※2700字くらいあります。以前書いたことがある話のような気もするけれど、改めて考えたことなので吐き出しておきます。
X軸とY軸
世の中には二種類の人間がいるのではないか。大多数のX軸を生きる人間と、僕を含む少数のY軸を生きる人間である。
X軸タイプは世の中における「ものごとの内容」に注意を向けて生きている。旅行は楽しい、とか、恋愛は苦しいとか、シャインマスカットは美味しいとか。
一方のY軸タイプは、旅行とは何か、楽しいとは何か、そもそも旅行は楽しいのか、いや旅行という行為は存在するのか、なんていうことに興味を持つ。Y軸タイプは「ものごとの前提」に注意を向けて生きていると言ってもいいだろう。
だから、X軸とは生活軸、Y軸は哲学軸と言い換えることもできるだろう。X軸は、実際の日々の生活に注意を向けているから生活軸で、Y軸は、その生活が成立する手前の前提に興味を持つから哲学軸である。
X軸のゆるさ
長らく僕は、生活ばかりを気にして生きているX軸の人々のことを緩いなあ、と思って生きてきた。僕はこんなに真剣に問題にしていることに、どうして目を向けず、のほほんと生きているんだろう、と。
例えば、死は、誰もが免れることのできない哲学の大問題である。みんな死のことを深く考えているようには思えないけれど、どうしてそこから目を背けて生きることができるのだろう、と僕はずっと不思議だった。
そんな、ゆるい態度に批判的な僕には、彼らよりも確かに生きているという自負があった。
軸の違いと孤独感
一方で、僕には、うまく生きることができていない、という思いもあった。少数派ゆえの居心地の悪さである。中国旅行でふらりと入った、現地語が飛び交うレストランの喧騒のなかで、ひとり食事をするような気分で僕は生きてきた。(ぴんとこない方も多いかもしれないけれど、中国では、周囲の人が、僕が日本人だと気づいていないこともあります。)
たとえば僕には「なんでも話せる親友」がいない。もしそんな親友がいたら、旅行とは何か、いや旅行なんて存在するのか、なんていくらでも話すことができるのに。けれど、それは叶わなかったという思いがある。
だがそれは、運が悪いのでも、僕がコミュ障な訳でもなくて、ただ僕が親友というものを履き違えて、見当違いのものを求めてきただけなのだろう。
X軸の彼らがゆるくて僕が偉い訳ではないし、僕に親友ができないのは僕のせいではない。ただそこには軸の違いがあるだけなのである。
X軸とY軸の組み合わせ
ところで、人間の志向はX軸とY軸ときれいに二分できるものではないだろう。
たいていの人は、X軸とY軸とをうまく組み合わせて生きているのではないか。
例えば、科学者ならば、旅行そのものより、旅行という出来事を成立させるこの宇宙構造に興味があるかもしれない。旅行よりも旅行の前提となる宇宙に興味がある、という点で、かなりY軸的である。一方で、宇宙という「ものごとの内容」に着目し、宇宙の更に前提は問題にしていないという点ではわずかにX軸的である。
科学者に残るわずかなX軸性すらも問題にするのが哲学者である。
だが、哲学者であっても、存在や価値といった根本概念を前提とすることは問題としていない場合が多い。僕からみると、たいていの哲学者はY軸を徹底していないように思える。実のところ、世の哲学の本を読んでいても、僕ほどにY軸寄りの人は見たことがない。
僕のずるさ
このことは僕を孤独にする。ようやくY軸タイプの仲間がいると思って喜んだら、実は、その人は哲学者ではなく科学者であったことに気づき、僕は落胆する。そしてようやく見つけた哲学者の中に残るX軸性に気づき、また寂しくなる。
と言っても、これは自慢でも自負でもない。なぜなら、このX軸・Y軸という区分自体、僕が勝手に設けたものであり、そこで僕自身を極端なところに位置づけるのは当たり前だからだ。僕は、勝手に僕が作った土俵で、勝手に格付けしているに過ぎない。
だから、ここまで述べたことは、単なるレトリックかもしれない。
そこにあったのは、孤独で、世の中の繋がり合っている人々が羨ましくて仕方がないという心の叫びだったのかもしれない。その叫びを表現したくて、あえてX軸やY軸なんていう話を持ち出したにすぎないのかもしれない。
その証拠に、僕は哲学だけでなく趣味の友達もいない。僕は、リタイアしたら、世界一周の旅に出て、各地でダイビングもしたい、なんて妄想をしている。そんな冒険に一緒に行ってくれる友達がいたらいいな、なんて思うけれど、当然、そんな友達はいない。
けれど、この孤独は、ここまで話した哲学の孤独とは関係がない。ただ単に妄想のような高いハードルを設けているから、それが叶わないだけだ。(もし一緒に世界一周をしてくれる人が現れても、性格が似てるほうがいい、とか別のハードルを持ち出すに違いない。)
そんな独りよがりによる孤独を隠蔽しようとして、X軸・Y軸なんていう話をしたにすぎない、とも言える。
僕は、自分の孤独を哲学で飾り付けているずるい人間である。
哲学のずるさ
また、このずるさは、僕個人のずるさではない、とも言える。
生活から目を背けるために哲学を使うというのは哲学者の常套手段である。
哲学者は、幸せとは何か、言葉とは何か、人生とは何か、なんて論じるけれど、実際に幸せを目指し、言葉を用いて、人生を生きる当事者は、ひたすらX軸を生きる生活者である。哲学者は、みずからも生活者であるにもかかわらず、哲学を用いて自らを欺き、傍観者の立場に身を置こうとする。
「哲学者のパンツを洗うのは生活者だ」という問題である。
生活者としての僕
僕は哲学者である前に普通の生活者である。
それならば、僕は、完全な孤独などではなく、そこそこうまくやっているとも言える。哲学や趣味はともかく、大学時代からの友人だっているし、家族ともいい関係を築いている。
僕は哲学のことばかり考えている訳ではないし、都合がいい趣味友ばかりを探している訳でもない。僕はふつうにX軸の世界を生きている。(実際、もし哲学の話ばかりできる親友がいたら、ちょっとうざいかも、と思うくらいには、僕はふつうの人間である。)
僕は、クセが強くて、そのせいで孤独を感じることもあるけれど、唯一無二の特別な人間などではなく、一人の「ある生活者」にすぎない。
生活と哲学の統合
だから僕がやるべきことは、X軸からY軸を切り離すだけの作業ではないだろう。(それだけなら、X軸とY軸というアイディアが単なる恣意的な思いつきで終わってしまい、僕の哲学好きを擁護する自己陶酔的な作業になってしまう。)
あくまでこれは第一段階の作業にすぎず、本当に重要なのは、このX軸とY軸をうまく統合し、XY座標の平面図を描くことなのかもしれない。そこではじめてX軸=生活、Y軸=哲学という区分が哲学的必然性を持ち、そこから、生活と哲学を統合する新たな哲学を創造するのである。
僕は、単なる哲学者ではなく、奥さんにパンツを洗ってもらって生きている生活者である。生活と哲学を統合した哲学は、そんな僕の人生そのものを、漏れなく捉えきることができるかもしれない。
(「生活と哲学の関係は『直交』の関係として統合できる」と今のところ考えているけれど、そのことはおいおい書きます。)