※6,000字くらいあります。友人A向けに書いたので、比較的わかりやすいんじゃないかと思います。あと、存在論的跳躍という言葉を無理やり使ってますが、これは、ChatGPTが何かの拍子に作ってくれた言葉で、面白かったので使ってます。

友人A

先日、友人Aと飲みに行った。Aは哲学カフェで知り合った男性で、50代半ばの僕よりは年下だけど、まあ、いわゆる「おっさん」だ。仕事上の共通点もない、おっさん同士で待ち合わせをして、サシで飲みに行くというのも、なかなか珍しい経験で、とても面白かった。

Aを友人と呼んでいいのかわからないけれど、うちの娘によれば、わざわざプライベートで会えば友達らしいので、友人Aということにしておく。

友達なので、まあ色々な話をしたのだけど、哲学カフェでの友人だから、哲学っぽい話もした。その哲学っぽい話とは、主に「この世界と自分との関わり方」の話である。

この文章では、飲み屋でした哲学っぽい話と、その後、考えたことを書き残しておきたい。

広大な宇宙で僅かな間だけ輝く光点:観察者

友人Aは、彼の哲学において「宇宙」という観点を重視しているようだった。この広大な宇宙のある一点で白く輝く光点が現れ、そしてやがて消える。そんな情景が彼にとっては重要なものなのである。

この情景が何を指すかというと、この地球文明の誕生と、その消滅である。何億年という長大な時間軸で存在し続け、この宇宙全体を眺めることのできる偉大な観察者がいるとする。そんな観察者が宇宙のはるか遠くから、この地球文明を眺めると、僅かな間だけ輝く光点として、この地球文明は表現される。これが彼にとっての「宇宙」のイメージである。

この情景が示しているものは、僕の言葉を用いるなら、空虚な宇宙の圧倒的な存在と、地球上の様々な出来事の儚さと愛おしさである。この地球上では、恋愛やら、泥棒やら、戦争やら、様々な出来事が起きている。だが、それらは、すべてひっくるめて、広大な宇宙で、一瞬だけ輝く光点なのである。確かに、こういう世界観ってアリだし、とても面白いと思う。

そして、どうも、この友人は、このような世界観を、彼の人生にも適用しているようなのだ。彼は遠くから、この街を眺める観察者であり、そして、彼が街で出会う人たちは、それぞれが僅かな間だけ輝く光点である。それぞれの人たちの中には、様々な出来事やら感情やらが渦巻いているのだろうけれど、彼はただ、その人間という光点を、ただ静かに愛おしく眺める。(表面上はワイワイやっていても、彼は観察者として、どこかで静かに眺めている。)

彼は、一人で飲みに行き、そこで見知らぬ人と出会うのが好きだそうだけど、彼がやっていることは、きっと、仄かな光を発する蛍を、一匹ずつ愛でながら、籠に収めるような作業なのだろう。

このような世界観において、友人Aという自己は、観察者として、どこまでも背景に沈んでいく。自己は抹消され、それを広大な宇宙と呼ぶにせよ、夜のネオン街と呼ぶにせよ、そこには空虚な世界が広がり、時折、淡い光が輝き、そして消えていく。きっとこれは、穏やかで切なくて愛おしい世界である。

光の影:独我論的自己

このような哲学的アプローチは、僕のものとは全く異なる。

この友人Aの世界観に寄せるならば、僕の考えによれば、僕自身とは輝く光点そのものである。僕というたったひとつの光点だけがあり、その他のものは、この光が創り出す影のようなものである。街を歩く無数の人たちも、友人Aも、家族も、ネコも、すべてが、この僕という光の影である、ということになる。

このような捉え方は、独我論的と言ってもいいだろう。「我」だけがあり、その他のすべては、この「我」の思考や感覚が生み出した幻であるとも言えるからだ。(これは本当の僕自身の考えとは少し違うけれど、この文章では、およそ、そんなふうに考えてもらっていいだろう。)

僕の世界観と、友人Aの世界観は、ちょうど鏡像のような関係にあるのかもしれない。友人Aは、自己を観察者として後景化し、僕は、自己を独我論というかたちで前景化している。僕と友人Aは、鏡のように、正反対のことをしているのである。

モテ

このような対比から、話したいことは二つあるのだけど、まず、下世話な話のほうから。

きっと、女性にモテるのは、友人Aのほうである。

自分自身の好みやこだわりのようなものは背景に退かせて、相手の女性をただ輝く光点として捉え、切なく、愛おしく愛でる。そのようなスマートで優しい態度は、きっと異性にとって魅力的だろう。彼は、肩の力を抜き、しっかりと彼女を観察し、適切な対応をするのだから。

一方の独我論的な僕の態度は、押し付けがましいものになりがちだろう。僕にとっての彼女は僕の世界の登場人物だから、僕は、僕の価値観に基づき、彼女に干渉する。重要なのは、彼女自身ではなく、僕から見た彼女のあり方である。そんな態度では、モテるわけがない。

