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「愛を伝える5つの方法」を読んで ~愛と対話の話~

1 5つの愛の言語

「愛を伝える5つの方法」という本を読んだ。夫婦が仲良くするためにとても大切なことが書かれていた。わかりやすく、コンパクトなのでたくさんの人に読んでほしい。数時間あれば流し読みで十分理解できると思う。(僕は古本で買ったけれど、キンドル・アンリミテッドにも入っているようだし。)

この本の主題は、一言で言うならば、「愛の伝え方には5種類あり、相手が得意な方法で伝えないと、その愛は伝わらない。」というものだ。5種類の愛の伝え方とは、僕の表現で置き換えるならば、①言語、②時間、③物、④行為、⑤身体となる。言葉で愛を表現してほしい人に対して、物(プレゼント)で愛を表現しても、その愛は伝わらない。身体接触で愛を表現してほしい人に対して、掃除をしてあげたり、ご飯を作ってあげたり、といった行為をいくらしても、その愛は伝わらない。そういったズレが、夫婦の問題を生じさせている。だから、夫婦がうまくいくためには、相手の愛の言語を知り、その言語で愛を語らなければならない。この本で書かれていることの主なところはこのようにまとめることができるだろう。なお、この本では、愛の伝え方のことを愛の言語とも呼んでおり、英語話者に対して中国語で語りかけるような愛の言語のズレが生じているから、夫婦の問題が生じてしまう、という比喩も用いている。

2 脱線:夫婦カウンセリング

脱線だが、なぜ僕がこの本を読んだのかというと、夫婦カウンセリング(コーチング)を受けていたら、この本の話が出てきて、興味が湧いたからだ。確かに、僕と妻との問題は、愛の言語のずれに起因する側面があったように思う。

なお、脱線してまでプライベートな夫婦カウンセリングのことになぜ触れたかというと、第三者がカウンセラー(コーチ)として夫婦関係に関与することがもっと一般化したらいいと思ったからだ。夫婦で正式にカウンセリング(コーチング)を受けるというのは思ったより意義ある経験だった。お金を払った分だけ真剣に取り組めたし、夫婦で同じ話を聞いて共通の知識を身につけることで、その後の生活でも「これは、あのときのあの話だから注意しようね」なんていうかたちで使えるからだ。閉鎖的なものになりがちな夫婦関係に他者の目が入ることで明らかに夫婦関係はもっとよくなる。ぜひ、特に結婚したての夫婦に、もっとカジュアルに体験してほしいと思う。

3 キリスト教的な愛

実は、この本に書かれていたことで、主題である5種類の愛の言語の話以外に、もうひとつ興味深かったことがある。

それは、キリスト教的な愛についての描写だ。キリスト教的な愛と言っても、神学的な難しい話ではない。多分、日曜日の教会での説教で聞いても皆が理解できるような話だ。この本の作者はアメリカのキリスト教の牧師でもあるからだろうが、この本の根底には、世俗的キリスト教の観点からの愛が流れている。

僕は、この愛の話を、相手に合わせて自分と異なる愛の言語を語ることの困難さと、その困難を乗り越えることの重要さについての話だと理解した。

この本は、妻と触れ合ったり、旅行をしたりして一緒に楽しい時間を過ごすことこそが愛の表現だと思っている僕に対して、そうではなく、毎日トイレ掃除をすることで愛を表現しなさい、と命ずる。正確には、そのようなかたちで愛を表現するかどうかを僕の選択に委ねる。この本は僕に対して「彼女は毎日のトイレ掃除を通じて愛されていると理解することができるようだけど、あなたは毎日のトイレ掃除というかたちで愛を囁く覚悟はある?」と問いかける。

これはかなり厳しい選択だ。これではまるで僕は彼女に気に入られるためだけにトイレ掃除をするみたいだ。確かにトイレ掃除は必要だけど、たいして汚れていないのに、ただ彼女の機嫌を取るために毎日、無駄なトイレ掃除をするなんて耐えられない。(なお、これはフィクションです。我が家ではトイレ掃除は僕の担当ではありませんし、毎日は掃除していません。)

ここで、この本はキリスト教的な愛を持ち出す。これは彼女の機嫌を取るための行為ではなくて愛なのです、と。トイレ掃除とは、キリストが弟子の足を洗うのと同じく献身としての愛なのです、と。

4 恋と愛

ここでの愛とは、恋愛という言葉を用いるなら、恋と対比しての愛だと言ってよいだろう。「恋と愛とは違うのか」という、多くの人が一度くらい考えたことがあるだろう人気のある哲学的テーマだ。

この本では、この恋と愛の違いの問題ついても見解を述べている。その見解は、恋と愛とは全く違う、というものだ。この本によれば、恋とは一時的な(多分罹患後2年ほどで自然治癒する)病のようなものだ。そして嵐のような恋が過ぎ去ってから、全く別のものとして本当に重要な永続的な愛が始まる。一時的な恋と永続する愛の間には大きな違いがあり、だからこそ夫婦で愛を育むことは重要だとこの本は強調する。

僕はこれまで、恋と愛について、重なる部分もあり、異なる部分もある、というくらいに考えていた。だが、確かに恋と愛の間にはこの本が述べるような断絶はあるように思う。そして、その断絶は、きっと恋と愛のプロセスには真逆といってよいほどの違いがあることに由来するのだろうと気づいた。

4-1 恋

ここからは、この本に書かれていることではなく僕個人の理解だが、恋のプロセスは次のようになるだろう。

① AがBに好ましい特徴を見つけて、相手を気に入る。

② うまくいけばBもAに好ましい特徴を見つけて、自分を気に入る。

③ AとBは、お互いに好ましい特徴を持っていて、相性がいいのだから、二人とも自然体でやりたいことをすればうまくいく。

このようなプロセスを経て恋は始まる。しかしこの本に沿うならば、この恋のプロセスは行き詰まることとなる。

恋のはじまりにおいて、僕は、彼女には好ましい特徴(優しい、趣味が合う 等)があるから、僕が自然体で振る舞えば、きっとそれを受け止めてくれるし、一緒に色々なことができるだろうと考える。きっと彼女も、彼には好ましい特徴(頭がいい、頼りがいがある 等)があるから、私が自然体でいれば、きっと理解してくれるし、安心して過ごすことができると考えるだろう。恋の始まりにおいて抱くこのような思いは一見妥当なように思える。お互いに認めた者同士がペアになれば、他の組み合わせよりもうまくいく可能性は飛躍的に高いに違いない。

しかし実際にはそうはならない。長時間にわたり一緒に過ごすことは思ったよりも難事業であり、一点でもうまくいかないことがあると、そこから綻び、全てが崩れてしまうことがありえる。確かに、お互いに認め合った夫婦であれば、他の人と組むよりも多くのことはうまくやれるけれど、どうしても生じてしまうたまたま合わなかった僅かなことが問題となり、その問題が夫婦関係全体を覆い尽くしてしまうことがあるのだ。

