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オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた

1 「じゃないほう」の二人による倫理的問題

ラーメンズの片桐じゃないほう、というくらいの認識しかなかった小林と、フリッパーズ・ギターのオザケンじゃないほうの小山田が、それぞれ問題を起こしてしまった。

二人がやったことはぜんぜん違うことだけど、きっと、二人ともオリンピック開会式に関わるポストについていたという状況や、いずれも過去における言動が問題となったという偶然の一致以外にも、いずれも倫理に関する問題であるという点で、本質的にはつながっているのだろう。

倫理と言えば、僕には今、僕史上最大の倫理ブームがきている。バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読み、この半年くらい色々と考えているからだ。だから、せっかくだから二人の問題について考えてみた。

(この話では、「じゃないほう」の二人以外にもうひとつ、webで無料公開されている藤本タツキの漫画『ルックバック』も使っていて、ネタバレしているので、この漫画を読む予定の人は読まないほうがいいと思います。とても面白かったので、僕の文章よりまずそっちを読んでください。)

2 ウィリアムズの道徳論

なんとなく「倫理」と「道徳」は似たような意味で使われがちだけど、ウィリアムズは、古代ギリシャや中世日本など全ての時代の全ての社会を通じて常にあった「倫理」と、近代以降の西洋化された社会に特有のものである「道徳」とを明確に区分する。道徳とは、善や義務といったような抽象化された概念により表現できるような一般化された価値システムのことだと言ってよいだろう。道徳以前の社会である古代ギリシャや中世日本においては、人間の倫理は、勇敢さや恥といったような相互に独立した言葉で評価され、人々はそのような価値観に基づき生きてきた。一方で道徳が唯一の倫理的な価値システムとなった近代社会においては、抽象的に把握可能な概念である「義務」さえ果たしていれば、その人は善をなしたこととなり、もし果たしていなければ、その人は非難されることになる。このように極めて抽象化され、一般化された価値システムのなかで僕たちは生きているとされる。

当然、そんなに物事は単純ではない。確かに、道徳システムに基づくならば電車の優先席に座っていて、目の前に老人が立っていたら席を譲るのが義務だけど、そこが優先席でなければ、老人が立っていても席を譲ることは義務ではない。その老人は僕の前になど立たず優先席のほうに移動して席を譲ってもらえばいい。だけどそうして老人を無視することはどこか心が咎めるし、もし老人に席を譲れば、僕は少しいい気分になるし、周囲から称賛の眼差しを受ける栄誉に浴するかもしれない。そのような、義務ではすくい取れないようなものも現代社会には確かに存在する。

だけど道徳は、そんな領域にも義務を持ち込んでくる。老人に席を譲らないひとを見かけても、そこは優先席じゃないのだから、席を譲らないのはその人の自由だから非難すべきではないと考える。もし老人が電車の揺れでよろけて転んでも、それが席を譲らなかった人の責任だとまでは考えない。つまり僕たちは、義務が及ばないところに自由はあり、義務があるところにしか責任はないと考える。

または、電車で倒れて怪我をした老人を見て、僕は自責の念にかられるかもしれない。あのとき席を譲るように注意していれば、このような悲劇は起きなかったかもしれない。僕にはそのような選択をする自由があったはずであり、そうしなかったことに対して僕には責任がある。このように考えることは、「僕には、席を譲らない若者を見かけたら注意する義務があり、そうすることが善いことである。」と抽象化して道徳的に考えることに、かなり近づいている。

ウィリアムズの見立てによれば、近代以降の社会を生きる僕たちは、すべての倫理的問題を善や義務や責任や自由といった抽象化された観点で捉えようとするような、道徳システムに取り込まれて生きているということなのだろう。

3 道徳システムの欠陥

僕は、このウィリアムズの見立てはおおむね正しいと思う。現代社会を生きる僕たちにとって道徳システムは極めて重要なものとなっている。

では、このような観点から、フリッパーズ・ギターやラーメンズの「じゃないほう」の二人の問題はどう捉えることができるのだろう。

元フリッパーズ・ギターで現コーネリアスである小山田圭吾は、過去にいじめをして、そのいじめを反省していないような発言をし、更にそのことが問題となるまで、謝罪もすることなく生きてきた。いじめは当時も今も犯罪であり、いじめをしないことは義務であり、いじめをしたならばそのことが非難され、責任を負わなければならない。このようにして、かなり典型的なかたちで道徳システムのなかで取り扱うことができるだろう。

