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こんこんと湧き出る泉のような人

これは僕が僕だけのことを考えて書いたものだ。だから本質的に僕にしか意義がない話だけど、もしかしたら何か役に立つかもしれないので書き残しておくことにする。

僕は高校生の頃から、好きなタイプは「頭がいい人」だった。頭がいいといっても色々ある。学校の成績がいい人、知識がある人、機転が利く人、堂々と主張する人、大人びた人、浮世離れした人などなど。僕は高校生、大学生、社会人とその時ごとに、色んなタイプの頭がいい人を好きになってきた。また、真剣に恋をするときも、身近な人にちょっと好意を持ったようなときも、単にアイドルを気に入ったようなときも、色んな機会ごとに頭がいい人を好きになってきた。客観的には「頭がいい人」ではなくても、どこかに頭のよさを読み込んで来たように思う。(例外はあったかもしれないけど。)

今朝、職場に向かって歩きながら、ふと、昔好きだった人のことを思い出した。そしてそこから、歴代の僕が好きになった人たちに対して「頭がいい人」という表現をすることによって、僕はどんな思いを込めてきたのかな、なんて考えた。

そのとき僕の心に浮かんだのは、水がこんこんと湧き出る泉のイメージだ。僕が好きになる人は、泉のように、僕にとって未知で新鮮なものを目の前に見せつける人たちだった。僕は彼女たちに触れることで(肉体に接触するだけでなく精神的に出会うという意味も含め)僕は新しさを手に入れ、僕の人生は更新されるはずだ。僕が好きになるのは、そんな予感を感じさせる人たちだった。

僕が「頭がいい人」という言葉に込めてきたものを、近似値的にでもかなりうまく表現できているのが、この「泉」という言葉だと思う。

僕が泉のような人を好きになるのは、彼女たちが僕に無いものを持っているからであり、要は無いものねだりなのだろう。なぜなら絶対に、僕は泉のようにはなれないからだ。

思い返すと、僕も他の誰かに対して新しいものを供給できる存在になりたいと思って生きてきた気がする。「泉」なんてキーワードを思いついたのは今朝のことだけど、昔から僕は誰かにとっての泉のような存在になることを望んで生きてきたような気がする。そして多少は、僕は他の誰かにとって、そのような存在になれることもあったような気がする。

だけど、僕は僕自身にとっての泉にはなれない。僕は僕自身にとっては馴染みがありすぎる存在だ。時々は、何かを閃いたりして自分の中にある新しさに驚くこともあるけれど、すぐにそれは自分のものとなり、自分に馴染んでしまう。その仕組み上、僕は僕にとっての泉になることは決してできない。

では、僕は泉にとって何ら意味がない存在なのかといえば、そうではないだろう。泉には湧き出た水が貯まる場所が必要だ。泉に池がなければ、泉の水は消え去ってしまう。泉から湧き出た水が維持され存在し続けるためには、それを受け止める場所が必要だ。僕はきっと彼女たちにとっての池という場所になることはできる。

僕に受け止められることで、彼女の新しさは固定され、理解可能なものとなり、そして古くなる。僕はその人の新しさを陳腐化し消費するだけの存在とも言える。だけどだからこそ、その人の新しさは確かに新しいものとして存在したことになるとも言える。

そして大事な点は、泉は僕にいくら消費されても、こんこんと湧き出るというところにある。僕が彼女たちを好きになるとき、その人たちは、いつまでも僕に新しいものを供給してくれるように感じられた。幻想かもしれないけれど、そんな幻想により僕は恋におちたということなのだろう。

こんなふうに考えていたら、僕は二つのことに気づいた。第一に、昔から僕は、男性であっても、僕に新しいものを供給してくれるような人に知り合いたいと思っていて、実際に時々は知り合うこともできたということ。第二に、ただし、そのような男性は、恋愛という幻想が働かない分、極めて少ないということだ。(女性に対しては、僕の性欲を正当化するため、あえてその人を泉のように思い込むような嘘をつくこともあったように思う。)

このことから得られる教訓は、今後も、男女問わず、なるべく幻想抜きでしっかりとその人を見極めて、泉のように思える人とつきあっていくべきだということだろう。

多分、僕が「泉」に喩えたものは、他者性そのもののことなのだろう。僕は他者を好きになる。そんな当たり前のことを僕はしてきたし、今後もしていくのだろう。それはとても当たり前のことだとも言える。

自然科学について

本当はもっときちんとまとめたいけれど、まだまとめられそうにないから、とりあえず書き残しておくことにする。

 僕の哲学における目下の最重要課題は自然科学だ。疑問文で表現すると「自然科学はどうしてこんなにうまくいっているのか。」という問題だ。

 形而上学や倫理学については僕の中でそれっぽいアイディアがなんとなくまとまりつつある。そのまとまったアイディアの先に何があるのか、という問題はあるけれど、それは手元にあるアイディアを形にしないと見えてこないだろう。それは将来のお楽しみだ。

 そのような将来の問題とは別に、とりあえずのアイディアを取りまとめるなかでジグゾーパズルの最後のピースがうまくはまらない。手元にある自然科学というピースが、僕の哲学体系というジグゾーパズルにうまくはまらないという目下の大問題があるのだ。

 僕は形而上学が好きだから、まず形而上学から考えている。形而上学において僕が考えているアイディアはかなり独我論的な色彩の強いものだ。もし僕が考えていることを知ったら、きっと多くの人は観念論的だと思うだろう。(当然、普通の独我論や観念論とは全く違うものだという自負はある。)

 そしてそこから、倫理的なものを紡ぎ出すことにも成功したと考えている。独我論から他者との関わりが前提となる倫理を紡ぎ出すなんて不可能だと思うかもしれないけれど、僕はそれに成功したと考えており、僕はそこに僕のアイディアの新しさがあると思っている。(とにかく成功したということにして話を進めさせてほしい。)

 だけど、どうしてもそこから自然科学を引き出すことができないのだ。独我論的で観念論的なアイディアから自然科学を引き出せないのは当然だと思うかもしれない。確かにそうなのだけど、もう一息だという気もしている。

 僕の(形而上学的な)哲学の出発点は、とてもざっくりと言うならば、「今ここの私」にあると言っていいだろう。この出発点を従来の哲学者よりも精緻に捉えられたことが僕の成果だと考えている。そして、僕はそれと同様の精緻さで自然科学を捉える必要があると考えている。なぜならば、僕にとっての自然科学とは、僕が取り組んできた独我論的な哲学体系の真逆にあるものだからだ。自然科学とは僕の独我論的な哲学から最も遠いところにある最終到達地点だとも言える。僕の哲学はそこに到達することでとりあえずは完成することになる。

 では自然科学を精緻に捉えることを試みてみよう。それはいわば常識的な意味での自然科学を濾過し、純化する作業だとも言える。

まず常識的な意味での自然科学が成立するためには、時空・因果・観察者といった道具立てが必要だろう。水に熱を加えるとお湯になるという常識的な意味での自然科学の描写が成立するためにはガスコンロとヤカンが配置される場としての空間が必要だし、その空間が持続的に存在するという意味での時間も必要だ。そのようにして成立する時空のなかで水からお湯になるという変化も生じる。また、水からお湯に変化したのは熱を加えたからだ、という意味での因果も必要だろう。そして意外と重要となるのがそれを観察する視点だ。誰も観察をしなかったら水からお湯になるという状況が観察されることはない。このようにして自然科学を成立させるために時空・因果・観察者といったものが登場することになる。

 これを独我論的に言い換えるならば、ヤカンがガスコンロにかけられているのを僕が見るところから始まる。観察者としての僕は、ヤカンではなくお鍋をガスコンロにかけることも可能だったというような意味で空間的にその場を解釈し、更にそこに時間推移も見る。こうして僕は時空を見出す。そしてガスコンロの火とヤカンとを関係付けるようなかたちで因果的な解釈を行う。このようにして、観察者・時空・因果といったものが登場することになる。

 つまり独我論的には、僕が観察者として時空や因果を見出すからこそ自然科学がこのようなものとして成立するのであり、もし観察者がいなかったら、そこに時空や因果はなかったはずだ、ということになる。

 以上の描写は常識的な自然科学についてのものである。僕はそれには満足できない。その先には真の純粋な自然科学があるはずだ。

 そのような自然科学に対する僕のアプローチの仕方とは、僕が観察する前の世界について思いを馳せることだと言ってもいいだろう。僕によって汚染される前に世界があったはずだ。その純粋な世界とはどのようなものだったのだろうか。

 今の僕はそれをはっきりと捉えることはできないけれど、その世界のことを自然科学的世界と呼びたい。なぜなら、自然科学はなぜかこんなにも上手くいっているからだ。自然科学が成功しているのは、自然科学が観察者・時空・因果といったものを通じて立ち現れるからではないはずだ。もし自然科学の成功の原因が観察者・時空・因果にあるのだとしたら、成功の秘訣は、要は人間と世界の関係性にあるということになり、いわば自然科学の成功は人間の思い込みだということになってしまう。

 だけど僕は直感として、自然科学の正しさの源泉は人間の手が届かないところにあるように感じてしまう。僕は自然科学に詳しくないけれど、人間がどんなに探求しても、そこにはブラックホールやら素粒子やらと新たな謎があり、その謎を解き明かすことで更に次の謎が登場する。簡単でもなく、全く手が届かないでもない、ちょうどいい謎が世界には散りばめられている。そしてそれらの謎は、相互に有機的に結合し、壮大な自然科学の体系を作り上げている。それはまるで人間には決して触れることができない神の所業のようにも思える。真の自然科学的世界は、観察者・時空・因果といった道具立ての向こうにあるはずではないか。

 僕は、その、決して人間には手が届かないもの、神や世界と呼ぶべきものを僕の哲学体系のなかに位置づけたい。人間には決して手が届かないものを哲学体系に位置づけるなんて無謀だと思うかもしれないけれど、それは決して不可能だとは思っていない。なぜなら、僕の出発点は既に人間ではないからだ。僕が出発点としている「今ここの私」は、人それぞれという意味での人間ではない。いわばもう一方の神である。人間には手が届かなくても、一方の神からもう一方の神への橋渡しならば、僕にもできるかもしれない。それは単なる交通整理なのだから。

 観察者・時空・因果を超えたところにある、真の自然科学的世界とはどのようなものだろう。僕はその世界が整合性・無矛盾性を持っていることは確かだと思う。なぜなら自然科学とはそのようなものだからだ。確かに観察者・時空・因果を使った人間的な把握は、その真の世界のごく一部にしか到達していないかもしれない。だけど、その一面的な把握においても、世界は整合し無矛盾的なものとして立ち現れている。これはその世界が本来的に有する整合性・無矛盾性の一部を垣間見ているからに違いない。

 そして、きっと、その世界とは一体性・全体性も有しているのではないか、とも考えている。なぜなら、整合性・無矛盾性に満ちた世界が分割されていたり、何個もあったりすると考えることはオッカムの剃刀に反するからだ。世界は唯一であり、それが全体でもあるから、整合し無矛盾なのではないか。他にも世界の整合性・無矛盾性を説明する道筋はありえるのかもしれないが、そこには余計で不要な想定が入り込むことになりそうな気がする。

 もし、ここまで述べたことが正しかったとしたなら、そのように描写された世界と「今ここの私」はどのように関わることになるのだろうか。つまり「純粋な自然科学の世界」という神と「今ここの私」という神はどのようにして出会うのだろうか。

 僕はその地点にこそ人間があると言いたいのだけど、そう考えることは人間中心主義すぎて我田引水のような気がする。それに、せっかく純粋さを維持することを心がけて考察してきたのに、全てぶち壊しになってしまう気がする。

 僕は時々そんなことを考えている。

オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた

1 「じゃないほう」の二人による倫理的問題

ラーメンズの片桐じゃないほう、というくらいの認識しかなかった小林と、フリッパーズ・ギターのオザケンじゃないほうの小山田が、それぞれ問題を起こしてしまった。

二人がやったことはぜんぜん違うことだけど、きっと、二人ともオリンピック開会式に関わるポストについていたという状況や、いずれも過去における言動が問題となったという偶然の一致以外にも、いずれも倫理に関する問題であるという点で、本質的にはつながっているのだろう。

