哲学カフェ界隈では、哲学カフェでやられていることは哲学ではないという議論が多い。これは、なんとなく、哲学と哲学カフェの違いが強調されすぎたもののように思える。
当然、違いはあるのだけど、いくら違いを強調しても、だからといって、同じ部分がないということにはならない。哲学と哲学カフェは当然違うけれど、どこか地続きの同じものなのではないか。
ということの説明をこれから試みたい。

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哲学と哲学カフェは大きく違っていて同じものではない、という主張は、「同じ」と「違う」は両立しないというアイディアを前提にしている。そのうえで、だから「哲学」と「哲学カフェ」は「違う」のだから「同じ」ではない、と主張している。(と、僕には見える。もし違ったら指摘してください。)

このような二分法は、「砂山のパラドックス」に陥ると思われる。
砂山から一粒ずつ砂を取り除いていっても、砂山であることには変わりはないけれど、それを続けていき、最後の1粒になったとき、それも砂山と呼ぶのだろうか、というパラドックスだ。このパラドックスは、長年パラドックスと言われてきただけあって、正面から簡単に解決されるものではない。

哲学と哲学カフェについても、似たような思考実験ができるのではないか。
天国で著名な哲学者が集まり、哲学的な議論を始めたとしよう。例えば、ソクラテスとプラトンとアリストテレスが「国家とは何か」なんて論じたとする。
これは、哲学か、それとも哲学ではないか。

この議論の場は、哲学は、複数人で行うことがありうる、ということを認めるならば、哲学の典型例と言ってさえいいだろう。(もし、これが哲学であることを否定するならば、それは共著の哲学書は哲学ではない、とか、哲学関係の学会での議論は哲学ではない、ということになるだろう。後者は怪しそうな気もするけど・・・)

この哲学者による議論は、10人の参加者により10回コースで行われるとしよう。
最初の1回は、10人の哲学者により行われるが、徐々に参加者は、哲学カフェに来るような一般人に置き換えられていくとする。2回目は哲学者9人と一般人1人、3回目は哲学者8人と一般人2人、というように。
そして、最後の10回目は、一般人10人による議論が行われることとなる。

この、10回目の議論が、哲学カフェと呼ばれることには異論はないだろう。
一般人10人が集まり、「国家とは何か」というテーマについ話すというのは、哲学カフェの典型例だと言ってよい。
砂山が砂の粒になってしまったように、第1回は哲学であったものが、第10回では哲学カフェになってしまった。

では、いつ、哲学は哲学カフェに変わってしまったのだろうか。それは何回目の集まりのときだったのだろうか。
これについて、過半数となる6回目とする、というように断定することは可能だけれど、それは、千粒以下のときは砂山と呼ばない、と断定するようなもので、生活には役立つけれど無根拠だ。哲学と哲学カフェの違いについて、哲学的に議論しているのならば、そのような断定は避けなければならない。
明らかにこれは、砂山のパラドックスの一種であり、きれいにパラドックスを避けることはできない。

このパラドックスを解決するためには、「哲学」と「哲学カフェ」は、互いに浸透しあっている、と考えるべきなのではないか。
ソクラテスたちが行う哲学的議論のなかにも哲学カフェ性は含まれており、僕たちが哲学カフェで行う議論のなかにも哲学性は含まれているということだ。
(砂山にも一粒の砂性は含まれており、一粒の砂にも砂山性は含まれているということでもある。)
それは、哲学と哲学カフェは(そして、砂山と一粒の砂も)違うものだけど、同じものとして、完全に二分することはできないものとして扱うことである。

「同じ」と「違う」は両立する。
そのように考えるのならば、哲学と哲学カフェの違いをいくら強調しても、それが哲学と哲学カフェには同じ部分もある、ということを否定することにはつながらない。
どのような批判を受けても、哲学と哲学カフェとはひとつながりのものなのだ。
哲学カフェの意義はそこにある。

そのうえで、哲学と哲学カフェは、どこが違い、どこが同じなのかを精緻に議論することには、哲学的な意義があると思う。
哲学者が集まって行う哲学的な議論に含まれている哲学カフェ性とはなんだろうか、というように・・・
だが、それは、まさに哲学カフェで続きを話すのにちょうどいいテーマのように思われる。