月別アーカイブ: 2021年2月

心がこもった言葉と沈黙の時間

1 僕のパターナリズム的傾向

僕はパターナリズム的な傾向が結構強い。職場では放っておいても偉そうになりがちな年齢的になってきているし、参加者との平等な対話を目指す哲学カフェなんていうイベントもやっているので、日頃から、なるべく余計なことは言わないように心がけている。だけど、そういう場を離れると、妻や子どもには、つい、アドバイス的なことを言いたくなってしまう。

この話における一番大きな問題は多分わかっている。きっとこれは自他の同視に由来する問題なのだろう。僕は家族のことを自分の延長のように考えていて、まるで自分の手足のように妻や子どもを扱い、手取り足取り指示したくなってしまうという問題だ。これは単純に避けるべき行動であり、自分からそのような行動傾向を取り除くよう日頃から心がけることにより解決できるたぐいの問題だ。

2 最善の世界

だけど、ふと、別の問題が隠されているのではないか、と思いついた。僕は、つい言いたくなってしまいがちな独特の思考回路を抱えてしまっているのではないだろうか。

子どもを叱る場面を例として他の人との違いを描写すると、多分、多くの人は子どもを叱るのは、きっと自分にとって大切な子どもが幸せになって欲しいからであり、それが自分にとっての喜びであるからなのだろう。一方で、僕が子どもを叱るのは、その子どもの振る舞いが世界のあり方を損なっているように感じるからなのだ。僕は我が子のことをよく知っているから、彼女の潜在的能力をある程度わかっているつもりだ。その能力が適切に発揮されないとき、僕はそれが我が子にとってだけではなく、世界にとっての損失であると感じる。

当然、これは極端な述べ方であって、僕も子どもの幸せは願うし、多くの人も自分のことだけではなく世界のことを考えているだろう。だけど、僕は人よりも一般化して、世界というような視点で物事を捉えがちなのは確かだと思う。

僕は、世界は最も善いあり方を目指すべきである、と強く考えている。その奥には、僕自身が最善の世界を目指す営みに関わるべきという考えもある。更にその奥には、最善の世界を目指す営みに関わることこそが、僕自身の最善の生き方であるという考えもある。こうして、最善の世界という観点は僕自身に深く関わっている。

だから最善の世界を手に入れられなかったときに僕の中に生じるのは怒りというよりも後悔である。僕自身が目指すような生き方ができなかったという後悔である。

このような僕の思考回路と、僕のパターナリズム的な傾向は避けがたく関わっているように思う。

3 最善を見つけるための時間

だから僕は最善を目指すことにこだわりすぎていて、きっと押し付けがましい人間になっているのだろう。僕はこのこだわりを捨てるべきであり、せめて少し弱めるべきなのだろう。だけどそれは、ほぼ自己否定をすることに等しい。これは受け入れられないことだ。最近までどこかでそんなふうに考えていた。

だけど、ふと、その目標設定はこのままでいいのではないか、見直すべきは最善を目指すこととは別のところにあるのではないか、と思いついた。見直すべきは最善を目指すという目標設定ではなく、そのやり方、つまりテクニックなのではないだろうか。

僕は一気に最善に至ることを目指しすぎていた。だから僕は家族に一挙に説明し、彼らの理解を一度で得て、彼らが一挙に変化することを期待していた。だが、このような一気に最善を目指すようなやり方自体が既に最善なものではない。なぜなら、一気に最善に至るという道筋は、僕が既に最善を知っていることを前提にしているからだ。しかし僕は最善を知らない。なぜなら、関係者(または当事者)である彼らの考えを彼らの口から聞かなければ、僕は最善がどのようなものなのか知ることはできないからだ。最善を目指すにはまず、家族とともに最善を見つけなければならない。

なお、以前から僕はその点は意識していて、僕がパターナリズムを発揮するときにも、彼らの話を聞くように心がけてはいた。だが、重要なのは、彼らが話す準備ができているとは限らないということにある。彼らの話を聞くためには、彼らの考えがまとまり、それが自然に出てくるのを待たなければいけない。また僕自身も、彼らの言葉を聞いてそれを消化する時間が必要となる。つまり、究極の最善を目指すためには合意という手続きだけではなく、合意に至るまでの時間が必要なのだ。

だから、最善を目指すためには最善に到達しようとしすぎてはいけない。最善を目指すには時間が必要であり、その間も人はなんとか生きなければならない。それはつまり、最善ではない人生を生きざるを得ないということである。最善を目指す生き方をするためには、最善ではない人生を生きるしかないならば、性急に最善に到達しようとする心構え自体が大きな誤りだということになるだろう。

言い換えるならば、最善に至ろうとしていくら失敗しても、いくらでも再チャレンジは可能であり、それこそが最善に至るための唯一の道であるとも言うことができるだろう。そこでの失敗とは修正可能な誤りであり、最も大きな誤りは、一度限りで最善を目指すという考え方なのである。

4 最善を目指すコミュニケーションにおいて用いる言葉

僕は少し肩の力を抜いて、最善の世界を目指しすぎずに、最善の世界を目指していこう。

そのために必要な現実的なテクニックは、きっと、あまり押し付けずに言葉を小出しにすることなのだろう。

多分、僕の家族に限らず人は、人の話を聞くことができるキャパシティがある。その容量は人によって違うだろうし、気分や体調などによっても違いはあるだろうし、話の内容に対する興味などによっても違うだろう。僕は、きちんと説明しようとしすぎて、その限界を超えてしまうことが多かったのではないだろうか。人はそれほど人の話を聞くことはできないのだ。

