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永原真夏さんの歌

昨日、永原真夏さんのライブに行った。SEBASTIAN X 時代に行ったきりだから、7,8年ぶりかもしれない。(対バン?のむぎ(猫)目当てもあったのは内緒。。。)
ひさしぶりに、彼女の力強い声と、跳ね回る姿にパワーをもらった。

そのなかでも、昨日のMCでの彼女の言葉がとてもよかった。
歌い、踊りながら彼女は言った。「みんなも、歌ったりするといいよ!」と。

僕にとっての「歌う」とは、きっと、文章を書くことなのだろう。
僕は、彼女の歌声のような、彼女のステップのような、自由な文章を書きたい。僕は、僕の全存在が震えるような、魂を叩きつけるような、世界をハグするような、文章を書きたい。
というか、書いているつもりだ。
僕は、僕の文章に、愛とか喜びとか暴力とか、そういう僕の命の全てを込めようとしている。

僕が書く文章は哲学的なものだ。だから僕は、僕の文章が、論理的で、冷静なものであるように心がけている。
だけどそうするのは、僕にできて、僕がやりたくて、僕がやることが誰かに望まれている(かもしれない)ことが、たまたま、論理的で冷静な、哲学的文章を書くことだったからに過ぎない。それが僕の「歌う」なのだ。

「歌う」とは、やはり彼女のキーワードである「遊ぶ」に置き換えてもいいだろう。
だから、僕が、僕の文章の中で、誰かの主張を 論理的に論破し、 否定したとしても、それは、その人を否定したり、低く評価したりしている訳では全くない。更に言えば、その人の主張を否定した訳ではないとさえ言えるかもしれない。誰かの主張に注目することは、面白いおもちゃを見つけることに近い。文章のなかで誰かの主張を否定したり、分析したり、ずらして解釈したりするのは、ミニカーを並べたり、粘土をこねまわすことに似ている。怪獣にやられたミニカーをひっくり返したり、粘土をテーブルに叩きつけたりしても、それはミニカーや粘土を否定したことにはならないし、僕が文章のなかで誰かの主張を否定しても、それは誰かの主張を否定したことにはならない。
だから、少なくとも、僕が、僕の文章の中で、僕の主張が論理的に優位に立っていることを明らかにしたとしても、そのことが、「正しさ」のような、客観的に測ることができる価値に結びつくことはない。なぜなら、僕はただ歌っているだけなのだから。

昨日、彼女は、「言葉にしようとすると、どんどん逸れていってしまう気持ちがある。」とも言っていた。その気持ちとは、ステージ上で、まさに彼女が抱えている気持ちのことだ。
その気持ちを言葉にすることはできない。だから、彼女は、歌い、踊るのだ。

僕も同じように、決して言葉にできないから、僕なりの「歌う」として、哲学的な文章を書く。
そこに、僕の場合の「歌う」のややこしさがある。
僕の「歌う」は、「論理的で、冷静な、哲学的な文章を書く」ことだ。だけどそれは、「説明する」ことに似ている。だから、僕がやっていることは、決して言葉にできないことを、説明することのように見えるかもしれない。
明らかにそれは不可能だ。だから、僕がやっていることは、ある人からは、傲慢で、根源的な間違いを犯しているように見えるはずだ。
だけど、僕が哲学的な文章を書くときにやっていることは、あくまで、「説明をする」ではなく「歌う」だ。僕は、彼女のように、歌い、踊っているだけなのだ。

哲学における誤解や混乱の多くは、ここにあるように思える。
哲学以外の「歌う」がある人が、哲学に「説明をする」を持ち込み、哲学にしか「歌う」がない人が歌うのを聞き、それは説明としておかしいと問題視するようなことが起きる。
または、哲学にしか「歌う」がない人が、誰かの「説明をする」としての哲学を、歌だと勘違いし、それにあわせて一緒に歌おうとするようなことも起きる。
そういうことが続くと、僕は、誰かと哲学的とされるようなやりとりをすることが嫌になる。文章の上でのものであっても、リアルのコミュニケーションであっても。

だけど、昨日のライブに行き、そういう誤解や混乱さえもこねくり回して楽しむことこそが、「歌う」なんだろうなあ、と再確認した。彼女の内に宿っている、そんな根源的な肯定性に、僕は癒やされるんだろうなあ。

東京メタ哲学カフェで 『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』の話をしました ~「J-哲学対話」の提案~

1 はじめに

東京メタ哲学カフェという、哲学カフェの進行役をしている人などが集まって哲学カフェについて話す場がある。そこで、僕が進行役を務める会があり、土屋陽介さんの本『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を取り上げた。

この本の魅力は、やわらかい文章のなかに漂う哲学的厳しさの匂いにあると思う。

僕は永井均さんの信者(正確には永井さんよりは入不二基義さんのファンですが)なので、永井さんの弟子である土屋さんの文章のなかに漂っているのは永井的な匂いだと思っている。

進行役として、会の冒頭でひととおり本の説明をするにあたって、そのあたりについても説明した。永井さんの『転校生とブラックジャック』から「哲学的議論のための要諦」の文章なども使って。

2 永井とリップマン 哲学対話の厳しさ

そのせいか、参加者からは、土屋さんの本が描く対話像はちょっと厳しすぎるのではないか、という意見が多かった。例えば、哲学対話とは常に真理を求めるものだろうか、というような意見だ。

少々意外だったのは、そこに厳しさを感じる原因は、マシュー・リップマン的な批判的思考の重視と、ハワイのp4c的なケア的思考の重視の違いにあるではないか、という意見があったことだ。つまり、土屋さんはリップマン的だから哲学対話の厳しさを強調している、ということになる。

永井信者の僕から見ると、土屋さんの厳しさとは、明らかに永井さんの哲学的厳しさと同質のもので、リップマンの教育上の批判的思考の重視とは全く次元が違うもののように思える。

僕の見解をはっきり言うならば、永井は哲学だけど、リップマンは哲学ではない。それほどの違いがそこにはある。

その違いは、誰が探求の共同体への参加資格を有するかを問うことで明らかになる。リップマンならば誰でも参加できると答えるだろう。一方で、永井ならば参加できる人は限られると答えるはずだ。(さらには、参加できる人などほとんどいない、と答えるかもしれない。)

僕は、部外者で単なる哲学好きだから、永井の意見に全面的に賛同する。だけど、哲学者であり学校関係者でもある土屋さんは、そこで迷うのではないか。土屋さんは、悪く言えば、その間で揺らいでいるように思うし、良く言えば、その両者を架橋しようとしている。
つまり、誰もが、永井のような哲学をやることが可能となる世界を目指している。(実際やるかどうかは別として)

それは、確かに大事なことのように思うが、とても困難な事業だろう。だが、言葉や論理だけでは不可能だとしても、土屋さんの人格を総動員すれば、一歩、その方向に進むことは可能かもしれない、とも思う。

その理想的な到達点を表現する言葉はまだない。(あれば到達できてしまう。)それならば、その理想郷をなんとかそれっぽく描写するために、あえて永井的な視点とリップマン的な視点とを同一視し、両者の間に横たわる断絶をあえて圧縮し、同じものとして理解することには意義があるのかもしれない。(それは永井的には、〈私〉と《私》の同一視の問題に近いかもしれない。)

3 脱線と話の流れ

なんていうことは、会では「全く発言せず」に、話を続けた。すると、ほかにも興味深い話がいくつも出た。

まず、哲学対話とは一義的に真理を求めるものなのか、という話題のなかで、対話のなかで脱線した発言はどこまで許されるのか、という話になった。

哲学カフェの進行役として脱線があった場合の対応策としては、脱線したままがっつり話すとか、流れにまかせるとか、頃合いを見て元のテーマに戻すとか、少なくとも今何の話をしているかは明確化するとか、いろいろと出た。

それはそれで聞きたかったことなのだけど、もうひとつ、本当にそれは脱線しているのか、という問題の話が興味深かった。

傍目からは脱線しているように見える発言をしたように見えても、発言をした本人にとっては、その発言は脱線していないはずだ。その人にとっては、その発言は、話の流れの本流、ど真ん中にあるはずだ。だからこそ発言したのだろう。

話の流れをどう捉えるかは参加者によって異なり、認識にずれがあるから他の人からは発言が脱線しているように聞こえてしまう。

それでは、話の流れとは何だろう。

参加者からは、論理的なものなのではないか、という意見があった。

論理的にしっかりとしたかたちで進むことこそが理想的な対話のようにも思える。例えば、理想的な対話は「Aである」「それはなぜか」「Bだからである」「いや、Cだからではないか」「なぜか」「BだとするとDの問題が生じるが、Cならばその問題は生じないからだ」というようなかたちで行われる。このように論理の流れに乗ることこそが、話の流れに乗ることではないか、という意見だ。

だが、哲学カフェでは、そのようなかたちでは議論は進まない。ある参加者が言っていたが、哲学カフェはまるでカラオケ大会のようだ。みんなが交互に楽しそうに歌い、交互にそれを聞いている。そこには一本の流れなどない。だから哲学カフェでの脱線は、「ある程度なら」ウェルカムだ。哲学カフェには確かにそういう側面がある。

4 カラオケ大会

ここからは会で発言しなかったことだが、カラオケ大会にも、よいカラオケ大会と悪いカラオケ大会があるのではないか。

よいカラオケ大会として思いつくのは、僕がファンである入不二基義と森岡正博の共著『運命論を哲学する』だ。

この本は、二人の哲学者の哲学の応答、再応答という構成をとっている。この本の中で、二人の主張は、絡み合い、離れ、また接近し、離れる、とダンスのように進んでいく。二つの哲学が互いを触発し、互いに触発されあいつつ、深まっていく。

ここで重要なのは、両者の議論が全く重なることはないという点だ。ある瞬間、両者が合意し、同じ景色をみているように見えても、それは仮のものであり、いずれは別の道を進んでいくことになる。だからと言って二人の議論がかみ合っていないかというとそんなことはなく、互いに影響を与え合い、二人は自らの哲学を研ぎ澄ませていく。

これこそが、よいカラオケ大会の代表例と言ってよいのではないか。このような、それぞれ自分の歌を歌いながらも、互いを高めあうようなカラオケ大会もある。

悪いカラオケ大会との違いは、聞き手のスタンスにあるだろう。よいカラオケ大会は、ほかの人の歌をきちんと聞いて、合いの手も入れるが、悪いカラオケ大会では次に歌う自分の曲を選ぶのに夢中でひとの歌など聞いていない。

