思い出すのが「ちょうどよい」かもしれないし、それでも泣き叫ばざるを得ないことも「ちょうどよい」と言えるかもしれない。または泣き叫ぶことすらできず茫然自失となることこそが「ちょうどよい」かもしれない。どんなに不幸な状況でも、どんなに限られた選択肢しかなくても、そこで「ちょうどよく生きる」ことは可能なのである。
僕自身がどんなに不幸な状況に陥っても(たとえ僕が絶滅収容所に送られても)適用できるような、普遍的な人生の指針を求めつづけてきた。そして僕は、ようやく手に入れることができたのである。
以上のような意味を込め、僕は「ちょうどよく」を用いている。
(だから、もし、絶滅収容所でも適用できるような、別の指針があるならば、そちらに乗り換える余地はある。)
3 探求
3-1 本当にそれでちょうどよく生きているのか
「ちょうどよく生きる」という人生の指針は、選別基準を含まないという美点がある。個性的なヘビメタファッションでも「ちょうどよい」ファッションになりえるように、絶滅収容所でガス室送りになるような、全然ちょうどよくない生き方でも「ちょうどよく生きる」になりうる。それは、すべての人の生き方を拒絶しないということである。
だが、それで話が終わってしまったら、何でもありというだけの話になってしまう。
僕は、「ちょうどよく生きる」という指針の中には、全てを取りこぼさず受け入れるという側面とともに、「本当にそれでちょうどよく生きているのか」と厳しく問いかけてくるような側面があるように思う。
何でもありだからこそ、無限の可能性のなかから、君は本当に「ちょうどよく生きる」を選び取れているのか、と問いかけてくるのである。
3-2 探求へのいざない
それではどうすればいいのか。何も手がかりがないのに、どうやって「ちょうどよく生きる」を選び取ることができるのか。現時点で僕が言えるのは、その答えはこれから探求するしかない、ということだけだ。
「ちょうどよく生きる」とは、全く捉えどころがない方針である。このわからなさは、(少なくとも僕を)探求にいざなう。なぜなら、わからないなら、(少なくとも僕は)探求するしかないからである。
そこから、唯一言えそうなことは、「ちょうどよく」は、探求と結びついている、ということである。「ちょうどよく」とは、全てを受け入れる優しい指針であると同時に、なんの手がかりもない中での探求にいざなう厳しい指針でもあるのである。
「ちょうどよく」は、僕がどんな状況にあっても、それが「ちょうどよい」と受け入れてくれる。だが傷が癒えた頃、再び「ちょうどよく」を探求せよ、と言う。そして、探求に出た僕がどうなったとしても、また、それが「ちょうどよい」と受け入れてくれる。
きっと、この「ちょうどよく」の二面性は、人生というものの二面性でもあるのだろう。
実は、これこそが、僕が「ちょうどよく」という言葉を選び、「ちょうどよく生きる」という人生の指針を設定した理由である。「ちょうどよく」は人生についての描写としてちょうどよいのである。
なお、繰り返し「僕にとっての」重要性を強調したのは、探求の重要性とは、僕のような、わからないことを放っておけないタイプの人間にしか理解されないものだろうからだ。きっと、世の中には、わからないままでいいと考える人が一定数いる。だが、僕を含めた一部の人は、もし、わからないならば探求に向かうしかなく、探求にいざなうわからなさがあることこそが美点だと考えてしまうのである。
だから、「ちょうどよく生きる」という指針は、僕達のような探求に人生を賭けるような種類の人間を、探求にいざなうという点で、とってもいいものだと僕は思うのである。
4 言葉と感覚
とりあえず、探求の重要性について賛同を得られたとして話を進めると、そこで、「ちょうどよく」をどのように探求すればいいのか、という問題につきあたる。
「ちょうどよく」には、なんでもありで、探求にいざなうものである、という以上の手がかりはない。だから、ここから先に進もうとしても困ってしまう。そこから、やはり「ちょうどよく生きる」は使えない指針と思われるかもしれない。