倫理と言えば、僕には今、僕史上最大の倫理ブームがきている。バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読み、この半年くらい色々と考えているからだ。だから、せっかくだから二人の問題について考えてみた。

(この話では、「じゃないほう」の二人以外にもうひとつ、webで無料公開されている藤本タツキの漫画『ルックバック』も使っていて、ネタバレしているので、この漫画を読む予定の人は読まないほうがいいと思います。とても面白かったので、僕の文章よりまずそっちを読んでください。)

2 ウィリアムズの道徳論

なんとなく「倫理」と「道徳」は似たような意味で使われがちだけど、ウィリアムズは、古代ギリシャや中世日本など全ての時代の全ての社会を通じて常にあった「倫理」と、近代以降の西洋化された社会に特有のものである「道徳」とを明確に区分する。道徳とは、善や義務といったような抽象化された概念により表現できるような一般化された価値システムのことだと言ってよいだろう。道徳以前の社会である古代ギリシャや中世日本においては、人間の倫理は、勇敢さや恥といったような相互に独立した言葉で評価され、人々はそのような価値観に基づき生きてきた。一方で道徳が唯一の倫理的な価値システムとなった近代社会においては、抽象的に把握可能な概念である「義務」さえ果たしていれば、その人は善をなしたこととなり、もし果たしていなければ、その人は非難されることになる。このように極めて抽象化され、一般化された価値システムのなかで僕たちは生きているとされる。

当然、そんなに物事は単純ではない。確かに、道徳システムに基づくならば電車の優先席に座っていて、目の前に老人が立っていたら席を譲るのが義務だけど、そこが優先席でなければ、老人が立っていても席を譲ることは義務ではない。その老人は僕の前になど立たず優先席のほうに移動して席を譲ってもらえばいい。だけどそうして老人を無視することはどこか心が咎めるし、もし老人に席を譲れば、僕は少しいい気分になるし、周囲から称賛の眼差しを受ける栄誉に浴するかもしれない。そのような、義務ではすくい取れないようなものも現代社会には確かに存在する。

だけど道徳は、そんな領域にも義務を持ち込んでくる。老人に席を譲らないひとを見かけても、そこは優先席じゃないのだから、席を譲らないのはその人の自由だから非難すべきではないと考える。もし老人が電車の揺れでよろけて転んでも、それが席を譲らなかった人の責任だとまでは考えない。つまり僕たちは、義務が及ばないところに自由はあり、義務があるところにしか責任はないと考える。

または、電車で倒れて怪我をした老人を見て、僕は自責の念にかられるかもしれない。あのとき席を譲るように注意していれば、このような悲劇は起きなかったかもしれない。僕にはそのような選択をする自由があったはずであり、そうしなかったことに対して僕には責任がある。このように考えることは、「僕には、席を譲らない若者を見かけたら注意する義務があり、そうすることが善いことである。」と抽象化して道徳的に考えることに、かなり近づいている。

ウィリアムズの見立てによれば、近代以降の社会を生きる僕たちは、すべての倫理的問題を善や義務や責任や自由といった抽象化された観点で捉えようとするような、道徳システムに取り込まれて生きているということなのだろう。

3 道徳システムの欠陥

僕は、このウィリアムズの見立てはおおむね正しいと思う。現代社会を生きる僕たちにとって道徳システムは極めて重要なものとなっている。

では、このような観点から、フリッパーズ・ギターやラーメンズの「じゃないほう」の二人の問題はどう捉えることができるのだろう。

元フリッパーズ・ギターで現コーネリアスである小山田圭吾は、過去にいじめをして、そのいじめを反省していないような発言をし、更にそのことが問題となるまで、謝罪もすることなく生きてきた。いじめは当時も今も犯罪であり、いじめをしないことは義務であり、いじめをしたならばそのことが非難され、責任を負わなければならない。このようにして、かなり典型的なかたちで道徳システムのなかで取り扱うことができるだろう。

では、元ラーメンズ小林はどういうことかと言えば、過去にコントの中でホロコーストをネタにした発言をした。それ以上でもそれ以下でもない。テレビで流れてはいないことも踏まえると、小山田の事案に比べてかなり罪は軽く、義務や責任といった言葉で簡単に捉えて判断できるような問題ではないと言えるだろう。つまり道徳システムには乗りにくい事案だとも言えるだろう。がんばって道徳システムに乗せるためには、小林が当時、ホロコーストをネタにしない義務があったことを認めなければならないけれど、それを認めることは表現の自由と衝突するし、無理筋のように僕には思える。きっと彼に対する最大公約数の感情は、ひとりの芸人としては問題ないけれど、オリンピック開会式のディレクターとしてはまずかったというものだろう。それを道徳的な用語で表現するならば、「オリンピック開会式関係者には、過去にホロコーストをネタにしないという、その立場ならではの義務があった。」ということなのだろう。だが小山田と違って難しいのは、小林には、20年前にそのライブをやってから今までの間に、そのようなコントをしたこと自体を謝罪して訂正しなければならないというような義務はなかったし、ディレクター就任を要請されたときに、過去にやったコントでの発言を思い出し、要請を断る義務があったとまでは言えないだろうという点にある。小林は義務の袋小路に入り込んでしまっている。

僕は小林という限界事例を使って、要は近代社会が発明した道徳システムというものには欠陥があるということを言いたいのだけど、例としてうまくなくてピンとこないかもしれないので別の限界事例を使いたい。藤本タツキの『ルックバック』だ。この漫画での主人公である小学生の女の子は、ふとしたきっかけで、引きこもりのクラスメイトと仲良くなり、彼女を外の世界へと連れ出すようになる。それをきっかけに、その友人はひきこもりではなくなり、数年後、大学生となる。しかし、その友人は大学で通り魔に殺される。それを知った主人公は、どうして彼女を外の世界に連れ出してしまったのだろうと後悔する。自分が外の世界に連れ出さなければ、通り魔に出会うこともなく、彼女は死なずにすんだはずなのに。この主人公の後悔を、道徳システムはどのように取り扱うのだろうか。

道徳システムはきっとこう言うだろう。小学生の頃の君には彼女を外に連れ出さないようにする義務などなかった。だから君には責任はないのだから後悔する必要なんてない、と。だけど、その慰めの言葉は、主人公には届かないだろう。僕がその主人公だったらこう思うだろう。「そういうことじゃない。」と。

僕はこれが道徳システムの欠陥だと思う。ラーメンズ小林に対する批判も、ルックバックの主人公に対する慰めの言葉も、どこかピントがずれているのだ。「そういうことじゃない。」のだ。そこには道徳システムが捉えることができないものが確かに存在している。

4 道徳システムの粗い網

では、道徳システムが取り逃がしているものとはなんなのだろうか。それは個別具体的な事情だろう。明らかに道徳システムは細かい事情を考慮することが苦手だ。ルックバックの主人公がどのように友人と関わってきたのかということや、ラーメンズ小林が当時、どのような状況でどのような思いであのネタを演じたのかといったことを、道徳システムが考慮することはなかなか難しい。

もし変質者に狙われているような具体的な状況を知りつつ、外の世界に連れ出し、その結果変質者に殺されたならば、その行為には問題があるだろう。また、当時すでに遠い外国での昔の出来事であっても、そこには当事者がおり、その人とも関わって生きているという感覚が共有されていたならば、ホロコーストをネタにすることはもっと非難されても仕方ないはずだ。

道徳システムもなんとか、できる限り個別具体的な事情を汲み取ろうとする。変質者に狙われていたことを知っていたかどうかや、当時の社会のホロコーストに対する認識がどのようなものであったか、といったことを考慮に入れたうえで善悪をジャッジしようとする。だけどいくら論理の網目を細かくしても、現実はその間から逃げていく。変質者に狙われていたことを気づかなかったのは確かだけど、明らかに変質者っぽい人が徘徊しているのを見かけていたのに何の手も打たなかった状況があったというように。(それに対しては、重過失というような概念を導入して更に論理の網目を細かくすることもできるけれど、現実には、それでも汲み取れない個別事情がいくらでも控えている。)はっきり言って、道徳という粗い網では、現実を捉え、何かを判断することは不可能なのだ。現実においては、善と悪はきれいに二分できるものではなく、善と悪は緩やかなグラデーションでつながり、その間に無数の個別具体的な事情がちりばめられていると考えたほうがいいのだろう。そのようなものを、論理で把握し判断しようとする試みには、液体を網で捉えようとするような滑稽さがあるように思える。

5 内省・教育・刑事罰

では道徳システムを用いずに、倫理的な価値判断と現実の生活とを結びつけるにはどうすればいいのだろうか。つまり、善悪や義務や責任といった一般的な概念を用いずに倫理的な生活を送るにはどうすればいいのだろうか。

僕は、論理的に考えるならば、そこで使える唯一の武器は「内省」だと思う。ラーメンズ小林もルックバックの主人公も小山田圭吾も、そして僕もあなたも、倫理的に生きるためには、ただ自問自答し、自らがどう考え、どのように振る舞うべきかを内省するしかないのだ。社会の構成員である人間全員がそれぞれ、自らを倫理的に律し、倫理的に振る舞うことでしか倫理的な社会を手に入れることはできないのだ。ラーメンズ小林は20数年前にあのようなネタをやったことを後悔しているだろう。道徳システムは、そのときの何も知らなかったあなたに責任はないのだから、ただオリンピック開会式ディレクターとしての責任だけをとれば、それ以上の責任はないと慰めてくれるかもしれない。だけどきっと、そのような慰めでは届かないところに後悔はあり、彼はその後悔を抱え、その後の自身の行動をより倫理的なものにしていくだろう。そのような内省でしか、倫理的な社会を手に入れることはできないのではないだろうか。

では、他者は内省という唯一の倫理的なプロセスに全く関わることができないのかといえば、ある一面では確かに全く関わることができないのだろう。だが、別の言い方をするならば、教育というかたちで関わることができるとも言える。つまり、倫理的な内省を行うような人に教育するというかたちで、他者の倫理的プロセスに関わることができるのだ。その関わり方を一言でいうならば、「内省しなさい(内省したほうがいいよ)」と伝えることだけが、自分以外の人に対してせいぜいできることなのだ。

または、教育を擬制したかたちで、無理やりそれ以上のことをやってしまっているのが法律だとも言える。現在の刑法では、懲役刑や禁固刑は、反省(内省)する時間を与えるためのものだし、罰金刑とは反省をお金というわかりやすいかたちで示させるものだとも言える。受刑者が実際には内省しなかったとしても、内省したことになるのが、教育の擬制としての刑事罰というものの限界なのだろう。

教育や刑事罰がどれだけ有効かはともかくとして、現実の世界における個別具体的なものごとを評価判断するにあたっては、抽象的で一般的な道徳システムは役に立たず、最も事情を知っている当事者本人が内省し、どこまでも個別具体的なかたちで自問自答するしかないのは確かだろう。

6 慰めとしての道徳システム

では、全く道徳システムには活躍の場面がないのかといえば、そんなことはない。ここまで主に検討してきたのは、自分が自分を責めるにせよ、他者が他者を責めるにせよ、批判の場面であった。実は、道徳システムが活躍できるのは、批判ではなく、慰めの場面においてだと僕は考える。

ルックバックの主人公に対して、道徳システムに基づき、彼女が死んだのはあなたのせいではないと慰めることはできる。一般化して抽象化した視点から冷静に、それはあなたの責任ではなく、あなたは非難の対象ではないと判断することができる。そんな慰めの言葉はきっとそう簡単には当事者には届かないけれど、それでも、そのような言葉を発することには倫理的な意義があるはずだ。自責の念にかられているだろうラーメンズ小林に対しても、そこまで自分を責めなくていい、と言ってあげることはできるし、(より悪質に見える)小山田圭吾に対してでさえも、責められるべきは過去の行為に対してであり、将来のあなた自身の人格さえも否定された訳ではないから挽回のチャンスはあると言ってあげることは道徳システムに基づき可能だろうし意味があることのように思える。

