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薄い膜と概念操作の話

1 薄い膜

いつの頃からか、時々、世界と自分との間に薄い膜があるように感じることがある。僕の身体の境界のあたりに貼り付くように、薄く目立たないけれど確実に身体をくまなく覆い尽くすように。

膜により僕は世界と隔絶されている。周囲の世界は僕抜きでもうまく回っていて、大縄跳びに入れない子どものように、僕は世界に上手に関わることができない。世界において僕は余剰物であり、僕の手が届かないところで得体のしれない世界は蠢いている。膜は実感として存在すると同時に、そんな気分を比喩的に表現するものでもある。

膜は僕のことを護ってもくれている。膜は、防風林のように、恐ろしい世界から僕を隔離し、小さな安全地帯を作り出してくれる。ちょうど一人分の大きさの凪いだ水槽の中を静かに漂うことを許してくれる。(僕は照明を落とした風呂に入り、(自分以外に入る人がいないとき)頭までお湯に沈んでしまうのが好きなのだけど、そのときに感じる感覚とどこか似ている。)

膜は、僕を世界から護ってくれる防御壁である一方で、僕を僕の身体に閉じ込める牢獄ともなる。僕は、時々、体の周りにぴったりと貼り付く膜に閉じ込められ、息苦しくなる。なんとか膜を破り、閉塞感から逃れたくなる。だけど膜を破ることはできない。最近は、このような閉塞感が気になるようになってきた。

多分、僕がこのような膜を身にまとうようになった経緯には、子どもの頃の人間関係の問題が影響している。大人になり、人間関係の問題にうまく対処できるようになり、そろそろ膜も用済みということなのだろう。

2 概念操作

薄い膜が僕を包んでいることによる影響は、僕の哲学の根幹に及んでいるように思う。

僕は独我論的で懐疑論的なことを考えがちなのだけど、その根底には、薄い膜により隔絶された外界のことなどわかりようがないという実感がある。往々にして独我論や懐疑論は単なる思考実験のように取り上げられる。だけど僕にとっては、そうではなく、膜がもたらす実感に基づく馴染み深い思考傾向なのだ。

僕の哲学は、独我論者や懐疑論者を仮想論敵とし、彼らを打ち破ることを目指すものだ。それはつまり、哲学的に薄い膜を打ち破ることを目指すことでもある。僕にとっての哲学とは、少なくとも一面では、僕を包む膜から逃れることを目的とした活動なのだ。

僕は哲学を通じて、この膜と格闘している。膜に力を加え、引っ張ったり縮めたりして変形させ、ついにはこの膜を破ることを目指している。この文脈においては膜を概念と言い換え、膜に力を加えて変形させる行為を概念操作と言い換えることができるだろう。僕は哲学において、概念を操作し、概念を打ち破ることを目指しているのだ。

概念のなかでも特に重要となるのは、世界や時間や人生といった概念だ。独我論的な僕の哲学において、僕を包む膜が、このような概念として表現されるのは当然だろう。僕は世界や時間や人生といった概念に閉じ込められているのだ。だけど、それらの概念をこねくりまわしているうちに、いつか完全に客観的に捉えることができたならば、そのときこそ、僕は膜を打ち破り、牢獄から逃れることができると夢見ている。客観的に概念を捉えるとは、つまり、僕をつつむ膜を、僕の外部の視点から捉えることだからだ。

哲学により僕を包む膜を打ち破るとは以上のような意味においてである。だから、僕の哲学は、概念との格闘であり、更には、僕にとっての哲学とは概念操作と等しいとさえ言えるだろう。

3 入不二基義

僕が重視する概念操作を手っ取り早くご理解いただくためには、(読んだことがある方は)入不二基義の哲学をイメージしていただければいいだろう。

入不二は概念操作の名手であり、存在、時間、運命といった概念を自由自在に操り、いわば手垢がついたこれらの概念の、全く違うあり方を鮮やかに示してくれる。

入不二は、概念を拡大解釈したり他概念と比較したりというような一般的な操作(水平的な操作)のみならず、概念を成立させるメタ概念を指し示そうとするような彼独特の操作(垂直的な操作)を通じ、概念をぎりぎりまで操作し、概念操作の限界を探る。彼が目指すことは概念の明確化というより、概念の操作可能性の限界を探り、概念の潜在的な力を解放することなのだろう。

実例は彼の本を読んでいただきたいが、概念操作の名手である入不二は、熟練した職人のような手際で概念を薄く引き伸ばし、概念という薄い膜の向こう側を透かし見るようにして垣間見せてくれる。

僕にとっての入不二哲学とは、単に正しかったり、読んで楽しかったりするだけではなく、このような実用的な意義があるものなのだ。だから僕は、彼のような概念操作ができるようになることを目指しているのかもしれない。

4 哲学以外

このように振り返ってみると、僕にとっては、どうも哲学よりも膜が先にあるようだ。僕にとっての哲学とは、膜から逃れるための手段でしかないのかもしれない。膜から逃れられるならば哲学でなくてもいい。その証拠に、僕は哲学以外にもいくつかのやり方で膜と格闘している。