また、歌い手側にも、聞くに値する歌を歌うかどうか、という違いがあるだろう。上手であれば当然聞きたいし、自分の興味に沿った歌なら上手でなくても聞いてみようと思うし、下手で興味と多少ずれていても本気の歌なら聞いてあげようと思う。だから、よいカラオケ大会では、選曲を気にしたりもする。あの人は松田聖子を歌っていたから、僕も少年隊にしこうかな、というように。悪いカラオケ大会では、めいめいバラバラなジャンルの歌を歌っている。誰も知らないインディーズバンドの間奏が長めの曲を歌ったりもする。

同じことが、哲学カフェでの発言でも言えるのではないか。

そうだとするならば、議論の流れのよしあしというのは、少なくとも論理の側面からのみ捉えられるような単純なものではないように思える。

5 哲学対話と会話の違い 新しさ

また、土屋さんの本では、哲学対話と会話の違いについて論じられているので、その話にもなった。「土屋さんは真理を求めるのが哲学対話としているけれど、違うのではないか。」「違うとしたら哲学対話とは何を求めるものなのだろう。」というように。

興味深かったのは、色々話した末に、哲学対話とは「新しい気付き」を求めるものだ、という(当面の)結論に至ったということだ。つまり「哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場である。その点でデザインされていない会話とは異なる。」という見解にたどり着いたのだ。(僕なりのまとめです。)

なかなかいい結論だと思う。少なくとも「新しい気付き」というのは哲学対話の重要なキーワードだろう。そのときの話にも出たが、河野哲也さんの本『人は語り続けるとき、考えていない』でも「新しさ」が強調されている。

通常の会話でも、たまたま新しい気付きが得られることはあるが、哲学対話というのは、ただ新しい気付きを得ることだけを貪欲に求める場なのではないか。その目的のために特化するかたちでデザインされた場なのではないか。

そして、「新しさ」は、「本気さ」とも関わっている。参加者からの本気の発言だからこそ、その新しさが浮かび上がる。どんなに珍奇で新しい話であっても、言葉遊びのような軽薄な思考実験のようなものでは心に響かない。哲学史的には手垢がついたようなアイディアであっても、それが誰かの心からの言葉であれば、それは新しさをもって立ち現れる。だから哲学対話では、「新しさ」と「本気さ」が重要だ。

(思考実験を否定的に扱いましたが、哲学では思考実験が重要となることがあります。それは、哲学者の本気を伝えるために思考実験が使われているからなのだと思います。)

この「新しさ」の重要性は、土屋さんの本のクライマックスとも言える、透明化・不透明化の話とも結びつく。

概念を鮮明化し、どんどんわかっていく過程としての透明化と、それに逆行するような、どんどんわからなくなっていく過程としての不透明化の話だ。

参加者からは、この不透明化という言葉が適切ではないのではないか、という話が出た。「そもそも」を問うことは、盲点のように見落としていた点に気付くとも捉えることもできるから、それも、わかっていく過程のひとつとしていいのではないか、という見解だ。いずれもわかっていく、であり、わかり方には二通りあるということになる。

確かにそれでもいいような気がするが、やはり、わからなくなっていく過程と考えたほうが、含蓄があるような気がする。そのほうが、参加者から出てきた「未熟」という言葉も活きる。

不透明化とは、自分が未熟であることに気付くということではないか、というようなかたちで「未熟」という言葉は登場した。「未熟」という言葉に力点を置くなら、不透明化とは、いわば、若返り、子供に退行するようなプロセスとも言える。

この、「未熟」になることと、「新しさに気付く」こととは直結するのではないか。

哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場であるならば、それは参加者が未熟になる場であると言い換えることもできるように思える。

このアイディアは、多分、河野さんの意見にかなり近いところにあるように思う。哲学対話を、透明化と不透明化の往復運動のように捉える土屋さんと、不透明化を重視する河野さんという力点の置き方の違いなのかもしれない。

6 ケア的思考

また、今回、他の参加者と話していて、僕にはケア的思考が欠落していることに気付かされた。

僕にとって、ケア的思考とは、哲学対話の場では、発言者が、上下関係とか、生活上の利害といったものから解放され、そのせいで発言者が傷つけられることはない、という程度の意味で解していた。土屋さんの本からは、多分、土屋さんもそのように考えているように読める。

だけど、今回の参加者の多くにとってはそうではなかったようだ。哲学対話を実践する人たちの多くは、簡単に言えば、「哲学対話の場においては、発言者は、ほかの参加者が傷つかないよう、配慮して発言すべきだ。」と考えている。これこそが、ケア的思考であり、そして、その配慮の有無が哲学と哲学対話の大きな違いだと考えている。僕が考えていたのは話し手に対するケアで、他の参加者が考えていたのは聞き手に対するケアだったのだ。

この観点は、今回の会で話に出た、「大人の哲学対話と子供の哲学対話の違いは何か。」という問題や、「哲学対話は共同体を構築するのに役立つのではないか。」といった話題にもつながる。いずれの問題も、ケア、他者への配慮、ひいては教育という問題が色濃く関係している。

ところで、土屋さんは、本の中で、哲学対話において行われていることを「議論」と表現している。哲学対話とは哲学と同じように、真理を求める議論であるという意味を込めているのだろう。

しかし、参加者からは、「議論」という言葉への違和感があるという意見があった。哲学対話で行われている「対話」とは「議論」とは異なる、もっと優しい営みなのだ、という意見だ。だから、膨大な知の蓄積を武器に、相手へのケアなどは考えずに議論を戦わせる哲学と、素手で、優しく相手を思いやりつつ楽しむ哲学カフェとは大きく異なる、ということになる。

別の参加者が、哲学と哲学カフェの違いを寿司とカルフォルニアロールの違いとも言っていた。うまいことを言うなあ、と思った。確かにそうだ。

だけど、その人は、哲学と哲学カフェの違いを強調する意味で、この比喩を用いていたけれど、僕の理解は違う。どちらも米と海苔を使っているじゃないか。やはり、哲学と哲学カフェはつながっているのではないか。寿司とカルフォルニアロールという言葉からはその、つながりも強調できるのではないか。

哲学と哲学カフェは、大きく違っているけれど、やはりつながっているのだ、と僕は思いたい。

そうだとするならば、ケア的思考に込められた二つの意味、つまり、安心して発言できるという話し手へのケアと、ほかの参加者を傷つけないよう配慮して発言するという聞き手へのケアともつながっているのではないか、と僕は思う。

話し手が心から安心して発言できる場が確保されていれば、それ以上の配慮は必要ないのではないか。そのような場では、自動的に、話し手の発言により聞き手を傷つけるようなことなど起こらないのではないだろうか。

7 さいごに J-哲学対話

この会では、他にも色々と面白い話が出たけれど、僕にとって特に興味深かった点についてだけ、それも、考えていたけれど話に出さなかったことや、そのあとに考えたことも含め、雑多にメモしてみた。

今回は、とても楽しくて、色々考えさせられた。それは、土屋さんの本と参加者の皆さんがいい感じで、そして、僕自身もいい感じだったからだと思う。最後に全員に感想を聞いたところ、それぞれ、重要と感じた点は違ったようだけど、皆さんにとって、いいカラオケ大会だったならいいなあ、と思う。少なくとも僕は楽しく歌わせていただきました。

ここまで書いたことを読み返すと、今回出た問題の根底には、冒頭に書いた、リップマンと永井の違いの問題があるように思える。

誰もが一緒に哲学を育むことができると考えるリップマンと、限られた参加資格を有するひとだけが、ともに哲学を育むことができると考える永井の違いだ。

永井的な道筋を重視することで、これらの問題は一挙に解決できそうな予感がある。

突然だけど、ここで出てきた日本人の哲学者、永井さん、入不二さん、森岡さんは、いずれも現代哲学ラボという哲学対話とも関係が深い活動に関わっている。(最近活動がないけど、活動再開を熱望します!)紹介した『運命論を哲学する』という本は、現代哲学ラボでの活動がもとになったものだ。

この本の前書きで、森岡さんは、彼らの哲学をJ-哲学と名付けている。僕の理解では、彼らの共通点は、自らの哲学的驚きに基づき、自らの言葉で、自らの哲学を構築しようとしているという点にある。このような本物の哲学が、今、同時多発的に、この日本で、日本語で行われているという稀有な状況にあるのだ。これが、J-哲学とあえて名付けたことの意味だろう。

そして、このJ-哲学は、アカデミックな論文ではなく、自らの言葉で構築されているという点で、哲学対話という活動に非常に親和性が高いように思える。そして、実際に、哲学対話と結びつこうとしている。

僕は、J-哲学と結びついた哲学対話をJ-哲学対話と名付けたい。J-哲学対話は、ソーテやリップマンやハワイのp4cといったものとは別の、もうひとつの哲学対話の潮流として位置づけることができるのではないだろうか。あえて言うならば、J-哲学対話こそが(そのネーミングがいいかどうかは別にして)、本物の哲学と直結した本物の哲学対話ではないだろうか。

意識的か無意識的かわからないけれど、それをやろうとしているのが、土屋さんの本のように思える。

哲学と哲学カフェの違いの話

哲学カフェ界隈では、哲学カフェでやられていることは哲学ではないという議論が多い。これは、なんとなく、哲学と哲学カフェの違いが強調されすぎたもののように思える。
当然、違いはあるのだけど、いくら違いを強調しても、だからといって、同じ部分がないということにはならない。哲学と哲学カフェは当然違うけれど、どこか地続きの同じものなのではないか。
ということの説明をこれから試みたい。

・・・

哲学と哲学カフェは大きく違っていて同じものではない、という主張は、「同じ」と「違う」は両立しないというアイディアを前提にしている。そのうえで、だから「哲学」と「哲学カフェ」は「違う」のだから「同じ」ではない、と主張している。(と、僕には見える。もし違ったら指摘してください。)

このような二分法は、「砂山のパラドックス」に陥ると思われる。
砂山から一粒ずつ砂を取り除いていっても、砂山であることには変わりはないけれど、それを続けていき、最後の1粒になったとき、それも砂山と呼ぶのだろうか、というパラドックスだ。このパラドックスは、長年パラドックスと言われてきただけあって、正面から簡単に解決されるものではない。

哲学と哲学カフェについても、似たような思考実験ができるのではないか。
天国で著名な哲学者が集まり、哲学的な議論を始めたとしよう。例えば、ソクラテスとプラトンとアリストテレスが「国家とは何か」なんて論じたとする。
これは、哲学か、それとも哲学ではないか。

