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瞑想と哲学 実践と創造

1 この文章の問題設定 瞑想・マインドフルネスと哲学との関係

瞑想やマインドフルネスはブームだと言っていいだろう。色々な本が出版され、イベントも開催されている。僕も流行りものが好きだから、すでにいくつか文章を書いている。

哲学好きの僕は、瞑想やマインドフルネスと哲学の関係についても考えている。当然、哲学と野球よりは、哲学と瞑想のほうが関係は深いだろう。どちらも心と呼ばれる領域が重要だし、人生といったものへの対応方法をみつけようとする点も似ている。ここには考えるべきことが潜んでいるという予感がある。

まだ考えはまとまっていないけれど、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係について思いついたことがあるので、書き残しておこうと思う。

2 ヨガやスポーツの上達 芯となるもの

思いついたきっかけとなることがあった先週の土曜日(2020年10月10日)まで遡ってみよう。

僕はヨガも好きだから、その日も週1回のヨガに行っていた。クラスが始まる前の雑談で、ヨガの先生から、なんにせよ早く上達するためには自分の芯となるものがあったほうがいい、という話があった。サッカー選手なら、サッカーという芯があったうえで、サッカーにどのようにつながるかを意識しながらヨガをしたほうがいい、というような意味合いの話だ。当然、ヨガの先生なら、ヨガという芯があったうえで、ヨガにどのようにつながるかを意識しながら例えばダンスでの身体の使い方を学んだほうがいい、ということになる。

なぜ芯があったほうがいいかと言えば、芯になるものがなければ情報を取捨選択できないからだ。サッカーの先生からの指導とヨガの先生からの指導とが矛盾しているとき、サッカーとヨガが全くの対等だったら、どちらも選べず混乱してしまうだろう。だがサッカーのほうが優位だという芯があれば、迷わずサッカーを選ぶことができる。そうするとサッカーが上達するのは当然として、迷いがない分、効率よくヨガも上達できる。

確かにそうだろう。実は僕も似たようなことを考えていた。ヨガでは先生によって言うことが結構違う。あるポーズをするとき、足の外側に意識を向けるべきか、内股に力を入れたほうがいいのか、というような違いがある。そんなときは、A先生のファンだからA先生が言うことのほうを選ぼう、というように取捨選択をしている。その取捨選択はなるべく一本の筋が通っているほうがいいと感じていたのだ。

多分、最も人気のある筋の通し方は、師匠となる先生を見つけることだろう。正式な弟子にならなくても、こっそりでいいから、勝手に師匠を選び、その先生が言うことを最優先にするというやり方だ。それならば、師匠を芯とすることができ、ひとつの筋が通る。

もうひとつ、自分なりに自分で考え、自分自身を芯とするかたちで筋を通すというやり方もある。比喩的に言うならば、自分自身が開祖となってしまえばいいということだ。または、自分が自分の師匠になり、オーダーメイドで自分なりのヨガ体系を構築すると言ってもいい。こう書くとおおげさだけど、誰かの話を鵜呑みにするのではなく自分なりに考えて試行錯誤している人は多いのではないだろうか。(先日、ヨガの先生が言っていたのは、このようなやり方の効率が悪さを指摘するものだったと解釈することもできるが、いずれにせよ不可能ではない。)

なお、僕はその中間的な筋の通し方を選んでいるように思う。何人かのお気に入りのヨガの先生がいて、彼らが言うことを組み合わせて自分なりの芯となるものを構築し、その芯に沿って情報を取捨選択している。

3 その他の分野への拡張 瞑想・広義の哲学 

長々とヨガの勉強の仕方について書いてしまったが、スポーツが苦手でヨガ初級者?の僕がヨガについて書いても価値はないだろう。なぜこのようなことを書いたかと言えば、この話はヨガやスポーツに限らないと思うからだ。網羅的に検討した訳でないが、たいていのことに当てはあまるのではないだろうか。

この文章での考察に必要な限りで具体例を上げるなら、瞑想やマインドフルネスに関しては、明らかに師匠のような芯となるものがあったほうが上達は早いだろう。先日、ヨガの先生も言っていたけれど、世には数多くの瞑想法があるが、それらを全く並行して学んでいたらなかなか上達しない。どれかひとつを選び、その道を突き進んだほうが上達は早いに違いない。

また、哲学についても当てはまるように思う。と言っても、学問としての哲学ではなく、より広義に、経営哲学や人生哲学というように呼ばれるようなものとしての哲学についてではあるが。うまく会社を経営したり、人生を生きたりするためには、色々な考えを混乱したままに取り込むよりも、ひとつの芯となる哲学があったほうがいいのは明らかだろう。僕は詳しくないけれど、松下幸之助の本が中小企業の社長にもてはやされたり、相田みつをの言葉が誰かの家にトイレに貼ってあったりするのも、このあたりに理由があるような気がする。僕は彼らの言葉のありがたさはよくわからないけれど、彼らの言葉がひとつの芯となり、誰かの経営や人生に筋を通すことの重要性ならばわかる気がする。

その意味では、ニーチェやカントといった哲学者の言葉が名言として取り上げられることにも意味があるのだろう。彼らの思索の体系は理解されなくても、彼らの断片的な言葉が誰かの人生の芯となることはありうる。

4 学問・芸術 実践と創造

ここで問題としたいのは、やはり哲学についてだ。

ここまで、学問としての狭義の哲学と、人生訓のようなものも含めた広義の哲学とを分けて考察してきた。そのうえで、広義の哲学については、師匠のような芯を確保することは重要だとしてきた。では、狭義の学問としての哲学においては、師匠や芯といったものは必要ないのだろうか。

まず言えるだろうことは、大学や大学院といった教育システムにおいては、明らかに師匠は存在し必要とされている。指導教授と呼ばれるような人がそれにあたる。彼らに研究の進め方を学び、研究者として独り立ちしていくことになる。多分これは、哲学に限らず、すべての領域の学問で言えることだろう。

僕は経験がないので推測だけど、哲学に限らず研究の進め方を学ぶにあたっては、あまり多くの人の言うことに惑わされず、師匠の指導に従ったほうが上達は早いだろう。ここまではスポーツや瞑想と大きな違いはない。

だが学術研究の分野では、どこかで師匠とは袂を分かつこととなる。既存のものを組み合わせるにしても、新たなアイディアを思いつくにしても、何か新しいものを生み出さなければならない。試行錯誤をして、効率は悪くても、自分なりに何かを掴み取らなければならない。

ここに、スポーツや瞑想といったものと哲学のような学問との違いがあるように思う。プロ野球選手は新しさがなくてもホームラン本数が多いほうが評価されるし、オリジナリティがある瞑想をしなくてもマインドフルになればそれでいい。一方で学問はそうではなく、新しさ、オリジナリティが命だ。

なお、芸術は、スポーツや瞑想よりも学問に似ているだろう。上手なデッサンの仕方は学校で師匠から学ぶだろうけれど、どこまでも師匠という芯から離脱できなかったら新しい芸術は生まれない。

このように考えると、世の中には、新しさは求められずに芯となるものが重要となる実践の分野と、新しさが重要となる創造の分野があると言えるだろう。前者にあたるものとして、スポーツや瞑想や会社経営や(人生訓が役立つ限りでの)人生や(やり方を学ぶ段階での)学問や芸術といったものがあり、後者にあたるものとしては、(独り立ちした段階での)学問や芸術があることになる。

(更に厳密に捉えるならば、プレイのオリジナリティが評価されるプロスポーツプレイヤーのような場合は、スポーツであっても芸術と同様に創造性が必要となることもあるだろう。)

5 哲学と反実践 哲学の特殊性

ここまで哲学を学問全般に拡大し考察したけれど、しつこいが、僕が問題としたいのは、やはり哲学についてなのだ。

学問においては、師匠から学ぶ段階としての実践的な側面と、自分なりの新しい研究を行う段階での創造的な側面があるとした。それは哲学であっても、哲学以外の分野であっても変わらない。

だが、両者の間には本当に違いがないのだろうか。

哲学以外の分野においては、基礎となる研究の進め方というものがある。例えば自然科学なら、仮説を立てて、実験をして、検証するといったプロセスがある。そのような研究の芯は揺らぐことがない。

一方で、哲学の分野においては、そのような研究の基礎となる芯が存在しない。たとえカント研究者であっても、カントが言うことは絶対ではなく、あえて言うならば、カントを一部でも否定をして新しいことを生み出さなければ哲学者とは言えない。(多くの哲学研究者は、奥ゆかしく、カントの言葉に新たな解釈を行う、というかたちで、こっそりとカントを破壊し、否定している。)

言い換えるならば、哲学以外の分野では、(師匠から学ぶ段階としての)実践的な側面と、(自分なりの新しい研究を行う段階としての)創造的な側面という二面性が、研究の内容にまで及んでいる。師匠の実践知を引き継ぎ、そこに創造を付け加えるようなかたちで研究を進めることができる。

だが、哲学の分野では、論文のお作法というような研究のテクニックは別にして、研究の内容に実践知が入り込む余地がない。ただひたすらに最初からすべてを創造するしかない。より正確に言うならば、師匠から引き継いだ実践知を疑い、否定するところからしか研究を始めることはできない。

以上をまとめるならば、哲学以外では、実践と創造が結合しているが、哲学では反実践と創造が結合しているとも表現することができるだろう。

哲学にはやはり、このような特殊性があるのだ。

6 哲学の行き詰まりの打破 複数の体系とメタ体系

哲学は、引き継いだ実践知を否定するという反実践からしか創造を始めることはできない。それでは、哲学においては実践と創造をまったくつなげることはできないのだろうか。

僕はなんとかそれらをつなげたい。なぜなら、僕の哲学は、人生を生きるという実践から始まっているように思えるからだ。

さきほど、相田みつをの名言を例に出したとおり、人生はスポーツと同様に実践の分野に分類できるから、うまく生きるうえでは、芯となるものあったほうがいい。いい師匠をみつけて、迷わずにひたすら上達しようと努力したならば、きっとプロ野球選手がホームランを打つように、僕は人生をうまく生きることができるはずだ。だから人生において歩むべき道を示してくれるビジネス書や名言が書かれたカレンダーが売れたり、宗教が信じられたりするのだろう。

だけど、僕はそれらを受け入れることができない。だから哲学をしている。僕はそこに行き詰まりを感じている。

長い前置きだったけれど、ここでようやく、この文章で書こうとしていたことにつながる。つまり、冒頭で示した「瞑想・マインドフルネスと哲学との関係」について思いついたことの話だ。

僕は、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係についてのアイディアを思いつき、この行き詰まり感に光明を見出したのだ。

自分自身のなかにある手持ちの駒を整理してみよう。

まず僕は、哲学以外の分野については、そんなに悪い生徒ではない。ヨガでも瞑想でも先生が言うことを素直に受け止め、それらを組み合わせて自分なりの体系めいたものを作りかけている。ある程度の成果を挙げていると言ってよいだろう。

また哲学についても、わずかだが自分なりの体系めいたものを構築しつつある。哲学においても、芯がなくて効率は悪くても、自分なりに自分だけで自分独自のものをなんとかつくることはできる。(問題は、僕の哲学体系は体系と呼ぶには貧弱なものであり、僕が求めているような人生の実践には全く役に立たないという点にある。)

このように整理してみて気づくのは、僕の手元には複数の体系があるということだ。ここに挙げただけでも、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系という3つの体系がある。あのポーズのときは後ろ足を踏ん張ったほうがいいというような身体の使い方の体系、心を落ち着けるときには呼吸に意識を向けるといいというような心の使い方の体系、神には唯一性があるというような思考の体系というように。

今までは、体系が複数あるということが悪いことであるように思っていた。なぜなら、体系が複数あるということは、それぞれの体系が担当する領域に限定があり、それが体系の限界を示していると感じていたからだ。

