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反出生主義再考

僕は反出生主義について少し触れたことがある。(『○○をしたい』http://dialogue.135.jp/2021/10/24/shitai/ という文章を書いています。)

そこで書いたとおり、僕は、反出生主義は間違えていると思っている。だけどそれは「生命とはこの僕によく似たものである。」と考える限りにおいてである。生命のことを客観的に考え始めると、反出生主義も捨てがたいものとなる。

例えば僕は、工場式畜産に対する嫌悪感から肉食に対して疑問を持っている。家族で焼き肉を食べることもあるけれど、自分ひとりのときはなるべく肉は食べないようにしている。(『動物倫理学』http://dialogue.135.jp/2021/08/15/animal/ という文章も書いています。)なぜそうするかと言えば、劣悪な環境で飼育され、短期間で殺される動物を減らしたいからだ。僕は家畜については反出生主義である。

僕が家畜について反出生主義をとるのは、僕は神様のように家畜たちを俯瞰し、この家畜たちの苦しみを減らしたいと願うからだ。家畜たちの生命を数えられるものとして捉え、苦しむ生命の数を減らしたいと思っている。

人間についても同様で、僕はアフリカなどではもっと避妊が広まり、人口が抑制されるといいと思っている。幸せに生きる準備ができていないところで、その許容量を超えて生命が誕生することは決して喜ばしいことではない。

僕が、家畜であれ人間であれ、絶滅を目指した究極的な反出生主義をとらないのは、幸福を分け与えることができるような適度な数量が維持できるのであれば、生命の数を調整しつつ残していくほうがいい、という考えがあるからだ。僕は穏健な反出生主義者である。

だけど、それはどうも自己欺瞞のような気がする。そういう穏健な反出生主義を選ぶことで、自分自身も生命の一員であるという事実から目を逸らしているだけではないだろうか。

反出生主義が真に問いかけるのは、当事者である僕も含めた生命のあり方である。もし僕が生まれようとする家畜の子供だったり、アフリカの子供だったりしたならば、その僕が悲惨な人生をおくるのが確実なのだから、僕は生まれるべきではない。僕は無のほうがいい。反出生主義はそのように主張する。だが本当にそうなのだろうか。僕が考えるべきはこのような問題である。このような難問を穏健な妥協策で切り抜けることはできない。(以前の文章での切り抜け方は、いわば、「僕という生命と僕以外の生命とは切り離すことができ、僕に対してだけは、反出生主義は無効である。」と答えたことになる。だがこの文章では、その切り離しはできないとしたらどうだろう、と考えていることになる。)

僕はこの問いに対する答えを持っていないけれど、答えを検討するにあたって重要なのは「時間」だと思う。僕は時間論が好きで、時間について色々と考えているからか、どうしても自分の好きな分野に結びつけてしまう。

常識的には「未来はやがて過去になる」という時間観があり、その時間の流れに沿うようにして「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な生命観がある。反出生主義の主張に力を与えているのは、この常識的な時間観であり、この常識的な生命観であるとも言える。過去に生まれたから、今ここで苦しみ、そして未来においては死んでいく。そのようなあり方をしている生命ならば、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにすればよい。

けれど、僕は、時間というものを「未来はやがて過去になる」というようなかたちで単純に捉えることにはどうも無理があると思っている。確かに時間にはそのような側面もあるけれど、それだけにはとどまらないものがあると考えている。それならば、「生まれ、やがて死んでいく」という生命観にも同様に無理があるということである。だから、苦しむ前にそもそも生まれてこないようにする、という反出生主義の単純な処方箋の有効性には疑問がある。

今のところ、僕はここから先の答えは持っていない。僕は「生まれ、やがて死んでいく」ことを全否定している訳ではないから、反出生主義が提起する問題は依然として深刻なものである。一方で、新たな時間論に光明を見出すこともできそうな気もする。僕が哲学的に考えていれば、いつか反出生主義を乗り越えることができるかもしれない。

そのような未来への希望を持つことも、「未来はやがて過去になる」「生まれ、やがて死んでいく」という常識的な時間観・生命観からのささやかな離脱の試みであるとも言える。

『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んで

はじめに

森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んだ。色々なことを考えたので、ひとつの流れにまとめて書こうと思ったけれど、うまくまとまらないので断片的に書き残すことにする。多分僕にとっては、この本はそういう本なのだと思う。考えるきっかけとしての本ということである。

五蘊と霊

この本によると、仏教では、物質、感覚、識別、意思、認識という5つの要素を五蘊(ごうん)と呼び、これをあたかも、持続して存在する実態としての「私」であるかのように錯覚するところから、執着が起こり、苦しみが生じるとするそうだ。(p.179)だから、持続し、輪廻するのは「私」ではなく五蘊という執着である、ということになる。(pp.180-181)仏教的には常識なのだろうけれど、僕は初めて知った。

なんとなく、この話は「怖い話」に似ていると思った。僕は気分転換に怖い話をSNSで読むことがあるけれど、僕が好きなのは、死者の念のようなものがひっそりと残っているような話だ。昔の事故現場で被害者らしき霊が佇んでいるのが見えたり、親の葬式のときに物が落ちたりするような。僕は、霊魂とまでは言わないけれど、その人が生きていたときの思念の痕跡のようなものが残存することはありうる気がしている。まるで急ブレーキをかけたかのように、ある人の人生が突然の死により急に途切れてしまったとき、止まりきれず、慣性により進み続けてしまう何かがそこにあるのではないか。

ただし、それを「何か」というと、何らかの実体があるもの、残存する思念のようなものをイメージしてしまい、誤解を招くかもしれない。あくまで、その何かとは、影のようなもの、あるいは、あえて、錯覚と言ったほうがいいだろう。

五蘊という執着も、これと同じ話のような気がする。霊とは、その人が生きていたという錯覚がリプレイされ続けているようなものだとするならば、仏教によるならば、この現世そのものが錯覚だということになるのだろう。

では、そのような事態を生じさせている「何か」とはなんだろうか。何かには実体はない。錯覚である。だが錯覚を生じさせる何かがそこにはあるのだから、そこに何もないということではない。このとらえどころがない何かを僕の言葉でどのように表現すればいいのだろうか。

喩え話を用いたほうがいいかもしれない。ある人の人生をテニスボールの動きに喩えよう。そして人生を観察する第三者の視点を、テニスのラリーを観戦することに喩えよう。つまり観戦者は、誰かの人生の比喩としてのボールの動きを目で追っているということになる。そして、ラリーのなかでボールがネットにかかってしまったとしよう。つまり死である。そして観戦者はボールの行方を見失しなったとしよう。ボールを見失った観戦者は、ボールが進むはずだった方向に視線を動かし続けることもあるだろう。僕が考える何かとは、そのような視線の動きのことである。五蘊とも同視できるだろう何かとは、急にその人の人生が途切れたということを受け入れきれず、その人の人生を観察し続けようとする観察者の視線の動きのことだということになる。視線は(科学的な語用ではないけれど)慣性により動き続けたと表現したと言ってもいいかもしれない。そのような意味で、これは、慣性により生じた錯覚だということである。

重要なのは、そこで重要な役割を果たすのは、当事者であるボールやある人の人生ではなく、それを観察する第三者の視線の動きだという点だ。ここでは、ボール自身からテニスの観戦者へ、または、人生を送って死を迎えた人自身からその人生の観察者へ、という人称的なズレが生じている。当事者ではない観察者だからこそ、予測して視線を動かす必要がある。予測するから予測が外れると慣性により間違えた動きをすることもある。当事者であれば自らのことについて間違いを犯すことはない。

僕の考えでは、この一人称から三人称への人称的なズレと仏教における五蘊という執着はイコールで結ぶことができる。三人称的に自分自身を捉えざるを得ないという人間の業こそが、自分自身に対する執着、五蘊、つまり物質、感覚、識別、意思、認識を生じさせている、ということである。だから、仏教における悟りとは、このズレを逆転させ、三人称から一人称に自分を捉え直すということなのではないだろうか。

だが、この三人称から一人称への逆転は、悟りという言葉を使わなければならないくらいに困難なことだろう。きっとそれは、自らをテニスの観戦者の立場からテニスボール自身として捉え直すくらいに根源的な転回であるはずだ。だから、本来立ち返るべき、目指すべき一人称とは、きっと僕自身も含め、ほとんどの人が垣間見ることもできないものなのだろう。

(それでもあえて想像するならば、純粋な一人称と純粋な無人称は一致するはずだ。僕が学んだ哲学によれば、そういうことになる。)

実験哲学

この本によれば、ニーチェは実験哲学を行ったそうだ。

実験哲学とは、つまり、自分自身がその哲学を生きるということだ。これは世間での哲学という言葉の使い方に近いように思える。人生哲学や経営哲学というように、信条や思想を哲学と呼ぶことがある。これは、その信条や思想ともに人生を過ごしたり、経営を行ったりするということである。

僕は従来から、哲学と思想は全く違うと思っていた。違っているどころか正反対のものだとさえ言ってよい。哲学とはそのアイディアをも疑い、吟味するものだが、思想とはそのアイディアを信じ、従うということだ。だから立憲主義や共産主義という思想は共産主義を信じるものであり、立憲主義や共産主義を疑うことは許されない。

ニーチェの実験哲学という用法には、そのアイディアを信じ、実践するという意味合いが込められている。その点で僕の考えによれば、ニーチェの実験哲学は哲学ではなく思想に位置づけられるということになりそうだ。

だが、僕の判断では、ぎりぎりでニーチェの実験哲学は哲学として踏みとどまっていると言いたい。僕は思想よりも哲学を好ましいと思っているので、あえて言うならば、ニーチェの哲学はぎりぎりのところで思想への堕落から免れていると言ってもいい。なぜかといえば、ニーチェは自らの哲学を信じ、従うことを他者に押し付けていないからだ。

従来の僕は思想と哲学の違いについて、信じるか疑うかという線引きをしていたけれど、より厳密に捉えるならば、その信じたことを他者に対して主張し、押し付けるか、それとも、自分自身のなかだけで信じるか、というところで区分したほうがいいのかもしれない。

その理由はいくつか考えられる。

まず、哲学とはあらゆるものをその対象とするから、当然、何かを信じて実践することについても哲学の対象となりうる。それならば、哲学は「何かを信じて実践すること」をその内容に含んでいなければならない。つまり、哲学は「何かを信じて実践すること」から完全に離れることはできない。

もう一つの理由として、哲学において真なる知に至るやり方として、とりあえず、あるアイディアに沿って実践してみて、それが成功するかどうかで真偽を確かめるというやり方が有効である可能性があるという点がある。まさに実験である。そのような手法を認めるならば、仮にとりあえず、信じて実践するということはありうる。

他にも理由は考えられるかもしれないが、重要なのは、人様に迷惑をかけない、ということだろう。思想の押し付けは迷惑だが、自分だけがその思想を信じる分には迷惑ではない。その謙虚さが哲学と思想を分けるのだとすれば、謙虚な思想に哲学という別名を与えることはそう悪いことではないと思う。

物理主義

僕は、(永井的な)私やクオリアといった問題領域における物理主義というものにどうやったら魅力を感じられるのかがよくわからなかったけれど、この本でヨーナスの代謝型生命論(pp.334~335)を知り、こういう考え方なら物理主義に乗る人もいるかもしれない、と思った。

ヨーナスは生命が常に行っている新陳代謝に着目する。コンピュータと違って生物は、細胞レベルでは常に新陳代謝をして微小物質の入れ替わりを行っている。つまり生物とは、テセウスの船のように、その身体を構成する物質をどんどん入れ替えながら、生命としての同一性を保って生き続けている存在なのだ。つまり肉体は入れ替わっていくのに、意識は継続しているということであり、意識を生命として捉えるならば、物質レベルとは別次元で生命が存在するということである。

このことを、(永井的な)私やクオリアといった問題領域に当てはめるならば、新陳代謝という物質的な道具立てにより、生命や意識というものを物理的に捉えることができるということであり、そこに私やクオリアといった現象の発生源を位置づけることもできるということになる。つまりクオリアとは、物理的な微小物質の入れ替えにも関わらず、生命として一体性を保つことにより生じる物理的な現象であり、その一体性こそが私なのである、ということになる。

僕はそれに与しないけれど、僕の仮想敵国としての物理主義というものがどういうものかが少しはわかった気がする。

(僕は、例えば、地球や太陽や焚き火の炎も、微小物質を新陳代謝しながら一体性を維持しているけれど、それらも僕たちと同等の生命なのか、とヨーナスに反論してみたい。)

二人称的な指し示し

この本を読み、そして『まんが哲学入門』を思い出し、なんとなく、森岡の立ち位置が少しわかった気がする。森岡の単著はこの2冊しか読んでないけれど、僕なりに腑に落ちたので書き残しておくことにする。

『まんが哲学入門』で最も印象に残るコマは、哲学をまんまるくんに教える先生がこちらに向かって指差しをする場面だ。(p.167)

この場面は、ひとり存在(『生まれてこないほうが良かったのか?』では独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、ということを表現している。この箇所が(少なくとも、僕にとっての)森岡の哲学の最重要点だと思う。