この議論の場は、哲学は、複数人で行うことがありうる、ということを認めるならば、哲学の典型例と言ってさえいいだろう。(もし、これが哲学であることを否定するならば、それは共著の哲学書は哲学ではない、とか、哲学関係の学会での議論は哲学ではない、ということになるだろう。後者は怪しそうな気もするけど・・・)

この哲学者による議論は、10人の参加者により10回コースで行われるとしよう。
最初の1回は、10人の哲学者により行われるが、徐々に参加者は、哲学カフェに来るような一般人に置き換えられていくとする。2回目は哲学者9人と一般人1人、3回目は哲学者8人と一般人2人、というように。
そして、最後の10回目は、一般人10人による議論が行われることとなる。

この、10回目の議論が、哲学カフェと呼ばれることには異論はないだろう。
一般人10人が集まり、「国家とは何か」というテーマについ話すというのは、哲学カフェの典型例だと言ってよい。
砂山が砂の粒になってしまったように、第1回は哲学であったものが、第10回では哲学カフェになってしまった。

では、いつ、哲学は哲学カフェに変わってしまったのだろうか。それは何回目の集まりのときだったのだろうか。
これについて、過半数となる6回目とする、というように断定することは可能だけれど、それは、千粒以下のときは砂山と呼ばない、と断定するようなもので、生活には役立つけれど無根拠だ。哲学と哲学カフェの違いについて、哲学的に議論しているのならば、そのような断定は避けなければならない。
明らかにこれは、砂山のパラドックスの一種であり、きれいにパラドックスを避けることはできない。

このパラドックスを解決するためには、「哲学」と「哲学カフェ」は、互いに浸透しあっている、と考えるべきなのではないか。
ソクラテスたちが行う哲学的議論のなかにも哲学カフェ性は含まれており、僕たちが哲学カフェで行う議論のなかにも哲学性は含まれているということだ。
(砂山にも一粒の砂性は含まれており、一粒の砂にも砂山性は含まれているということでもある。)
それは、哲学と哲学カフェは(そして、砂山と一粒の砂も)違うものだけど、同じものとして、完全に二分することはできないものとして扱うことである。

「同じ」と「違う」は両立する。
そのように考えるのならば、哲学と哲学カフェの違いをいくら強調しても、それが哲学と哲学カフェには同じ部分もある、ということを否定することにはつながらない。
どのような批判を受けても、哲学と哲学カフェとはひとつながりのものなのだ。
哲学カフェの意義はそこにある。

そのうえで、哲学と哲学カフェは、どこが違い、どこが同じなのかを精緻に議論することには、哲学的な意義があると思う。
哲学者が集まって行う哲学的な議論に含まれている哲学カフェ性とはなんだろうか、というように・・・
だが、それは、まさに哲学カフェで続きを話すのにちょうどいいテーマのように思われる。

2種類の占い (「タロットの逆位置問題」のコンパクト版)

これは、昨日書いた「タロットの逆位置問題」をコンパクトにして、哲学濃度を下げたものです。
あと、逆位置の細かい分析も省いています。

1 はじめに

これから僕は、占いには2つの種類があるという話をします。

ひとつが、未来や誰かの心といったような、普通のやり方では関わることができないものについて、少しでも知ろうとして行う占いです。これが占いというものの一般的なイメージだと思います。

もうひとつ、これまであまり意識されてこなかったものとして、何かを知ることにはつながらないけれど、自分自身の力で道を切り開くことを促すような占いがあることを指摘したいと思います。

2 知るための占い

世の中はわからないことだらけです。

今目の前で起こっていること、例えばペットボトルが机の上にあるということはわかるし、過去に見聞きしたこと、例えばイギリスの首都はロンドンだということはわかるし、未来についても、常識的なこと、例えば氷を冷凍庫から出したままにしておけば溶けて水になることはわかります。

だけど、一週間後に具体的に何が起こるかはわからないし、今、遠く離れた地で何が起きているかはテレビで生中継をしていない限りはわからないし、目の前にいる人が何を考えているかもわかりません。

わからなくても、自分に関係がないなら放っておいていいけれど、自分自身の未来や、身近な人が考えていることは、自分に関係があるからなんとか知りたくなります。常識や科学に基づく通常のやり方では無理と知っていても、なんとか知りたくなります。

占いとは、そんな願いを叶えるためにこそあるのでしょう。

占いとは知るためのツールなのです。

(それ以外にも、友人とわいわい初詣でおみくじを引くときのようなコミュニケーション・ツールとしての占いや、テレビの情報番組の星占いランキングのような暇つぶしとしての占いのように、単なる楽しみとしての占いもありますが、それらは考慮に入れないこととします。)

3 僕が提案するおみくじ占い

では、知ることにつながらない占いなど、ありえないのでしょうか。

そこで僕は、思考実験として、現実に存在するかどうかは別として、こんな占いを提案してみることにします。

それは、ただ、価値中立的なキーワードが書いてあるだけのおみくじです。

普通、おみくじには「大吉」とか「探し物は見つからない」なんて書いてありますよね。だからそれを読んだ人は喜んだり、残念に思ったりします。

だけど、僕が考案したおみくじには、例えば「無邪気」というような価値中立的な言葉だけが書いてあります。これでは何も具体的なことを知ることはできません。「無邪気」がいいことなのか、悪いことなのかさえもわかりません。付き合い始めたばかりの彼女と末永く付き合っていけるか占った人が、ただ「無邪気」と書かれたおみくじを引いたら、多分とまどうでしょう。無邪気になったらいいのか、無邪気すぎてはいけないということなのか、わからないのですから。僕は、こんな、少し風変わりなおみくじを提案することにします。

なぜ僕は、戸惑わせるだけの、役に立たなそうな占いを提案したのでしょうか。

実はそれは、ただ戸惑わせるだけでなくて、役に立つと思うからです。

彼女との将来が気になり「無邪気」というおみくじを引いた人は、その後どのように生きていくでしょう。

変なおみくじだったなあ、と忘れ去ってしまうかもしれないし、面白いおみくじだったと友達と楽しく話し、単なる楽しみとして消費するだけかもしれません。

だけど、もし、その占いの結果を真剣に受け止めたのであれば、「無邪気」という言葉を心にとめて生きていくのではないでしょうか。

彼女とデートをしている間、自分を観察して、もう少し無邪気にしてもいいのかな、無邪気すぎたかな、なんて反省したりして。または彼女を観察して、彼女の無邪気なしぐさに気づいたりして。

そのようなものとしてなら、僕が提案したおみくじだって少しは役立つのです。

だけど、そんな微妙なおみくじよりも、やっぱり大吉とか凶とか出たほうが役に立つ感じがしますよね。大吉だったから、ちょっとセールで買い物しちゃおう、とか、凶だから早めに家に帰ろう、というように具体的な行動に反映することができるのですから。

でも、僕が提案したおみくじの方にも長所があるのです。

まず、絶対に外れることはありません。実際は大吉なんかじゃなかったと思うことはあっても、実際は無邪気さについて気にする必要なんてなかった、と後悔することはありえません。

また、結果に一喜一憂することもありません。おみくじを開いて「無邪気」と書いてあったら、ピンとこなくて???と思うことはあっても、落ち込むことはありえません。

僕が提案するおみくじは、そんな、占いにとって宿命的とも思える弱点を克服しつつも、しっかりと人生に役立ってくれるのです。いいと思いませんか?少々盛り上がりに欠けますが。

4 僕が提案する占いの役立ち方

なんとなく僕が提案するおみくじもいいな、と思ってくれた方がいるかもしれないので、そんな方に念のための注意喚起です。

この占いは、人生に役立つと言ったけれど、その役立ち方は少々特殊です。

普通の占いで大吉だったなら、その占い結果が、どこかから幸せな未来を連れてきてくれて、じゃあセールで買い物しちゃおう、というような直接的な行動につなげてくれます。逆に凶という結果が、不運な未来を連れてくることもありますが。

一方で、僕が提案するおみくじ占いは、「無邪気」に着目するといいよ、と生きるうえでの注目すべきポイントを示し、アドバイスしてくれるだけです。そのアドバイスを活かして良い人生にするか、逆に悪い人生にしてしまうかは、本人の努力次第です。占いは手を貸してくれません。

前者は、子どもに色々と世話を焼いてくれる優しいお母さんのようなもので、後者は、厳しいコーチのようなものだと例えることができるでしょう。

時々は緊急避難的に、占いに未来を示してもらって安心し、親に守られるようにして癒やされることも必要でしょう。だけど結局、自分の人生は自分自身で切り開くしかないのならば、厳しいコーチからアドバイスをもらうような占いもいいのではないでしょうか。

5 優れた占い師

ここまでの僕の話に同意いただき、僕が提案するような占いの効用を認めたとしても、そんな占いなんて現実には存在しないではないか、と思われるかもしれません。確かに「無邪気」と書かれているだけのおみくじなど実在しません。あくまで思考実験です。

しかし、実は、多くの占いに、僕が主張したような要素は含まれています。

おみくじやテレビの星占いランキングなどの簡単な占いは別にして、対面式の占いの多くは、ただ本人の努力と関係なく確定的な未来を示すだけではありません。

例えば「来年は体調を崩すかもしれないから気をつけなさい。」なんて言われることがあります。これは、体調に気をつければ体調を崩す事態を避けられることを意味します。先ほどの僕が提案するおみくじの例でいくなら、「来年の体調」とだけ書かれたおみくじを引いたようなものです。

僕は、2種類の占いがあると言いましたが、より正確には、占いには2種類の側面があると言ったほうがいいでしょう。多くの占いには、優しいお母さんのように未来を示して癒やしてくれる側面と、厳しいコーチのようにアドバイスし奮起を促すという2つの側面とがあるのです。

そして、優秀な占い師とは、多分、その2つの側面を自由に使い分け、状況に応じた適切な占いが自然にできるような人のことを言うのだと思います。

6 タロットの逆位置

そうは言っても、世の中の占いは、主に、未来を示して安心させてくれるような要素が大きく、厳しい要素なんてわずかではないかと思うかも知れません。

確かにそうなのですが、実は、厳しいコーチのような占いにかなり近いものが現にあります。逆位置を使わないタロット占いがそれです。

と言ってもピンとこないかもしれないので、最後に、タロットの逆位置のことを説明して、この文章を終えたいと思います。

タロット占いでは、逆位置を使う占い師と使わない占い師がいます。使うかどうかで、カードの解釈の仕方が大きく変わってきます。

具体例で説明すると、タロットカードの最初のカードである愚者のカードは「無邪気」を象徴しています。

逆位置を使わない場合には、この象徴、つまり「無邪気」をそのまま解釈とします。

一方で、逆位置を用い、逆位置と正位置を分けて解釈する場合には、その象徴から解釈が派生します。愚者のカードが正位置に出たら、それは無邪気さが素直に発露されたと捉え、ポジティブな自由などを意味するものと解釈します。逆位置に出たら、無邪気さが歪んだかたちで発露されたと捉え、軽率や気まぐれなどを意味するものと解釈します。場合によっては逆位置が正位置とは真逆の意味を持ち、消極や臆病を意味することもあります。

