※ 26000字以上の長文になっちゃいました。僕にとって重要な気づきがあったので、もう少し短いものを書きたいと思ってます。もし第0章だけ読んで興味を持ったら、次の文章を待ってください。
0 まず文章の構成をおおまかに示す
この文章は、そもそもはモテたくて色々考えたことについて書くつもりだった。だが、「ちょうどいい」とモテるのでは、なんて考えるうちに、いや、これはそもそもモテなんて小さい話ではなく、「ちょうどいい」は倫理における究極的な真理につながっているのではないか、なんてことに気づき、興奮しつつ、その思索の経緯を、ほぼそのまま記録したものだ。
だから、僕の思索の深まりに従い、それぞれの章で、矛盾した全く違うことを言っている部分もある。
第一章は、「ちょうどいい」を「ちょうどいい◯◯(◯◯は名詞)」という形容詞表現で捉えることで、「ちょうどいい」がいいものと、そうではないものとを分類できるのではないか、といったことを論じている。
第二章では、第一章を上書きするように、実は形容詞表現としたことが誤りで、「ちょうどよく◯◯する(◯◯するは動詞)」という副詞表現で捉えるほうがいい、と論を進めている。
第三章では、では、どうすれば「ちょうどよく」できるのかについて、形而上学に片足を突っ込みながら考察している。
第四章では、「ちょうどよく◯◯する」の中でも最重要だろう「ちょうどよく生きる」を生活者の問題として捉えたうえで、それと対比される哲学者の問題について検討している。つまり、「ちょうどよく◯◯する」の外を考察しようとしている。
この文章で重要なのは、第二章と第三章である。第一章は、いわば常識的な捉え方と、第二章以降の僕が真に論じたいことの橋渡しのような役割をしている。第四章は、第二章と第三章で論じたことを、僕の哲学のなかにどのように位置づけるかを模索した、僕自身のためのメモであるとも言える。
このような位置づけを頭の片隅に置いたうえで、読み進めてほしい。
1 暴走の危険がないから「ちょうどいい」がいい
1-1 区分①「ちょうどいいがいいもの」
さて、モテの話から始めると、まず僕は、モテるためには、①口の大きさのように「ちょうどいいがいいもの」と、②脚の長さのように「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」と、③収入のように「ちょうどよさなんて関係なく、あればあるほどいいもの」とがあることに気づいた。
まず、①「ちょうどいいがいいもの」だが、口の大きさをはじめ、顔のパーツについては、平均的なほうがモテるようだ。たくさんの人の顔の画像を重ね合わせて平均的な顔の画像をつくると、結構イケメンになるらしい。この平均顔=イケメン現象については、生物学的に、遺伝子レベルでは、平均的イコール健康的であることを示しているから云々、といった説明がなされるのだろうが、とりあえずは科学的な話はさておき、ちょうどいいのがいい、の一例とは言えるだろう。
同じようなことは、ファッションでも言える。合コンでは、あまり個性的な恰好よりも、ユニクロファッションのほうが無難でまだマシだと言えるからだ。無難イコールちょうどいい、と考えるならば、これも、ちょうどいいのがいい、の一例である。
1-2 区分②「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」
また、②「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」の例としては、脚の長さのほかには、背の高さや、(先ほどの話とは矛盾するけれど、顔のパーツとしての)鼻の高さといったものがあるだろう。これらについては、確かに平均的なのがよいのだけど、好ましい方向で多少ずれているとなおよい。現代日本なら、脚は長くて、鼻は高くて、(男性なら)背が高いほうがいい。かといって、脚の長さが1mで鼻の高さが10cmで身長が3mだとありすぎだ。ずれたほうがいいと言っても限度があって、多少、「ちょうどいい」からずれているのがいい。
同じようなことは、ファッションでも言える。全身ユニクロも及第点だけど、多少、そこに個性があるほうが、より望ましい。シャツだけでもブランド品のほうが引き締まるし、バッグや時計などの小物がいいものだと違う。かといって、全身ブランドのロゴが入っていると趣味が悪くなる。個性的なファッションにも限度があり、「ちょうどいい」ユニクロファッションから多少ずれているくらいがいいのである。(当然、スタイルにせよ、ファッションにせよ、何を好ましいとするかは文化的背景による。ここでの例は、あくまで、現代日本という文化背景による一例である。)
※この節の議論は、1-4で否定されることになります。
1-3 区分③「ちょうどよさなんて関係なく、あればあるほどいいもの」
最後に、③「ちょうどよさなんて関係なく、あればあるほどいいもの」としては、まず、お金があるだろう。年収が100万円よりは1000万円のほうがいいし、それよりも1億円のほうがいい。
同様に、知性やセンス、また、愛情や誠実さといったものも、「あればあるほどいい」と言えるだろう。
このように、「ちょうどいい」を手がかりにして、モテる要素を三つに区分することができる。
1-3-1 逓減の問題はあっても「あればあるほどいい」といえる
ただし、「あればあるほどいい」については、慎重に考えるべきだろう。
経済学的にも、お金のメリットは徐々に逓減していく。年収が100万円の人にとっての、あと100万円と、年収が1億円の人にとっての、あと100万円では全く重みが違う。そこから、夫婦が慎ましく平穏に暮らすことができれば、それ以上のお金など要らない、などと言うこともできる。使い切れないほどのお金があっても仕方がない。
誠実さについても、浮気をせず、嘘もつかない、といったように誠実であればあるほどいい、とは言える。だが、浮気や嘘といった大きな問題について誠実であれば、些細なところで不誠実であっても、それは、大した問題ではない、ということにもなりうる。夫婦生活のなかで多少のへそくりがあっても、大目に見られることもある。誠実さについても、ある程度のところで、より誠実になることの価値は逓減していく。
だが、より年収があり、より誠実である価値がどれだけ逓減しても、それでも、より年収があり、より誠実であることは、モテるために悪いことではなく、よいことではあるだろう。
年収と誠実さ以外の条件がまったく変わらず、年収と誠実さだけが違うとしたら、ないよりはあったほうがいいとは言える。思考実験的に、そのような状況を想定するならば、いくら逓減しても、年収や誠実さは、あればあるほどいい、と言うことはできるだろう。
1-3-2 周辺事情の問題はあっても「あればあるほどいい」といえる
これに対し、お金はありすぎると、逆に不幸になる、という反論があるかもしれない。確かに、高額の宝くじに当たると金銭感覚が狂ったり、親族や友人とトラブルになったりすることもあるそうだ。また、誠実さについても、相手が誠実すぎれば、息が詰まってしまうことがあるかもしれない。
だが、これは、お金や誠実さそのものと、それらにまつわる周辺事情とを峻別せず、まぜこぜにしてしまった混乱した考えだと捉えるべきだろう。
周辺事情を別にすれば、お金や誠実さは、単純に、あればあるほど望ましい。お金があればあるほど、できることが増えるし、誠実であればあるほど、互いによい関係を築くことができるからである。
一方で、それとは別の周辺事情としては問題が生じることはある。お金が増えることに伴い、人によっては、欲望を自制できなくなることもあるかもしれないし、誠実さを向けられることで、人によっては、自己嫌悪に陥ることがあるかもしれない。
だが、ここでのお金や誠実さは、問題のきっかけでしかない。宝くじが当たって欲望が自制できなくなった人や、相手の誠実さで自己嫌悪に陥った人は、もともと周辺事情として問題を抱えていて、それが、偶然、表面化してしまったということである。