また、僕は人に説明する際に、論理的にやりすぎていたように思う。論理的な説明は冗長になりがちだし、論理が複雑になるとわかりにくい。論理的な説明というのは、あまり理解をとりつけられないうえに、冗長で相手のキャパオーバーになってしまうことが多い。僕はそれを相手の論理的な能力の欠如によるものではないかと考えたこともあったけれど、きっとそれは僕自身も含めた人間というものの性向なのだと思う。

もしそうならば、僕はどうしたらいいのだろう。

僕は長らく論理的なやり方以外を知らなかった。少なくとも意識したことがなかった。論理的でない説明とは、単なる非論理的な説明であり、単純に誤りだと思っていた。論理的で冗長な説明を避けて説明を断片化するということは、単にその説明を非論理的で劣ったものにしてしまうということだと考えていた。

だが哲学カフェをしていて、論理的ではないけれど力を持つ言葉というものが存在することに気づいた。簡単に言うならば、非論理的であっても感情が乗った言葉には圧倒的な力があるのだ。言葉の濃度や重さと言ってもいいだろう。僕は哲学カフェでそのような言葉に出会い、ダンベルで殴られたような力を感じることがあった。(殴られたことはないけれど。)

きっと、最善を目指すコミュニケーションにおいては、このような言葉が重要なのだろう。僕は論理的に断片化されてはいても、そこに心がこもった強い言葉を語るべきなのだ。

5 伝達の速度・触媒としての言葉

もう一つ必要なのは、言葉にしない時間である。沈黙と言ってもいいだろう。

僕はどうも喋りすぎるところがある。だが言葉を理解するためには沈黙の時間が必要だ。それも人によって必要な時間が違う。僕は比較的短い時間しか要らないほうだが、哲学カフェをやっていて感じるのは、必要な時間は人によって全然違うということだ。哲学カフェの参加者のなかには、何分も経って話題がかなり進んでから、さっきの話題に戻る人が結構いる。ここにあるのは言葉が伝わるために必要な時間の違いなのだろう。決して能力の問題ではないのは確かだ。(僕は時間をかける人からのほうが、より面白い言葉が出る過可能性が高いとすら思う。)だから言葉をきちんと伝えたいならば沈黙の時間が必要だ。または非言語の時間と言ってもいいだろう。テレビを観てもいいし、全く違う話をしてもいいし、風呂に入って寝てもいい。その間に言葉はゆっくりと伝わっていく(こともあるし、伝わらずに終わることもある)。

なお、伝達が成功したとき、人は沈黙の時間または非言語の時間に何をしているのかといえば、きっと頭のなかで、自分の心の中で自分との間で言葉を交わしているのだろう。そのようにして、耳にした言葉を自分の言葉に置き換えたりして理解しようと努めているのだろう。またはさっき聞いた言葉を触媒のようにして、自分の考えを深めていると言ってもいいかもしれない。

きっと人の理解とは、誰かから聞いた言葉が直接理解につながるというようなあり方はしていない。多分、人は、自問自答するようにして発した自らの言葉でしか何かを理解することなどできない。それならば、僕が家族にできるのは触媒のような言葉を投げ、それにより彼らのなかで科学変化が起きるのを待つだけということになる。当然、その逆もしかりである。そこに必要なのは心がこもった言葉と沈黙の時間である。僕はそんなふうにして、世界と、または世界を構成する人々と、最善を目指していきたい。

僕の生き方の指針 3×3のマトリクス 時間と心身

0 はじめに

この文章では、僕にとって興味深かった2つの本を導入として用い、僕が考える生き方の指針について述べ、最終的には時間論と心身論(の入り口の話)につなげていきたい。なお書いた主な意図は、僕の生き方の指針を紹介するためである。

1 面白かった自己啓発書・ビジネス書

僕はあまり本を読まないのだけど、自己啓発書やビジネス書を何冊か読んだことがある。そこから全く新しい知見を得て、その人生訓を自分の人生や仕事に活かしたいというよりも、なにか哲学的問題に参考になるアイディアを見つけたい、世間で求められているものを知っておきたい、といった動機から読んでいる。

このジャンルで面白かったのは次の3冊だ。(仏教系、マインドフルネス・瞑想系、哲学者が書いた文章は除いています。)

①ビジョナリー・カンパニー2

②夜と霧

③7つの習慣

いずれも有名な本なので内容の紹介は省くけれど、①と②は新しい気付きがあったという点で僕にとって重要な本で、③は僕が考えていることに結構近くてうまくまとまっているという点で心に残ったものだ。

③については、いつか僕自身が自己啓発書を書くときに使いたいと思っているので、この文章では、①ビジョナリー・カンパニー2、②夜と霧という2つの本から気づいたことを取り上げたい。

2 ビジョナリー・カンパニー2

ビジョナリー・カンパニー2を読んで僕が感銘を受けたのは、企業には天命・ミッションのようなものがあり、そこにひたすら打ち込む企業こそが成功するという話だ。(このような述べ方はしていなかったけれど、あえて僕の理解で書くとこのような話だった。確かハリネズミやはずみ車に喩えていたと思う。)

僕はそれを個人に置き換えて解釈した。人には天命・ミッションのようなものがある。それこそが人生の意義であり、生まれてきた意味である。ただし、天命・ミッションとは探して見つけるものではない。ただそれをやり続けることで、振り返ってみるとそれが天命でありミッションであったと気づく類のものなのだ。

僕にとっての天命・ミッションは哲学をすることだ。これほど僕に合っていてやり続けることができているものは他にない。ビジョナリー・カンパニー2が言っていること(をより巷で使われている言葉に言い直すなら)、哲学とは僕が「できる」ことであり、僕が「やりたい」ことであり、やることが「求められている」ことだ。この3つが揃うなんてことはそうなかなかない。