このように、逆位置を使うほうが、明らかに解釈が複雑になります。だから、複雑になるのを嫌って、逆位置を使わない人も多いようです。

一方で、タロットの創始者?が逆位置を使う手順で解説書を書いていることから、伝統的に逆位置を使う人も多いようです。

だけど僕には、あえて逆位置を使うのには、歴史的な事情とは別な理由があるように思えます。逆位置を使うことで、正位置の結果と、逆位置の結果というふたつの解釈が導かれるのがポイントです。

つまり、ふたつの解釈をとることで、タロットを、吉と凶があるおみくじと同じようなものにすることができるのです。愚者のカードなら、正位置が吉で、逆位置が凶となります。塔のカードなら、正位置が凶で、逆位置が吉となります。

これで、タロットでも、多くの人が望むような、未来を示し、優しいお母さんのように癒やしてくれる占いをすることができます。最近うまくいっていない恋人との未来を占っていて、愚者のカードが正位置で出たなら安心するし、逆位置で出ても、運命で決まっていたのだと諦めることができる、というように。

こんな占いを望む人は多いのではないでしょうか。

だけど、僕には、正直、それだけではつまらないのです。

逆位置を用いないやり方で占い、愚者のカードが出たなら、ただ「無邪気」と解釈することになります。これは僕が思考実験で用いたおみくじと全く同じです。

僕にはこのような潔い占いのほうが魅力的なのです。

「これがあなたの人生の課題なのだよ。そこから先、どのように解釈し、どのように行動するかは、あなた次第だよ。」と厳しいコーチに言ってもらったほうが、気合が入るのです。たまにはお母さんのような占いもいいのですが。

どうしても僕には、お母さんのような占いに頼り切ってしまうのは安易すぎるように思えてしまいます。

タロット占いにおいて逆位置を導入し、複雑な解釈を強いられるのは、安易に流れた代償なのではないかとさえ思えます。もともとのタロットが持つ力を歪めたからこそ、逆位置の解釈が混乱に陥ってしまったということです。

そこまで言わなくても、逆位置を用いないタロット占いは、優しいお母さんのような側面だけではなく、厳しいコーチの側面を引き出しやすい特徴を備えおり、そこに独特の魅力があるのは確かだと思います。

この特徴を活かした占いがもっと広まるといいなあ、と僕は思うのですが、どうでしょうか、占い師の皆様。

タロットの逆位置問題

1 はじめに

最近、周囲にタロット占いをやる人が多いから、僕も影響されてタロットカードを買ってみた。タロット占いとは、カードをトランプのようにシャッフルしてから何枚か並べ、出たカードを解釈して占うものだ。占いは女性のものというイメージだけど、タロット占いは結構ポピュラーだから男性でも見たことくらいはあるかもしれない。

タロットカードには色々な象徴的な絵が描かれていて、それを手がかりにして出たカードを自由に解釈して占う。ただ、一応、基本的な意味があって、例えば(カードの並び順上では最初にあたる)「愚者」(the Fool)のカードならば、崖から躍り出ようとするピエロのような若者が描かれており、それは、柔軟性や無邪気を象徴するとされている。今後の彼氏との関係について占っていて「愚者」のカードが出たら、このカードは、柔軟性や無邪気を意味するから、彼氏の前ではもっと自由に振る舞っていいんだよ、なんてアドバイスすることになる。柔軟性や無邪気というのはあくまで基本的な意味であって、そこから色々なイメージを膨らませ、様々な解釈ができるから、タロット占いというのは、占う人の力量が問われるタイプの占いのように思う。

力量が問われる一方で、カードさえ買えば手軽に始めることができる。僕も中古で買ったタロットカードで、ネットで占い方を調べて、自分のことを占ったりしている。これなら1000円くらいしかかからない。

僕のようなタロット初心者にとって、まず大きな問題となるのが、解釈の際に、逆位置を採用するかどうかだろう。

タロット占いを知らない方のために説明すると、タロットとトランプでは、絵に上下の向きがあるという点が大きく異なる。トランプは絵札であっても上下両方から同じように見えるよう描かれているが、タロットはそうなっていない。だから、上下が混ざるようにシャッフルすれば、逆さに出ることもある。逆さに出たら逆位置で、ふつうに出たら正位置と言う。

逆位置に出た場合に、それを意味があることとして、正位置の場合とは違う意味を有するものとして解釈するかどうか、つまり逆位置を採用するかどうかは、有名な占い師の間でも意見が異なるようだ。この逆位置問題について、この文章では考えてみたい。

占い師でもなんでもない僕が、なぜこんな話に首を突っ込むのかというと、この問題は哲学的に取り扱うことができると思ったからだ。

結論から言うと、逆位置とは、論理学で言う「否定」(~ではない)という操作ではないかと思われる。論理記号では「¬」と表される、あの否定だ。逆位置とは正位置の否定であるとしたうえで、「否定」とは何を意味するのかを考えれば、おのずから逆位置問題に答えが出るのではないだろうか。このようなアイディアを思いつき、この文章を書くことにした。

2 占い師にとっての逆位置問題1 採用派と非採用派の主張

さて、まずは、これまで占い業界において、逆位置問題がどのように取り扱われてきたかを確認するところから始めよう。素人の僕が、ざっとサイトを見た限りでは、逆位置採用派・逆位置非採用派の2つの流派があり、そのように扱う理由はそれぞれ次のとおり列挙できるようだ。

(逆位置採用派)

理由1 タロットカードの(創始者?が書いた)権威のある解説書では逆位置を採用している。

理由2 逆位置にカードが出るということ自体になんらかの意味があるはず。

理由3 逆位置を採用すれば、出るカードの種類が2倍になり、より詳細に占える。

(逆位置非採用派)

理由1 実はタロットカードの権威(創始者?)その人は、実は逆位置は採用していなかったのでは。

理由2 逆位置を使うと、悪い結果が出やすくなる。

(タロットは正位置だと良いカードが多く、逆位置だと悪い意味となるものが多いのです。)

理由3 逆位置を解釈するのは難しい。

理由4 逆位置を使わないほうが、メッセージが明確なものになる。

こんな理由から、占い業界は、逆位置採用派と非採用派が混在している状況にあるようだ。

(脇道にそれるけれど、少なくともネット上では、逆位置を採用するかどうかの熱い議論はないようだ。そこに僕は興味をひかれた。占い師は、客観的に正しい占いの手順なんていうものに興味はないのだろう。占い師というものは、ただ、自分が納得できる、自分にとっての正しい占いというものだけを追求しているのだろう。これが占いというものの本質であり、もしかしたら、哲学とも似ている部分かもしれない。)

両派が掲げる理由について、検討に値するものかどうかひとつずつ見ていこう。

まず、採用派・非採用派それぞれの理由1として記載した、歴史的な観点からの理由については、占い師としては最重要かもしれないが、部外者の僕にはあまり関係ないことなので無視してよいだろう。

次に、採用派の理由2「逆位置にカードが出るということ自体になんらかの意味があるはず。」については、考えてみれば、これは逆位置が出るように上下を混ぜてシャッフルするからこそ出てくる意見だ。逆位置を使う占い師は、全てのカードをテーブル上に伏せて、円を描くように混ぜたりするのだが、もし、普通にトランプをシャッフルするように向きを変えずに混ぜれば、逆位置が出ることはありえない。逆位置が出るようなシャッフルの仕方をするそもそもの理由が別にあるはずであり、そもそもの理由の方を考えるべきだろう。

また、非採用派の理由2「逆位置を使うと、悪い結果が出やすくなる。」については、実際に誰かを占うにあたっては、傷つけないようにするための大問題なのだろうだが、明らかに僕の哲学的な興味とは異なる問題なので、これも無視する。

(なお、そもそも、良い結果、悪い結果とは何を意味するのか、ということについては、最後の方で、別の方向から少し論じている。)

このように消し込んでいくと、検討に値するものとして残るのは、次の理由となる。

採用派 :理由3 逆位置を採用すれば、出るカードの種類が2倍になり、より詳細に占える。

非採用派:理由3 逆位置を解釈するのは難しい。

非採用派:理由4 逆位置を使わないほうが、メッセージが明確なものになる。

これらの残された理由を眺めてみると、いずれも、逆位置を使うと占いが複雑・詳細なものになり、逆位置を使わないと単純・明確となる、という関係性に集約できることに気づく。

逆位置を使い占いが複雑で詳細なものになることを肯定的に受け止めるならば、逆位置採用派となり、否定的に受け止めるならば非採用派となる。これが、逆位置について見解が分かれる基本的な構図だと言ってよいだろう。

3 占い師にとっての逆位置問題2 逆位置の解釈の混乱

タロット占いにおいて、逆位置を使うと複雑・詳細になるとは具体的にどういうことか、逆位置の解釈の基本的な考え方をネットから引用しよう。

基本的に逆位置の解釈は、正位置の解釈を下記の6パターンに当てはめて考えるとわかりやすいかと思います。
1.正位置の意味が強く現れる
2.正位置の意味が弱く現れる
3.正位置の否定
4.ネガティブな部分がクローズアップ
5.方向性がズレている
6.カードの下部の寓意が強調される

(「心斎橋の占いサロン 現の部屋」(https://uranai-shinsaibashi.com/)より)

プロの占い師が素人向けに書いただろうこの文章を見ただけで逆位置の採用により、解釈が複雑・詳細なものになることがわかる。なんと、逆位置の解釈は6通りもあり、正位置の解釈よりも、少なくとも6倍の広がりを持っているのだ。(色々な組み合わせができることを考えれば、2の6乗、64倍くらいの広がりはありそうな気もします。)

逆位置を採用すると、少なくとも、6倍は詳細に占うことができ、6倍は難易度が上がり、6倍は結果が複雑なものになる。これを肯定的に捉えるなら逆位置採用派となり、否定的に捉えるなら逆位置非採用派となる。