つまり、道徳システムの問題とは、実は慰めのためのシステムであったはずが、いつの間にか、非難のシステムとして使われてしまうようになったという点にあると僕は考える。

道徳システムが慰めとして有用なシステムであるのは、道徳システムというものが本来的に自己と他者を同一化する性質を持っているという点に由来するのだろう。道徳システムにおいて重要な概念、つまり善や義務や責任といった概念の適用にあたっては自他を区別しない。自分に適用するときも、他の誰かに適用するときも同じ意味を持つ。人殺しというひとつの行為が、自分がやったときと他の誰かがやったときで善悪の判断が異なるというようなことはない。だから自分と他者の間にある違いを乗り越え、他者に対して理解したつもりになって慰めの言葉をかけることが可能となるのだ。

だが現実には、人殺しという行為であっても、その内容は千差万別であり、他者が全貌を詳細に把握することはできない。少なくとも、その行為者の内面を完全に捉えきることは他者にはできないはずだ。(もしかしたら行為者本人にも完全に把握することはできない。)すべてを知らない他者が勝手に倫理的な判断を下すのは越権行為であり、端的に誤りだろう。(何に対する越権なのかは二通りの考え方がありうる。つまり他者ではなく行為者本人だけがすべてを知りうると考えるならば、本人に対する越権であり、行為者本人でも知り得ないと考えるならば、神に対する越権である。)

それでも道徳システムは誤りを恐れず、無謀にも他者に関わろうとする。それが非難というネガティブな関わり方なら、それは道徳システムの短所だし、慰めというポジティブな考え方なら、それは道徳システムの長所ともなりうる。

当然、薄っぺらい慰めなど役に立たないし、逆に相手を傷つけることもある。ここでも重要となるのは「内省」だろう。僕たちが倫理的に生きるためには自分自身に対しても、他者に対しても内省し、自問自答しながら、なんとかうまく関わっていくしかない。内省こそが倫理的生活に向けた唯一の道筋なのだ。

内省こそが唯一の倫理的生活につながる可能性がある道だとしても、その道が倫理的生活につながっているとは限らない。だけど、希望を込めて、僕たちは内省し、心を耕すことによって、倫理的に善く生きることがきっとできるのではないだろうか。

更に言うならば、内省的に生きることこそが倫理的に善く生きるということなのではないだろうか。

ウィリアムズのこと(2) 倫理否定主義者と哲学対話

1 はじめに

以前、僕は哲学対話においては、継続性と誠実性が重要だと論じたことがある。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

ウィリアムズは『生き方について哲学は何が言えるか』第2章において道徳否定主義者を想定した道徳的生活の正当化についての議論を行っているが、この議論と僕の議論とは重なるところが多いと気づいたので、書き残しておくことにする。

2 道徳否定主義者との倫理的議論

ウィリアムズはプラトンの『ゴルギアス』に登場するカリクレスのような倫理否定主義者(※)を念頭に置き、倫理的生活の正当化がどのようにして可能となるのかを考察する。

※ ウィリアムズは道徳否定主義者としているが、ウィリアムズは場合によってより広義な倫理と、倫理のなかの特殊システムとしての道徳とを使い分けるので、ここでは、より広義な倫理否定主義者と言い換えている。

  また、倫理否定主義者というと、なんとなく、泥棒をしたりいじめをしたりと悪いことばかりする人のようにも思うかもしれない。だが、義賊のように、実は道徳的な動機で悪事を働くような場合もあるので、真に道徳否定主義者かどうかは何らかの説明が必要となる。だからここでの道徳否定主義者とは道徳を否定するように実際に行為するひとではなく、プラトンの対話篇に登場する人物のように道徳否定的な主張を行う人を想定したほうがいいのだろう。(この話の続きは最終章で行う。)

僕は『ゴルギアス』を読んでいないので、あくまでこの本に沿って理解する限りだけど、道徳否定主義者とは気まぐれに倫理的な議論に参加し、倫理システムを否定することはあっても、いつまでもその議論に留まることはないような人のことだ。勝手に議論から退場もするし、力づくで議論の相手を引きずり出すことすら厭わない。ドラえもんのジャイアンのような奴をイメージしてもいいだろう。彼は倫理的な見地からの説得(例えば、功利主義的な利益への配慮を書いているというような)にも耳を貸すことはないし、論理法則に反する(例えば、自己矛盾を犯すなど)といった批判を気にすることもない。そもそも非倫理的なので、自らが一貫性を欠くことに何の抵抗もない。その点では男気があるジャイアンだとちょっと違うかもしれない。どちらかというと倫理的でないというよりも論理的ではないと言ったほうがいいかもしれない。(※)

※ ここでのウィリアムズは倫理的であることと合理的・論理的・理性的であることを同一視しているように思える。(非倫理的な理性の居場所をなんとか確保しようとはしているけれど、僕には失敗しているように思える。)これはかなり正しいけれど、論ずべきことが残っているように思う。ウィリアムズ的には倫理的生活は論理を超えたところにあると言うだろう。逆に、形而上学的な理性はウィリアムズが捉えた倫理的な理性を超えている、というような述べ方をして、論理が倫理を超えているということもできるのではないか。

そのようなものとしての道徳否定主義者(A)を念頭に置くならば、彼と道徳主義者(B)の議論は次のようなものになるだろう。

B 「君が道徳否定主義者なら、目の前に溺れる子供がいても、誰も見ておらず、あとで非難されるような恐れがなければ、助けないのかい。」

A 「助けようとすると思うよ。」

B 「どうして。」

A 「そうしないと後で嫌な気分になるからね。」

B 「じゃあ、君も道徳主義者なんだよ。」

A 「それなら、やっぱり助けない。」

B 「なんで意見を変えるの。」

A 「いいじゃん、別に。」

B 「助けないままにして、後で嫌な気分になってもいいの。」

A 「嫌な気分になんかならないよ。」

B 「さっきと話が違うよね。」

A 「うるさいな。もういいよ。」(Aは立ち去る。)

このような状況について、ウィリアムズは、道徳主義者Bの言葉が道徳否定主義者Aに対して威力(force)を持たなかった、と描写する。ウィリアムズによれば、倫理的主張は、その相手が倫理システムの内部にいる場合にのみ威力を持つことになる。

3 道徳否定主義者が道徳主義者になるためのステップ

では、この例のどこに問題があり、どう修正すればBの言葉がAに対して威力を持つことになるのだろうか。言い換えれば、どうすればAは倫理システムの内部にいる者、つまり道徳主義者であることになるのだろうか。

最も問題だったのは、Aが途中で話を打ち切り、立ち去ったことだろう。これは、ウィリアムズが「なぜ、そういう人たちが、おとなしく議論を聞くと考えてよいのだろうか?」(p.58)としている問題である。ウィリアムズが持ち出した例の場合は、道徳否定主義者Aは逆に(倫理学の)先生のほうを殴って引きずり出してしまうが、実力行使で議論を強制的に終了させるという点では変わりがない。もし、Aが相手を殴ったり立ち去ったりせず、おとなしくその場にいることができれば、Aは道徳主義者に一歩近づく。

だが、それでもAは道徳主義者になることはできない。なぜなら、平気で主張を変え、その理由も示さずに、一貫性のないことばかり言っていたら議論に参加していることにならないからだ。

例えば、Aが立ち去ったり、殴ったりするのを我慢し、先ほどの議論を続けるならば、次のようになるだろう。

B 「助けないって言ったり、助けるって言ったり、なんで意見を変えるの。」

A 「変えちゃいけないの。」

B 「理由がなかったら変えちゃだめだよ。」

A 「じゃあ変えてない。」

B 「変えたじゃん。おかしいよ。」

A 「じゃあ変えた。」

B 「変えた理由は何。理由がないまま勝手に変えちゃ駄目だよ。」

A 「やっぱり変えてない。」

 これでは議論にならない。そもそもAが議論に参加しているとは言えないだろう。Aが議論に参加していると言えるためには、主張にあたっては一貫性を意識する必要があるし、主張を変更したならば、主張を変えたということを認めなければならない。

 そして、もし、Aがこれも受け入れたならば、Aはようやく道徳主義者となったと言えるだろう。なぜなら、立ち去ることも許されず、一貫性を尊重せざるを得ないこととなったAにはBの倫理的な説得を逃れる術はないからだ。理性的に議論を行う限り、Aには勝ち目はないはずだ。

 もし仮にAが溺れた子供を助けないと主張し、倫理的な判断にコミットしないことを選んだとしても、Bが持ち出すだろうすべての事例で全く倫理的な判断から離れることはなかなかできないだろう。ウィリアムズは例外的に完全に倫理から逃れる方法として(※)「倫理的な言説を用いることからすっかり身を引いてしまうという手」(p.64)を持ち出しはする。だがそれはかなり困難なことだろうし、もし仮にそれを実現してしまったとしたら、その人のことを道徳否定主義「者」と呼ぶことができるかどうかは疑問だ。ひとつも倫理的なことはせず、完全に倫理的な言動から距離をとった人のことを、そもそも「人」と呼ぶことなどできないのではないだろうか。もし、ひたすら悪を行い、全く言葉を交わすこともできないような存在があったなら、それは、たとえ人間のかたちをしていても、人間として扱われることはないのではないはずで、文字通り悪魔として扱われるのではないだろうか。つまり人間が人間であるためには多少は倫理的であらざるを得ないのではないだろう。そのうえで、人間が必ず多少なりとも持っているその倫理性を首尾一貫して保持してしまったら、その人は道徳主義者にならざるを得ないということになる。

※ ウィリアムズは倫理的懐疑主義者と道徳否定主義者を分けて考察しているが、ここでは議論の簡素化のためひとくくりにして論じている。

4 哲学対話との接続

以上のような描写と、僕が、哲学対話においては継続性と誠実性が重要であるとしたこととは重なる。つまり、相手を殴ったり立ち去ったりせずに、その場にいるということが継続性にあたり、主張の一貫性を意識して議論を行い、主張を変更したならばそれを素直に認めるということが誠実性にあたる。つまりウィリアムズと僕の議論は関係があり、倫理的であることと、哲学対話に参加することとは深い関係があるのだ。

 ここで強調したいのは、重要なことは継続性と誠実性の二つだけだという点にある。先ほどの道徳者の描写はひとつの例しか用いていない雑駁なものであり、十分に論じきれていないが、僕は、人が倫理システムの内部にいるためには、継続性と誠実性だけがあれば十分だと考えている。そして、哲学カフェ(哲学対話)についても、重要なのは継続性と誠実性だけだと考えている。つまり、倫理的であることと哲学対話とはこの点で全く等しく、両者は関係があるどころか全く重なると言ってもよい。

 それならば、哲学対話とは人が倫理的であることを学ぶための最も基礎となる場であると言うことができるのではないだろうか。プラトンは政治によって社会を変革し、倫理的なるものに威力を持たせようとした。現在、学校教育のなかに哲学対話をとりいれようとする動きがあるが、これは、形は違っても、プラトンの国家論の現実化ということさえできるのではないか。

5 哲学者の日常生活

 なんだかバラ色の未来を描いてしまったが、倫理学と哲学対話の一致はもうひとつのあまり愉快ではない話にもつながるだろう。

 哲学対話とは、単なるイベントのひとつではなく、哲学という営みのある側面を非常に純粋なかたちで体現するものだと僕は考えている。哲学対話とは哲学そのものだからこそ、ウィリアムズが道徳否定主義者と対比するかたちで描写した道徳・倫理というものとここまできれいに一致するのだ。この本のタイトルは原文では「Ethics and the Limits of Philosophy」である。倫理というもののあり方と(ある種の)哲学の限界とを重ねて議論することができるというウィリアムズの洞察は、確かにそのとおりだと思う。

