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なんのために

1 はじめに

先日、英語の勉強をしようかと思い立って(結局してないけれど)、TEDの動画を何本か見た。(結局、日本語字幕で・・・)

そのうち、2つの動画※が、『WHY』の重要性を強調していたのが心に残った。どうもビジネス書界隈では『WHY』が熱いらしい。(少し前の動画なのでもう古いのかな。)

※2本の動画は、次のとおり

『優れたリーダーはどうやって行動を促すか』サイモン・シネック

『適切な目標が成功の秘訣である理由』ジョン・ドーア

観てから読んでいただけると嬉しいけれど、観ない方のために2つの動画を最大公約数的に(1つ目の動画を中心に)僕なりの解釈でまとめると、次のような感じになる。

(自分自身も含めて)人を動かすには、『WHAT』や『HOW』も重要だけど、何より『WHY』が重要だ。アップルが成功したのは、優秀なスマホを提供する(WHAT)、操作のしやすさという点で優秀である(HOW)といったことよりも先に、世界を変えるという信念で製品を作っている(WHY)ということを訴えていたからだ。このように『WHY』という目的(目標)の設定が最重要なのだ。

いい話だった。だからこそ、こうして文章まで書いている。けど、率直に言って、最初はどこか腑に落ちなかった。少し考えてみて、この違和感が何に由来するのかが、わかった気がするので、この気づきをここに書き留めておきたい。

2 目的と理由の混同

僕の違和感は、なんで『WHY』なんだろう、というものだった。僕の英語の知識だと『why』を直訳すると「なぜ」で理由なのに、目的(目標)という面だけが強調されることに違和感があったのだ。

『why』を辞書で引くと「(疑問副詞) なぜ、どうして、どういう理由で、なんのために、…との(理由)、…する理由」(weblio辞書)とある。つまり『why』とは理由を問うものだ。だが、よく見てみると、「なんのために」という説明が含まれている。これだけは理由ではなく目的を問うものだ。つまり、『why』とは基本的には理由を問うもので、場合によっては目的を問うものだということになる。

TEDでは、目的(目標)設定の重要性を示すキーワードとして『WHY』が用いられていた。だけど、英語が上手でない僕は、それを自動的に「なぜ」と訳して聞いていた。字幕もしばしば、『why』を「なぜ」と訳していたし、発表者さえも理由と目的をやや混同しているように感じた。

つまり僕が感じた違和感をもう少し明確に表現すると、目的と理由が混同されることへの違和感であったとも言えるのだろう。

3 目的と理由の違い

目的と理由は似ているようで全く違う。そこにある違いを捉えなければ、TEDの動画が本当に伝えたかったことを捉えることができないとさえ思う。

その違いを簡単に示すならば、目的は未来とつながり、理由は過去とつながっている、と表現できるだろう。「なぜ皿を割ったの?」「手が滑ったから。」というように、「なぜ?」という理由の問いに答えることと、過去に既に起こった出来事を示すことはつながっている。また、「なんのためにその皿を買うの?」「来週のホームパーティーで使うから。」というように、「なんのために?」という目的の問いに答えることと、未来に起こる(かもしれない)出来事を示すことはつながっている。

いや、違いはそこまで明確ではない、という反論があるかもしれない。「なぜ旅に出るの?」と未来につながる理由を問うこともあるし、「なんのために旅に出たの?」と過去の目的を問うこともあるからだ。

だが、そう感じるのは、時間の前後関係の捉え方をあいまいしているからに過ぎないだろう。例えば「なぜ旅に出るの?」という問いに対して「本当の自分を見つけたいから。」と答えるというやりとりがあったとしよう。ここで起きたものごとを時間軸で示すと次のようになる。

①本当の自分を見つけたいという気持ちが生じる

②旅に出ると決心する

③「なぜ旅に出るの?」「本当の自分を見つけたいから。」というやりとりをする

「なぜ」という理由の問いに答えるためには、②の時点よりも過去である①を持ち出さなければならない。そのように考えれば、この例でも理由の問いが過去とつながっているという関係性はきれいにあてはまる。

また、「なんのために旅に出たの?」という過去の目的の問いも同様に扱うことができるだろう。「なんのために旅に出たの?」「本当の自分を見つけるためだよ。」というやりとりを時系列で並べるなら次のようになる。

①旅に出る。

②本当の自分を見つける(または見つけられないことが確定する)

③「なんのために旅に出たの?」「本当の自分を見つけるためだよ。」というやりとりをする(③は①と②の間にくることもある)

この場合、「なんのために」という目的の問いに答えるためには、①の時点よりも未来である②を持ち出さなければならない。そのように考えれば、この例でも目的の問いが未来とつながっているという関係性はきれいにあてはまる。

少ない例しか示せていないけれど、目的は未来とつながり、理由は過去とつながっている、という関係性があると思ってもらえるとうれしい。

4 因果関係

 TEDの『WHY』には未来志向の目的と、過去志向の理由という二面性があるとして、なぜその違いが重要になるのか。つまり、アップルが魅力的なのは、アップルが目的(目標)を語っているからであって、決して、アップルが理由を語っているからではないのは、なぜなのか。

このことを考えるうえで、まずは、間違えそうな回答を消すところから始めることにしたい。注意したい誤回答とは、「アップルが魅力的なのは、そこに強い因果関係があるからだ。」というものだ。

因果関係は強力だ。水を熱すると蒸発する。殴られると痛い。便利な道具を手に入れると楽にものごとができる。この世界は、これらのような当たり前の因果関係に満ちていて、その因果関係を無意識に利用して僕たちは生きている。アップルは、そのような因果関係に満ちた世界のなかに、もうひとつ新たな因果関係を付け加えたのではないか。つまり、世界を変えるものとしてのアップル製品を使うことで世界が変わる、という因果関係をつくりあげたのである。もしこのような因果関係が成立するならば強力な力を持つ。だから、人を動かし、ビジネスを成功させるためには、この因果関係をいかに部下や消費者に信じさせ、共通認識とするかが重要になる。二つのTEDの動画は、このように解釈することもできると思う。

これは悪くない考えだから全否定はしない。だけど、因果関係という大雑把な捉え方は、先ほど考察した、未来志向の目的と、過去志向の理由という二面性を混同することにつながるという大きな欠点がある。

因果関係について、A(水を熱する、殴る)からB(蒸発する、痛い)が起きる、と模式化してみよう。この場合、熱するのは蒸発させるためだ、殴るのは痛くするためだ、というようにAの視点からBを目指すのが目的だと捉えることができる。一方で、蒸発するのは熱したからだ、痛いのは殴られたからだ、というようにBの視点からAを振り返るのが理由である。つまり、因果関係のなかには、目的と理由という二つの視点が交差するように含まれている。(もうひとつ、無視点的な捉え方もあり、それが中動態だと思うけれど、脱線になるので省略。)

つまりA→Bという目的、A←Bという理由、この両者を含むA⇔Bという因果関係がある。これらすべてを示す幅広い言葉として『WHY』があると考えれば、『WHY』という言葉が持つ便利さがわかるだろう。きっとTEDで『WHY』が力強いかたちで用いられていたのはこんなところに理由があるのだろう。言葉は曖昧なほど力を持つ。愛や生命といった複数の意味を持つ言葉がキーワードとなりがちなのはそのせいだ。

だから、決して『WHY』という因果関係的な捉え方が間違えている訳ではない。ただし、僕はここで、因果関係のなかに含まれる、目的と理由の違いについて考えたいと思っている。誤解なく明確なかたちで議論を進めるため、このような曖昧で及第点的な回答はあらかじめ排除しておきたいのだ。注目すべきは因果関係であるのは確かだが、そこに留まらず、そこに含まれる目的と理由というふたつのベクトルに着目し、注意深く考察する必要があるのだ。

5 信頼性

さて、では因果関係には未来志向の目的と、過去志向の理由という二面性があるとして、なぜ理由ではなくて目的が重要なのか。

具体例に基づき、落ち着いて考えてみれば答えは明らかだろう。アップルを例にして、この問いを表現し直すと次のようになる。

アップルが魅力的なのは、アップル製品は世界を変えるためのものだという、買うに値する目的(目標)を持っているからであって、世界が変わるからアップル製品を買うというような、買われる理由を持っているからではないのは、なぜなのか。

この問いの答えは、明らかだろう。アップル製品がそのような崇高な目標を持っていると信じる人だって、さすがに、世界が変わるということがアップル製品を買う理由になるとまでは信じていないからだ。目的に比べて理由は、より厳密な関係性を求めるものだ。それも容易に達成困難なほどの厳格性を求めるものだ。そんなものを信じるひとなどほとんどいないだろう。

世界が変わるからアップル製品を買うという理由的な主張が成立するためには、いくつかのことが成り立たなければならない。まず、アップル製品を買ったら世界が変わるということが確実である必要がある。また、アップル製品を買うことが世界を変えるためのかなり有力な手段である必要がある。少なくとも、そのとき取りうるいくつかの選択肢のうち最も優れた選択肢である必要があるだろう。もしアップル製品でも世界を変えられるけれど、グーグル製品のほうがより効率的に世界を変えられるとしたら、それはアップル製品を買う理由にはならない。それが理由であるならば、確実な最善手であることが求められる。

それに比べて、アップル製品は世界を変えるためのものだという目的(目標)的な主張はかなり控えめだ。アップル製品を買っても世界が変わるかどうかはわからない。確実に言えることは、せいぜいアップルの従業員がそのような気概を持って働いている可能性が高い、ということくらいだ。また仮にアップル製品に世界を変える力があったとしても、グーグル製品にはより大きな力があるかもしれない。そうだとしても、アップル製品が世界を変えるためのものであることには変わりはない。アップル製品が最善手である必要はない。このように目的(目標)は緩やかな関係性があればいい。

『WHY』という因果関係のなかでも、理由ではなく、目的(目標)が重要であるのはこの違いがあるからだ。こんなときに理由を持ち出す人は嘘つきであり信頼できないが、控えめに目的(目標)を示す人は信頼できるからなのだ。

6 目的と理由の違い2

 この違いは未来志向の目的と過去志向の理由という時間的関係を思い起こせばより明確に捉えることができるだろう。

 理由が厳密なのは、それが過去と結びついているからだ。過去の出来事は確定していて揺るぎない。だから因果関係の内実をじっくり観察し、何が最大の要因だったのか、といったことを考察することもできる。例えば、水を熱するにつれて蒸発する有様を観察し、そこに天使の力のようなものが入り込んでいないことを確認することができる。

 一方で、目的(目標)は不確定な未来と結びついているから、厳密さが求められない。アップル製品を買うことと、世界を変えることとが、なんとなく繋がっていそうだ、という感覚さえあればいい。未来のことだから、それを検証することまでは求められない。

 だが、理由は過去のことばかりではない。未来においても水を熱すれば蒸発する。未来においても、水を熱することは、水が蒸発する理由であり続ける。これは、過去の出来事から導かれた理由が拡張して未来でも適用されていると言ってよいだろう。理由が重要視されるのは、過去の一度限りの理由ではなく、それが法則性を持って、繰り返し、未来において適用されうるからだろう。

 一方で、目的(目標)は本質的に一度限りのものである。都度、異なる状況において、一度限りのものとして設定されるものだからこそ、目的(目標)には意義がある。営業部が前年度に売上1億円という目標を掲げ、それを達成したからといって、今年度に同じ目標を掲げれば自動的に達成されるということはない。そこに一度限りの努力や幸運といったものごとがつきまとっているからこそ、目標設定には価値があるのだ。

 つまり理由と目的の間には、過去とつながり反復性がある理由と、未来とつながり一度限りのものとしての目的(目標)という対比がある。このことに基づき、ここまで論じてきたことを見通しよくまとめることができるだろう。

『why』という英語が通常は目的を問う「なんのために」ではなくて理由を問う「なぜ」で訳されることが多いのは、理由が過去とつながり、反復性を有し、世界の法則性とつながっているからなのだろう。理由を問うことは生きるうえで極めて重要なことだ。だから人はまず「なぜ」を問う。

一方で、TEDが『WHY』として目的(目標)設定を強調するのは、それが未来と繋がる、一度限りのものだからだ。それは、理由とも呼ばれる世界の法則性からの自由、つまり人間が持つ自由意志とつながっていると言ってもいいだろう。目標設定とはつまり、人間が持つ自由意志の発露のことでもあるのだ。

 理由と目的という正反対のものを因果関係としてひとくくりに捉えてしまうことは単に不正確なだけでなく、両者が持つ力を相殺してしまうことになるだろう。理由には自由意志などといった夾雑物が入り込む余地はなく、目的(目標)には世界の法則性から離脱する力がある。

7 曖昧さの力

 さて、この考察はそもそもTEDの『WHY』が持つ力に関するものだった。『WHY』の目標設定は、それが自由意志と繋がるものだというだけでも、十分に人を鼓舞するものとなるだろう。アップル製品が売れたり、キング牧師の集会に多数の人が集まったりしたのは、それが人間の持つ自由意志に訴えるものだったからだ、という側面があるのは確かだろう。

 だが、もうひとつ目標設定には重要な力があると思う。それは、ここまでも触れてきた曖昧さに由来する力だ。過去とつながり、何度も検証されて厳密さを要求される理由と比べて、目的(目標)はまだ実現しない一度限りの不確かな未来とつながっている。今、アップル製品を買うことと、未来において世界が変わるという目標とは、正直言って、繋がっているかもしれないし、繋がっていないかもしれない。そもそも、世界が変わるという目標設定自体が曖昧であり、どうやったら、それを達成したことになるかさえ不明確だ。(※)だが、この曖昧さにこそ目的(目標)設定の最大の魅力があるように思うのだ。

(※だから目標設定を数値化することが重要になるけれど、それでも、どうやったらその目標にたどり着くかは無限の道筋があり、いくら数値化されても、数値化されなかった含意が残る。例えば、iPhoneが今まで10分かかっていた出張の計画を5分に短縮するという目標を掲げたとしても、それは、ある人にとってはパソコンを起動する時間の短縮によって実現されたり、ある人にとってはガラケーよりも使いやすい入力画面によって実現されたりするだろう。また、出張の計画時間という指標は、その場面に限定されず、iPhoneの使いやすさ全般を測る指標であるだろうという点で、数値化では汲みきれない含意が残る。)

 『WHY』が魅力的なものとなるためには、その関係者が目標設定に同意しなければならない。アップル製品の消費者が世界を変えるという目標に同意し、集会の聴衆は「I have a dream」というキング牧師の夢に同意し、ライト兄弟自身も含めた仲間が有人飛行をするという目標に同意しなければならない。 

この同意をとりつけるためには、それが幅広い人に受け入れられるものであったほうがいいだろう。それならば厳密な理由を持ち出すことは細部で見解の相違が生じうるという点で不利だ。もし彼らが理由を語っていたとすると、アップルはグーグル製品ではなく自社製品を買えば世界が変わることを検証する必要があるし、キング牧師は演説から夢の実現につながる具体的な道筋を明確化しなければならなくなる。このような方策はとらないほうがいい。

一方で、彼らが語っていたのが曖昧さの許容される目標であれば、アップルもキング牧師も、自らが語ることと輝かしい未来との間に、なんらかの関連性がありそうだということを示すことができさえすればいい。結局、アップル製品を買っても世界が変わらず、キング牧師に従っても人種問題が解決しなかったとしても、そのことでクレームを受けることはありえない。

未来は未確定であり、そこにそれぞれの人がそれぞれの夢を自由意志に基づき自由に描けるからこそ、もし、その夢を集約するような目標を設定できたなら、それは大きな力になる。多少曖昧であってもいいし、実現性が不確実であってもいい。それよりも、その目的が、人間性に立脚し、人間が持つ自由意志を尊重したものであることが重要なのだから。

同じことを別の側面から表現するならば、人間性に立脚した自由意志だけが、今ここでの選択と曖昧な将来の目標とをつなぎ、現在と未確定な未来をつなぐ唯一の紐帯なのかもしれない。

OSの更新作業

先日「哲学の存在意義は何?」という質問に対して、ふと「OSの更新作業なんじゃない。」という回答が浮かんだ。このことをきっかけに考えたことをこれから述べていきたい。(実際は「人文系の学問の存在意義は何?」「OSのデバッグ作業なんじゃない。」という会話だったけど、少しアレンジしている。)

このやりとり自体はありがちなものなので、これから述べることの概要も、哲学とはパソコンを動かすOSのようなもので、要は縁の下の力持ち的な意義がある、という、まあ、新味のないだろう話だ。だれど、その細部に多少はオリジナリティがあるようにも思うので、一応書き残しておくことにする。

パソコンやスマホが進化した現在、OSが持つ機能は幅広い。windowsにはソリティアやマインスイーパやペイントなど色々なソフトがプリインストールされているし、androidなら指紋認証して画面ロックを解除してくれたりもする。だけど僕がここで比喩として用いるOSとは、そんな派手な付加的な機能のことではなく、必要最低限の基礎的な固有機能といった意味合いのものだ。

OSと同様に哲学についても本来的で基礎的な固有の機能があるはずではないか。そのような常識的なアイディアを出発点として、この考察は始まる。

哲学の基礎的な機能について考える前に、哲学の派生的な機能が活用される場面としては、哲学書が名言集として読まれるような場合が典型例として思い浮かぶだろう。哲学書を名言集として読むことは、パソコンでソリティアをすることに似ている。いずれも、哲学やパソコンの導入としては悪くないけれど、その本来の力を十二分に発揮している状況ではない。あくまで派生的な利用形態にすぎず、哲学やOSそれ自体を十二分に捉えたものではない。ソリティアや名言集のように派生的ではない、本来の機能があるはずではないか。

ここまでは常識的に考えれば当然だろうけれど、本来的な機能の具体例を示すのは意外と難しい。

windowsには複数のウィンドウを立ち上げる機能がある。ウィンドウの大きさを変更したり、重ねて表示したりできる。これはandroidにはない機能なので、OSに必須の本来的な機能とまでは言えないだろう。ではデスクトップの文字の大きさを変更する機能は必須なのか。デフォルトの文字の大きさのまま使っている人も多いだろうから必須ではないだろう。では英語だけでなく日本語を表示する機能は必須なのか。英語仕様のパソコンを考えれば必須ではないだろう。では数字だけでなく英語を表示する機能は必須なのか。パソコンは2進数でうごいていることを考えれば必須ではないだろう。ではプリンタと接続できることは必須なのか。僕が子供の頃のパソコンは印刷なんてできなかったから必須ではないだろう。では画面に何かを表示できることは必須なのか。BEEP音だけしか出力がないパソコンだってありうるから必須ではないだろう。(楽しいので色々と例を挙げてしまったが)このように考えていくと明示的に取り出すことのできるすべての機能はOSに必須とまでは言えない。すべてがオプションであり付加的な機能に過ぎないということになってしまう。