だが、確かに「ちょうどよく」には、これ以上の手がかりはないけれど、僕達人間が探求において使える道具は限られている。
それは、言葉と感覚である。ここに前に進む手がかりがある。
(なお、僕は、三つ目の道具として「存在」があると考えている。そして、哲学的には、言葉は意味論、感覚は認識論、存在は存在論と重なっていると考えている。だが、これは形而上学的でわかりにくい話なので無視していただいてよい。)
4-1 言葉により探求するという行為
まず、「ちょうどよく」を言葉で探求するという道筋について考えてみよう。
最初に注意点を述べておくと、「ちょうどよく」は、決して「ちょうどよい」風呂の温度は41度だ、というように簡単に言い表されるものではない、ということである。
「ちょうどよい」ためには湯船の温度に気をつけるだけでは足りない。照明の明るさ、風呂に入る時間帯、健康状態など、さまざまなものごとがちょうどよくて、はじめて「ちょうどよい」。そして、このような「ちょうどよい」ための条件の列挙は、きっと終わりがなく、完遂することはできない。だから、言葉での「ちょうどよく」の探求は難しい。
そして、より大きな問題は、条件をいくら列挙しても、せいぜい「ちょうどよい入浴」という静的な状態にしか至ることができないことだ。「ちょうどよく風呂に入る」とは、「より」ちょうどよく風呂に入ることも含めた動的な過程なのだから、理想的な静的な状態に至るための条件の列挙というアプローチは、決して成功することがない。
だが、言葉による「ちょうどよく」の探求は無駄ではない。なぜなら、言葉による探求は決して成功しないけれど、探求を続け、言葉を紡ぎ続けるという、動的な過程は十分に成立するからである。
たしかに、言葉によっては、「ちょうどよく風呂に入る」というような任意の行為について探求しつくすことはできない。だが、「言葉により探求する」という行為については、言葉を紡ぎ続けるというかたちで、「ちょうどよく」「言葉により探求する」ことは可能なのである。
ここに、「言葉により探求する」という行為の特殊性がある。
4-2 手段の限定
なぜ、言葉を紡ぎ続けることが、「ちょうどよく」言葉により探求することになるのかというと、言葉を紡がなければ、言葉により探求することにならないからである。
「言葉により」探求する、と手段が決まっているのだから、その手段を使わなければ、言葉により探求することにならない。探求において、その手段を使いつづけることは、手段が決まっていることによる当然の帰結である。
それは、「ちょうどよく」釣り竿を使って魚を獲るのと同じことである。網を使ったり、ダイナマイトを使ったりしたほうが、効率よく魚を獲ることができるかもしれない。だが、釣り竿を使うことが決まっているのだから、釣り竿を使うしかない。
もし釣り竿を使って魚を獲ると決めたならば、「ちょうどよく」釣り竿を使って魚を獲るとは、釣り竿を使い続けるということである。同様に、もし言葉を使って探求すると決めたならば、「ちょうどよく」言葉を使って探求するとは、言葉を紡ぎ続けるということである。手段の限定が、その手段を使い続けるという帰結を導くのである。
(なお、魚を獲りすぎると資源が枯渇するといった問題もあるから、「ちょうどよく」魚を獲るとは、魚を獲りすぎないことも含む。同様に、「ちょうどよく」探求することは、睡眠時間を確保するなどの事情から、探求しすぎないことも含む。だが、それで魚を獲ることや、探求することを止めてしまったら、それは、「ちょうどよく」魚を獲り、「ちょうどよく」探求することにはならない。)
釣り竿と言葉の違いは、釣り竿は、魚を獲るという、僕にとって優先順位が低い事柄に関わるもので、言葉は、探求という、僕にとって重要な事柄に関わるものである、ということにすぎない。
そして、魚を獲るには、釣り竿のほかに、網やダイナマイトなど色々な手段を用いることができるが、探求には、言葉と感覚という二つの手段しか用いることができない、という違いがあるにすぎない。
