月別アーカイブ: 2019年6月

失敗について

僕は時々、過去のちょっとした失言などを思い出して、ヴァー!!って叫びたくなることがある。
会社からの帰り道など、ふとしたときに、唐突に数年前の失敗を思い出す。
言わなくてもいいことを言ってしまったことや、適切ではない言い方で言ってしまったことや、ちょっとした嘘をついてしまったことなどを思い出す。
全く関係ないタイミングで、唐突に。
そんなとき、僕は衝動的に、とにかく深く、強く息を吐き出したくなる。
流石にヴァー!!とは言わないが、周りに人がいなければ、ちょっと大きめにため息をついたり、周りに人がいれば、咳払いをしたりしてごまかす。
(わかってくれる人も多いのではないかと期待して書いてます。)
こんなとき、僕は、僕の存在を全否定して、消えてなくなりたくなる。
これは論理的に考えた結果としてではなく、衝動的に、そんな気分になる。
だから「そんな昔のちょっとした失敗なんて、もう誰も気にしてないよ。」という慰めは言われなくてもよくわかっている。
もし誰かに気づかれて、声をかけられたら、数十秒、長くても2、3分くらい、この気持ちに付き合ったら回復するから大丈夫だよ、と返事をするだろう。
今まで気づかれたことはないけど。

多分、このようなことが起きるのは、僕が、その過去をきちんと処理しきれていないからなんだろう。
何かを失敗したとき、仕方ないよ、忘れるしかないよ、と自分の胸の深くにしまっておく、という解決策をとる。
当然、きちんと謝ったり、挽回しようと努力したり、といったこともする。
だが、たとえ失敗を謝罪して許されたとしても、なんであんなことを言っちゃったんだろう、という自己嫌悪みたいなものは残る。
その気持ちは、もうどうしようもないから、自分の中に収めておくしかない。
そんな失敗たちが、僕の心の奥底にマグマのように溜まっていて、時々、噴き出すのだろう。
それは、失敗というものが生じる限り、仕方のないことなのではないか。そう思って過ごしてきた。

さて、なんで、こんな文章を書いているのかと言うと、僕は、うまい対処方法を思いついたからだ。
それも、マグマの噴出を抑える、というような対症療法ではなく、根治療法だ。
「そもそも、失敗なんていうものはない。」というアイディアだ。
失敗の反対には、成功がある。失敗とは、ある行動を、失敗と成功に二分した場合の、悪い方のことだ。
だが、そもそも成功と失敗を二分する考え方がおかしいのではないか。

僕は今、コリングウッドという哲学者の本を何冊か読んでいる。
僕の理解では、彼は、物事とは抽象的に区分されるのではなく連続していると考えている。
美術は宗教につながり、宗教は科学につながり、科学は歴史につながり、歴史は哲学につながる、というように。
真偽の区分についても同様で、世の中には色々な哲学があるが、完全に間違えている哲学というものはなく、どこか、真なるものを含んでいる、としている。
そして、それらは、弁証法的に動的に連続していると考えている。
美術から段階を経て哲学に至り、間違いの多い荒っぽい哲学から間違いの少ない精緻な哲学に至る、というように。

このアイディアの哲学的意義は改めて考えたいが、その前に実生活でかなり使えるのではないか、と思いついた。
先ほどの話に戻ると、コリングウッド的に言えば、僕の過去の行動は完全に間違えてもいないし、完全に正しくもない。
僕のどうでもいい嘘は、本当はそうすべきだった正しい発言と、弁証法的に連続してつながっている。
僕の嘘は確かに駄目だ。だけど、そのなかには少しは正しさが含まれている。そこに正しさがあるからこそ、僕はそうしたのだ。
自分を守りたいというような、程度の低い正当性であっても、そこには正しさがあるから、僕は嘘をついた。
そのことは尊重して、大切にしてあげてもいい。
僕は嘘をついた僕自身にこんなふうに語りかけてもいいのではないか。
「その行為はちょっとは正しかったよ。だけど正しさが足りなかったから、次はもっと正しくなろうね。」
嘘をついた過去の僕は、未来の正直な僕に弁証法的につながっている。
そう思うことで、過去の行為をそのままに受け止め、過去の自分を肯定してあげることができる。
「わかるよ、仕方なかったんだよね。」と過去の自分の頭をなでてあげることができる。