同様に、哲学についても、OSと類比的なかたちで基礎的な機能を明示的に抽出しようとしても、その試みは失敗することになる。

哲学書には、名言集として使う以外にも色々な機能があるのは確かだろう。そのなかでも、最も基礎的な機能の有力候補はきっと、人類にとっての新たな真理を顕にする、というものだろう。だが、新たな真理なら、別に哲学に限らず、自然科学や歴史学などの別の分野であってもいいだろう。新たな真理は哲学の専売特許ではない。それでは、新たな「哲学的」真理と限定しようとしても、なにを哲学的とするかは恣意的にならざるを得ない。今のところ、哲学的真理とは、自然科学的でも歴史学的でもないというような消去法的な説明か、先人が哲学として扱っていたから、という程度の哲学史的な説明くらいしかできないだろう。このようにして、哲学に固有の基礎的な機能を明確化することは失敗すると僕は考えている。

多少の議論の漏れはあるかもしれないが、重要なのは、哲学を批評的に分析し、そこから何か固有の機能を取り出すことは不可能だということだ。仮にそこから何か特定の機能を明示的に取り出すことに成功したなら、それは哲学が本来持つ固有の機能とはかけ離れたものになってしまう。これは、パソコンのユーザーがOS上の個々の機能に着目しても、それはOS本来の機能そのものではないということと類比的だ。哲学書の読者が、哲学書を通じて新たな真理を知ったとしても、それは哲学書が本来有する固有の機能ではない。固有の機能という点にこだわるならば、パソコンのユーザーにとってOSは何の機能も有さないのと同様に、哲学は哲学書の読者にとって何の機能も有さないのだ。

ではOSや哲学には存在意義がないのかというと、そうではないだろう。そのように見えてしまうのは、きっと機能という捉え方が間違えていたからなのだろう。そもそも機能というのは、基本的にパソコンのユーザーや哲学書の読者の視点からの用語だ。

つまりユーザーや読者という受け手の目線から考えていたところに問題があったのだろう。OSの存在意義について考えるならば開発者の視点に立たねばならず、哲学の存在意義について考えるならば哲学書を書く哲学者の視点に立たねばならない。そうすると、透明だったものに色がついて浮かび上がってくるように、見えなかったものが見えてくる。

OSの開発者にとっては、文字を出力する機能も、プリンタを接続する機能も、複数の画面を表示する機能も、指紋認証をする機能も、ソリティアをする機能も、すべてがOSの機能である。なぜなら、それらはすべて、OSの開発者が作った機能だからだ。OSの開発者が作ったものはすべてOSである。同様に、哲学者が書いたものはすべて哲学書である。そのなかに心を打つ文学的表現が含まれていたり、思わず笑みを浮かべるような冗句が含まれていたりしても、それらはすべて哲学的な文章である。なぜなら、それらはすべて、哲学者が書いたものだからだ。(当然、OS開発者が休日に作った目玉焼きはOSではないし、哲学者が書いたラブレターはたいてい哲学書ではない。あくまでOS開発者がOS開発者としてつくったものだけがOSであり、哲学者が哲学者として書いたものだけが哲学である。)

OSも哲学も、ユーザーや読者の視点からは存在意義を捉えることはできず、彼らの視点からの存在意義は無である。その存在意義を捉えるためには作者の視点に立たねばならない。そして視点を切り替え、作者の視点に立ったなら、そのとき、すべてがOSであり、すべてが哲学となる。OSと哲学には、一方から見れば無であり、一方からはすべてという、一方通行的な不思議なあり方をしているという共通点がある。

 OS開発者も哲学者も孤独だ。なぜなら、彼らだけが、OSと哲学を見ることができているからだ。彼らだけは、OSや哲学なんて要らないと考えている人ばかりで構成されているこの世界を、実はOSや哲学が支えているということを知っている。

だが、彼らはその孤独に気づいても、孤独な作業を続けるという選択肢を選ぶほかはないだろう。なぜなら、OSを開発するからこそOS開発者であり、哲学をするからこそ哲学者なのだから。その成果は誰からも気づかれることがないにも関わらず。

 いや、僕たちユーザーでもOSの存在に気づくことはある。それはOSをアップデートするときだ。パソコンを使っていると、突然、再起動を促すメッセージがポップアップで表示されたりする。つまりOSの自己主張があるから、僕たちはOSの存在に気づくことができる。僕たちユーザーにとって、OSとは忌み嫌われるポップアップ表示と、そこから始まる面倒な更新作業のことなのだ。

 きっと、この点でもOSと哲学は似ている。哲学は余計なことばかり考えていて、ちっとも役立たない。もし哲学が影響を実生活に与える場面があるとしたら、きっとそれは、不穏な問いを提起する時だけだ。この世界は実は夢ではないか。さっきお前は5億年ボタンを押したかもしれないではないか。堕胎と殺人の違いはどこにあるのか。暴走するトロッコの路線を切り替えるのか。そんな言葉が面倒な警告メッセージとして表示されるときだけ、たいていの人たちは哲学の存在を認識する。

 そして更に、OSや哲学の更新作業を終え、メッセージが消えれば、何も変わることなく、ただ日常に戻っていくという側面でも両者は似ている。唯一違うのは、OSに比べて哲学の更新作業は格段に難しいという点だ。きっと、哲学は、OS開発者と同様に、意図的か意図的でないかはともかく、当たり前が機能する世界に戻ることを目指している。

だが、OSではそれが比較的簡単に成し遂げられるけれど、哲学ではまだこの更新作業が成功した試しがほとんどない。哲学は、実生活のお荷物となりながら、時にはフリーズもしながら、はてのない更新作業を続けている。

『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んで

0 はじめに

青山拓央さんの『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んだ。

この本は、ネタバレ的に青山さん自身がこの本の裏の意図を解説する第7章があるのだけど、この文章に書かれていることは、そこまで読み進む前に思いついたことだ。実際には、最後まで読んだあとで書いているので、第7章の影響も受けてはいる。けれど、第7章とは別に僕が考えたことだということはご承知いただきたい。

なぜそんな断りを入れるのかというと、この文章で書くことは、第7章で青山さんが言っていることとかなり似ていて、少し似ていないからだ。第7章を読まずにこの文章を読むならいいけれど、第7章をすでに読んだ方は、どこが僕のオリジナルの部分なのかがわからなくなるかもしれない。

僕は、この本を最初から順に読み進めたのだけど、終盤まで、正直、まあまあな本だな、という感じだった。ネタとしては興味深いものもあるけれど、ものすごく惹かれる訳でもなく、ただ軽く読めるエッセイという感じだった。どこか散漫な感じがしたのだ。

だけど6章も後半になってからは俄然盛り上がってきた。僕は高校生の頃「いかに生きるべきか。」という問題を考えていた時期があったのだけど、そのときの僕に読ませてあげたいと思った。

この文章を書いたのは、その盛り上がりを書き留めておきたかったからだ。この本に触発されて考えたことを残しておきたくなったからだ。

1 軽い選択

(1)日々の軽い選択

僕の高校生の頃の悩みは、一言で表すと「僕は、いかに生きるべきか。」という問題だった。だが、より正確には、「僕は、ある行動をとること(例えば、友達に話しかけること)は正しいことなのか。」と表現したほうがよかったのかもしれない。

僕が人生で進む道は二つに分かれている。ステーキをレアで焼くか、ウェルダンで焼くか、という青山さんの例のように。だがより典型的には、平叙文と否定文で対比したほうがいいだろう。高校生の頃の僕が友達に話しかけるか、それとも話しかけないか、肉食をすべきか、肉食をすべきでないか、というように。人は言語を用い否定形を使用できるからこそ、人生の至るところに分岐を見出すことができるのかもしれない。

では、そのようにして見出した二つの道をどのように選択するのか。青山さんはそこで、「軽い選択」というやり方を提案する。ステーキだと重い選択になるかもしれないので、納豆を例とするなら、僕は毎日、納豆にカラシを入れるかどうかを選択している。基本、僕は入れないほうが好きなのだけど、時々、なんとなくカラシを入れることもある。僕にとって納豆・カラシ問題は軽い選択だ。青山さんによれば人生はそんな軽い選択に満ちている。だから、幸福についてはあまり大上段に捉えず、軽く捉えたほうがいい、ということになる。

僕はこのことを、高校生の僕に伝えたいと思った。彼(つまり高校生の僕)が中年の僕からこの話を聞いてどう思うかはわからないけれど、(たぶんきちんと聞くはずがないけれど、)彼がこの話を聞いて肩の力が抜けるといいなあ、と夢想してしまった。

(2)重くて軽い選択

なお、青山さんは結婚や就職といった大きな選択は重い選択であり、納豆・カラシ問題とは別次元だとしている。それは常識的な捉え方だけど、多分正確ではないし、きっと青山さんの本当の考えとも違うだろう。

選択というものは、それがどんなものであっても、一回限りのもので、今ここで行われるという点で違いはない。それならば、軽重をつけることなどできないのではないだろうか。

納豆であっても結婚であっても、今、目の前にある唯一の選択肢であるという点では極めて重い。昨日食べた納豆と今日食べる納豆とは別のものであり、今日食べる納豆は唯一だという点では納豆についての選択であっても重い。一方で、どんな選択も、今ここで選択するしかないという点では極めて軽いとも言える。結婚のプロポーズは、長い恋愛の果てのゴールであって今後の長い結婚生活のスタートだとしても、プロポーズをするのは今ここでの一瞬の出来事であり、一瞬ごとに繰り返される選択のひとつとして埋没してしまう。それならば、そこにあるのは一瞬の軽い選択に過ぎないとも言えるに違いない。

哲学的には、人生における全ての選択は、唯一の極めて重い選択を今ここで軽く行うようなものなのだと言っていいのだろう。そこに別の意味付けをして、軽重をもたせているのは哲学とは関係がないものごとに過ぎない。

ここまで説明すれば、高校生の僕も少しは話に興味を持ってくれるかもしれない。

(3)非哲学的な含蓄

だけど中年の僕は、高校生の僕が興味を失いそうなこと、つまり非哲学的な説教話を付け加えたくなってしまう。

長年生きた実感として、結婚や就職といった重い選択こそ、軽く選んだほうがうまくいく。情報収集などの必要な準備は一通り行うことは当然だ。だが、そのうえで、何かを実行し、実際に選択するときには、肩の力を抜き、自然体でインスピレーションに任せたほうが、たいていうまくいく。人事を尽くして天命を待つとはそういうことなのだろう。最後の仕上げは軽く選び取ったほうがいい。

そんなことも含めて、青山さんの「軽い選択」という言葉には含蓄がある。

2 物語の対比

(1)ウッダートの立体構造的議論

青山さんは、クリストファー・ウッダートの「枚挙的質問」と「説明的質問」の区別と、それらを組み合わせた立体構造的な議論を紹介する。これは、「何」を問題とする「枚挙的質問」と「なぜ」を問題とする「説明的質問」とを組み合わせ、「○○は△△だから幸福の構成要素である。」というかたちで幸福についての諸説を対比するというアイディアだと言っていいだろう。例えば「快楽の体験は主観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」「金持ちであることは客観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」というように。つまり、ウッダードの議論においては、何の問題となぜの問題の二つの対立軸があることになり、重層的だから立体構造的な議論と呼ばれることになる。

このような分析の仕方が完全に正しいかどうかはともかく、少なくとも、幸福について、単に「快楽」や「欲求充足」と単語で答えるやり方よりは正解に近づいているのは確かだと思う。幸福の問題とは、きっと、幸福の正体は欲求充足か否かといった二者択一のかたちで論ずることでは捉えきれない。それよりはウッダードのように立体構造的に捉えるほうが実情には近いに違いない。つまり、「幸福において欲求充足が重要ではあるが、それは主観的な理由による。」という主張Aに対して、「いやいや、欲求充足が重要なのは同意するが、それは客観的な理由による。」という主張Bがあり、更には、「客観的な理由が重要なのは確かだが、そもそも、欲求充足ではなく、幸福の客観的リストに合致するかどうかが重要である。」という主張Cが登場する、というような重層的な議論である。

(2)噛み合わない比較

僕の言葉で表現するならば、ウッダードの議論の要点は、幸福についての諸説間の論争は「議論が噛み合っていない」というところにあるのだと思う。幸福の正体は何かという議論はどこか、「僕は、奥さんと納豆のどちらをより好きか。」という問題設定と似たズレがある。僕が奥さんのことを人間として好きだというときの「好き」と、僕が納豆のことを食品として好きだというときの「好き」とは、全く別の「好き」であり、それを比較すること自体がおかしい。同様に、幸福とは快楽である、いやいや客観的な良さである、といったような幸福についての議論には同じようなすれ違いがあるように感じる。セックスのときの性的快楽と健康という全く別なものを無理やり比較するように。

一方で、奥さん・納豆問題と幸福の問題とは、完全にずれている訳ではないという点でも似ている。たしかに僕は、奥さんと納豆のどちらを一般論として好きか、などといった馬鹿げた問題に答える必要はないけれど、納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうになったらどちらかを選択しなければならない。(きっと愛情に基づき奥さんを助けるはずだ。)また、何日も食事にありつけず空腹で死にそうなときに納豆と奥さんが現れたらどちらに駆け寄るかを選択しなければならない。(きっと食欲に基づき納豆に駆け寄るはずだ。)場面によっては、都度、奥さんと納豆を対等に並べ、食欲や愛情といった理由をつけて一度限りの選択をしなければならない。幸福の問題においても同様に、人生の個別の場面においては、健康と快楽のような全く異なるものを並べて、主観的な理由から快楽を選んだり、客観的な理由から客観的な良さとしての健康を選んだり、といったように、噛み合わない比較をして何かを選び取らなければならない。

(3)物語の対比

このような対比の仕方を、僕は「物語の対比」と命名したい。

これに対応するのは「単語の対比」とでも言うべき視点である。僕が奥さんを好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「人間(愛情)」というひとつの視点である。僕が納豆を好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「食品(食欲)」というひとつの視点である。快楽を感じるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「快楽」というひとつの視点であり、健康のような客観的な良さがあるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「客観的リスト」というひとつの視点である。これらの視点は、「人間(愛情)」「食品(食欲)」「快楽」「客観的リスト」というひとつの単語で表現することができ、そこにあるのはその単語のなかでの肯定と否定との対立である。忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えて奥さんへの愛情が薄れて好きでなくなったり、一緒に旅行して愛情を再確認して好きになったり、というように「愛情」という単語のなかで僕の好きは揺れ動くことになる。または食べすぎて納豆に飽きたり、キムチの素を納豆にかけると美味しいことを知って納豆を好きになったり、というように「食欲」という単語のなかで僕の好きは揺れ動く。

だが、異種格闘技戦のように、奥さんと納豆を無理やり比較するならば、そこでの比較は「愛情」や「食欲」といったひとつの単語では収まらない。少なくとも「奥さんへの愛情」対「納豆への食欲」といったように複数の単語を用いる必要があり、更に正確を期すならば「忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えていたけれど、一緒に旅行して再確認した奥さんへの愛情」と「食べすぎて納豆には飽き気味だったけどキムチの素をかけることで再確認した納豆への食欲」とを対比するのでなければならない。これが、僕が「物語の対比」と命名したことの意味である。

幸福についての快楽説も、欲求充足説も、客観的リスト説も、それぞれのドメインのなかでの対比、つまり単語の内部での対比である限り全く問題は生じない。快楽が生じないよりや快楽が生じたほうが幸福だし、欲求が充足しないよりは充足したほうがが幸福だ。だが、それがそれぞれの説の内部での比較から離れ、快楽説vs欲求充足説というように比較されるようになった途端、そこでの対比は「単語の対比」から「物語の対比」に移行する。つまり「脳内物質が生み出す快楽」という物語と、「欲求が充足されることによる社会の平穏」の物語といったような、噛み合わない複数の物語の間での無理やりの対比である。

3 共振

僕は「物語の対比」が無理やりの噛み合わない比較であり問題だ、と言っているのではない。そのような対比こそが重要だとさえ言いたい。

本来一緒に論ずるべきでないものが、なぜか一緒に論じられるという不思議は、青山さんが「共振」としているものに近い。

青山さんは、快楽、欲求の充足、客観的な人生のよさ、といったものは、しばしば、人生のなかで共振するように同時に満たされるものであり、それが幸福に何らかのかたちで関わっているとする。海で溺れる人を見つけて無我夢中で海に飛び込み首尾よく助けたとき、その人は客観的に善いことになるし、人を助けたいという欲求は充足できるし、ある種の快楽も感じているに違いない。これが共振である。そんなドラマチックな場面には遭遇しない僕であっても、仕事をしたり、家事をしたりといった日常の場面を思い起こすだけで、この共振説には正しさが含まれていると感じる。

同様に、僕が、奥さんと納豆を比較するとき、奥さんと納豆は共振しているとも言えるのではないか。納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうなとき、空腹な僕の前に奥さんと納豆が同時に現れたとき、奥さんと納豆は共振している。更に僕自身を付け加えるなら、僕と奥さんと納豆はひとつの場で出会い、そこで共振しているのだ。

なぜそれを共振と呼ぶのかと言えば、そこには、同じ時に同じ場所で出会っているという偶然があり、あえて言い換えるならば奇跡が介在しているからだ。今ここで世界と出会うという人生のあり方は奇跡である。

この奇跡と同じ種類のことが起きているからこそ、青山さんの共振が生じるのではないか。なぜか人は、人助けのような客観的に善いことをしたいという欲求を持ち、それが充足されると快楽を感じるというようなあり方をしている。人助けという一場面において、快楽と欲求の充足と客観的な善さが同じ時に同じ場所で重なり合っているということは奇跡的なことである。

幸福の共振の奇跡と、人生の出会いの奇跡は同時性、同場所性という奇跡を伴っているという点でつながっている。青山さんが人生の場面ごとの絵と表現したように人生のなかには無数の全く独立した今がある。ここでの奇跡とは、それらを束ね、ひとつながりの人生として捉えるという奇跡である。そして(永井的な意味で)全く自分とは異なるものである他者を自分と同じ人間として捉えて、自分と他者とを世界という同じ場所のなかに位置づけるという奇跡でもある。そのような奇跡が共振を生み、共振こそが幸福を生んでいるのかもしれない。

