チーズから学んだこと

※18000字くらいあります。

1 幸福の循環

僕は飼っているチーズというネコのおかげで、幸福の循環というアイディアを思いついた。昨日、『うちのネコのこと ~チーズ編~』(http://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/)として書いたとおりだ。

僕がチーズから学んだのは、次のようなことだ。
①自分の生命であれ、他の生命であれ、生命は幸せと結びついている
②生命は、他の生命を幸せにしようとして優しくする
③生命は、他の生命から優しくされたら感謝する
④実は、生命は、他の生命から優しくされるから幸せになるのではなく、他の生命に優しくし、他の生命から感謝されることでこそ、自らが幸せになることができる

これらは、僕とチーズとの間のこととして気づいたものであり、すべての生命に言えるかどうかはわからないし、そもそも根拠がない単なるドグマだ。だけど、一応の論拠はある。美しさという論拠である。

このアイディアに基づくならば、生命Aが生命Bに優しくし、それを生命Bが感謝で返し、そして生命Bも生命Aに優しくし、生命Aが感謝で返し、そして優しくする、という循環が生じる。この循環こそが幸福のプロセスなのである。僕はこれを美しい考え方だと思うし、その美しさには何らかの真実が宿っているように思う。美しいから正しい。これが僕の提出する正しさの論拠である。

以上が優しさと感謝による幸福の循環というアイディアである。あくまでこれは僕自身が考えたことではなく、ネコのチーズから学んだことだ。僕は少なくともチーズはそのような循環を構成する存在だと信じているし、そして僕自身も、少なくともチーズにとってのそのような存在でありたいと願っている。

2 尊重がある

幸福の循環というアイディアに基づき考えた場合、誰かに優しくすることと、(優しくした結果として)誰かに感謝されることと、誰かから優しくされることと、(優しくされた結果として)誰かに感謝することは、循環のなかで重なり、溶け合っていくことになる。ちびくろサンボのトラのように。優しくすることと優しくされることは重なり、感謝することと感謝されることは同義となっていく。また「(優しく)する・(感謝)する」という能動態と「(優しく)される・(感謝)される」という受動態の違いも失われていく。そこには、ただ「優しさがある(優しさが存在する)」「感謝がある(感謝が存在する)」としか表現できないような状況が現出する。そしてついには「優しさがある」と「感謝がある」も重なっていく。

その重なった結果については、優しさや感謝ではなく別な言葉で表現した方がいいだろう。僕はそれを「尊重」と呼びたい。なぜなら、優しくするとは、つまり他の生命を優しくするに値する存在として尊重することであり、感謝するとは、つまり、他の生命を感謝するに値する存在として尊重することだからである。そうだとするならば、幸福の循環のサイクルにより、すべてが溶け合った結果、最終的には、ただ「尊重がある(尊重が存在する)」という状況が現出することになる。つまり尊重がただ存在する状況こそが幸福なのである。

ただし、最終的な結果という表現や、存在するという表現は誤解を与える表現かもしれない。幸福の循環とはあくまで動的なものであり、固定的な状況ではない。尊重がただ存在する状況をよく観察するならば、そこには生命と生命の間での尊重の交換、つまり優しくする、優しくされる、感謝する、感謝される、という循環が生じているはずなのである。そのような動的な状況こそが幸福だということになる。

3 祈りの構造

だが、実感として、このアイディアには怪しいところがある。特に僕とチーズの間に限るならば、この循環のなかで最もおぼつかないのは、僕の感謝がチーズにきちんと伝わるかどうかである。チーズの優しさは僕に十分伝わっているし、僕の優しさもチーズに伝わっていると思う。チーズは話せないけれど、チーズが僕の優しさに感謝していると僕にはわかるつもりだ。だけど、僕の感謝がチーズに伝わっているかどうか、実はよくわからない。

なぜ僕からの感謝が伝わっているかがわかりにくいかというと、優しくするという顕在的な行為よりも感謝するという潜在的な行為のほうが受け手に伝わっているかどうかわかりにくく、更に、受動的な「される」よりも能動的な「する」のほうが、受け手の状況がわかりにくいからだろう。

つまり、次のように分類できる。
①顕在・受動 優しくされる 僕にとって最もチーズの状況(優しくする)がわかりやすい
②顕在・能動 優しくする 僕にとって2番目にチーズの状況(優しくされる)がわかりやすい
③潜在・受動 感謝される 僕にとって3番目にチーズの状況(感謝する)がわかりやすい
④潜在・能動 感謝する 僕にとって最もチーズの状況(感謝される)がわかりにくい

このように分類するならば、僕の感謝というのは極めて潜在的な行為であり、そして能動的なことだから、それがチーズに確実に届くかどうかは、その感謝の発信者である僕にはなかなかわからない、ということになる。これは大問題である。なぜなら、もし僕の感謝がチーズに届かなければ、幸福の循環のサイクルが成立しなくなるのだから。