これは哲学的にはともかく、僕の実生活においては重要な気づきだった。僕がモテないのは、髪が薄いとか、スタイルがよくないとか、外見のせいにしていたけれど、実は、原因はより根深いもので、僕の哲学的な志向がそもそもの問題だったのだ。

完遂できなさ

もうひとつ、友人Aと僕を対比したいのは、それよりは哲学的な話である。

僕たちは自己の前景化と後景化という真逆なことをやっているように見えて、実は似たもの同士なのではないだろうか。なぜなら、どちらのアプローチも失敗が約束されているからである。

友人Aのアプローチは、自己を観察者として後景化しようとするものだが、いくら後景化しようとしても、観察者としての自己は残ってしまう。つまり、彼自身が輝く光点であり続けてしまう。彼は観察者になりきることはできないのである。

一方の僕のアプローチも、自己をいくら独我論的に前景化しようとしても、その自己という光は、「影」つまり自己ではない何かを生み出してしまう。なぜなら、自己を自己と呼ぶためには、自己ではない何かと対比する必要があるからである。自己が自己であるためには、自己ではない何かを影のように登場させるしかない。よって、独我論を完遂することはできない。

このように、友人Aと僕の間には、その哲学的アプローチを完遂できない、という共通点があるのである。

世界と自己・・・ただ「ひとつ」

この共通点を、「世界」と「自己」という言葉を対比的に用いて、構造的に捉え直してみることもできる。この場合、友人Aのアプローチとは、いわば自己を消去し、世界のみを残そうとするものである、と言うこともできる。一方の僕のアプローチとは、世界を消去し、自己を残そうとするものである、という捉え方もできる。

これは、全く正反対のやり方にも見えるけれど、ただひとつのものだけを残そうとする、という意味では共通点がある。

更に言うならば、友人Aの試みが成功し、もし世界だけが残ったら、それを世界と呼ぶことには意味がなくなる。なぜならば、世界だけがあるならば、それにあえて名前を付ける必要はないからだ。同様に、僕が成功し、もし自己だけが残ったら、それを自己と呼ぶことには意味がなくなる。

こうして、僕と友人Aは、共通点があるどころか、目指すところは、一見、全く同じであるとさえ言える。そこには、ただ「ひとつ」だけがあるのである。

存在の驚き

僕や友人が、なぜ、このような、ただ「ひとつ」を目指すのかというと、きっと僕達は共通して、「存在」の驚きを抱えているからなのだろう。

存在には色々な仕方がある。ペットボトルにはペットボトルとしての存在の仕方があるし、薔薇には薔薇としての存在の仕方があるし、戦争には戦争としての存在の仕方がある。

だけど、そのような存在の仕方の違いの次元より手前に、ペットボトルにせよ薔薇にせよ戦争にせよ、とにかく、まず「存在」しているはずである、という次元がある。どのような存在の仕方なのか、どのような存在の中身なのか、といった問題など関係なく、なんにせよ、ただただ「存在」していることを捉えるような次元である。

そのように、「存在」そのものを、実感をもって捉える機会は、この人生においては稀なものだろう。稀だからこそ、その「存在」の実感が訪れたとき、それは「驚き」となる。

友人の場合は、それは、幼少期に、夜空を見上げて感じた、広大な宇宙が広がっていることへの驚きだった。僕の場合は、それは、高校生の頃、通学時の電車の中で感じた、ここに座っている人たちは皆、僕と同じように生活して生きているということへの驚きだった。そんな驚きを通じて、僕たちは、とにかく、この世界が「存在」していることの虜となったのである。

僕たち人間が、「驚き」という奇跡を介さず、日常生活において、「存在」そのものに到達することは、(不可能とは言わないが)なかなか難しい。なぜなら、僕たちは、存在を五感による認識を通じて捉えがちで、その過程で、どうしても存在の仕方や存在の中身が「存在」そのものにまとわりついてしまうからだ。

それでも、友人Aなら観察者として世界を純化し、僕ならば独我論的に自己を純化し、存在そのものを取り出そうとするけれど、その純化の作業は頓挫が運命づけられているのである。

そういう点まで、僕たちがやっていることはとてもよく似ている。僕たちの「存在」そのものを目指す作業は袋小路に向かって進んでいるのだ。

存在論の文法

なお、このように書くと、「驚き」という奇跡を抱えた僕たちが何か特別な人間なように感じるかもしれないけれど、多分そうでもない。その証拠に、「宇宙」、「独我論的自己」、「ひとつ」に似た言葉遣いとして、「ワンネス」とか「愛だけが全て」とか「神」なんていうことが、よく言われる。このような言葉を用いる人たちは、数多くいるけれど、きっと彼らは、驚きにせよ、悟りにせよ、何らかのかたちで存在そのものにアクセスしたことがある人たちで、その「存在」そのものを言葉で捉えたいと願って、そのような言葉を用いている人たちなのである。