これは、お金や誠実さの「望ましさ」は依然としてあるなかで、その望ましさを、お金や誠実さでそのものではない周辺事情が打ち消してしまった、ということである。脚の長さのように、長すぎるとそもそもの望ましさが失われてしまうのとは全く違う。
この違いは、個人差の大きさに着目するといいだろう。お金や誠実さについては、いくらお金があっても困らない人もいるし、いくら誠実さを向けられても息が詰まらない人もいる。一方で、脚の長さや背の高さは、多少の好みの違いはあっても、すべての人に対して、およその想定範囲で限界が訪れる。そのようにして、お金や愛情や誠実さといった「あればあるほどいいもの」と、脚の長さや背の高さのような「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」とを見分けることができるのである。
※この節の議論は、第2章で否定されることになります。
1-4 「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」は、「ちょうどいい」逸脱である
ここまで、①「ちょうどいいがいいもの」、②「ちょうどよくないほうがいいけれど限度があるもの」、③「ちょうどよさなんて関係なく、あればあるほどいいもの」という3類型に区分をして話を進めてきた。
だが、②類型については、「ちょうどいい」からの「ちょうどいい」逸脱と捉えるならば、①類型に含めることができるだろう。逸脱にも「ちょうどいい」があるのである。
脚が長いことや鼻が高いことは、(多分、いわゆる白人がかっこいいとされている日本の文化を背景とした)好ましい特徴である。だが、その特徴は「ちょうどいい」ものである必要がある。脚の長さが1mで、鼻の高さが10cmではなく、ちょうどよく、人よりも足が長く、鼻が高いのがいいのである。
ファッションも、個性があるほうがかっこいいけれど、その個性はあくまで「ちょうどいい」ものでなければならない。流行の一歩先ではなく、半歩先をいくほうがいい、というのはそういうことだろう。
「ちょうどいい」とは、「ちょうどいい」からの「ちょうどいい」逸脱を含む。そのように考えるならば、ここまでの3類型は、「ちょうどいいがいいもの」と「あればあるほどいいもの」の2つに整理しなおすことができる。
1-5 身体感覚的な「ちょうどいいがいいもの」と観念的な「あればあるほどいいもの」という区分がある
ここまで、僕の実際の思索の経緯をふまえ、モテを事例として分析を進めてきたけれど、そろそろモテから離れてもいいだろう。
モテから離れるならば、「ちょうどいいがいいもの」としては、たとえば風呂の温度や散歩の速度や食べ物の味付けがある。「あればあるほどいいもの」としては、たとえば権力や平和がある。こうしてモテを離れてみると、世の中のさまざまな「ものごとの価値」について考える際に、「ちょうどいい」は重要な着眼点となると僕は考えている。
そのように捉え直したうえで、口の大きさや風呂の温度などの「ちょうどいいがいいもの」と、お金や平和などの「あればあるほどいいもの」とを対比してみると、前者は身体感覚的で、後者は観念的であることに気がつく。世の中のさまざまなものごとについて、実際に体で感じることができるものには「ちょうどいい」がある一方で、頭で観念的に考えたものは「ちょうどいい」がなく、あればあるほどいい、ということが言えるのではないか。
世の中には、身体感覚的な「ちょうどいいがいいもの」と、観念的な「あればあるほどいいもの」という区分ができる。さらに言うならば、世の中の「ものごとの価値」というのは、たいてい、観念的な「あればあるほどいいもの」ばかりだけど、その中に身体感覚的な「ちょうどいいがいいもの」を見出すことができる。そこに、価値や倫理といったものを捉え直す鍵があるのではないか。
1-6 「あればあるほどいいもの」は観念の暴走が生じる
僕が「ちょうどいいがいい」という捉え方に魅力を感じるのは、この捉え方に基づくなら、「ちょうどいい」という明確なゴールを設定できるからである。明確なゴールがあれば、そこに到達できるかもしれないし、もし到達できなかったとしても、どのように到達できなかったかを明確に把握できる。
身体感覚的に捉えることができる「ちょうどいいがいいもの」は、およそ、そう言えるだろう。風呂の温度をちょうどよくするためには、水を温めて41度(または38度から43度あたりのお好みの温度)に到達させればよい。鼻が低すぎると悩んでいるならば、整形手術をして「ちょうどいい」高さにすればいいし、もし手術をしなくても、どのくらいの高さにすれば満足できるかは明確に把握できる。
一方で、観念的な「あればあるほどいいもの」については、そうはいかない。お金をどれだけ稼ぎ、どれだけ権力を握ればゴールに到達できるかは明確ではない。だから、あればあるほどいい、ということになる。そこから、お金や権力の暴走に伴う不幸が生じる。
僕は、「美」も観念的な「あればあるほどいいもの」だと考えているけれど、整形手術を何度も繰り返す人がいるのは、その人が、観念的な「美」を求めているからなのではないかと考えている。もし、ちょうどいい鼻の高さを求めているのであれば、その手術は(成功さえすれば)1回で済む。そうならないのは、さらなる美を求めて暴走してしまうからなのではないだろうか。
観念的なものは、どれだけあればいいか明確ではなく、ゴールを定めることができない。だから、その性質上、明確なゴールに到達できないし、また、到達できなかった際に、どのように到達できなかったかを明確に把握することもできない。だから、きりなく求めることになるし、求めることを諦めたとしても、何を諦めたかさえも定かではないから、きりなく落ち込むことになりかねない。このきりのなさを暴走と呼ぶならば、ここでの暴走は「観念の暴走」と言えるだろう。
この観念の暴走を避けるためには、観念的にものごとを捉えるよりも、身体感覚的にものごとを捉えることを重視すべきだとは言えるのではないだろうか。金や権力や美を少しでも多く手に入れようとこだわるのではなく、ちょうどいい湯温や、ちょうどいい鼻の高さを手に入れたいと望むほうが、手に入れられた場合も、手に入れられなかった場合も、精神衛生上よい、という話である。
「ちょうどいいがいいもの」を重視して生きるべきなのである。
※この節の議論は、第2章で拡張されるかたちで否定されることになります。
2 「ものごと」ではなく行為と捉え、副詞的に「ちょうどよく」とするのがいい
前章では、「ちょうどいい」がいい、というように「ちょうどいい」を形容詞的に捉えたうえで、身体感覚的な「ものごと」としての「ちょうどいいがいい」には観念の暴走がないという利点があるとした。
だが、この章では、前章のアイデア全体を否定し、「ものごと」ではなく「行為」へ、形容詞から副詞へと、捉え方自体をずらしていくことになる。
2-1 「ちょうどいいがいいもの」も達成手段が不明確なら暴走する
ここまで「ちょうどいいがいいもの」は身体感覚的で、「あればあるほどいいもの」は観念的と二分して考え、後者は目標が不明確だから「きりなく求める/きりなく落ち込む」という観念の暴走があるから問題がある一方で、前者にはその問題がない、と論じた。
だが、本当にそうだろうか。「きりがない」という意味での暴走は、目標が不明確な場合だけでなく、達成手段が不明確な場合にも起きるのではないだろうか。
2-1-1 身体感覚的な「ものごと」にも達成手段が不明確な場合がある
まず確認だが、前章で論じたとおり、何を達成すべきか目標が不明確ならば、いくら達成しても、きりなく求めることにつながるし、達成できなかった場合には、目標と現状の乖離を冷静に測ることもできず、際限なく落ち込むことになる。(観念的な「金持ち」になるという目標は、何が「金持ち」か不明確だから、きりなくお金を求めることにつながるし、「金持ち」になれなかった場合にも、どの程度金持ちでないか不明確だから、きりなく落ち込むことになる。)