では、元ラーメンズ小林はどういうことかと言えば、過去にコントの中でホロコーストをネタにした発言をした。それ以上でもそれ以下でもない。テレビで流れてはいないことも踏まえると、小山田の事案に比べてかなり罪は軽く、義務や責任といった言葉で簡単に捉えて判断できるような問題ではないと言えるだろう。つまり道徳システムには乗りにくい事案だとも言えるだろう。がんばって道徳システムに乗せるためには、小林が当時、ホロコーストをネタにしない義務があったことを認めなければならないけれど、それを認めることは表現の自由と衝突するし、無理筋のように僕には思える。きっと彼に対する最大公約数の感情は、ひとりの芸人としては問題ないけれど、オリンピック開会式のディレクターとしてはまずかったというものだろう。それを道徳的な用語で表現するならば、「オリンピック開会式関係者には、過去にホロコーストをネタにしないという、その立場ならではの義務があった。」ということなのだろう。だが小山田と違って難しいのは、小林には、20年前にそのライブをやってから今までの間に、そのようなコントをしたこと自体を謝罪して訂正しなければならないというような義務はなかったし、ディレクター就任を要請されたときに、過去にやったコントでの発言を思い出し、要請を断る義務があったとまでは言えないだろうという点にある。小林は義務の袋小路に入り込んでしまっている。

僕は小林という限界事例を使って、要は近代社会が発明した道徳システムというものには欠陥があるということを言いたいのだけど、例としてうまくなくてピンとこないかもしれないので別の限界事例を使いたい。藤本タツキの『ルックバック』だ。この漫画での主人公である小学生の女の子は、ふとしたきっかけで、引きこもりのクラスメイトと仲良くなり、彼女を外の世界へと連れ出すようになる。それをきっかけに、その友人はひきこもりではなくなり、数年後、大学生となる。しかし、その友人は大学で通り魔に殺される。それを知った主人公は、どうして彼女を外の世界に連れ出してしまったのだろうと後悔する。自分が外の世界に連れ出さなければ、通り魔に出会うこともなく、彼女は死なずにすんだはずなのに。この主人公の後悔を、道徳システムはどのように取り扱うのだろうか。

道徳システムはきっとこう言うだろう。小学生の頃の君には彼女を外に連れ出さないようにする義務などなかった。だから君には責任はないのだから後悔する必要なんてない、と。だけど、その慰めの言葉は、主人公には届かないだろう。僕がその主人公だったらこう思うだろう。「そういうことじゃない。」と。

僕はこれが道徳システムの欠陥だと思う。ラーメンズ小林に対する批判も、ルックバックの主人公に対する慰めの言葉も、どこかピントがずれているのだ。「そういうことじゃない。」のだ。そこには道徳システムが捉えることができないものが確かに存在している。

4 道徳システムの粗い網

では、道徳システムが取り逃がしているものとはなんなのだろうか。それは個別具体的な事情だろう。明らかに道徳システムは細かい事情を考慮することが苦手だ。ルックバックの主人公がどのように友人と関わってきたのかということや、ラーメンズ小林が当時、どのような状況でどのような思いであのネタを演じたのかといったことを、道徳システムが考慮することはなかなか難しい。

もし変質者に狙われているような具体的な状況を知りつつ、外の世界に連れ出し、その結果変質者に殺されたならば、その行為には問題があるだろう。また、当時すでに遠い外国での昔の出来事であっても、そこには当事者がおり、その人とも関わって生きているという感覚が共有されていたならば、ホロコーストをネタにすることはもっと非難されても仕方ないはずだ。

道徳システムもなんとか、できる限り個別具体的な事情を汲み取ろうとする。変質者に狙われていたことを知っていたかどうかや、当時の社会のホロコーストに対する認識がどのようなものであったか、といったことを考慮に入れたうえで善悪をジャッジしようとする。だけどいくら論理の網目を細かくしても、現実はその間から逃げていく。変質者に狙われていたことを気づかなかったのは確かだけど、明らかに変質者っぽい人が徘徊しているのを見かけていたのに何の手も打たなかった状況があったというように。(それに対しては、重過失というような概念を導入して更に論理の網目を細かくすることもできるけれど、現実には、それでも汲み取れない個別事情がいくらでも控えている。)はっきり言って、道徳という粗い網では、現実を捉え、何かを判断することは不可能なのだ。現実においては、善と悪はきれいに二分できるものではなく、善と悪は緩やかなグラデーションでつながり、その間に無数の個別具体的な事情がちりばめられていると考えたほうがいいのだろう。そのようなものを、論理で把握し判断しようとする試みには、液体を網で捉えようとするような滑稽さがあるように思える。

5 内省・教育・刑事罰

では道徳システムを用いずに、倫理的な価値判断と現実の生活とを結びつけるにはどうすればいいのだろうか。つまり、善悪や義務や責任といった一般的な概念を用いずに倫理的な生活を送るにはどうすればいいのだろうか。