(最後の「求められている」が怪しいけれど、僕自身は、僕の哲学には従来の哲学では述べられたことのない新たな発見が含まれていると確信しているので、そこに求められるべき価値があると信じている。)

だから僕は、僕自身が人生を生きるにあたっての指針に「天命」と書いている。僕は時々、そんなことを思い出しつつ生きている。

3 夜と霧

ビジョナリー・カンパニー2はビジネス書寄りすぎるので万人には勧めにくい。(例えば、僕がビジョナリー・カンパニー2に感銘を受けたのは、その主張の内容よりも、主張がデータで裏付けされているという点にあるのだが、そこを冗長だと考える人も多いだろう。)

もうひとつの夜と霧のほうは万人に勧めることができる。この本はとても深い。僕はそこから、これから述べるようなことを学んだが、人によって色々な読み方ができるだろうし、きっと読み返すたびに新しい発見があるだろう。

この本を読んだときの感想は既に書いている(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/)ので、ここでは、その一部だけをとりあげたい。

僕が心に残っているのは、あと数日後に収容所で死のうとする若い女性が人生に感謝し、マロニエの木と語らうエピソードだ。

このエピソードは、僕に、どんなときでも人は成長できるということを教えてくれる。絶滅収容所の中のような厳しい状況においても人は成長できる。それならば、きっと、いつでもどこでも人は成長できるはずだ。また、成長にそのような普遍性があるのは、人生において成長が必須のものであるからに違いない。だから僕は、僕自身が日々を生きるにあたっての指針に「成長」と書き加えた。

なお、成長は変化とも言いかえることができるだろう。僕は今までの自分に囚われず、日々新しくなってもいい。昨日までの自分が想像しなかったような僕になってもよい。なぜなら、それこそが人生の意義だからだ。だから成長とは変化であり、更には自由ともつながっている。

4 指針のリスト化

ここまでで僕の人生の指針には「天命」と「成長」という二つの言葉が書かれることとなった。

なんでもMECEなリスト化をしたくなる僕としては、他にも書き加えられるべきものがないか考え、思いつくままに書き出してみた。

まだ整理しきれていないけれど、当面のリストは次のようになる。

(既にどこかで書いていたらすみません。)

①成長

②天命

③上達:家事や趣味などに習熟して上達すること

④健全な心:うつ病になったりしないこと

⑤節制:酒に耽溺したり、極端な考えに囚われたりしないこと

⑥健全な体:肉体の健康と言ってもいい 体が資本というやつ

⑦こだわり:家族や趣味といったものへのこだわり(仏教なら執着か)

⑧記録:(この文章のように)書き記すこと

⑨身体的欲求:食欲、性欲など求めずにいられないもの

(なお、⑦と⑨については少し説明が必要かもしれない。いずれも、こだわりや身体的欲求を避けるべきという意味ではなく、積極的に求めるべきという意味である。僕は何にこだわるべきかについても既に列挙していて、こだわるべきものについては、それがたとえ煩悩や執着であっても人生において尊重していきたいと考えている。海外旅行をしたりライブではしゃいだりして煩悩や執着とともに生きていきたいと考えている。身体的欲求も同様であり、軽んじることなく、欲求とともに行きていきたいと考えている。)

以上のリストは思いついたことを列挙しただけで、整理しきれていないし、何か哲学的な含意がある訳でもない。ただ、僕自身にとっては、時々思い出して、自分が大事なものを見失っていないか確認するために有用なチェックリストにはなっている。ときどき見返して、リストに入っていないこと(仕事など)に囚われてしまっていたな、なんて反省することもある。

5 リストの整理

述べたとおり、このリストは単なる思いつきではあるが、それでは落ち着かないので、一応、とりあえず整理してみてはいる。ここからは当面の整理について述べていくことにしよう。

実はリストを9つにしたのは後付けである。当初は7項目だったが、9つにすれば、3×3のマトリクスにできる。3というのは説得力がある数字のようなので、3×3というのは更に説得力があるのではないか、また、そこから何かが見えてくるのではないか、ということで、③上達と⑧記録を付け加えている。

(1)時制による分類

まず、3というのは、時間の3時制、つまり未来・現在・過去に対応する。僕は時間論に興味があるので、人生訓を時制と紐付けることはいわば必然であるように思う。

対応関係は次のようにまとめることができる。

【未来】①成長、②天命、③上達

【現在】④健全な心、⑤節制、⑥健全な体

【過去】⑦こだわり、⑧記録、⑨身体的欲求

ア 未来について

未来のカテゴリーに含まれる「①成長」、「②天命」、「③上達」は、いずれも今後の人生に目が向けられていると言えるだろう。

まず「①成長」が未来と結びついていることは明らかだろう。なぜなら夜の霧のニレの木のエピソードは、過去の人生から解き放たれ、更に絶滅収容所にいるという現在からも解き放たれたところにこそ成長があるということを示しているからだ。

また、「②天命」とは、あくまで将来の道を定めるうえでの道標であり、既に行った現在や過去の行いを評価する視点としてのものではない。ビジョナリー・カンパニー2が描く優秀な経営者とは、過去の経営状況がミッションに沿っていたかどうかを評価するだけではなく、そこから、将来のビジョンを示すことができる人であるはずだ。天命とはそのように扱われるべきものである。

「③上達」についても、将来において、過去の自分を上回り、乗り越えるというところに意義がある。包丁をうまく砥げなかったとき、将来においてうまく砥ぎたいと思うからこそ、上達を目指して練習するはずだ。