 倫理や哲学(対話)には限界がある。その限界は継続性と誠実性というかたちで示されている。では、その限界の外には何があるのだろうか。そこには日常生活があるのではないだろうか。

 当然、僕たちは四六時中哲学(対話)をしている訳ではないし、ウィリアムズだって常に倫理学的な考慮に基づいて生きている訳ではないだろう。そんなとき、僕たちは継続性と誠実性を失い、非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的に生きていることになる。僕たちはそんな日常を生きている。

つまり、道徳否定主義者とは、どこかに思考実験的に存在するような架空の人格破綻者のことではなく、日常を生きる僕たちのことなのだ。僕たちは、日常において、時間がないからと相手の話を十分に聞かずに話を打ち切ったり、眠くて適当に相槌を打ったり、場の雰囲気に流されて誤解を訂正しないままにしたりする。そんなとき、僕たちは非哲学(対話)的で非倫理(道徳)的な存在となる。ウィリアムズの言葉によるなら、僕たちは道徳否定主義者となる。

いや日常生活においても道徳はある、という反論があるかもしれない。日常生活においても、溺れる子供を助けるというような、道徳的に評価される行為は確かに存在する。

だが実は、道徳的に望ましい行動をとるかどうかと、道徳主義者か道徳否定主義者のいずれであるかは関係がない。なぜなら、両者の違いはあくまで議論の場面で生じるものだからだ。道徳主義者とは、あくまで道徳的な議論を行う者のことで、道徳否定主義者とは道徳的な議論を行わない者のことである。道徳を否定するにせよ、肯定するにせよ、議論のなかで培われた道徳という観点を議論の外に持ち出すためには、議論の内外の間に横たわる断絶を飛び越える必要があるが、それは不可能なことである。溺れた子供を助けるべきといくら論じても、その人が溺れた子供を助けるとは限らないし、逆に、助ける必要はないと論じた人がいたとしても、その人が、実際に子供が溺れている場面に遭遇したとき、英雄的な行動をとることは、かなりありうることである。

それでも、事前に哲学対話を積み重ね、倫理的な力を高めておくことにより、心構えができ、日常生活においても培った道徳の力を発揮しやすくなるというような傾向性は見出すことができるかもしれない。もしそれを認めるならば、哲学生活の場面と非哲学的な日常生活の間にある断絶を架橋するような何らかの媒介物、例えばコナトゥスと呼ばれるようなものを想定しなければならないだろう。だが、そのような議論も、それが議論である限りは哲学生活としての範囲に留まらざるを得ず、それが日常生活の側に届くことはない。そこには哲学の限界を哲学によって論じるという問題が残っている。どうやら、この考察も行き着くところまで来たようだ。

6 注意点

 最後に注意点を述べておくと、ここで論じたのは、哲学のうちの倫理学と呼ばれる分野に限定してのことだ。僕が好きな形而上学や、または、美学や論理学といった他の分野の哲学については、哲学対話と相性がいいかどうかさえ、まだわからない。実感としても、哲学対話を実践していると倫理学的な話題と哲学対話は相性がいいと感じるけれど、それ以外の分野についてはそうでもないような気がする。だから、哲学対話は当面、倫理学対話と呼んだほうがいいように思うし、哲学カフェも倫理学カフェとしておいたほうがいいような気がする。そのように限定することで、ものごとをかなりクリアに捉えられる気がする。

フェミニズムという物語

(この話は、あまりフェミニズムに興味はないし、詳しくもない僕が書いたフェミニズムについての話です。だから話半分で読んでください。フェミニズムはあくまで話の枕で、実はフェミニズムの話ですらないかもしれません。)

1 フェミニストな妻

僕の妻はフェミニズムっぽい考え方を持っている。だから時々、食卓でそういう話もする。そんなときはたいてい、二人の話は少し噛み合いつつも、少しすれ違ってしまう。僕は多分、フェミニズムには総論賛成各論反対の立場なのだろう。男女平等という姿勢には賛同しつつ、その論理構成の細部には疑問を感じてしまうのだ。

例えば、妻は、会社での人事評価は男性のほうが優遇されていると言う。僕もそれに同意する。更に妻は、その理由について、育児休暇をとると悪い評価がつくのはミソジニー的な意識が男性社会のなかにあるからだと言う。そんなとき、僕の中に違和感が生じる。確かに少なくない割合の男性がミソジニー的ではあるだろう。また、育児休暇をとると評価が低くなるのも確かだろう。だけど、育児休暇をすると評価されない主な理由は、単に仕事をしていないからではないだろうか。当然、女性が仕事を休まざるを得ないのは子育てのせいだし、子育ては男性がもっと関わるべきだ。その現状を踏まえるならば育児休暇を理由に低評価をすべきではない。だが、そのうえで、ミソジニーの問題はあまり関係ないように思えるのだ。育児休暇と同様に、あまり残業をしない人や、病弱で休みがちな人は評価が低くなりがちだ。全く同列に語ってよいかどうかは別として、僕には、そこに大きな違いはないように思えてしまう。あくまでこれは評価全般の難しさの問題なのではないだろうか。

僕の主張が正確かどうかは別にして、こんなふうに、僕は、フェミニズム的な主張にはどこか粗雑なところがあるように感じてしまうのだ。

2 交差するベクトル

ずっと僕は、それはフェミニズムの欠点だと思っていた。僕のほうが精緻で正しくて、妻のほうが粗雑で間違えていると思っていた。

だけど、もしかしたら、そうではないのかもしれないと気づいた。二人は、向いている方向が違うだけなのではないだろうか。言い換えれば(僕にとっての)哲学とフェミニズムではベクトルが違うということかもしれない。

僕にとっては、議論とは、たとえ夫婦の間でのものあっても、当事者の思い入れから解き放たれ、真実に向かうべきものだ。僕自身や妻といった当事者の思いのいかんに関わらず、いわば客観的な視点から真実を描き出そうとするものだ。僕は哲学とは、そういう営みだと考えている。(「客観的」という表現が、哲学的には問題含みではあるけれども。)

一方で、フェミニズムとは、生き方なのだろう。きっと、妻は女性であることで苦労してきたのだろう。そして、それを乗り越えてきたという自負もあるはずだ。そのような半生とフェミニズムは切り離すことができない。彼女にとって、男女差別は人生の大きな課題だった。だから彼女が自分自身の人生を描写するとき、男女差別という視点は極めて重要なものとなる。いわば、彼女はフェミニズムというストーリーのなかで生きていると言ってもいい。僕のような視点が客観的なものだとしたら、彼女の視点は主観的と言ってもいいだろう。

 このようにして、僕の視点と彼女の視点は交差する。僕は客観的で全体的な視点から個別のものごとを捉えようとし、彼女は主観的で個別的な視点からすべてを捉えようとする。僕はまず、育児休暇の低評価やミソジニーといった社会的問題を見渡すような視点に立ち、そこから共通の問題構造を見出していく。その分析のなかで男女差別を見出すかもしれないし見いださないかもしれない。全体構造が先で男女差別は二の次だ。一方で彼女は、育児休暇の低評価の問題もミソジニーの問題も、男女差別というひとつながりのストーリーとして捉える。男女差別という物語は彼女の人生とは切っても切り離せない必須のものとして立ち現れる。

 だから問題が生じるのだろう。僕は、フェミニズムを切り刻むように扱う。育児休暇の低評価問題には、男女差別が関わっている部分と、そうでもない部分があるよね、というように問題を腑分けする。だけどそれは、彼女からしたら、自分の人生を切り刻み、腑分けされているようなものかもしれない。彼女にとっては、男女差別の観点から語ることができる限り、育児休暇の低評価問題もミソジニーも、完全に男女差別の問題なのだ。つまり、すべてが彼女の人生のなかで渾然一体となり、男女差別=育児休暇の低評価問題=ミソジニー問題という図式が成立する。これこそが、僕とは異なる、僕があまり得意としない、もうひとつの世界の捉え方なのだろう。僕はこのような捉え方を否定すべきではない。

3 人生というストーリー

 更に言うならば、きっとそれが自分の人生を生きるということなのだろう。彼女は、育児休暇の低評価問題を現実に男女差別の観点から説明できないような経験を実際にするまでは、どこまでもそのように生き続けるのだろう。それしかできないのだろうし、そうすべきだとすら思う。

 どうしてそう思うのかというと、実は僕も同じだからだ。僕も彼女と同じように、ひとつのストーリーのもとで生きているからだ。言うなれば、僕自身も、客観性というひとつのストーリーのもとで生きている。(哲学的にもう少し正確に表現するならば「メタ」という視点を重視するストーリーのもとで生きていると言ったほうがいいかもしれない。)彼女のフェミニズムを外部の視点から批判することは容易であるのと同様に、僕の客観(メタ)を重視するドグマを外部の視点から批判することも簡単にできる。そして、僕は、僕のドグマを擁護する術を持たない。その点で僕たちは同じ穴のムジナだ。

 なお、僕自身がドグマを抱えているということについてわかりにくいかもしれないので少し具体的に説明しておこう。それは例えば、相対主義の自己適用の問題と似ている。AとBの二人が堕胎は是か非か、というような二つの意見が対立している場面で、相対主義者Cが「人それぞれ」なのだから相手の意見も認めるべきだ、と調停したとする。それに対して、非相対主義者Dが「では相対主義者(C)は、相対主義を否定するという俺(D)の意見も認めるべきではないのか。」と批判するような場面だ。CはAとBよりもメタ的な視点に立っている。だけどDはCよりも更にメタ的な視点に立ち、なぜそこに留まるのかと批判する。CはDからの批判を正面から否定することはできないだろう。そして僕は、僕自身が、この相対主義者Cと同じような立場にいると考えている。「どうしてメタ的な視点をとるのか。(どうしてメタ・メタ的な視点をとらないのか。)」とメタ・メタ・メタ的な視点から問われたとき、僕はそれに対して答えることはできない。(なお、Cは正面からではなく、ずらして答えることができる、と考えるのが入不二であり、僕はそれに賛同する。)とにかく客観性や、相対主義や、メタ的な視点というもの自体がひとつのドグマであるという批判はたしかに成立する。

 人は生きる限り、ストーリーまたはドグマからは離れられない。世の中には、フェミニズムや客観性のほかにも、民主主義、資本主義、愛、優しさ、神といった様々なストーリーであふれているけれど、人は自分自身に染み付いたストーリーからは離れることができないのだ。

 ここで述べたことは哲学的にはそれほど深い話ではないけれど、僕はその知識を実生活で使えていなかったのだ。妻との議論において、無頓着に客観的でメタ的な立場に立つことができると考えていた僕は、(意識的かどうかは別として、その限界に忠実であった)妻に比べてもナイーブすぎたのだろう。僕は妻との議論という実生活の場面でも、ようやく、この問題に気づくことができたということなのだ。

4 現実世界と思考世界

 なお、僕はストーリーに上下の序列があるとは思っていない。うちの奥さんのフェミニズムよりも僕の客観性のほうが上だなんて思っていない。または、未開の部族のアミニズム的な神様よりも洗練された民主主義のほうが上だとは思っていない。これは、単に評価を留保し、すべてのストーリーを平等なものとして捉えるということではない。むしろ、フェミニズムやアミニズム的な神様のほうが上かもしれない。なぜなら、そちらのほうが、客観性や民主主義といったものよりも生々しくて人間のにおいがするからだ。フェミニズムには客観性よりも人を動かす力がある。アミニズム的な土着の神様が信者に対して持つ力は、民主主義が現代国民に対して持つ力よりもはるかに大きい。これらには、いわば現実世界での実行力がある。その点で、ある種のストーリーは他のある種のストーリーよりも力強いと言える。

 一方で、現実世界での力をあまり持たないようなストーリー、例えば、客観性や民主主義といったストーリーは、逆に、思考の世界での力は強い。だから、言葉での議論においては、フェミニズムは客観性には敵わないし、奥さんは僕には敵わない。その点も踏まえるならば、それぞれのストーリーには上下はなく、ただ得意な土俵に違いがあるに過ぎないとも言える。現実世界と思考世界のどちらで力を発揮するかという特性の違いである。

