僕は多分セックスが好きだ。僕のセックスに対する思いを昇華させたい。
だからこの文章を書いた。

セックスとは他者と出会うということだ。
そして、僕の哲学において、他者は未来と同義となる。

セックスにより、僕は他者、つまり無限の可能性を持つ未来と出会う。有限で馴染みがある自己は、そこで解放され、そして、包まれ、癒される。
無限の未来と確定した過去、未知の他者と既知の自己、両者が重なるところが、「今」であり「ここ」なんだ。
そして、それを最も象徴的に示すもののひとつがセックスではないだろうか。
他の例としては、刹那の快感、浮遊感を目指すスノーボード、その場限りのノリを楽しむロックのライブ、期間限定だからこそ楽しい海外旅行。そんなものがある。どれも僕の趣味だ。僕は「今ここ」、つまり過去と未来が出会う現場に立ち会いたいんだ。

多分、ここまでは哲学的に、それほど新しいことを言っていない。
ここで、ちょっと深めておきたい。
さきほど、確定した過去、有限の自己と言った。一方で、未来と他者は無限だ。つまり、過去と自己よりも未来や他者のほうが大きい、ということになる。
無限の未来が収縮し、確定することで過去となり、点でしかない自己が無数の他者に飲み込まれている感じがする。確かにそうなる。
ただそれは、あくまで、未来、他者の目線から対比したならば、という限定付きだ。
過去や自己の目線からすれば、未来や他者は薄っぺらい。
自分自身には生まれてから今までの歴史がある。そして、その歴史は記憶というかたちで幾重にも自分自身のなかに折りたたまれ、奥深い自己というものを形成している。
そして、その記憶のひとつひとつに、生々しい喜びや悲しみといった感情さえも刻まれている。言葉には表せない、生々しい感情がそこにはある。また、記憶には、微細な知覚も含まれている。記憶の中の夕焼けは、ただ赤いではない。そこには、なんとも言えない色合いの夕焼けがある。
このように、過去や自己には、記憶という深みがある。
一方で、未来や他者にはそういった深みはない。未来の夕焼けには微細な色合いはなく、未来の想像上の親の死には、生々しい悲しみの感情はない。他者が怪我をして痛そうにしていても、そこに生々しい痛みはない。他者がおいしそうにご飯を食べていても、そこには生々しいおいしさはない。
あるのは、既に、自己が想像というかたちで遂行してしまった、過去の自己が想像した結果、という記憶だけだ。
つまり、深みという点で言えば、未来や他者は薄っぺらで、過去や自己の深みには敵わない。

この未来・他者と過去・自己の関係は、水平と垂直の関係と言ってもいいだろう。
未知で無限の水平の広がりを持つ未来・他者と、微細で生々しい垂直の広がり(深み)を持つ過去・自己という関係だ。
そして、この水平の未来・他者と垂直の過去・自己は、「今ここ」で直交する。「今ここ」には、そんな特別さがある。
「今ここ」で、未来・他者という無限を、過去・自己という別の無限に変換する。無限から無限への変換。「今ここ」で行われているのは、こんなとてつもない作業なのではないか。

未来・他者が無限というのは、賛否はともかく伝わっていると思うけど、過去・自己が無限というのが伝わりにくいかもしれないので一応説明しておく。
先ほどの夕焼けの例えで言うならば、夕焼け空には、太陽に近い赤い部分と既に夜となった黒い部分の間には無限のグラディエーションがある。この色合いの無限さが、過去の無限さだ。
夕焼けでなくても、目の前にリンゴがあったなら、リンゴの赤でもいい。ボールペンの赤でもいい。
色ではなくても、僕の部屋に横たわっているネコの毛の数でもいい。本棚のある本のあるページを構成する紙の繊維の数でもいい。
過去には、既に確定した事象が無限にある。過去は無限に微細だ。そして、無限に微細な過去は思い出というかたちで自己とつながる。だから自己も無限に微細だ。
確かに、既に思い出せないことも数多い。また過去と言っても全てを知っている訳ではない。5分前の飼い猫の毛の数など知らない。知らないことのほうがほとんどだと言ってもいい。だけど、5分前には確定した猫の毛の本数があったはずだ。そこには答えられないけれど確定した無限に微細な過去がある。そして、その猫を目撃し、猫が寝ている現場に立ち会っていたという点で、過去の僕は無限に微細な過去と確かにつながっていたはずだ。
このような意味で、過去・自己は無限だ。

かなりラフな説明だけど、多分、大枠はそれほど間違っていないはずだ。
ここに、かなりの哲学的問題が集約されているように思う。そこをとばして話を進めるために不正確になってしまうことを許して欲しい。

そう、僕がこの文章でしたかったのは、セックスの話だった。
無限と無限が直交する特別な「今ここ」を味わうためにセックスが好きだとすれば、それは仕方ない気がする。
だけど、それは不純な行為だ。
(とは言っても、セックスは性的な感じだから不純だ、ということではない。)セックスを求めるということは、セックスがどういうものか、だいたい知っていて、その、だいたい知っていることを求めるということになる。
初めてのセックスだって、本とかビデオとかで、どういうものかをだいたい知っていて、それをしようとする。
(例外は、何も知らないうちに、されちゃうような場合だけど、そこには道徳的にも、言語の使用という観点でも別の問題がありそう。)
予想して、それを獲得しようとするのは、なんだかずるい気がする。
「今ここ」は一度限りなのに、それを何度も味わおうとするなんて貪欲だ。
無限の未来は全てを僕にもたらしてくれるかもしれないのに、有限の僕の勝手なコントロールにより、手垢が付き、馴染みがあるセックスというものを望み、未来を制約するのはもったいない。
無限の未来への冒涜なんじゃないだろうか。
それを僕は不純だと言いたい。

これは、今、僕が興味を持っている「対話」という営みにおいて如実に現れる。対話が、「制約なく他者と出会おうとする心がけ」というような意味を含むなら、対話は、無限の未来・他者と「今ここ」で出会ううえで、かなり有効な手順だ。
しかし、「対話」という言葉は、「その営みを継続する」ということも含意している。
これが、「対話」の制約であり限界なのかもかもしれない。本来、無限を取り込もうとする自由な営みである「対話」が、いったん営みとして成立してしまうと、その営みの慣性の力が、その営みを制限し、不自由にする。「対話」が「対話」として目指されるようになったとたん、その「対話」は不純なものとなる。本当の「対話」は、「対話」からも自由にならなければならない。

特定の未来など望まず、ただ「今ここ」の僕があるがままに振る舞い、そして、その結果として訪れる未来を、ただ受容する。それこそが、無限と無限が直交する特別な「今ここ」を味わうための、最善の方法なのではないか。
(それができない臆病な人間だからこそ、こういう文章を書いているんだろうなあ。)

20170702セックスについて(PDF)