イ 現在について

現在のカテゴリーに含まれる「④健全な心」、「⑤節制」、「⑥健全な体」は、いずれも現在の自分自身に目が向けられているように思う。

「④健全な心」も「⑥健全な体」も、この現時点での僕がきちんと機能するために必要なものである。今、うつ病になり判断能力が失われたり、体が動かずにやりたいことができなかったりしたら、現在の僕の人生に支障が生じるからだ。

なお、将来における健全な心や体も重要だと言う人がいるかもしれない。確かにそのとおりなのだが、残念ながらそれは望みすぎなのだ。夜と霧で明らかなように、人にはガス室送りにされる人生が待っているかもしれない。そこでは健全な心も体も望むことはできない。なぜなら死んで心も体も存在しないのだから。そのような不可能なものを求めて悩むことがないように僕はこのリスト化の作業を行っているとも言える。僕が望む健全な心と体とは、今ここでの心と体に限定すべきなのだ。

「⑤節制」は、もしかしたら僕に固有の課題なのかもしれない。僕は酒を飲みすぎたり、どうでもいいことをグルグル考えたりして、何かに耽溺してしまいがちなところがある。普通の人なら「健全な心と体」を標語にしておけばいいのかもしれないが、僕にとって「健全な心と体」を最も害するものは、この耽溺なので、あえてそれをネガティブリスト化し、節制を特出ししている。だから「健全な心と体」と同様に、節制も現在の問題である。

ウ 過去について

僕のリストのうち過去のカテゴリーに含まれる「⑦こだわり」、「⑧記録」、「⑨身体的欲求」は、いずれも過去からの経緯や過去を思い出すということに深い関わりがある。

「⑦こだわり」とは、これまでの僕の人生で重視してきたものごとのことだ。僕は何にこだわるべきかについてもリスト化しているが、全てを示すのは恥ずかしいので例示すると、「家族」や「趣味」といったものがある。これまで大事にしてきた家族は今後も大事にしていきたいし、若い頃から打ち込んできた趣味は今後もやっていきたい。成長や健康といったものばかりを追い求め、そんな当たり前を忘れてはいけない。過去を切り捨ててはいけない。そんな気持ちから、過去からのこだわりをリストに含めている。

「⑨身体的欲求」も同様であり、過去から一緒にやってきた戦友とも言えるこの身体が言うことは大事にしたい、という思いがある。身体の過去性を強調するのは、身体というものが、そもそも、食べられてしまった動物や、その食材を調理してくれた人といった過去の営みの結果として存在する、という思いがある。そのような他者との過去とのつながりがある身体の声を軽んじるべきでないということである。

「⑧記録」については、過去自体というより、想起という側面が強い。記録するということは、つまりは既に考えたことを記録に残すということだから過去とつながりがある。ちょうど今思いついたことであっても、思いついてから書くのであり、そこには時間的な前後関係があるはずだから厳密には過去である。

また、記録したものは未来において読まれるとも言える。つまり記録するということはその記録を過去のものとし、未来に譲り渡すということでもある。

以上のように、僕の人生の指針のリストはきれいに3つの時制に3つずつを割り振ることができる。(というか、そうなるようにリストに追加したのだけど。)

(2)心と体による分類

時制による分類を縦軸の分類とするならば、横軸による分類もできると考えている。それはいわば、心と体という視点による分類だ。哲学においては色々な二元論的な問題があるが、そのなかで最も有名なのはデカルトの心身二元論で有名な心身問題だろう。その問題には立ち入らないが、ものごとを心と体という二つの側面から捉えることは重要な視点であることは確かだと思う。

時制による分類を更に心身という視点で分類すると次のようになる。

【未来】心:①成長、中間:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、中間:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、中間:⑧記録、体:⑨身体的欲求

ア 心について

「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」については、いずれも心という側面が大きいのはわかりやすいのではないだろうか。

まず、夜と霧のニレの木と語る人に象徴される「①成長」が、身体のようなものと無縁であるのは明らかだろう。なぜなら、肉体は消滅しようとしているのだから。絶滅収容所における無慈悲な肉体の消滅とは全く無縁だからこそ、彼女の成長は尊い。

「④健全な心」はすでに心という文字が入っているので言うまでもないし、「⑦こだわり」とは家族や趣味への執着であり、心の中だけのものごとであることは明らかだろう。(心の中にしかなく実体がないからこそ、仏教はそれを煩悩と呼び、捨て去るべきと言っているのだろう。)

イ 体について

「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」についても、それらを身体的なものとして捉えることはわかりやすいだろう。

「③上達」とは、心に分類した「①(精神的)成長」に含まれないようなものを指している。つまり精神的な上達は成長に含まれるので、上達とはそれ以外のもの、つまり身体的な上達ということになる。包丁砥ぎを練習してうまくなるのと同様に、数学の問題集をやって数学の問題を解くのがうまくなったり、たくさん本をよんで思考するのがうまくなったりするのも身体的な上達に含まれる。(一方で、現に数学の問題の解き方をひらめいたり、新しい哲学的なアイディアを思いつたりするのは、どちらかというと精神的な成長に近いように思える。)