この森岡のアイディアは興味深い。だけど、僕の理解では、このようなアイディアは似たようなかたちで別の哲学者が行っている。何人かの哲学者に、独在的存在者はどれか、と質問する場面を想像してみよう。(以下、不正確だけど雰囲気として、こんな感じかな、という描写となります。)カントならば、独在的存在者は、それぞれの人間としての超越論的統覚である、と答えつつ、あたりにいる人間を指差すだろう。永井均ならば、独在的存在者は「私」である、と答えつつ、自分自身を指差すだろう。入不二基義ならば、独在的存在者は「現実」である、と答えつつ、周囲を包み込むように指し示すだろう。そして、森岡正博ならば、独在的存在者は「あなた」である、と答えつつ、その質問者のことを指差すだろう。

それぞれ、やり方は違うけれど、それぞれのやり方で独在的存在者を指し示すという動作は行うことができているし、その指し示す動作ができるというところに、彼らの哲学の正しさが含まれていると僕は理解している。

更に重要なのは、いずれの指し示し方をしても、そこで話は終わらず、結局はそこから「全て」に話が波及していくという点だ。森岡の描写に従うならば、カントの超越論的統覚とはアートマンであり、ショーペンハウアーによればアートマンとは物自体である。つまりカントが指差した超越論的統覚とは、結局は、この世界の全てとも同一視できるだろう物自体とつながっている、ということになる。永井の「私」についても、この世界全ては「私」の世界であるという独在論的な世界把握につながっている。入不二は、出発地点からして「現実」という全てである。そして森岡の「あなた」もアートマンと接続するかたちで論じていることからも、物自体としての全てへの道筋に乗っていることは明らかである。指差しの仕方の違いは、単なる出発地点の違いであり、到達するところは「全て」であるという点で大きな違いはないとも言える。

以上のように考えるならば、森岡が行った、独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、という語り方は、新しくはあっても、既にいくつかある指し示し動作の新たな派生型のひとつだと理解しても、それほど間違えていないだろう。無人称のカント、一人称の永井、超人称?の入不二に加えて、二人称の森岡ということになる。

二人称と生命

この本を読むまで、正直、どうして森岡が二人称にここまでこだわるのかがわからなかった。二人称の問題というのはせいぜい、一人称と無人称の中間に位置づけられる、派生的な問題だと思っていた。だけど、森岡自身は語っていないが、彼が二人称にこだわる理由を僕なりに整理できた気がするのだ。ここからはそのことを書き残しておきたい。

 森岡の哲学は「生命の哲学」だ。僕は、森岡における生命とは何かについて興味があったのだが、この本を読んだ限り、そこに大きなひねりはなく、自然科学的に真正面から生命を定義している。つまり生命とは、何十億年前に微生物として誕生し、人間にまで進化した、この生命である。だから当然、森岡も、僕も、人間は皆生命であるということになる。正直、僕は、哲学的にはあまり面白くないなあ、と思った。

だけど、ここで、森岡が行った二人称的な指し示しを思い出してみるとパズルの最後のピースがはまったような感覚があった。独在論的存在者というような形而上学的な次元を出発地点として、このような常識的な生命像を描くためには、二人称的な指し示しが必要なのではないか。

森岡(まんまるくんの先生)は、僕を指差し、独在的存在者は「あなた」だと言う。それを受けて、僕は「独在的存在者とは、ああ、この僕のことなのか。」と思いたくなる。だけど、実はそうはならない。なぜなら、独在的存在者とは、どこまでも、この僕ではなく、「あなた」でなければならないからだ。僕は、僕自身のことを独在的存在者として指差すことは許されない。(それをしてしまったら永井の道筋となる。)僕は、独在的存在者である「あなた」として、更に別の人を指差さなければならない。そして、その指さされた誰かは、同様にまた別の人のことを指差すことになる。その誰かも、また別の誰かを・・・このようにして指差しの連鎖が生じることになる。

この連鎖が生命というアイディアと整合するように思えるのだ。なぜなら、この連鎖は、「あなた」として指差し可能な対象すべてに指差しが行われるまで続けられるからだ。その対象とはきっと、指差されることが可能な存在、つまり生命を持つものすべてと一致するだろう。つまり、この連鎖は、生命の連鎖である、ということになる。太古の昔に地球に生命が生まれてから、そして将来、生命が絶滅するまでの間のすべての生命が、「あなた」という指差しによりつながっている。森岡が描こうとした生命とはそのようなものなのではないだろうか。

このようにして描かれる形而上学的な生命の姿は、そこから生命の哲学を描き始めるためのキャンバスとしては必須のものとなるはずだ。なぜなら、そのように連鎖しているものとして描かれた生命は、平等であり、独立であり、動的であるはずだからだ。(カントの無人称は静的であるという点で、永井の一人称は不平等であるという点で、入不二の超?人称は非独立であるという点で、それぞれ常識的な生命像と折り合いが悪いような気がする。)

そして、この「あなた」の指し示しによる連鎖は、きっと、出産して子孫を残すという、この本で問題となってきたような意味での生命の連鎖とも重なり合うように思える。つまり、出産とは、「あなた」の指し示しと等しいとも言えるのではないか。反出生主義とは、この生命の連鎖に正面からNOを突きつけようとするものなのだから、森岡としては、是非とも反論しておく必要があったのだろう。

指差しの差し返しと時間

ここまでうまくまとめたような気もするけれど、少々怪しいところもある。なぜ、(永井のように)自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。また、指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。(指差しを一部で循環せず、生命全体に広げていくためには、別の人を指指ささなければならない。)

このことに答えるためには、時間論に話を広げる必要があるだろう。

僕は、ある瞬間とある瞬間の間にある時間的な断絶を深く捉えている。一瞬前の僕は今の僕とは違うし、一瞬後の僕も今の僕とは違う。瞬間ごとに僕は断絶している。僕はそう考えている。ちょっと常識とはかけ離れているけれど、過去に対しては記憶を想起するというかたちでしかアクセスできないということを考えるならば、きっとそれは揺るぎない事実である。

だけど、一方で時間は完全に断絶しているのではない。僕は一瞬前も僕であり、一瞬後も僕であるはず、なのだから。これもまた、揺るぎない事実である。

この断絶しているのに断絶していないという不思議さは、時間論における大問題なのだろうけれど、この不思議さと「あなた」という指差しの不思議さは重なり合っているように思う。「あなた」という指差しが成立するためには、私とあなたが独立していなければならないけれど、指差しが可能である程度には関係づけられていなければならない。「独立しているけれど、関係がある。」このような不思議な関係性は、人称と時間の両方で同じように生じており、その意味で、この二つを重ね合わせることは可能であるように思える。

もし、私から「あなた」へという人称的な指差しと、今から過去へという時間推移とを重ね合わせることが許されるならば、先程の二つの指差しの問題、つまり「自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。」と「指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。」という二つの問題はいずれも解決するように思える。つまり、現在の私が現在の私を指差しできないのは、そこに時間推移があるからであり、私を指さそうとしても、それは別の時点の私という「あなた」になってしまうからである。また、指差した人のことを指差し返そうとしてもできないのは、それも別の時点の「あなた」になってしまうからである。

このようにして、時間的な断絶を深く捉え、そしてそれを人称的な断絶と重ね合わせ、それでもその断絶を指差しにより連鎖させることで、繋がっているけれど独立であるという不思議な生命の存在をうまく描写できるのではないだろうか。

正直、僕は、森岡と哲学的な問題意識をあまり共有しておらず、なぜ森岡はそこにこだわるのか、と理解できないことも多いけれど、一方で、興味深く、刺激となるところも多いなあ、と思う。僕と森岡との哲学的関係も、断絶しているようで連鎖している不思議な関係なのかもしれない。

『あるようにあり、なるようになる』から『現実性の問題』へ

1 どのような視点から書かれたものなのか

入不二基義の二つの著作、『あるようにあり、なるようになる』(以下、『あるなる』)と『現実性の問題』について書こうと思う。僕は入不二のファンであり、この二つの著作については既に長文を書いている。『「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~』(以下、『あるなる』についての僕の文章)と『「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた』(以下、『現実性の問題』についての僕の文章)である。そこに更に書き足したいことを思いついたので、この文章を書くことにする。

(僕はあまり自分の文章を読み返すことはないのだけど、この文章書くのに先立ち、僕の文章をななめ読みで読み返してみた。すると、なかなかいいこと言っているところもあるじゃん、と思いつつ、何を言っているかさっぱりよくわからないところも多かった。特に『あるなる』についての僕の文章はひどかった・・・。ということで、僕の長文のほうは読まなくていいです。)

さて、僕がこの文章で問題にしたいのは、入不二の二つの著作は、どのような視点から書かれたものなのか、ということである。なぜ、そのようなことを問題にするのかといえば、議論がどのような領域において繰り広げられているかを見極めることは、その議論の正しさを評価するにあたって極めて重要なことだからだ。そして、議論の領域が正しく設定されているかどうかを見極めるためには、その議論を行っている者の視点を無視することはできないからだ。

例えば、アフリカの野生動物を保護するべきである、という文章が、象牙でできたペンで書かれていたらどこかおかしいと感じるし、男女平等参画社会を目指す会議が男性ばかりで構成されていたら説得力がない。懐疑論に対する最も力強い批判は、懐疑論者が懐疑論を確かなものとして主張するということに対するものであろう。つまり、お前はどのような立場から言っているのか、という批判である。

議論の領域は、その議論を行っている者の視点も考慮のうえ、設定されなければならない。

2 『あるなる』における中間という内側の視点

『あるなる』については、どのような視点から描かれているかという問題に対する答えは明確である。『あるなる』は、どこまでも「内側」から描かれたものであると言っていいだろう。

なぜなら『あるなる』は中間についての話であるからだ。中間とは、現実と言語の中間であり、時間的には連続と断絶(時間原理Ⅰと時間原理Ⅱ)の中間である。(ここから先、注意すべき点としては、『あるなる』における現実性は『現実性の問題』における現実性とは異なるということがある。『あるなる』の現実性とは、ざっくりと対比するならば、『現実性の問題』における潜在性に近いと考えてよいだろう。)

中間であるとは、つまり両極にはみ出ることなく、その内側に留まるという意味がある。当然、入不二の極限まで突き詰められた議論においては、内側や留まるという言葉すら常識から離れているが、それでも、内側という言葉をうまく当てはめることはできる。

一応、『あるなる』の議論が、中間という内側の視点から描かれたものである、ということについて、僕なりに『あるなる』の内容に即して示したい。

入不二の区分とは異なるが、僕の理解では、『あるなる』は大きく3つの部分に分けることができる。①プロローグ「概念を動かしてみる」、②第1章~第24章「反復する〈中間〉」、③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」という区分である。

『あるなる』とは①プロローグにあるとおり「概念を動かしてみる」話である。当然、その動かされる概念とは「運命」という概念である。そして、②第1章から第24章までを通じて入不二が行ってきたことは、入不二自身が「論理的運命論をめぐる私の考察は、運命論の重心を移動させ、内側から書き換えるような思考であった。」(あるなるp.305)と述べているとおり、その実践の記録である。

僕はこの、概念を動かすという姿勢のなかに内部性を読み取る。僕のイメージでは、概念を動かすとは、子供が粘土遊びをするように、概念をこねたり丸めたりするような作業である。あくまで粘土という素材だけを用いて、その素材が持っているポテンシャルを最大限まで引き出そうとするような作業だと言っていいだろう。粘土という素材から離れていないという意味で、この作業は内側からの作業と呼ぶことができる。一方で、例えば、子供のブロック遊びは外側の作業であると言えるだろう。おもちゃ箱という外側から、どんどん足りない部品を持ってきて付け加えることで、例えばロボットを作り上げる。

入不二の作業はブロック遊びとは異なる。あくまで、既存の運命論という素材だけをこねたり丸めたりすることで、入不二独自の運命論を作り上げるものであり、まさに「運命論の重心を移動させ、内側から書き換えるような」ものであった。なぜ、内側にこだわるのかといえば、哲学においては、おもちゃ箱という外側などないからだ。運命というような極めて大きな問題を相手にするならば、運命の外側から何かを持ち込むということには極めて慎重にならなければならない。

ここで、②第1章~第24章「反復する〈中間〉」において、どのように中間という内側の視点からの議論が行われてきたかを簡単にまとめておこう。

『あるなる』についての僕の文章における僕の理解では、中間とは、ベタとスカの中間であった。ベタのほうには絶対現実(繰り返すが『現実性の問題』の現実とは少し違う)とも同一視できる想起阻却過去とベタな(連続する)時間推移が割り振られており、スカには言語(による分割)とケセラセラの(断絶した)未来とが割り振られている。これは入不二が述べていることに僕独自の考えを付け加えたものだ。入不二は明確に、現実と言語の対比、連続と断絶(時間原理Ⅰと時間原理Ⅱ)を対比している。僕はそれに加え、過去と未来とを対比し、現実・連続(時間原理Ⅰ)・過去というセット(ベタ)と、言語・断絶(時間原理Ⅱ)・未来というセット(スカ)をつくりあげたということにある。そのうえで、両者の間に〈中間〉を見いだしたということになる。この〈中間〉についてしつこいほどに述べている第24章は『あるなる』のひとつのクライマックスだと言ってよいだろう。