例えば僕は旅が好きだ。僕にとっての旅とは人生や時間と深く関わるものだ。しばしば旅は人生に喩えられるけれど、この比喩には僕も深く同意する。飛行機が離陸して日本を離れるとき、僕は子どものように旅の始まりの期待に胸を膨らませ、そして旅が終わり、飛行機が房総半島に着く頃、僕の心は死を前にした老人のように達成感と喪失感で満たされる。このような感覚は、旅好きの多くが感じるものなのではないだろうか。ごく普通の意味で、旅をすることとは人生を知ることとは多少はつながっているように思う。

更には、旅は時間を空間に変換する装置だとも思う。例えば1週間かけて、タイのバンコクからシンガポールまでバスや電車で旅をしたとする。そのとき、1週間という時間は、バンコクとシンガポールを結ぶ、地図上の一本の線として描写できる。時間という捉えどころのないものを空間上の線に変換することで、客観的な視点から把握が可能となる。僕のバンコクからシンガポールまでの旅の思い出は、地図上の線分として持ち運び可能なものとなる。

当然、このような試みは完全には成功しない。昆虫標本に昆虫の生命を保存できないのと同じように、空間化された時間には時間の本質はないし、人生と旅は似て非なるものでしかない。だけど、僕を覆っている膜を人生と名付けるならば、旅により、その膜をなんとかしようとする、という僕の試みは、そう的外れなものではないように思う。

もうひとつの膜からの脱出の試みとして、僕は、マインドフルネスと瞑想の呼吸にも興味がある。僕の理解では、マインドフルネスとは「今ここ」という切り口で世界を捉えようとするものであり、呼吸は、「今ここ」に時空的な広がりを与え、「今ここ」と世界の全体、時間の全体とを接続する可能性を秘めたものだと考えている。

僕は初心者だから実際はそんな境地には達していないけれど、マインドフルネスや呼吸は、哲学よりももっと直接的に、僕を包む薄い膜を打ち破る力を持っているように思う。

これ以上は脱線となるので詳述しないが、それ以外にも、薄い膜を打ち破る可能性があるものとしては、スノーボードのジャンプや音楽やセックスといったものもある。僕が好きなものは、たいてい、僕を包む膜との格闘とつながっているようだ。

当然、僕は膜を打ち破ることを意識して、意図的に、哲学や海外旅行やマインドフルネスやスノーボードといった趣味を選んだ訳ではない。だけど、このように振り返ってみると、そこには偶然ではない一致があるように思う。

5 哲学の忘却

当然ながら、いくら概念を押したり引いたり伸ばしたりねじったりしても、概念を打ち破ることは不可能だ。入不二は確かに膜の向こうを垣間見せてくれるが、それは水泳の息継ぎのように一瞬のことであり、すぐに僕は膜の内側に引き戻される。僕は一生あがいても、膜に閉じ込められたままなのだろう。

だが、ここで吉報がある。僕はこの膜を常に意識している訳ではないのだ。というか、生活の場面ではほとんど気にすることもない。時々ふと思い出すだけだ。それならば、一番の解決方法は、気にせずに忘れることなのかもしれない。

膜も、哲学も、忘却してしまえばいいのかもしれない。歳をとり、色々と忘れることが多くなると、忘却という解決策は意外と現実的なやり方かもしれないと思う。

6 膜との戯れ

忘却のほかにもうひとつ、もう少し能動的な関与が可能な道があるように思う。それは遊戯という道だ。

入不二は哲学者という顔以外に、もうひとつ、レスラーという顔を持っている。彼は概念を相手にやっていることと同じようなことを人間相手にやっていると思うのだけど、やっていることの本質は、哲学よりもレスリングのほうがよく現れているかもしれない。彼によればレスリングは動物の子ども同士がよくやっている取っ組み合いによく似ている。彼がやっていることはレスリングという人間との遊戯であり、哲学という概念との遊戯なのだろう。レスリングという行為を思い起こすなら、遊戯という言葉には、破壊的な側面と、癒やしとでも言うべき側面の両面があるように思う。

僕も膜との遊戯を目指したらいいのかもしれない。膜を打ち破ることは所詮無理なことなのだから、それならば、もっと膜と戯れよう。膜と戯れることは意外と楽しいことなのかもしれない。哲学をしていると、少し、そんな気もしてくる。

※今回は入不二基義の哲学を取り上げましたが、もうひとり、永井均の〈私〉の独在論も膜からの脱出の試みに役立っているように思います。入不二のやり方を格闘や遊戯とするならば、永井のやり方は「無化」と言い表すことができるかもしれません。
永井の議論を僕なりに解釈するならば、〈私〉は、いわゆる私といわゆる外界というような二分法を無化する別次元の力を有していると言えるからです。だけど、〈私〉の独在的な力は、人間の手元に飼いならすことができるようなものではないので、膜を逃れたと安心した瞬間にその力は手元を離れてしまうので、その試みは一時的な成功にしかつながらない、ということになります。

※読み返してみると、ここで書いた薄い膜の話は半分フィクションのようにも感じます。僕を包む膜の感覚は通常はとても微弱なものだし、膜を感じる頻度もそれほど多くありません。この薄い膜の話は、僕の中にある感覚をうまく伝えるための誇張した比喩のようなものとご理解ください。