「⑥健全な体」と「⑨身体的欲求」については、いずれもすでに体という言葉が入っていることからも説明は要しないだろう。

ウ 中間について

「②天命」、「⑤節制」、「⑧記録」については、精神的な側面と、身体的な側面の両面を有するので、とりあえず中間と名付けた。

「②天命」は、何かを人生のミッションと心の中で考えるだけでなく、そのように決断して身体的に行動するという点が重要となるので両面性があり中間的であると言える。

「⑤節制」についても、ひとつの考えに囚われないというような精神的な節制と、タバコや酒を控えるという身体的な節制との両面がある。

「⑧記録」とは、思考したことを手で書くという、精神と身体をつなげるものだとも言える。

これらは、心と体の間にあるということから、いずれも中間に位置づけられることになる。

6 中間から調和へ

心と体の間にあるものをとりあえず中間とは名付けたけれど、どうも落ち着きが悪いと思っていた。

だが、今朝、5分くらいヨガをやっていて、ふと「調和」というキーワードを思いついた。前の日に色々考えてしまってなんだか心が落ち着かないなか、なんとか身体(または世界)とチューニングを合わせようとしていることに気づいたのだ。つまり、僕が今やっていること(つまりヨガ)って、心と体の調和をとる作業とも言えるのでは、と思ったのだ。

たしかに、前からヨガというのは心と体の間にあるものだとは思っていた。トレーニング的な側面では健全な体につながるし、瞑想的な側面では健全な心につながる。その両側面があるヨガは、僕が人生を生きるうえでちょうどいいとは思っていた。だが更に、ヨガとは心と体の調和をとろうとするという意味で、心と体の間にあるものなのだ。

僕は、「④健全な心」と「⑥健全な体」の間にあるものは「⑤節制」だと思っていた。だけど、それは耽溺しがちな僕への注意喚起のためにあえてリスト化していただけであり、より正確には「調和」なのだろう。

そのように考えると、「①(精神的)成長」と「③(身体的)上達」との中間にある「②天命」も「調和」と言い換えることができように思えてくる。

実は僕は、このリストのなかでも特に重要なものである「①成長」と「②天命」について、不整合さを感じていた。なぜなら、成長の結果、天命・ミッションを変更することがありえるからだ。成長のなかには変化が含意されているから、成長することで従来のミッションを見直すことがありうるのでなければならない。一方で、天命・ミッションという言葉のなかには、ちょっとやそっとのことではそれを投げ出し、変更を加えてはならない、ということが含まれていなければならない。成長と天命を尊重しようとすると矛盾が生じる。

それならば、成長を単なる変化ではないものとして捉え、天命を単なる墨守ではないものとして捉えることが、この問題の解決の道であるに違いない。

そこで登場するのが「調和」という言葉である。天命とは、単なる墨守ではなく、また単なる変化でもない。その両者の調和を図るようなものであるべきなのだ。天命とは、変化という意味が強い成長と、墨守という意味が強い上達との間にあり、その両者を調和させつつ生きていくという姿勢を指す言葉なのだ。(ビジョナリー・カンパニー2も、企業が従来の方針を墨守することを推奨しているのではなく、変化のなかで自分自身を見失わないことの重要性を強調しているようにも思う。)

また、「⑦こだわり」と「⑨身体的欲求」の中間にあるとされる「⑧記録」も「調和」 と関係が深い。こだわりや身体的欲求は相互に対立することがある。家族のために家事をするというこだわりと睡眠欲という身体的欲求とは対立するし、家族と趣味のどちらを優先するかというかたちでこだわり内部でも対立はあるし、(「ごはんにします?それとも、わ・た・し?」というかたちで)食欲と性欲も対立する。

これらの整合をとるためには、考え、優先順位をつけなければならない。そのときに活躍するのが思考であり、思考を精緻に行うためには書き留めて記録することが役立つ。このように調和と記録は深く結びつくことになる。

ここまで、中間にあたる、天命・節制・記録は、いずれも調和と関係が深いと論じてきた。多分、いずれの中間も、より正確には「調和」という言葉に置き換えられるべきなのだろう。ただ、僕自身の人生訓がより実践的なものとなるように、調和のうちの、天命・節制・記録という側面を強調しているに過ぎないのだろう。

なお、調和というと予定調和のような、出来レース的なものをイメージするかもしれないが、僕は、調和という言葉のなかに、調和せず対立したままである、ということも含まれていると考えている。天命とはなにかひとつのことを定めるだけが天命ではなく、天命を求めて試行錯誤すること自体が天命でありうるし、節制とは、節制できないことをなんとか節制するという意味が込められている。記録についても、考えがまとまらなかったということ自体を記録する結果になるかもしれない。そう考えると、調和よりは止揚と言ったほうがいいのかもしれない。変化と墨守の対立を止揚し、変化でもなく墨守でもない別の道筋を見出そうとする営みを「調和」と呼んでいたということである。

(なお、この止揚に対する更なる止揚もありうる。例えば、「変化としての成長」と「墨守としての上達」の対立を止揚することで調和を図ったとする。この場合、その調和に対しては、成長とは単なる変化ではなく、上達とは単なる墨守ではない、という反論がありうる。そのような反論を調整すべく更なる止揚が導入されることがありうる。)

7 再び時間論へ

ここまでの議論を通じて、僕は、次のような人生の指針を定めたことになる。

【未来】心:①成長、調和:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、調和:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、調和:⑧記録、体:⑨身体的欲求

このうち、身体の領域に割り振った「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」は動物的でプリミティブな人生を描写しているように思う。身体的欲求に従い、健全な体をもって、上達を目指す生き方というものを想像すれば、僕が言わんとすることが伝わるのではないだろうか。

一方で、心の領域に割り振った「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」に従った人生とは、とても思索的なものだろう。僕は瞑想する仙人のような人を思い浮かべる。これまでの人生でこだわってきたものを吟味し、心を研ぎ澄まし、心の成長を目指す生き方というのは、どこか浮世離れしている。

その両者の調和を目指し、試行錯誤しながら、その過程を記録し、道を踏み外さないように節制し、人生におけるミッション・天命を見出してなんとか生き抜いていくという姿は、とても実務的であり、ある意味人間的である。動物と仙人との間にある人間的な生き方という感じがする。

