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『現代思想』2021年1月号を読んで

1 はじめに

僕は入不二基義という哲学者のファンなので(この導入を使うのは何回目だろう?)、彼の対談が載っている『現代思想』の2021年1月号を買った。2021年のエッセイ書き初めということで、正月に読んだこの本について書くことにする。

正月はコロナでどこにも行かず、時間があったので、まず、楽しみにしていた入不二基義・上野修・近藤和敬の3人の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下『現実性とは』とする。)を読んだ。正月ボケの頭には面白かったけど難しかった。一つ一つの言っていることは理解できる箇所もあったのだけど、どうしてこのように話が展開するのかがよくわからなかったのだ。対談の流れにうまく乗れないというのだろうか。

対談を読み終え、せっかくなので、ぱらぱらと面白そうな文章を拾い読みしてみた。いくつも面白いものがあったが、特によかったのは、T・ガルシアの『概念の羅針盤 現代実在論の認識的方向と存在論的方向』(以下『羅針盤』とする。)だった。ただ面白かったというよりは、驚いたと言ったほうが正確だろう。

タイトルを見る限り、入不二たちの対談は現実論がテーマであるのに対し、ガルシアの文章は実在論がテーマであるのは明らかだ。だから多少は関連性があるのではと期待していたけれど、読んでみて、両者の議論の重なりに驚いた。それぞれ読み返してみると、両者が互いに理解を深め合う関係にあるとさえ言える。ガルシアの文章を読むことで、どうして入不二たちの対談がこのような展開になったのか少しわかり、また、入不二たちの対談を読むことで、ガルシアが何を問題としているのかがわかった気がする。

(僕はあまりこういう雑誌を読まないのでわからないのだけど、編集者の才覚によりこのような化学変化を起こすことができるのだろうか。それとも、偶然の一致が生じやすいほどに、ありがちな議論だということなのだろうか。)

ということで、これから、この二つの文章をつなげるかたちで論じていきたいが、僕は入不二ファンなので、どうしても入不二に肩入れしてしまうことになるだろう。あくまでガルシアの文章は入不二たちの対談の導入として使うことになるし、入不二の対談相手についても、あくまで入不二の引き立て役として扱う予定だ。特に近藤については、そのような側面が強くなるだろう。

だが、当然ながら、ガルシアと近藤の議論には独自の価値がある。そのことを示すためにも、この文章の最後では、彼らの議論を踏まえるかたちで入不二に対してツッコミを入れることも目指したいと思う。

なお、彼らの議論を用いるうえでは、本来、正確に引用すべきだろうが、文章の流れを優先したいという理由から、また僕なりの読解を共有したいという理由から、正確な引用はあまり行わず、彼らの議論を僕なりの言葉で表現し直すこととしたい。だから、以降の文章は、実際には彼らが言っていないことを言ってしまっている箇所も多いと思う。いずれもそれほど長くない文章なので、是非お読みください。

2 『羅針盤』の紹介

まず、ガルシアの『羅針盤』を紹介するところから始めよう。これは、かなり長々と紹介することになる。僕にとってはとても示唆に富む文章だったので、自分のための備忘録を兼ねて丁寧にまとめておきたいのだ。

なお、その後の展開も前もって示しておくと、第2章での『羅針盤』の紹介を踏まえ、第3章では『現実性とは』について論じていくことになる。

その方向は、ガルシアが重視している「存在論的実在論」を更に二つに分け、ひとつを近藤に、もうひとつを入不二に割り振ることとなる。そして、二人の違いを踏まえ、哲学と非哲学との接触点を「書くこと」に見出し、哲学とその外との関係についても考えていきたい。この議論を駆動するのは、ガルシアの「無関心」というキーワードである。

さて、話を進めよう。

ガルシアは『羅針盤』において、実在論をいくつかに分類し、わかりやすく整理している。その整理自体も非常に興味深かったけれど、より重要なのは、その整理を通じて、実在論とは何か、更には、実在とは何か、ということを明確化してくれたという点にあると思う。

ガルシアは実在論について次のように分類する。

①認識論的・名詞的実在論:例:近年の現象学

②認識論的・形容詞的実在論:例:クワインの弟子たち

③認識論的・副詞的実在論:例:ウィトゲンシュタイン

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④認識論的・逆説的実在論:例:ルイス、思弁的実在論

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⑤存在論的実在論:例:アレクシウス・マイノング

区切り線を入れたとおり、①~③は一連のものとして扱うことができ、④との間にはそれらと違いがあり、⑤との間には更に大きな違いがあるという関係にある。

過去の高名な哲学者の議論をこのように区分できるということ自体も示唆に富むものだが、重要なのは、それぞれの議論の種類によって、実在という語に込めるものが大きく異なるという点にある。更には、その異なり方にも、いわばレベルの違いがあるという点が非常に興味深い。

簡単にその異なり方について述べるならば、まず、①~③の議論の相違点は、実在と非実在の切り分け方にあると言えるだろう。そして、①~③と④の違いは、非実在を実在論から切り離そうとする前者と、非実在を可能性というかたちで取り込もうとする後者の違いだと言っていいと思う。また①~④と⑤の違いは、なんらかのかたちで実在と非実在の違いを重視する前者と、実在と非実在の違いを重視しない後者の違いだと言えるのではないか。

詳細はこれから述べるが、なんとなく、ここには実在と非実在とに関わる議論のレベルの違いとでもいうべきものがあることを感じていただけると嬉しい。

そのうえで、それぞれの違いの説明に移ろう。①~③の議論の相違点についてだが、まずガルシアは、認識論的実在論を大きく名詞的実在論・形容詞的実在論・副詞的実在論の3つに分ける。僕なりの説明になってしまうが、名詞的実在論は、名詞、つまりモノの実在を考察の対象とする。だから、例えば、目の前のペットボトルや、夢の中のドラゴンや、彼女を愛する気持ちといったものが実在するかどうか、といったことを検討することになる。

形容詞的実在論は、例えば、このペットボトルは実在的である、というとき、どのような基準でそれを実在的と扱うか、といったことを検討するものだと言えるだろう。だから認識論的実在論のように、ペットボトル自体が実在するかどうか、ではなく、ペットボトルが実在するかどうかを判断する私たちの、いわば心の内側にある基準が問題となる。(心の内側というのが非常に問題があるけれど、ここではわかりやすさを優先しています。)

副詞的実在論とは、またペットボトルの例を用いるなら、「このペットボトルを実在的に扱う。」というとき、私たちが、どのように扱うのかを問題とするものだと言えるだろう。そこでは実在に対する私たちの態度が問題となることになる。

以上の3つの論を並べてみると、名詞的実在論においては認識対象のモノ、形容詞的実在論においては認識の働きの基準、副詞的実在論においては認識における態度といった違いはあっても、そこには共通項がある。いずれも、認識における実在と非実在の切り分け方についての議論であるという点で、認識論的実在論という同じグループの一員であると捉えることができる。

以降の議論につなげるために指摘しておきたいのは、そこには、議論の順序があるという点である。多分、最も素朴な実在論は名詞的実在論である。ここがスタート地点となる。(と言っても現在の名詞的実在論が素朴だということではない。なぜなら名詞的実在論はその議論領域のなかで議論が深められ、精緻化するからだ。魚類、両生類、爬虫類と進化したからと言って、現在の魚がトカゲより進化の度合いが低いとは言わないのと同じことである。)

そこから、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と議論が進むにつれ、実在と非実在の切り分けの歯切れが悪くなっていくという傾向があるのがみてとれるだろう。名詞的実在論では、外的なモノを明確に切り分けられたが、形容詞的実在論では、それは内的な基準にすぎないものとなっていく。更に副詞的実在論においては、その違いは、実在に対する態度と非実在に対する態度の違いという、非常にわかりにくいものになってしまっている。

副詞的実在論での実在と非実在の切り分けのわかりにくさについてはもう少し言葉が必要だろう。副詞的実在論が持ち出す非実在に対する態度とはそもそもなんだろうか。少し考えただけでも、非実在に対してなんらかの態度をとるということ自体、かなりの困難であるように思える。非実在について、実在と全く関係ないことと強く捉えるならば、実在と全く関係ないものに対する態度を実在論的に有意義に議論することなどできないのではないだろうか。そう考えると、副詞的実在論とは、実在論の成立ぎりぎりのところにある、とても歯切れが悪い議論であると言えるだろう。

その歯切れの悪さを引き継ぐような立場にあるのが、④の逆説的実在論である。①~③の議論はやり方の違いはあっても、いずれも、実在と非実在とを区分しようとするものだった。なぜ、そのような区分け作業をするのかといえば、非実在を実在論から切り離し、追放することで、実在だけの世界を作ることが目的だからだといえるだろう。いわば、いずれの議論も純血の実在の王国を目指すものだったのだ。一方で、逆説的実在論とは、非実在を追放するのではなく、王国の構成員になるのを認めることで、融和により王国の統一を図ろうとするものだと言えるだろう。

非実在を取り込むために重要となるのが、可能性であり、ガルシアによれば「可能なもの」というアイディアだ。実在論において非実在を捉えるためには、非実在を思考し、認識しなければならない。ガルシアはそれを「実在的でないものを思考し認識する奇妙な実在論的様態」と呼ぶ。この奇妙なことを成し遂げるためには、非実在を「可能なもの」とし、実在と同等に扱わなければならない。

ガルシアは、その道筋をふたつ提案し、「かもしれない」という控えめな留保付きの述べ方ではあるが、一方をデイヴィッド・ルイスの可能世界論、もう一方を思弁的実在論と結びつける。

ルイスは、「可能なもの」について、可能世界という考え方を導入することにより、現実世界とほぼ同等の地位を与える。そのことにより、「可能なもの」に重みを付けて、実在と等しいものとして認識しようとする。

一方で、思弁的実在論は、実在するものの偶然性を強調することで、実在が持つ重みを割り引き、「可能なもの」と等しいものとして認識しようとする。

前者は、「可能なもの」を実在と同等まで引き上げようとする試みであり、後者は、実在を「可能なもの」と同等まで引き下げようとする試みであるという点で、鏡のように正反対の対となるアプローチと言えるだろう。

こうしてついに、逆説的実在論において、実在と非実在の区分の歯切れの悪さは、積極的な区分の放棄というところまで進むことになる。

だがそれでも、実在と非実在を切り離そうとするか、取り込もうとするかの違いはあっても、両者の違いは重視されていた。

その違いの重視すらも放棄するのが、⑤の存在論的実在論である。ガルシアは①~④を、いずれも認識論的実在論としたが、なぜ「認識」論なのかといえば、実在と非実在の違いを認識することを目指すという点で共通点があるからだろう。認識の仕方や認識したものの取り扱いには違いはあっても、いずれの議論も実在と非実在の違いを認識することを重視するという共通点がある。

一方で、存在論的実在論とは、認識という言葉が含まれていないという点に示されているように、実在と非実在の違いを認識することを重視しない。認識論的実在論のある側面での最終形とも言える④逆説的実在論においては、実在と非実在を同等に扱おうとするベクトルが働いてはいても、そこには実在と非実在とを異なるものとして認識し、それぞれに別種の操作を加えることができることを前提としていた。だが、存在論的実在論においては、実在と非実在の間にある違いを認識することすらも放棄するものなのだ。

いや、ここで「放棄」という言葉を使ったのは不適切かもしれない。ガルシアは、それを「無関心」と表現している。

『羅針盤』において「無関心」は重要なキーワードである。彼によれば、①~④の認識論的実在論を駆動するのは「主体に対する無関心、認識するものに対する認識されたものの無関心」である。ガルシアは無関心が認識論的実在論を論ずる動機につながる経路を、見返りを求めない愛を比喩として用いることで説明している。つまり、私たちがペットボトルの実在について論じたくなるのは、いわばペットボトルを一方的に愛しているからなのだ。認識論的実在論とは、決して振り向いてくれない、そっけないペットボトルへの片想いのことなのだ。

そのように言うと違和感があるかもしれないが、私たちがペットボトルの実在について論ずるのは、私たちが考察の主体であり、ペットボトルが考察の対象だから、とすることには同意いただけるのではないだろうか。決して、ペットボトルという客体が、客体のままに私たち主体を考察してくれることはない。

そこには主体と対象の非対称性がある。この非対称性を比喩的に無償の愛や片想いと表現することはそうおかしいことではないだろう。主体は認識の対象に関心を持たざるを得ない。なぜならそれが認識ということだからだ。一方で、対象は主体に対して無関心であらざるを得ない。なぜならそれが認識ということであり、もし対象が主体に関心を持ってしまったら、ペットボトルが主体で、私たちが対象ということになってしまうからだ。その非対称性を、ガルシアは見返りを求めない愛も用いて、無関心という言葉により指し示そうとしている。

この「無関心」とは、①~④の認識論的実在論においては非対称性のなかに位置づけられるものだったが、⑤の存在論的実在論においては拡張され、「無関心」が全面化していく。それをガルシアは「主体に対して認識の対象が無関心であることではもはやなく、対象と主体のあいだの無関心なのである。」と表現する。

認識論的実在論における無関心は、対象から主体に対する一方的なものであり、主体から対象に対する関心は、無償の愛に喩えられるように前提とされていた。しかし存在論的実在論においては、主体から対象に対する関心さえも失われ、双方向的な無関心という状況が現出することとなる。

ここには、主体から対象へという視点の切り替えがあり、この切り替えは、存在論的な転回とさえ言うことができるものだろう。

僕はこの転回に着目し、更に論じていきたいのだけど、先を急がずに、まずは、存在論的実在論とは何かという点について説明しておくべきだろう。

ガルシアは存在論的実在論について「対象それ自体の存在様態として(の)実在論」とする。そして「現実存在する対象よりも多くの対象が存在する」と論ずるものだとする。つまり存在論的実在論においては、主体が認識する対象よりも、より多くの対象が存在するということにある。これは、主体から対象に視点が移され、対象それ自体の視点から対象それ自体の存在について捉えようとすることからの当然の帰結だろう。主体の認識から解き放たれたならば、対象が主体の認識とちょうど同じだけしか存在しないとする理由はなくなる。対象は主体の認識をはみ出しているのだ。ガルシアによれば、マイノングはそれを「超存在」と呼ぶ。そして、マイノングは「そうした対象はそれぞれが、完全であれ不完全であれ、可能であれ不可能であれ、具体的であれ抽象的であれ、実在であれ非実在であれ、そのように存在する実在的な様態をもっている。」とする。

このようなマイノングの考え方はとても興味深いものだが尖りすぎているように思う。僕自身はこのような議論の方向が魅力的だと思っており、後ほどあらためて取り上げたいが、とりあえず存在論的実在論というもののイメージを捉えるには少々常識から離れすぎていて理解し難いように思う。存在論的実在論のとりあえずの理解のためには、ガルシアの別の表現を引用したほうがいいだろう。それは「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」という箇所である。つまり、存在論的実在論とは、主体としての人間を、動植物など生物全般のなかに同等のものとして再配置しようとするものである、ということになる。そこでは、人間にはもはや主体としての特権はなく、主体として対象に関心を持つという特別な地位に立つことはなくなる。このように描写される存在論的実在論においては、無関心の全面化により認識主体と対象という区分自体が無効化され、私たち人間を含む全てがただ平等に存在することになる。後ほど論ずるように、僕はこのような捉え方には問題が含まれていると考えるが、少なくとも、存在論的実在論の近似値を指し示すためには、十分にわかりやすい描写ではないかと思う。

ガルシアの『羅針盤』の議論を紹介するにあたって、最後に留意を促したいのは、認識論実在論から存在論的実在論に転回するにあたり、実在という語の意味も大きく変わっているということである。認識論的実在論においては、認識されるものだけが実在だが、一方で、存在論的実在論においては、認識されないものも実在である。つまり、実在という言葉が表すものは、明らかに前者よりも後者のほうが広い。認識論実在論から存在論的実在論への転回とは、実在の捉え方の違いに留まるものではなく、実在という語の適用範囲の拡張でもあるのだ。

以上、ガルシアの『羅針盤』の議論について、今後の議論に必要な範囲で抽出し、僕なりにわかりやすく紹介してみたつもりだ。ここから、更に議論を深めていきたいが、それは『羅針盤』単独で行うのではなく、入不二・上野・近藤の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下、『現実性とは』とする。)と絡めつつ行っていきたい。

3 『羅針盤』も踏まえた『現実性とは』の議論の考察

ここからは、『現実性とは』について、議論の論理的な流れはあまり気にせず、対談で出てきた話題の順序に沿って考察していきたい。

そこでは、先ほど紹介した『羅針盤』と絡めることもあるし、絡めないこともある、ということになるだろう。

(1)行って帰ってくる

対談の最初の方において、近藤は、哲学のあり方の問題として、「行って帰ってくる」という思考の運動のかたちを問題とする。これを僕は、「哲学とは、どんなに知的冒険をし、とんでもないところに議論が進んだとしても、そこから既知の日常に戻ってくることを目指すべきである。」という主張だと理解した。少なくともある側面では当然だろう。どんなに壮大な知的構造物をつくりあげたとしても、それが日常と乖離していたら説得力がない。

そのうえで近藤は、入不二は帰れていないのではないか、と問題提起をしている。更には、帰れているのは歴代の大哲学者のなかでもスピノザだけなのではないかとさえ言っている。(これに対して、上野が、そもそもスピノザは行って帰るのではなく、向こうから出発している、と応じているのが面白い。)

ここで注目したいのが、「帰ってくる」ことについての入不二と近藤の違いである。

まず入不二の立場について。擬製的創造の議論(擬製的創造については後ほど取り上げる)のなかで、対立するプラトニズム的創造との議論の対立により、両方の議論自体が抹消されるという話が出てくる。これに絡めて、入不二は「両方がいっぺんに消えることが「戻ってきたという徴表」だとすれば、私は実はもう戻ってきているのかもしれません。」と言う。確かに入不二は『現実性の問題』において抹消の作業を随所で行っている。最も鮮やかな例が、「ソクラテスは哲学者である。」という文から「現にソクラテスは哲学者である。」へと進んだうえで、更に「現に」を消去し、「ソクラテスは哲学者である。」へと至っている箇所だと思う。(第3章)

一方で近藤は、戻ってきているとするためには抹消だけではなく、なんらかの条件を満たす必要があるとする。その条件とは、僕の理解では、哲学を始めかた、つまり哲学の動機であり、哲学において目指すもののことである。近藤は、近藤にとっての条件を「私が人間以外のものの一部になる」ことだとする。つまり、近藤にとっての哲学とは、「私が人間以外のものの一部」として位置づけられるような結論となる考察を行うということであり、そうでない議論は、十分に戻ってきていないということになる。

僕はここに、重大な哲学観の違いを読みとる。僕は入不二ファンなので、はっきり言えば、近藤の主張は哲学ではなくて思想だと思う。もし、ある考察が、ゴールを定めて行われているのであれば、その考察とは、ゴールとして設定されている主張を行うための手段となってしまう。それは哲学ではなく思想と呼ばれるべきものではないだろうか。真の哲学とは、そのような手段として用いられるものではなく、ただ考察自体を目的として行うべきものなのではないだろうか。なぜなら、設定されているゴール、例えば、近藤の「私が人間以外のものの一部になる」とは、その議論においては決して侵すことのできない聖域であり、もしそれを侵そうとする主張があったならば、それは、この議論の目的に合致しないという理由から却下されるしかないからだ。このように聖域を確保したうえでなされる議論を、僕は哲学とは呼びたくない。

この方向で突き進むならば、実は、日常に「帰ってくる」という目標設定さえも哲学にとっては夾雑物だということになる。よくできた哲学とは「帰ってくるつもりもなかったけれど、帰ってきてしまった」というあり方をするべきものなのかもしれない。僕は詳しくないけれど、もしスピノザの哲学がよくできたものならば、それは、スピノザの議論が、無理やり帰ってこようとはしておらず、ただ帰ってきてしまったようにしか見えないからなのではないか。(ただし、上野の「うまくいけばいい」という言葉を踏まえると、スピノザも日常に戻ってくることを目指していて、そのように意図的に議論を構成していたように思える。)

僕はこの「帰ってきてしまった」というあり方に、『羅針盤』でのキーワードであった「無関心」と同種のものを感じる。また、入不二の『現実性の問題』における「ケセラセラの運命論」とつながるものを感じる。これらに共通する「力み」のなさにこそ、哲学の羅針盤があるように思える。

(2)円環モデルのギャップ

ここまで僕は近藤を貶めるように扱ってしまったが、僕は近藤の『〈内在〉の哲学試論』を読んでいないので彼の哲学の中身を知らない。だが、少なくとも、対談を読む限り、とても興味深い方だと思う。

例えば、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げないであろうという(ことになる)とは言うことができますが、次に泳ごうとして泳げたとき、そのあいだに何があったかということに関しては私の図式だと何も言えません。」、「常に、何が起こっても驚かなければいけないし、何が起こっても驚いてはならない」といった表現がある。これは、入不二の円環モデルの始発点のところにあるギャップを表現するものとして、入不二自身が言っていてもおかしくない表現だと思うし、とにかく格好いい表現だと思う。

(3)擬製的創造

入不二ファンの僕にとって、この対談のひとつの山場は、近藤の擬製的創造の入不二の扱いだった。入不二は他の哲学者の議論を自らの土俵に取り込み、拡張していくのが上手い。当然、もともとの議論が良い素材だからこそなのだが、僕はやはり、入不二の鮮やかな包丁さばきを見るのが好きなのだ。

入不二は擬製的創造の構図のなかに、二つの「ある」と二つの「なる」を見出す。「ある」と「なる」と言えば、入不二が運命論について論じた『あるようにあり、なるようになる』の題名にもなっているとおり、入不二の重要概念である。「ある」の無時間的な現実論と、「なる」の時間論とが織られるようにして運命論が駆動していくというのが、僕が理解する限りの入不二の運命論の概要である。

だから当然、入不二は、擬製的創造の構図と自身の運命論とは繋がっていると考えているはずなのだが、この対談ではそこまでは示されていない。だから入不二が述べるだろうと思われることについて、僕なりの理解を備忘録的に残しておくこととする。

僕の理解では、擬製的創造の構図のうち、現在の「ある」は遍在する現実の力により、無時制的な「ある」と接続する。なぜなら、「もともとそうであった」も「これからもそうである」も潜在的には「ある」からだ。しかし、この接続は円環モデルの始発点にあるギャップを越えなければいけない。

その困難を可能にするのが「なる」の垂直的生成である。決してなるはずがないことになるのだから、これはいわば創造と言ってもいいだろう。更には、それが波及するようにして、過去・現在・未来という時制間の水平的生成としての「なる」も立ち現れる。この創造の不思議を近藤は、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げない」はずなのに、なぜか次に泳げてしまうという驚きに喩えたのだろう。このような創造は決して起こるはずがないのに、なぜか日常的に起こっているという驚きである。

その鏡像関係のようにプラトニズム的生成がある。そこではイデア的な無時制的な永遠の実在としての「ある」が転落し、現在の「ある」として立ち表れることになる。これは現実論的には転落ではあるが、一方で、過去・現在・未来という時制の生成でもあるとも言える。

そのように捉えるならば、擬製的創造とプラトニズム的生成を組み合わせて、入不二の円環モデルを描くこともできるだろう。始発点としてのイデア的な実在が転落し、過去・現在・未来の3時制が生じる。更には各時点での過去・現在・未来が生じるというかたちで時制が豊穣化していく。ここまでが円環モデルの右半分にあたる。しかし、やがて豊穣化には限界が来る。なぜなら時制は豊穣化する一方で、現に手元にある現在がどんどん痩せ細っていってしまうからだ。それを取り戻そうとするのが、「そうである」を持続的現在と捉えることで、無時制的な「そうである」に繋げようとする近藤の擬製的創造というアイディアである。これは円環モデルを時計に喩えるならば6時のところで行われる転回であり、この転回により実在は時制的な分断から回復され、潜在的なものとして位置づけられていくことになる。これが円環モデルの左半分となる。

だから、入不二は「擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)の両方がいっぺんに消されるかたちで「ということになる」が抹消される水準もあるのではないか」とするが、僕の考えでは、その抹消は「いっぺんに」行うものではなく、円環モデルを丁寧にたどるようにして行うものであるように思う。

だから抹消された先にある祈りとは、突き詰めれば「現実性の力」のことなのだろうと思う。だが、入不二は、祈りは行為であり、内容があり、時制があるとしていることから、力そのものではないとも言えそうだ。「これ」や〈私〉が特異点であるように、「祈り」も完全な抹消の際(きわ)で垣間見ることができる特異点のひとつなのかもしれない。

(4)入不二の視点問題のエレガントな解決

特異点というつながりでは、上野の「じゃあ今あなたはどこから語っているんだ」という問いに対して、特異点を持ち出すという入不二の答え方はとてもエレガントだと思った。僕の勝手な解釈だと、これは、「上野さん、その問いを有効に成立させるための足がかり(投錨地点)としての上野さん自身=「この私」こそが既に現実論上の特異点なのだから、現実性の力に巻き込まれるようにしてしか、現実論を語ることはできないんですよ。」と答えていることになる。

以前、森岡からの「この現実はどこから語られているか。」という似た質問に対して「いや、どこからでもない」「あえて変な表現で言うならば~現実自身が現実を語っている」と答えていたけれど、それよりもいいと感じた。(『運命論を哲学する』)

森岡に対する回答は、現実自身をスタートに置くかたちになっていて、いわば外から現実を捉えたような回答だったけれど、上野に対する回答は、現実の内側から、特異点を通じて透かし見るようにしか現実論を語ることはできないという点が強調されているという点で、より正確なものだと思う。

(5)いわゆる存在論的実在論と、真の存在論的実在論

この章が『羅針盤』と『現実性とは』とを最も絡めたかったところだ。

最初に『現実性とは』を読んだ時、僕は、どこで入不二と近藤の議論がすれ違っているのかがわからなかった。例えば、上野が「近藤さんのドゥルーズ論で引っかかるのは、その思想を自然科学と捉えているところです。」と述べているのが、なぜここで、このような問題を持ち出すのかがわからなかった。

そのとき僕には、入不二は近藤をよく理解しており、近藤も入不二をよく理解しているように思えた。入不二ファンとしては入不二が近藤を理解しているのは当然として(笑)、近藤も入不二を明らかに理解していると思ったのだ。例えば近藤は、実在には事象内容性が伴っていて不十分だから実在性から現実性に向かうべきという入不二の提案に対して、「実在が事象性と一致するようにはわたしは考えていません。」と答えている。これは明らかに、入不二が現実論のなかで見出した潜在性(潜在性は事象内容性と離れていくベクトルを有していることが特徴である)を、近藤は実在に含めることができると応答していることになる。もしそうならば、事象(内容)性と潜在性を合わせたものを現実性と呼ぶか実在性と呼ぶかという名付け方の違いがあるだけで、少なくともここでのやりとりの限りでは両者の議論は一致することになる。一致する二人が何を問題としているのか僕はわからなかったのだ。