それに対して、身体感覚的な、鼻を1cm高くしたいという願いは、目標は明確なので、その点では「きりがなく」はない。
だが、身体感覚的な願いであっても、その達成手段がなく、かつその達成を強く望む場合には、神に祈ったりして「きりなく」達成を追求することはありうる。
たとえば江戸時代の人が、その実現手段はないにも関わらず、鼻を高くしたいと強く願ったならば、「きりなく」お百度参りをし、祈祷を依頼する、といった暴走が生じうる。(現代日本人なら、あと100万円あれば美容整形手術ができる、というように実現手段が明確だから、「きりなく」追求することはないだろう。)
現代を例とするなら、(沸点が87度の)富士山の頂上で、100度のお湯でカップラーメンを食べたいと「きりなく」願うならば、それは暴走と言える。
僕は、身体感覚的な問題は、「ちょうどいい」があるから暴走しない、としたけれど、それは単に、この現代日本では、常識的に考えるならば暴走しないという程度の意味だったのである。思考実験的に、江戸時代で執拗に鼻を高くしようとする人や、執拗に富士山頂上で熱々のカップラーメンを食べようとする人を想定するならば、身体感覚的な問題であっても暴走することはありうる。(ふつうはないだろうが。)
2-1-2 身体感覚的と観念的の違いは残る
いずれにも暴走があるとしても、身体感覚的な「ちょうどいいがいいもの」と観念的な「あればあるほどいいもの」を対比してきたことは無駄ではないだろう。なぜなら、それでも両者には依然として違いがあるからである。
身体感覚的な「ものごと」については、目標設定面で暴走を引き起こすことはないが、その達成手段がない場合には暴走を引き起こす恐れがある。一方の観念的な「ものごと」については、目標設定のできなさと、その達成手段のなさの両方が暴走を引き起こす恐れがある。そのような違いがある。(観念的な「ものごと」には、神になる、というような、目標として不明確だし、その達成手段も不明である、というものがある。)
だが、この違いは、今後の議論においてはあまり意味を持たないものとなる。
2-1-3 思考実験であっても前章の僕のアイデアは否定される
ここで、身体感覚的なものごとは、手段を原因としてしか暴走しないのだから、あまり気にしなくていいのではないか、と考えるかもしれない。確かに、カップラーメンの湯温も、鼻の高さも、かなり思考実験的な特殊な状況でしか、暴走の問題は生じない。
だが、思考実験的な特殊な状況であっても、それがうまくいかない、ということは、その考えがうまくいっていない、ということの兆しである。
なぜなら、僕の考えでは、思考実験的な特殊な状況とは、単に確率が低いという意味でしかないからである。実生活においては、その確率が10%の確率で生じるか、それとも0.1%の確率でしか生じないかは重要である。だが、哲学においては、0.1%の確率で当てはまらない理論には意味がない。(すべてに当てはまる理論か、0.1%の確率であっても、その違いが生じる理由を説明するような理論が必要である。)
そのように考えるならば、たとえ思考実験的な場面であっても、身体感覚的な「ものごと」も暴走することがありうる、というこの節での考察結果は、身体感覚的な「ちょうどいいがいい」を重視してきた、前章での僕のアイデアに強烈なノーを突きつけていると僕は考える。
2-2 「ちょうどいい行為」という捉え方を提案する
そこでなんとか前章での僕のアイデアを乗り越えようとして思いついたのが、行為に着目し、「ちょうどいい行為」について考えてはどうか、というアイデアである。「100度のお湯でつくったカップラーメンを求めるうえでのちょうどいい行為」や「3cmの鼻の高さを求めるうえでのちょうどいい行為」と捉えてみるのである。
「100度のお湯でつくったカップラーメンを求めるうえでのちょうどいい行為」ならば、まずは100度の湯温を求めつつも、何らかの事情で難しければ87度で妥協することが可能になる。なぜなら、好ましい湯温を求める執拗さがちょうどいいからである。
また、近くでそれほど高価ではなく手術してくれる美容クリニックがあれば鼻を高くするが、外国に行ってまでは手術しない、ということも可能になる。なぜなら、それが「3cmの鼻の高さを求めるうえでのちょうどいい行為」だからである。
そこから、例えば、お金や誠実さといった、「ちょうどいい」がないとしてきた例についても、お金を稼ぐ行為、誠実であろうとする行為と捉えるならば、そこに「ちょうどいい」が立ち現れると考えることもできるだろう。
お金を稼ぐ行為については、やらなすぎれば稼げないけれど、やりすぎれば体を壊すこともある。全ての人が漏れなく24時間365日働くことはできないという意味で、お金を稼ぐ行為については「ちょうどいい」がある。また、誠実であろうとするのも、やりすぎると迷惑しかなくなる。暗殺者から友人を匿っているときに、暗殺者から友人の居場所を聞かれて誠実に正しく答えることは、誠実さの度を超している。誠実であろうとする行為にも「ちょうどいい」があるのである。
行為という側面に着目するならば、それが身体感覚に関わるものか、観念に関わるものかに関わらず、「ちょうどいい行為」というものがあるのである。
2-3 行為は「ものごと」を統合する
これに対し、第一章で僕が指摘したように、お金を稼ぐことに対して、働きすぎで体を壊すことを別の周辺事情と捉え、また、誠実であることに対して、うそをつかず友人が襲われることを別の周辺事情と捉えるべき、という批判があるかもしれない。「行為」と捉えることで、当初着目していた身体感覚や観念だけでなく、周辺事情まで考慮することになってしまい、そこで混乱が生じているのではないか。
これに対しては、その批判をそのまま受け止めたい。確かに、行為として捉えることにより、その行為にまつわることは、周辺事情であれなんであれ、行為において考慮される事情になってしまう。「100度のお湯でつくったカップラーメンを求める」という行為は、熱々のカップラーメンだけでなく、富士山の気圧という周辺事情も考慮するはずだし、「お金を稼ぐ」という行為は、お金という概念だけでなく、自分自身の体調などの周辺事情も考慮するはずだからである。
だが、そのことが問題となるのは、身体感覚と観念という「ものごと」として捉え、両者を区分しようとするのが、第一章の議論だったからである。
「ちょうどいい」を「ものごと」ではなく「ちょうどいい行為」として捉え直した、この第二章の議論においては、この区分は意味をなさない。身体感覚であれ観念であれ、そして周辺事情であれ、それが行為に関わるものであれば、すべて考慮され、そのうえで「ちょうどいい行為」はなされる。
それは、議論の欠点ではなく、行為として捉え直したことの強みである。行為には、身体感覚であれ観念であれ周辺事情であれ、すべてを巻き込んでいく、力強さがあるのである。
このことを、「行為には統合する力がある」と言ってもいいだろう。ある行為がなされるということは、その行為に関わるすべての事情が考慮され、その考慮がすべて統合され、ひとつの行為として結実したということである。
周辺事情であれなんであれ、すべては統合され、行為として結実していくのである。
だから、「ちょうどいい行為」の「ちょうどよさ」には揺らぎがない。なぜなら、すべての事情を考慮したうえで、統合し「ちょうどいい」を導き出したということだからである。行為としての「ちょうどいい」には、根源的な力強さがあるのである。
なお、この統合にあたっては、本質的な事情と周辺事情といった区別はできないという点も重要である。第一章では、あたかも収入や誠実さといった本質的な事情があり、それとは別に宝くじが当たったことにより金銭感覚が狂ったり、誠実すぎて息が詰まったりするような周辺事情が別にある、という論じ方をしてきた。