僕は、論理的に考えるならば、そこで使える唯一の武器は「内省」だと思う。ラーメンズ小林もルックバックの主人公も小山田圭吾も、そして僕もあなたも、倫理的に生きるためには、ただ自問自答し、自らがどう考え、どのように振る舞うべきかを内省するしかないのだ。社会の構成員である人間全員がそれぞれ、自らを倫理的に律し、倫理的に振る舞うことでしか倫理的な社会を手に入れることはできないのだ。ラーメンズ小林は20数年前にあのようなネタをやったことを後悔しているだろう。道徳システムは、そのときの何も知らなかったあなたに責任はないのだから、ただオリンピック開会式ディレクターとしての責任だけをとれば、それ以上の責任はないと慰めてくれるかもしれない。だけどきっと、そのような慰めでは届かないところに後悔はあり、彼はその後悔を抱え、その後の自身の行動をより倫理的なものにしていくだろう。そのような内省でしか、倫理的な社会を手に入れることはできないのではないだろうか。

では、他者は内省という唯一の倫理的なプロセスに全く関わることができないのかといえば、ある一面では確かに全く関わることができないのだろう。だが、別の言い方をするならば、教育というかたちで関わることができるとも言える。つまり、倫理的な内省を行うような人に教育するというかたちで、他者の倫理的プロセスに関わることができるのだ。その関わり方を一言でいうならば、「内省しなさい(内省したほうがいいよ)」と伝えることだけが、自分以外の人に対してせいぜいできることなのだ。

または、教育を擬制したかたちで、無理やりそれ以上のことをやってしまっているのが法律だとも言える。現在の刑法では、懲役刑や禁固刑は、反省(内省)する時間を与えるためのものだし、罰金刑とは反省をお金というわかりやすいかたちで示させるものだとも言える。受刑者が実際には内省しなかったとしても、内省したことになるのが、教育の擬制としての刑事罰というものの限界なのだろう。

教育や刑事罰がどれだけ有効かはともかくとして、現実の世界における個別具体的なものごとを評価判断するにあたっては、抽象的で一般的な道徳システムは役に立たず、最も事情を知っている当事者本人が内省し、どこまでも個別具体的なかたちで自問自答するしかないのは確かだろう。

6 慰めとしての道徳システム

では、全く道徳システムには活躍の場面がないのかといえば、そんなことはない。ここまで主に検討してきたのは、自分が自分を責めるにせよ、他者が他者を責めるにせよ、批判の場面であった。実は、道徳システムが活躍できるのは、批判ではなく、慰めの場面においてだと僕は考える。

ルックバックの主人公に対して、道徳システムに基づき、彼女が死んだのはあなたのせいではないと慰めることはできる。一般化して抽象化した視点から冷静に、それはあなたの責任ではなく、あなたは非難の対象ではないと判断することができる。そんな慰めの言葉はきっとそう簡単には当事者には届かないけれど、それでも、そのような言葉を発することには倫理的な意義があるはずだ。自責の念にかられているだろうラーメンズ小林に対しても、そこまで自分を責めなくていい、と言ってあげることはできるし、(より悪質に見える)小山田圭吾に対してでさえも、責められるべきは過去の行為に対してであり、将来のあなた自身の人格さえも否定された訳ではないから挽回のチャンスはあると言ってあげることは道徳システムに基づき可能だろうし意味があることのように思える。

つまり、道徳システムの問題とは、実は慰めのためのシステムであったはずが、いつの間にか、非難のシステムとして使われてしまうようになったという点にあると僕は考える。

道徳システムが慰めとして有用なシステムであるのは、道徳システムというものが本来的に自己と他者を同一化する性質を持っているという点に由来するのだろう。道徳システムにおいて重要な概念、つまり善や義務や責任といった概念の適用にあたっては自他を区別しない。自分に適用するときも、他の誰かに適用するときも同じ意味を持つ。人殺しというひとつの行為が、自分がやったときと他の誰かがやったときで善悪の判断が異なるというようなことはない。だから自分と他者の間にある違いを乗り越え、他者に対して理解したつもりになって慰めの言葉をかけることが可能となるのだ。

だが現実には、人殺しという行為であっても、その内容は千差万別であり、他者が全貌を詳細に把握することはできない。少なくとも、その行為者の内面を完全に捉えきることは他者にはできないはずだ。(もしかしたら行為者本人にも完全に把握することはできない。)すべてを知らない他者が勝手に倫理的な判断を下すのは越権行為であり、端的に誤りだろう。(何に対する越権なのかは二通りの考え方がありうる。つまり他者ではなく行為者本人だけがすべてを知りうると考えるならば、本人に対する越権であり、行為者本人でも知り得ないと考えるならば、神に対する越権である。)