だが、『羅針盤』を読んで少しわかった気がする。先ほどひととおり紹介したとおり、『羅針盤』によれば、実在論をある観点から捉えるならば、名詞的・形容詞的・副詞的・逆説的と認識論的実在論の議論がせり上がっていった先に存在論的実在論があるといえるだろう。認識論的実在論においては、実在と非実在の違いについて、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と進むにつれ、徐々に歯切れが悪くなっていきつつも、なんらかのかたちで関与を保っていた。逆説的実在論に至っても実在と非実在を同視する方向に向かいつつも、それはあくまで違うことを出発点としたうえで違うものを同視するという議論だった。だがついに存在論的実在論において、実在と非実在の違い自体に目を向けない地点に到達する。

僕が入不二と近藤の違いがわからなかったのは、二人とも、(当然、上野も含めた三人とも、)存在論的実在論をしっかりと捉えているという点では違いがないからだったのだ。

そして、それでも二人に違いがあるのは、存在論的実在論にも少なくとも二種類あるということを意味している。その違いがわからないから『現実性とは』の対談が理解できなかったのであり、また『羅針盤』でガルシアが言っていることが腑に落ちなかったのだろう。僕の読解では、『現実性とは』でも『羅針盤』でも、この問題は明確に表現されていない。少なくとも僕にとっては、この問題は両者を参照し合うようにすることで、ようやく理解できるようなものだった。

では、この問題、つまり、存在論的実在論のなかにある二つの議論の違いとは何か、について、『羅針盤』を起点として考えてみよう。

僕が『羅針盤』を読んでいてわからなかったのは、存在論的実在論の中身である。ガルシアは存在論的実在論を説明するうえで、マイノングの超存在、デランダのフラット存在論、スーリオ、ラトゥールらによる質化する存在論としての存在様態の理論、(ガルシア自身の捉え方である?)鷹揚な存在論といったものを持ち出す。いずれの人名も『羅針盤』ではじめて知ったものなので、その限りでの理解となるが、僕にはそれらが同じものを指し示しているようには思えなかった。確かにそこには、主体から対象へという視点の転回という共通項がある。だが、例えば、不完全や不可能や非実在さえも、そのような存在として捉えようとするマイノングと、「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」というガルシアの描写との間には大きな隔たりがあるように思える。前者は尖っていて興味深いが理解し難い。一方で後者はイメージしやすいが何かを捉え損なっているように思える。当初、僕にはその違いが何を意味するのかがわからなかった。

そこで理解の助けとなったのが、『現実性とは』での入不二の自然と非自然の違いについての指摘だった。入不二は、近藤との違いを明確にするにあたり、「物理的な自然だけでなく、内在平面からカオスまで含めたすべてを自然と考え」られるとしたうえで「現実性は自然の力ではなく非自然(形而上)の力」であるとする。つまり、近藤の現実は自然の段階に留まっているが、入不二の現実性は形而上にまで突き抜けている、と言っていることになる。

この指摘を踏まえるならば、ガルシア=近藤の自然派と、マイノング=入不二の形而上派の対立が見いだされるということになる。ガルシアは、意図的かどうかわからないけれど、この両者を混淆させて語っていたためにわかりにくく、そこに実は違いがあったからこそ、入不二と近藤は対立していたのだ。

僕は入不二ファンなので、ガルシア=近藤の自然派を、わかりやすいが実在を捉えきれていないという点で「いわゆる存在論的実在論」と呼び、マイノング=入不二の形而上派を「真の存在論的実在論」だとしたい。だが後述するように、僕自身、そのように単純に優劣をつけたような評価できないとは考えている。

(6)閉塞感と開放感

上野は入不二の議論について閉塞感があると指摘する。(後ほど撤回するけれど。)なぜならば「現実には外がない」からだ。これに対して入不二は逆に開放感があると応じる。なぜならば閉じ込めるための壁や境界などありえないのだから。僕はこの対比は重要だと思う。確かに入不二の議論は閉塞感と開放感が同居している。

端的にまとめるならば、入不二の議論は一見閉塞感があるけれど、よく味わうと、そこに開放感が生じてくるようなものだと思う。外側から見たときと、内側から見たときとで景色が違うと言っていいだろう。あまりよい比喩ではないが、F1でレーシングカーがサーキットでレースをしているのを見て、あまり知らない人は、同じところをグルグル回って飽きないのかね、なんて思うかもしれない。だけどファンにとっては、そうでなければF1ではないのだから、そもそも楽しくもなんともない。そのような視点の違いがあるように思う。

ただし入不二の議論とF1で異なるのは、入不二の議論が、外側などないと主張しているという点だ。サーキットには外があるけれど現実性には外がない。いや、F1においても狂信的なファンならば、サーキットの外なんてないと言うかもしれない。それならばF1と入不二の議論は重なることになる。(その方向に進んでいるのが『キリギリスの哲学』だと思う。)

とにかく重要なのは、入不二の『現実性の問題』での議論が内側からの議論であるという点である。(『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外側から運命論を描写しようとしていたように思う。)

なお、内側・外側という視点の違いに留意するならば、上野が持ち出すスピノザの永遠の問いに対する入不二の答えも予想できるように思う。

完全に内側から捉えるならば、確かにスピノザの言うとおり、ひとつながりの永遠の現在しかない。だが特異点に視点を向けることで、外部が垣間見え、時制の一つとしての今が見えてくる。私たちは現にそのような日常を生きている。だが、更に注意深く特異点を見つめ、特異点を通して、あたかも外側から全体を捉えようとするならば、再度、そこには現実性の力そのものとしての神が垣間見えてくる。だが、それはあくまでも垣間見えるのみであり、そのように捉えきることはできない。

(7)非哲学

僕は入不二ファンなので、ここまで、どうしても入不二対近藤の勝負を、入不二優勢と判定してきた。しかし、僕が近藤の入不二に対する有効打だと思うのが、ドゥルーズの「非哲学」を持ち出すところだ。

僕なりに解釈すると、近藤は、入不二の「(哲学は、始めも終わりもないというかたちで)始めから終わっている」という主張に対して、非哲学を持ち出すことで反論している。確かに哲学単独ではすでに終わっているかもしれない。だけど、哲学の外、つまり非哲学という外部を考慮するならば、哲学には非哲学に対する関与という未来があるはずだ。近藤はそう言っているように思う。

確かに、哲学と非哲学にはある種の関係性が生じてしまう。哲学と非哲学は定義上無関係のはずだが、無関係というかたちで関係せざるを得ない。それはほぼ入不二の議論をなぞるものであり、入不二も同意するはずだ。更に時間論も導入するならば、無関係で「ある」哲学と非哲学が、時間経過により、なぜか関係することに「なる」のでなければならない。それがギャップの飛躍という謎だからだ。これも入不二は同意するだろう。そのうえで、入不二ならば、非哲学の領域にも現実性の力は遍在しているとするだろう。なぜなら、そのような遍在性こそが現実の力なのだから。

しかし、非哲学の側からは、そのような哲学的な言説は非哲学には届かないと反論するはずだ。なぜなら、それこそが非哲学なのだから。そのようにして、非哲学はどこまでも哲学から逃れようとする構造を有している。つまり、ここには入不二的なシーソー関係が現出している。近藤が持ち出す「非哲学」という視点には、少なくとも、入不二との勝負をドローに見えるところにまで持っていくポテンシャルがあるように思う。

そのように解釈するならば、近藤のその他の主張についても、入不二への有効打になるように思えてくる。例えば、「行って帰ってくる」の議論のなかで、近藤は、哲学の動機や目的のようなものを持ち出し、そこに帰ってくることが必要だとした。僕はこれを思想に過ぎないと却下したが、これは非哲学との接続の試みだとするならば、見える景色が変わってくる。もしかしたら、僕は哲学の理想を「力み」のなさに見出したけれど、それも無色透明な哲学こそがよいものだという、いわば哲学の思想のひとつに過ぎないのかもしれない。哲学は思想からは逃れられないということになる。

(8)書くということ 動詞的実在論

哲学と非哲学との接点として僕がイメージするのは、哲学的な文章とは非哲学の日常のなかで書かれるものである、ということである。僕は今、ご飯を食べたり、ネコと遊んだりという非哲学的な日常のなかで哲学の文章を書いている。そこでは、文章を書くという行為は日常の一コマとしての出来事であるはずなのに、哲学的な文章を書くという行為にいったん視点を移すと、非哲学的な日常さえも哲学的な考察の対象のひとつとなっていく。書くという行為にはこのような不思議な魅力がある。

この話につながると思うのが、『羅針盤』においてガルシアが導入した「動詞的実在論」という考え方である。彼は「実在化するとは、実在に気づき、実在を説明し、実在にするということである。」と言う。つまり、思考されたものこそが実在するのだと言っていいだろう。更には、思考することと書くことを同一視するならば、書かれたものこそが実在するのだとさえ言っていいと思う。

なお、念のためだが、このガルシアの考えは、強く願えば「思考は現実化する」というようなどこかのビジネス書にあるようなものを指しているのではない。ガルシアは、思考することや書くことに何らかの力があるとさえ考えていないだろう。きっと動詞的実在論のアイディアの根底にあるのは、なんにせよ、思考されたものは、思考されたというかたちで実在していると捉えることができるという事実に違いない。どんなにありそうのないことでも、例えば、飛行機の部品を並べておいたら、ちょうど台風が来て、偶然にも寸分の狂いなくジェット旅客機が組み立てられるかもしれない、というようなことでも、それは、そのように言及されたから、実在するのである。(これが可能的に実在するということである。)

入不二もこのようなただ思考し、書かれただけの仮定の現実性を否定することはないだろう。このような仮定についても、現に仮定されているというかたちで現実性は流れ込んでいると言うだろうし、このような突拍子もない可能性についても、台風や飛行機の部品が有する潜在性として取り扱うことができるだろう。

そのように考えると、思考すること、または僕の言い方ならば書くことには、実在を論ずるうえで特別な意味がありそうだ。

ここで疑問に思う。それならば、もし思考せず、書かなかったら実在しないのだろうか。ガルシアは実在しないと考えているように思える。それは「実在にする」というような表現に現れている。また近藤も、具体的な言及はないが、同様に考えているように思う。なぜなら、彼は、哲学と非哲学を峻別し、「未来形式」というかたちで、将来的に哲学が非哲学にアクセスする可能性を見出しているからだ。未来において哲学が新たに非哲学に関わるということは、つまりは哲学的な思考をすることや哲学的な文章を書くこと自体に、新たな対象にアクセスする力があるということになるはずだからだ。

一方で、入不二はそうは考えないだろう。思考してもしなくても、書かれても書かれなくても、そのようなものとして現実はただそのようにしてあるし、なるようになる。だからこそ、哲学は始めから終わっている。

それは入不二自身の思考や執筆活動にも及ぶはずだ。入不二が本など書かなくても、『現実性の問題』で描写されたような現実性の力は現にある。そのような本として『現実性の問題』は書かれているのだろう。

ここにおいて、ガルシアが指摘した無関心はついに、哲学することへの無関心にまで拡大しているように思う。無関心だからこそ、軽快に「力み」なく哲学ができるのかもしれない。入不二自身がそのような態度にあるかどうかはわからないが、『現実性の問題』はそのような態度で書かれたものとして読まれるべきものだと思う。

だがそれでは話は終わらない。哲学をそのように捉えることは、一方で、その裏にあるはずの、達観せず、哲学を駆動する野生児・近藤のような哲学の重要さも浮かび上がらせるように思うからだ。哲学とは、非哲学と関係する何らかの動機と目的をもって、いわば哲学の思想を持って取り組むべきものだという強い決意があるということになる。それが入不二の哲学の哲学に対置されるだろう、思想の哲学であり、非哲学のなかでの哲学である。

(9)実在の質

最後に、ガルシアの側からの入不二への反撃の橋頭堡となるかもしれないと僕が考えるものを紹介したい。

ガルシアは「存在を量化するのではなく質化する存在論」を提案する。その考えは「様々な存在様態は、けっして互いに還元可能ではなく、またある一つの同一的存在の異なる質なのでもない。」と示される。

僕はこの文章しか読んでいないので、それが実はどのような主張かは想像するしかないが、この考えを極端に推し進めるならば次のように言えると思う。

「机の上のペットボトルと、その横にあるコップとは、モノという同じ種類のものではなく、あくまでペットボトルとコップという別のものである。現在のペットボトルと1秒後のペットボトルとは、同じペットボトルではなく、現在のペットボトルと1秒後のペットボトルという全く別のものである。さきほどのペットボトルとコップを別のものと捉える思考と、それを思い出している現在の思考とは同種の思考ではなく、全く別のものである。そもそも、ここで何回も登場した思考や存在という語さえも、それは同じ語ではなく、全く別のものである。」

このような極端な議論を仮に「超・質化存在論」とするならば、それは入不二の現実論への有効な反論になるはずだ。なぜなら、この議論は、現実論にせよなんにせよ、議論というものが有効に成立することを否定するものだからだ。

このような議論は否定のためだけのものであり価値がないと否定することはできない。なぜなら、この極端な議論は、全く何も生み出さない訳ではないからだ。ここには、このような議論を通じてしか指し示せないものがあると僕には思える。ここでは、哲学するということすらも抹消することでしか指し示せない、現実というものを暗に指し示すことに成功しているとも言えると思う。

これは、全てを語り切ることで哲学を消去し、それにより現実を指し示そうとする入不二のアプローチに対になるような、全く語り始めないことで現実を指し示そうとする、もうひとつの方向性だと言ってもいいように思う。

4 おまけ 質と量 ギャルの戦略

これで、『現実性とは』と『羅針盤』を読んで考えたことの備忘録は終わるが、もうひとつ『現代思想』のなかには印象深かったものがある。

それは『加工された自己イメージの「自分らしさ」』だ。これは、渋谷のギャルのプリクラ文化に始まる、日本の女の子の自撮りの歴史についての話なのだか、とても面白かったのだ。

久保は自撮りの歴史を「自分らしさ」というキーワードで紐解いていく。そして次のようにまとめる。

彼女たちの言う「自分らしさ」とは、他者に対する「自分らしさ」であった。具体的には二段階で成り立ち、一段目は、「社会」に対する、自分が属す集団の「自分らしさ」、二段目は、自分が属す集団内の他者に対する、個人の「自分らしさ」である。

この図式をあてはめると、例えば昔の渋谷のギャルは、ガングロメイクをしてプリクラにかっこよく映るという価値観を追求し、周囲から差別化することで、ギャル集団としての「自分らしさ」とした。更にはギャル集団のなかで、よりガングロメイクがうまくできるようになることで個人の「自分らしさ」とした、ということになる。その構図が時代の移り変わりとともに、プリクラから写メのブログ、写メのブログからインスタへ、という自撮り文化の移り変わりのなかで反復されていったのだ。

興味深かったのは、まず集団として質的に差別化し、そのうえで集団のなかで(順位をつけるというかたちで、いわば)量的に差別化するという戦略をとっているという分析である。確かにこれは理にかなっているように思う。

ギャル的戦略をとらない生き方としては、例えば、ただ金持ちになりたい、とか、ただ出世して偉くなりたい、という生き方がある。これらは、ただ、量的差別化だけに頼っている生き方だと言ってもいいだろう。金持ちになるとか出世するといった一般的な価値観をそのままに受け入れ、いわばレッドオーシャンで量の競争を強いられている。このような生き方では、いくら金持ちになっても、いくら出世しても、上には上がいて、なかなか満足できなくなる。更には、なぜ金持ちになりたいのか、なぜ出世したいのかと疑問を持ってしまったら、人生の価値さえも否定することになりかねない。

一方で、ギャルの戦略をとれば、競争する人数を絞ることができるし、そのような生き方をする理由についても疑問を感じることはない。なぜなら、ギャルは、どこかの時点で、ギャルとして生きることを意識的に選択したはずだからだ。どうしてかっこいいギャルになりたいのかと問われたら、自分で決めたから、と答えればいい。そして、もしいつかギャルとして生きることに疑問を感じたなら、その時点でギャルを辞めさえすればいい。それは自己否定ではなく、単なるギャルの卒業である。

このように推奨されるべき生き方としてギャル的戦略を取り上げたが、もうひとつの推奨されるべき生き方としては、全く順位付けのような量的差異に関心を持たないような生き方がありうるだろう。ただ人とは質的に異なる生き方をするという戦略である。これを世俗的に表現するならば、「世界に一つだけの花」戦略ということになるだろう。

だが、全く比較しないで生きることは難しい。だからこそ簡単に「世界に一つだけの花」と歌われることはどこか嘘くさくて不穏なのだし、その困難の克服を目指すためにこそ仏教があるとも言えそうだ。

また、この量的差異の比較という観点はとても根深く、哲学のなかでも見いだされる。この文章に関係するところで例示するならば、そもそも、実在と非実在を区分するという考え方が実在と非実在の間で順位付けをしようとするものだと言える。

それでも、時々、量的差異のしがらみにとらわれずに生きているように見える人がいる。(その人の実際の内面は知らないけれど。)そのような人は、たいてい、無関心で無頓着に見える。(みうらじゅん先生とか。)

この無関心こそが『羅針盤』でガルシアがキーワードとした無関心であり、入不二のケセラセラの運命論などに感じる力みのなさであり、入不二が開放感としたもののような気がする。ギャルがガングロメイクにより一定程度まで「自分らしさ」を確保することに成功できたのも、周囲の目への無関心だったと言えるだろう。

僕も、極力、無関心を目指しつつも、せめてギャル的戦略をとり、哲学により質的差異を確保したうえで、哲学集団ののなかで、哲学の順位付けを目指すような生き方をしていきたいと思った。

形而上学の素描 肯定主義、言語の規則、真のクオリア

1 導入

(1)入不二の肯定主義

先日、僕は入不二基義の『現実性の問題』についての文章を書いた。(http://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

そこでは色々なことを書いているけれど、ここで改めて取り上げたいのは「肯定主義」だ。肯定主義とは、入不二によれば、「肯定を否定に対して非対称的に優位に置く」( p.331 )考え方である。僕は、この肯定主義が入不二の議論全体を駆動していると考えている。

肯定主義は強力だ。肯定主義に基づくからこそ、入不二は多分、史上初めて「潜在性」という概念を見出すことができたのだ。

潜在性というアイディアの新しさを伝えるためには、すべてが潜在している状況を思い浮かべるのがいいのかもしれない。すべてが潜在しているということは、そこには目に留まるものが何もないということだ。例えば、部屋の中の物がすべて潜在している状況として、入居前のアパートの一室を思い浮かべるといいかもしれない。まだ机もベッドも顕在しておらず、部屋の中の机やベッドが置かれるべき空間だけが開けている。なにもない空間というのが潜在性の近似値としての比喩になるのだろう。当然、その空間は空気で満たされているし、空気を取り除いたとしても空間的広がりが残ってしまう。その点ではあくまでも比喩でしかない。それでも、なにもない引っ越し前の部屋に、やがて置かれる机やベッドの潜在性を認めるという議論の新奇さ伝わるのではないだろうか。

ではなぜ、潜在性を見出すために肯定主義が必要となるのかというと、肯定主義とは、肯定でも否定でもないニュートラルなデフォルト状況を肯定と捉えるものだからだ。プラスでもマイナスでもないゼロをプラスと捉えるものだと言ってもいい。肯定主義において、肯定は否定に優位する。あるものごとについて、肯定か否定かの判断を求められたならば、そこには中立という答えはありえず、否定でないならば肯定なのだ。これはつまり、肯定主義においては、肯定も否定も顕在化していない中立的な状況を潜在的な肯定と捉えるということである。

先程の例に戻り、引越し前のなにもない部屋を指差し、誰かに「ここに机はあるのか。」と問われたとしよう。僕は戸惑いながら「え、ないよ。」と答える。だが、その誰かは更に「では、ここには完全に机はないのか。将来的な可能性も含めて、ここには全く机性はないのか。」と問いかけてくる。肯定主義者である僕は(面倒くさいことになったと思いつつ)「まだ机を買うかどうかも決めていないけれど、潜在的には机はあると言えなくはない。」と答えることになる。なぜなら、完全な否定でないならば、そこに潜在的な肯定を見出すというのが肯定主義だからだ。

ここまでは肯定主義と潜在性の話だったが、もうひとつ、肯定主義が大きな力を持つ場面がある。それは、話の土俵を成立させる場面だ。例えば、「この世界は何故ないのではなく、あるのか。」という問いがある。この問いに正面から答えるのは難しい。なぜなら、世界の中でいくら考えても、それは世界自体が存在する理由にはつながらないし、世界の外から理由を導入しようとしても、導入した途端に、その外も世界の中に含まれてしまうからだ。だが肯定主義を用いるならば話は簡単だ。肯定が優先されるなら、明確に肯定も否定もできないものである世界は、ただ肯定的に存在することになる。僕はこれ以上の説明は思いつかないから、肯定主義に基づくからこそ、世界はないのではなく、あるのだと言ってもいいと思う。(これを、先程の潜在性の話と接続し、世界は潜在的なものとしてただ存在する、と表現するならば、入不二のマテリアルな潜在性の場という描写とも重なるように思う。)

(2)存在論、認識論、意味論

肯定主義に加え、もうひとつ、入不二の議論から流用したいものがある。それは、存在論、認識論、意味論という三者関係としての議論の枠組みだ。入不二はここに「可変的なジャンケン関係」(p.376)を見出す。その議論の詳細には立ち入らないが、ここで重要なのは、議論には、存在論、認識論、意味論の三つしかないという点である。入不二によれば、この三種類の議論に加え、より根源的なものとしての現実論があり、もうひとつ時間論があるということになるが、確かに、それ以外に、いわゆる形而上学の領域において、つけ加えるべき議論は思いつかない。(ここに含めない形而下領域にある議論としては、道徳、美といった価値論を想定している。)

以上のように道具立てを行ったうえで、これらを踏まえ、ここからは僕独自の議論を組み立てていくことにする。

2 肯定主義:存在論

ひとつめのアイディアは、肯定主義と「存在論」を結びつけることができるのではないか、というものだ。だが、これは入不二の考えに正面から反対するものである。

入不二に従うならば、肯定主義と「現実論」を結びつけることに異論はないだろう。なぜなら肯定主義は『現実性の問題』における入不二の現実論全体を貫いているからだ。だが入不二は現実論と存在論を峻別する。顕在的に存在しないもの、つまり潜在性までも射程に捉えた議論は存在論ではなく現実論と呼ぶのがふさわしい。そのような議論は従来の存在論では捉えられない。

僕もこの点は同意するが、あえて、入不二が行った議論は存在論「寄り」の議論だとは言えるように思う。入不二の議論は、言語や意味という切り口のものではなく、また思考や認識という方向からのアプローチによるものでもない。それならば、消去法的には、意味論ではなく、認識論でもないのだから、存在論的だということになるのではないだろうか。

なぜ、僕が存在論と位置づけることにこだわるのかというと、実は僕は、これまで存在論というものをきちんと理解できていなかったからだ。存在論特有の議論の組み立て方がわからなかったと言ってもいい。意味論ならば、言語の意味に焦点を合わせて論じるものだし、認識論ならば、人間が何かを認識し、思考して捉えるということ、いうなれば心の働きと切り離すことができない。一方で存在論とはどのような道筋で進めるべきものなのかがわからなかったのだ。

または、意味論や認識論は、対象と道筋が重なっているが、存在論はそうなっていない、と言ってもいい。意味論は意味という道筋で意味に接近するものであり、認識論は認識という道筋で認識に接近するものである。一方で、存在論は存在を対象とすることは明らかだが、その道筋が定かではない。普通に考えれば、存在に対しては、存在しているものを認識したり、存在の意味を検討することで接近したりするのが一般的だろう。だが、それでは認識論や意味論となってしまう。認識論や意味論によらず、存在論的に存在にアプローチするやり方があるべきだ。僕にはそれがわからなかったのだ。

しかし、『現実性の問題』を読んで肯定主義を知り、腑に落ちた。存在論とは、言語や思考といった道筋によらず、肯定という道筋を通じて考察の対象に接近するものではないか。

そのように考えるならば、この本での入不二の議論は存在論の範疇に含めることもできるだろう。なぜなら、潜在性の領域について議論するということは、潜在性というにわかに存在を認めがたいものについて、それを肯定することによって顕在化し、その存在を捉えるということだからだ。

だが更に入不二の側に立つならば、入不二は、潜在性を顕在化して捉えるという操作を加えることを認めないかもしれない。なぜなら、入不二の潜在性とは、少なくともその最深部においては、決して顕在化することがないものだからだ。

それでも僕は、その最深潜在性すらも、『現実性の問題』という文章を通じて、指し示すことができてしまっているではないか、と言いたい。従来の存在論とは異なる、超・存在論とでも言うべき入不二の議論においては、最深潜在性は顕にされ、その存在が指し示されてしまっているのだ。

たしかに、最深潜在性が存在するというとき、存在という語は、従来の顕在性をひきずった存在という用語とは全く異なる状況を指し示している。だが、そもそも、存在が顕在しているという条件は、存在を認識し、存在を言語化する際に必要となるに過ぎず、存在を肯定主義的に捉える際には必要ないはずだ。つまり、存在を認識論的に捉え、または存在を意味論的に捉える際には、顕在性が必要となるが、存在を存在論的に捉える際には、顕在性の有無は問題とならない。それならば、存在という用語は、顕在性から解き放たれることにより、ようやく、用語本来の意味に立ち返ることができたとさえ言えるのではないか。

先程僕は、『現実性の問題』において入不二は最深潜在性を顕在化して指し示していると言った。だが、この顕在化という言葉も、一般的な顕在化とは異なる特殊な用法なのである。

以上の考察を踏まえたうえで、僕は、入不二の現実論こそが真の存在論であると言いたい。肯定主義を用いることにより、従来の存在論に含まれていた認識論・意味論的な夾雑物を取り除き純化したものこそが、入不二の現実論であり、存在論なのだ。

3 言語の規則:意味論

ここまで僕は、現実論を存在論に読み替えることにこだわってきたが、なぜそのようなことをしたのかというと、肯定主義を通じて極北としての存在論を見出したように、入不二が、存在論と並んで三者関係として描写した意味論と認識論についても、極北としての意味論と認識論を見出すことができると思うからだ。

