1 薄い膜

いつの頃からか、時々、世界と自分との間に薄い膜があるように感じることがある。僕の身体の境界のあたりに貼り付くように、薄く目立たないけれど確実に身体をくまなく覆い尽くすように。

膜により僕は世界と隔絶されている。周囲の世界は僕抜きでもうまく回っていて、大縄跳びに入れない子どものように、僕は世界に上手に関わることができない。世界において僕は余剰物であり、僕の手が届かないところで得体のしれない世界は蠢いている。膜は実感として存在すると同時に、そんな気分を比喩的に表現するものでもある。

膜は僕のことを護ってもくれている。膜は、防風林のように、恐ろしい世界から僕を隔離し、小さな安全地帯を作り出してくれる。ちょうど一人分の大きさの凪いだ水槽の中を静かに漂うことを許してくれる。(僕は照明を落とした風呂に入り、(自分以外に入る人がいないとき)頭までお湯に沈んでしまうのが好きなのだけど、そのときに感じる感覚とどこか似ている。)

膜は、僕を世界から護ってくれる防御壁である一方で、僕を僕の身体に閉じ込める牢獄ともなる。僕は、時々、体の周りにぴったりと貼り付く膜に閉じ込められ、息苦しくなる。なんとか膜を破り、閉塞感から逃れたくなる。だけど膜を破ることはできない。最近は、このような閉塞感が気になるようになってきた。

多分、僕がこのような膜を身にまとうようになった経緯には、子どもの頃の人間関係の問題が影響している。大人になり、人間関係の問題にうまく対処できるようになり、そろそろ膜も用済みということなのだろう。

2 概念操作

薄い膜が僕を包んでいることによる影響は、僕の哲学の根幹に及んでいるように思う。

僕は独我論的で懐疑論的なことを考えがちなのだけど、その根底には、薄い膜により隔絶された外界のことなどわかりようがないという実感がある。往々にして独我論や懐疑論は単なる思考実験のように取り上げられる。だけど僕にとっては、そうではなく、膜がもたらす実感に基づく馴染み深い思考傾向なのだ。

僕の哲学は、独我論者や懐疑論者を仮想論敵とし、彼らを打ち破ることを目指すものだ。それはつまり、哲学的に薄い膜を打ち破ることを目指すことでもある。僕にとっての哲学とは、少なくとも一面では、僕を包む膜から逃れることを目的とした活動なのだ。

僕は哲学を通じて、この膜と格闘している。膜に力を加え、引っ張ったり縮めたりして変形させ、ついにはこの膜を破ることを目指している。この文脈においては膜を概念と言い換え、膜に力を加えて変形させる行為を概念操作と言い換えることができるだろう。僕は哲学において、概念を操作し、概念を打ち破ることを目指しているのだ。

概念のなかでも特に重要となるのは、世界や時間や人生といった概念だ。独我論的な僕の哲学において、僕を包む膜が、このような概念として表現されるのは当然だろう。僕は世界や時間や人生といった概念に閉じ込められているのだ。だけど、それらの概念をこねくりまわしているうちに、いつか完全に客観的に捉えることができたならば、そのときこそ、僕は膜を打ち破り、牢獄から逃れることができると夢見ている。客観的に概念を捉えるとは、つまり、僕をつつむ膜を、僕の外部の視点から捉えることだからだ。

哲学により僕を包む膜を打ち破るとは以上のような意味においてである。だから、僕の哲学は、概念との格闘であり、更には、僕にとっての哲学とは概念操作と等しいとさえ言えるだろう。

3 入不二基義

僕が重視する概念操作を手っ取り早くご理解いただくためには、(読んだことがある方は)入不二基義の哲学をイメージしていただければいいだろう。

入不二は概念操作の名手であり、存在、時間、運命といった概念を自由自在に操り、いわば手垢がついたこれらの概念の、全く違うあり方を鮮やかに示してくれる。

入不二は、概念を拡大解釈したり他概念と比較したりというような一般的な操作(水平的な操作)のみならず、概念を成立させるメタ概念を指し示そうとするような彼独特の操作(垂直的な操作)を通じ、概念をぎりぎりまで操作し、概念操作の限界を探る。彼が目指すことは概念の明確化というより、概念の操作可能性の限界を探り、概念の潜在的な力を解放することなのだろう。

実例は彼の本を読んでいただきたいが、概念操作の名手である入不二は、熟練した職人のような手際で概念を薄く引き伸ばし、概念という薄い膜の向こう側を透かし見るようにして垣間見せてくれる。

僕にとっての入不二哲学とは、単に正しかったり、読んで楽しかったりするだけではなく、このような実用的な意義があるものなのだ。だから僕は、彼のような概念操作ができるようになることを目指しているのかもしれない。

4 哲学以外

このように振り返ってみると、僕にとっては、どうも哲学よりも膜が先にあるようだ。僕にとっての哲学とは、膜から逃れるための手段でしかないのかもしれない。膜から逃れられるならば哲学でなくてもいい。その証拠に、僕は哲学以外にもいくつかのやり方で膜と格闘している。