それでも、恋の初期には取り繕って相手にいいところばかり見せてしまうし、恋で盲目になってしまっているから僅かな問題に気づくこともないだろう。けれど、いつか恋の魔法が解けると、問題が顕在化し、それがたとえ僅かなものであっても、うまくいっている部分よりも、その僅かな問題のほうに目を向けざるを得なくなる。

これは、砂漠で喉が乾いているときに、空気があるからいいとは思えないのと同じことなのだろう。人間は生きていくうえで水も空気も必要だ。空気がなかったら一瞬で死んでしまうのだから、はるかに水よりも空気のほうが重要だと言ってもいいだろう。しかし砂漠で喉が乾いているとき、空気があったからいいとは思わない。周囲にある空気には意識も向かない。

同じことが夫婦の間でも起きる。彼女の優しさや彼の頭の良さは空気のように充満しているけれど、そこには目が向かず、毎日のトイレ掃除を求める彼女のヒステリックな物言いや、生返事でさぼる彼のだらしなさが砂漠での喉の乾きのように二人の心を支配するようになる。

このようにして恋は夫婦関係の変化に対応することができず、恋という熱病は冷めていくこととなる。

4-2 愛

そこで登場するのが愛だ。愛の立場に立つならば、そもそも、好ましい特徴があるから相手を好きになる、という順序自体が間違いなのだ。本当の愛においては、理由などなくても、まず献身しなければならない。相手に好ましい特徴があるかどうかや相性がよいかどうかなど関係なく。

このような愛の立場は、さきほどの恋のプロセスの反転図形のように、次のようなかたちで描写できるだろう。

① (なにもなくとも、まず)Aは、Bに対してBが望むことをする。

② BがAのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、BはAを気に入る。

③ (Aを気に入った)BがAが望むことをする。

④ AがBのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、AはBを気に入る。

⑤ AとBとが、お互いに好ましい特徴を持つようになり、よい関係となる。

以上の恋と愛のプロセスを対比するならば、

恋:(好きという)理由→行為→(結果は自然についてくる)

愛:(理由はない)→行為→(相手が喜び、二人がうまくいくという)結果

というように、理由・行為・結果という三者のなかでの力点の置き方の違いがある。恋においては、お互いが好きであれば、どのような行為をしても結果は望ましいものであるはずだ。一方、愛においては、理由はどうでもよく、ただ相手に奉仕し、相手が望む結果を目指すものである。または、恋においては、好きだから相手に奉仕する。奉仕したならば当然にお互いにとって良い結果を招くのだからそんなことはどうでもいい。愛においては、好きでも嫌いでもいいのでただ相手に奉仕する。だからこそ夫婦関係がうまくいくという結果がついてくる。

このような(理由を無視して)行為と結果というかたちで描写されるものが、この本での、世俗的キリスト教の文脈での愛のかたちなのだろう。

4-3 世俗的な愛

なお、この愛について、「世俗的」キリスト教的な愛としたのは、この愛が結果を重視したものだからだ。これに対しては、多分、相手が喜ぶというような見返りを期待しているようでは本当の愛ではないという反論があるだろう。愛をつき詰めるならば、理由も結果も関係なく、ただ奉仕という行為だけが重要だという真っ当な考え方だ。

だが僕はあえて、行為と結果というペアで愛を捉えるべきと主張したい。奉仕した結果として相手が喜び夫婦関係はうまくいくと考えることは、僕のような凡人が奉仕するにあたってはとても重要なことだ。あえて言うならば、相手を喜ばせるために、夫婦関係をうまくいかせるために方便として奉仕すると言ってもいい。それでは奉仕とは呼べないかもしれないけれど、それでもいいと思っている。

僕が描こうとしているのは、求道者でなくても、長くつきあった老齢の夫婦であれば誰でも普通にたどり着くことができるような、どこにでもある愛の姿だ。僕はどこにでもある普通の夫婦関係がうまくいくことを願っている。この本と同じように。

5 格好悪い愛

さて、普通の恋愛における恋と愛のプロセスの違いについて再確認しよう。恋と愛では、理由と行為と結果での力点の置き方に違いがあるのだった。

ここで特に着目したいのは、恋には好きという理由があるが、愛は理由ない行為、つまり奉仕から始まるという点だ。

この違いを重視するならば、恋から愛に進むために必要なのは、まず自分から格好悪い役回りをすることだと言ってよいだろう。自分の価値観と相容れなくても、プライドを捨てて、まず自分から相手が望むことをする。「あなたの愛を手に入れるために、まず自分からあなたを愛します。」恥をかき捨ててこんな宣言をし、愚直にそのとおりに実行することこそが愛なのだ。奉仕の愛とは、このようにとても格好の悪いものなのだ。

できれば、こんな格好の悪いことは極力手際よく済ませて、はやく愛のエンジンを着火し、愛の好循環を起動させたい。多分、一旦起動してしまえば、そんなに格好悪い思いはしなくて済む。愛は羽ばたくまでがみっともない。

では、愛を効率よく起動させるためにはどうしたらいいのだろう。せっかくプライドを捨てて、力を振り絞って自分から率先して愛を表現するならば、できれば最初から成功させたい。そのためには、失敗なくストライクを狙えるようなノウハウを事前に入手しておいたほうがいい。

そこで重要になるのが、この本が示してくれる5つの愛の言語だ。奉仕の愛を成功させるためには愛の言語について学び、相手への上手な伝え方を知る必要がある。ここにこの本の大きな意義がある。

だから、この本では自分の愛の言語を知り、相手の愛の言語を知るためのノウハウが色々と書かれている。愛の始まりは格好の悪いものだからこそ、このようなノウハウを知り、最短距離で愛を立ち上げることは、とても重要なのだ。

6 この本への不満

だけど僕はこの本の詳細に不満がある。5つという愛の言語の区分は粗すぎるように思うのだ。それは、この本でも愛の言語に「方言」という下位区分が登場することからも明らかだろう。「方言」という言葉は、お互いに同じ愛の言語を使っていても方言が違うから理解し合うことができない、という文脈で登場する。この本も、愛の言語を5種類に分類するだけでは足りないことは認めている。

それならば、方言の違いも事前に列挙すればいいように思うけれど、それは難しいだろう。なぜなら方言はいくらでも考えつくことができるからだ。例えばプレゼントを喜び、プレゼントを愛情言語とする人々のなかにも金額が高い品物が好きな人とセンスがいい品物が好きな人がいる、というように細分化はどこまでも可能だ。多分、愛の言語は5種類どころではなく、人の数だけあるのだろう。それどころか同一人物のなかでも、愛の言語は少しずつ変わっていくに違いない。昨日は優しい言葉が欲しかったけれど、今日は勇気づけるような言葉が欲しい、というように。

だから、相手の愛の言語を十分に把握することは不可能だ。それならば常に、相手のことを丁寧に観察し、完全には把握できない相手の愛の言語を少しでもよく知ろうとする絶え間のない努力が必要になる。