ここで、僕とチーズは幸福の循環を成立させるために別の力を借りる必要があるだろう。その力とは、神様の力である。

実は、僕は神様に具体的なことを祈るのが好きではない。なぜならば、受験に合格するとか手術が成功するといったことは、成否は関係者の努力や運によって決まることだし、失敗したとしてもそれは乗り越えるべき課題であり、その課題を避けることはできないと思うからだ。けれど、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という願いは祈るに値するように思う。なぜなら、本質的に関係者の努力や運ではどうしようもなくて、また、その成否の結果もわかり得ないようなものごとは、僕たちの世界から隔絶しており、祈りによってしかアクセスすることはできないからだ。

このような祈りが叶うと信じることは、その結果を検証しようもないという意味で、ドグマである。よって、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という祈りは、つまり「幸福の循環が成立していますように。実は単なるドクマでしかない、この美しい構造が成立していますように。」と祈ることである。よって、この幸福の循環とは祈りの構造であるとも言えるだろう。

ただし、以上のような話となるのは、僕の相手がチーズという言葉の通じないネコだからである。相手が人間であれば、言葉によってこの伝達が成功しているかどうか確認できるし、伝達が成功していなければ再チャレンジすることもできる。だから、祈りが必要となるのは、その相手が、言葉が通じない動物や、遠く離れた人や、死んでしまった人のような場合だけである。祈りによってしかアクセスできないものに対してだけ、祈りは役立つのだ。

だが一方で、哲学的には、目の前にいる人間に対して言語を用いるときでさえ、その言語によるコミュニケーションが成立していると考えることは無根拠だとも言える。それが露呈するのは他者の痛みの場面である。僕たちは他者の痛みを知ることができない。だから、誰かにこの痛みを言葉で伝えても、それがこの痛みとして伝わるかどうかはわからない。それならば僕たちはやはり祈るしかない。「この言葉がうまく相手に伝わりますように。」と祈るしかないのである。だから、僕がチーズから教わったことは、人間同士であっても無駄にはならない。人間同士の言語によるコミュニケーションにおいても、根底には祈りがあるのである。当然それは感謝の言葉でも同じことである。感謝の言葉が届くことは、祈りなのである。

動物との間にせよ、死者との間にせよ、生きた人間同士にせよ、幸福の循環という構造は、神様への祈りの力を借りることで、ようやく確実にそのサイクルを回すことができるのだ。

4 夾雑物

僕は、この幸福の循環という構造は極めて美しく、僕はチーズとともに、それを構成する存在でありたいと願う。

だけど、無垢な動物、または幸せの使徒であるチーズとは違って、僕は不純な人間である。僕は、そのサイクルに没頭するには色々なものを抱えすぎている。僕は、チーズが死なないか不安だし、チーズのことを考えることは負担だし、チーズの世話をしていると疲れることもあるし、きっと今後手間がかかるチーズを疎ましく思ってしまうときもあるだろう。僕は、ただ優しくし、優しくされ、感謝し、感謝される「だけ」でいることはできない。それ以外の余計なことを考えてしまうし、感じてしまう。それらがすべて余計な夾雑物であるとは知りつつも、それをやめることができない。

きっと、それらの夾雑物こそが、人間が成長するための課題であり、その夾雑物をなんとか処理していくことこそが、成長するということなのだろう。僕はチーズの死に直面し、この成長の課題を突きつけられている。

(1)労力と献身

では、僕自身が成長していくために、まずは、その処理すべき夾雑物について具体的に列挙し、処理するにあたってどのような課題があるのかを考えてみたい。

まず思いつくのは、労力、努力という夾雑物である。僕は、チーズを動物病院で診てもらうために必要なお金を稼いだり、適切な動物病院を探すのに時間をかけたり、うまくチーズの病状を見極められるような知識を入手したり、給餌をうまくできるような技術を身につけようとしたりする。そのようなことに僕は労力をかけ、よりうまくできるよう努力する。このような労力をかけずに済むならば、もっとチーズに優しくし、また感謝することもできる気がする。また、チーズの優しさや感謝をもっと心から受け止めることもできそうな気がする。優しさと感謝による幸福の循環にとって、労力とは余計な夾雑物である。

だけど、労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

そのように考えるならば、僕がチーズに優しくするためには、その優しさを表現するために必要な労力をかける必要がある。さらには、労力とは優しさの表現そのものであると言ってもいいだろう。人は労力をかけ、努力することによってこそ身をもって優しさを表現することができる。だから優しさとは献身と言い換えてもいいだろう。よって、労力とは単なる取り除くべき夾雑物ではないということになる。労力とは、疎ましいけれど、それ自体が優しさの発露でもあるような二面性を持つものなのだ。つまり労力とは必要不可欠な夾雑物なのである。

(2)不安と期待

では、労力のほかにはどのような夾雑物があるだろうか。

今回のことを振り返ってみると、そこには常に不安という夾雑物がつきまとっている気がする。僕はチーズのことで毎日不安だ。病状が急変するかもしれない、新たな悪い病気が見つかるかもしれない、入院がストレスになってしまうかもしれない、といった不安だ。だが、こういった不安は優しさの発露においては全くもって不要である。不安があってもなくても、僕にできることは変わらない。僕にできるのは、なるべく技術がある動物病院にネコを任せ、病院に言われたとおりのことをして、ネコの病気について僕なりに勉強し、ネコに感謝し、ネコにその感謝が伝わることを祈ることだけである。不安に思いながらやっても、不安に思わずにやっても、やることは全く同じである。これは夾雑物の最たるものだろう。