僕の理解では、②第24章までで描かれたものは、大きな川のうねりのようなものである。僕はベタとスカという対比で入不二の議論を理解したけれど、そのうち、現実・連続(時間原理Ⅰ)・過去というベタのセットで描かれたものは、『現実性の問題』の用語も用いるならば、遍在的なマテリアルである。それは巨大でそこに全てが含まれていると言ってもいいけれど、そこには動きだけがない。そこに動性を持ち込むのが、言語・断絶(時間原理Ⅱ)・未来というスカのセットである。ベタにスカが加わることにより、遍在的なマテリアルがうねり動き出すことになる。

だが、そこで終わらないというところに『あるなる』の魅力がある。③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」において、更にその先が描かれるのだ。そこで行われることは、遍在的なマテリアルのうねりが持つ力強さを竜に喩えるならば、その竜に目を描くことである。画竜点睛である。(僕がここで竜を持ち出しているのは、本文では明言しないけれど、『現実性の問題』における野生の猛獣の力の議論と関係を持たせたいからである。)

目ということを、より正確に述べるならば、そこで描かれるのは筆者入不二基義の立ち位置であり、僕の哲学的な問題意識に引き寄せるならば、それは、「今ここの私」という特異点の場所である。

『あるなる』の最終章において入不二は、「今ここの私」という特異点の居場所は、運命論の内側にしかないということを明確にする。入不二の運命論における最深部の運命とは、「今ここの私」はどこまでも中間から逃れることは出来ず、その居場所は運命論の内側にしかありえないという運命のことだったのである。

このような描写をすると、入不二の議論が運命に囚えられた、閉塞感のあるようなものとして受け止められてしまうかもしれない。しかしそうではない。確かに、第24章までの『あるなる』の議論は、緻密に、執拗に、どこまでも中間に立ち戻るようなかたちで進められる。だから閉塞感とまでは言わなくても、そこには緊張感が常にただよっている。

しかし、第25章に至り、その緊張感が一気に解放される。そこにあるのはケセラセラの未来にも似た、まさに「あるようにあり、なるようになる」という解放感である。僕は第25章における「ビッグウェーブに乗る」という比喩が好きなのだけど、そこにあるのは、アメリカ西海岸のサーファーのような?解放感である。

もし、③第25章「運命論と自由」・エピローグ「運命に乗る」がなければ、入不二の運命論とは、竜のうねりのようなものであり、僕たちは、そのうねりに巻き込まれ、翻弄されるだけだっただろう。僕たちは竜に囚えられた悲しい犠牲者である。だが、入不二はその竜に目を描き、その竜の力を我が物にすることに成功したのだ。当然、それは竜を使いこなすこととは違う。竜というビッグウェーブにサーフボードで乗り、拮抗するというかたちで、その力と、一時的にせよ一体化することに成功したということである。

当然、入不二は、レスリングはしてもサーフィンはそこまで上手ではないだろう。入不二のサーフボードとはきっと、マックブックか何かであり、つまり、入不二にとっては、この『あるなる』という文章を書くという実践こそが、ビッグウェーブに乗るということであったのだろう。

僕の理解では、この『あるなる』という本は、特異点としての入不二自身が運命論に関する考察を行うという運命についての、その運命の内側から描かれた記録である。そのような意味で『あるなる』は、この『あるなる』という本の内側から描かれ、入不二自身の運命の内側から描かれたものである。そのような意味で『あるなる』はどこまでも内側から書かれた本なのである。

3 コペルニクス的転回

そして入不二は、『あるなる』という本を経て、『現実性の問題』を書いた。僕は以前、『現実性の問題』について『あるなる』と対比して、このようなことを書いている。

この点で、「あるなる」とこの本を比較すると面白い。前者は、自己抑制的に、いわば緊張的な筆致で運命論に絞って描写することを通じて、最終章のサーフィンにつながるような自由を描いていた。後者は、いわば好き勝手に自由に主題を行き来しながら、円環モデルやn位一体と表現されるような緊張的な構造を描いている。ここには自由と緊張の交差関係を見いだせるように思う。

この文章を書いたときの僕の理解では、『現実性の問題』は、『あるなる』においてはあれほどこだわっていた中間・内側という制約からいきなり離れ、神のような視点に立つところから議論が始まっている。神のように俯瞰した視点に立つことができるからこそ、円環モデルのような構造を描き出すことができるということである。入不二の二つの文章を対比するならば、『あるなる』においては、中間・内側という人間の視点にどこまでもとどまりながら、そこで概念を動かすという作業を通じて、ビッグウェーブに乗るというかたちで神を垣間見ることに成功した。一方で、『現実性の問題』においては、神の視点に立ち、そこで円環モデルという構造を描くという作業を通じて、円環モデルを経巡る人間という存在を描くことに成功したことになる。

だから、この対比は、概念を動かすという作業と、(円環モデルのような)構造を描くという作業との対比でもある。『あるなる』の議論においては、論理を用いて概念を動かすという地道な作業の積み上げにこそ、その議論の正しさの源泉があったが、『現実性の問題』の議論の正しさは、円環モデルのような議論の構造の美しさに由来する部分が大きい。円環モデルには円という図形の美しさがあるし、あとがきでのActu-Re-alityの考察についても、複雑なパズルをいとも簡単に解いたような美しさと快感がある。

このようなものとしての『あるなる』と『現実性の問題』の関係を、僕は、自由と緊張の交差関係と呼んだが、僕は、これは内側から外側への転向、または人間から神への転向であり、その転向を正当なものとして支えているのは、入不二が暗黙裡に行ったコペルニクス的転回だと思っていた。

入不二は、『あるなる』で行き着くところまで行ってしまった。そして、そこから先に歩みを進めるために、視点を切り変え、『あるなる』で行ったような議論を支えるためには、どのような構造が必要なのかということを考えたのではないか。(と僕は推測した。)つまり「ある主張が成立するのか。」を問題とするのではなく「ある主張が成立するための必要条件は何なのか。」を自らの問題に据えたということである。(と僕は推測した。以下、省略。)

当然、入不二自身が考察しようとしたのは、『あるなる』で描写したようなビッグウェーブや大河の流れや竜のうねりに喩えられるようなものがある、ということについてである。

だから、当然『現実性の問題』においては、『あるなる』におけるビッグウェーブ(または大河の流れ、または竜のうねり)とは何なのか、ということが問題となる。ビッグウェーブというものを正確に把握することが、ビッグウェーブに乗るという主張が成立するための条件を探るためには必要不可欠だからだ。

その答えとして、入不二は円環モデルを描いたのだ。(正確には波及と還流モデル(p.234)を描いたのだ。)つまり、円環モデルとは、ビッグウェーブのあり方を描いたものであり、ビッグウェーブとは、経巡る円環の一場面を描写したものであるということになる。

つまり、ビッグウェーブを成立させるためには、円環モデルのようなものを想定することが必要条件なのである。僕はこのように、入不二は、『あるなる』と『現実性の問題』の間に、コペルニクス的転回とでもいうべきものを成し遂げたのだと考えていた。

4 『あるなる』と『現実性の問題』の関係

そのような僕の捉え方は、後ほど否定することになるけれど、ある程度は成功しているように思える。

円環モデルにおいて、もっとも重要な区分は、円環モデル自体と、円環モデルに対して三次元的に描かれる矢印との間にある区分である。最近の入不二の用語では、現実性1~4と現実性0の間にある区分であり、『現実性の問題』の用語を用いるならば事実性・様相・潜在性とも描写される現実と、力としての現実の間にある区分である。

『あるなる』と比較しての『現実性の問題』の最も大きな成果は、この現実性0、力としての現実を抽出することに成功したところにある。だから『あるなる』と『現実性の問題』を見通しよく対比するためには、この新規要素である力としての現実を無視すると、ある程度うまくいく。

円環モデルから力という要素を捨象すると、そこには、潜在性と事実性の対比を見出すことができるだろう。これは、『あるなる』において僕が見いだした、ベタとスカの対比と同列のものである。

ベースにはベタの潜在性がある。『あるなる』ではそれを絶対現実と呼んでいたし、時間の連続性を強調した時間原理1も含まれる。僕ならば更に想起阻却過去をそこに加えたい。

そこからスカが対比される。スカとは特定のものごとPであり、そこにある可能性・偶然性という様相であり、『あるなる』ならば言語による分節化であり、時制区分を強調した時間原理Ⅱのことである。僕ならば更にケセラセラの未来をそこに加えたい。

ただし、スカは不徹底なものにならざるを得ないから、いずれの例もスカそのものではない。それぞれがそれぞれの程度までベタを含んだスカである。だからこそ、円環モデルにおいては、スカは徹底されず、いずれ半円の右側の事実性の領域から左側の半円の潜在性の領域に転回し、回収されることになる。

これらの例のなかで最もスカ性が高いのは言語とケセラセラの未来だろう。ただし、言語は、複数の人間が共有する(または個人が通時的に理解できる)公的言語である限り、共有という連続性、ベタ性が含まれてしまっている。また、ケセラセラの未来についても、それが未来として差し示されてしまっている限り、指し示す現在と連続し、そこに連続性、ベタ性が含まれてしまっている。

なお、ベタについても同様に、ベタを指し示すと、そこに個別性としてのスカ性が混入してしまうという困難があるのだけれど、その困難を乗り越え、ベタのベタ性を余すことなく指し示すことができたというのは、『あるなる』と『現実性の問題』に共通する、入不二の成果だと思う。

指し示しの困難の問題はともかくとして、このようにして『あるなる』と『現実性の問題』は接続することができる。だから、『あるなる』のビッグウェーブと『現実性の問題』の円環モデルとが接続しているという僕の考えも、そう間違えていないと思う。

5 『現実性の問題』の神の視点の現実への取り込み

先ほど僕は、入不二は『あるなる』から『現実性の問題』にコペルニクス的転回を行った、とした。もしそうだとしたら、その転回は成功しているのだろうか。

ある一面では明らかに成功していると言えるだろう。なぜなら、円環モデルというような美しい構造を描き出すことに成功したのだから。だが、そのような構造を描くことができるような俯瞰した神の視点に立つことがなぜできるのだろうか。入不二の(入不二が行ったと僕が勝手に思っている)「ある主張が成立するのか。」から「ある主張が成立するための必要条件は何なのか。」へのコペルニクス的転回は本当に成功しているのだろうか。

この転回は、ある種の撤退だとも言えるだろう。カントにせよ入不二にせよ、本当に知りたいことを本当に知りたいようなかたちで問うことを諦め、その代用品のような問いで満足するということは撤退であり、問いの劣化である。もし、本当に知りたいことを、人生を賭けて問い続けることを哲学的人生と呼ぶならば、人生の劣化と言ってもよい。

同じことを、不誠実という言葉を使って表現することもできるだろう。俯瞰した超越的な視点を設定するということは、その視点だけはその視点から描かれる議論の圏域に囚われていないということを意味する。例えばカントの議論ならば、カントの超越論的な視点は、カントの超越論的な議論領域からはみ出てしまっているように思える。(その問題を指摘しているのが永井均の独在論であるとも言えるだろう。)このような特権的なものごとをこっそりと密輸入するのは不誠実と言っていいだろう。

だが、一方で、入不二に限っては撤退などしていないし、不誠実でもないとも言える。なぜなら、入不二の議論には遍在的な力という現実性があるからだ。入不二の現実性の力は、その遍在性により、入不二が設定した俯瞰した神の視点をも覆い尽くす。入不二の議論は、その始発点において、特権的な神の視点を設定し、そこから俯瞰するように議論を始動しながらも、そこから遂行的に、自らの視点をも遍在的な現実の力で取り込んでしまうのだ。それは例えば「入不二は、現実性の圏域を離れた神の視点に立っている。」という文にも、「〈現に〉入不二は、現実性の圏域を離れた神の視点に立っている。」というかたちで「現に」を付加できることにも現れている。つまり入不二は、神の視点に立ちながら、それが撤退や劣化や不誠実ではなくするという芸当を遂行的に行っているということなのである。

ここで述べたことは、そのまま、円環モデルで描き直すことができるだろう。「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つ」が任意の出来事Pである。そこから出来事Pは「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つことができていない」というPの否定を生み、そこから様々な可能性が生じる。更に、潜在性の領域への転回を経て、「入不二が現実性の圏域を離れた神の視点に立つ」という出来事は潜在的なマテリアルの大きな流れに取り込まれる。これがつまり、自らの視点をも現実の遍在性の力で取り込んでしまうということである。入不二の議論を入不二の議論自体にメタ的に適用することにより、入不二の議論は、撤退や不誠実といった追及から逃れ、遂行的に自らを正当化するのだ。

6 やや脱線:力としての現実と潜在性としての現実の関係

この文章での本筋から脱線するけれど、ここで、『現実性の問題』における力としての現実と潜在性としての現実の関係について考えてみたい。

入不二の描写では、明らかに力としての現実が最優位であり、全てを支配し、その力により、潜在性としての現実も生じているとさえ言っていいと思う。それが言い過ぎでも、少なくとも、潜在性としての現実よりも力としての現実が優位であるということまでは言っていいだろう。

だが、ここまで述べてきた限りでは、力としての現実と、潜在性としての現実とは互角だと言ってもいいのではないだろうか。なぜなら、現実の遍在性は現実の潜在性に由来しているとも言えそうだからである。

円環モデルの転回点において潜在性の領域が立ち上がるのは、可能性が飽和し、事実化していない可能性で埋め尽くされるからである。そのとき、事実化してい〈ない〉ところにも、現実は〈ある〉と気づくということが潜在性の発見であると言えるだろう。この、「ないところにもある」ことこそが現実の遍在性とするならば、あえて力としての現実に遍在性を持たせなくても、潜在性としての現実に遍在性を持たせれば用は足りるようのではないだろうか。