それでも道徳システムは誤りを恐れず、無謀にも他者に関わろうとする。それが非難というネガティブな関わり方なら、それは道徳システムの短所だし、慰めというポジティブな考え方なら、それは道徳システムの長所ともなりうる。

当然、薄っぺらい慰めなど役に立たないし、逆に相手を傷つけることもある。ここでも重要となるのは「内省」だろう。僕たちが倫理的に生きるためには自分自身に対しても、他者に対しても内省し、自問自答しながら、なんとかうまく関わっていくしかない。内省こそが倫理的生活に向けた唯一の道筋なのだ。

内省こそが唯一の倫理的生活につながる可能性がある道だとしても、その道が倫理的生活につながっているとは限らない。だけど、希望を込めて、僕たちは内省し、心を耕すことによって、倫理的に善く生きることがきっとできるのではないだろうか。

更に言うならば、内省的に生きることこそが倫理的に善く生きるということなのではないだろうか。

ウィリアムズのこと(2) 倫理否定主義者と哲学対話

1 はじめに

以前、僕は哲学対話においては、継続性と誠実性が重要だと論じたことがある。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

ウィリアムズは『生き方について哲学は何が言えるか』第2章において道徳否定主義者を想定した道徳的生活の正当化についての議論を行っているが、この議論と僕の議論とは重なるところが多いと気づいたので、書き残しておくことにする。

2 道徳否定主義者との倫理的議論

ウィリアムズはプラトンの『ゴルギアス』に登場するカリクレスのような倫理否定主義者(※)を念頭に置き、倫理的生活の正当化がどのようにして可能となるのかを考察する。

※ ウィリアムズは道徳否定主義者としているが、ウィリアムズは場合によってより広義な倫理と、倫理のなかの特殊システムとしての道徳とを使い分けるので、ここでは、より広義な倫理否定主義者と言い換えている。

  また、倫理否定主義者というと、なんとなく、泥棒をしたりいじめをしたりと悪いことばかりする人のようにも思うかもしれない。だが、義賊のように、実は道徳的な動機で悪事を働くような場合もあるので、真に道徳否定主義者かどうかは何らかの説明が必要となる。だからここでの道徳否定主義者とは道徳を否定するように実際に行為するひとではなく、プラトンの対話篇に登場する人物のように道徳否定的な主張を行う人を想定したほうがいいのだろう。(この話の続きは最終章で行う。)

僕は『ゴルギアス』を読んでいないので、あくまでこの本に沿って理解する限りだけど、道徳否定主義者とは気まぐれに倫理的な議論に参加し、倫理システムを否定することはあっても、いつまでもその議論に留まることはないような人のことだ。勝手に議論から退場もするし、力づくで議論の相手を引きずり出すことすら厭わない。ドラえもんのジャイアンのような奴をイメージしてもいいだろう。彼は倫理的な見地からの説得(例えば、功利主義的な利益への配慮を書いているというような)にも耳を貸すことはないし、論理法則に反する(例えば、自己矛盾を犯すなど)といった批判を気にすることもない。そもそも非倫理的なので、自らが一貫性を欠くことに何の抵抗もない。その点では男気があるジャイアンだとちょっと違うかもしれない。どちらかというと倫理的でないというよりも論理的ではないと言ったほうがいいかもしれない。(※)

※ ここでのウィリアムズは倫理的であることと合理的・論理的・理性的であることを同一視しているように思える。(非倫理的な理性の居場所をなんとか確保しようとはしているけれど、僕には失敗しているように思える。)これはかなり正しいけれど、論ずべきことが残っているように思う。ウィリアムズ的には倫理的生活は論理を超えたところにあると言うだろう。逆に、形而上学的な理性はウィリアムズが捉えた倫理的な理性を超えている、というような述べ方をして、論理が倫理を超えているということもできるのではないか。

そのようなものとしての道徳否定主義者(A)を念頭に置くならば、彼と道徳主義者(B)の議論は次のようなものになるだろう。

B 「君が道徳否定主義者なら、目の前に溺れる子供がいても、誰も見ておらず、あとで非難されるような恐れがなければ、助けないのかい。」

A 「助けようとすると思うよ。」

B 「どうして。」

A 「そうしないと後で嫌な気分になるからね。」

B 「じゃあ、君も道徳主義者なんだよ。」

A 「それなら、やっぱり助けない。」

B 「なんで意見を変えるの。」

A 「いいじゃん、別に。」

B 「助けないままにして、後で嫌な気分になってもいいの。」

A 「嫌な気分になんかならないよ。」

B 「さっきと話が違うよね。」

A 「うるさいな。もういいよ。」(Aは立ち去る。)