だが、そんなことは当たり前なのに、それでも不安を手放せないのは、不安にも二面性があるからだろう。不安とは単なる忌むべきものではなく、期待と離れがたく結びついている。僕は明日もチーズが生きていることを期待するし、できれば家に戻れるくらいに回復することを期待する。そんな期待があるからこそ、もしその期待が裏切られたらどうしようと不安になるのだ。期待とは、来たるべき未来にハードルを設けるということであり、不安とは、そのハードルを超えられなかったときのことを思って不安になるということなのである。期待するためには不安を手放す訳にはいかないのである。

もし不安と一緒に期待まで手放してしまったら、僕はチーズに優しくすることはできないだろう。なんとか明日もチーズに生きてほしいと期待するからこそ、そのために必要なサポートをする。僕は期待を持たずに優しくすることなどできない。そのように考えるならば、不安にも二面性があり、不安とは必要不可欠な夾雑物である、ということになる。

(3)行き止まり感と論理的・科学的予測

もうひとつ、僕と妻を消耗させるのが、いずれにせよそろそろ終わる、という感覚である。行き止まり感とでも名付ければいいのだろうか。チーズは残念ながら、どんなに頑張っても、どんなに治療がうまくいっても、あと数ヶ月しか生きることはできない。チーズは6歳で、人間に喩えるならば40代だから、これはとても残念なことだ。チーズが心筋症を発症したと知ったときから、僕たちとチーズがいる世界はあと少しで消えてしまうことが運命づけられている。

僕はこれによく似た気持ちを知っている。海外旅行の最終日の気分だ。夕方には飛行機に乗ることを思いながら、海外のリゾート地の浜辺で最後の散歩をする。そういうときに限って空は晴れ渡っていて、到着したばかりの観光客が楽しそうに写真をとっていて、数日前の自分たちみたいだな、なんて思いながら、僕たちはそれを見ている。とても濃密だけど、どこか色褪せたような世界。今、チーズに感じている行き止まり感とはこういうものである。

このような感覚も、優しさや感謝や尊重とは全く関係がない。なくて済むならそのほうがいいような種類のものだ。つまり余計な夾雑物である。

だけど、僕は人間であり、論理的かつ科学的にものごとを考え、未来を予測する生き物である。予測するからこそ、僕は今日の夕方の飛行機に乗らなければいけないことを知っているし、チーズの命が長くてもあと数ヶ月だということを知っている。もし、予測がなければ、僕は人間として未来を思考し、未来に向かって生きることはできない。僕が人間である限り、この行き止まり感を手放すことはできないのである。

なお、この行き止まり感が未来に対する態度であるのと同様に、先ほどの不安も未来に対する態度であるだろう。行き止まり感とは、わかっている未来に対するネガティブな態度であるのに対して、不安とは、わからない未来に対するネガティブな態度である。

未来の確定した側面に目を向けるにせよ、不確定な側面に目を向けるにせよ、未来を考えることは、より上達し、より優しくあろうとして未来に向かって生きる人間にとっては必須なことだろう。そうだとするならば、未来から行き止まり感と不安だけを切り離して捨てることはできない。行き止まり感と不安は、僕たちが目指す未来の一部なのである。

(4)喪失感と過去の思い出

ここまで、不安と行き止まり感という夾雑物を、未来につながるものとして論じてきたが、過去に目を向けるならば、僕らを悩ます夾雑物として、喪失感があるだろう。

僕たちは、もうチーズは以前のように元気に遊び回ることはないことを知っている。あのときのように、チーズが高いところに登って隙間から顔を見せることはもうないし、そこから飛び降りて、もう一匹のネコとじゃれ合うのを見ることももう二度とない。そのようなチーズの姿は過去の記憶のなかにしかなく、僕たちはそれを再び手にすることはできない。

このような喪失感を僕たちが抱くことは、優しさや感謝や尊重と関係がないという意味で、やはり幸福の循環システムにおける夾雑物である。なくて済むならないほうがいいたぐいのものである。

だが、喪失感という夾雑物を取り除くためには、過去の思い出も一緒に取り除かなければならない。少なくとも、チーズとの思い出を何らかの肯定的なものとして評価することを捨て去らなければならない。もし僕がチーズについての過去の思い出を肯定的なものとして捉えることを取り除いてしまったら、僕がなぜ、このチーズというネコに感謝し、そして優しくするのかがわからなくなってしまうだろう。チーズは、通りすがりのネコではなく、僕と肯定的な関係を長年続けてきたという過去があるからこそ、そこには優しさと感謝の循環の蓄積があったと言えるのである。そして、だからこそ、これからも僕はチーズに優しくし、感謝することができるのである。そのように考えるならば、僕が幸福の循環のなかにいるためには、この喪失感を過去の思い出とともに気軽に捨て去ることはできない。

