1 僕のパターナリズム的傾向

僕はパターナリズム的な傾向が結構強い。職場では放っておいても偉そうになりがちな年齢的になってきているし、参加者との平等な対話を目指す哲学カフェなんていうイベントもやっているので、日頃から、なるべく余計なことは言わないように心がけている。だけど、そういう場を離れると、妻や子どもには、つい、アドバイス的なことを言いたくなってしまう。

この話における一番大きな問題は多分わかっている。きっとこれは自他の同視に由来する問題なのだろう。僕は家族のことを自分の延長のように考えていて、まるで自分の手足のように妻や子どもを扱い、手取り足取り指示したくなってしまうという問題だ。これは単純に避けるべき行動であり、自分からそのような行動傾向を取り除くよう日頃から心がけることにより解決できるたぐいの問題だ。

2 最善の世界

だけど、ふと、別の問題が隠されているのではないか、と思いついた。僕は、つい言いたくなってしまいがちな独特の思考回路を抱えてしまっているのではないだろうか。

子どもを叱る場面を例として他の人との違いを描写すると、多分、多くの人は子どもを叱るのは、きっと自分にとって大切な子どもが幸せになって欲しいからであり、それが自分にとっての喜びであるからなのだろう。一方で、僕が子どもを叱るのは、その子どもの振る舞いが世界のあり方を損なっているように感じるからなのだ。僕は我が子のことをよく知っているから、彼女の潜在的能力をある程度わかっているつもりだ。その能力が適切に発揮されないとき、僕はそれが我が子にとってだけではなく、世界にとっての損失であると感じる。

当然、これは極端な述べ方であって、僕も子どもの幸せは願うし、多くの人も自分のことだけではなく世界のことを考えているだろう。だけど、僕は人よりも一般化して、世界というような視点で物事を捉えがちなのは確かだと思う。

僕は、世界は最も善いあり方を目指すべきである、と強く考えている。その奥には、僕自身が最善の世界を目指す営みに関わるべきという考えもある。更にその奥には、最善の世界を目指す営みに関わることこそが、僕自身の最善の生き方であるという考えもある。こうして、最善の世界という観点は僕自身に深く関わっている。

だから最善の世界を手に入れられなかったときに僕の中に生じるのは怒りというよりも後悔である。僕自身が目指すような生き方ができなかったという後悔である。

このような僕の思考回路と、僕のパターナリズム的な傾向は避けがたく関わっているように思う。

3 最善を見つけるための時間

だから僕は最善を目指すことにこだわりすぎていて、きっと押し付けがましい人間になっているのだろう。僕はこのこだわりを捨てるべきであり、せめて少し弱めるべきなのだろう。だけどそれは、ほぼ自己否定をすることに等しい。これは受け入れられないことだ。最近までどこかでそんなふうに考えていた。

だけど、ふと、その目標設定はこのままでいいのではないか、見直すべきは最善を目指すこととは別のところにあるのではないか、と思いついた。見直すべきは最善を目指すという目標設定ではなく、そのやり方、つまりテクニックなのではないだろうか。

僕は一気に最善に至ることを目指しすぎていた。だから僕は家族に一挙に説明し、彼らの理解を一度で得て、彼らが一挙に変化することを期待していた。だが、このような一気に最善を目指すようなやり方自体が既に最善なものではない。なぜなら、一気に最善に至るという道筋は、僕が既に最善を知っていることを前提にしているからだ。しかし僕は最善を知らない。なぜなら、関係者(または当事者)である彼らの考えを彼らの口から聞かなければ、僕は最善がどのようなものなのか知ることはできないからだ。最善を目指すにはまず、家族とともに最善を見つけなければならない。

なお、以前から僕はその点は意識していて、僕がパターナリズムを発揮するときにも、彼らの話を聞くように心がけてはいた。だが、重要なのは、彼らが話す準備ができているとは限らないということにある。彼らの話を聞くためには、彼らの考えがまとまり、それが自然に出てくるのを待たなければいけない。また僕自身も、彼らの言葉を聞いてそれを消化する時間が必要となる。つまり、究極の最善を目指すためには合意という手続きだけではなく、合意に至るまでの時間が必要なのだ。

だから、最善を目指すためには最善に到達しようとしすぎてはいけない。最善を目指すには時間が必要であり、その間も人はなんとか生きなければならない。それはつまり、最善ではない人生を生きざるを得ないということである。最善を目指す生き方をするためには、最善ではない人生を生きるしかないならば、性急に最善に到達しようとする心構え自体が大きな誤りだということになるだろう。