青山さんは絵に例えたけれど、僕ならばそれを物語と呼ぶのだろう。奥さんの物語と納豆の物語が出会うという奇跡は、言い換えるならば、それらが僕の人生というひとつの物語のなかに描かれるという奇跡であり、僕が生きているという奇跡である。それは時間や世界といった説明のつかないものがなぜか構成されているという奇跡だと言ってもいい。

このように時間・世界のあり方と幸福とを関係付けると、僕が述べていることと、青山さんが第7章で書いていることとはかなり接近していくように思う。

4 恋愛のようなもの

だけど、このような論じ方は、青山さんの師匠である永井均さんならば、つまらないと一刀両断するのではないだろうか。このようにして見いだされた幸福は劣化版の幸福であり、いわば堕落への道である。今ここの私、実は私とすら呼べないような私こそが全ての一丁目一番地であり、これを手放すということは、一見何も手放していないように見えて、実は全てを手放してしまったということである。

青山さんもそのことは気づいている。だから、実質的な最終章である第6章の最後において、それまで描いてきた幸福とは全く異質な「恋愛のようなもの」という幸福が描かれている。これはつまり刹那的な恋のような幸せの姿である。過去や未来の自分など顧みず、他者や世界のことなど意に介さない、ひたすら今ここの私の情熱だけに支配された状況である。それは幸せというより、それしかない必然といったほうがぴったりくるのかもしれない。ただ僕は恋に堕ちるしかない。そのような幸福が確かにある。

だから「恋愛のようなもの」とは刹那的で、その言葉のなかには、若気の至りのような破壊的な薫りがある。だけど刹那とは、実は、仏教用語でもあり、「恋愛のようなもの」はマインドフルネスにもつながる。今ここの刹那だけを捉えようとすることではマインドフルネスも一夜の恋と似ている。このように描写される幸福とは、一夜の燃えるような恋愛のようでもあり、マインドフルネスや瞑想のようでもある。

第7章を読むまで気づかなかったが、青山さんは、幸福を共振というかたちで捉える方向で論ずる一方で、この別種の幸福を通奏低音のように本全体に潜り込ませていたようだ。つまりこれは、快楽・欲求の充足・客観的な良さの共振とは別のかたちではあるが、メインルートで描かれた幸福と、恋愛のようなものであるもうひとつの幸福という二つの幸福の間の共振のようなものがあるということを描こうとしていたのではないかとも思う。つまり、全く異なる二つの幸福がなぜか不思議と絡み合うという奇跡を通じて、幸福が創造されているということを言いたかったのかもしれない。青山さんがそのように考えているかはわからないけれど、僕はそれに同意したい気もする。

5 さいごに

ここまでの僕の読解と、そこから進めた独自の考察の詳細が正しいかどうかはわからない。だけど今の僕には、どうも、幸福というものは、すでにあるものを見出すような類のものではなく、全く異なるものが出会うという奇跡を通じて創造されるものではないか、という予感がある。これは、この本を読んだ収穫だと思う。

そう考えると、この本全体の散漫さは、意図的なものだったのかもしれない。いくつかの話が一見関係なく撒かれたうえで、最後に一気にひとつにまとまり、伏線を回収していくようなつくりをしていたということだ。そのようにすることで、異種なるものの出会いという奇跡を体現していたのかもしれない。

僕はあえて一度しか読まずにこの文章を書いているけれど、この本はきっと二度読むべき本なのだろう。

株と数

1 はじめに

多分、哲学において「数」をどのように扱うかは大問題だ。たしか、ウィトゲンシュタインは数を操作の回数とみなしていたと思う。多分哲学史的には他にも色々なアイディアがあるのだろう。だけど僕はあまり興味がなかったので、なんとなく数とは言葉の一種だという程度に考えていた。

だけど、数日前、ふと、数と言葉の違いについて思いついたことがあるので、ここにメモとして残しておく。

2 株式投資

これは株式投資をきっかけに気づいたことなので、まずは僕にとって投資とはどのようなものなのかについて、少し触れておこう。

僕は哲学のほかにも色々と好きなものがあるのだけど、そのひとつが投資だ。他の趣味に比べれば必要だからやっているという側面が強いけれど、投資はゲーム性があって結構楽しい。

投資には大きく3つのスタイルがある。デイトレードと言われるような一日で完結する売買を行う短期タイプ。数日から数ヶ月、2、3年といった期間を見据えて売買を行う中期タイプ。そして数年から数十年間、同じ株を持ち続けるような長期タイプだ。期間が短くなるにつれて負担が大きくなるので、仕事や哲学で忙しい僕はもっぱら長期タイプだった。

だけどふと、もう少し短期で投資をしてみようと思い立った。僕はいわゆるアラフィフなのだけど、僕がいつまで働かなければならないかは投資の成果次第だということに気づいた。僕は仕事が嫌いではないけれど、人生の残り時間を考えると、仕事よりも哲学をする時間を確保したい。それならばもう少し頑張って投資してみてもいいのではないか。そんな焦りにも似た気持ちがあったのだ。

焦りから始める投資はたいていうまくいかない。だけど、失敗してもいいからとにかく一回やってみないと焦りを消すことはできない。成功すれば儲けものだし、失敗しても心の平穏を回復できる。そんな気持ちで僕はアメリカの株を少し買ってみることにした。

あえて値動きが激しそうな銘柄を買ったから、1日で1割ぐらいは平気で上限する。となると当然株価が気になる。なんとなく一日中ソワソワした気持ちになる。だって1日の値動き幅は、今日一日の労働分くらいあるのだから気になるのは仕方ないだろう。僕はパチンコとかはやらないけれど、こんな感じなのかな、と思う。

僕が「数」というものについて考えをめぐらした背景には投資にまつわるこんな事情がある。

3 数による幸せの表現

つまり僕が考えた「数」とは刻一刻と動く株価のことだ。

僕がその数字が気になり一喜一憂するのは、その数が幸せとでも呼ぶべきものを象徴しているように感じているからなのではないか、と気づいた。

株価以外の数でもいいだろう。時事ネタ的には、コロナの感染者数でもいいだろう。毎日変動する新規感染者数の数は、この国がどのくらい幸福で、どのくらい不幸かを指し示している。

当然、僕の幸せは株価だけでは測れないし、日本の幸せはコロナだけでは測れない。だけど、その数が幸せのある側面を捉えていることは確かだと思う。

4 言葉による幸せの表現

なお、幸せの表し方は他にもある。それは言葉を使ったやり方だ。例えば、「大坂なおみが全豪オープンで優勝した。」という言葉はある幸せを描写しているだろう。僕ならば「スリランカを旅行した。」という例文がいいかもしれない。

数を使って表された幸せと言葉を使って表された幸せはどこか違う。

例えば僕がアップル株を持っていたとしたら、(2021.3.9現在)116ドルであった数字が、120、130・・・と変動していくことで(金銭的な)幸せを表現することができる。逆に116という数字を110、100、90・・・と変動していくことで不幸を表現することができる。つまり数で表現された幸せは、不幸も幸せも程度問題である。

一方で、「スリランカを旅行した。」という言葉で表現された幸せは、旅行に行くか行かないかの二択であり、程度問題は生じない。その中間に熱海旅行がある、というようなことはない。

念のためだけど、これは幸せの種類の問題ではない。株価上昇の幸せは金銭という低俗な幸せであり、旅行は精神的で高尚な幸せだ、というようなことではない。例えば僕の幸せには「がんになってから5年間再発しなかった。」というものがある。この幸せは明らかに数で表されるもので、1、2、3、4と年数が増えていくごとに、幸せも徐々に増加していくような類のものだ。この幸せは数で表すことはできるけれど、それほど低俗ではないと言えるだろう。一方で、もうひとつの僕の幸せである「(結婚している)僕が、きれいな女性にホテルに行こうと誘われる。」という願望の描写は、言葉で表現されるものではあるが、かなり低俗であるに違いない。

つまり、どちらが高尚でどちらが低俗か、といった問題とは別に、幸せの描写の仕方には、程度問題として数による表現と、幸・不幸の二者択一的な言葉による表現との二通りがあるのだ。

5 両者の比較

僕自身の数による幸せの表現の二つの例、つまり株価とがんの手術後の経過期間を思い起こすと、どうも、そのような数による表現に囚われているときはどこか余裕がなくて幸せではなかったような気がする。

毎日、株価の変動を見て一喜一憂していると、ほかのことを考え、感じる余裕がなくなる。がんの術後5年経過したことに気づいたときは、嬉しさとともに、再発の可能性も僕の心を大きな場所を占め、がんのこと以外を考えられなくなった。

一方で、「スリランカを旅行した。」という幸せな言葉は、僕に、幸せな思い出以外の何も呼び起こさない。幸せな言葉は、ただ幸せな気分を運んでくるだけで、それ以外の何者も連れてこない。(もし「友人をひどい言葉で傷つけてしまった。」というような不幸な言葉であれば、僕の心は後悔でいっぱいになり、他のことを考える余裕が奪われるかもしれない。だけど、幸せな言葉であれば、そのような問題は生じない。)

また、数字を抜きにして、「株価が上昇して儲かっている」や「がんが長期間再発していない」という言葉による表現に留まるのであれば、その裏にある数字に思い至らない限り、僕の心の余裕が奪われることはない。

そのように考えると、言葉による表現に比べ、幸せを数値で表現することは、あまり得策ではないようだ。

6 数の精緻さ

数による表現にこのような特徴があるのは、言葉による表現に比べて数による表現には精緻さがあるからなのだろう。

ただし言葉でもこのような精緻さを求めることはできる。例えば、同じスリランカ旅行であっても、ヘリタンス・カンダラマ(という立派なホテル)に泊まる旅行と、その近くの中級ホテルに泊まる旅行とではどっちがいいか、などと精緻に比較することはできる。そのように精緻に比較し、スリランカ旅行の幸せの主要素はヘリタンス・カンダラマに泊まったことにあったのだ、だけどヘリタンス・カンダラマのなかでも普通の部屋に泊まるよりもスイートルームに泊まったほうが幸せだったはずだ、などと精緻に分析することは可能である。

だが、そのような作業をすることは端的に言ってつまらない。幸せが台無しになった気分さえするだろう。もしこのような作業に没頭する人がいるとしたら、その人の心は、幸せではない何かで占められ、余裕がない状況になっているに違いない。

これは数字による幸せの表現と同じことである。アップルの株価が150円になることは、149円よりもよいが151円になるよりも悪い、などと比較して考えているのと同じことである。

つまり、言葉による表現であっても、数による表現であっても、それが精緻なものとなったときに、幸せと相性が悪くなるということだ。

ただ、数による表現とは、そもそもこのような精緻な比較を行うもの出あらざるを得ないから、根源的に幸せの描写に向かないということなのだろう。

7 視点の固定

ここまで幸せを言葉や数で比較することができるという前提で議論を進めてきたが、そもそも幸せを比較するというアイディアには日常の実感に基づく有力な反論がある。

その反論とは、高級ホテルに泊まったか泊まらなかったかで、旅行全体のありようが変わってしまうのだから、高級ホテルに泊まった場合の幸せと泊まらなかった場合の幸せとをきれいに比較することなどできない、というものだ。シギリアという街で高級ホテルに泊まったことで、次にキャンディという街で泊まったホテルが褪せて見えてしまうかもしれない。そのような影響があるのだから、全体のある部分のみを取り出して比較することなどできない。

また、アップル株で100万円儲かった場合と、1億円儲かった場合とではお金の意味が変わることもありうる。100万円ならばただ嬉しいだけだが、1億円を得ることで労働を通じた達成感を得られなくなってしまうかもしれない。1億円には100万円の100倍という数字上の意味以上のものがありうる。だからそれらを単純に比較することなどできない。

これらはいずれも、比較を可能にする固定的な視点を持つことなどできない、という反論だと言えるだろう。スリランカ旅行を構成する他の要素を固定した視点に立ち、高級ホテルに泊まった場合と泊まらなかった場合を比較することはできないし、人生の他の要素を固定したうえで株での利益だけを操作して比較することはできない。

僕はこの批判はもっともだと思う。だが、数による表現は、このような批判を無化してしまうだろう。なぜなら数が行っているのは単なる比較ではなく、精緻な比較だからだ。数が表現しているのは株価が150ドルから151ドルになるという微妙な値動きであり、そのようなわずかな株価な違いが人生の他の部分に影響を与えることなどない。150ドルなら仕事への影響はないが、151ドルになったとたんに仕事のやる気を失うなんていうことはないだろう。さきほど100万円と1億円で大きな違いがあるように見えたのは、大きく数を変えすぎたからなのだ。数を丁寧に用いるならば、他の部分は変えず、ただ数だけを操作し、比較することが可能になる。これが数というものの力なのではないか。つまり、数が精緻な比較を行うことができるということは、つまり、数には数以外の要素を固定する力があるということなのだ。

8 砂山のパラドクス

僕が行ったような議論には砂山のパラドクスなどと呼ばれる伝統的な反論があるだろう。砂山から一粒ずつ砂を取り除いていっても、それが砂山であることは変わらない。だが、それをどこまでも続けていくと、最後には砂が一粒だけ残るだろう。それは砂山とは呼べない。いつ砂山は砂山でなくなったのだろう。というパラドクスだ。

アップルの株価が1ドルずつ値上がりした先には、いつか1億円の儲けがあるはずだ。そのとき、株価としての数字は、僕の人生を大きく変えるだろう。では、株価がいくらになったときに僕の人生は変わったのだろう。

多分、パラドクスと言われるだけあって、これには答えはないのだろう。

きっと、そもそも、幸せを数で比較するようにして把握しようとしたこと自体に問題があるのではないか。

アップル株が116ドルから200ドルになれば100万円儲かるぞ、と僕が期待しているとき、僕にとっての200ドルとは、単なる数字ではなく言葉なのだ。いわば、このときの200ドルとは、「200ドルに値上がりして100万円儲かればまた海外旅行に行けるぞ。」という言葉が紡いだ物語の一部としての200ドルに過ぎない。だから、そこには199ドルと比較した200ドルというような視点は介在のしようがない。

9 数字との幸せな付き合い方

以上の話は、幸せは比較できるものではない、という単純な話に行き着くだろう。

だから、精緻に比較するという特性を有している数字を幸せの表現においては用いるべきではない。お金は大切なもののはずなのに忌み嫌われがちだというのはこのあたりが原因なのだろう。きっと賢い人は、お金というのは、手元にあり、かつ、そこに目を向けないことでようやく幸せになるものだということを知っており、そのような態度を身につけているのだろう。

僕はそこまで至ってないから、せめて株式投資をするにあたっては、どのような運用方針とするかを決めたら、あまり株価はチェックしすぎないようにしようと思う。

10 言葉が持つ反実仮想の力

どうも幸せを数で表現することはまずいということがわかったが、言葉で表現することは問題ないのだろうか。

残念ながら、言葉には反実仮想を立ち上げる力がある。つまり、「スリランカを旅行する。」という言葉には、「スリランカを旅行しない。」を立ち上げる力がある。

その両者を比較できるからこそ、「スリランカを旅行しない。」よりも「スリランカを旅行する。」のほうが幸せだということがわかることになる。更には、言葉による描写を詳細にし、「スリランカを旅行して、シギリアでヘリタンス・カンダラマに泊まる。」と表現することで、「スリランカを旅行して、シギリアでヘリタンス・カンダラマに泊まらない。」を立ち上げることもできる。だから、両者を比較してヘリタンス・カンダラマに泊まったほうが幸せだと言えることとなる。

だがこれは、明らかに、これまで避けようとしてきた、比較による幸せの把握の道だろう。言葉により精緻に描写するという道筋も、明らかに幸福と反りが合わない。

11 マインドフルネス

だが、どうすればいいのだろう。スリランカ旅行という幸せな思い出にアクセスするためには、スリランカ旅行という言葉を用いる必要があるのは明らかだろう。また、タイ旅行という幸せになるだろう将来計画を立てる際にも、タイ旅行という言葉を用いる必要があるに違いない。幸せを見出すためには幸せにつながる言葉を用いざるを得ない。

多分、幸せにアクセスする言葉を使いつつも幸せになるためには、反実仮想を立ち上げずに、言葉をただ表現されたものとして扱うという特殊な技術が必要となるのだろう。僕の予想だと、その技能とは、マインドフルネスと呼ばれるものであるはずだ。表現された言葉をただ表現されたものとして扱う。そのような道筋にしか言葉を通じた幸せはないように思う。

なお、マインドフルネスまで持ち出すならば、数を通じた幸せも可能となるのではないだろうか。116ドルから117ドルへの値動きをただマインドフルに受け止める。そうすれば、一日中株価ばかり見ていても幸せになることはできるに違いない。きっとデイトレーダーに向いているのはそのような人であるのだろう。

当然僕はそこまで鍛えられていないから、僕の投資は、何十年の長期投資と数年の中期投資を組み合わせるくらいに留めておきたい。それとも、マインドフルネスのトレーングのためには、もう少しがっつりやったほうがいいのかな。

ヒュームとデカルトとライプニッツ 哲学的議論の限界と哲学的議論における時間

0 はじめに

哲学オンラインセミナーというところがやっている「澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義:総合的解釈の試み』合評会」(https://www.philosophyonline.net/archive2021)というオンラインイベントを視聴した。まだ本を読んでいないなか、なんとなく視聴したのだけど、色々と考えさせられたのでメモに残しておくことにする。

本来はきちんと本を読んでから書いたほうがいいのだろうけれど、今ここで思いついたことを残しておきたいので、不正確だとはおもうけれど、あえて今書いておくことにする。

この合評会は、ヒューム研究者である澤田和範さんの本を、デカルト研究者である筒井一穂さんとライプニッツ研究者である三浦隼暉さんが論じるというものだった。だからこの文章も、ヒュームとデカルトとライプニッツという近代の有名な哲学者3人についてのものとなる。さすがに僕もなんとなくは彼らのことは知っていたけれど、その程度なので、きっと哲学史的には誤りだらけの文章となるだろう。

1 哲学的議論の外側と内側

ヒュームは懐疑主義者として有名だが、自然主義者として読むこともできるというのが最近の有力な読み方だそうだ。そのうえで、澤田さんは懐疑主義と自然主義の双方の観点から従来のヒューム解釈を深化させることにより、両者を接続することができると提案する。