(5)後悔と反省

喪失感のほかにもうひとつ、過去につながる夾雑物がある。後悔である。僕はチーズのことではいくつも後悔している。もっと早く違う病院に連れていけばよかった、強制給餌のやり方をもっと丁寧に学んでからやればよかった、といった後悔である。後悔というのは夾雑物としてかなり強力で、後悔の念におそわれると、優しくし、感謝するという、そもそも最も大切にすべきことすら忘れてしまうほどである。後悔こそが真っ先に取り除くべき夾雑物のように思える。

だが一方で、後悔は上達のためには必須であるとも言える。より優しくなるためには、より上達しなければならないとするならば、後悔は優しさのために必須とさえ言える。僕は過去の失敗を後悔するからこそ、反省して次は同じような失敗をしないように労力をかけて上達を目指す。それが優しさである。後悔という過去も、それが反省につながるという意味で、幸福の循環においては必要なのである。

喪失感が肯定的な過去の存在意義だとするならば、後悔とは否定的な過去の存在意義である。過去には良いことも悪いこともある。良い過去の思い出は喪失感として僕に降りかかってくるし、悪い過去の思い出は後悔として僕に降りかかってくる。どちらも僕の心を揺り動かし、僕が優しさや感謝に専念することの邪魔をする。だが、過去を過去として受け止め、その過去を優しさにつなげるには、そう都合よく喪失感と後悔だけを捨て去ることはできない。喪失感と後悔とは、僕が拠って立つ過去の一部なのである。

5 過去と未来

(1)時間の捉え方

ここまで、労力、不安、行き止まり感、喪失感、後悔という5つの夾雑物を取り上げてきた。僕うはうまくチーズの世話をしようとして、その労力に疲弊しているし、チーズが病気になって、突然死んでしまわないかと不安だし、結局は数ヶ月でお別れだと思うと行き止まり感とでもいうべきものを感じるし、もう元気なチーズを見ることができないという喪失感があるし、あのときもっとよい治療をすればよかったという後悔もある。常にではないけれど、しばしば、そのような気分におそわれる。そんなとき、僕は、もっと他にやるべきことがあるだろう、とどこかで思っている。そんなことよりも、僕はもっとチーズに優しくし、もっと感謝すべきではないのか。僕たちとチーズに残された時間はそれほど多くないはずだから、不安や行き止まり感や喪失感や後悔にかまける暇はない。これらは可能ならば取り除きたい夾雑物である。

だけど、僕がより優しく生きるためには、それらを単なる夾雑物として簡単に手放すことはできない。労力をかけなければチーズに献身的に尽くすことはできないし、不安がなければ未来への期待もないし、行き止まり感は人間として論理的・科学的に未来を思い描くことと不可分である。喪失感とは過去の幸せな思い出であり、優しさと感謝の原動力でもあり、後悔とは過去の失敗から学んで、より優しくあろうとするためには欠くことはできない。そのような意味で、これらは必要不可欠な夾雑物である。

そして、これらの5つの夾雑物のうち、労力を除いた4つは、不安・行き止まり感という未来に関するものと、喪失感・後悔という過去に関するものに分類できる。つまり、僕たちは過去から未来に向けてこの世界を生きていく存在であるという時間的な事実と、これらの夾雑物とは密接に結びついている。

特に行き止まり感と喪失感は、それぞれ、未来と過去そのものを捉えていると言ってもいいだろう。行き止まり感というのは、人間として論理的・科学的に未来を捉え、予測することそのもののことだと言ってもいい。旅はいつか終わり、そしてチーズとの別れはいつか来るということを知っていなければ僕は人間とは言えない。また、喪失感についても、喪失感とは、過去を思い出の蓄積として捉えることそのもののことだと言ってもいいだろう。もし僕が思い出を全く持たなければ、それも人間とは言えないだろう。

つまり、人間にとっての未来とは予測の未来だからこそ、そこに行き止まり感があり、そして人間にとっての過去とは想起の過去だからこそ、そこに喪失感があるのである。僕が人間としてこの時間を生きていくためには、僕は未来に行き止まり感を感じ、そして過去に喪失感を感じて生きていくしかないのである。行き止まり感と喪失感とは、予測と想起という、人間による時間の捉え方そのもののことだと言ってもいい。

(2)自由意志

5つの夾雑物のうち、行き止まり感と喪失感を時間と結びつけてみた。それは「過去の記憶をもとに、未来を論理的、科学的に予測する」という決定論的な時間の捉え方である。

残る夾雑物である労力と不安と後悔も別のかたちで時間と結びついている。それは「後悔という過去の反省を糧にして、労力をかけて努力し、不安とともに期待を持って未来を切り開く」という時間の側面である。これは自由意志論的な時間の捉え方だと言えるだろう。つまり、5つの夾雑物は、時間論的には2つのグループに分類することができ、行き止まり感・喪失感の決定論グループと、労力・不安・後悔の自由意志論グループに分けることができるのである。

