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言ってはいけないこと

世の中には言ってはいけないことがある。嘘はいけないとか、宗教によっては、みだりに神の名を呼んではならないとか。世間では色々なことが言ってはいけないとされている。
そのなかでも、「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。例えば差別的な発言などをしてはいけない。」というのは、かなり普遍的なお約束だろう。
嘘については嘘も方便という考え方もあるとおりケースバイケースという人もいるだろうし、神の名についてもそもそも無神論者なら神の名を避ける必要などない。しかし、相手を傷つけるようなことは言ってはならないというのは、たいていの人が認めるだろう。

「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」
これは、言うのは簡単だが、やるのは結構難しい。
どのような話題で相手が傷つくか100%予測するのは困難だし、同じ話をするにしてもどのように相手に配慮した言い方をすればよいか、事前にはわからないのだから。
この難しさの根源には、言ってはいけない言葉かどうかを判断する権限が話し手側にはないということがあるのではないだろうか。
どんなに話し手が配慮しても、聞き手から「とても不快だった。」「傷ついた。」と言われたならば、その発言はすべきでなかったことになる。
しかし、そもそも、なぜ、聞き手だけが「そもそもこの発言はないほうがよいものだった。なぜならこの発言で私がとても傷ついたのだから。」という判決を下すことができるのか。
なぜ、話し手側から「私は十分配慮したのだから、あなたが傷ついたかどうかに関わらず、この発言はあったほうがいいものだった。」と反論することは許されないのだろうか。

なお、例外的に、話し手に判断権限がある場合もある。それは故意の場合だ。意図的に相手を傷つける意図をもって発言したなら、そのとき話し手は「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」というルールを破っていることに自ら気付いているはずだ。たとえ相手が傷つかなくても、話し手だけはそこに問題があることに気付いているはずだ。
故意という例外を除き、聞き手と並んで最も深い関係者である話し手に判断権限がないのはなぜなのだろうか。

このことを考えるために、興味深い例として、人を傷つけそうな発言なのに、発言が許される場合が少なくとも二つあることを思い出してみよう。
ひとつが、政治家や芸能人などの有名人を貶めるような発言であり、もうひとつが「愚妻」という言葉があるように、身近な人を貶めるような発言だ。
「安倍首相は偏った思想信条の持ち主で論理的な思考ができない。」とか「斉藤由貴は不倫をして貞操観念がない。」とかといった発言を聞いたら、多分、安倍首相や我らが!斉藤由貴は不快に思うだろう。(斉藤由貴ファンだったので・・・)そして多分、ネットが発達した現代なら、実際に一個人の発言が政治家や芸能人に届き、不快にさせる場合もあるだろう。
また「いえいえ、うちの妻は料理も上手じゃないし、気も利かないし。」という謙遜の言葉を横で聞く奥さんは内心いい気がしないだろう。
それでも、このような言葉を発してしまうのは、多分、安倍首相も、斉藤由貴も、奥さんも、配慮すべき「相手」ではないからなのだろう。安倍首相や斉藤由貴はとても遠く、奥さんはとても近いという違いはあるけれど。
要は「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」というのは、その相手が配慮すべき相手だからなのだ。これは、配慮すべき相手だから、発言も配慮しなければならない、という当たり前のことを言っているに過ぎないとも言える。
「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」のは、話し手自身が相手を配慮すべき人として認定したからなのだ。
話し手によるその認定行為が先行しているからこそ、相手は、「あなたは、私を配慮すべき人だと認定したのでしょう。その私が傷ついたと言っているのだから、あなたの配慮は足りなかったのですよ。」と言えるのだ。これは、発言が配慮されているかどうかを判断する権限を、話し手自ら、聞き手に譲り渡したということであり、つまり話し手は自ら判断権限を失ったのだ。

更に言えば、言葉を発する場面にかぎらず、人と人のコミュニケーションの根幹には、このような「譲り渡し」があるのではないだろうか。
例えば「殺人はなぜいけないのか。」という問題についてもそうだ。昔、世間で議論になったことがあるとおり、この問題は一筋縄ではいかない。
この問題にきれいに答えるためには、殺す側も殺される側も対等な同じ人間だという前提を設けなければならない。主人が奴隷を殺したり、飼い主がネコを殺したりするのは、人間が人間を殺すこととは違う。(奴隷殺しやネコ殺しは非難されるだろうが、殺人とは別の理由に基づく非難となる。)
殺人が罪となるのは、加害者が被害者を同じ人間と認め、被害者を配慮すべき者と認め、そこにコミュニケーションが成立し、加害者が被害者に対して、殺人という自らの行為の評価権限を譲り渡しているからなのだ。

反論がありそうなので立ち止まって考えてみよう。
例えば復讐による殺人のような場合、加害者が被害者を人として認め、相手に対して自らの行為の評価権限を譲り渡すなんてことをしているだろうか。
この問題をうまく処理するためには、加害者・話し手と被害者・聞き手という二つの立場に加えて第三者的な立場を考慮に入れるかたちで、これまでの整理を修正すべきだろう。
この第三者とは、まさに殺人や会話に関わっていない人という意味で捉えてもよいが、神や法律や社会通念や常識というかたちで考えてもよい。加害者・話し手は被害者・聞き手に対してだけでなく、このような意味での第三者にも判断権限を譲り渡していると思うのだ。
その結果、例えばこうなる。
「あなたは一般常識を受け入れ、どのような人に対して、どのように配慮するかについては、一般常識に則ることに同意しているのでしょう。だから私は、あなたの配慮が、あなたが受け入れた一般常識に反していると指摘しているのです。」
ここでは一般常識を例としたが、例えば法律においても同じことが成り立つ。その場合、自らの行為の評価権限を国家が定めた法律に譲り渡すことになる。このことを社会契約と呼ぶのだろう。
他者を承認し、他者を配慮すべき、というコミュニケーションの根幹には、直接の相手に対してであれ、第三者に対してであれ「譲り渡し」がある。人が人の世界で生きるためには、この「譲り渡し」からは逃れられないのだ。

そして、話し手・行為者側は、「譲り渡し」から当然に帰結するものである、相手方や第三者からの予期せぬ非難の恐れから逃れられない。
そのリスクを最小限に留めるためには、石橋を叩くように過度に配慮せざるを得なくなる。相手や常識という名の第三者を忖度し、怯えながら発言しなければならない。それはとても息苦しい世の中だ。
人はこの息苦しさによるストレスから、テレビのゴシップに乗っかって見ず知らずの有名人に対して攻撃的になったり、結婚したり生んだりしただけの家族に対して人間としての地位を認めないような特殊な対応をするのかもしれない。これは、人間の世界におけるコミュニケーションの泥沼のように思える。

それでは話し手は、この泥沼から逃れるすべはないのだろうか。
殺人のような修正できない一回限りの行為とは異なり、発話のような修正が効く行為については、もう少しうまいやりようがあると思う。
ここで着目したいのは、聞き手の「あなたの発言で傷ついた。」という言葉も発話であるという点だ。ここで聞き手と話し手は立場を逆転する。元聞き手であり現話し手の「あなたの発言で傷ついた。」という発言の妥当性の判断権限は、元話し手であり現聞き手である相手に譲り渡されるのだ。
そこで、元話し手は、「「あなたの発言で傷ついた。」というあなたの発言で、私は傷ついた。」と言うことができる。そして、当然、その発言に対して元聞き手は同じことができ、理論上はこのキャッチボールはどこまでも続けることができる。
当然、実際にこんなことを言い合うことなどない。それでも理論上はこのようなキャッチボールが可能だ。このことが意味しているのは、コミュニケーションは両者の共同作業であり、そのコミュニケーションの内容の評価・判断も両者の共同作業ということなのだろう。

しかし現実には共同作業になどならない。
それはなぜかといえば第一に、「あなたの発言で傷ついた。」という言葉による先制攻撃を受けたことで元話し手は大ダメージを受け、元聞き手に反論できなくなるからなのだろう。最初にきつい言葉を発し、問題を指摘した側が、自称被害者の立場を獲得し、有利な先攻を取れるのだ。
第二に、コミュニケーションは手間がかかるからなのだろう。だから実生活上は殆どの発言について共同作業による検証など行われず、たいていのことはキャッチボールの第一投で終わらせるのが礼儀となっている。だから、発言について共同での検証、評価が可能ということは一般的に広まっていない。正しさではなく効率性や怠惰や無知を理由に、そのような実情がある。

悪態をつきたくなるが、とにかく、このような現状をふまえると、これまでの考察で得られた知見を大きく見積もらないほうがいい。
ここまでのことから言えることは、あなたの発言により気分を害した人がいたとしても、あまり気にしなくていいということ、そして、怒りか何かにより、発言の評価という共同作業つまりコミュニケーションを拒否するような相手は、端的にただ間違えているということだ。
できるなら、僕は一歩踏み出してこう言いたい。
「君は僕の発言でなんだか気分を害したようだけど、とことん、そのことについて話してみようじゃないか。色々理由をつけて対話を避けるなら、それは君自身の問題であり、僕は関係ない。」

