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チーズから学んだこと

※18000字くらいあります。

1 幸福の循環

僕は飼っているチーズというネコのおかげで、幸福の循環というアイディアを思いついた。昨日、『うちのネコのこと ~チーズ編~』(http://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/)として書いたとおりだ。

僕がチーズから学んだのは、次のようなことだ。
①自分の生命であれ、他の生命であれ、生命は幸せと結びついている
②生命は、他の生命を幸せにしようとして優しくする
③生命は、他の生命から優しくされたら感謝する
④実は、生命は、他の生命から優しくされるから幸せになるのではなく、他の生命に優しくし、他の生命から感謝されることでこそ、自らが幸せになることができる

これらは、僕とチーズとの間のこととして気づいたものであり、すべての生命に言えるかどうかはわからないし、そもそも根拠がない単なるドグマだ。だけど、一応の論拠はある。美しさという論拠である。

このアイディアに基づくならば、生命Aが生命Bに優しくし、それを生命Bが感謝で返し、そして生命Bも生命Aに優しくし、生命Aが感謝で返し、そして優しくする、という循環が生じる。この循環こそが幸福のプロセスなのである。僕はこれを美しい考え方だと思うし、その美しさには何らかの真実が宿っているように思う。美しいから正しい。これが僕の提出する正しさの論拠である。

以上が優しさと感謝による幸福の循環というアイディアである。あくまでこれは僕自身が考えたことではなく、ネコのチーズから学んだことだ。僕は少なくともチーズはそのような循環を構成する存在だと信じているし、そして僕自身も、少なくともチーズにとってのそのような存在でありたいと願っている。

2 尊重がある

幸福の循環というアイディアに基づき考えた場合、誰かに優しくすることと、(優しくした結果として)誰かに感謝されることと、誰かから優しくされることと、(優しくされた結果として)誰かに感謝することは、循環のなかで重なり、溶け合っていくことになる。ちびくろサンボのトラのように。優しくすることと優しくされることは重なり、感謝することと感謝されることは同義となっていく。また「(優しく)する・(感謝)する」という能動態と「(優しく)される・(感謝)される」という受動態の違いも失われていく。そこには、ただ「優しさがある(優しさが存在する)」「感謝がある(感謝が存在する)」としか表現できないような状況が現出する。そしてついには「優しさがある」と「感謝がある」も重なっていく。

その重なった結果については、優しさや感謝ではなく別な言葉で表現した方がいいだろう。僕はそれを「尊重」と呼びたい。なぜなら、優しくするとは、つまり他の生命を優しくするに値する存在として尊重することであり、感謝するとは、つまり、他の生命を感謝するに値する存在として尊重することだからである。そうだとするならば、幸福の循環のサイクルにより、すべてが溶け合った結果、最終的には、ただ「尊重がある(尊重が存在する)」という状況が現出することになる。つまり尊重がただ存在する状況こそが幸福なのである。

ただし、最終的な結果という表現や、存在するという表現は誤解を与える表現かもしれない。幸福の循環とはあくまで動的なものであり、固定的な状況ではない。尊重がただ存在する状況をよく観察するならば、そこには生命と生命の間での尊重の交換、つまり優しくする、優しくされる、感謝する、感謝される、という循環が生じているはずなのである。そのような動的な状況こそが幸福だということになる。

3 祈りの構造

だが、実感として、このアイディアには怪しいところがある。特に僕とチーズの間に限るならば、この循環のなかで最もおぼつかないのは、僕の感謝がチーズにきちんと伝わるかどうかである。チーズの優しさは僕に十分伝わっているし、僕の優しさもチーズに伝わっていると思う。チーズは話せないけれど、チーズが僕の優しさに感謝していると僕にはわかるつもりだ。だけど、僕の感謝がチーズに伝わっているかどうか、実はよくわからない。

なぜ僕からの感謝が伝わっているかがわかりにくいかというと、優しくするという顕在的な行為よりも感謝するという潜在的な行為のほうが受け手に伝わっているかどうかわかりにくく、更に、受動的な「される」よりも能動的な「する」のほうが、受け手の状況がわかりにくいからだろう。

つまり、次のように分類できる。
①顕在・受動 優しくされる 僕にとって最もチーズの状況(優しくする)がわかりやすい
②顕在・能動 優しくする 僕にとって2番目にチーズの状況(優しくされる)がわかりやすい
③潜在・受動 感謝される 僕にとって3番目にチーズの状況(感謝する)がわかりやすい
④潜在・能動 感謝する 僕にとって最もチーズの状況(感謝される)がわかりにくい

このように分類するならば、僕の感謝というのは極めて潜在的な行為であり、そして能動的なことだから、それがチーズに確実に届くかどうかは、その感謝の発信者である僕にはなかなかわからない、ということになる。これは大問題である。なぜなら、もし僕の感謝がチーズに届かなければ、幸福の循環のサイクルが成立しなくなるのだから。

ここで、僕とチーズは幸福の循環を成立させるために別の力を借りる必要があるだろう。その力とは、神様の力である。

実は、僕は神様に具体的なことを祈るのが好きではない。なぜならば、受験に合格するとか手術が成功するといったことは、成否は関係者の努力や運によって決まることだし、失敗したとしてもそれは乗り越えるべき課題であり、その課題を避けることはできないと思うからだ。けれど、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という願いは祈るに値するように思う。なぜなら、本質的に関係者の努力や運ではどうしようもなくて、また、その成否の結果もわかり得ないようなものごとは、僕たちの世界から隔絶しており、祈りによってしかアクセスすることはできないからだ。

このような祈りが叶うと信じることは、その結果を検証しようもないという意味で、ドグマである。よって、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という祈りは、つまり「幸福の循環が成立していますように。実は単なるドクマでしかない、この美しい構造が成立していますように。」と祈ることである。よって、この幸福の循環とは祈りの構造であるとも言えるだろう。

ただし、以上のような話となるのは、僕の相手がチーズという言葉の通じないネコだからである。相手が人間であれば、言葉によってこの伝達が成功しているかどうか確認できるし、伝達が成功していなければ再チャレンジすることもできる。だから、祈りが必要となるのは、その相手が、言葉が通じない動物や、遠く離れた人や、死んでしまった人のような場合だけである。祈りによってしかアクセスできないものに対してだけ、祈りは役立つのだ。

だが一方で、哲学的には、目の前にいる人間に対して言語を用いるときでさえ、その言語によるコミュニケーションが成立していると考えることは無根拠だとも言える。それが露呈するのは他者の痛みの場面である。僕たちは他者の痛みを知ることができない。だから、誰かにこの痛みを言葉で伝えても、それがこの痛みとして伝わるかどうかはわからない。それならば僕たちはやはり祈るしかない。「この言葉がうまく相手に伝わりますように。」と祈るしかないのである。だから、僕がチーズから教わったことは、人間同士であっても無駄にはならない。人間同士の言語によるコミュニケーションにおいても、根底には祈りがあるのである。当然それは感謝の言葉でも同じことである。感謝の言葉が届くことは、祈りなのである。

動物との間にせよ、死者との間にせよ、生きた人間同士にせよ、幸福の循環という構造は、神様への祈りの力を借りることで、ようやく確実にそのサイクルを回すことができるのだ。

4 夾雑物

僕は、この幸福の循環という構造は極めて美しく、僕はチーズとともに、それを構成する存在でありたいと願う。

だけど、無垢な動物、または幸せの使徒であるチーズとは違って、僕は不純な人間である。僕は、そのサイクルに没頭するには色々なものを抱えすぎている。僕は、チーズが死なないか不安だし、チーズのことを考えることは負担だし、チーズの世話をしていると疲れることもあるし、きっと今後手間がかかるチーズを疎ましく思ってしまうときもあるだろう。僕は、ただ優しくし、優しくされ、感謝し、感謝される「だけ」でいることはできない。それ以外の余計なことを考えてしまうし、感じてしまう。それらがすべて余計な夾雑物であるとは知りつつも、それをやめることができない。

きっと、それらの夾雑物こそが、人間が成長するための課題であり、その夾雑物をなんとか処理していくことこそが、成長するということなのだろう。僕はチーズの死に直面し、この成長の課題を突きつけられている。

(1)労力と献身

では、僕自身が成長していくために、まずは、その処理すべき夾雑物について具体的に列挙し、処理するにあたってどのような課題があるのかを考えてみたい。

まず思いつくのは、労力、努力という夾雑物である。僕は、チーズを動物病院で診てもらうために必要なお金を稼いだり、適切な動物病院を探すのに時間をかけたり、うまくチーズの病状を見極められるような知識を入手したり、給餌をうまくできるような技術を身につけようとしたりする。そのようなことに僕は労力をかけ、よりうまくできるよう努力する。このような労力をかけずに済むならば、もっとチーズに優しくし、また感謝することもできる気がする。また、チーズの優しさや感謝をもっと心から受け止めることもできそうな気がする。優しさと感謝による幸福の循環にとって、労力とは余計な夾雑物である。

だけど、労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

そのように考えるならば、僕がチーズに優しくするためには、その優しさを表現するために必要な労力をかける必要がある。さらには、労力とは優しさの表現そのものであると言ってもいいだろう。人は労力をかけ、努力することによってこそ身をもって優しさを表現することができる。だから優しさとは献身と言い換えてもいいだろう。よって、労力とは単なる取り除くべき夾雑物ではないということになる。労力とは、疎ましいけれど、それ自体が優しさの発露でもあるような二面性を持つものなのだ。つまり労力とは必要不可欠な夾雑物なのである。

(2)不安と期待

では、労力のほかにはどのような夾雑物があるだろうか。

今回のことを振り返ってみると、そこには常に不安という夾雑物がつきまとっている気がする。僕はチーズのことで毎日不安だ。病状が急変するかもしれない、新たな悪い病気が見つかるかもしれない、入院がストレスになってしまうかもしれない、といった不安だ。だが、こういった不安は優しさの発露においては全くもって不要である。不安があってもなくても、僕にできることは変わらない。僕にできるのは、なるべく技術がある動物病院にネコを任せ、病院に言われたとおりのことをして、ネコの病気について僕なりに勉強し、ネコに感謝し、ネコにその感謝が伝わることを祈ることだけである。不安に思いながらやっても、不安に思わずにやっても、やることは全く同じである。これは夾雑物の最たるものだろう。

だが、そんなことは当たり前なのに、それでも不安を手放せないのは、不安にも二面性があるからだろう。不安とは単なる忌むべきものではなく、期待と離れがたく結びついている。僕は明日もチーズが生きていることを期待するし、できれば家に戻れるくらいに回復することを期待する。そんな期待があるからこそ、もしその期待が裏切られたらどうしようと不安になるのだ。期待とは、来たるべき未来にハードルを設けるということであり、不安とは、そのハードルを超えられなかったときのことを思って不安になるということなのである。期待するためには不安を手放す訳にはいかないのである。

もし不安と一緒に期待まで手放してしまったら、僕はチーズに優しくすることはできないだろう。なんとか明日もチーズに生きてほしいと期待するからこそ、そのために必要なサポートをする。僕は期待を持たずに優しくすることなどできない。そのように考えるならば、不安にも二面性があり、不安とは必要不可欠な夾雑物である、ということになる。