幸福の循環ということを考えるならば、より注目するべきは労力・不安・後悔の自由意志論グループのほうだろう。僕は決定論グループに分類した行き止まり感と喪失感だけではチーズに優しくすることはできない。行き止まり感と喪失感は、想起される事実としての過去と、論理的・科学的に予測できる未来を僕に与えてくれるにすぎない。つまり過去と未来という時間軸を客観的に捉え、僕に時間を認識させてくれるに過ぎない。そのような時間認識は、僕が活動するにあたっての時間的な基盤とはなるが、その時間において僕が主体的に活動し、自主的に優しくするということまでは導くことはできない。僕が主体的に活動するためには、その基盤の上に更に、僕の自由意志が必要である。それを与えてくれるのが労力・不安・後悔である。

では、労力・不安・後悔の自由意志論グループがどのように時間と対応するか確認してみよう。まず、過去の失敗を反省するからこそ、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして不確定な未来に期待するからこそ、不安を感じつつも、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして、自ら未来を切り開くということは、つまり、この現在において労力を厭わず努力するということである。幸福の循環の枠組みで捉えるならば、この努力とは優しくあろうとする努力のことである。こうして、過去=後悔(反省)、現在=労力(優しさ)、未来=不安(期待)というように三つの時制と三つの夾雑物とを組み合わせることができる。

このうちで自由意志として重要な役割を果たすのは、現在における労力である。過去を後悔して反省し、未来に不安を感じつつも期待するからこそ、現在において労力をかけることができる。この労力とは、つまり世界に対する積極的な働きかけのことであり、つまり労力こそが自由意志であるということである。過去の後悔と未来の不安は、ともに現在の労力に貢献する限りで自由意志の確立に役立っていると言ってもいいだろう。過去の後悔と未来の不安はあくまで従たるものであり、もっとも重要なのは自由意志の発露そのものとしての、現在における労力なのである。

ここまで、5つの夾雑物を時間と絡めて論じてきたが、それは次のようにまとめることができるだろう。

時制     :   過去        現在        未来
自由意志論: 後悔(反省) → 労力(貢献) ← 不安(期待)
決定論   : 喪失感(想起)             行き止まり感(予測)

僕の考えによれば、時間はこのようなあり方をしている。より正確に述べるならば、チーズの病気というネガティブな出来事を通じて考察した結果だから、これはネガティブな側面を強調した場合の、時間のひとつの描写の仕方であるとも言える。

(3)自由意志論と決定論

以上のように夾雑物を丁寧に腑分けすることにより、夾雑物は二面性があり、そう簡単に捨て去ることができないことが判明し、あわせて、時間論と紐づけることで、自由意志論グループと決定論グループとに分類できることもわかってきた。

自由意志論と決定論の対立は哲学的な大問題なので、ここで簡単に答えを出すことはできないが、常識的には、決定論をベースにして、自由意志論がその上に乗っかっている、という見方をすることはできるだろう。論理的、科学的に世界のあり方は決まっている。水を熱すればお湯になるし、点滴でネコに水分を与えれば、水を全く飲まないよりは長生きできる。それは当然の決定した事実である。そのうえで、人は自由意志に基づき労力をかけることで、その決定した世界を多少は変えることができる。上手にネコに強制給餌をできるよう努力すれば、その努力の分だけネコは上手に栄養をとり、命をつなぐことができるかもしれない。人間の努力では物理法則を根本的に変え、ネコの病気がなかったことにすることはできないけれど、努力の積み重ねにより、多少はネコの病状に影響を及ぼすことができる。努力はすることもしないことも選べるけれど、努力することを自由意志により選択すれば、その選択により、決定した世界を多少は変えることができる。

以上のような常識的な考え方に基づくならば、これらの夾雑物の二面性、つまり捨て去るべきだが捨てられないという二面性には二種類があることがわかる。

決定論グループに属する喪失感(想起)と行き止まり感(予測)は、世界のあり方そのものに由来しているという点で、より根源的で捨て去ることを想像すらできないものである。一方の自由意志論グループに属する後悔(反省)、不安(期待)、労力(優しさ)は、自由意志を捨てることが可能だとするならば、捨てることはできる。だが、捨ててしまっては自由意志により優しさを選ぶことすらできなくなってしまうから、捨ててはいけないのである。捨てるべきだが捨てることが不可能な決定論的な二面性と、捨てるべきだが捨ててはいけないという自由意志論的な二面性があるのである。

6 人間の優しさと神の優しさ

ここで再び、その夾雑物を本当に捨て去ってはいけないのか、という問題に立ち返るべきだろう。ここで取り上げる夾雑物とは、つまり自由意志という夾雑物である。優しさと感謝の幸福の循環構造のなかには自由意志は登場しない。つまり自由意志とは夾雑物である。だが、その夾雑物は、優しくあるために不可欠だから、やむを得ず、とりあえずの居場所を確保されるのである。だが、本当に自由意志は優しくあるために必要なのだろうか。