ここで話を終えるなら、逆位置を採用するかどうかは、難しさと明確さのどちらを重要視するかどうかという、その人の好み次第となる。また、プロの占い師に限れば、難易度が高くなっても詳細に逆位置を使って占うべきで、複雑な結果をわかりやすく説明するところにこそプロの力量が問われる、という話になりそうだ。

しかし、どうも僕にはそうは思えない。ネット上で具体的な逆位置の解釈例を眺める限り、逆位置とは単に解釈の幅が広げるだけでなく、解釈の混乱を招くように思える。その混乱とは、一貫性のある解釈さえも不可能にするもののように思える。

具体例により説明することとしよう。例えば、「愚者」(the Fool)のカードの正位置は、柔軟性や無邪気を象徴している。この正位置の解釈を基本とし、そこから派生するように逆位置の解釈が導かれる。先ほどの6パターンの逆位置の解釈方法を適用するなら次のようになる。(この解釈例が占いとして正しいかどうかは自信がありません。)

逆位置に出た愚者のカードの解釈としては、

「1.正位置の意味が強く現れる」ならば、無責任で過剰な奔放さ

「2.正位置の意味が弱く現れる」ならば、陳腐な気まぐれ

「3.正位置の否定」ならば、消極さ

「4.ネガティブな部分がクローズアップ」ならば、軽率さ

「5.方向性がズレている」ならば、誤った方向への変化

「6.カードの下部の寓意が強調される」ならば、足元の危険への囚われ

(愚者のカードの躍り出ようとするピエロのような若者の足元には、切り立った崖が描かれているのです。)

といった解釈が導かれる。

このように並べてみると、逆位置の解釈は混乱しているのは明らかではないか。例えば、1の解釈からは奔放さが導かれ、3の解釈からは消極が導かれるが、奔放さと消極さは真逆とさえ言える。逆位置の解釈はそれぞれ異なりすぎて、どの解釈を採用するかで、全く違う結論になってしまうのだ。いずれの解釈とするかを占い師のインスピレーションで決めるしかないのだが、それはつまり、占い師がほぼゼロから自分の頭で考えるということに等しい。それが許されるなら、そもそもカードなんて要らないような気がしてくる。

こんな混乱を招いてしまうような逆位置は、やはり導入すべきではないのではないか。これが、僕がタロットカードをやってみるにあたり、まず考えたことだ。

4 僕にとっての逆位置問題1 逆位置の否定性

以上は、実際に占いをやってみて思いついたものであり、いわば占い師の範疇での逆位置問題についての考察であると言ってよい。多くの人が思いつくような内容なのではないか。だが、ここからは、占いの部外者ならではの独自の考察を進めたい。

先ほど、逆位置の解釈は、過剰に複雑であり、真逆の解釈がいずれも可能になるような、混乱したものである、という話をした。

しかし、いずれの逆位置の解釈も、「否定」という操作を加えた結果だと考えてはどうだろうか。そのように考えることができるならば、全くの無規律ではなく、そこに規則性を見出すことができ、逆位置の解釈全般について筋が通った考え方ができるように思える。

この文章のはじめに、僕は次のように述べた。

逆位置とは、論理学で言う「否定」(~ではない)という操作ではないかと思われる。論理記号では「¬」と表される、あの否定だ。逆位置とは正位置の否定であるとしたうえで、「否定」とは何を意味するのかを考えれば、おのずから逆位置問題に答えが出るのではないだろうか。

ここからは、この話、つまり逆位置の否定性の話をしたいのだ。

愚者のカードを例にして逆位置の解釈について再考してみよう。そのために、まず、愚者のカードが逆位置で出た場合の解釈の仕方がどのようなものだったのか再掲しておこう。

正位置の愚者のカードが象徴する「柔軟性や無邪気」から派生し、逆位置の愚者のカードについては次のような解釈がなされるのだった。

「1.正位置の意味が強く現れる」ならば、無責任で過剰な奔放さ

「2.正位置の意味が弱く現れる」ならば、陳腐な気まぐれ

「3.正位置の否定」ならば、消極さ

「4.ネガティブな部分がクローズアップ」ならば、軽率さ

「5.方向性がズレている」ならば、誤った方向への変化

「6.カードの下部の寓意が強調される」ならば、足元の危険への囚われ

僕は、いずれの逆位置の解釈も、もともとの正位置の場合の意味に否定の操作を加えることによって導くことができると考えるのだが、どうもこのままでは難しいようだ。正位置の「柔軟性や無邪気」という短い定義をどう操作しても、逆位置のこれほどの多様な解釈は導けない。

だが、正位置の場合の愚者の意味を次のように定義してみたらどうだろう。

「柔軟性や無邪気という正位置の象徴が、①多すぎもなく、②少なすぎもなく、③全体として、④あるべき方向に向かって発露していること」

というように。

このように定義すれば、この定義の一部に否定の操作を加えることで、逆位置の解釈を導き出すことがきる。

「1.正位置の意味が強く現れる」については、上記定義のうち「①多すぎもなく」の部分を否定することである。その結果、無責任で過剰な奔放さという解釈が導かれる。

「2.正位置の意味が弱く現れる」については、「②少なすぎもなく」の部分を否定することである。その結果、陳腐な気まぐれという解釈になる。

「4.ネガティブな部分がクローズアップ」ならば、「③全体として」の部分を否定するということで、それが、軽率さにつながる。

「5.方向性がズレている」ならば、「④あるべき方向に向かって」を否定するということで、誤った方向への変化という解釈に至る。

「6.カードの下部の寓意が強調される」については、(少々テクニカルなので表現が難しいが、柔軟性や無邪気といった象徴する内容ではなく)正位置の象徴自体が「③全体として」発露することを否定することと考えてよいだろう。

最後に「3.正位置の否定」については、「柔軟性や無邪気」という主語を否定し、つまり、「柔軟性や無邪気」の正反対の消極さを意味することになるということだ。

このように、正位置の意味とは、単に「柔軟性や無邪気」といったような概念として象徴されるだけではなく、その象徴が、「①多すぎもなく、②少なすぎもなく、③全体として、④あるべき方向に向かって発露していること」として考えるべきなのだ。

そのように正位置の意味を捉え直したうえで、逆位置の解釈は、「◯◯という正位置の象徴が、①多すぎもなく、②少なすぎもなく、③全体として、④あるべき方向に向かって発露していること」という正位置の定義のうちの、ある特定の部分を否定することによって導かれることとなる。逆位置の解釈は、混乱しているかのように思えるほど多様だが、その多様さは、実は、正位置の定義のどの部分を否定するかの違いによって生じたものに過ぎなかったのだ。逆位置の解釈には、正位置の定義の否定により生み出されるという、一貫した法則性があったのだ。

このようにして正位置の再定義と、そこからの否定の操作を通じて、整合性のある逆位置の解釈が可能となる。以上が、逆位置の否定性の話だ。

正位置と逆位置を適切に定義づければ、一貫性のある解釈が可能となり、逆位置の解釈の混乱を避けることができる。奔放さと消極さのような正反対の解釈が導かれたのは、混乱によるものではなく、単に正位置の定義の否定の仕方に違いがあっただけなのだ。そう考えると、逆位置採用派に軍配を挙げたくなる。

(正位置について「①多すぎもなく、②少なすぎもなく、③全体として、④あるべき方向に向かって発露していること」としたけれど、これは絶対的なものではありません。あくまで、逆位置の解釈が「心斎橋の占いサロン 現の部屋」さんの提案するとおり6通りあるとしたなら、逆算として、正位置について、このように定義づけられるということです。逆位置の解釈について更に理解が深まれば正位置の定義も見直されるだろうし、正位置の捉え方を深めることで、逆位置の解釈も見直すことができるかもしれません。そのような意味で、逆位置を採用するかどうかに関わらず、正位置と逆位置の両方の解釈について学ぶことで理解の相乗効果が生じるように思います。)

5 僕にとっての逆位置問題2 逆位置を導入する本当の理由

だが、これを結論とせず、もう少し話にお付き合いいただきたい。ここで僕は疑問に思う。なぜ、タロット占いにおいて逆位置を採用するのだろうか。なぜ、カードの解釈に否定という操作を加えるのだろうか。

実生活であれば、なんらかの事情があって否定という操作を行う。

例えば「信号が赤い。」という文章を否定すると「信号が赤くない。」となる。この「信号が赤くない。」は、「信号が青い。」や「信号が黄色い。」を意味するが、そのような否定の操作は例えば、こんな場合に行うのだろう。

僕はドライブをしている。信号がある交差点に差し掛かるが、信号の一部が木の枝に隠れていて、ちょうど赤信号以外が見えない。唯一見える赤信号は消灯している。車を運転している僕は、今、「赤ではない」色の信号(つまり青か黄色の信号)が点灯していると考え、気をつけつつも車を進める。

これが、「信号が赤い。」を否定するということであり、否定の操作を実生活上で行うということだ。このような否定の操作には、行うべき事情がある。

では、なぜ、タロット占いにおいて、逆位置を採用し、否定という操作を行うのか。そこには、どのような事情があるのか。そこには、逆位置推進派が主張するような理由(例えば逆位置を採用して占いの内容を詳細なものにしたいというような理由)とは別の動機があるように思える。(占いを詳細なものにしたいだけなら、カードの枚数を増やせばよく、逆位置を導入することの必然的な理由にはならない。)

その別の動機の正体は、さきほどの逆位置の否定性の話、つまり正位置の再定義と、そこからの否定の操作を通じた逆位置の解釈という話をするなかで、すでに示されているように思える。

逆位置の否定以前の段階に戻ってみよう。逆位置導入以前における、本来の愚者の解釈は、「柔軟性や無邪気」という価値中立的なものだった。「柔軟性や無邪気」がよい方向に発露すれば、よい結果につながるし、悪い方向に発露すれば、悪い結果につながる。そのような価値中立的な解釈であった。

だが、逆位置という否定の操作を考慮に入れることで、正位置の定義は「◯◯という正位置の象徴が、①多すぎもなく、②少なすぎもなく、③全体として、④あるべき方向に向かって発露していること」という長々としたものになってしまった。これは、正位置に、肯定的な意味が付与されたと考えることができる。あわせて、逆位置についても、その肯定的な意味の否定として、否定的な意味が付与されたと考えることができる。

このようにして、もともとは価値中立的なものであったタロットカードが象徴するものは、逆位置の否定性の話を通じて、正位置と逆位置に二分され、肯定的な解釈と、否定的な解釈に分けられることになった。