しかし、それぞれの体系は接していて、体系相互に影響を及ぼしていると考えることもできる。また、単に影響を及ぼすだけでなく、複数の体系が、反発し合ったり、互いを包み込んだりと様々な関わり方をしていると考えることもできる。これはつまり、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系といった体系をつつむ、メタ体系のようなものを措定できるということでもある。

これは僕にとって吉報だ。なぜなら僕の哲学の道は行き止まりではなく、メタ体系という考察の道があるということになるからだ。

7 悟りと普通の人生 哲学的思索と何かの実践を組み合わせる道筋

いや、この道は単なる哲学的考察の道ではないかもしれない。瞑想やヨガの実践という方向からアクセスすべきものであったり、もしかしたら、哲学的思索と瞑想の実践を組み合わせて進むべき道筋なのかもしれない。

実は僕はこのあたりが最も有望だと思っている。僕が想定しているのは、哲学的思索の結果を瞑想に反映し、瞑想で得られたものを哲学に反映していくというようなやり方だ。これはかなり悟りを求める作業に近づいているように思える。

(このように考えるなら、悟りはそれほど難しくないだろう。なぜなら、悟るとは、瞑想的なレベルで自らの哲学的アイディアに深く納得するということに近づくからだ。悟りが難しいと言われるのは、悟るのが難しいからではなく、それが悟った状況だと他者に説明したり、他者から理解されたりするのが難しいからなのではないだろうか。)

または、僕が進むべき道は、哲学や瞑想に限定せず、友人や家族と楽しく過ごし、趣味を楽しむことまでも含めた、人生を生きることそのものの道であるかもしれない。限定がないという点で、こちらの道筋も有望なように思える。

いずれにせよ、孤独にゼロから思索して新しいものを創造するだけでなく、瞑想であれ人生であれ、師匠や先人のノウハウを活かし、芯が確保された効率のよい実践と結びつけていくという方向には大きな可能性を感じている。当面、その方向で考えてみたい。

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

1 ヨガにおける視線の重要性への疑問

「ドリスティ」というヨガ用語がある。ヨガの流派のひとつであるアシュタンガ・ヨガの用語で「視線」という意味なのだけど、ヨガにおいて重要なもののひとつとされている。このポーズのときには鼻先を見ろ、このポーズだと床の一点を見ろ、などと決められているのだけど、どうして視線が重要なのか、正直よくわかっていなかった。

アシュタンガ・ヨガにおいて視線以外に重要なものとしては、呼吸やバンダ(下腹部の引き締めというような意味)が挙げられるが、これらはなんとなくわかる。実は、ヨガ的には呼吸やお腹の引き締めの真の重要性は僕の理解より深いところにあるのだろうけれど、僕にもその重要さの方向性はわかる。

それに比べて、視線の重要さはわかりにくい。インストラクターからは、目からの情報に惑わされないようにするために視線を固定するため、という話もあった気がするけれど、それならば目を閉じていればいいようにも思う。視線を定めることには、視覚情報を遮断するという消極的な意味合いはあっても、積極的な意味などないように思える。それなのに、どうして視線が呼吸などと同等に重要なものとして位置づけられるのだろう。

2 視線の重要性についての僕なりの答え

オンラインのヨガフェスタで聞いた吉川めい先生の話をなんとなく考えていて、その答えを思いついた。それを思いつくまでの過程というのは、冗長で、読者の方にはあまり重要ではないだろうけれど、僕にとっては重要なことなので書き残しておこう。

吉川めい先生は、呼吸は一定に行うものであり、呼吸を一定に行うためには吸い(吐き)始めで吸い(吐き)すぎないように注意するといい、という話をしていた。

ヨガでは動きにあわせて呼吸をするから、直立の姿勢から前屈しながら息を吐き、前屈から伸び上がるように息を吸う、というような動作と呼吸の合わせ方をする。そうすると、例えば前屈から立ち上がるのと合わせて、勢いをつけるように息を吸いすぎてしまいがちだ。そうすると、立ち上がり、伸び上がり切るまでに息を吸いきって、呼吸が止まってしまう。それならば、動作を切り替え、呼気から吸気に切り替える際に、息を吸いすぎないように心がけるといい、という話だ。息を吸いすぎないためには、細いストローを吸うような意識を持ついい、という話もあった。

確かにそのとおりなのだけど、動作の切り替えで勢いがつくのに、あえて息を細くするというのはどうも不自然だ。我慢して息だけ細めている感じがある。自然であるべきヨガがそんな不自然なことを求めるのだろうか、と僕は疑問に思い、心に引っかかっていた。

考えているうちに僕なりの解決策をみつけた。いきなり前屈から伸び上がる動作に切り替え、同時に呼気から吸気に切り替えるから難しくなる。すべてを一気に切り替えるから、どうしても勢いがついてしまう。それならば、動作と呼吸の切り替えのタイミングをずらすか、動作・呼吸とは別の何かを先行して切り替えればいいのではないか。

僕はまず、試しに動作を先行してみた。悪くない。呼吸を細く始めることができる。だけど、動作と呼吸がバラバラになると、動作も呼吸もスムーズに流れなくなってしまう。だから、徐々に動作の先行幅を狭め、限りなく微細な先行に抑えるようにしてみた。

そうすると、そこに残ったのは、次の動作に入ろうとする意識と、視線の動きだけであることに気づいた。(僕はヨガの上級者ではないから、正確には、理念的に、そうなる「だろう」ことに気づいた。)

前屈しているとき、次の伸び上がる動作に入る準備段階として、上に伸び上がろうとする意識とともに目が上を向こうとする。この準備動作に注意を向けてから息を吸い始めると、勢いをつけずに呼吸を始動させることができるのだ。

きっと、あえて心がけなくても、伸び上がろうとする時、視線は上に向いているし、上に向こうとする意識は生じている。だが、その視線や意識に注意を向けると、その後の動作や呼吸がうまくいく。

これがドリスティ「視線」の重要さなのではないだろうか。これを呼吸に対する動作の先行と解釈するのか、または、呼吸・動作に対する意識・視線の先行と解釈するべきなのかともかく、アシュタンガ・ヨガが言っていることはこういうことなのではないだろうか。

3 日常生活における視線とマインドフルネス

ヨガにおける視線の重要さに気づいてから、日常生活でも視線が重要な働きをしているという仮説を立てて、ちょっと実験してみた。実験と言っても、視線に注意して街を歩いてみる、といった程度のことだけど。

店の看板や、公園の木や、すれ違うサラリーマン。僕はいろいろなものに視線を向けている。そして、たしかに視線を向けるごとに意識が切り替わり、僕の動作も切り替わっている。いや、動作は切り替わっていないのではないか。何を見るかに関わらず、歩くという動作は継続しているではないか、と思うかもしれない。確かにそうなのだけど、「歩く」よりも微細なレベルで、「看板を見ながら歩く」から「サラリーマンを見ながら歩く」に切り替わるというようなかたちで動作が切り替わっていると考えることもできる。視線に注意を向けるとは、このような微細な違いに気づいていくということなのだ。

そのように考えるならば、視線に注意を向けることは、マインドフルネスにつながっているだろう。店の看板を見る視線に注意することは、マインドフルに看板を見ることでもある。注意深く看板をじっくり見ることで、これは鳥貴族の看板だなあ、黄色地に赤の文字なんだなあ、フォントが変わってるなあ、なんて気づくことができる。

マインドフルネスという見地から「視線を向けること」を広義に「注意を向けること」と解釈するならば、僕の視線が向かうのは、看板や木やサラリーマンのような世の中のものごとに限らないだろう。僕の心の中のものごと、例えば、二日酔いによる不快感に視線を向けることができるし、人種差別的な事件についてのニュースを見たときにわきあがる怒りにも視線を向けることができる。

このように、鳥貴族の看板から不快感や怒りといった感情まで、幅広いものごとに注意を向けることと、ドリスティ「視線」はつながっている。

4 身体的な作業への変換

僕はマインドフルネスに興味があるのだけど、マインドフルでいることは難しい。マインドフルであるとは、ものごとに注意深くあることだとするならば、注意深くあるように心をコントロールすることが難しい。きっと心のあり方というようなとらえどころのないものをコントロールするのは至難の業なのだ。僕だけでなく大多数の人にとって難しいからこそ、瞑想法といった方法論が編み出され、訓練が必要になるのだろう。

だけど、視線という手がかりがあると、かなり難易度が下がる気がする。視線をどこに向けるかは、あくまで身体的な問題だから、身体レベルでコントロールが可能だ。鳥貴族の看板に対して注意深くマインドフルであれ、と言われてもなかなかできないけれど、鳥貴族の看板に視線を向けろ、と言われたら少しは楽にできるに違いない。

これは、自分の内面という物理的な視線が届かない領域であっても同じだろう。自分の中にわきあがる感情をマインドフルに見つめろ、と言われたら難しいけれど、意識的に自分の足元のあたりを見ろ、と言われたなら簡単だ。僕は自分の感情を捉えようとするとき、視線を下に落とすことが多い。奥さんと口喧嘩をしているとき、奥さんの顔を見たままでは自分の感情に注意を向けられないけれど、視線を足元に落とすと、自分の内面を見つめ、怒りで肩が震えそうになっている自分に気づくことができる。視線を意識的に動かすことで、心の動きをある程度までコントロールすることができる。

このようにして、マインドフルにものごとに注意を向けるという抽象的な作業は、視線の移動という身体的な動作に置き換えることができる。完全な置き換えが可能かどうかはともかくとして、これは重要なノウハウだと思う。

5 未来と視線

ここまではヨガやマインドフルネスについての考察だったが、例によって、ここからは哲学の話につなげていきたい。

(この文章だけを読んだ方にお伝えしておくと、僕は、哲学が好きで、そのなかでも存在論や時間論が大好きなのです。)

ここまで述べてきた視線とは、指向性と言い換えられるだろう。そうすると、ここまでの話は、心・意識がある対象に向かうことを、身体的な動作としての視線の動きとして置き換えることができる、という話だったことになる。

では、心・意識・視線は何に向かっていたのだろう。

ここまでの例では、それは鳥貴族の看板や奥さんに対する怒りのようなものごとだったのだが、そのような描写は少々不正確であって、より正確に述べるならば、視線が向かう先とは「未来」なのではないだろうか。

僕が街なかの看板に目を向ける時、僕はまだ看板を見てはいない。僕は看板がある方向に目を向け、それから、それが看板であることを認識し、そして鳥貴族の看板であることに気づき、さらには書体が独特であることに気づいたりもする。

僕が目をある方向に向ける時、あえて言うならば、僕は、未来の鳥貴族の看板に目を向けている。だが、正確には、僕の目は具体的な何かには向かっていない。または、僕の目は空白の未来に向かっている。

このように考えるならば、視線と未来は深く関わっている。僕は視線を定めることにより、未来を選択していると言っていいだろう。または、未来をコントロールしていると言ってもいいかもしれない。僕の身体は視線を通じて未来と接続している。

6 現在と呼吸

未来と視線がつながっているとするならば、現在は呼吸とつながっているだろう。

僕はこれまでも呼吸の重要性について書いてきたので詳細は省略するけれど、瞑想では呼吸に意識を向けるし、ヨガでも呼吸は重要だ。明らかに、呼吸は今ここの自分につながっている。

ここで気をつけなければならないのは、「呼吸に意識を向ける」ということに潜む矛盾だ。

どこに問題があるのかといえば、「意識を向ける」という表現にある。意識を向けることには指向性が含まれている。それならば、ここには未来に視線を向けるというかたちでの未来性が含まれている。つまり、呼吸は現在であり、意識を向けることは未来なのだから、呼吸に意識を向けるとは、現在と未来が矛盾的に接続するということである。