そもそも、愛の言語を分類し、当てはめて理解する、というやり方が、愛の言語を描写するには不十分なのだろう。

だから、この本における、チェックリストで愛の言語を見つけるというアプローチも不完全である。5種類ではなく、例えば方言も取り入れて10種類に増やしても同じことだ。またチェックリストの結果が同じだったり違ったりすることで一喜一憂することにも意味はない。最終的に愛の言語を見つける唯一の道筋は、この本にも書いてあったが、二人で話す時間をとり、お互いに望みを具体的に伝え合うしかない。

愛の言語は無限にあり、変化していくものだから、二人の対話を通じて少しずつ知っていくべきものなのだ。

7 格好の悪い愛2

二人で話し、お互いの望みを伝え合う場面を想像してみる。「僕は毎朝、ハグをして、キスして欲しい。」「僕は一人で休日を過ごすのが寂しいから、一緒に海に行きたい。」僕はそんなことを妻に言っているはずだ。こんな情景を思い浮かべてみるととても恥ずかしくなる。僕にとっては格好の悪いことで、プライドもなにもあったものではない。

だけど、やはり、このような格好悪いことこそが愛なのだ。

格好悪いことをすることこそが格好いい。そのような逆転が愛という言葉のなかには含まれている。僕は愛という言葉がどこかいかがわしく、あまり好きでなかったが、このように解釈するならば悪くないと思う。僕は愛という言葉に勇気づけられて、率先してプライドを捨てることができる。

愛とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その愛し方を愚直に実行することなのだ。

全てが認められ、自由気ままに振る舞えばよかった恋の季節が終わった後、つまみ食いのように別の恋を求めるのではなく、恋ではない生き方を求めるならば愛するしかない。それは一見、かなり格好悪くてプライドを傷つけられることだ。だけど、この本は「それは愛だから大丈夫だよ」と勇気づけてくれる。僕はキリストの愛をそのようなメッセージと受け取った。

格好悪さを乗り越える勇気を与えてくれるもの、これこそが愛なのだろう。

8 蛇足:この本を批判したことへのフォロー

(以下は蛇足です。)

なお、僕は、この本が愛の言語を5種類に分け、チェックリストで簡単に判別できるようにしたことを不十分だと批判したけれど、この本の目的を考えるならば適切なものだと思う。

なぜなら、この本が第一に目指したのは、夫婦間での愛の言語の「違い」を具体的に、かつ簡単に理解してもらうことだろうからだ。5種類にすれば、相手と違う可能性は5分の4で80%となる。チェックリストを使って愛の第一言語を調べるだけでほとんどの夫婦は愛の言語の違いに気づくことができる。この本が伝えたいのは愛の言語の「一致」ではなく「違い」だとするなら、この80%という数字は悪くない。不幸にも20%に含まれてしまった夫婦も、方言の違いを考慮できるし、なにより、二人で愛の第一言語を調べる過程で、お互いの感じ方の違いに気づき、そこから話し合いを始めることができるだろう。

なお、以上のこの本の効能は、夫婦で仲良く読んだ場合を想定している。だが残念ながら、パートナーと一緒にこのような本を読むことができない状況でも、この本のアプローチは有効だろう。

とりあえず、相手の協力がなくても、5区分を用いて、荒っぽくでも相手の愛の言語にあたりをつけることができる。そして、一人だけでこっそりと相手に奉仕し、愛の好循環のプロセスを発動することができる。それは二人で始めるよりも大変な道のりだろうが、少しずつでも良い方向に進むことはできるだろう。(この本にもそのような事例があった。)一人でとりあえずのスタートを切るためには、二人で始めるときよりも、この本のようにわかりやすく単純化された記述は役立つに違いない。

以上の二つの理由から、僕はこの本のアプローチは適切だと思う。僕がこの本を批判してでも描きたかったのは、その先の続きだ。

9 蛇足:対話

僕がこの本を取り上げたのは、僕が興味を持っている「対話」につながるものだからだ。最後に、多くの人にはどうでもいいことだろうけど、自分のために、ここまでの話と対話とをどのように接続できるかを述べる。

繰り返しの確認になるが、夫婦の間の愛の最も望ましいあり方とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その教えてもらった愛し方を愚直に実行することであった。

ここには僕が重視する対話の二つの要素が現れている。自分をさらけ出すとは、対話において話し手に求められる誠実性のことだ。妻と対話するならば、話し手である僕は、プライドなど捨てて、愛し方がわからないことを妻に申し出ることが重要となる。それが妻に対して誠実であるということだ。また、教えてもらった愛し方を実行するとは、対話において聞き手に求められる誠実性のことだ。せっかく伝えてもらった言葉を、自分の価値観に合わないから、格好悪いから、といった理由で無視することなく、しっかり受け止め、そのまま自らの行動に反映させることが重要だ。このように、愛においては、対話における話し手としての誠実性と聞き手としての誠実性の二つが重要となる。このようにして、ここまで述べてきた愛と対話は重なっていく。

更には、愛とは、誠実な対話のことだと言ってもいいように思う。僕が妻を愛するとは、誠実に妻と対話することなのだ。

思考の限界と家庭と旅

哲学は思考の幅を広げてくれる。もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない。「氷を熱すると水になる。」「友達が多いことはいいことだ。」「目の前に見えるこのスマホは確かに存在する。」そんな当たり前を疑うところから哲学は始まる。当たり前という枠を取り払い、「友達なんていなくていいかもしれない。」「そもそも『いいこと』ってなんだろう。」なんて考えを広げていくのはとても哲学的な議論のあり方だろう。

ここで注意しなくてはならないのは、思考を進めるためには、思考を成立させるための枠組みが必要になるということだ。どんなに思考の幅を広げても、それは変わらない。特に重要な枠組みは3つあるように思う。①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、そして③認識論的な枠組みだ。

①科学的な枠組みとは、自然科学的な手法が有効であることを前提とするということだ。当然、どのような手法が自然科学的に正当なものかどうかは議論の余地がある。「科学において実験は必須なのか。」とか、「どの程度の反証可能性が必要なのか。」というような問題だ。そうだとしても、そのような議論を経て、その手法が自然科学的に正当なものであることが明らかになれば、それは有効な手法であるのは明らかだ。この枠組みには、科学者だけでなく、ほとんどの現代人が従っていると言っていいだろう。

②倫理学的な枠組みとは、この世界は他者で満ちているということを前提とするということだ。もし、この世界に人間が自分ひとりしかいなかったら、倫理学は始まらない。人間以外の生物についての倫理学や、もしかしたら無機物についての倫理学のようなものもあるかもしれないが、そうだとしても、そのような別の存在を他者として認めることが前提となる。

以上の二つの枠組みは極めて常識的なものであり、それらをあえて枠組みとして扱う特段の必要性などないと思う方もいるかもしれない。だが哲学においては例えば、デカルトの方法的懐疑のようなかたちで容易にその枠組みは乗り越えられる。自然科学が有効に成立しているのは夢の中だけなのかもしれない。夢から覚めれば、そこはリンゴが木から落ちずに虚空に吸い込まれるように飛んでいく世界かもしれない。またはこの他者に満ちた世界は悪霊が騙して見せている幻で、実は、この私は人類の最後の生き残りなのかもしれない。