少なくとも、入不二が行ったように、円環モデルに三次元で差し込む力のようなものとして、力としての現実を描くならば、それでよいように思える。

円環モデルをはみ出た三次元の領域とは、つまり、潜在性すらも及ばない、無の領域のことであり、力としての現実は、そのような無の領域すらも貫く力であるところに、この描写の要点はあると言えるだろう。

だが、「ないところにもある」という潜在性が持つ遍在性は、そのような無の領域にすら及ぶはずである。潜在性は、円環モデルを横溢し、三次元の無の領域にまで及び、力としての現実の純粋な描写をどこまでも阻害するのだ。

それならば、力としての現実と潜在性としての現実が重複するところに見いだされる遍在性を、潜在性としての現実の側に帰さず、あえて力としての現実の特徴とすることには根拠はないと言えるだろう。

それならば、潜在性としての現実がマテリアルとしての遍在性を供給し、力としての現実がその動性を供給するというかたちで、両者は並立し、相補的なあり方をしていると言うこともできるのではないか。更に言えば、マテリアルとしての潜在性のなかに動性をも取り込んでしまえば、力としての現実を抜きにして、潜在性一本で全てを説明できてしまう余地もあるように思える。(実際、『あるなる』はそのような方向の議論であったように思える。)

7 遂行性による解放

だが、そのように論じておいてなんだけど、僕はそれを否定したい。

なぜなら、それでは面白くないからだ。現実性の遍在的な力というアイディアにはワクワクするものがある。それを活かせないのはつまらない。

また、一つ前に行った、入不二の議論を入不二の議論自体にメタ的に適用することにより、神の俯瞰した視点に立つという議論を正当化するという議論も、僕は否定したい。なぜなら、やはりそれでは面白くないからだ。

この二つの僕の議論に共通するのは、その閉鎖性、閉塞感である。一方で、入不二の議論は遂行的な正当化などといった迂回を経ずとも、現にワクワクして正しいもののように思えるし、現実性の力は、潜在性が持つ遍在性の下支えなどなくても、現に生き生きと遍在性を獲得しているように感じる。そこには、あっけらかんとした解放感がある。僕の議論は、その解放感を拾いきれていない。

『現実性の問題』における入不二の議論が持つ解放感という魅力を掴み取るためには、一度、『あるなる』のビッグウェーブに乗るところまで戻らなければならないのではないだろうか。そこには、僕が入不二の文章に感じる魅力が詰まっているように思えるからだ。

僕は、『あるなる』から『現実性の問題』に至るにあたって、入不二のなかにコペルニクス的転回があったと考えた。それは、内側の人間の視点から外側の神の視点への転回でもあり、緊張した議論の先に自由(解放)を見出すという『あるなる』の議論スタイルから、自由な議論の先に緊張した構造を見出すという『現実性の問題』の議論スタイルへの転回でもあった。

しかし、入不二は転回などしなかったのではないだろうか。入不二は、ビッグウェーブに乗るということの続きを、ただ『現実性の問題』でやっただけなのではないだろうか。

もしそうだとしたら、入不二は『現実性の問題』においても、俯瞰した神の視点になど立たず、内側の視点に立ち続けたということになる。内側から、ただ遂行的に、このような壮大な構造を描ききったということになる。

だが、もしそうだとするならば、やはり疑問が立ち上がる。『現実性の問題』の正しさは、何に由来しているのだろうか。

『あるなる』であれば、その答えは明らかである。『あるなる』の正しさは論理の正しさである。『あるなる』における入不二の運命論は、ほぼ論理的運命論と言い換えることができるものである。『あるなる』において入不二は、概念を動かし、論理のぎりぎりのところで、論理だけに従うならばどのようになるかという論理の運命とでもいうべきものを見いだしたのだ。

そうだとするならば、『あるなる』の先を描いた『現実性の問題』の正しさは論理的な正しさではない。なぜなら、論理的な正しさは『あるなる』で出し尽くしているからだ。

僕は先ほど、『現実性の問題』の正しさは、円環モデルのような構造の美しさに由来すると言った。だが、もしそれだけだとするならば、入不二が自由に描いた構造が偶然にも円という美しさを持っていたということになり、そこに正しさが由来する、とするのは心もとない。

そのうえで僕は、『現実性の問題』の正しさとは、遂行的な正しさであると言いたい。入不二はビッグウェーブに乗ることは、生と死の〈中間〉にある享楽であると言っている。また、「あるなる」のタイトルについて入不二は、そこに諦めと執拗・楽観があると言っている。入不二のこの『現実性の問題』という文章の正しさは、それが入不二の人生を賭けて行う享楽であり、そこに諦めと執拗・楽観があるというところにこそ、由来するのではないだろうか。

また、そう考えると『現実性の問題』という文章は、諦めと執拗・楽観の〈中間〉にあり、生と死の〈中間〉にあるという点で、内側の視点が確保されているのは確かであるように思える。

この『現実性の問題』において見いだされた内側の視点からの享楽としての正しさのことを、僕は遂行的な正しさと呼びたい。実は僕はこのような正しさを持ち出すことに躊躇している。だけど、今のところそうとしか考えられないし、もしそうだとしたら、入不二は『現実性の問題』を通じて、全く新しい語り方をも手に入れたということになる。

そのように考えることができるとするならば、現実性の力というものについての理解も深まってくる。この現実性の力は、明らかに、この内側の視点からの享楽としての遂行的な正しさに由来している。現実性の力とは、入不二の内側からの遂行的なものであるからこそ、入不二の議論のすべてに遍在している。また、その現実性の力という動性は、遂行という動性に由来している。生と死を賭けた享楽だからこそ、その力にはあっけらかんとした肯定性が含まれている、ということになる。

更に付け加えるならば、この遂行的な正しさは、読者の僕としての遂行性にも由来しているだろう。現実性の力とは、僕の『現実性の問題』という本の読書体験を通じた内側からの遂行的なものであるからこそ、この『現実性の問題』という本のすべてに遍在している。また、その現実性の力という動性は、僕の読書の遂行という動性に由来している。そして、僕の入不二の哲学の読解が、生と死を賭けた享楽だからこそ、その力にはあっけらかんとした肯定性が含まれている、ということになる。

ここまで言ってしまうと大げさかもしれないので、もう少し同意が得られそうな範囲で言い直しておきたい。僕は、この『現実性の問題』に書かれていることの新しさにワクワクした。この新しさこそが、現実性の力の動性なのではないだろうか。そして、人生においては常に新しいものに出会うという意味での新しさの遍在性こそが、現実性の力の遍在性なのではないだろうか。

ただし、そのような新しさも、語られた途端、古いものとなってしまう。そうすると、それは、マテリアルとしての潜在性としての現実と見分けがつかなくなってしまう。油断すると、僕がコペルニクス転回として論じてきたような誤った道筋へと入り込んでしまうことになる。これは新しい未来を古い過去に取り違えてしまうということである。

入不二はきっと同意しないけれど、僕はそのような意味で、現実性の問題は、過去と未来という時制区分と繋がっていると思っている。

ネコの調子が悪くなって考えたこと

0 はじめに

昨夜、飼っているネコの調子が悪くなった。慌てて夜間でもやっている救急病院に連れて行ったところ、原因は不明とのことで様子見となった。診察料30000円+タクシー代6000円がかかってしまったし、なんだか寝不足だ。ネコは今のところ元気そうだけど、何かあるかもしれないとちょっとドキドキしながら見守っている。新しく買った自転車を整備して出かけようなんて思っていたけれど、そんな気になれない。ネコはそんな気持ちなど知らず、どこかに隠れてしまっている。どこにいるのだろう。

ということで、なんだかマイナスな出来事が多かったので、少しでも取り戻すため、そのなかで思いついたことを書き残しておくことにする。

(1と2はそれほど難しくない割にいいことを言っているような気がするのでどうぞ読んでください。3と4は自分の土俵に入り込んだ独りよがりな議論だから、読み飛ばしてもらったほうがいいような気がします。)

1 ネコ中心主義

昨夜、ネコのことを心配しつつ布団に入り、ネコの病気や治療法についてスマホで調べながら、ふと、こんなことを考えた。ネコを心配しているのは、ネコのためなのだろうか、自分のためなのだろうか。ネコは病気を治療してもらいたいのだろうか、僕が治療させたいだけなのだろうか。ネコの病気を治療することの価値はどこにあるのだろうか。

このような複雑に入り組んだ問題について、その問題に巻き込まれた当事者(つまり僕)が、少しでもその問題を解きほぐすためには、適切な思考実験が有効だろう。

目の前に神様が現れたとする。神様が僕に問いかける。「このネコは近いうちに、1%の確率で死んでしまう可能性がある。だが、もし私(神様)がこのネコを別の世界に連れていったなら、そこでは100%、この家で過ごすのと同じように生き続けることができる。さて、君はこのネコを手放すかい。」つまり、この神様は、このネコ自身の幸せと、僕がネコと一緒にいることによる僕の幸せを天秤にかけ、どちらかを選ばせようとしている。

1%という僅かな差であるところがミソである。これが、死んでしまう確率が50%とかなら多分、ほとんどの飼い主はネコを手放すだろう。もし、1%だとうまくなければ、5%とか0.1%とか、ちょうど、悩んでしまうような数字に置き換えてください。

昨夜、僕は布団に入りつつそんなことを考え、0.1%でも、0.01%でも、ごくわずかな差であっても、ネコと別れ、神様に託すことを選ぶのだろうなあ、と思い至った。ネコ自身の幸せを最優先に考えるということが、きっと、飼い主であるということであり、親であるということだろうからだ。無理をして理想的な飼い主や親になろうと心がけるのではない。自ずとそういう判断をするということこそが、きっと、ネコを飼うということなのだろうと思う。

そのように整理したら、少し楽になった。僕はネコの幸せだけを考え、ネコのためにできることを、ただ事実としてやればいい。ネコのことを心配して思い悩むことなんてネコは求めていない。ただ金だけ出して、動物病院に連れていき、専門家の判断に従うということだけをすればいい。ネコを心配しながら見つめる必要などなく、ただネコに異常がないかどうかを事実として観察さえすればよい。あとは楽しくネコと過ごせばいい。ネコを心配し、ネコを救うという結果に執着するということは、つまりネコと一緒に暮らすという自分に執着しているということであり、それは全くネコのためにならない。僕が確保すべきは、自分中心ではなく、ネコ中心の視点なのだ。つまりネコ中心主義である。

2 人格の触れ合い

 だけど、そこでふと考える。神様は、別の世界にネコを連れていった後、そこでどのようにして、この家にいるのと同程度に幸せにするのだろうか。きっと、神様は、そこで、この家のコピーを作り、僕や妻のロボットも作ってネコの世話をさせるのではないだろうか。だけど、偽物の家と偽物の飼い主と過ごして、ネコは本当に幸せなのだろうか。

 この疑問の根底には、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるという考え方がある。ネコだから正確には人格とニャン格の触れ合いによって幸せは生じるはずだ。そこに僕や妻という人格が確かにあるからこそ、ネコは幸せになることができる。

それでも、神様は完璧なロボットを作るのだから、そこに人格が宿るという考え方もできるかもしれない。だけど、その場合ですら、神様が人格を持っているからこそ、ロボットに人格を吹き込むことができるとも言えるだろう。つまり、ロボットの僕とは神の似姿のことであり、そこには、ニャン格と神の人格(神格?)との触れ合いが確保されているからこそ、ネコは幸せになることができる。

ややこしいので、ニャン格も神格も人格に含めるならば、やはり、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるということになる。これを幸せの法則と呼ぶことにしよう。ネコの調子が悪くなり、僕はそんなアイディアを思いつくことができた。悪いことばかりではない。

3 哲学的蛇足1:別の時点の自分自身という人格

ただし、これには反論があるだろう。人間は誰とも触れ合わず、独りであっても幸せになる道筋があるはずではないか。例えば、無人島にいても、思い出に浸ったり、無人島から脱出した未来を思い描いたりして幸せになることはできるのではないか。

僕もそれは認める。だけどそれもやはり、未来や過去の自分自身という人格との触れ合いだと言えるだろう。時空的に連続する自分自身の存在という先入観があるから見えにくくなってはいるけれど、あえて時間による断絶を強調して捉えるならば、そこにあるのは別の時点の自分との触れ合いだとも言える。だから、この場合も「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則からは逸脱していない。

(僕は、異なる二時点間での人格の触れ合いというあり方こそが、時間は連続しているけれど、時間は断絶もしている、という時間の不思議なあり方をかたちづくっていると思っている。)

4 哲学的蛇足2:内側から湧き出る幸福感

更に、たとえ無人島に独り、他の時点のことを思うことなど全くなくても(つまり過去を思い出したり、未来を思い描いたりしなくても)、きれいな景色を見たときなどには、唯一の時点で、ただ独り、幸せになることもできる、という反論があるかもしれない。この、きれいな景色を見たときの幸せは、きっと、瞑想やマインドフルネスのときに感じるとされる幸福感に似ている。ただ内側から湧き出る幸福感である。