恐れと圧倒と個別具体性と概念化

1 僕の哲学の遍歴

僕は幼い頃の記憶があまりない。だから、きちんと記憶を遡ることができるのは小学校の頃までだ。

小学校入学したての頃、僕はできの悪い子どもだった。集団行動が苦手で、運動音痴で、学校での振る舞い方もピントがずれている、いわゆる落ちこぼれだった。

小学校に入るタイミングで引っ越したこともあり、仲のよい友だちもいなくて、近所の子にいじめられていたので、世の中とはとても怖いものだった。その怖さの感覚は転校生ポジションではなくなった後も残ったように思う。と言ってもそれはそんなに深刻なものではなく、他の子と同じように暗闇が怖くて、口裂け女が怖くて、誘拐されて香港に売られることが怖かったという程度のものだったかもしれない。

世の中はもっと整合的で理解できうるものだと知っていくにつれ、そんな他愛もない恐怖は薄れていった。記憶は曖昧だけど、小学校高学年になり色々なことを学び、恐怖を克服しつつあった僕に、恐怖の代わりに訪れたのは、宇宙に圧倒されるような感覚だったように思う。僕はSFを知り、SF的な宇宙の広がりに圧倒されたのだ。そのときの感覚を断片的に記述してみよう。

「宇宙が無限に広がり、人間よりもはるかに高度な文明を持った宇宙人がいるかもしれないのに、人類はそのことを全く知らずに地球にへばりつき細々と活動している。もしかしたら、この世界は高度な宇宙人が地球人の最後の生き残りである僕を飼うためにつくった檻かもしれないのに、僕はそれに気づくことすらできない。」という感じだ。

このような、SF的な宇宙のあり方への圧倒感が、僕の哲学のひとつの始まりであったように思う。

そんな僕も中学生になり、周囲が成長するにつれ、僕もそれに合わせてSFアニメやSF小説ではなく、部活や、恋愛マンガや、芸能人といったことに興味を移さざるを得なくなっていった。広大な宇宙に漂っていた僕は、捕らえられて学校のクラスという密室に閉じ込められてしまった。そんな感覚でいる僕がうまく集団生活をできる訳もなく、中学生の頃の僕は、多分いじめられっ子と言ってよい立ち位置だったと思う。こうして僕は、幼い頃に世界に対して感じていた恐怖と同じようなものを、周囲の人間に感じるようになっていった。

だけど高校生の夏、ふと、他の人間たちも健気に生きていることに気づいた。このときの感覚はとても印象深かったので何度も文章に書いているから省略するけれど、簡単にまとめると、僕が気づいたことは、僕も含めた人間は人生を精一杯生きているということだ。人は誰も、僕と同じように自分の人生を生きている。僕は人生というものがあることに圧倒されたと言ってもいい。

ここから僕は哲学的なことを考えるのが好きになり、人生や世界といったものについて考えるようになった。だれど、就職し結婚して子育てをして、と忙しくしているうちに哲学からは離れてしまった。

30代前半の頃、子供と一緒に図書館に行き、哲学的問題について思い出し、そこから50歳近い今まで15年くらい色々な哲学に触れるようになった。今は時間に興味があるけれど、それは人生というものがある程度まで、時間という言葉で置き換え可能であることを学んだからだ。その意味で高校生の頃の哲学と現在の哲学とは地続きでつながっている。

以上が僕の哲学の遍歴だ。まとめると、

小学生低学年:世界に対する恐怖

小学校高学年:SF的な宇宙の存在の圧倒(ひとつの哲学のはじまり)

中学校   :人間関係に対する恐怖

高校    :人生の圧倒(ふたつめの哲学のはじまり)

大人    :人生の時間への置き換え

というように要約できる。

2 圧倒と恐怖

こうして振り返ってみると、僕の哲学の遍歴において、哲学のはじまりとして二つの圧倒感という山が関係していたことに気づく。ひとつは、僕が小学生の頃、銀河鉄道999やガンダムや星新一のショートショートにはまった時に感じた、SF的な宇宙観に圧倒されるような感覚。そして、もうひとつは、高校生の頃、他の人にも人生があると気づいたときの目もくらむような圧倒感である。

それと対になるように二つの谷があったことにも気づく。小学校入学後と中学生時代という二つの時期における、学校のクラスになじめずに感じた恐怖の感覚だ。

この二つの圧倒と二つの恐怖は、僕の哲学的問題の遍歴を考えるうえで、大きな意味を有しているように思う。

僕は恐怖を圧倒感で克服しようとしたのではないだろうか。

小学校低学年の頃に感じた世界に対する恐怖に対して、小学校高学年の頃の僕は宇宙というものが持つ圧倒感で上書きし、そして、中学生の頃に感じた人間に対する恐怖についても、高校生の僕は人生というものが持つ圧倒感で上書きしようとしたと今になってみると考えられるように思う。

3 圧倒感と哲学

この圧倒感による恐怖の克服と、哲学のはじまりとは大きく関係しているように思える。

僕にとっては、圧倒感とは恐怖を忘れさせてくれるものだった。または圧倒感とは恐怖を解消するための鍵だと考えていたとも言えるかもしれない。恐怖から、恐怖が持つ力だけを取り出し、圧倒という力として純化することで、恐怖を圧倒に置換することができると考えたのかもしれない。

または、圧倒されるほど途方も無いものである宇宙や人生の謎を解き明かし、把握し理解することができれば、こんなにも恐ろしい宇宙や人生に正面から立ち向かい、打ち勝つこともできると思ったのかもしれない。