なお、この矛盾は拒否すべきものではない。未来と現在という相反するものを接続させるという極めて大切な働きをしているものだ。「呼吸に意識を向ける」という瞑想法の極意は、この意味で重要なのだろう。呼吸に意識を向けるとは、未来と現在との接点に焦点を合わせることであると言ってもいいだろう。

一方で、呼吸という現在を、未来性を介在させることなしに取り出すことはできないことに留意することも重要である。呼吸に意識を向けることなしに、呼吸というかたちで身体化されている現在を捉えることはできないのは明らかだろう。

現在を純粋なかたちで取り出すことの困難性は、フローやゾーンについての話として述べることもできる。

僕もあまり詳しくないけれど、フローやゾーンとは、話し合いに集中していて気づかないうちに数時間経っていたり、バッターボックスでの一瞬が長い時間に感じたりするようなことを指すようだ。

僕自身の少ない経験に基づくならば、僕は、フローやゾーン状態になっている時点では、そのときの自分自身の心境を客観的に捉えることはできない。自分を冷静に捉えようとすると、そのような状態から冷めてしまう。フローやゾーン状態とは、リアルタイムで捉えることはできず、あとになって振り返って、あのときにそのような状態だったなあ、と気づくしかないようなあり方をしている。

このことと、現在のみを純粋に取り出すことの難しさの話は同じことである。現在とはただ体験することしかできないものなのだ。

(なお、マインドフル状態と、フロー・ゾーン状態の違いが問題になることが多いようだが、僕の考えによれば、両者は全く違うものだ。あえて言うならば、マインドフルネスを長時間行っていると、マインドフルネス実践のゾーン状態とでも言うべき状況は生じる。だが、サーチ・インサイド・ユアセルフでチャディー・メン・タンが言っているように、一呼吸だけでもマインドフルネスは可能だとするならば、このゾーン状態はマインドフルネスにとって必須のものではない。ただ、マインドフルネス実践のゾーン状態とは、マインドフルネスが到達できる未来と現在の接続点から、一歩、純粋な現在に踏み込もうとするものだとは言えるだろう。)

7 過去と笑顔

ここまでで、視線としての未来、呼吸としての現在が登場したが、まだ過去が登場していない。視線、呼吸というように、身体的に未来・現在・過去という3時制を描くならば、過去とはなんだろう。

ヨガ初心者なりにインストラクターから言われることを思い出してみると、過去とは笑顔のことなのではないだろうか。

ヨガのクラスを受けていると、時々、ヨガニドラというものをすることがある。理論や歴史的なことは知らないので体験した限りでだけど、ヨガニドラとは大の字になって横たわり、体の部位ごとに少しずつ力を抜いていき、全身をリラックスするというものだ。

そのなかで、特に効果的だと感じているのが、顔の筋肉を緩めていく動作だ。指示されるままに目の奥を緩めたり、下の付け根を緩めたり、頬を緩めたりしていくと、普段から変なところに力が入っていたのだなあ、と気づく。

そして、顔の筋肉が緩んだとき、僕自身がなんとなく笑顔になっている気がする。僕は大の字になって横になり、少しにやけた顔をしている。傍目からは気持ち悪いだろうけれど、僕自身は気持ちいい。

過去とは笑顔のことではないか、というときの笑顔とは、この笑顔のことだ。

リラックスして自然とにじみ出る笑顔こそが、過去なのではないだろうか。

視線が未来と接続し、呼吸が現在と接続するように、笑顔は過去と接続している。僕は笑顔により過去と接続し、過去をコントロールすることができる。笑顔になるだけで、僕のこれまでの人生を肯定したくなる。なんだか僕の人生は幸せなものだったような気がしてくる。

笑顔とは、このような効果があるのなのではないだろうか。

このように僕は、視線、呼吸、笑顔というようにして、身体における3時制を駆け足で描いてきた。いずれも重要なものばかりだけど、あえてそのなかで最も重要なものを選ぶとすれば、それは笑顔だろう。笑顔は簡単な割に効果が高いから。

いずれ僕は死ぬ。死んだら視線を動かすことも、呼吸を続けることもできない。だけど、笑顔でいることはできる。笑顔だけは死後に残すことができる。それが過去の特権だろう。

そして僕が死んだなら、笑顔に加えて、今昔物語の入道のように口から蓮の花が咲いたら、なおいいなあ。

マインドフルネス再考

1 この文章の位置づけ

先日、マインドフルネスについて考え、『マインドフルネスについての備忘録 居場所・愛・解脱・可能性・善』http://dialogue.135.jp/2020/09/24/mindful/ としてまとめた。

そこで書いたことは、おおまかに言うと、「マインドフルネスとは、すべてを注意深くみつめ、それを認めて、距離を置き、居場所をみつけてあげることだ。」というものだった。ポイントは、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげるという点にある。

この話と時間、つまり過去・未来・現在の話とをつなげて考えられるのではないかと思いついたので、マインドフルネスと時間をテーマにして続きを書くこととした。

2 雑念の行き先としての過去

(1)雑念はどこかにいく

マインドフルネスにおいて、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげればいい、という対処策の面白いところは、せっかく雑念に居場所を確保してあげても、確保したとたんに居場所はどこかに行ってしまうというところにある。気ままな子どもやネコがどこかに遊びに行ってしまうように。雑念を消そうとせず、雑念を大事に扱ってあげるほうが簡単に雑念は消える。急がば回れなのだ。実は僕自身は瞑想初心者なので上手にできないけれど、少なくとも、そのような実感はある。

(2)雑念の行き先は過去

では、せっかく大事に扱って、居場所まで確保してあげた雑念は、どこに行ってしまったのだろう。その行き先こそが過去である。雑念は現在から過去に行ってしまったのだ。

理解に役立つかわからないけど、具体例で説明しよう。
瞑想をしているとき、スマホからLINE通知の音がなり、あ、サイレントにしてなかった、なんて考えてしまったとする。そんな心の動きに気づいたときに「いけない、瞑想を続けなきゃ」と思うのではなく、LINE通知に反応したという心の中の出来事をただ受け止めて心の中に居場所をつくってあげるのがマインドフルネスである。「LINE通知に反応したこと」という出来事を擬人化し、僕を「心の中旅館」という旅館の仲居さんとするならば、僕は、旅館に到着した「LINE通知に反応したこと」様を「桔梗の間」にご案内し、どうぞおくつろぎください、とご挨拶するようなものだ。
「LINE通知に反応したこと」様が通された「桔梗の間」は、仲居さんにご案内された時点では、現在の心の中旅館の現在の一室だけど、いずれ「桔梗の間」は過去のものとなる。そうすると、現在の僕の「心の中旅館」のフロントからの内線電話では、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様に連絡をとれなくなってしまう。これがマインドフルネス的には雑念が流し去ることができた状況だろう。現在の僕の心からは「LINE通知に反応したこと」という過去の出来事にアクセスできないのだから、もうそのような雑念は心の中に残っていないことになる。
心という概念自体が哲学的には問題含みなのだけど、とりあえず心とは巨大旅館のようなものだとしよう。そこには無数の部屋があり、様々な心のなかでの出来事を収めておくことができる。「2020年10月4日9時21分にLINE通知に反応したこと」は、桔梗の間に収められることになる。
そのうち、直接に連絡をとってアクセスできるのは出来事を収めたばかりの現在の部屋だけであり、時間が経過し、過去の部屋となってしまったら直接アクセスすることはできなくなる。

(3)過去へのアクセスの間接性

直接でなく、どのようにアクセスするのかといえば、間接的に、出来事の記憶を思い出すことによってである。僕はもう、数時間前のLINE着信音をありありと体感することはできないけれど、間接的には、記憶を呼び起こし、確かに瞑想中にスマホから突然着信音が鳴ったことを思い出すことはできる。そのとき、過去の「LINE通知に反応したこと」様がふらりと記憶として現在の心の中旅館のフロントを訪ねてきてくれるのだ。

このような捉え方に対しては「ありありと思い出すことができるならば、過去の「LINE通知に反応したこと」の記憶だって直接的なものではないか。」という反論が想定できよう。現在のありありとした体験も、過去のありありとした記憶も、いずれも直接的なものであるという直感が確かにある。

しかし、そこにある両者の間の違いに敏感になることこそがマインドフルネスなのではないだろうか。マインドフルネスとは、マインドフルに今ここに注意を向けることだとも言える。その対象はあくまでも現在である。対象を現在に限定するという側面を強調するならば、マインドフルネスでよく言われる、雑念を流し去るという言い方が成立する。注意を向けることができるのは現在だけだからこそ、雑念を現在から過去に流し去ることができるのだ。雑念は消えることなく、ただ過去に流れていく。

直接と間接の違い、そして現在と過去の違いに注目すると、さきほどの旅館の比喩のなかに潜んでいた矛盾に気づくこともできる。現在の心の中旅館のフロントにいる僕は、どうやって過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様をとり、フロントまでお越しいただくことができたのだろう。現在の僕から過去の桔梗の間に連絡をとることなどできないはずなのに。

この連絡の不可能性を強調するならば、記憶を呼び起こし、フロントにお越しいただいたお客様は、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様とは似ていても別人だということになる。うり二つの双子かもしれないけれど、過去の体験と想起された記憶は全くの別物なのだ。これが間接性を強調したマインドフルネス的な方向の解釈である。

だからマインドフルネスにおいては、過去に対する思い、つまり呼び起こされた記憶は、新たな雑念として処理されることになる。マインドフルネスにおいては、このような雑念は、例えば「2020年10月4日11時04分に2時間前のLINE通知を思い出したこと」という新たなお客様として、桔梗の間ではなく藤の間にお通しすることとなる。

一方で、常識的な解釈においては、過去の体験と想起された記憶は直接的に関係し、つながっていると考える。フロントから桔梗の間への連絡は成功するし、雑念は流すだけでは消え去ることはないし、ましてや居場所を確保するようなことをしてはいつまでも居座られてしまう。雑念を消すためには、記憶から抹消するという追加的な作業が必要となる。これが関係し、つながっているという常識的な捉え方の帰結である。

マインドフルネス的な解釈と常識的な解釈とは矛盾する。だがその矛盾はいずれかが誤りということではなく、矛盾し、両者がせめぎ合うからこそ、「現在から過去へ」という時間の流れはあるのではないだろうか。

ただし、ネガティブな記憶を無理やり抹消するという作業が求められない分、マインドフルネス的な道筋のほうが、精神的には望ましいものとなるように思える。

3 未来

ここまで過去に着目して論じてきたが、未来という時制もある。マインドフルネスにおいては、未来はどのように扱われているのだろうか。

先般の僕の文章では、未来を可能性と結びつけて論じていた。無限の可能性がある未来から、可能性が絞られて確定していく現在へ、という時間の流れとしての描写だ。
記憶の想起と過去を結びつけるのと同様に、可能性の想像(予測・予想)と未来を結びつけて扱うことができるだろう。

マインドフルネスにおいては、過去の記憶の想起とは、もともとの体験とは違う新たに現在に生じた雑念というお客様であり、心の中旅館の別のお部屋にお通しするものであった。それと同様に、未来の可能性とは、実際に訪れる未来ではなく、あくまで現在の心の中に浮かんだ想像という出来事であり、現在における雑念として処理されることになる。
つまり、未来とは可能性の想像というかたちで間接的にしかアクセスできないものなのである。これは過去についても記憶の想起というかたちで間接的にしかアクセスできなかったのと同型である。

一方で、過去については直接的なアクセスも可能であるという常識的な感覚があったが、未来については直接的なアクセスはできないと考える方のほうが多いのではないだろうか。なぜなら、一面では、直接的なアクセスができないということこそが未来の本質であろうからだ。
そのように考えると、現在を重視し、その他の時点での出来事は間接的なものとして扱うというマインドフルネス的なアプローチは、過去よりも未来に対してのほうが理解されやすいだろう。なぜなら過去においては直接的な過去という対抗馬があったが、未来においては直接的な未来というものが想定されにくいのだから。