(3)行き止まり感と論理的・科学的予測

もうひとつ、僕と妻を消耗させるのが、いずれにせよそろそろ終わる、という感覚である。行き止まり感とでも名付ければいいのだろうか。チーズは残念ながら、どんなに頑張っても、どんなに治療がうまくいっても、あと数ヶ月しか生きることはできない。チーズは6歳で、人間に喩えるならば40代だから、これはとても残念なことだ。チーズが心筋症を発症したと知ったときから、僕たちとチーズがいる世界はあと少しで消えてしまうことが運命づけられている。

僕はこれによく似た気持ちを知っている。海外旅行の最終日の気分だ。夕方には飛行機に乗ることを思いながら、海外のリゾート地の浜辺で最後の散歩をする。そういうときに限って空は晴れ渡っていて、到着したばかりの観光客が楽しそうに写真をとっていて、数日前の自分たちみたいだな、なんて思いながら、僕たちはそれを見ている。とても濃密だけど、どこか色褪せたような世界。今、チーズに感じている行き止まり感とはこういうものである。

このような感覚も、優しさや感謝や尊重とは全く関係がない。なくて済むならそのほうがいいような種類のものだ。つまり余計な夾雑物である。

だけど、僕は人間であり、論理的かつ科学的にものごとを考え、未来を予測する生き物である。予測するからこそ、僕は今日の夕方の飛行機に乗らなければいけないことを知っているし、チーズの命が長くてもあと数ヶ月だということを知っている。もし、予測がなければ、僕は人間として未来を思考し、未来に向かって生きることはできない。僕が人間である限り、この行き止まり感を手放すことはできないのである。

なお、この行き止まり感が未来に対する態度であるのと同様に、先ほどの不安も未来に対する態度であるだろう。行き止まり感とは、わかっている未来に対するネガティブな態度であるのに対して、不安とは、わからない未来に対するネガティブな態度である。

未来の確定した側面に目を向けるにせよ、不確定な側面に目を向けるにせよ、未来を考えることは、より上達し、より優しくあろうとして未来に向かって生きる人間にとっては必須なことだろう。そうだとするならば、未来から行き止まり感と不安だけを切り離して捨てることはできない。行き止まり感と不安は、僕たちが目指す未来の一部なのである。

(4)喪失感と過去の思い出

ここまで、不安と行き止まり感という夾雑物を、未来につながるものとして論じてきたが、過去に目を向けるならば、僕らを悩ます夾雑物として、喪失感があるだろう。

僕たちは、もうチーズは以前のように元気に遊び回ることはないことを知っている。あのときのように、チーズが高いところに登って隙間から顔を見せることはもうないし、そこから飛び降りて、もう一匹のネコとじゃれ合うのを見ることももう二度とない。そのようなチーズの姿は過去の記憶のなかにしかなく、僕たちはそれを再び手にすることはできない。

このような喪失感を僕たちが抱くことは、優しさや感謝や尊重と関係がないという意味で、やはり幸福の循環システムにおける夾雑物である。なくて済むならないほうがいいたぐいのものである。

だが、喪失感という夾雑物を取り除くためには、過去の思い出も一緒に取り除かなければならない。少なくとも、チーズとの思い出を何らかの肯定的なものとして評価することを捨て去らなければならない。もし僕がチーズについての過去の思い出を肯定的なものとして捉えることを取り除いてしまったら、僕がなぜ、このチーズというネコに感謝し、そして優しくするのかがわからなくなってしまうだろう。チーズは、通りすがりのネコではなく、僕と肯定的な関係を長年続けてきたという過去があるからこそ、そこには優しさと感謝の循環の蓄積があったと言えるのである。そして、だからこそ、これからも僕はチーズに優しくし、感謝することができるのである。そのように考えるならば、僕が幸福の循環のなかにいるためには、この喪失感を過去の思い出とともに気軽に捨て去ることはできない。

(5)後悔と反省

喪失感のほかにもうひとつ、過去につながる夾雑物がある。後悔である。僕はチーズのことではいくつも後悔している。もっと早く違う病院に連れていけばよかった、強制給餌のやり方をもっと丁寧に学んでからやればよかった、といった後悔である。後悔というのは夾雑物としてかなり強力で、後悔の念におそわれると、優しくし、感謝するという、そもそも最も大切にすべきことすら忘れてしまうほどである。後悔こそが真っ先に取り除くべき夾雑物のように思える。

だが一方で、後悔は上達のためには必須であるとも言える。より優しくなるためには、より上達しなければならないとするならば、後悔は優しさのために必須とさえ言える。僕は過去の失敗を後悔するからこそ、反省して次は同じような失敗をしないように労力をかけて上達を目指す。それが優しさである。後悔という過去も、それが反省につながるという意味で、幸福の循環においては必要なのである。

喪失感が肯定的な過去の存在意義だとするならば、後悔とは否定的な過去の存在意義である。過去には良いことも悪いこともある。良い過去の思い出は喪失感として僕に降りかかってくるし、悪い過去の思い出は後悔として僕に降りかかってくる。どちらも僕の心を揺り動かし、僕が優しさや感謝に専念することの邪魔をする。だが、過去を過去として受け止め、その過去を優しさにつなげるには、そう都合よく喪失感と後悔だけを捨て去ることはできない。喪失感と後悔とは、僕が拠って立つ過去の一部なのである。

5 過去と未来

(1)時間の捉え方

ここまで、労力、不安、行き止まり感、喪失感、後悔という5つの夾雑物を取り上げてきた。僕うはうまくチーズの世話をしようとして、その労力に疲弊しているし、チーズが病気になって、突然死んでしまわないかと不安だし、結局は数ヶ月でお別れだと思うと行き止まり感とでもいうべきものを感じるし、もう元気なチーズを見ることができないという喪失感があるし、あのときもっとよい治療をすればよかったという後悔もある。常にではないけれど、しばしば、そのような気分におそわれる。そんなとき、僕は、もっと他にやるべきことがあるだろう、とどこかで思っている。そんなことよりも、僕はもっとチーズに優しくし、もっと感謝すべきではないのか。僕たちとチーズに残された時間はそれほど多くないはずだから、不安や行き止まり感や喪失感や後悔にかまける暇はない。これらは可能ならば取り除きたい夾雑物である。

だけど、僕がより優しく生きるためには、それらを単なる夾雑物として簡単に手放すことはできない。労力をかけなければチーズに献身的に尽くすことはできないし、不安がなければ未来への期待もないし、行き止まり感は人間として論理的・科学的に未来を思い描くことと不可分である。喪失感とは過去の幸せな思い出であり、優しさと感謝の原動力でもあり、後悔とは過去の失敗から学んで、より優しくあろうとするためには欠くことはできない。そのような意味で、これらは必要不可欠な夾雑物である。

そして、これらの5つの夾雑物のうち、労力を除いた4つは、不安・行き止まり感という未来に関するものと、喪失感・後悔という過去に関するものに分類できる。つまり、僕たちは過去から未来に向けてこの世界を生きていく存在であるという時間的な事実と、これらの夾雑物とは密接に結びついている。

特に行き止まり感と喪失感は、それぞれ、未来と過去そのものを捉えていると言ってもいいだろう。行き止まり感というのは、人間として論理的・科学的に未来を捉え、予測することそのもののことだと言ってもいい。旅はいつか終わり、そしてチーズとの別れはいつか来るということを知っていなければ僕は人間とは言えない。また、喪失感についても、喪失感とは、過去を思い出の蓄積として捉えることそのもののことだと言ってもいいだろう。もし僕が思い出を全く持たなければ、それも人間とは言えないだろう。

つまり、人間にとっての未来とは予測の未来だからこそ、そこに行き止まり感があり、そして人間にとっての過去とは想起の過去だからこそ、そこに喪失感があるのである。僕が人間としてこの時間を生きていくためには、僕は未来に行き止まり感を感じ、そして過去に喪失感を感じて生きていくしかないのである。行き止まり感と喪失感とは、予測と想起という、人間による時間の捉え方そのもののことだと言ってもいい。

(2)自由意志

5つの夾雑物のうち、行き止まり感と喪失感を時間と結びつけてみた。それは「過去の記憶をもとに、未来を論理的、科学的に予測する」という決定論的な時間の捉え方である。

残る夾雑物である労力と不安と後悔も別のかたちで時間と結びついている。それは「後悔という過去の反省を糧にして、労力をかけて努力し、不安とともに期待を持って未来を切り開く」という時間の側面である。これは自由意志論的な時間の捉え方だと言えるだろう。つまり、5つの夾雑物は、時間論的には2つのグループに分類することができ、行き止まり感・喪失感の決定論グループと、労力・不安・後悔の自由意志論グループに分けることができるのである。

幸福の循環ということを考えるならば、より注目するべきは労力・不安・後悔の自由意志論グループのほうだろう。僕は決定論グループに分類した行き止まり感と喪失感だけではチーズに優しくすることはできない。行き止まり感と喪失感は、想起される事実としての過去と、論理的・科学的に予測できる未来を僕に与えてくれるにすぎない。つまり過去と未来という時間軸を客観的に捉え、僕に時間を認識させてくれるに過ぎない。そのような時間認識は、僕が活動するにあたっての時間的な基盤とはなるが、その時間において僕が主体的に活動し、自主的に優しくするということまでは導くことはできない。僕が主体的に活動するためには、その基盤の上に更に、僕の自由意志が必要である。それを与えてくれるのが労力・不安・後悔である。

では、労力・不安・後悔の自由意志論グループがどのように時間と対応するか確認してみよう。まず、過去の失敗を反省するからこそ、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして不確定な未来に期待するからこそ、不安を感じつつも、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして、自ら未来を切り開くということは、つまり、この現在において労力を厭わず努力するということである。幸福の循環の枠組みで捉えるならば、この努力とは優しくあろうとする努力のことである。こうして、過去=後悔(反省)、現在=労力(優しさ)、未来=不安(期待)というように三つの時制と三つの夾雑物とを組み合わせることができる。

このうちで自由意志として重要な役割を果たすのは、現在における労力である。過去を後悔して反省し、未来に不安を感じつつも期待するからこそ、現在において労力をかけることができる。この労力とは、つまり世界に対する積極的な働きかけのことであり、つまり労力こそが自由意志であるということである。過去の後悔と未来の不安は、ともに現在の労力に貢献する限りで自由意志の確立に役立っていると言ってもいいだろう。過去の後悔と未来の不安はあくまで従たるものであり、もっとも重要なのは自由意志の発露そのものとしての、現在における労力なのである。

ここまで、5つの夾雑物を時間と絡めて論じてきたが、それは次のようにまとめることができるだろう。

時制     :   過去        現在        未来
自由意志論: 後悔(反省) → 労力(貢献) ← 不安(期待)
決定論   : 喪失感(想起)             行き止まり感(予測)

僕の考えによれば、時間はこのようなあり方をしている。より正確に述べるならば、チーズの病気というネガティブな出来事を通じて考察した結果だから、これはネガティブな側面を強調した場合の、時間のひとつの描写の仕方であるとも言える。

(3)自由意志論と決定論

以上のように夾雑物を丁寧に腑分けすることにより、夾雑物は二面性があり、そう簡単に捨て去ることができないことが判明し、あわせて、時間論と紐づけることで、自由意志論グループと決定論グループとに分類できることもわかってきた。