だが、「行為」の側面から捉えるなら、実は、このような区分はできない。行為は、周辺的な事情かどうかに関わらず、すべての関係する事情をもれなく統合するのである。いわば、周辺事情という外部は存在しないと言ってもいいだろう。
2-4 「ちょうどよく」がいいという副詞的表現を提案する
この「ちょうどいい行為」というアイデアを、より正確に描写するためには、「ちょうどいい」は「ちょうどよく」と副詞的に捉えるべきだろう。「ちょうどよく」お金を稼ぎ、「ちょうどよく」誠実であろうとするのがいいのである。つまり、「ちょうどいい」ではなく「ちょうどよく」がいいのである。
そう考えるのは、「ちょうどいい」のは、お金や誠実さといった「ものごと」ではなく、お金を稼ぎ、誠実であろうとする「過程」である、ということを強調したいからである。「ちょうどいい〇〇」と表現すると、どうしても、「〇〇」という「ちょうどいい」対象としての「ものごと」が前面化してしまう。(その〇〇を行為や過程と呼んでも、行為や過程が「ものごと」として捉えられてしまう。)そうではないことを表現するためには、「ちょうどいい〇〇」ではない表現を用いる必要がある。それが「ちょうどよく〇〇をする」という副詞的表現なのである。
(例えば、「ちょうどいいお金を稼ぐ過程がある」と言うと、「お金を稼ぐ過程」が「ものごと」として観念化してしまい、もっと「ちょうどいい」最善の稼ぐ過程があるはずだ、となり「あればあるほどいいもの」になってしまい、きりがなくなる。そうならないために、「ちょうどよくお金を稼ぐ」と言いたいのである。)
この副詞的表現は、行為が持つ、統合する力を適切に表現するものでもあるだろう。「ちょうどいい行為」の「ちょうどよさ」は、すべての事情を「ちょうどよく」統合する力に由来する。この力の動性を表現するためには、副詞的表現が似合っている。
2-5 世界の「ものごと」は動的な過程を取り逃す
僕は、身体感覚であれ観念であれ「ものごと」として捉えるのではなく、それらを統合する「行為」として捉えるべきと主張してきたが、ここで、僕が問題視する「ものごと」という捉え方について、もう少し説明を補ったほうがいいかもしれない。
「ものごと」という捉え方の親玉は、「世界」だろう。ここでの世界とは、すべての「ものごと」の集合体という程度の意味である。目の前にあるパソコンも、火星に転がっているだろう一かけらの石も、すべて世界の「ものごと」である。
また、「ものごと」を拡張し「できごと」という意味を持たせるならば、窓の外の雷雨も僕の娘の出産も真珠湾攻撃もビッグバンも、すべて世界の「ものごと(できごと)」である。
世界はすべてを含んでいるように見えるけれど、唯一含んでいないものがある。それは世界の過程性である。世界は「ものごと(できごと)」の集合体であり、すべての「ものごと(できごと)」を含んでいる。だが、だからこそ、世界は、まだ「ものごと」となりきっていない(または、もう「ものごと」ではなくなりつつある)、その過程を含むことはできない。
当然、その過程を、「ものごとになりつつある過程」として捉え、世界内の「ものごと」として位置付けることはできる。だが、それはあくまで「ものごと化した過程」であり、過程そのものではない。
その過程は、「火星の石が転がる」「僕の娘がうまれる」と動詞で表現することしかできない。そして、もし世界が「ものごと」の集合体だとするならば、世界は、この動詞表現を含むことはできない。なぜなら、「火星で転がる石」「僕の娘の出産」と「ものごと化」したとたん、その過程性は失われるからである。
僕は、「ものごと」としての名詞と、過程としての動詞を明確に使い分けている。そのうえで、名詞に付加される「ちょうどいい」という形容詞的なものを、動詞に付加される「ちょうどよく」という副詞的なものとして捉え直そうとしているのである。
なお、名詞と動詞、形容詞と副詞という言語的な対比は、あくまで便宜的なものである。問題は「ものごと」と「過程」、さらに言えば「静」と「動」の対比のほうにある。僕は、「ちょうどいい」を動的な過程にこそ適用したいと考え、「ちょうどよく」と言い換えようとしているのである。
「行為の動的な力」とは、この「動的な過程」の言い換えである。僕は、「ちょうどよく」という副詞的表現を用いることで、世界という「ものごと」の集合体さえも含むことができないものを捉えることに成功したと考えている。
2-6 「ちょうどよく生きる」という副詞的中庸の倫理を提案する
静的な「ものごと」という捉え方の親玉が「世界」なら、動的な過程という捉え方の親玉は「生きる」だろう。なぜなら、最も切実な動的な過程とは、この私が「生きる」ということだからである。
(なお、僕は独我論的な傾向があるから「この私が生きる」ことを過度に強調しがちだけど、ふつうに考えても、「生きる」ことを、その一例としての「この私が生きる」ことと切り離して考えることはできないだろう。「生きる」の最も身近な事例という程度の意味で、この文章では、この私が「生きる」ということに着目している。)
だから、「ちょうどよく」という副詞の使われ方として、もっとも重要となるのは「ちょうどよく生きる」だろう。「ちょうどよく生きる」ことこそ、僕の人生の指針とすべきなのではないだろうか。
これは、中庸の倫理と呼んでもいい。
中庸というとアリストテレスの用語を思い浮かべるけれど、そうではない。アリストテレスの中庸とは、形容詞的な中庸であった。(戦争における)臆病と無謀の中間としての勇敢という中庸である。
一方で、僕の中庸の倫理とは、副詞的な中庸の倫理である。アリストテレスの例を用いるならば、「ちょうどよく戦う」と表現することもできる。
僕は、自ら副詞的中庸の倫理を発見した。(誰か高名な哲学者がすでに発見し、書き残しているかもしれないけれど、僕はそれを読んでおらず、少なくとも僕は自力で発見した。)
高校生の頃から、僕はどのように生きればいいか、手掛かりすら見つけることができず、長年困り果ててきたけれど、どうやら、僕は、拠るべき指針を見つけたような気がする。
僕は、人生に迷ったら、「僕自身はちょうどよく生きることができているかな。」と自らに問えばいい。僕は死ぬ瞬間、「ちょうどよく生きることができたな。」と自分の人生を振り返ることができるような生き方を目指したい。このように使えるシンプルな指針を見つけたのである。
これが、この文章を書くきっかけとなった僕の興奮である。
2-7 既存の「ものごと」の倫理は探求が暴走するという問題がある
ここまでの説明で僕の興奮を理解いただけた方には蛇足となるけれど、ぴんとこなかった方のために、補足説明をしたい。なぜ、僕が、これまで既存の倫理に満足できず、ようやく副詞的中庸の倫理に出会い興奮しているかの説明である。
僕が既存の倫理に不満だったのは、ここまでの説明を流用して表現するなら、それが、名詞と形容詞で表現される、概念化された「ものごと」の倫理だったからである。
そのような倫理は、端的に言って、僕みたいな探求しがちな人には全く使えない。
例えば、「優しさ」が大事だと考えたとしよう。すると、僕のような人は、究極の「優しさ」や、「優しさ」の本質の探究へととことん向かうことになる。そして、その探求の末、究極的で本質的な答えが出るまでは、「優しさ」という概念は使えなくなってしまう。
また、なんとか「優しさ」という概念を使えるようになっても、「世界」のすべてを「優しさ」から説明できるだろうか、といった探求に向かうことになる。そして「優しさ」からすべてを説明しようとして、「勇敢さ」のような相性が悪い概念についてもなんとか整合した説明ができるようにしようとして、苦労することになる。
