※7000字ちょっとあります。サラリーマン向けであんまり哲学してないと思います。アイキャッチ画像に使える写真が尽きてきたな。
1 会社と従業員
僕はサラリーマンであり、また、年齢的にも上司と呼ばれる立場にもなっているので、会社と従業員の関係について、特に上司という存在について考えることがある。
そこで考えたことは、哲学的な価値は低いけれど、今しか書けないという希少価値があるようにも思うので、書き残しておきたい。
一応、自称哲学者として根本的なところから述べるなら、会社とは「従業員を使って、組織の維持・発展のような組織目標を達成しようとする存在」であると言える。一方で、従業員とは「会社を使って、幸福のような個人目標を達成しようとする存在」だと言えるだろう。
そこには、互いに相手をうまく使おうとする緊張関係がある。だから、従業員は会社に労働力を提供し、その代わりに、会社は従業員に賃金を提供する、といった交換の合意がなされる。
まとめると次のようになる。
会社:従業員に対価(賃金)を与えたうえで、従業員を手段とし、目標達成を目指す
従業員:会社に対価(労働力)を与えたうえで、会社を手段とし、目標達成を目指す
関係:会社と従業員は対価(賃金)と対価(労働力)を相互に交換する
2 ウェットな関係
だが、このような無味乾燥な仕組みだけでは、この資本主義社会はうまく回らない。
従業員は会社に(時間拘束としての)労働力だけではなく、例えば、自発的なアイデアや、それまでに培ったノウハウや、場合によってはプライベートで学んだ知識を提供する。心理的には、所属意識や忠誠心(※)のようなものも関わってくるだろう。
会社のほうも、単に賃金を支払うだけでなく、職場の楽しい人間関係や、上司・同僚からの承認や、仕事を通じた成長・社会貢献・自己実現のストーリーといったものも提供する。そのためには、例えば、新卒社員に手厚い研修をしたり、従業員参加の大運動会を開催したりもする。
要は、会社と従業員の関係は、賃金と労働力のやりとりだけではなく、はるかにウェットなものである。そんなウェットな関係があるからこそ、サラリーマンの人生はより意義深いものになるし、会社というものに社会的存在意義があるとされるのだろう。
だが、こうしたウェットな描写さえ、単純な交換の構図に落とし込むことはできる。従業員が会社に提供するリソースは単なる労働時間に換算できる労働力だけではなく、知識やアイデアといったものも含まれ、一方の会社側も、賃金に加え、運動会のようなものを提供している、ともいえるからである。
よって、このウェットな拡大された交換関係は、以下のように整理することもできるだろう。
会社:従業員に対価(賃金、共感、意味、尊重など)を与えたうえで、従業員を手段とし、目標達成を目指す
従業員:会社に対価(労働力、アイデア、知識、忠誠心など)を与えたうえで、会社を手段とし、目標達成を目指す
関係:会社と従業員は対価を相互に交換する
つまり、忠誠心や従業員運動会のようなウェットな描写を込みにしても「会社/従業員は従業員/会社に対価を与えたうえで、従業員/会社を手段とし、目標達成を目指す。会社と従業員は対価を相互に交換する関係にある。」という構造には全く変わりがないということである。
※ 忠誠心というと大げさと思われるかもしれない。だが、例えば、会社の機密情報の保護は、雇用契約上の義務だけでは守りにくい。加えて、そんなことは言われなくてもしないという道徳心のようなものが必要であり、その道徳心の源となるのは、正しくあるべきという個人としての道徳心に加え、職場に迷惑がかかることはしないという(忠誠心と呼ぶかはともかく)会社を思う気持ちだろう。
3 対価の複雑さの問題
このように、会社と従業員との関係は、交換関係という単純な構図に落とし込むことができるが、そこで交換される対価はウェットで複雑である。そこから、複雑な対価の相互交換を実際どのように行うのか、という疑問が生じる。
先ほど指摘したとおり、従業員は、賃金に加え、働く意味や、組織における役割といった様々なものを求める。仕事の成果には注目してほしいし、仕事上の判断を尊重してもほしい。職場の人間関係が豊かであってほしいし、上司や同僚から共感もしてもらいたい。
一方の会社も、単なる(時間拘束としての)労働力だけでなく、自発的に柔軟なアイデアを出してほしいし、日ごろから問題意識を持って知識を身に着けてほしいし、会社に対する愛情、忠誠心のようなものも抱いてほしい。