4-3 広義のフロー体験
次に、もうひとつの感覚という手段について考えてみよう。
感覚を使って「ちょうどよく」を探求するというと、湯船に手を入れて、お湯の温度がちょうどよいかどうか確かめるような場面をイメージするかもしれない。手でお湯を触れて、ちょうどよいな、と感じたら、それがちょうどよいことになる。
だがこれは、「ちょうどよく」ではなく、「ちょうどよい」である。第一章で確認したとおり、「ちょうどよい」は静的な状態としての形容詞表現であり、「ちょうどよく」は動的な過程としての副詞表現である。そのうえで、すべての人に門戸を広げるためには、静的な状態ではなく、動的な過程であることが重要性なのであった。
もし、「ちょうどよく」行為することが、ちょうどよい風呂の温度のような、感覚で捉えられる静的な状況の集合体として表現されたならば、絶滅収容所のユダヤ人のような、ちょうどよい状況にアクセスすることが叶わない人たちは、「ちょうどよく生きる」ことはできなくなってしまう。だから僕は、感覚によって把握される静的な状況でちょうどよさを評価するような考え方を拒否している。
それでは、「ちょうどよく」行為するという動的な過程を捉えることができる感覚とは何か。
僕は、それは、「広義のフロー体験」と呼ばれる感覚だと思う。
「(狭義の)フロー体験」とは、よく、プロスポーツ選手が集中して高いパフォーマンスを出したときに、ゾーンに入ったなどと言われるが、言葉で色々考えず、自然に体が動いてしまうときの独特の感覚である。
その「狭義のフロー体験」を拡張し、スポーツにおける高いパフォーマンスといった意味を捨象し、「言葉で色々考えず、自然に体が動いてしまう」ときの感覚を「広義のフロー体験」と呼ぶことができる。
具体的には、最も典型的には、朝、通勤中、ぼーっと歩いていたら、いつの間にか駅に到着しているときの、あの感覚である。
さらには、ぼーっとしていることすら必須ではなく、普通にご飯を食べ、掃除をしているときもそうである。「卵焼きに箸を伸ばして口に運ぼう」などと言葉で考えず、ただ行為しているならば、それが「広義のフロー体験」である。
このように考えるならば、万人がしばしば「言葉で色々考えず、行為する」という程度の意味としての「広義のフロー体験」を感じると考えることができるのではないだろうか。
なぜ、「広義のフロー体験」が「ちょうどよく」という動的な過程を捉えることができる感覚なのかというと、万人に門戸が開かれているからである。
僕は、「ちょうどよく」行為することの魅力は、誰も選別しないことにあると考えている。それならば逆に、誰も選別しないことが、「ちょうどよく」を探求するための手がかりになるのではないだろうか。
そう言い切れるかどうかはともかく、有力な手がかりであることは確かだろう。
僕は、どんなに厳しい状況で、どんなに苦しんでいても、その苦しみを言葉ではなく、ただ感覚で捉えているならば、それが、「ちょうどよく」生きるということだと言いたい。(苦しんでいる人がいたら、そう言ってあげたい。)
そして、そのように言うことは、それほど的外れではないと考える。
(このフロー体験は、ジュリア・アナスの『徳は知なり』での用語だ。ただアナスは、僕の用語の区分によるならば、狭義のフロー体験をよろこびを伴うものとして重視し、広義のフロー体験を機械的反応としている。アナスにおいては、よろこびとしてのフロー体験の望ましさが徳につながっているのである。僕はそれに対し、そのようにフロー体験を静的な状況と捉え評価することは、選別の基準につながると批判していることになる。)
4-4 言葉と感覚の併用
人間が探求に使える道具は、言葉と感覚に限られている。
ここまで検討した結果、言葉によっては、「ちょうどよく生きる」を捉えきることはできないことがわかった。ただし、言葉で「生きる」全般について捉えることはできないけれど、言葉を紡ぎ続けるというかたちで、「ちょうどよく」「言葉により探求する」ことは可能であることはわかった。