デカルトの懐疑はとても強力で、多くの思考の枠組みを破壊してしまう。しかし、デカルトの懐疑を遂行するうえでは③認識論的な枠組みを前提としていることを指摘しておきたい。夢の懐疑では、実はあれは夢だったと気づくことを前提としている。また悪霊の懐疑でも、実はあれは悪霊に騙されていたと気づくことを前提としている。デカルトによれば、認識誤りを認識で正すことができる。デカルトの問題とは、どこまでも認識についてのものなのだ。そこには、認識は間違うこともあれば、認識は正しいものであることもあるという前提がある。これがデカルトに代表される③認識論的な枠組みだ。

以上、思考には①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、③認識論的な枠組みといったものがある。(ほかに重要なものとしては、クワインのホーリズムやウィトゲンシュタインの言語ゲーム論につながるような④意味論的な枠組みなどもあるが、本題とずれるので省略する。)

以前の僕は、哲学においては、このような枠組みを乗り越えれば乗り越えるほど哲学的に前進することになると思っていた。だから僕は、認識論や意味論の限界ぎりぎりのところを論じる形而上学以外の哲学に意義を見いだせなかった。倫理学なんて、無根拠に色々なことを前提としすぎていて、無駄な議論だと思っていた。(今もそう思ってしまう傾向はあるけど・・・)

だけど、哲学カフェに参加していて気づいた。誰もがデカルトの懐疑をやりたい訳じゃないんだ、と。「友達が多いことはいいことか。」を論じているときに、そもそも、悪霊に騙されて友達がいると思い込んでいるのかもしれない、と指摘しても、ほとんどの参加者は喜ばない。参加者たちはそのような話をしたい訳ではないのだ。(もうひとつの喜ばない理由は、手垢のついたつまらない展開だから、というものだが、脱線になるので省略する。ただ、トロッコ問題を持ち出すような展開を思い起こせばおおよそは伝わると思う。)

多くの人は、思考に限界を設け、その枠組のなかで、箱庭のような土俵の上で、議論をしていくことが好きなのだ。僕は、もともとの性向から、そのようなことに疎くて気づかなかったけれど、哲学の世界とは、そのようなものなのだ。だから冒頭で「もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない」としたのは誤りなのだろう。

哲学の魅力は少なくとも二つある。ひとつは、思考の限界を乗り越え、その先に進む魅力であり、もうひとつは定められた限界の中で精緻に議論していく魅力だ。

では、後者の魅力、限界のなかで議論することの魅力とはなんだろうか。多くの人はわかっていて僕だけがわかっていないのかもしれないけれど、この問題について考えてみよう。

ポイントは、その限界は限界として意識されていないというところにあるのだと思う。当然、倫理学者はデカルトの方法的懐疑くらい知っているし、哲学カフェに来ている人だって、「昨日会った友人や目の前のスマホが存在すると思っているのは夢の中だけの話かもしれない。」と言えば、言わんとすることは容易に理解するだろう。だけど、彼らは、そこに論じるに値するような切実な問題を感じないのだ。そんなどうでもいい話ではなく、もっと倫理的な問題について話したいのだ。そこに限界があることはわかるけれど、意識をそこに向けるのではなく、もっと別のところに向けたいのだ。そこにあるのは思考の限界とは別のもの、例えば倫理的な問題に対する愛着だと言っていいだろう。

そう考えるならば、思考の限界とは牢獄や檻のようなものではないのかもしれない。檻ならば、それを破壊して脱出すれば自由になることができる。僕にとっては思考の限界とはそのようなものだった。だけど実は、思考の限界とは家のようなものなのかもしれない。(家庭にも色々あるので良い比喩ではないかもしれないが)帰ってくると安心する、愛する我が家というイメージだ。倫理学者にデカルトの懐疑について論じさせることは、無理やり快適な我が家から嵐の中に連れ出すようなものなのだ。それは誰も望まない不幸な出来事でしかない。

それならば、思考の限界とは慈しむべきものなのだ。僕は哲学カフェを通じて、そのようにして生きていく人たちのことも少しは理解できるようになった。そのようにして生きることができるのは、とても幸せなことだと思う。なぜならば、思考の限界からはどこまでも逃れることはできず、思考の限界を乗り越えようとすることは、終わりのない旅のようなものだからだ。そこには安住の地はない。

だけど、楽しい旅行から帰ってきたときには、ああ帰ってきちゃった、と思うこともある。DVがあるような家庭であればなおさらだ。僕は僕自身の性向から、家の外に喜びを見出す旅人のように、思考の限界の先に進むような哲学をしていきたい。そして、そのような哲学ができる哲学カフェの場を今後もつくっていきたい。僕と同じように家の外に出ざるを得ない人たちには必要なことだと思うから。

マインドフル・ダイアログ

僕は哲学カフェという活動に興味があり、数年関わっている。だけど、そのネーミングには引っかかり続けている。

そもそも哲学という言葉がキャッチーではないということもあるが、どうも哲学カフェという名前は活動の本質を捉えていないように思えるのだ。哲学カフェの本質は、テーマ設定や、参加者の人数や開催場所にはないのでないか。

確かに、哲学的なテーマ設定であれば、話し手として自由な発言ができやすく、聞き手としても発言内容だけに注目しやすい。数人から十数人くらい、というカフェに入るくらいの人数も対話にはちょうどいい。だけど、それらは付随することに過ぎない。話し手が自由に発言し、聞き手が発言内容だけに着目することができたなら、その話題がいわゆる哲学的なものでなく、例えばアニメの話であっても、また何十人、何百人の集会であっても、それは十分に哲学カフェ的だと言っていいだろう。(さすがに、法廷での証言や、何千、何万人規模の集会が哲学カフェ的になることは事実上難しいだろうが、論理的には哲学カフェ的なものとなる道が閉ざされている訳ではない。)

それでは哲学カフェの本質はどこにあるのか。それは参加者の心構えにこそあるのではないか。哲学カフェでは、他の参加者の話を聞くとき、発言者の肩書や性別や年齢などは気にかけず、ただその発言内容だけに着目することが推奨される。発言するときも、こんな発言をしたら変に思われるかもしれない、人間関係に支障が生じるかもしれない、などと考えず、自らの考えを表現することが望ましい。哲学カフェの本質は、このような、他のことに気を取られず、対話だけに集中しているという参加者の心構えにこそあるのではないか。

という訳で、僕は、哲学カフェというネーミングが気に入っていない。そこで僕は、マインドフル・ダイアログという名前を思いついた。ダイアログは対話であり、哲学カフェは哲学対話とも呼ばれるから説明不要だろう。ポイントはマインドフルという部分にある。
マインドフルとは当然、マインドフルネスのことだ。皆さんご存知だと思うが、マインドフルネスとは、僕のざっくりした理解だと、仏教が、禅などの実践面に重点を置き、西洋的に解釈されたものだ。もしかしたら、ヨガなど仏教以外の要素も含まれているのかもしれない。だが、西洋的に解釈された仏教と考えておけば大きな間違いはないだろう。

