解散してしまったミドリというバンドの元ボーカルである後藤まりこのライブを観た。叫んだり、暴れたりしているだけのように見えて、それだけでもないような。とにかく圧倒的だった。

圧倒的な暴力性と否定に満ちた世界。
そういう体験は銀杏ボーイズなどで何度かあるけれど、久しぶりだった。小さいライブハウスだったからということもあるけれど、ライブの間、僕は彼女と目が合うのが怖かった。
僕は彼女を見ていたけれど、逆に僕が彼女に見つめ返されるようなことが起こらないでほしいと思っていた。僕は音楽にのり、体を動かしつつも、僕の心は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。動いたら何が起こってしまうのか不安で仕方なかった。

そこにあるのは強烈な一方向性だった。彼女から僕への一方通行の関係性。僕は完全に受け手だった。僕から彼女に何かを発するなんていうことは許されない。そんな気分だった。
これは、双方向性の否定と言ってもよいだろう。
僕が彼女のパフォーマンスに感じたある種のネガティブさは、この否定の力だったのだろう。

そこで僕が見たのは、いわゆる対話というものの一部を切り取り、不自然なほどに誇張した戯画だったのかもしれない。
通常、人間関係には双方向性がある。AさんとBさんが同じ場に居合わせたなら、どんな微かなものであっても、そこには、AさんからBさんへの影響とBさんからAさんへの影響の両方がある。
それを言葉の次元で表現するなら、AさんからBさんに語りかけ、BさんがAさんに応答する、という対話がある、と言ってもよい。たとえ言葉は発せられず、眼差しの交錯だけだったとしても。
そのうち、AさんからBさんに向けたベクトルだけを切り取ったのが、この場だったのではないか。Aさんが後藤まりこで、Bさんが僕だ。

対話というものについて興味がある僕としては、この不完全な片肺飛行とも言える対話の場に立ち会えたことは幸運だったと思う。

この奇妙な対話のサンプルは、僕を完全な対話の受け手の立場に置き、対話の受け手であるということがどういうことなのか、体でわからせてくれた。

思うに、受け手にとって、対話とは刺激そのものだ。
対話において、受け手は一方的に刺激を与えられる。その刺激により受け手の中に何かが芽生える。その芽生える何かを求めて、受け手は受け手としてあろうとするのではないか。

それでは、話し手は、対話において何を求めて話し手であろうとするのか。
それは伝達なのだろう。「私が抱えているこれが伝わってほしい。」そう思って人は伝達を行うのではないか。
対話とは、話し手Aが受け手Bに語りかけるとき、話し手Aにとっては伝達であり、受け手Bにとっては刺激なのだ。
そして、後藤まりこと僕の間ではそうならなかったけど、通常の対話では、次のステップでは、話し手Aと受け手Bの立場が入れ替わり、話し手Bが受け手Aに対して語りかけることとなる。
ここでのBの立場に注目するなら、受け手であるBに与えられた刺激は、次のステップではBを話し手にして、芽生えた何かを伝達しようとさせる。対話における刺激とは、受け手に話し手として伝達を行うことを促すものなのだ。

極めて簡単な説明で申し訳ないが、対話とは、話し手にとっての伝達、そして受け手にとっての刺激ということを認めていただいたとしよう。
それならば、対話ではない、つまり非対話であるとはどういうことだろうか。

話し手にとっての非対話とは、暴力のことだろう。
非対話であるということは、話し手は伝達を諦め、相手に言葉をかけること(これには身体的なメッセージを含む)を諦めなければならない。それでも、何らかの話し手性、つまり、相手に向かってのベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは暴力となるに違いない。

受け手にとっての非対話とは、無視のことだろう。
非対話であるということは、受け手は刺激を受けることを拒否しなければならない。それでも、何らかの受け手性、つまり相手から向けられるというベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは無視となるだろう。話しかけられていることに気付きつつ、それを無視するということが、受け手にとっての非対話にふさわしい。

では、非対話に陥る事態を避け、対話を成立させるにはどうすればいいのか。
まず、話し手は何かを伝達しようとするならば、受け手が許容できる程度の刺激に留まるよう努めなければならない。それは、いきなり叫んだり、意味不明な踊りを踊ったりするようなものではあってはならないし、また、話す内容も飛躍が大きくなりすぎないようにしなければならない。
また、受け手も話し手の伝達が成立するように努め、相手の言葉を傾聴する心構えをとらなければならないだろう。

だが、今述べたことは確かにそのとおりなのだが、どこか物足りない。
そんな去勢された振る舞いが本当に対話なのだろうか。
後藤まりこがあの日伝えたかったことは、受け手がそう簡単に刺激として受け止められるようなものではなく、そもそも伝達などという言葉でまとめたくないものだったのではないか。それは暴力という言葉のほうがふさわしい。
そして、この僕が受け取ったものも、単に刺激などという言葉で表現できるようなものではなく、どちらかというと、無視してでも拒否したかったのに、それでも受け取ってしまったとしか言いようがないものだったのではないか。そのときの僕の態度は傾聴というよりは無視と表現したほうがふさわしい。
本当の対話とは、暴力と無視に満ちた非対話的なものなのではないか。

確かにあの日、後藤まりこは歌い、踊っていた。傍目には叫び、暴れているようにしか見えなかったけれど。そして、僕も拳を振り上げ、踊っていた。ただ怖いもの見たさで立ちすくんでいただけなのに。
それこそが本当の対話であり、芸術というもののあり方のようにも思う。

(この文章で、最後に芸術に触れているのは、荒々しいタッチで描かれた、およそ装飾には向いていない絵こそが芸術であり、どちらかというと陳腐で芸術性に劣る絵こそが装飾に向いているのはどうしてだろう、という問題意識と重ね合わせていたからです。僕はドライブでは後藤まりこは流さないし、部屋には装飾的な絵を飾りたいです。)