この問題を考えるために、まず自由意志を明確に捉え直しておこう。自由意志とは、つまり、4(1)で述べた努力・労力のことである。過去の後悔は反省として現在の努力・労力につながるから必要であり、未来の不安は期待として現在の努力・労力につながるから必要なのである。よって、現在における努力・労力こそが自由意志の本質であり、現在における努力・労力が幸福の循環構造によって不要となれば、自由意志も不要だということになる。

さて、4(1)において僕は努力・労力について次のように述べた。


 ~労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

このヤブ医者と名医の比喩は本当にそのとおりなのだろうか。優しさとは、どこまでも内心の優しさのことであり、どれほど努力したかどうかは優しさとは全く関係ないのではないだろうか。

当然、僕自身の心情としては、疲弊した名医こそが優しいのだと考えたい。優しくあるためには、単に優しい心情だけでは足りず、現に労力をかけ、より上手に優しくあろうと上達し、そしてその優しさを労力をかけて発揮しなければならない。疲弊した名医は、悪態をつきつつも、何年間も手術の腕を磨き、そして何時間にもわたる困難な手術を成し遂げ、患者を救う。それを成し遂げるほどの労力をかけたからこそ、彼は優しいのである。同じように僕は、疲弊してでも、チーズにとって最もよい治療をしてあげて、最もよい看病をしてあげたいと願う。僕はそのようなものとして優しさを捉えたい。

しかし、チーズから教わったことは、幸福の循環構造のほかにもうひとつある。それは、その循環は、祈りによって駆動されるということである。感謝も優しさも祈りによってしか伝わらないのである。僕がどれだけ努力し、労力をかけたかどうかは、実は優しさにとっては全く関係ない。なぜなら、優しさとは祈りなのだから。

当然、このような結論は受け入れ難いだろう。僕自身もそうである。僕のこの労力は、幸せとは全く関係がなく、全く意味がないことだとは思えない。だが、チーズの言うとおり、少なくとも、それを受け入れざるをえない一面があるのは確かだろう。だから、ここで少なくとももうひとつの優しさがあることは認めるべきだろう。優しくあろうとして努力し、労力を費やす人間の優しさと、もうひとつ、ただ祈る神の優しさである。

神の優しさに比べると人間の優しさには限界がある。僕は色々と努力し、労力をかけ、人間の優しさを発揮することによって、疲れてしまって、もしかしたらチーズを疎ましく思ってしまうことがあるかもしれない。だから僕は、なんとか、そのようなネガティブな思いを抱かないように配慮しながら、最大限の労力をかけ、最大限の優しさを表現しなければならない。

そのために必要となるのは、自分の限界を知ることだろう。僕は仕事や趣味もあるから、チーズに優しくすることだけをしている訳にはいかない。そこにはおのずとかけられる限界がある。その限界を知り、その範囲内で最大限に労力をかけることが望ましい。

そのうえで僕は、その限界の範囲内でより多くのことをしてあげられるよう上達するべきだろう。より優しくするためには、より能力を向上し、より効率的にものごとをできるようになることが必要である。

そのように考えるならば、人間の優しさには、その優しさが疎ましさに転化しない限りで、できるだけ優しくあるべき、という限界があるということになる。また限界を超えないまでも、頑張りすぎれば、最大限の労力をかけるべき、できるだけ上達すべき、といった言葉で自らを鼓舞せざるをえない状況が生じる。優しさとは本来、心の奥底から湧き出る自主性に基づくものだとするならば、人間の優しさは、頑張りすぎた場合には、「べき」という言葉で象徴される義務感の力を借りて、その優しさを遂行することになる。本来の優しさからかけ離れた義務感に覆われてしまうというのも人間の優しさのもうひとつの限界だろう。人間の優しさには、疎ましく思わない限りでしか優しくできないという限界があり、また、疎ましく思わないまでも、自主性ではなく義務感から優しくせざるを得なくなるというもう一つの限界があるのだ。

一方で、神の優しさには限界がない。いくらでも相手を思い、いくらでも祈っていいからだ。そう考えると、人間の優しさは旗色が悪い。優しさとは相手を思いやる内心の発露だとするならば、人間の優しさにはその発露の仕方の限界があるが、神の優しさには限界がない。

勝ち馬に乗り、人間の優しさを手放し、神の優しさだけを受け入れるというアイディアは魅力的である。もし、そうしたならば、先ほど掲げた5つの夾雑物のうち、少なくとも労力、不安、後悔という三つの夾雑物は手放すことができるからだ。僕は、チーズに労力をかけることなく、心穏やかにただ祈ることができるし、何も期待せずただ祈るならば不安に感じることもない。よって過去の失敗を後悔し、そこから学び、反省を次に活かす必要もなくなる。

なお、それでも時間的に世界を把握する限り、過去の喪失感や未来の行き止まり感からは逃れることはできない。だが、後悔や不安のような激しい感情に比べて、喪失感や行き止まり感は寂しさとも言い換えられるような緩やかさがあり、まだ対処しやすい。よって、人間の優しささえ手放せば、大部分の夾雑物を手放すことができると言える。