なお、残念ながら理解されやすいことマインドフルネスを実践しやすいこととは別だろう。僕は瞑想をしていると、過去の出来事を思い出すよりも、これからの予定について考えてしまうことのほうが多い。これは、未来とは思考による間接的なアプローチしかできないものだからこそ、考えるに値することだという思いが染み付いてしまっているからなのかもしれない。

以上が、マインドフルネスにおける未来の扱いだ。

4 現在

最後に現在についても触れておこう。
ここまでも現在は、過去との関係としての現在と、未来との関係としての現在として登場していた。

過去との関係では、現在とは、過去の出来事を想起する現在である。2時間前のLINE通知を思い出しているのは今である、というかたちで現在は登場する。
また未来との関係では、現在とは、未来の出来事を想像する現在である。明日に雨が振りそうだと予測するのは今である、というかたちで現在は登場する。

二つの現在が登場するだけでも複雑なのだが、現在については更に問題が複雑化する。
2時間前のLINE通知であれば、現在と過去の間の差が大きく、現在と過去を容易に切り分けることができるが、1時間前、10分前、1分前、1秒前、0.1秒前・・・と両者を近づけていくと、ついには、現在と過去の見分けがつかなくなる。0.001秒前のLINE通知を思い出すというのは、現在の出来事を現在において思い出している、ということになるだろう。
つまり、思い出す現在とは別に、思い出される現在というものが出現する。

同様の操作は未来に対しても可能である。明日の降雨予想について、半日後、1時間後、10分後・・・というように未来と現在とを近づけていくと、ついには、未来と現在の見分けがつかなくなり、0.001秒後の降雨を予想する、という状況が生じる。これはつまり、現在において現在を想像(予想・予測)する、ということであり、想像する現在とは別に、想像される現在とが出現することとなる。

つまり、現在には、①無限小の過去を想起する現在、②無限少の過去として想起される現在、③無限小の未来を想像する現在、④無限小の未来として想像される現在という4つの現在があるのだ。

そして、この4つの区分を否定し、すべてを過去に流し去ろうとするのがマインドフルネス的な現在に対するアプローチである、ということになる。

あえて、このマインドフルネス的な視座、つまり流し去る(または認めて居場所をみつける)という作業を行う現在を第5の現在と呼ぶならば、現在は5つあり、第5の現在こそが真の現在であり、それ以外のすべての時制は雑念であるというのがマインドフルネスの主張となるだろう。

5 存在論と認識論

第5の現在はともかくとして、4つの現在については、想起・想像する現在と、想起・想像される現在という形で区分し、対比することができるだろう。

僕はこの対比を、存在論と認識論のずれとして扱うことができるのではないか、と考えている。現在を想起・想像するとは現在を認識することだと捉えるならば認識論とつながり、想起・想像される現在とは認識の客体としての存在論につながるのではないだろうか。

これは認識論中心の捉え方だとも言える。なぜなら、現在において過去を想起し、未来を想像するという心の動きという観点から現在・過去・未来という時制を捉え、その延長線上において、現在において現在を認識する、という心の動きとして捉えているからだ。そこではものごとの存在は、あくまで、認識を成立させるための、認識の客体として必要な限りで措定されているものとなる。

このように考えると、マインドフルネスとは、認識論優位の見地から、認識論と存在論について描写したものであるとも言えよう。※
過去とは想起であり、未来とは想像であり、現在とは認識であるからこそ、そのような心の動きを捨象することで解脱への道筋が開けるのだろう。

それでマインドフルネス好きの僕としては問題ないのだが、哲学者としての僕は疑問を投げかけたくなる。
では、すべてを捨て去ってしまったら、その認識の視座はどこに確保されるのか、と。
きっとそれが第5の現在なのだろう。第5の現在とは時制から解放された無時間的な場のようなものなのだろう。

しかし、このような描写では、不十分なように思える。僕が好きな入不二基義が現在進行形で論じているのは、まさにこのようなことなのではないか。彼は無内包の現実という議論から、力としての現実という方向に議論を進めているが、彼が行っていることと僕の疑問は深く関わっているような気がする。または彼の議論に触発されて、僕はこのようなことに疑問を感じているのかもしれない。

今後の哲学的な議論の深まりに合わせて、マインドフルネスに対する考え方も深めて行く必要があるように思う。
思索と実践が連動して深められていくというのはチャレンジングでとても面白い。

※ 書けなかったこととして、ジャーナリングの位置づけについての疑問もある。ジャーナリングとはマインドフルネスの手法で、紙に思いついたことを書き連ねていくというものなのだけど、これは明らかに、文字表現を優先するものであるという点で意味論に通じていると思う。この観点から、今回登場しなかった意味論についてマインドフルネス的に考察する必要があるように思う。

サニーデイ・サービス「春の風」 憧れと嫉妬

僕は、音楽を聞くときは、Spotifyなどを使って音だけを聞くのではなく、YouTubeで動画を流すことが多い。「ながら」作業ができないからでもあるけれど、僕はMVが好きなのだ。
MVにも色々なパターンがあって、短編映画のような動画も好きだけど、アーティスト本人がただ演奏しているのも好きだ。

今日、サニーデイ・サービスの「春の風」という動画を観た。僕はサニーデイ・サービスのボーカル&ギターをしている曽我部恵一のファンだ。彼は90年代後半から第一線で活躍し続けているアーティストで、ソロ名義や曽我部恵一バンド名義でも多くの作品を残している。

「春の風」は疾走感があって、若々しくて、僕とほぼ同年齢でベテランの領域にいる彼がこんな曲をつくるなんて、なんて素敵だろう、と思った。いや、歳の割に、なんて適切ではない。ただただいい曲だった。

画面の向こうで歌い、ギターをかき鳴らしている彼は、僕から遠く隔絶していて眩しかった。僕は彼に憧れて、そして、ちょっと嫉妬していた。こんな気分になったのが久しぶりだったので、僕はこんな文章を書こうと思ったのだ。

彼は僕のように、餃子を食べて口がにんにく臭くなったり、仕事に疲れて夜中にエッチな動画を開いたり、せっかくの休日に布団の中でTwitterを見て過ごしたりはしない。
彼はただ、空の下で、ギターを弾き、素敵な言葉を紡いでいる。きっと彼にも僕と同じようなちょっと格好の悪い瞬間はあるのだろうけれど、MVのなかの彼は、どこまでも透明で、どこまでも輝いていた。
僕は、そんな動画のなかの彼に憧れて、嫉妬しているのだ。

こんな嫉妬なら悪くない。嫉妬とは、自分の外側の世界に、自分が持っていない素晴らしいものがあると感じることであり、現状ではその何かを手に入れられないことに気づくことなのだろう。僕はどうも内側にこもりがちで、外の世界にはたいしたものが転がっていないと思いこむところがある。
たまには僕も自分を更新し、動画の中の彼が持っているものを目指していこう。曽我部恵一という個人が持っているかどうかは知らないけれど、MVのなかの彼が持っているあれを目指していこう。もしかしたら、僕も誰かからそんなふうに見られることがあるかもしれないと期待しつつ。

動画のなかの彼は妖精だ。人間ではなく、音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。そんな彼のことを僕は妖精のようだと思う。(彼の曲に、中年の天使について歌ったものがあるから、妖精ではなく天使でもいいかもしれない。)

僕も哲学の神に愛でられた存在になろう。いや、そんなことは不可能だから、せめて一瞬でも、誰かにそう見られるような存在となることを目指そう。そんなことを思った。

(10/4追記)
だから僕は文章を書くのかもしれない。書いている間だけでも、そして文章の中でだけでも、僕は妖精のような純粋な存在になれるから、僕は文章を書くのかもしれない。

息を吸うことと吐くこと

1 哲学と呼吸

僕は僕の哲学をするにあたり、呼吸に着目している。

呼吸は息を吸うことと吐くことの2つの動作で成り立っている。加えて、吸い終わって吐く動作と切り替わる瞬間、吐き終わって吸う動作に切り替わる瞬間に着目して4つに分けることもできるけれど、大まかには吸うと吐くの2つのフェイズに分けることができるだろう。

なぜ哲学と呼吸が結びつくのかというと、「哲学とは、ひとつの着眼点やシステムですべてを説明しようとする営みである。」という言い方もできるからだ。すべてを一つに統合することを目指す、または、一つをすべてに拡張して覆い尽くすことを目指すという側面が哲学にはある。それならば、吸うと吐くという2つのフェイズを呼吸というひとつの動作で捉えられることには重要な含意があるように思えるのだ。

そんな理由から呼吸について考えているのだけど、呼吸は考えれば考えるほど面白い。捉えきれず、わからないのが面白い。その面白さを伝えるために、僕が何を考え、どのようにわからなくなっているのかを紹介することとしたい。

2 吸う感覚と吐く感覚

息を吸うと交感神経が高まり、吐くと副交感神経が高まるとされる。僕はそういうことに詳しくないけれど、深呼吸をしていると、確かに、吸うときには気持ちが高揚し、吐く時には気持ちが落ち着くような気がする。

また僕は、息を吸う時、僕は周囲の世界を自分のなかに取り込んでいるような感覚がある。または世界を自分のなかに取り込むようなイメージを持つと、吸う動作がうまくいくような気がする。逆に、息を吐く時、僕は自分の中の余計なものを排出し、本当の自分に戻っていくような感覚があり、また、そのようなイメージを持つと、吐く動作がうまくいくように思う。

その延長として、吸う動作は、世界を取り込むことにより自己を拡大し自分と世界と重ね合わせていくこととつながり、吐く動作は、自己を純化し、自分のもっとも重要なものを見つめていくことにつながっているように感じる。

以上をつなぎあわせると、僕が呼吸に対して感じていることは以下のようにまとめられるだろう。

息を吸うとき、自分が拡大して世界とつながっていき、気分が高揚する。
息を吐くとき、自分が純化されて自己に回帰していき、心が落ち着く。

このような感じについては、なんとなく同意いただけるのではないだろうか。

3 呼吸における自己のあり方は逆ではないか

ここまでは同意いただけたとして、僕がなんとなく腑に落ちないのは、呼吸における自己のあり方は逆ではないか、というものだ。

息を吸うときに意識しているのは取り込んでいる世界だ。そのとき、世界を取り込んだ結果、拡大していく自己のことはあまり意識していない。また、息を吐くときに意識しているのは集中していく自己だ。しかし、そのときの自己とは吐き出すことにより収縮していく自己だと言ってもいい。

どうも意識を向けるタイミングがずれている気がする。本来、息を吸うときには拡大する自己の重要度が高まり、息を吐くときには収縮する自己の重要度は下がっていくのではないか。それなのに、息を吸うときに拡大していく自己には目を向けずに外の世界にばかり目を向けていて、息を吐き、自己が収縮するときになってようやく自己に目を向けている。どうもずれている。

特に問題と思うのが、息を吐く場面だ。多分、仏教やマインドフルネス的には、息を吐くことは自己への執着を手放すことと重なっているはずだ。しかし、息を吐くとき、僕は、外の世界からそっと身を引き、自分の中に潜り込んでいくような感覚がある。世間の雑事から逃れ、自分の心の中の重要な場所に立ち返っていくような感覚がある。これは自己への執着の強化にあたるのではないだろうか。

当然、そんなことはない、呼吸のときの心のあり方は間違えていない、という予感のようなものがある。だが、その予感が正しいとするならば、僕は息を吐くときにしていることを、どのように表現すればいいのだろう。