このような複雑な思いが両者の間には様々なかたちで交錯しており、互いの思いを、漏れなく、過不足なく満たすことは極めて困難である。
これを、雇用関係に基づく対価の交換における「対価の複雑さの問題」と呼ぶことにする。
4 調整の収斂の問題
更なる問題は、両者の関係は、その内実は極めて複雑であるにも関わらず、その構造としては、何らかの「対価の交換」というかたちで単純に整理できてしまう、というところにある。
普通の人間関係ならばそうはならない。例えば、友人関係ならば、様々な場面で複層的に関係が構築される。
例えば、AさんとBさんという、生涯を通じて互いを支え合うような幼馴染がいるとする。中学校時代、学校で虐められているAさんを(見返りなく)Bさんが助ける。やがて社会人になって失業して困っているBさんの就職先を(見返りなく)Aさんがみつけてあげる、といったように。
このときBさんは、中学校時代に助けてくれた恩を秤にかけて、同程度だけAさんを助けるようなことはしない。友人関係は、「対価の交換」のような単純な構図には還元されず、複雑さを維持したまま複層的に関係性が構築されるのである。
一方で、会社と従業員の間の雇用関係は、突き詰めれば「対価の交換」の問題となってしまう。要は、会社は従業員をクビにしないか、従業員は会社に退職届を出さないか、という一点に収斂してしまうのである。同じ「関係」という言葉を使っても、両者の構造には根本的な違いがあるということである。
そして、雇用関係が持つ「対価の交換」という単純な構造においては、会社と従業員の両者にとって、求めるものと実際得られたものの「ずれ」が露骨に露わになる。というか、そもそも雇用契約とは、構図を単純化することで、両者の認識の「ずれ」をいったん露わにしたうえで、調整して一致させることを目指す仕組みであるとさえ言えるだろう。
だからこそ、なるべく「ずれ」をなくすよう、繊細な調整が必要となる。
これは、喩えるなら、不慣れな一輪車に乗るようなものである。友人関係は、様々な場面で複層的な関係性が構築できるという意味で、いわば四輪車である。一方の雇用関係は、「対価の交換」という一点だけで関係性のバランスをとらなければならないからである。
このような作業が、極めて困難なものとなることは明らかだろう。
この、会社と従業員の間の複雑な調整が、対価の交換という一点に収斂することにより、調整の難易度が高まる問題を「調整の収斂の問題」と呼ぶことにする。
なお、ウェットな職場にいると、仕事を「対価の交換」などと割り切ってはいない、という実感があるかもしれない。きっと、そのような職場では、幼馴染の友達同士のように、様々な場面で重層的な調整が行われ、安定的な運用がなされているのだろう。
だが、その場合でも会社と従業員は雇用契約により繋ぎ止められているのだから、その仕組み上、「対価の交換」という単純な構図に還元されがちな傾向があることには同意いただけると思う。
だから、四輪車のように安定した職場においても、一輪車のように不安定な雰囲気に陥らないよう、繊細な調整は必要となる。単純な交換関係に収斂してしまわないよう調整することも、「調整の収斂の問題」のひとつの姿である。
5 上司はつらいよ
この繊細な調整は、主に、面談などのかたちで、言葉を使って行われることになるが、ここで登場するのが上司である。なぜ上司かというと、会社には口がないからである。上司は会社を代表し、会社になりきって、部下とコミュニケーションをとらなければならない。
だから、会社と従業員の二項関係は、仲介者としての上司を加えた三項関係であるとも言える。
だが、この上司の立場は難しい。なぜなら、上司は、あくまで会社を代表し、会社の側に立たなければならないからである。上司は中立的な仲介者ではないのである。
一方で、この調整は、一方に偏った仲介者に任せてよいほど簡単なものではない。
なぜなら、冒頭の定義で述べたとおり、この調整は、従業員が働く目的、つまり「幸せ」といったものにもコミットするものでなければならないからである。従業員が「幸せ」になるために、会社は、賃金だけでなく、何を提供できるかを把握しなければならない。
そのためには、上司は、従業員に安心して自らの幸せについて語ってもらい、自己開示をしてもらう必要があるが、これは会社の側に立つことが仕事である上司には無理な話である。