まず、意味論の極北は、すでに過去の哲学者が見出している。存在論においては肯定主義が重要となるのと同様に、意味論で重要な役割を果たすのは規則であることは疑いがないだろう。

ここには何も付け加えることもないので簡単に説明を終えるが、僕が規則の問題を最も単純なかたちで示していると思うのは同一律の適用の場面だ。僕は昔から「『Aである。』ということから、どうして『Aである。』と言えるのか。」という疑問にとらわれてきた。これはつまり、1つめの『Aである。』に登場するAが、2つめの『Aである。』に登場するAと同じであることを意味する。どうして、そのようなことを「前提」とできるのだろうか。いや、そもそも、1つめとされるAでさえ、それが有意義に成立しているとするならば、過去に別のAがあったはずであり、それと同一のAであることが「前提」とされなければならないのではないか。そのように考えるならば、何かを言明するとき、そもそも何がはじまっているのだろうか。そのような疑問だった。多分、この疑問には直接的な答えはない。少なくとも、意味論的には答えは出ないに違いない。なぜなら、僕が「前提」として求めたものは、つまり、ウィトゲンシュタインが「規則」とするもののことだからだ。規則があるからこそ、言語が成立し、「Aである。」というような言明が有意味となりうる。

非常に雑駁な説明だが、以上のような意味で、僕は規則が意味論を駆動していると考えている。

4 真のクオリア:認識論

最後に、認識論の極北、つまり認識論の最深部を支えるものだが、これこそ、僕がこの文章で新たに示したいものだ。僕は、真のクオリアとでも呼ぶべきものこそが、認識論を駆動していると考えている。

認識論を論じるにあたって使い勝手のよいのは視覚の例だろう。目の前にコップが見えるからコップが確かに認識されているというように。認識論的に存在を捉えるならば、目の前にコップが見えるから、確かにコップが存在するということになる。そこから更に、実は目に見えるコップではないコップ自体が存在するのではないか、などと考えるのは、認識論的な切り口からの存在についての議論の深化だと言えるだろう。

そのように議論を深めるうえで用いられるのが、錯覚や見間違いの例であり、蛇が見えると思ったけれど実はロープだったというような場面だ。このような場合も考えるならば、コップや蛇が見えるから、コップや蛇が存在すると即断できるかどうかは怪しいことになる。そこからは認識論的懐疑主義に進む道が開けてしまう。だからこそ、その道を塞ぐため、知識の整合性というようなものを持ち出し、真なる認識と偽なる認識とを切り分けていくことになる。僕は哲学史に詳しくないけれど、きっと、ここには無数の知的格闘があり、これまで、真なる認識と偽なる認識の切り分け方にはさまざまなアイディアが示されている。

だが、僕は、従来のどの学説にも納得することができなかった。僕からすると、いずれも、多くのものを導入しすぎているのだ。そのなかでも特に問題となるのが時間の扱いだ。僕が知る限り、認識論的な全ての議論において共通に入り込んでいるのが、通時的な時間というアイディアだ。

蛇とロープとを見間違えたという例を用いるならば、この話は、まず、蛇と思われるものを見るという時点から始まる。その後、数秒か数分かわからないが一定の時間が経過した後に、そこにロープを見るという時点が訪れる。つまり、ここには「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」という二つの時点があり、そのうえで、その二つを通時的に接続できるという構造を見出すことができる。

確かに、各時点における認識の正当性については、過去の哲学者は十分すぎるほどに認識論的な議論が深めてきたように思える。しかし、二つの時点を通時的に接続できるということを納得できるかたちで正当化する議論には出会ったことがない。もしそうならば、これまでの認識論的な見地からの真なる認識と偽なる認識の切り分けの試みはすべて失敗だったということになるだろう。

残念ながら失敗は必然であるように思う。なぜならば、時間経過自体をそのままのかたちで論じることにはかなりの困難があるからだ。入不二の議論にもあるとおり、時間経過は滑らかになされるものではなく、そこにはある種の断絶がある。その断絶を乗り越え、認識論的な議論を正当化するためには、時間経過は真であると所与のものとしてただ認めるしかないのではないか。

このような解決方法はそれほど悪くないように思う。なぜなら、時間が経過するというアイディア自体が不自然なものだからだ。時間経過がない世界と時間経過がある状況の世界とを想定し、両者を比べるならば、時間経過がない世界のほうが、時間経過がないという点で単純でありうる世界のように思える。時間経過がある世界は、あえて時間経過が付け加わっているという点で、より複雑で不自然なものである。それなのに、あえて時間が経過すると考えるのは、ただそう思えてしまうからでしかない。不自然であっても、理由がなくても、ただ時間は経過するとしか考えられない。それが時間経過というものの、少なくともある一面なのではないだろうか。不自然なものであるはずの時間経過を正当化するために自然な理屈を探すということ自体が無理筋のように思える。なぜ不自然なかたちで思えてしまうのかといえば、ただそうとしか思えないからなのだ。

このような時間経過に対する認識を、僕は、真のクオリアと呼びたい。時間経過には真のクオリアがある。だから時間経過は真なのだ。このことを、時間経過の認識論的把握は、真のクオリアが駆動していると言ってもいいだろう。

なお、真のクオリアは、時間経過だけではなく、認識論全般に及ぶことになる。なぜなら、通常の認識論が前提としている複数性は時間経過が前提となっているからだ。再度、蛇とロープの見間違いの場面に戻るならば、「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」の二つの時点を結ぶのが時間経過であるだけでなく、蛇を見る、ロープを見る、という個々の状況のみに着目してもそこでは時間経過が下支えをしているとも言うことができるだろう。

「蛇を見る」ということのなかには、ロープではなく、カエルでもなく蛇を見ているということが含意されている。そのためには別の時点でロープを見ることやカエルを見ることが成立していたのでなければならない。または、図鑑かなにかで蛇をすでに見ていて、ロープを見るのともカエルを見るのとも違う、蛇を見るということを知っていなければならない。いずれにせよ、別の時点での別の出来事との比較・対比でしか「蛇を見る」ことはできない。

それは、時間という装置を使わず、別の場所や可能世界で起こったこととしても、心の中での反実仮想といったような、空間的な装置を使ったとしても同じことである。なぜなら、ここでの議論においては、空間とは空間化した時間とも言えるし、または、時間化した空間と言っても同じことだからだ。時間にせよ空間にせよ、なんらかの複数性、並立性が「蛇を見る」ことの前提になければならない。僕は時間経過という装置を使うことで、ロープでもカエルでもなく蛇を見るという並立性を可能にしたが、他のやり方を使っていただいても一向に構わない。(ただし、その場合は見間違いについての説明が困難になると思われるが。)僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したように、直接的なかたちで並立性を可能とする装置を正当化していただけるなら、それでよい。そのためには真のクオリアとしか言いようのない、ただそう思えてしまう、という感覚が必要となることを思い起こしてもらえればよい。

とにかく、僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したのと同様に、「蛇を見る」という、ひとつの時点での出来事も真のクオリアによってしか正当化できない。なぜなら、それ以外に正当化する理由を持ち出すとするなら、それは複数性を招き入れることになってしまうからだ。例えば、このあたりには蛇が多いから、というような理由を用いるためには、ガイドブックを読むなどしてその知識を得るという別の時点が必要となる。または、注意深く見たことはたいてい正しいからというような理由を用いるためには、なにかを注意深く見たという別の時点での体験が必要となるだろう。

ロープかもしれない何かを見て、それを蛇だと認識し、その認識が正しいと考えるのは、それをそのように認識したとしか思えないからなのだ。それを、その認識には真のクオリアがあったのだと表現したい。

つまり、認識論においては、認識論以外の夾雑物を注意深く腑分けし、極力、認識論以外の材料(特に時空的な道具立てや反実仮想というような心理的な働き)を用いないよう心がけるならば、その正当化は根本的には真のクオリアによってしかなされないのだ。

更には、真のクオリアの導入にあたっては、認識論の純化とでもいうべき作業を行ったが、いったん導入された後は、あらゆる場面において真のクオリアを見出すことが可能となる。例えば、蛇らしきものを見るだけではなく、近寄って、数分間観察してみる。くねくね動いているし、口からチロチロと舌も出ているし、図鑑と見比べても、アオダイショウの頁に載っている絵とそっくりだ。そばにいる登山のガイドもアオダイショウで間違いないと言っている。そんなとき僕は「蛇を見る」を真であると考えるだろう。だが、実は近寄って数分間観察することや、図鑑を開くことや、ガイドの見解を聞くことは、真であると考えるうえでの決定打とはならない。なぜなら、それらのすべてが揃ったとしても、あえて真ではないと考えることも可能だからだ。それでも、これはヘビ型ロボットかもしれないと考えることはできるし、実際にそうかもしれない。

僕は、条件が整っても、なにかを真だと考えることができるし、条件が整わなくても、なにかを真だと考えることができる。条件を整えることが全く無意味とは言わないが、少なくとも直接的には条件の整備状況に関係なく、ただ僕は、真のクオリアを持てば、それを真だと考えることになるし、真のクオリアがなければ、それを真だとは考えることはない。

認識論の極北においては、認識論を駆動するものは真のクオリアであると僕は考える。

5 収斂と展開 形而上と形而下 自然科学

以上で、存在論、意味論、認識論という三つの議論に重ねるかたちで、肯定主義、言語の規則、真のクオリアという三つの駆動装置を提示した。肯定主義、言語の規則、真のクオリアが重なるようにして働くことで、存在論、意味論、認識論という三つの議論が展開され、そこに時間論が加わることで、形而上学が成立すると言ってもいいと僕は考えている。

以上は、存在論、意味論、認識論の起源までさかのぼり、その深層にあるものを発掘するような作業であったが、その対極には、存在論、意味論、認識論を十分に展開し、その議論の果てにあるものを見出すという作業があるだろう。いわば、前者が収斂の作業だったとするならば、後者は展開の作業であるとも言える。

まず、存在論を展開するとは、複数のものごとの関係を明らかにしていくような作業となるだろう。そこでは因果関係のような関係性を見出すこととなるだろう。また意味論を展開するとは、言語によって描写される世界というようなものを見出すことになるだろう。また、認識論を展開することにより、美や善といった価値が生まれ、どのようなものに価値を付与するかという価値体系が生まれていくことになるだろう。

そのように展開するなかでも、ある方向の極にあるものこそが自然科学であるに違いない。自然科学とは存在論、意味論、認識論が協働し、十分に展開されたところに見いだされるべきものだ。存在論が担保する複数性・平等性を前提に、意味論が世界としてまとめ上げ、そこに精緻な描写を加えることを可能とする。更に、実験・検証の結果の認識論的な価値付けに基づくフィードバックにより、真なるものの体系がより深められていく。だが、そこから先は、形而下領域の話として語られるべきだろう。

以上が、僕の形而上学の素描である。

妖精としての人生、妖精としての文章

1 妖精とは

僕は先日、サニーデイ・サービスの曽我部恵一について書いた際に、彼は妖精のようだと表現した。http://dialogue.135.jp/2020/10/03/harunokaze/

それからしばらく、妖精という言葉が心のどこかにひっかかっていた。なぜこんな言葉を使ったのだろう。自分で書いておきながら、僕は妖精という言葉に違和感があったのだ。普通、自分が書いた文章の言葉自体が心に残り続けるということはあまりない。(なぜなら、言葉とは自分の考えを表現したものに過ぎず、心に残るのは自分の考えであるはずだからだ。)だけど、この妖精という言葉は、僕の心で独り歩きしはじめていた。

僕は妖精という言葉にどのような意味を込めているのか。

先日僕は曽我部恵一のMVを観て、彼について「音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。」と書いた。それを妖精と喩えた。

僕が妖精という言葉に託したのは、一言で言うと生活臭のなさかもしれない。具体例としては、曽我部恵一よりも有名な人、アイドルやハリウッドスターを思い浮かべるといいかもしれない。ただ、最近はSNSなどで色々と私生活についての情報が流れてくるから、いっそ、歴史上の偉人のほうがいいかもしれない。更には、イエス・キリストでも。

僕たち人間は日々生活しているけれど、妖精のような彼らは、ただ歌ったり、映画に出演したり、布教したりしている。そこには泥臭い日常はない。

そのように考えるならば、僕自身も実は妖精だと言えなくもない。職場の同僚から見た僕は、ただ働いている存在だ。オナラやゲップを職場ではしない。プライベートな話もするけれど、それはあくまで職場の人間関係を逸脱しない限りでのものだ。(仮に僕が逸脱した行動をとったとしても、それは逸脱した行動をする職場の人間として解釈されるにすぎず、どこまでも職場の人間関係に回収される。)僕は職場の同僚にとっては、ただ働くためだけのために存在する妖精だ。僕は他者にとっては妖精である。できの良さは別にしても。

このように考えているときの感覚は、自分探しとも喩えられるような、若い頃のあの感覚に似ている。誰も僕のある一面しか見てくれず、100%の僕を理解してくれる人などどこにもいない。そんなことばかりを考えていた頃の孤独な感覚だ。

だが、大きな違いがある。若い頃はそれが嫌だったけれど、今はそれが心地よい。僕は日常に埋もれるようにして日々をなんとか生き延びているけれど、そんな不純な僕のなかに含まれている最もきれいな上澄みだけを見てくれている人がいる。それはとても嬉しいことだ。

2 妖精としての人生

生きるとは、混沌とした人間としての人生を、他者から見られる妖精としての人生に変換していくことなのかもしれない。

若い頃の感覚に基づくならば、僕の人生には無限の可能性があるはずだ。それなのに、結局は有限でしかないものに変換されてしまう。それが若い頃の僕が描いていた人生だ。

一方で歳をとった現在の解釈を誇張するならば、人生とは名目上可能性に満ちていたとしても結局はありふれたものにならざるを得ない。そんな人生を、一瞬ではあっても、誰かに認められるような輝くものとすることができる。

そこには二つの不当な取引が含まれているように思う。

ひとつは、ありふれた人生をあたかも価値があるものにするような、何もないところから光を生み出す錬金術のような不当さだ。もうひとつは、無限の可能性を有限のちっぽけな結果に変換するような、いわば奪い去られるような不当さだ。前者は僕が濡れ手に粟で得てしまう不当さであり、後者は否応なしに奪い去られる不当さだと言ってもいい。ここには相反する二つの方向性がある。

重要なのは、この二つを対比して打ち消し合うことはできないし、また、この二つを循環や交換として捉えることで正当な取引として位置づけることもできないということだ。妖精の人生を手に入れたからといって、その代わりに人間の人生を差し出すことはできないし、いくら人間の人生を差し出しても、その代わりに妖精の人生を手に入れることが正当化されることはない。その意味で、妖精の人生と人間の人生との間の取引は、二重に不当なものだ。

この不当さは奇跡と言ってもいいだろう。無限の可能性としての(またはありふれたものとしての)人間の未来と、輝くような成果としての(または所詮有限でしかないものとしての)妖精の過去との間には、その間の変換を成し遂げる場としての奇跡的な今がある。

歳をとって、僕はこの不当な奇跡を積極的に引き受けたいと思っている。無限ではあっても不定形でしかない可能性としての未来を、有限ではあっても明確な成果としての過去に変換することを、この今において引き受けたいと思っている。長年生きるうちに、それを引き受けざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるけれど、長年生きるうちに、それを責任を持って引き受けてもいいとようやく思えるようになった、とも言える。

そこで重要となるのは、妖精の創造性である。人間の僕は死んで無に帰るけれど、妖精の僕がつくりあげたものは残り続ける。ここに不当な奇跡を生むトリックがある。このトリックを積極的に認めるならば、僕は、妖精の創造性を最大限に発露しなければならない。

その意味では人が妖精になるとは創造するということであり、直接的に表現するならば、人は創造者、つまりクリエイターとなるべきなのだ。更にはっきり言うならば、人生の意義は何かを作り上げることにあり、そうしない人生には価値がない。

なお、何を作るかというジャンルを選ぶことはできるだろう。僕ならば、僕が作るものは哲学的な文章となるはずだ。僕は妖精のように哲学的な文章をつくりあげていきたい。それが人生の意義だ。

3 妖精としての文章

ここには妖精という言葉のもうひとつの含意がある。妖精という言葉のなかに、僕が進むべき道が示されている。クリエイターならば、妖精の名に恥じないような、価値あるものを求めるべきだ。

では、その価値とはどのようなものか。

多分、価値には二通りある。人間としての価値と妖精としての価値だ。

前者においては人間世界に役立つかどうかという観点が重要だ。価値を真・美・善と表現するならば、人間世界をうまく説明するような発見、人間世界に貢献するような(誰かの目を楽しませたり、メッセージ性があったりする)美術作品、人間世界に役立つような道徳といったものにこそ価値があるということになる。

後者の価値においては人間世界に役立つかどうかは関係ない。ただひたすら正しく、美しく、善いものを目指す。そこでは真・美・善がひとつに溶け合っている。

妖精ならば後者を目指すべきだろう。僕にとってクリエイターであるとは哲学的な文章を書くことだから、僕はただひたすら、人間世界に役立つかどうか似など目もくれず、ひたすら妖精的な価値があるような、真・美・善がひとつに溶け合うような文章を書いていくべきなのだ。ここで妖精という言葉は、僕が書く文章の指針となる。僕が書くべきは、妖精のように理想的な思考の流れを表現する文章だ。それを目指すのが僕のクリエイターとしての後半生なのだろう。

このようなことをめざして、僕は文章を書いているのかもしれない。

投資のすすめ

この文章はわかりやすい文章を書く練習のために書いたものです。

また、この文章は投資を全く知らないけど興味がある知人に僕なりの考えを説明するためのメモです。だから全く哲学的要素はありません。経済学的な誤りや独断も入っています。

0 わからないものには手を出さないという原則

この文章では、投資において僕が大事だと思うことを細々と説明していきます。

なぜなら、投資においては、わからないものには手を出さないという原則が大事だと思うからです。

逆に言えば、わかったら、分かる範囲で投資に手を出してほしいと思っています。多分、これから僕が説明しつつおすすめする程度の投資は、掃除の仕方や新幹線の乗り方といったことと同じくらいには人生において必要な知識だと思うのです。

1 投資のすすめ

1-1 お金を守る

これからおすすめする投資とは、ざっくり言うと、お金を減らさないようにすることです。だから、投資の目的はお金を守ることだと言っていいと思います。つまり、この文章はお金の守り方についての話です。(これから、お金を増やす、儲けるといった表現も使いますが、このことは覚えておいてください。)

お金を減らさずに守るというと、銀行預金やタンス預金をすればいいと思うかもしれません。確かにそうすれば、銀行が潰れたり、泥棒に盗まれたりしない限りお金はなくなりませんよね。だけど、実はそれではお金を守ることにはなりません。

まず、何十年の単位で見るとインフレにより確実にお金の価値は下がっていきます。昔は100円だった缶ジュースが120円になったりするように。経済学的に理論上絶対にインフレになるとは言えないかもしれないけれど、経験則的にはほぼそう言えるでしょう。インフレの影響を免れるためには、タンスからお金を出して、お金を動かす必要があるのです。

1-2 分散投資

また、銀行預金のより根本的な問題は、銀行預金だけでは「日本」の「現金」に資産が集中してしまうところにあります。実は資産をどこにも投資しないことはできません。手元に100万円があるとして、それで米国株を買わないからといって、どこにも投資していないニュートラルなお金にはなりません。米国株を買わず日本の銀行に預金をするということは、日本とアメリカとを比較し、日本を選択したということであり、現金での資産形成と株式での資産形成とを比較して、現金での資産形成を選択したということなのです。つまり、あなたは手持ちの資産100万円すべてを「日本」の「現金」に資産を集中するという危うい選択をしてしまったのです。

ここで「危うい選択」と表現しましたが、なぜこれが危ういかというと、投資においては分散投資をしたほうが安全である、という考え方があるからです。

もし、100万円のうち50万円を日本に投資し、50万円をアメリカに投資していたら、日本だけが不景気になっても半分しか影響を受けません。アメリカだけが好景気になれば半分はお金を増やすことができます。

さらには日本に投資している50万円のうち25万円で日本株を購入し、25万円を銀行預金にしておけば、株価が上がれば半分嬉しいし、株価が下がれば半分悲しくなるだけで済みます。

これが分散投資の考え方です。つまり小分けにしておいて、喜ぶのも悲しむのも「ほどほど」に抑えよう、という戦略です。

一方で、もし100万円全額を日本円で銀行預金にしておいたらどうでしょう。円高ドル安になればラッキーだと喜ぶでしょう。1ドル=100円だったのが1ドル=90円になれば、アメリカ旅行で10万円以上贅沢ができるのですから。また株式が暴落して不景気になっても嬉しいでしょう。株価が例えば半分になったら、それは世の中の株式に投資していた資産家の資産がすべて半分になるということなので、その分不景気になって商品の価格が値下がり、資産を全額銀行預金していた人は引き出した現金で商品を安く買うことができるのですから。(株式しか持っていなかった人は商品が半額になっても資産も半分になっているので買えるものは変わりません。)

ここまでが銀行預金をして日本円の現金に集中投資することのメリットですが、当然、集中投資が不幸を招く場合もあります。円安になれば資産価値は下がりますし、株価があがって好景気になったなら、物価上昇にも関わらず現金の額は変わらないので、相対的には資産価値が下がることになります。皆が好景気で喜んでいるときに取り残されてしまうことになります。つまり、好景気によるインフレについていけないことになります。

このような事態に陥らないように、分散投資を勧めているのです。

1-3 リスクを受け入れられるか

ここで、「円安やインフレがあっても日常生活で困ることはないのだから銀行預金でいいではないか。」という反論があるのではないかと思います。

確かにそのとおりです。海外旅行での買い物でレートを計算するときや、ハイパーインフレーションで紙幣を束で持っていかなければパンも買えないような極端な状況でなければ、多分、実感として、「ああ、銀行預金だけでなく分散投資しておけばよかった。」などと後悔することなどないでしょう。

一方で、分散投資を選択してアメリカ株式を購入していたら、毎日の円ドルのレートが気になってしまうし、アメリカ株大暴落なんていうニュースを読んだら心穏やかではいられないでしょう。「いやいや、逆に日本円の現金は相対的に価値が高まったんだよ。」なんて言われても慰めにしかなりません。

僕もそう感じるだろうし、多分それは心理学的に人間に当然の反応であって、なにもおかしいことではありません。だから無理に、投資に対する恐怖心を押し殺して投資する必要などないと思うのです。なぜなら、所詮、お金は幸せになるための手段ですから、お金のせいで不安になってしまったら本末転倒です。

だから、株式などに投資をするかどうか、また、投資をするにしてもどの程度とするかは、自分の心や家族の意見に耳を傾けたうえで判断すべきと思います。

1-4 人生における投資の意義

それでも僕は、攻めた投資を勧めます。なぜなら投資とは、自分の未来を少しでもコントロールしようとする努力だと思うからです。

なお、僕が勧める攻めた投資とは、儲けが大きい博打のような投資をするという意味ではありません。不安に打ち勝ち、分散投資という基本に則り、理にかなった投資を理屈どおりに淡々と実行するということです。詳しくは後述しますが、それは、最適と思うかたちで資産配分するということでもあります。日本円の預金20%、日本の株式30%、ドルの外貨預金25%、ドルの株式25%というように。(割合は適当です。)

なぜそれが未来のコントロールにつながるのかと言えば、それを実行するだけで、リスクに対する恐怖心に負けて不効率な資産の配分をしてしまった人よりも有利な道を歩める可能性が高まるからです。

ただし、あくまで高まるのは可能性です。最適と考える投資をしても資産が減ることはあります。というか、儲かったときより損をしたときのほうが心に残ることをかんがえると、実感としては損してばかりと感じるかもしれません。

それでも攻めた投資を勧めるのは、自分の人生を自分で選んでいるという実感につながるからです。リスクへの恐怖に打ち勝ち、淡々と自らが定めた投資を継続することができたなら、その結果がどうであっても最善を尽くしたという自信につながるのではないでしょうか。そして、その自信が、投資以外も含めた人生全般においてプラスになるのではないでしょうか。

1-5 投資の効果

ただ、こういう精神論だと響かないかもしれないので、別の方向から投資を勧めたほうがいいかもしれません。

投資が成功すれば金銭面での自由を得られます。何億もの資産があれば全く働かずに資産収入だけで暮らすこともできるかもしれません。だけど、そこまでいかなくても、例えば、1000万円の資産があり、そこから毎年3%の収入が得られれば、毎年30万円分を生活費に回すことができるし、うまくいければ海外旅行だって行けます。これはなかなかの成果でしょう。

その成果は無理をして博打のような投資をしないと到達できないものではなく、適切な投資を続けるだけで到達出来る可能性があるものなのです。

1-5-1 世界の株価

例えば今日(2020.10.18)のS&P500(アメリカの株価指数)は3483ですが、調べてみると、50年前の1970年10月の指数は84だったようです。(https://jp.investing.com/indices/us-spx-500-historical-data

これはつまり、アメリカに投資していたら、50年で資産が40倍に増えていたということを意味します。単純平均で年8%(400%÷50年)ですね。

たまたま当時のアメリカの調子がよかったと考えたとしても、今後もどこかに投資して年3%くらいだったら期待できそうな気がしませんか。

1-5-2 複利効果

更に着目したいのが複利効果です。

100万円投資して翌年に103万円になったとして、その3万円で温泉に行くのはいい選択です。温泉は気持ちいいし、日常から離れたところでのんびりご飯を食べるのは贅沢な気分になりますよね。だけど、もしその3万円を翌年の投資に回したら、
103万円×103%=1,060,900円となり、温泉に行くよりも900円増えます。これが複利効果です。
900円だとたいしたことがありませんが、もし20年間続けたなら、100万円は80万円増えて180万円になります。もし毎年温泉に行っていたら(20年×3万円で)60万円しか使えなかったはずなので、20年後には20万円の差が出ることになります。

ここで、20万円というと、やはりたいしたことがないと思うかもしれません。確かにそうなのです。20年温泉を我慢して、やっと20万円です。子どもが生まれてから20年間、子どもを国内旅行にも連れて行かずにお金をためて、20年後、成人した子どもとようやく80万円を使って海外旅行に1度だけ行ったとして、それが幸せなのかというと、僕は違うと思います。だから複利効果も念頭におきつつ無理はせずに今を楽しみつつ資産運用するのがおすすめです。

