月別アーカイブ: 2017年7月

3つの土俵

facebookでのやりとりで、成り行き上、共謀罪賛成の人と、共謀罪反対の人の議論の間に入った。
僕自身は、やや共謀罪賛成かな、という感じなのだけど、そんなこととは別にとても興味深いやりとりだった。

共謀罪に賛成する主な理由は、「共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まる」というものだろう。
一方、反対の主な理由は、「共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まる」というものになるだろうか。
どちらも重要な論点だが、僕が興味深かったのは、この二つの話は重なっているようで実は重なっていないという点だ。
賛成派がテロの恐怖を論証したからといって、プライバシー介入の危険を論破できる訳ではないし、反対派がプライバシー介入の危険を明らかにしたからといって、テロの恐怖を払拭できる訳でもない。
その場合、賛成派と反対派のそれぞれが、自説を強化するとともに、相手の説を論破しなければならない。きちんと議論しようとするならば、次のようなかたちで、2つの土俵で、4つの主張が繰り広げられなければならない。

(賛成派の土俵)
1) 賛成派の賛成説強化の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は確かだ。」

2) 反対派の賛成説論破の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は誤りだ。」

(反対派の土俵)
3) 反対派の反対説強化の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まるという主張は確かだ。」

4) 賛成派の反対説論破の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まるという主張は誤りだ。」

というように。

これは、攻守が分かれているという意味で野球に近い。いや正確にはアメフトを例にしたほうがいいだろう。アメフトは、AチームとBチームが、それぞれ、オフェンスとディフェンスの二つのチームに分かれて戦う。

つまり、次のような感じで力と力がぶつかり合うことになる。

(Aチーム(賛成派)の攻撃時間)
1) Aチームのオフェンスチーム(賛成派の賛成説強化)
2) Bチームのディフェンスチーム(反対派の賛成説論破)

(Bチーム(反対派)の攻撃時間)
3) Bチームのオフェンスチーム(反対派の反対説強化)
4) Aチームのオフェンスチーム(賛成派の反対説論破)

というところだろうか。

このように、賛成派は、自らの主張の土俵と、相手方の主張の土俵の両方で戦わなければならないし、反対派も同様に、二つの土俵で二つの戦いを遂行しなければならない。
そして、ジャッジは、今、どちらのターンで、どちらの土俵で戦われているのかを整理しなければならない。ディフェンス中にクォーターバックが乱入してきたら、退場させなければならない。
共謀罪に限らず、議論においては、この整理についての共通認識を持つことが第一に重要なのではないか。というのが僕が思ったことだ。

しかし、これで整理が終わった訳ではない。
もし、賛成派の土俵では賛成派が勝利し、そして、反対派の土俵では反対派が勝利してしまったらどうなるのだろう。
一勝一敗で引き分けだから、この問題は棚上げ、という訳にはいかない。共謀罪という問題は、安易に棚上げできるものではないだろう。

更に言えば、一勝一敗になるという事態はほぼ必然だとも言える。
なぜなら、賛成派の土俵では賛成派が勝利し、反対派の土俵では反対派が勝利することはほぼ確実なのだから。
これは、ターンオーバーがあるアメフトよりも、攻撃と守備がしっかり分かれている野球で考えたほうがいいだろう。
野球では、Aチームの攻撃(回の表)では、Aチームだけが点数を獲得するチャンスがある。そして、回の裏ではBチームだけが点数を獲得できるようになっている。どんな強豪チームでも、守備中に得点することはできない。
これと同じように、共謀罪賛成派は、反対派の土俵で共謀罪賛成の主張を押し通すことはできないし、反対派も同じだ。相手の土俵でできるのは、せいぜい相手の主張を無化するところまでだ。
賛成派がどんなに華麗に「共謀罪を導入すると、国家が介入する危険が高まるという主張は誤りだ。」と論証したとしても、だから共謀罪を導入すべきとはならないし、反対派が「共謀罪を導入しないと、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は誤りだ。」と隙なく論証しても、だから共謀罪を導入してはいけないことにはならない。
守備側ができるのは、せいぜい相手の得点を0点に抑えるところまでなのだ。