生き残りの倫理学

2013年1月10日に書いたもの。
8章構成で長いけど、1つの記事にまとめました。
・・・

ちょっと息抜き的に書いたものです。最後の方は私の哲学の問題意識のまとめっぽいところもありますが、前半は私の趣味です・・・

1 フリーマン・ダイソン
私はフリーマン・ダイソンが好きだ。ダイソンは高名な物理学者であり、「フリーマン・ダイソン 科学の未来を語る」などの一般向けの科学書の作家だが、私は文系人間で物理学はさっぱりわからないので、正確には後者の作家としてのダイソンが好きだ。彼の本では、例えば「脳に超小型の無線機のようなものを埋め込むことにより人々の間で意識を共有することができるようになる。」、「遺伝子操作した巨大な植物でできた天体に居住することができるようになる。」というような、語る人によってはSF小説のネタになってしまいそうなアイディアも含めつつ、説得力のある真摯な姿勢で、人類の百年、千年単位での科学的発展可能性を見据えた提言が行われている。
私は、そこで語られる科学技術の可能性の壮大さに魅力を感じる。一方で、科学技術は野放しに発展して大丈夫だろうか、という危機感を感じる。
この危機感は「科学技術の発展可能性を前にして、私たちはどう科学に向き合うべきか。」という倫理学的な問いでもある。(ダイソンも倫理が重要だと言っている。)
この問いをひとつのきっかけとして、私は倫理学や形而上学的な哲学に興味を持つようになった。最初は応用倫理学的な視点から手がかりが見つけられないかと考えたが、そこに私が望む視点はなかったことから、今は主に形而上学的な哲学に興味が移っている。ただ、形而上学とは言っても、なんとか「べき論」につなげることはできないか、という問題意識を捨て去ることができない。私の興味は、広い意味での倫理学の分野で彷徨っているようだ。
彷徨ってみたところの率直な感想を述べるなら、既存の倫理学は科学の発展に全く追いついていない。科学の発展に対抗するためには倫理学は飛躍的に発展する必要がある。
確かに、倫理学が発展すると言っても、そもそも哲学的な問いに答えはあるのか、哲学に発展などということがありえるのか、という大問題がある。答えを求めず考え続けることこそが哲学だという意見もありうる。
しかし、私たちは、現に、科学技術の壮大かつ急速な発展を前にして、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という倫理学的な問いに対して早急に答えを出すことを求められている。たとえ答えがないとしても、答えを出さなければならない。
私はそこに焦りを感じている。焦りから、少しでも先に進むことは出来ないだろうか、目標地点を確認して目指す倫理学のあり方を素描するくらいのことはできないだろうか、という思いがある。
そのような思いからこの文章を書くこととした。この文章では、まず「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という漠然とした問いを具体的な問いに変換することで目標地点を示し、その後、問いに対してどのような答えがありうるのか、現時点での方向性を素描していきたい。焦りからくる不正確さも多々あるとは思うが、答えがなくても答えをださなければならないという事情を鑑み、ご了承いただきたい。

2 人類の絶滅
まず、私に具体的にどのような焦りがあるのか述べておきたい。「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを考えるうえで、常に私の念頭にあるのは、人類が絶滅する場面である。運が悪いことに地球に巨大隕石が落ちることをNASAが明らかにした。または、狂気の独裁者により第三次世界大戦が始められ、核ミサイルが大量に発射された。あるいは、研究所から殺人ウィルスが漏れ出した。そして人類は、あのとき火星に移住しておけばよかった・・・核を廃絶しておけばよかった・・・ウィルス研究を禁止しておけばよかった・・・などと後悔しつつ滅亡する。そのような場面だ。
つまり、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いは、私にとっては「人類が滅亡に瀕していることを踏まえ、私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いである。このまま人類が滅亡してよいのだろうか、という焦りが私にはある。
しかし、この問題意識は、当然ながら「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの一部である。そのように問いを限定してもよいのだろうか。
科学への向き合い方を考えるにしても、人類というような括りで考えるのではなく、例えば個人という括りで考えることができるし、もし人類という括りで考えたとしても、絶滅というような極端な場面を想定せずに考えることもできる。少なくともこのような2つの意味で、私の問題意識は「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの一部でしかない。
例えば、「胎児の着床前診断ができるようになったが、診断により障害児であることがわかった場合、堕胎することは許されるだろうか。」というような問いは、個人的な倫理の問題が含まれ、また人類の生き残りに直接関係しないという意味で、人類の絶滅という観点を超えた問いであるが、科学の発展に伴い生じている倫理学的な難問であることには変わりはない。
しかしそれでも、私は「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを考えるにあたっては、人類の滅亡ということのみを念頭に置いても大きな問題はないのではないかと考えている。
まず、個人という観点を無視しているのではないかという疑義については、人類の滅亡ということを考えるうえでは、人類と個人との関係について考察することは必須だという意味で、無視してはいないと反論できる。
また、絶滅に至らないような状況を無視しているのではないかという疑義については、絶滅というような極端な状況を想定することで、そこに至らないような倫理的な問題も浮き彫りになるのではないかと反論できる。例えば、先ほどの着床前診断の例も、「着床前診断をしなければ人類が絶滅するとしたら、着床前診断をすること、または、しないことは許されるのか。」という問いに変換すれば、人類の滅亡という問題意識のなかに含むことができる。
確かに、「原則として着床前診断を行うべきではないが、行わなければ絶滅するならば行ってもやむを得ない。」というような答えはありうるので、絶滅という極端な状況が原則論と一致しないことはありうる。しかし、純粋な哲学的思考を行うためには、人類の滅亡という極端な状況を想定することは思考実験として有効だ。極端な状況を想定することで原則論自体を揺り動かすのが思考実験の意義であるはずだ。とするならば、極端な状況が原則論と乖離することはあまり気にするべきではないとも言える。
そう考えると、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを人類の絶滅という問題意識のみに絞って語ったとしても、その問いのかなりの部分を掬い取ることができるのではないだろうか。

3 私たちは生き残るべきか
それでは、人類の滅亡という問題意識を念頭に、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの具体的な内容を考えてみたい。
私の当初の問題意識は、「哲学や倫理学は人類を絶滅から防ぐために何ができるのだろうか。」という問題意識であった。具体的には、「人類が生き残るためには多少は我慢しなければならない、という倫理学的な錦の御旗により、私利私欲のために自ら絶滅を引き寄せているような状況を変えることはできるだろうか。」という問題意識であった。
しかし、そのことを考えようとして、その手前に、より大きな問題があることに気付いた。「私たちは生き残るべきか。」という問題である。
科学技術の発展により、私たちは現在、最大の絶滅のリスクに晒されると同時に、科学技術を用いて絶滅を避けるチャンスも手にしている。言い方を変えれば、私たちは絶滅する最後かつ最大のチャンスにあると考えられる。絶滅のリスクとしては、巨大隕石のような自然的な災害に加えて戦争のような人為的な災害が想定されるが、多分、数百年後、科学技術の発達により、このようなリスクは克服され、私たちは絶滅が困難になる。
どのような科学技術によるかはわからないが、いずれにせよ、ここ数百年の危機を乗り切れば、私たちは絶滅を避け、長期間、もしかしたら数百万年以上にわたり存在し続けることができる。そして、多分、一旦、絶滅を避けることが技術的に可能になったなら、その技術を手放すことは極めて困難だろう。
つまり、この数百年の間の私たちの選択により、私たちが数百年のうちに絶滅するか、今後天文学的単位で長期間にわたり存在し続けるかが決まる。だから、現在を含めたこの数百年の世代で「私たちは生き残るべきか。」という問題について答えを出さざるを得ない。その答えがイエスであれば、私たちは生き残りに向けて努力しなければならない。またノーであれば、私たちは自分自身の生き残りに向けた努力を防がなければならない。
だから、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いのなかでも「私たちは生き残るべきか。」という問いは極めて重要な問いである。

4 生き残るための方策
ここからは「私たちは生き残るべきか。」の答えがイエスであったと仮定し、生き残るためにとりうる対応策を想定したうえで、どの対応策をとるべきかという倫理学的問題について考えたい。
まず生き残るための対応策であるが、私は積極的には空間的拡大と時間的拡大、消極的には耐性強化、事前防止という4通りの方策を思いつく。ここでこの4通りの方策について簡単に触れておくことにする。なお、ここに挙げたものだけが取りうる方策ではないかもしれないし、いくつかを組み合わせてもかまわないという意味では無理に4つに分ける必要もないかもしれない。

【空間的拡大】
空間的拡大とは、文字通り、空間的に拡散することで絶滅のリスクを軽減するということだが、その具体的なやり方は多分、宇宙進出である。太陽系の別の惑星に移住できれば巨大隕石等で地球が壊滅的な状況となっても私たちは生き残る。また、他の恒星系に移住できれば、光速を超えた移動ができない限りは移動に要する時間的な制約が防御壁となり、大規模な戦争のような意図的で地球単位で収まらない災害が生じたとしても太陽系単位で収まる局地的な被害として乗り越えることができよう。今後、数百年でそこまでの科学的発展を遂げられるかどうかは怪しいが、太陽系の別の惑星への移住が実現し、惑星単体で独立した文明が維持できるようになった時点で、私たちが絶滅する可能性は極端に低くなる。

【時間的拡大】
時間的拡大とは、個人的な妄想としてはタイムマシンがよいなあ・・・などと考えてしまうが、多分、人工冬眠のような手法となるだろう。宇宙進出に比べれば、大規模な災害に対する対抗手段としては脆弱かもしれないが、ソフトウェアとしての知的財産と、ハードウェアとしての知的活動の担い手である私たちを長期間保存することができれば、大規模な災害の影響が消えた時点で文明を立て直すことが可能となる。そういう観点で言えば、未来の子孫に対して知的財産を残そうとするような手法を広く時間的拡大と言ってよいだろう。