だけど投資を勧める立場としては、もう少しアピールしたほうがいいかもしれません。先ほどは年3%で計算しましたが、例えば、過去のアメリカと同様に年8%の伸びがあったとします。そうすると、100万円は20年後には466万円になります。毎年8万円を使ってしまっていたら、(20年×8万円で)160万円しか使えなかったはずなので、複利効果により200万円を手に入れられる計算になります。もしあなたが投資に楽観的な見通しを持つ方でしたら複利効果はより魅力的なものとなるはずです。

2 資産の種類

ここまでで、銀行預金やタンス預金だけでなく、外国株式なども含めて分散投資をすることの必要性と魅力は理解いただけたと思います。

ここからは、具体的にどのように分散投資すればいいのか、という話に移ります。

2-1 株式と現金

投資先となる資産としては、現金(預金)、株式のほかにも、債券、商品(金や小豆など)、不動産といったものがあります。

ちなみに、ここで挙げていないものとして投資信託がありますが、投資信託とは、株式や債券の買い方についての名前です。投資信託とは株式や債券をいくつかまとめたものを小分けにして売り買いしているものです。だから、投資信託とはつきつめると株式や債券のことです。また、その他にも有名なものとして外貨預金もありますが、外貨預金とは外国の預金なので、現金に含めることにします。

それでも色々な種類があって戸惑うかもしれませんが、ここまで列挙した資産はざっくりと、株式と現金に分けることができます。それ以外の債券、商品、不動産といった資産は、いずれも株と現金の二面性を持ったものとして扱うことができると考えています。

2-1-1 株式

株式は、ご存知のとおり、企業が発行するものです。株式とは、その企業の所有権を細かく分けたものだと言っていいでしょう。1棟のマンションに10世帯が住んでいるとします。これはつまり、そのマンションを10世帯で10分の1ずつ所有しているということです。外壁のペンキを塗るかどうか、管理会社をどこにするか、といったことは10世帯の合意で決めることとなります。それと同じ関係が企業と株式の間にはあります。

いやいや、実際は株主ではなく社長が色々と決定しているでしょう、と思うかもしれません。確かにそうなのですが、投資の観点では、企業=株式という視点が重要です。なぜ、企業と株式を同一視することが重要かと言えば、それは資本主義経済の担い手は企業だと言っていいからです。つまり、資本主義経済=企業=株式 なのです。(データ上も世界のGDPと世界の株式の総資産はほぼ連動しているようなので、この考えは大きくずれてはいないと思います。)

ここに株式の重要性があります。株を買うとは、つまり資本主義経済を買っているということであり、株を買わないとは、つまり資本主義経済に乗っかっていないということなのです。

何百年もの間、資本主義経済は右肩上がりでした。世界恐慌などで一時的に収縮することはあっても、資本主義経済は膨張し続けています。好むと好まざるとにかかわらず、僕たちは資本主義経済にとりこまれ、そのなかで物を買ったりしています。完全に自給自足の生活を送るのでなければ、資本主義経済に投資しないということは、右肩あがりの世界で、自分だけが(資本主義経済的な見地では)損をし続けるという選択をするということなのです。

脱線ですが、ここにお金持ちと貧乏人の差があるのだろうと思います。お金持ちはどんどんお金が増えていき、お金がない人は増やす元手がないので損をし続けることになります。そこには努力などではどうしようもない大きな格差があります。

それはともかく、資本主義経済に乗っかるための手段として株式投資には明らかな優位性があると言えるでしょう。

2-1-2 現金

株式の対極にある資産は現金です。現金はそのままでは額面上、増えもしないし減りもしません。長期的には資本主義経済の発展により、相対的には価値が減少していきます。明治時代の1円札は額面上1円の価値しかないように。だから現金は明らかに損です。

ただ現金は、先ほど指摘したように、なんとなく安心するという効果があります。ここまで色々と現金が不利であることを説明してきたけれど、それでも、株価が上下するのを毎日ニュースでチェックするよりも、銀行預金の預金高を眺めたほうが安心できる気持ちは僕も同じです。現金が持つこの魅力は無視してはならないと思います。

また、子どもを大学に入れるために500万円は準備が必要だとか、今月の食費として10万円くらいはとっておきたいとか、わかりやすさも現金の魅力です。突然ハイパーインフレーションになれば10万円では食費は賄えないかもしれないけれど、そのような僅かな可能性を無視するならば、現金さえあれば将来に備えることができます。近い将来に必要なお金は手元に必要です。(どのくらいが近い将来かは後述します。)

もうひとつ、すぐに使えるというのも現金の優位性でしょう。証券会社を使っていて意外と面倒なのが資産の現金化と現金の出し入れです。株か投資信託かといった資産の種類により違いはありますが、手続きに数日は見ておいたほうがいいです。もし不動産投資などをしていたら、現金化には月単位で時間がかかるでしょう。現金化までの間に必要となる可能性がある額の現金は手元に置いておくべきです。

以上のような現金の優位性も考慮し、ある程度の現金は手元に残しておくべきでしょう。(このような文章を読むような方は、すべてを株に回すようなことはないと思いますが。)

2-1-3 債券

債券とは、国や企業の借金を証券化したものです。借金なので国や企業はお金を貸してくれた人に利息を払います。利息を狙って債券を購入するのです。ではその利息はどのように決まるのかというと、借金する時点で予想される資本主義経済の伸び率によってです。国か企業から「今年の資本主義経済は3~7%伸びると思うけど、平均の5%よりちょっと少ないけど、確実に4%の利息を払うからお金を貸してくれない?」と提案されて「他のところに投資したら5%くらい儲かる可能性が高いけど、それより確実に4%を狙ったほうがいいかな。」なんて思った人が債券を買うのです。

そのように考えると、資本主義経済に乗っかっているという点では債券は株式に近いし、将来が確定して安心できるという点では債券は現金に似ています。つまり債券は株式と現金の中間の性質があると言っていいと思います。

(なお、そこから更に債券の発行元の信頼度で利息は上下します。先進国の国債なら利息は低いし、破綻しそうな国や企業の債券なら利息は高くなります。直近の1年で10%の確率で破綻しそうな国の債券なら、年10%くらいの利息を上乗せしてもらえなかったら買う気にはなりませんよね。また、外国の債券は外貨としての性質もあります。だから為替レートによっては大きく損をすることもあります。利率が高い債券には注意しましょう。)

2-1-4 商品

商品と呼ばれるもののなかには、金、原油、大豆といったものがあります。

正直、この文章を読むような人は商品には興味がないと思うけれど、金くらいは検討するかもしれないので僕の考えを簡単に説明しておきます。

金は最近20年くらい価格が上昇し続けていますが、金の価格があがるのは世界のお金(貨幣)が増えているからです。金も採掘されてはいますが、それよりもお金(貨幣)が増えているので相対的に金の価格が上がっているのです。

では、なぜお金(貨幣)が増えるのかといえば、やはり資本主義経済が膨張しているからです。つまり、金の価格が上昇するのは、資本主義経済が膨張することの影響を受けているから、ということになります。とすると、この点では金は株式の一種と考えてもいいでしょう。

他の商品も似たようなものとも言えますが、原油や小豆は投資のためだけの商品ではなくいわゆる実需もあり、価格の変動も大きくなります。また原油を買うためには原油を保管するためのタンカー代も負担しなければならない、産出国が正常不安定だと事件が起きて価格が大きく変動することもある、といった様々な留意点が商品ごとにあります。よってその分野に詳しくない限り、金以外の商品は避けたほうがいいと思います。ちなみに僕自身は、金についても、例えば新しく海水から金を精製する技術ができて価格が大きく下がるのでは、といったことを考えてしまうので手を出すつもりはありません。わからないものには手を出さないという原則を特に心にとどめておくべきなのが商品の分野だと思います。

2-1-5 不動産

不動産も商品に似ています。バブルを例に出すまでもなく、不動産というのは余ったお金が流れ込む先です。金と同様に、投資に値する不動産には限りがあるので、世界経済が膨張するにつれ、世界の不動産の価格は右肩上がりになっていきます。その点では、商品と同様に、不動産も株式と似たようなものと言えるでしょう。

一方で、不動産についても、不動産ならではの様々な特徴があります。火事があれば燃えてしまう、アパートを建てた途端に近くにあった大学が移転してしまうなどなど。不動産は一番身近な金融商品かもしれません。

その点では、商品と同様に不動産も初心者向けではないのですが、不動産については自分で使うこともできる、という特徴があることは留意しておくべきでしょう。つまり、持ち家も資産運用のひとつなのです。賃貸に住み続けるか持ち家にしたほうがいいのか、という問題は、マイホームの夢というような漠然としたものではなく、資産運用のひとつ、それも上級者向けの資産運用だということを肝に銘じてシビアに検討すべきでしょう。
(ちなみに僕は持ち家にしました。賃貸だとちょうどいい物件がないというのが大きな理由です。ただし将来貸せそうか、転売できそうか、といったこともそれなりに考えて決断しましたよ。)

なお、不動産の場合、非常に低い金利でローンを組めるという点も重要でしょう。個人が投資目的で融資を受けることはなかなか難しいですが、住宅を買う場合にだけ非常に有利な条件で認めてもらえます。だから、なるべく長期の住宅ローンを組み、返済額を最低限にして、余剰のお金を投資に回すという戦略をとることもできます。ただこれも、不動産というただでさえ上級者向けの資産運用を、借金してまで行うということなので、それなりの検討が必要でしょう。

以上のように、すべての金融商品は、資本主義経済に乗っかっている株式的な側面と、そこから外れるものとしての現金的な側面を有していると考えることができるでしょう。

図で示すと、「株式・不動産――商品(金)――債券――現金」となるでしょうか。(金の位置づけは微妙ですが。)

2-2 基本戦略

ここまで、投資先となりうる資産について種類ごとに考察してきました。

他にもデリバティブと呼ばれるような金融商品もありますが、契約上の複雑な仕組みを使ったものなので、わからないものには手を出さないという原則を踏まえれば避けたほうがいいでしょう。ちなみにFXもデリバティブの一種です。ざっくり言うと、デリバティブとは保険の一種で、「○○の事態が生じたときに損をしないor儲かる」という契約を結ぶということです。保険料を支払う代わりに家が火事になったら建て替え費用を補填してくれる火災保険と同じようなものです。同様に、(1ドル=105円の今)1ドルが100円以下に下がったら利率がゼロになる代わりに1ドルが100円以上のまま推移すれば利率を倍にするという契約を結ぶことになります。(ただし、火災保険とこの例のデリバティブでは、どちらが胴元になるかで違いがあります。火災保険の場合は保険会社がリスクを負い、デリバティブではドル安となるリスクを我々が負うことになります。)

そのような上級者向けの金融商品を除外するならば、僕が提案する投資戦略は次のようにまとめることができます。

ステップ1:必要な現金の額を把握し、とっておく。

ステップ2:残りは株式投資に回す。

ステップ3:株式と現金との中間的な性質を持つ投資先(債券、商品(金)、不動産(特に持ち家))について、どの程度、株式や現金と置き換えることができるか検討する。

ということになります。

ステップ3が複雑なのですが、重要なのはステップ1と2なので、ステップ3については無視しても大きな問題はありません。

債券を買うか、金はどうか、と悩むのが面倒なら、株式しか買わなくても大きな問題はありません。不動産についても、持ち家にするのは相応の決断が必要だけど、賃貸にしている限り大きく失敗することはないはずです。

3 投資の具体的な戦略

さて、現金と株式を組み合わせるという基本戦略を定めたところで、具体的な投資の仕方という各論に移ります。

さきほどの基本戦略で、いくら現金でとっておき、いくら投資に回せるかは明らかになったとして、次の段階として、手持ちのお金を具体的にどのように投資すればいいのかを検討することとなります。(いくら現金としてとっておくべきか自分で考えるのが不安なら、ファイナンシャル・プランナーに相談をしたらいいと思います。ライフステージごとにいくら必要なのか、わかりやすく教えてくれるでしょう。ただ、変なところとつながっていないところに相談しましょうね。)

3-1 個別株vs投資信託

ここでの投資とは、原則として株式投資を指すので、まず個別株を買えばいいのか、投資信託を買えばいいのか、について考えましょう。

なお、念のため説明しておくと、個別株とは、ソフトバンクやアップルといった企業の株を購入することです。

この問題については結論は簡単で、はっきり言って、個別株を買うのはやめましょう。

わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、個々の会社の事情など素人にわかるはずがありません。もしあなたが内部の関係者で事情に通じていたら、インサイダー取引となり犯罪です。

また、個別株に手を出すということは情報収集などに相応の時間をかけることにつながります。あなたの趣味が株式投資でない限り、このようなことに時間を使うことは人生の無駄です。投資に費やす時間を最低限に抑えて人生を有意義に使いましょう。

では、時間をかけずに効率よく投資をするにはどうすればいいのでしょう。

その答えが、ここまで僕が勧めてきた、分散投資を導入し、資本主義経済の膨張に乗っかるという戦略です。
広く薄く投資すれば大きく損をすることはなくなるし、資本主義経済の膨張という揺るがない事実に乗っかれば間違いありません。

そのためにちょうどいいのが投資信託です。
投資信託は、色々な企業の株式(や国の債券)をまとめたものなので、例えば、米国情報技術セクターETFという投資信託を買えば、アップルやマイクロソフトなどの株式を少しずつ購入したのと同じことになります。
(ETFとは、投資信託を株式のように取引できるようにしたものです。)
これならば、たとえアップルが倒産しても、少し値下がりするだけの被害に抑えることができますよね。

絶対、選ぶべきは投資信託です。

3-2 日本株式vs外国株式

世界にはアップルやマイクロソフトだけでなく、なだたる企業があります。一方で日本だって、一時の勢いはないにせよ、トヨタやソフトバンクなど負けていません。近年の株価の伸びでは日本は分が悪いけれど、そもそも、わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、日本人であるならば、多くの情報が得られる日本に投資したほうがよいようにも思えます。

海外と日本、どちらの戦略もありうるとは思うのですが、ただひとつの点を考慮し、僕は、日本ではなく海外に投資すべきと考えます。

考慮すべきは、日本に住んで、日本で給料をもらっているという時点で、すでに日本に集中投資しているようなものだ、という事実です。

多分、この文章を読むような方は、働かずに済むような資産家ではなく、日々、仕事をして日本円で稼いでいるでしょう。将来、日本の景気がよくなれば、給料はあがるし、年金などの社会保障も安泰となります。そうなったら、正直、ちまちまと投資をして増やしたお金など、あまり必要ありません。

一方で、もし日本の景気が悪くなり、給料が下がったり、年金制度が破綻したりしたとき、外国株式に投資していたらどうでしょう。生活の助けに多少なる程度の額かもしれませんが、そのようなお金が無傷で残っていたことに、とても有り難く思うのではないでしょうか。

不必要なときには少ない額でいいけれど、必要なときにはなるべく多くの額がほしい。そのためには、日本の経済とは別の値動きをする資産を持っていたほうがいいのです。とするならば、日本株に投資するか、日本以外の外国株とするかの答えは明らかでしょう。

株式投資を外国株に絞ることで、逆に、仕事は日本、株式投資は外国というかたちでの分散投資ができるのです。

3-3 積立投資

ここまでで、株式投資をするなら、日本以外の外国株式の投資信託だということがわかりました。

では、早速、手元にある100万円で100万円の投資信託を買えばいいのでしょうか。それはちょっと急ぎすぎですよね。

今の株価が安いのか高いのか、これから株価が上がるのか下がるのかは誰も知りません。知っていたらその人は億万長者です。だから、今、どんなに買いどきだと思っても値下がりするリスクはあります。全額で投資信託を買ってしまって、いきなり値下がりしたら、投資なんて嫌になってしまいますよね。

おすすめは定額を少しずつ積み立てるという戦略です。これはドルコスト平均法とも呼ばれ、大きく損はしないし、大きく得もしないけれど、ちょっと得かな、という感じのやり方です。

僕は、この戦略は、実際に得するかどうかよりも、心穏やかに投資できるという点にメリットがあるように思えます。
株価が大きく下がっているときには、既に買った分は値下がりしてしまったけれど、これから買う分は安く買えるんだ、と自分を慰めることができます。
株価が上がっているときは、もっと早く買っておけばよかった、もう少し下がったら買おうかな、なんてモヤモヤ考えずに、自動的に淡々と購入することで、買い時を逃さずに投資することできます。
人間の心の弱さを補うものとして、積立投資戦略はとても有効だと思うのです。

なお、毎月の給料から一定の額を投資に回すという場合、いくらずつ積立をするかは簡単に決められますが、すでにある100万円をいくらずつ積立に回すかは難しい問題です。

僕にも答えはありませんが、考慮すべきは、世界的な株価の下落は、これまで、コロナ・リーマン・・・と遡ると10年に1度くらいの頻度で起きているといいう事実です。そう考えると少なくとも数年かけて積立が終わるよう、少しずつ積立をしたほうがいいように思います。一方で、早めに投資を始めないと儲けも少なくなるというジレンマはあるのですが・・・

3-4 投資の期間

ここまでで、よし、投資するぞ、と思っていただいた方がいたら嬉しいです。

だけど、ここまで勧めてきてなんですが、その投資はなんのためにするのでしょうか。たぶん、将来、まとまったお金が必要になったときのために、ということだと思いますが、それはいつのためでしょうか。

僕が考える投資とは、10年、20年の長期間で行うことを想定しています。長期的な経済環境の変化から資産を守るための投資なのですから当然でしょう。未来は不透明だからこそ、少しずつ分散投資をすることでリスクを減らして資産を守るという戦略をとっています。だから短期的には損をすることもあります。

もし、あなたが今、中学生の子どもがいる親で、大学進学資金で株式投資しようとしているならばやめたほうがいいと思います。(または後述する債券投資に限ったほうがいいと思います。)数年で得られるかもしれない儲けは少ない割に、万が一、損をして大学進学ができなくなったら、最悪、家庭崩壊です。

僕の提案する投資が一番適しているのは、老後資金のために行う投資です。

10年、20年と投資期間があれば、コロナやリーマン級の株価下落があったとしてもいずれ持ち直すでしょう。これまでの資本主義経済の傾向を信じるならば大きく損をすることはないはずです。うまくいけば、年8%の複利効果によりお金は大きく増えるかもしれません。そうしたら早期退職をして世界一周旅行ができるかもしれません。(僕の願望です・・・)

そういう妄想はともかく、重要なのは、長期的な世界経済の変動に家計がついていけるということです。万が一、日本の財政が破綻しても、日本だけが経済停滞して貧しい国になっても、外国資産というかたちで資産を守ることができるのです。

このような長期的な視点の投資は、少なくとも10年くらい先を見据える余裕を持って行うべきだと思います。

もし、あなたが目指す投資が僕が考える投資とずれているならば、少なくとも僕が提案するままに投資をするのはやめたほうがいいと思います。

3-5 NISAとIDECO

ここまで、なるべく汎用的な内容にしようと心がけてきましたが、ここで2020年の今にしか通用しないだろうことに触れておきます。

NISAとIDECOです。これらがどのような制度かは色々と情報があるので皆さんにお調べいただくとして、ざっくり言うと、いずれも税金が安くなる制度です。だから、条件に合えば絶対に使うべきだと思います。

ただ、その前提として、投資の期間をどの程度想定するか、という問題があります。NISAは頻繁に売り買いすると不利になる可能性があり、IDECOは60歳まで引き出せません。

だけどこれらは、僕が考える長期的な投資スタイルでは問題とはなりません。先ほど想定したような、10年、20年先の老後を見据えて長期の投資期間を考えているならば、積極的にこれらの制度を使うべきだと思います。

4 具体的な投資のあれこれ

ここまでで、目指す投資スタイルが明らかになりました。10年、20年という長期間にわたり、NISAやIDECOを最大限活用し、日本以外の外国株式の投資信託を積立投資しつづけるというものです。

ここからは、僕自身の経験を踏まえた独断も含めて、具体的にどうすればいいのか、お示ししたいと思います。

4-1 証券会社選び

まず、お世話になる証券会社を選ぶことになりますが、ポイントはいくつかあると思います。

①長期間お世話になるので、できるだけ大手で安心できるところ。(万が一破綻しても、お金が引き出せないなんてことはないですが、色々面倒なので。)

②NISAやIDECO、投資信託の取り扱いが充実しているところ。(個別株の取引が充実しているところではなく。)

③費用が安くて色々と便利なネット証券。

という感じでしょうか。当てはまるところはいくつかありますが、独断と偏見では、2020年10月現在だと「SBI証券」がいいと思います。なお、あわせて「住信SBIネット銀行」の口座も開設しておくと色々と便利かもしれません。(ほかには「楽天証券」もいいかもしれませんね。「マネックス証券」はなんとなく、少し玄人向けな気がします。)

4-2 投資信託の銘柄選び

証券会社を決めたら、いよいよ銘柄選びです。(その前に面倒な口座開設手続きはありますが・・・)

4-2-1 インデックスファンド

まあ、外国株式の投資信託ならなんでもいいのですが、おすすめは、インデックスファンドというものです。投資信託には、投資信託を運用する人があれこれ考えて投資するアクティブファンドと、株価の指標(日経平均とかダウ平均とかいうやつです。)に機械的に連動するだけのインデックスファンドというものがあります。本気で儲けようとするならば、ファンドマネージャーを信頼してアクティブファンドもいいでしょうが、僕が推奨する投資は、あくまで分散投資をして資産を守るためのものなのでインデックスファンドで十分です。

インデックスファンドのメリットはコストの安さです。投資信託にかかるコストとしては、購入時にかかる買付手数料と、毎年かかる信託報酬とがあるのですが、インデックスファンドはいずれも低く抑えられています。

ダメ押しとなりますが、面白いことに、決してアクティブファンドの成績は決して優秀ではありません。ソースはきちんと調べていませんが、アクティブファンドの成績の平均値はインデックスファンドに負けているらしいです。

ということで、インデックスファンドで間違いないでしょう。

4-2-2 アメリカか世界か

さて、具体的な銘柄を選ぶ際の最大の難関のひとつは、世界全体の株式を買うか、それともアメリカの株式を買うか、です。

実は分散投資と言っても、世界の株式の3分の2はアメリカ株です。つまり株式に分散投資するとは、アメリカ株を買うということにかなり近いです。これでは分散投資にならないですよね。ここが苦しいところです。

それならば諦めて本家のアメリカ株に限るか、それとも、これからは新興国の時代だということで世界株を選ぶかは、個人の好みの問題だと思います。

この問題を僕自身が考えるにあたって重要だと思っている視点は「人口ボーナス」と「覇権国家」です。

人口ボーナスとは、人口が増えているときに、その国の経済は伸びるという法則です。人口増が経済成長のボーナス加点になっているから人口ボーナスです。戦後日本がよい例でしょう。若いベビーブーム世代は、老人介護などの問題を抱えずに右肩上がりの経済成長を達成しました。それと同じことが世界中で起きているというのが人口ボーナスという視点です。

この視点から東南アジアそして中国の成長が説明でき、その次はアフリカだと言われています。ちなみにアメリカは先進国になっても移民による人口増が予想されている珍しい国です。

つぎに「覇権国家」ですが、これは、どちらかというと政治学用語です。紀元前後はローマ帝国が覇権国家で19世紀はイギリスが覇権国家でした。20世紀は当然アメリカです。現代は覇権国家アメリカに準覇権国家である中国が挑戦しようとしている図式でしょうか。

アメリカと中国の振る舞いを見ていれば、覇権国家のメリットは明らかでしょう。覇権国家になれば、ジャイアンのように自分のルールを周囲に押し付けて有利な状況を作り上げることができるのです。覇権国家だけが世界経済の果実を総取りできるとも言えます。(僕はあまり詳しくないですが、1985年のプラザ合意がその例でしょう。これは覇権国家アメリカが日本に円高を押し付けることでアメリカが日本の富を奪い取ったとも言えるでしょう。)

僕個人は、このような観点から、米国株に絞ってもいいかな、と考えています。どうせ米国株が下がれば、よほどのことがない限り、全世界の株が値下がりするだろうし、とも思っています。(このあたりは人それぞれだと思います。)

あと、細かい話ですが、世界株式より米国株式のインデックスファンドのほうが手数料はちょっと安いです。

また、世界株式タイプの投資信託の多くは、投資先に日本が含まれてしまっているので、少額でも日本に投資してしまうことが嫌でしたらやめたほうがいいかもしれません。

ということで、世界株式と米国株式の二択で悩んでください。

4-2-3 債券も少々

ここまで株式前提で話を進めてきましたが、安心感という点では現金に近い性質を持つ債券も捨てがたいものがあります。

債券を発行するということは、アメリカのような一流国が利率を決めて利息を払うと約束してくれているのです。この約束が破られるときは世界の経済が破滅するときでしょうから、あまり気にすることはありません。ですので、債券は実質的には外国通貨での定期預金のようなものと考えてよいでしょう。

更に投資信託になっていれば、いつでも売り買いができるので、数日待てば現金化することもできます。

ということで、安心感を重視するなら、投資信託を選ぶにあたっては株式だけでなく債券の投資信託を考慮に入れてもいいと思います。
または、当座必要でないけれど確実に現金として確保しておきたい分は、現金ではなく債券にしておいてもいいと思います。

なお、ここ場合も外国債券を選ぶのがポイントです。日本の債券を選ぶということは結局、日本円に集中投資していることになってしまいます。外国の債券ならば通貨の面では分散投資ができるので、僕が提案している投資スタイルにうまく合致します。

4-2-4 銘柄選び

以上を踏まえると、具体的には、世界株式か米国株式のインデックスファンドに、好みに応じて外国債券の投資信託を組み合わせるという戦略がおすすめということになります。

では、それを踏まえて銘柄選びです。

(実は僕が提案している投資スタイルは非常にオーソドックスなものなので、最近出てきているロボアドバイザーを使っても同じようなことになります。つまり、こんなに長々と読まなくても、ロボアドバイザーサービスに申し込めばよかったのです。だけど多分、ロボアドバイザーはIDECOやNISAに対応していないので、それらを活用する方は普通に自分で銘柄を選ぶ必要があります。)

コストが低いインデックスファンドには、いくつかブランドがあって、2020年現在、代表的なものは、eMAXISとバンガードです。このあたりは移り変わりがあるので参考までですが。まあ、インデックスファンドはコスト競争が激しく、いきつくところまでいっている感があるので多分、どれを選んでも大差ないです。

ただ、証券会社の一覧に出てくる投資信託のなかには米国株式のうち中小企業だけに投資するものや、世界株式のうち先進国にだけ投資するもの、というように投資先を限定したものもあるので注意してください。ここで選ぶべきは、なるべく薄く広く投資するタイプの投資信託です。