そこで重要となるのは、ベタ(一階)とメタ(二階)という議論の区分だ。非常にざっくりと言うと、ヒュームはメタ的な議論では懐疑主義を用いて、ベタ的な議論の場では自然主義を用いるという使い分けをしている。僕はそれを、僕自身の用語である外側と内側というキーワードを思い浮かべながら聞いていた。ヒュームは哲学の外側の視点に立ったときには懐疑主義により哲学的議論の意義を否定するけれど、内側の視点に立ったときには自然主義的な立場から議論を行うことの意義を認めている、というように。

2 哲学的議論の内側から外側に突き抜けるということ

(1)ヒュームの場合

では、どのようにしたら哲学的議論の内側から外側に突き抜けるなどといったことができるのだろうか。ヒュームによればそれは懐疑論による、ということになるのだろう。

なお、懐疑論となると、今回の主役のひとりである方法的懐疑で有名なデカルトが登場することになる。だが澤田さんによれば、ヒュームとデカルトではその懐疑の種類が異なる。その違いは色々とあるようだが僕が着目したのは、デカルトの懐疑は「悪霊が騙しているのかもしれない」というような根拠がないものであるのに対して、ヒュームの懐疑には根拠があるという点だ。

澤田さんから具体例は示されなかったけれど、僕は、ヒュームの懐疑について「渋谷のスクランブル交差点でライオンを見かける」という例を思い浮かべた。このとき、僕の知識は「渋谷にライオンなんているわけがない」と言う。一方で僕の視覚は「確かにライオンがいる」と僕に訴えている。この二つの主張は対立していて矛盾だ。ヒュームはこのような問題を踏まえ、人間本性(僕の解釈では知性)には限界があると考えた。人間本性(知性)ではこの対立関係を解消できないのだ。澤田さんのヒュームによれば、人間本性(知性)はその判断のプロセスを論理的に明らかにすることはできず、いわば自動化されているのだ。(それをモジュール論と言っていたけれど、ブラックボックスと言ってもいいのだろうか。)

ヒュームは、このような実例を踏まえた人間本性(知性)に対する懐疑をもってメタ的な視点に移行する。つまり、この知性に対する懐疑を哲学の営み自体に適用し、哲学という営みを外側から眺め、哲学の営み自体を懐疑するという視点に立つ。

以上が、僕が理解したヒュームの内側から外側への移行だ。つまりヒュームは哲学を遂行する知性に対する具体的な根拠のある疑義に基づき、懐疑論という外側の視点に移行する。

(2)デカルトの場合

次にデカルトの場合はどうだろうか。

筒井さんのデカルトは、「神の視点からの懐疑」という問題を提起する。ここでの「神」という言葉は、そのまま「外部の視点」と置き換えてもいいだろう。外部の視点からは、三角形の内角の和は180度であるというような常識さえ否定される可能性が開ける。なぜならば幾何学のような通常の議論によっては議論の外部の視点に到達することはできないのだから。

唯一、神の視点からの懐疑というような懐疑論だけが視点を議論の内側から外側に移行することを可能にする。懐疑論を用いるという点はデカルトもヒュームと同じである。

だが興味深いことに、筒井さんによれば、デカルトは「規範的な独断論」とでも呼ぶべきものにより懐疑論を無化することに成功するのだ。デカルトはメタ的な外側の視点に立った議論を行ったうえで、非Aが成立するような有効な主張ができないことをもってAを疑えないとする規範を導入し、その規範をもって懐疑論を否定する。僕はこの「規範的な独断論」は懐疑論にとってかなりの有効打だと思う。Aを疑うためには非Aを主張しなければならないという議論には、何かしらの正しさが含まれているように思う。

だが僕は「規範的な独断論」が使われる場所に修正を加えたい。デカルトは、議論の外側に立ったうえで何かを否定しているのではなく、議論の外側に立つこと自体を拒否しているのではないだろうか。いわば、デカルトが行っていることは神の視点に立ったうえでの「神の視点からの懐疑」の否定ではなく、神の視点に立つこと自体の拒否なのではないだろうか。デカルトは、懐疑論を使って議論の内側から外側に視点を移そうとする人の首根っこを捕まえ、「おい、その懐疑は成立していないのだから、お前には外側の視点に立つ権利なんてないぞ。」と言っているのではないだろうか。

もしそうだとするならば、デカルトはどこまでも議論の内側に立ち続けるような議論を行っていたということになる。

(3)ライプニッツの場合

最後にライプニッツならばどうだろうか。

正直、話を聞くまでは、懐疑論のヒュームと独断論の権化のようなライプニッツでは異種格闘技すぎて戦いが成り立たないように思っていた。だけど、三浦さんの話を聞いて、そうでもなさそうだと感じた。

三浦さんの話で面白かったのは、ライプニッツには二つの循環があるという話だ。循環のひとつめが、ヒュームに寄せるならば、仮説演繹法を一例とするような自然主義的循環である。仮説は実験により検証され、実験をもとに仮説が打ち出される、というように仮説と実験との間を行き来する動的な円環として描くことができるような循環である。もうひとつが、その自然主義的円環を拡張するようにして描くことができる形而上学的循環である。当然ライプニッツなのだから、ここでの形而上学としてはモナドなどが想定されている。

まず重要だと思ったのは、ライプニッツの形而上学は単なる無根拠な独断ではないということだ。あくまでライプニッツは自然主義的循環を拡張するようにして形而上学的循環を描こうとしている。その根底には自然主義的な正しさがあるのでなければいけない。

更に重要だと思った点は、この循環は動的なものである、という点である。自然主義的循環においては間違った仮説は実験により淘汰されるように、形而上学的循環も誤りがあれば見直されなければならないのだ。ライプニッツによればその主張は見直される可能性が将来に開かれているという点で単なる独断ではなく、あくまで仮説に過ぎない。だから、形而上学的な議論は循環を繰り返す中で真理に漸近していくものであるということになる。そこまで考えるならば、ライプニッツと、哲学を将来に向けた「人間の学」と捉えるヒュームとの間に大きな違いはないように思えてくる。

更にライプニッツについて述べるならば、三浦さんは全く言っていないことだが、ライプニッツの循環の拡大は、形而上学的循環を超え、その循環を支える斉一性のような原理にも向かいさえするのではないか。このようなメタ形而上学を可能とする道具立て自体も動的な循環に巻き込まれ、メタ形而上学的循環とも呼ぶべき更に大きな循環にさらされることになるのではないか。つまり例えばこれは、斉一性は本当に形而上学において必要か、というような議論を行うことが可能だということであり、そのような議論を通じて、新たなメタ形而上学的な仮説を得ることもありうるということである。

そのようにライプニッツを考えていくと、ライプニッツには議論の外側のメタ的な視点はありえないということになるだろう。なぜなら、ライプニッツの道筋をとる場合、いつまでも哲学的議論の限界には行き着かないからだ。もし哲学的議論自体の正当性に疑問を呈するような懐疑があったとしても、その議論は懐疑論として打ち止めになるのではなく、自然主義的循環から形而上学的循環へ、形而上学的循環からメタ形而上学的循環へと拡張される議論の枠組みのなかで議論が成立できてしまう。だからライプニッツはどこまでも内部に留まって議論でき、いつまでも外部に突き抜けることはない。これはデカルトやヒュームとは別の議論の内外の処理の仕方だと言えるだろう。

(4)ヒュームの場合2

以上、僕からみると、ヒュームもデカルトもライプニッツも、三者三様のかたちで哲学の議論の内側と外側の問題を処理しているように思える。つまり、「その哲学的議論の外側の視点に立つならば、その議論の正当性をどのようにして確保するのか。」という問題に、3人ともがうまく答えているように思うのだ。デカルトとライプニッツは「外側の視点に立つことはできない。」と答え、ヒュームは「確かに外側の視点から見るとおかしいけど、内側から見るとおかしくないから大丈夫。」と答える。

どれも魅力的な答え方だけど、ヒュームの答え方は少々特殊だし、澤田さんによれば、もう少し付け加えることがありそうだ。

本をまだ読んでいないけれど、澤田さんがやりとげたヒュームの自然主義と懐疑主義の接続とは、単に、自然主義を議論の内側に割り振り、懐疑主義を議論の外側に割り振るようなものではなかったようだ。想像だけどそこには、自然主義と懐疑主義の循環とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

僕が、そこにいるはずのないライオンを渋谷のスクランブル交差点でみかけることにより、僕の命とともに僕の知性は懐疑に晒される。そこで行われていることは常識的な判断という意味での自然主義から、知的な混乱とでもいうべき懐疑主義への移行の第一歩である。さらに、その懐疑主義を徹底することにより、僕は、どうも知性は当てにならないから全ては疑わしいという懐疑主義に移行する。ここで僕は懐疑に晒された知性を見下ろし、その議論を疑わしいものと評価できるような外部の視点に立つこととなる。だがきっと僕はそのおかしさにすぐに気づくだろう。僕は外部の視点から、何に基づいて自らの知性をジャッジしているのだろうか、と。そして僕は疑わしい知性に基づき、疑わしい知性を見下ろし、何かを判断していることに気づく。だがもう一つ重要なこととして、そのようにやっていくしかないということに気づく。僕は不完全な知性を抱え、それだけを武器になんとかやっていかなければならないし、現になんとかやっているのだ。そこには現に僕はそのようにして生きているという常識的な捉え方があり、それをヒュームは自然主義と呼んでいるのではないか。(現にうまくやっているという観点を強調することでルイス・キャロルのパラドクスにも答えることができることになる。)

ここには明らかに常識的な日常生活と不完全な知性との間の循環がある。そして、ヒュームは前者に対する眼差しを自然主義と呼び、後者に対する眼差しを懐疑主義と呼んでいるのではないか。自然主義に対して懐疑主義が優勢になったとき、僕は渋谷でライオンに驚き、議論の外側の視点に移行する。そして懐疑主義に対して自然主義が優勢になったとき、僕は外側の視点さえも不完全な知性によって確保されていたことに気づき、議論の内側の視点に移行する。そのような動的な循環によって、ヒュームの議論は成立しているのだ。いわばヒュームは一瞬、議論の外側に突き抜け、そこ立つことは認めるけれど、そこに立ち続けることは認めないことで、なんとか議論の外側という視点を確保しているとも言えるだろう。(この一瞬性を別の言葉で表現すると、否定するのではなく判断を保留するピュロン主義的姿勢ということになるのだろう。つまり一瞬だから更なる議論を行うことは認めないということになる。)

3 議論領域

ここまで哲学的議論の内と外という問題を論じてきたけれど、内と外を分かつ境界線のことを、議論領域と言ってもいいだろう。

それならば、デカルトもライプニッツも議論のなかで議論領域の外に立つことはできないという当たり前のことを言っているにすぎず、ヒュームは議論領域の外に立ち続けることはできない、という少々野心的なことを言っているということになる。

そこだけ捉えるならば、実はあまり複雑なところはないのに、一見、問題が複雑なように見えるのは、哲学者により、その議論領域として設定する範囲に違いがあるからなのだろう。例えば今回の登場人物のなかでは、ライプニッツとデカルト・ヒュームの間には議論領域の捉え方に大きな違いがある。具体的には、いわゆる自然主義的な検証に晒されないという意味で形而上学的な領域をどの程度認めるかという点で大きな違いがある。だから、デカルト・ヒュームから見ると、ライプニッツはあたかも議論領域の外についての議論を行っているように見えてしまう。だが正確には、ライプニッツはただ自らの議論領域の内側の議論を行っているにすぎないのだ。だからこそモナドロジーを取り入れて従来の議論を見直すこともある。そのようにして形而上学的な議論は深化していくものなのだ。

なんとなく、英米の哲学と大陸の哲学の違いはこのあたりに由来しているように思う。だから議論領域という観点からのすれ違いは哲学史的に根深いものがあるように思える。(僕がヒュームとライプニッツの関係がわからなくなり、変な質問をしてしまったのもこのあたりが理由なのだと思う。)

4 哲学的議論における時間

議論領域について考えるうえで着目したいのは、内側と外側という観点と、もうひとつ時間的な観点だ。

ヒュームは明らかに今現在を重視した時間的な視点に立っている。だからこそ澤田さんも指摘していたように、不完全な知性に基づくものであっても、哲学という営みはなんとか漸進していくことができる。

僕は確かに渋谷でいるはずのないライオンを見てしまった。だけど僕はその後で、それが精巧な作り物であることに気づいたり、動物園から逃げてきた本物のライオンであることに気づいたりするだろう。そうして僕は(命があるならば)自らの知性への信頼を回復することができる。今現在においては僕の知性は確かに不十分なものかもしれないけれど、将来に向かっては、知性には十分なものとなる可能性が開けているのだ。

一方でデカルトは無時間的な視点に立っていると言っていいだろう。デカルトは無時間的なかたちで未来の視点を先取りすることにより、知性はライオンが作り物であると知ることができると主張する。無時間的な土俵のうえで知性を理想的なかたちで展開しきったうえで、それでも具体的な疑いを差し挟むことができないならば、それは「真とみなす」べきであるとする。そのことにより、豊かな哲学領域を確保することを可能とするのだ。デカルトはいわば、ヒュームが目指す将来の理想的な哲学を先取りし、予言していると言ってもいいだろう。

最後にライプニッツならばどうだろか。ライプニッツの場合にはモナドのような無時間的な道具立てが多いから、一見、無時間的な視点に立っているようにも見える。だが僕は、この3人のなかで最も時間的な視点に立っているのがライプニッツのように思う。なぜなら、彼の議論構造は、三浦さんによるならば、どこまでも循環的で動的だからだ。彼の主張が単なる独断論に陥るのを救っているのは、その主張が未来において否定される可能性を確保しているからだ。ライプニッツの主張とは仮説であり、いつでも乗り越えられるべきものである。その意味で、懐疑主義と自然主義だけは手放すことができないヒュームよりも一層、時間的であると言えるだろう。(懐疑論者は懐疑論に反対するものを独断論として拒否し、ただ懐疑論だけを抱え込むことになる。その意味では懐疑論とは、ある面では新たな議論・主張を拒否するものである、と言えるかもしれない。つまり懐疑論こそが独断論ということになる。)

このように、無時間的なデカルト、かなり時間的なヒューム、更に時間的なライプニッツというように三者三様の特徴があるように思う。(そのように考えると、筒井さんはヒュームにとって哲学は必要なのか、という問いを立てていたけれど、デカルトのほうが、もう哲学は必要ないと言えるかもしれない。)

5 ヒュームの魅力

このように考えると、比較的単純な構図を描くことに成功しているデカルトとライプニッツに比べ、ヒュームはかなり苦労してなんとか帳尻を合わせているように思える。

きっとそれは、デカルト・ライプニッツに比べてヒュームには、哲学の限界という問題意識が強くあったからなのではないだろうか。だからこそ、そこに注目し、哲学の限界を行き来するような議論を行わざるをえなかったということなのではないだろうか。だからヒュームの議論の複雑さは欠点ではなく、真摯さという美点であるとさえ言えると思う。

実は僕も似たような問題意識を持っている。だから僕はヒュームについて知りたくなった。例えば、澤田さんが、ヒュームは仮説演繹法的で二重過程理論的なことを考えていたというのは興味深い。僕の理解では、これは、ある問題に答える際には、まず直感によりとりあえず答えにあたりをつけたうえで、更に解像度を高めて答えを捉えるため、その過程を吟味して考察するというものだ。僕は探求のパラドクスに興味があるのだけど、如何にして人は知らないものを知るのか、という問題に答えるためには、このようなアプローチしかないように思える。このようなアイディアをもっと吸収したい。

ということで、そのうち澤田さんの本も読んでみようと思う。そうしたら、この文章を書き換えることになるかもしれない。

心がこもった言葉と沈黙の時間

1 僕のパターナリズム的傾向

僕はパターナリズム的な傾向が結構強い。職場では放っておいても偉そうになりがちな年齢的になってきているし、参加者との平等な対話を目指す哲学カフェなんていうイベントもやっているので、日頃から、なるべく余計なことは言わないように心がけている。だけど、そういう場を離れると、妻や子どもには、つい、アドバイス的なことを言いたくなってしまう。

この話における一番大きな問題は多分わかっている。きっとこれは自他の同視に由来する問題なのだろう。僕は家族のことを自分の延長のように考えていて、まるで自分の手足のように妻や子どもを扱い、手取り足取り指示したくなってしまうという問題だ。これは単純に避けるべき行動であり、自分からそのような行動傾向を取り除くよう日頃から心がけることにより解決できるたぐいの問題だ。

2 最善の世界

だけど、ふと、別の問題が隠されているのではないか、と思いついた。僕は、つい言いたくなってしまいがちな独特の思考回路を抱えてしまっているのではないだろうか。

子どもを叱る場面を例として他の人との違いを描写すると、多分、多くの人は子どもを叱るのは、きっと自分にとって大切な子どもが幸せになって欲しいからであり、それが自分にとっての喜びであるからなのだろう。一方で、僕が子どもを叱るのは、その子どもの振る舞いが世界のあり方を損なっているように感じるからなのだ。僕は我が子のことをよく知っているから、彼女の潜在的能力をある程度わかっているつもりだ。その能力が適切に発揮されないとき、僕はそれが我が子にとってだけではなく、世界にとっての損失であると感じる。

当然、これは極端な述べ方であって、僕も子どもの幸せは願うし、多くの人も自分のことだけではなく世界のことを考えているだろう。だけど、僕は人よりも一般化して、世界というような視点で物事を捉えがちなのは確かだと思う。

僕は、世界は最も善いあり方を目指すべきである、と強く考えている。その奥には、僕自身が最善の世界を目指す営みに関わるべきという考えもある。更にその奥には、最善の世界を目指す営みに関わることこそが、僕自身の最善の生き方であるという考えもある。こうして、最善の世界という観点は僕自身に深く関わっている。

だから最善の世界を手に入れられなかったときに僕の中に生じるのは怒りというよりも後悔である。僕自身が目指すような生き方ができなかったという後悔である。

このような僕の思考回路と、僕のパターナリズム的な傾向は避けがたく関わっているように思う。

3 最善を見つけるための時間

だから僕は最善を目指すことにこだわりすぎていて、きっと押し付けがましい人間になっているのだろう。僕はこのこだわりを捨てるべきであり、せめて少し弱めるべきなのだろう。だけどそれは、ほぼ自己否定をすることに等しい。これは受け入れられないことだ。最近までどこかでそんなふうに考えていた。

だけど、ふと、その目標設定はこのままでいいのではないか、見直すべきは最善を目指すこととは別のところにあるのではないか、と思いついた。見直すべきは最善を目指すという目標設定ではなく、そのやり方、つまりテクニックなのではないだろうか。