僕はどちらかというと思考世界の住人だけど、思考世界の住人にとっても、現実世界は当然重要だ。哲学をするだけでは生きていけない。一方で、現実世界の住人にとっても、思考世界というものが、すごろくの一回休みのように、一息つくことができるところとしての意義があるといいなあ、と思う。そう思ってもらえれば、お互いが理解し合うことが少しはできそうだから。

(この文章のBGMは『絶対彼女』(大森靖子)です。僕は疎いけど、ハロプロ的なアイドル文化には、この文章で書いたことの更に外の視点が含まれているような気がする。思考すら届かないような、更に外側の世界があるという予感といえばいいのかな。)

空と大地の間の「幅」

似たような話が続くけれど、またヨガ・瞑想と哲学の話。

数年前のヨガフェスタで、ODAKAヨガの創始者であるロベルト先生のクラスに参加したことがある。大人数だし、通訳を介してだし、そんなに期待していなかったけれど、とてもよかった。独特の空気感があって、さすが大御所だという感じ。クラスの内容としても、特に、自由に翔ぶというイメージを強調していたのが興味深かった。時間が経ち、記憶もあやふやとなり、僕の勝手な解釈が入り込んでいるかもしれないけれど、重力から解き放たれ、自由に翔ぶ鳥のようになる、というイメージだ。確かに、インナーマッスルの力も使って、重力に押しつぶされないようにするという感覚は、その後のヨガでも役立っているように思う。

だけど、ヨガでは、重力に抗い、上方向に意識を向けることは少ない。どちらかというと、立っているときには、しっかり足裏に感覚を向け、大地に根ざしているというイメージを持つことが推奨される。また、仰向けに寝ているときも、背中が地面に沈み込むような感覚を持つと上手にリラックスできるとされる。

どうも、ロベルト先生が言っていたことと、普通のヨガが言っていることは矛盾しているのではないか、という気もする。だけど当然、そんなはずはない。きっと両方が重要なのだ。例えば、気をつけの姿勢で立っているとする。ヨガではこれをサマスティヒというのだけど、このとき、僕の頭は上に伸びつつ、僕の足裏はしっかり地面に根付いている。僕はそんなに上手にはできないけれど、そういう方向で頑張る。理想的には、僕は空に羽ばたきつつ、大地に根付いている。ヨガは、その拮抗状態を目指していると言ってもいいかもしれない。僕は重力ゼロで大空と大地を結ぶ紐帯となっている。そんなイメージを持つと上手くヨガのポーズがとれる気もする。

 どうも理想論すぎて無理筋の話だと感じるかもしれない。人間が紐帯と化すことなんてできる訳がない。ちょっとスピ系すぎるように思える。だけど、実はヨガなんてやらなくても、人間はそういうものだとも言える。なぜなら、僕たちは飛行機や地下鉄に乗らない限り、大空と大地の間に生きているからだ。事実として、僕は約170cmの長さで空と地面との間をつなぐ存在だということまでは言えるような気がする。

 そうだとするならば、ヨガとは、実際生まれながらにして空と大地の間に生きる存在であることを思い出し、それを意識することにより、より上手に生きることを目指すものなのかもしれない。空と大地の間にある、人間の領域の幅を意識し、羽ばたき、根付くことにより、その領域の拡大を目指すものなのかもしれない。

 ここまでは、ちょっとスピリチュアル寄りの話すぎるので、ここまでなら僕が話すようなことではないだろう。こういうことについては、もっと造詣が深い人がたくさんいるのだから、僕などが出る幕ではない。

 僕がこのような話をしたのは、ここでの、空と大地の間の人間の領域の「幅」というアイディアは、哲学的に拡張することができそうだと思ったからだ。

 まず哲学の方向に進まず、いわゆるカジュアルなヨガの領域にとどまったままでも、空と大地(つまり頭と足の裏)以外にも色々な幅を見出すことができる。特に重要なのは、胸・お腹と背中の間の幅だろう。呼吸において、胸と背中の間や、お腹と背中の間の距離に意識を向けることはとても重要だ。

 そこから、身体から離れて瞑想的な話に入っていくと、きっと注意を向ける対象と、注意をしている自分との間の距離も重要だろう。例えば、目の前に燃えるロウソクの炎を見て瞑想していたとする。(したことはないけど。)そこで重要なのは、きっとロウソクと自分の間の距離だ。その距離を無限小にし、自分とロウソクを一体にするのがサマタ瞑想で、その距離を無限大にとっていくのがヴィパッサナー瞑想の道筋ではないだろうか。だけど、瞑想をしていない僕たちは、無限小でもなく無限大でもない日常的な「幅」をロウソクとの間に感じて生きている。

 いよいよ哲学の領域に入り込んでいくと、二点間の距離という意味で重要なのは、未来と過去の間の時間的な距離だろう。僕たちは、未来と過去の間の現在に生きていて、それがいわば、人間の領域の「幅」だと言ってもいい。なぜなら、手が届かない未来には自由はなく、確定した過去にも自由はないという意味で、現在にしか自由を見出すことできないからだ。人間にとって自由意志が必須だとするならば、現在こそが人間の領域だとすることは、そうおかしいことではないだろう。

 同様に、二点間の幅のなかにこそ人間性を見出すという思考の道筋はいくつもありうる。例えば、人間が、人間らしく生きるためには、ガチガチの因果的決定論でもなく、単なる神の気まぐれでもなく、その両者の間にある考え方をする必要があるという考え方がある。これは偶然と必然の間にある「幅」のなかに人間の領域を見出す考え方だといっていいだろう。

 ほかにも、色々なところに「幅」を見出すことはできるだろうが、重要なのは、そのいずれもが、人間の領域の「幅」として表現できるということだ。空と大地、お腹と背中、ロウソクと観察者、過去と未来、偶然と必然、いずれにも「幅」はあり、その幅にこそ人間の領域がある。(逆に、すべての「幅」とは人間の領域のことである、と言ってもいいようにさえ思える。)

 僕は哲学的興味に基づき、そんなことを考えているけれど、まだ、それが何を意味するのかはよくわかっていない。そのためには、もっと様々なところにある「幅」を発掘する必要があるのかもしれない。それこそが、人間らしく生きるということの鍵でもあるような気がする。  だけど、そんなことばかり考えてもいられないので、実際の僕は「幅」のことなどすっかり忘れ、日常を生きている。それでも僕は、時々、空と大地の間の「幅」を思い出すことで、僕は「幅」的思考の入り口に戻ってくることができる。このことは、ヨガや瞑想に役立つだけでなく、哲学にも役立っているような気がする。

ネコとの会話、瞑想

これから始めるのは、言語と瞑想についての話である。

まず、言語の側からの導入として、一週間くらい前の夜のうちのネコとの話をしておきたい。

そろそろ寝ようと思ってトイレに行ったあとだっただろうか、僕のあとをくっついて歩いていたネコが、先回りして二階に向かう階段を駆け上り、僕の目の高さまで上がったうえで、僕に向かってニャーと啼いた。何がご所望なのかよくわからないけれど、なにかしてあげないとなあ、と思い、抱きかかえてエサがある皿の前まで運び、キャットフードに我が家の用語でのフリカケ(犬猫用のビーフジャーキーを砕いたもの)をかけてあげた。

ムシャムシャ食べるネコを見ながら、僕はぼんやりと、ネコの言葉がわかったら、本当は何をしてほしかったのかがわかるのになあ、なんて考えていた。さっきの僕はなんとなくご飯かな、と思ったけれど、もしかしたら、おもちゃで遊んで欲しかったのかもしれないし、抱っこしてほしかっただけなのかもしれない。

そんなことを考えていて、ふと思った。言葉はたしかに便利だけど、もしネコと言葉が通じてしまったら、ネコが何を考えているのか思いを巡らせることもなくなってしまうのではないか。ネコとは言葉が通じないからこそ、ネコについて深く考えるとも言えるのではないだろうか。言葉と思いを寄せることとはどこか相容れないところがある。

もうひとつの導入として、瞑想の話もしておきたい。素人の不確かな情報だけど、瞑想にはサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の二種類があるようだ。サマタ瞑想とは、目の前に置かれたロウソクの炎や「息を吸う時に鼻の穴を空気が通る感触」のような特定のものに意識を集中させて瞑想するもののようだ。ヴィパッサナー瞑想は、あらゆるものごとを観察するようなかたちで瞑想するもののようだ。どうも言い回しがあやふやなのは、きちんと勉強をしたことがなくて知識がないからだけど、多分、不備はあっても大きく間違えてはいないと思う。一点集中のサマタと全体的なヴィパッサナーというイメージを持てさえすれば、少なくとも僕がこれから書く文章を読む上では十分だろう。

なぜ、言語と瞑想をつなげるのかといえば、まあ、どちらも僕が興味を持っているからなのだけど、内容としても、両者には「切り替え」という共通点があるように思うからだ。

瞑想に「切り替え」があるのは明らかだろう。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想に移行※するためには何らかの切り替えは免れないはずだ。(※両方向への移行がありうるけれど、ネットで見ると、サマタ瞑想を練習してヴィパッサナー瞑想に進むのが一般的なようなので、そちらを例にしています。)

なぜなら、例えば、鼻の穴の空気の流れを感じることと、身体全体で感じることの間には飛躍があるからだ。その飛躍を緩やかに徐々に埋めていくことなど不可能に違いない。

その不可能性は、その緩やかな拡大の道のりがあまりにも遠大だからとも言える。鼻の周囲に集中するのに3分かかったとして、その集中を口に広げ、目に広げ、耳に広げ、とやっていたら、それだけでも単純計算でも3分×4(鼻・口・目・耳)=12分かかるし、同様のペースで身体全体に広げるならば、きっと何時間もかかるだろう。そんなに集中力を保てるはずがない。

だけど、より根源的な不可能性は、鼻という部分への意識の集中により、その集中の対象には面積のような数量性が失われるというところにあるだろう。鼻に集中するということは鼻のみが意識の対象であり、意識の対象の全てが鼻となるということである。他に比較対象がない状況では、鼻が全体に占める割合や面積といった数量のようなものには意味がなくなる。集中の対象が面積ゼロとなってしまえば、ゼロに何を掛けてもゼロのままとなる。そもそも集中の対象を拡大するということには言葉遣いからして無理があるように思う。集中と拡大は矛盾していると言ってもいいだろう。このような経路から導かれる不可能性こそが一部を全体に徐々に広げることの不可能性の本質だろう。

では、どうやって一部に集中している状況から、全体に集中している状況に至ることができるのかといえば、それは何らかの切り替えによるしかないはずだ。(僕は瞑想が上手じゃないから、あくまで予想です。)一部への集中を練習することで集中するという作業に慣れて、それを全体への集中へとステップアップするという感じなのではないだろうか。心機一転、よし次回は全体への集中を練習するぞ、と気持ちを切り替える感じといえばいいのだろうか。(あくまで予想です。)

次に、言語についても「切り替え」があるという話をしたいと思う。

完全に僕が好きな哲学者である入不二基義の受け売りだけど、言語には否定を介して全体を指し示すという特殊な機能がある。例えば、青を否定して「非青」とすれば、「非青」は赤や黄色や緑といった青でない全ての色を指し示すことができる。成田空港の入国ゲートに「日本人」と「日本人以外」という二種類のゲートを設ければ、全ての入国者をいずれかのゲートに案内することができる。「青」+「非青」とすればすべての色を示すことができるし、「日本人」+「日本人以外」とすればすべての人間を示すことができる。

念のためだけど、これは決して青や日本人を優遇している訳ではない。「山吹色」+「非山吹色」でも、「ローマ教皇」+「非ローマ教皇」でも(ローランド+非ローランドでも)同じことだ。