僕が会社帰りに、踏切を待ちながら、過去についた嘘を思い出して叫びたくなるのは、嘘をついたからではなくて、嘘をつかざるを得なかった自分のことを否定し、心の奥にしまったままにしているからかもしれない。
僕はもう少し過去を解き放ち、未来に活かしてあげたいと思う。それが、弁証法的な生き方ということなのだろう。

芸術について

解散してしまったミドリというバンドの元ボーカルである後藤まりこのライブを観た。叫んだり、暴れたりしているだけのように見えて、それだけでもないような。とにかく圧倒的だった。

圧倒的な暴力性と否定に満ちた世界。
そういう体験は銀杏ボーイズなどで何度かあるけれど、久しぶりだった。小さいライブハウスだったからということもあるけれど、ライブの間、僕は彼女と目が合うのが怖かった。
僕は彼女を見ていたけれど、逆に僕が彼女に見つめ返されるようなことが起こらないでほしいと思っていた。僕は音楽にのり、体を動かしつつも、僕の心は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。動いたら何が起こってしまうのか不安で仕方なかった。

そこにあるのは強烈な一方向性だった。彼女から僕への一方通行の関係性。僕は完全に受け手だった。僕から彼女に何かを発するなんていうことは許されない。そんな気分だった。
これは、双方向性の否定と言ってもよいだろう。
僕が彼女のパフォーマンスに感じたある種のネガティブさは、この否定の力だったのだろう。

そこで僕が見たのは、いわゆる対話というものの一部を切り取り、不自然なほどに誇張した戯画だったのかもしれない。
通常、人間関係には双方向性がある。AさんとBさんが同じ場に居合わせたなら、どんな微かなものであっても、そこには、AさんからBさんへの影響とBさんからAさんへの影響の両方がある。
それを言葉の次元で表現するなら、AさんからBさんに語りかけ、BさんがAさんに応答する、という対話がある、と言ってもよい。たとえ言葉は発せられず、眼差しの交錯だけだったとしても。
そのうち、AさんからBさんに向けたベクトルだけを切り取ったのが、この場だったのではないか。Aさんが後藤まりこで、Bさんが僕だ。

対話というものについて興味がある僕としては、この不完全な片肺飛行とも言える対話の場に立ち会えたことは幸運だったと思う。

この奇妙な対話のサンプルは、僕を完全な対話の受け手の立場に置き、対話の受け手であるということがどういうことなのか、体でわからせてくれた。

思うに、受け手にとって、対話とは刺激そのものだ。
対話において、受け手は一方的に刺激を与えられる。その刺激により受け手の中に何かが芽生える。その芽生える何かを求めて、受け手は受け手としてあろうとするのではないか。

それでは、話し手は、対話において何を求めて話し手であろうとするのか。
それは伝達なのだろう。「私が抱えているこれが伝わってほしい。」そう思って人は伝達を行うのではないか。
対話とは、話し手Aが受け手Bに語りかけるとき、話し手Aにとっては伝達であり、受け手Bにとっては刺激なのだ。
そして、後藤まりこと僕の間ではそうならなかったけど、通常の対話では、次のステップでは、話し手Aと受け手Bの立場が入れ替わり、話し手Bが受け手Aに対して語りかけることとなる。
ここでのBの立場に注目するなら、受け手であるBに与えられた刺激は、次のステップではBを話し手にして、芽生えた何かを伝達しようとさせる。対話における刺激とは、受け手に話し手として伝達を行うことを促すものなのだ。

極めて簡単な説明で申し訳ないが、対話とは、話し手にとっての伝達、そして受け手にとっての刺激ということを認めていただいたとしよう。
それならば、対話ではない、つまり非対話であるとはどういうことだろうか。

話し手にとっての非対話とは、暴力のことだろう。
非対話であるということは、話し手は伝達を諦め、相手に言葉をかけること(これには身体的なメッセージを含む)を諦めなければならない。それでも、何らかの話し手性、つまり、相手に向かってのベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは暴力となるに違いない。

受け手にとっての非対話とは、無視のことだろう。
非対話であるということは、受け手は刺激を受けることを拒否しなければならない。それでも、何らかの受け手性、つまり相手から向けられるというベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは無視となるだろう。話しかけられていることに気付きつつ、それを無視するということが、受け手にとっての非対話にふさわしい。