僕は一気に最善に至ることを目指しすぎていた。だから僕は家族に一挙に説明し、彼らの理解を一度で得て、彼らが一挙に変化することを期待していた。だが、このような一気に最善を目指すようなやり方自体が既に最善なものではない。なぜなら、一気に最善に至るという道筋は、僕が既に最善を知っていることを前提にしているからだ。しかし僕は最善を知らない。なぜなら、関係者(または当事者)である彼らの考えを彼らの口から聞かなければ、僕は最善がどのようなものなのか知ることはできないからだ。最善を目指すにはまず、家族とともに最善を見つけなければならない。

なお、以前から僕はその点は意識していて、僕がパターナリズムを発揮するときにも、彼らの話を聞くように心がけてはいた。だが、重要なのは、彼らが話す準備ができているとは限らないということにある。彼らの話を聞くためには、彼らの考えがまとまり、それが自然に出てくるのを待たなければいけない。また僕自身も、彼らの言葉を聞いてそれを消化する時間が必要となる。つまり、究極の最善を目指すためには合意という手続きだけではなく、合意に至るまでの時間が必要なのだ。

だから、最善を目指すためには最善に到達しようとしすぎてはいけない。最善を目指すには時間が必要であり、その間も人はなんとか生きなければならない。それはつまり、最善ではない人生を生きざるを得ないということである。最善を目指す生き方をするためには、最善ではない人生を生きるしかないならば、性急に最善に到達しようとする心構え自体が大きな誤りだということになるだろう。

言い換えるならば、最善に至ろうとしていくら失敗しても、いくらでも再チャレンジは可能であり、それこそが最善に至るための唯一の道であるとも言うことができるだろう。そこでの失敗とは修正可能な誤りであり、最も大きな誤りは、一度限りで最善を目指すという考え方なのである。

4 最善を目指すコミュニケーションにおいて用いる言葉

僕は少し肩の力を抜いて、最善の世界を目指しすぎずに、最善の世界を目指していこう。

そのために必要な現実的なテクニックは、きっと、あまり押し付けずに言葉を小出しにすることなのだろう。

多分、僕の家族に限らず人は、人の話を聞くことができるキャパシティがある。その容量は人によって違うだろうし、気分や体調などによっても違いはあるだろうし、話の内容に対する興味などによっても違うだろう。僕は、きちんと説明しようとしすぎて、その限界を超えてしまうことが多かったのではないだろうか。人はそれほど人の話を聞くことはできないのだ。

また、僕は人に説明する際に、論理的にやりすぎていたように思う。論理的な説明は冗長になりがちだし、論理が複雑になるとわかりにくい。論理的な説明というのは、あまり理解をとりつけられないうえに、冗長で相手のキャパオーバーになってしまうことが多い。僕はそれを相手の論理的な能力の欠如によるものではないかと考えたこともあったけれど、きっとそれは僕自身も含めた人間というものの性向なのだと思う。

もしそうならば、僕はどうしたらいいのだろう。

僕は長らく論理的なやり方以外を知らなかった。少なくとも意識したことがなかった。論理的でない説明とは、単なる非論理的な説明であり、単純に誤りだと思っていた。論理的で冗長な説明を避けて説明を断片化するということは、単にその説明を非論理的で劣ったものにしてしまうということだと考えていた。

だが哲学カフェをしていて、論理的ではないけれど力を持つ言葉というものが存在することに気づいた。簡単に言うならば、非論理的であっても感情が乗った言葉には圧倒的な力があるのだ。言葉の濃度や重さと言ってもいいだろう。僕は哲学カフェでそのような言葉に出会い、ダンベルで殴られたような力を感じることがあった。(殴られたことはないけれど。)

きっと、最善を目指すコミュニケーションにおいては、このような言葉が重要なのだろう。僕は論理的に断片化されてはいても、そこに心がこもった強い言葉を語るべきなのだ。

5 伝達の速度・触媒としての言葉

もう一つ必要なのは、言葉にしない時間である。沈黙と言ってもいいだろう。

僕はどうも喋りすぎるところがある。だが言葉を理解するためには沈黙の時間が必要だ。それも人によって必要な時間が違う。僕は比較的短い時間しか要らないほうだが、哲学カフェをやっていて感じるのは、必要な時間は人によって全然違うということだ。哲学カフェの参加者のなかには、何分も経って話題がかなり進んでから、さっきの話題に戻る人が結構いる。ここにあるのは言葉が伝わるために必要な時間の違いなのだろう。決して能力の問題ではないのは確かだ。(僕は時間をかける人からのほうが、より面白い言葉が出る過可能性が高いとすら思う。)だから言葉をきちんと伝えたいならば沈黙の時間が必要だ。または非言語の時間と言ってもいいだろう。テレビを観てもいいし、全く違う話をしてもいいし、風呂に入って寝てもいい。その間に言葉はゆっくりと伝わっていく(こともあるし、伝わらずに終わることもある)。

なお、伝達が成功したとき、人は沈黙の時間または非言語の時間に何をしているのかといえば、きっと頭のなかで、自分の心の中で自分との間で言葉を交わしているのだろう。そのようにして、耳にした言葉を自分の言葉に置き換えたりして理解しようと努めているのだろう。またはさっき聞いた言葉を触媒のようにして、自分の考えを深めていると言ってもいいかもしれない。

きっと人の理解とは、誰かから聞いた言葉が直接理解につながるというようなあり方はしていない。多分、人は、自問自答するようにして発した自らの言葉でしか何かを理解することなどできない。それならば、僕が家族にできるのは触媒のような言葉を投げ、それにより彼らのなかで科学変化が起きるのを待つだけということになる。当然、その逆もしかりである。そこに必要なのは心がこもった言葉と沈黙の時間である。僕はそんなふうにして、世界と、または世界を構成する人々と、最善を目指していきたい。

僕の生き方の指針 3×3のマトリクス 時間と心身

0 はじめに

この文章では、僕にとって興味深かった2つの本を導入として用い、僕が考える生き方の指針について述べ、最終的には時間論と心身論(の入り口の話)につなげていきたい。なお書いた主な意図は、僕の生き方の指針を紹介するためである。

1 面白かった自己啓発書・ビジネス書

僕はあまり本を読まないのだけど、自己啓発書やビジネス書を何冊か読んだことがある。そこから全く新しい知見を得て、その人生訓を自分の人生や仕事に活かしたいというよりも、なにか哲学的問題に参考になるアイディアを見つけたい、世間で求められているものを知っておきたい、といった動機から読んでいる。

このジャンルで面白かったのは次の3冊だ。(仏教系、マインドフルネス・瞑想系、哲学者が書いた文章は除いています。)

①ビジョナリー・カンパニー2

②夜と霧

③7つの習慣

いずれも有名な本なので内容の紹介は省くけれど、①と②は新しい気付きがあったという点で僕にとって重要な本で、③は僕が考えていることに結構近くてうまくまとまっているという点で心に残ったものだ。

③については、いつか僕自身が自己啓発書を書くときに使いたいと思っているので、この文章では、①ビジョナリー・カンパニー2、②夜と霧という2つの本から気づいたことを取り上げたい。

2 ビジョナリー・カンパニー2

ビジョナリー・カンパニー2を読んで僕が感銘を受けたのは、企業には天命・ミッションのようなものがあり、そこにひたすら打ち込む企業こそが成功するという話だ。(このような述べ方はしていなかったけれど、あえて僕の理解で書くとこのような話だった。確かハリネズミやはずみ車に喩えていたと思う。)

僕はそれを個人に置き換えて解釈した。人には天命・ミッションのようなものがある。それこそが人生の意義であり、生まれてきた意味である。ただし、天命・ミッションとは探して見つけるものではない。ただそれをやり続けることで、振り返ってみるとそれが天命でありミッションであったと気づく類のものなのだ。

僕にとっての天命・ミッションは哲学をすることだ。これほど僕に合っていてやり続けることができているものは他にない。ビジョナリー・カンパニー2が言っていること(をより巷で使われている言葉に言い直すなら)、哲学とは僕が「できる」ことであり、僕が「やりたい」ことであり、やることが「求められている」ことだ。この3つが揃うなんてことはそうなかなかない。

(最後の「求められている」が怪しいけれど、僕自身は、僕の哲学には従来の哲学では述べられたことのない新たな発見が含まれていると確信しているので、そこに求められるべき価値があると信じている。)

だから僕は、僕自身が人生を生きるにあたっての指針に「天命」と書いている。僕は時々、そんなことを思い出しつつ生きている。

3 夜と霧

ビジョナリー・カンパニー2はビジネス書寄りすぎるので万人には勧めにくい。(例えば、僕がビジョナリー・カンパニー2に感銘を受けたのは、その主張の内容よりも、主張がデータで裏付けされているという点にあるのだが、そこを冗長だと考える人も多いだろう。)

もうひとつの夜と霧のほうは万人に勧めることができる。この本はとても深い。僕はそこから、これから述べるようなことを学んだが、人によって色々な読み方ができるだろうし、きっと読み返すたびに新しい発見があるだろう。

この本を読んだときの感想は既に書いている(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/)ので、ここでは、その一部だけをとりあげたい。

僕が心に残っているのは、あと数日後に収容所で死のうとする若い女性が人生に感謝し、マロニエの木と語らうエピソードだ。

このエピソードは、僕に、どんなときでも人は成長できるということを教えてくれる。絶滅収容所の中のような厳しい状況においても人は成長できる。それならば、きっと、いつでもどこでも人は成長できるはずだ。また、成長にそのような普遍性があるのは、人生において成長が必須のものであるからに違いない。だから僕は、僕自身が日々を生きるにあたっての指針に「成長」と書き加えた。

なお、成長は変化とも言いかえることができるだろう。僕は今までの自分に囚われず、日々新しくなってもいい。昨日までの自分が想像しなかったような僕になってもよい。なぜなら、それこそが人生の意義だからだ。だから成長とは変化であり、更には自由ともつながっている。

4 指針のリスト化

ここまでで僕の人生の指針には「天命」と「成長」という二つの言葉が書かれることとなった。

なんでもMECEなリスト化をしたくなる僕としては、他にも書き加えられるべきものがないか考え、思いつくままに書き出してみた。

まだ整理しきれていないけれど、当面のリストは次のようになる。

(既にどこかで書いていたらすみません。)

①成長

②天命

③上達:家事や趣味などに習熟して上達すること

④健全な心:うつ病になったりしないこと

⑤節制:酒に耽溺したり、極端な考えに囚われたりしないこと

⑥健全な体:肉体の健康と言ってもいい 体が資本というやつ

⑦こだわり:家族や趣味といったものへのこだわり(仏教なら執着か)

⑧記録:(この文章のように)書き記すこと

⑨身体的欲求:食欲、性欲など求めずにいられないもの

(なお、⑦と⑨については少し説明が必要かもしれない。いずれも、こだわりや身体的欲求を避けるべきという意味ではなく、積極的に求めるべきという意味である。僕は何にこだわるべきかについても既に列挙していて、こだわるべきものについては、それがたとえ煩悩や執着であっても人生において尊重していきたいと考えている。海外旅行をしたりライブではしゃいだりして煩悩や執着とともに生きていきたいと考えている。身体的欲求も同様であり、軽んじることなく、欲求とともに行きていきたいと考えている。)

以上のリストは思いついたことを列挙しただけで、整理しきれていないし、何か哲学的な含意がある訳でもない。ただ、僕自身にとっては、時々思い出して、自分が大事なものを見失っていないか確認するために有用なチェックリストにはなっている。ときどき見返して、リストに入っていないこと(仕事など)に囚われてしまっていたな、なんて反省することもある。

5 リストの整理

述べたとおり、このリストは単なる思いつきではあるが、それでは落ち着かないので、一応、とりあえず整理してみてはいる。ここからは当面の整理について述べていくことにしよう。

実はリストを9つにしたのは後付けである。当初は7項目だったが、9つにすれば、3×3のマトリクスにできる。3というのは説得力がある数字のようなので、3×3というのは更に説得力があるのではないか、また、そこから何かが見えてくるのではないか、ということで、③上達と⑧記録を付け加えている。

(1)時制による分類

まず、3というのは、時間の3時制、つまり未来・現在・過去に対応する。僕は時間論に興味があるので、人生訓を時制と紐付けることはいわば必然であるように思う。

対応関係は次のようにまとめることができる。

【未来】①成長、②天命、③上達

【現在】④健全な心、⑤節制、⑥健全な体

【過去】⑦こだわり、⑧記録、⑨身体的欲求

ア 未来について

未来のカテゴリーに含まれる「①成長」、「②天命」、「③上達」は、いずれも今後の人生に目が向けられていると言えるだろう。

まず「①成長」が未来と結びついていることは明らかだろう。なぜなら夜の霧のニレの木のエピソードは、過去の人生から解き放たれ、更に絶滅収容所にいるという現在からも解き放たれたところにこそ成長があるということを示しているからだ。

また、「②天命」とは、あくまで将来の道を定めるうえでの道標であり、既に行った現在や過去の行いを評価する視点としてのものではない。ビジョナリー・カンパニー2が描く優秀な経営者とは、過去の経営状況がミッションに沿っていたかどうかを評価するだけではなく、そこから、将来のビジョンを示すことができる人であるはずだ。天命とはそのように扱われるべきものである。

「③上達」についても、将来において、過去の自分を上回り、乗り越えるというところに意義がある。包丁をうまく砥げなかったとき、将来においてうまく砥ぎたいと思うからこそ、上達を目指して練習するはずだ。

イ 現在について

現在のカテゴリーに含まれる「④健全な心」、「⑤節制」、「⑥健全な体」は、いずれも現在の自分自身に目が向けられているように思う。

「④健全な心」も「⑥健全な体」も、この現時点での僕がきちんと機能するために必要なものである。今、うつ病になり判断能力が失われたり、体が動かずにやりたいことができなかったりしたら、現在の僕の人生に支障が生じるからだ。

なお、将来における健全な心や体も重要だと言う人がいるかもしれない。確かにそのとおりなのだが、残念ながらそれは望みすぎなのだ。夜と霧で明らかなように、人にはガス室送りにされる人生が待っているかもしれない。そこでは健全な心も体も望むことはできない。なぜなら死んで心も体も存在しないのだから。そのような不可能なものを求めて悩むことがないように僕はこのリスト化の作業を行っているとも言える。僕が望む健全な心と体とは、今ここでの心と体に限定すべきなのだ。

「⑤節制」は、もしかしたら僕に固有の課題なのかもしれない。僕は酒を飲みすぎたり、どうでもいいことをグルグル考えたりして、何かに耽溺してしまいがちなところがある。普通の人なら「健全な心と体」を標語にしておけばいいのかもしれないが、僕にとって「健全な心と体」を最も害するものは、この耽溺なので、あえてそれをネガティブリスト化し、節制を特出ししている。だから「健全な心と体」と同様に、節制も現在の問題である。

ウ 過去について

僕のリストのうち過去のカテゴリーに含まれる「⑦こだわり」、「⑧記録」、「⑨身体的欲求」は、いずれも過去からの経緯や過去を思い出すということに深い関わりがある。

「⑦こだわり」とは、これまでの僕の人生で重視してきたものごとのことだ。僕は何にこだわるべきかについてもリスト化しているが、全てを示すのは恥ずかしいので例示すると、「家族」や「趣味」といったものがある。これまで大事にしてきた家族は今後も大事にしていきたいし、若い頃から打ち込んできた趣味は今後もやっていきたい。成長や健康といったものばかりを追い求め、そんな当たり前を忘れてはいけない。過去を切り捨ててはいけない。そんな気持ちから、過去からのこだわりをリストに含めている。

「⑨身体的欲求」も同様であり、過去から一緒にやってきた戦友とも言えるこの身体が言うことは大事にしたい、という思いがある。身体の過去性を強調するのは、身体というものが、そもそも、食べられてしまった動物や、その食材を調理してくれた人といった過去の営みの結果として存在する、という思いがある。そのような他者との過去とのつながりがある身体の声を軽んじるべきでないということである。

「⑧記録」については、過去自体というより、想起という側面が強い。記録するということは、つまりは既に考えたことを記録に残すということだから過去とつながりがある。ちょうど今思いついたことであっても、思いついてから書くのであり、そこには時間的な前後関係があるはずだから厳密には過去である。

また、記録したものは未来において読まれるとも言える。つまり記録するということはその記録を過去のものとし、未来に譲り渡すということでもある。

以上のように、僕の人生の指針のリストはきれいに3つの時制に3つずつを割り振ることができる。(というか、そうなるようにリストに追加したのだけど。)

(2)心と体による分類

時制による分類を縦軸の分類とするならば、横軸による分類もできると考えている。それはいわば、心と体という視点による分類だ。哲学においては色々な二元論的な問題があるが、そのなかで最も有名なのはデカルトの心身二元論で有名な心身問題だろう。その問題には立ち入らないが、ものごとを心と体という二つの側面から捉えることは重要な視点であることは確かだと思う。

時制による分類を更に心身という視点で分類すると次のようになる。

【未来】心:①成長、中間:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、中間:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、中間:⑧記録、体:⑨身体的欲求

ア 心について

「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」については、いずれも心という側面が大きいのはわかりやすいのではないだろうか。

まず、夜と霧のニレの木と語る人に象徴される「①成長」が、身体のようなものと無縁であるのは明らかだろう。なぜなら、肉体は消滅しようとしているのだから。絶滅収容所における無慈悲な肉体の消滅とは全く無縁だからこそ、彼女の成長は尊い。

「④健全な心」はすでに心という文字が入っているので言うまでもないし、「⑦こだわり」とは家族や趣味への執着であり、心の中だけのものごとであることは明らかだろう。(心の中にしかなく実体がないからこそ、仏教はそれを煩悩と呼び、捨て去るべきと言っているのだろう。)

イ 体について

「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」についても、それらを身体的なものとして捉えることはわかりやすいだろう。

「③上達」とは、心に分類した「①(精神的)成長」に含まれないようなものを指している。つまり精神的な上達は成長に含まれるので、上達とはそれ以外のもの、つまり身体的な上達ということになる。包丁砥ぎを練習してうまくなるのと同様に、数学の問題集をやって数学の問題を解くのがうまくなったり、たくさん本をよんで思考するのがうまくなったりするのも身体的な上達に含まれる。(一方で、現に数学の問題の解き方をひらめいたり、新しい哲学的なアイディアを思いつたりするのは、どちらかというと精神的な成長に近いように思える。)