このような状況について、ウィリアムズは、道徳主義者Bの言葉が道徳否定主義者Aに対して威力(force)を持たなかった、と描写する。ウィリアムズによれば、倫理的主張は、その相手が倫理システムの内部にいる場合にのみ威力を持つことになる。

3 道徳否定主義者が道徳主義者になるためのステップ

では、この例のどこに問題があり、どう修正すればBの言葉がAに対して威力を持つことになるのだろうか。言い換えれば、どうすればAは倫理システムの内部にいる者、つまり道徳主義者であることになるのだろうか。

最も問題だったのは、Aが途中で話を打ち切り、立ち去ったことだろう。これは、ウィリアムズが「なぜ、そういう人たちが、おとなしく議論を聞くと考えてよいのだろうか?」(p.58)としている問題である。ウィリアムズが持ち出した例の場合は、道徳否定主義者Aは逆に(倫理学の)先生のほうを殴って引きずり出してしまうが、実力行使で議論を強制的に終了させるという点では変わりがない。もし、Aが相手を殴ったり立ち去ったりせず、おとなしくその場にいることができれば、Aは道徳主義者に一歩近づく。

だが、それでもAは道徳主義者になることはできない。なぜなら、平気で主張を変え、その理由も示さずに、一貫性のないことばかり言っていたら議論に参加していることにならないからだ。

例えば、Aが立ち去ったり、殴ったりするのを我慢し、先ほどの議論を続けるならば、次のようになるだろう。

B 「助けないって言ったり、助けるって言ったり、なんで意見を変えるの。」

A 「変えちゃいけないの。」

B 「理由がなかったら変えちゃだめだよ。」

A 「じゃあ変えてない。」

B 「変えたじゃん。おかしいよ。」

A 「じゃあ変えた。」

B 「変えた理由は何。理由がないまま勝手に変えちゃ駄目だよ。」

A 「やっぱり変えてない。」

 これでは議論にならない。そもそもAが議論に参加しているとは言えないだろう。Aが議論に参加していると言えるためには、主張にあたっては一貫性を意識する必要があるし、主張を変更したならば、主張を変えたということを認めなければならない。

 そして、もし、Aがこれも受け入れたならば、Aはようやく道徳主義者となったと言えるだろう。なぜなら、立ち去ることも許されず、一貫性を尊重せざるを得ないこととなったAにはBの倫理的な説得を逃れる術はないからだ。理性的に議論を行う限り、Aには勝ち目はないはずだ。

 もし仮にAが溺れた子供を助けないと主張し、倫理的な判断にコミットしないことを選んだとしても、Bが持ち出すだろうすべての事例で全く倫理的な判断から離れることはなかなかできないだろう。ウィリアムズは例外的に完全に倫理から逃れる方法として(※)「倫理的な言説を用いることからすっかり身を引いてしまうという手」(p.64)を持ち出しはする。だがそれはかなり困難なことだろうし、もし仮にそれを実現してしまったとしたら、その人のことを道徳否定主義「者」と呼ぶことができるかどうかは疑問だ。ひとつも倫理的なことはせず、完全に倫理的な言動から距離をとった人のことを、そもそも「人」と呼ぶことなどできないのではないだろうか。もし、ひたすら悪を行い、全く言葉を交わすこともできないような存在があったなら、それは、たとえ人間のかたちをしていても、人間として扱われることはないのではないはずで、文字通り悪魔として扱われるのではないだろうか。つまり人間が人間であるためには多少は倫理的であらざるを得ないのではないだろう。そのうえで、人間が必ず多少なりとも持っているその倫理性を首尾一貫して保持してしまったら、その人は道徳主義者にならざるを得ないということになる。

※ ウィリアムズは倫理的懐疑主義者と道徳否定主義者を分けて考察しているが、ここでは議論の簡素化のためひとくくりにして論じている。

4 哲学対話との接続

以上のような描写と、僕が、哲学対話においては継続性と誠実性が重要であるとしたこととは重なる。つまり、相手を殴ったり立ち去ったりせずに、その場にいるということが継続性にあたり、主張の一貫性を意識して議論を行い、主張を変更したならばそれを素直に認めるということが誠実性にあたる。つまりウィリアムズと僕の議論は関係があり、倫理的であることと、哲学対話に参加することとは深い関係があるのだ。

 ここで強調したいのは、重要なことは継続性と誠実性の二つだけだという点にある。先ほどの道徳者の描写はひとつの例しか用いていない雑駁なものであり、十分に論じきれていないが、僕は、人が倫理システムの内部にいるためには、継続性と誠実性だけがあれば十分だと考えている。そして、哲学カフェ(哲学対話)についても、重要なのは継続性と誠実性だけだと考えている。つまり、倫理的であることと哲学対話とはこの点で全く等しく、両者は関係があるどころか全く重なると言ってもよい。

