※3500字くらいです。時間のような抽象的な話も日常生活に役立つんだよ、という話です。
時制区分
「人生の価値とは何か。」「価値ある人生を送るにはどうすればよいか。」
このような問題を考えるときには、過去・現在・未来という時制区分が役立つように思う。過去・現在・未来のいずれを重視するかによって、導かれる答えが変わるからだ。
成長・集中・蓄積
僕自身は、人生の価値は、人生において、どれだけ成長できるかで決まると思っている。これは未来を重視した立場だろう。まだ見ぬ未来において、まだ見ぬ自分に成長することに価値を置いているのだから。これは、未来の「わからなさ」に価値を見出しているということでもある。
また、人生の価値なんて気にしない、という考え方もあるだろう。このような考えをする人は、そもそも、過去・現在・未来という時間的な幅を持った人生というものに無頓着なのかもしれない。重要なのは、目の前にある生そのものであり、いわば現在という瞬間を生きることに集中しているのである。
最後に、金銭、名誉、権力、体験の強度、人間関係といった特定の何かを集め、積み重ねることに人生の価値を見出すような考え方がある。この考えは、過去と深く結びついている立場だと言えるだろう。金銭・名誉・権力自体を正面から人生の価値と考える人は少ないだろうけれど、人生を通じて、強度のある体験や人間関係をどれだけ積み重ねられたかを人生の価値とする、という考えは幅広く受け入れられているように思う。(この文章を書いたきっかけは、ベストセラーになった『DIE WITH ZERO』に、そんな趣旨のことが書いてあったからだ。)
このように、「まだ見ぬ未来」、「この瞬間としての現在」、「積み重ねられた過去」のいずれに重きを置くかによって、「人生の価値とは何か」「価値ある人生を送るにはどうすればよいか。」という問いへの答え方は大きく変わる。
僕自身は「まだ見ぬ未来」派だけど、これが絶対的に正しいとは思わない。未来・過去・現在のいずれを選ぶかは、きっと、生まれながらの性質や幼少期の育ち方によって自ずと決まってくるのではないか。だから、未来より過去のほうが正しそうだから、そっちにしよう、と決心し、簡単に切り替えられるものではない。無理をしても苦しいだけだ。
重視の仕方
それでも、未来・過去・現在のいずれを重視するかは変えられなくても、どのように重視するかは変えられるのではないか。
まず、我ら「まだ見ぬ未来」派は、過去や現在をおろそかにしがちで、ともすれば、未来への賭けが過去や現在からの逃避ともなりうる。それならば、「未来において、過去や現在を再解釈し、まったく異なるものとして捉えなおすことができる可能性がある」と考えるのがよいだろう。そうすれば、過去や現在に関心を払い、そこにも価値を見出すことができるからだ。僕自身「まだ見ぬ未来」派だから、死ぬ間際まで、自分のこれまでの過去を含めた人生全体が新たな姿を見せる可能性がある、と考えられるのは、とてもワクワクする。
次に、「この瞬間としての現在」派は、「この瞬間」をできる限り広く捉えるのがよいだろう。「この瞬間」の幅は定まっておらず、文脈に応じて、一秒とも、一時間とも、一日とも捉えることができる。(例えば、何十億年の地球の歴史から見れば、この一日なんて一瞬である、というように。)それならば、一瞬の幅を、一日、一か月、一年とさらに広げていくことで、できる限りの過去と未来をこの瞬間として取り込むことができる。そのようにして、自分が正面から関わるものを幅広く捉えるほうが、生は豊かになるはずだ。
最後に「積み重ねられた過去」派は、お金のようなわかりやすいものではなく、道徳や信仰や幸福といった、過去の特定の時点では決着がつかない、わかりにくいものに価値を置くのがよいだろう。つまり、過去の何かを積み重ねることに価値があることは認めつつ、どのような価値を積み重ねるべきかは未来に向けて解釈の余地を残しておくのである。そうすることで、過去が固定化されるのを防ぎ、いわば、過去が現在や未来を巻き込むようにして影響を及ぼすことができる。(例えば、幸福を積み重ねることに価値がある、としつつ、幸福とは何かを解釈する余地は将来に残しておく、というように。)いくら過去を重要視しても、未来や現在が訪れることは避けられないのだから、工夫をして、できる限り、来たるべき未来や現在に目を向けたほうがいい。