僕が動物的としたような身体的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はひとつながりのものであるという時間観とつながっているように思う。世界は因果的で決定論的であり、獲物を食べれば腹が膨れるし、筋トレすれば筋肉がつくという時間観である。

一方で、僕が仙人的としたような精神的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はそれぞれ別個の時点であるという時間観とつながっているように思う。時点と時点との間には自由意志が介在する余地があり、自由意志に基づき、人は決断し、変化をもたらすことができるという時間観である。

僕たちは、その中間で、因果論的で決定論的だけど、自由意志があることを当然とする、矛盾しているけれど常識的な世界のなかで試行錯誤しながらなんとか生きている。それが、仙人ではなく動物でもない僕たち人間の時間観なのではないだろうか。

僕が3×3のマトリクスのような人生の指針を定めたのは、その背景に、こんな時間観があるからなのかもしれない。

なお、この考察は、心と体の間の接触地点に人間の生き方を見出したところから、更に私と世界との間の接点に身体を見出す方向に議論を進めることもできると思う。だが、それは別の機会としたい。

うまく生きる 思考と行為・ひらめき・身体・こつ

1 うまさという問題

僕自身の哲学の源流のひとつは、高校生の頃から抱いている「いかに生きるべきか。」という問題にある。

僕にとってのこの問題は、具体的な状況設定を用いるならば、海で溺れている人を見つけたとして、その溺れている人を助けるべきだろうか、という問題だと言ってもよいだろう。溺れている人は実は殺人鬼で、その人を助けたら何件も殺人が起きるかもしれない。実は病気による苦痛から逃れるために入水自殺しようとしていて、助けることで、更に苦痛を味わわせることになってしまうかもしれない。そんなことを僕は考えてきた。

(更には、生きることが望ましいことかどうかはわからない。望ましいからといって、生きるという選択をすることが正しいかわからない。正しいからといって、それを具体的な行為の選択につなげるべきかどうかはわからない。そもそも、このようなことを首尾一貫したかたちで論理的に思考できるかどうかさえわからない。それならば、溺れている人を助けるという一見当たり前の判断についても、その根拠は怪しいものではないか、そんなことを僕は考えてきた。)

それはそれで重要な問題だし、今後も考え続けていきたい。だけど、最近ふと思った。当時の僕が求めていたのは、そのような方向での答え「だけ」だったのだろうか。

溺れる人を助けるべきかどうかを解決したとしても、次には、助けるとして、「うまく」助けるにはどうしたらいいのだろうか、という問題を解決しなければならない。助けることを決心したとしても、更に、海に飛び込むか、ロープを探すか、それとも警察に電話するかを判断しなければならない。そこには、どうしたら「うまい」判断ができるのか、という独立した問題があるのではないか。

溺れる人の例だと現実味がないかもしれないけれど、日々、僕たちは「うまい」判断が求められている。洗濯と掃除のどちらを先にするか、晩ごはんの献立を何にするか、などなど。円滑に洗濯と掃除の両方を済ますべきというゴールや、晩ごはんまでの時間のなかで美味しくて栄養のあるご飯を作るべきというゴールは揺るぎないものであったとしても、そのゴールにどのようにして「うまく」向かうかが難しいのだ。

最も「うまさ」が求められるのは対人関係においてであり、特に言葉によるやりとりの場面においてだろう。人間の心は複雑だから扱いが難しくて、言葉で誤解をさせてしまうことが多い。振り返ってみると、実は高校生の僕の哲学的な悩みもそんなところから始まっていたように思う。こんなに複雑な心を持つ人間というものと、どうしたらうまく付き合っていくことができるのだろうか、そんな困惑があったような気がする。

若い頃の僕は、そこから、デカルトの方法的懐疑の方向に進み、懐疑論に至った。懐疑論に基づき「世の中は不確かなものだから、そんなことを考えても仕方ない」という大所高所からの一刀両断の答え、いわば「大きな答え」を与えることで満足してしまった。論理的に考えるならば、どうしたら溺れる人をうまく助けられるのかを悩むよりも前に、溺れる人を助けるべきかどうかを考えなければならないが、懐疑論に基づけば、その前段の問いに答えを出すことはできないのだから、その先を悩む必要はない。大学生の僕はそのように考え、高校生の頃から抱えていた疑問を封印したのだ。

だが30代半ばになり、哲学的に色々と考えを巡らせることを再開し、10数年そんなことを続けている。そのなかで、「うまさ」について、書くに値することを思いついたので、この文章を書いてみることとした。

2 「うまさ」が評価するもの ひらめき

「うまさ」または、その反対である「まずさ」とはどういうものだろうか。

まず言えるだろうことは、うまい答えとは唯一絶対ではないだろうということだ。溺れた人を見つけたとき、海に飛び込んでも、警察に電話しても、結局助かればどちらでもいい。

ただし、単なる結果オーライという帰結主義的なものでもないだろう。溺れる人を助けようとして凪いだ海に飛び込んだが、突然の高波に阻まれて助けることに失敗したとする。その後の検証で、警察に連絡をとっていれば、偶然近くにいた巡視船がすぐに現場に向かえたことが判明したとする。それでも、そのときの海に飛び込むという判断が「まずい」判断だったとは言わないだろう。その時点でできる限りの判断をしたと評価されるはずだ。