 それならば、哲学対話とは人が倫理的であることを学ぶための最も基礎となる場であると言うことができるのではないだろうか。プラトンは政治によって社会を変革し、倫理的なるものに威力を持たせようとした。現在、学校教育のなかに哲学対話をとりいれようとする動きがあるが、これは、形は違っても、プラトンの国家論の現実化ということさえできるのではないか。

5 哲学者の日常生活

 なんだかバラ色の未来を描いてしまったが、倫理学と哲学対話の一致はもうひとつのあまり愉快ではない話にもつながるだろう。

 哲学対話とは、単なるイベントのひとつではなく、哲学という営みのある側面を非常に純粋なかたちで体現するものだと僕は考えている。哲学対話とは哲学そのものだからこそ、ウィリアムズが道徳否定主義者と対比するかたちで描写した道徳・倫理というものとここまできれいに一致するのだ。この本のタイトルは原文では「Ethics and the Limits of Philosophy」である。倫理というもののあり方と(ある種の)哲学の限界とを重ねて議論することができるというウィリアムズの洞察は、確かにそのとおりだと思う。

 倫理や哲学(対話)には限界がある。その限界は継続性と誠実性というかたちで示されている。では、その限界の外には何があるのだろうか。そこには日常生活があるのではないだろうか。

 当然、僕たちは四六時中哲学(対話)をしている訳ではないし、ウィリアムズだって常に倫理学的な考慮に基づいて生きている訳ではないだろう。そんなとき、僕たちは継続性と誠実性を失い、非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的に生きていることになる。僕たちはそんな日常を生きている。

つまり、道徳否定主義者とは、どこかに思考実験的に存在するような架空の人格破綻者のことではなく、日常を生きる僕たちのことなのだ。僕たちは、日常において、時間がないからと相手の話を十分に聞かずに話を打ち切ったり、眠くて適当に相槌を打ったり、場の雰囲気に流されて誤解を訂正しないままにしたりする。そんなとき、僕たちは非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的な存在となる。ウィリアムズの言葉によるなら、僕たちは道徳否定主義者となる。

いや日常生活においても道徳はある、という反論があるかもしれない。日常生活においても、溺れる子供を助けるというような、道徳的に評価される行為は確かに存在する。

だが実は、道徳的に望ましい行動をとるかどうかと、道徳主義者か道徳否定主義者のいずれであるかは関係がない。なぜなら、両者の違いはあくまで議論の場面で生じるものだからだ。道徳主義者とは、あくまで道徳的な議論を行う者のことで、道徳否定主義者とは道徳的な議論を行わない者のことである。道徳を否定するにせよ、肯定するにせよ、議論のなかで培われた道徳という観点を議論の外に持ち出すためには、議論の内外の間に横たわる断絶を飛び越える必要があるが、それは不可能なことである。溺れた子供を助けるべきといくら論じても、その人が溺れた子供を助けるとは限らないし、逆に、助ける必要はないと論じた人がいたとしても、その人が、実際に子供が溺れている場面に遭遇したとき、英雄的な行動をとることは、かなりありうることである。

それでも、事前に哲学対話を積み重ね、倫理的な力を高めておくことにより、心構えができ、日常生活においても培った道徳の力を発揮しやすくなるというような傾向性は見出すことができるかもしれない。もしそれを認めるならば、哲学生活の場面と非哲学的な日常生活の間にある断絶を架橋するような何らかの媒介物、例えばコナトゥスと呼ばれるようなものを想定しなければならないだろう。だが、そのような議論も、それが議論である限りは哲学生活としての範囲に留まらざるを得ず、それが日常生活の側に届くことはない。そこには哲学の限界を哲学によって論じるという問題が残っている。どうやら、この考察も行き着くところまで来たようだ。

6 注意点

 最後に注意点を述べておくと、ここで論じたのは、哲学のうちの倫理学と呼ばれる分野に限定してのことだ。僕が好きな形而上学や、または、美学や論理学といった他の分野の哲学については、哲学対話と相性がいいかどうかさえ、まだわからない。実感としても、哲学対話を実践していると倫理学的な話題と哲学対話は相性がいいと感じるけれど、それ以外の分野についてはそうでもないような気がする。だから、哲学対話は当面、倫理学対話と呼んだほうがいいように思うし、哲学カフェも倫理学カフェとしておいたほうがいいような気がする。そのように限定することで、ものごとをかなりクリアに捉えられる気がする。

フェミニズムという物語

(この話は、あまりフェミニズムに興味はないし、詳しくもない僕が書いたフェミニズムについての話です。だから話半分で読んでください。フェミニズムはあくまで話の枕で、実はフェミニズムの話ですらないかもしれません。)