あと、債券も混ぜるなら、バランス型と呼ばれるカテゴリーを選ぶといいかもしれません。これは債券と株式などいくつかの種類の金融資産をバランス良く混ぜたものです。

とにかく証券会社のサイトで、国際株式、国際債券(またはバランス)のカテゴリーに区分されているインデックスファンドを手数料が安い順で並び替えてよさそうなやつを選びましょう。購入する銘柄で検索をすればネット上で評判も出てくると思います。

そのようにして選んだものは多分メジャーな銘柄なので積立購入に対応しているし、多くは積立NISAやIDECOにも対応していると思います。

積立日の設定は、気分としてですが月初や月末よりは普通の日のほうが変な値動きがなくていいと思います。自動車もやっぱり月初や月末のほうが混んでいるので、そういう日はなんとなく避けたほうがいいかな、と。

あと、ボーナス月の増額もしないほうがいいと思います。目指すは均等な分散投資ですから。

ということで投資の準備はこれでおしまいです。あとは自動で毎月積み立ててくれます。お疲れ様でした。

5 その後の作業

その後の作業は税金の手続きくらいです。NISAにしておけば非課税なので手続きは不要です。IDECOは年末調整で手続きが必要です。

最初のうちは儲かっているかどうか気になるかもしれませんが、なるべく放っておきましょう。ただ、口座のお金がなくなって積立ができなくなっていたりするかもしれないので、時々チェックしましょう。そのためにも、あまり複数の証券会社を使うのはオススメしません。ただでさえ証券会社の口座にログインすると、いろいろな通知が届いているので、それを読まなければならなくて面倒くさいのです。

将来的にお給料に余裕ができたときなどには積立額の調整も必要となります。ここで重要なのは、自分のお財布の具合によって積立額を調整するのはいいけど、景気や株価といった外的な事情で積立額をいじるべきではないということです。だいたい人間の心理は裏目に出ます。安いときに買って高いときに売るのが商売の鉄則であると重々承知しつつも、株価が下がると投資から手を引きたくなり、株価が上がると投資に力を入れたくなります。そのような心理を克服するために機械的に積立にしたのに、色々といじっていたら意味がありません。日頃は投資のことなど忘れて、数ヶ月に一度、残高を確認してほくそ笑むくらいが投資との適度な距離のとりかたです。

6 趣味としての投資

ということで機械的な積立投資をお勧めしてきましたが、もし投資が面白いと感じたら、個別株を買ったり、デリバティブに手を出したり、色々試してみてもいいでしょう。

なぜなら自分のお金がかかっているのだから真剣に色々勉強するだろうからです。また、自分の判断で行動した結果、失敗したり成功したりするなかで学ぶことも多いでしょう。それはきっと、今後の投資において役に立つと思います。

そう考えると、趣味としての投資に回すのはせいぜい総資産の1割くらいにしておいたほうがいいでしょう。また、もし家族の資産を投資しているのだとしたら、きちんと家族の了解をとりましょう。家族の幸せのために投資をしているのですから投資が家族にとっての不幸になってしまったら元も子もありません。僕自身、投資をしていて負けを取り返そうと博打のように熱くなってしまうことがありました。投資は結構危険な趣味です。ほどほどに。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 5 おまけ

5 おまけ

最後に、この文章のどこにも入らなかった考察をメモ書き程度に残しておく。

5-1 愛着・暴力

この本には猫が登場する。しっぽの先が少し曲がったハチワレだ。(p.284)

だが、この猫は、ただのしっぽの先が少し曲がったハチワレではない。名付けられ、長年ともに暮らす「この猫」として、波及と還流の構図に巻き込まれ、この猫は世界に溶け込んでいく。

これは、円環モデルを用いるならば、顕在性の意味論の領域から離れ、解像度を落としていくプロセスだと言っていいだろう。このようなプロセスを駆動するものは猫への愛着だ。愛の力が世界を動かしている。

猫の議論の箇所は、以上のようにも読むことができるものであり、入不二には珍しく、非常に倫理的な描写だと思う。

だが、一方で入不二は同じものを暴力とも表現している。

他の猫との比較としての相対的な猫から、この猫という絶対的な猫となるのは暴力でもある。これは「相対主義が開く他の選択肢や異なる相貌を無きものにするような、問答無用の破壊的な力」(p.312)である。

この破壊的な力を入不二は「黙らせる力」(p.318)とも呼ぶ。

このような力のあり方を踏まえるなら、一見、倫理的と思える場面での力さえも、「語ることを強いる力」や「愛着を持つことを強いる力」とも表現することができるだろう。(僕も猫を飼っているけれど、ネコの魅力には、そういう暴力的な側面があるように思う。)

5-2 身体・生命

入不二は森岡との「このもの主義」の議論において、森岡との距離を縮めるために「身体」のとりあえずの源泉性を認める(p.238)。そこまで歩み寄ったうえで残る(または歩み寄ったからこそ強調される)森岡との違いを、入不二は「もの」と「こと」の違いとして示している(p.242)。

入不二が身体の「とりあえず」の源泉性を認めるとは、つまり、入不二が白眉と認めるプギャーの一コマ(p.240)のようなかたちで、身体が、力の受信側としての二人称と、力の発信側としての一人称の両方を持つことを認めることだと解釈できる。身体がこのような二面性を持っているからこそ、身体は波及と還流の構図に巻き込まれることができることとある。こうして身体は波及と還流の構図のなかの一点として位置づけられることになる。以上が入不二と森岡との歩み寄りの場面だ。

しかし、入不二によれば、入不二の波及と還流の構図はあくまで「こと」的な力の流れであり、一方で、森岡のものは人や局所という事物「もの」が主人公であるという点に違いがある。

しかし、僕はここに疑問がある。入不二が述べるほど、「こと」的な入不二と「もの」的な森岡との違いは明確ではないように思う。

入不二が歩み寄りのために認めた身体とは、いわば、「もの」化した「こと」であり、多分、森岡ならば、「生命」と表現するのではないだろうか。森岡的に表現するならば、波及と還流の構図とは、生命の力が波及・還流し、この世界を巡っていることを示すものであり、生命は身体というかたちで分有されている、ということになるのではないか。(森岡の議論はあまり承知していないので、なんとなくそう思うだけだけど。)

「生命の力」という「もの」と「こと」の中間的な用語を用いるならば、表現の好みの違いはあっても、二人の考えはかなり接近するような気がする。

だから入不二と森岡の違いを強調するためには、より直接的に身体の受け入れの場面に立ち戻ったほうがいいように思う。

入不二の議論の魅力は妥協を許さないところにある。それならば、森岡が描く「生命の力」という道筋につながる「身体」など、とりあえずであっても認めないほうがいいのではないか。

入不二は既に別のかたちで「生命の力」や「身体」を表現している。それは、動物が持つ黙らせる力であり、問答無用の破壊的な力だ。

そちらの方向での入不二と森岡の議論の絡み合いを見てみたい気がする。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 4 距離2 離脱・独自

4 距離2 離脱・独自

以上で、最も僕が取り上げたかった議論は語り終えた。この第4章では、入不二の議論というより、僕自身の哲学の考察につながることを論じていきたい。だから、この章はあまり読んでいただく必要はないように思う。

4-1 日常・神

円環モデルとは、僕が先ほど描いた二通りの螺旋、つまり現実性が失われて下降していく下向きの螺旋と、現実性が満ち足りて上昇していく上向きの螺旋の中間にあるものとして捉えることもできるのではないか。

「あるなる」の用語では中間だが、この本に即すなら緊張関係としたほうがいいかもしれない。

もし、そのように捉えられるとするなら、円環モデルという中間・緊張関係とは何を意味するのだろうか。

このことを考えるために、現実性の神を持ち出したい。

現実性の神とは超人的な神ではない。だが、神であるからには、現実性の神は現実性を与え、奪うことができるはずだ。更に、その与奪は無際限のものであるに違いない。与えるならば与えたという痕跡も埋め尽くすほどにとことん与え、奪うならば奪ったという痕跡さえも消し去る。だから与えられた者は与えられたことにすら気づかないし、奪われた者は奪われたことに気づくことさえできない。これは存在論的忘却(p.320)の議論につながるだろう。

だけど実際には、僕たちは、生まれたり、死んだり、変化したり、といったことに満ちた世界に生きている。これは現実性の神からすると全く余計なものだろう。僕たちは神に抗って生きているのだ。

僕たちが神に歯向かうために使っているのは、現実性の神が持つ、与奪という二面性だろう。僕たちは神が与奪という二項関係を有しているからこそ、そこに中間・緊張関係を見出し、円環モデルという自らの居場所を確保できている。

もし神の力というものが、このような緊張関係から解放されたなら、それは、円環はおろか螺旋を描く必要すらなく、ただ上向きか下向きかに突き進むだけだろう。それをねじ曲げて平面上を経巡らせているのは、神の二面性を用いた人間のわざである。

このように考えるならば、平面的に描かれた円環モデルとは、極めて人間的なものであるはずだ。僕はそれを日常と呼びたい。入不二は円環モデルが反復され回り続けることについて、次のように言っている。

初発の現実のインパクトは、反復する現在の内で均されてしまう。「なにかが起こった(起こっている)」ことは、奇跡的に偶然である始発点というあり方から、日常的に必然である任意の点というあり方へと転落する。(p.178)

僕もそう思う。円環モデルとは、神の奇跡を日常に転落させる人間の描写なのだ。いわば、去勢された現実と言ってもいいと思う。

(円環モデルとは下向きの螺旋と上向きの螺旋の中間であるが、下向きの螺旋とは、あったはずの現実性が失われるという事態を意味する。このような想定は、現実性という神とは相容れないものであり、人間の勝手な想定に過ぎない。神はひたすら与え、奪うことなどない。)

入不二が円環モデルを描ききることができたのは、肯定主義を適用したからこそだが、そこに限界があったとも言える。肯定主義とはあくまで肯定「主義」なのだ。それは言語にとらわれた人間の行為である。

平面の円環ではなく、上向きの螺旋を描くためには、肯定「主義」ではなく肯定そのものの力を用いる必要がある。いわば、現実が円環を経巡るうちに生じる上向きの揚力を生むような議論だ。

(僕は肯定の力と現実の力とは重なるような気がしている。)

実はそれも、入不二の議論のなかには既に準備されているように思う。例えば、「あるなる」でのケセラセラの運命論やビッグウェーブに乗るサーファーの描写(サーフボードは揚力を生んでいる)はその道筋を示しているのではないか。

(※現実の力を揚力と捉えるならば、円環モデルにおいては左回りがないだけでなく、立ち止まることもないだろう。入不二は「潜在的な現実は、必ずしも顕在的な現実という局面(相)を伴う必要はない(ただ潜在しているだけの現実がありうる)。」(p.194)とするが、現実とはどこまでも動的でなければならないように思う。)

このようにして、上向きの螺旋モデルを採用することができたならば、入不二が問題とするような、1回限りで円環が途切れるか、ギャップが埋められて円環が継続するか、という問題は生じない。円環は開いたまま回り続け、神のほうへと上昇し続ける。

4-2 時間・矢印

この本における時間の扱いは難しい。そもそも「現実性という神自体は非時間的な力である」(p.386)とするとおり、現実と時間は無関係である。(無関係が関係するという点に「今」の特異性はあるにせよ。)

つまり、時間については、現実を論じたこの本とは別の道筋で論じられる必要がある。(入不二は既に他の本で論じている。)

あえて、ここに取り上げた限りで、時間を見出すならば、少なくとも次の三つが時間の候補として見いだすことができるだろう。

①平面の円環モデルを経巡る矢印としての時間

②垂直の矢印としての時間

③時制としての時間

このうち特に重要なのは③であり、時制と時間との違いだ。この本でも強調されているが、時制を混入させずに時間を理解するということが、入不二の時間論を理解するための絶対条件だと思う。(※)

実は、この時制と時間を分けるというのが難しい。(僕もできているかはわからない。)だが、明らかに言えるのは、時制を削ぎ落とした時間とは、ベクトルそのものに近いということだ。

それならば、①と②の平面と垂直の二つの矢印こそが時間の候補であるのは明らかだろう。

入不二は時間に、ベタの時間とスカ(無関係)の時間という二つの側面を見出す。二つの側面があるということと、時間の候補として①と②という二つの矢印があることは関係している。

ベタの時間とスカの時間とは、入不二が見出した12時のギャップを時間的に表現したものだろう。12時のギャップについての謎めいた視線の図(p.50、p.176)によれば、視線の向きによってギャップの有無という二通りの捉え方がありうる。一方の円環モデルがギャップなく平面上を回り続けるという捉え方は、「②垂直の矢印」を必要としないという点で「①平面上を経巡る矢印」としての時間とつながる。また、もう一方の円環モデルには越えられないギャップがあるという捉え方は、それを乗り越えるための「②垂直の矢印」としての時間とつながる。

興味深いのは、過去と未来には非対称性があるということだ。過去については、それを大過去にまで深めたとしても、「②垂直の矢印」を必要としない。そのことは謎めいた視線の図では過去方向にはギャップが見えないことと重なる。一方で未来については、「②垂直の矢印」を必要としない「ベタの未来」と、「②垂直の矢印」を必要とする「無でさえない未来」の二つがある。つまり、円環モデルについては、「①平面上を経巡る矢印」としての時間を考慮する限りでは、右回りでも左回りでも違いはないが、「②垂直の矢印」を考慮した途端に、円環モデルは右回りしか成立しなくなる。

この過去と未来の非対称性は、円環モデルには右回りしかなく、また、円環モデルとは実は上向きの螺旋モデルとしてどこまでも開いているということを意味しているのではないだろうか。

また、ここにも、ケセラセラの未来とも呼ばれる「無でさえない未来」が持つ特別な意味がある。ケセラセラの「軽快な解放感」(p.175)こそが、日常から飛躍する力なのではないだろうか。

(※時制としての時間について付言すると、入不二の円環モデルにおいては、顕在性の領域=意味論=未来、潜在性の領域=認識論=過去という対応関係があるように思う。例えば、第1章の時制の議論(p.48~)における「未来の未来性」の第1・2の要因とは潜在性の領域から見た顕在性の領域のことである。また、過去性の第3の要因は潜在性の領域に見いだされる。また、入不二の円環モデルとは意味論と認識論の円環だとするならば、未来の可能性は顕在性の領域にあるという点で意味論的であり、過去の記憶は潜在性の領域にあるという点で認識論的である。)

4-3 内包・もの

円環モデルの始発点について、入不二のように脱内包と見るか、僕のようにそうではないと見るかはともかくとして、いずれにせよ、始発点に内包はない。円環モデルの昼の領域を進むにつれ、内包は獲得されていくことになる。では、内包のひとつひとつを円環モデルのどこに位置づけるべきなのだろうか。

この問題については、円環モデルを拡張した波及と還流の構図における「もの」が、どのように成立するのか、というこの本の第6章の議論に対する疑問として考えたほうがいいかもしれない。

入不二の波及と還流の構図においては、中心にある●としての「私」とその周辺にある「もの」と、最外周にある○としての「世界」との違いには着目されず、いずれにせよ現実の力が及んでいるという点が強調される。例えば次のような記述がある。

「X」は、「私」であろうと「もの」であろうと「世界」であろうと、何でもかまわない。(p.236)

つまり、ここには、実際はたまたま中心にある●は「私」だったけれど、それは「もの」でもかまわなかったはず、という視点が前提とされている。このような方向の議論は、この本で入不二が強調するものではない。(どちらかというと、読んだことがないけれど九鬼が主張する方向だろうか。)しかし、「「初発の現実」自体が、さらに深い水準では偶然性に晒される。」(p.161)とされるとおり、入不二が、12時のギャップについて議論する際には、この根源的偶然を前提に組み込んでいることは明らかだろう。

つまり、根源的偶然を表現するためには「私」が中心にある構図のほかに、「もの」が中心にある波及と還流の構図を無数に描く必要がある。そのうえで、そのうちのひとつとしての「私」が中心にある構図だけが根源的偶然により選択されるのでなければならない。これが可能世界論だろう。

だがそのような議論を、あくまで意味論の枠内での議論であり不徹底だとするのが、入不二に限らず、可能世界論を却下する側の立場となるはずだ。

このような立場に対して疑問を提示したい。

たしかに僕は入不二が読み替えた「このもの主義」(=これ主義)を受け入れる。では、入不二の「これ主義」において、波及と還流の中心にあったはずの「もの」はどのように描かれるのだろうか。波及と還流の構図において、「もの」を単に「私」の周辺に配置するだけでは描写が足りないのではないだろうか。

(これは、限定的なものであっても可能世界論には一定の正しさがあるとするならば、可能世界論を全否定せずに肯定的に捉え、可能世界論を波及と還流の構図に組み込む必要があるのではないか、という肯定主義の徹底の見地からの疑問でもある。)

この疑問に対する僕なりの答えはまだきちんとまとまっていないので、イメージによる描写となってしまうことをご容赦いただきたい。

僕は、現実性の力を解放することにより、円環モデルを上向きの螺旋モデルに発展させることができると考えている。発展可能性があるだけでなく、現にそのようなあり方をしていると考えている。

この螺旋モデルを比喩的に用いるならば、螺旋を縦に見ると、円環が重ねられているように見えるはずだ。円環の向こうには一周前の円環が垣間見えるというかたちで。

「もの」とは、このようにして垣間見える一周前の「私」なのではないだろうか。

円環モデルにおいては、「この私」を始発点として円環が循環し続けていた。12時の奇跡が成し遂げられる限り、「この私」は「この私」であるという日常が永遠に続いていた。

しかし、上昇する螺旋モデルにおいては、始発点の「この私」は同じところには戻らない。一周回った始発点の「この私」は、以前の「この私」を見下ろしているはずだ。

ここでの「以前の「この私」」こそが「もの」なのではないだろうか。

私は、以前の私である「もの」を見下ろしている。

以上が円環・螺旋モデルを用いた説明だが、波及と還流の構図に戻るならば、更に付け加えるべきことがある。

波及と還流の構図では、「私」の周囲に無数の「もの」が並列的に位置づけられている。現実の力は無数の「もの」を巻き込むようにして波及し、還流している。

つまりこれは、上向きの螺旋での最上位の「この私」の円環が見下ろしている「もの」の円環はひとつではなく、並列的に無数にあるとも表現できる。これは既に螺旋で示すことができない構造である。波及と還流の構図自体が更に波及し還流しているというべきだろう。

以上の描写は勇み足すぎ、この本の議論から離れすぎていると思われるかもしれない。しかし僕は、この本についての考察として、この僕のアイディアを述べる理由があると考えている。

僕は12時の飛躍においてなされていることは、マイナス内包の一部からの何かの産出ではなく、マイナス内包全体が一挙に始発点に立ち現れるのだとした。

もしその主張が認められるならば、始発点にあるものは一周前の円環が描いてきたものの一部ではなく、その全てでなければならない。

だが円環モデルを反復と捉えるならば、そのような捉え方はできないだろう。特に着目したいのは円環モデルの特に右半分の顕在性の領域の議論だ。ここでは、始発点にあったはずの「全て」は顕在性の領域を通じて全一性を失い、6時の転回の直前には、無限のなかの一点となってしまう。そこで行われていることは、全体を部分に貶める作業である。

当然、入不二の円環はそこでは終わらない。顕在性の領域でなされた全体の部分化の作業は、その後の潜在性の領域における部分の全体化の作業により回復される。顕在性の領域でなされることと潜在性の領域でなされることは、鏡のような関係にあると言ってもいいだろう。

このような議論の流れについては、数と質という言葉を用いて比喩的に表現することもできるだろう。顕在性の領域の議論とは、質から数への議論だ。分割して数で埋め尽くすことにより世界を把握しようとする。一方で潜在性の領域の議論は、数から質への議論だ。分割を埋め直すことにより世界全体のあり方を把握しようとする。つまり、円環モデルとは、数と質との間の大きな往復運動なのだ。

このような捉え方は、円環モデルを螺旋として読み替えず、円環の反復であるとする考えと親和性が高いだろう。

僕はこのような考え方に正面から反論したい。この議論は、顕在性の領域で成し遂げられたことを否定しており、肯定主義を徹底できていないのではないか。顕在性の成果を「質から数へ」と圧縮して表現するならば、円環モデルを往復運動と捉えるということは、「数」を否定し、なかったことにするということであり、そこに否定が入り込んでいるのではないか。

「数」を否定から救い出し、円環モデルに位置づけるためには、ともかく新しい何かが書き加えられるべきであるのは確かではないだろうか。その有力候補としては、僕が描いたような道筋はありうると思う。

とりあえずのイメージとしての描写に過ぎないものであるが、僕は、個々の内包や「もの」と呼ばれるものを位置づけるかたちで、無数の円環を巻き込みつつ上昇する螺旋モデル、または波及と還流の構図自体が更に波及し還流する構図を提示したい。ここにある解放性こそが肯定主義を貫徹していることの証左であると思われるから。

(なお、僕がこのようなアイディアを考える中で心に浮かんだのは、ホワイトヘッドの「抱握」という言葉だ。僕は確か入不二先生のツィートをきっかけに飯盛先生の「連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学」を読み、この言葉を学んだ。僕が入不二先生の円環モデルに読み込もうとしたのは、僕なりの解釈としての「抱握」なのかもしれない。)

4-4 他者・対話

このように描写した「もの」とは他者でもある。種としての人間ではなくても、たとえコップであっても、「もの」には他者性がある。なぜなら、他者性がわずかでも含まれているからこそ、波及と還流に巻き込まれることができるからだ。僕はそのように考えている。

しかし、このような話は明らかに脱線なので、そちらの方向の議論には踏み込まず、とりあえず他者としての人間が波及と還流に巻き込まれるのだと想定してみよう。

そのうえで先ほどの考察を踏まえるなら、次のように言うことができる。他者とは、過去の(円環の一周前の)私である。

これに対しては当然異論があるだろう。他者と自分とは違う。他者であったという記憶はありえないが、過去の自分とは記憶でつながっているのだから。

だが、この本の入不二の議論では記憶はほとんど登場しない。というか、記憶が重大な役割を担う余地がないと言ったほうが正確だろう。入不二が描く抽象画においては、記憶というような具体例は不要なのだ。

確かに他者と過去の私との間には違いがあるかもしれない。だが、そのような違いよりも、もっと根源的なことを入不二は論じている。彼の議論は、記憶や自他の違いを否定しているのではなく、ただ超えている。

僕もその超越性を引き受け、自他の違いを棚上げにしたままに考察を進めるならば、過去の私でもある他者が波及と還流に巻き込まれるという事態に僕は興味がある。これこそが「対話」ではないか。

僕は哲学対話というイベントを主催したり、哲学対話を紹介するサイトを管理したりしている。要は「対話」というものに興味がある。

そのような興味深いものとしての「対話」を入不二の議論に見出すことができることはとても意義深い。(だからこうして書き残している。)

では、入不二の議論の枠組みに沿うなら、私はどのように他者と出会い、対話するのか。

まず、他者との出会いの場面は、明らかに円環モデルの顕在性の領域に見出すことができるだろう。顕在性の領域とはいわば数の領域であり、他者と出会うとは、1が2となり多となることである。そのように考えるなら、他者との出会いと顕在性の領域での議論は重なる。顕在性の領域で重要な役割を果たす可能性とは他者のことであると言ってもいいだろう。

その後、転回を経て、外在的な存在であった他者は、潜在性の領域において私に取り込まれていく。私と他者の間にあった区別が埋められ、溶け合い、不分明になっていく。

以上の円環モデルのプロセスは、異質のものであった他者が理解されていく経過を描写していると言ってもいいだろう。

だがそれで終わりではない。更に他者は理解から逃れていく。これが12時の飛躍だ。飛躍した後は理解して溶け合ったはずの他者が、外部の存在として立ち現れる。円環モデルによれば、あとはこのようなプロセスの反復となる。

つまり、他者はどこまでも理解されつつも、どこまでも異質でありつづける。他者はそのような二面性を持っており、そのような他者と行う二面的な営みこそが対話である。このような他者との対話の二面性を、円環モデルはうまく描写しているように思う。

(6時の転回とは意味論が尽きるところであり、他者を信頼して語り終え、言語を手放すことではないか。これはいわば語り手の側からの対話の描写である。12時の飛躍とは、他者の「ソクラテスは哲学者である」という言明に「現に」を付与し、単なる命題ではなくて現実の描写として受け止めることではないか。これはいわば聞き手の側からの対話の描写である。)

更に付け加えるなら、僕は円環モデルを、反復的な円環から開放的な螺旋に発展させた。このことは、他者との出会いは反復的で予定調和的なものには留まらず、どこまでも想定外で新しいということと対応している。

実は「対話」もそのようなものである。他者との対話は想定外だから面白い。対話とは理解と驚きの間を行き来するようなものとも言えるが、そのように反復的に捉えてしまうと対話の醍醐味を捉えきれない。ほんとうにうまくいったときの対話とは、一度限りでしかありえないほどの想定外の驚きが、なぜか理解されるという奇跡が、なぜか何度も訪れるというあり方をしている。対話とは、一度限りの奇跡が反復するという奇跡だ。この描写は入不二が行った未来についての描写と極めて似ている。また、対話は理解されたとたんに固定化して主張となる。これも未来が過去となるのと同じ構造のように思う。

4-5 倫理・破壊

ここまでの第4章において行ってきた僕の議論はとても生産的で、いわば倫理的なものだと思う。

なぜなら、僕が描いた上向きの螺旋とは、どこまでも肯定的であり、他者をも巻き込み、豊穣なものとして発展していくものだからだ。

ここから人生訓のようなものを引き出し、上向きの螺旋的な生き方を推奨することすらできるだろう。例えば、対話的な生き方が好ましい、というように。

この点に僕の議論の弱点があると思う。

僕がこの第4章で行っている議論は、色々なものを取り込もうとする議論だ。自然科学の成果や、日常生活や、ある種の道徳(他者を尊重すべきというような道徳)の正しさというような夾雑物をあえて取り込もうとしている。このような議論は、贅肉だらけの肉体のようで、どこか凡庸でつまらない。わくわくしない。

一方で、入不二は自然科学や日常生活や道徳などといったものには目もくれない。そんなことは無関係だ。勝手にやらせてくれ。それが彼の答えなのだ。だから入不二の議論は、決して人生訓的な読まれ方などはしない。

入不二の議論はどこまでも無内包を志向する。そこには潔さと言ってもいい独特の魅力がある。だから、なんて潔いことを、なんてねちっこく過剰に描いているのだろうと僕は感銘を受ける。