瞑想と異なり、きれいな景色を見たときの幸せについては、景色を見るという原因と幸福感が生じるという結果、つまり因果関係があり、その点で異なるとも言える。だが、原因と結果という二つの時点を認めてしまったら唯一の時点とはならなくなってしまう。唯一の時点にこだわるならば、やはり、きれいな景色を見たときにあるのは、瞑想と同じく、ただ内側から湧き出る幸福感であるはずである。

では、この内側から湧き出る幸福感とは、先ほどの「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則の例外なのだろうか。

これに対しては、まず、内側から湧き出る幸福感と人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せという二種類の幸せがあるのだ、という対応がありうるだろう。または、更に強く、人格と人格の触れ合いによって生まれるものこそが幸せであり、内側から湧き出る幸福感は「幸せ」ではない、とする対応もありうるだろう。

僕は後者の対応をとりたい。なぜなら、独り・唯一の時点ということにとことんまでこだわるならば、そもそも、「幸せ」という言葉を用いることはできないはずだからだ。言葉というものは、別の人格か、または少なくとも、別の時点の自分自身の人格というものを措定しなければ存在することはできない。ただ独り、唯一の時点において生じた内側から湧き出る幸福感に、「内側から湧き出る幸福感」という名前をつけることはできない。それは幸せという言葉で捉えることなどできない何かである。

一方で、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せは、明確に言葉で捉えることができる。言葉で捉えることができる幸せこそが幸せと呼ぶに相応しい。

以上の考察は、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せと、瞑想によって生じる内側から湧き出る幸福感(とも呼べない何か)の間には大きな違いがあるということ以上のことを指し示しているように思える。人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せとは、つまり、言葉を用いることができるという幸せのことなのではないだろうか。僕は人と語り、ネコと語り、冒頭での思考実験のように神とも語り、この文章を読んでいるあなたとも語っている。だからこそ僕は幸せに生きている、ということなのかもしれない。

○○をしたい

1 「したい」と「するべき」

ヨガ教室の先生から、「したい」と「するべき」の違いについての話があった。僕なりの理解だと次のような話だった。

自分の内側から湧き出るような「したい」と外側から押し付けられるような「すべき」のバランスをとるかたちで人は生きているけれど、今は、コロナでそのバランスが崩れ、皆「するべき」ばかりで生きているからストレスが溜まっています。だから時々は身体の声を聞いて、「したい」ように身体を動かしましょう。

僕は納得しつつ、この話には続きがありそうだと感じた。「したい」や「するべき」とは、そもそもどういうことなのだろうか。通常、「したい」や「するべき」は単独では用いられず、食事をしたい、仕事をするべき、というように、具体的なものごととセットで○○をしたい、○○をするべきと表現する。では、食事や仕事というような具体的なものごとなしに、純粋な「したい」や「するべき」を取り出すことはできるのだろうか。

「するべき」については、○○をするべき、ではない純粋な「するべき」などないように思える。仕事や家事というような具体的なものごとを思い浮かべることなしに、ただ「するべき」という感覚を持つことは難しい。最も近いのは、長期の休みで時間があり余っているのに、このままじゃまずいから何かをするべきと思いつつ、何もせずゴロゴロしているときの感覚かもしれない。ただ、そういうときも、たいていは、具体的なやるべきことをわかっていつつ先送りしているか、「するべきことを見つける」をするべきと思っているかのどちらかだろう。

一方で、「したい」については、○○をしたい、ではない単独の「したい」がありうるように思える。深酒もせずによく寝た翌日の休日の朝、気持ちよく晴れた空を見上げたとき、または、海外旅行で入国審査を終え、空港でタクシーに乗り込み、異国情緒に溢れた街並みを窓越しに眺めたとき、僕は具体的なものごとと結びついていない、ただ「したい」を感じる。実際にはそこから具体的なスケジュールを考え、サイクリングに行ったり、美術館に行ったりするだろう。だけど、朝の目覚めの時や空港からのタクシーのなかでのひとときに感じる「したい」は、サイクリングをしたいではないし、美術館に行きたいではない。そこにあるのは、何かが新しく始まることへの漠然とした期待と高揚感のようなものだ。

このように考えると、「したい」には、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、単独の「したい」と、食事をしたい、サイクリングをしたい、というような特定のものごとと結びついた「○○をしたい」という二通りがあるということになる。

つまり、特定のものごとと結びつかない場合があるかどうかという点で「したい」と「するべき」には違いがあるということになる。

2 二種類の「○○をしたい」

だが、この区分は本当に適切だろうか。「食事をしたい」というのは、食欲という生理的欲求に基づくものであり、これを「サイクリングをしたい」のような「したい」と同列に捉えるべきではないように思える。遭難し、何日も空腹で過ごした末に救出されたとき「食事をしたい」という言葉を発したとしても、それは、ほぼ「食べるべき」ということである。また、家で飼っている病気のネコを心配しつつ働いているときの気持ちは「家に帰りたい」と表現してもいいけれど、「家に帰るべき」と表現したほうが適切なように思える。「したい」のなかには、生理的欲求にせよ何にせよ、ただそうすることを強いられているような、「するべき」に接近した「したい」が混入している。

では、サイクリングをしたいや、美術館に行きたいというような「したい」は、「するべき」が混入していない、純粋な「したい」と考えてよいのだろうか。僕はここにも「するべき」が入り込んできていると思う。「ゴッホ展がそろそろ終わるから、早く美術館に行かなきゃ。」とか「最近、運動してないから、せっかく買った自転車乗らなきゃ。」なんていう言葉を思い浮かべるならば、僕の考えに同意してもらえるのではないだろうか。

以上の検討を経てみると、「するべき」と対比される「したい」の領域は、当初考えていたよりも、かなり狭いことが明らかになったと言えるだろう。つまり「するべき」が混入していない純粋な「したい」は、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、ただ「したい」と、せいぜい、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というような、抽象度が高い「〇〇がしたい」のなかにしか見出すことができないということである。その外には広大な「するべき」に支配された領域が広がっており、「食事がしたい」や「美術館に行きたい」のようなものは「〇〇がしたい」という表現はしていても、「するべき」の領域に取り込まれているということである。

3 純粋な「したい」

ここまでは僕の考えに同意してもらえそうな気もするけれど、ここから一気に、あまり同意が得られなさそうな話をしたい。僕の考えはこうである。いくら抽象度が高くても、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というのは仏教用語で言うならば「執着」であり、やはり「するべき」の領域に囚われているのではないか。

運動をしたくなったり、美しいものを見たくなったりするのは、そうすると、脳内に快楽物質が生じるからであり、それはつまり食欲と同じように、「快楽物質を出すべき」という生理的欲求に囚われているだけである、というような説明の仕方がありうる。だが、僕が考えているのはそういうことではなく、そのような科学的な事実があろうがなかろうが、そもそも文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というのが執着であり、「するべき」の領域に囚われているということである。

個人的な話に立ち戻るけれど、僕は、気持ちの良い休日の朝や、海外旅行の初日には無限の可能性のようなものを感じる。これから何が起こるかは決まっていないのだから何でもできるという感覚である。確かに、もし僕がバンコクのスワンナプーム空港に着いたところならば、そこからバンコクの街を歩いてもいいし、南の離島まで一気に移動してビーチで寝転んでもいい。実際は日程やホテルの予約の都合はあるけれど、どの通りを歩き、どの店に入ってご飯を食べるか、といった詳細も考慮するならば、僕には様々な可能性がある。

そして、旅の間、実際に僕は普段ならできないような色々なことをして過ごして満足する。僕はそこそこ旅慣れているから、かなり自由に行動し、満足がいくまで旅を楽しむことができる。だけど、それでも、旅の最終日にまた空港に戻るとき、どこか寂しさを感じる。無限の可能性を秘めた未来として眺めていたタクシーの窓からの景色が、楽しかったけれど確定し、具体的な内容を持ってしまった過去の景色となっていることに気づく。

この話から僕が伝えたいのは、内容がない無限定の未来と、内容のある確定した過去という対比である。僕は「したい」と「するべき」には違いがあり、更に「したい」には、純粋な「したい」と、「○○をしたい」という違いがあるとした。そのうえで、僕は、純粋な「したい」だけが無限定の未来とつながっており、「するべき」や「○○をしたい」は内容のある確定した過去とつながっていると考えている。たとえ、文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というような抽象度が高いものであっても、そのような内容を伴っているという点で、過去のしがらみに囚われており、「するべき」と同種のものになってしまっているのだ。その証拠に、文化的で健康的な人生を送りたいという言葉には、海外旅行の初日のようなワクワクしたものを感じることができない。

当然、僕の海外旅行の例も「したい」を捉えることに、十分には成功しないだろう。なぜなら、海外旅行や天気のいい朝という具体的な描写に囚われているからだ。本当の無限定の「したい」は、海外旅行をしているかどうかや、天気がいいかどうかといったようなことに関わるものではないだろう。純粋な「したい」とは、きっとイデアであり、通常の人間に手に入るものではないだろう。だから仏教は執着を捨てよ、と言っているのであり、それができた一握りの人間だけが、悟りを開き、本当の「したい」を手に入れることができるのだろう。僕は悟りを開いていないからわからないけれど、きっと純粋な「したい」とは、人生の純粋な肯定とかなり近いところにあるのではないだろうか。

4 内側と外側

仏教の執着の話にまで行ってしまったけれど、立ち戻るならば、「したい」とは内側から沸き起こるものであり、「するべき」は外側から押し付けられるものである、というヨガの先生の話は正しいと思う。

仕事をするべき、というのが外からの押し付けであるように、食事をしたいというのは生理的欲求という外からの押し付けである。それと同様にゴッホの絵を見たいとか、健康でいたいというのも、ゴッホの絵が好きだった過去の自分や、健康を望んでいた過去の自分からの、今の自分への押しつけであり、今の自分からすれば、外からの押し付けである。純粋な「したい」を気持ちのよい朝や海外旅行の初日にしか感じられないというのも、そのような過去から培われた価値観からの押し付けである。

そのような外からの押し付けをすべて取り除き、本当に今の自分の内側から沸き起こっているものを見定めていると、具体的な「○○がしたい」が形作られるその直前の一瞬、思考が生成されるビッグバンの瞬間、純粋な「したい」が僕にも感じられるような気がする。僕が確かに言えるのは、世界は「するべき」に満ちていて、「したい」は「今ここの私」のなかにしかないということである。

5 反出生主義

話は変わるが、僕は森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』という本を読み、最近少し話題になっている反出生主義とはどのようなものか知った。

僕のまとめだと、反出生主義は、「喜びや快楽があるプラスの状況」「苦しみがあるマイナスの状況」「喜びも快楽も苦しみもないプラマイゼロの状況」の3つを想定し、例えば(森岡の例だと)喜びや快楽に満ちた人たちが住む島Aと、苦しみに満ちた人たちが住む島Bと、無人の島Cを想定する。そのうえで、無人島Cは喜びの島Aに比べて悪いものではないし、当然、無人島Cは苦痛の島Bに比べたらましであると考えることができるとする。それならば、人が住んで、完全無垢な喜びの島Aであり続ける事ができない限り、無人島Cとすることが最善の選択であるということになる。つまり人類は絶滅すべきということになる。

このロジックの正しさは、苦しみというマイナスの価値を把握するのは容易だが、喜びのようなプラスの価値を把握することは困難だというところに由来しているのだろう。確かに、マイナスの価値は苦しみという言葉で捉えることができるが、プラスの価値については、喜びと言っても、快楽と言ってもどこかしっくりこない。丁度いい言葉が見つからない。地獄については、針の山とか火の海とか、具体的な描写がされるのに、天国については、花が咲いていて、気持ちのいい音楽が鳴っていて、というようなぼんやりとした描写しかされないのに似ている。僕は当然、地獄には行きたくないけれど、どうも天国にも行きたい気がしない。何もなくて退屈してしまいそうな気がする。天国のような描写の空虚さがプラスの価値にはある。

このことと、先ほどの「したい」と「すべき」の話は繋がっているように思う。つまり、喜びや幸せのようなプラスは個別具体的な内容のない「したい」でしか表現できないから、プラスの価値を描写できないという話なのではないだろうか。

6 倫理学理論・自由

更に脱線するならば、個別具体的なプラスを描写できないというところから、世の倫理学理論は作り上げられている気がする。つまり、描写できないプラスを手に入れることよりも、具体的に把握可能なマイナスを避けることをロジックの基本にしているということである。例えば、カントの義務論とは、義務に反してマイナスのことをしないようにするということを基本方針としているし、ロールズのマキシミン原理も、要は最悪を避ける戦略である。功利主義は、なんとか功利というプラスを捉えようとしているが、功利主義が成功できないのは、プラスを具体的に把握できないからなのだろう。義務論がカントにより一挙に体系化されたのに比べ、功利主義に様々な亜種や改良が施され未だに完成されていないのは、義務論が「するべき」とつながり、功利主義が「したい」とつながっていることと無縁ではないはずだ。