マインドフルネスは、瞑想を通じて、日常の雑事を手放し、今・ここに集中することを重要視する。歩いているならば、ただ歩いていることだけに集中し、食事をしているならば、ただ食べていることだけに集中する。同様に、哲学カフェでは、ただ対話していることだけに集中する。これこそがマインドフルネスとしてダイアログ(対話)を行うということだ。

先ほど、哲学カフェでは、聞き手は、ただその発言内容だけに着目することが推奨され、話し手は、自らの考えを何にもとらわれずに自由に表現することが望ましいとした。そして、これこそが哲学カフェの本質であるとした。これはまさに、マインドフルに対話を行うことと一致する。それならば、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることは適切であろう。

僕は、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることを提案する。そして、マインドフル・ダイアログをマインドフルネスのひとつとして位置づけ、マインドフルな人生を送るためのツールとして整理することを提案する。

ただし、マインドフルに対話することは、マインドフルに歩くことや、マインドフルに食事することと同列には扱えない側面もある。なぜなら対話するとは、言語を用いるとも言い換え可能であり、思考も含めた言語活動全般を行うことでもあるからだ。言語の力を最大限に見積もるならば、マインドフル・ダイアログとはツールのひとつではなく、マインドフルに生きることそのものであると言ってもいい。

なんでこんな文章を書いたかというと、マインドフル・ダイアログという言葉は、僕が2020年7月5日に思いついたことを明らかにするためです。ネットで検索すると少し出てきますが、このような力点を置いている使用例はないと思います。いつか、この名前を冠して活動をしてみたいな。そのためにはマインドフルネスももう少し勉強しないと。

入不二哲学と僕の疑問についての備忘録

1 入不二信者であること
僕は入不二基義の影響を強く受けているから、存在論、意味論、認識論という三者関係の構図でしか、ものごとを考えられなくなっている。
この考えられなさは、正しさの証左なのかもしれないが、僕自身の限界のようにも思う。僕は入不二が描いた構図以上のものが思いつかないのだ。僕の思考には、今のところ、この三者関係の構図以上のアイディアがないということは、僕の思考と、この構図がぴったり一致していることを意味する。それは、その構図を信じることによく似ている。この限界こそが宗教の起源なのかもしれない。
この文章は、そのような意味での入不二信者が書いたものとして読んでほしい。

2 入不二哲学における存在論、意味論、認識論の三者関係
入不二の存在論、意味論、認識論の三者関係においては、最終的には存在論が優位となる。入不二はそうは言っていないが、僕はそう解釈している。
存在論の勝利は揺るぎないように思う。入不二は、三者の戦いの果てでの存在論の勝どきを「無内包の現実」と表現することがある。僕なりの言葉で説明するならば、ペットボトルやパソコンや私自身といった個別のものごとが存在する前に、それらの存在を成立させる場(または存在させる力)として「無内包の現実」がまずあるのではないか、というのが入不二のアイディアである。どんな物事があるか、などといったこととは関係なく、ただ現実は「ある」のだ。それは存在論の勝利の場面だろう。
なお、入不二の存在論は、物事が存在するという意味での通常の存在論に留まるものではない。「ある」は時間的な「なる」と結びつき、存在論は運命論と呼ばれることとなる。または、存在は現前と捉えられがちだが、エネルゲイア的な潜在も含めたものとして、現実と呼ばれてもいる。入不二の存在論は運命論であり現実論であると言ってもよい。
そこまで拡張された入不二の存在論は、哲学上の語るに値する議論領域全体をすくい取ることに成功しているように思える。入不二は、哲学の最深部にあるもの、哲学の基底にあるものを指し示すことに成功しているように思うのだ。
そこでは、認識論や意味論とは、哲学者が最奥部・最深部に向かって旅をするにあたってのマイルストーンに過ぎない。認識論や意味論は、限られた存在である人間が、神の領域に向かうために使われる梯子でしかない。存在の深奥に到達したならば、梯子は不要となる。
入不二の語り方とは違うが、僕は入不二の議論を以上のように理解しており、そこには絶対的な正しさがあるように思える。

3 僕の疑問
だが、それで本当に、存在論、意味論、認識論の三者の戦いにけりはついたのだろうか。
「「無内包の現実」というものを想定するような存在論から、どのようにして、この世界の内包を生み出すことができるのだろうか。」これが僕に残っている疑問である。絶対的な存在論優位の図式からは、この疑問に答えることができないのではないか。
この世界に、ペットボトルやパソコンや私といったものがあるとするならば、その個別のものごとは、この無内包の現実のなかに含まれているか、または、この無内包の現実とは別に居場所が確保されているのでなければならない。前者の道筋で考えるならば、無内包の現実には必然的に内包が含まれていなければならず、後者の道筋でいくならば、無内包の現実よりも物事の有内包性が優勢となる場面を認めなければならない。
いずれの道筋をとるにせよ、存在論が絶対的に優位である「無内包の現実」という構図からは逸脱することとなるのではないか。これはつまり、認識論や意味論が優位となる場面を認めることではないか。

同じことを人と神という用語を使って描写することもできる。
入不二が描こうとしたのは神の世界だ。または、入不二は、人としての限界を乗り越え、神を垣間見ようとしたと言ってもいい。人としての限界とは、認識論と意味論のことだ。入不二は認識論と意味論を乗り越え、存在論の絶対的優位性を認めることと、神を垣間見ることとを重ね合わせている。
だとするならば、入不二の存在論優位の「無内包の現実」という構図から逸脱するということは、人を、神と並び立つものとして認めることである。神の一元論から神と人の二元論に移行するということである。
以上のような意味で、「無内包の現実から、どのように内包を生み出すことができるのだろうか。」を問うことは、入不二の哲学の根底を疑うことにつながっていると思う。

4 認識論・意味論が存在論に優位するとは
では、認識論や意味論が「無内包の現実」という存在論に優位している状況をどのように描写することができるだろうか。
それは、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」という記述に要約できるのではないだろうか。
当然、見るとは認識論を指し、語るとは意味論を指す。認識論が成立するためには認識論が有意義に成立するような世界が必要であり、意味論が成立するためには意味論が有意義に成立するような世界が必要だ。そこでは、認識論や意味論が世界の存在のあり方を規定している。認識論や意味論が成立するためには有内包の世界が必要だ。存在論は認識論と意味論の下僕として、有内包性を認識論と意味論に供給しなければならない。
これは、カントのコペルニクス的転回に少し似ている。存在論から直接に内包の存在を導くことはできない。しかし、認識論や意味論からは、「ねばなならない」というかたちで、内包の存在を導くことができるのだ。
だが注意しなければならないのは、このような操作には転落がつきものだということだ。永井均によれば、カントはデカルト的な道筋の先にあるはずだった<私>を見落としてしまった。それと同じように、認識論や意味論からの操作を通じて導かれる内包の存在という描写は、存在というものの最も重要な側面を見失ってしまっている。
そのように考えるならば、ここには、認識論・意味論と存在論の間のシーソーのような相克関係が生じていると捉えることもできよう。「無内包の現実」が存在論優位の極であり、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」が認識論・意味論優位の極であり、両極が相互に優位となるような構図だ。
そのような視点移動を経るならば、そのような構図が現に存在するというかたちで、再度、入不二の存在論優位の描写は立ち返ってくる。この相克関係という図式そのものが入不二の「無内包の現実」の力により支えられていなければならないからだ。どうも存在論優位は揺るがないようだ。