だけど、それでも僕は思う。人間の優しさを手放し、神の優しさだけになってしまったら、この世界がうまく回るはずがないではないか、と。要するに人間の優しさとは自由意志を前提とした優しさのことであり、人間が主体的に世界に関わることができるということを前提とした優しさのことである。そして神の優しさとは決定論を前提とした優しさのことであり、人間は祈りでしか世界に関わることができないということを前提とした優しさのことである。つまりこれは、やはり自由意志の問題なのである。

7 今を生きる

自由意志の問題は手強い。だから、ここでも僕はチーズに教えを請いたいと思う。

ネコのチーズは人間ではないから、人間の自由意志の範疇の外で生きている。そして身をもって神の優しさに駆動された幸福の循環構造を僕に教えてくれた。一方の僕は人間だから、自由意志に基づき、より上手に他者に優しくあろうと足掻く人間の優しさと、チーズから教わった神の優しさとの二つを抱えこんでしまっている。

これが自由意志の問題なのだが、ここで立ち止まらず、もっと先を考えるべきだろう。すると、チーズは、自由意志だけでなく、その手前にある時間という問題領域からも外れ、時間の範疇の外で生きているということに気づくだろう。チーズは過去の思い出の喪失感に悩まされることもなく、未来を予測し、行き止まり感を感じて寂しさを感じることもないはずだ。チーズには自由意志の問題がないだけでなく、決定論的な時間の問題すらないのだ。

人間の用語を用いるならば、チーズは今だけを生きていると言ってもいいだろう。今だけを生きているから、期待も不安もないし、行き止まり感も論理的な予測もないし、喪失感も過去の想起もないし、後悔も反省もない。だから努力して苦労することもない。今だけを生きるとはそういうことである。すべての夾雑物を捨て去り、幸福の循環にただ身を投じるということである。

チーズが今だけを生きているのに対して、人間である僕は過去と未来につながる現在を生きている。今と現在を使い分けるならば、チーズはそれしかない今を生きており、僕は過去や未来と紐付けられた現在を生きている。

僕はヨガとか瞑想も好きだから、この今を生きるというアイディアは魅力的である。これはいわば悟りの境地と言ってもいいだろう。今回のことがあって、とても身近にそれを成し遂げている大先輩がいることに気付いた。ネコはすごいなあ、と僕は思う。

だが、ネコはそもそも、夾雑物など持っておらず、過去や未来という時間も持っていない。そもそも持っていないものを捨て去る必要などない。だけど人間は、ネコの境地に至るためには、それらをあえて捨て去るという不自然なことを成し遂げなければならない。僕にはそれが、よりよい世界を目指すという人間の営みの放棄でもあるように思えてしまう。苦労からの敵前逃亡である。

僕はやはり、チーズに教わったネコの境地を心に留めつつも、あえて人間の境地に踏みとどまり、二律背反を抱えつつ生きるしかないようだ。だが、チーズから教わったことは決して無駄ではない。知らずに苦しむのと、知りつつ苦しむのでは、見える景色が全く違うはずだからだ。

8 生きるノウハウ・光

今後、僕がうまく生きていくために大事なポイントは「動性」だろう。これからの僕は、ネコの境地と人間の境地の二つを抱えて生きるのだから、その二つの境地をうまく行き来しなければならない。そこで必要なのは立ち止まらず動くことである。

これまで慣れ親しんできた人間の領域に立ち返るのは簡単である。問題は、いかに一時的であってもネコの境地に入り込むかである。ネコの境地に少しでも入り込まなければ、人間の境地を相対化して眺めることはできない。つまり、チーズから教わったことを活かすことができない。

ここからは全く哲学ではなく、いわばスピリチュアル系な話になるけれど、僕の場合、今だけに意識を向けるためには「光」をイメージすることが役立つ。今ここの僕自身に光が降り注いでいるイメージである。きっとこれがうまくいくのは、光が差し込む先である、今ここの僕自身にだけ意識が向くからなのだろう。これは僕の瞑想のテクニックである。

そして今回のことがあって思いついて、その光を少し広げ、僕とチーズの両方に降り注ぐところをイメージしてみた。これはつまり、今ここの僕と今のチーズ(例えば、数キロメートル離れた動物病院で入院している今のチーズ)にだけ意識を向けるということである。

これこそが幸福の循環なのではないか。僕がチーズに降らせている光とは、つまりチーズへの優しさの表現であり、チーズへの感謝の表現であり、つまりチーズの尊重である。そして、その光を僕もチーズとともに味わっているということが、つまり、チーズからの優しさの表現であり、チーズからの感謝の表現でもある。僕とチーズがともに光に包まれているということが、つまり幸福の循環のなかに僕たちがいるということの証左なのである。

だから、この光は祈りの光だと言ってもいいだろう。僕の優しさや感謝がチーズに届くように祈るとは、つまり、チーズに差し込む光を思い描き、それが本当の光だと信じることであり、チーズの優しさや感謝が僕に届くようにと祈るとは、つまり、チーズとともに僕に差し込む光を思い描き、その光を信じることなのである。