また、「自由」という概念が考えられるのも、人間に共通の「○○がしたい」の○○に当てはまるものを特定して描写することができないからだとも言えるだろう。

もし、個人について「○○がしたい」という個別具体的なプラスを確定的に描写できるとしたら、そこから、分析を進め、人間に共通の具体的なプラスを見いだすことができるはずだ。そして、そこから人間に共通の「○○がしたい」を見出す道がありうる。実際に、プラスではなくマイナスについては、例えばカントは、自身の経験から個人的なマイナスを確定的に捉えたうえで、それを人間であれば誰もが共有するマイナスに敷衍し、そのマイナスを避けるために人間に共通の具体的な「するべき」という義務を見出すことに成功したとも言える。カントがマイナスについてやったことと同じことをプラスでもやればいいはずであり、もしそれが成し遂げられれば、人類がやりたいことは特定できるのだから、そこに自由など要らなくなる。例えば、人を傷つけたり、自殺したりしたがる人に対して、それは人間として本当は「したい」ことではないのだ、と指摘することができる。

だけど、それができないから、そこに自由というものを認めざるを得ず、そのうえで、判断を「ひとそれぞれ」に丸投げしているということである。

7 未来と過去

なぜ、このような「するべき」と「したい」の非対称性があるのかといえば、それは、やはり、僕が海外旅行の例で少し触れたように、「したい」が海外旅行の初日のような意味で、無限定であり未確定である未来とつながっており、一方で「するべき」は海外旅行の最終日のような確定した内容のある過去とつながっているからなのだろう。「するべき」は、過去と繋がっているから、確定していて、具体的な内容があり、分析可能であり、カントの義務論のような体系的な捉え方が可能となる。そして、なんといっても「するべき」と言われても、ワクワクせず、つまらない。「するべき」という言葉には、確定した過去のように、未来においても振るまうべき、という意味が含まれている。過去に縛られてしまうことがつまらなさの原因である。

「したい」は未来であり、無限定で未確定である。そこには「ひとそれぞれ」のような妥協の産物としての劣化した自由ではなく、自由という言葉すら似つかわしくない本当の自由がある。(自由という言葉は、「自由であるべき」という言葉が成立しうるように、まだ過去に囚われている。というか自由という言葉は、過去から逃れようとする未来に対する、過去からの最後のすがりつきのような言葉だと思う。同様の言葉として「変化」がある。)

なぜ「○○をしたい」の○○を描写できないかといえば、それは僕たちが知らない未来だからだ。未来とは全く知らないところへの飛躍なのだ。その飛躍へのワクワクこそが「したい」であり、「今ここの私」として生きるということなのではないだろうか。

超自然主義と超懐疑主義

はじめに

澤田和範さんの『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んだ。

これは博士論文がもとになっているだけあって、とても専門的な内容だと感じた。正直、僕では細部をきちんと理解できなかったし、だから、僕はこの本の魅力を十分に掴み取ることができなかったと思う。なぜなら、この本の魅力の多くは、きっと、学術的に丁寧に細部の議論を組み立てているというところにあるのだろうからだ。

ではなぜ、僕はこんな文章を書こうと思い立ったかというと、僕はこの本からとても重要なことを読み取ることができたように思ったからだ。この本には、議論の細部を捨象しても、いや、捨象するからこそ際立つような大きな魅力があるように思えるのだ。

ダメ出し

まず、この本の魅力を伝える前に、この本にダメ出しをしておきたい。正確には、この本自体ではなく、このような本が書かれざるを得ないという哲学業界の状況に対してである。

僕の読解だと、この本の最重要ポイントは、従来の自然主義や懐疑主義を超えた次元にある超・自然主義や超・懐疑主義とでも言うべきものを見いだしたという点にある。そのうえで、超・自然主義と超・懐疑主義を統合できるということを示したところにある。これはきっと、澤田のオリジナルの発見である。

(超~という言葉は使っていないけれど。)

そして、この本がきっと、学術上、つまり哲学業界内の価値として重要なのは、この澤田のオリジナルの発見が、実はオリジナルではなく、ヒュームがそのように考えていたはずだ、ということの発見でもある、というところにある。ヒュームも実はそのように考えていたはずだということを示すことにより、澤田のこの発見は学術上価値があるものとなる。だからこそ、それを示すために澤田は、紙面の大半を使って、丁寧にヒュームの思考の痕跡を辿ったのであり、(僕は十分理解できていないけれど)それを示すことに成功したということなのだろう。

以上の業績を認めたうえで、僕のダメ出しとは、「ヒュームの思考を辿るような作業は不要なのではないか。」というものだ。なぜ、澤田のオリジナルというだけでは駄目なのだろう。ヒュームが実はそのように考えていなかったとしても、澤田の発見の哲学的な価値に変わりはないはずだ。澤田がヒュームを踏み台にして、そのようなアイディアを独自に思いついた、ということでもいいのではないか。哲学においては、哲学業界が喜ぶような学術上の分析など不要なのではないか。

このような述べ方は極端すぎるだろう。先人たちを尊重することは重要なことだし、誰かのアイディアを自分のもののように剽窃するべきではない。それでも僕にはどうしても、この本において澤田が行った二つの発見のバランスが悪すぎるように思えてしまうのだ。澤田は、超・自然主義と超・懐疑主義の統合という哲学的発見と、その発見は実はヒュームが行ったものであるという哲学史的発見をしているけれど、後者に力点を置きすぎているのではないだろうか。

もし僕の批判が的外れでなかったとしても、それは澤田個人の問題ではなく、そのようにせざるを得ない哲学業界の問題である。僕は、澤田のような才能が哲学業界の都合により浪費されてしまうことがもったいないと思うのだ。

魅力

脱線してしまったけれど、この本の魅力のほうに移りたいと思う。

僕は懐疑主義的な傾向があるから、ヒュームという人に関心はあった。だけど、きちんとヒュームについての著作を読んだことはない。僕の懐疑とヒュームの懐疑はちょっと種類が違うように感じていて、ちょっと優先順位が低かったのだ。

僕の懐疑は「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものだ。その点から言うと、デカルトやヒュームが行っている(と僕が思っていた)「実は、目の前にコップがあると思っているけれど、実はこれは夢だったり、見間違えだったりするかもしれない。」という懐疑は徹底されていない。なぜなら、そのように主張できるということは、過去の夢や見間違いの経験と眼の前のコップの認識とを比較して懐疑を提示することは確かにできるということだからだ。彼らは懐疑を行うという確かな一歩を踏み出してしまっている。デカルトはそこからコギトなんて言っている。僕からすると、そのような懐疑は不徹底であり、僕の懐疑とは関係がない。僕はそんなふうに思っていた。

この本を読み、やはり、ヒュームの懐疑は自然主義的なものなのだということを確認した。自然主義に囚われているから懐疑を行う人間本性という枠組みから離れることができていない。彼らの懐疑はそのような枠組みから離れられず不徹底だという僕の理解は間違えていないようだな、なんて思いながらこの本を読み進めていた。

だけど、この本の終盤にさしかかり、そのような僕の先入観は大きく見直しを迫られることとなった。実はヒュームは、従来の自然主義を超えたところにある超自然主義とでも言うべきものを語るために、確信犯的に、あくまで助走として、従来型の自然主義を用いているだけなのではないか。そして、これは夢ではないか、というような従来型の懐疑主義でさえも、従来型の自然主義から超自然主義へと跳躍するための踏切台として用いているだけなのではないか。僕はそんなことを思い浮かべながら、この本の終盤を読み進めた。

ヒュームは、いや澤田は、ヒュームのテキストを用いて、まず、従来型の自然主義でどこまでいけるかを示そうとする。どこまでいけるか示そうとするというのは、つまり、従来型の自然主義が従来型の懐疑にどこまで耐えられるかを実験してみるということである。この澤田の実験の過程で、従来型の自然主義と従来型の懐疑主義は衝突し、両者に圧力がかけられることとなる。澤田の精緻な分析によりこの圧力が極限まで高められ、二つの従来型の主義主張がどちらもそのままで立ち行かなくなったとき、そこから爆ぜるように新たに超自然主義と超懐疑主義が生まれる。いや、超自然主義と超懐疑主義という二つの主義とするのは不正確である。超自然主義と超懐疑主義とは一体化はできないけれど、切り離すこともできない。そこで誕生するのは、超自然=懐疑主義とでもいうべきひとつの視座である。

デフォルトとチャレンジ

この過程の詳細については、この本を読んでいただきたいが、特に僕にとって新しかったのは、デフォルトとチャレンジ(p.176)というアイディアである。僕は名前しか知らないけれどブランダムとい哲学者のアイディアとして「デフォルトとチャレンジ構造」という認識論モデルがあるそうだ。「これは、単純化して言えば、ある信念を保持する認識的資格をデフォルトで認める」(p.176)ものだそうだ。ボクシングではタイトル保持者と挑戦者が対戦した結果、引き分けだったらタイトル保持者が王座を維持する。つまり挑戦者がタイトルを奪取するためには、ポイントを積み上げたり、KOを奪ったりして具体的な優位を示さなければならない。それと同じようなことが、信念同士の戦いでも行われるというアイディアだと言えるだろう。だから、目の前にコップがあるというデフォルトの信念に対して、これは実は夢かもしれないという懐疑の信念がチャレンジするならば、挑戦者は、その懐疑の信念のほうが優位であるという材料を何か提示しなければならない。空を跳べたり、死んだはずの人が登場したりといった明らかに夢であるような証拠があれば別だけど、通常は、これが夢であるということを積極的に支持するような材料などないから、このチャレンジは失敗し、これは夢ではないという常識的な捉え方が維持されることになる。このようにして「デフォルトとチャレンジ」構造の導入により、哲学的な懐疑は無力化され、懐疑主義は自然主義に敗北することになる。つまりこれは「デフォルトとチャレンジ構造」の導入により、自然主義が超・自然主義となることによって、懐疑主義を乗り越えたということである。

哲学者A

だがこれで終わりではない。ここからが、ヒュームというか澤田のすごいところだと思うのだけど、澤田は、哲学者の立場というものを持ち出し、そのデフォルトの信念を一般常識的な立場から、哲学者の立場へと移してしまうのだ。つまり、澤田によれば、目の前に見えるコップが実際に外的に存在するという信念はあくまで非哲学者の信念であって、哲学者の信念とは、目の前にコップが見えるというのは内的な感覚の報告であるという信念であるはずなのである。哲学者は、すでにこのコップが夢かもしれないという可能性に気づいてしまっているのだから、哲学者は、コップを疑うことがデフォルトになってしまっている。つまり「デフォルトとチャレンジ構造」においては、今や立場は逆転し、懐疑主義がタイトル保持者であり、自然主義者が挑戦者の立場に立たされている、ということである。それならば、自然主義者は積極的に懐疑を無効化するような材料、つまり、目の前のコップが夢ではない、という証拠を提示しなければならない。だが、残念ながらそれはできない。こうして懐疑主義が勝利する。これはつまり、先ほどの話とは逆に、「デフォルトとチャレンジ構造」を逆手にとって、懐疑主義が超・懐疑主義となり、自然主義を乗り越えたということである。

では、哲学者の立場に立つならば、懐疑主義が完全な勝利を収めるのかというと、そうはならない。なぜなら、哲学者である個人、つまり哲学者Aの人生とは、常に哲学者としてのものではなく、日常生活においては非哲学者のものでもあるからだ。哲学者Aは目の前に見えるコップはあくまで内的感覚であると主張しながらも、日常生活においては、そのコップが外的存在であるようにも取り扱う。哲学者Aの人生は、哲学者と非哲学者の間を行き来するものとなり、超・自然主義と超・懐疑主義の間を行き来するものとなる。ただし、それは単純な往復運動ではなく、より正確には(僕が哲学者Aだとして、僕の実感を踏まえるならば)哲学者Aのなかで超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いていると言ったほうがいいだろう。このような状況を、僕ならば、超・自然=懐疑主義と呼ぶ。この立場は、哲学者Aという人間の人生を基盤にしているという意味で極めて自然主義的であり、かつ、哲学者Aの人生を賭けた懐疑を基盤にしているという意味で極めて懐疑主義的なものである。

哲学者讃歌

僕の言葉で説明してしまったので、もしかしたら澤田の考えとは違うところがあるかもしれない。だけど、僕の理解では、以上のようなことを、澤田は主に第6章「ピュロン主義的メタ哲学」で論じていることになる。ピュロン主義というのは全ての信念を懐疑により判断保留に追い込むものであるが、それがメタレベルでピュロン主義自身にも適用され、その懐疑さえも判断保留に追い込まれている状況を「ピュロン主義的メタ哲学」という言葉は示しているのだと思う。超・自然主義と超・懐疑主義の両方を抱え込み、にっちもさっちもいかなくなっている哲学者Aの状況をうまく示している言葉だと思う。

だけど、僕の実感からすると、判断保留といういわば静的な描写は、哲学者Aを描写しきれてはいないと思う。僕の内面では、超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いている。それは判断保留という言葉が似合わないような、動的な状況である。動的だからこそ、僕もヒュームも、多分澤田も、立ち止まらず、なんとか哲学を再開することができる。そこに哲学者の人生という動性があるからこそ、哲学者Aは哲学者の人生を歩み続けることができる。そこには人間本性ならぬ哲学者本性があり、人間讃歌ならぬ哲学者讃歌がある。これが、僕がこの本から読み取った、この本の魅力である。

僕の懐疑とは「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものであった。澤田の答えは、「確かな一歩などなくても、君が哲学者ならば、その一歩を踏み出さなければならない。」というものだろう。哲学者讃歌とは、そういうことである。