自由意志論と決定論の対立は哲学的な大問題なので、ここで簡単に答えを出すことはできないが、常識的には、決定論をベースにして、自由意志論がその上に乗っかっている、という見方をすることはできるだろう。論理的、科学的に世界のあり方は決まっている。水を熱すればお湯になるし、点滴でネコに水分を与えれば、水を全く飲まないよりは長生きできる。それは当然の決定した事実である。そのうえで、人は自由意志に基づき労力をかけることで、その決定した世界を多少は変えることができる。上手にネコに強制給餌をできるよう努力すれば、その努力の分だけネコは上手に栄養をとり、命をつなぐことができるかもしれない。人間の努力では物理法則を根本的に変え、ネコの病気がなかったことにすることはできないけれど、努力の積み重ねにより、多少はネコの病状に影響を及ぼすことができる。努力はすることもしないことも選べるけれど、努力することを自由意志により選択すれば、その選択により、決定した世界を多少は変えることができる。

以上のような常識的な考え方に基づくならば、これらの夾雑物の二面性、つまり捨て去るべきだが捨てられないという二面性には二種類があることがわかる。

決定論グループに属する喪失感(想起)と行き止まり感(予測)は、世界のあり方そのものに由来しているという点で、より根源的で捨て去ることを想像すらできないものである。一方の自由意志論グループに属する後悔(反省)、不安(期待)、労力(優しさ)は、自由意志を捨てることが可能だとするならば、捨てることはできる。だが、捨ててしまっては自由意志により優しさを選ぶことすらできなくなってしまうから、捨ててはいけないのである。捨てるべきだが捨てることが不可能な決定論的な二面性と、捨てるべきだが捨ててはいけないという自由意志論的な二面性があるのである。

6 人間の優しさと神の優しさ

ここで再び、その夾雑物を本当に捨て去ってはいけないのか、という問題に立ち返るべきだろう。ここで取り上げる夾雑物とは、つまり自由意志という夾雑物である。優しさと感謝の幸福の循環構造のなかには自由意志は登場しない。つまり自由意志とは夾雑物である。だが、その夾雑物は、優しくあるために不可欠だから、やむを得ず、とりあえずの居場所を確保されるのである。だが、本当に自由意志は優しくあるために必要なのだろうか。

この問題を考えるために、まず自由意志を明確に捉え直しておこう。自由意志とは、つまり、4(1)で述べた努力・労力のことである。過去の後悔は反省として現在の努力・労力につながるから必要であり、未来の不安は期待として現在の努力・労力につながるから必要なのである。よって、現在における努力・労力こそが自由意志の本質であり、現在における努力・労力が幸福の循環構造によって不要となれば、自由意志も不要だということになる。

さて、4(1)において僕は努力・労力について次のように述べた。


 ~労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

このヤブ医者と名医の比喩は本当にそのとおりなのだろうか。優しさとは、どこまでも内心の優しさのことであり、どれほど努力したかどうかは優しさとは全く関係ないのではないだろうか。

当然、僕自身の心情としては、疲弊した名医こそが優しいのだと考えたい。優しくあるためには、単に優しい心情だけでは足りず、現に労力をかけ、より上手に優しくあろうと上達し、そしてその優しさを労力をかけて発揮しなければならない。疲弊した名医は、悪態をつきつつも、何年間も手術の腕を磨き、そして何時間にもわたる困難な手術を成し遂げ、患者を救う。それを成し遂げるほどの労力をかけたからこそ、彼は優しいのである。同じように僕は、疲弊してでも、チーズにとって最もよい治療をしてあげて、最もよい看病をしてあげたいと願う。僕はそのようなものとして優しさを捉えたい。

しかし、チーズから教わったことは、幸福の循環構造のほかにもうひとつある。それは、その循環は、祈りによって駆動されるということである。感謝も優しさも祈りによってしか伝わらないのである。僕がどれだけ努力し、労力をかけたかどうかは、実は優しさにとっては全く関係ない。なぜなら、優しさとは祈りなのだから。

当然、このような結論は受け入れ難いだろう。僕自身もそうである。僕のこの労力は、幸せとは全く関係がなく、全く意味がないことだとは思えない。だが、チーズの言うとおり、少なくとも、それを受け入れざるをえない一面があるのは確かだろう。だから、ここで少なくとももうひとつの優しさがあることは認めるべきだろう。優しくあろうとして努力し、労力を費やす人間の優しさと、もうひとつ、ただ祈る神の優しさである。

神の優しさに比べると人間の優しさには限界がある。僕は色々と努力し、労力をかけ、人間の優しさを発揮することによって、疲れてしまって、もしかしたらチーズを疎ましく思ってしまうことがあるかもしれない。だから僕は、なんとか、そのようなネガティブな思いを抱かないように配慮しながら、最大限の労力をかけ、最大限の優しさを表現しなければならない。

そのために必要となるのは、自分の限界を知ることだろう。僕は仕事や趣味もあるから、チーズに優しくすることだけをしている訳にはいかない。そこにはおのずとかけられる限界がある。その限界を知り、その範囲内で最大限に労力をかけることが望ましい。

そのうえで僕は、その限界の範囲内でより多くのことをしてあげられるよう上達するべきだろう。より優しくするためには、より能力を向上し、より効率的にものごとをできるようになることが必要である。

そのように考えるならば、人間の優しさには、その優しさが疎ましさに転化しない限りで、できるだけ優しくあるべき、という限界があるということになる。また限界を超えないまでも、頑張りすぎれば、最大限の労力をかけるべき、できるだけ上達すべき、といった言葉で自らを鼓舞せざるをえない状況が生じる。優しさとは本来、心の奥底から湧き出る自主性に基づくものだとするならば、人間の優しさは、頑張りすぎた場合には、「べき」という言葉で象徴される義務感の力を借りて、その優しさを遂行することになる。本来の優しさからかけ離れた義務感に覆われてしまうというのも人間の優しさのもうひとつの限界だろう。人間の優しさには、疎ましく思わない限りでしか優しくできないという限界があり、また、疎ましく思わないまでも、自主性ではなく義務感から優しくせざるを得なくなるというもう一つの限界があるのだ。

一方で、神の優しさには限界がない。いくらでも相手を思い、いくらでも祈っていいからだ。そう考えると、人間の優しさは旗色が悪い。優しさとは相手を思いやる内心の発露だとするならば、人間の優しさにはその発露の仕方の限界があるが、神の優しさには限界がない。

勝ち馬に乗り、人間の優しさを手放し、神の優しさだけを受け入れるというアイディアは魅力的である。もし、そうしたならば、先ほど掲げた5つの夾雑物のうち、少なくとも労力、不安、後悔という三つの夾雑物は手放すことができるからだ。僕は、チーズに労力をかけることなく、心穏やかにただ祈ることができるし、何も期待せずただ祈るならば不安に感じることもない。よって過去の失敗を後悔し、そこから学び、反省を次に活かす必要もなくなる。

なお、それでも時間的に世界を把握する限り、過去の喪失感や未来の行き止まり感からは逃れることはできない。だが、後悔や不安のような激しい感情に比べて、喪失感や行き止まり感は寂しさとも言い換えられるような緩やかさがあり、まだ対処しやすい。よって、人間の優しささえ手放せば、大部分の夾雑物を手放すことができると言える。

だけど、それでも僕は思う。人間の優しさを手放し、神の優しさだけになってしまったら、この世界がうまく回るはずがないではないか、と。要するに人間の優しさとは自由意志を前提とした優しさのことであり、人間が主体的に世界に関わることができるということを前提とした優しさのことである。そして神の優しさとは決定論を前提とした優しさのことであり、人間は祈りでしか世界に関わることができないということを前提とした優しさのことである。つまりこれは、やはり自由意志の問題なのである。

7 今を生きる

自由意志の問題は手強い。だから、ここでも僕はチーズに教えを請いたいと思う。

ネコのチーズは人間ではないから、人間の自由意志の範疇の外で生きている。そして身をもって神の優しさに駆動された幸福の循環構造を僕に教えてくれた。一方の僕は人間だから、自由意志に基づき、より上手に他者に優しくあろうと足掻く人間の優しさと、チーズから教わった神の優しさとの二つを抱えこんでしまっている。

これが自由意志の問題なのだが、ここで立ち止まらず、もっと先を考えるべきだろう。すると、チーズは、自由意志だけでなく、その手前にある時間という問題領域からも外れ、時間の範疇の外で生きているということに気づくだろう。チーズは過去の思い出の喪失感に悩まされることもなく、未来を予測し、行き止まり感を感じて寂しさを感じることもないはずだ。チーズには自由意志の問題がないだけでなく、決定論的な時間の問題すらないのだ。

人間の用語を用いるならば、チーズは今だけを生きていると言ってもいいだろう。今だけを生きているから、期待も不安もないし、行き止まり感も論理的な予測もないし、喪失感も過去の想起もないし、後悔も反省もない。だから努力して苦労することもない。今だけを生きるとはそういうことである。すべての夾雑物を捨て去り、幸福の循環にただ身を投じるということである。

チーズが今だけを生きているのに対して、人間である僕は過去と未来につながる現在を生きている。今と現在を使い分けるならば、チーズはそれしかない今を生きており、僕は過去や未来と紐付けられた現在を生きている。

僕はヨガとか瞑想も好きだから、この今を生きるというアイディアは魅力的である。これはいわば悟りの境地と言ってもいいだろう。今回のことがあって、とても身近にそれを成し遂げている大先輩がいることに気付いた。ネコはすごいなあ、と僕は思う。

だが、ネコはそもそも、夾雑物など持っておらず、過去や未来という時間も持っていない。そもそも持っていないものを捨て去る必要などない。だけど人間は、ネコの境地に至るためには、それらをあえて捨て去るという不自然なことを成し遂げなければならない。僕にはそれが、よりよい世界を目指すという人間の営みの放棄でもあるように思えてしまう。苦労からの敵前逃亡である。

僕はやはり、チーズに教わったネコの境地を心に留めつつも、あえて人間の境地に踏みとどまり、二律背反を抱えつつ生きるしかないようだ。だが、チーズから教わったことは決して無駄ではない。知らずに苦しむのと、知りつつ苦しむのでは、見える景色が全く違うはずだからだ。

8 生きるノウハウ・光

今後、僕がうまく生きていくために大事なポイントは「動性」だろう。これからの僕は、ネコの境地と人間の境地の二つを抱えて生きるのだから、その二つの境地をうまく行き来しなければならない。そこで必要なのは立ち止まらず動くことである。

これまで慣れ親しんできた人間の領域に立ち返るのは簡単である。問題は、いかに一時的であってもネコの境地に入り込むかである。ネコの境地に少しでも入り込まなければ、人間の境地を相対化して眺めることはできない。つまり、チーズから教わったことを活かすことができない。

ここからは全く哲学ではなく、いわばスピリチュアル系な話になるけれど、僕の場合、今だけに意識を向けるためには「光」をイメージすることが役立つ。今ここの僕自身に光が降り注いでいるイメージである。きっとこれがうまくいくのは、光が差し込む先である、今ここの僕自身にだけ意識が向くからなのだろう。これは僕の瞑想のテクニックである。

そして今回のことがあって思いついて、その光を少し広げ、僕とチーズの両方に降り注ぐところをイメージしてみた。これはつまり、今ここの僕と今のチーズ(例えば、数キロメートル離れた動物病院で入院している今のチーズ)にだけ意識を向けるということである。

これこそが幸福の循環なのではないか。僕がチーズに降らせている光とは、つまりチーズへの優しさの表現であり、チーズへの感謝の表現であり、つまりチーズの尊重である。そして、その光を僕もチーズとともに味わっているということが、つまり、チーズからの優しさの表現であり、チーズからの感謝の表現でもある。僕とチーズがともに光に包まれているということが、つまり幸福の循環のなかに僕たちがいるということの証左なのである。