例えば僕は旅が好きだ。僕にとっての旅とは人生や時間と深く関わるものだ。しばしば旅は人生に喩えられるけれど、この比喩には僕も深く同意する。飛行機が離陸して日本を離れるとき、僕は子どものように旅の始まりの期待に胸を膨らませ、そして旅が終わり、飛行機が房総半島に着く頃、僕の心は死を前にした老人のように達成感と喪失感で満たされる。このような感覚は、旅好きの多くが感じるものなのではないだろうか。ごく普通の意味で、旅をすることとは人生を知ることとは多少はつながっているように思う。

更には、旅は時間を空間に変換する装置だとも思う。例えば1週間かけて、タイのバンコクからシンガポールまでバスや電車で旅をしたとする。そのとき、1週間という時間は、バンコクとシンガポールを結ぶ、地図上の一本の線として描写できる。時間という捉えどころのないものを空間上の線に変換することで、客観的な視点から把握が可能となる。僕のバンコクからシンガポールまでの旅の思い出は、地図上の線分として持ち運び可能なものとなる。

当然、このような試みは完全には成功しない。昆虫標本に昆虫の生命を保存できないのと同じように、空間化された時間には時間の本質はないし、人生と旅は似て非なるものでしかない。だけど、僕を覆っている膜を人生と名付けるならば、旅により、その膜をなんとかしようとする、という僕の試みは、そう的外れなものではないように思う。

もうひとつの膜からの脱出の試みとして、僕は、マインドフルネスと瞑想の呼吸にも興味がある。僕の理解では、マインドフルネスとは「今ここ」という切り口で世界を捉えようとするものであり、呼吸は、「今ここ」に時空的な広がりを与え、「今ここ」と世界の全体、時間の全体とを接続する可能性を秘めたものだと考えている。

僕は初心者だから実際はそんな境地には達していないけれど、マインドフルネスや呼吸は、哲学よりももっと直接的に、僕を包む薄い膜を打ち破る力を持っているように思う。

これ以上は脱線となるので詳述しないが、それ以外にも、薄い膜を打ち破る可能性があるものとしては、スノーボードのジャンプや音楽やセックスといったものもある。僕が好きなものは、たいてい、僕を包む膜との格闘とつながっているようだ。

当然、僕は膜を打ち破ることを意識して、意図的に、哲学や海外旅行やマインドフルネスやスノーボードといった趣味を選んだ訳ではない。だけど、このように振り返ってみると、そこには偶然ではない一致があるように思う。

5 哲学の忘却

当然ながら、いくら概念を押したり引いたり伸ばしたりねじったりしても、概念を打ち破ることは不可能だ。入不二は確かに膜の向こうを垣間見せてくれるが、それは水泳の息継ぎのように一瞬のことであり、すぐに僕は膜の内側に引き戻される。僕は一生あがいても、膜に閉じ込められたままなのだろう。

だが、ここで吉報がある。僕はこの膜を常に意識している訳ではないのだ。というか、生活の場面ではほとんど気にすることもない。時々ふと思い出すだけだ。それならば、一番の解決方法は、気にせずに忘れることなのかもしれない。

膜も、哲学も、忘却してしまえばいいのかもしれない。歳をとり、色々と忘れることが多くなると、忘却という解決策は意外と現実的なやり方かもしれないと思う。

6 膜との戯れ

忘却のほかにもうひとつ、もう少し能動的な関与が可能な道があるように思う。それは遊戯という道だ。

入不二は哲学者という顔以外に、もうひとつ、レスラーという顔を持っている。彼は概念を相手にやっていることと同じようなことを人間相手にやっていると思うのだけど、やっていることの本質は、哲学よりもレスリングのほうがよく現れているかもしれない。彼によればレスリングは動物の子ども同士がよくやっている取っ組み合いによく似ている。彼がやっていることはレスリングという人間との遊戯であり、哲学という概念との遊戯なのだろう。レスリングという行為を思い起こすなら、遊戯という言葉には、破壊的な側面と、癒やしとでも言うべき側面の両面があるように思う。

僕も膜との遊戯を目指したらいいのかもしれない。膜を打ち破ることは所詮無理なことなのだから、それならば、もっと膜と戯れよう。膜と戯れることは意外と楽しいことなのかもしれない。哲学をしていると、少し、そんな気もしてくる。

※今回は入不二基義の哲学を取り上げましたが、もうひとり、永井均の〈私〉の独在論も膜からの脱出の試みに役立っているように思います。入不二のやり方を格闘や遊戯とするならば、永井のやり方は「無化」と言い表すことができるかもしれません。
永井の議論を僕なりに解釈するならば、〈私〉は、いわゆる私といわゆる外界というような二分法を無化する別次元の力を有していると言えるからです。だけど、〈私〉の独在的な力は、人間の手元に飼いならすことができるようなものではないので、膜を逃れたと安心した瞬間にその力は手元を離れてしまうので、その試みは一時的な成功にしかつながらない、ということになります。

※読み返してみると、ここで書いた薄い膜の話は半分フィクションのようにも感じます。僕を包む膜の感覚は通常はとても微弱なものだし、膜を感じる頻度もそれほど多くありません。この薄い膜の話は、僕の中にある感覚をうまく伝えるための誇張した比喩のようなものとご理解ください。