4 呼吸に託したいもの

この疑問に今のところ、確たる答えはないけれど、ヒントになりそうなアイディアはいくつかある。

まず、息を吸うことは、息を吸うことそのものであるとともに、息を吐くことの準備作業でもある、という二面性があり、同様に息を吐くことも、そのこと自体であるとともに、息を吸う準備作業であるという二面性があるというものだ。つまり呼吸には、息を吐く準備のために吸い、息を吸う準備のために吐くという準備作業という側面がある。この二面性が自己の捉え方のずれと関係しているのではないか。

もうひとつのアイディアとして、息を吐いている過程と、その結果とは別であるという点に着目することもできる。息を吐く過程においては、手放す自己に着目し、その結果、自己が手放されるが、そのとき着目できる自己はない。過程と結末とは別である、という着眼点だ。だが、より重要なことは、過程と結末とは別のであるにも関わらず、それをひとつながりのものとして捉えることができる、という点にあるだろう。

いずれのアイディアも、呼吸が時間経過のなかに位置づけられていることに由来すると言えそうだ。吸い、吐くという動作がひとつながりの呼吸という動作と呼ぶことができ、そして吐きつつあるところから、吐き終わるところにいたる過程が、ひとつの吐くという動作を構成していると言うことができるのは、その背後に時間経過というものが控えているからなのだ。

しかし、僕は、より強く、呼吸こそが時間経過を生み出しているのではないか、とも予感する。根拠のない予感ではあるが。息を吸うことと吐くことを接続し、呼吸として捉えること、そして息を吸い、吐くという行為を構成する個々の瞬間を接続し、ひとつながりの行為として捉えること、これこそが時間の起源なのではないだろうか。呼吸こそが生きることの根源にあるとするならば、呼吸こそが生をつくりあげ、生こそが時間をつくりあげているのではないか。

世界と自己、そして時間経過、更には興奮と落ち着きといった感情、それらをすべて、呼吸こそが生み出しているのだとしたら、とてもわくわくする。

マインドフルネスについての備忘録 居場所・愛・解脱・可能性・善

1 川野先生の話
今年はオンラインでの開催だったヨガフェスタ2020で、川野泰周先生のマインドフルネス基礎講座を受けた。僕はマインドフルネスに興味があって、何冊か本を読んだりもしているけれど、とても得るものがあったので書き記しておく。
(川野先生は禅僧&精神科医という説得力のある肩書を持ち、説得力のある説明をする方なのでスピリチュアルな話に拒否感がある方も含めた万人におすすめです。色々と活動しているので、アクセスもしやすいと思います。)
感銘を受けたのはこのような話だった。記録はとっていなかったので僕の言葉で再現してみよう。
「瞑想をしていて雑念が浮かんだら、その雑念を認めてあげればいい。雑念の居場所をみつけてあげればいい。また、日常生活を送っているとネガティブな感情が起こることがある。そのネガティブな感情をないものとせず、一度、きちんと認めてあげればいい。瞑想で雑念を認めてあげる練習をすることで、日常生活でもネガティブな感情を否定せず、その居場所をみつけてあげることができるようになる。」

2 雑念を認めてあげる
僕はあまり瞑想が得意ではない。首が痒くなってそのことばかり考えたり、終わったら何をするか、なんてことがいつの間にか頭を支配していたりする。そんな状況に気づくと、あ、雑念が生じちゃってた、流さなきゃ、なんて思っていた。一般的にマインドフルネスでは、雑念は評価せずに、ただ流していくものとされているから、なるべく穏やかな気持ちで、雑念を消し去るように心がけてはいた。だけど、雑念は生じないほうがよく、生じたならば流し去るほうがよいものならば、どうしても雑念に対してはネガティブに評価せざるを得ない。だから、雑念が生じていることに気づいた時には、雑念が生じていること自体に微かに動揺していたように思う。雑念をネガティブに評価して動揺したうえで、心を落ち着けて動揺を消し去ろうと努力していたのだ。この不自然さこそが、多分、僕が瞑想をうまくできない理由なのだろう。
そんな僕にとって、雑念を認めて、居場所を与えてあげるという川野先生のアイディアは魅力的なものだった。雑念とはポジティブなものならば、雑念が生じたことで心を乱されることはない。雑念くんこんにちは、ちょっとお茶でも飲んでいってよ、という感じで優しく対応してあげることができる。
多分、瞑想においては、自分と雑念の間に距離をとることが重要なのだろう。雑念を認め、しっかりと観てあげて、自分とは別のところに雑念を置く。このようにして自分と雑念を切り離せば、あえて流し去ろうとしなくても、そのうち雑念はどこかに行ってしまう。きまぐれなネコや子どもがどこかに遊びに行ってしまうように。

3 日常生活での内観
川野先生は、さらに、瞑想での雑念への対処が、日常生活でのネガティブな感情への対処につながると言っていた。瞑想で雑念を相手に練習をしておくと、それがそのまま、日常生活でのネガティブな感情への対処に役立つというのだ。そういわれればそうなのだけど、これは少々驚きだった。
何となく僕は、瞑想をやっておくと心が鍛えられて、それが日常生活でも役立つ、くらいに思っていた。だけど確かに、もっと直接的に、瞑想と日常生活はつながっており、雑念と感情はつながっている。瞑想での雑念への向き合い方とは、日常生活での自分の感情への向き合い方のことなのだ。雑念とは感情のことだ、と言ってもいいだろう。
日常生活においても、ネガティブな感情を認めてあげて、その居場所をみつけてあげる。自分の感情をなかったことにしない。そうしないと精神疾患につながる。精神科医でもある川野先生はそんな話もしていた。

4 仏教における愛の扱い
ここからは川野先生が話していたことではなく、僕が勝手に思いついたことだ。
唐突だけど、僕は仏教に不満があった。仏教では、愛も執着であり手放すべきだと言うけれど、それはちょっとやりすぎじゃないか、という反発があった。論理的に考えたらそうかもしれないけど、どこかそれは違う、という予感だ。
だけど、ここまでの話、つまり雑念=感情であり、それらを積極的に手放すのではなく、自分と距離を置いたところに居場所をみつけてあげればいい、という話を踏まえると、この仏教の主張に対しても別の理解ができるように思う。
愛も執着も雑念であり感情のことなのだ。それらを積極的に手放す必要はない。ただそっと側に置いて観てあげればいい。その存在を認めて居場所を確保してあげればいい。
執着や雑念や怒りのようなネガティブな感情を認め、それをいわばポジティブなものとして扱うことこそがマインドフルネスならば、愛や喜びのようないわゆるポジティブとされるものも、同様にポジティブなものとして扱ってあげればいいのだ。
仏教が言わんとすることは、愛を捨て去れ、ではなく、愛をそっと脇に置き、愛を認めて愛の居場所を見つけてあげなさい、というものだったということになる。

5 二つのポジティブの次元
ただし、ネガティブなものをポジティブに扱うというのは(実践は難しくても)理解はしやすいが、愛のようなポジティブなものをポジティブに扱うのは、理解が難しい。それは二つの次元が異なるポジティブについて、同じポジティブという言葉が与えられていることによるからだ。
ここで次元という言葉を持ち出したが、次元とは距離と言い換えてもいいだろう。確認だが、マインドフルネスでは雑念や感情と距離をとることが重要であった。だから執着や愛を認めつつも距離をとらなければならない。というか距離をとることこそが認めることだとも言える。自分自身に全く癒着したものを評価することはできないだろう。自分の子供を自分の分身のように思っていたら冷静な評価などできないように。
愛には二つの次元がある。ひとつは愛と自分が全く癒着し、距離ゼロとなっている次元であり、いわば愛に支配されている次元だ。もうひとつは自分自身と愛と距離を置いている次元であり、愛を客観的に観ることができている次元だ。客観的に観るとは、誤解を招くかもしれないが、少し離れたところから愛を俯瞰的に見下ろしているところをイメージするといいかもしれない。
愛と癒着している次元における愛のポジティブさとは、そのポジティブさに支配され、巻き込まれている状況のことだ。愛のポジティブさ以外のことは考えられず、ただ愛のポジティブさに満たされている人のことだと言ってもいい。
もうひとつの愛を客観的に捉えている次元における愛のポジティブさとは、愛を眺め、ネコを撫でるように愛を愛でている人のことだ。
つまり、仏教が愛を捨て去るべきだと言っているのは、愛のポジティブさに巻き込まれるのではなく、それを眺めて愛でるべきだと言っていることになる。愛のポジティブさは、距離ゼロの次元で捉えるのではなく、距離をとった次元で取り扱うべきなのだ。これが、ポジティブなものをポジティブに扱うということである。
(なお、脱線するけれど、マインドフルネスの不思議さは、ポジティブさに巻き込まれず、距離をとり眺めていると、第3のポジティブさが生まれてくる、というところにあるように思う。愛や喜びの感情といったポジティブなものから距離をとり、空になったはずの自分自身のなかから、全く別のポジティブな何かが生じてくるように思えるのだ。これは、僕のような初心者でも比較的簡単に味わえる、瞑想の面白さだと思う。このポジティブさについては、この文章では取り扱っていないという点に留意し、混同しないようにするべきだ。)

6 仏教の解脱とは
再び唐突だけど、僕は、仏教の解脱についてもよくわからなかった。僕は仏教にあまり興味はないし、仏教について勉強したこともないから、わからないのは当然だろう。それに、解脱について本当に理解してしまったら悟りを開いたことになってしまう。
僕の疑問はもう少し具体的で、解脱という言葉にある、何かを捨て去るという語感がどうも気に入らなかった。何かを捨て去り、そこから目を背けてしまったら、その分、真実から遠のくことになってしまうのではないだろうか。真実とは、全てを包みこみ、全てを的確に捉えたものであるべきなのではないだろうか。そのような疑問が仏教に対してはあった。
だが、今までの話を踏まえるならば、解脱とは捨て去ることではない。愛も執着も喜びも悲しみも憎しみも、すべてをただ観てあげることが解脱なのだ。すべてを認め、居場所をみつけてあげることこそが解脱なのである。
いや、これこそが解脱というのはおこがましいだろう。この文章で僕が想定している「観る」とは、ほぼ客観化することに等しい。だが、客観化することこそが解脱だというのは少々違う気がする。客観化するとは、自分の中の客観化できない何かを失うことを含んでいる感じがある。客観化では何かが足りない。だが、僕はそれをまだ表現できていない。
しかしながら、この文章で僕が表現しようとしたマインドフルネスの道筋が、解脱へ進む適切な第一歩であることは確かなような気がする。

7 僕の哲学への接続
以上で話は終わるけれど、ここまでの話を僕が好きな哲学の話につなげることもできるように思う。
僕は時間論が好きなのだけど、時間の不思議と、マインドフルネスにおける、認めて、居場所を確保してあげるというプロセスとはつながっているのではないだろうか。
未来には無限の可能性があるとされる。振り返ると、過去には決定された出来事しかなく、そこに可能性はない。時間とは、可能性が絞られて決定していくプロセスのことである、と感じることがある。
僕はずっと、可能性が失われていくことが悲しかった。生きるとは、可能性を捨てていくことであり、神様が与えてくれた無限の可能性を、ちっぽけなひとつながりのストーリーとして確定していくことのように感じていた。
だけど、マインドフルネスは、そうではないと言ってくれているように思う。
雑念や感情に居場所を見つけてあげるのと同じように、選ばれなかった可能性にも居場所をみつけてあげればいいんだよ、と言ってくれているのではないだろうか。
僕は三叉路の前に立ち、右を歩くことを決断する。だけど左に歩く未来は捨て去られた訳ではない。どこかに選択されなかった可能性の居場所はある。それに気づくことがマインドフルネスなのだ。
マインドフルネスは、未来の可能性が捨てられない時間の流れというものを提案してくれている。マインドフルネスな世界とは、すべてに居場所があり、何も捨てられることはないような世界のことを言うのではないだろうか。それがマインドフルネスの気づきである。
もし、そうだとするならば、そして、もし、気づき、つまり思考というものに善いものが含まれているとするならば、その善とは、居場所があることに気づいてあげる、というところにこそあるのではないだろうか。僕には、もし世界に善というものがあるならば、注意深く観て、そして気づくことこそが、善の本質であるように思えてならない。