ということは、「うまい」か「まずい」かとは、その時点での何かが問われるものであり、その後の偶然には左右されないということになりそうだ。

では、その時点での何かとはなんだろうか。

まず、その人が泳げるかどうかというような身体的な能力は問題にならないだろう。泳げないから飛び込まなかったという対応は、まずい対応とは言わない。また、スマホを持っていなかったから警察に電話しなかったこともまずい判断とは言わないだろうし、来日したばかりの外国人が警察への電話の仕方を知らなかったということもうまさの問題にはならないに違いない。そうだとするならば、「うまさ」とは、泳げるかどうかという身体的能力や、スマホがあるかどうかという物理的な状況や、警察の電話番号を知っているかどうかという知識とは関係のないということになる。

では、「うまさ」とは、判断時点でのその人の何を評価したものなのだろうか。その人の能力や知識といった広義の物理的な状況ではないならば、何が判断の「うまさ」を左右するのだろうか。この問題を思考実験的に表現するならば、全く同じ能力や知識を持った二人が、全く同じ状況で別の判断を行った場合、そのひとつは「うまい」判断で、もうひとつは「まずい」判断となりうるが、その境目となるものは何だろうか。

それは「ひらめき」としか言いようがないものなのではないだろうか。能力や知識を含めて全く同じ状況にあっても、ひらめくかもしれないし、ひらめかないかもしれない。そのときのひらめきだけが判断を左右するように僕には思われる。

「ひらめき」は思考と行為を結ぶものとして非常に重要だと思う。とにかく何らかの行為をするためにはひらめきが必要だ。なぜなら現時点での状況をいくら精緻に分析しても、そこから行為を導き出すことはできないからだ。私は溺れる人を見つけて自己分析を始める。私は泳ぐことができる。私はスマホを持っている。私は警察の電話番号を知っている。私の泳力と波の高さを踏まえると10m先の人を無事に救出できるかどうかは五分五分である。わずかだが一緒に溺れる可能性もある。警察に電話した場合には救助の船かヘリが来るには多分10分以上はかかるだろう。そのような分析をいくら重ねても、そこから、海に飛び込むという行為を導き出すことはできない。そこには思考と行為との間のギャップが存在し、そのギャップを飛躍することが必要である。僕は、その飛躍を「ひらめき」と呼んでいる。

当然、ひらめいて飛躍する前の分析も重要である。精緻に分析しておくことで、より好ましいひらめきができるだろう。しかし、例えば溺れた人をみつけたのが幼児であった場合に、その幼児が現状をしっかり分析できなかったからといって、それがまずい対応と評価されることはない。分析する能力、分析力がある人が、その分析を怠れば問題になるが、そもそも分析力に乏しい人が分析をしなかったからと言って、それはまずい対応とは言わない。また、ただ分析を続ければいいということでもない。どこかで分析を打ち切り、救助に向かうことも、うまい対応のためには必要である。つまり、手持ちの分析力をどの程度時間をかけて活用するかどうかも、ひらめきに属する事柄なのだ。

そのようなことも含め、「うまさ」とは、行為への飛躍のあり方、言い換えればひらめきを評価する言葉だといえる。

3 ひらめきの事後評価

そして、その評価は事後的に行われる。溺れた人をうまく救出できたかどうか結果が明らかになってから、その時点での判断がうまいものだったかどうかが検証される。ただし、結果だけで検証されるのではなく、その人のその時点での知識や能力や状況を踏まえ、その制約のなかで、よりよい結果につながるような判断をひらめき、飛躍することができたかどうかが検証される。

ここに、「うまさ」の根本の問題があるように思える。飛躍やひらめきと表現されるようなものについて、事後的な視点から、あれはうまい飛躍だった、これはまずいひらめきだったと評価していることになるからだ。そのようなコントロールを超えたものこそが飛躍でありひらめきであるはずであるにも関わらず、だ。

当然、うまさを評価する側も、その問題は認識していて、直接的には、その飛躍やひらめき自体を評価はしない。

その代わりに、こっそりと別のものを評価する。言ってしまえば誤魔化しであり、その誤魔化しは、二種類の「ずらし」として行われているように思える。

ひとつは、一般化による「ずらし」だ。例えば、その人が日本人の成人ならば、常識的に日本で生活する人が備えている知識や能力を備えていることを前提として、離岸流に気をつけるべきだった、などと評価する。だが、その人は、離岸流など知らなかったのかもしれない。

もうひとつは、それ以前の別の判断を問題とするというやり方であり、時点の「ずらし」だ。スマホが手元になくて警察に連絡できなかった人について、外出するならばスマホくらい持っておくべきだった、と批判するような場合だ。これは、溺れている人を発見した時点ではなく、外出した時点に遡って、時点をずらして、その時点での判断を問題とするということだ。なお、このような「ずらし」は他者からの評価で用いられることは少ないが、自己評価においてはよく用いられる。つまり、あのときこうしていればという後悔だ。

人は、このような誤魔化しをしてまで、本来不可能なはずの「ひらめき」への評価を求めてしまうのだ。

4 自由意志の問題

自分自身による「うまさ」の評価には特有の問題がある。ひとつは先程触れた複数の時点の自分をつなげて同一の自分として解釈することから生じる後悔と呼ばれる問題だが、もうひとつは自由意志に関わる問題だ。自分自身がいくつかの選択肢に気づいていて、そのなかから一つの選択肢を選んだ場合、そこに自由意志の問題が生じる。溺れる人を発見した時点で、海に飛び込むことも、警察に電話することも可能だと気づいており、そのうちの一つを選択した場合、あとで振り返り、その選択がうまいものだったかどうかを問題とすることができる。この選択可能性を認めるということが、自由意志が成立する根幹にあるからだ。