これこそが逆位置を導入する動機だったのではないだろうか。

逆説的とはなるが、価値中立的なものを肯定と否定に二分したかったからこそ、逆位置を導入し、否定という操作を行うことにしたのではないだろうか。

思えば、価値中立的な占いでは、ある特定の占いのニーズを満たすことができない。切実によい未来と悪い未来とのいずれが来るのかを知りたい人に、価値中立的な占いをしても満足しないだろう。結婚するかどうか迷っている人を占って、愚者のカードが出たとする。そんなときに占い師が「柔軟性や無邪気がポイントになるけど、柔軟性や無邪気さを持つことが良いことなのか悪いことなのかはよくわかりません。」と言ったら、その占い師は、多分儲からない。

そんなときは、「正位置で出たから、しっかり柔軟性や無邪気さを持ったほうがいいです。」とか「逆位置で出たから、このままの柔軟性や無邪気さでいいかどうか考え直したほうがいいです。」と言ったほうが喜ばれるだろう。

これこそが、タロットカードにおいて、逆位置を導入する主たる理由だと僕は思う。未来や誰かの心といったような、本質的にわかりようがない何かを、それでも知りたいと望む人たちのニーズを満たすために、逆位置は導入されたのだ。未来や誰かの心が、正位置だから良いものだ、逆位置だから悪いものだ、というようにして、少しでも知りたいという願いが反映したものなのだ。

ここでも逆位置採用派のほうに分があるようだ。逆位置についての一貫性のある解釈は技術的に可能だし、逆位置を導入する積極的なニーズもある。需要と供給が一致しているのだから、逆位置は採用するしかないように思える。

(なお、ここで例に用いた愚者のカードは基本的にいい意味を持つとされるから、正位置と肯定性を結びつけ、逆位置と否定性を結びつけてきました。だけど、カードには悪い意味を持つとされるカードもあります。例えば塔のカードは、災難を意味するから、正位置であれば悪い意味で、逆位置であれば再生のような良い意味となるというように。このようなものも考慮するなら、肯定的とはもともとの意味が素直に発露することで、否定的とはもともとの意味が派生して発露すること、と考えたほうがいいでしょう。)

6 今ここの自分の決意のための占い

だが、結論づけるのはもう少し待って、あと少しだけ話にお付き合いいただきたい。

ニーズに応えて逆位置を導入することは、そもそも、占いの正しいあり方なのだろうか。占いとは、未来や誰かの心が(占われる人にとって)望ましいものか望ましくないものかを示さなければならないものなのだろうか。僕には、このようなニーズこそが占いというもののあり方を歪めているように思える。このようなニーズに迎合し、逆位置を導入し、変質する前の、価値中立的な占いに立ち返るべきなのではないだろうか。

愚者とは、そもそも「柔軟性や無邪気」を象徴するものであった。

もし、逆位置を採用して占い、愚者が正位置で出たなら、それは「柔軟性や無邪気」がよい方向で現れることを意味し、占われる人にとって喜ばしい結果だろうし、逆位置で出たなら残念に思うだろう。

だが、逆位置を採用せずに占い、愚者が出たならば、それで喜ぶことも残念に思うこともない。では、そのとき、そのカードが何も伝えていないかというとそんなことはなく「柔軟性や無邪気」という重要なメッセージを示していてくれる。そのメッセージは、その占われた人にとって、良くも悪くもない、ただ価値中立的な象徴そのものとして示されることとなる。

では、そのメッセージをどのように受け止めるべきなのだろうか。ここで占われているのは僕自身であるとしよう。(僕が自分で占っているのでも、占い師に占ってもらっているのでもいいが)僕のことを占っていて「愚者」が出たとしよう。僕自身に向けられたそのメッセージは、僕の人生にとって「柔軟性や無邪気」が課題となっていることを意味する。それは、他のなにか、例えば財産や恋愛などではなく、ただ「柔軟性や無邪気」に注目して生きなさい、というメッセージだと解釈できる。愚者の象徴を心に留めて生きなさい、というメッセージだと言ってもよい。

だから、未来について何かを教えてくれる訳ではない。あえて言うならば、ありうる結末としての未来は示してくれるとは言ってよいかもしれない。うまくいった場合の結末と、うまくいかなかった場合の結末の二通りを提示するようなかたちで。(この2つの結末とは、逆位置を採用した場合の、正位置の肯定的解釈と、逆位置の否定的解釈と重なる。)

これは、言い換えれば、逆位置を採用しないタロット占いの結果とは、励ましの言葉だと言ってよいだろう。そのカードが持つ意味に注目し、うまく生きることができれば正位置の肯定的解釈のような結果につながるし、それに失敗すれば、逆位置の否定的解釈のような結果につながるよ。だからうまくがんばりなさい。というメッセージなのだ。

この逆位置を採用しないタロット占いの結果とは、未来や誰か気になる人の心といったものを知るための手がかりにはならない。だけどそれは全く無意味なものなのではなく、僕自身が、現に今、どのように生きるかという指針になる。例えば「愚者」が出たということを真剣に受け止めるならば、僕は、財産や恋愛ではなく、「柔軟性や無邪気」に注目して、がんばってうまく生きていこうと決心することになる。そこには具体的な占いの効果がある。

7 2種類の占い

占いには2つの種類があるのだろう。ひとつが、未来や誰かの心といったような、自分からは決して届かないものについて、少しでも知ろうとするための占いだ。そして、もうひとつが、今ここの自分、つまり自分の力が及ぶものについての占いであり、いわば決意のための占いだ。

いうなれば、何かを知るための占いと、知ることを目指さない占いと言ってもよいだろう。(さらには、当たったり外れたりする占いと、決して当たりも外れもしない占いと言ってもよいかもしれません。)

前者が逆位置を用いる占いであり、後者が逆位置を用いない占いであるのは言うまでもない。

未来や誰かの心を知ろうとする占いは楽しいし、緊急避難的に必要となることもあるだろう。だけど、そちらを重視するあまり、今ここの自分の決心のための占いをないがしろにしてしまったら、占いというものが持つ、本来の力を見失ってしまうのではないだろうか。

優秀な占い師とは、多分、その2種類の占いを自由に行き来し、状況に応じた適切な占いが自然にできるような人のことを言うのだろう。

僕自身は、そこまで占いが好きではないから、後者の、今ここの自分の決意のためのものとして占いをしている。だから僕は、逆位置は用いず、今ここの自分の決意のためのツールとしてタロットカードを使っている。

そのようなものとしてタロット占いを捉え、寝る前に、タロットカードをひいていると、今ここの自分に集中し、少し気持ちが落ち着く。瞑想を補助するツールとしても、タロットは有効な気がする。

(愚者を例示するなかで、愚者の象徴である「柔軟性や無邪気」が財産や恋愛とは関係ないものとして描写したけれど、当然、「柔軟性や無邪気」が財産面や恋愛面に関わることはありえます。正確には、財産や恋愛についても、「柔軟性や無邪気」という側面から注目するようにすることを意味する、と言ったほうがいいかもしれません。)

8 (読まなくていいです)思考と言語の話

ここまでが、逆位置問題についての僕なりの主張だが、最後に、この主張の哲学的裏付けについて付記する。(ほぼ自分のためのメモなので、このような話に興味がないだろうほとんどの方は読まなくて結構です。)

以上の考察は、僕が考えている、思考や言語といったものについての哲学的なアイディアの一部を占いに応用したものだ。(実は、占いについて考えることで、思考や言語についての考えを間接的に深めてみたかったのです。)

僕の思考や言語に関するアイディアについて簡単に説明しておこう。

僕が目の前にあるペットボトルを見て、「ペットボトルがある。」と思考をするとき、僕の心もペットボトルに注目している。僕が把握する世界のなかでペットボトルは特別な存在となっている。他にもパソコンやボールペンが机の上に転がっているけれど、それらは背景に退き、ペットボトルだけが前面に浮かび上がっている。そして、僕は、今ここで、ペットボトルの存在の特別さを味わっている。

いや、パソコンやボールペンだって、そこに存在していると言いたくなるかもしれない。しかし、そのように言うことはできない。なぜなら、僕は、今ここでは、ペットボトルだけに注目しているのだから。

だから、そこから別のところに思考を進めるためには、否定を導入し「ペットボトルがある。」「ではない。」とするしかない。ここでは、否定という操作が重要な意味を持つ。

そのうえでならば、「ペットボトル」「ではなく」「ボールペンがある。」などと思考を進めることができる。そうすることで僕の思考は、今ここから離れていくことになる。

なお、否定を導入して思考を進めるためには、文章に書くなどして、その思考を言語で表現しなければならない。ただ「ペットボトルがある。」と思っているだけでは、その思考を進めることはできない。言語に表現し、思考を客観的に捉え、操作を加えなければならない。

以上が僕のアイディアの素描だ。僕は、思考や言語について、このようなものとして捉えている。

このような思考や言語についての考察と、先ほどの占いについての考察とは重ね合わせることができる。

2種類の占いのうちの、今ここの自分の決心のための占いは、ペットボトルと重なる。なぜなら、今ここにペットボトルがあり、そしてそれに現に注目しているからだ。それは、今ここの自分の決心のための占いをした結果、現に愚者のカードが出たことと重なる。今ここにあるペットボトルや愚者のカードは、いいも悪いもなく、ただ価値中立的な(正確には価値判断以前の)ものとして僕に突きつけられる。

そして、未来や誰かの心を知ろうとする占いは、ボールペンと重なる。ボールペンは、実際はすぐ近くにあるのだけど、そこに注目していないから、そのままでは決して僕の思考は届かない。そこに到達するためには操作が必要となる。その操作は、占いにおいては逆位置と呼ばれ、言語においては、否定と呼ばれる。操作を経由することで、今ここから離れ、占いは未来や誰かの心に到達し、思考はボールペンに到達する。

思考は、否定を通じ、言語の力を導入するからこそ、(これまで注目していなかった)ボールペンに届くことができる。

同様に、占いも、否定を通じ、言語の力を導入するからこそ、客観的な視点から見渡すように、未来や他者の心を眺めることができる。

逆位置とは、否定という操作を可能とする言語の働きそのもののことだったのだ。逆位置とは言語の仮の名だったと言ってもよい。

思考や言語と占いとが以上のような関係にあることを前提に、僕は、今ここの自分の決心のための占いの重要性を強調した。逆位置を用いず、未来や誰かの心を知ろうとする占いに移行することなく、ただ今ここに立ち止まることの重要性を示した。

これは、思考や言語についての話に立ち返るならば、否定の操作を導入し、いたずらに思考を進めることなく、ただ、「ペットボトルがある。」の段階に立ち止まることの重要性を示すということでもある。