観念の生気の内部性

僕は、この本から讃歌とも言い表したくなるような生き生きとした動性を感じ取ったけれど、この読解はそれほど的外れではないと思う。なぜなら、きっとヒュームは僕が感じ取ったのと同じものを「観念の生気」(p.150)と描写しているだろうからだ。(生気という言葉が原文(英語?)だとなんと表現されているかは知らないけれど、日本語の語感としては重なり合うと思う。)

僕の関心に引き寄せるならば、これはクオリアが持つ、生き生きとした感じともつながる。更に一気に話を進めるならば、僕はこれを内部性と呼んでもいいと思う。人間の人生を内部から捉えるならば、そこにはクオリアがあり、観念の生気があり、そこからは自然主義的な世界が広がっている。なぜなら人間の人生を内側から捉えるということは、つまり人間本性を起点として世界を捉えるということだからだ。ただし、その人間が日常の非哲学の領域から哲学の領域に足を踏み入れ、懐疑を知ってしまったなら、人間本性ではなく哲学者本性を起点とした懐疑主義的な世界が広がることとなる。

重要なのは、自然主義的であれ、懐疑主義的であれ、いずれにせよ、観念の生気が充満した、クオリアに満ちた内部からの視点からのものであるという点にある。僕は哲学者Aとして、現に観念の生気を持ち、現にクオリアに満ちた世界に生き、現に自然主義的であり、現に懐疑主義的である。そこにあるのはどこかから俯瞰したような客観的な視点ではなく、僕という哲学者の内部からの視点である。僕はこれを内部性と呼びたい。

なお僕はここで意識的に「現に」という言葉を使ったけれど、入不二基義の現実性の議論とは、この内部性を巡る議論であると言ってもいいと思う。ただし、外部に対比しての内部ではなく、どこまでも外がない内部の極北についての議論ではあるが。哲学者讃歌とも言えるような澤田の議論は、入不二とは別のやり方で内部の極北を指し示すことができるほどのポテンシャルを持っているように僕には思える。

やばいと逸脱

最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。

昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。

僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。http://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/

僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。

「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。

だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。

そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)

僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)

このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。

だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。

身体的理想 踊るように、羽ばたくように生きる

久しぶりにあまり哲学的でない文章を書くことにする。

僕にとって哲学的な文章とは、誰かに役立つかもしれない文章で、哲学的でない文章とは僕以外の誰にも役立たなさそうな文章のことだ。

このように区分することは、僕の価値を過大に見積もっているのかもしれない。科学者ならば科学的に役立つし、建築家なら建築的に役立つが、僕にはそのような知識も技術もない。だけど、僕だって哲学でなら誰かの役立つことかもしれない、と考えていることになるのだから。

とにかく、だからこの哲学的でない文章は、僕だけのための文章である。

昨日のヨガのクラスで呼吸の仕方について話があったが、そこで、実は皆が呼吸を上手くできているのに、それを感じ取れていないだけだ、というような話があった。考えてみれば、無意識にできているのに、それを意識的に感じ取ることができないというのは、よくあることだろう。例えば、僕は、人並みにバランスをとって二足歩行ができるのに、どのようにバランスをとっているのかを意識することはできない。すぐには他に具体例を挙げられないけれど、似たようなことは色々とあるだろう。

僕はそこから、プラトンのイデア説と想起説を連想した。僕たちはイデア界では完全な歩行や完全な呼吸を意識できていたのに、この世界に生まれてきて、それを忘れてしまっただけなのだ。なんて。それが事実かどうかは別として、そう考えるとなんだかテンションがあがる。

僕は難しいヨガのポーズができないけれど、この世界に生まれる前にいたイデア界では、僕の身体はすべてのポーズを理想的なかたちでとれたはずではないか。もしかしたら、僕の身体は、理想的なあり方をしていたときには、この世界のすべてを表現し尽くせていたのではないか。それは、理想とは、もしかしたら到達できるかもしれない希望ではなく、現に確かに一度は手にしていたものなのではないか、なんて思いを馳せる。

だから僕は、僕の身体を既に理想形を経験したものとして取り扱うことにしよう。僕は、理想を想起するように僕の身体を取り扱うことにしよう。そうすると、少しだけ頑張れて、少しだけヨガのポーズをうまくとれるような気がする。

ヨガでちょっときついポーズをとろうとして自分自身を鼓舞するとき、もうひとつイメージすることがある。僕は僕の身体に翼が生えていて、空を飛ぶようなイメージを持つと少しだけ頑張れる。(そのことは『空と大地の間の「幅」』http://dialogue.135.jp/2021/06/26/haba/という文章で書いたことがある。)

これも僕の身体に宿る潜在的な能力を引き出すときのイメージだ。僕の身体には、僕が知らない歴史があり、僕が知らないような能力を秘めている。

話は変わるが、今朝、僕は不思議な夢を見た。他人の夢の話なんてまず面白くないし、特に今朝の夢は明確なストーリーもないから面白く伝えようもない。だけど僕自身にとっては、とても象徴的で示唆に富むものだったので、書き残しておく価値がある。

僕はアフリカの学校にいた。たくさんの小学生か中学生くらいの黒人の生徒たちがいて、汚くして騒がしくて、少なくとも好ましいところではなかった。(なお、僕はアフリカに行ったことがないし、僕がテレビで観たことがあるアフリカとも全然違ったので、どこでもない僕がイメージしただけの場所だったのだろう。)

なぜか僕はそこで、捜し物を一緒に探してもらったり、色々案内してもらったりして、ある程度の時間を過ごすうちに、その好ましくなさは、好ましさに変わっていた。

彼ら(彼女ら)は思慮が浅くて、踊ったり奇声を上げたりして騒々しかったけれど、そこに何か否定し難いものを感じるようになってきたのだ。理性的に考え、適切に判断して行動するのとは違う、別ルートの正しさがあるように思えたのだ。

夢から醒めたあとで思い返すと、それは生命力と呼ぶべきものだったのだろう。彼らの躍動する身体には生命力という正しさが秘められていたのだ。

ヨガの話と夢の話は、身体に秘められる力についての話だという点で共通している。身体には理想を体現する力が潜在しており、それは生命力と呼ばれるものである。僕は哲学が好きで、思考により哲学的に迫ることができる真実があると思っているけれど、それとは別に、イデア界かアフリカかはよくわからないけれど、全く別のところにもうひとつの真実があるということになる。思考的な真実と身体的な真実という二つの真実がある。そして後者の真実は生命力と名付けることもできる。

だけど、この二つの真実は、全くの別物とも言い切れないだろう。なぜなら僕はこの身体を使って哲学をしているからだ。できれば僕は、理想的なかたちでヨガをするように、またはアフリカの少年少女のように踊るように、哲学をするべきなのだろう。そのようなことはすぐにはできないから、せめて僕は僕の身体を動かし、踊り、羽ばたくところから始めるべきなのだろう。僕は踊るように、羽ばたくように生きていくぞ!

と書きつつも、思い返すと、僕は昔から、踊り、羽ばたくという言葉に象徴されるような浮遊感の虜なのかもしれない。僕はスノーボードで新雪を浮かぶように滑るのが好きだったし、ジャンプするのも好きだった。ライブでノっているときのあの感じは浮遊感と表現できるだろうし、海外旅行での非日常感も同種のものだ。酒を飲んで調子よく酔っているときの、または恋をしているときの、またはセックスをしているときの熱病のようなあの感覚も、どこかフワフワと漂っているような感じがある。そう考えると、僕は既に僕の身体を天上のイデア界に向けようとしている、と言えなくもない気がする。

と書き終わってみると、意外と哲学的な文章だったかも。

語られない世界からの語りの立ち上がり(『新しい語り方と環世界』の補足)

僕は先日、『新しい語り方と環世界』(http://dialogue.135.jp/2021/09/23/new/)という文章を書いた。そのときの僕は書きたいことを書ききったつもりだったけれど、読み返してみて、どうも話がずれてしまっていたことに気づいた。僕はもう少し、形而上学っぽいことを考えていたはずなのに、どうも倫理学寄りにずれてしまったようだ。

実は、僕が書いたことは、フォーラムでの現代認識論やフェミニスト認識論と呼ばれる分野についての話を踏まえたものだった。(僕の理解では)フェミニズムとは女性の価値の問題であることからも明らかなように、つまりこれは認識論という(僕にとっては)形而上学的な問題を価値化し、倫理学化した議論であるとも言えるだろう。

だから、形而上学っぽい話が倫理学にずれていくのは当然ではあるのだけど、僕としてはできるならば、形而上学の問題を倫理学的に答えるのではなく、倫理学の問題を形而上学的に答えることを目指したいという気持ちがある。価値の問題を僕の形而上学に取り込んでいきたいのだ。だから、現代認識論がやろうとしていることと僕が目指すことは、よく似ているけれど、ちょうどベクトルが逆だとも言える。

だから僕の考えでは、やはり僕が先日の文章で語った「真ではないことを語る」というフェミニスト倫理学的なアプローチは、成功し得ない。だけど、成功しないから意義がないのではなく、成功しないからこそ意義がある。なお、その逆である「真であることを語る」ことも同様に、成功し得ないし、だからこそ意義がある。「真ではないことを語る」ことも「真であることを語る」ことも、ともに成功し得ないということこそが、僕が本当に語りたいことを指し示しているように思う。

僕が語りたいことは、比喩で表現するならば、深い海のようなものである。僕は先日の文章で、梅雨の雨の湿気のなか包まれるような環世界を思い描いた。あの空気感と、僕が深い海としたものは同じものである。僕が語りたいことは、僕を包む梅雨の雨のようで、深い海のようなもので、それを言葉で捉えることはできない。

僕は海の底から沸き上がったひとつの泡に包まれているかのようだ。決して捉えることができないもののなかから、突然、僕の世界が立ち上がる。そこから僕の語りも含めた全てが始まる。僕はそんなことを書きたいと思っていた。だから、もともとのタイトルは『語られない世界からの語りの立ち上がり』というものだった。

このように書いてみると、やはり『新しい語り方と環世界』という文章は必要だったのだろう。あれを書いたからこそ、この文章が少しは理解し得るものとなった。二つの文章があるからこそ、僕が本当に表現したいものに少しは近づくことができた。そんな気がする。

新しい語り方と環世界

1 哲学若手研究者フォーラム

先日、哲学若手研究者フォーラムというイベントに参加した。(http://www.wakate-forum.org/)

僕も将来、大学院に行って、年齢はともかく、キャリアとしては若手研究者になることがあるかもしれないから、どんなものか見ておきたかったのだ。

せっかくなので色々と読んだり参加したりしてみたら、刺激を受けた。消化できないほどのインプットを詰め込むという体験は久しぶりだったように思う。少しでも消化するため、ここに吐き出しておきたい。

なお、フォーラムの発表内容は非公開なので、具体的な内容にはなるべく踏み込まず、そこから僕が勝手に考えたことだけを書くことにする。

2 新しい語り方

一番の収穫は、哲学には、従来型の語り方とは別に、新しい語り方があるという可能性に気づけたことだ。

哲学とは、ある側面では、「真なることを語ることを目指す営み」だと言っていいだろう。その対象が善や美といったものであっても、善や美について、なんらか真なることを語ろうとするはずだし、真そのものを考察の対象とする場合でも、真についての真なることを語ることを目指そうとする。

僕は、それが当然だと思っていた。

だけど、そうではないのかもしれない。真なることを語ることは必然的に失敗せざるを得ないのかもしれない。やるべきことは、真ではないことを語ることであったり、真なることを語らないことであったりするのかもしれない。

例えば、フェミニズム的な文脈においては、従来の哲学が行ってきた「真なることを語ることを目指す営み」は、生理や出産が必然的につきまとわないという意味で、男性的な身体を持った当事者としての哲学者が前提にされているという批判がある。その場合、「真なることを語ることを目指す営み」自体が、男女の差に目を見落とし、その点で、本質的に誤りとなる可能性を秘めている。

それならば、真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。それはつまり、フェミニズム的に述べるならば、まずは男女の性差という不正を暴くことが出発点となるということである。そして、これまで当然視されてきた男性的な語り方とは違う、全く新しいかたちでの語り方を探していくべき、ということになる。

3 パラリンピック

僕はそのような方向性には魅力を感じる。新しい可能性が秘められているような気がする。だけど、そこには困難もあるように思える。その困難は、パラリンピックをテレビで観て感じたものと似ている。

パラリンピックでは、障害の程度によりクラス分けがされる。実はきちんと観ていないので適当な例だけど、100メートル走であれば、きっと、足に障害がある人と手に障害がある人では、足に障害がある人のほうが障害の重いクラスになるだろうし、片足に障害がある人よりも、両足に障害がある人の方が障害の重いクラスに振り分けられることになるだろう。競技を成立させるためには、そのような振り分けが重要となるから、ニュースでもやっていたけれど、振り分けの基準ギリギリの人がどちらのクラスに振り分けられるのか、といった問題も生じることになる。

僕が感じた困難とは、同じ障害のクラスの中でも、障害が比較的軽い人と、比較的重い人がいて、明らかに障害が軽い人のほうが有利になるという問題のことだ。どんなに細かく障害を区分けしても、障害の程度は一人ひとり微妙に違うから、この問題はどこまでもつきまとう。(またより現実的には、あまり細かく区分すると、クラスあたりの参加者が少なくなりすぎ、競技として成立しなくなるという問題もあるだろう。)