(僕と入不二の議論との間に横たわっている違いに注目しているのが飯盛だろう。ツイッターを眺めている限りで承知する限りではあるが、彼は「破壊」に着目しているようだ。彼のアイディアの具体的な内容は承知していないが、破壊とは、非生産的で、非倫理的で、肯定主義を否定し、円環「モデル」というような構造を無意味とし、日常を喪失させるものだろう。究極の破壊とは、決して、僕が考えている方向とは相容れるものではないものだろう。相容れないからこそ興味がある。

なお、入不二の議論のなかでは、未来の無関係性や、未生の無といった時間の議論のなかに、破壊性を見出すことができるように思う。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 3 距離1 反論・発展

3 距離1 反論・発展

第3章は、入不二の議論に正面から反論している部分となる。

なお、反論と言っても、入不二の議論を否定しているのではなく、あえて言えば、肯定主義的に、入不二の議論を、入不二が述べたよりも肯定することを目指しているつもりだ。

3-1 右回り・遡行と埋没と転回

入不二は、遡行という言葉を用いているとおり、円環モデルを右回りにも左回りにも自由に行き来できるものとして捉えている。(12時にはギャップはあるにしても。)一方で、僕は、円環モデルには右回りしかなく、左回りはないと主張したい。これは入不二を正面から否定する主張だろう。

その理由は、まず、左回りは不要だからだ。円環モデルの利点は、いつか戻ってくるというところにある。3時の地点から2時の地点を指し示したい場合、時計の針を戻さなくても、ぐるりと右回りをすれば、2時を指し示すことはできる。円環モデル上の議論に遡行は必要ない。

二つ目の理由は肯定主義的な見地からのものである。左回りの議論とは、既に行った議論のキャンセルという意味を含む。入不二自身が、大円環ではなく小円環についてではあるが「遡るためには、どうしても「否定」を経由せざるを得ない。」(p.20)としている。肯定主義の徹底の見地からは、このような否定を入り込ませない必要があるはずだ。肯定主義においては、遡行は避けるべきものである。

第三の理由として、左回りの議論の不可能性がある。右回りに行った円環モデルの議論を逆回転するということは、いわば、それまでの議論をなかったことにすることだ。左回りの議論とは議論を忘却することでしかない。忘却してしまったら議論を進めることはできない。(存在論的忘却の議論のある一面は、この忘却の不可能性を言っているのだと思う。)忘却でしかない遡行は不可能である。

では、入不二は遡行という表現を用いているが、そのような議論は不可能なのだろうか。

いや、そのような議論を可能にするためにこそ、入不二は円環モデルを導入したはずなのだ。円環モデルを使うことで、実際には左回りに遡行せずとも、右回りにぐるりと巡ることで、無理なく3時の地点から2時の地点に到達することができる。そのような遡行的な議論を可能としているという点に円環モデルのメリットがある。いわば、円環モデルとは、肯定主義と遡行的な議論を両立させるために必要な道具立てであるとも言える。

入不二が行っている遡行的な議論は、すべて、円環モデルを用いて遡行的に見える議論を行っているに過ぎないと考えればよい。そのように考えても、入不二の議論から失われるものは何もないはずだ。

入不二が遡行的に見いだしたもののなかでも特に重要であろう「大過去」について、入不二は「先行-遅れ」と表現している。(p.53)この表現こそが、円環モデルを用いた遡行の擬似性をより正確に表したものだと考えられる。

始発点※から始まる円環モデルの議論の順序では、潜在性の夜の領域に属する大過去は、昼の領域よりも後になって登場する。しかし、円環モデルを描ききったあとでは、大過去は始発点よりも「先行」し、始発点は大過去よりも「遅れ」ているものと見做される。入不二が「先行-遅れ」という表現に込めているのは、そのような意味であるように思われる。

(※入不二は円環モデルの始発点をとりあえずのものとするが、12時のギャップを踏まえるならば、始発点をここに置くのは必然であるとも言える。)

では具体的に、遡行的な議論はどのようにして成し遂げられるのか。

この本においては(充実した索引を活用すると)遡行という表現が何箇所かで登場する。「「現に」ソクラテスは哲学者である。」から「「∅」ソクラテスは哲学者である。」、さらに「ソクラテスは哲学者である。」への遡行(p.65)、第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行(p.274)というように。

これらは、遡行とは言っても、見かけ上の遡行であり、実際は否定を伴う遡行ではない。

ソクラテスの例を否定と解釈するならば、「現に」を否定することで「ソクラテスは哲学者である。」に至ることとなる。だが入不二の議論はそのようなものではない。いわば、「現に」という言葉などなくても地の文である「ソクラテスは哲学者である。」のなかに現実性が満ちているから「現に」という言葉が不要となるのだ。これは、「現に」ではない地の文が現実性をもって立ち上がり、現にという言葉が地の文に埋没してしまったと言ったほうがいいだろう。遡行においては否定ではなく埋没が生じているのだ。

第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行についても同様である。第0次内包的なクオリアは、因果的結合や文脈からは「自立」しているが、例えば「痛み」という「概念」からは自立していない。(p.257)この次元でのクオリアがソラリスの海に喩えられるような、何らかの感じはあったはずという仕方でのみ想定される(p.261)マイナス内包的なクオリアに移行することを、入不二は遡行とする。この移行は「痛み」という「概念」を否定し、除去することで達成されるものではなく、概念がソラリスの海に埋没する過程として捉えるべきであろう。

比喩的な述べ方になってしまうが、僕が虫歯になり、痛みとして表現するしかないような第0次内包を抱えているとする。だが当然、僕の心は、その痛みという第0次内包だけに覆われ尽くしている訳ではない。歯医者のホームページを見たり、お腹がすいたりしている。実際にそのような状況にはなくても、潜在的にはそのような可能性に満ちている。(安易に心や可能性という言葉を用いているという点で)非常に誤解を生みやすい比喩だとは思うけれど、このような話の方向の先にマイナス内包は想定されるように思う。マイナス内包を想定するときに行っていることは、第0次内包としての痛みの感覚を除去するのではなく、ホームページを見たり、お腹が空いたり、という潜在的な他のものごとで埋没させることなのではないだろうか。

もし、以上のように遡行を埋没と表現することが許されるなら、遡行と(円環モデルの)6時の転回とは重ね合わせることができるように思う。

さきほど「抜け道」について論じる際に、入不二の転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものであり、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものであるとした。

ここでの無数の諸可能性、肯定項や肯定枠の立ち上げとは、埋没に相当するものなのではないだろうか。無数のものごとが立ち上がり、飽和することにより、もともとあったものが埋没していくという構図である。

(これは、時制の塗りつぶし(p.138の図)とも重なる。)

つまり、遡行と表現されたものは、実は埋没であり、転回であり、円環モデルの昼の領域にあった時計の針を右に進め、議論が6時の地点に至ったことを示すものなのではないだろうか。

そのように捉えるならば、もうひとつ付け加えることがある。6時の転回において、僕はある種の視点移動が生じていると考えた。分割自体から分割を生じさせる土俵への視点移動であり、さきほどの危うい比喩を踏まえるならば、歯の痛みから心全体への視点移動でもある。

視点移動というと、どうしても能動的で作為的なものを感じる。視点移動しないこともできるけれど、あえて視点移動することを選択するというような。だが、ここでの視点移動はそうするしかないものだろう。なぜなら、すでにもともと視点が置かれていた場所は、議論が飽和していくにつれ、無数の分割やマイナス内包や「ソクラテスは哲学者である」という地の文で埋め尽くされてしまい、そこに視点を置く余地がなくなっているからだ。転回における視点移動とは、視点をあえて移動するものではなく、充満し、埋没させる何かにより追い出されてしまうだけなのではないか。ピンポン玉が入ったコップに水を注ぐ場面を想像するといいかもしれない。ピンポン玉という視点は、コップの中から外へと移動する。

このようにして、6時の転回は作為などなくとも円滑に成し遂げられる。

このようなものとして描写できる6時の転回こそが、埋没であり、充満であり、(みせかけの)遡行であると、僕は考える。

3-2 意味論・認識論/6時・12時 

次に僕が問題としたいのは、入不二の第2章の円環モデルの6時の転回において、入不二は何を成し遂げたのか、である。既に僕は、円環モデルはいくつも描くことができるという指摘をした。そうだとするならば、いくつもの転回があるということになる。この本においても、複数の円環モデルと複数の転回を見出すことができる。入不二が第1章で示した円環モデルはそのなかでも特に重要なものであることは疑いないけれど、では、これは何であり、何ではないのかということを、転換点に着目することで捉え直してみたい。

結論から述べると、入不二の円環モデルとは、意味論と認識論の円環であり、6時の転回とは、意味論優位から認識論優位への転回である、と僕は考えている。

一方で入不二は、この転回を、意味論・認識論から存在論への転回として捉えているように思える。そのことは、第0次内包からマイナス内包への移行(逆転)のことを「意味論(認識論)と存在論(時間論)のあいだでの、両水準どうしの優位性の転換である。」(p.260)と描写していることにも現れている。(先ほど論じたとおり、僕は第0次内包からマイナス内包への移行と6時の転回とは同じものだと考えている。)

だが、入不二がp.260で行っている議論において、認識論を意味論と同列に扱う論拠は弱いように思える。そこに至る議論は、あくまで痛みや色の「概念」を巡るものであり、言語的で意味論的な側面が強い。唯一認識が表面化するのは、言語習得の場面(p.256)だが、言語習得時の子どもの認識と、言語習得後の大人の認識とを直接比較することはできない。「「逆転」は、「概念」の固定という蝶番があってこそ成り立つ」(p.259)とするとおり、ここで描いているような認識は「概念」つまり意味論に回収されてしまう。(※)

一方で、入不二が6時の転回で消去しようとしたのは意味論だという証拠はいくつもある。そもそも第1章での転回の説明自体が極めて意味論的だ。他にも、僕が気に入っている例としては、転回後の潜在性の領域において行われていることを「解像度(特定性の度合い)を下げる」(p.282)と表現している箇所がある。入不二は多分、この言葉にマーク・ロスコの絵を重ね合わせるだろう。僕ならば、ハイファイ・ローファイという音楽用語を当てはめたい。絵にせよ音楽にせよ、解像度が低いほうが認識として劣るなどということはない。むしろ込められた意味が削ぎ落とされた分、認識そのものが迫ってくる感じさえある。入不二の転回とは、このような状況を示しているのではないだろうか。

(ほかにも、痺れる表現として、次のようなものもある。「相関概念(対概念)の「外」こそが、むしろ現実の端的さの「内」であって、相関概念(対概念)の「内」こそが、むしろ現実の端的さの「外」なのである。そのように反転することによって、「言えない」ことはアポリアではなくて、むしろ「好ましい」ことへと反転する。」(p.212)これは意味論的な6時の転回についての詩的な描写だと思う。)

以上を踏まえると、入不二が6時の転回点で振り切ったのは意味論であり、認識論は潜在性の領域でも生きていると僕は考える。

また、このように考えることは、マイナス内包についての入不二の「不明瞭な「何らかの感じ」」(p.261)という描写にも合致するように思う。マイナス内包とは、意味論に頼らず、認識論のみにより捉えられた内包のことであり、また、意味論に対する認識論優位の描写こそが潜在性の正体なのではないだろうか。

以上はマイナス内包や潜在性の力を弱めすぎた描写のように思われるかもしれない。だが、僕は、6時の転回により意味論を振り切ったという入不二の偉業を強調したいのだ。入不二がここで行ったことは従来の言語の圏域からの離脱だ。転回以降を語る入不二の言葉は全く新しいものである。それを僕は非言語的言語と名付けた。(述べたとおり、この非言語的言語は肯定主義が駆動するものだ。)

非言語的言語も言語ではあるから、言語として扱い、議論を深めていくことが可能だ。議論を深めるうちに、潜在性の領域は深まり、ついには存在論的忘却(p.320)にまで至る。存在論的忘却について「自らの概念枠の縮退・縮小そして消失がありうることを示す。」(p.321)とするとおり、この議論は、言語つまり意味論の限界ぎりぎりのところにあるものだ。存在論的忘却の議論は、ついに入不二の非言語的言語さえも尽きるところまで進んだ地点に到達したことを示している。

そこは、「忘却」という言葉が象徴するとおり、認識論さえも尽きる地点である。忘却の忘却としての存在論的忘却の地点では、何かを認識していたということは語ることができないだけでなく、そのような認識さえもない。つまり、6時の転回では生き残っていた認識も、潜在性の領域のどこかでは、議論の深まりの果てにとどめを刺される時がくる。

それが12時の地点だと考えている。

潜在性の領域における議論の最終盤において、認識論は、入不二が発明した非言語的言語とともに終焉を迎える。

僕は、入不二が潜在性の議論を通じて意味論と認識論に対する現実性の優位を描いたということには反対しない。ただし、その業績を円環モデルのどの地点に位置づけるかに異論があるのだ。入不二の潜在性の議論とは、まずは意味論を葬り、そして認識論を葬るというプロセスを指しているのだと僕は考えている。

なお、僕は、入不二の議論のなかで重要な役割を果たしている、マイナス内包や潜在性という道具立てについて、その役割を縮小すべきと主張していることになるが、それは、入不二の議論を否定するものではない。あえて言うならば、入不二の議論のうち、特に円環モデルの12時のあたりをより円滑に動かすための改善であると考えている。このことは後述したい。

(潜在性の領域を認識論優位の領域と捉えることで、入不二の「動物」という用語も別の意味をもってくるように思う。なぜなら、動物を、言葉を持たない認識だけの存在と捉えることもできるからだ。また人間の側からしても、動物(特に猛獣)とは、もし出会ったなら、本能的に、つまり言語以前の認識として恐怖を感じる存在であるからだ。動物という言葉は、そのような認識優位の状況をうまく捉えていると思う。それならば、潜在性の領域の議論とは、第二次動物から第一次動物に至り、ついには動物という認識の枠組みも失い、破壊的な黙らせる力そのものへと至るものだと解釈することもできるだろう。動物とは不徹底な神である。)

(※言語習得については、言語習得以前のクオリア逆転の「時間論的な(あるいは存在論的な)」(p.258)可能性についても言及しているが、この議論でも認識論を無力化するには不十分のように思える。なぜなら、言語習得前後の断絶とは、入不二の議論によるなら、未生の無・無でさえない未来・大過去とも表現できるような強度を高めた断絶でなければならないはずだからだ。この断絶は、時間論的には乗り越えられても、(現実論から切り離されたものとしての)存在論的に乗り越えることはできない。つまり、意味論・認識論・存在論はともに言語習得の断絶には無力である。または、存在論的な乗り越えが可能な程度に断絶を弱めてしまえば、意味論はともかく、認識論が乗り越えられないとする論拠は失われてしまう。)

3-3 潰れ・転回

入不二は「始発点が必然でも偶然でもあるという事態(様相の乱れ)」(p.164)とし、様相の潰れは始発点で起きるとする。次のような表現もある。

円環モデルの「始発点」は、・・・そこから様相が開けていくような原点であった。様相の開けの原点だからこそ、その後に分化する様相(可能・不可能・必然・偶然)の全てが、一点集約的に潰れている。(p.384)

つまり入不二によれば、様相の潰れとは、様相の開けと等しく12時の出来事なのである。(正確には様相の潰れは12時の出来事で、様相の開けとは0時の出来事であり、その間にあるギャップこそが重要ということになるのだろう。)

だが、正確には様相の潰れとは、円環モデルの左半分を占める潜在性の領域全体を通じて進行するプロセスだと考えるべきだろう。これを示しているのがp.44の図だ。

僕が指摘したいのは、入不二は様相の潰れのプロセスのうちの特に前半を強調しているにも関わらず、様相の潰れを円環モデルのなかの最終盤に位置づけているというずれが招く問題だ。このずれは誤解を招くのではないか。

入不二が自然数・実数や、通常の色・(潜在無限色としての)黒という例を用いて説明する様相の潰れとは、入不二自身がアナロジーと呼ぶように、様相の潰れの議論の入り口に過ぎない。様相の潰れが潜在性の領域を通じて進行するものと考えるなら、この本を通じて入不二が行っている潜在性やマイナス内包といった議論も含めて様相の潰れについての議論であると捉えるべきだろう。だがそれらは、通常の意味での、可能・不可能・必然・偶然といった様相とは程遠い議論だ。様相の潰れと呼ぶよりは、超・様相の潰れとでもしたほうがいいかもしれない。

超・様相の潰れも含めた広義の様相の潰れについてならば、様相の潰れを12時の出来事(でもある)とすることは誤りではない。だが、もともとの様相の潰れという用語の妙味は、様相が潰れ始める、その瞬間を捉えたことにあったはずだ。様相の潰れで強調すべきは、潜在性の領域の始まり、つまり、転回点にこそある。

これは、様相の潰れを説明するうえで導入した実数や黒の分割やドメインの無さの話が、入不二が第1章で行った転回の説明にきれいに重なることからも明らかだろう。

円環モデルの昼の領域では、通常の言語による様相システムの構築が進行していく。しかし可能性が豊穣化し、様相システムをどんなに精緻にしても、そこに欠落があること(つまり現実性を位置づけることができないこと)が明らかになる。この飽和し、立ち行かなくなる地点が転回点であり、様相の潰れの始まりだ。これは肯定項(肯定枠)をいくら列挙し、または分割しても欠落がある(つまり現実性を捉えきれない)という第1章の転回の描写と重なる。そこから、いわば作戦を変えて肯定主義を貫徹しようとするのが潜在性の議論であるとも言える。

なぜ、このように様相の潰れの位置づけについてこだわるのかと言えば、様相の潰れ(の始まり)と転回が重なることを強調することを通じて語るべきことがあると思うからだ。

以上のような議論を通じて重なるものとして位置づけられた転回と様相の潰れ(の始まり)は、波及と還流の構図(p.234)において重要な位置づけを占めている。転回・様相の潰れは、波及と還流の構図における「○」「この世界」を表している。

波及と還流の構図においては、原点(始発点)としての「●」がひとつしかないように、「○」もひとつしかない。転回・様相の潰れとは、(始発点とは異なる)もうひとつの特異点なのだ。

この特異点の重要さを表すために、これまでの議論を思い出していただきたい。僕は、さきほど、円環モデルは複数描くことができ、それらを重ね合わせるかたちで波及と還流の図を描くことができるとした。

もし、この主張が認められるなら、あらゆる円環モデルの転回点は潰れというかたちで「○」この世界として重ね合わせることができる。

入不二の議論においては、様相の潰れ以外にも、人称の潰れ、時制の潰れとでも言うべき事態が生じているが、それらは全て、円環モデルの転回点として描くことができるのではないか。そしてそれらは全て、波及と還流の図式の、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないか。きちんと考えきれていないが、僕はそのような予想をしている。

(個人的なアイディアのメモに過ぎないが、入不二が緊張関係、中間とするものはすべて、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないだろうか。)

3-4 脱内包・マイナス内包

ここまでは潜在性の領域を弱める方向の議論をしてきたが、逆に潜在性の領域を強める議論をしていきたい。

入不二によれば、次のとおり、脱内包は始発点に位置づけられている。

円環モデルの左半円上部から始発点への-ジャンプ(飛躍)の内には、・・・マイナス内包(潜在性の場)から脱内包の「このもの」「このこと」への移行が含まれている。(p.297)

僕はこれに反して、脱内包はマイナス内包と並ぶものとして潜在性の領域に位置づけるべきという主張をしたい。潜在性の領域とは、マイナス内包と脱内包が絡み合うような豊穣な場なのではないだろうか。

これまで僕は、円環モデルは複数描くことができ、それを重ね合わせることで波及と還流の構図につながるとしてきた。

そのうちの入不二が第1章で提示した円環モデルについては、主に意味論と認識論の絡み合いを描いたものだと考えることができるとした。顕在性の領域において増殖していった言語(意味論)がついに飽和し、転回点においてそれを乗り越えることにより、潜在性の領域において「不明瞭な「何らかの感じ」」という認識論的なマイナス内包に至る、というかたちで。

注意すべきは、この円環には存在論がほとんど登場しないということだ。入不二によれば存在論は現実論的な色彩を持っているが、そのように解釈したとしても、現実論(存在論)は円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)や円環を駆動する力として、いわば裏方的に登場するのみである。あえて言えば、始発点においては、意味論や認識論から離れた無内包の現実が存在論的に登場している、とも言えるが。

僕の解釈によれば、存在論は、現実論からきれいに切り分けて、自然科学に代表されるような二項関係として扱うべきと考えている。このように解釈された存在論についても、入不二の円環モデルには、やはり裏方的にしか登場しない。意味論の前提となる複数性を供給し、主体・客体という認識論を成立する枠組みを提供するものとして。

そのような意味で、入不二の円環は、意味論と認識論の円環モデルなのだ。そこではほとんど存在論が前面に出てこない。

では、存在論が前面化した円環モデルとはどのようなものだろうか。

それは、始発点から、概念の方向ではなく人称の方向に進むのではないだろうか。とにかくこれは〈私〉である、というように。その後は、永井の議論のとおり、《私》が登場し、いわゆる「私」に進んでいく。ついには、いくら「私」を増殖させても、欠落を埋められないことに気づく。これが人称の潰れだ。ここから転回が始まり、潜在性の領域における、すべてが私である、という独我論につながっていく。

この存在論優位の円環モデルの潜在性の領域に立ち現れるものとはどのようなものだろうか。それは「私の世界」と名付けられるようなものだろう。独我論的には、その世界がどのようなものであっても、それは私の世界であることに変わりはない。その限りで、その世界がどのような内包を有するかは関係がない。具体的な内包はなくてもよい。ただし、それを世界と呼ぶことができる程度には何らかの内包が潜在的にでもあるべきではあろう。このように描写されるものは、「私の世界」というラベルはついていても、ほとんど入不二のマイナス内包と変わりがない。

なお、入不二のマイナス内包も全くラベルから無縁ではいられない。なぜなら、それは「感じ」ではあるからだ。入不二のマイナス内包には「感じ」というラベルがついている。

潜在性の領域は、そこに至る転回をどのように成し遂げたかという痕跡からは無縁でいられないのだろう。僕の円環モデルであれば、それは「私・世界」という存在論(人称)の痕跡であり、入不二の円環モデルであれば、それは「感じ」という認識論の痕跡である。その痕跡をも消し去り、12時に至ろうとするのが、潜在性の領域でなされることである。

つまり、ここには少なくとも二つの円環モデルがあり、一方の円環では潜在性の領域に「私・世界」のマイナス内包が潜み、もう一方の円環では潜在性の領域に「感じ」のマイナス内包が蠢いている。このうちの前者を脱内包と呼び、後者をマイナス内包と呼ぶことができることは明らかだろう。(入不二が、脱内包とは「無内包の現実性が、私・もの・世界・今などの、最小限の(形式的な)内包と共に働いている水準」(p.284)としているのはこのことなのではないか。)

いや、円環モデルは模式図に過ぎないから、波及・還流の構図として重ね書きすべきだろう。そこでは二つの円環が相互に作用している。波及の際には顕在性の領域で人称と意味が絡み合い、還流の際には潜在性の領域で、「私・世界」のマイナス内包(脱内包)と「感じ」のマイナス内包が絡み合っている。そこでは新たな円環(小円環)を生み出してさえいるだろう。

潜在性の領域に着目するならば、その新たな(小)円環とは、例えば次のように描くことができるだろう。一方では、マイナス内包であるからには誰のものであっても何らかの感覚を伴わざるを得ない、と「感じ」マイナス内包(マイナス内包)の優位性を強調し、もう一方では、どのような感じであれ、それは私の世界の内包である、として「私・世界」のマイナス内包(脱内包)の優位性を強調する、というような相互関係的な図式として。

このようにして、脱内包はマイナス内包の一種として、円環モデルの潜在性の領域で他のマイナス内包と絡み合う。

3-5 マイナス内包・無内包

マイナス内包について、脱内包を取り込むことで、いわば強化したが、再び、マイナス内包を弱める必要がある。なお、僕はこの節こそが、この文章のいわばクライマックスだと考えている。

入不二は、マイナス内包について、「ソラリスの海的な実体」(p.37)としての産出力を見出している。

マイナス内包の産出力から、生まれるはずのない何かが生まれることが12時のギャップの不可能さであり、現に生まれた後の0時の始発点から(みせかけの)遡行をすると、それは、あたかもマイナス内包から無内包の現実が生まれたものとされる。そこには不可能を可能とする謎がある。

僕もこの主張の半分、つまり不可能性については同意する。マイナス内包から無内包は生まれない。それがあたかも可能であったように見えるのは、マイナス内包と始発点との間にあるべき重大な局面についての描写が抜けている(抜けざるを得ない)ために、そのように見えるだけなのではないか。

さきほど僕は、潜在性の領域の議論は、マイナス内包と脱内包が絡み合うように進行していくとした。潜在性の領域は通常の言語が通用しない領域だから、議論を深めるためには別の手がかりが必要だ。

入不二の円環モデルによるならば「何らかの感じ」とされたマイナス内包は、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深まっていかなければならないはずだ。その際に用いるのは、いずれにせよ「私の世界」のものではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深めることができる。

一方で、僕が先ほど挙げた人称の円環モデルにおいても、「私の世界」のものとされたマイナス内包は、誰のものでもないマイナス内包へと深まっていかなければならない。その際に用いるのは、いずれにせよ「何らかの感じ」ではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、誰のものでもないマイナス内包へと深めることができる。

この二つの道筋を合わせた先には、誰のものでもなく「何らかの感じ」ですらないマイナス内包というものが出現するはずだ。これこそが真のマイナス内包であり、潜在性の議論の終着地点だ。

しかし、これは、既にマイナス内包ではないだろう。もし、これがマイナス内包だと思う方がいるならば、それは「感じ」や「私の世界」とは別の何らかの手がかりを使っているだけに過ぎないはずだ。(他の手がかりとしては、例えば、「いずれにせよこの概念体系に属している」という意味論的マイナス内包が考えられる。)もし、そのような手がかりを全て捨て去ってしまったら、それは、少なくとも、ソラリスの海に喩えられるようなマイナス内包とは異なるものになっているに違いない。12時に至る頃にはマイナス内包はマイナス内包とは呼べないものになっているのだ。

もしかしたら、以上のような迂遠な説明より、イメージに訴えた説明のほうがよいのかもしれない。(また、これなら脱内包についての僕の議論を否定されても通用するかもしれない。)