更に言い換えるなら、それは、言語以前の、今ここに現にあるものに寄り添うということでもある。

そこまでいくと、占いというよりも、瞑想やマインドフルネスといったものに近づいてきてしまうようだ。このあたりのことは、また別の機会にきちんと論じたい。

旅の話2(趣味について)

0 はじめに

11月の上海に続き、12月には台中に行ってきた。こんなことを2ヶ月連続でできるなんて恵まれているなあ。家族には感謝したい。あとこういうことを成立させてくれている世界全体にも。

今回の旅のテーマは前回に引き続き「自然体」だった。同じ中国でも、大陸と台湾では難易度が違うから、より自然な感じで旅ができた。台湾、特に台中は、たいして見どころもないし、一人旅の最難関である(寂しくなりがちな)夕食も、夜市などで楽しく過ごせたし、とっても楽な旅だった。

ということで、持っていった哲学書はあまり読み進められなかったけど、とってものんびりと過ごすことができた。のんびりしすぎて、たいしたことを考えなかったけど、一応、旅の間に思いついたアイディアを発展させて、ここに書き残しておく。

1 趣味の魅力①固有の魅力

海外旅行は僕の趣味と言ってよいだろう。18歳の初海外にはじまり、毎年のように30年くらい海外旅行をしている。数えたところ今回が32回目だった。結構ハマっているほうだと思う。

では、僕にとって海外旅行という趣味はどういう意味があるのだろう。ほとんどの人がそれぞれ趣味を持っているけれど、そもそも人にとって、趣味はどうして重要なのだろう。そんなことを考えて今回、旅をした。

海外旅行には不思議な魅力がある。楽しいことばかりという訳でもないし、疲れる。特にバックパッカー的な貧乏旅行はなおさらだ。はじめの頃はうまくいかなくて、緊張の連続だった。学生時代にインドに行ったときは、トラブル続きで、なんでこんなことをしているのだろうと辛くなった。だけど、海外旅行には苦労しても味わいたくなる独特の魅力がある。未知の世界の真っ只中に放り投げられた異邦人としての自由な感覚、日常のしがらみから離れ、ただその日にやることだけに集中すればよいという解放感、時々ご褒美のように訪れる見知らぬ人との出会い。そういったものはほかではなかなか味わえない。苦しいこともあったけど、僕は海外旅行のそんな魅力にはまってしまった。

これが海外旅行の魅力なのだけど、世の中には色々な趣味があって、それぞれの趣味には固有の魅力があるのだろう。例えば、昔、はまっていたスノーボードなら、エッジを立てて遠心力に耐えつつ滑るスピード感や新雪を滑る浮遊感のようなものが魅力として挙げられる。きっと、僕が苦手な球技、草野球やフットサルにも別な魅力があるのだろう。

2 趣味の魅力②得意の魅力

今回、旅をしていて、僕にとっての長年の趣味である海外旅行には、もうひとつ別の魅力があることに気づいた。それは、僕にとって得意なこと、という魅力だ。

たしかに僕は英語もたいして話せないし、中国語はニイハオくらいしか話せないけど、これだけ経験を積んでいるので、海外旅行はスムーズにできる。入国審査だって手慣れたものだし、なんとなく現地の路線バスに乗ることもできる。当然自力ではなく、グーグル先生に助けてもらったり、(なるべくかわいい女の子を選んで)道を教えてもらったりもするけれど、人の力をどこで借りるべきかの判断も適切にできる。そんなふうに、うまく旅ができていると、やったぜ、と心の中でガッツポーズをとりたくなる。言葉が通じない中、適当に屋台でご飯を注文して美味しいご飯が出てきたときなんて、ビールを飲みながら周りを見渡し、俺っていい感じじゃん、と得意げになる。今回、そんなふうに屋台でビールを飲みながら、ふと、僕は、海外旅行固有の魅力からだけでなく、慣れていて得意だから海外旅行をしている面もあるのではないか、と気づいた。

先ほど書いたように、はじめからそうではなかった。インドで熱中症になったり、下痢になったりして、疲れているのに変なインド人が話しかけてきたときなど、もう嫌になって、早く日本に帰りたかった。

経験を積み、色々学び、余裕ができ、旅をコントロールできるようになったから、こういう旅の楽しみ方ができるようになった。これは、上達して得意になったからこその魅力だと言えるだろう。

多分、スポーツなどの他の趣味でも同じようなものだろう。最初はまず、下手なのになぜか、その趣味固有の魅力に捕らえられるところから始まる。そこから続けるうちに、徐々に上手になっていき、上達し得意になったこと自体が新たな魅力として加わっていく。当然、長年続けていても、もともと感じた固有の魅力が消え去ることはないけれど、新たに加わった魅力との構成比は変わっていく。最初は、 固有の魅力100:得意の魅力0 だったのが 固有の魅力50:得意の魅力50 になっていく、というように。

3 得意の魅力・自己肯定感

この得意の魅力は、自己肯定感の魅力と言い換えることもできる。僕は、長年旅をしてきたから、うまく旅ができる。うまく旅をしている自分を味わうのが心地よい。だから僕は旅が好きだ、とも言えるからだ。これはまさに自己肯定感と名付けてよいだろう。

ただ、自己肯定感というと、どうも何かと比較して高低を判断しているような感じがあるけれど、もっと根源的な心地よさだということも強調したい。例えるならば、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓を開けると、そこから異国の風が吹き込んでくるような心地よさだ。

僕は旅が得意だから、僕は旅において上手な立ち振る舞いをすることができる。その結果、僕は素敵な世界に関わることができる。いわば、世界の素敵な部分を引き出し、僕自身がその素敵な世界のなかに存在することができる。そこにあるのは、僕自身も含めた世界全体が肯定され祝福されているような感覚だ。これは、旅を通じて、僕が世界と馴染み、僕と世界とがダンスを踊るようにステップを踏み、ともに存在として高められていくような感覚だと言いたい。(伝わらないと思うけれど、雰囲気だけでも伝わるとうれしい。)

そのような意味で、自己肯定感のうち「自己」というのは余分で、そこにあるのは世界全体の「肯定感」であり、旅行が得意であることの魅力とは、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えてもいいようにも思える。

ここまで旅を例にしてきたけれど、旅以外の趣味でも同じことが言えるだろう。スポーツのほうが、よりわかりやすいのかもしれない。スノーボードできれいにジャンプができたとき、僕は世界と最適なかたちで接続し、世界全体に溶け込み、祝福されている。多分、野球でホームランを打ったときや、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたときなども同じような感じなのではないだろうか。球技は苦手だからそんなのは感じたことがないけれど。

4 趣味の魅力③達成感という魅力

もうひとつ、海外旅行には達成感という魅力もあるように思う。僕がインドから無事に日本に帰ってきたときには大きな達成感があった。課題を乗り越え、成長したという感覚と言ってもよいだろう。僕にとっての海外旅行の魅力は、この達成感が大きかったようにも思う。最近はそれほど感じないけれど、若い頃はこの達成感を求めていた側面が大きかったように思う。

この達成感という魅力は、様々な趣味に共通のものだろう。スノーボードなら、難しい斜面を滑りきったときや、上手にジャンプを決めたときには達成感があった。きっと、草野球で勝利したときや、編み物で大作を完成させたときにも同じような達成感があるに違いない。

残念ながら、達成感という魅力は、同じ趣味を続ければ続けるほど、失われていく。それに抗うように目標設定を引き上げ、より冒険的な旅をしたり、より高いジャンプ台からジャンプしたり、より強いチームと勝負したりすることも可能だが、それにも限界がある。同じことを続けていて、いつまでも新鮮な気持ちを持ち続けることはできない。達成感にも限界効用逓減の法則は働いているのだろう。

5 3つの魅力の関係

ここまでで、趣味には3種類の魅力があることが明らかになった。まず、海外旅行ならば、自由な感覚、解放感、出会いのような、趣味それ自体の固有の魅力。次に、肯定感とも言い換えることのできる、得意であることによる魅力。最後に、達成感という魅力だ。

このうち、第2の魅力と第3の魅力は、時間の経過とともに全く逆の動きをするという点に注目したい。その趣味を長期間続けることにより、得意の魅力は徐々に増加し、達成感の魅力は逆に減少していくのだ。

この2つの動きは、全く独立のことではない。その趣味を長期間続け、経験を積んだからこそ上達する一方で、経験を積んだからこそ達成感も減少していく。旅先でトラブルに会うと、学習して旅がうまくなる一方で、次に似たようなトラブルを乗り越えても達成感を感じなくなる。スノーボードでたまたま上手にジャンプを決めることができると、それが上達につながる一方で、次に同様のジャンプができても達成感にはつながらなくなる。上達と達成感は、いわば経験から帰結することの表裏なのだ。趣味において経験を積むということは、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくことなのだと言ってもよいだろう。

6 過去・現在・未来

では、経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだろうか、それとも悪い取引なのだろうか。達成感の魅力と得意の魅力では、どちらが重要なものなのだろうか。

そのことを考えるためには、過去・現在・未来という時間のことを考慮に入れるといいかもしれない。(僕は時間について考えるのが好きなので、僕にとってはいいアイディアなのだ。)

さきほど、上達し、得意になったことにより感じる魅力は、肯定感とも言い表すことができ、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えられるとした。この得意の魅力は現在に属すると言えるだろう。なぜなら、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓から異国の風が吹き込んでくるとき、スノーボードできれいにジャンプができたとき、野球でホームランを打ったとき、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたとき、その瞬間に感じられるものだからだ。

一方で、達成感は現在を素通りし、過去と未来に属している。

まず達成感が過去に属するのは明らかだろう。旅における達成感とは旅が終わってから感じるものだ。日本に戻ってから、ああ、あれを乗り切ったんだな、というように振り返るようなかたちで。スノーボードならば、滑りきった急斜面を見上げ、ああ、あそこを降りてきたんだな、なんて振り返る。草野球なら、試合のあとに居酒屋で祝勝会をして、ビールでも飲みながら振り返るのだろう。草野球の話はあくまで想像だけど、とにかく、達成感は過去に属する。

達成感が未来に属するということについては、少々説明が必要かもしれない。

達成感が未来に属するのは、達成感を感じるためには予測が必要だからだ。インドに行ったらお腹を壊すおそれがある、とか、あの国の入国審査は面倒だ、という知識があり、その知識に基づき、旅を成功させるために乗り越えるべきハードルを設定する。そして、そのハードルを乗り越えることで達成感を感じる。達成するためには、未来に向けてハードルを設定することが必須となる。

