-マルチタスク派の小さなゲリラ活動-
※最近やった「ふたり哲学カフェ」で考えたことを書いてます。5000字近くありますが、そんなに難しいことは書いていない気がします。
1 ふたり哲学カフェ
先日、二人きりで哲学カフェというものをやってみた。なかなか面白かったので、僕が考えたことを記録に残しておきたい。(相手の方の承諾は得ています。)
対話の冒頭で確認したところ、相手の方(「Aさん」とします。)が話したいテーマは、「時間とは何か」とのことだった。僕の他にそんなテーマを話したい人がいるなんて-そう思うと嬉しくなって、つい色々と話してしまった。そして、色々考えてしまった。この文章はその色々についての記録だ。
2 時間の区切り
まず、時間をテーマに選んだ理由について聞いてみると、どうやら、Aさんは生活パターンが人と違っているため周囲と時間を合わせて暮らすのが大変だ、という個人的な事情が背景にあることがわかってきた。友人との待ち合わせにせよ、飲み会にせよ、何時から何時まで、とスケジュールを区切るのが負担になるようなのだ。つまりAさんにとっては時間の問題とはスケジュールの区切り問題なのである。
一方の僕はというと、僕自身の人生を貫いて流れる「時間」というものが気になっている。(僕が死んだら時間はどうなるのだろう、などといった問題。)そこから、自分自身という一例だけに基づき、これまで僕は、時間に興味がある人は皆、自分や世界の時間的な存在の仕方に興味があると思い込んできた。
だが、Aさんはそうではなかった。Aさんが問題としていたのは、時間の「流れ」ではなく「区切り」であり、時間の「存在」ではなく「役割」だったのだ。時間という問題を、僕と全く異なる切り口で捉えられる人(それも単なる思考実験ではなく人生に根ざした実感として。)がいるというのが僕にとっては驚きだった。
考えてみれば確かに、時間の区切りというものは、この日常に深く入り込んでいる。出勤の何時間前には起きて、会社に間に合うためには何時の電車に乗って、翌朝起きる時間を逆算して何時には寝る、というように、毎日は誰かに決められたスケジュールで進んでいく。
Aさんのように、こうした時間の区切りが自分のペースにまったく合わなかったなら、きっと大きな負担になるのだろう。
3 共時的な時間
そもそも、時間の区切りの主たる目的は、誰かとタイミングを合わせることにあると言えるのではないか。出勤時間は取引先や同僚と合わせる必要があるし、飲み会の開始時刻は友達と合わせる必要がある。だから時間の区切りがある、と考えるのである。
それ以外にも、自分自身の健康(成長ホルモン分泌のためには早く寝たほうがいい、など)や自然のサイクル(農作業は日中にしないといけない、など)といった考慮要素もなくはない。けれど、少なくとも「主には」、時間の区切りとは、誰かとタイミングを合わせるためにあるとは言えそうに思える。
こうした時間の捉え方は、「共時的な時間」と呼ぶことができるだろう。他者とともに同じ時間を共有することに着目しているから「共時的」である。
一方の僕のような捉え方は、「通時的な時間」となる。僕自身という存在を貫いて流れる時間に着目しているから「通時的」である。
僕はこれまで「通時的な時間」の問題ばかり気にしてきたけれど、Aさんのおかげで、それとは別に「共時的な時間」という問題領域があることに気づくことができたのである。
4 ずれの隠蔽
共時的な時間において、最も重要になるのは「同時」という捉え方だろう。友人と時間を決めて待ち合わせることができるのは、僕と友人とが、ちょうど5時に、同時に渋谷のハチ公前にいることができるからである。僕が誰かとタイミングを合わせることができるのは、同時に、一緒にどこかにいることができるからである。(オンラインの場合は、同時に、異なる場所にいることになるけれど。)