だから、僕は具体的な何かを祈ってなどいない。ただこの光を思い描くだけである。祈りとは、具体的な内容を持たない行為なのだろうと僕は思う。その無内容さを象徴するものとして光はふさわしい。

なお、このアイディアは哲学と全く関係ないという訳でもない。僕が好きな入不二基義は、『現実性の問題』において、現実性の力を光に喩えている。そしてその力は無内包(無内容)だとも言っている。また、その無内包を象徴するものとして祈りにも言及している。つまり、入不二的に述べるならば、この光とは、まさに無内包の現実性の力のことなのである。

それを受け入れるならば、この光とは、つまり、僕とチーズが現実のものであることを示すものである。入不二の言葉の使い方でないが、僕とチーズが現に存在していることを示している、と言ってもいい。この今において、僕とチーズは確かに存在している。存在を認めるとは、つまりその存在を尊重するということであり、それこそが、その存在に対する原初的な優しさであり、そして感謝の表現でもあり、そしてその存在に対して優しさや感謝が届くように祈ることでもある。このようにして、存在=尊重=優しさ=感謝=祈りは一体のものとして結びつく。

なお、入不二は、現実は顕在する存在だけではなく、潜在する存在にも及ぶと考える。だから、病気になる前の元気なチーズも現実だということになる。だから、僕のこの光も、病気になる前のあの元気なチーズに降らせることができるだろう。入不二が言うとおり、現実性が遍在しているならば、僕のこの光もあまねく降り注ぐはずである。

だから、「今を生きる」というのは誤解を与える表現かもしれない。チーズが本当に僕に教えてくれたことは、「無時間を生きる」と言い換えたほうがいいかもしれない。時空を超えて、僕はすべてに優しくし、そしてすべてに感謝し、すべてを尊重し、すべてを祈り、すべての存在を認めることができるはずである。チーズはそうしており、僕がチーズから学ぶべきことも、そういうことなのだろうと思う。

きっと、チーズから見える世界は、過去も未来もすべてがそこにあり、すべてが光に包まれていて、そしてそこで優しさと感謝が循環しているのだろう。これは入不二が描く現実性の描写とも酷似している。僕もこんな世界に住み続けたいと願う。

※ 僕は以前、『バイタル・スフィア』(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/vitalsphere/)という文章を書き、愛と存在の二元論的な世界を提案したけれど、僕がチーズと入不二から学んだところによれば、この世界とは、存在と愛がひとつに重なる一元論的な世界だということになる。

9 没頭と忘却

だけど、残念ながら、僕は光あふれるユートピアに長居することはできない。やがて僕は人間の世界に戻り、なんとかチーズが元気になってほしいと願い、腕がいい動物病院をネットで探したり、上手な給餌の仕方を勉強したりしなければならない。そんなことに疲弊しながら、今後どうなるのか不安になったり、失敗を後悔したり、どうやっても大きく寿命を伸ばすことはできないと寂しくなったり、失われた過去の思い出を寂しく思い出したりしながら、なんとか、僕はこの世界で少しでも何かチーズのためになることをしたいともがくしかない。

それでも、僕は光に包まれたチーズの世界を思い起こすことで、少しは元気がわいてくる。チーズが僕に教えてくれたことは決して無駄ではない。それに僕は「光」を用いることで、いつでもチーズの世界を覗くことができる。

僕がうまく生きていくためには、この人間世界と、チーズの世界とをうまく行き来することが肝要だ。そこでのキーワードは動性である。中途半端に立ち止まらず、きちんと二つの世界に入り切るのだ。

中途半端に労力をかけることを諦め、無力感から祈ってもチーズの世界に至ることはできない。一時的であっても、すべてを捨て去り、無内包の光を降らせるように祈らなければ、チーズが教えてくれたことを思い出すことはできない。

また、中途半端に現実をみつめ、他人ごとのように人間世界での営みのことを考えても人間世界でうまく立ち回ることはできない。この人間世界においては、僕はチーズの世界のことなど忘れ、この人間世界に没頭し、この人間世界がよりよい世界となるよう努力し、苦しくても、悲しくても、寂しくても、そこに全力をかけるしかない。

中途半端ではない全面的な没頭と全面的な忘却こそが重要なのである。振り切るような動性が僕にとっては必要なのである。そのようにして僕自身をうまくコントロールし、できればコントロールしていることも忘れ、人間の世界とチーズの世界を渡り歩いていくのが僕にとっての最適解なのだろう。これはチーズが教えてくれたことではなく、僕自身が思いついたことだけれど、そう悪くないアイディアだと思う。

※ この文章を書くのに一週間くらいかかったけれど、そのうちにチーズは退院して、結構元気になった。二度とないと思っていたけれど、楽しくおしゃべりしてくれたり、高いところに登ってみせたり、自力でご飯を食べてみせたりしてくれている。いつまでこれが続くかはわからないから毎日が心配だけど、とても嬉しい。

チーズから学んだこと」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 動性 - 対話の哲学

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