※4500字くらいです。お盆で時間があったので書いてみました。最近、入不二先生や永井先生のネタが多かったので、ちょっと気分転換。この文章ではちょっと否定的に扱ってます(書き終わるまで、否定的に扱う展開になるとは思わなかった)が、ガメ・オベールさんの文章は、時々読んでいて、結構好きです。

わがまま礼賛

ガメ・オベールさんの『わがまま礼賛』という記事を読んだ。(https://note.com/gamayauber1001/n/nebc69edc0b65

いい話で、色々考えさせられそうな話だったのだけど、うまく思考がまとまらなかったので、書きながら考えることにした。

そして、実際書き終わってみると、当初、想定していなかった方向に思考が進んだなあ、と思う。この文章はそういう、思考の整理のために書かれた文章である。

初めにざっくり言うと、この記事は、自由なんてわがままと同じだという話だ。

その中で、一点、ひっかかってしまった個所がある。

「日本人よりも英語人は「空気を読む」ことに長けているし、大陸欧州人は、その英語人よりも更に空気を読む術に熟達している。」と述べている部分である。

「空気を読む」というのは、通常、欧米人よりも日本人のほうが得意だと言われることが多いけれど、これはどういうことだろうか。

まずは、そのことについて考えてみたい。

準備作業1:自由なんてわがままと同じ

だが、いきなりこの問題に踏み込む前に、準備作業として、何点か整理しておくことがある。

まず、「自由とわがままと同じ」というのはどういうことだろうか。

ここには少なくとも二つの解釈の道筋があって、自由なんてわがままと同じだから、そもそも自由なんてない、という解釈と、自由はわがままを含むほどに幅広い、という解釈がありうる。

そのうえで、オベールさんは後者の考えで、自由とは自然権に基づくものだから、わがままにならない範囲で自由、なんていう制限はできないと論じていると言える。

当然、自由は無限の広がりを持つ訳ではなく、殺人や泥棒をする自由なんていうものはないだろう。自由は法律など、明確な社会のルールに制限されるはずである。一方で、ノロノロ運転や出入口を塞ぐような駐車といった、法律に触れない行為については、制限は課せられず、生来、自由なのである。

現実として自由

と、書いてみて、さて、本当にそうだろうか、と考えてしまった。ここで問題としているのは、行為の自由だと言えるけれど、行為の自由に社会のルールにせよ、何にせよ、制限が本当に課せられるのだろうか。

考えてみれば、殺人だって泥棒だって、そのような行為をするのは自由だ。殺人をしようとしたら金縛りにあって殺人を犯すことができない、なんてことはない。殺人の罪により、事後的に牢屋に入れられたり絞首刑になったりと罰せられることはあっても、殺人を犯すのは自由だ。当然、警察官が見回りをしたり、扉に鍵をかけたりして、殺人をしにくくする仕組みはあるけれど、その障壁をかいくぐって殺人という行為をすることには制限はない。

きっと、オベールさんも、そのことは念頭に置いていて、ライブ会場での度を越した罵声に対しては、シーっていう注意があり、ベーカリーでの割り込み客に対しては怒号がある、としている。つまり、暴言や割り込みという行為は自由に行うことはできてしまい、それに対しては、事後的な社会的制裁を加えるしかない、と指摘しているとも言える。

つまり、行為の自由とは、自然権のような何らかの権利に基づいく自由である、というより、そもそも、現実に行われてしまうなら事前には制限のしようがないという意味で、現実として自由だ、としか言いようがないものなのではないだろうか。

準備作業2:社会的制限

ということで一つ目の準備作業を終えたので、続けて二つ目の準備作業に移りたい。

現実としてどこまでも自由であるしかない行為に対して、加えられる制限とはどのようなものなのだろうか。

まず、ここでの制限とは、そもそも現実として自由だということを前提としているから、殺人をしようとすると金縛りに合うとか、乱暴をすると頭に嵌められた輪っかが締まるといった現実の選択をそもそも不可能にするような制限は含まれないとは考えるべきだろう。

同様に、豪華クルーザーに乗ることができない、大リーグでホームラン王になれないといった、現実にそのような道が開けていないことも、ここでの制限にはあたらない。

つまり、ここでの制限とは、外的に強制されるものではなく、あえて自らに課し、自粛するような制限でなければならないのである。

そのような制限には二通りあるのではないか。

まずは、ここまでの議論でも登場した、牢屋に入れられたり、怒号を浴びせられたりするのを回避しようとして、自らに対して加える制限である。これは、その行為を行った場合に社会的に生じる顛末を予測し、それを回避しようとして自らに課す制限である。これを社会的制限と呼ぶことにする。

そして、もうひとつ、自らの価値観に基づき、好ましくない行為を避けようとして、自らに加える制限があるだろう。罰せられるから殺人をしないのではなく、殺人という行為をしたくないから行わない、という制限である。これは、その行為を行った場合の顛末を予測することなしに、ただ自らの判断で行わないという制限である。これは個人的制限と呼ぶことができるだろう。

だが、よく考えてみれば、個人的制限については、そもそも、そのようにしたくないのだから、そこに何ら制限は生じていないとも言える。僕が命綱なしでビルの間に渡された細い橋を渡るとき、僕は、橋を飛び降りる自由が制限されているとは言わないだろう。僕の自由と制限は、細い橋を前に進むか後ろに退くかという選択肢の中でしか生じることはなく、僕が橋を飛び降りるというのは、そもそも選択肢の中にないのである。