「⑥健全な体」と「⑨身体的欲求」については、いずれもすでに体という言葉が入っていることからも説明は要しないだろう。

ウ 中間について

「②天命」、「⑤節制」、「⑧記録」については、精神的な側面と、身体的な側面の両面を有するので、とりあえず中間と名付けた。

「②天命」は、何かを人生のミッションと心の中で考えるだけでなく、そのように決断して身体的に行動するという点が重要となるので両面性があり中間的であると言える。

「⑤節制」についても、ひとつの考えに囚われないというような精神的な節制と、タバコや酒を控えるという身体的な節制との両面がある。

「⑧記録」とは、思考したことを手で書くという、精神と身体をつなげるものだとも言える。

これらは、心と体の間にあるということから、いずれも中間に位置づけられることになる。

6 中間から調和へ

心と体の間にあるものをとりあえず中間とは名付けたけれど、どうも落ち着きが悪いと思っていた。

だが、今朝、5分くらいヨガをやっていて、ふと「調和」というキーワードを思いついた。前の日に色々考えてしまってなんだか心が落ち着かないなか、なんとか身体(または世界)とチューニングを合わせようとしていることに気づいたのだ。つまり、僕が今やっていること(つまりヨガ)って、心と体の調和をとる作業とも言えるのでは、と思ったのだ。

たしかに、前からヨガというのは心と体の間にあるものだとは思っていた。トレーニング的な側面では健全な体につながるし、瞑想的な側面では健全な心につながる。その両側面があるヨガは、僕が人生を生きるうえでちょうどいいとは思っていた。だが更に、ヨガとは心と体の調和をとろうとするという意味で、心と体の間にあるものなのだ。

僕は、「④健全な心」と「⑥健全な体」の間にあるものは「⑤節制」だと思っていた。だけど、それは耽溺しがちな僕への注意喚起のためにあえてリスト化していただけであり、より正確には「調和」なのだろう。

そのように考えると、「①(精神的)成長」と「③(身体的)上達」との中間にある「②天命」も「調和」と言い換えることができように思えてくる。

実は僕は、このリストのなかでも特に重要なものである「①成長」と「②天命」について、不整合さを感じていた。なぜなら、成長の結果、天命・ミッションを変更することがありえるからだ。成長のなかには変化が含意されているから、成長することで従来のミッションを見直すことがありうるのでなければならない。一方で、天命・ミッションという言葉のなかには、ちょっとやそっとのことではそれを投げ出し、変更を加えてはならない、ということが含まれていなければならない。成長と天命を尊重しようとすると矛盾が生じる。

それならば、成長を単なる変化ではないものとして捉え、天命を単なる墨守ではないものとして捉えることが、この問題の解決の道であるに違いない。

そこで登場するのが「調和」という言葉である。天命とは、単なる墨守ではなく、また単なる変化でもない。その両者の調和を図るようなものであるべきなのだ。天命とは、変化という意味が強い成長と、墨守という意味が強い上達との間にあり、その両者を調和させつつ生きていくという姿勢を指す言葉なのだ。(ビジョナリー・カンパニー2も、企業が従来の方針を墨守することを推奨しているのではなく、変化のなかで自分自身を見失わないことの重要性を強調しているようにも思う。)

また、「⑦こだわり」と「⑨身体的欲求」の中間にあるとされる「⑧記録」も「調和」 と関係が深い。こだわりや身体的欲求は相互に対立することがある。家族のために家事をするというこだわりと睡眠欲という身体的欲求とは対立するし、家族と趣味のどちらを優先するかというかたちでこだわり内部でも対立はあるし、(「ごはんにします?それとも、わ・た・し?」というかたちで)食欲と性欲も対立する。

これらの整合をとるためには、考え、優先順位をつけなければならない。そのときに活躍するのが思考であり、思考を精緻に行うためには書き留めて記録することが役立つ。このように調和と記録は深く結びつくことになる。

ここまで、中間にあたる、天命・節制・記録は、いずれも調和と関係が深いと論じてきた。多分、いずれの中間も、より正確には「調和」という言葉に置き換えられるべきなのだろう。ただ、僕自身の人生訓がより実践的なものとなるように、調和のうちの、天命・節制・記録という側面を強調しているに過ぎないのだろう。

なお、調和というと予定調和のような、出来レース的なものをイメージするかもしれないが、僕は、調和という言葉のなかに、調和せず対立したままである、ということも含まれていると考えている。天命とはなにかひとつのことを定めるだけが天命ではなく、天命を求めて試行錯誤すること自体が天命でありうるし、節制とは、節制できないことをなんとか節制するという意味が込められている。記録についても、考えがまとまらなかったということ自体を記録する結果になるかもしれない。そう考えると、調和よりは止揚と言ったほうがいいのかもしれない。変化と墨守の対立を止揚し、変化でもなく墨守でもない別の道筋を見出そうとする営みを「調和」と呼んでいたということである。

(なお、この止揚に対する更なる止揚もありうる。例えば、「変化としての成長」と「墨守としての上達」の対立を止揚することで調和を図ったとする。この場合、その調和に対しては、成長とは単なる変化ではなく、上達とは単なる墨守ではない、という反論がありうる。そのような反論を調整すべく更なる止揚が導入されることがありうる。)

7 再び時間論へ

ここまでの議論を通じて、僕は、次のような人生の指針を定めたことになる。

【未来】心:①成長、調和:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、調和:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、調和:⑧記録、体:⑨身体的欲求

このうち、身体の領域に割り振った「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」は動物的でプリミティブな人生を描写しているように思う。身体的欲求に従い、健全な体をもって、上達を目指す生き方というものを想像すれば、僕が言わんとすることが伝わるのではないだろうか。

一方で、心の領域に割り振った「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」に従った人生とは、とても思索的なものだろう。僕は瞑想する仙人のような人を思い浮かべる。これまでの人生でこだわってきたものを吟味し、心を研ぎ澄まし、心の成長を目指す生き方というのは、どこか浮世離れしている。

その両者の調和を目指し、試行錯誤しながら、その過程を記録し、道を踏み外さないように節制し、人生におけるミッション・天命を見出してなんとか生き抜いていくという姿は、とても実務的であり、ある意味人間的である。動物と仙人との間にある人間的な生き方という感じがする。

僕が動物的としたような身体的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はひとつながりのものであるという時間観とつながっているように思う。世界は因果的で決定論的であり、獲物を食べれば腹が膨れるし、筋トレすれば筋肉がつくという時間観である。

一方で、僕が仙人的としたような精神的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はそれぞれ別個の時点であるという時間観とつながっているように思う。時点と時点との間には自由意志が介在する余地があり、自由意志に基づき、人は決断し、変化をもたらすことができるという時間観である。

僕たちは、その中間で、因果論的で決定論的だけど、自由意志があることを当然とする、矛盾しているけれど常識的な世界のなかで試行錯誤しながらなんとか生きている。それが、仙人ではなく動物でもない僕たち人間の時間観なのではないだろうか。

僕が3×3のマトリクスのような人生の指針を定めたのは、その背景に、こんな時間観があるからなのかもしれない。

なお、この考察は、心と体の間の接触地点に人間の生き方を見出したところから、更に私と世界との間の接点に身体を見出す方向に議論を進めることもできると思う。だが、それは別の機会としたい。

うまく生きる 思考と行為・ひらめき・身体・こつ

1 うまさという問題

僕自身の哲学の源流のひとつは、高校生の頃から抱いている「いかに生きるべきか。」という問題にある。

僕にとってのこの問題は、具体的な状況設定を用いるならば、海で溺れている人を見つけたとして、その溺れている人を助けるべきだろうか、という問題だと言ってもよいだろう。溺れている人は実は殺人鬼で、その人を助けたら何件も殺人が起きるかもしれない。実は病気による苦痛から逃れるために入水自殺しようとしていて、助けることで、更に苦痛を味わわせることになってしまうかもしれない。そんなことを僕は考えてきた。

(更には、生きることが望ましいことかどうかはわからない。望ましいからといって、生きるという選択をすることが正しいかわからない。正しいからといって、それを具体的な行為の選択につなげるべきかどうかはわからない。そもそも、このようなことを首尾一貫したかたちで論理的に思考できるかどうかさえわからない。それならば、溺れている人を助けるという一見当たり前の判断についても、その根拠は怪しいものではないか、そんなことを僕は考えてきた。)

それはそれで重要な問題だし、今後も考え続けていきたい。だけど、最近ふと思った。当時の僕が求めていたのは、そのような方向での答え「だけ」だったのだろうか。

溺れる人を助けるべきかどうかを解決したとしても、次には、助けるとして、「うまく」助けるにはどうしたらいいのだろうか、という問題を解決しなければならない。助けることを決心したとしても、更に、海に飛び込むか、ロープを探すか、それとも警察に電話するかを判断しなければならない。そこには、どうしたら「うまい」判断ができるのか、という独立した問題があるのではないか。

溺れる人の例だと現実味がないかもしれないけれど、日々、僕たちは「うまい」判断が求められている。洗濯と掃除のどちらを先にするか、晩ごはんの献立を何にするか、などなど。円滑に洗濯と掃除の両方を済ますべきというゴールや、晩ごはんまでの時間のなかで美味しくて栄養のあるご飯を作るべきというゴールは揺るぎないものであったとしても、そのゴールにどのようにして「うまく」向かうかが難しいのだ。

最も「うまさ」が求められるのは対人関係においてであり、特に言葉によるやりとりの場面においてだろう。人間の心は複雑だから扱いが難しくて、言葉で誤解をさせてしまうことが多い。振り返ってみると、実は高校生の僕の哲学的な悩みもそんなところから始まっていたように思う。こんなに複雑な心を持つ人間というものと、どうしたらうまく付き合っていくことができるのだろうか、そんな困惑があったような気がする。

若い頃の僕は、そこから、デカルトの方法的懐疑の方向に進み、懐疑論に至った。懐疑論に基づき「世の中は不確かなものだから、そんなことを考えても仕方ない」という大所高所からの一刀両断の答え、いわば「大きな答え」を与えることで満足してしまった。論理的に考えるならば、どうしたら溺れる人をうまく助けられるのかを悩むよりも前に、溺れる人を助けるべきかどうかを考えなければならないが、懐疑論に基づけば、その前段の問いに答えを出すことはできないのだから、その先を悩む必要はない。大学生の僕はそのように考え、高校生の頃から抱えていた疑問を封印したのだ。

だが30代半ばになり、哲学的に色々と考えを巡らせることを再開し、10数年そんなことを続けている。そのなかで、「うまさ」について、書くに値することを思いついたので、この文章を書いてみることとした。

2 「うまさ」が評価するもの ひらめき

「うまさ」または、その反対である「まずさ」とはどういうものだろうか。

まず言えるだろうことは、うまい答えとは唯一絶対ではないだろうということだ。溺れた人を見つけたとき、海に飛び込んでも、警察に電話しても、結局助かればどちらでもいい。

ただし、単なる結果オーライという帰結主義的なものでもないだろう。溺れる人を助けようとして凪いだ海に飛び込んだが、突然の高波に阻まれて助けることに失敗したとする。その後の検証で、警察に連絡をとっていれば、偶然近くにいた巡視船がすぐに現場に向かえたことが判明したとする。それでも、そのときの海に飛び込むという判断が「まずい」判断だったとは言わないだろう。その時点でできる限りの判断をしたと評価されるはずだ。

ということは、「うまい」か「まずい」かとは、その時点での何かが問われるものであり、その後の偶然には左右されないということになりそうだ。

では、その時点での何かとはなんだろうか。

まず、その人が泳げるかどうかというような身体的な能力は問題にならないだろう。泳げないから飛び込まなかったという対応は、まずい対応とは言わない。また、スマホを持っていなかったから警察に電話しなかったこともまずい判断とは言わないだろうし、来日したばかりの外国人が警察への電話の仕方を知らなかったということもうまさの問題にはならないに違いない。そうだとするならば、「うまさ」とは、泳げるかどうかという身体的能力や、スマホがあるかどうかという物理的な状況や、警察の電話番号を知っているかどうかという知識とは関係のないということになる。

では、「うまさ」とは、判断時点でのその人の何を評価したものなのだろうか。その人の能力や知識といった広義の物理的な状況ではないならば、何が判断の「うまさ」を左右するのだろうか。この問題を思考実験的に表現するならば、全く同じ能力や知識を持った二人が、全く同じ状況で別の判断を行った場合、そのひとつは「うまい」判断で、もうひとつは「まずい」判断となりうるが、その境目となるものは何だろうか。

それは「ひらめき」としか言いようがないものなのではないだろうか。能力や知識を含めて全く同じ状況にあっても、ひらめくかもしれないし、ひらめかないかもしれない。そのときのひらめきだけが判断を左右するように僕には思われる。

「ひらめき」は思考と行為を結ぶものとして非常に重要だと思う。とにかく何らかの行為をするためにはひらめきが必要だ。なぜなら現時点での状況をいくら精緻に分析しても、そこから行為を導き出すことはできないからだ。私は溺れる人を見つけて自己分析を始める。私は泳ぐことができる。私はスマホを持っている。私は警察の電話番号を知っている。私の泳力と波の高さを踏まえると10m先の人を無事に救出できるかどうかは五分五分である。わずかだが一緒に溺れる可能性もある。警察に電話した場合には救助の船かヘリが来るには多分10分以上はかかるだろう。そのような分析をいくら重ねても、そこから、海に飛び込むという行為を導き出すことはできない。そこには思考と行為との間のギャップが存在し、そのギャップを飛躍することが必要である。僕は、その飛躍を「ひらめき」と呼んでいる。

当然、ひらめいて飛躍する前の分析も重要である。精緻に分析しておくことで、より好ましいひらめきができるだろう。しかし、例えば溺れた人をみつけたのが幼児であった場合に、その幼児が現状をしっかり分析できなかったからといって、それがまずい対応と評価されることはない。分析する能力、分析力がある人が、その分析を怠れば問題になるが、そもそも分析力に乏しい人が分析をしなかったからと言って、それはまずい対応とは言わない。また、ただ分析を続ければいいということでもない。どこかで分析を打ち切り、救助に向かうことも、うまい対応のためには必要である。つまり、手持ちの分析力をどの程度時間をかけて活用するかどうかも、ひらめきに属する事柄なのだ。

そのようなことも含め、「うまさ」とは、行為への飛躍のあり方、言い換えればひらめきを評価する言葉だといえる。

3 ひらめきの事後評価

そして、その評価は事後的に行われる。溺れた人をうまく救出できたかどうか結果が明らかになってから、その時点での判断がうまいものだったかどうかが検証される。ただし、結果だけで検証されるのではなく、その人のその時点での知識や能力や状況を踏まえ、その制約のなかで、よりよい結果につながるような判断をひらめき、飛躍することができたかどうかが検証される。

ここに、「うまさ」の根本の問題があるように思える。飛躍やひらめきと表現されるようなものについて、事後的な視点から、あれはうまい飛躍だった、これはまずいひらめきだったと評価していることになるからだ。そのようなコントロールを超えたものこそが飛躍でありひらめきであるはずであるにも関わらず、だ。

当然、うまさを評価する側も、その問題は認識していて、直接的には、その飛躍やひらめき自体を評価はしない。

その代わりに、こっそりと別のものを評価する。言ってしまえば誤魔化しであり、その誤魔化しは、二種類の「ずらし」として行われているように思える。

ひとつは、一般化による「ずらし」だ。例えば、その人が日本人の成人ならば、常識的に日本で生活する人が備えている知識や能力を備えていることを前提として、離岸流に気をつけるべきだった、などと評価する。だが、その人は、離岸流など知らなかったのかもしれない。

もうひとつは、それ以前の別の判断を問題とするというやり方であり、時点の「ずらし」だ。スマホが手元になくて警察に連絡できなかった人について、外出するならばスマホくらい持っておくべきだった、と批判するような場合だ。これは、溺れている人を発見した時点ではなく、外出した時点に遡って、時点をずらして、その時点での判断を問題とするということだ。なお、このような「ずらし」は他者からの評価で用いられることは少ないが、自己評価においてはよく用いられる。つまり、あのときこうしていればという後悔だ。

人は、このような誤魔化しをしてまで、本来不可能なはずの「ひらめき」への評価を求めてしまうのだ。

4 自由意志の問題

自分自身による「うまさ」の評価には特有の問題がある。ひとつは先程触れた複数の時点の自分をつなげて同一の自分として解釈することから生じる後悔と呼ばれる問題だが、もうひとつは自由意志に関わる問題だ。自分自身がいくつかの選択肢に気づいていて、そのなかから一つの選択肢を選んだ場合、そこに自由意志の問題が生じる。溺れる人を発見した時点で、海に飛び込むことも、警察に電話することも可能だと気づいており、そのうちの一つを選択した場合、あとで振り返り、その選択がうまいものだったかどうかを問題とすることができる。この選択可能性を認めるということが、自由意志が成立する根幹にあるからだ。

だが、判断の際に必須のものである飛躍、ひらめきを正当に取り扱うならば、自由意志を捨てる道を進むしかないのではないか。なぜなら、選択可能性などなく、それしかないものとして行為するということが「ひらめき」には含まれているはずだからだ。

こうして、「うまさ」の問題は入不二の運命論に近づいていく。なお通常の決定論と大きく異なるのは、そこに無根拠の飛躍、ひらめきが介在しているという点にある。人生が運命に翻弄されるのは、その運命が決定されているからではなく、そこに無根拠の飛躍があるからだということになる。つまり僕が描いてきたのは入不二のケセラセラの運命論であり、ひらめきと名付けた無根拠の飛躍とは、入不二の円環モデルにおける始発点に至る飛躍のことである。

5 身体・こつ

「ひらめき」と名付けた飛躍が無根拠であるのは、行為が思考を超えているからだ。人は状況を認識し、自らの知識を使って、どのように行為すればいいか思考する。しかしその思考の結果と、どのように行為するか決心することとの間には断絶がある。その断絶を架橋するものとしてひらめきがある。思考を超えたところにあるという点で、ひらめきは無根拠なのだ。

つまり、これは思考と行為(またはその手前の決心)の問題である。

それならば、この両者をうまく架橋できるかどうかが、「うまさ」の問題であるとも言える。

そこで僕は、いかにうまく生きるかということを考えるうえで、身体というものに着目したい。なぜなら思考と行為をつなぐのは身体だからだ。身体とは、思考から全く切り離されたものではないが、思考に含まれるものでもなく、いわば思考の境界にある。また、身体は世界のなかに位置づけられ、行為するものでもある。つまり、思考は身体を介在し、行為するとも言える。それならば、「うまさ」の問題は、身体の使い方の問題だと捉えることもできるだろう。つまり、うまく生きるとは、包丁の使い方や車の運転の仕方と同じような、身体の使い方の問題であり、いわば、こつや慣れに属する問題なのだとも言える。