だから、この光は祈りの光だと言ってもいいだろう。僕の優しさや感謝がチーズに届くように祈るとは、つまり、チーズに差し込む光を思い描き、それが本当の光だと信じることであり、チーズの優しさや感謝が僕に届くようにと祈るとは、つまり、チーズとともに僕に差し込む光を思い描き、その光を信じることなのである。

だから、僕は具体的な何かを祈ってなどいない。ただこの光を思い描くだけである。祈りとは、具体的な内容を持たない行為なのだろうと僕は思う。その無内容さを象徴するものとして光はふさわしい。

なお、このアイディアは哲学と全く関係ないという訳でもない。僕が好きな入不二基義は、『現実性の問題』において、現実性の力を光に喩えている。そしてその力は無内包(無内容)だとも言っている。また、その無内包を象徴するものとして祈りにも言及している。つまり、入不二的に述べるならば、この光とは、まさに無内包の現実性の力のことなのである。

それを受け入れるならば、この光とは、つまり、僕とチーズが現実のものであることを示すものである。入不二の言葉の使い方でないが、僕とチーズが現に存在していることを示している、と言ってもいい。この今において、僕とチーズは確かに存在している。存在を認めるとは、つまりその存在を尊重するということであり、それこそが、その存在に対する原初的な優しさであり、そして感謝の表現でもあり、そしてその存在に対して優しさや感謝が届くように祈ることでもある。このようにして、存在=尊重=優しさ=感謝=祈りは一体のものとして結びつく。

なお、入不二は、現実は顕在する存在だけではなく、潜在する存在にも及ぶと考える。だから、病気になる前の元気なチーズも現実だということになる。だから、僕のこの光も、病気になる前のあの元気なチーズに降らせることができるだろう。入不二が言うとおり、現実性が遍在しているならば、僕のこの光もあまねく降り注ぐはずである。

だから、「今を生きる」というのは誤解を与える表現かもしれない。チーズが本当に僕に教えてくれたことは、「無時間を生きる」と言い換えたほうがいいかもしれない。時空を超えて、僕はすべてに優しくし、そしてすべてに感謝し、すべてを尊重し、すべてを祈り、すべての存在を認めることができるはずである。チーズはそうしており、僕がチーズから学ぶべきことも、そういうことなのだろうと思う。

きっと、チーズから見える世界は、過去も未来もすべてがそこにあり、すべてが光に包まれていて、そしてそこで優しさと感謝が循環しているのだろう。これは入不二が描く現実性の描写とも酷似している。僕もこんな世界に住み続けたいと願う。

※ 僕は以前、『バイタル・スフィア』(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/vitalsphere/)という文章を書き、愛と存在の二元論的な世界を提案したけれど、僕がチーズと入不二から学んだところによれば、この世界とは、存在と愛がひとつに重なる一元論的な世界だということになる。

9 没頭と忘却

だけど、残念ながら、僕は光あふれるユートピアに長居することはできない。やがて僕は人間の世界に戻り、なんとかチーズが元気になってほしいと願い、腕がいい動物病院をネットで探したり、上手な給餌の仕方を勉強したりしなければならない。そんなことに疲弊しながら、今後どうなるのか不安になったり、失敗を後悔したり、どうやっても大きく寿命を伸ばすことはできないと寂しくなったり、失われた過去の思い出を寂しく思い出したりしながら、なんとか、僕はこの世界で少しでも何かチーズのためになることをしたいともがくしかない。

それでも、僕は光に包まれたチーズの世界を思い起こすことで、少しは元気がわいてくる。チーズが僕に教えてくれたことは決して無駄ではない。それに僕は「光」を用いることで、いつでもチーズの世界を覗くことができる。

僕がうまく生きていくためには、この人間世界と、チーズの世界とをうまく行き来することが肝要だ。そこでのキーワードは動性である。中途半端に立ち止まらず、きちんと二つの世界に入り切るのだ。

中途半端に労力をかけることを諦め、無力感から祈ってもチーズの世界に至ることはできない。一時的であっても、すべてを捨て去り、無内包の光を降らせるように祈らなければ、チーズが教えてくれたことを思い出すことはできない。

また、中途半端に現実をみつめ、他人ごとのように人間世界での営みのことを考えても人間世界でうまく立ち回ることはできない。この人間世界においては、僕はチーズの世界のことなど忘れ、この人間世界に没頭し、この人間世界がよりよい世界となるよう努力し、苦しくても、悲しくても、寂しくても、そこに全力をかけるしかない。

中途半端ではない全面的な没頭と全面的な忘却こそが重要なのである。振り切るような動性が僕にとっては必要なのである。そのようにして僕自身をうまくコントロールし、できればコントロールしていることも忘れ、人間の世界とチーズの世界を渡り歩いていくのが僕にとっての最適解なのだろう。これはチーズが教えてくれたことではなく、僕自身が思いついたことだけれど、そう悪くないアイディアだと思う。

※ この文章を書くのに一週間くらいかかったけれど、そのうちにチーズは退院して、結構元気になった。二度とないと思っていたけれど、楽しくおしゃべりしてくれたり、高いところに登ってみせたり、自力でご飯を食べてみせたりしてくれている。いつまでこれが続くかはわからないから毎日が心配だけど、とても嬉しい。

うちのネコのこと ~チーズ編~

僕の家にはチーズというネコがいる。

僕の家には、チーズとタックンという二匹のネコがいる。あまり固有名詞を書くと身バレしてしまうかもしれないけれど、名前をきちんと書き残しておくことは、身バレのリスクよりも大事なことのように思えるので、あえて書き残しておくことにする。

この文章で書き残しておきたいのは、二匹のネコのうちチーズのことだ。実は今、チーズはうちにはいなくて入院している。心筋症という病気なので、どんなにすべてが良く転がっても、長くても数ヶ月の命だということがわかっている。だから、僕の家にはチーズというネコがいる、と現在形で書いていいのかわからなくなる。僕が書き残したいのが、チーズが元気だった頃のことだから、余計にわからなくなってしまう。だけど、あえて現在形で書いておくことにする。もしかしたら、今後、数ヶ月であっても、おまけのご褒美のような日々があるかもしれないからだ。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

だけど、もしそうならなくても、十分、彼女(チーズは女の子)には楽しませてもらった。これからは彼女の好きにしたらいいと思う。彼女が生きようとする限り、僕と妻は、それをサポートするだけだ。この思いは、実際に近くにチーズというネコが今いるかどうかはあまり関係ない。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

チーズの体調のこと

僕は以前、飼っていた別のネコについての文章を書いたことがある。『ハナの死で考えたこと』http://dialogue.135.jp/2018/03/17/hana/という文章だ。

今は読み返したくないのであやふやな記憶だけど、この文章の中心は彼女(ハナちゃんも女の子)の調子が悪くなってからのことが中心だったと思う。一方で、この文章で僕が書きたいのはチーズが元気だった頃のことだ。

だけど、とりあえずの記録として、ハナちゃんと同じように、チーズの調子が悪くなってからのことも書き残しておく。本編は元気だった頃のことなので、そこまで読み飛ばしてください。

さて、チーズの体調に関係ありそうな話は出生の頃まで遡る。チーズは、妻の知人の知人が赤ちゃんネコを保護し、ハナちゃんがいなくなって寂しがっていた妻が譲り受けてきたネコだ。妻が聞いたところによると保護の経緯は、路上に可愛そうな赤ちゃんネコの死体があると思ったら生きていた、というものだったそうだ。死にかけネコだ。きっとチーズの体調の悪さはこのあたりにも起源があるような気がする。(チーズという名前は、保護した家の子供が名付けたそうだ。)

なお、うちに来たときは、もう1歳近くなっていて、死にかけの赤ちゃんネコではなくなっていたけれど、痩せて小さいネコだった。その頃から元気いっぱいという感じではなく、ご飯もあまり食べない子だった。

その後はご飯を食べないながらも元気にしていたけれど、昨年の秋頃、つまりチーズが多分5歳半くらいの頃、突然まっすぐに歩けなくなり、足をひきつるような感じになってしまった。あわてて救急病院に連れて行ったところ、アンモニアが高いということだった。原因がわからないのでアンモニアを下げる薬を飲ませたところ、時々、同様の症状は出るけれど、最初のときほど長時間ではなかったので、てんかんか何かと思い、様子見していた。なお、今もその理由はわからない。

そのような状況が半年ほど続き、今年のゴールデンウィークの前半、ネコの世話は娘に任せ、久しぶりの夫婦での3泊旅行から帰ったところ、どうもチーズの様子がおかしかった。苦しいような、怒ったような、変な感じだったのだ。だが、時間が経つと元に戻ったので深くは考えず、連休明けに一応病院に連れて行こう、と妻と話していた。ただ、ふたりとも、なんとなく、この数ヶ月、元気がどことなくないような感じはしていた。

そして連休明け、ちょっと遠くの専門的な感じの動物病院に妻がタクシーで連れていったところ、待合室でいきなりパニックのようになり何回も吐いてしまった。その結果、誤嚥性肺炎になってしまった。そして、肺炎の検査をするなかで、心臓も心筋症の疑いがあるということが判明した。

月曜日にパニックになり、そして1週間かけて徐々に調子が悪くなり、木曜日にはレンタルした酸素室の中に入れても見ていられないほど息苦しそうになってしまった。妻は連日のように病院に連れていき、誤嚥性肺炎の治療をしていたけれど、今日、金曜日になって、ようやく、息苦しいのは、誤嚥性肺炎だけでなく、主に心筋症による胸水のせいだということが判明した。そして今は、胸水を抜いた経過観察のために、チーズは入院している。

胸水がたまるほどの心筋症というのはかなり深刻だ。ネットで調べた限りでは、うまくいけば数ヶ月生きる可能性はあるが、すぐにでも心臓が止まって突然死してしまう可能性もある。更に誤嚥性肺炎があり、多分肝臓のせいでアンモニアが高いということも考えると、チーズは満身創痍だと言っていいだろう。かなり厳しい状況である。

以上がチーズの体調についての記録だ。

このように書いてみると、ハナちゃんのときは僕が看病でがんばったけれど、チーズについては妻ががんばっているので、これはほぼチーズと妻についてのストーリーだと言ってもいい。だからこれは、書く権利がない者が、それでも書かずにはいられないから書いた、排泄物のような文章にすぎない。

排泄物と表現したけれど、僕がこのようなことを書いているのは、もう二度とこのことを書かないで済むようにするためだ。

書くことで、今後は、その書いたことについて思い出さなくて済むようになる。なぜなら、あえて思い出さなくても、ここにそのときの記憶が保存されるからだ。文章として、まるで剥製のようにチーズの記憶を残しておくのは、悪趣味かもしれないけれど、僕なりの過去との折り合いの付け方である。

あともうひとつの理由として、似たような症状のネコを飼う飼い主のなにかの役に立つかもしれない。

チーズの紹介

 さて、いよいよ、チーズが元気な頃の話に移る。

 うちには、チーズとタックンという二匹のネコがいるけれど、チーズは妻に懐いていて、タックンは僕に懐いている。だからチーズはいわば隣のネコだ。だから、やはりチーズが元気な頃の話も妻の方に書く権利がある。僕は傍観者として、チーズの元気な頃の記憶を剥製として残すような作業をしている。そうしたくなるほどには僕も傍観者として落ち込んでいる。