5 身体論について
だが、僕はどうしても、世界には、このような存在論優位の描写に取り込まれないような抵抗感のようなものがあると感じてしまう。無内包に還元されてしまう前の、内包のざらっとした質感のようなものがそこにはあるのではないか。その質感があるからこそ、僕は、活き活きとしたこの世界で、このような人生を営んでいると言えるのではないか。
入不二はそこにも答えを出そうとしているように思える。入不二は近年、レスリングをしており、その経験も踏まえて入不二身体論とでも言うべきものを作り上げようとしている。まだ全貌はわからないが、それは、先程も用いた、神と人という用語を用いるならば、身体を通じて人から神に至ろうとする道であるように思える。しかしその道は、身体の破壊というかたちで、必然的な失敗へと至る道でもある。その挑戦と挫折とは、僕が感じる生の質感のようなものなのではないだろうか。そのようなものして、今後の入不二の議論は僕の問題意識と直結していく期待がある。
特に根拠のない予想となるが、入不二の身体論とは、存在論、認識論、意味論とは別に身体論がある、というあり方とはならないように思う。入不二は既に、存在論を時間論、運命論というかたちで拡張し、新たな現実論とでもいうべきものを作り上げている。身体論は、この入不二現実論のなかで、認識論・意味論との接続を担う立場となるのではないか。もしそうならば、入不二の身体を巡る議論は、直接的に僕の疑問に答えてくれるものとなるかもしれない。
入不二の今後の議論を楽しみにしているし、僕自身ももっと考えていきたい。

アダム徳永の話

1 アダム徳永の紹介

アダム徳永さんを知っていますか。
セックス・セラピストとして何冊も本を書いたりしている人です。セックスと言っても普通のセックスではなくスローセックス、ざっくり言うと、女性に対して優しい愛撫を長時間することを提唱している人です。
なんとなく昔、名前を聞いたことがあったなあ、というくらいだったのですが、ふと気になって調べてみたら興味深かったので、You Tubeを見て、何冊か著作も読んじゃいました。
彼の魅力は正しそうなところと怪しそうなところがいい感じで混ざっているところです。残念ながら実践では試せていないけれど、彼の中心的な教義であるスローセックスは多分、かなり正しいでしょう。根拠は示せないけれど、アダルトビデオのようなセックスより、女性を大切に扱うスローセックスのほうが正解に近いのは確かだと思うので。多分、それを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。男性からすると、まさに目からウロコです。
一方で、彼のことを怪しいと思う人も多いでしょう。彼は、スローセックスを説明するにあたり、気やチャクラといったものを持ち出します。愛撫する手は、単に優しく女性を撫でるものではなく、そこから気を出し、女性と気を交換するものでもあるのです。このあたりは多くの人が眉唾だと思うでしょう。
なお、僕はヨガなども好きなので、気やチャクラといった話には抵抗がありません。それが真理かどうかはわからないし、周囲に布教したりはしないけど、そういうことを否定しないことで得るものもあるように思っています。
僕がアダム徳永さんが問題だと思うのは、男女の違いを強調するところです。彼によれば、男性とは愛する存在であり、女性とは愛される存在です。そこにあるのは男性から女性に対する一方的に愛が向かっていくという図式です。そこからは必然的に、男性が守り、女性は守られる、というようなある種の役割分担、または、夫唱婦随的な、古き良き男女関係への憧憬が導かれます。僕はそこには同意することができません。
ただし誤解のないように言及しておくと、彼の魅力は、そのような主張をしつつも、その結果、男尊女卑には陥らず、男性性の発露は、ひたすら女性を尊重し、尽くすという主張につながっているという点にあります。役割分担があるからこそ尊重が生まれるという論法です。騎士道精神やレディファーストのようなものを思い浮かべるといいでしょう。残念ながら、彼の主張は100%正しいとまでは言えないでしょう。古色蒼然とした年寄りの妄想のように思えます。それでも僕は、どこか筋の良さのようなものを感じるのです。彼の言説は、単に固定的な図式で男女平等を唱えることでは描写できない何かを捉えることに成功しているように思えるのです。
彼の言説が捉えようとした何かに僕は興味があるのです。

2 アダム徳永の言説から引き出せるもの

彼は、男が女を愛するという一方的な愛の図式を水の流れに例えます。彼によれば、水が高きから低きに流れるように、愛は夫から妻に流れるとされます。つまりそこには上下関係、高低差があるということです。このような描写を多くの人は嫌悪感を抱くでしょう。だけど、僕はそこに(劣化はしていても)ある真実が隠されていると思うのです。
僕が見出した真実とは、それを愛と呼ぶかどうかは別として、よい人間関係には高低差が必要だということです。人間関係を川の流れに例えるならば、高低差という力の源が必要なのです。
男女の性差というような固定化を避けるため、男女を問わず、と前提するならば、愛においては、確かに、愛する人はとことん愛し、愛される人はとことん愛されるという一方向性が必要です。それは、この一方向性が失われることにより、「愛されているから愛する。」「愛したのだから愛されるべき。」というような悪しき双方向性に陥ることからも明らかでしょう。愛は見返りなく与えるものであり、また、見返りなく受取るものなのです。
ちょっと脱線になるかもしれませんが、愛は見返りなく与えるものという話はよく聞くけれど、見返りなく受け取るものという話はあまり聞きませんね。もしかしたら、あまりピンとこなかったかもしれません。確かに、人と人の愛の話だと、愛される側の立場からの愛の描写というのはこれまであまりなされてこなかったかもしれません。もしかしたら、人と神の間の愛に置き換えたほうがいいかもしれません。(神の愛というからには、キリスト教の神をイメージしてもらったほうがいいでしょう。ただ、僕はキリスト教に詳しくないので、間違えていたらすみません。)
人と神の愛において愛される立場にあるのは人のほうです。神は人を人として創造しました。神がなぜそんなことをしたかと言えば、それは神が人を愛するからです。人はこの世に存在するからには、ただ神に愛されるしかないのです。それは極めて一方的な関係性だと言ってよいでしょう。もしかしたら、明日、神は人を愛するのをやめてしまうかもしれない。それでも人はただそれを一方的に受け入れるしかないのです。
確かに、そうならないようにキリスト教の教義はあります。この教義を守っていれば神は人を愛することをやめないという神と人の約束がなされています。ただ、それも極めて一方的な約束です。どんなに人が神を信じたとしても、神はもしかしたら明日にはこの約束を反故にしてしまうかもしれない。神が人を愛するかどうかは神にしか決めることはできない。愛される立場にある人の側からは、愛する立場にある神に何かを働きかけることはできない。そういう一方向性があるのです。神を信じるとは、そういう無力さの現れでもあります。
このキリスト教の神を用いた比喩は、当然、人と人の間の愛についても当てはまります。愛する人だけが愛するかどうかを決めることができ、愛される人はただ愛されるしかない。そこには厳然とした一方向性があります。確かに現実には人と人の関係だから、愛される人は愛し返すことができ、愛される人は愛する人にもなります。だからそこに双方向性が生じます。だけど、そこにあるのは2つの独立した愛であり、AさんからBさんへの愛と、BさんからAさんへの愛は全くの別です。愛されているから愛するのでも、愛したのだから愛されるべきでもありません。
ちょっと長くなりましたが、このような意味で、愛とは一方的なものなのです。それをアダム徳永は言いたかったのです。
彼がそのことを、夫から妻への一方的な愛の流れとして描写したのは確かに不十分なものだったでしょう。妻が夫を一方的に愛することがあってもいいし、多分、実際には、夫婦間では、そのような独立した二つの愛が交差しているでしょう。
なお、アダム徳永は、一応、この問題を補正しようとしており、彼は、夫婦という役割の違いを重視しつつも、それ以外にも夫婦には、母と子、姉と弟というような多様な役割の側面があるべきだとしています。夫が子のようになり、妻が母親のようになることで、母が子を愛するように、妻が一方向的な愛を夫に向けることも重要だと指摘しています。残念ながら、この話は、夫が妻に甘えることの勧めという薄っぺらい話として読まれざるを得ないような書かれ方をしています。しかし僕は、そこに、より普遍的なものを読み込むことができると考えます。
また、彼が、夫と妻という役割の違いを強調したことには効用もあると思います。愛とは双方向的なものという固定観念が広まっている現状では、愛の一方構成を戯画的に強調するしかないのもやむを得ないでしょう。僕がここで論じたように、愛の一方向性を説明したうえで、実は妻から夫への愛というものが別にあってもいい、としてしまうと、やはり愛とは双方向的なものではないか、と誤解が生じてしまうのは確かでしょう。これは、彼の本の娯楽的な性格を踏まえると賢明な判断だったと思います。愛が双方的なものだと誤解されるくらいならば、愛が固定的ではあっても一方向的なものだと誤解されたほうがマシなのです。