【耐性強化】
人類が災害を乗り切るための直接的な方法としては、人類自身を遺伝子操作するなどして、酸素の消費量を少なくしたり、高熱に強くしたりして環境の変化への耐性を強化するというような選択肢がありうる。なお、このようなミュータント的な方法だけではなく、防護服を開発したり、シェルターを設置したりするようなことも耐性強化に含んでよいだろう。そういう意味では、毛皮を着て、家を建てるようになったときから、既に耐性強化は行われていると言えるかもしれない。
また、この消極的な手法は、空間的拡大、時間的拡大といった積極的な手法と組み合わせることもできよう。例えば、人類を真空に耐えられる体にすれば宇宙開発は容易だろう。また、冬眠できるようになれば時間的拡大により災害を乗り切ることは極めて容易になるはずだ。

【事前防止】
国連のような国際的な調整機関を設立して戦争を抑止したり、警察力を強化してテロを抑止したり、ある種の生物学的研究を制限してウィルスの事故を防いだり、といった対応を事前にとり災害を防ぐ取組みは、現に行われているし、これからも行われるだろう。ただし、これらの取組みは、事前に予想される災害に対応するという性格上、不測の事態による絶滅の可能性を避けることはできないという限界があるため、確実に絶滅を回避するためには他の方策を併用しなければならない。
なお、私が事前防止の手法のうちで比較的効果が高いと考えているものは、テロ対策としての洗脳である。
当面、私が最も危惧している災害はテロである。なぜなら科学の発展により、より少数の者でより大規模な災害を起こすことができるようになるはずだからだ。例えば、個人レベルで遺伝子操作により凶悪な殺人ウィルスを作り上げることは遠くない未来にできるようになるかもしれない。そして、そのウィルスに宇宙空間を乗り越える能力があり、宇宙規模で拡散させることができれば、ある程度の空間的拡大と時間的拡大による対策がとれていたとしても、私たちが絶滅する可能性は高まるだろう。
このように科学技術の発展によりテロの危険が高まる一方で、テロのような個人単位の行為は戦争などの国家単位の行為に比べて事前の対策が困難であることは変わらない。とするならば、テロを防ぐために有効な対応策は何であれ、例え洗脳であっても、真剣に採用を検討する必要があるかもしれない。

5 どのように生き残るべきか
仮に「私たちは生き残るべきか。」の答えがイエスであったなら、生き残りのために、ここで挙げたような手法を採用することになるだろう。そこで、どの手法を採用するべきかという倫理学的問題が生じる。つまり「私たちはどのように生き残るべきか。」という問題がある。「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを人類の滅亡という観点から考えるならば「私たちは生き残るべきか。」の次には「(仮に生き残るべきなら)私たちはどのように生き残るべきか。」という問いがあるはずだ。
それでは、ここからは、「私たちはどのように生き残るべきか。」という問いをより具体的なものとするため、具体的な生き残りのための方策を採用することに伴い生じうる具体的な倫理学的問題を列挙していくことにしたい。

「宇宙に私たちではない知的生命は存在すべきか。」
私たちが空間的拡大による生き残りを選択し、宇宙進出を目指したなら、宇宙は私たちで満ちることになる。宇宙に私たち以外の知的生命がいるかどうかはわからないが、仮にいれば、そこに生存競争が発生する可能性がある。その結果、私たちの宇宙進出により、私たち以外の知的生命が絶滅するかもしれない。よって、私たちが宇宙進出を目指すべきかどうかを考える上では、この問いを避けることはできない。
なお、私たち以外の知的生命が存在するかどうかを科学的に検証し、その可能性が低いならば宇宙進出を目指すべきである、というような折衷的で現実的な判断をするとしても、私たち以外の知的生命の存在可能性をどの程度考慮するかという観点は重要となろう。

「どこまでが私たちか。」
人類の後継者をどの程度まで柔軟に考えられるだろうか。例えば、先ほど耐性強化のために人類自身を遺伝子操作するような手法がありうるとしたが、人間としてどこまでの遺伝子操作が許されるのだろうか。極端な例としては、科学の発展を加速させるため複数の人間の脳を接続するというような操作もありうるかもしれない。そのようにして操作された人類を、私たちはどの程度まで人類の後継者として許容することができるだろうか。
更には、シリコンチップでできた人工知能を人類の養子とし、文明の後継者に任ずるというような選択もありうる。これはもはや「人類」ですらないだろう。このような選択をどこまで認めるかどうかは、どこまでが「私たち」と考えるかどうかにかかっている。

「どこまで思考のあり方に手を加えることは認められるか。」
「どこまでが私たちか。」に類似の問題だが、身体的な特徴ではなく、思考の特徴について、どこまで手を加えることが許容されるのかという問題がある。
私が念頭に置いているのは、先ほど述べたようなテロ防止のための洗脳が認められるか、つまり「人間を、人類の絶滅に繋がるような思考自体ができないように操作することが認められるか。」という具体的な問題だ。
洗脳という手法は有効である一方でデメリットも極めて大きい。そのデメリットは、テロリストの人権というような瑣末な問題に留まらない。私が問題視していることは、洗脳された場合、ある方向の思考ができなくなり、将来的にもある方向の思考をする可能性が失われるということである。例えば、全人類が洗脳され「他の動物を犠牲にしてまで人類は地球上に存在するべきか。」という疑問を感じることができなくなれば、ある種の倫理観から起こされるテロは防げるだろう。しかし、あわせて「他の動物を犠牲にしてまで人類は地球上に存在するべきか。」という倫理学的な問いは永遠に失われる。
何が正しいのか、という哲学的な問いに対する、ある方向からの検討が永遠に失われたならば、私たちは正しさにたどり着くことはできない。もし、私たちが正しさにたどり着けないならば、私たちに存在すべき知的生命としての資格があるのだろうか。
ここでは極端な例として全人類の洗脳という方法を想定したが、そこまでいかなくとも、個人的な自由を制限することで、社会的には洗脳に近い効果が得られる。個人の思考自体への制限は行われてなくても、社会的な意味での思考を制限することは可能である。現に、ある程度自由が制限されていることを踏まえれば、この問いは現に重要な問いである。

「誰が生きられるのか。」
私たちが絶滅の危機に瀕したとき、誰をノアの箱舟に乗せるのか、つまり、誰が人工冬眠や宇宙脱出をするのか、という問いがある。
この問いは、最終的には、私とあなたとではどちらが大事か、というような話に至る可能性もあるが、あくまで人類の生き残りというレベルで捉えれば、子孫に残すべき遺伝的形質をどのように選ぶべきかというレベルの問題で解決する可能性もある。
しかし、私はもうひとつ問題があると考えている。現実に誰が生き残るかどうかを倫理的に正しく決定することは可能なのか、という問題だ。この程度の問題が解決できないならば、私たちは生き残るべきでないかもしれない。平和裏に誰が生き残るかさえ決められない者に、生き残る資格があるのだろうか。
だから、私は、この問題は「私たちは生き残るべきか。」という問いの副次的な問いなのではないか、と考えている。

「避難させる知識をどのように選択するのか。」
ノアの箱舟に乗せるものとしては、私たちというハードウェアだけではなく、ソフトウェアとしての知的財産もある。とすると、ソフトウェアとしての知的財産についても、どの知識を残すかという問題がある。例えば、トマトの栽培方法と最近流行ったアイドルの名前とではどちらが子孫に引き継ぐべき知識なのか、という問題だ。
こう書くと簡単な問題のようにも思えるが、それは、子孫に残す知識を操作すべきか、という問題でもある。ウィキペディアのような電子的アーカイブが準備され、物理的にかなりの量の知識を避難させることも可能となってきた状況において、残すべきかどうか判断に迷う知識、例えば核兵器の作り方のような知識を意図的に子孫に残さないことは許されるのだろうか。
また、電子的アーカイブ化により物理的な制限がなくなってきたとは言っても、例えば、残す知識の多さに比例して、ハードウェアとしての文明の担い手も多数必要となることを考えると、どの程度の知的財産が子孫により維持できるかについては、技術的な制約があるはずだ。とすると、「どこまでが私たちか。」という問いと類似の問いとなってしまうが、どの程度の知的財産が子孫により維持されれば、私たちが子孫に知識を残したことになるのかについても考えておく必要もある。

「現世代は将来のためにどの程度コストを払うべきか。」
例えば、私たちの生き残りのために宇宙開発を行うなら、そこには莫大な金銭的なコストがかかる。また、ロケット打ち上げに伴う環境破壊のような金銭以外のコストも払う必要がある。
つまり、生き残りの努力は、現世代の生活レベルにとってはマイナスに働く。このコストを現世代はどの程度払うべきなのだろうか。そこには、宇宙、知的生命というような集合レベルの問題意識と、物質的に恵まれた生活を送りたいというような個人レベルの問題意識との衝突があるだろう。
ただし、この問いは、他の問いに比べれば重要性は低いかもしれない。なぜなら、例えば宇宙開発に努めなくとも、宇宙開発はノロノロとでも進み、スピードは遅れても空間的拡大は維持されるだろうからだ。生き残りに必要な技術開発に集中投資しなくても、私たちが絶滅するリスクが減るテンポが遅れるに過ぎない。
また、個人の欲求は、個人間の脳の結合により個人という意味自体を消失させるというような飛躍的な手法で解決する可能性もあり、また、先ほど挙げた洗脳のような方法で乗り切ることもできうる。そう考えれば、個人と集合の対立という捉え方自体、所与のものとするべきではないのかもしれない。
しかし、現実には、ある技術的な課題を乗り越えるために、莫大なコストを私たちに強いる可能性もある。例えば、宇宙開発のためには軌道エレベータが必須だということになり、軌道エレベータは運用を一歩間違えれば大災害を引き起こすのだとしたら、私たちはどのような選択をすべきなのだろうか。