それでも、なんとか説明の問題をクリアしたとしても、いや、「優しさ」ではなく、そもそもの「善」こそが大事なのではないか、といったように、より汎用性がありそうな概念の探求へと突き進むことになる。
この探求は、きりがないという意味で、第一章で述べた「観念の暴走」に似ている。
そして探求の暴走が行きつく先は、「「いいもの」こそがいいものである。」というような、何も言っていないに等しい、トートロジー的な言明である。つまり、名詞と形容詞で表現される、概念化された「ものごと」の倫理は、暴走しがちで、まったく使えないのである。
やや一本調子で描きすぎたかもしれないけれど、これが、僕の既存の倫理に対する不満である。
これで、「ちょうどよく生きる」という、使えそうな明確な指針に出会えた僕の興奮を多少なりとも理解してもらえるのではないだろうか。
3 どのように「ちょうどよく」すればいいのか探求する
前章では、「ちょうどよく生きる」という指針を導き出したが、この章では、その具体的にどうすればいいのかを探求していく。
3-1 「ちょうどよく」という指針は具体的でないという問題がある
「ちょうどよく生きる」という指針には、そのままでは使いにくい、という問題がある。なぜなら「生きる」というのが、抽象的すぎて、どうすればいいかイメージがわかないからだ。「ちょうどよく」の副詞を実生活でうまく使うためには、「朝ごはんを食べる」のような具体的な記述と結びつける必要がある。
「ちょうどよく朝ごはんを食べる」であれば、「バナナだけではなく、かといってステーキではないものを食べるのだな」とか「起床後数時間後ではなく、かといって起床直後でもなく、少し時間を置いて食べるのだな」などとイメージがわく。
副詞的中庸の倫理は、具体的な記述と相性がいい。
だが、「ちょうどよく」の中庸の倫理と具体的な記述を組み合わせても、一意には進むべき道を示してくれない。「ちょうどよく朝ごはんを食べる」と言っても、それが食事の内容を指しているのか、食事のタイミングを指しているのか、はたまた、栄養バランスなど別のことを指しているのかは定かではない。きっと、それらのすべてをひっくるめて「ちょうどよく」がいいのだろうが、どの視点を選び、どのような重みづけで「ちょうどよく」すればいいのかは定かではない。もし、「ちょうどいい風呂の温度」ならば、41度などと一つの答えが出る。だが、「ちょうどよく風呂に入る」とした途端、それが、風呂の温度なのか、風呂に入る時間なのか、定かではなくなるのである。
「ちょうどよく」の中庸の倫理には、具体性があったほうがいいが、一方で、いくら具体的な記述を加えても、一意には答えは出ない。これが具体性の問題である。
実は、具体性の問題は、僕が「行為にはさまざまな事情を統合する力がある」と論じた時点で予告されていたとも言える。行為とは、「様々な事情」を統合するものならば、その統合の仕方も「さまざま」であり、一意には決まらないからだ。どのように統合するのが「ちょうどいい」のかは、まさに、「ちょうどよく」行為することでしか決めることはできない。行為の前には、どうすればちょうどよくなるか、具体的な指針は示すことはできない。ただ「ちょうどよく」行為するしかないのである。
3-2 「ちょうどよく」とは「より」ちょうどよくの探求である
この具体性の問題は、決して、副詞的中庸の倫理の欠点ではないだろう。なぜなら、そこから「ちょうどよく」しようとする探求が始まるからである。
きっと、「ちょうどよく」の答えは、「ちょうどよく」しようとする試行錯誤の探求を通じてしか見つけることはできない。
いや、きっと明確な答えなど、そもそも無理な話なのだろう。朝ごはんを食べるにせよ、風呂に入るにせよ、探求し、「より」ちょうどよくあろうとすることを通じてしか、「ちょうどよく」に近づくことはできないのである。
きっと、「ちょうどよく生きる」という究極的な倫理についてもそうである。「生きる」ということ以外にはまったく手掛かりがないところで、それでも、「より」ちょうどよく生きようとする試行錯誤の探求を通じてしか、この究極的な倫理にアクセスすることはできないのではないか。
さらには、「より」ちょうどよく生きようとする試行錯誤の探求こそが「ちょうどよく生きる」ということそのものである、とも言えるかもしれない。それならば、僕が発見した「副詞的中庸の倫理」とは、この独特の倫理の示し方こそが、最重要の特徴なのかもしれない。
このように考えるならば、「副詞的中庸の倫理」における「具体性の問題」とは、実は何ら問題ではなく、逆に「副詞的中庸の倫理」を成立させるためには「具体性の問題」は不可欠とさえ言える。なぜなら、「具体性の問題」を探求するというかたちでしか、「副詞的中庸の倫理」は表現されえないものだからである。
3-3 どのように探求すればいいか3つのアプローチで考える
ここまでの僕の説明が功を奏し、読者の皆さんに「具体性の問題」をポジティブなものとして受け入れていただいたとして、さて、この問題にどう対処すればいいのだろう。
具体性の問題があるということは、具体的な手がかりを欠いているということであり、このまま、ただ「ちょうどよく」を探求せよ、と言われても途方に暮れてしまうだろう。
一応、手がかりめいたものを示すならば、僕の考えでは、「ちょうどよく」の探求には三つのアプローチがありうる。意味論的アプローチ、認識論的アプローチ、存在論的アプローチの三つである。
(この、意味論、認識論、存在論という区分は、入不二基義の影響を受け、僕が多用しているものであり、ある種の哲学の本質的区分であると考えている。)
3-3-1 ①意味論的アプローチ
まず、意味論的アプローチとは、「ちょうどよく」を言葉の意味で捉えようとするものである。「ちょうどよく風呂に入る」ならば、「41度の風呂に、夕食を食べて1時間くらいしたときに入るのがいい。」などと捉えようとするのが意味論的アプローチである。
そして、この「ちょうどよく」を、より精緻に捉えようとするならば、言葉に言葉を重ねていくことになる。「湯船に浸かるのは10分くらいで、もし風邪気味なら5分くらいにして・・・」「夏なら、風呂を上がるときに冷水を浴びるのもいい・・・」などなど。
これが意味論的アプローチを推し進めていくということであり、この記述を増やすというやり方は、きっと「ちょうどいい」を捉えようとして、まず思いつくものだろう。
ここまでの話を踏まえるならば、これは、「行為」が持つ「統合」機能を逆回転させ、遡行しようとするアプローチだとも言えるだろう。風呂に入るという「行為」は、湯温やタイミングや入る時間や体調や季節の考慮など、さまざまな事情を統合する。この統合が完了した時点から、統合された事情を逆算するようにして還元し、統合される前にあったはずの事情を顕にしようとする試みなのである。
そしてこれは、「行為」により統合される前にあったはずの事情を言葉として捉え、言葉を連ねて豊かな表現として組み立て、ひとつの物語を創作しようとする試みだとも言える。何の物語かというと、この例では、「ちょうどよく風呂に入る」ことについての物語である。
この意味論的アプローチの利点は、つくりあげた物語を参考にして、これからどうすれば「ちょうどよく」行為できるのか、具体的な方策を定めることができる、という点である。「ちょうどよく風呂に入る」ことについての物語を参照し、「『ちょうどよく風呂に入る』とは、湯温を41度に設定することを含むから、給湯器の設定を41度にしておこう」、というように。
このような事情の物語を参照することで、僕達は実際に「ちょうどよく」行為することができることになる。
3-3-2 意味論的アプローチには、事情の「ものごと化」という問題がある
だが、この意味論的アプローチには問題もある。それは、意味論的アプローチにより制作された物語は「ものごと」の物語になってしまう、という問題である。