では、非対話に陥る事態を避け、対話を成立させるにはどうすればいいのか。
まず、話し手は何かを伝達しようとするならば、受け手が許容できる程度の刺激に留まるよう努めなければならない。それは、いきなり叫んだり、意味不明な踊りを踊ったりするようなものではあってはならないし、また、話す内容も飛躍が大きくなりすぎないようにしなければならない。
また、受け手も話し手の伝達が成立するように努め、相手の言葉を傾聴する心構えをとらなければならないだろう。

だが、今述べたことは確かにそのとおりなのだが、どこか物足りない。
そんな去勢された振る舞いが本当に対話なのだろうか。
後藤まりこがあの日伝えたかったことは、受け手がそう簡単に刺激として受け止められるようなものではなく、そもそも伝達などという言葉でまとめたくないものだったのではないか。それは暴力という言葉のほうがふさわしい。
そして、この僕が受け取ったものも、単に刺激などという言葉で表現できるようなものではなく、どちらかというと、無視してでも拒否したかったのに、それでも受け取ってしまったとしか言いようがないものだったのではないか。そのときの僕の態度は傾聴というよりは無視と表現したほうがふさわしい。
本当の対話とは、暴力と無視に満ちた非対話的なものなのではないか。

確かにあの日、後藤まりこは歌い、踊っていた。傍目には叫び、暴れているようにしか見えなかったけれど。そして、僕も拳を振り上げ、踊っていた。ただ怖いもの見たさで立ちすくんでいただけなのに。
それこそが本当の対話であり、芸術というもののあり方のようにも思う。

(この文章で、最後に芸術に触れているのは、荒々しいタッチで描かれた、およそ装飾には向いていない絵こそが芸術であり、どちらかというと陳腐で芸術性に劣る絵こそが装飾に向いているのはどうしてだろう、という問題意識と重ね合わせていたからです。僕はドライブでは後藤まりこは流さないし、部屋には装飾的な絵を飾りたいです。)

自然科学の言葉を用いた詩

これから僕は、自然科学を全く科学的ではないかたちで用いて、言葉を紡いでいく。
これは、自然科学の言葉を用いた詩だと言ってもよいだろう。

なお、僕は、詩があまり好きではない。
たいていの詩は、焦点がぼやけ、何を伝えようとしているのかよくわからないからだ。
残念ながら、この特徴は、この詩も有している。

詩が、なぜこのような特徴を有しているのかと言えば、詩というものは、明確に何かを伝えようとするものではないからなのだろう。
ただし、それは、伝える意思の欠如ではなく、伝えようとする事柄についての詩人自身の知識の欠如による。
詩人は伝えたい。しかし、伝えたい何を明確に捉えられていないのだ。
そのような意味で詩とは、思考の途中経過としての暫定的な記録である。
将来の自分自身に対してのメモであり、描こうとしている作品のためのデッサンであり、思考の方向を定めるための観測気球のようなものだと言ってもよい。

また、だから詩は、とても不明瞭なかたちで真理という目的地に到達しているとは言える。
少なくとも到達しているような気にさせるし、真理に到達していないことがわかるということ自体が真理へ道のひとつなのだとすれば、そういうことも込みで、真理に到達している。

だけど、僕は、そして全ての哲学者は、それでは満足できない。だから精緻な思考により到達地点までの道のりを、より高い解像度で描こうとする。
それが哲学だ。
しかし、時々は、哲学から離れ、詩というかたちで全体像を荒々しく掴み取ることも必要だろう。
そして、本来は自分自身のためのメモに過ぎないものを、こうして公開することで、何か役立つこともあるかもしれない。

・・・

多元宇宙論によれば、世界全体は11の次元でできているという。
そして、この世界は11次元の世界に漂う、2次元だか3次元だかの膜であるそうだ。

ここで、「世界全体」と「この世界」という表現をしたが、「世界」については、まさに「この世界」と、この世界が所属する、より上位の「世界全体」という二通りの使い方ができる。
それを理解するためには、哲学的には、デイヴィッド・ルイスの可能世界論をイメージすればよいだろう。
可能世界論によれば、この現実世界とは別に数多くの可能世界があるとされる。
この世界は、安倍晋三が総理大臣であることが現実である世界だが、それとは別に、枝野幸男が総理大臣であることが現実である可能世界がありえる。
可能世界論とは、そのような可能世界は単なる想像上のものではなく、可能世界として存在する、という考え方だ。
この現実世界とは別に、枝野幸男が総理大臣である世界や、アメリカがコロンビアと呼ばれている世界や、ネコよりブタがメジャーなペットになっている可能世界が存在する。
大世界(この意味での世界を大世界と呼ぶことにとする)には、この現実世界と無数の可能世界が存在するのだ。