1 フェミニストな妻

僕の妻はフェミニズムっぽい考え方を持っている。だから時々、食卓でそういう話もする。そんなときはたいてい、二人の話は少し噛み合いつつも、少しすれ違ってしまう。僕は多分、フェミニズムには総論賛成各論反対の立場なのだろう。男女平等という姿勢には賛同しつつ、その論理構成の細部には疑問を感じてしまうのだ。

例えば、妻は、会社での人事評価は男性のほうが優遇されていると言う。僕もそれに同意する。更に妻は、その理由について、育児休暇をとると悪い評価がつくのはミソジニー的な意識が男性社会のなかにあるからだと言う。そんなとき、僕の中に違和感が生じる。確かに少なくない割合の男性がミソジニー的ではあるだろう。また、育児休暇をとると評価が低くなるのも確かだろう。だけど、育児休暇をすると評価されない主な理由は、単に仕事をしていないからではないだろうか。当然、女性が仕事を休まざるを得ないのは子育てのせいだし、子育ては男性がもっと関わるべきだ。その現状を踏まえるならば育児休暇を理由に低評価をすべきではない。だが、そのうえで、ミソジニーの問題はあまり関係ないように思えるのだ。育児休暇と同様に、あまり残業をしない人や、病弱で休みがちな人は評価が低くなりがちだ。全く同列に語ってよいかどうかは別として、僕には、そこに大きな違いはないように思えてしまう。あくまでこれは評価全般の難しさの問題なのではないだろうか。

僕の主張が正確かどうかは別にして、こんなふうに、僕は、フェミニズム的な主張にはどこか粗雑なところがあるように感じてしまうのだ。

2 交差するベクトル

ずっと僕は、それはフェミニズムの欠点だと思っていた。僕のほうが精緻で正しくて、妻のほうが粗雑で間違えていると思っていた。

だけど、もしかしたら、そうではないのかもしれないと気づいた。二人は、向いている方向が違うだけなのではないだろうか。言い換えれば(僕にとっての)哲学とフェミニズムではベクトルが違うということかもしれない。

僕にとっては、議論とは、たとえ夫婦の間でのものあっても、当事者の思い入れから解き放たれ、真実に向かうべきものだ。僕自身や妻といった当事者の思いのいかんに関わらず、いわば客観的な視点から真実を描き出そうとするものだ。僕は哲学とは、そういう営みだと考えている。(「客観的」という表現が、哲学的には問題含みではあるけれども。)

一方で、フェミニズムとは、生き方なのだろう。きっと、妻は女性であることで苦労してきたのだろう。そして、それを乗り越えてきたという自負もあるはずだ。そのような半生とフェミニズムは切り離すことができない。彼女にとって、男女差別は人生の大きな課題だった。だから彼女が自分自身の人生を描写するとき、男女差別という視点は極めて重要なものとなる。いわば、彼女はフェミニズムというストーリーのなかで生きていると言ってもいい。僕のような視点が客観的なものだとしたら、彼女の視点は主観的と言ってもいいだろう。

 このようにして、僕の視点と彼女の視点は交差する。僕は客観的で全体的な視点から個別のものごとを捉えようとし、彼女は主観的で個別的な視点からすべてを捉えようとする。僕はまず、育児休暇の低評価やミソジニーといった社会的問題を見渡すような視点に立ち、そこから共通の問題構造を見出していく。その分析のなかで男女差別を見出すかもしれないし見いださないかもしれない。全体構造が先で男女差別は二の次だ。一方で彼女は、育児休暇の低評価の問題もミソジニーの問題も、男女差別というひとつながりのストーリーとして捉える。男女差別という物語は彼女の人生とは切っても切り離せない必須のものとして立ち現れる。

 だから問題が生じるのだろう。僕は、フェミニズムを切り刻むように扱う。育児休暇の低評価問題には、男女差別が関わっている部分と、そうでもない部分があるよね、というように問題を腑分けする。だけどそれは、彼女からしたら、自分の人生を切り刻み、腑分けされているようなものかもしれない。彼女にとっては、男女差別の観点から語ることができる限り、育児休暇の低評価問題もミソジニーも、完全に男女差別の問題なのだ。つまり、すべてが彼女の人生のなかで渾然一体となり、男女差別=育児休暇の低評価問題=ミソジニー問題という図式が成立する。これこそが、僕とは異なる、僕があまり得意としない、もうひとつの世界の捉え方なのだろう。僕はこのような捉え方を否定すべきではない。

3 人生というストーリー

 更に言うならば、きっとそれが自分の人生を生きるということなのだろう。彼女は、育児休暇の低評価問題を現実に男女差別の観点から説明できないような経験を実際にするまでは、どこまでもそのように生き続けるのだろう。それしかできないのだろうし、そうすべきだとすら思う。