僕は行為と「ものごと」を峻別している。行為は、風呂の温度や風呂に入るタイミングというような、さまざまな事情を統合する機能があると論じた。これら統合されるものを事情と呼んだのは理由があって、要は「ものごと」とは呼びたくなかったからである。
風呂の温度や風呂に入るタイミングは、一見、「ものごと」のように見えるけれど、そうではない。なぜなら、それらが「ものごと」だとすると、「ものごと」と峻別されるべき「行為」が「ものごと」を統合する、というおかしな話になってしまうからだ。
だが、行為を遡行するようにして創られた物語は、抽象的な概念や身体感覚的に捉えられるものを用いているという点で、明らかに「ものごと」の物語である。
事情という「ものごと」ではないものを行為は統合する。だが、それを遡行し、事情を還元して物語として捉えようとすると、それは「ものごと」になってしまう。
つまり、意味論的アプローチは、事情を「ものごと化」してしまうという問題があるのである。すると、先ほど論じたとおり、ものごと化した事情は、きりがない、という意味での暴走のリスクが生じる。これが意味論的アプローチの問題である。
行為によって統合される「事情」をあえて別の言葉で表現するならば、それは「ものごと」ではなく「行為」として捉えられるべきだろう。「風呂の温度を確認する」「風呂に入るタイミングをうかがう」といった様々な行為を統合し、「風呂に入る」という行為は成立するのである。
そうだとするならば、「ちょうどよく風呂の温度を確認する」「ちょうどよく風呂に入るタイミングをうかがう」といった様々なちょうどよくなされる行為を統合するようにして、「ちょうどよく風呂に入る」という行為が成立する、と言うこともできる。
(だが、このように、物語として還元された途端、「行為」は「ものごと化」してしまうのだけど。だから僕は、「ものごと化」以前の「行為」を捉えようとして、「事情」という言葉を使っている、とも言える。)
3-3-3 ②認識論的アプローチ
そこで登場するのが、次の認識論的アプローチである。
認識論的アプローチとは、「ちょうどよくやってるなあ」という認識や実感を手がかりに「ちょうどよさ」を捉えようとするアプローチである。ちょうどいいという「実感」があることこそが「ちょうどいい」ということだと言ってもいい。
これは、なかなか実情に合っているように思える。なぜなら「ちょうどよく風呂に入る」ことに成功しているならば、風呂に浸かりながら、「ちょうどいいなあ」と感じているはずだからである。風呂に入りながら常に「ちょうどいい」と呟いているのもおかしな話なので、きっと無意識にしか感じてはいないだろう。だが、問われれば、「ちょうどいいと感じてるよ」と答えるはずだ。
だが、よく考えてみると、ここでも、「ちょうどよく」を「ちょうどいい」と変換するという問題が生じていることに気づく。あくまで副詞的であるべき「ちょうどよく」が「ちょうどいい」という形容詞になってしまっているのである。「ちょうどいいという実感」という形容詞的表現である。
つまり、ここで生じているのは「実感」が「ものごと化」してしまっているという問題である。
もし、「ちょうどよく風呂に入る」とは、「ちょうどいいという実感」があることだとするならば、「ちょうどいいという実感」という「ものごと」さえ獲得できればいい、ということになる。そうだとすれば、例えば、脳に電気信号を送るなどして操作し、実際に風呂に入らなくても、「ちょうどいいという実感」を獲得できればいい、ということになってしまう。
これは、「ものごと化による概念の暴走」の一例だと言えるだろう。
認識論的アプローチであっても、「ちょうどいいという実感」という「ものごと化」による暴走の問題を避けることはできないのである。
3-3-4 ③存在論的アプローチ
※この節は、入不二基義の「潜在性」の議論を用いていて、形而上学の話に片足を突っ込んでいます。だからピンとこない方は、存在論的アプローチは無視して、読み飛ばしていただいていいです。
そこで最後に登場するのが、存在論的アプローチである。
存在論は、言葉と結びついている意味論や、知覚と結びついている認識論に比べてわかりにくいかもしれない。ここでの存在論とは、言葉や知覚で捉えられなくても存在する、といった議論と言っていいだろう。
だから、存在論的アプローチとは、言葉によって「ちょうどいい」を捉えるという意味論的アプローチによらなくても、「ちょうどいい」という実感によって捉えるという認識論的アプローチによらなくても、「ちょうどいい」の存在を捉えることができる、という考えである。
「ちょうどよく風呂に入る」を例とするならば、ちょうどいい風呂の温度の物語として捉えなくても、また、湯船に浸かりつつの「ちょうどいい」の実感として捉えなくても、そこには「ちょうどいい」が存在しているはずだ、と考えるのである。
では、どのように存在しているかというと、「ちょうどいい」が潜在するようにして存在している、と考えるのである。
潜在は顕在と対比される用語だが、顕在については、「知覚や言葉といった何らかの手段が有効に機能している」ことを指すと言える。
知覚的に顕在しているとは、性質上知覚でき、かつ、隠されていたり、近づけないほど遠くにあったりしない、といった条件を満たしていることである。また、言語的に顕在しているとは、表現するための適切な言葉・物語がある、といった条件を満たしていることである。
たいていは、知覚と言語は共働し、知覚的にも言語的にも顕在していることが多いが、なんともいえない微妙な色合いは言語的でなく知覚的にだけ顕在していると言えるし、想像上の生物ユニコーンは知覚的でなく言語的に顕在しているとも言える。(厳密には、微妙な色合いは「色合い」という名前がついているから少しは言語的だし、ユニコーンは絵で描かれるので少しは知覚的とも言える。)
それならば、潜在しているとは、知覚的にも言語的にも顕在していない、という意味だと言っていい。つまり、隠されているなどして、どうしても知覚できず、また、物語も与えようがないけれど、それでも存在している、ということが、潜在するようにして存在している、ということなのである。
このような存在を認め、そこに「ちょうどいい」があると考えるのが、存在論的アプローチである。
どうも言葉遊びのように思われるかもしれないが、実は、このような捉え方は、僕たちの日々の営みにも合致している。
なぜなら、「風呂に入る」のような馴染のある行為ではなく、「東ティモールに行く」のような(少なくとも僕にとっては)全く馴染みのない行為であっても、そこには「ちょうどいい」があるはずだ、と考えることができるからだ。
僕は東ティモールについての知見が全くないから、どうすれば「ちょうどよく」なるのか、全く知見がない。つまり、「ちょうどよく東ティモールに行く」ことにまつわる物語を全く描くことができない。つまり意味論的アプローチはできない。また、実際、まだ東ティモールには行ってないから、実感による認識論的アプローチもできない。
それでも、「ちょうどいい」があるはずだ、と考えることができるならば、その「ちょうどいい」は存在するのでなければならない。そして、その存在は、言葉や実感で捉えられるような顕在したあり方はしていない。つまり、潜在している。このように考えることができるのである。
もし、この存在論的アプローチを認めるならば、そこには、物語にしたり、実感したりするような対象が何もないから、「ものごと化」する恐れがなく、暴走しようにも、暴走するものなどない、と考えることができそうだ。これにて一件落着。
と言いたいところだけど、存在論的アプローチも「ちょうどよく」と副詞的に捉えるべきところを、「ちょうどいい」が(潜在というかたちで)存在する、と形容詞的に捉えてしまっているという問題がある。
つまり、暴走の問題は顕在化はしないけれど、いわば潜在しているのである。
潜在した問題など無視していいのではないか、という考えもあるかもしれないが、僕は無視することができない。だから、僕は存在論的アプローチにも満足できず、僕の考察は更に深まっていく。