「科学に特権的な地位を与えるべきか。」
私には、生き残りの積極的な手法としては、宇宙開発や人工冬眠というような科学的手法しか思いつかない。だから、なんとなく科学技術の発展が必須だと考えてしまう。
しかし、他の手法としては、例えば、神に祈るというような宗教的な手法もありうる。私自身が否定的なのでよい具体例が思いつかないが、科学技術とは別のアプローチもありうることは確かだろう。そう考えると、科学に特権的な地位を与えるべきかどうかについては、まず考えておく必要がある。
ただし、これは、科学にどれだけのコストをかけるべきかという先ほどのコストの話にも重なるし、科学偏重を思想的な洗脳の結果だと捉えれば、洗脳の話にも重なるので、独立した問題ではないのかもしれない。

6 もうひとつのリスク
このように、いくつかの問いを列挙してきたが、その前提としては、隕石、戦争、テロといった災害を絶滅のリスクと考えてきたということがある。
しかし実は、私が同程度に重視するリスクとして、「知的文明維持の意欲の減少」がある。これは、私たちの子孫が、祖先から引き継いだ知的文明を維持、発展させる意欲を失うということである。
現在でも、科学は複雑化、高度化により、科学の最先端に到達できるようになるまでに学ぶべきことが増大している。つまり、下積み期間が長くなることで、科学的な成果を上げることが困難になってきている。また、科学的研究は、研究分野の細分化により、達成したときに得られる果実も矮小化しているように思われる。更には、物理学のある分野では、大統一理論への到達が期待されているように、科学の発展による知的フロンティアの減少という問題もありうる。そういう意味で、科学に対する知的好奇心を維持しにくくなることを危惧している。
これに対応する方策としては、技術的には教育のあり方を見直すというようなアプローチはあるだろうが、根本的な解決方法としては、例えば意欲というものに関係なく学ぶことができるコンピュータを文明の継承者とすることもありうるかもしれない。仮にそのような解決策をとるならば、「どこまでが私たちか。」という問いはより重要な問いとなるだろう。

7 答えの方向性
それでは、これらの問いに対しては、どのような答えがありうるのだろうか。
私には、どの問いにも共通の側面があるように思われる。そこで、ここでは、個々の問いに対してのありうる答えを列記するのではなく、その共通の一つの側面について述べていくことにしたい。
ただし、その共通の側面とは私にはある一つのことを指しているように思われるのだが、どうも断片的にしか繋がらず、うまく説明することができない。そこで、これからいくつかの述べ方をするが、いずれも同じ一つの側面を断片的に述べようとしているものとして読んでいただきたい。

【擬人化】
「どこまでが私たちか。」という問いに象徴されるように、どこまでを自分自身と同等のものとして捉えるかにより、ここに挙げた問いの答えの方向性は決まってくるように思われる。
例えば「宇宙に私たちではない知的生命は存在すべきか。」については、地球外知的生命を自分自身と同等のものとして考えるならば、同等に存在すべきものと考えることにつながるだろう。また、子孫たちを自分自身と同等のものとして捉えるならば、子孫たちのために多くのコストを払うことを厭わないだろう。
この自分自身との同等性についてイメージを喚起した言い方をするなら、擬人化とも言える。地球外知的生命や遠い未来の子孫たちを擬人化できるかどうかでこれらの問いに対する答えの方向性が決まってくる。
時間的な広がりを捨象し、空間的な広がりだけで考えても、宇宙全体、知的生命、共同体、家族、個人といった多くの段階があるが、その各段階のうち、どの程度まで擬人化できるかどうかが問われている。
そして、「私たちは生き残るべきか」という私が最重要視している問いについても、実は、宇宙全体というような括りで擬人化できるかどうかという問いなのかもしれない。仮に擬人化できるなら、自分自身に対する肯定感を投影して宇宙全体を肯定するか、自分自身に対する否定感を投影して宇宙全体を否定するか、のどちらかなのかもしれない。
(なお、擬人化とは、これまでの私の文章ではアミニズム、同一律などとして登場しているものの新たな言い替えだと考えている。)

【私という観点の呪縛】
現在の宇宙論によれば、ビッグバンで始まった宇宙は膨張して冷却し、ビッグフリーズというかたちで終わりを迎えるということだ。何が終わりなのかはよくわからないが、宇宙が何も生み出さなくなるという意味で言えば、終わりを迎えるということなのだろう。
とすると、終わりを迎える前に生み出された知的生命には何らかの宇宙の観察者としての意味があるのかもしれない。更には知的生命の科学力をもって、宇宙の終わりを乗り越えられる可能性さえある。宇宙はそのような知的生命を望んでいたのかもしれない。もしそうだとすれば、宇宙に私たちは存在すべきであり、そのためには私たちはどのような変質も受け入れ、いかなるコストも支払わなければならない。
これは極端なストーリーだが、このように、私という個人の観点を離れ、より大きな観点から考えることで、何らかの答えが見つけられる可能性がある。
なお、この文章の最初の方で述べた、人類の滅亡ということを考えるうえで個人という観点は無視できず、人類と個人との間の関係について考察することが必要だとしたことの私なりの答えの方向は、このようなものだ。

【言語の限界】
私は哲学において答えが出ない最大の理由は、言語を用いて言語自体を哲学するという自己言及的な困難さにあると考えている。
控えめに言っても哲学にとっての最大の武器は言語であるにも関わらず、その言語自体が掴みきれないものであるということが、哲学全体を捉えどころがないものにしている。
倫理学は哲学の一分野であるということを踏まえると、この文章で挙げたような倫理学的な問いについても、その捉えどころのなさから免れることはできない。
しかし、言語について新しい知見を得ることができれば、これらの問いの答えに一歩近づくだろう。

【現実】
私たちは現実の真っ只中にいる。私のこのような倫理学的な考察も現実には役に立たないと言われるかもしれない。それでも現実に私たちは、答えを出さなければならない状況にある。
また、この文章は観念的な言語であると同時に、現実に存在する。その現実に、哲学、倫理学の土俵で、観念的な言語を武器に挑もうとしている。
このように、この文章についてちょっと考えただけでも、そこにあるのは現実ばかりだ。
その現実に言葉で立ち向かおうとしているということを踏まえると、ここには、言語で現実を捉えることができるか、という問題があるのかもしれない。もしそうならば、私が感じている言語の限界という問題意識に極めて近い。
ただ、何かが足りない。「言語の限界」という言葉では、現実の言語の限界をうまく示せていないような気がする。

【単純性】
私たちは、ここで述べたような哲学的、倫理学的問題について、答えがなくても早急に答えを出さなければならない。そのためには、「当面の」答えを選ぶための基準を持たなければならないかもしれない。
私は、その基準の最有力候補は単純性、つまり、その答えがどれだけ単純かだと考えている。
ただし、単純性というものを重視している最大の根拠は、論理的なものではなく私の直感によるものだ。私には、「私が哲学的思考をするうえでは、あるアイディアを思いついたとき、無意識に、より単純化することができないかどうかというテストをしているように感じている。」という直感がある。
この直感を超えるような理屈付けができるかどうかが、単純性という基準に意味を持たせることができるかどうかの分かれ目になるのかもしれない。

8 さいごに
私は以上のような方向で考えている。つまり、無理やりつなぎ合わせれば、「私は、現段階で擬人化という概念に注目をしている。それが私という観点の呪縛の正体であり、言語の限界を超え、言語と現実をつなぐ紐帯になっているのではないかと見込んでいる。そして、この仮説は、擬人化というただ一点に注目しているという意味で単純であるが故に正しい見込みがある。」ということだ。
しかし、単純性により答えを導き出すことは本当に正しいのだろうか。哲学において単純な答えを探すということは、窓やドアのない密室で掃除をしているに過ぎないようにも思う。哲学的疑問をゴミに例えてはいけないかもしれないが、単にゴミを一箇所に集めただけで、部屋の中のゴミの総量は変わっていないのではないのだろうか、という思いを拭い去ることができない。
なかなか正しさにたどり着くことができない哲学に、人類の絶滅という大問題に立ち向かう力はあるのだろうか。そう考えると余計に焦ってしまう。