言い換えるならば、最善に至ろうとしていくら失敗しても、いくらでも再チャレンジは可能であり、それこそが最善に至るための唯一の道であるとも言うことができるだろう。そこでの失敗とは修正可能な誤りであり、最も大きな誤りは、一度限りで最善を目指すという考え方なのである。

4 最善を目指すコミュニケーションにおいて用いる言葉

僕は少し肩の力を抜いて、最善の世界を目指しすぎずに、最善の世界を目指していこう。

そのために必要な現実的なテクニックは、きっと、あまり押し付けずに言葉を小出しにすることなのだろう。

多分、僕の家族に限らず人は、人の話を聞くことができるキャパシティがある。その容量は人によって違うだろうし、気分や体調などによっても違いはあるだろうし、話の内容に対する興味などによっても違うだろう。僕は、きちんと説明しようとしすぎて、その限界を超えてしまうことが多かったのではないだろうか。人はそれほど人の話を聞くことはできないのだ。

また、僕は人に説明する際に、論理的にやりすぎていたように思う。論理的な説明は冗長になりがちだし、論理が複雑になるとわかりにくい。論理的な説明というのは、あまり理解をとりつけられないうえに、冗長で相手のキャパオーバーになってしまうことが多い。僕はそれを相手の論理的な能力の欠如によるものではないかと考えたこともあったけれど、きっとそれは僕自身も含めた人間というものの性向なのだと思う。

もしそうならば、僕はどうしたらいいのだろう。

僕は長らく論理的なやり方以外を知らなかった。少なくとも意識したことがなかった。論理的でない説明とは、単なる非論理的な説明であり、単純に誤りだと思っていた。論理的で冗長な説明を避けて説明を断片化するということは、単にその説明を非論理的で劣ったものにしてしまうということだと考えていた。

だが哲学カフェをしていて、論理的ではないけれど力を持つ言葉というものが存在することに気づいた。簡単に言うならば、非論理的であっても感情が乗った言葉には圧倒的な力があるのだ。言葉の濃度や重さと言ってもいいだろう。僕は哲学カフェでそのような言葉に出会い、ダンベルで殴られたような力を感じることがあった。(殴られたことはないけれど。)

きっと、最善を目指すコミュニケーションにおいては、このような言葉が重要なのだろう。僕は論理的に断片化されてはいても、そこに心がこもった強い言葉を語るべきなのだ。

5 伝達の速度・触媒としての言葉

もう一つ必要なのは、言葉にしない時間である。沈黙と言ってもいいだろう。

僕はどうも喋りすぎるところがある。だが言葉を理解するためには沈黙の時間が必要だ。それも人によって必要な時間が違う。僕は比較的短い時間しか要らないほうだが、哲学カフェをやっていて感じるのは、必要な時間は人によって全然違うということだ。哲学カフェの参加者のなかには、何分も経って話題がかなり進んでから、さっきの話題に戻る人が結構いる。ここにあるのは言葉が伝わるために必要な時間の違いなのだろう。決して能力の問題ではないのは確かだ。(僕は時間をかける人からのほうが、より面白い言葉が出る過可能性が高いとすら思う。)だから言葉をきちんと伝えたいならば沈黙の時間が必要だ。または非言語の時間と言ってもいいだろう。テレビを観てもいいし、全く違う話をしてもいいし、風呂に入って寝てもいい。その間に言葉はゆっくりと伝わっていく(こともあるし、伝わらずに終わることもある)。

なお、伝達が成功したとき、人は沈黙の時間または非言語の時間に何をしているのかといえば、きっと頭のなかで、自分の心の中で自分との間で言葉を交わしているのだろう。そのようにして、耳にした言葉を自分の言葉に置き換えたりして理解しようと努めているのだろう。またはさっき聞いた言葉を触媒のようにして、自分の考えを深めていると言ってもいいかもしれない。

きっと人の理解とは、誰かから聞いた言葉が直接理解につながるというようなあり方はしていない。多分、人は、自問自答するようにして発した自らの言葉でしか何かを理解することなどできない。それならば、僕が家族にできるのは触媒のような言葉を投げ、それにより彼らのなかで科学変化が起きるのを待つだけということになる。当然、その逆もしかりである。そこに必要なのは心がこもった言葉と沈黙の時間である。僕はそんなふうにして、世界と、または世界を構成する人々と、最善を目指していきたい。