3-4 3つのアプローチの問題は時制区分の問題とつながっている
きっと、問題は、意味論・認識論・存在論と区分したことにある。
形而上学的な話になってしまうけれど、僕の考えでは、この議論の区分は、過去・現在・未来という時間論における時制区分に対応している。
まず意味論とは、「ちょうどよく風呂に入る」という行為が終わった時点、つまり過去の視点から、その行為を還元するようにして物語を紡ぐものであった。つまり、意味論的アプローチは過去と結びついている。
また認識論とは、まさに「ちょうどよく風呂に入る」をしている時点、つまり現在の視点において、その行為を現在進行形の実感により捉えようとしている。つまり認識論的アプローチは現在と結びついている。
さらに存在論は、まだ物語も実感もない時点、つまり未来において、もし「ちょうどよく風呂に入る」(または東ティモールに行く)という行為をしたなら、そこには「ちょうどよさ」があるはずである、というように、潜在する「ちょうどよさ」を捉えようとしている。つまり、存在論的アプローチは未来と結びついている。
このように、「ちょうどよく風呂に入る」という行為を、過去・現在・未来という3時制で区分して、それぞれ意味論・認識論・存在論という3つの論により捉えようとする試みは、いわば、行為の動性を台無しにするものである。なぜなら、行為の動性とは、少なくとも、未来が現在になり、現在は過去になる、という時間の動性を前提としているはずだからである。時間の動性を時制区分により輪切りにして断絶してしまっては、行為の動性は働くことができない。
行為から動性が失われれば、行為は名詞化し、「ちょうどよく」の副詞ではなく、「ちょうどよい」の形容詞の対象となってしまう。そこから、「きりのなさ」という暴走のリスクが生じる。
3-5 3アプローチ間を移行する動的な過程こそが「ちょうどよく」だという副詞的アプローチを提案する
このように考えるならば、意味論的アプローチ・認識論的アプローチ・存在論的アプローチは、いずれも不十分と言わざるを得ない。
だが、哲学、つまり思考による探求は、突き詰めれば、この三つの論に収斂するとするならば、「ちょうどよく生きる」うえでの具体的な指針を何らか導くためには、この三つのアプローチを使わざるを得ない。
それならば、少なくとも、この三つのアプローチはいずれも不十分であり、「ものごと化」による暴走の危険を抱えていることは、常に心に留めておくべきだろう。
特に、物語を用いた意味論的アプローチは、強力でわかりやすいから、つい使ってしまいがちだ。だから、代替策として、実感による認識論的アプローチや、潜在性を用いた存在論的アプローチがあると心に留めることは、意味論的アプローチのブレーキとして役立つ。
これは、ひとつのアプローチだけにこだわらず、別のアプローチもあると考え、意味論・認識論・存在論という三つのアプローチを相互に移行しつつ、議論を重ねていくような試みであり、このような試みは、「動的な過程である」という意味で、副詞的アプローチと呼ぶこともできる。
この相互移行・重層化という副詞的アプローチを、動的に「ちょうどよく」やることこそが、「ちょうどよく」の真のあるべき姿なのかもしれない。(少なくとも、真の「ちょうどよく」の近似値ではあるはずだ。)
僕たちは、様々なアプローチを使って「ちょうどよく生きる」を実現しようと試行錯誤する。その試行錯誤の動的な過程こそが「ちょうどよく生きる」ということなのではないか、と僕は考える。
4 「ちょうどよく生きる」と哲学との間の複雑な関係を考察する
第二章と第三章で、僕が伝えたかったことはおおむね書き終えたのだけど、ここでは、この「ちょうどよく生きる」という成果が、僕自身の哲学において、どのように位置づけられるのかを考察する。この章は、いわば僕自身のためのメモである。
4-1 「ものごと」の隙間をしなやかに生きることが「ちょうどよく生きる」である
ここまでで、「ちょうどよく生きる」について、僕が語れることは語り尽くしたように思う。
この文章は、「ちょうどいい」身体感覚から始まり、「ちょうどいい」行為を経由し、副詞的な「ちょうどよく」に至った。これは、「ものごと」という名詞ではなく、行為としての動詞にかかるという意味で「副詞的中庸の倫理」と呼ぶことができる。
そして、実際に「ちょうどよく」生きるための指針として、意味論的アプローチ、認識論的アプローチ、存在論的アプローチという三つのアプローチを提案したが、いずれも「ものごと化」から逃れることはできず、それらを相互移行しつつ重層化するような「副詞的アプローチ」が必要だ、という考えに至った。
これが、今、僕が語ることができる範囲での「ちょうどよく生きる」ということの全てである。
このように振り返ってみると、「ちょうどよく生きる」とは、この「ものごと」に満ちた世界において、「ものごと」に囚われすぎず、「ものごと」の隙間を巧みにすり抜けていくような生き方のように思える。
「ものごと」とは、過度に触れれば暴走する危険をはらんでいるという意味で機雷(爆弾)に喩えることができる。(特に、「真理」や「美」のような抽象的な「ものごと」はその危険度が高い。)
だから、「ものごと」の隙間をすり抜け、しなやかに生きることこそが、「ちょうどよく生きる」ということなのではないか。
当然、「真理」や「美」のような「ものごと」をなんとか避けようとして、過度にこだわることは、逆に、その「ものごと」に過度に関わっていることになってしまう。避けるためには、機雷を目視し続けなければならず、それは目視というかたちで関わっているということだからである。
しなやかに生きるとは、「ちょうどよく」「ものごと」と関わることも含んでいる。それは、視界の端で機雷を捉えつつ、そんなものを気にしていないかのように、巧みにすり抜けていく船のようなものである。
先ほど提案した三つのアプローチによるならば、意味論的アプローチで物語を紡ぎすぎそうになったならば、巧みに認識論的アプローチや存在論的アプローチに切り替え、またそちらに行き過ぎそうになったら意味論的アプローチに戻す、というように、深入りしすぎて機雷に接触しないよう、巧みな操舵技術を持つべきだ、ということになる。
4-2 ここまで論じた倫理は生活者の倫理で、哲学者の倫理ではない
きっと、以上の話は、「生きる」をしている人たち、つまり「生活者」にとっては、真理なのだろう。「生活者」にとって、「ものごと」に「ちょうどよく」関わりながら「ものごと」の隙間をすり抜け、しなやかに「ちょうどよく生きる」ことは究極的な倫理になりうる。
僕も「生活者」として、そのように生きていこう、とかなり本気で考えている。僕がみつけた「副詞的中庸の倫理」という指針に基づき、どこまでできるか自分自身の人生を使って実験してみたいと考えている。
一方で、僕には「哲学者」としての側面もある。
「真理」や「美」のような「ものごと」という機雷にあえて過度に触れて、その先を見てみたいという思いがある。正確には、触れざるを得ない、と言ってもいい。
これを好奇心と言ってもだろうし、または、破壊欲求と言ってもいいかもしれない。僕は、「生活者」には決して到達できない、その先の景色を見たいのである。
人は、この世界の「ものごと」の隙間をすり抜けるように生きていては、この「ものごと」の世界に囚われたままだ。僕は、「ものごと」の極北に到達し、いつかは「ものごと」の世界を脱出し、その先の景色を見たいと願っている。
これは、「ちょうどよく生きる」「生活者」の生き方とは真逆の生き方である。(この「哲学者」という言葉は、いわゆる哲学研究者や哲学専門家だけを指してはいない。例えば、僕がやってる哲学カフェでは、「ちょうどよくなく議論する」ことを常に心がけている。)
4-3 哲学者にとっての指針を考える