そのように考えるならば、自由の制限の問題を考えるにあたっては、後者の個人的制限は無視してよく、前者の社会的制限について考えればよい、ということになる。

空気を読む

準備が整ったところで話をようやく冒頭の問題に踏み込むが、改めて確認すると、この記事でオベールさんは、「日本人よりも英語人は「空気を読む」ことに長けているし、大陸欧州人は、その英語人よりも更に空気を読む術に熟達している。」と述べている。だが、この「空気を読む」というのは、通常、欧米人よりも日本人のほうが得意だと言われることが多いのではないか。これが冒頭で僕が示した問題である。

正直、一読しただけでは僕はどういうことかわからなかったけれど、ここまでの準備作業を経て、改めて考えてみると、なんとなくわかってきた。

これはつまり、日本人は、社会的制限についての予測能力が低く、解像度が低い分析しかできていない、ということを意味しているのではないだろうか。つまり、日本人は社会的制限を課すうえで前提となる、行為をした場合に社会的に生じる顛末の予測精度が低い、ということなのではないだろうか。

当然、日本人であっても、殺人を犯せば牢屋に入れられるか、もっと酷いことになることは十分知っていて、極端に悪いことについては生じる社会的制限を十分に理解している。

問題は、ノロノロ運転や、ベーカリーでの割り込みのような、誉められたことではないが、それほど悪いことではないけれど面倒が起きそうな行為の場合である。

日本人ならば、なんとなく、面倒になりそうだな、という以上の分析をあえて行わず、解像度が低いまま、そのような面倒につながる行為を避ける。一方で欧米人は、どのような顛末となりそうか精緻に分析したうえで、受け入れられる面倒のギリギリを狙って、あえて面倒になりそうな行為をする。自由にわがままな行為をしても、暴力沙汰にはならず、口論が多少起きるくらいだから、それを許容しよう、なんて判断をする。

日本人と欧米人には、そのような違いがあるということなのではないだろうか。

そのように考えるならば、日本人よりも欧米人のほうが得意な「空気を読む」とは、社会的に生じうる顛末の精緻な予測・分析のことなのだろう。以上が僕の理解である。

自由を目指す義務

では、なぜ、欧米人が労力をかけて空気を読み、あえて面倒のギリギリを狙うのかというと、欧米人には、現実に与えられているこの自由を最大限尊重したいという思いがあるからなのではないだろうか。

現実に与えられているこの自由の起源は、現に僕たちは生きている、という現実に由来しているのだろう。僕たちは、決して、日本国の構成員Aとか、会社や学校の構成員Aとか、家族の構成員Aとか、そういう記号としての人間ではなく、生身の人間として生きている。この生々しい現実(実存と言い換えてもいいだろう)が僕たちを自由なものとしている。そのように考えるならば、不必要に自由を自粛することは、この生々しい現実という恩寵を軽視するということであり、言ってしまえば悪なのである。

そう考えるからこそ、欧米人は、自らが許容できるギリギリの面倒を引き受けてでも、自由を目指さなければならないのである。

これに対し、キリスト教的に考えても神が自由を与えたのだから、その贈与物としての自由を最大限発揮する義務がある、などと更に社会学的な分析を加えることは、哲学的には野暮だろう。だが、欧米人には、神に強制されている、とでも考えるしかないような、自由を目指そうとする切実さ、言ってしまえば、自由を目指すしかないという不自由さがあるように、僕には思える。

自由なんてない

そこまで考えるならば、冒頭で僕が提示した二つの道筋のうち、自由なんてわがままと同じだから、そもそも自由なんてない、という解釈も可能なのではないだろうか。

先ほど僕は、自由な行為には、社会的に生じうる顛末を予測して社会的制限が加えられうる、とした。

だが、社会的制限とは、ここまで整理する中で明らかになったとおり、その範囲内であれば何をしても自由、ということではなく、社会的に許容されるギリギリを目指すしかないという選択肢のない不自由である。

自由とは価値があるものであるならば、その価値の最大化を図るべきである。よって、自由を目指す限り、僕たちに裁量の幅はなく、要は自由なんてないのである。

怠惰である自由

だが、そのような結論はどこか窮屈だ。

僕たちは、日々、生きる中では、あまり深く考えず、面倒を避け、無難な選択をすることもある。確かにそれは、この現実を真正面から受け止めていない態度であり、実存の軽視であり、もしかしたら神の冒涜ですらあるかもしれない。

それでも、僕たちは、現実にそのような選択をすることは可能だし、そうする自由がある。つまり、僕たちには怠惰である自由があるのだ。ここまでの議論によるならば、行為の自由というものがあるならば、この怠惰である自由でしかありえない、とも言える。

そして実際、日本人はそのように、怠惰である自由とともに生きている。

日本人とは

最後に一言。当然、ガメ・オベールさんの語り口としての、日本人と欧米人を対比させるステレオタイプ的な描写は、誇張したものであり、学術的には正確なものではないだろう。だが、記事の読者の大多数を占めるだろう日本人が我が身を振り返る、よいきっかけになるという点でよいやり方だと思う。だから僕も、その対比を引き受けて書いている。

なお、当然、この日本人とは日本人のことではなく僕自身のことであり、この欧米人とは欧米人のことではなく、現実にはめったにいないだろう、僕が理想とする架空の存在のことである。