ヨガフェスタで思いついたことのメモ 世界の脱臼としてのヨガと哲学

2020年のシルバーウィークの4連休で、オンラインでのヨガフェスタがあった。オンラインのヨガなんて、と思いつつ、チケットも安いので視聴してみたけれど、なかなかよかった。座学中心に受講したのがよかったのかもしれない。

そこでは解剖学的な身体の使い方のワンポイントアドバイスのような個別具体的に興味深い話がたくさんあった。それは今後のヨガの実践のために自分だけのメモにとどめておこう。ここに公開してまでして残しておきたいのは、講師たちが意図的に伝えようとしたことではなく、彼らを見ていて、僕が勝手に思いついたことだ。

ほとんどのプログラムが、有名なヨガの先生がヨガを教えるというものだったが、(僕が視聴したなかで)ひとつだけゆるいプログラムがあった。何十年もヨガを教えているヨガ業界の大御所の先生2人が、だらだらおしゃべりをする、というものだった。

話の内容も、日本でのヨガの歴史を知ることができるという点で興味深いものだったが、僕にとって重要だったのは、ヨガの先生がヨガをしていないときにどのように振る舞うのかを多少なりとも知ることができた、という点にある。これこそ僕がこの文章で書き残しておきたいことだ。

ヨガの達人のような先生がヨガ的ではないときにどんな感じなのかというと、はっきり言って、くだらないのだ。ダジャレを言ったり、話の腰を折ったり、話は飛んでどこかに行っちゃったり。時々いる、いわゆるしょうもないおじさんという感じ。正直、期待はずれ、とちょっと思った。

だけど、ふと考えた。この、くだらなさ、しょうもなさ、はヨガと本当に無縁なのだろうか、と。

彼らの態度は、見方を変えれば、柔軟であるとも言える。決まった話の方向に進まず、脱線するというのは柔軟さの表れであると言えなくもない。

脱線は脱臼とも言いかえられる。既存の価値観を破壊しなければ、そこに新しいものを構築することはできない。堅固な既存の世界を破壊することは困難なことだから、うまく世界を脱臼させるような達人芸が必要となる。

適切なかたちで柔軟であるというのはなかなか難しいことなのだ。この柔軟さを身体の柔軟さとするならば、この難しさはヨガの難しさと重なるだろう。

そして、世界を脱線させ、脱臼させることで手に入れられるものは新しさであり、この新しさとは、自由と言い換えることもできる。

ヨガというものが、インドに古くから伝わる知恵を用いて、未来を変え、自由を手に入れようとするものだとするならば、日本におけるヨガの大御所が、このような態度であることは、とても好ましいものなのかもしれない。

僕も、世界を、そして自分の人生を脱臼させる達人を目指そう。それが新しさや自由を手に入れるということであり、そして成長するということだろうから。この点で、ヨガと哲学は重なるような気がする。

すくらっぷ・ブックを読み直して

1 すくらっぷ・ブックと僕
すくらっぷ・ブックという昔の漫画を読み返している。もう50歳になる僕が、小学校高学年の頃にハマった漫画だから、かなり古い漫画だ。(作者の小山田いく先生も亡くなっちゃったみたいだし。)ジャンルとしてはいわゆるラブコメで、ある中学校のあるクラスメイトたちの恋や友情いっぱいの2年間の日常生活を描いている。
小学生の僕は、こんな中学校生活に憧れを持ちながら読んでいた。それまで銀河鉄道999とかが好きで、その後もバトル系ジャンプ漫画に進んでいった僕にとっては、少し異質な漫画だった。この漫画の登場人物のカナちゃんが僕の二次元の初恋だった気がするし。(メーテルとかセイラさんも好きだったけど、もうちょっとリアルな恋心・・・)
あらためて読み返してみて、この漫画のいくつかの特徴に気づいた。多分、小学生の僕は、そこに無意識に魅力を感じたのではないだろうか。そして、その特徴とは、今の僕の対話の哲学への関心とも関係するのではないか。そんなことを思いついたので、この文章を書くことにした。

2 すくらっぷ・ブックの特徴
まず、思ったのは、この本は、本当に、恋愛と友情といたずらばっかりだ、ということだ。まあ、ラブコメというのはそういうものではあるのだけど、異世界とつながるような大事件も起こらないし、超能力のようなSF的な設定もないから、それが余計に目立つ。(超能力的ないたずらをしたりもするけど、それは単なるギミックでストーリー上は大きな意味を持たない。)
また、この漫画にはつくづく、中学校の同級生しか登場しない。大人といえば、先生や喫茶店のマスターくらいしか出てこない。読み返しているところだけど、今のところ親も出てこない。物語のなかでの問題の発生もその問題の解決も、すべてがクラスメイトたちのなかで完結している。
もうひとつ気づいたのが、これはいわゆる群像劇にあたるということだ。主人公は多分、二頭身の春ボンということにはなるのだろうけど、市野、坂口、マッキー、カナちゃん、理美ちゃんも、その内面が丁寧に描かれており、主役級の扱いだと言っていいだろう。
そして、これらの特徴を通じて、今の僕が最も感じた感想は、「この漫画は、コップの中の優しい小宇宙のようだ。」というものだ。ここでは確かに色々な事件が起きる。だけど、問題がクラスの枠を超え、彼らの人間関係を破壊することはない。事件は予定調和のように彼らの成長につながっていく。作者の庇護のもと、作者の手の上の小宇宙で、彼らは精一杯、恋愛と友情といたずらに勤しみ、成長していく。中学2年から中学校卒業までの物語なのだけれど、高校生となり、進路が分かれ(当時はまだ中学校受験なんてほとんどなかった)、いわば社会に旅立つ直前の、子供時代の終わりの空気感と、この物語の閉じた小宇宙感がとても合っているように僕は思う。

3 これらの特徴が示すもの
小学生の僕は、こんな、コップの中の優しい小宇宙に憧れていたのだと思う。銀河鉄道999にもホワイトベースにも乗りたくなかったけど、小諸市立芦の原中学校にだけは行きたかった。そして、本当にこの漫画の住人になりたかった。だけど、当然、僕が進学したのは横浜市立○○中学校だったし、中学校ではこんな友人や彼女を得ることはできなかった。僕はとてもがっかりしたけれど、こんな世界は作者の手の上にしかないのだから仕方ない。
この漫画の世界はつくづくいいところだ。ここには恋愛と友情といたずらしかないと言ったけれど、ここでのいたずらは、当然、その相手への関心の発露であるような優しいものとして扱われているし(やっていることは、かなり執拗で危険なものだけど・・・)、恋愛といってもキスまでで、あくまで男女間の友情の延長として描かれている。突き詰めれば、この世界は友情で満ちている。だから孤独なんて存在しない。一人きりで問題を抱えて悩んでいても、すぐに誰かが手を差し出してくれる。
この漫画が群像劇であるということは、特定の登場人物を掘り下げないことにつながるけれど、すくらっぷ・ブックではそれぞれの登場人物の内面が深く掘り下げられ、その心情が丁寧に描かれている。それが可能となっているのは、一人で問題を抱え込んで内面化しなくても、それを外面化して理解してくれる友人がいるからなのだ。
これは意地悪く言えば、この世界には、クラスメイトの間で理解しあい、友情で解決できる問題しか起こらないということだ。だから大人は要らない。
小学生の僕は、中学生になったらカナちゃんみたいな彼女が欲しいなんて妄想していたけれど、最も望んでいたのは、僕が抱えている問題を理解してくれる友人であり、または、友人が理解してくれるような問題しか、僕の身に起こらないことだったのだろう。
当然、現実にはそんなことにはならない。だからこそ、このような世界を描くことに意義がある。これが、コップの中の優しい小宇宙の魅力であり、この漫画の魅力なのだと思う。

4 コップの中の優しい小宇宙の実現
コップの中の優しい小宇宙は現実には存在しない。それは、作者の心の中にだけある。この漫画の登場人物は、小山田いく先生が作り上げた、いわば先生の分身だからこそ、先生の世界観という共通の基盤があるからこそ、他の登場人物が抱える問題を理解することができる。それは、ラブコメ特有のご都合主義とは関係なく、そもそも物語というものの根本的な特徴なのだ。この特徴がいかんなく発揮されているという点に、すくらっぷ・ブックという漫画の魅力がある。
小学生の僕は、成長するにつれ、自分の内面という優しい小宇宙から否応なく外に引きずり出されていくことに、どこかで気づいていたのだろう。僕の周囲では僕の内面で処理しきれない問題が生じているのに、意地が悪く野蛮なクラスメイトたちは当然として、親や先生のような身近な大人も僕の問題を理解してくれない。すくらっぷ・ブックの世界は、そんな僕にとってのユートピアだったように思う。
僕の半生は、ある側面では、このユートピアを探し求める旅だったのかもしれない。僕の恋は、僕のことを理解してくれる人を求めるという要素が強かったし、多分、家庭を持つことも、家族とともに小宇宙を作り上げようとすることに似ている。僕がやっていることの多くは、この側面から捉え直すと、どこかでつながっているように思う。残念ながら、まだユートピアにはたどり着けないけれど・・・
哲学に話を戻そう。僕の恋愛はともかく、この文章を書こうと思ったのは、僕の哲学対話への関心が、コップの中の優しい小宇宙というユートピアの実現に直接的に結びついていると思ったからだ。他者と対話するということは、その他者と一緒に小宇宙を作り上げることなのではないだろうか。

5 対話による小宇宙の創造
さきほど、すくらっぷ・ブックという小宇宙は、小山田いく先生の内面に存在すると言った。小宇宙は個人の内面にあるからこそ、優しく調和したものとなる。
だが、その小宇宙を個人に留めず、言葉の力により、拡大することを目指すのが、対話というアイディアなのではないだろうか。
なぜ、言葉というもので、そのようなことが可能となりうるのかと言えば、内面の小宇宙は言葉により描写されるものだからだ。小山田いく先生の小宇宙はすくらっぷ・ブックというかたちで、言葉(と絵)で描写されているし、僕の思考という小宇宙は、このような文章として、言葉で表現することができる。
もし、内面の小宇宙が言葉で表現できるものならば、相手に言葉を丁寧に伝え、理解してもらうことで、その相手に小宇宙を伝えることができるはずだ。丁寧に言葉で伝達することにより、話し手と聞き手は優しい小宇宙を共有することができる。このような考えが対話というアイディアの根底にあるように思う。
その小宇宙は、話し手と聞き手だけが共有する閉じたものであり、誰か他者が新たな問題を持ち込めば壊れてしまう一時的なものだろう。だけど、対話はその他者をも取り込み、再び小宇宙を更新し、再設定することが可能だ。新たな問題により壊れても、壊れても、どこまでも更新し、その問題をも小宇宙に取り込み、拡大していく。対話による小宇宙の創造にはそのような力強さがあると感じる。
一方で、すくらっぷ・ブックの小宇宙は、春ボンたちが中学校を卒業し、連載が終われば、儚くそこで閉じられる。だけど、だからこそ優しさが際立つし、憧れが明確になる。それが、この漫画の魅力だ。ユートピアのように目標が示されるからこそ、そこを目指していきたいと思える。この漫画を今読み返すことは、僕にとって、このような意味があった。すくらっぷ・ブックという失われた中学校生活を手に入れるため、僕は生きていくのかもしれない。
こんな素晴らしい作品を遺していただき、小山田いく先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
(まだ4巻くらいまでしか読んでいないし、小学生の僕もお小遣いの都合から途中までの巻と最終巻しか買えなかった記憶があります。だから、後半では、この文章から外れた展開になるかもしれません。)