 ただし、チーズが元気な頃の話をすることの意義は、それだけではないような気もしている。もう少しマシな意味がどこかにあるような気がしている。そんなものが本当にあるかどうかを確かめるためにも書き進めてみたい。

 さて、まずはチーズのことを紹介しておきたい。誰かが飼っているネコのことなんて知りたくないと多くの人は思うだろうけれど、奇特な人はいるかもしれないし、僕自身のためになるし、こうやって書き連ねていくうちに、なにか気づくことがあるかもしれない。

 チーズは6歳のハチワレで、体重が3kg少々しかない小さいやせっぽちのネコだ。しっぽは短くて、手足が白くて、鼻と肉球はきれいなピンクで、キョトンとした顔をしている。妻はその顔の可愛さにやられて連れてきたようだ。

 さきほども書いたけれど、食が細くて、元気なときでもなかなかご飯を食べない。チュールくらいは嬉しそうに食べるけれど、それほど量は食べない。唯一、猫草は嬉しそうに食べる。もう一匹のタックンも猫草が好きだから、このときだけは奪い合いになる。だから、僕が猫草を摘んで帰ったときは、なぜわかるのかは不明だけれど、玄関から出そうになって二匹で待っている。僕はそれをどかしてうまく家に入る。草が好きだからか、ベランダにあるオリーブの木の葉も、どこまで飲み込んでいるかはわからないけれど、バリバリと引きちぎる。

 ただ、猫草を食べても食べなくてもだけど、しょっちゅう吐く。だいたい、ドライフードが膨らみすぎてしまったときに吐くようだ。胃が小さいのかもしれない。それが少々心配だったけれど、今や心臓や肺が大問題なので、それは杞憂だったということになる。

 警戒心が強くて来客があっても絶対に出て来ない。宅急便がインターフォンを鳴らすと「ウ~」と唸る。

 声も独特で、可愛い顔なのに「ウギャ」という感じの濁点が多めのダミ声で、声が大きい。ゴロゴロするときの音も大きくて、チーズが隠れていても、ゴロゴロする音でどこにいるかわかるほどだ。

 本ニャンは公表してほしくないかもしれないけれど、チーズは脱腸気味だ。時々お尻をシーツにこすりつけ、赤い筋を書く。やめてほしい。

 チーズはタックンと仲がいい。先にチーズが来て、一匹じゃ寂しいかと思ってタックンを2ヶ月後くらいに迎え入れた。タックンのほうが大きいので、じゃれながら喧嘩になっていくとチーズが折れるかたちにはなるが、基本的に、チーズのほうが先住猫としての威厳があるように思える。年齢は逆だけど、力がある弟を、「仕方ないなあ」と見守る姉のような感じだ。

 だから寒いときはくっついて丸くなっているし、互いに毛づくろいもしている。タックンがチーズの頭を押さえてペロペロ舐めるから、チーズの眉間のところはツバ臭いことが多い。

 チーズは人間が好きなネコだ。よく妻の顔にくっついて寝ているようだし、妻がいないときなどは僕の股の間で寝ることもある。僕は寝相が悪いので僕が寝たあとはどこかに行ってしまうようだが、妻の顔のところで寝ているときは、朝までそのままのこともよくあるようだ。

 人間が集まって話していると、そこがテレビの音などでうるさくない限り、必ず近くにいる。人間が食卓を囲んでいるときだけは不思議といないことが多いけれど、それ以外はだいたい近くにいる。僕がパソコン椅子からベッドに足を投げ出していると、二匹が奪い合うように膝に乗ってくる。チーズはベストな場所をタックンにとられて、その隙間に潜り込むように座っている。妻がソファーに横たわってテレビを観ているときも同様だ。

 二匹はだいたい一緒にいて、妻の観察によれば、最近はたいてい、午前中は僕のベッドに二匹でいて、午後は妻のベッドに二匹でいるようだ。

 あと、チーズは器用なネコだ。引き戸をすぐ開けられるようになったし、小さい頃はよくボールをドリブルしていた。紐のおもちゃで遊んでいても、タックンは捕獲しようとする感じだけど、チーズは手でうまく挟んでキャッチしようとする。チーズの手が人間みたいだったらいいのになあ、と思う。

 どうでもいいネコ自慢になってしまうけれど、チーズは仕草がかわいい。ベッドの上に手だけを出しておもちゃを攻撃してみたり、レンジフードの上に置いたダンボールから顔をのぞかせたりする。(レンジフードを踏み台にして天窓に登ってしまうと危ないのでダンボールで封鎖しているのだ。)パソコンを使っていると、たいてい僕でも妻でも邪魔をしにきて、キーボードの上に乗る。だから、謎の文字が入力されてしまう。それはそれで困るけれど、とてもかわいい。

 一人遊びも上手で、ネズミのおもちゃを咥えて、ウ~と唸りながら僕や妻のところに持ってきてくれる。偉いね~と褒めると満足そうにしている。妻が洗濯物を干して、2階のベランダから1階に空のカゴを持って下りるときは、そのなかに入る。妻はそれをネコエレベーターと呼んでいる。妻が洗濯物を畳んでいると、バスタオルに勝負を挑み、ケリケリする。

 ひとつひとつは、ネコならよくあることなのかもしれないが、全体として、チーズは控え目で仕草がやさしいのだ。あまり野性的じゃない、と言えばいいのだろうか。

 だから、妻が爪を切るときも協力的だし、妻に目やにを取ってもらうのも好きだ。印象深いのは、チーズと紐のおもちゃで遊んでいるときのことだ。すると、たいてい、体が大きいタックンが割り込んできて、おもちゃを奪ってしまう。そんなとき、チーズは不満そうに「フッ」と息を吐いて少し離れる。それはまさに、仕方ないなあ、と弟におもちゃを譲る姉の仕草だ。

 控えめだけど、決して運動神経は悪くない。以前飼っていたハナちゃんは生まれつき体が弱かったのであまりジャンプもできなかったが、チーズは体が小さいせいかそこそこ身軽だ。若い頃は吹き抜けの天窓まで上がることもあったし、今も虎視眈々と食器棚にジャンプして入ろうと狙っている。そして数日に一度は侵入を許してしまい、皿にはネコの毛がついている。チーズは体重が軽いので、階段の上り下りも軽やかだ。タックンだと、トントントンと音がするけれど、チーズの場合はトコントコンという音がする。調子が悪くなる直前、スケルトン階段の下から階段を下りるチーズを眺めていた一瞬を忘れたくない。まるで空を飛んでいるみたいだった。

 そして、一番のチーズの特徴は、よくしゃべるということだろう。ハチワレはよくしゃべるというけれど、チーズは本当によくしゃべる。啼く、ではなく、しゃべるのだ。チーズが前で待っているのでベランダに出る戸を開けてあげると、必ず、「ニャッ」と言いながら外に出る。明らかに僕に軽く声をかけている。チーズは脱腸気味なので時々お尻を拭いてあげると、「ニャー!」と一声だけ怒る。これは明らかに「やめてよ、もう」と怒っている。僕はあまりやらないけれど、妻が何か話しかけると、よく「ウニャウニャ」と相づちを打つ。また、チーズが何かを話しかけてきて、妻が「そうだね~」と相づちを打つこともよくあるそうだ。僕もよく目撃しているけれど、確かに会話をしているようにしか見えない。

 よくしゃべるからだろうか。チーズは頭がいいように感じる。特に印象的だったのは、僕がタックンを予防接種に連れていったときのことだ。妻によれば、チーズは妻の回りをグルグルと回り、僕とタックンが立ち去る方向に向かってニャーと啼いていたそうだ。それはまるで、「ママ、タックンが連れてかれた~!」と訴えているようだった、とのことだ。

妻とも意見が一致しているけれど、チーズは一言で言うと不思議なネコだ。不思議なほどに色んなことがわかっている。当然、ひとつひとつの仕草はネコなのだけど、すべてをつなげると、かなり人間味があるし、言葉が通じない分、しばしば人間より賢いのではないかと思わせるような存在だ。妻は妖精で天使だと言っている。

執着がなくて儚げで、控えめで優しい存在。この家にちょっと訪問してみました、という感じで数年間滞在してくれているような存在。それが僕にとってのチーズ像だ。

チーズの生命

チーズは病気の特性上、長くてもあと数ヶ月しか生きることはできない。状況はもっとひどいから、遅かれ早かれ、命が尽きようとしている、と考えた方がいいだろう。

だけど、チーズは今まで5年間、我が家にいた。そして今もいる。この生きてきて、そして今も生きているチーズとは一体何なのだろう。チーズが元気だった頃のことを現在形によって書くことで、そのことを僕は考えておきたい。今が、チーズのことを現在形で書き、考えることができる最後のチャンスかもしれない。

チーズの生命は二通りに捉えることができるだろう。チーズ自身にとってのチーズの生命と、僕たちにとってのチーズの生命だ。一人称の生命と二人称の生命と言ってもいい。

僕たちにとってのチーズの生命とは、多分、幸せの塊のようなものだ。そして、チーズとは、僕たちにその幸せを届けてくれる天使のような存在である。もう一匹のタックンも当然僕たちを幸せにしてくれている。けれど、彼はネコっぽいネコなので、勝手に自分自身が幸せになり、僕たちも勝手に幸せになっている、という感じがする。一方のチーズは、チーズがいることで僕たちが幸せになることを、チーズ自身が自覚していて、意図的に僕たちを幸せにしてくれているような感じがする。その意味で「幸せを届けてくれる」という表現がふさわしい。だから天使なのだ。

そして、僕たちも、その幸せの受け手としてふさわしい存在であると思いたい。僕も妻もチーズの具合が悪くなるまできちんと話し合ったことはなかったけれど、ともに、チーズが元気である限られた時間のなかで、その瞬間ごとの幸せを受け取ることに自覚的であろうとしていた。そうすることで、チーズが届けてくれるものを漏れなく受け取ろうとしていた。チーズが横で寝てくれている瞬間、チーズが挨拶してくれている瞬間、そんな瞬間ごとをかけがえのないものとして受け止めようとしていた。そして、僕たちはきちんと受け取ることができた、と信じたい。

チーズがいてくれていた5年間は我が家の黄金期と言っていいと思う。子供の病気など色々ありはしたが、家があって、そこに人間3人とネコ2匹の家族がいて、仕事にも不安はなくて、介護の問題もなく、物質的に充実していた。今後も別のかたちでの幸せはあるだろうけれど、この5年間は、中年の僕たちに典型的な人生の充実期だったのだろうと思う。チーズを失おうとしている今、これはチーズが運んできてくれた期間限定の幸せなのだろうなあ、と噛み締めている。僕たちは次のフェイズに進み、そこで、チーズ抜きでも別な形で幸せになれるということをチーズに見せてあげたい。

チーズは5年間、僕たちを見守り、応援してくれ、そして幸せを届けてくれた。それが少なくとも今までのところでのチーズの生命の僕たちにとっての意味のような気がする。

では、チーズの生命のチーズ自身にとっての意義とはどのようなものなのだろうか。

まず言えることとしては、チーズが僕たちに幸せを届けてくれているのと同様に、僕たちもチーズを幸せにしていると信じたい、ということがある。チーズの生命とはチーズ自身に幸せをもたらすものであって、その幸せを僕たちが手助けできていればいいなあ、と僕は願う。