当然、当時はそんな言葉遣いをしたことなどなかったけれど、今の言葉で表現するならば、そんなことを考えていたような気がする。

このような自己分析がどこまで当時の状況を描写できているかはわからないけれど、とにかく、今の僕にとって、世界や人生というものが持つ圧倒感は、とても好ましいもので、あえて目を向けたくなるものだ。このような態度と、僕の中の哲学的志向は密接に関わっていることは間違いない。僕にとって、圧倒されるような世界や人生について哲学的に考える時間は、自らを癒やしてくれる、とても大切なひとときであることは確かだ。

4 概念化

僕にとっての哲学がこのような経緯を有しているということが、僕の哲学のあり方を決定し、限界づけているように思う。

僕の哲学は、口裂け女や中学校の同級生といった具体的な恐怖を克服するためのものであった。口裂け女がいたとしても、何十億年後に太陽が膨張し、地球を飲み込むことを考えれば、そんなことは大した問題ではないし、同級生のいじめっ子との関係に悩むより、そもそも暴力が悪であるかどうかを論ずるほうが重要で生産的だ。当時の僕はそのように思っていたのだろうし、今もそう思う。

このようなものとしての僕の哲学は、つまり個別的で小さな物事を普遍的で大きな物事に置き換えていこうとする作業だと言ってもいいだろう。

また、この作業は概念化と呼ぶこともできる。だからこそ僕がやっていることは哲学と名付けることができるのだ。

僕は、世の中に既にある哲学書や哲学者の言葉から哲学を始めたのではない。それでも、僕がやっていることを哲学と言えるのは、僕がやっていることが概念に関する営みだからなのだろう。僕は、生物についての学問が生物学であるように、概念についての学問が哲学であると考えている。

当然、世間には概念化ばかりを目指さない哲学もある。(詳しくは知らないけれど)応用倫理学のように概念と現実の個別具体的な事象とを結びつけようとするような学問領域もある。だけど、それは僕にとっての哲学ではない。僕の哲学とは、そのような個別具体的な事象を消し去ろうとするものだ。まるで口裂け女やクラスのいじめっ子から逃げるように。だから世間の哲学ではなく、僕にとっての哲学においては、ひたすら概念化を目指すことこそが哲学の効用である。

ただし同時に、ひたすら概念化を目指すことが僕の哲学の限界でもあると思う。恐怖を逃れようとして、ひたすら概念化を目指すということは、別の角度から描写するなら、個別性を喪失し消し去ることを目指していると捉えることもできる。確かに僕の哲学においては、個別具体的なものはどこにもない。なぜなら、僕が目指していることがそうすることだからだ。個別具体的なものを敵視し、消し去ろうとしていること。これが僕の哲学の限界だ。

個別具体的なものを消し去り、焼け野原のような世界を作り出そうとするもの。これこそが概念化を目指す僕の哲学の正体なのだ。

5 個別具体的なもの

僕の哲学は、現在、個別具体的なものの扱い方で行き詰まっている。

僕は、アルキメデスの支点さえあれば、そこから錬金術のように、すべての構造を生み出すことができると考えている。そのようにして世界の構造全体について、その始原から説明することができると考えており、それを目指している。試行錯誤はしているけれど、多分、その試みは一定程度成功するだろう。

なぜなら、僕が目指す哲学者は熟練した職人のように様々なものを生み出すことができるはずだからだ。哲学とは概念化することであり、哲学の技の妙はその概念をどのように操作できるかにかかっていると僕は考えている。ガラス細工職人が熱したガラスを曲げたり伸ばしたりして様々な形を作り上げることができるように、哲学の技を磨けば概念から様々なものを作り出すことができるはずだ。その点で哲学者は科学者よりも職人に似ている。熟練した職人であれば、概念から様々な構造を生み出せるに違いない。僕はそんな職人を目指している。

だが最近気づいたが、問題は、構造を生み出すところではなく、その構造にどのように個別具体性を付与するのか、というところにあるのではないか。

熟練したガラス職人はガラスで本物と見間違えるような象を作り上げることさえできるだろう。しかし、それは生きた象ではなくガラスの象でしかない。

同じように、熟練した哲学者は、様々な構造を作り上げることができるだろう。哲学者は、なにもないところから、唯一の支点を起点として、時間や空間や善といった様々なものを作り上げることはできるだろう。しかしそれらはすべて概念であり、個別具体的なものとなにもつながらないガラス製の時空や倫理でしかない。

確かに、僕の哲学は、そのあり方からして、個別具体的なものにつながりようがない。個別具体的なものを拒否し、そこから逃げるようにして行っている哲学が、個別具体的なものを説明しようとするなど、自己矛盾でしかないのだろう。

僕は、行き詰まっている。

6 世間の哲学

僕が哲学に対して抱いている困惑は、多分ほとんど理解されないだろう。だけど、少しでも伝わるよう、世間の哲学と接続した説明に挑戦してみよう。

概念化という言葉を最も適切に表現しているのは、永井均の「ものごとの理解の基本形式」という言葉だろう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」がものごとを理解するうえでは必要不可欠であり、ものごとを理解するということを支えているのは、このような基本形式にある。それならば、目の前に座るネコについてネコとして理解するためには、そのネコが複数存在しうるネコという種類の一例であることを受け入れなければならない。

僕はこの永井の考えは正しいと思う。だけど、同じことをイヌについても言えるかどうか考えてみると、哲学的には問題が生じるように思う。

当然、ネコと同様にイヌについても、「目の前に座るイヌについてイヌとして理解するためには、そのイヌが複数存在しうるイヌという種類の一例であることを受け入れなければならない」と言うことはできる。