一方、感覚によってなら、(狭義のフロー体験ではない)「広義のフロー体験」という捉え方を用いて、言葉ではなく、ただ感覚で捉えることで、任意の行為の「ちょうどよく」を捉えられるかもしれないことがわかった。
ここから、「ちょうどよく」については、言葉より感覚のほうが相性がいいという結論が導かれたことになる。「言葉により探求する」という行為を例外とするならば、たいていの行為については、言葉を用いず感覚で捉えるべきなのである。
だが、言葉を用いず、ただ感覚に任せ、広義のフロー体験を感じるだけでは、行為をコントロールするのが難しい。言葉を使って、行為に一貫性を持たせたり、過去の反省を活かして今後の行為を修正する、といったことができなくなるのである。
それでいい、という割り切り方もありうる(その割り切り自体が言語的なので、割り切るという決心すらしないことになる)けれど、そうでない限り、なんらかのかたちで言葉を絡ませる必要が生じる。
そこで重要になるのが、「言葉により探求する」という言葉と相性がよい唯一の行為である。
きっと、「ちょうどよく」生きるにあたっては、広義のフロー体験を感じて任意の行為を行うだけでなく、その任意の行為を「言葉により探求する」ことは避けられない。僕達が人間として「ちょうどよく」生きるためには、広義のフロー体験という感覚を頼りに「ちょうどよく」生きることと、言葉を紡ぎ続け、「ちょうどよく」を探求しつつ生きることを併用せざるを得ないのである。
4-5 言葉と感覚の間の往復運動
なお、この併用とは、「同時」を指さないことに注意する必要がある。
なぜなら、広義のフロー体験を感じる際には、言葉を用いないことが重要であり、また、言葉を紡ぎ続けるにあたっては、感覚によって言葉の使用を中断しないことが重要だからである。言葉と感覚を同時に用いないことこそが「ちょうどよく」ということなのである。
(僕達が実際行っている、言葉と感覚の同時使用については、次節で付言する。)
では、どうすればいいのかというと、広義のフロー体験としての感覚の使用と、言葉を紡ぎ続けるかたちでの言語の使用を、それぞれ突き詰めたうえで、うまく切り替えるべきなのである。つまり、言葉から感覚へ、感覚から言葉へ、という往復運動を行うのである。
では実際のところ、この往復運動をどのように行えばいいのかというと、なかなか難しい。言葉にこだわったままでは切り替えができないし、かといって言葉を軽視すれば、言葉を紡ぎ続けることもできない。感覚についても同様に、こだわりすぎても軽視しすぎてもいけない。
では、どうすればいいのかというと、「ちょうどよく」行うのである。言葉と感覚の往復運動とは、つまり併用の動的な過程であり、動的な過程については「ちょうどよく」行うべきなのである。
きっと、「ちょうどよく生きる」における「ちょうどよく」の、かなりの重要な部分は、この言葉と感覚の往復運動を「ちょうどよく」行うことを指しているのではないだろうか。
4-6 哲学と生活の間の往復運動
少なくとも、「ちょうどよく」を探求せずにはいられない僕にとっては、この言葉と感覚の往復運動の切り替えを「ちょうどよく」行うことは重要である。
僕は、こんな文章を書き、哲学をしている。それはつまり、言葉を紡ぎ続け、全くの謎である「ちょうどよく」を言葉により探求している、ということである。一方、僕は哲学をするばかりではなく、ご飯を食べたり、風呂に入ったりと、言葉でなど考えず、広義のフロー体験として、感覚を用いて日常生活を送っている。
そのなかで、風呂に入りながら、ふと哲学的アイデアが思いついたりして、僕は、哲学と日常生活を行き来し、言葉と感覚の往復運動を行っている。
僕にとってまずいのは、言葉を用いて哲学しているはずなのに、日常の感覚が入り込んできて気が逸れたり、広義のフロー体験としての生活に集中しているはずなのに、余計な考えが言葉として浮かんでくるような事態である。こういうときは、たいてい、感覚としても言葉としても中途半端となり、哲学としても生活としても中途半端でうまくいかなくなる。