薄い膜と概念操作の話

1 薄い膜

いつの頃からか、時々、世界と自分との間に薄い膜があるように感じることがある。僕の身体の境界のあたりに貼り付くように、薄く目立たないけれど確実に身体をくまなく覆い尽くすように。

膜により僕は世界と隔絶されている。周囲の世界は僕抜きでもうまく回っていて、大縄跳びに入れない子どものように、僕は世界に上手に関わることができない。世界において僕は余剰物であり、僕の手が届かないところで得体のしれない世界は蠢いている。膜は実感として存在すると同時に、そんな気分を比喩的に表現するものでもある。

膜は僕のことを護ってもくれている。膜は、防風林のように、恐ろしい世界から僕を隔離し、小さな安全地帯を作り出してくれる。ちょうど一人分の大きさの凪いだ水槽の中を静かに漂うことを許してくれる。(僕は照明を落とした風呂に入り、(自分以外に入る人がいないとき)頭までお湯に沈んでしまうのが好きなのだけど、そのときに感じる感覚とどこか似ている。)

膜は、僕を世界から護ってくれる防御壁である一方で、僕を僕の身体に閉じ込める牢獄ともなる。僕は、時々、体の周りにぴったりと貼り付く膜に閉じ込められ、息苦しくなる。なんとか膜を破り、閉塞感から逃れたくなる。だけど膜を破ることはできない。最近は、このような閉塞感が気になるようになってきた。

多分、僕がこのような膜を身にまとうようになった経緯には、子どもの頃の人間関係の問題が影響している。大人になり、人間関係の問題にうまく対処できるようになり、そろそろ膜も用済みということなのだろう。

2 概念操作

薄い膜が僕を包んでいることによる影響は、僕の哲学の根幹に及んでいるように思う。

僕は独我論的で懐疑論的なことを考えがちなのだけど、その根底には、薄い膜により隔絶された外界のことなどわかりようがないという実感がある。往々にして独我論や懐疑論は単なる思考実験のように取り上げられる。だけど僕にとっては、そうではなく、膜がもたらす実感に基づく馴染み深い思考傾向なのだ。

僕の哲学は、独我論者や懐疑論者を仮想論敵とし、彼らを打ち破ることを目指すものだ。それはつまり、哲学的に薄い膜を打ち破ることを目指すことでもある。僕にとっての哲学とは、少なくとも一面では、僕を包む膜から逃れることを目的とした活動なのだ。

僕は哲学を通じて、この膜と格闘している。膜に力を加え、引っ張ったり縮めたりして変形させ、ついにはこの膜を破ることを目指している。この文脈においては膜を概念と言い換え、膜に力を加えて変形させる行為を概念操作と言い換えることができるだろう。僕は哲学において、概念を操作し、概念を打ち破ることを目指しているのだ。

概念のなかでも特に重要となるのは、世界や時間や人生といった概念だ。独我論的な僕の哲学において、僕を包む膜が、このような概念として表現されるのは当然だろう。僕は世界や時間や人生といった概念に閉じ込められているのだ。だけど、それらの概念をこねくりまわしているうちに、いつか完全に客観的に捉えることができたならば、そのときこそ、僕は膜を打ち破り、牢獄から逃れることができると夢見ている。客観的に概念を捉えるとは、つまり、僕をつつむ膜を、僕の外部の視点から捉えることだからだ。

哲学により僕を包む膜を打ち破るとは以上のような意味においてである。だから、僕の哲学は、概念との格闘であり、更には、僕にとっての哲学とは概念操作と等しいとさえ言えるだろう。

3 入不二基義

僕が重視する概念操作を手っ取り早くご理解いただくためには、(読んだことがある方は)入不二基義の哲学をイメージしていただければいいだろう。

入不二は概念操作の名手であり、存在、時間、運命といった概念を自由自在に操り、いわば手垢がついたこれらの概念の、全く違うあり方を鮮やかに示してくれる。

入不二は、概念を拡大解釈したり他概念と比較したりというような一般的な操作(水平的な操作)のみならず、概念を成立させるメタ概念を指し示そうとするような彼独特の操作(垂直的な操作)を通じ、概念をぎりぎりまで操作し、概念操作の限界を探る。彼が目指すことは概念の明確化というより、概念の操作可能性の限界を探り、概念の潜在的な力を解放することなのだろう。

実例は彼の本を読んでいただきたいが、概念操作の名手である入不二は、熟練した職人のような手際で概念を薄く引き伸ばし、概念という薄い膜の向こう側を透かし見るようにして垣間見せてくれる。

僕にとっての入不二哲学とは、単に正しかったり、読んで楽しかったりするだけではなく、このような実用的な意義があるものなのだ。だから僕は、彼のような概念操作ができるようになることを目指しているのかもしれない。

4 哲学以外

このように振り返ってみると、僕にとっては、どうも哲学よりも膜が先にあるようだ。僕にとっての哲学とは、膜から逃れるための手段でしかないのかもしれない。膜から逃れられるならば哲学でなくてもいい。その証拠に、僕は哲学以外にもいくつかのやり方で膜と格闘している。

例えば僕は旅が好きだ。僕にとっての旅とは人生や時間と深く関わるものだ。しばしば旅は人生に喩えられるけれど、この比喩には僕も深く同意する。飛行機が離陸して日本を離れるとき、僕は子どものように旅の始まりの期待に胸を膨らませ、そして旅が終わり、飛行機が房総半島に着く頃、僕の心は死を前にした老人のように達成感と喪失感で満たされる。このような感覚は、旅好きの多くが感じるものなのではないだろうか。ごく普通の意味で、旅をすることとは人生を知ることとは多少はつながっているように思う。

更には、旅は時間を空間に変換する装置だとも思う。例えば1週間かけて、タイのバンコクからシンガポールまでバスや電車で旅をしたとする。そのとき、1週間という時間は、バンコクとシンガポールを結ぶ、地図上の一本の線として描写できる。時間という捉えどころのないものを空間上の線に変換することで、客観的な視点から把握が可能となる。僕のバンコクからシンガポールまでの旅の思い出は、地図上の線分として持ち運び可能なものとなる。

当然、このような試みは完全には成功しない。昆虫標本に昆虫の生命を保存できないのと同じように、空間化された時間には時間の本質はないし、人生と旅は似て非なるものでしかない。だけど、僕を覆っている膜を人生と名付けるならば、旅により、その膜をなんとかしようとする、という僕の試みは、そう的外れなものではないように思う。

もうひとつの膜からの脱出の試みとして、僕は、マインドフルネスと瞑想の呼吸にも興味がある。僕の理解では、マインドフルネスとは「今ここ」という切り口で世界を捉えようとするものであり、呼吸は、「今ここ」に時空的な広がりを与え、「今ここ」と世界の全体、時間の全体とを接続する可能性を秘めたものだと考えている。

僕は初心者だから実際はそんな境地には達していないけれど、マインドフルネスや呼吸は、哲学よりももっと直接的に、僕を包む薄い膜を打ち破る力を持っているように思う。

これ以上は脱線となるので詳述しないが、それ以外にも、薄い膜を打ち破る可能性があるものとしては、スノーボードのジャンプや音楽やセックスといったものもある。僕が好きなものは、たいてい、僕を包む膜との格闘とつながっているようだ。

当然、僕は膜を打ち破ることを意識して、意図的に、哲学や海外旅行やマインドフルネスやスノーボードといった趣味を選んだ訳ではない。だけど、このように振り返ってみると、そこには偶然ではない一致があるように思う。

5 哲学の忘却

当然ながら、いくら概念を押したり引いたり伸ばしたりねじったりしても、概念を打ち破ることは不可能だ。入不二は確かに膜の向こうを垣間見せてくれるが、それは水泳の息継ぎのように一瞬のことであり、すぐに僕は膜の内側に引き戻される。僕は一生あがいても、膜に閉じ込められたままなのだろう。

だが、ここで吉報がある。僕はこの膜を常に意識している訳ではないのだ。というか、生活の場面ではほとんど気にすることもない。時々ふと思い出すだけだ。それならば、一番の解決方法は、気にせずに忘れることなのかもしれない。

膜も、哲学も、忘却してしまえばいいのかもしれない。歳をとり、色々と忘れることが多くなると、忘却という解決策は意外と現実的なやり方かもしれないと思う。

6 膜との戯れ

忘却のほかにもうひとつ、もう少し能動的な関与が可能な道があるように思う。それは遊戯という道だ。

入不二は哲学者という顔以外に、もうひとつ、レスラーという顔を持っている。彼は概念を相手にやっていることと同じようなことを人間相手にやっていると思うのだけど、やっていることの本質は、哲学よりもレスリングのほうがよく現れているかもしれない。彼によればレスリングは動物の子ども同士がよくやっている取っ組み合いによく似ている。彼がやっていることはレスリングという人間との遊戯であり、哲学という概念との遊戯なのだろう。レスリングという行為を思い起こすなら、遊戯という言葉には、破壊的な側面と、癒やしとでも言うべき側面の両面があるように思う。

僕も膜との遊戯を目指したらいいのかもしれない。膜を打ち破ることは所詮無理なことなのだから、それならば、もっと膜と戯れよう。膜と戯れることは意外と楽しいことなのかもしれない。哲学をしていると、少し、そんな気もしてくる。

※今回は入不二基義の哲学を取り上げましたが、もうひとり、永井均の〈私〉の独在論も膜からの脱出の試みに役立っているように思います。入不二のやり方を格闘や遊戯とするならば、永井のやり方は「無化」と言い表すことができるかもしれません。
永井の議論を僕なりに解釈するならば、〈私〉は、いわゆる私といわゆる外界というような二分法を無化する別次元の力を有していると言えるからです。だけど、〈私〉の独在的な力は、人間の手元に飼いならすことができるようなものではないので、膜を逃れたと安心した瞬間にその力は手元を離れてしまうので、その試みは一時的な成功にしかつながらない、ということになります。

※読み返してみると、ここで書いた薄い膜の話は半分フィクションのようにも感じます。僕を包む膜の感覚は通常はとても微弱なものだし、膜を感じる頻度もそれほど多くありません。この薄い膜の話は、僕の中にある感覚をうまく伝えるための誇張した比喩のようなものとご理解ください。

恐れと圧倒と個別具体性と概念化

1 僕の哲学の遍歴

僕は幼い頃の記憶があまりない。だから、きちんと記憶を遡ることができるのは小学校の頃までだ。

小学校入学したての頃、僕はできの悪い子どもだった。集団行動が苦手で、運動音痴で、学校での振る舞い方もピントがずれている、いわゆる落ちこぼれだった。

小学校に入るタイミングで引っ越したこともあり、仲のよい友だちもいなくて、近所の子にいじめられていたので、世の中とはとても怖いものだった。その怖さの感覚は転校生ポジションではなくなった後も残ったように思う。と言ってもそれはそんなに深刻なものではなく、他の子と同じように暗闇が怖くて、口裂け女が怖くて、誘拐されて香港に売られることが怖かったという程度のものだったかもしれない。

世の中はもっと整合的で理解できうるものだと知っていくにつれ、そんな他愛もない恐怖は薄れていった。記憶は曖昧だけど、小学校高学年になり色々なことを学び、恐怖を克服しつつあった僕に、恐怖の代わりに訪れたのは、宇宙に圧倒されるような感覚だったように思う。僕はSFを知り、SF的な宇宙の広がりに圧倒されたのだ。そのときの感覚を断片的に記述してみよう。

「宇宙が無限に広がり、人間よりもはるかに高度な文明を持った宇宙人がいるかもしれないのに、人類はそのことを全く知らずに地球にへばりつき細々と活動している。もしかしたら、この世界は高度な宇宙人が地球人の最後の生き残りである僕を飼うためにつくった檻かもしれないのに、僕はそれに気づくことすらできない。」という感じだ。