だが、判断の際に必須のものである飛躍、ひらめきを正当に取り扱うならば、自由意志を捨てる道を進むしかないのではないか。なぜなら、選択可能性などなく、それしかないものとして行為するということが「ひらめき」には含まれているはずだからだ。

こうして、「うまさ」の問題は入不二の運命論に近づいていく。なお通常の決定論と大きく異なるのは、そこに無根拠の飛躍、ひらめきが介在しているという点にある。人生が運命に翻弄されるのは、その運命が決定されているからではなく、そこに無根拠の飛躍があるからだということになる。つまり僕が描いてきたのは入不二のケセラセラの運命論であり、ひらめきと名付けた無根拠の飛躍とは、入不二の円環モデルにおける始発点に至る飛躍のことである。

5 身体・こつ

「ひらめき」と名付けた飛躍が無根拠であるのは、行為が思考を超えているからだ。人は状況を認識し、自らの知識を使って、どのように行為すればいいか思考する。しかしその思考の結果と、どのように行為するか決心することとの間には断絶がある。その断絶を架橋するものとしてひらめきがある。思考を超えたところにあるという点で、ひらめきは無根拠なのだ。

つまり、これは思考と行為(またはその手前の決心)の問題である。

それならば、この両者をうまく架橋できるかどうかが、「うまさ」の問題であるとも言える。

そこで僕は、いかにうまく生きるかということを考えるうえで、身体というものに着目したい。なぜなら思考と行為をつなぐのは身体だからだ。身体とは、思考から全く切り離されたものではないが、思考に含まれるものでもなく、いわば思考の境界にある。また、身体は世界のなかに位置づけられ、行為するものでもある。つまり、思考は身体を介在し、行為するとも言える。それならば、「うまさ」の問題は、身体の使い方の問題だと捉えることもできるだろう。つまり、うまく生きるとは、包丁の使い方や車の運転の仕方と同じような、身体の使い方の問題であり、いわば、こつや慣れに属する問題なのだとも言える。

そのように考えるならば、包丁の使い方や車の運転の仕方について語るのと同じように「うまく生きる」うえでの実践的なコツを列挙することさえできるだろう。

僕が思いついたコツを二つ列挙しておきたい。

僕が考える第一のコツは、できる限り言葉の問題として扱うというものだ。

人生において「うまさ」「まずさ」が問題となる典型的な場面とは、溺れる人を助ける場面ではなく人間関係の場面だろう。だから「できる限り言葉の問題として扱う」というコツはかなり適用範囲が広いと思う。

実践的と言いつつ理屈っぽくなるが、僕は言語というものが「うまく生きる」うえでのコツにつながると考えている。正確には「まずく生きないで済む」うえでのコツになると考えている。そこで役立つのは、言語が持つ継続性という特徴である。簡単に述べると、この継続性とは、言葉は対話として継続し続けるものだ、ということである。対話が続いている限り「うまさ」「まずさ」の問題は生じない。対話の内容は、対話が続く限り更新され、確定しないからだ。確定しないものについて「うまさ」「まずさ」は生じない。一見、まずい発言をしてしまっても、対話を続けることさえできれば、その発言は訂正し、うまい発言にすることができる。

問題は、言葉には、継続するものとしての側面と、もう一つ、通常の行為としての側面もあるという点にある。対話が終わり、言葉が確定すれば、それは通常の発話という行為として確定する。そうすると、継続性という利点は失われる。言葉の継続性という利点を最大限に活かすならば、どこで語り終えるかはコントロールしなければならない。このコントロールのうまさは、「うまさ」の重要な要素になるだろう。継続性の最大の問題は相手の協力がどこまで得られるかどうかという点にある。そのために必要なのは話術だ。人を飽きさせずに興味を持って対話に参加してもらい、そして、できる限り最短距離で、その対話が至るべきところにまで進む。この話術という技能こそが、「うまさ」の重要な要素となるだろう。これは、対話の中にどの程度遂行性を含ませるかというさじ加減の技術だとも言える。

もうひとつのコツは、飛躍を細やかなものにするというものだ。溺れる人を助ける際に、いきなり助けるという最終目標まで飛躍する必要はない。まず、溺れる人の体力を見極めることを第一の目標として、まず冷静になるという決心をし、そこまで飛躍する。そのうえで、第二の目標として、役立ちそうな記憶を呼び起こし、これまで得た知識を整理するという決心をし、そこまで飛躍する。といった細分化があってもよいし、そのほうがより飛躍の難易度が下がる。

細やかさや細分化というと繊細さや力の弱さといったものとつながるイメージがあるので、解像度を上げると言ったほうがいいかもしれない。この比喩は当然、パソコンのモニタやテレビの画面のきめが細かくなるように、世界把握にあたって解像度を上げるということであり、これはどちらかというと鮮やかさや表現の力強さといったイメージにつなげることができる。

または、細かい把握を可能とするためには、冷静さや注意深さが必要であり、それを強調するならば、マインドフルネスやスポーツでのゾーン状態といったイメージと重ねることができるかもしれない。

これらのようなことも含めて、飛躍を細やかなものとすることがうまく生きるうえでのコツのひとつである、と考えている。つまり「うまさ」とはきめ細かさであるとも言える。

ここまで、実践的なうまく生きるうえでの実践的なコツについて、言語と細やかさという二つを挙げたが、実は、実践的と言いつつ、こっそりと僕の理念的な希望を込めている。

僕が目指すのは、うまく生きるということと哲学と瞑想への接続である。当然、言語は哲学と重なり、細やかさはマインドフルネスのイメージが登場したように瞑想と重なる。哲学と瞑想こそが、うまく生きるということに密接に関わる営みなのではないだろうか。今回の考察も、そのことを示すための一歩であったと考えている。