 どうしてそう思うのかというと、実は僕も同じだからだ。僕も彼女と同じように、ひとつのストーリーのもとで生きているからだ。言うなれば、僕自身も、客観性というひとつのストーリーのもとで生きている。(哲学的にもう少し正確に表現するならば「メタ」という視点を重視するストーリーのもとで生きていると言ったほうがいいかもしれない。)彼女のフェミニズムを外部の視点から批判することは容易であるのと同様に、僕の客観(メタ)を重視するドグマを外部の視点から批判することも簡単にできる。そして、僕は、僕のドグマを擁護する術を持たない。その点で僕たちは同じ穴のムジナだ。

 なお、僕自身がドグマを抱えているということについてわかりにくいかもしれないので少し具体的に説明しておこう。それは例えば、相対主義の自己適用の問題と似ている。AとBの二人が堕胎は是か非か、というような二つの意見が対立している場面で、相対主義者Cが「人それぞれ」なのだから相手の意見も認めるべきだ、と調停したとする。それに対して、非相対主義者Dが「では相対主義者(C)は、相対主義を否定するという俺(D)の意見も認めるべきではないのか。」と批判するような場面だ。CはAとBよりもメタ的な視点に立っている。だけどDはCよりも更にメタ的な視点に立ち、なぜそこに留まるのかと批判する。CはDからの批判を正面から否定することはできないだろう。そして僕は、僕自身が、この相対主義者Cと同じような立場にいると考えている。「どうしてメタ的な視点をとるのか。(どうしてメタ・メタ的な視点をとらないのか。)」とメタ・メタ・メタ的な視点から問われたとき、僕はそれに対して答えることはできない。(なお、Cは正面からではなく、ずらして答えることができる、と考えるのが入不二であり、僕はそれに賛同する。)とにかく客観性や、相対主義や、メタ的な視点というもの自体がひとつのドグマであるという批判はたしかに成立する。

 人は生きる限り、ストーリーまたはドグマからは離れられない。世の中には、フェミニズムや客観性のほかにも、民主主義、資本主義、愛、優しさ、神といった様々なストーリーであふれているけれど、人は自分自身に染み付いたストーリーからは離れることができないのだ。

 ここで述べたことは哲学的にはそれほど深い話ではないけれど、僕はその知識を実生活で使えていなかったのだ。妻との議論において、無頓着に客観的でメタ的な立場に立つことができると考えていた僕は、(意識的かどうかは別として、その限界に忠実であった)妻に比べてもナイーブすぎたのだろう。僕は妻との議論という実生活の場面でも、ようやく、この問題に気づくことができたということなのだ。

4 現実世界と思考世界

 なお、僕はストーリーに上下の序列があるとは思っていない。うちの奥さんのフェミニズムよりも僕の客観性のほうが上だなんて思っていない。または、未開の部族のアミニズム的な神様よりも洗練された民主主義のほうが上だとは思っていない。これは、単に評価を留保し、すべてのストーリーを平等なものとして捉えるということではない。むしろ、フェミニズムやアミニズム的な神様のほうが上かもしれない。なぜなら、そちらのほうが、客観性や民主主義といったものよりも生々しくて人間のにおいがするからだ。フェミニズムには客観性よりも人を動かす力がある。アミニズム的な土着の神様が信者に対して持つ力は、民主主義が現代国民に対して持つ力よりもはるかに大きい。これらには、いわば現実世界での実行力がある。その点で、ある種のストーリーは他のある種のストーリーよりも力強いと言える。

 一方で、現実世界での力をあまり持たないようなストーリー、例えば、客観性や民主主義といったストーリーは、逆に、思考の世界での力は強い。だから、言葉での議論においては、フェミニズムは客観性には敵わないし、奥さんは僕には敵わない。その点も踏まえるならば、それぞれのストーリーには上下はなく、ただ得意な土俵に違いがあるに過ぎないとも言える。現実世界と思考世界のどちらで力を発揮するかという特性の違いである。

僕はどちらかというと思考世界の住人だけど、思考世界の住人にとっても、現実世界は当然重要だ。哲学をするだけでは生きていけない。一方で、現実世界の住人にとっても、思考世界というものが、すごろくの一回休みのように、一息つくことができるところとしての意義があるといいなあ、と思う。そう思ってもらえれば、お互いが理解し合うことが少しはできそうだから。

(この文章のBGMは『絶対彼女』(大森靖子)です。僕は疎いけど、ハロプロ的なアイドル文化には、この文章で書いたことの更に外の視点が含まれているような気がする。思考すら届かないような、更に外側の世界があるという予感といえばいいのかな。)