だが、チーズの生命は、チーズ自身にしか捉えることはできない。それは当たり前のことなのだけど、加えて優しく控えめだという彼女特有の性格もある。彼女の病気は心筋症という先天性のものだ。だからチーズは自ら寿命を決めているとも言える。多少看病の仕方に不手際があって、僕たちが彼女の寿命を縮めてしまったということはあるかもしれない。強制給餌をもっと丁寧にすればよかったとか、もっと早く診察すればよかったとか、後悔はある。だけど、それは多少の誤差であって、おおむね、彼女は自らの生命のあり方も自らで選ぼうとしているように僕には見える。チーズはこんなところまで、僕たちに配慮してくれて、優しいのだ。彼女は、不手際を後悔している僕たちに、「関係ないよ。私が決めたことだから大丈夫だよ。」と言ってくれているような気がする。

そのような事情もあり、結局、チーズの生命とは何か、という問題はチーズがあえて自分自身だけで背負っている問題であり、彼女自身にしかわかりえないものである。そこにはいわゆる一人称特有の問題がある。

人間同士であれば、考察はここで終わるか、または哲学的な方向に進むだろう。だが、チーズはネコであり僕たちのペットであるとともに、僕たちにとっては天使のような、妖精のような存在だ。そんなチーズに対しては、もう少し語ることがあるような気がする。

まず、チーズはペットであり、まさに子供のような存在であり、僕たちが保護し、面倒をみてあげるべき存在だ。だから、チーズの生命とは何か、という問題については僕たちが答えを出してあげなければならない。それは生命の冒涜ではなく、僕たちとチーズはそのような関わり方しかできないのだ。

もしそうならば、僕たちは、チーズの生命を幸福で定義するしかないだろう。僕たちがチーズをどれだけ幸せにし、そしてチーズがどれだけ幸せそうにしているかでチーズ自身の生命の意義は決まる。僕たちはそうするしかないし、チーズはそうされるしかないのだ。これがひとつの答えである。

更に、チーズは単なるペットであるだけでなく天使で妖精でもある。彼女は単なる動物ではなく、僕たちにとって彼女は僕たちに幸せを届けてくれる存在であり、幸せの使徒のような存在だ。それならば僕たちは彼女をそのように処遇しなければならない。

幸せの使徒としてのチーズを信じるならば、僕たちはどこまでも、チーズ自身にとってのチーズの生命とは、幸せの使徒としての生命であると信じなければならない。それならば、幸せの使徒たるチーズの生命を輝かせるのは、やはり幸せによってであるはずだ。チーズのおかげで僕たちが幸せになり、その幸せをチーズに感謝し、その幸せをチーズに返すことによってこそ、幸せの使徒であるチーズ自身の生命はより輝くはずだ。

つまり、チーズがペットであるにせよ、幸せの使徒であるにせよ、いずれにせよ、チーズにとってのチーズ自身の生命とは、幸福により定義されるものなのである。そして、その幸福とは、決して漠然としたものではなく、僕たち家族が具体的に把握し、判断することができるものなのである。

明らかにチーズは僕たちに幸せを届けてくれている。病院の酸素室で息苦しくしているだろう今だってそうだ。彼女がいるからこそ、僕はこの幸せな5年間を噛みしめることができている。この文章は、チーズに対する感謝の手紙だ。この気持ちが彼女に届くといいなあ、と僕は願っている。そう願うこと自体が僕を幸せにしてくれる。

そして、同じように、チーズに幸せが届いていればいいなあ、と僕は願う。僕たちがしたことによりチーズが幸せになっていて、そして僕たちに感謝してくれていて、その感謝の表現こそがチーズが僕たちに幸せを届けるということだといいなあ、と僕は願う。

つまり、僕の願いは、僕たちとチーズの間で幸せの循環が成立している、ということである。お互いに、幸せにしてくれたことに感謝し、互いを幸せにしようとするという、まさにその営みこそが、幸せである、という意味での幸せの循環である。

つまり、チーズが幸せの使徒であると考えるならば、僕たちもチーズにとっての幸せの使徒にならなければならないということである。そして、ある程度まではそれを成し遂げているということである。

これは根拠のない単なる願いだけど、そう的外れなものではないと思う。僕たち家族はそのような関係を築けていると信じたい。そして僕自身は、幸せの使徒として、もっと幸せを感じ、もっと感謝し、もっと幸せを届けられるよう成長したい。そうでないとチーズに不釣り合いだ。チーズに笑われてしまう。

風の谷のナウシカの漫画の感想

※2300字くらいです。完全ネタバレ注意です。

昔、ほぼリアルタイムで読んでいたのだけど、ふと読みたくなって全巻を買い直した。

昔読んだときの感想は忘れたけれど、今回の感想を一言で言うと、この本の主題は、「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」というものだ。前のときはそうは感じなかった気がする。読むたびに感想がかわるというのはいい本の証拠だ。

さて、僕の勝手なランキングだと、この本に出てくる、他の人(生き物)に影響を与えた人(生き物)トップ10は次のとおりになるだろう。

10位 シュワを吹き飛ばした巨神兵
9位 ナウシカの後日談として国を治めたクシャナ&チクク
8位 200年前に土鬼をつくったナウシカに似た初代皇帝
7位 たくさんの街を飲み込んだ巨大粘菌
6位 戦争を引き起こしたトルメキア王
5位 蟲と瘴気を武器に使って大海嘯を引き起こした土鬼の皇弟
4位 何度も大海嘯で腐海を広げた王蟲たち
3位 シュワの墓所を作って悪用される技術を後世に残した人
2位 シュワの墓所を破壊したナウシカ
1位 火の七日間を起こした昔の人
番外 悪人だけど登場が遅いからあまり人を殺してない土鬼の皇兄

このなかには、クシャナ&チククのように良い影響しか与えていない人もいるし、トルメキア王や土鬼の皇兄や火の七日間を起こした昔の人のようにほぼ悪い影響しか与えていない人もいる。また、最初は良い人だったのに途中から悪い人になってしまった初代皇帝と皇弟のような人もいるし、ナウシカやシュワの墓所を作った人のように、良い悪いの判断がつきにくい人もいる。

だけど、この本は、そんな評価はどうでもよくて、それがとにかく生きるということなんだよ、と言っているように僕には思えるのだ。

1位はともかく、2位のナウシカと3位の墓所を作った人に着目して考察してみよう。

ナウシカは物語の終盤まで、人を殺したくない、人が不幸にならないようにしたい、いや人以上に腐海の生き物たちを殺したくないし、不幸から救いたい、そう思って行動をしている。だけど、大海嘯に飲み込まれ、巨神兵に出会ったあたりから、ナウシカは大きく変わっていく。
例えばナウシカは、何千、何万の人の死をすでに見てきたのに、一匹のキツネリス(テト)の死を悼む。それはエゴだとしりつつ、そのエゴこそが生きるということだと気付いていく。

そして、最終盤、ナウシカはシュワの墓所との対決に赴く。
ナウシカは、シュワの墓所を作った人たちが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということを見過ごしていると断罪する。数千年前の一握りの人間のアイディアにより、何千年もの生命の営み、つまり生命相互の影響のやりとりをなかったものにして、すべてを消し去って、再び予定どおりの生命のプロセスを再開させるなんて傲慢だ、ということである。そしてナウシカは墓所を破壊する。

だけど、物語のラストでナウシカは、墓所と王蟲とに同じ血が流れていることに気づく。つまり墓所も生命のひとつだったということだ。考えてみれば墓所とは、何千年も前の人々の生命の営みの結果としてつくられたものである。墓所さえも「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」という原則からは離れることはできなかったのである。そして、それを破壊したナウシカも当然、他の生命に大きな影響を与える、という意味ではほぼ同等のことをやっている。そして王蟲たちも、大海嘯を引き起こしてほぼ同等のことをやっている。先ほどのランキングに入ったような登場人物(生命)たちは以下同様である。

きっとナウシカはどこかのタイミングでそのことに気付いていたのだろう。自分や墓所を作った人たちを含めたすべての生命の愚かさと力強さを慈しみながら、あえてそのような行動をしたのだろう。それが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということであり、ナウシカ自身が生きるということだから。

哲学的には、風の谷のナウシカとは、人を殺してはいけないというようないわゆる道徳から脱道徳に向かう本だということになるだろう。脱道徳というかたちの倫理があるのなら、道徳から倫理に向かっているとも言える。
ナウシカにおける倫理とは、変化だと僕は思う。現状に安住せず、前に進むことこそがナウシカの指針である。だから何千年も前の計画をただ実行しようとする墓所は破壊される。
そして変化は他者への影響を伴う。他者への影響を恐れていては変化することはできない。そしてその変化の責任を負うことこそが成長である。だからナウシカは巨神兵や蟲使いの従者たちといった者たちの責任を負っていく。終盤においてナウシカが母のようになっていくのはそのためである。そして、親になった僕がそのことに気づくのも必然なのだろう。

・・・

おまけ感想。

7巻の最後のほうは、コマ割りが詰め込みすぎのように感じた。多分早めに終わらせたかったんだろうなあ。ラストはもう少しゆったりと描いてほしかった。あと10ページあれば。

昔の人が墓所にどのような役割を持たせたかったのかがよくわからない。浄化後の人類を保管しているだけなら、変に科学技術を漏らさずひっそりとしていればいい気がするし。浄化中の中継ぎ人間(ナウシカたち)も多少は文明の恩恵が得られるよう、優しさから知的活動を維持しようとした、ということなのかなあ。エサ(新たな知識)を小出しにすることで。

永井と入不二の対比 ~「現に」と「今の私において」~

※この文章は12000字以上あります。

僕は、永井均の独在論と入不二基義の現実論は、現時点における哲学の最深部に到達していると思う。

当然、哲学において何を最深部とみなすかは、その哲学者による。あくまで僕の観点に基づき、二人の議論が「僕の哲学の」最深部に到達していると判断しているにすぎない。

一方で、僕は僕の観点以外に立つことなどできない。僕は僕の哲学以外の哲学など想像もつかない。よって留保条件なしに、二人の議論こそが、「哲学」の最深部に到達していると言い切っても、それほど間違えてはいないだろう。

この文章で僕は、二人の哲学がどのように哲学の最深部に到達しているのかを示すとともに、僕自身はどうやってその奥に進もうとしているのかを書き残しておきたい。

ただし、書いていたら途中で考えが行き止まってしまったので、とりあえず、前半部分を『永井と入不二の対比』というタイトルで先行して掲載することにする。後半部分は『永井と入不二の相克』として書きたいと考えている。

1 永井の議論の書き換え

ア 二つの重要なもの

僕は、永井の独在論にはある種の正しさがあると思っているが、同時に疑問もある。永井の独在論においては〈私〉と〈今〉は極めて特別なものとして位置づけられているけれど、なぜ、そんなに特別なものが二つもあるのだろうか、という疑問である。〈私〉と〈今〉は特別であり、三つ目の類例はない。それほど特別なものが、一つでも三つ以上でもなく、ちょうど二つあるというのは奇妙ではないか。その裏には隠された理由があるのではないか、と僕は疑ってしまうのだ。