それでは、どのように勝敗を決めればいいのだろう。
野球ならば、攻撃側がホームベースを踏んだ回数を比較すれば勝負がつく。Aチームが4回、Bチームが2回なら、4対2でAチームの勝利だ。
しかし、このような論争の場面では、そのようなルールはない。
もし、一方が相手の土俵で相手の主張を完全に抑え込み、相手側に完全にゼロ点と認めさせ、そして、自らの土俵でもそこそこの勝利をおさめたならば、勝利が明らかということはあるだろう。
しかし、このような現実的で複雑な問題について、相手の主張を完全にゼロ点で抑えるような華麗な勝利というのはなかなか考えにくい。
だから、大抵の場合、最終的な勝負を決めるのは、二つの土俵での勝敗の程度の比較という事にならざるをえない。

そして、当然、ここで二つの土俵をまたいだ勝敗の程度の比較という戦いが始まる。
ここで三つ目の土俵が登場する。
これは、スポーツのルールを、スポーツをやりながら決める作業に似ている。野球ならば、どのようなかたちでもホームベースを踏めば1点は1点だが、そのルールを、野球をやりながら決めなければいけないのだ。野球をやりながら、都度、「うちのチームのこのホームランのほうが、さっきのおたくのスクイズよりも価値があるんじゃないか」、「2回表のホームランより、この9回裏2死からのホームランのほうがすごいんじゃないか」というような議論をしなければならないということだ。

残念ながら、多分、この議論に近道はない。
しかし、この議論を少しでも有意義なものにするためにも、先ほどの二つの土俵の整理は必要だ。
野球なのに、イチローがレーザービームのような送球でアウトを取ったから守備側に1点、とか、デッドボールで怒ったバッターが華麗なキックを見舞ったから1点というようなことがあってはならない。そんなことがあったら、更に議論が複雑になる。
野球において何が得点として考慮されうるのかは、この第三の土俵の戦いに入る前に整理が可能だ。
それと同じように、共謀罪の議論においても、賛成派の土俵ではどのような結論になるのかを明確にし、そして反対派の土俵でも同じように結論を明確にすることで、二つの結論を見渡し、総合的な視点から結論を出すことが少しは容易になる。

そうすれば、例えばこんなふうな議論ができるのではないだろうか。

確かにテロの脅威があるのは認めるけれど、別に◯◯の対策をとれば、ゼロにはできないけどテロの脅威は抑えられるね。(ここまで賛成側土俵の結論)
一方、国家権力の暴走というのは、高い確率で◯◯という悲惨な結果をもたらすから、そのような暴走につながることはなるべく避けるべきだね。(ここまで反対側土俵の結論)
だから高い確率で不幸なことが起きる共謀罪導入はやめよう。(確率という観点で第三の土俵を整理)

または、

現にテロの危険はあるし、将来的にはともかく、当面の代替策がないことは明らかだね。(ここまで賛成側土俵の結論)
一方、国家権力の暴走もありえなくはないけど、国家が悪用しようと思えばできることは他にも色々あるから、理念的にはともかく、現実的には共謀罪だけ捉えてもあまり意味はないね。(ここまで反対側土俵の結論)
だから、理念よりも現実を見て、共謀罪を導入することにしよう。(現実と理念の比較という観点で第三の土俵を整理)

というように。

なお、僕は、この議論の中身がこれでいいと思っている訳ではない。

注目したいのは、いずれの例でも、「確率」とか「現実と理念の比較」というような、「ものさし」があるということだ。
何らかのかたちで、賛成側の土俵と反対側の土俵の二つの土俵を貫く「ものさし」がなけえれば、第三の土俵において、きれいな結論を導くことはできない。
それは、野球ならば、ホームベースを踏んだ回数で勝敗を決めよう、という「ものさし」のことだ。
二つの土俵において、議論をきちんと整理しておくことで、二つの土俵に共通する「ものさし」が見えやすくなる。または、共通の「ものさし」が明らかになるよう、二つの土俵での議論をやりなおすことすら可能だ。

そのような整理をしたうえで、それを踏まえて、第三の土俵での議論となる。

この第三の土俵では、両者が自らの土俵から離れ、協力してどのような「ものさし」を採用するか合意を目指すという姿勢が重要となる。
戦いは二つの土俵でやればいい。そこで力を使い果たせば、第三の土俵では対立のゲームではなく協力のゲームが可能となる。
そうすれば、完全な合意だって夢ではない。これこそが、対話の真骨頂なのではないだろうか。

と、哲学対話が好きな僕としては思う。

一方で、簡単に「ものさし」に合意し、きれいな結論を出してしまったらつまらない、とも思うけれど。

3つの土俵(PDF)