だが僕はここで疑問に思う。そもそもネコとイヌを置き換え可能なものとして同列に考えられるのは、既に「ものごとの理解の基本形式」があるからなのではないか。イヌもネコも動物という種類の一例だからこそ、「同じ」操作ができるのではないか。つまり、「ものごとの理解の基本形式」を適用するという操作のなかに、既に「ものごとの理解の基本形式」が入り込んでいるのではないか。「ものごとの理解の基本形式」を経由せずに直接的に「ものごとの理解の基本形式」を適用することは不可能なのではないか。これが僕の疑問だ。

同じ問題を別のかたちで指摘しよう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」という定義は、そもそも、個別具体的なものを拒否しているのではないか。なぜなら個別具体的なものは複数個存在することはありえないはずだからだ。あのネコとこのネコは全く違うから複数個などというかたちでは捉えられないということが個別具体的の意味のはずだ。それならば、「ものごとの理解の基本形式」により個別具体的なものを捉えることはできないことになる。これは大問題でないか。

つまり「ものごとの理解の基本形式」というアイディアが正当なものであることを認めるということは、個別具体的なものは理解できないということを認めるということである。

そして残念ながらそのとおりなのだ。

多分、永井はそのことを指摘するために、「ものごとの理解の基本形式」というアイディアを提示しているのだろう。そして、更に永井は「ものごとの理解の基本形式」に当てはまらないものとして〈私〉があると言うのだろう。

僕もそれを認めることはやぶさかではない。だがそのような例外はそう多くない。この例外を特異点と言い換えるならば、僕の見込みでは、そのような特異点はどのような哲学体系においても一つか二つしかない。その特異点は〈私〉、神、言語、身体などと呼ばれる。これらの特異点とはこの文章での僕の表現を用いるならば、アルキメデスの支点のことだ。一つ(または二つ)しかない支点から、どのように個別具体的なものを錬成できるというのだろうか。

僕の哲学はここで行き詰まっている。この行き詰まりは世間の哲学の行き詰まりでもあると思う。僕は世の哲学において、個別具体的なものを密輸入せずにこの問題を解決している例を知らない。

僕はこの問題を解決し、アルキメデスの支点から、豊穣で精緻な、この当たり前の世界を錬成し、説明しつくしたい。そして、恐れを抱かずにこの世界に安住したいと願っている。それは無理な願いなのだろうか。

「愛を伝える5つの方法」を読んで ~愛と対話の話~

1 5つの愛の言語

「愛を伝える5つの方法」という本を読んだ。夫婦が仲良くするためにとても大切なことが書かれていた。わかりやすく、コンパクトなのでたくさんの人に読んでほしい。数時間あれば流し読みで十分理解できると思う。(僕は古本で買ったけれど、キンドル・アンリミテッドにも入っているようだし。)

この本の主題は、一言で言うならば、「愛の伝え方には5種類あり、相手が得意な方法で伝えないと、その愛は伝わらない。」というものだ。5種類の愛の伝え方とは、僕の表現で置き換えるならば、①言語、②時間、③物、④行為、⑤身体となる。言葉で愛を表現してほしい人に対して、物(プレゼント)で愛を表現しても、その愛は伝わらない。身体接触で愛を表現してほしい人に対して、掃除をしてあげたり、ご飯を作ってあげたり、といった行為をいくらしても、その愛は伝わらない。そういったズレが、夫婦の問題を生じさせている。だから、夫婦がうまくいくためには、相手の愛の言語を知り、その言語で愛を語らなければならない。この本で書かれていることの主なところはこのようにまとめることができるだろう。なお、この本では、愛の伝え方のことを愛の言語とも呼んでおり、英語話者に対して中国語で語りかけるような愛の言語のズレが生じているから、夫婦の問題が生じてしまう、という比喩も用いている。

2 脱線:夫婦カウンセリング

脱線だが、なぜ僕がこの本を読んだのかというと、夫婦カウンセリング(コーチング)を受けていたら、この本の話が出てきて、興味が湧いたからだ。確かに、僕と妻との問題は、愛の言語のずれに起因する側面があったように思う。

なお、脱線してまでプライベートな夫婦カウンセリングのことになぜ触れたかというと、第三者がカウンセラー(コーチ)として夫婦関係に関与することがもっと一般化したらいいと思ったからだ。夫婦で正式にカウンセリング(コーチング)を受けるというのは思ったより意義ある経験だった。お金を払った分だけ真剣に取り組めたし、夫婦で同じ話を聞いて共通の知識を身につけることで、その後の生活でも「これは、あのときのあの話だから注意しようね」なんていうかたちで使えるからだ。閉鎖的なものになりがちな夫婦関係に他者の目が入ることで明らかに夫婦関係はもっとよくなる。ぜひ、特に結婚したての夫婦に、もっとカジュアルに体験してほしいと思う。

3 キリスト教的な愛

実は、この本に書かれていたことで、主題である5種類の愛の言語の話以外に、もうひとつ興味深かったことがある。

それは、キリスト教的な愛についての描写だ。キリスト教的な愛と言っても、神学的な難しい話ではない。多分、日曜日の教会での説教で聞いても皆が理解できるような話だ。この本の作者はアメリカのキリスト教の牧師でもあるからだろうが、この本の根底には、世俗的キリスト教の観点からの愛が流れている。