そのように考えるならば、包丁の使い方や車の運転の仕方について語るのと同じように「うまく生きる」うえでの実践的なコツを列挙することさえできるだろう。

僕が思いついたコツを二つ列挙しておきたい。

僕が考える第一のコツは、できる限り言葉の問題として扱うというものだ。

人生において「うまさ」「まずさ」が問題となる典型的な場面とは、溺れる人を助ける場面ではなく人間関係の場面だろう。だから「できる限り言葉の問題として扱う」というコツはかなり適用範囲が広いと思う。

実践的と言いつつ理屈っぽくなるが、僕は言語というものが「うまく生きる」うえでのコツにつながると考えている。正確には「まずく生きないで済む」うえでのコツになると考えている。そこで役立つのは、言語が持つ継続性という特徴である。簡単に述べると、この継続性とは、言葉は対話として継続し続けるものだ、ということである。対話が続いている限り「うまさ」「まずさ」の問題は生じない。対話の内容は、対話が続く限り更新され、確定しないからだ。確定しないものについて「うまさ」「まずさ」は生じない。一見、まずい発言をしてしまっても、対話を続けることさえできれば、その発言は訂正し、うまい発言にすることができる。

問題は、言葉には、継続するものとしての側面と、もう一つ、通常の行為としての側面もあるという点にある。対話が終わり、言葉が確定すれば、それは通常の発話という行為として確定する。そうすると、継続性という利点は失われる。言葉の継続性という利点を最大限に活かすならば、どこで語り終えるかはコントロールしなければならない。このコントロールのうまさは、「うまさ」の重要な要素になるだろう。継続性の最大の問題は相手の協力がどこまで得られるかどうかという点にある。そのために必要なのは話術だ。人を飽きさせずに興味を持って対話に参加してもらい、そして、できる限り最短距離で、その対話が至るべきところにまで進む。この話術という技能こそが、「うまさ」の重要な要素となるだろう。これは、対話の中にどの程度遂行性を含ませるかというさじ加減の技術だとも言える。

もうひとつのコツは、飛躍を細やかなものにするというものだ。溺れる人を助ける際に、いきなり助けるという最終目標まで飛躍する必要はない。まず、溺れる人の体力を見極めることを第一の目標として、まず冷静になるという決心をし、そこまで飛躍する。そのうえで、第二の目標として、役立ちそうな記憶を呼び起こし、これまで得た知識を整理するという決心をし、そこまで飛躍する。といった細分化があってもよいし、そのほうがより飛躍の難易度が下がる。

細やかさや細分化というと繊細さや力の弱さといったものとつながるイメージがあるので、解像度を上げると言ったほうがいいかもしれない。この比喩は当然、パソコンのモニタやテレビの画面のきめが細かくなるように、世界把握にあたって解像度を上げるということであり、これはどちらかというと鮮やかさや表現の力強さといったイメージにつなげることができる。

または、細かい把握を可能とするためには、冷静さや注意深さが必要であり、それを強調するならば、マインドフルネスやスポーツでのゾーン状態といったイメージと重ねることができるかもしれない。

これらのようなことも含めて、飛躍を細やかなものとすることがうまく生きるうえでのコツのひとつである、と考えている。つまり「うまさ」とはきめ細かさであるとも言える。

ここまで、実践的なうまく生きるうえでの実践的なコツについて、言語と細やかさという二つを挙げたが、実は、実践的と言いつつ、こっそりと僕の理念的な希望を込めている。

僕が目指すのは、うまく生きるということと哲学と瞑想への接続である。当然、言語は哲学と重なり、細やかさはマインドフルネスのイメージが登場したように瞑想と重なる。哲学と瞑想こそが、うまく生きるということに密接に関わる営みなのではないだろうか。今回の考察も、そのことを示すための一歩であったと考えている。

自然科学と人間原理

同じようなことを以前にも書いているかもしれないけれど、備忘録として。

僕は自然科学がどうしてこれほどうまくいくのかを説明したいと考えている。

そんなの簡単じゃないか、と思うかもしれないけれど、僕は形而上学的な意味で、議論の出発地点をかなり手前に置いている。この私や今や世界といったものが存在する、というような常識をそう簡単には認めないところから話を始めたいと考えている。

と言っても僕の哲学的立場はわかりにくいので、ちょっと正確ではないのだけど、この世界は実は夢かもしれないと考えている懐疑論者を思い浮かべてもらえればいいかもしれない。夢かもしれないこの世界が、こんなに辻褄が合っているなんて不思議ではないか。いたるところで日々なされている新たな科学的発見がいずれも、この世界を秩序立てて説明するのになぜかうまく寄与している。一見、過去の科学的知見と整合せず不適当に見える発見であっても、科学的手順に則って慎重になされた研究結果であれば、いずれ、不適当であったのは過去の科学的知見のほうであり従来の科学的知見を修正して新たな研究結果を受け入れるべきであることが判明する。僕はこのことに、まるで何も見ずに適当にそれっぽく作ったジグソーパズルのピースが何故かうまく隙間にはまっていくような不思議さを感じる。

このような問題について哲学的に説明しきるためにはかなり遠大な道のりが待っていると思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思いついたので記録しておくことにする。

多分、この道程のゴールは、客観的な世界があることを明確にするような地点に設定されているのだろう。そこでは、私の認識や思考といったものとは何の関係もなく、ただ存在する世界というものを思い浮かべることができるはずだ。仮に僕が世界を認識し世界について思考できたとしても、その認識され思考された世界とは世界のごく一部であると考えることができるはずだ。

そこまでいけば、あとは弱い人間原理の出番である。僕が認識し思考できているこの世界とは、全体の世界のうちのごく一部の、たまたま秩序立てられ、(僕にとって)うまくいっている部分だけなのだ。(強い人間原理により考えられるように)決して、世界のすべてが僕の考える通りに秩序立てられたものとして存在している訳ではないし、世界をお望みどおりにうまく秩序だてるための新たな材料を導入する必要もない。

つまり、自然科学が何故かうまくいっていることを説明するためには世界が存在するということだけが必要であり、あとは弱い人間原理がなんとかしてくれるということである。これはかなり明るい見通しではないだろうか。

一方で、このようなゴールを設定するということは、そこへの道程を限定することになるかもしれない。弱い人間原理を導入するためには、観察者である僕が、この世界の構成要素のひとつであることを認めなければならないかもしれないからだ。少なくとも、弱い人間原理を有効とするためには、観察者の視点が観察対象と癒着していることが必要となるはずだ。

だが、〈私〉を世界の構成要素のひとつと位置づけるというような議論は永井の独在論に基づくならば端的に誤りである。よって、このようなゴールに向かって議論を進めるということは、どこかで〈私〉を単なる私に変換しつつ、それでも世界というものを捉え損なうことがないようなかたちで考察を行うということでなければならない。

これはかなり難しい注文になりそうだと予感しつつも、議論の方向性が限定されたという意味では更に見通しが明るくなったと言えなくもないように思う。

なお、この困難についての現時点での考えを示しておくと、この困難は当然、永井の〈私〉と大いに関係がある。〈私〉を私に変換するということは同時に〈世界〉を世界に変換することでもあるはずだ。この変換により何を失うことになるのだろうか。何も失わないとも言えるけれど、この問題を解く必要性自体も含めた全てを失ってしまうようにも思えるのだ。

一方で、この問題を解くことは対話というものにより可能ではないだろうか、とも考えている。僕は、対話こそが自己と他者とを完全に均すことなく接続するという困難を成し遂げる鍵ではないかと目をつけている。対話により〈私〉と私を接続し〈世界〉と世界を接続することこそが、この困難を乗り越えるための抜け道になりうるのではないだろうか。

内在・外在・特異点

1 はじめに

最近、2冊の本を読んだ。『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』だ。

これらの本について、昨年読んで、ずっと心にひっかかっている入不二の『現実性の問題』と、その流れで読んだ『現代思想』の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』とのつながりで思いついたことがあるので書き残しておく。

2 内在・外在

哲学的な議論には、大きく分けて、内側からの視点に基づき行う議論と、外側からの視点に基づき行う議論がある。その視点を内在的視点・外在的視点と名付け、また、その視点に基づき行われる議論を内在的議論・外在的議論と名付けてもいいだろう。イメージとしては、主観・客観という、多分そこから派生するだろう区分を思い浮かべてもいいだろう。

例えば、今、この僕を捉えている問題、つまり「僕は風呂を洗うか、それとも家事をさぼって文章の続きを書くか。」という問題は、僕の内側から湧き出るような問題であり、内在的視点に基づく問題設定である。

一方で、どこか神のような俯瞰した視点から、人は、家事と文章を書くのとどちらを優先すべきか、などと問うのは、外在的視点に基づく問題設定となるだろう。

(当然、家事をするのが正しいので、ここで中断します。)

なお、問題設定としては内在的なものであっても、その後、外在的に議論を行うということはありうる。僕が今、家事と趣味のどちらを選択するかを検討するにあたり、そもそも人間一般は家事と趣味のどちらを優先すべきなのだろうか、と視点を切り替えて考察するような場合だ。逆に、外在的な視点から設定されたものである一般的な家事・趣味優先順位問題を検討する際に、家事をしないことで奥さんに怒られるという現在の僕の内在的視点に切り替えるような場合もある。

このような単純化しすぎた例のようなかたちではないにせよ、たいていの哲学的検討は、気づかぬうちに外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように行われているだろう。なぜなら、たいていの哲学においては言語という外在的な側面と、感覚や感情といった内在的な側面とが重要な役割を果たすからだ。言語と感覚・感情を架橋した哲学体系を構築するためには、外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように論じるのが自然だろう。(または、そうならないため、言語も主観的なものだとしたり、感覚・感情も客観的としたりして、片側に寄せるような論じ方をすることもある。)

一応、議論に深入りしない範囲で補足しておくと、言語が外在的なのは、言葉とは人間が共有する客観的なものだからだ。一方で感覚・感情が内在的なのは、感覚や感情といった心の動きは、その唯一の実例が自分自身のなかにしかないような主観的なものだからだ。更に議論は深められるべきとはいえ、そのような特徴から、言葉の客観性は外在性と結びつき、主観的な感覚や感情といったものは内在性と結びつくことになるとは言えるだろう。また、言葉や感覚や感情といったものを全く用いない哲学などありえないから、たいていの哲学は外在と内在の両方にまたがって論じざるを得ないということになる。

さて、僕が内在・外在について気になったのは、最近読んだ『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』が、いずれも、内在的な視点が強いものであったからだ。ここからは、内在・外在という視点を重視しつつ、2つの本についての考察を進めていきたい。

3 『星の王子さま』

大学生の娘から面白かったと言われたので、はじめて星の王子さまを読んだ。確かに名作だと思ったけれど、特に心に残ったのがキツネの「なつく」という言葉だ。「なつく」という言葉は、キツネが星の王子さまに友達になる方法を説明するなかで出てくるものだ。

娘に本を返してしまったしネタバレするのもなんなので、本を離れて僕なりの理解としての「なつく」について僕自身の例で説明しよう。

僕は昔から男友達をなぜつくるのがよくわからなかった。女友達ならわかる。女の子って、とてもかわいいし、美しいし、優しいし、不思議だし、いい匂いがするし、もしかしたら付き合えるかもしれないという下心もあるし、是非、友達になりたいと思っていた。一方で、男は、仕事や車や野球といったつまらない話が多いし、(自分も含めて)なんだか汚いし、臭いし、一緒にいてもなにもいいことがないと思っていた。(過去形だし誇張しています!)

なお、男女を問わず、趣味友達が大事だというのはわかる。一緒にスポーツをするにも、飲みに行くのも、ある程度の人数がいたほうが楽しいし、できることも増える。哲学だって誰かと話せたらうれしい。(しつこいけど女友達なら更に別の目的を心に秘めている。)そのような目的のための手段としての友達ならよくわかる。だけど、そのような目的なく、ただ友達と一緒に過ごすことの利点がよくわからなかったのだ。

だけど、キツネは、友達になるには「なつく」(と「なつかせる」)が大事だと言う。僕はこれを、「友達っていうのは、何も理由付けがなくても、ただ相手を特別なものとして扱い、相手に時間と手間暇をかけることが大事なんだよ。」と言っているのだと解釈した。「友達というのは、なにか別の目的の手段ではなく、それ自体として大切なものとして扱い、そのように生き抜くことを通じて、ようやく手に入れられるものなんだよ。」と言い換えてもいいだろう。

つまりここには、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒がある。

これまでの僕は、友達になるということは、一緒に何か楽しいことをするというような目的のための手段であり、友達になるという決断をするためには、その人に何らか長所があるというような理由が必要だと思っていた。

だが、キツネが「なつく」という言葉で伝えようとしていたのは、友達になるとは、それ自体が目的であり、友達になるためには、ただ友達になるという決断だけがあればよい、という考え方だと言ってもいいだろう。そのうえで、すでに友達になった後に、振り返ってみてはじめて、そこに、面白そうな奴だと思ったから、というような友達になるに値する理由を見出すことができる。また、友達なった後だからこそ、その友達関係を手段として、別の何かを手に入れることができる。例えば一緒に過ごす楽しい時間といったものを。

キツネの議論には、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒と表現できるような、視点の転回があるように思う。(なお、ここでは、以前の僕のような考えとキツネの考えとのどちらが本来の姿なのか、といったことを議論したい訳ではない。以前の僕のような考えは、キツネの考えを転倒し、転回させたものだと言っても同じことだ。)

この視点の転回こそが、内在的と外在的という用語を用いて、外在的視点から内在的視点への転回と表現できるものだと思う。

友達に関する僕の以前の考えは、いわば外在的視点からのものだったといえるだろう。友達候補となる人を俯瞰的な視点で眺め、その人達を評価し、誰が友達に相応しいか選択し、やっと友達になるというプロセスを経る。僕の視点はどこか評論家のようで、部外者のものだ。

一方、キツネの考えは内在的な視点としての色彩が強い。キツネによれば、人は人生のなかで、偶然にでも運命的にでもいいけど、とにかくまず出会いがある。そこでただ「なつく」ことで相手との関係が深まり、そして、いつか友達になる。このようなキツネの視点とは、すでに人生に巻き込まれた当事者のものであり、いわば人生の内側からのものだと言えるだろう。

『星の王子さま』から僕が読み取ったのは、この外在的な視点から内在的な視点への転回であり、そこに感銘を受けたのだと思う。

繰り返しになるが、少なくとも現時点では、どちらの視点が優位かは決められない。なぜなら、そう簡単には内在的な視点だけから友達になるという選択の仕方を描写できないからだ。キツネの内在的な視点によれば、全ては既に決断されてしまっている。今後いかに選択するかがわからない。選択の場面を描写するためには何らかの外在的な視点からの比較や評価というものが混入せざるを得ない。内在的視点というのは、外在的視点と並べて比較できるようなものではないのだ。

だが、『星の王子さま』は考察ではなくて、物語であり詩だ。『星の王子さま』とは、詩が持つ力を通じて、理屈っぽくて外在的な視点が強い僕に、内在的な視点の重要さを再確認させてくれた本だと言ってもいいだろう。

4 『生き方について哲学は何が言えるか』

次に、もう一つの本『生き方について哲学は何が言えるか』(以下、『生き方』)について論ずることにする。

これは、永井均がTwitterで言及していたので興味を持ち、読んだものだ。この本は、僕の理解では、哲学をするうえでの限界を明らかにし、その限界のなかで如何に哲学するべきかを実践的に示すことを目指したものだと思う。この本が取り上げるテーマは倫理学の分野に属するけれど、倫理学のみには留まらない哲学全般に及ぶ示唆に富んだ本だと思う。

『生き方』が設定する哲学をするうえでの限界とは、つまりは、内在的な視点の限界だと言えると僕は考えている。先ほど述べたとおり、たいていの哲学は、外在的な視点と内在的な視点にまたがる議論を行うものなので、両者の視点を行き来するように論じられ、その視点は混在しがちだ。この本も例外ではなく、外在的な視点と内在的な視点を行き来するようにして議論は進められていく。

この本の魅力は、この視点の切り替えにかなり意識的であるという点にある。特に、内在的な視点から外在的な視点に切り替えるときに、何を得て、何を失うのかという点に非常に注意を払っているのだ。きっと、その取引の収支を明確にしておくことは倫理学にとって、かなり重要であると考えるからこそなのだ。

『生き方』で行われている議論は、一言でいえば、この本の冒頭で示されるソクラテスの問い「人はどう生きるべきか。」を巡るものだと言えるだろう。

僕が読解した限りでは、「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるにあたり、内在的な視点から外在的な視点に切り替わるとき、何かを得る代わりに何かを失うという大きな取引がされていることを、この本は明らかにした。「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるためには、本来、すでに巻き込まれているこの人生を離れることはできないはずだ。だが、そこから離れ、あたかも部外者のように人生を語るとき、僕たちは何かを得て、何かを失う。

この視点の転回により得られるものの代表例は客観性だろう。俯瞰的に外部から捉えることにより、安定した視座から複数の人生を見比べて優劣をつけることができるようになる。そこから生まれるものが道徳であるとも言える。

(なお『生き方』において倫理と道徳は異なるものを指す用語として用いられる。道徳は倫理の一部であり部分集合である。倫理とは伝統や慣習に基づくものも含めた判断全般を指し、道徳とはそのうちの西洋文明特有の一般化、抽象化された価値体系を指す。)

一方で、内在から外在への転回により失われるものは、当事者的なこの人生だろう。人生一般であれば、外在的な視点からいくらでも論じることはできる。だが、この人生については外在的に論ずることはできない。いや、そのような人生についても「この人生」として外在的に論ずることは確かにできる。ただし、それができるということは、既に内在から外在への転回を終えてしまっているということである。

実は、言語自体が外在的なものであることから、言語によりこの転回の問題を捉えることには特有の困難がある。外在的な装置としての言語を用いて内在的な視点を捉えるためには相応の注意深さが必要である。

『生き方』は注意深く内在的視点から外在的視点への転回が生じる地点を捉えることにある程度まで成功したと言えるだろう。この本がその点に注意深くあることが可能であったのは、この本のテーマが「人はどう生きるべきか。」というソクラテスの問いをめぐるものであることと大いに関係があるだろう。人生についての問いを検討するならば、人生一般と、当事者としてのこの人生との間にあるはずの違いに注意深くあることは極めて重要であるはずなのだから。