言語がここで行っているのは否定を介した切り替えだと言っていいだろう。青が非青に切り替わっているのだから。

僕は、この瞑想の切り替えと言語の切り替えは深く関わっているのではないかと考えている。なぜなら、言語が「青」+「非青」とすることで全体を指し示していることと、ヴィパッサナー瞑想が全体に注意を向けるものであるということとは、「全体」という面で共通点があるからだ。瞑想においても、一点集中のサマタ瞑想から、非サマタ瞑想とでもいうべき瞑想の反転が起こり、ヴィパッサナー瞑想に至るのかもしれない。

ただし、言語においては、正確には、青から切り替わる先は非青であり、色全体ではない。それならば鼻の先にだけ集中しているサマタ瞑想から、非サマタ瞑想に至っても、それは、鼻の先以外のすべてに集中する瞑想にしかならない。それでは画竜点睛を欠くような気がする。

では、言語においては全体を捉えることはできないのかといえば、そのようなことはない。全体は、青から非青への切り替えを可能とするような全体を見渡す視点として現れる。青も青以外の色もいずれにせよ色の一種だよね、と全体を見渡す視点があるからこそ、青から非青への切り替えが可能となる。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想への切り替えにおいても、同様に、集中というものをメタ的に捉えるような視点に切り替えを行うことで全体に至ることは可能であるように思える。

(青+非青というかたちで加算表現をすることで全体を指し示すことができるが、このような説明も、そのような加算を可能とするような場を想定するという点で、視点の切り替えを行っていると言える。)

また、メタ的な視点への切り替え以外にも切り替えの道筋はありそうだ。

ひとつ思いつくのは、客体から主体への切り替えだ。僕が青いコップを見ているとき、そこには青しかない。だけど、注意を青いコップではなく、それを見る主体、つまり僕自身に注意を向けてみる。そうすると、そこには青いコップを見ている僕がある。青いのはコップではなく、僕自身がそう感じているだけだということに気づく。僕が別のものを見れば、そこには黄色があるかもしれないし、また別のものを見れば、そこには赤があるかもしれない。いわば、僕のなかには全ての色があるとも言える。つまり、コップという客体から、僕という主体に注意を切り替えることで、僕のなかにすべての色を見出すことができる。このような捉え方が瞑想と親和性が高いかどうかはわからないけれど、内観に向かうという点では、なんとなく瞑想っぽいアイディアのような気もする。

ほかにも、コップの色ではなく、コップのマテリアルとしての大きさや形のほうに注意を向けるというやり方もあるかもしれない。そうすれば、そこにはコップが様々な色を持つ、潜在的な可能性を感じることができる。可能性というかたちで色全体にアクセスする道筋もありえるように思う。

重要なのは、意識の切り替えには色々なやり方があり得るということであり、きっと、瞑想での切り替えは、そのいずれのやり方も含みつつ、どのやり方よりも深いところで切り替えを行っているのだろう、ということである。

そして、僕の興味は、それをどこまで言語で捉えることができるのか、ということであり、僕の問題とは、その切り替えを、どこまで、言語的なものとして解釈すべきなのか、ということだったとも言える。

だけど、先日、ヨガの先生が興味深いことを言っていた。(その日はもうひとつ一つ興味深い言葉があって、それはhttp://dialogue.135.jp/2021/06/13/kokyu-gyaku/に書いている。)

先生は、瞑想の手順の話のなかで、「最初は呼吸により空気が鼻を通る感じや心拍に集中して、その集中を徐々に身体全体に広げていく。」というような話をしていたのだ。先生はサマタやヴィパッサナーという言葉は使っていなかったけれど、これは明らかにその類の話だ。サマタからヴィパッサナーに徐々に移行するなんていうことが可能なのだろうか。ここまで論じてきたような「切り替え」のない道筋なんてあるのだろうか。

実は、この問題については既に僕の見解は述べている。サマタ瞑想で一点集中するということは、その集中の対象が面積ゼロになるということだから、ゼロに何を掛けてもゼロにしからないように、ゼロを徐々に拡大するなどということは不可能であるはずだ。

だが僕のこの主張は机上の空論だ。瞑想の初心者の想像に過ぎない。瞑想に限らず、現実というものはいつも想像の斜め上をいく。論理的なギャップが、瞑想の実践により軽々と飛び越えられていくということは非常にありうる。だから、先生の言葉には真実が含まれているような気がする。(現実にはギャップを飛び越える力があるという話は、入不二の円環モデルの12時のギャップの話と通じると思う。)

もしそうならば、言語における切り替えはどうなるのだろう。もし瞑想の実践において(もしかしたら、瞑想に限らず、人生全般としての実践において)「切り替え」が決定的な役割を果たしていないならば、言語における切り替えをどのように位置づければいいのだろうか。

多分、その答え方としては、言語を実践のなかに位置づける方向と、言語を実践の外に位置づける方向とがあると思うけれど、そのどちらを進むべきなのかは、僕にはわからない。

ただ、冒頭のネコについてのエピソードを思い出すと、言語というのは現実を切り刻んでしまうところがある。ネコが語る言葉に頼り切り、ネコの現実の思いに目を向けなくなったとき、言語は僕とネコの間を切り裂き、そこに分断や切り替えを招き入れる。

僕は哲学カフェをやっているのだけど、うまくいっているときの哲学カフェのような理想的な状況であれば、言葉がすべてを解決してくれるという楽観的な立場だった。だけど、言葉だけじゃないんだよな、そんなことを感じた二つの出来事だった。

分析・総合、演繹・帰納

これは本当に自分向けの備忘録なので読む価値はないです。この問題については既に教科書的なきちんとした答えが既にありそうな気がします。知っている方がいたら教えてください。

僕の疑問は、分析・総合と演繹・帰納の関係だ。

僕の理解では、分析的な言明とは「ネコは動物である。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に既に「動物」が含まれているということになるそうだ。つまり分析的な言明は「動物の一種は動物である。」という極めて当然のことを言っていることになる。

一方で、総合的な言明とは「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」のようなものだ。カントによれば、「ネコ」という主語に「紐で遊ぶのが好き」ということは含まれていない。つまり総合的な言明は新しいことを言っていることになる。ただし、うちのネコは二匹とも紐で遊ぶのが好きだし、たいていのネコはそうだろうけれど、どこかに紐で遊ぶのが好きではないネコもいるかもしれない。歳をとったネコは紐になんて見向きもしないかもしれない。だから総合的な言明とは、新しくて意義もあるけれど、どこか危うい言明だとも言える。

当然でつまらない「分析」と意義があるけれど危うい「総合」という対比から、僕は演繹と帰納の関係を連想する。

演繹では「哺乳類は動物である。」と「ネコは哺乳類である。」から「ネコは動物である。」を導く。演繹とは論理構造だけから導くことができることを導くものだと言っていいだろう。一方で帰納では複数の実例を観察し、そこに共通する法則を取り出そうとする。何匹ものネコの目の前に紐をぶら下げ、その紐に興味を持つかどうか実験することを通じて「ネコは紐で遊ぶのが好きだ。」を見出す。

ここには明らかに分析・総合の対比と同様に、当然でつまらない「演繹」と意義があるけれど危うい「帰納」という対比がある。僕は分析・総合と演繹・帰納は全く同じもので、分析=演繹、総合=帰納だとすら思っていた。

だが、どうやらそれほど問題は単純ではないようだ。澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んでいたら、まるで当然かのように「帰納/分析」と「演繹/総合」というペアでの対比構造が図示されていたのだ。(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.99)どういうことだろう。これは大問題だ。

澤田のこの対比が登場するのは、ニュートンの分析・総合とヒュームの演繹・帰納を比較する場面においてである。

澤田によれば、ヒュームは仮説演繹法の一種とでもいうべき考え方をとっている。

つまり、

(1)個別的因果関係を観察する。

(2)その観察からの帰納によって一般原理を仮説として立てる。

(3)その原理の仮説を演繹的推論によって別の個別事例へと適用し、観察予測を立てる。

(4)その観察予測を経験によって「確証(confirm)」する。

(5)以上の手順の繰り返しによって一般原理の体系全体を確証する。

(澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義』p.79)

という手順である。(2)の帰納による仮説定立と、(3)の演繹による予測定立と、(4)の実験による予測(と仮説)検証というサイクルが回ることとなる。

澤田はこれを一般原理と実験観察の間の往復構造として描写し、帰納を実験観察から一般原理に向かう矢印として書き入れ、演繹を一般原理から実験観察に向かう矢印として書き入れている。

これは僕の理解によれば、世界の個別の事象から、何らかの法則を導くのが帰納であり、具体的な法則から世界の事象について説明・予測するのが演繹だということになる。

澤田によれば、ニュートンも、分析と総合という用語を用いて同じようなことを言っているらしい。実験結果からその原因を発見しようとすることが分析であり、つまり実験観察から一般原理に向かう矢印にあたる。また、分析により見出した法則・原理から、新たな実験観察について統一的な説明を行うことが総合にあたるということになる。

ある特定の事象について精緻に考察し、そのような事象が生じるに至った理由やメカニズムを捉えようとするという営みは、語感としても分析という言葉がふさわしいように思う。また、複数の事象について統一的な説明を行おうとする営みが総合と呼ばれることも自然なことだと思う。つまり、ここまでの議論の展開は、なにげなく読み進む限り、大きな問題はないように思える。

しかし、振り返ってみると、いずれも事象から法則に向かうものだという意味で、ヒュームの帰納とニュートンの分析が重ねられ、いずれも法則から事象に向かうものだという意味で、ヒュームの演繹とニュートンの総合が重ねられることになる。

これは明らかに、分析=演繹、総合=帰納 という僕の直観と異なる。いつのまに、こんなことになってしまったのだろう。

自説を論じる前に、澤田が着目しているヒュームとニュートンの違いについては言及しておくべきだろう。

澤田によれば、ニュートンの一般原理とは法則とでも言うべき揺るがない確たるものだが、ヒュームの一般原理とは、あくまでも仮説であり、更新可能なものである。そのような違いがあるという点が重要である。

だから、ヒュームにおける一般原理と実験観察との間の往復(循環)構造とは、文字通り、往復構造だと言っていいだろう。個別の事象の観察により、仮説が更新・強化され、仮説が更新・強化されることを通じて、個別の事象の観察の精度が上がっていく。

一方で、ニュートンにおける一般原理と実験観察との間の往復構造とは、実は、増殖とでも言うべきものだろう。個別の事象の観察により発見された法則は見直しの対象とはならず、確定する。そのようにして成立した法則は、新たな事象の観察と、観察による新たな法則の発見の礎となっていく。だから、一般原理と実験観察との間の往復が一巡するごとに、新たな法則がひとつずつ増殖していくこととなる。

懐疑主義的な僕からすると、軍配はヒュームに上がる。ニュートンはあまりにもナイーブだと思う。ヒュームや僕は、確たるものを見つけようとしつつも、グルグルと仮説でしかないものと格闘しているのに対し、ニュートンはあっさりと確たる法則を見出し、次のステップに進んでしまっている。

常識的な言い方だけど、帰納では確実な真理には到達できない。いくら黒いカラスを観察しても、白いカラスがいないことは証明できない。その問題に向き合っていないという意味で、ニュートンの道筋には誤りがあるし、ヒュームのほうがそのような問題に真摯な態度をとっている。

だけど、澤田の図を眺めていると、どうもそこには、単なる誤りではない何かがあるようにも思えてくる。どうしてこんなにきれいに違っているのだろう。

まず言えそうなことは、ヒュームの帰納・演繹のプロセス全体が、ニュートンの分析に相当するのではないか、というものだ。ヒュームの実験と仮説のサイクルを何度も回すことによって、仮説の確度は高まり、ニュートンの確たる法則に近づいていく。ヒュームの往復運動の果てにある、(到達できない)理想形として、ニュートンの法則があるとも言える。

考えてみれば、僕もヒュームもナイーブだ。様々なことを懐疑に付しながらも、何度も、実験と仮説のサイクルを回すことができるということについては疑っていない。世界のものごとを何度も繰り返し観察し、ひとつの仮説を何度も更新できるために必要な「複数性」とでもいうべきものを疑っていない。永井の言葉で言うならば「ものごとの理解の基本形式」の枠内にいることについては疑いを持っていない。