永井は〈私〉と〈今〉の特別さを描写する際に、無内包の現実という語を用いる。〈私〉と〈今〉には内包(内容)がなく、それこそが現実だからである。私が〈私〉であるためには、私が日本人男性であるというような私を構成する内容は関係がない。もし突然、なぜか私がウクライナ人女性になったとしても、それが私であれば〈私〉である。同様に、今が〈今〉であるためには、今が2022年でありゴールデンウィークの最中だ、というような内容は関係ない。もし突然、なぜか今が西暦1600年になり、関ヶ原の戦いの真っ只中になったとしても、それが今であれば〈今〉である。そのような意味で、〈私〉も〈今〉も無内包の現実なのである。

僕は以上の議論は正しいと思う。だけど議論として足りないとも思う。もし完全な無内包(内容)だとしたら、〈私〉と〈今〉を取り違えてしまったとしてもおかしくないはずだ。〈私〉はかなりの程度まで無内包ではあるけれど、〈今〉と取り違えない程度には内包を有しているのではないだろうか。

その問題は〈私〉の説明の仕方にも現れている。〈私〉について説明するためには、常識的な「私」を出発地点とせざるをえない。「私」から《私》、《私》から〈私〉と、いわば、「私」の内包を薄めるようにして、無内包の〈私〉を説明するようなやり方を取らざるをえない。だが、食塩水はどんなに水で薄めても食塩水でありつづけるように、有内包の「私」をどんなに薄めても、〈私〉は有内包である。だからこそ、〈私〉を〈今〉と取り違えることはない。

これは〈私〉と〈今〉を逆にしても同じことである。〈私〉にせよ、〈今〉にせよ、そこに僅かに残る痕跡こそが、永井の独在性の議論の不徹底さの証拠なのではないか、と僕は考えている。

イ 〈私〉の内包 時間連続性

では、〈私〉に残る「私」の痕跡は何かというと、〈私〉は時間連続性を有する、というものである。僕の考えでは、〈私〉は時間連続性という内包を有している。

いきなり〈私〉だと伝えにくいので、主体としての「私」、実存的な《私》、独在的な〈私〉へと段階的に説明しよう。

まず、主体としての人間というような常識的な意味での「私」を想定するためには、その主体が時間的に連続して存在するのでなければならないことは説明を要しないだろう。とは言っても、すでにこの段階においても、その連続性は常識的なかたちでなくてもいい。例えば、(確か)永井が思考実験で示したように、月曜日はAさん、火曜日はBさん、というように、曜日ごとに人格が色々な身体を渡り歩くようなことがあってもいい。だが、それが「私」であるためには、その人格がそのような特殊なあり方で時間連続性を有することが広く知られていなければならない。「ああ、今日は火曜日だからBさんなんだね。」なんて話しかけられることが可能でなければならない。なぜなら「私」が時間連続性を持つという捉え方は、ちょっとSF的で非常識な状況も含めつつも、誰もが理解し、共有できる、常識的な捉え方だからである。

そこから話が一段上がり、その「私」が実存的な《私》であった場合を考えよう。つまり、曜日ごとに身体を渡り歩く人格が自分自身であった場合である。この場合、他者がそのことを知っている必要はない。他の誰もが知らなくても、自分自身だけが、そのような奇妙な存在であることを知っていればよい。だがその場合でも、自分自身には、月曜日はAさん、火曜日はBさんというかたちで身体を渡り歩いていたなあ、という認識は必要である。つまり、《私》であるためには、自分自身だけには、そのような特殊なあり方の時間連続性を有しているという認識が必要になる。これは先ほどの常識的な「私」とは違って、孤独な状況である。「僕は今はBさんだけど、昨日はAさんだったんだよ。」と誰かに訴えても、その人からは「それは、君の妄想じゃないの。昨日だってBさんである君と会って話をしたよ。」なんて言われてしまうだろう。それに対して「昨日のBさんは僕じゃないんだよ。」と訴えても、その声は届かない。ただし自分のなかの確信だけは残っている。これはつまり、誰かと共有することはできないが、自分だけは自分自身が時間連続性を有しているという確信を持てる状況である。

更に、もう一段せり上がり、独在的な〈私〉を問題にするならば、もう、過去についての記憶や、時空連続性という認識すらも要らない。なぜなら、そのような認識などなくても、独在的にそれが〈私〉だからだ。

だが、それでも、〈私〉は何らかのかたちで時空連続性を持たなければならない。毎日同じ身体を持っているか、それとも曜日ごとに異なる身体を渡り歩いているかは確かめようがない。昨日のBさんの記憶を持っていたとしても、実はそれが植え付けられた偽物の記憶かもしれないという疑いがあったとしても、そのような記憶の内容とは関係なく、とにかく昨日の「私」はなんらかのかたちで〈私〉だったはずなのである。

もしかしたら、私は突然、何十年分の記憶を持ったかたちで5分前に生まれたのかもしれなくて、そもそも昨日などないのかもしれない。けれど、それでも、そのような思考実験ができる程度には〈私〉は時間的に連続して存在しているはずである。そのようにして、とにかく何かしらのかたちで時間連続性を持っている存在が〈私〉なのである。

僕が〈私〉は時間連続性を有する、と言ったのは以上のような意味においてである。記憶や認識は関係がないという意味で、〈私〉は意味論的に時間連続性を有する、と言い切ってもいいだろう。時間連続性こそが〈私〉の内包であり、その限りで〈私〉は無内包ではないことになる。

なお永井は想起という機能を重視しており、〈私〉がどのような内容の時間連続性を有するかは、想起という特別な働きにより把握できると考えているようだ。想起が過去の〈私〉と今の〈私〉を紐づけ、〈私〉に内容を与える。僕には昨日、連休の谷間に出勤したという記憶があり、そして僕は今、パソコンで文章を書いている。〈私〉とはそのような内容の時間連続性を有する、ということになる。

だが、僕には、そのような永井のアイディアは独在性の問題の深層には届かないように思える。なぜなら、もしかしたら昨日出勤した記憶や、今、パソコンを打っているという認識はデカルトが想定したような悪魔が僕に見せる幻かもしれないからだ。そのような不確かなものに頼ることは議論の次元を浅くしてしまう。記憶や認識の問題から離れ、どのような内容にせよ、とにかく〈私〉は、その意味からして時間連続性を有するのである、として扱うことに留めておくべきと思われる。

ウ 〈今〉の内包 出来事性

〈私〉には時間連続性という最低限の内包があるとしたが、〈今〉についても、同様に出来事性とでもいうべき最低限の内包があると僕は考えている。

〈今〉についても、〈私〉と並行するかたちで、「今」と《今》と〈今〉の三段階で論じていったほうがいいだろう。つまり、この歴史におけるどの時点も今であったという意味での、すべての時点を指す「今」と、その各時点が今であったときを指す《今》と、まさにこの時点が今であるという意味での〈今〉である。実は、〈私〉と〈今〉は問題が少し違っていて、まさにこの時点としての〈今〉のほうがわかりやすく、「今」がこの歴史に満ちているという捉え方は、逆にものごとをわかりにくくするかもしれない。だが、〈私〉と〈今〉の同型性を確認するため、あえて「今」から話を進めることにしたい。

さて、歴史は「今」に満ちている。関ヶ原の戦いは「今」であったし、真珠湾攻撃も「今」であったはずである。つまり、僕が生まれるはるか昔、科学的にはビッグバンの時点から始まる全ての時点において、その時点が「今」であったことがあるはずである。そして、その「今」が現在に徐々に近づいてきて、西暦1600年が「今」であったときに関ヶ原の戦いがあり、西暦1941年が「今」であったときに真珠湾攻撃があったはずである。つまり僕が生まれる遥か昔から、歴史は「今」に満ちている。これが「今」である。

だが、僕が生まれてからの歴史は別の色合いを持っている。それを《今》で表すことができる。西暦2001年が《今》であったとき、僕は赤ちゃんを抱いた僕の妻と一緒に、テレビでツインタワーに飛行機が突っ込むのを見ていた。西暦2011年が《今》であったとき、僕は職場で地震の揺れで書棚が倒れないか心配していた。そして昨日が《今》であったとき、僕は連休の谷間に出勤し、うんざりしながら仕事をしていた。そこには、単なる「今」ではなく、僕の内側から把握できる情景を伴う実存的な《今》がある。

そして、それをもう一歩進めると、まさに、この文章をパソコンで打っている〈今〉がある。この〈今〉について、その内容を描写して伝えるのは難しい。なぜなら、〈今〉はどんどん過ぎ去ってしまうからだ。例えば、「例えば」という語を入力している〈今〉と書いたとしても、その時点では、僕はもう「例えば」という語など入力していない。発声により伝えたとしても同じである。「今!」と僕が叫んだとしても、そのとき〈今〉は過ぎ去ってしまっている。

仮に、うまく〈今〉を指し示せたとしても、描写の困難さは解消しないだろう。なぜなら、その〈今〉の内容と、その時点が〈今〉であることは何の関係もないからだ。「今」や《今》であれば、関ヶ原の戦いがあったとき、家族三人でテレビを観ていたとき、といったように、そこでの出来事の内容を手がかりに「今」や《今》を指し示すことができる。しかし、〈今〉をそのように指し示すことはできない。

そのような意味で〈今〉は無内包である。〈今〉は内包により指し示すことができないから無内包なのである。だが〈今〉は全くの無内包ではない。なぜなら、その〈今〉においては、何らかの出来事が生じているはずだからである。もし今日が退屈な一日で特筆すべきことが何も起こらなかったとしても、何も起こらなかったという出来事が生じているはずである。そのような意味で〈今〉には出来事性という内包があるとしたい。特定の事実や情景の認識とは無縁であるという意味で、意味論的な観点から、〈今〉には出来事性という内包があると言ってもよいだろう。

なお、この出来事性を避けるために、出来事が生じ得ないような状況を想定しても無駄である。遠い未来、地球が太陽に飲み込まれ、その太陽も消滅し、宇宙自体が拡散し、ビッグフリーズに至り何も生じることが物理的にありえない事態となったとしても、それが今であったならば、そこでは何も起こっていない、という出来事が生じているはずである。

エ  今の私 重複適用

まとめるならば、「私」という共通認識や、《私》という認識論的な実存の先に、〈私〉には時間連続性という意味論的な最低限の内包がある。そして同様に、「今」という人類共通の歴史や、《今》という認識論的な実存の先に、〈今〉には出来事性という意味論的な最低限の内包がある。そのような内包があるからこそ、僕たちは〈私〉と〈今〉を取り違えることがないのである。

だが、この時間連続性と出来事性という二つの内包は必要なのだろうか。無内包性を徹底するためには、このような内包をも捨て去るべきなのではないだろうか。それはつまり、〈私〉と〈今〉の区別を放棄するべきではないか、という提案である。

〈私〉と〈今〉の区別をなくすために手っ取り早いのは、両者をつなげてしまうことだろう。つまり、今の私(または私の今)という観点に立つということである。

僕には独我論的な傾向があるせいかもしれないけれど、今の私という観点に立つことは意外と容易だと思う。なぜなら、何にでも、「今の私において~という認識が生じている。」という表現を付加できるからだ。「部屋にダンボールが転がっている」という文は、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」と言い換えることができる。「昨日雨が降った」という文は「今の私において、昨日雨が降ったという認識が生じている。」と言い換えることができる。「ウクライナでミサイルが発射された」であっても「130億年前にビッグバンがあった」であっても、同じ操作が可能である。すべては、今の私において生じた認識なのである。