だが、「同時」とは、相対性理論のような問題を持ち出さなくても結構怪しい捉え方だ。待ち合わせをした二人が、「同時」にハチ公前にいることを確認するには、互いを目視して確認しなければいけないけれど、そこでは数メートル先にいる友人との距離をまたぐ光速分のずれが生じる。肩を叩いたりして接触により確認する場合でも、神経の伝達時間によるずれが生じる。オンラインなら、なおさらタイムラグが生じる。
待ち合わせの場面から離れても、文字を使ったコミュニケーションにおいては、「りんご」という文字は「り」と「ん」と「ご」を同時に認識することが前提となるけれど、目の動きとしては若干のタイムラグがあるはずだ。
それでも、「りんご」という文字は3つの文字が同時に認識され、ひとつながりの言葉として処理されることになっているし、ハチ公前には同時に立つことができることになっている。
僕たちは、わずかなずれを隠蔽し、「同時」という方便を前提に、共時的な時間を生きているのだろう。
僕には、Aさんは、この共時的な時間における「同時」の問題を指摘したように思えるのである。
ところで僕は、時間ではなく、別の話において、似たような問題を感じている。それは、言葉の問題である。
例えば「りんご」という言葉は、僕にとっては青りんごも含む。だけど、青りんごを知らない人にとっては、「りんご」とは赤いりんごを指す。言葉は、人によってこのようなわずかなずれはある。けれど、それでも、「りんご」という言葉は、おおむね同じものを指す言葉として使われ、たいていの場合(青りんごが手元にない限り)、問題なく役目を果たしてしまう。この場合の「りんご」とは、わずかなずれを隠蔽する、共時的な言葉であると言えるだろう。
共時的な時間においては「同時」がずれを隠すように、共時的な言葉においては、言葉の「共通理解」がずれを覆い隠す。
だが、いずれにせよ、隠蔽は決して悪いものではなく、僕たちが、わずかなずれに囚われずに生き、この世の中が円滑に回っていくのに役立っているのだろう。
5 マルチタスクのカフェ
だが、そうすることで失われるものがあるのではないか。そう指摘したのがAさんだった(と僕は理解している)。
対話の中でAさんは「時間の区切りがマルチタスク性を失わせてしまう」という話をしていた。
例えばカフェの店員(ドトールなどの客が並ぶタイプのカフェをイメージしてください)が並んでいる客を一人ずつ対応する。一人の対応が終わったら、そこを区切りとして、次の客の対応に移る。これがシングルタスクのカフェのイメージである。
一方のマルチタスクのカフェは、客はきちんと並ばない。客に対応している店員に横から別の客が声をかける。そんなふうにワイワイやりとりをしているうちに、徐々にコーヒーが行きわたり、なんとなく、カフェは、客にコーヒーを飲ませる、という目的を果たすことになる。
当然、シングルタスクの並ぶカフェのほうが効率はいいし、客同士の喧嘩は起きないだろう。だけど、マルチタスクのカフェには、そこに想定外の面白さや、人間の温かみのようなものがある。
Aさんは、時間が区切られることで、そうしたマルチタスクならではの豊かさが失われてしまうと考えたのである。
6 マルチタスクの哲学カフェ
きっと言葉もそうである。
学術用語のような定義がしっかりした言葉は、いわばシングルタスクの言葉であり、ブレがない分、効率がいい。一方で、「りんご」のような日常の言葉は、客がきちんと並ばないマルチタスクのカフェのようなもので、言葉の解釈に行き違いがあったりして、コミュニケーションがなかなか前に進まないという問題はある。(青りんごを知らない人に「りんごをとって」と言ってもなかなか伝わらない、というような問題。)
けれど、そこには想定外の面白さや、人間の温かみのようなものがある。