もし、それを疑わず、信じ込むならば、一気にニュートンのように、もっと楽天的にすべてを信じてもいいような気もする。僕もヒュームも信じることに敏感な割に、疑うことに無頓着すぎるような気もする。(ヒュームは実は両方に配慮しているのだ、というのが自然主義と懐疑主義の両立を主張する澤田の解釈なのかもしれない。)

言うならば、何かを疑うためには、その疑いを成立させるために何かを信じざるを得ないということである。ニュートンはそこで、あえて疑うことを放棄し、信じることを選んだとも言える。(それならばニュートンは僕の懐疑の先をいっているということになる。)

あくまでも、僕のアイディアの備忘録に過ぎないけれど、僕が澤田の図に違和感を持ったのは、澤田が一般原理と実験観察というひとつの軸しか書き入れていないからなのではないだろうか。僕の違和感を解消するためには、その軸に直交するようにして、もう一つの軸を書き入れなければならないような気がする。

今のところ、第2の軸には、信じる-疑う、または、楽観-悲観 という名前が書き入れられるような気がする。そして、ヒュームとニュートンの往復運動を分けて配置することで色々なことが見えてきそうな予感がある。

色々なこととは、例えば、時計回りに総合の円環があり、反時計回りに分析の円環がある、というようなことだけど、そこから先は何も考えられていないので、この文章はおしまい。

※ ニュートンは読んだことがないので、『光学』を読んでみようと思っています。

呼吸と集中と弛緩

ヨガの先生が言っていたことが、先生自身の意図とは違うかもしれないけれど、僕にとってはとても興味深かったので書き残しておく。

先日、ヨガスタジオでヨガのクラスに出ていたとき、先生が「普通の深呼吸だと、息を吐きながら脱力するけれど、今は息を吸うときに力を抜いて、息を吐くときに力を入れてね。」というようなことを言っていた。確か体をねじるポーズかなにかのときだった気がするけれど、そのあたりはあやふやだし、先生の言葉自体も正確には覚えていない。

僕はなんとなく、息を吸う=力をためる、息を吐く=力を抜く、だと思っていたので、その逆の場合があるというのが新鮮だった。確かに言われてみれば既にやっていたことだけど、明確に言葉で整理できたことが新鮮だったのだ。

実際は、ヨガをやっていると、息を吐きながら力を入れることもあれば、息を吐きながら力を抜くこともある。つまり、息を吸う・吐くと力を入れる・抜くでは、2×2=4通りの組み合わせがあって、場面によって使い分けている。同じ前屈でも、少しでも深く前屈しようとするときは、息を吐きながら筋肉を使って体を前に倒しているし、後屈のあとにリラックスのために前屈するときは、息を吐きながら力を抜いて腰を伸ばしている。

既にやっていたことを言葉で捉え直すことで、いつでもそれを意識的にできるようになるし、更に別の場面でも応用できるようになる。

これは日常生活の場面にも応用できるのではないだろうか。日常生活のなかでも緊張・弛緩と呼吸の組み合わせのバリエーションを増やせるのではないだろうか。既に同じようなことは、日々の生活でもやっていて、それを意識的に行うことで、もっとうまく精神と肉体をコントロールできるのではないだろうか。そんなことに気づいたという点でヨガの先生の言葉は興味深かったのだ。

僕はヨガを少しやっているから、仕事のときにも多少は呼吸を意識することがある。仕事のストレスで呼吸が浅くなっていることに気付き、深呼吸をして気持ちを落ち着けることもある。

だけど、深呼吸はリラックスのためだけのものではない。深く息を吸いながら体と心を緩めることで、より多くの空気を取り入れ、深く注意深く息を吐きながら精神を集中することで、よりテンションを上げることもできる。深呼吸によりテンションを上げ、集中力を高めるようなコントロールもできるようになる。まだ慣れていないけれど、そういうこともできそうな気がする。

今までは呼吸による力の抜き方しかわからなかったけれど、どうやら呼吸により力を込めることもできそうだ。僕はブレーキの踏み方しか知らず、アクセルは勝手に上がるままにしていたけれど、両方をうまく使えるようになれば、ブレーキも上手に踏めるようになるはずだ。僕は少し自律神経失調気味なところがあるけれど、これからは多少上手に自分のテンションをコントロールできそうな気がする。これが今回の収穫である。

更に、呼吸そのものから少し離れ、アナロジーになるけれど、ここで述べたことは僕たちの思考と行動というあり方にも応用できそうに思う。僕たちは何かをするとき、思考と行動という二段階を経るけれど、それが息を吸うことと吐くことに似ているように思うのだ。例えば僕が仕事帰りにコンビニに寄って、晩酌のお酒を買う場面を考えてみる。僕はお酒コーナーの前で立ち止まり、ビールにしようかな、酎ハイにしようかな、それともハイボールにしようかな、よし、ちょっと疲れたしアルコール度数が高い酎ハイにしよう、なんて思考する。そして酎ハイの500ml缶を手に取り、レジに向かったとする。このうちの酎ハイを手に取るまでが思考という段階で、実際に手にとってからは行動という段階となる。厳密には色々と問題はあるけれど、だいたい、このような二段階を経るということに異論はないだろう。なんとなく、思考と吸気、行動と呼気という対応関係があるように思う。

この思考と行動という組み合わせについても、呼吸と同様に、更に、力を込めた思考、力を抜いた思考、力を込めた行動、力を抜いた行動という4つの組み合わせに細分化することができるのではないだろうか。

なお、力を込めた思考と力を抜いた思考という組み合わせは、演繹と帰納(正確にはアブダクションかな※)という組み合わせと結びつけて考えることができると思う。

演繹は力を込めた思考である。厳密で脱線を許さない。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「イワツバメは空を飛ぶ」は許しても「鳥は空を飛ぶ」は許さない。

一方で帰納は力を抜いた思考であり、脱線を許容する。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「鳥は空を飛ぶ」というアイディアを思いつき、「スズメは空を飛ぶ」を発見したり、「ペンギンは空を飛ばない」を発見したりする。

厳密に考察を進める時、僕は議論に漏れがないかどうか気にしつつ、集中して思考を行う。ツバメが空を飛ぶということから言えることと言えないこととを厳密に判断する。一方で、新しいアイディアを考える時、僕は少し力を抜いてみる。ツバメが空を飛ぶのならば、他の鳥も空を飛ぶのかな、なんて連想してみる。

演繹と帰納という区分と完全に一致するかどうかは自信がないけれど、思考には、厳密な力を込めた思考と自由な力を抜いた思考の二通りがあるというのは確かだと思う。

また行動にも、力を込めた行動と力を抜いた行動との二種類があるのも確かだろう。僕がコンビニで酎ハイを手に取り、レジに向かうのは力を抜いた行動の代表例だ。一方で、例えばプロサッカー選手がサッカーの試合をしているときは力が込められているだろう。そういうときにはきっと、思考面ではうまく力が抜かれ、行動面でのみ力が入っているはずだ。だからこそ自然と体が動き、独創的なプレイを生み出すこともできるはずだ。こういうとき、フロー状態やゾーン状態に入ったと呼ぶのだろう。これが力を込めた行動の代表例である。

なお、高所恐怖症の僕が恐る恐る崖を歩くような場面は、一見、力が込められているようで、そこに集中しきれていないという点で、実際に力は込めきれていないだろう。うまく行動に力を込めるためには、断崖絶壁の恐怖心といったような思考の力を抜くことが必須であるように思える。

プロスポーツ選手や断崖絶壁のような極端な場面ではなくても、僕にとっても、思考と行動のどこに力を入れて、どこに力を抜くかは大事なことなのだろう。単に思考と行動の両方に力を入れてしまったら、ただ緊張するだけとなってしまい、うまく体も頭脳も動かない。単に思考と行動を弛緩させるだけでは眠くなるだけで日常生活を送ることはできない。重要なのは意識的に緩めるところと力を入れるところを使い分け、繊細な心と体の使い方をすることなのだろう。

更に、特に思考については、思考の一部に力を入れ、一部を緩めるようなことも可能だ。例えば、思考を弛緩させることに思考を集中するような場合だ。このようなことができるのは、思考に関してはメタ的な思考が可能だという特性を活用している。このメタ的な適用は更に積み重ねることもできるはずで、思考を弛緩させるという思考を弛緩したかたちで行い、その思考を更に弛緩したかたちで行い、更にその思考を弛緩したかたちで行い、ただし、最も外側の思考は集中したかたちで行う、というようなメタ的な思考の階層的な適用も可能なはずだ。僕はうまくできないけれど、これが瞑想やマインドフルネスなのだろう。ポイントは、メタ的な弛緩を積み重ね、集中をできるだけ遠ざけるというところにある。集中を遠ざけることにより、その分、最も外側にある集中は高まることとなり、高度な弛緩と集中が同居することになる。

または、集中した思考をメタ的に積み重ねるという道筋もありうる。集中した思考を行うことに集中し、更にそのことにも集中する、というかたちで最高度に集中した思考を積み重ねた先に、思考の最高度の弛緩(というか解放)が生じうる。これが高度な弛緩と集中を同居させるためのもうひとつのやり方だろう。僕は具体例として、僕が好きな入不二基義の議論を思い描いている。彼がやっていることはマインドフルネスや瞑想とは真逆の、もうひとつの悟りへの道なのかもしれない。瞑想が密教的だとすれば、神に到達する顕教的道筋である。(ここには二種類の最高度自由が描かれていると思う。※※)

僕はプロスポーツ選手ではないし、瞑想もうまくできないし、入不二ほどの厳密な思考もできない。だけど、ここで僕が書いたようなことは多少なりとも僕自身に役立つような気がする。なぜなら、身体はともかく、思考の集中・弛緩は、ある程度までは呼吸でコントロールできるように思うからだ。

ただ僕は、呼吸と集中・弛緩を4通りのかたちで組み合わせることで、思考についても集中に集中を重ねたり、弛緩に弛緩を重ねたりすることができるはずだ。これについては実際にやってみて確かめるしかないけれど。

※ 僕はアブダクションを帰納に含めているけれど、その理由を簡単に触れておく。帰納法で「ツバメは空を飛ぶ」を論証するためには、ツバメが空を飛ぶという複数事例を観察しなければいけないけれど、そこには、ひとつめの事例であるツバメと、ふたつめの事例であるツバメが同じツバメであるという前提が隠れている。これはつまり「複数事例を観察することが可能である」という未論証の命題の導入である。この導入が飛躍でありアブダクションであると僕は考えている。

※※ マインドフルネス的な自由は、リバティとも言える自己統制的自由の最高度の形態であり、入不二の自由は、フリーダムとも言える無制約的自由の最高度の形態だと思う。

偽善とユートピアと創造と没頭

1 前置き

 前半は、ぼんやりと昔からそう思ってきて、僕の中ではあまり新味のない話だけど、世間ではあまり馴染みがない話かもしれないから書き残しておきたいと思って書いた。

 後半は、そこからバーナード・スーツの『キリギリスの哲学』の話を思い出して話を展開してみたら、まとまりがなくなってしまった。

2 前半

2-1 教育の偽善

 僕は子供の頃から学校の先生に対して不信感があり、今でも学校的なものがどうも好きになれない。教育というものに偽善的なものを感じ続けている。

 彼らは世のため人のためになる仕事をしている。生徒という他者の成長のために自分の人生のかなりの割合を費やしている。これは一見、素晴らしいことをしているように思える。だけど、自分の人生の大半を他者のために使うような人生が本当に素晴らしいものだと言えるだろうか。自分の人生はどこにいったのだろうか。先生はうまく生きているのだろうか。僕はそんな疑問を持って生きてきた。