 だが、このような理解は、「今の私」か、せいぜい《今の私》にしか届かない。さきほどの私や今と同様に、今の私についても、人々が共通理解として持つことができる「今の私」と、実存的に持つことができる《今の私》と、独在的で意味論的な〈今の私〉とがありうる。もし、誰もがどの時点においても「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と理解したならば、それは「今の私」である。また、もし、この今の私が実際に持っている認識に基づき、たしかに「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と考えたならば、それは《今の私》である。

今の私を〈今の私〉として理解するためには、認識論を離れ、意味論的に〈今の私〉を捉えなければならない。つまりそれは、「今の私において~という認識が生じている。」ではなく、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加するということである。

つまり「部屋にダンボールが転がっている」は、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」となる。同様に「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、ウクライナでミサイルが発射されたことを意味する。」や、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、130億年前にビッグバンがあったことを意味する。」となる。

この言い換えは確かに成立すると僕は思う。それではこの言い換えは何を意味するのだろうか。多分、ここに〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関がある。永井はこの問題を察知していたからこそ、〈私〉と〈今〉を分離させたままとしたのだろう。

実は、確かにこれは難問だが、その答えはとても簡単なものである。結論から述べるならば「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加することには何の意味もないのだ。

「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。なぜなら、「部屋にダンボールが転がっている」ということは、誰かの認識など関係なく「部屋にダンボールが転がっている」のであり、「部屋にダンボールが転がっている」という文章を読んだ人は、その今の私において、「部屋にダンボールが転がっている」という意味の文章であるということを理解するのだから。「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」というのは、その「~」に入る文章が、そのような意味を持つ文章として成立するための条件を顕在化させたにすぎない。つまり、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記は単に消去可能なのである。

よって、独在論的で意味論的な〈今の私〉とは、全く意味のない蛇足であり、消去されるべきものである、ということになる。永井が〈私〉と〈今〉の独在論から〈今の私〉の独在論に進まなかったのは、〈私〉と〈今〉には論ずべきことがあり、そこにこそ面白さがあるはずなのに、〈今の私〉と重ね合わせた途端、その面白さが消え去ってしまうことを知っていたからなのではないだろうか。つまり、〈今〉と〈私〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関とは、そのような事態を思い描くことの難しさではなく、そこまで議論を突き詰めた場合、〈今〉と〈私〉に関する哲学的興味まで消去されてしまうことに由来する難しさなのである。

だが、僕はそこにこそ哲学の面白さがあると感じる。なぜなら、その〈今の私〉として議論の意味が消え去ってしまう瞬間にこそ、永井の独在論を最も純化したものが閃光のようにたち現れるように思えるからだ。確かに、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。だが、全くの同義であるとして、その付記を消去するという動作を遂行する瞬間にこそ、独在性の謎のすべてがつまっているように思えるのだ。

別な言い方をするならば、全く無意味なものとして消去できるということは、全く無意味に付加することもできる、ということである。すべての文に対して、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記が可能である。なぜなら、それが世界のあり方だからである。世界はそのような独在的なあり方をしている。これが永井の独在論の最深部だと僕は思う。

(ア)共通理解と実存

なお、ここでは、〈今の私〉という独在性に着目してきたが、共通理解としての「今の私」でも似たようなことが言える。

人々の間に共通理解というものが可能であり、つまり「部屋にダンボールが転がっている。」という誰かの言葉を理解できるということは、その言葉を発する人にとっての「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということを理解できるということである。「部屋にダンボールが転がっている。」という文を話し手と聞き手の間で共通理解することができるということは、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」という共通理解があるということである。これは、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような共通認識を含んだあり方をしているということが明らかとなる。

実存的な認識としての《今の私》についても同様のことが言える。実存的な主体が、「部屋にダンボールが転がっている。」という認識を持つということは、つまりその認識主体である「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということである。そして、実存的には、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような実存的なあり方をしているということが明らかとなる。

つまり、「今の私において~という認識が生じている/であることを意味する。」という付加・消去可能な付記は、それぞれ、「今の私」という世界の共通理解的なあり方、《今の私》という世界の実存的なあり方、〈今の私〉という世界の独在的なあり方という三つの世界のあり方を象徴的に示している、ということになる。

そして、永井の議論を受け継ぐならば、その根源にあるのが〈今の私〉という独在的な世界のあり方であり、、「今の私」という共通理解的な世界のあり方や《今の私》という実存的な世界のあり方はそこから派生するものである、ということになる。

2 入不二の現実論

ア 入不二の現実論の類似性

ここまで、永井の〈私〉と〈今〉の独在論を僕なりに展開し〈今の私〉とする議論を行ってきた。そして、〈今の私〉はすべての文に付加できるし、消し去ることもできるという点にこそ面白さがあると論じてきた。

この議論の形式は、実は僕のオリジナルではなく、入不二基義が現実論として行ってきた議論の形式を僕なりに移植したものである。

入不二は、「現に」という語は全ての文に付加することができると論ずる。(『現実性の問題』第2章)例えば、「ソクラテスは哲学者である。」は「現に、ソクラテスは哲学者である。」と言い換えることができる。入不二によれば、この「現に」は透明に働く遍在的な現実性の力を表している。その透明性の証拠として、「現に」を付加しても、消去しても全く事態は変わらない。また、その遍在性の証拠として、すべての文に「現に」を付加できる。「現に部屋にダンボールが転がっている」のであり、「現に130億年前にビッグバンがあった」のである。

僕が「今の私において」で行ったのも同じことである。「今の私において、ソクラテスは哲学者である(ことを意味する/という認識が生じている。)」のである。つまり、今の私の独在性も、透明に働く遍在的な独在性の力なのである。

なお、ここからは、(ことを意味する/という認識が生じている。)は省略し、「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」と表記することとしたい。それでも十分に理解可能だし、そのほうが、「現に」で象徴される現実性と「今の私において」で象徴される独在性とを並列的に示すことができるように思えるからである。

イ 入不二の現実論の必要性

さて、ここで入不二の現実論を登場させたのは、その類似性を指摘するためだけではない。入不二の「現に」の現実論がなければ、永井の独在論(正確には、永井を拡張した「今の私」の独在論)を明確に捉えることはできないと考えるからである。

この文章の冒頭で、永井が〈私〉と〈今〉という二つの特別なものを持ち出したと批判したことを思い出していただきたい。〈私〉と〈今〉を〈今の私〉と重ね合わせることで、より議論を先に進められるはずなのに、永井は不徹底に〈私〉と〈今〉という二つに分けたまま残してしまった。そして永井は内包を消し去り、無内包に至ることに失敗した。そこには〈私〉の時間連続性という内包と、〈今〉の出来事性という内包が残ってしまった。僕はそのように批判した。

だが、永井の選択は必然でもあった。〈今の私〉と重ね合わせた途端、それは「今の私において」という不要な付記となってしまい、消え去ってしまう。それはつまり、私や今について考察するという哲学的な面白さもあわせて消え去ってしまうということである。〈私〉を論ずるためには、〈私〉ではないもの、つまり〈今〉が必要だし、〈今〉を論ずるためには、〈今〉ではないもの、つまり〈私〉が必要である。特別なものが二つあるからこそ、輪郭を保って有意義な議論を遂行することができる。

同様に、〈今の私〉についても、その議論を有意義に行うためには、〈今の私〉ではないものが必要である。そこで登場するのが、入不二の〈現に〉である。〈今の私〉という独在論の議論を更に進めるためには、〈現に〉という現実論が必要なのである。特別なものはやはり二つ必要なのである。

3 独在論と現実論の対比

「今の私において」で象徴される独在論と、「現に」で象徴される現実論とを対比することで、二つの議論の輪郭がはっきりとしてくる。

大抵の文に対して、「今の私において」も「現に」も自由自在に付け加えることができる。「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」だし「現に、ソクラテスは哲学者である。」である。「今の私において、部屋にダンボールが転がっている」だし「現に、部屋にダンボールが転がっている」である。

だが、例外がいくつかある。例えば、トレッキングをしていたら蛇に遭遇したと思ってびっくりしたら実はロープだったというような、いわゆる見間違いの事例がある。この場合、「今の私において、登山道に蛇がいる。」は言えるが、厳密には「現に、登山道に蛇がいる。」とは言えない。なぜなら、現実にそこにあるのはロープだからである。それでも「現に、登山道に蛇がいる。」と言えそうに思えてしまうのは、そこに「現に、(今の私において)登山道に蛇がいる。」という付記を暗黙に行ってしまっているからである。

見間違いに似た例としては、フィクションの場合がある。昔話の本を読んでいるならば「今の私において、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできる。だが、厳密には「現に、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできない。なぜなら、そのような現実はないからである。ただし、あえて言うならば、「現に、(今の私において)かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできるだろう。

いずれも、現実と非現実の間にある境界についての問題であり、「現に」の現実性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「今の私において」の独在性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、現実性の遍在性は独在性にも及ぶ点には留意するべきである。現実性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで独在性の力をも取り込み、非現実にまで到達することが可能となるのだ。

以上は現実性に比べて独在性が優位な事例だったが、逆に現実性が優位になる例としては、想定外のことを取り扱うような場合があるだろう。例えば「明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」というような文を考えてみよう。想定外なのだから、今の私には想定外の出来事にアクセスすることはできない。だから「今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできない。しかし、「現に、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と述べることは極めて自然なことである。なぜなら、どんなに想定外の出来事も、それが現実だからである。それでも、実際に「今の私において」想定外の出来事というものを考えられているのだから、そこにも独在性の力は及ぶ、と考えるのならば、「(現に)今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできるだろう。

独在性に比べて現実性が優位となる事例としては、他にも、他者の痛みを取り扱うような場合があるだろう。「今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」とは言えないが、「現に、彼の胃はキリキリと痛い。」と言うことはできる。ただし、この例でも、「(現に)今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」というように述べることはできる。

この二つの例は、いずれも今の私(独在)と今の私ではないもの(非独在)との間にある境界についての問題であり、「今の私において」の独在性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「現に」の現実性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、さきほどの例とちょうど反対に、独在性の遍在性は現実性にも及ぶから、独在性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで現実性の力をも取り込み、非独在にまで到達することが可能となる。

まとめよう。入不二の現実性も、永井の独在性も、いずれも遍在する透明な力である。両者は単独ですべてを説明する力を持っているという点で同等の力を有していると言っていいだろう。現実性は、見間違いやフィクションのような非現実にさえ及ぶし、独在は、想定外や他者の痛みのような非独在にさえ及ぶ。つまり。両者ともすべてをその力の支配下に組み入れてしまう働きを持っている。

だが、現実性と独在性とを並べて比較し、その違いに敏感になるならば、確かに、現実性よりも独在性のほうが優位となる場面や、逆に、独在性よりも現実性のほうが優位になる場面がある。現実性が非現実にまで及ぶためには独在性の力を取り込む必要があるし、独在性が非独在にまで及ぶためには現実性の力を取り込む必要がある。これはつまり、現実性と独在性はいずれも透明で遍在的な力でありながら、その力のあり方が異なるということである。

今の私という独在性だけでは見えてこなかったし、入不二の現実性だけでも見えてこなかったものが、二つ揃うことで、その輪郭が見えてくる。これは永井が〈私〉と〈今〉でやったのと同じことだ。重要なものは二つ必要なのである。

だが、先ほど僕は、あえて〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉こそが真の独在性についての表現だとすることで議論を前に進めた。それならば僕は、ふたたび、現実性と独在性を重ね合わせればいいのだろうか。それとも両者の違いを際立たせていくべきなのだろうか。そんなことを後半では考えていきたい。