実は、僕が哲学カフェを開催している狙い(のひとつ)もこのあたりにある。哲学カフェでは、例えば、(「りんご」ではなかなかずれが生じないので)「優しさ」という定義があいまいな日常用語を取り上げ、「優しさとは何か」といったテーマ設定をする。そのうえで、対話を通じて、「優しさ」という日常用語には、人によって捉え方に大きな違いがあると気づくことができる。そして、その違いのすり合わせをしていく過程を楽しむこともできる。これは、雑然としたマルチタスクのカフェにおいて、店員がなんとかコーヒーを客に行き渡らせていく過程、それ自体を皆で味わい、楽しむのと同じことである。
7 マルチタスク派による革命の困難
時間を区切ることと、学術用語のような切れ味のよい言葉で概念を区切ることは、同じような種類の作業である。時間や言葉を物差しにして、人間の営みを測って切って並べる。そうすることで、友達との待ち合わせはうまくいくし、発言の意図が誤解なく相手に伝わる。だから、物差しとなる時間や言葉は人間社会において必須だとは言える。
一方で、述べたとおり、人間の営みを切り刻むことで、失われるものも確かにある。
その最たるものは、時間を「同時」と捉えることにより失われる僅かなタイムラグや、(「りんご」や「優しさ」のような)言葉を万人に共通の意味と捉えることにより失われる僅かな言葉の揺らぎだろう。つまり失われるのは、その人固有の「他者からの距離」や「言葉の理解の仕方」である。(これを「実存」と呼んでもいいかもしれない。)
この実存を取り戻すため、虐げられてきたマルチタスク派は、この世の中の春を謳歌するシングルタスク派に対して革命を起こすべきである。Aさんはそう言っていたのではないだろうか。(いや、実際は、そこまでは言っていませんでした・・・そう考えたのは僕です・・・)
だが、マルチタスク派は極めて不利な立場にある。なぜなら、時間や言葉といった装置は、この世の中の隅々にまで行きわたっており、時間や言葉で区切って整形しないまま、ある考えを考えとして主張することなどできないからだ。
(例えば、できごとの詳細を描写する際には、そのできごとを時間で区切って並べてひとつの物語にする必要がある。)
マルチタスク派が、広く世の中に向けて声を上げることは、その仕組み上難しい。
8 合意を武器にしたゲリラ活動
そこでAさんは、明示的な、または暗黙裡での少人数の間での「合意」を重視する。「しばらくの間は、時間による区切りを使わず、多少非効率であっても、その非効率さを楽しもう」という合意である。例えば、翌日の予定など忘れて、終電を気にせずに三次会に行くような飲み会の場は、そのような合意がなされた場そのものとまでは言えないにせよ、その近似値だとは言えるだろう。
僕は、時間ではなく言葉でも同じようなことができると考えている。例えば、哲学カフェとは、言葉のあいまいさを楽しむことに合意した場であるとも言えるのではないか。
これはいわば、共時的な時間における「同時」の一時停止であり、共時的な言葉における「共通の意味」の一時停止である。(単なる一時停止ではなく、そこから超越が起きると思いたいけど。)
残念ながら、この世の中は、シングルタスク派が支配している。だが、局地的にであれば、飲み会の三次会や哲学カフェというかたちで、「合意」を武器に、マルチタスク派はゲリラ活動を展開することができるのである。
たしかに、このゲリラ活動によって世の中が転覆し、すべてマルチタスク化してしまったら、経済活動も立ち行かないし、それはそれで困ってしまう。けれど、局地的にでも風穴を開けてみたら、そこから何か面白いことが起きるのではないだろうか。
Aさんとの二人きりの哲学カフェをきっかけに、こんなことを考えることができたのは、結構な収穫だったと思う。
この、「ふたり哲学カフェ」という場も、振り返ってみれば、僕とAさんとのあいだの「合意」を武器にした、マルチタスク派の小さな破壊活動のひとつだったのかもしれない。
(最後に、ふたり哲学カフェの感想をひとこと。大人数の哲学カフェでは僕は進行役の役割を担いがちだ。けれど、二人きりの場合、僕も自分の考えを述べないと話が進まない。加えて、「時間」という僕好みのテーマ設定が、僕を色々語らせてしまい、こんな化学反応を起こしたのかもしれない。)