もし、未来のことを全く考えず、ぼんやりと旅をしていたら、それがどんなに過酷な旅だったとしても、達成感はないように思える。全く前提知識がないまま、紛争地帯を戦場カメラマンのように旅をして、たまたま運良く無事帰ってきても、そこには達成感はないだろう。たとえ運悪くテロ組織に拘束され、その後、無事釈放されるというようなドラマがあったとしても、前提知識がないなら、それは、家の近所で誘拐されて釈放されたのとなんら変わりはない。そこに安堵感はあっても達成感はないはずだ。達成感を感じるためには、将来を予測し、それを乗り越えようと、主体的に関与する必要がある。その意味では、達成感には、予測、つまり未来が大きく関わる。

このような意味で、得意の魅力は現在に属し、達成感の魅力は過去と未来に属する。

7 過去・現在・未来 その2

いや、この区分は少々荒っぽいかもしれない。当然、達成感の魅力において、現在は無関係ではない。なぜなら実際に達成するのは現在においてだからだ。ただ、予測し目標設定した時点(未来)と、それを成し遂げた時点(過去)との間の、まさに渦中にある時点(現在)においては、達成感など味わう余裕はない。その意味で、達成感の魅力は、現在を素通りしている。

また、得意の魅力においても、当然、過去と未来は無関係ではない。過去において旅の経験を積んだからこそ、旅が得意になっている。つまり過去は、僕の血肉となり、得意の魅力の基盤として支えてくれている。

未来についても、まっさらな無垢な未来があるからこそ、そこで想定外の新しい出来事が起きる。そこで想定外の出来事を乗り越えるからこそ得意の魅力を発現させてくれる。もし想定内の既知の出来事しか起こらなかったら、旅が得意だと感じることもなく、世界とうまくやっているという実感が生じることもないだろう。

正確に述べるなら、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退いている。達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。そう表現したほうがいいかもしれない。

8 タージマハル

このように考えると、得意の魅力と達成感の魅力とは、きれいに互いを補い合っている関係にあることから、同じものの2つの側面であると解釈したほうがよいと思うかもしれない。同じ旅の魅力について、旅をしている最中、つまり旅の現在においては得意の魅力として感じ、旅を終え、過去を振り返るときには達成感の魅力として感じるのだ、というように。

しかし僕は、あえて、この2つは全く別物であり、得意の魅力こそが本当の魅力であり、達成感の魅力はかりそめの魅力であるという方向で考えたい。つまり経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだ。

なぜ、そのように考えたいかというと、まず、僕が歳を取りつつあるからだ。僕は年令を重ね、経験を積み、得意の魅力を味わえるようになる一方で、達成感の魅力は味わいにくくなっている。今後、ますますその傾向は強まるだろう。今後手に入りにくいものより、手に入りやすいもののほうの価値があったほうが嬉しい。そう思いたい。

もうひとつの理由としては、本当に、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが根源的なものだと心から思うからだ。

ただ、そう思う根拠を説明しようとすると、話がとても長くなってしまう。説明できなくはないけど、この文章もそろそろおしまいにしたい。だから説明はあきらめ、雰囲気を伝えるに留める。

達成感の魅力というと、タージマハルに行ったことを思いだす。タージマハルは本当に絵葉書のように美しい。だから、ちょうど絵葉書みたいに見えるところに立ってタージマハルを眺めると、タージマハルが想定どおり絵葉書のように見える。当然それが観光のピークとなり、写真をたくさん撮ったりもする。だけど僕はそのとき、じゃあ絵葉書でいいじゃん、と思ってしまった。これは、つきつめれば、よく夏休みにやっているスタンプラリーと変わりはなく、とてもつまらない。未来の予測と過去としての振り返りだけのためにタージマハルに行ったようなものだ。僕はこれが達成感の魅力の本質だと思う。

なお当然ながら、スタンプラリーは実はとてもつまらなくなどない。友達と一緒に行くのは楽しいし、色んな電車に乗れるのも楽しいし、うっかり通勤ラッシュに巻き込まれてしまったりといったハプニングも面白い。同じようにタージマハルはつまらなくなどなく、実は2日連続で行ってしまった。空いている時間にひんやりした大理石の上に座りのんびりするのはとても心地よかった。これらは、未来の予測や過去としての振り返りからは無縁な旅の現在において感じる魅力であり、これこそが得意の魅力であると言いたい。

当然両者は混ざり合っているから、現実にはきれいに区分けできないかもしれないが、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということがなんとなく伝わるとうれしい。

9 2種類の過去・現在・未来

きちんとした説明は諦めつつも、もうひとつの別の切り口から、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということを指し示したい。

そのために、さきほどの過去・現在・未来の話について、もう少し整理しておきたい。思い出していただくと、このような話だった。

第6章:達成感の魅力は過去と未来に属し、得意の魅力は現在に属する。

第7章:正確には、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退き、達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。

つまり、過去・現在・未来は、それぞれ顕在化した過去・現在・未来と、背景に退いた過去・現在・未来とがある。列挙しよう。

過去1(顕在化した過去)思い出としての過去

思い出としての過去とは、タージマハルがきれいだったとか、タージマハルの大理石がひんやりしていた、といったような思い出としての過去のことだ。通常、過去というとこちらの過去をイメージするだろう。

過去2(背景に退いた過去)身体に取り込まれた過去

身体に取り込まれた過去とは、いわば、経験が血肉となったということを指し示す。僕はタージマハル観光をすることで、オートリキシャーがパンクしたのを乗り切ったり、ひんやりした大理石が気持ちいいことを学んだりした。その後の旅では、モスクがあるとつい立ち寄ったり、車が故障したらどうするかを頭の片隅で考えるようになった。過去の経験はそのようにして身体に取り込まれ、経験は血肉となり、旅の上達につながる。

現在1(顕在化した現在)瞬間としての現在

瞬間としての現在とは、タージマハルがきれいだ、タージマハルの大理石がひんやりしていた、とまさにそう思っている瞬間の現在だ。通常、現在というとこの現在をイメージするだろう。

現在2(背景に退いた現在)素通りされた現在

素通りされた現在とは、作業を行っている現在と言ったほうがいいかもしれない。タージマハル観光をしている現在だ。観光という作業をすることで、タージマハル観光が達成される。瞬間としての現在との違いを強調するなら、そこで現に何を感じたかではなく、そこで現に何をしたか、に着目した現在だと言ってよいだろう。

未来1(顕在化した未来)予測される未来

予測される未来とは、予測どおりだったか予測と違ったかに関わらず、予測でアクセスできる未来という意味だ。タージマハルを例にするなら、僕は、絵葉書のようにきれいだと予測してタージマハルに行った。実際、絵葉書のように美しかったのだが、実は絵葉書のようには美しくなかったとしても、それは予測と違ったという意味で、予測される未来の範疇だと考えてよい。タージマハルが美しいと予測することには、予測が外れて美しくないかも知れないと考えることも含む。タージマハルが美しかったり、美しくなかったりする未来が、予測される未来だ。

未来2(背景に退いた未来)想定外の未来

想定外の未来とは、タージマハルの大理石がひんやり冷たかったり、タージマハルに行くときに使ったオートリキシャー(3輪のタクシーみたいなの)がパンクしたり、といったような物事についてのものだと言ってよいだろう。旅をしていると、突然の人との交流や、ふと立ち寄った街の景色が心に残る。このような出会いは、実際にあるまでは、全く予測できない未知のものだ。生まれる前の子供のようなものだと言ってよいだろう。まだ出会っていない偶然の出会い、まだ起きていない偶然の出来事、そのようなものこそが想定外の未来である。(これこそが、本当の未来だと言いたい。)

10 得意の魅力の優位

以上のように、過去・現在・未来がそれぞれ2種類に分けられるとするならば、達成感の魅力と、得意の魅力は、更に詳細な描写ができる。

達成感の魅力:予測される未来と素通りされた現在と思い出としての過去に属する。

(理由)達成感とは、事前に設定されたハードル、つまり予測される障害を乗り越えることで感じられるものであり、現在は作業として素通りされ、それを感じるのは、常に達成したあと、思い出として振り返るときだから。

得意の魅力:想定外の未来と瞬間としての現在と身体に取り込まれた過去に属する。

(理由)得意とは、想定外の出来事に出会い、それを現にその瞬間において楽しみ、そしてその経験が血肉となるというあり方をしているから。

僕の好みなのかもしれないが、こう並べてみると、明らかに僕は、達成感よりも得意のほうに魅力を感じる。達成感の魅力とは、得意の魅力の劣化版なのではないかと思えるほどだ。それは、ツアー旅行と個人旅行との違いに似ている。

当然、予測することは大事だし、色々感じてばかりではなく作業に没頭することも必要だし、たまには思い出にひたり達成感を感じるのもいいだろう。

だけど、今の僕には過去を振り返る暇はない。達成感など要らない。僕は、今を味わい、そして、想定外の未来のほうを向いていたい。達成感なんていうものに囚われず、趣味を楽しみ、そして、肯定感を持って世界と関わり、世界になじんで生きていきたい。

11 趣味に込めた意味・天命

最後に、なぜこんなに趣味について熱く語るのかについて少し説明する。

実は、僕は、趣味という言葉に通常よりも大きな意味を持たせている。ここでの趣味とは、いわば、楽しみ、味わうことのできること、全てを指している。仕事だって楽しいなら趣味としてよいし、家族への愛や恋人との恋愛だって、そこに喜びを見出しているなら、その側面では趣味としてよい。というか、実はどれも趣味と同じものだと思っている。これら全てをひっくるめて、生きるうえでの「こだわり」と言い換えてもよい。

更には、人生のポジティブな側面のすべてを趣味と捉えることが許されるならば、僕はそれを、天命とさえ呼びたい。人生がまったくののっぺりとした平板なものではなくて内容があり、内容があることに価値があるのなら、そこにあるこだわり、つまり趣味こそが天命なのだとしてもおかしくないだろう。趣味とは、まさに人生を賭けたこだわりであり、生きるということそのものなのだ。

そこまで話を大きくするならば、趣味という言葉に、もうひとつ、他者のためにやることではない、という意味があることを強調したくなる。僕は誰かのためになど行きていない。僕は僕の天命のために行きている。その意味では、人は趣味に生きるしかないのだ。

だから、海外旅行をしている僕も、日常を生きる僕も、地続きの天命を行きている。こう考えれば、日本に戻り、日常に帰ることは、決して寂しいことではない。