最後の最後で、「ちょうどよく生きる」「生活者」に対して、それを破壊するような「哲学者」を提示し、ここまでの議論のすべてを台無しにしてしまったように感じるかもしれないが、そうではない。
4-3-1 「ちょうどよく哲学する」という指針がある
まず言えることは、哲学者だって生活者だから、「ちょうどよく生きる」なかで「ちょうどよく哲学する」ことは可能である。実際、僕はそうしていきたいと考えている。
睡眠時間を削って文章を書いたり、自分の精神に変調をきたすほど思い詰めたりせず、「ちょうどよく生きる」なかで「ちょうどよく哲学する」という道筋を見つけることができた、ということは、この文章を書いた成果のひとつである。
また、「哲学」を「哲学する」と動詞化して捉えることは、僕の哲学の内容にもよい影響を与えるという点も重要である。
「哲学」という名詞は、そのままでは「ものごと化」して暴走してしまう。哲学ではない全て(つまり「生活」)を圧殺し、すべてを「哲学」で塗りつぶしてしまうのである。
それはそれで純粋で潔い姿ではあるが、哲学上、そこには大問題がある。「哲学」が「生活」を説明できなくなってしまう、という問題である。
「哲学」が「生活」を圧殺してしまったなら、その「哲学」が取り扱う具体的な「生活」の事例とは、圧殺されてしまった「生活」の事例となってしまう。それは、生活のように描写はされていても標本のような死んだ生活である。
つまり、「哲学」が「ものごと化」し暴走してしまったら、その「哲学」は「生活」を取り扱うことができない、不十分な「哲学」となってしまうのである。
つまり、「哲学」を不十分な内容のものとしないためにも、「哲学」という名詞ではなく「哲学する」という動詞で捉え、日常生活も統合するようにして「ちょうどよく哲学する」ことは必要不可欠なのである。
これも、この文章での考察を通じての僕の学びである。
4-3-2 哲学者の指針は生活者の指針の逆張りである
この文章での議論が哲学者にも無駄ではないとする、もうひとつの理由は、この文章により「哲学者」はどう進めばいいかが明確になったからである。
「生活者」が「ちょうどよく生きる」うえでは、意味論的アプローチ、認識論的アプローチ、存在論的アプローチに深入りせず、軽やかに渡り歩くような副詞的アプローチが重要である。
だが、哲学者ならば、意味論的アプローチ、認識論的アプローチ、存在論的アプローチの全てに正面から向き合い、機雷が爆発するまで探求することが重要である。
「哲学者」は「生活者」と鏡像のような関係にあり、彼らの逆張りをすることが、「哲学者」が「哲学する」うえで採用すべき方針なのである。
物語や実感や潜在といった「ものごと」の探求を突き詰め、爆発させ、破壊した先にこそ、哲学者が見たい景色が広がっているのではないだろうか。
(だから僕は、入不二の「現実性」についての議論は重要と考えている。)
この哲学の方針については、「ちょうどよく哲学する」と呼ぶのも「ちょうどよくなく哲学する」と呼ぶのもおかしい気がする。
だが、「ちょうどよく生活する」の鏡像関係にあるという点では、「ちょうどよく」とは無関係ではないだろう。あえて表現するならば(突き詰めるという行為を生活に整合して行うといった意味で)「ちょうどよくなく、ちょうどよく哲学する」とするのはどうだろうか。(または、生活に整合するなかで、突き詰めるという行為を行うといった意味で「ちょうどよく、ちょうどよくなく哲学する」でもいいかもしれない。)
いずれにしても、「哲学する」は、ここまで積み上げてきた「ちょうどよく」の議論の例外ではあるけれど、「ちょうどよく」の議論の圏内にはあるは言えるだろう。
4-4 「生きる」と「哲学する」は相互包含関係にある
生活者が「生きる」ことと哲学者が「哲学する」ことは対等に対立し、相互に包含関係にある。
まず、生活者が「生きる」ことが哲学者が「哲学する」ことを包含しているという側面は、説明不要だろう。哲学者だって、ご飯を食べたり、風呂に入ったりと日常生活を送るなかで、哲学もしている。そのような状況を踏まえるならば、哲学することは生活することの一場面であり、哲学者は哲学者である前に生活者である、と言えるからだ。
一方で、哲学者が「哲学する」ことが生活者が「生きる」ことを包含してもいる。なぜなら「生活」を精緻に捉えるためには、その土台となる「哲学」が必要であり、「生活」とはあくまで「哲学」の対象分野のひとつに過ぎない、とも言えるからである。「生活」を「生活」と呼ぶためには、まず「哲学」による探求が必要ということであり、「哲学」が「生活」に先行している、と言ってもいい。
そのような観点に基づくならば、まず、「哲学する」という営みがあり、その営みが「生きる」ことを包含しているとも言えるのである。
「生きる」と「哲学する」という全く対立するものが、相互包含関係にあるというのは、とても興味深い。
4-5 哲学は冒険だが、生活も冒険である
僕は哲学者なので、実は、これまで僕は、「哲学する」が「生きる」を包含するような場面ばかり考えてきた。卵で喩えるならば、白身が「哲学する」で、黄身が「生きる」である。
そこから生活者は内側の安全圏に留まる保守的な人で、哲学者は外に向かう冒険的な人だというイメージがあった。僕はそのように考え、哲学者という知的冒険者を目指してきた。
だが、この文章を通じて、白身が「生きる」で、黄身が「哲学する」の逆の包含関係もあることに気づいた。生活者とは、未知の「ちょうどよく生きる」道筋を探求する冒険者なのである。一方の哲学者は、その生活の内部で哲学をしているに過ぎない。
そして僕は、哲学者の冒険と、生活者の冒険はどこかでつながっているという予感がある。この文章でまだ到達できていないようなところまで哲学を探求し、そして、「ちょうどよく生きる」を探求できたなら、二つの探求は、どこかで合流するのではないだろうか。
4-6 「ちょうどよく」の圏域の外に「謎」がある
このように考えるならば、生活者も哲学者も到達できていない地点が少なくともひとつはある、ということになる。
今までのところ、生活者からも、哲学者からも、把握されることを拒みつづけてきた地点である。「ちょうどよく生きる」ことによっても、「ちょうどよくなく、ちょうどよく哲学する」ことによっても、未だ明らかになっていない謎である。
この謎は、今後はわからないが、少なくとも今のところは、「ちょうどよく」の圏域の外にある。
生活者は「ちょうどよく」の圏内にいて、哲学者は「ちょうどよくなく」も含めた広義の「ちょうどよく」の圏内にいる。そして、その外には「謎」がある。今のところ「ちょうどよく」の物差しとは全く無縁な「謎」である。
この「謎」を捉えることで、この「ちょうどよく」の探求は完了するのだろう。
(この「謎」とは、僕は(入不二の表現を用いて)「完全な無」であると考えている。)
(用語集を兼ねたまとめ)
「身体感覚的」な「ちょうどいいがいいもの」と「観念的」な「あればあるほどいいもの」という区分を当初行う。
しかし、いずれも「ものごと」としての「静的」な「名詞」にかかる「形容詞」的な「ちょうどいい」であり、きりがないという意味での「暴走」につながる、と考え否定する。これを「機雷」の「爆発」にも喩えている。
そのような問題がない「行為」としての「動的」な「動詞」にかかる「副詞」的な「ちょうどよく」を「副詞的中庸」として推奨している。
なぜかというと「行為」には「事情」を「統合」する力があるからである。「事情」とはあえて描写するならば「ものごと」ではなく「行為」である。
「ちょうどよく」の実現のため、「意味論(物語)/認識論(実感)/存在論(潜在)」の3つのアプローチを検討する。いずれも「ものごと化」してしまうので、「副詞的アプローチ」の採用を提案する。
以上の議論は、「生活者」のものであるため、「哲学者」を対比し、両者は「相互包含関係」にあり、更なる外に「謎」があることを指摘する。