3 静的な世界把握と愛

と書いても、多分、多くの人は同意できないでしょう。男女差別よりは愛を双方向的なものだと考えたほうがマシなのではないか、と思う人が多いのでしょうか。
僕がこの文章を書いたのは、本当の敵がそこにあり、それを論破したいと考えたからです。僕の仮想敵は「静的な世界把握」派と名付けることができます。彼らに愛を図示してもらうよう依頼したとします。白い紙を渡して、「AさんとBさんとの間の愛を図に示してください。」と頼むときっと何の躊躇もせずに
「 A -♡→ B 
    ←♡-   」
というような絵を書くでしょう。この躊躇のなさが「静的な世界把握」派の特徴です。
しかし、ここまで述べてきたように、愛とはそのようなあり方をしていません。そのことを明らかにするために、アダム徳永は、あえて、「 A -♡→ B 」と描写したのです。
確かに残念ながら、この描写も誤りです。では、本当はどのように図示するべきなのでしょうか。考えられるのは、
「 A -♡→ B 
  A ←♡- B
 A -♡→ B 
  A ←♡- B ・・・ 」
というように、一方向的な愛が独立して行き来するものとして描くというアイディアです。確かにこれでかなり先程論じたことに近くなってきています。多くの人はこれを答えとしてもいいように思います。このような捉え方をするだけでも、アダム徳永の先をいくことができるように思います。
彼は、愛が夫から妻への一方向的なものとしつつ、愛のエネルギーは循環すると論じます。そこには矛盾があり、一方向的なものがなぜ循環するかを示すことができていません。この図のような独立した一方向的な愛が交互にやりとりされるのだと考えることで矛盾は解消されるでしょう。めでたしめでたしです。

だけど、僕はこういうところに妙に敏感なので、あえて、この図にもケチをつけたくなります。この図は、AがBを愛することと、BがAを愛することとの間に因果的な関係性があるように見えてしまうという点で、やはりミスリーディングなのではないか。一枚の図に、二つの愛を同時に描こうとすること自体がそもそも誤りだったのではないか。僕はそのように主張します。つまり、僕の答えは、「AさんとBさんとの間の愛を図に示すことはできない。」というものです。
多くの人は、僕の答えにがっかりするでしょう。なぜなら、きちんと簡略にまとめられないということは、理解できないことだからです。あきらめるよりは、さきほどの矢印の連鎖の図のほうがマシだと思うのではないでしょうか。
僕が「静的な世界把握」派と名付け、戦いを挑んでいるのは、そのような考え方です。僕の敵は、劣化版ではあっても簡略にまとめることでよしとする考え方です。その劣化にこそ、重要な秘密が隠されているはずなのに、それを無視してしまったら全てが台無しではないか。僕はそう思うのです。
多くの場合、「静的な世界把握」派が無視している何かとは「時間」です。あえて言うならば、時点と時点との間に横たわる断絶です。(もうひとつ「人称」間の断絶も無視されがちですが、その話は永井均に委ねます。なお、この時間の話は永井均というよりは入不二基義の話です。)
この愛の話でも、AさんがBさんを愛している時点と、BさんがAさんを愛している時点とは全く独立した時点であり、互いに全くの無関係です。昨日、彼女が愛してくれたことと、僕が今日愛することとは全くの無関係だし、僕が今日愛したことと明日彼女が愛してくれることとは全くの無関係だ。その無関係性さ、言い換えるならば「見返りのなさ」こそがアダム徳永が強調した一方向性の本質であったはずです。その無関係さを正確に表現するならば、愛を図示することは諦めなければいけないのです。
アダム徳永どこまで意識していたかはわかりませんが、彼は、反「静的な世界把握」派の仲間だったと考えることができます。彼は、あえて「A -♡→ B」とだけ描くことで、動的なあり方をしている愛の、その瞬間を写真のように切り取ることに成功した。これがアダム徳永の話の魅力だと思うのです。
念のため、「静的な世界把握」派に対する「動的な世界把握」派としての僕が、どのように愛を描写するかを参考まで示すこととします。(ただし、このような描写自体が静的なものなので、限界があることはご了承ください。まさにこの限界の回避こそが「静的な世界把握」派の魅力なのです。)
「愛とは僕が一方的に与えるものである。または僕に一方的に与えられるものである。だけど、なぜか、時間的な断絶を乗り越えて、全く独立に、与えた愛は愛として帰ってきて、そして与えられた愛を与えてしまう。そこには理解を完全に超えた不思議がある。それこそが愛の不思議であり、時間の不思議だ。」