僕は、この愛の話を、相手に合わせて自分と異なる愛の言語を語ることの困難さと、その困難を乗り越えることの重要さについての話だと理解した。

この本は、妻と触れ合ったり、旅行をしたりして一緒に楽しい時間を過ごすことこそが愛の表現だと思っている僕に対して、そうではなく、毎日トイレ掃除をすることで愛を表現しなさい、と命ずる。正確には、そのようなかたちで愛を表現するかどうかを僕の選択に委ねる。この本は僕に対して「彼女は毎日のトイレ掃除を通じて愛されていると理解することができるようだけど、あなたは毎日のトイレ掃除というかたちで愛を囁く覚悟はある?」と問いかける。

これはかなり厳しい選択だ。これではまるで僕は彼女に気に入られるためだけにトイレ掃除をするみたいだ。確かにトイレ掃除は必要だけど、たいして汚れていないのに、ただ彼女の機嫌を取るために毎日、無駄なトイレ掃除をするなんて耐えられない。(なお、これはフィクションです。我が家ではトイレ掃除は僕の担当ではありませんし、毎日は掃除していません。)

ここで、この本はキリスト教的な愛を持ち出す。これは彼女の機嫌を取るための行為ではなくて愛なのです、と。トイレ掃除とは、キリストが弟子の足を洗うのと同じく献身としての愛なのです、と。

4 恋と愛

ここでの愛とは、恋愛という言葉を用いるなら、恋と対比しての愛だと言ってよいだろう。「恋と愛とは違うのか」という、多くの人が一度くらい考えたことがあるだろう人気のある哲学的テーマだ。

この本では、この恋と愛の違いの問題ついても見解を述べている。その見解は、恋と愛とは全く違う、というものだ。この本によれば、恋とは一時的な(多分罹患後2年ほどで自然治癒する)病のようなものだ。そして嵐のような恋が過ぎ去ってから、全く別のものとして本当に重要な永続的な愛が始まる。一時的な恋と永続する愛の間には大きな違いがあり、だからこそ夫婦で愛を育むことは重要だとこの本は強調する。

僕はこれまで、恋と愛について、重なる部分もあり、異なる部分もある、というくらいに考えていた。だが、確かに恋と愛の間にはこの本が述べるような断絶はあるように思う。そして、その断絶は、きっと恋と愛のプロセスには真逆といってよいほどの違いがあることに由来するのだろうと気づいた。

4-1 恋

ここからは、この本に書かれていることではなく僕個人の理解だが、恋のプロセスは次のようになるだろう。

① AがBに好ましい特徴を見つけて、相手を気に入る。

② うまくいけばBもAに好ましい特徴を見つけて、自分を気に入る。

③ AとBは、お互いに好ましい特徴を持っていて、相性がいいのだから、二人とも自然体でやりたいことをすればうまくいく。

このようなプロセスを経て恋は始まる。しかしこの本に沿うならば、この恋のプロセスは行き詰まることとなる。

恋のはじまりにおいて、僕は、彼女には好ましい特徴(優しい、趣味が合う 等)があるから、僕が自然体で振る舞えば、きっとそれを受け止めてくれるし、一緒に色々なことができるだろうと考える。きっと彼女も、彼には好ましい特徴(頭がいい、頼りがいがある 等)があるから、私が自然体でいれば、きっと理解してくれるし、安心して過ごすことができると考えるだろう。恋の始まりにおいて抱くこのような思いは一見妥当なように思える。お互いに認めた者同士がペアになれば、他の組み合わせよりもうまくいく可能性は飛躍的に高いに違いない。

しかし実際にはそうはならない。長時間にわたり一緒に過ごすことは思ったよりも難事業であり、一点でもうまくいかないことがあると、そこから綻び、全てが崩れてしまうことがありえる。確かに、お互いに認め合った夫婦であれば、他の人と組むよりも多くのことはうまくやれるけれど、どうしても生じてしまうたまたま合わなかった僅かなことが問題となり、その問題が夫婦関係全体を覆い尽くしてしまうことがあるのだ。

それでも、恋の初期には取り繕って相手にいいところばかり見せてしまうし、恋で盲目になってしまっているから僅かな問題に気づくこともないだろう。けれど、いつか恋の魔法が解けると、問題が顕在化し、それがたとえ僅かなものであっても、うまくいっている部分よりも、その僅かな問題のほうに目を向けざるを得なくなる。

これは、砂漠で喉が乾いているときに、空気があるからいいとは思えないのと同じことなのだろう。人間は生きていくうえで水も空気も必要だ。空気がなかったら一瞬で死んでしまうのだから、はるかに水よりも空気のほうが重要だと言ってもいいだろう。しかし砂漠で喉が乾いているとき、空気があったからいいとは思わない。周囲にある空気には意識も向かない。

同じことが夫婦の間でも起きる。彼女の優しさや彼の頭の良さは空気のように充満しているけれど、そこには目が向かず、毎日のトイレ掃除を求める彼女のヒステリックな物言いや、生返事でさぼる彼のだらしなさが砂漠での喉の乾きのように二人の心を支配するようになる。

このようにして恋は夫婦関係の変化に対応することができず、恋という熱病は冷めていくこととなる。

4-2 愛

そこで登場するのが愛だ。愛の立場に立つならば、そもそも、好ましい特徴があるから相手を好きになる、という順序自体が間違いなのだ。本当の愛においては、理由などなくても、まず献身しなければならない。相手に好ましい特徴があるかどうかや相性がよいかどうかなど関係なく。