職場の研修では、「上司は部下との面談の際には、場の安全性を確保しましょう」などと言われる。だが、哲学カフェなども開催し、ふだんから場の安全性について考えている僕からすると、なんて軽い言葉だろうと思う。
上司とは、いわば会社の代理人である。一方で、従業員からすれば、上司が信頼できる味方であってほしい。この矛盾した役割を求められる上司はつらいよ、と思う。
6 従業員もつらいよ
だが、実は、この問題は上司に限らないのではないか。たいていの従業員は、単なる部下ではなく、上司的な視点を持っていると言えるのではないか。
なぜ、そのように言えるかというと、まず、会社とは複層的構造を持っており、上司と部下というように明確に区分できないからである。
また、そもそも、たいていの従業員は、この文章で僕が冒頭で述べたように「会社は幸せ実現のための手段である」なんて割り切ってはいないということも重要である。
たとえば、入社数年目の社員であっても、新卒の社員に対しては先輩として振る舞い、何も知らない後輩に会社とはどういうものかを教える。このとき、会社は先輩の口を借りて、後輩に語りかけているとも言えるだろう。
部長や課長に限らず、従業員とは、しばしば「会社としては、何をするべきか」という視点で、他の従業員に語りかけるし、自らも考えるものなのである。
従業員とは、会社と従業員という二つの立場を、自らの心の中に同時に内在化させる存在なのである。
そのような矛盾を抱えつつ生きていかざるをえない従業員はつらいよ、とも言えるのである。
なお、この従業員の悲哀は、例えば、ワークライフバランスという言葉に表れている。
本来、ワークライフバランスとは、ワーク、つまり会社組織の維持・発展と、ライフ、つまり従業員個人の幸せのバランスをとる、という文脈で登場すべきものだろう。
だが、制度導入にあたっては、なぜか、そのような直球の説明はなされず、人材確保のためにはワークライフバランスが必要だとか、従業員の創造性を高めるためにはワークライフバランスが必要だ、というように、巧妙に、会社のためのものだということにされてしまう。
この巧妙な会社目線への置き換えは、従業員が矛盾を抱えつつも、会社の中で生きていくための偽装工作とも言えるだろう。
7 観念としての会社
僕は、このような従業員の悲哀が生じる理由について、日本型企業の問題とか、日本社会の同調圧力というような、小さい話には押し込めたくない。(僕は社会学者ではなく哲学者でありたいと思っているので、そのような偶然的な事象としては捉えたくない。)
この問題の根本には、「会社には口がない」という構造的事実があるのではないか。会社は自ら語ることができないから、上司や先輩の口を借りて語るのである。
言い換えるなら、会社と従業員の関係とは同種のものごと同士の関係性ではない、とも言えるだろう。従業員とは物質としてこの世界に存在する実体だが、考えてみれば、会社という実体はどこにも存在しない。そこにあるのは、従業員、本社の社屋、机や椅子、パソコン上のデータといったものだけである。(いろいろな考え方があるので断言はしないが、少なくともある側面では)会社とは単なる観念なのである。
会社とは観念にすぎないにもかかわらず、実体としての従業員と対等の存在として扱い、両者の間を調整しようとする。だから、会社が背後霊のように人々に「取り憑き」、上司や先輩はイタコのように語ることを強いられているのである。
さらに議論を広げるならば、会社とは、あくまで、従業員や、取引先や、株主といった様々な関係者が共同で作り上げた観念であり、その観念をいわば擬人化しているに過ぎないとさえ言える。(逆に言えば、従業員だけでなく、取引先や、株主といった様々な関係者の口を借りて、会社は語っているとも言える。)
なお、この話は、法学上は、法人擬制説と法人実在説の対立なんていう古くからある議論の延長とも言えるし、哲学上は共同主観なんていう概念ともつなげることもできるので、それほど僕のオリジナリティがある話ではない。
だが、あえてこのような話を持ち出すのは、世のサラリーマンたちがこの伝統的な問題にあまりにも鈍感になっているように思えるからである。僕だって居酒屋では、生ビールを飲みながら「最近の我が社は・・・」なんて話すこともある。だけど、考えてみれば「我が社」なんていう実体は、どこにもないではないか!