「宇宙」「ワンネス」「愛」「神」などと言った言葉たちは、すべて、「存在」そのものを目指すひとたちが用いる存在論の文法上の言葉たちなのである。

なお、ここで登場させた存在論という言葉は、認識論と対比される言葉だ。(もうひとつ、意味論があるけれど、省略。)認識論とは、五感を用いて認識したことを土台にして展開される哲学的議論のことである。

さきほど言ったように、存在の中身は、認識(五感)によって捉えられるから、認識論とは、存在の中身についての議論であると言える。よって、ペットボトルや薔薇や戦争といった、この世のたいていの言葉は、認識論の文法上の言葉であるとも言える。

それに対して、例外的に、存在の中身ではなく、存在そのものについて語ろうとすることもある。そんなとき、認識(五感)を用いない別の議論の枠組み、つまり存在論が必要となる。そして、そこでは、「宇宙」や「ワンネス」のような存在論の文法上の言葉が用いられるのである。

だが、そのような言葉が登場するということは、僕たちは、日常の認識論上の言葉から、言葉が上滑りし、言葉が空回りしてこれ以上進むことができない地点に到達していることを示してもいる。そのとき、僕たちは袋小路に突き当たっているのである。

存在そのものを愛でる

哲学者「いちろう」にとって、この袋小路は重大な問題だけど、一方で、生活者「いちろう」にとってはそう悪いものではないように思える。少なくとも、生活者「友人A」にとっては、この袋小路は、彼の魅力にもつながっているようにも思える。

どういうことか、友人Aについて、僕なりに描写してみよう。

友人Aは、観察者として自己を後景化することにより、自己を消去し、この宇宙だけを純化して残そうとする。だが、その作業は袋小路に突き当たり、完遂することはできない。そんなことを、ここまで述べてきた。

だが、だからこそ、彼自身は淡い光点であり続けることができる、とも言える。存在論的純化の作業は完遂できないからこそ、彼は光点としての最低限の存在の内容は保ち続けるのである。

その友人Aという光点は、観察者として、バーで隣に座った人たち、という別の光点と出会う。そして、共鳴する。なぜ共鳴するかというと、いずれも、友人Aを含め、彼らは皆、存在の内容をほとんど失った光点である、という共通点を持っているからである。

つまり、友人Aは、存在そのものの一歩手前と言えるほどに中身を持たない存在であるからこそ、彼は、街で出会った人々を、存在の中身ではなく、存在そのもの(の一歩手前)として捉え、それを愛でることができる、ということである。

心理学っぽく言うならば、これは、存在そのものの承認である。そんなことができる友人Aは、多分魅力的であり、きっとモテるに違いない。

僕もまた、彼を見習って、この存在論の袋小路に静かに佇んでみたら、多少はモテるのかもしれない。これは、生活者「いちろう」にとって重要な示唆である。

存在論的跳躍

ここで終わってもいいけれど、それでは哲学者「いちろう」の名がすたる。人生のかなりの時間をかけて、袋小路の先に進もうとして存在論をやってきた僕の努力をアピールするため、最後に少しだけ話を進めよう。

ここには確かに存在論的な袋小路がある。宇宙や自己といった言葉で、ただ「ひとつ」の存在を語ってしまったら、認識というかたちで存在の内容が混入し、その語りは、存在そのものから逸れてしまう。こうして、存在論の文法による語りは、頓挫が運命づけられている。

だが、いくら頓挫しても、再び、存在論を語ることはできる。語りと頓挫は何度でも反復することができる。

なぜ、そのようなことが可能かというと、僕には常に「存在」の驚きがあるからである。存在論を語ることは、確かに頓挫が運命づけられている。だが、それでも、再び「存在」に驚き、また「存在」を存在論として語ろうとすることはできるのである。

この「存在」への驚きは、不可能から可能を生み出しているとも言える。そして、これは、不可能と可能との間にある断絶を飛び越えるという意味で、存在論的跳躍と言ってもいいだろう。驚きという奇跡が駆動している跳躍である。

安い居酒屋での奇跡

ところで、奇跡にはもうひとつあり、それは例えば、先日の友人Aと飲んだ安い居酒屋で起きていた。

そこでは、おっさん二人が、酒を飲みながら、語ることの頓挫が運命づけられているはずの存在論を語り、伝え合い、盛り上がっていた。これは、まさに奇跡である。

それも、一人で起こす「存在」への驚きという奇跡ではなく、おっさん二人で起こした奇跡である。これは、もうひとつの奇跡のあり方であり、僕と友人Aとの間にある人格という断絶を超えた、もうひとつの存在論的跳躍である。

そして、あの場を対話と呼んでよいならば、そのような対話の場が成立したことこそが、まさに「驚き」である、とも言える。

奇跡には、一人で起こすものと二人で起こすものの二種類がある。このあたりに、存在論の袋小路の先へと進むヒントがあるのではないだろうか。(このブログのタイトルが「対話の哲学」であるのは、そのためだ。)