このような愛の立場は、さきほどの恋のプロセスの反転図形のように、次のようなかたちで描写できるだろう。

① (なにもなくとも、まず)Aは、Bに対してBが望むことをする。

② BがAのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、BはAを気に入る。

③ (Aを気に入った)BがAが望むことをする。

④ AがBのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、AはBを気に入る。

⑤ AとBとが、お互いに好ましい特徴を持つようになり、よい関係となる。

以上の恋と愛のプロセスを対比するならば、

恋:(好きという)理由→行為→(結果は自然についてくる)

愛:(理由はない)→行為→(相手が喜び、二人がうまくいくという)結果

というように、理由・行為・結果という三者のなかでの力点の置き方の違いがある。恋においては、お互いが好きであれば、どのような行為をしても結果は望ましいものであるはずだ。一方、愛においては、理由はどうでもよく、ただ相手に奉仕し、相手が望む結果を目指すものである。または、恋においては、好きだから相手に奉仕する。奉仕したならば当然にお互いにとって良い結果を招くのだからそんなことはどうでもいい。愛においては、好きでも嫌いでもいいのでただ相手に奉仕する。だからこそ夫婦関係がうまくいくという結果がついてくる。

このような(理由を無視して)行為と結果というかたちで描写されるものが、この本での、世俗的キリスト教の文脈での愛のかたちなのだろう。

4-3 世俗的な愛

なお、この愛について、「世俗的」キリスト教的な愛としたのは、この愛が結果を重視したものだからだ。これに対しては、多分、相手が喜ぶというような見返りを期待しているようでは本当の愛ではないという反論があるだろう。愛をつき詰めるならば、理由も結果も関係なく、ただ奉仕という行為だけが重要だという真っ当な考え方だ。

だが僕はあえて、行為と結果というペアで愛を捉えるべきと主張したい。奉仕した結果として相手が喜び夫婦関係はうまくいくと考えることは、僕のような凡人が奉仕するにあたってはとても重要なことだ。あえて言うならば、相手を喜ばせるために、夫婦関係をうまくいかせるために方便として奉仕すると言ってもいい。それでは奉仕とは呼べないかもしれないけれど、それでもいいと思っている。

僕が描こうとしているのは、求道者でなくても、長くつきあった老齢の夫婦であれば誰でも普通にたどり着くことができるような、どこにでもある愛の姿だ。僕はどこにでもある普通の夫婦関係がうまくいくことを願っている。この本と同じように。

5 格好悪い愛

さて、普通の恋愛における恋と愛のプロセスの違いについて再確認しよう。恋と愛では、理由と行為と結果での力点の置き方に違いがあるのだった。

ここで特に着目したいのは、恋には好きという理由があるが、愛は理由ない行為、つまり奉仕から始まるという点だ。

この違いを重視するならば、恋から愛に進むために必要なのは、まず自分から格好悪い役回りをすることだと言ってよいだろう。自分の価値観と相容れなくても、プライドを捨てて、まず自分から相手が望むことをする。「あなたの愛を手に入れるために、まず自分からあなたを愛します。」恥をかき捨ててこんな宣言をし、愚直にそのとおりに実行することこそが愛なのだ。奉仕の愛とは、このようにとても格好の悪いものなのだ。

できれば、こんな格好の悪いことは極力手際よく済ませて、はやく愛のエンジンを着火し、愛の好循環を起動させたい。多分、一旦起動してしまえば、そんなに格好悪い思いはしなくて済む。愛は羽ばたくまでがみっともない。

では、愛を効率よく起動させるためにはどうしたらいいのだろう。せっかくプライドを捨てて、力を振り絞って自分から率先して愛を表現するならば、できれば最初から成功させたい。そのためには、失敗なくストライクを狙えるようなノウハウを事前に入手しておいたほうがいい。

そこで重要になるのが、この本が示してくれる5つの愛の言語だ。奉仕の愛を成功させるためには愛の言語について学び、相手への上手な伝え方を知る必要がある。ここにこの本の大きな意義がある。

だから、この本では自分の愛の言語を知り、相手の愛の言語を知るためのノウハウが色々と書かれている。愛の始まりは格好の悪いものだからこそ、このようなノウハウを知り、最短距離で愛を立ち上げることは、とても重要なのだ。

6 この本への不満

だけど僕はこの本の詳細に不満がある。5つという愛の言語の区分は粗すぎるように思うのだ。それは、この本でも愛の言語に「方言」という下位区分が登場することからも明らかだろう。「方言」という言葉は、お互いに同じ愛の言語を使っていても方言が違うから理解し合うことができない、という文脈で登場する。この本も、愛の言語を5種類に分類するだけでは足りないことは認めている。

それならば、方言の違いも事前に列挙すればいいように思うけれど、それは難しいだろう。なぜなら方言はいくらでも考えつくことができるからだ。例えばプレゼントを喜び、プレゼントを愛情言語とする人々のなかにも金額が高い品物が好きな人とセンスがいい品物が好きな人がいる、というように細分化はどこまでも可能だ。多分、愛の言語は5種類どころではなく、人の数だけあるのだろう。それどころか同一人物のなかでも、愛の言語は少しずつ変わっていくに違いない。昨日は優しい言葉が欲しかったけれど、今日は勇気づけるような言葉が欲しい、というように。