津久井やまゆり園事件から1年

今日で発生1年ということで、津久井やまゆり園事件について書き残しておく。

マスコミが植松聖氏の「障害者を殺してはなぜいけないのか。」という問いを安易に取り上げるのは危険だ。
マスコミは1年を機に色々な切り口でこの事件を取り上げるなかで、このような困難な問いが突き付けられた、というセンセーショナルな報道もしている。当然番組では、一方で、現に一生懸命生きている障害者や、その家族の真摯な心情を伝えることで、そこに一つの答えを提示している。
だけど、植松氏自身や、植松氏に影響を受けそうな人には、このような情に訴えるような答えは、多分届かない。彼らは、もっと論理的な答えを欲している。僕は物事を突き詰めて考えるほうで、どこか彼らに似ているからよくわかる。
今の状況は、答えがない問いだけが安易にばら撒かれ、余計な疑念だけを掘り起こしているように思える。

これまで、「障害者を殺してはなぜいけないのか。」という問いに対して、論理的に、万人が容易に受け入れられるような答えが提示されたことはないと思う。
この問いは、昔話題になった「人を殺してはなぜいけないのか。」という問いの劣化版だ。このような問いは、いわゆる哲学上の難問だ。簡単に答えは出ない。
僕が人を殺さないのは、それが論理的に正しいからではなく、その問いが発せられるその前に、なぜか人を殺したくないからだ。その「なぜか」がない人を説得できる言葉を僕は持っていない。
このような危険な問いには不用意に近づかないほうがいい。

それならば、このような問いにいったん捕らわれてしまった人に対して人は無力なのか、というと、そんなことはない。
人は、人の問いに付き合うことができる。
彼が、「殺してはなぜいけないのか。」と問うてくれたなら、その問いに寄り添い、一緒に考えることができる。それが対話の力だ。対話の力が発揮され、対話が続く限り、彼が人を殺すことはない。
うまくいけば、万人には受け要られれなくても、彼と僕だけは受け入れられる答えを見つけることができるかもしれない。
対話は決定的な誤りを先送りにし、そして正解を見つける助けにすらなる。
対話を続けるということ、それだけが、「殺してはなぜいけないのか。」という問いに対する答えなのではないだろうか。

tsukui.pdf

セックスについて

僕は多分セックスが好きだ。僕のセックスに対する思いを昇華させたい。
だからこの文章を書いた。

セックスとは他者と出会うということだ。
そして、僕の哲学において、他者は未来と同義となる。

セックスにより、僕は他者、つまり無限の可能性を持つ未来と出会う。有限で馴染みがある自己は、そこで解放され、そして、包まれ、癒される。
無限の未来と確定した過去、未知の他者と既知の自己、両者が重なるところが、「今」であり「ここ」なんだ。
そして、それを最も象徴的に示すもののひとつがセックスではないだろうか。
他の例としては、刹那の快感、浮遊感を目指すスノーボード、その場限りのノリを楽しむロックのライブ、期間限定だからこそ楽しい海外旅行。そんなものがある。どれも僕の趣味だ。僕は「今ここ」、つまり過去と未来が出会う現場に立ち会いたいんだ。

多分、ここまでは哲学的に、それほど新しいことを言っていない。
ここで、ちょっと深めておきたい。
さきほど、確定した過去、有限の自己と言った。一方で、未来と他者は無限だ。つまり、過去と自己よりも未来や他者のほうが大きい、ということになる。
無限の未来が収縮し、確定することで過去となり、点でしかない自己が無数の他者に飲み込まれている感じがする。確かにそうなる。
ただそれは、あくまで、未来、他者の目線から対比したならば、という限定付きだ。
過去や自己の目線からすれば、未来や他者は薄っぺらい。
自分自身には生まれてから今までの歴史がある。そして、その歴史は記憶というかたちで幾重にも自分自身のなかに折りたたまれ、奥深い自己というものを形成している。
そして、その記憶のひとつひとつに、生々しい喜びや悲しみといった感情さえも刻まれている。言葉には表せない、生々しい感情がそこにはある。また、記憶には、微細な知覚も含まれている。記憶の中の夕焼けは、ただ赤いではない。そこには、なんとも言えない色合いの夕焼けがある。
このように、過去や自己には、記憶という深みがある。
一方で、未来や他者にはそういった深みはない。未来の夕焼けには微細な色合いはなく、未来の想像上の親の死には、生々しい悲しみの感情はない。他者が怪我をして痛そうにしていても、そこに生々しい痛みはない。他者がおいしそうにご飯を食べていても、そこには生々しいおいしさはない。
あるのは、既に、自己が想像というかたちで遂行してしまった、過去の自己が想像した結果、という記憶だけだ。
つまり、深みという点で言えば、未来や他者は薄っぺらで、過去や自己の深みには敵わない。