PDF:ikinokori

右と左

これは、2012年12月31日に書いた文章。結構前だなあ。民主党とかないし。それにちょっと意味がわからない。
・・・
最近の日本は右傾化していると言われる。言葉の本来的な意味からすれば保守化しているということだ。グローバル的な経済的競争、高齢化の到来、古くからの共同体の崩壊といった困難な状況にある現在、既に手に入れているものを守りたいという思いと、失敗する余裕がないという思いが交錯し、変化を好まないのは当然だろう。
しかし、変化しないと維持もできないという当たり前のことを思い起こせば、保守的であっても何らかの新しいことはしなければならない。つまり、保守的であっても新しいことをする。また一方で、当然ながら、革新的であっても、全てを新しくすることはできないので、維持されるものはある。つまり、保守的であっても革新的であっても、新しいものと古いものの両方が必要だということは変わらない。
保守、革新と言っても、程度の差であり、あえて言えば、どちらを重視しているというイメージを打ち出すかという広告戦略の違いに過ぎない。キャッチフレーズを「今までどおりの安心」とするか「現状打破」とするかの違いだ。具体的な施策については、変えるべきものは変え、変えるべきでないものは変えないという意味で、そうは変わらない。
それなのに右、左と言ったとき、その中身もかなり違うように思われるのは、そこに別の意味が重ねあわされているからだ。保守、革新という基準以外に何をもって右、左とするのかは、その時代によって異なる。フランス革命の時代であれば、中世的で共同体的な価値を重視するのが右で、近世的で個人的な価値を重視するのが左だというような意味があり、冷戦時代であれば、自由を重視する資本主義が右で、平等を重視する共産主義が左だというような意味があった。
しかし、右、左という言葉に込められる意味は、その時点における従来の状況によるという意味では、先ほど言った保守、革新という区分を超えるものではない。ある時点において従来の状況を保守するのであれば右、革新するのであれば左だということに過ぎない。フランス革命の時代であれば、これまで中世的で共同体的な価値が重視されていたので、それを保守的に維持するのが右で、近世的で個人的な価値に革新するのが左になり、冷戦時代であれば、これまでの自由な資本主義を保守的に維持するのが右で、新たに共産主義に革新するのが左となったというように言える。
そこを混同したことにより、現実には、右、左というレッテルを貼ったことによる混乱が生じている。混乱により、右、左という言葉にここで述べたような別の意味が重ねあわされているように思える。例えば、冷戦時代の右、左という印象がとても強かったため、そこから今でも抜け出せず、自由を重視する小さな政府を志向することを右、平等を重視する大きな政府を志向することを左と呼んでいる。
本来は、従来大きな政府が志向されていたなら、それを維持することが右であり、それを変革して小さい政府を志向することが左であるはずである。フランス革命時の観点で言えば、従来の中世的で共同体的な価値が重視することが右で、新たに近世的で個人的な価値を重視することが左であったことから、現在でもそのような意味が右、左という言葉に込められている。しかし、現在の日本からすれば、長らく近代的な個人的価値が重視されてきたことを踏まえ、近世的で個人的な価値を重視しつづけることが右で、新たに中世的で共同体的な価値が重視しようとすることが左となるはずである。
そこで、近代の大きな政治的事件だと思われるフランス革命と社会主義革命の2つの革命に注目し、それにより貼られたレッテルを剥がして、現在の日本の状況を捉え直してみよう。これまでの日本では、大きな政府が志向され、近世的で個人的な価値が重視されてきた、ということを踏まえ再整理すると、現在の日本における政治的な立場は次の4パターンが考えられる。
①大きな政府(保守)で個人的価値重視(保守)
②大きな政府(保守)で共同体的価値重視(革新)
③小さな政府(革新)で個人的価値重視(保守)
④小さな政府(革新)で共同体的価値重視(革新)
ここで、それぞれのパターンについてイメージをしてみる。
①大きな政府(保守)で個人的価値重視(保守)
これは、個人の権利等を重視し、大きな政府により、きめ細やかなサービスを提供していくものであるから、福祉国家的である。ばらまき的な施策に陥りうると意味も込めて現在の民主党に近いと言ってよいかもしれない。
②大きな政府(保守)で共同体的価値重視(革新)
これは、共同体的地縁や階級等を用いつつ、国家の統制等を強めるということであり、その例としては開発独裁的な国家が挙げられよう。 あえて言えば、軍事という国家権力を強化し、天皇制等の伝統的な階級的価値を強化しようとしているという意味で現在の自民党に近いだろう。
③小さな政府(革新)で個人的価値重視(保守)
これは、国家の統制が最小限な状況において個人的価値が重視されるという意味で、アメリカが典型例である競争社会と言えよう。
④小さな政府(革新)で共同体的価値重視(革新)
これは、国家の統制が国民に浸透しない状況で共同体的地縁や階級等により社会が成立しているという意味で中世的であると言えよう。
ここで、私のお勧めは④だ。
私の見立てとしては、今社会に蔓延している不幸の主たるものは現代文明特有の不幸であり、現代文明の不幸の原因は、極度の言語化にあると考えている。そして、言語化の最も大きな弊害は思考の停止だと考えている。この思考停止が不幸を招いている。
思考停止とは、例えば、この文章で取り上げた、右、左というレッテル貼りの例がある。私はこの文章で、右、左とレッテルを貼り停止していた思考を再起動したつもりだ。
(ただし、この文章も言語である限り、言語化の弊害から免れることはできない。多分、右、左について2つの評価軸で判断するということにも、どこか誤りがあるだろう。)
それ以外のレッテル貼りによる思考停止の例としては、権利という言葉がある。権利のなかにも、実際は、相手を貶めるためだけに主張している、守るに値しない権利もある。それでも権利と言われれば、必ず尊重しなければならないように思えてしまう。これが権利というレッテルを貼るということである。
また、似たような例としては契約という言葉も挙げられる。有効な契約書に基づき、非人間的な結果を招くこともある。実態を見れば、契約により酷い結果を招くことが明らかであるにも関わらず、だ。それでも契約と言われれば、尊重しなければならないように思えてしまう。これが契約というレッテルを貼るということである。
権利、契約と言われれば、その実態が捨象され、それだけで尊重すべきものとなる。このようなレッテル貼りによる思考停止が言語化の弊害だと考えている。
言語化という観点から見れば、大きな政府であるということは、法律等の言語的なルールにより、国家による判断、命令が明確に言語的に行われる機会が多いということだ。また、近代的な個人的価値を重視するということは、西洋的な契約、権利といったものを重視するということであり、言語を重視するということである。
つまり、①が最も言語的で、④が最も言語から離れている。よって④を選択することで、言語化による思考停止を緩和することができる。
当然、④を選択し、中世に戻ろうとしても、現代文明の真っ只中にある限り、それほど言語から離れられる訳ではない。しかし、この一呼吸、言語から距離を置いてみようとする姿勢により、言語の限界を意識することが出来る。そこが重要なのではないだろうか。

PDF:migitohidari

 

読書会における村上春樹問題

ノルウェイの森の読書会に出たので備忘録。皆さんの話を聞いて思ったこと。

村上春樹の文章は、読者が自分なりの読み方で読み進めやすく、読者が自分の思いを投影しやすいようにできている。
だから多くの人が、彼の文章は自分の思いをうまく表してくれていると感じることができる。
それは、とても柔軟性がある繊維で織られた服に似ている。オーダーメイドではないのに体にフィットする生地に包み込まれる心地よさに似た快感がある。

ある人が言っていたけれど、それが癒やしなのかもしれない。
村上春樹に限らず、小説の文章は、読者一人ひとりをそれぞれ自分の世界の中に包み込んでくれる。そこでは、読者はただ一人、世間から隔絶されて小説の世界の住人となる。つまり小説はその読者の小宇宙となる。そのことこそが癒やしなのではないか。その感覚を、学校を早退して帰る時のバスの中のようだと例えていた人もいた(と僕は理解した)が、僕はその癒やしの感覚を一人旅に例えたい。
本来居るべきではないけれど、どこか懐かしいところにただ一人いる感覚。安心感と違和感、または充実感と喪失感。これらは旅によく似ていると思うのだ。
小説には、登場人物であるワタナベや直子や緑やレイコたちと一緒に僕一人だけが特別にそこに居ることが許されていることの安心感と違和感がある。これは異国の街角で感じる、誰も僕のことを知らないなか、僕だけがそこにいるという安心感と違和感に似ている。そして小説という満ち足りた完全な小宇宙にいることの充実感と、小説を読み終わることによる喪失の予感は、旅の充実感と旅の終わりの喪失感に似ている。
旅に似ているかどうかはともかくとして、これこそが癒やしであり、読書の愉しみの大きな部分を構成していると思う。
読書のこの愉しみを味わいやすくする「何か」があるというのが、村上春樹の文章の特徴なのかもしれない。

その「何か」については断言はできないが、読書会の場でも言ったように、価値の中立性によるところが大きいと思う。価値観の押し付けのようなものがないから、読者は自分の思いを文章に投影し、読書に没入し、読書の愉悦を感じやすくなる。当然それだけではないだろう。文章のリズム感や東京という設定の身近かさも貢献しているだろう。そのあたりの話については、多分、既に膨大な村上春樹ファンの分析があるだろうから、そちらに譲ることにする。

僕がここで着目したいのは、村上春樹の文章の価値中立性という特徴と、そのことがもたらす、読者一人ひとりをその人だけの小宇宙に誘うという読書の愉悦効果だ。
このことにより、村上春樹の読書会での対話は、特有の困難につきあたる。
村上春樹以外の通常の作家の文章ならば、そこには価値観についての何らかの主張が含まれているから、その主張が錨の役割を果たして読者同士を近くにつなぎとめてくれる。その価値観に賛成であれ反対であれ、読者はそこに着目せざるを得なくなる。
しかし、村上春樹の文章は価値的な主張がないため、読者の読み方の自由度が高まり、読者同士の距離が広がり、ついには相互理解を困難にする。
ここに読書会における村上春樹問題が生じると思うのだ。

まとめると村上春樹の読書会は、彼の文章の魅力ゆえに盛り上がるけど、一方で、その魅力ゆえに深まりにくいのかもなあ、というのが感想でした。だけど、このようなメタ考察もできるというのが、村上春樹の読書会の別の面白さかもしれません。