このような、SF的な宇宙のあり方への圧倒感が、僕の哲学のひとつの始まりであったように思う。

そんな僕も中学生になり、周囲が成長するにつれ、僕もそれに合わせてSFアニメやSF小説ではなく、部活や、恋愛マンガや、芸能人といったことに興味を移さざるを得なくなっていった。広大な宇宙に漂っていた僕は、捕らえられて学校のクラスという密室に閉じ込められてしまった。そんな感覚でいる僕がうまく集団生活をできる訳もなく、中学生の頃の僕は、多分いじめられっ子と言ってよい立ち位置だったと思う。こうして僕は、幼い頃に世界に対して感じていた恐怖と同じようなものを、周囲の人間に感じるようになっていった。

だけど高校生の夏、ふと、他の人間たちも健気に生きていることに気づいた。このときの感覚はとても印象深かったので何度も文章に書いているから省略するけれど、簡単にまとめると、僕が気づいたことは、僕も含めた人間は人生を精一杯生きているということだ。人は誰も、僕と同じように自分の人生を生きている。僕は人生というものがあることに圧倒されたと言ってもいい。

ここから僕は哲学的なことを考えるのが好きになり、人生や世界といったものについて考えるようになった。だれど、就職し結婚して子育てをして、と忙しくしているうちに哲学からは離れてしまった。

30代前半の頃、子供と一緒に図書館に行き、哲学的問題について思い出し、そこから50歳近い今まで15年くらい色々な哲学に触れるようになった。今は時間に興味があるけれど、それは人生というものがある程度まで、時間という言葉で置き換え可能であることを学んだからだ。その意味で高校生の頃の哲学と現在の哲学とは地続きでつながっている。

以上が僕の哲学の遍歴だ。まとめると、

小学生低学年:世界に対する恐怖

小学校高学年:SF的な宇宙の存在の圧倒(ひとつの哲学のはじまり)

中学校   :人間関係に対する恐怖

高校    :人生の圧倒(ふたつめの哲学のはじまり)

大人    :人生の時間への置き換え

というように要約できる。

2 圧倒と恐怖

こうして振り返ってみると、僕の哲学の遍歴において、哲学のはじまりとして二つの圧倒感という山が関係していたことに気づく。ひとつは、僕が小学生の頃、銀河鉄道999やガンダムや星新一のショートショートにはまった時に感じた、SF的な宇宙観に圧倒されるような感覚。そして、もうひとつは、高校生の頃、他の人にも人生があると気づいたときの目もくらむような圧倒感である。

それと対になるように二つの谷があったことにも気づく。小学校入学後と中学生時代という二つの時期における、学校のクラスになじめずに感じた恐怖の感覚だ。

この二つの圧倒と二つの恐怖は、僕の哲学的問題の遍歴を考えるうえで、大きな意味を有しているように思う。

僕は恐怖を圧倒感で克服しようとしたのではないだろうか。

小学校低学年の頃に感じた世界に対する恐怖に対して、小学校高学年の頃の僕は宇宙というものが持つ圧倒感で上書きし、そして、中学生の頃に感じた人間に対する恐怖についても、高校生の僕は人生というものが持つ圧倒感で上書きしようとしたと今になってみると考えられるように思う。

3 圧倒感と哲学

この圧倒感による恐怖の克服と、哲学のはじまりとは大きく関係しているように思える。

僕にとっては、圧倒感とは恐怖を忘れさせてくれるものだった。または圧倒感とは恐怖を解消するための鍵だと考えていたとも言えるかもしれない。恐怖から、恐怖が持つ力だけを取り出し、圧倒という力として純化することで、恐怖を圧倒に置換することができると考えたのかもしれない。

または、圧倒されるほど途方も無いものである宇宙や人生の謎を解き明かし、把握し理解することができれば、こんなにも恐ろしい宇宙や人生に正面から立ち向かい、打ち勝つこともできると思ったのかもしれない。

当然、当時はそんな言葉遣いをしたことなどなかったけれど、今の言葉で表現するならば、そんなことを考えていたような気がする。

このような自己分析がどこまで当時の状況を描写できているかはわからないけれど、とにかく、今の僕にとって、世界や人生というものが持つ圧倒感は、とても好ましいもので、あえて目を向けたくなるものだ。このような態度と、僕の中の哲学的志向は密接に関わっていることは間違いない。僕にとって、圧倒されるような世界や人生について哲学的に考える時間は、自らを癒やしてくれる、とても大切なひとときであることは確かだ。

4 概念化

僕にとっての哲学がこのような経緯を有しているということが、僕の哲学のあり方を決定し、限界づけているように思う。

僕の哲学は、口裂け女や中学校の同級生といった具体的な恐怖を克服するためのものであった。口裂け女がいたとしても、何十億年後に太陽が膨張し、地球を飲み込むことを考えれば、そんなことは大した問題ではないし、同級生のいじめっ子との関係に悩むより、そもそも暴力が悪であるかどうかを論ずるほうが重要で生産的だ。当時の僕はそのように思っていたのだろうし、今もそう思う。

このようなものとしての僕の哲学は、つまり個別的で小さな物事を普遍的で大きな物事に置き換えていこうとする作業だと言ってもいいだろう。

また、この作業は概念化と呼ぶこともできる。だからこそ僕がやっていることは哲学と名付けることができるのだ。

僕は、世の中に既にある哲学書や哲学者の言葉から哲学を始めたのではない。それでも、僕がやっていることを哲学と言えるのは、僕がやっていることが概念に関する営みだからなのだろう。僕は、生物についての学問が生物学であるように、概念についての学問が哲学であると考えている。

当然、世間には概念化ばかりを目指さない哲学もある。(詳しくは知らないけれど)応用倫理学のように概念と現実の個別具体的な事象とを結びつけようとするような学問領域もある。だけど、それは僕にとっての哲学ではない。僕の哲学とは、そのような個別具体的な事象を消し去ろうとするものだ。まるで口裂け女やクラスのいじめっ子から逃げるように。だから世間の哲学ではなく、僕にとっての哲学においては、ひたすら概念化を目指すことこそが哲学の効用である。

ただし同時に、ひたすら概念化を目指すことが僕の哲学の限界でもあると思う。恐怖を逃れようとして、ひたすら概念化を目指すということは、別の角度から描写するなら、個別性を喪失し消し去ることを目指していると捉えることもできる。確かに僕の哲学においては、個別具体的なものはどこにもない。なぜなら、僕が目指していることがそうすることだからだ。個別具体的なものを敵視し、消し去ろうとしていること。これが僕の哲学の限界だ。

個別具体的なものを消し去り、焼け野原のような世界を作り出そうとするもの。これこそが概念化を目指す僕の哲学の正体なのだ。

5 個別具体的なもの

僕の哲学は、現在、個別具体的なものの扱い方で行き詰まっている。

僕は、アルキメデスの支点さえあれば、そこから錬金術のように、すべての構造を生み出すことができると考えている。そのようにして世界の構造全体について、その始原から説明することができると考えており、それを目指している。試行錯誤はしているけれど、多分、その試みは一定程度成功するだろう。

なぜなら、僕が目指す哲学者は熟練した職人のように様々なものを生み出すことができるはずだからだ。哲学とは概念化することであり、哲学の技の妙はその概念をどのように操作できるかにかかっていると僕は考えている。ガラス細工職人が熱したガラスを曲げたり伸ばしたりして様々な形を作り上げることができるように、哲学の技を磨けば概念から様々なものを作り出すことができるはずだ。その点で哲学者は科学者よりも職人に似ている。熟練した職人であれば、概念から様々な構造を生み出せるに違いない。僕はそんな職人を目指している。

だが最近気づいたが、問題は、構造を生み出すところではなく、その構造にどのように個別具体性を付与するのか、というところにあるのではないか。

熟練したガラス職人はガラスで本物と見間違えるような象を作り上げることさえできるだろう。しかし、それは生きた象ではなくガラスの象でしかない。

同じように、熟練した哲学者は、様々な構造を作り上げることができるだろう。哲学者は、なにもないところから、唯一の支点を起点として、時間や空間や善といった様々なものを作り上げることはできるだろう。しかしそれらはすべて概念であり、個別具体的なものとなにもつながらないガラス製の時空や倫理でしかない。

確かに、僕の哲学は、そのあり方からして、個別具体的なものにつながりようがない。個別具体的なものを拒否し、そこから逃げるようにして行っている哲学が、個別具体的なものを説明しようとするなど、自己矛盾でしかないのだろう。

僕は、行き詰まっている。

6 世間の哲学

僕が哲学に対して抱いている困惑は、多分ほとんど理解されないだろう。だけど、少しでも伝わるよう、世間の哲学と接続した説明に挑戦してみよう。

概念化という言葉を最も適切に表現しているのは、永井均の「ものごとの理解の基本形式」という言葉だろう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」がものごとを理解するうえでは必要不可欠であり、ものごとを理解するということを支えているのは、このような基本形式にある。それならば、目の前に座るネコについてネコとして理解するためには、そのネコが複数存在しうるネコという種類の一例であることを受け入れなければならない。

僕はこの永井の考えは正しいと思う。だけど、同じことをイヌについても言えるかどうか考えてみると、哲学的には問題が生じるように思う。

当然、ネコと同様にイヌについても、「目の前に座るイヌについてイヌとして理解するためには、そのイヌが複数存在しうるイヌという種類の一例であることを受け入れなければならない」と言うことはできる。

だが僕はここで疑問に思う。そもそもネコとイヌを置き換え可能なものとして同列に考えられるのは、既に「ものごとの理解の基本形式」があるからなのではないか。イヌもネコも動物という種類の一例だからこそ、「同じ」操作ができるのではないか。つまり、「ものごとの理解の基本形式」を適用するという操作のなかに、既に「ものごとの理解の基本形式」が入り込んでいるのではないか。「ものごとの理解の基本形式」を経由せずに直接的に「ものごとの理解の基本形式」を適用することは不可能なのではないか。これが僕の疑問だ。

同じ問題を別のかたちで指摘しよう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」という定義は、そもそも、個別具体的なものを拒否しているのではないか。なぜなら個別具体的なものは複数個存在することはありえないはずだからだ。あのネコとこのネコは全く違うから複数個などというかたちでは捉えられないということが個別具体的の意味のはずだ。それならば、「ものごとの理解の基本形式」により個別具体的なものを捉えることはできないことになる。これは大問題でないか。

つまり「ものごとの理解の基本形式」というアイディアが正当なものであることを認めるということは、個別具体的なものは理解できないということを認めるということである。

そして残念ながらそのとおりなのだ。

多分、永井はそのことを指摘するために、「ものごとの理解の基本形式」というアイディアを提示しているのだろう。そして、更に永井は「ものごとの理解の基本形式」に当てはまらないものとして〈私〉があると言うのだろう。

僕もそれを認めることはやぶさかではない。だがそのような例外はそう多くない。この例外を特異点と言い換えるならば、僕の見込みでは、そのような特異点はどのような哲学体系においても一つか二つしかない。その特異点は〈私〉、神、言語、身体などと呼ばれる。これらの特異点とはこの文章での僕の表現を用いるならば、アルキメデスの支点のことだ。一つ(または二つ)しかない支点から、どのように個別具体的なものを錬成できるというのだろうか。

僕の哲学はここで行き詰まっている。この行き詰まりは世間の哲学の行き詰まりでもあると思う。僕は世の哲学において、個別具体的なものを密輸入せずにこの問題を解決している例を知らない。

僕はこの問題を解決し、アルキメデスの支点から、豊穣で精緻な、この当たり前の世界を錬成し、説明しつくしたい。そして、恐れを抱かずにこの世界に安住したいと願っている。それは無理な願いなのだろうか。