この未来・他者と過去・自己の関係は、水平と垂直の関係と言ってもいいだろう。
未知で無限の水平の広がりを持つ未来・他者と、微細で生々しい垂直の広がり(深み)を持つ過去・自己という関係だ。
そして、この水平の未来・他者と垂直の過去・自己は、「今ここ」で直交する。「今ここ」には、そんな特別さがある。
「今ここ」で、未来・他者という無限を、過去・自己という別の無限に変換する。無限から無限への変換。「今ここ」で行われているのは、こんなとてつもない作業なのではないか。

未来・他者が無限というのは、賛否はともかく伝わっていると思うけど、過去・自己が無限というのが伝わりにくいかもしれないので一応説明しておく。
先ほどの夕焼けの例えで言うならば、夕焼け空には、太陽に近い赤い部分と既に夜となった黒い部分の間には無限のグラディエーションがある。この色合いの無限さが、過去の無限さだ。
夕焼けでなくても、目の前にリンゴがあったなら、リンゴの赤でもいい。ボールペンの赤でもいい。
色ではなくても、僕の部屋に横たわっているネコの毛の数でもいい。本棚のある本のあるページを構成する紙の繊維の数でもいい。
過去には、既に確定した事象が無限にある。過去は無限に微細だ。そして、無限に微細な過去は思い出というかたちで自己とつながる。だから自己も無限に微細だ。
確かに、既に思い出せないことも数多い。また過去と言っても全てを知っている訳ではない。5分前の飼い猫の毛の数など知らない。知らないことのほうがほとんどだと言ってもいい。だけど、5分前には確定した猫の毛の本数があったはずだ。そこには答えられないけれど確定した無限に微細な過去がある。そして、その猫を目撃し、猫が寝ている現場に立ち会っていたという点で、過去の僕は無限に微細な過去と確かにつながっていたはずだ。
このような意味で、過去・自己は無限だ。

かなりラフな説明だけど、多分、大枠はそれほど間違っていないはずだ。
ここに、かなりの哲学的問題が集約されているように思う。そこをとばして話を進めるために不正確になってしまうことを許して欲しい。

そう、僕がこの文章でしたかったのは、セックスの話だった。
無限と無限が直交する特別な「今ここ」を味わうためにセックスが好きだとすれば、それは仕方ない気がする。
だけど、それは不純な行為だ。
(とは言っても、セックスは性的な感じだから不純だ、ということではない。)セックスを求めるということは、セックスがどういうものか、だいたい知っていて、その、だいたい知っていることを求めるということになる。
初めてのセックスだって、本とかビデオとかで、どういうものかをだいたい知っていて、それをしようとする。
(例外は、何も知らないうちに、されちゃうような場合だけど、そこには道徳的にも、言語の使用という観点でも別の問題がありそう。)
予想して、それを獲得しようとするのは、なんだかずるい気がする。
「今ここ」は一度限りなのに、それを何度も味わおうとするなんて貪欲だ。
無限の未来は全てを僕にもたらしてくれるかもしれないのに、有限の僕の勝手なコントロールにより、手垢が付き、馴染みがあるセックスというものを望み、未来を制約するのはもったいない。
無限の未来への冒涜なんじゃないだろうか。
それを僕は不純だと言いたい。

これは、今、僕が興味を持っている「対話」という営みにおいて如実に現れる。対話が、「制約なく他者と出会おうとする心がけ」というような意味を含むなら、対話は、無限の未来・他者と「今ここ」で出会ううえで、かなり有効な手順だ。
しかし、「対話」という言葉は、「その営みを継続する」ということも含意している。
これが、「対話」の制約であり限界なのかもかもしれない。本来、無限を取り込もうとする自由な営みである「対話」が、いったん営みとして成立してしまうと、その営みの慣性の力が、その営みを制限し、不自由にする。「対話」が「対話」として目指されるようになったとたん、その「対話」は不純なものとなる。本当の「対話」は、「対話」からも自由にならなければならない。

特定の未来など望まず、ただ「今ここ」の僕があるがままに振る舞い、そして、その結果として訪れる未来を、ただ受容する。それこそが、無限と無限が直交する特別な「今ここ」を味わうための、最善の方法なのではないか。
(それができない臆病な人間だからこそ、こういう文章を書いているんだろうなあ。)

20170702セックスについて(PDF)