 

今朝の夢

今朝の夢を記録しておく。
入不二先生の本を読みながら寝たからかこんな夢を見た。

僕は、大学生なのか大学院生なのかわからないけど、大学の教室のようなところにいた。入不二先生やその他知らない人たちと何か哲学的なことについて意見を言い合っていた。
そのなかに一人、僕よりも背が高くてほっそりとしたショートカットの女性がいた。美形という訳ではないけれど、少し勝ち気な表情をした多分20代の女の子だ。そんな女性と違和感なく話していたということは、夢のなかでは僕も同じような年頃だったのだろう。
経緯は忘れたが僕らはなぜか意気投合して二人で外に出た。5月の爽やかな空気に満たされた公園のようなところを並んで歩いていると、彼女は僕の手をにぎった。
僕は立ち止まり、なんだか心もとない気分で彼女を見つめると、彼女も僕のことを見つめた。真昼の太陽の光のせいで彼女の頬の産毛が光っていた。桃みたいだなあ、と思いながらその頬にキスをした。

というところで目が覚めた。40代既婚男性の想像力ではこれが限界だったのだろう。そういえば彼女が水原希子にちょっと似ていたのは、読書会に備えてノルウェイの森を読み直したからかもしれない。大学が舞台だったのは娘の受験のため大学のサイトをさんざん見ていたからかもしれない。底が浅いなあ。

なぜこんな妄想のような夢を書き残したかというと、まずは、この夢には僕の理想が詰まっているように思えたからだ。僕はノルウェイの森の緑のような女性が好きだ。また、やり直せるなら大学で哲学をやりたいと思っている。そして、1年のなかで5月が一番好きだ。今後、夢のような状況を想像する必要があったら、この夢を思い出すことにしよう。

もうひとつの理由は、この夢の全編を通じて、僕の心のなかには、どこか、何も手に入れていないような感じがあったからだ。この、まだ何もない感じ。始まったばかりの感じ。ああ、これが若いときの感じだったかもしれないと思い出したのだ。
僕の若い時はこの夢のようではなかったけれど、この空っぽの器のような気分がどこかにあったことを思い出した。実際にはそれだけではなく焦燥感や熱気や汗などと混じり合っていたけれど、そのなかに、確かにこのような気分があったことを思い出したのだ。
この感覚を忘れてはいけないと思う。いや正確には、この感覚を失ったことを忘れてはいけないと思う。だから僕はこの夢を書き残したんだ。

 

「知らない人に出会う」を読んで ~儀礼的無関心について~

PDF:知らない人に出会う

「知らない人に出会う」という本を頂いて読んだ。
とても役に立ったので感想を書くことにする。(どう役立ったかは最後に。)

この本は多分、「儀礼的無関心」(電車の中などの公的な空間で見知らぬ人との距離を不用意に詰めずに微妙な距離を保つ配慮、という感じ。)に対するささやかなレジスタンスの本だ。

この本で「儀礼的無関心」という言葉を初めて知ったが、僕の人生の色々な場面でひっかかっていたことに共通の名前をつけてもらった気分だ。「儀礼的無関心」とは、これまでの僕の人生の何割かを占める大きな課題だったのだろう。
大学1年の終わりに初めて日本を離れ、降り立った空港で東南アジアの空気を感じた時、生まれるべきところに帰ってきたと感じたことを思い出す。そこから僕は海外旅行にはまった。今思えば、日本の閉塞感から初めて脱し、そして旅人という、いわば「儀礼的無関心」から解放された特権階級となった開放感にひたっていたのだろう。
また、僕は邦楽ロックのライブが好きだ。音楽自体もいいけれど、同じアーティストを好きな人同士が同じ空間にいることが嬉しい。お互いに語り合うことはないけれど同じステージを見つめ同じ音楽の波が皆を包んでくれる一体感。更に、客席の人同士が語りあうことができればもっといいとは思うけれど、このあたりが「儀礼的無関心」を残しつつ、なんとか両立するギリギリの一体感なのだろう。
そして今僕は哲学カフェを開催している。哲学が好きということもあるが、哲学を使って見知らぬ人同士が緩やかにつながれたらいいと、どこかで願っている。これもきっと「儀礼的無関心」から解放される場がほしいのだろう。
なんだか僕は「儀礼的無関心」から逃れようとしてばかりいたのだなあ。

そして、僕の同志であるこの本の筆者は、「儀礼的無関心」に抵抗するために、他者に語りかけることを勧める。公園などの街中で、いきなり挨拶することを勧める。
これはハードルが高い。旅行中だったり、犬を散歩させていたり、酔っ払っていたり、といった何らかの言い訳がつく状況だったらいけるかもしれないけれど・・・特に理由なく話しかけるのは難しい。
この本でもほのめかされているけど「儀礼的無関心」の根幹には、「こんな都会でお前たち全員とわかりあえるまで話していたら体がもたない。」という問題があるように思える。
つまり、その他大勢の他者というのは、その位置づけからして似たような人たちということが前提にあるから、そこから特定の誰かを選び、その人だけに話しかける理由がない。それならば、全員に常に話しかけるか、誰にもまったく話しかけないかしかなく、現実的には体力や時間的な制約から後者を選ぶしかない。話しかけさえしなければ、何故Aには話しかけずにBにだけ話しかけるんだ、なんて突っ込まれずに済む。
つまり、体力面や時間面での現実的な制約を踏まえると、他者に話しかける理由がないときは、とことん話しかけないという戦略が最も筋が通る。
なお、女性の場合は、話しかけない理由として、他者とトラブルになる危険を避けるということも大きいだろうが、トラブルの解決のためには腕力や労力が必要となることも考えれば、広義には体力面や時間面での制約に含めてよいだろう。

しかし、他者というのは本当にどれも似たような存在なのだろうか。
少なくとも、声をかける候補となるような他者には、同じ公園を散歩していたり、同じカフェでお茶を飲んでいたり、といった特徴があるはずだ。自分と同じ時間に同じ場所で同じような行動をしているというのは十分に特別のように思える。更にはよく観察すれば変わったバッグを持っていたり、際立ってうれしそうな表情をしていたり、といった個性がある人もいるだろう。
そのような個性や共通点に着目し、それをきっかけにして他者に話しかけることはできそうな気がする。
なぜ、それをしないのかと言えば、やはり、それは体力や時間という制約があるからなのだろう。

たくさんの他者に幅広く声をかける労力はかけたくないし、そのなかから話しかける理由がある人を探し出す労力もかけたくない。
そんな怠惰さこそが、他者に話しかけない根源的な理由なのだろう。
「儀礼的無関心」という言葉からは、恥じらいとか、慎ましさとかといったことが理由のようにも感じるかもしれないけれど、要は怠惰なのだ。

この怠惰さとは、できるだけ、これまで通りに変化なく過ごしたい、何も選択肢は与えられずに、自動的に過去と同じように未来を過ごしたい、という気持ちだ。未来に波風を立てるような選択肢の存在になど目を向けたくない。何をもたらすかわからない他者にあえて出会うなどという選択肢には気づきたくもない。
「儀礼的無関心」という名の怠惰さのために、僕達はかなり無理をしている。満員電車を思い出せばわかるだろう。体が密着するほどの距離に言葉が通じる他者がいるにも関わらず、そこに意識を向けない。これはよく考えれば異常な状況だ。普通に考えれば、もう出会ってしまっている距離だ。しかし、それでもなお、かなりの無理をして出会いを避けている。出会いなんてなかったことにしている。

そして、この怠惰さとは、やむを得ず他者と出会ってしまったなら、なんとかそれ以上に関係を深めない選択肢を選ぶということでもある。
無理を重ねても、細心の注意を払っても、他者と出会ってしまうことはある。これは、あれほど忌み嫌っていた未来への選択肢が手元に押し付けられることでもある。この他者との出会いをどのようなものとするか、未来を選択すべき立場に追いやられてしまったということなのだ。
人が少ないカフェを想像すればいい。僕は一人で本を読んでいる。すると、新しい客が入ってきたのか、がらんとした店内に扉を開く音が響く。僕は反射的に顔を上げる。入り口に立ち店内をうかがうように見回す男と目が合う。このとき僕とその新たな客は出会ってしまった。僕が望むと望まざるとに関わらず、そこでは二つの選択肢、つまり話しかけて交流を深めるというカードと、視線を逸らし一人の世界に引き返すという二枚のカードが手元に押し付けられたことになる。こんなとき、僕はたいてい後者を選ぶ。
これが「儀礼的無関心」という名の怠惰さだ。

僕はこの状況を変えたいと思っている。怠惰さに流されるのではなく、人生が与えてくれた出会いのチャンスを活かしたい。
しかし、さすがに満員電車で全員にハグしたいということではない。
今の例でいくなら、満員電車ではともかく空いたカフェでなら、見知らぬ客に、時々、声をかけてみたい。