このように、未来・現在・過去のいずれかの時制区分に目を向けながらも、考え方を工夫することによって、より広範に自らの生を捉えることができる。このようなやり方は、いずれかの時制に焦点を絞る考え方よりも、価値ある人生につながっているように僕は思う。
根源的な肯定性
以上のアイディアは、考え抜いて導き出した普遍的な事実などではなく、いわば思いつきである。だから間違いや問題を含んでいるかもしれない。
そのなかで明らかな問題は、未来・現在・過去のすべてにできる限り目を向けたほうが人生は価値あるものになる、という考えが根拠なく含まれている、という点である。僕のなかには、どんなに悲観的な未来が予想され、または、まさに現在苦しんでいて、または、悲惨な過去を抱えていたとしても、そこには価値がある、という考えがある。要は、僕のアイディアの根底には、どんなに不幸で価値がないように見える人生でも、ないよりはあった方がよい、という考えがある。それならば、過去であれ、現在であれ、未来であれ、そこに目を向け、(それがたとえ、一見、悲惨で不幸なものであっても、)その人生の根底にある肯定的な価値を正面から受け止めるべきである。
この「人生とは肯定的なものである。」という根源的な肯定性は、僕ならば、普遍化できる揺るぎない事実であると言い切りたくなる。だが、このような主張は、僕自身の信念のようなもので、例えば「人生とは否定的なものである。」とか「状況によっては、人生とは否定的なものになりうる。」と考える人に対しては、押しつけでしかない。これは、ここまでの僕の主張の大きな弱点である。
それでも僕は思う。もし、「人生の価値とは何か。」「価値ある人生を送るにはどうすればよいか。」という問いに意味があると考えるならば、まず、この根源的な肯定性を受け入れるしかないのではないか。なぜなら、このような問いを発するということは、少なくとも、人生とは肯定的な価値を持ちうると考えているということなのだから。
それならば、「人生とは否定的なものである。」という考えを持つ人が「人生の価値とは何か。」を真剣かつ切実に問うことはできないはずだし、きっと「状況によっては、人生とは否定的なものになりうる。」という考えを持つ人でも同じである。なぜなら、そのような人は、「人生の価値とは何か。」という問いに対して、「そもそも、状況によって、人生は価値がないものになりうるのだから、このような問いを出すこと自体が間違えている。」と答えることになるだろうからだ。それでは真剣な問いとして成立しない。
以上の僕の説明に納得し、この最難関さえ越えることができれば、あとは、自分の特性が未来・現在・過去のどの時制を重視しているか念頭におくことで、とるべき方策は決まってきて、自ずと価値ある人生への道は開ける。僕はそんなふうに考えている。
しかしきっと、根源的な肯定性を受け入れるかどうか、つまり、「人生の価値とは何か。」「価値ある人生を送るにはどうすればよいか。」という問いを発することができるかどうかは、未来・現在・過去のどの時制を重視するのかと同じ程度に、生い立ちによって不可避的に決まっているのだろう。それを意図的に変えることは、なかなか難しいに違いない。
形而上学「的なるもの」
それほど哲学的につきつめて考えたものではないけれど、以上が僕の見立てである。
この文章で述べたかったのは、世間では時間論のような形而上学的な話(形而上学とは、ここでは抽象度が高い哲学というくらいの意味でよいです。)は人気がないけれど、人生の価値といったことを考えるうえでも時制区分が役立つのだから、形而上学的な捉え方をおろそかにしない方がいい、ということである。
当然、形而上学は、役立てるためにあるものではない。時には、形而上学は人生の価値と激しく対立し、または、価値体系を根底から破壊してしまう危険もある。(まあ、それはそれで楽しいのだけど。)
だが、そこまで突き詰めなくても、時制区分のような生活の接点にある形而上学的概念、いわば形而上学「的なるもの」は、使いようによっては、この文章で論じたように役立つこともある。そこを間口にしてでも、形而上学に興味を持ってもらえたらいいなあ、と哲学カフェをやっていて思う。