だから、相手の愛の言語を十分に把握することは不可能だ。それならば常に、相手のことを丁寧に観察し、完全には把握できない相手の愛の言語を少しでもよく知ろうとする絶え間のない努力が必要になる。

そもそも、愛の言語を分類し、当てはめて理解する、というやり方が、愛の言語を描写するには不十分なのだろう。

だから、この本における、チェックリストで愛の言語を見つけるというアプローチも不完全である。5種類ではなく、例えば方言も取り入れて10種類に増やしても同じことだ。またチェックリストの結果が同じだったり違ったりすることで一喜一憂することにも意味はない。最終的に愛の言語を見つける唯一の道筋は、この本にも書いてあったが、二人で話す時間をとり、お互いに望みを具体的に伝え合うしかない。

愛の言語は無限にあり、変化していくものだから、二人の対話を通じて少しずつ知っていくべきものなのだ。

7 格好の悪い愛2

二人で話し、お互いの望みを伝え合う場面を想像してみる。「僕は毎朝、ハグをして、キスして欲しい。」「僕は一人で休日を過ごすのが寂しいから、一緒に海に行きたい。」僕はそんなことを妻に言っているはずだ。こんな情景を思い浮かべてみるととても恥ずかしくなる。僕にとっては格好の悪いことで、プライドもなにもあったものではない。

だけど、やはり、このような格好悪いことこそが愛なのだ。

格好悪いことをすることこそが格好いい。そのような逆転が愛という言葉のなかには含まれている。僕は愛という言葉がどこかいかがわしく、あまり好きでなかったが、このように解釈するならば悪くないと思う。僕は愛という言葉に勇気づけられて、率先してプライドを捨てることができる。

愛とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その愛し方を愚直に実行することなのだ。

全てが認められ、自由気ままに振る舞えばよかった恋の季節が終わった後、つまみ食いのように別の恋を求めるのではなく、恋ではない生き方を求めるならば愛するしかない。それは一見、かなり格好悪くてプライドを傷つけられることだ。だけど、この本は「それは愛だから大丈夫だよ」と勇気づけてくれる。僕はキリストの愛をそのようなメッセージと受け取った。

格好悪さを乗り越える勇気を与えてくれるもの、これこそが愛なのだろう。

8 蛇足:この本を批判したことへのフォロー

(以下は蛇足です。)

なお、僕は、この本が愛の言語を5種類に分け、チェックリストで簡単に判別できるようにしたことを不十分だと批判したけれど、この本の目的を考えるならば適切なものだと思う。

なぜなら、この本が第一に目指したのは、夫婦間での愛の言語の「違い」を具体的に、かつ簡単に理解してもらうことだろうからだ。5種類にすれば、相手と違う可能性は5分の4で80%となる。チェックリストを使って愛の第一言語を調べるだけでほとんどの夫婦は愛の言語の違いに気づくことができる。この本が伝えたいのは愛の言語の「一致」ではなく「違い」だとするなら、この80%という数字は悪くない。不幸にも20%に含まれてしまった夫婦も、方言の違いを考慮できるし、なにより、二人で愛の第一言語を調べる過程で、お互いの感じ方の違いに気づき、そこから話し合いを始めることができるだろう。

なお、以上のこの本の効能は、夫婦で仲良く読んだ場合を想定している。だが残念ながら、パートナーと一緒にこのような本を読むことができない状況でも、この本のアプローチは有効だろう。

とりあえず、相手の協力がなくても、5区分を用いて、荒っぽくでも相手の愛の言語にあたりをつけることができる。そして、一人だけでこっそりと相手に奉仕し、愛の好循環のプロセスを発動することができる。それは二人で始めるよりも大変な道のりだろうが、少しずつでも良い方向に進むことはできるだろう。(この本にもそのような事例があった。)一人でとりあえずのスタートを切るためには、二人で始めるときよりも、この本のようにわかりやすく単純化された記述は役立つに違いない。

以上の二つの理由から、僕はこの本のアプローチは適切だと思う。僕がこの本を批判してでも描きたかったのは、その先の続きだ。

9 蛇足:対話

僕がこの本を取り上げたのは、僕が興味を持っている「対話」につながるものだからだ。最後に、多くの人にはどうでもいいことだろうけど、自分のために、ここまでの話と対話とをどのように接続できるかを述べる。

繰り返しの確認になるが、夫婦の間の愛の最も望ましいあり方とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その教えてもらった愛し方を愚直に実行することであった。

ここには僕が重視する対話の二つの要素が現れている。自分をさらけ出すとは、対話において話し手に求められる誠実性のことだ。妻と対話するならば、話し手である僕は、プライドなど捨てて、愛し方がわからないことを妻に申し出ることが重要となる。それが妻に対して誠実であるということだ。また、教えてもらった愛し方を実行するとは、対話において聞き手に求められる誠実性のことだ。せっかく伝えてもらった言葉を、自分の価値観に合わないから、格好悪いから、といった理由で無視することなく、しっかり受け止め、そのまま自らの行動に反映させることが重要だ。このように、愛においては、対話における話し手としての誠実性と聞き手としての誠実性の二つが重要となる。このようにして、ここまで述べてきた愛と対話は重なっていく。

更には、愛とは、誠実な対話のことだと言ってもいいように思う。僕が妻を愛するとは、誠実に妻と対話することなのだ。