「満員電車ではともかく空いたカフェでなら。」この例で僕が言わんとするところはだいたい伝わると思うが、人生には色んな出会いの場面があるので、この僕の行動指針について、もう少し汎用性のある整理をしておこう。
満員電車でもカフェでも人との出会いの場面においては、選択肢は二つしかない。交流を打ち切るか、交流を深めるかの二つの道だ。
交流を打ち切るなら、大抵の場合、この本によれば「儀礼的無関心」の重要なプロトコルとされる動作をすればよい。つまり一瞬だけ目を合わせ、その後速やかに目をそらすのだ。この場合、自分への影響はプラスマイナスゼロだ。いや他者と無表情に目を合わせるというのは多少のストレスだから、マイナス1ポイントとしたほうがいいかもしれない。これは満員電車でもカフェでも大きく変わらない。
一方で交流を深める道を進むなら、微笑みかけたり、挨拶をしたりすることになる。どのようなやり方をとるにせよ、こちらの選択肢を選んだ途端、自分への影響の不確定さは急激に高まる。うまく展開した場合には、お互いに微笑み合ってちょっとほっこりした気分になれる、といった程度から、話が盛り上がり生涯のビジネスパートナーとなる可能性までありうる。プラス5ポイントからプラス100ポイントといったところだろうか。悪く展開した場合には、微笑みを無視されるといった程度から因縁をつけられ金を揺すられるといった可能性までありうる。これもマイナス5ポイントからマイナス100ポイントといったところだろうか。
いつもの「儀礼的無関心」戦法をとれば確実にマイナス1ポイントで済んだのに、「がんがん交流しようぜ!」戦法をとった途端にプラス100ポイントからマイナス100ポイントというリスキーな世界に投げ込まれることになる。これなら「儀礼的無関心」でいいや、となる。
いや、少し待って欲しい。詐欺師は向こうから声をかけてくるものだ。こちらから声をかけたら偶然にも悪人という確率はそれほど高くない。それにどれだけ深く交流するかはこちらがコントロールできる。たまたまの出会いがきっかけで金を揺すられるなんて事態は意識すればかなり避けられそうだ。それならば、他者との交流を積極的に図った場合の最もありそうな嫌な展開は、微笑みかけたのに無視された、という程度のものだろう。
それに比べて、交流を図った場合、それが生涯のビジネスパートナーとまではならなくても、楽しい話を数分交わすくらいの関係を築ける可能性は高い。
相手と場所をうまく選べば「がんがん交流しようぜ!」戦法にメリットを見いだせる場面は、結構ありそうだ。満員電車のきれいなお姉さん相手ではかなり難しくても(悲しいけれどナンパや痴漢になっちゃう)、近所のカフェの暇そうなおじいさんならいい展開を期待してもいい気がする。

まとめると僕の行動指針はこうなる。
僕は見知らぬ人ともう少し出会えるよう心がけたい。
ただし、それは無差別攻撃ではなく、場面に応じて、交流が良い結果をもたらす可能性が十分に高いと予想できた時に限ってだ。

なぜこんな当たり前な整理をしたのかというと、確かこの本にも書かれていたが、人は、ポジティブなことが起こる可能性を捨ててでもネガティブなことが起きることだけは避けたいという性向があるからだ。
ここまでの例でいくなら、微笑みかけたのに無視をされるかもしれないとか、話しかけても話が盛り上がらず気まずい思いをするかもしれないとか、そういった些細なネガティブな展開を避けたいあまり、見知らぬ人とのちょっとしたほっこりした交流の喜びや、さらには予想外の素晴らしい出会いが生まれる可能性をまるごと捨ててしまうという性向が人にはあるからだ。
こういう性向にとらわれて、不合理な損得計算はしないよう、心に留めておきたい。

他者との交流の第一歩を踏み出すためにまず必要なのはこのような心がけだろうが、よりうまくやるためには、ある程度の肉体的余裕、精神的余裕、時間的余裕といったものが必要だろう。
なぜなら、うまく交流するにはある種のテクニック、例えば、うまくいきそうな相手をみつける選球眼や気の利いた第一声のノウハウ、万が一、近寄るべきでない種類の人間に声をかけてしまった場合に早めに撤退する判断力などというのも必要となるが、これらを手っ取り早く身につける方法は、経験を積むことだからだ。場数をこなすだけの肉体的余裕、精神的余裕、時間的余裕が重要だ。
このうちの時間的余裕については、それを保持できるかどうかは運まかせと言ってよいかもしれない。トイレに急いでいるとき、見知らぬ人に微笑む余裕はないだろう。
また肉体的余裕についても自分の努力だけではどうしようもないかもしれない。徹夜続きで眠い時に、あえて他者に声をかけるのは無理だろう。
しかし、精神的余裕(気力と言ってもいい)のほうはやりようがある。なぜなら気の持ちようだからだ。そして他者に声をかけるその行為こそが気力の充実につながりうるからだ。

どういうことか。
気力が減少しているならば、それは大抵が過去に嫌な出来事があったからだ。それも大抵が人間にまつわる嫌な出来事だ。誰かから嫌な思いをさせられたり、誰かに嫌な思いをさせたり、自分で自分自身に嫌な思いをさせたり。少なくとも僕は、そういったことで気力を消耗する。
それならば、過去にあった人間に関する嫌な出来事を、人間に関するいい出来事で上書きすることができるのではないか。他者に声をかけるというのは、あまりにも些細な成功体験だけど、僕の勇気で他者や自分自身を少しでもハッピーにできたと思えたら、過去の嫌な出来事は多少なりとも色褪せるのではないか。声をかけるという極めて人間的な行為により、人間関係の苦しみを多少は上書きし、少しは気力を回復できるのではないか。
僕はそう思うのだ。

以上がこの本を読んで考えたことだ。僕はこんなことを考え、少し積極的になってみよう、と決心した訳だけど、実はカフェで声をかけるなんていうのは当分実行する気もない。
なぜなら、もっといいことを思いついたからだ。
まずは、昔出会ったけど疎遠になった人に声をかけてみよう。高校時代の友人。大学時代の知人たち。これなら無視されるようなリスクも負わずに済む。僕の時間的余裕や体力的余裕は、まずは、そういう人たちにこそ使うべきではないだろうか。
そして実際にこの正月に少しだけ実行に移した。数人と連絡をとり後日会う約束をした。この本が旧友とつながろうとする僕の背中を押してくれた。ありがとう!

(この本は誰かにあげようと思う。もらってくれた誰かを通じて、この本の魅力が広まるかもしれないし、広まらないかもしれないから。そんな偶然を楽しむことこそが、この本の意図のように思えるのだ。)

3泊4日横浜の旅

正月早々インフルエンザにかかり、センター試験を控える受験生の娘から自主的に隔離するため、近所のホテルに3泊もしてしまった。悲しい3泊4日の旅だ。約2万円というホテル代も痛いが、せっかくの三連休を費やしたのも痛い。
この損失をすこしでも取り戻すため、今回の旅の意義について、考察してみることにする。

この旅は何だったのか。
このことを考えるためには、3泊4日の本当の旅、例えばタイ旅行と比べてみるといいかもしれない。
旅の大きな動機は、まずは、そこでしかできない体験がしたい、ということにあるだろう。タイならば、きれいなビーチを眺めたり、おいしいレストランに行ったり、ゾウに乗ったり。タイに行けばそのような特別な体験ができる。けれど、残念ながら、地元から数駅という今回の旅行では、そのような体験のチャンスはなかった。
また、僕が特に重視する旅の醍醐味として、旅先での人との出会いがある。外国では日本人同士というだけで話しかけることができるし、旅行者というだけでサワッディーなどと適当な片言で地元の人に声をかけることもできる。旅先では見知らぬ人との距離を狭められる。だけど、インフルエンザのため外出もままならない状況ではそのような楽しみは見いだせなかった。
今回の旅行が残念だった理由は、このあたりにあるのだろう。
あまり、こういう旅をした人はいないと思うが、あえて言えば、出張に似ている。それも、出張慣れした人がよく行く出張先に惰性で一人で行くようなケースに似ているかもしれない。ただし、仕事すらない出張だけど。

しかし、旅の醍醐味にはもう一つ、「何もしない」という醍醐味もある。日常の雑事から離れるという、いわば引き算の醍醐味だ。これだけは、この旅でもあったように思う。
今回とことん味わった「何もしない」は、なかなかに奥深い。ここからはこの「何もしない」について考察することにする。
思うに、今回の旅は、旅として最悪のものだったからこそ、いわば思考実験のような働きをしてくれたのかもしれない。そこから旅の本質が垣間見えたのかもしれない。

・・・

何もしなかったという点では、この旅は徹底していた。とことん何もしなかった。能動的に何かをする、ということが皆無だった。
まずは体調が悪かったから生理的欲求が薄かった。食欲はなかったし、性的な妄想をする気も起きなかった。
また、旅ならではの特別な体験や人とのつながりなんて積極的に求めようがなかった。コンビニに行くだけで感染させてしまうのでは、と罪悪感があるのに、人と接して何かするなんてとんでもない。
だから何かをするにしても一人でできることに限られる。幸い、僕はヨガとか哲学とか、一人でやることが好きなのだけど、今回は、発熱当初はそもそも体を動かせなかったし、少し回復したのをいいことにストレッチらしきことをしただけで体温が上がってしまった。哲学的思索についても、正直、頭が回らなかった。今回の旅は能動的に何かをしようにも八方塞がりだった。

これは、僕にとってかなり特殊な状況だった。全く身動きができず、全く頭が回らないというほど最悪な状況ではないが、ほとんど能動的になにもできない状況。こういう中途半端な状態が数日続くというのは、多分、数年前に手術で入院して以来だ。いや、あのときだって、体力回復のため深呼吸のトレーニングをしたり、歩いたりしていた。