しかし、重要な点だが、無数とは言っても、可能世界の数は、無限ではなく有限の数にとどまる。
可能世界の分岐は、物事があるところで生じる。目の前にコップがあるならば、そこに代わりにペンがある世界や、コップもペンもない可能世界が立ち上がる。
しかし、何も着眼点がないところに分岐は生じない。
コップについて、人が認識できないほど微小な距離、例えば1ミクロンずれた場所に置かれていると想定することに意味を持たせることはできない。
また、ありうる可能性についても限定される。
コップの代わりに例えばそこに優しさがあるというように異なるカテゴリーの事柄が置かれていることはありえない。
このように考えると、想定できる可能世界は非常に多数に及ぶが、その想定には限界があり、人間の思考がその限界にたどり着けるかどうかは別として、有限の数に留まることは確かだ。

大世界には、この現実世界も含めて、極めて多数だが有限の数の可能世界が存在する。
これを、多元宇宙論における並行世界と考えてもよいだろう。
可能世界論における可能世界は、物理的には11次元の宇宙(この宇宙は大世界と読み替えることができる)における別の膜としての並行世界として存在するということだ。

これを、インフレーション宇宙論と重ねることもできる。
インフレーション宇宙論とは、この宇宙はビッグバンから始まったとされるが、それと同じことが、この宇宙のそこかしこで、1プランク長の微小な点を起点に発生しているとする考え方だ。
この宇宙は、この宇宙から生まれる子宇宙にとっては、ビッグバンが生じる前の親宇宙であるということだ。
これは、この僕をとりまく現実世界の一点一点、その全てが、それぞれ、宇宙を潜在的に宿しているということだと言ってもよい。

この宇宙を宿す潜在性を可能世界とつなげることができる。
この世界においては、インフレーション宇宙としての可能世界の生成がひっきりなしに行われている。
コップが置かれるとき、コップが置かれない可能世界が生成され、安倍晋三が総理大臣に選ばれるとき、枝野幸男が総理大臣に選ばれる世界が生成されるというように。
これは、比喩ではなく、実際に可能世界、つまり別の宇宙を生んでいるのだ。

これを、人の営みに重ねるならば、全ての営まれたことの総体がこの現実世界となり、営まれなかったことは全て別様の可能世界として生成される、と言ってよい。
僕の独我論的な世界把握に重ねるならば、全ての認識の総体がこの現実世界となり、別様の認識の可能性が可能世界となる、とさえ言うことができる。
または、僕が自分の人生について語ったことがこの現実世界となり、語られなかったことが可能世界となる、でもよい。
どのような述べ方でもよいが、僕の現実の人生は、可能世界としての宇宙の生成に取り囲まれている。

そういう意味で、この現実世界は、11次元の宇宙、つまり大世界において、僕の選択というかたちで切り取られた膜のようなものだ。
そして、その周囲には、無数の可能世界としての膜が漂っている。
現実世界の近くには、より可能性が高い可能世界が、遠くには、より可能性が低い可能世界が、というかたちで。

ただし、この膜は、いわゆる膜のようなかたちはしていないだろう。
僕は、それは歌のようなものだと思う。
(確か、この膜を音楽に例える本があったが、そうではなく、僕はあくまで歌に例える。)
歌は呼吸が生み出す。身体の根源的な動作としての呼吸が、僕の生を生み出し、この現実世界を生み出しているのではないか。

息を吸うとき、僕は潜在を見通す。そして、息を吐くとき、僕は、そのなかからたったひとつの潜在を選択し、顕在化させる。
深く呼吸をすればするほど、僕はより広い潜在のなかからひとつの潜在を選び、そしてその潜在をより深く顕在化させることができる。
それが、瞑想やヨガということなのではないか。