僕にとって「ちょうどよく生きる」という指針には、このような具体的な意義がある。この指針は、僕のような哲学者に対して、中途半端は避け、哲学か生活か、どちらかに集中しなさい、と言っているように思えるのだ。
哲学者が生活の中で哲学をするためには、哲学と生活を中途半端に同時に行うのではなく、それぞれを突き詰め、そのうえで往復運動というかたちで統合するしかない。そのようにしてしか、哲学と生活を両立させた哲学者の人生を「ちょうどよく生きる」ことはできないのではないだろうか。
4-7 人間、狂人としての哲学者、動物、凡庸な哲学者
最後に、さきほど、言葉と感覚の同時使用では「ちょうどよく」には到達できないと言ったことについて述べる。
僕も含め、多くの人は、ふつうに言葉と感覚を同時に使って過ごしている実感がある。僕のような哲学を重視する人はまだしも、そうではない人にとっては、それでは駄目なのだろうか。
ここまでの議論を踏まえるならば、哲学者であろうとなかろうと、漫然と言葉と感覚を同時使用していては「ちょうどよく」には到達できないのは明らかだろう。なぜなら、まず、言葉では「ちょうどよく」を把握できないのだし、言葉と感覚を同時使用していては、広義のフロー体験にも至らないので、感覚によって「ちょうどよく」を捉えることもできないからである。
つまり、言葉が混入した時点で、「ちょうどよく」には到達できない。言葉(だけ)にこだわる哲学者の道を歩まないならば、言葉を用いない(比喩としての)動物になるしかない。言葉と感覚の同時使用というような虫のいい話はないのである。
きっと、言葉と感覚の同時使用とは、常識的な人間の道ではある。だが、その道は「ちょうどよく生きる」の道にはつながっていない。
「ちょうどよく生きる」ためには、感覚を全て投げ捨て、言葉を紡ぎ続ける(狂人のような)哲学者の道を進むか、言葉を全て投げ捨て、感覚だけで生きる動物の道を進むしかない。
それが無理ならば、せめて、ときには言葉を紡ぐことに専念し、ときには感覚のみの広義のフロー体験としての動的な過程を生きる、(僕のような凡庸な)哲学者の道を進むしかない。
それが、「ちょうどよく」と「ちょうどよくなく」を含めて「ちょうどよく生きる」ということなのである。
5 まとめ
5-1 「ちょうどよく生きる」の魅力のまとめ
ここまで、「ちょうどよく生きる」という人生の指針を説明しつつ、魅力についても示してきた。
その魅力とは、
・誰も排除せず、すべての人に門戸が開かれていること
・感覚で「ちょうどよく生きる」を捉えるなら、広義のフロー体験という明確な人生の指針を示せるかもしれないこと
・言葉を含めても、「言葉により探求し続けること」と広義のフロー体験の往復運動として、明確な人生の指針を示せそうなこと
・特に哲学者にとっての人生の指針として役に立つこと
といったものである。
これで、「ちょうどよく生きる」という人生の指針が広く受け入れられたならうれしい。(あわせて、哲学者であることの魅力も伝わったならうれしい。)
5-2 感情と他者
最後に、僕個人にとっての、「ちょうどよく生きる」という指針の魅力を述べておきたい。
僕にとって、特に大きかったのは、「ちょうどよく生きる」という動的な過程としての往復運動が、言葉と感覚、つまり僕が捉えることができるもの全てを統合し、それを「ちょうどよく生きる」という動的な過程としての行為に変換していく、という気付きだった。
言葉と感覚によって捉えられる全てのものごとは、僕が人生を生きるというひとつながりの行為に統合され、収斂していくのである。
そこから、僕が軽んじ、見落としていた、感情、他者といったものごとの重要性に気づいた。「ちょうどよく生きる」ためには、何かを軽んじてはならない。すべてに正面から向き合わなければならない。もしかしたら、その何かが、昔の僕を深く傷つけたとしても、である。
きっと、それが、「ちょうどよく」探求するということなのである。
(感情と他者については、またいつか書きたい。)