中途半端な状況に長期間置かれてわかったことがある。

「僕は、何もしなくても、なんとか過ごすことができる。」

中途半端のなかにも波はある。ひどい寒気がして何も考えられずうずくまってしまうときもあった。しかし、たいていのときはテレビやスマホを見たり、漫画を読んだりして過ごすことができた。荷物を片付けなければ、とか、友達に連絡をとらなければ、なんて思いつつも、時間が有り余っているので後回しにしてだらだら過ごすことができた。
なるべく自分からは物事を進めない。部屋に備え付けのテレビ、手元のスマホ、買ってきて転がしておいた漫画、そういった周囲の環境に反応するように過ごす。やるべきことも先延ばしにしてただ怠惰に過ごす。かなりの時間こんなふうに過ごすことができた。
こんな過ごし方のことを「怠惰で反応的」な生活と呼ぶことにしたい。

なぜこんな名前をつけるかと言えば、この「怠惰で反応的」というのは、実は日頃からよくあることだからだ。今回のように、数日間連続というのはなかなかないにせよ、会社から疲れて帰ってきた夜の1、2時間、家の掃除を終えた土曜の午後、というように。
日常に顔を出す「怠惰で反応的」な状況は名付けて考察に値する。

そんな「怠惰で反応的」な状況をこれほど味わい観察できたのは、貴重な経験だった。
これを今回の旅の収穫としたい。

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ということで「怠惰で反応的」について少し考えてみたい。
これは、最悪ではないが最高ではない、中途半端な状況だ。「怠惰で反応的」を一つの段階とするならば、その上にはより良い段階があり、その下にはより悪い段階がある。
僕の実感からすると、この中間的な「怠惰で反応的」な段階の上下にそれぞれ2段階があり、合計で5つの段階があるように思う。

悪い方の段階から具体的に列挙しよう。
僕が体験したことのある最悪の状況は手術直後のICUでのものだ。手術後の傷や体に取り付けられた器具による不快感に包まれているのに身動きもできず、ただ叫ぶしかないような状況だ。近くにテレビがあっても見ることもできない。
更にはこの下に実際に叫ぶことすらできない状況もあるのだろうが、そこまで細分化はせず、これを最悪な状況、最悪の段階の第5段階とする。

今回はこれほどのことはなく、味わったのは次の第4段階だ。寒かったり、暑かったり、喉が痛かったりといった不快感から体と思考を落ち着けることができないような状況だ。テレビなど見る余裕もないことでは最悪の第5段階と変わらないが、少し違うのは、無駄なあがきではあっても、とりあえずは体を動かして、不快感から脱しようと試みることができるという点にある。あがいた結果が出るまでは未来を期待することができる。

この次に「怠惰で反応的」な段階がくる。不快感を忘れることはできるが、忘れるためには自己の内面に留まることはできず、周囲の環境に流され反応的に行動するしかないような状況だ。不快感と一緒に自己の内面を封印するような状況と言ってもよい。これを第3段階とする。

逆に良い方の段階としては、今、この文章を書いているときのような状況がある。身体や思考を縛る不快感や不都合がないような状況だ。これを第2段階とする。しっかり自分の内面と向かい合い、自分自身が本当に欲することのために能動的に行動できる状況だ。

これが、最高の段階のようにも思えるが、特にこうして文章を書いているともう一つ上の段階があると感じる。文章表現においてならば、思いもしなかったアイディアや表現を生み出すことができるときだ。いわゆるノッているときと言ってもよい。多分、サッカー選手なら想像以上の動きでゴールを決めたような瞬間だろう。とてもありきたりの表現ならば、身体や思考の調子がとても良い状況と言ってもよいかもしれない。これが最上の段階、第1段階だ。

こうして5段階に整理してみると、「怠惰で反応的」な第3段階というのは特別な位置にあると感じる。
最悪のとき、例えばICUに居るときでも、この中間段階のときはわずかにでもあった。看護師さんが手元に持ってきてくれた新聞に目を通したようなときだ。それが癒やしとなった。
また最良のとき、例えば頭が冴える日曜の午前中に何の邪魔もなく文章を書いているときでも、疲れたり、気を抜けば、この中間段階に転落する。それは休息が必要というサインでもある。
先程、悪い方から順番に各段階について説明するなかで、第3段階について、「不快感を忘れることはできるが、忘れるためには自己の内面に留まることはできず、環境に流され反応的に行動するしかないような状況」「不快感と一緒に自己の内面を封印するような状況」とした。
しかし、これはあくまで悪い状況のなかから第3段階に上がったところを描写したものだ。逆に良い状況から第3段階に落ちたとするなら「集中力が途切れ、自己の内面に向き合い続けることができず、環境に流され反応的に行動するしかないような状況」というような描写となるだろう。
「怠惰で反応的」な第3段階に至る道には、下から上がりたどり着く不快感を忘れるという道筋と、上から降りてたどりつく集中力が途切れてやむを得ずという道筋の二つの道筋があるのだ。

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どうして、こうなるのか。
それは多分、人がやることには、①やりたくないがやらざるをえないこと、②やりたいこと、③なんとなくやってしまうこと、の3つがあるからではないだろうか。
先ほどの第5段階と第4段階は「①やりたくないがやらざるをえないこと」をやっている段階だ。ICUで苦しむなんてことはやりたくもないが、苦しまざるをえない。
一方で、第2段階と第1段階は「②やりたいこと」をやっている段階だ。僕にとって文章を書くというのは、やりたくてやっていることなのだから当然だろう。(夏休みの読書感想文なら、やらざるをえないことになるけど・・・)
そして、「怠惰で反応的」な第3段階でやっていることこそが、「③なんとなくやってしまうこと」なのではないか。ぼーっと昼のワイドショーを観るなんてことはやりたいことではない。またやりたくないことですらない。なんとなくテレビの電源を入れるまでは意識すらしていなかったことだ。心の隙間になんとなく入り込んできた事柄だ。
やりたいことをしている領域と、やりたくないことをしている領域の間には、茫漠としたどうでもいいことをしている領域がある。

だから、「怠惰で反応的」に対比されるべきは、創造的な知的活動や、苦痛に苦しみのたうち回っている状況ではない。
あえて対比するならば、それは何もしないという過ごし方であるべきだ。
座禅を組み瞑想しているとき、それは何もしていない。これこそが「怠惰で反応的」な生活と対比されるべきものだ。これを第3b段階としよう。「怠惰で反応的」な段階は第3a段階と名付け直す。
第3a段階と第3b段階は、やりたくないがやらざるをえないことも、やりたいこともないという点で共通している。何もすることはないのだ。そこで留まり、何もしないままでいられれば、それが第3b段階となり、それに耐えられず、テレビの電源を入れてしまえば、それが第3a段階となる。
「怠惰で反応的」な第3a段階と「瞑想的」な第3b段階は紙一重なのだ。

そして、この第3段階をどのように過ごすかは大きな意味を持つ。
なぜなら、調子よく第1、第2段階を過ごしていても疲れて一息つくときには第3段階に降りてくることになるし、苦しい第4、第5段階を過ごしていても時々は第3段階に逃れられるチャンスがある。
良いときにも悪いときにも必ず第3段階は訪れる。そんなときどのように過ごすかで、今後の展開が変わってくると思うのだ。
多分、第3段階以外にいるとき、それが良い状況でも悪い状況でも、人は自分をコントロールすることができない。人はやりたいことや、やらざるを得ないこと、その事柄に支配されている。
第3段階にいるときだけ、人は事柄の支配から逃れることができる。それなのに、あえて「怠惰で反応的」な過ごし方を選んでしまったらもったいない。
せっかく革命が成功し、自分の国を治める国王を追い出したのに、そこに昼のワイドショーのような僭主を招き入れてしまったらもったいない。僕はそう思うのだ。
第3段階をどのように過ごすのか、ここにこそ人間の自由がある。

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この第3段階は、呼吸になぞらえることもできる。
やりたいことをしたり、やらざるを得ないことをしているとき、それは息を吸っているようなものだ。「自分が」やりたいこと、「自分が」やらざるを得ないこと、「自分」に力が向かっている。自分の内に力が注ぎ込まれている。これが、第1・2、4・5段階。つまり第3段階以外にあたる。
しかし、息を吸ってばかりはいられないから、息は吐かなければならない。「自分」から力を手放さなければならない。これが第3段階にあたる。
これが、調子がよいときにも第3段階は訪れ、調子が悪いときにも第3段階は訪れるということの一つの説明でもある。

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徐々に回復し、できることが増えてきて、今はこうして文章を書いたりしている。
だけど、僕は怠惰で反応的な生き方の魔力の余韻を感じる。
食欲も回復してきた。だけど、それが面倒くさくも思う。本当は、健康を維持するために必要な適切なものを食べられればよいのではないか。味だって、まあ、ひどく不味くなければいいのかもしれない。というか、食べずに生きていけるなら、それでよいのかもしれない。
性的なことだって、それほど人生の一大事というように求めるほどのものなのか。
人間関係だって、どれほど大事なのか。僕が生きていく原動力の少なくともある一部は、家族が居ることに拠っているように思う。だけど、多分、家族を持たない人だって生きている。それなら家族というのは必須のものではないのかもしれない。現に、当然ながら、皆、僕と会わなくてもそれなりの日常を過ごしているはずだ。
ヨガや哲学だって、どこまで必要かなんて怪しい。
ただ、怠惰に反応的に過ごしても生きていけるのではないか。そんな気分になる。