8 上司たちへのメッセージ
(1)会社の力に敏感になれ
ここから僕自身の興味としては、さらに哲学的に掘り下げ、観念と実体の関係の問題として議論を進めることもできるだろう。
(例えば、観念とは、つまり「言葉」であると考えるならば、この「会社」の問題は、「言葉」とそれが指し示す「実体」の問題の一種と考えることもできるかもしれない。)
だが、この文章では、そちらの方向には進まず、最後に、僕たちサラリーマンがどのように生きるべきかを提案して終えることにする。
僕は上司という立場にあるので、特に僕と似た立場にある上司たちに向けてメッセージを送るなら、第一に「僕たち上司は、我々に取り憑き操作しようとする会社の力に敏感になれ。」と言いたい。
たしかに上司は、部下よりも高い賃金を得ている。だが、その賃金は、自らの心をすべて背後霊に譲り渡すためのものではない。僕たち上司は、あくまで、時間を決めて、部分的に会社に「口を貸している」だけなのである。
残りの部分は、ただの「一人の人間」という存在であることを忘れてはならない。
こんな提案をするのは、僕たち上司の口を借りて行う会社と従業員との間の調整は、次の二つの理由により、失敗が約束されていると見込んでいるからだ。
まず、この文章の前半で論じたとおり、会社とはウェットな関係性で満ちているにも関わらず、それを単純な「対価の交換」のみに収斂して対処しようとするのは難易度が高すぎる。
さらに、上司は、会社の側に立つことが求められながら、かつ、従業員に安全な場を確保する、という困難な状況に置かれてしまっている、という問題がある。
あえて一輪車に乗るような実現困難なやり方をして、さらに、そのための十分な環境を整えもしなかったら成功するはずがない。あえて実現困難な作戦を立案しながら、その作戦遂行のための十分な支援も欠いたという意味で、僕は旧日本軍のインパール作戦を連想する。
ただし、これは決して特定の会社の組織風土による失敗などではない、という点が重要である。そもそも会社というものが観念的な存在でもあるにも関わらず、我々人間と対等に雇用契約を結ぼうとするという点に問題の本質があるのである。だから、これは資本主義そのものの普遍的失敗であり、僕のこの文章は、この資本主義社会全体に対する批判だと言ってもいい。
(2)内面的な距離を取れ
さらに我々上司にとって影響が大きいのは、我々は、自らの心に、会社と従業員の両方の立場を内在させているというところにある。会社による、従業員との調整に向けた努力は、失敗が運命づけられているが、この失敗は、よりによって、我々の心の中で生じてしまうのである。
それならば、せめて我々上司は、自らの心を守るため、意識的に失敗との距離を確保する必要がある。だから、僕から上司たちへの第二のメッセージは「会社と従業員の調整に関わることは避けられないけれど、せめてそこから内面的な距離を取れ。」というものになる。
(3)抱え込むな、うまくできなくて当たり前と思え
なお、それでは、「お前たち上司は逃げておしまいなのか。」と言われそうなので一言だけ。
当然、失敗が約束されているからといって、上司は、プロとして、賃金に見合った分だけ、会社に「口を貸す」べきだし、より、イタコとしての質を高めるため努力し、尽力するべきだろう。無理な作戦立案により戦いに敗れるのは避けられないにせよ、なるべく被害を最小限に留めるのが現場の指揮官の勤めだからである。(格好をつけるならば、負け戦であっても、たとえ会社の命令に反しても自分の周囲の人だけは守りたい。)
一方で、会社と従業員の雇用契約という仕組み自体が、負け戦の構造を帯びているのならば、資本主義社会を生きる僕たちは、その営みから距離を取る敏感さも必要であることは確かだと思うのである。
「やるべきことはやるけれど、それを自分ごととして抱え込むな。」「部下との関係性をうまく構築できなくても、それは会社というものの仕組み上当たり前と思え。」というのが僕の最後のメッセージである。
なお、この上司に向けたメッセージは、役職としての上司ではなくても、(全てとは言わないけれど、きっと多くいるだろう)上司的マインドを抱えた従業員に向けたものでもある。