これと同じようなことが、弱者を論理で擁護しようとするフェミニズムのような営みには本質的につきまとうのではないだろうか。

例えば、「女性は出産という不利があるのだから、女性を優遇すべき」という考え方が説得力を持ち、そのとおり女性が優遇される社会になったとする。そうすると、出産が可能な女性と、出産が不可能な女性(病気で出産ができない人など)との間での差別が生じることになる。

更に、何らかのかたちで全女性を平等に優遇する社会になったとしても、人種や年齢といった、それ以外の側面による差別の解消は後回しになる。更に、そのような先天的な差異による差別をすべて解消したとしても、学歴や努力や運といった後天的な要素による差別は解消しない。どこかで何らかの区別をして異なる取り扱いをするならば、そこに差別が生じることは避けられない。

いや、差別と区別は異なる、という反論は当然あるだろう。きっと差別とは、悪い区別のことである。区別には差別と呼ばれるような悪い区別と単なる区別があり、悪い区別だけを撲滅すべきということになる。それはそうなのだけど、パラリンピックでのクラス分けのような単なる区別も、クラス分けによる不幸を生み得るという点で悪い点もある。少なくとも、差別と区別はよく似ている。

4 区別による立ち上がり

 人間を男性とそれ以外に区別することで男性が立ち上がり、人間を健常者とそれ以外に区別することで健常者が立ち上がる。障害者を足に障害がある人とそれ以外に区別することで(パラリンピックでの)足障害者クラスが立ち上がる。それは価値中立的に捉えるならば区別である。

 ただしフェミニズム的には、何かと「それ以外」というかたちで区別するということに差別を見る。男性ではない女性やLGBTは「それ以外」としてひとくくりに扱われ、健常者ではない知的障害者や身体障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、足障害者クラスではない右手障害者や両手障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、無視される。

 そこで、着目されてこなかった「それ以外」に着目し、スポットライトを当てることで悪しき区別(差別)を価値中立的な区別に是正しようとするのがフェミニズム的な道筋なのだろう。

 そのような流れの先に、男性でも女性でもない「それ以外」をLGBTとして着目したり、身体障害に比べて扱いにくかった知的障害に着目したり、といった最近の動向は位置づけられるのだろう。

 僕はこれを「区別による立ち上がり」と呼びたい。男性をそれ以外から区別することで男性が立ち上がり、男性を除くそれ以外から女性が立ち上がり、男性と女性を除くそれ以外からLGBTが立ち上がる。更には男性と女性とLGBTを除くそれ以外からQやXジェンダーが立ち上がったりもするのだろう。

 この「区別による立ち上がり」には原理的に限界はない。パラリンピックでのクラス分けの例を用いるならば、どんなに細かく障害を捉えてクラス分けをしても、そのクラス内では微細な障害の程度の違いが残る。男性のなかにも男性っぽい男性もいれば、女性っぽい男性もいるだろうし、そもそも、男性・女性という区分自体がなじみにくい男性もいるだろう。そのような違いはほぼ個性と言ってもいいものであり、男性や女性やLGBTといった言葉では掬い取ることはできない。

5 「区別による立ち上がり」の功罪

論理上重要なことは、この「区別による立ち上がり」により同じ区分に捉えられた人の内部では、区別は差別として機能するということである。パラリンピックで同じクラスに区分されたならば、そのクラスのなかで比較的障害が軽いAさんと、比較的障害が重いBさんの間では、Aさんのほうがきっと活躍できるだろう。Aさんはパラリンピックに出場できても、Bさんは地元の草大会にしか出場できないかもしれないし、AさんはレギュラーでBさんは補欠になるかもしれない。同じように頑張っていても、そこには外的な要因による扱いの違いがある。これは差別である。

 だが、より実践的に重要なことは、一旦「区別による立ち上がり」が起動したならば、そこで生じた差別を是正するために「区別による立ち上がり」は有用である、という点である。男性という区別が立ち上がった後の男性社会において、それまでスポットライトが当てられてことなかった「それ以外」に女性という名前を与え、女性という区別を立ち上げることは、女性の立場を引き上げることに直結する。

 区別は本質的に差別的であるが、その差別を是正できるのも区別の力である。

6 言語の差別性

 最善の解決策は、そもそもの区別が始まる前に戻ることだと考えるかもしれない。男性にスポットライトが当たるという第一歩がなければ、それ以降の問題も立ち上がらなかったはずだからだ。

 だがそれは難しいと僕は思う。(後ほど修正するので、正確には、僕はそう思っていた。)なぜなら、この第一歩は、言語の働きと直結しているからだ。言語を使用するということは、その発せられた言葉を「それ以外」と区別するということだからだ。つまり言語とは「区別による立ち上がり」である。僕が「コップがある。」という言葉を発することで、僕はそこにペットボトルや茶碗ではなく、コップがあるという区別を立ち上げている。その区分上、ペットボトルや茶碗の可能性は全て「それ以外」として均され、ペットボトルと茶碗の違いは抑圧される。これは差別である。(これを外的差別と言ってもいいだろう。)更には、ただ「コップがある。」という描写に留めるということは、そのコップのより詳細の内容、例えば青い色や使い込まれてついた傷といったものには着目しないということである。これも、コップという種のなかにある違いを抑圧するということであり、差別である。(これを内的差別と言ってもいいだろう。)つまり、言語とは、本質的に差別を発生させる装置なのである。

 それならば、言語を使用する存在である人間が、この差別から逃れることは不可能であるように思える。(少なくとも僕はそう思っていた。)

7 真ではないことを語る

だけど僕は、先述のフォーラムに参加し、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」ということに気づき、この先入観の是正可能性を考え始めている。

僕は、哲学とは「真なることを語ることを目指す営み」だと考えてきたけれど、実はこれは、哲学に留まらず、言語使用全般に当てはまる。僕が「コップがある」と語るということは、つまり「コップがある」が真であり、その真なることを言葉で指し示そうとしているということである。

確かに、言葉とは(そして多分、人間の思考というものは)そのようなものなのだろう。だが、もしかしたら、コップがある状況を描写するときに、あえて「『ペットボトルがある』は真ではない」というような語り方が可能なのではないだろうか。僕が考え始めているのはそのようなことである。

ちょっと例が抽象的すぎて逆にわかりにくいかもしれないので、別の例を用いるならば、男性がいる状況は「『女性がいる』は真ではない」とも描写できるし、健常者がいる状況は「『障害者がいる』は真ではない」とも描写できるということである。ある状況を描写する際に、「ではない」という否定を経由することにより、そこにいる男性や健常者ではなく、不在の女性や障害者に焦点をあてた描写が可能となる。

これが、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」という僕の気づきの実践例であり、「区別による立ち上がり」が必然的に導入する差別に抗う道である。このような新しい語り方がありうるのではないだろうか、と僕は考えている。

 だが、「『女性がいる』は真ではない」も「『障害者がいる』は真ではない」も不格好で不自然な表現だ。これらは、要は、女性や障害者を「ではない」という言語の否定の力を用いて逆説的に表現しようとしたものだと言える。「○○に注目しない」とあえて明示することで、その注目されなかったものに注目を向ける論法である。この不自然さは拭い去り難く、このような語り方では、自由に言語は操り、更に議論を進めることは難しい。別のやり方が必要となるように思える。

8 環世界

 言葉によって直接的に言葉で表現できないものを指し示す道筋はそう多くはないと思うが、もうひとつ、イメージに訴える語り方というものもあるだろう。

 僕にとってのイメージに訴える語り方とは「環世界」という言葉を使ったものである。少し昔の哲学者(調べてみるとユクスキュルというドイツ人)が生物学っぽい分野で使ったもので、虫には虫の環世界がある、というような話だったと思う。僕が知っているのは、そのような「環世界」という言葉の表面だけであって詳細は知らないけれど、確かにそうだと思うし、いい言葉だと思う。

 僕は環世界について考えるとき、僕をつつむ世界の触感のようなものを重視する。季節は梅雨で、天気は雨だ。濃密な湿気が僕の身体を包んでいる。湿気が湿気として、世界のマテリアルとしての存在感をもって、僕を取り囲む。僕は、水の底に沈み込んだようで、まるで水中に漂う空気の泡のひとつのなかに捉えられたように感じる。梅雨の雨の日の水中の空気の泡。これが僕の環世界のイメージである。だから僕は、人間には人間の環世界があり、カエルにはカエルの環世界があるのだなあ、と思う。なぜカエルかというと、季節は梅雨で、天気は雨だからだ。

 環世界における、僕とカエルの間にあるものは区別ではないし、差別でもない。なぜなら、僕とカエルの間は、濃密な梅雨の湿気によって完全に隔絶しているからだ。僕をつつむ水中の空気の泡と、カエルを包む水中の空気の泡は交信不能であり、相互に関わることはありえない。だから、僕をつつむ空気の泡は広大な宇宙を旅する宇宙船になぞらえてもいいだろう。ただし、通信機能は故障し、行く先もわからず孤独に漂う宇宙船である。

 残念ながら、このように下手な詩のような言葉をいくら積み重ねても、言葉で区別を否定することはできない。僕とカエルが属するのは同じ水中であり、同じ宇宙でなければならない。同じところに属する二者の間には区別が必然的に存在しなければならない。だけど僕が環世界の比喩でなんとかイメージとしてでも伝えたいのは、区別を超えた隔絶である。

9 当事者性

 とにかく、環世界の比喩が成功し、僕はイメージとして、何かを読者に伝えることが成功したとしよう。それならば僕は、「真ではないことを語る」やり方(「『女性がいる』は真ではない」など)で表現したことと、全く同じことを環世界の比喩で伝えることができたということになる。女性には男性から隔絶した女性の環世界があり、障害者には健常者から隔絶した障害者の環世界がある。そこには通常の意味での区別は存在せず、だから差別も存在しない。僕が表現したいのは、そういうことである。

 「真ではないことを語る」という否定を用いたやり方と、環世界の比喩というイメージを用いたやり方を重ね合わせることで、見えてくるものがあるように思う。それは、女性の環世界にいることができるのは女性だけであり、障害者の環世界にいることができるのは障害者だけだということである。男性がいる場面において「女性がいる』は真ではない」と発言できるのは女性だけなのである。そこには極めて強力な当事者性が入り込んでいる。

 そして環世界という捉え方に忠実になるならば、女性一般というような環世界はない。そこから、僕ならば一気に実存や永井の独在性のような話に持っていきたいけれど、そのような話を抜きにしても、女性でも障害者の間にも身体的な差異や過去の経験の積み重ねによる個人差があることは確かだろう。これは一人称的な当事者性から始めるべき話なのだ。

10 僕の当事者性・反知性主義

それならば僕も、僕の当事者性から語るべきだろう。僕は男性で、僕は健常者だ。僕は世間的には最も優遇されがちな中高年男性で、実際、職場では年功序列でそのような立場にいる。金銭的にも困っていないし、このような文章を書くことができるくらいには知的能力もあるし、ヨガをやるくらいには身体能力もある。つまり僕は強い立場にあり、僕は決して差別される側の立場にはいない。(時々、海外旅行に行くと、一部の白人が差別的だと感じるくらいだ。)

だから僕は差別を語る資格はないし、きっと差別を語る能力もない。

資格も能力もないことの証左だと思うけれど、健常者の男性的な論理からすると、正直、フェミニズム的な言説は反知性主義的だと感じる。知性とは「真なることを語ることを目指す」ものだとするならば、その否定から始めようとするフェミニズム的議論は、これまでの知の積み重ねを全否定するものであり、危険を感じる。なぜなら、言語とはそもそも「真なることを語ることを目指す」ものならば、それを言語によって否定するような試みは究極的には失敗することは自明だからだ。僕が行った二つのアプローチ、つまり言語の否定の力を用いるやり方とイメージに訴えるやり方がともに完全には成功し得ないことからも、それは示されていると思う。

11 何を語るか、から誰が誰を語るか

ではどうすればいいのか。きっと、進むべきは、完全に男性的な従来型の知のあり方でもなく、かといって(急進的な?)フェミニズム的に完全に従来の知を否定するのでもないような、その両者を調停するような道筋なのだろう。

僕はそのような道筋を見つけられてはいないけれど、ひとつの改善点として、「語られた内容だけではなく、誰が語ったかに注目する」ということが挙げられると思う。例えば「白人はずるい。」という言葉は、それだけでは誤りだろう。なぜなら、明らかに、ずるくない白人もいるからだ。だが、差別を受けてきた黒人がその言葉を発したならば、それは正しいものとなる。また、「不法滞在する外国人の犯罪率は高い。」という言葉も、客観的な数値としては正しいかもしれないが、合法的に日本に住む日本人が発したものならば、検討の余地があると思う。その言葉は、明らかに在留外国人の当事者性に不用意に踏み込んでいる。ある命題の真偽を判定するためには、その命題の内容だけでは足りず、その命題の発話者が重要となるのだ。

そのようなところからなら、被差別の当事者ではない僕でも語ることができるというのが、僕のアイディアの利点だと思う。キャッチコピーとしては内包から外延へ、とでもなるだろうか。

僕は、語られた言葉の内容だけではなく、その人がどのような人なのかに思いを馳せなければならない。一方で、誰が発した言葉か、というだけでなく、その言葉の内容にも、もっと注目してほしいとも思う。必要なのは静的なバランス感覚ではなく、その両極の動的な行き来なのだろう、と僕は考えている。