 先生が生徒に対して行っていることを、次のような言葉で表現できるのではないか。「先生は自分の人生をうまく生きることができなかったから、君たちが代わりに自分の人生をうまく生きてね。」先生は自分の人生を生きることを放棄し、生徒にその責任を押し付けている。更に教育という高尚な言葉で隠蔽までしている。そんなふうに僕は思う。

2-2 偽善の拡大

 同じようなことは医者やボランティアのような人たちに対しても言える。医者が自らの人生を他者の命を救うために費やし、ボランティア団体の人が自らの命を賭けてアフリカの難民の命を救おうとするのは、つまりは自分の人生からの逃避であり、病人や難民といった都合のよい他者に対する責任の転嫁である。そのように考えるならば、きっと、世の中において意義があるとされる活動は多分、例外なく、偽善や隠蔽や逃避や転嫁にまみれている。

2-3 僕の偽善

 当然、この組織的犯罪には僕自身も加担している。僕は世の中で意義があるとされる方向の仕事をしているし、実はそういう意識も強い。僕が哲学的な文章を書き残すのも、これが誰かに読んでもらえると思うからだ。僕は、僕の文章が読者の役に立つことを願って書いている。それが書く動機の全てではなくても、少なくともその一部ではある。これはつまり、僕が読者の代わりに考えることを引き受けているということだ。これは高尚な自己犠牲だとも言えなくはないように思う。つまりそれは、僕が考えることを引き受ける代わりに、読者に生きることを押し付けているということでもある。

2-4 未来の自分への偽善

 更には、他者だけではなく自分自身に対する責任転嫁という場面も考えられるだろう。いい学校に入れるように苦しい思いをして勉強したり、健康に気を遣ってタバコや酒を控えたり、刑務所に入れられるのを恐れて麻薬に手を出さなかったりするのは、今現在の自分の人生から逃げ出し、将来の自分に責任を転嫁している、という捉え方もできる。節制や努力といった美徳さえも、偽善であると見做すこともできる。自分自身における、今の自分と未来の自分という違いに着目するならば、未来の自分自身を他者と同じように捉え、同様の偽善をなすことも可能である。

2-5 ユートピアの思考実験

 このような、すべてを偽善と捉えるような考え方はなかなか賛同が得られないかもしれない。だけど、この考えの正しさは思考実験をしてみれば明らかだろう。それは、『キリギリスの哲学』という本に登場するユートピアの思考実験である。(確か、そんな名前はついていかなかったけれど。)

 これは、もし、この世界が改善され、問題が解決されていき、ついに全ての願いが叶うようなユートピアに到達したならば、僕たちはどのように生きるべきなのだろうか、という思考実験である。そこでは、子どもたちは生まれながらに十分な知性を手に入れているし、当然、病気もないし、貧富の格差などもない。そこでは、学校の先生も、医者も、ボランティアも必要ない。人類は完全な知識を手に入れているから、僕がやっているような哲学的考察も必要ない。このユートピアの思考実験によって、そのような事態を想定することができる。

 そこでは、誰か他者のために生きる必要などないはずだ。学校の先生や医者やボランティアや哲学者なんて、ユートピアにおいては必要ないのだから、そこに本質的な価値はない。彼らには、せいぜい、ユートピアに至るまでの過渡期的な価値があるに過ぎない。本質的な価値を手に入れることを諦め、その代わりに過渡期的な価値で満足するなんて、自己欺瞞でしかないのは明らかだろう。先生や哲学者といった役割に満足して生きるということは、贋金で満足するような人生を生きるということなのだ。

3 後半

3-1 ゲームプレイという解決策

 では、ユートピアに到達しても揺らがないような本質的な価値とはなんだろうか。ユートピアにおいて僕たちはどのように生きるべきなのだろうか。

 『キリギリスの哲学』の答えは、そこではゲームプレイをするしかない、というものだ。これはつまり、僕の解釈によるならば、手に入れたはずのユートピアをそっと手放し、あたかもユートピアになど到達していないような素振りで、ユートピアを手に入れようとするゲームをプレイするしかない、というものである。または、暇つぶしとして、チェスなどのゲームを、全く無意味なものとしてプレイするしかない、というものである。(そこでは、チェスのようなゲームは、それしかない、という意味で、極めて有意味なものとなるとも言える。)

3-2 実際にどのように生きるのか

 この答え方に賛同するかどうかは別として、ユートピアにおいていかに生きるべきかという問いに対しては、こんな方向でしか答えようがないことは明確だろう。ユートピアの思考実験においては、明らかに「いかに生きるべきか」というような倫理的な問い方は空転してしまっており機能していない。それならば、問題は「実際にどのように生きるのか」というような処世術的なものとして設定し直さざるを得ないのではないか。少なくともその点では『キリギリスの哲学』が進む道筋は正しいのではないか。

3-3 創造という道筋

 さて、僕ならばこの問いにどのように答えるのだろうか。つまり、僕は実際にどのように生きるのだろうか。

 その答えは、何らかのかたちで創造に関わるものになるのではないだろうか。なぜなら、ユートピアにおいてゲームプレイのほかにとりうる道は、何かを創造するという道筋しかないと思うからだ。

 当然、完全なユートピアにおいては何かを新たに創造することはありえない。どんなに繊細な芸術作品であっても、それはすでに人類は手に入れているはずだ。なぜなら、それがユートピアということなのだから。

 それでも、すでに存在するものの二番煎じであっても新たに創造するということは可能なはずだ。すでにどこかにモナリザが存在し、皆がそれを知っていたとしても、レオナルド・ダ・ビンチが新たにモナリザを描くことは可能であるように僕には思える。それならば、同じように、僕が哲学的文章を書き、創造することにも同様の意義があるように思える。

 確かに、ユートピアにおいては倫理的な価値を創造することはありえないし、美的価値の創造についても通常のかたちではありえないだろう。だけど、美的価値については、かなり細い道筋ではあっても、そこには創造への道筋が残されているのではないだろうか。

3-4 創造のゲームプレイ性

 ただし、レオナルド・ダ・ビンチがユートピアにおいてモナリザを創造するためには彼は既にあるモナリザを忘れなければならない。僕も、それが既に人類が手に入れた知識であることを忘れて書かなければならない。それは『キリギリスの哲学』におけるゲームプレイの道筋に重なる。美的創造というゲームをプレイしていると言ってもいいほどだ。

 もしかしたら、そのようなことまで含めて『キリギリスの哲学』は道筋を示しているのかもしれない。それならば、ゲームプレイという描写は芸術についての本質的な美的価値さえも捉えているということになるのかもしれない。

3-5 美的価値と倫理的価値

 逆の道筋で考えるならば、きっと、チェスなどのいわゆる純粋なゲームの価値も美的なものだと言えるだろう。AIが進歩しても藤井聡太さんのようなプロ棋士が人気を集めるのは、彼がAIよりも強いからではなくて、彼が芸術家であり、彼が将棋という手法によって美を創造しているからなのではないだろうか。

 世の中の価値を美的価値と倫理的価値に単純化して区分するならば、ゲームプレイの価値は明らかに前者に含まれる。または、ユートピアにおけるゲームプレイという見地で世の中を捉えるならば、そこでも生き残ることができる価値(これを美的価値とする)と、そこでは居場所がない価値(これを倫理的価値とする)とに単純に区分できることとなる。

3-6 倫理的価値の非創造性

 そして、前者は創造という言葉と親和性があり、後者は創造という言葉と相容れないという点でも違いがある。なぜなら、美的価値は発揮されないよりも発揮されたほうがよいという極めて単純な意味で創造的である一方で、倫理的価値は世界がユートピアに至る途上における過渡期的な便宜的価値に過ぎず、そのような価値が発揮されずに済むこと、いわば創造されないことにこそ本来の価値があるからだ。教育が必要ない状況において他者に教育を施したり、治療が必要ない人に対して治療を施したりすることは余計なお世話でしかない。

3-7 書くということ

 以上のことを、僕自身の美的価値の創造、つまり文章を書くという行為を例に確認しておこう。

 僕のなかには、今書いているような文章を書くにあたっては二種類の動機があるような気がする。ひとつは、書かれた内容に何らかの価値があるから書く、という動機であり、もうひとつは、ただ書きたいから書くというような動機である。

 前者は、ここまでの議論では倫理的価値と呼んできたもののことだろう。書かれた内容が持つ価値とは、他の誰かであれ、未来の自分自身であれ、今の自分ではない何かに向けての価値であり、いわば残す価値である。もし僕がこの価値のためだけに書いているのならば、もし他の誰かが代わりに書いてくれるなら僕は書かなくてもいいはずだ。誰も書いてくれないから、この世界がユートピアではないから、僕は仕方なく書いているということになる。

 後者は、ここまでの議論で美的価値と呼んできたもののことだろう。僕はそれが何のためになるかなんて考えず、ただ書くのが楽しいから書いている。うまく書けなくて嫌になることもあるけれど、それも込みで楽しいから、ただ書きたくて書いている。誰のためでもなく、ただ今の僕のためだけに書いている。理想的には、きっと、この世がユートピアかどうかなど関係ないだろう。すでに誰かが書いたことであって、僕がそのことを知っていたとしても、僕はきっと二番煎じの文章を楽しく書くだろう。それは意図的にすでにあることを忘れるから可能になるのではなく、ただ書くことの楽しみに没頭しているからそこに考えが巡っていないに過ぎない。

3-8 没頭

 この没頭とは重要な観点だと思う。なぜなら、没頭により、あえてユートピアにいるということを忘れるというような迂遠な手順が不要になるからだ。ユートピアにいてもいなくても、僕たちは没頭している限り、美的価値を生み出すことができる。いわばユートピアという思考実験を無化することができる。あえて言うならば、ユートピアの思考実験などは単なる回り道であり、唯一重要なのは、この没頭であるとさえ言えるだろう。

 だから、没頭さえしている限り、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザのようなものだけではなく、藤井聡太さんの将棋や、僕の文章や、そこらのおじさんの将棋や、お母さんがつくる料理や、カラオケボックスで歌った歌や、ネコをなでたときの感触といったようなありとあらゆるものに美的価値があるとさえ言えるはずだ。

 だから、教育や医療といった活動についても、それに没頭し、その活動内容に囚われずにいる限り、それは偽善ではないと捉えることもできる。学校の先生や医者や僕がまずいのは、没頭していないからなのだ。

4 まとめ

想定より長文になってしまったので一応まとめておくと、この文章は、教育や医療というような世間で有意義とされていることに異議を唱えるために書いたものだ。それよりも、不要不急とされ優先順位が低いとされてきたような活動にこそ本質的な価値があるはずだということを僕は主張していることになる。つまり、これはコロナ禍という時事ネタを取り入れたものだ。

 だが、芸術活動のようなものの価値を確認するために、あえて教育や医療の価値を貶める必要はないと思うかもしれない。そのような論じ方を下品だと感じる方も多いかもしれない。

 しかし、僕がここで価値を確認したかったのは、いわゆる芸術のような狭い領域のものではないという点が重要だ。僕が擁護したかったのは、カラオケボックスで歌うことや、ネコを撫でるというようなことも含む広範なものだ。 僕が擁護しようとしているものは美的価値と名付けはしたが、実は非倫理的価値としかいいようがない、消去法でしか表現できないものだと言ってよい。このように論じるためには、教育や医療といった倫理的価値があるとされるものごとと、それ以外のものごとというかたちで対比せざるを得ない。

 更に僕は、世間で価値が低いとされているものにこそ価値があるということだけではなく、世間で価値が高いとされているものこそが最も価値が低いとさえ論じている。教育や医療のようなものは、それ自体に没頭している限りは、他の活動と同等に有意義なものだ。だけど、その活動内容に固有の価値があるという倫理的主張を始めたとたん、それは害悪とさえなるのではないか。 

 僕は教育や医療といった倫理的なるものに対して敬意は払うけれど、それが倫理的「主張」、つまり押し付けとなった途端、抵抗したくなる。学校生活を過ごすことを通じて、僕はそんな性向を持つようになった。

 僕が論じたことは、そのような方向性のなかに位置づけられるものだ。