マイナス内包とはソラリスの海のようなものだとしよう。その場合、産出力とは、海の波のようなものだろう。なぜなら、何かが生まれるためにはきっかけが必要だからだ。ソラリスの海のうち、ある特別の部分だけが産出を行うことができるとするならば、その部分は他の部分とは異なっていなければならない。そのような不均一さがソラリスの海には必要だ。

しかし、潜在性の領域の議論とは、分割をベタに塗りつぶしていくようなものであり、いわば、ソラリスの海をひたすら均一に均していくような作業である。それならば、ソラリスの海が最も不均一で産出力があるのは転回直後の7時の時点であり、そこから進むにつれ、産出の機会は失われていくはずだ。

このような理解と、潜在性が進行した果てにこそ、12時の飛躍(産出)があるという図式とは整合しないのではないか。

ソラリスの海から何かが産出するという描写は、何かを見落としている。

(この本の第3章の議論によるならば、産出力を見出すという点でマイナス内包の祈りは徹底していない。真に現実性という神にアクセスするためには、生まれうるという期待も手放した無力さが必要であるはずだ。なぜなら12時のギャップは決して潜在性の側から乗り越えることはできないのだから。それは純粋な祈りであり、受容である。)

僕の考えを述べよう。マイナス内包はたしかに産出力を有している。しかし、マイナス内包のある一部が何かを産出するのではない。マイナス内包は、「感じ」や「私の世界」と名付けられないほどに均一化した果てに、マイナス内包全体として何かを産出するのだ。だがこれは、産出ではなく変化と言うべき事態だ。円環モデルに沿うならば、それまでマイナス内包であったもの全体が、一挙に、始発点の「何かが起こった」となるのだと表現すべきだろう。

この、完全に均一化し、いわば内包を失い、産出力そのものとなったときのマイナス内包とは、マイナス内包と呼ぶことは不適切だ。これは、無内包の産出力とでも呼ぶべきだろう。当然これは、現実の力そのものの別名である。

つまり12時までのマイナス内包の潜在性の領域と、0時の始発点との間には、無内包の現実が、力そのものとして発露する瞬間がある。円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)として描かれる現実の力が、力そのものとして発露するということこそが、円環モデルにおける日の出の奇跡なのではないか。僕はこの構図こそが真に入不二が描こうとしたものだと考えている。

(僕は、このことを描きたくて、これまで、様相の潰れの位置を転回点にずらしたり、潜在性の領域に認識論を残存させたり、といった微修正を入不二の議論に加えてきたのだ。)

3-6 円環・螺旋

ここまでの議論を通じて、僕は、入不二が見出した12時のギャップは、縦向きの現実性の力により埋められる、と主張するに至った。

では、平面で描かれる円環モデルのどこに、縦向きの力により埋められる余地があるのだろう。僕は、ここに円環モデルの限界があると考えている。

現実性の力を円環モデルの下から上に向かう力だとするならば、円環モデルは正確には平面的な円環ではなくて、始発点から、徐々に下に下っていくような下向きの円を描いているのではないか。

(円環モデルにおいて、入不二は上から下への矢印を描いている(p.40など)。しかし僕は、現実の力を円環モデルの下から上へ向かう力として描きたい。このほうが現実性を表出する力、という感じが表現できるように思うからだ。)

(ここからはイメージに依拠した説明しかできないことをご容赦いただきたい。)

なぜ下向きなのかというと、現実の力が足りないからだ。現実性の力は円環モデルに遍在しており、円環モデルは現実性の力に支えられてはいるが、直接的な現実性の力の発露ではない。縦向きであったはずの力は横向きの円環を経巡る力に変換されてしまう。そこにロスがあり、円環を経巡るにつれ、現実性の力は弱まってしまうのではないか。

その証拠は随所に見出すことができる。例えば、「P=P」の同一律について、「Pの反復の内に、「P」それ自体からのズレ・・・最小の否定性・・・を読み取ることができる。」(p.40)とする。このズレこそが、現実性の喪失を示しているものではないだろうか。

このようにして、円環モデル上での議論は、現実性の力をいわば燃料として消費することにより駆動されていくのだ。

こうして下降を続けつつ12時の地点に戻ってきたときには、もともとの0時の地点と縦のギャップが生じていることになる。

これが、円環モデルのギャップであり、このギャップを埋めて、元の高さを回復し、円環として回転を継続することを可能にするのが、12時の地点でようやく直接的に発露される現実性の力なのではないか。

円環モデルとは平面的に描かれるものではなく、下向きの円であり、ギャップとは平面上の切れ目ではなく、垂直方向のずれのことなのではないか。それを埋め、なにもなかったように円環とするのが縦向きの現実の力そのものであるということになる。

(もし、現実の力を取り入れないならば、円環は下向きに広がる螺旋として描かれることになるだろう。)

しかし、ここで僕は疑問に思う。現実性の力が、ちょうどギャップを埋めるように働く必要があるのだろうか、と。ちょうどを狙うというのは現実性の力が手加減をしているだけなのではないか。さらに現実性の力を解放するならば、現実性の力は上向きに突き抜けてもいいのではないか。

このようにして描くことができる図形は、先ほど描いた下向きの円環(螺旋)とは逆に、上向きの螺旋形に近いものとなるはずだ。

(ここでは、12時のギャップという一点で現実性の力を強める方向で考えたので歪な螺旋となってしまったが、後述するように、p.22の螺旋モデルを上下反転したような、スムーズに上に向かう螺旋を描くような議論も可能だと思う。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 2 距離0.5 追加・提案

2 距離0.5 追加・提案

ここからの考察は入不二の主張から徐々に離れていくことになるが、この章は、入不二の議論から半歩だけずれたものとなる。

つまり、入不二が読んだなら理解が得られるかもしれないし、そうではないかもしれないし、本を既に読んだ方なら違和感が生じるかもしれないし、納得するかもしれない。独自の考察ではあるけど感想とも言えなくもない。そんな主張が集められている。

2-1 祈り・受容

僕がまず取り上げたいのは第3章の議論だ。

ここでの進め方はとても美しいと思う。選択・賭け・神頼みを対比し緻密に議論する地点から、一気に祈りにまでせり上がるところでは、ある種のカタルシスのようなものを感じた。

言うまでもなく、ここでの祈りとは、現実性というものと強く関連している。「そもそも始めからそういう現実であるように」(p.115)という祈りの描写は、入不二が見出した現実を実感的な道筋から最もわかりやすく示してしているものだと思う。

ここで終わるのが話としては美しいのだけど、正確を期するならば、蛇足であっても付け加えるべき話があるように思う。これが僕の進めたい半歩だ。

第2章の議論によれば「現にソクラテスは哲学者である」は「∅ソクラテスは哲学者である」となり、ついには「ソクラテスは哲学者である」に徹底される。(p.65)この図式は現実性というものの無色透明さをうまく表現している。

この図式に対比するならば、「祈り」には「現に」や「∅」に相当する不徹底さが残っている。祈りを徹底するならば、祈りすらも捨て去らなければならないのではないか。

では、「現に」という表記を捨て去り「ソクラテスは哲学者である」に徹底されるのと同様に、祈りが祈りを捨て去るとどこに至るのだろうか。

入不二は、祈りの無色透明さを無態とも表現しているが、そのようにして至る完全な無態とはどのように表現すべきだろうか。

僕はそこで「受容」という言葉を思い浮かべた。何が起こったとしても、それは現に起こったことであり受け入れるしかない。いや受け入れると表現すると、そこに受け入れるかどうかという選択肢があるように感じられるので適切ではない。ただ、そのようにして過ごすと言ったほうがいいかもしれない。そのようなものとしての「受容」とは「あるようにあり、なるようになる」であり、「現に」や「∅」を除去した「ソクラテスは哲学者である」が通常の表現と全く違いがないのと同じように、誰もが送っている日常のことなのではないだろうか。

(その道筋で考えるならば、入不二は祈りを「無態」とするが、祈りは「能動と受動の高次の折り畳み」(p.117)としての中動態としたほうが、無態と中動態の違いが際立つように思う。そのほうが、受容と祈り、無態と中動態、無内包とマイナス内包という串刺しの対比ができるように思える。)

同じことを別の道筋で表現するならば、祈りは「全くの無力」(p.121)であることが求められるが、無力であることを自覚するだけでは無力さが足りないとも言える。

なぜなら、自覚するという力を手元に残しているからだ。無力さを徹底するためには、無力の自覚さえ手放し、すべてを忘却しなければならない。正確には、三重否定の「未生の無」(p.359)にまで至らなければならない。ここにも、自己や神といったシステムを完全に消去し、完全なる受容に至る道筋が示されているように思う。

ここまで、この半歩を自分の手柄のように述べたが、入不二は同じことを既に述べていると解釈することもできる。この本での入不二の言葉を都合よく切り取るならば、次のようにも読める。

「祈り」が「思い」として出現するかしないかは、「祈り」にとってあまり重要なことではない。・・・「純粋な祈り」は、・・・消え去るからこそ・・・現実世界にぴったりと重なっているからである。

いわば、「現に~である」こと自体が、神と祈りの一致なのである。

(pp.123-124)

純粋な祈りとして拡張された祈りは、ただ受容することと等しい。僕たちは、祈っているという自覚などなくても、日々、祈りながら、現実を受容し、現実という神とともに日常を送っているとも言えるだろう。

なお、ここでの「祈り」をはじめとして、この本では、語ることができないことをぎりぎりのところで語ろうとする言葉がいくつも登場する。そもそもタイトルにもなっている「現実性」や「現に」という言葉こそが、そのような言葉の代表例と言ってもいい。語ることのできない純粋な祈りや現実性と、語ることができるいわゆる祈りや現実性という二つの意味をひとつに込めることで、ぎりぎりを語ろうとする。

そのようにして描く図式のことを、前著「あるようにあり、なるようになる」では中間や(二つの焦点があるという意味で)楕円的と呼び、この本では(二者間での)緊張関係という用語を用いている。

(緊張関係という語が登場するお気に入りの例としては、「現実性という神は、どの局面で特異的に出会われるとしても、必ず二重性(矛盾的な緊張関係)を帯びて現れる。」(p.386)がある。)

入不二の本を読むうえでは、このような特別な言葉に込められている二重の意味に注意するといいと思う。

緊張関係という言葉はこの本の雰囲気をよく表しているように思う。どちらかというと、入不二はこれまでの著作(例えば、「あるようにあり、なるようになる」)では議論がせり上がる過程に重点を置くことが多かったように思える。だが、この本には、これでもか、というほどに議論のせり上がった先を捉えきろうとする執拗さが充満している。そのぎりぎりの執拗さと緊張関係という言葉はうまく合致しているように思うのだ。

(この点で、「あるなる」とこの本を比較すると面白い。前者は、自己抑制的に、いわば緊張的な筆致で運命論に絞って描写することを通じて、最終章のサーフィンにつながるような自由を描いていた。後者は、いわば好き勝手に自由に主題を行き来しながら、円環モデルやn位一体と表現されるような緊張的な構造を描いている。ここには自由と緊張の交差関係を見いだせるように思う。)

2-2 顕在・潜在

入不二は第2章において現実性と潜在性を対比して論じている。その主張をうまくあらわしている比喩がメビウスの輪だ。このメビウスの輪は片面に現実性、もう片面に潜在性が割り振られている。(p.79)

先ほども取り上げたソクラテスの比喩のとおり、現実性は、現前・顕在と言い換えてもいい認識論的な水準から、「現に」という副詞的な現実性、更には「∅」の先にある無色透明な現実性へと深まっていく。

一方で、潜在性も、自動車免許を持っている人が(車を運転していないときでも)有する車を運転する能力のようなものから、その能力を可能とするような(視力や筋力や判断力を持つことを可能とするような)遺伝子配列、更には、それらを下支えするような潜在的な力そのものへと深まっていく。

この描写自体は完全に正しいと考えるが、用語の使い方が誤解を招くおそれがあるように思う。

入不二は、慎重に、顕在という語を肯定的に用いることを避ける。なぜなら、この本を誤解なく理解するために重要なポイントのひとつは「現実と顕在は違う」ということだからだ。入不二は、図式的に「現実=顕在+潜在」と考えることはミスリーディングだとも言っている。(p.193)

だが、顕在という語を避けることで、現実性という言葉を、顕在的に現れている現実としての現実性1と、顕在性とは関係ないものとしての現実性2という2通りの語で用いざるを得ない状況となっている。このふたつは全く違うものであるにも関わらず、同じ語が割り振られている。

なお、一方で潜在性という用語についても、潜在性1、潜在性2という表現は使われているが、それらは深度の違いはあっても、連続的であり、対立するものではない。

現実性と潜在性という用語には、このような非対称性が生じている。

現実性と潜在性を理解するうえでは、両者の対称性と非対称性の両方に着目することが重要だ。

第2章が「現実性と潜在性」と対比的に名付けられているとおり、両者には対称性がある。第2章の議論は、対等な二者が撚り合わされるようにして、力の中立的一元論に進んでいく過程と読むこともできるだろう。そのような議論のうえでは現実と潜在という対比はわかりやすい。

一方で、そうして進んでいく先に見いだされる「力の中立的一元論」とは「現実」の力の一元論だ。ここでの「潜在」は「潜在的な現実」というかたちで現実を修飾する言葉でしかなくなる。ここには現実と潜在の非対称性を読み込むべきだろう。

つまり、両者の対称性と非対称性のどちらを強調するかは、議論の場面によって使い分けるべきである。その意味ではこの本での「現実」という語の用い方に大きな誤りはない。だが、現実という用語を幅広く使うことによって誤解を招く記述が生じているように思える。

例えば、p.80の「純粋現実性-可能性-最深潜在性」という図式で示される純粋現実性とは、入不二のこの本全体の議論に沿うならば、純粋の名には値しないはずだ。最深潜在性に並ぶ限りでの現実性とは、円環モデルのなかを巡る力に過ぎない。あえて言えば、ここでの純粋現実性とは、顕在性を残した限りでの純粋現実性とも言える。真の純粋現実性の名に値するのは、円環モデルに差し込む光(矢印)として描かれる力そのものであるはずだ。真の純粋現実性とは最深潜在性をも現実のものとする力であると言ってもいい。

これは、現実性を描写するうえで顕在という語を避けるあまり、重要な局面において、逆に現実性に顕在性が混入してしまった具体例ではないだろうか。

第2章を読んでいて僕が感じた入不二への疑問を比喩的に述べるなら以下のようになる。

片面に現実性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれたメビウスの輪は何でできているのだろうか。

または、メビウスの輪とは円環モデルの変形バージョンだとするならば、メビウスの輪のどこに、円環モデルに向かう縦の矢印が描かれるのだろうか。

その後の議論を踏まえるならば、メビウスの輪は現実性という素材でできていて、メビウスの輪を成立させるものこそが力としての(純粋)現実性であるいうことになるのだろう。つまり、メビウスの輪の図においては、少なくとも、片面を示すものとしての現実性、メビウスの輪の素材としての現実性、メビウスの輪を成立させる力としての現実性、という三種類の現実性が見いだされることになる。

これはこれで現実性の遍在性を示す比喩として使えそうだが、潜在性と対比する限りでの、メビウスの輪の片面としての現実性を描写しにくくなってしまうように思う。

誤解を招かないように、顕在という語をもう少し肯定的に用いて、潜在性と対等なものとしての現実性について顕在性という名前を与えてもいいのではないだろうか。

もしそのような使い分けが許され、顕在性という語を導入するならば、現在性のメビウスの輪は、片面に顕在性と書かれ、もう片面に潜在性と書かれているとも喩えることができるだろう。または、円環モデルなら、昼は顕在性の領域で夜は潜在性の領域である、と表現できる。顕在と潜在の対立を深める先に現実が見えてくることとなる。

ただし、このような用語の使い方をすると、入不二の美しい言葉が台無しになってしまうという欠点はあるだろう。

「現実性はどこまでも潜在的であり、潜在性はどこまでも現実的である。」(p.83)という詩的な言葉は次のように書き換えられることになってしまう。

「顕在性を潜在的に成立させるものこそが(純粋)現実性であり、潜在性を顕在的に成立させるものこそが(純粋)現実性である。」

これは、わかりやすくはあるが、美しくないし、現実性というものが持つ、円環モデルとして表現されるような滑らかさを正確に表現できていないようにも感じられる。その点では、僕の主張は、あくまで入不二哲学を理解するうえでの補助線としての提案にとどめたほうがいいのかもしれない。(僕自身は、この文章では、円環モデルの昼の領域を顕在性の領域と言い換えることにする。)

なお、このような主張をする理由のひとつは、入不二の議論(特に第2章)の行間に垣間見える、力とマテリアルの二元論的な描写に反論したいからでもある。

僕は、最深潜在性についてマテリアル的な描写をすることは否定しないが、潜在性の描写をそこで終えるのは不徹底だと思う。最深潜在性は純粋現実性に回収され、マテリアルは力として捉え直さなければならない。そのようにして、徹底した力の一元論を描くべきだと僕は思う。

このことについては、入不二の(少なくとも第2章での)主張から半歩以上離れることになるので、後ほど論じたい。

(僕自身は、そのような主張を入不二自身が第9章あたりで行っていると解釈している。だが、もしかしたら、この文章の後半で論じる予定である、マイナス内包(潜在性)の位置づけの僕と入不二の違いが原因なのかもしれない。その場合、ここで論じたことは半歩ではなくて、一歩ずれてしまっていることになる。)

2-3 存在論・現実論

入不二は、存在論、認識論、意味論を可変的じゃんけん関係とし、同等のものとして捉えるが、その根底には存在論優位の構造が前提とされているように思える。例えば、この本には、「現実性の力の「侵入口」としての始発点」(p.163)、「「現実性という力」が入り込む「優先的な窓口」は、(存在と思考と概念という)三者の中では存在である」(p.375)というような記述がある。

ここには問題が潜んでいるように思う。現実論が存在論・認識論・意味論のいずれとも全く違うということを表現するためには、存在論・認識論・意味論に優劣があってはならないのではないだろうか。そのためには存在論を認識論や意味論と同程度に弱める必要があるのではないか。

思うに、存在論が優位に立っているのは、存在論のなかに現実論を混入させてしまっているからではないだろうか。(例えば入不二は、「「無内包の現実」においては、存在論的に「ある」ことと、認識論的に「ない」ことが一つになっている。」(p.342)という表現をしているが、このときの存在論とは、存在論というより現実論というべきもののように思える。)

当然、認識論や意味論においても現実論は混入せざるを得ない。「現に」認識するというかたちで現実は認識論を下支えし、「現に」意味するというかたちで現実は意味論を下支えしている。同様に、存在論においても最低限の現実性の力は必要である。しかし、「現に」存在するというかたちで現実が存在を下支えするということ以上に、必要最低限以上に、存在という言葉には現実性が入り込んでしまっているように思えるのだ。

意味論や認識論においては、公的言語や他者の感覚のようなものを思い描くことで、一応は現実性を最低限度に抑えたものをイメージできる。

だが、存在について、同様に現実性を最低限度に抑えるとはどのようなことなのだろうか。この点については、入不二だけではなく、その他の哲学者からも示されていないように思える。

いや、明示的に示されていないだけで、その答えは既に入不二の議論に登場しているだろう。入不二は、論理的運命論に対するものとして、因果的運命論、神学的運命論、物語的運命論といったものを挙げる。(pp.154-155)これこそが現実性を最低限に抑えたものとしての存在論ではないだろうか。

それは、入不二が述べるとおり、「何か(X)」が「他の何か(Y)」を決定するという二項関係性(p.154)と言ってもいいし、その関係性の前提となる複数性と言ってもいいだろう。ここで着目した二項関係性や複数性といったものには、認識論や意味論と異なる、そして現実論とも異なる独自の価値があり、それを存在論と名付けることは妥当ではないだろうか。

そのようなものとして解釈された存在論には、この本でも第二次内包として取り上げられている自然科学的な視点も含まれるだろう。なぜなら、第二次内包的なものごとが第一次内包を決定しているという二項関係性がそこに見いだされるからだ。

意味論や認識論においては、現実性を離れるために公的言語や他者の感覚のようなものを思い描いたように、現代人であれば、現実性を離れた存在論として自然科学的な物質的世界を思い描くことが、意味論・認識論・存在論の対等な関係を理解することに役立つように思える。

このようにして存在論を現実論から注意深く分離し、舞台を整えたならば、入不二の言うとおり、存在論、意味論、認識論という三つの立場が対等に循環しつつ対立し合うような図式を描くことができるだろう。

(現実性の力を失うかたちで解釈し直された存在論が意味論や認識論に優位となる場面としては、存在論的未知のように複数性そのものが優位性につながるような状況が考えられる。)

また、円環モデルにおいても、その始発点を、私や世界といった脱内包にとらわれた存在論優位のものとして描写するのではなく、存在論(二項関係)と意味論(言語)と認識論(認識)に捕捉される直前の現実性の力そのものの発露として捉える道筋が見えてくるのではないだろうか。

2-4 複数の円環・波及と還流

僕は、円環モデルは非常に重要であり、この本が目指すものをコンパクトにうまく表していると考えている。だが、あくまで模式図としてのものであり、補助線に過ぎないという点についても強調しておく必要がある。

まず、入不二自身が始発点と第一歩の間に「0と1」の小さな円環を書き加えているとおり、この円環は多重的である。

入不二自身はあえて描いていないが、例えば、p.27で描写されている「反実仮想」と「可能性」の領域の立ち上げの間にも円環を見出すことができるだろう。なぜなら、反実仮想を成立させるためには別の現実であったという余地としての可能性がなければならないが、その可能性が成立するためには反実仮想がなければならない、というかたちで両者は依存し合うからだ。ここには明らかに循環があり、それを円環として描くことは可能だろう。なお、これは対等な循環ではない。入不二が「可能性→反実仮想ではない」とするとおり可能性は反実仮想に遅れる。ここには0は1よりも遅れるのと同様の前後関係を見出すことができる。この点でも、可能性と反実仮想の小円環は、0と1の小円環と同型である。

(入不二は反対するだろうが、後述するように、僕は、潜在性の領域においても、マイナス内包と脱内包の小円環があると考えている。)

ともかく、大円環のなかに小円環がたまたま見出される、というような捉え方をすべきではないだろう。現実の力を顕在性(入不二の用語では現実性)と潜在性という二項関係として描いたものが入不二の大円環だとするならば、同じ現実の力を局所的に捉えると、0と1、可能性と反実仮想といった二項関係の小円環として表現されることは必然なのではないだろうか。

以上の、大円環のなかにはいくつもの小円環が描かれるという話については、多分、入不二も同意してくれると思うが、この先は僕なりの半歩を進めることになる。

入不二が第1章で描いた大円環モデルさえも、数ある大円環モデルのうちのひとつだという捉え方ができるのではないだろうか。

入不二がこの本において行った議論のなかにも、いくつかの大円環を見出すことができる。

そのひとつは、いうなれば科学的な道筋、つまり先ほど現実論から切り離した限りでの存在論の道筋だ。

始発点から入不二は、反実仮想、可能性という道筋に進んだが、そうではなく、科学的探求という道筋に進むこともできるだろう。そこでは二項関係と科学的探求の正当性が円環を進めていくことになる。

入不二が第1章で示した円環モデルの道筋ではその先に、日没時(6時の転回)における可能性の飽和とでも言うべき事態が待っていたが、科学的探求の先には同様に探求の限界が待っている。

そこでは、無限の可能性を列挙しきれないという事態を、それ自体が肯定性の発露として捉えることで乗り切ったように、科学的探求で捉えきれないという事態を、そのまま一気に「物自体」の存在の発露として肯定的に捉えるという転回により乗り切ることとなるだろう。

あとは、「クオリアは逆向きの物自体である」(p.278)とあるとおり、マイナス内包のクオリアを潜在性とする入不二の円環と同じ道筋となる。

以上は、入不二が第7章で行った、第1次内包から第0次内包に進む議論とパラレルのもので、第1次内包から第2次内包に進む議論であるとも言える。(p.255で入不二が「真に二元論的」とした主観的な世界と客観的な世界という二つの道筋のうち、入不二が進まなかった客観的な世界側の道筋であるとも言える。)

(この本から色々な示唆を得たが、この本の主題ではないものの、コンパクトに意義深かった言葉の代表が、この「クオリアは逆向きの物自体である」だ。つくづくそのとおりだと思う。僕は物自体という概念を評価しつつも、ひとつの疑問があった。「机の上にリンゴがある状況で、物自体としての机と物自体をとしてのリンゴどのように区別すればいいのだろうか。」という疑問だ。この疑問については、入不二のクオリアについての議論をそのまま物自体に適用することで解消する。まず、「見られるリンゴではなく、リンゴそのもの」というときのリンゴとしての物自体(第一次物自体)は、「リンゴの背後にある決して認識されることのないもの」としての物自体(第0次物自体)へと深まる。更には、クオリアの解像度が下げられマイナス内包となったように、解像度を下げることにより、無尽蔵な物自体(マイナス物自体)へと至る。この無尽蔵なマイナス物自体とは机でもあり、リンゴでもある。以上は物自体の側からの潜在性の描写であるとも言えるだろう。こうしてリンゴ・物自体と机・物自体を区別するという僕の問題は解消する。クオリア問題に対する入不二の答えが決定的なものであるのと同様に、これは物自体の問題の最終決着に近いように思える。)

ほかにも入不二の議論のなかに別の大円環を見出すこともできる。第3章では、合理的な選択の方向で突き進んでいった結果、ビュリダンのロバ的な状況が示され、そこで賭けへと進み、神頼み、祈りへと深まっていく。この図式は、合理的な選択が昼の領域であり、賭けを日没(6時)、神頼み、祈りを夜の領域と捉え、完全な祈り(受容)を日の出(12時)と捉えるならば、入不二の大円環モデルときれいに重ねることができるだろう。

(また、相対主義は昼、絶対主義は夜と捉えた相対主義・絶対主義の円環なども考えられるだろう。)

僕がここで行った解釈には異論があるかもしれないが、それはともかく、僕が強調したいのは、大円環であれ、小円環であれ、円環モデルはいくつも描くことができ、それらを重ね合わせることで、波及と還流の構図につながる、ということだ。

円環モデルとは、あくまで補助線であり、いわば模式図だ。では何の模式図かというと、それは波及と還流の一部を切り取った断面図のようなものなのだ。(p.234の図を縦に切ると、二つの円環が現れるはずだ。)

つまり、p.234の図で「●→」として表される波及は、円環モデルの昼の領域に対応し、「→●」で表される還流は、円環モデルの夜の領域に対応する。「●」が日の出(0時)の始発点であり、「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が日没(6時)の転回を表している。