つまり、この本は、この人生という内在的な視点を見失わずに、一方で、人生一般も含めた外在的な視点も切り捨てずに、「人はどう生きるべきか。」について考え続けた思考の軌跡だと言えるだろう。当然それは非常に困難な事業であっただろう。僕にはその一大事業が完全に成功しているかどうかはわからないが、少なくとも僕にとっては、とても有意義なものであった。

以上のようなかたちで『生き方』においては、内在的な視点から外在的な視点への切り替えが大きな意味を持っていたと僕は考えている。

5 特異点

ここまでふたつの本について論じたのは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、特に内在的な視点の重要性について理解をしていただくためのものであった。さきほど述べたとおり言語とは外在的な装置だから、文章で内在的な視点の重要性について説明することには特有の困難がある。しかし、二つの著作の力も借りて、なんとか伝えることができたのではないだろうか。

ここまでは、いわば導入部であり、ここからは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、内在的な視点の重要性を踏まえ、入不二の議論について論じていきたい。

入不二の議論のうち、特に着目したいのは特異点という用語である。

入不二は、昨年出版された『現実性の問題』や、その出版後に『現代思想』で行った対談『哲学とは何か、そして現実性とは』において、特異点という用語を用いている。例えば入不二は対談において「近藤さんの「これ」や永井均さんの〈私〉はもう通常の視点ではなくて特異点です。」と述べている。

特異点というアイディアは入不二の現実論の体系において重要な位置を占めていると思うので、特異点について正確に伝えるためには入不二の著作を読んでいただくしかないのだけど、一応僕なりの理解を簡単にまとめておこう。

特異点とは、「現にこれはある」「現に私はいる」といったかたちで表現できるような圧倒的な現実性の力の強さが、可能性や偶然性といった様相システムを圧倒し、様相システムが機能不全を起こし、潰れてひとつに圧縮されてしまった地点を指す。ある一面からの描写にすぎないが、このように述べることで、断片的にでも特異点に込められたものごとの大きさを伝えることができただろうか。

試しに永井の〈私〉について様相システムを用いて描写してみよう。現に〈私〉はいる、というときの私は、実は存在しなかったという可能性などない。では私が存在することは必然なのかといえば、そんなことはなくて、私は存在しないこともありえるはずでなければならない。こんな不可思議なものとしての私が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。このように描写してみれば、〈私〉に対しては様相システムが機能不全を起こしていることは明らかであり、これが、〈私〉は特異点であるということの意味である。

では、特異点とは何の特異点なのかといえば、僕の考えでは、さきほど2つの本を用いて説明してきた内在的な視点と外在的な視点とをつなぐ特異点なのではないだろうか。(入不二はそのような述べ方はしておらず、入不二は、特異点について、現実性という直接的には指し示すことができないものを、あえて指し示そうとするときに生じるもの、と考えているように思われる。)

再び、私という例を用いて描写してみよう。私とは、外在的な視点で捉えるならば、この世界に何人もいる人間のうちの一人である。一方で、内在的な視点で捉えるならば、私とは、この人生を当事者として生きている唯一無二の存在である。(永井の議論は更に、人間は各自に自らを唯一無二の存在として捉え、当事者として人生を生きている、という方向に進むが、ここではその手前で止めておく。)この2つの視点が私という地点で重なるからこそ、そこで様相は潰れ、特異点が生じる。このような意味で、入不二の特異点には、外在的な視点と内在的な視点をつなぐものとしての側面があるということである。

6 特異点の列挙

なお、特異点は私だけではない。入不二の議論を踏まえるならば、今、(可能世界と対比しての)この現実世界、指差しで示された「これ」といったものを特異点として挙げることができる。

今が特異点であるということは、私とほぼ同型の描写により示せるだろう。現に今である、というときの今は、実は今ではない可能性などない。では今であることは必然なのかといえば、そんなことはなくて、現在はかつて未来であり、やがて過去になるのでなければならない。こんな不可思議なものとしての今が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。

現実世界についても同様だが、注意を要するのは「これ」である。僕が目の前のコップを指差し、「これ」と言ったときの「これ」、つまり、このコップも特異点なのである。その理由を端的に述べるならば、このコップが特異点であるのは、「これ」と指さされたこのコップは、私、今、この現実世界と同様の特別さを持つからなのだ。私が今、この現実世界において、このコップを指差すことで、このコップは私に今、この現実世界において指さされた「これ」としての特異点となるのだ。指差しという動作が現実性の力の流れを象徴的に示していると言ってもいい。入不二はこのことを、現実性の力が波及・還流すると表現する。現実性の力は、私や今やこの現実世界や「これ」(このコップ)といったものすべてを巻き込むように波及・還流しているのだ。

注意を要するのは、ここまでの僕の描写が不正確なものであったということだ。僕はあたかも、「これ」は指さされたことにより、はじめて現実性の力に巻き込まれるかのように描写してしまった。だがこの描写はいわば方便であり、私や今やこの現実世界といったものは現実性がない状態から現実性を持つように変化するのではないのと同様に、もともと現実性を持たなかったただのコップが「これ」と指さされることで現実性を獲得するのではない、という点に注意が必要である。このコップは指差しなどされなくても「これ」としての特異点を有する。特異点としてのこのコップが以前は特異点でなかったということはありえない。それは、私が実は私として生まれなかったということはありえないのと同じことである。

特異点として、僕の机の上のコップのようなもの含めるならば、あたりを見回すと、至るところに特異点を見出すことができる。パソコンもモニタもペンもイヤホンも掃除機もすべてが「これ」であり特異点なのだから。

また、特異点は「これ」という表現に馴染むようなモノに留まらないだろう。ネコや家族や友人や通行人Aも特異点であり、歴史上の出来事や概念といったものも、そこに現実性の力が流れ込んでいる限り特異点として描写することができる。

例えば2011年3月11日に大震災が現に起こったということは、実はそうではなかったという可能性などない。ではそれは必然なのかといえば、そんなことはなくて、それより前の時点では、ちょうどその日に大震災が起こる確率はかなり低いものであったはずだ。更にはその震災により特定の誰かが亡くなり、誰かが助かるというところまで完全に一致するような事態が生じるというところまで考慮すると、天文学的に低い確率で生じた偶然であったはずだ。だがその天文学的に低い確率でしか生じないはずの事態が現に生じている。これは確率が100%であると言ってもいい。天文学的に低い確率と100%をイコールで結ぶことができるということが、歴史的な出来事が有する特異点性を示している。

概念についても同様である。例えば「優しさ」という概念について考えるならば、現に僕が人生を生きるにあたり「優しさ」を重視して生きているならば、それは特異点性を帯びることになる。僕が人生のなかで自らの行動を決めるとき、「勇ましさ」や「誠実さ」ではなくて現に「優しさ」を重視しているからだ。そのとき、「優しさ」という概念は並列された概念のひとつではなく、ただ僕の目の前にある唯一の概念として、いわば「これ」として僕の前に立ち現れているはずだ。

このように考えるならば、すべては特異点であると言ってもいいだろう。入不二はそれを現実性の遍在と言っている。入不二は現実性の力を「現に」という副詞により表現するが、現にコップはあり、現に東日本大震災は起き、現に僕は優しさを重視して生きているのだ。

7 特異点の階層

ここまで、私、今、現実世界、「これ」といったものを特異点として列挙し、また、特異点について、過去の出来事や概念といったものにまで拡張してきた。

しかし明らかに、私や今やこの現実世界といったときの特異点と、コップや過去の出来事といったものとでは特異点としてのレベルが異なるように思える。この机の上のコップの特異点性は、この僕が私であるという特異点性から派生しているに過ぎないように思えるし、東日本大震災の特異点性も、この僕が住むこの現実世界の特異点性から派生しているように思える。

特異点とは階層的に整理できるのではないだろうか。特異点ヒエラルキーの上層には人称的な特異点としての私、時制的な特異点としての今、様相的な特異点としての現実世界があり、そこから派生するものとして、この僕が指差したコップや、この現実世界の出来事としての東日本大震災がある。

なぜ、私や今や現実世界だけを特異点とせず、あえて派生するコップや大震災を議論に持ち出してまで特異点を階層構造としたのかといえば、実は私や今や現実世界よりも上の階層には、より上位の特異点を位置づけることができるという図式を示したかったからだ。

この特異点の階層構造は更に拡張できる。僕の考えでは、私や今や現実世界といった特異点よりも更に上位に、入不二の「現に」という副詞的な描写、つまり現実性を特異点として位置づけることができると考えている。

入不二はこの意見に同意しないだろう。入不二は多分「現に」とは特異点ではなく、現実性の力の現れそのものだと主張するだろうからだ。「現に」という現実性の力が人称システムと接触することにより特異点としての私が現れ、時制システムと接触することにより特異点としての今が現れるということになるのだろう。

だが、「現に」と表現し、「現実性の」力と名指しすることで、そこにはある種の不純物が混入してしまっているように僕には思えるのだ。入不二が述べたかった力とは「現実性の」力と限定的に記載されるべきものではなく、また、「現に」と描写されるべきものでもないはずだ。それは入不二自身が『現実性の問題』において、「現に、ソクラテスは哲学者である。」の「現に」を抹消することで示した道筋である。「現に」と明記されなくても現に「ソクラテスは哲学者である。」のである。

特異点ヒエラルキーの最上位には、「現に」という現実性が位置づけられ、第二階層に、私や今や現実世界があり、第三階層以下には、このコップといった「これ」や東日本大震災といった出来事や「優しさ」のような概念が位置づけられるということになる。

このような階層間の違いは、特異点階層の外にある力(としか言い表せないもの)に対して、どれだけの限定が加えられたかによって生じるのだろう。最上位で付加されたのは、現実性という限定のみだが、第二階層では、そこに、人称、時制、様相といったもののうちのいずれかが加わる。

同様に、第三階層以下についても、加えられた限定の数により階層は細分化するだろう。例えば、人称と時制という2つの側面からの限定が加えられると「今の私」が生じ、人称と時制と様相という3つの側面からの限定が加えられると「今の私の世界」といったものが生じていく。

(可能世界に対比されるものとしての「現実世界」という用語のうち、「現実」とは、入不二の議論を用いるならば実は第一階層の現実性由来のものであるといえるため、「世界」としている。つまり、様相システムとは、実は、世界を構成するものごとの複数性を示すものであると言えるだろう。この観点からは、様相システムというよりも、事物の複数性を導入するという意味で、内包システムと呼称したほうが適切のように思える。)

この特異点ヒエラルキーに更に説明的な文言を加えるならば、これは「現実性の観点からの特異点ヒエラルキー」であると言えるだろう。なぜなら、最上位が現実性であり、そこからすべての階層構造が始まるからだ。

このようにしてしか特異点ヒエラルキーを描くことができないという点に入不二の現実性の議論の正しさがあるように思う。なんとも名付けることができない力というものに輪郭を与えるために最小限の限定を加えるならば、それは「現に」という現実性しかないと確かに思えるからだ。ほかの観点からではここまで美しい構造を描くことはできないように思う。

(ここまで用いてきた特異点の例は入不二の議論からは大きくずれていないと思うし、多分、哲学の伝統にも概ね沿ったものだと思う。だが実は僕はこの特異点ヒエラルキーのかなり上位に、「対話」「肯定主義」「規則」「真のクオリア」というものを導入したいと考えている。できれば現実性に並ぶくらいのところに位置づけたいとさえ考えている。これはかなり野心的な試みになるのではないかと思う。)

8 特異点の特徴

ここまで、特異点を列挙し、階層というかたちで構造化する作業を進めてきたが、ここで特異点というものの特徴を示しておきたい。

特異点には、そこに視点を設定することで、唯一の視点から多くのものごとを捉えることができる、という特徴があるように思える。

例えば、今、現在という特異点に視点を設定してみよう。すると、過去とは現在において想起しているものであり、未来とは現在において予想しているものであるという捉え方ができるようになる。ここから、過去も未来もすべて現在であり、現在は永遠である、という考え方が導かれるようになる。今という特異点に視点を設定することで、多くのものごとを捉えるとは、このような捉え方のことを指している。同様の議論は私やこの現実世界という特異点でも可能である。

机の上のコップのような「これ」については当てはまらないのではないか、という反論があるかもしれない。だが「これ」とは指差され、現実性の力が波及・還流している「これ」である。いわば焦点が定められ、注目されているものである「これ」とは、注目しているこの現在におけるこの私にとっては、いわば全てである。僕が目の前のコップをただ見つめているとき、そのコップはこの今のこの僕にとってはこの世界全てであると言ってもいい。これはコップを通じてこの世界全てを捉えているとしてもいいのではないか。確かに、「これ」の特異点性を説明するためには、今、私、この現実世界といった道具立てを必要とするという点で、「これ」は全てではない。だが、控えめに言っても、かなり豊穣なものが、「これ」としての机の上のコップという特異点には込められている。以上の議論は、「これ」がコップのようなモノではなく、概念や過去の出来事であっても同様にあてはまるはずだ。

なお、特異点が持つ捕捉力とでもいうべきものが遺憾なく発揮されるのが、入不二の現実性という視点であろう。例えば命題という観点に立つならば「現に」という副詞は、どのような命題にも付加することができる。当然「ソクラテスは哲学者である」に付加できる一方で、「ソクラテスは哲学者ではない」も「現に、ソクラテスは哲学者ではない」であり、「ソクラテスはユーチューバーである」も「現に、ソクラテスはユーチューバーである(という文章が書かれた)」というかたちで「現に」を付加できる。更には、まだ一度も書き記されたことのない命題であっても、それは「現に」まだ一度も書き記されたことのない命題であり、決して起こることのない出来事も、それは「現に」決して起こることのない出来事である、というかたちで「現に」を付加できる。(このあたりは入不二の最深潜在性の議論に入っていると思う。)

入不二の現実性という視点は、「現実性」や「現に」という描写自体を除いては、すべてを捉えきっていると考えていいように思う。これが入不二の現実論の力であり、僕が入不二の現実性を特異点ヒエラルキーの最上位に置くべきと考える理由である。(一方で、「現実性」や「現に」というなんらかの限定からは逃れられないということが、入不二の現実性が特異点の外を指し示すことができず、特異点に留まると考える理由である。)

9 『現実性の問題』における内在的議論

さて、ここまで特異点について論じてきたのは、外在的な視点と内在的な視点とを接続するものが、この特異点だからであった。

僕は『現実性の問題』において入不二が立っていた視点は極めて内在的なものであったと思う。意図的なものなのか、それとも現実性というテーマ設定により必然的にそうなったのかはわからない。多分両方だったのではないかと思う。なぜなら、現実性には外部がないということを考察するためには、現実性を客観的に分析の対象とするような外在的視点に立つことはできないからだ。僕たちはどこまでも現実性の波及・還流として描写される力に巻き込まれている。僕たち自身がそのような事態を描写するためには内在的な視点に立つ必要がある。(一方で、その前の入不二の著作である『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外在的な視点と内在的な視点を行き来するように語り、そこに様々な「中間」という特異点を見出したと考えている。入不二の運命論とは、いわば「中間」という特異点をつなぎ合わせたようなものだと言えるだろう。そこでの議論には変幻自在な視点移動という点ではある種の自由さがある一方で、『現実性の問題』に比べると、焦点が定まりきっておらず、考察が突き詰められていないという側面があるように思う。)

『現実性の問題』において、入不二は極めて内在的な視点に立ちつつ、外がないはずの現実性の全体を捉えきろうとした。そこには矛盾があるにも関わらず、少なくともある程度までは成功しているように、僕には思える。

なぜ、現実性の内側から、現実性という考察対象全体を捉えるような芸当が可能になるのかといえば、入不二が特異点をうまく使ったからなのだと考えられる。外在的な視点と内在的な視点とをつなぐ特異点を抜け道として用いることで、入不二は現実性の内側に立ちながら、現実性をいわば全体から捉えることに成功したのではないか。

いや、入不二が行ったことはそれほど特別なことではないだろう。多分、特異点という抜け道は哲学者に限らず多くの人が使っているはずだ。なぜなら、内在的であるはずの思考というものを使って外在的に世界を捉えるためには、なんらかの抜け道を使う必要があるからだ。例えば、現代人にとって常識的な自然科学的で客観的な世界観を獲得するためには、時空や因果といったものを特異点とし、そこを蝶番にして内在的な視点と外在的な視点をひっくり返し、世界を客観的なものとして捉えなければならない。それはほとんどすべての人がやっていることのはずだ。

なぜ、このようなことがいともたやすくできるのかといえば、それは、この世界が特異点という抜け道に満ちているからだ。(世界という概念も含めて。)

だから、入不二が行ったことの特別さは、特異点という抜け道を使ったということではなく、どちらかというと、できるだけ特異点を使わず、極限まで思考を突き詰めることだったと言ったほうがいいかもしれない。だからこそ現実性という最上位の特異点を見出し、そこを経由し、最も高い次元で外在的把握を成し遂げたとも言えるのではないだろうか。入不二は特異点の使いどころがうまかったということなのだ。

10 内在的に生きる

『星の王子さまのキツネ』も、『生き方』を書いたバーナド・ウィリアムズも、『現実性の問題』の入不二基義も、内在的視点というものに意識的であるという点が共通していると僕は思う。

人間である限り、人はいとも簡単に外在的視点に抜け出てしまう。なぜなら、世界は特異点に満ちているからだ。特異点は特異な点などではなく、非常にありふれた点なのだ。

だからこそ、どの特異点を使い、どの特異点を使わないかという選択が重要となる。キツネもウィリアムズも入不二も使いどころをわきまえていた。三者の共通点は、意図的に目先の特異点にとびついて、あえて外在的視点に抜け出る必要などないという大方針だ。

僕たちが外在的な存在とならなくても、そこにはすでに外在的存在者がいる。それは神や死やヘビと呼ばれる者なのだろう。彼のお世話になるまでは、僕は僕の内在的な生を生きていくのだろう。

(なお、内在的に生きるにあたっては、できるだけ内在的な視点をやわらかなものとして拡張し、我が家を住みやすくしておいたほうがいいだろう。そのために役立つのが呼吸ではないだろうか。呼吸とは内在的視点と外在的視点の行き来を象徴するものであり、内在的視点から意図的に外在的視点に突き抜けては戻ってくるという練習になっていて、いわば内在的視点のストレッチになっているように思うのだ。(あくまで練習であるという点が重要である。))