入不二も、円環モデルとは波及と還流を示す模式図であるということは認めるように思える。だが僕が半歩進んで強調したいのは、入不二は波及と還流の構図における円環の複数性を、このもの主義の文脈から個体の数の複数性によるものと捉えているのに対し、僕は、円環モデル自体の複数性によるものとしても考えたい、という点である。

では、どうして、多くの円環モデルを見出し、円環モデルを重ね合わせるようなことができるのだろう。それは円環モデルが描く内容ではなく、円環という形式自体に正しさがあるからではないか。

円環には角(かど)がない。小円環モデルを例とするなら、1であることをそのまま受け止めることと、1ではなくて0ではないかと突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)反実仮想という考えをそのまま受け止めることと、それを成立させるために可能性の必要性について突き詰めて考えることは、何の無理もなくきれいに重なる。(そこにギャップは残るにしても。)

この「無理のなさ」を円環という図形はうまく表現しているように思うのだ。「無理のなさ」こそが円環モデルの正しさの源泉なのではないだろうか。

入不二の議論の魅力は、無理のない議論を積み重ねるうちに、読者をとんでもないところに連れて行ってくれるというところにある。円環モデルとは、入不二の議論の構造そのものを示したものなのかもしれない。

円環モデルや、その先にある波及と還流の構図の正しさは、このような議論の進め方の正しさと、切っても切れない関係があるように思える。

なお、議論の内容ではなく議論の形式の正しさを優先する考え方から、可能世界論がなぜ魅力的かを説明することができると思う。(僕は可能世界論が好きだし、入不二も、あえてここで取り上げているということは、取り上げるに値する意義があると考えているはずだ。)

入不二は、D・ルイスの可能世界論について、現実を指標詞的に捉えているとし、「現実性は諸可能世界に相対化されていて、諸可能世界の内に再帰的な仕方で埋め込まれている。」とする。(p.58)

この描写に沿うならば可能世界論を、p.234の波及と還流の構図に似たかかたちで表現することが可能となるだろう。「●」の周囲を囲むように描かれている「○」が「この世界」ではなく諸可能世界となるという点で違いはあるが、「→●」を指標詞的な指し示しと解釈し、「●→」から「○」に至り、「→●」へと進むプロセスを再帰として読むことで、入不二の波及と還流の図式に重ね合わせることができる。

つまり、可能世界論においても、再帰というかたちではあるが、現実は経巡っている。可能世界論は矮小化されてはいるが、波及と還流を描いているという点で形式的に正しい。ここに可能世界論の魅力があるのではないだろうか。

2-5 二重否定の抜け道・非A的A

入不二は、「無でさえない未来」の「究極の言えなさ」というアポリアには抜け道があるとする。(p.205)

彼は「無でさえない」という二回の否定を「相関(対)以前の端的な肯定へと戻ろうとすること」「絶対的な(=非-相関的な)肯定」「肯定以前の肯定(否定と対にならない肯定)へと差し戻す」という方向で考えることを「抜け道」と呼んでいる。

僕は、この抜け道が、入不二の議論を進めるうえでは極めて重要であると考えている。これを「二重否定の抜け道」と呼びたい。

通常の二重否定には、そのような抜け道はない。入不二自身、第1章で、二重否定と肯定の間の一致とズレについて論じている。入不二はここでは、「二重否定による肯定」は「否定が存在しない肯定」へと行き着かない(pp.23-24)としているが、その言葉に反して、二重否定には原初肯定に到達する抜け道がある、とするのが第6章での議論だと言えるだろう。その点では、これは「超・二重否定の抜け道」と呼ぶべきかもしれない。

ここまでであれば、入不二の議論の圏内から大きくは外れていないだろう。ここで付け加えたいのは、「非A的A」という用語だ。この「非A的A」という言葉は、この本にも登場する森岡のツイートで見かけたものだ。次のような内容だった。

「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。これはどういう構造なのだろう。

「非非的非」はさすがに成立しそうにないが。非が自己言及してるから。でも「非想非非想」がある以上、成立するのかね。

(僕はその言葉に興味を持って、文章も書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2018/03/17/shitekigengo/

ここでなぜ、「非A的A」という言葉を持ち出すのかというと、この用語が、「超・二重否定の抜け道」のある部分をうまく表しているように思えるからだ。

「無でさえない」における抜け道としての超・二重否定とは、肯定(有)に対比されるものとしての否定(無)を更に否定することにより、否定が持つドメインを乗り越える力を用いて、否定と対比される限りでの肯定(有)よりも以前の原肯定に立ち返ろうとするものだった。つまりこれは、二重否定という作業を経て、(否定と対比される限りでの)肯定よりも以前の原肯定を指し示そうとすることだと言ってもいい。

このようにして見いだされる肯定と原肯定との間には差があるはずだ。(その差とは、原肯定という土俵の上で肯定と否定は対立しているに過ぎないという意味で、(肯定と対比される限りでの)否定と(土俵としての)原肯定との差とも等しいはずだ。)

この差をコンパクトに表現するものが「非A的A」という言葉なのではないか。この場合なら、非肯定的肯定、と呼ぶことで、原肯定と(否定と対比される限りでの)肯定の間に横たわる差を表現することができる。つまり、「非A的A」という表現は「超・二重否定の抜け道」が成し遂げたことをコンパクトに表現するものなのだ。

なぜ、ここまで「超・二重否定の抜け道」にこだわるのかというと、これこそが、円環モデルでの6時の転回を可能とするものだと思うからだ。

第1章における円環モデルの概観のなかで、僕にとって最も理解が難しかったのが転回の議論だった。

入不二によれば、転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものだ。または、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものだ。(pp.32-33の議論の僕なりの要約)

僕はこのような議論について、議論としては理解しつつも、なんだか狐につままれたような、どこか納得できないものがあった。

だが、第6章の「抜け道」の議論を読み、納得できた気がした。この転回は、諸可能性が生まれる以前に立ち返り、分割自体ではなく、分割を生じさせる土俵に着目することにより可能となるのだ。

ここには、時間的なものか、空間的なものかはともかくとして、ある種の視点移動を伴っているが、この視点移動こそが「超・二重否定の抜け道」が「抜け道」である所以であるに違いない。

この視点移動を根拠がないものとして拒否するか、自然なものとみなすことができるかが、円環モデルに喩えられるような入不二の議論を受け入れられるかどうかの境目になるのではないだろうか。入不二自身は、その転回(視点移動)は、肯定主義の力により円滑に完遂できると考えており、僕も、(第1章を読んだ際には疑問があったが、すべてを読み終えてみると)力の一元論とは、そのように進めるべきものだと思う。

僕は「超・二重否定の抜け道」により成し遂げられる「転回」は、円環モデルの肝であると考えている。だから「超・二重否定の抜け道」の抜粋版とも言える「非A的A」という表現は、円環モデルにとっても、その要約版になると思っている。そうだとするならば、「非A的A」という表現を見出すことができるということは、そこに円環モデルがあるということを表しているということになる。

森岡は「「非A的A」(Aは任意の名詞)っていう概念は、Aに何を代入しても成立しそうに見える。」とする。そのとおりなのだろう。

円環モデルとは波及と還流の模式図であるとするならば、入不二の第6章の議論に基づき、少なくとも「指差しの運動」により示される「もの」は、円環モデルに取り込まれ、その要約版としての「非A的A」という表現も成立することになる。

更には、僕の主張が認められるなら、「非A的A」に代入できるAは「もの」に限らない。僕の考えでは円環モデルはこの本の議論全体を貫いているから、彼の議論に登場するキーワードを「非A的A」と表現できるはずだ。

例えば、賭けにおける意志は非意志的意志(p.107)、「「無でさえない未来」という概念は、・・・非-概念なのである。」というときの概念は非概念的概念(p.209)、「語りえぬものを語る」での野矢の主張は非相対主義的相対主義で、入不二が示すのは非絶対主義的絶対主義 (p.308)、「転覆した(破れた)時間」は非時間的時間(p.363)、夢と対比されるなかで見いだされる現実は非現実的現実(p.378)などなど。

このように言い換えて列挙すること自体には哲学的意義はないけれど、入不二の文章を読むうえでの工夫にはなるし、円環モデルが彼の議論を貫いていることの証左にはなるように思える。

2-6 新しい語り方・非言語的言語

この章において、僕は、入不二がこの本で成し遂げたことについて、僕なりに重要だと感じたことを表現しようと努めてきた。そのために、必要と思われる用語の置き換えを提案し、新しい用語も導入した。

このように舞台を整えたうえで、僕が強調したい入不二の成果とは、彼が潜在性や力という新たな議論領域を発見しただけでなく、その議論に必要な新たな語り方を発明したということだ。

入不二が日没(6時)の転回以降に行っている議論は、あまりにも新しくて目眩がするようなものだ。

その議論を駆動しているのは、明らかに肯定主義だろう。

入不二は肯定主義について、「肯定主義の元基(もと)には、否定という操作を本質的に含む言語よりも、言語以前的な実在やその直感の方を優位に置く考え方があるだろう。」(p.332)とする。

入不二は肯定主義により、言語以前を捉えることに成功したのではないか。これは、非A的Aという用語をしつこく用いるなら、非言語的言語の発明と言ってもいいと思う。

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 1.5 ここからの展開

1.5 ここからの展開

以上で感想は終わり、ここからは批判を含めた考察となる。冒頭で宣言したとおり、徐々に入不二から距離をとり、僕独自の考察に入っていく。

当然、僕自身の哲学よりも入不二哲学に興味がある読者のほうが多いだろうから、好きなところで読み終えていただきたい。当然、ここで読み終えても結構だ。僕自身、入不二の議論に即している前半は端切れがよくても、終盤に向かい、入不二から離れて独自考察になっていくにつれて自信がなくなっていくと予想している。最終盤は多分、僕自身にしか価値がないメモ書きのようなものになってしまうだろう。そのようなものに、どこまで読む価値があるかは保証できない。

1.5-1 この考察の方向性

読む価値があるかどうかを皆さんに判断いただくため、ここから行う考察の方向性を簡単に示しておこう。

ここまでも述べてきたとおり、僕は円環モデルを大いに評価している。多分、円環モデルには真理が含まれている。だからこそ円環モデルにこだわって論じていきたいと考えている。

だが一方で、円環モデルは不足しているものがある。それは三次元の高さだ。三次元の高さも考慮するなら、円環モデルは螺旋モデルに発展すべきではないか。

入不二自身もp.22で螺旋モデルを提示している。しかし、その後、螺旋に含まれる三次元のベクトルは垂直の矢印として書き込まれる現実性の力として捉えられ、円環と矢印の複合として表されることになる。

補助線としての円環モデルがそのようなものであるだけでなく、入不二の議論全体がそのような図式を踏まえて進んでいるように思う。

僕は、入不二の議論をほぼ全面的に受け入れるけれど、ここには発展の余地があるように思う。螺旋モデルは円環モデル+矢印には置き換えられないのではないか。

そのことを示すために、まずは入不二が円環モデルの日没(6時)に見出す転回を別のかたちに読み替えたい。入不二は6時の転回を意味論・認識論から存在論への転回として位置づけているように思うが、それに反して僕は、この転回を意味論から認識論への転回として位置づけたい。つまり、日没以降の夜の領域、つまり潜在性の領域とは、認識論優位の領域なのだと主張したい。

そこで僕が行うのは、入不二がマイナス内包として表現するような潜在性の力を弱める作業だ。認識論をひきずっているマイナス内包の潜在性には何かを生み出す力はない。入不二が産出力と表現するものは、産出しそうなものとして認識されるに過ぎない「みせかけの力」に過ぎない。真の産出力とは、認識論をも振り切った無内包の現実性にしかないと僕は考える。円環モデルの12時から0時への飛躍の奇跡とは、平面上でのマイナス内包から無内包(脱内包)への移行ではなく、垂直の矢印として表現されるような現実性の力がむき出しで現れることの奇跡なのではないか。

この文章において、僕は寄り道をしながらではあるが、以上のようなことを主張しようと企てている。

なお、仮にこの主張が成功したとしても、それは入不二の議論を否定することにはならないと考えている。

なぜなら、この議論は、入不二が見出した現実性の力をより大きなものとして捉えることを目指すものだからだ。入不二が捉えたものを入不二が表現するはずだったように表現したい。僕にはそんな野望がある。

1.5-2 みそっかす哲学者

僕は入不二ファンだ。僕は、入不二がこの本でも、森岡や永井や野矢を相手にして見せている、相手の主張の最もよいところを見出し、それを更に先に伸ばしていくような議論の進め方が好きだ。

大それたことだと知りつつも、僕は同じことを入不二自身に対してやってみたい。そんな思いでこの文章を書いている。

この思いは、この本の冒頭で登場する小学生の入不二少年を使って表現することもできるだろう。

入不二少年は大人の誰からも理解されず孤独だ。なお孤独と言っても寂しさはない。正確には孤高と言ったほうがいいだろう。僕はそんな入不二少年のクラスメイトになりたいのかもしれない。

当然、入不二少年はクラスメイトの僕に対して、お前だって俺が言っていることを理解していない、と言うだろう。だけどこっちも入不二少年に対して、お前だって僕のことをわかってない、と言い返すことはできる。子ども同士であれば、大人との間では築くことができない対等性がある。入不二と他の哲学者との間には、そんな孤高の者同士の対等の関係性がある。(多分、これは入不二先生に限らず、哲学者というものはそういうものなのだろう。)

僕は、この文章を書くことによって、そんな関係に加わりたいのかもしれない。「みそっかす」としてであっても。

(一般的な用語ではないかもしれないので説明しておくと、僕が子どもの頃、近所の友達とボール遊びなどをしているとき、誰かが小さな弟を連れてくることがありました。そんなとき、小さい子と対等に遊ぶことはできないので、「みそっかす」と呼んで、手加減して対等に遊んでいるように思わせていました。)

「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 1 距離ゼロ 感想・補助線

1 距離ゼロ 感想・補助線

まずはこの本の感想から。多分、この章については、入不二の議論からの大きな逸脱はないと思うので多くの方に読んでほしい。

この本に書かれていることは全く新しくて、わくわくするものだった。きっと僕にとって、そして哲学界にとって、この本はとても重要なものになると思う。というかそうなってほしいと思う。もっとこの続きを話したいし、誰かに話してほしい。

そうなるように願って、僕なりの言葉で、この本の魅力を少しでも多くの方に伝えたい。

1-1 目眩・戸惑い

この本は魅力的だけど難しい。図も多用されているし、あえて表現を難しくしているようなところもないけれど、独特の難しさがあった。だから、決して、流れるように読み進められるものではなかった。

僕がこの本を読み進めるうえでの最初の関門は、この本がなにをしようとしているのか把握することだった。この本が目指すものは、冒頭から、いろいろなやり方で事前に丁寧に示されている。だけど、僕自身がこれまで考えてきたことや、僕が触れてきたこれまでの哲学に対する「現実性の問題」の位置づけが捉えられなかった。

実は、このような戸惑いには覚えがある。前著「あるようにあり、なるようになる」で運命論について論じた際にも、僕は、運命論という問題設定に対して同様の戸惑いを感じた。たいていの入不二の本には、このような感覚はつきもののように思う。

これらの感覚は「おわりに」で登場する入不二自身の目眩のようなアンセルムス体験と似ている。アンセルムスの神を入不二の文脈に位置づけるならば、アンセルムスは神について論じながら、(無意識にかもしれないけれど)従来の神とは全く異なる神について論じていたとも解釈できる。入不二も現実という言葉を使いながら、全く異なるものについて論じているとも言えるだろう。僕の戸惑いとは、そのことにより生じる目眩のようなものなのではないか。

1-2 重層性・単純

この本に書かれている個々の内容については後ほど考察するとして、まずはこの本全体としての魅力を紹介しておきたい。この本には重層性と表現できるような魅力がある。

その重層性は、まず、この本の装丁に表れている。白から黒に移行し、それが更になんと銀色に輝くというかたちで。この装丁は、この本で重要な位置を占める否定の力を表しているように思う。白が非白としての黒を立ち上げ、更に、非(白vs黒)としての輝く灰色(つまり銀色)を立ち上げている。

重層性はこの本全体を貫いている。「はじめに」では、小学生の入不二少年が登場し、離別と死別の違いの話として「現実」について考察している。

入不二は、「はじめに」からそのまま第1章に入らず、「おわりに」、「追記とあとがき」と読み進めることを推奨しているが、ここでは入不二青年が登場し、また、realitiyとactualitiyについての比較的独立した考察が行われる。

そのようにして議論がせり上がっていき、第1章では円環モデルが提示され、第2章からが、いわば本編となる。

これまでの入不二の本でも、冒頭の導入部で補助線としてのエッセイを提示するというやり方をとることは多かった。しかし、このように多重的に補助線を引いたうえで本編に入るという書き方はしていなかったように思う。

このような長い助走、つまり重層性がこの本の魅力であり、また、それを必要とするほど独自で新しいことを提示しているという点が、この本の価値だと思う。(入不二は新しさによる戸惑いを読者が感じることを想定し、それを緩和するために重層的な補助線を準備してくれたとも言える。)

更には、重層性は、この本の内容だけではなく、この本の細部にも註記と索引として表れている。

この本の註記は本文の単なる補助ではない。註記が独自に議論を展開し、時には本文に再合流する。これほど註記を本文に登場させつつ議論を進めるという書き方は珍しいのではないだろうか。

索引も充実している。数えるとなんと32ページもある。僕はまだ索引をきちんと活用しきれてはいないが、少し使っただけで、その威力が垣間見えた。充実した索引は、それがひとつの補助線となりうる。例えば、相対主義について論じる中でp.313に登場する「無力」を索引で引いてみた。カギカッコ付きで登場するにも関わらず、唐突で、その後も二度と使われない言葉だから気になったのだ。索引によれば、無力という言葉はp.121で祈りについて考察するなかで登場していたことがわかる。本文での明言はないけれど、相対主義と祈りはどこかで通じている。索引を通じてそんなことがわかる。

このようにして、註記と索引は、この本の重層性を更に深めている。

加えて、この本は過去の入不二の著作の集大成としての重層性も有している。入不二は、この本を通じて、過去の著作で取り扱ってきた主題を再び取り上げ、現在の入不二の視点から、それらをひとつのキャンバスに描こうとしている。

それぞれの本で独立的に行われていた主張が、パズルのように一つの絵に組み込まれていくのは、とても心地よいものではあるが、一方で、何かが「台無し」になってしまうような感覚がどこか生じていた。これまで、入不二の本を読み進めてきた僕の読者体験が、上から重ね書きされ、別のものに変容してしまう感覚というのだろうか。なお、台無しになることは快感でもある。

「台無し」と言っても、当然、入不二は既にあった絵を消して、その上から全く別な絵を書くようなことはしない。入不二の議論は、もともとあった絵(つまり過去の著作の議論)の輪郭を何度もなぞるうちに、その絵自体を塗りつぶしてしまうのだ。入不二にはそのような過剰さがある。その過剰さが入不二の魅力だ。

入不二はマーク・ロスコの絵画に何度か言及している。僕は、抽象画はわからないけれど、きっと彼が目指しているのは、何度も塗り重ねる果てに現れるマーク・ロスコの単純な絵なのだろう。重層性の果てに現れる単純さと言ってもいい。

単純を目指すからこそ、彼は重層的な本を書いたのだ。

1-3 時計・太陽

彼がこの本を読むうえでの補助線として提示したもののなかでも特に重要なのは円環モデルだろう。もしかしたら、円環モデルとは、単なる補助線ではなく、彼が目指す到達点なのかもしれない。つまり、第2章以降は、この円環モデルを何度もなぞるようにして、重層的に大きな円を描く作業だったということになる。

彼の真意はわからないけれど、僕はそう読んだし、そのように読むことで理解も進んだ。第2章以降を読むうえでも、この話は円環モデルのどこにあたるのだろうと常に注意を払うことで、頭が整理されるように思えた。

円環モデルに何度も立ち戻るために僕が編み出した工夫は、円環モデルを時計の文字盤に例えることだ。

(と書いたけれど、読み返すと、入不二自身が始発点をアナログ時計の12時と表現している箇所があった。(p.177))

p.42の図でいくと、第1歩が1時、更なるもう一歩が2時、排中律が3時、無限の可能性が4時、転換が6時、6時から12時が潜在性の領域というようになる。(ギャップは12時から0時に飛躍することだと表現できる。)

これから僕は、円環モデルにとらわれつつ論じていくことになるので、何度も、この時計の比喩が登場すると思う。

円環モデルについては、もうひとつ、別の比喩も思いついた。時計は時計でも、アナログ時計の文字盤ではなく、太陽の運行自体を比喩に用いるというやり方だ。p.42の図でいくと、第1歩が日の出となり、更なるもう一歩、排中律あたりが午前中で、無限の可能性が午後に生じて、転換が日の入りとなり、日が暮れてからが潜在性の領域となる。

こちらの比喩は議論の細かい部分を指し示すのには向いていないけれど、潜在性の領域を夜に割り振ることで、特に潜在性というものの特徴を示すことに成功しているように思う。さらには、この比喩においては、太陽とは言語つまり意味論となり、星が潜在性の領域においても降り注ぐ現実性の光と捉えることができるかもしれない。(月だと太陽の光の反射となってしまうので、同等の恒星である星を潜在性の領域の光としたほうがいいだろう。)

特にこの比喩で気に入っているのは、朝日と夕日の美しさを表現できるという点だ。考察の際に詳述するが、この本のピークは、時計の文字盤を用いるならば、6時と12時にある。そこでの美しさを日の出前の朝日と、日没直後の夕日として表現できるように思うのだ。

だから、今後は、円環モデルについて、何時という示し方だけでなく、日の出、昼、日没、夜という述べ方もすることになる。この4区分こそが円環モデルにおいては重要である、ということも述べることになるだろう。

1-4 肯定主義・補助線

「現実性の問題」について理解するために入不二は重層的な仕掛けを準備してくれているが、もうひとつ追加してよいだろう補助線が、肯定主義という用語だ。このような考え方は前半から顔をのぞかせるが(索引によれば)肯定主義という用語は第9章になってから登場し、そこで集中的に論じられる。そこで、この本は肯定主義についての本でもあるのか、と腑に落ちた。ここでの肯定主義とは「ある」という肯定性優位の原理を徹底していくというものだと言ってもよいだろうが、○○主義という名前がつくと理解がしやすい。

この本のなかで、入不二の議論が大胆な一歩を踏み出し、それがどうして正当化されるのかわからなくなったとき、これは肯定性優位の原理、肯定主義を適用した結果かもしれない、と考えれば、入不二の議論に(同意はできなくても)ついていくことはできるかもしれない。同意できるかどうかは、少なくとも第9章まで読み進み、肯定主義も含めた入不二の議論の全体像を捉えてから判断しても遅くはない。

ただし気をつけなければならないのは、○○主義と名前をつけた時点で、それは本当に指し示そうとしたものから外れ、補助線のひとつになってしまうという点だ。この転落はこの本のいたるところで生じているし、入不二もそれを転落として言及している。

その意味では、この本の記述全体が転落を見越した補助線であるとも言えるかもしれない。

1-5 圧倒・猛獣

この本は、過剰なほどに重層的に補助線を重ね書きすることによって、そのようにしてしか到達できない何か単純なもの(この本では円環に例えられるような何か)を表現しようとしているように感じられる。

この議論の厚みは、レスラーの厚い胸板のように、または、猛獣の筋肉のように読者を圧倒し、僕を「現実性の問題」のもとに組み伏せているのだ。

この本の議論においては、排中律、矛盾律といったものさえも単なる議論の駒のひとつとして扱われる。そのようなレベルでの議論を駆動するのは一般的な意味での論理(議論の妥当性を真偽という見地からジャッジするというような意味での論理)の力ではないことは明らかだろう。つまり、入不二は、いわゆる論理ではない何らかの力を用いて議論を進めていると考えざるを得ない。その力とは、ただひたすらに圧倒的なものであり、その力とは何かという分析すらも拒絶する孤高の力としか考えられない。あえて言えばそれは野生の猛獣の力であり、または、詩の力とも言い換えることができるように思う。

入不二に実際にそのような意図があるかどうかは別として、この本を読むうえでは、そのように捉えることが理解の一助となる場面があった。

1-6 明示・潜在

入不二の議論には一般的な意味での論理的な分析を拒絶する(超えている)側面があるが、入不二が述べることは決して不明瞭ではない。むしろ入不二がこの本で到達した地点は明らかであるとも言える。

このような矛盾的なことが言えるのは、従来の道筋では描けなかったはずのものを描き切ったということがこの本の成果(のひとつ)だからだ。

なお、入不二はこの本で初めて、新たな地点に到達したのではない。正確には、これまでも彼が既に到達していた地点から、さらに一歩、議論を進めたことがこの本の成果だと言ったほうがいいだろう。僕が強調したいのは、その前進が成果であると同時に、もうひとつの成果があるということだ。

入不二はこの本により、以前の著作も含めて彼が成し遂げたことをわかりやすく明示した。それがもうひとつのこの本の成果だ。

はっきり言って、入不二が成し遂げたことはこれまでわかりにくかった。例えば、永井の独在論は、その独自性がわかりやすい。一方で、入不二の語り方の新しさは世に認められつつも、その語り方を通じて何を新たに成し遂げたのかがわかりにくかったように思う。過去の著作において、相対主義、時間論、運命論といった分野で入不二がとても新しくてとても重要なことを言っているのは確かだけど、それはどのような新しさで重要性なのだろうか、という疑問がどこかつきまとっていたように思う。しかし、この本によって、そのような疑問を払拭し、彼が何を成し遂げたかを明確に示したのだ。

入不二が成し遂げたことを、円環モデルを用いて簡潔に表現するならば、円環モデルの左半分、つまり夜の領域を描き、円環モデルを円環として完成させたということだ。これこそが入不二哲学の成果だ。更には、夕日と朝日の美しさを描き、円環モデルに垂直に差し込む光(力)までも捉えている。このことは、従来の哲学から、少なくとも二歩先をいっているように思う。

(潜在性という、語りえぬものそのものを論じていたから、入不二の成果は捉えにくかったのではないだろうか。)

入不二が到達した地点をこのように端的に捉えることは、入不二の業績を矮小化している。だが一方で、このように読んでもいいとも思えてしまう。

この本は、そのような読み方さえも受け入れるような不思議な魅力を持っている。入不二の用語を流用するならば、この本とは主張する顕在的な存在ではなく、ただ読まれることを待っている、潜在的なマテリアルなのかもしれない。

これから僕はそれに甘えて、勝手な考察を展開していきたい。