4 対話

僕がこんなに長々と愛について話してきたけれど、僕の哲学上の興味の本丸は愛にはありません。ましてやセックスについては、個人的には大好きだけど、とりあえず僕の哲学上の興味とは別ということにしておきます。
僕の興味は言葉や対話に対するものです。言葉についても、愛と同じ一方向性があると思うのです。対話においては、その役割につけられる名前は、夫や妻ではなく、話し手と聞き手です。夫が妻を愛するように、話し手は聞き手に語りかけているのです。そこには、アダム徳永が指摘するように落差が重要となります。
夫が妻を愛撫するとき、彼はスローセックスを提唱します。数分だけおざなりに触れるのではなく、ひとつの性感帯に数分は時間をかけ、全体としては何十分も何時間も時間をかけ、丁寧に愛撫することが夫の愛(すること)の表現だとします。そして妻は、その愛撫を受け入れて感じることこそが愛(されること)の表現だとします。そこで重視されているのは、愛撫する者と愛撫される者との落差、つまりセックスとして表現される一方向的な愛の落差だと言ってよいでしょう。
言葉や対話においても、この落差が重要なのではないでしょうか。話し手は聞き手を思い、聞き手に伝わるように丁寧に表現する。聞き手は話し手の言葉を素直に受け入れ、理解すること(または理解できないこと)を素直に表現する。これこそが対話の真髄ではないかと思うのです。
妻がいいところで夫の愛撫を中断し攻守交代しては愛撫が深まらないし、聞き手が話し手の言葉をいいところで遮って話し始めては対話が深まらない。いずれも十分深めるためには、じっくりと一方的に愛撫し、言葉が発せられなければならない。そして、それが頂点に達したとき、ちょうどいいところで、なぜか、愛する人が愛され、愛される人が愛することになり、また、話し手が聞き手となり、聞き手が話し手となる、という転換が生じる。このちょうどいい地点、頂点での転換は、時間の不思議さを重視する「動的な世界把握」派にしてみれば、まさに奇跡であり、これは愛の奇跡であり、言語の奇跡とも思えます。僕はこの話をしたくて、この文章を書いたのです。
最後の部分は十分に表現できていない気もしますが、スローセックスと対話との類似性が伝われば、この文章の目的は達したことにしておきます。

ハイデガーとアーレントのことを何も知らない僕のハイデガーとアーレントについての話

松島恒煕という方が書いた「対話と「公共性」の関連をめぐって」という論文を読んだ。
(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2019/05/02_Matsushima_Paper.pdf)
この方を全く存じ上げないが、考えさせられるものがあったので、記録しておく。

この論文は、ハイデガーとアーレントの公共性概念を用いて、哲学対話での対話の深まりについて考察したものだ。
僕は、ハイデガーもアーレントも興味がなく、読んだことはないし、多分、今後も読むことはないと思う。だけど、この文章を読んで、僕の関心と、彼らとの間にどのような関係がありそうかが、少しわかったように思う。
予備知識は全くないけれど、僕の言葉を使って、この論文の議論をざっくりとまとめておく。

ハイデガーは、日常的な場面における個人の同質性に着目する。
日常的な場面においては、個人の根源的な存在の違いなどは着目されず、ただ、その内容の違い、質的な違いだけが表面化する。だから、会話においても、話し手と聞き手の間に横たわる根源的な違いなどなかったものにされ、その会話の内容の違いだけが問題となる。そのような同質性だけが表面化する状況にいると、人々は安らぎを覚える。それは、存在の違いという根源的な問題を内容の違いへ頽落させ、隠蔽するからだ。
だが、ハイデガーはそれを頽落として批判するのではなく、それでも隠蔽しきれない内容の違い、質的な違いを端緒として、そこから根源的な違いに向かうことができるという可能性を見出す。それが哲学であり、頽落しても隠蔽しきれない違いこそが哲学を支えるのだ。

松島さんによれば、アーレントは、その先を描いている。
日常的な違いは、本来の存在の違いとしてのあり方を回復し、ハイデガー的な集団としての公共社会は、実は、個人の違いが確立した公共社会であったことが確認される。そこでは、現にそこで個人の力を発露して生き生きとした活動を行われる。そのようなかたちで根源的な違いが表現され、実現されるのだ。
このようなハイデガーからアーレントへ向かう道筋こそが、哲学対話が向かうべき道である、ということになる。

しかし、そこで松島さんは立ち止まる。差異が強調されるアーレント的な公共社会において、人はどのような合意を目指すことができるのだろうか、と。論文は、この問題を提示し、解決可能なものという見通しを示すことで終わっている。しかし、このままでは明らかに、この問題を解決することはできないだろう。少なくとも、松島さんの考察に何かを付け加える必要がある。

僕はこの文章で、ここに付け加えるべきと思われるものを提案したい。

その前に、合意という言葉づかいだと、僕の問題とずれてしまうので、僕の言葉で言い直したい。僕なりに表現するならば、松島さんの問いは、「公共社会に共通の目的・価値はあるのか。」という問いとなる。
もし、「ある」と答えるなら、アーレントが強調する根源的な差異は弱められ、個人は公共社会の道具や手段となり、ハイデガー的な日常的な社会に頽落してしまう。
一方で、「ない」と答えるなら、公共社会という考察の対象さえも見出すことが不可能となるだろう。なぜなら、目的や価値を否定したうえで、それを独立した物事として捉えることは不可能だろうからだ。もし、可能だとするならば、価値論と存在論を完全に独立して論ずることができるということになってしまう。可能だとする道筋はあるかもしれないが、それは多分、アーレントや松島さんが向かおうとする道とは別物だろう。

このような袋小路を救うのは、やはりハイデガーだと思う。
アーレント的な差異を強調する道筋は、やはりどこかで行き詰まり、ハイデガーが強調する同質性へと頽落せざるを得ないのではないか。
だが、頽落した日常がゴールではない。ハイデガーによれば、そこで再び哲学は立ち上がる。そして、アーレント的な公共社会に向かおうとする。このようなハイデガーとアーレントの間を行き来するような往復運動こそが、公共社会というもののあり方なのではないだろうか。
ハイデガーもアーレントも、それを静的な段階的な違いとして解釈するならば、そこには限界がある。限界を乗り越えるためには動的な解釈が必要となるのではないか。そして、ハイデガーとアーレントには相補関係とも言えるような相性のよさがある。両者を往復運動として接続することで、その先を描写する力が得られるように思える。

希望的観測を述べるならば、この往復運動は、同じところの行き来ではない。
哲学対話のあと、日常に戻ると、そこの景色は少し変わって見える。ほんの僅かの違いかもしれないし、数日すれば、その違いなど忘れてしまうかもしれない。だけど、僅かでも前進している。
ハイデガーとアーレントの間の往復運動は、螺旋階段のように、循環しながらも、少しずつ前進している。この前進の力となっているのが、アーレント的な生の力であり、対話の力なのではないか。

ラブレターみたいな文章

僕は時々、ラブレターのような文章を書きたくなるときがある。ただ、ある一人のためだけに書き、その人には是非読んでほしいと願う。なお、その人以外の人も読んでいいという点では、ラブレターとは違うけれど。
そういう文章を書くとき、僕は、その特定のある人が読むことで、喜んだり、何か感じたり、何か考えさせられたりして、その人の人生のなんらかのプラスになればいいと願っている。その人とは、友人や知人でなくてもいい。見ず知らずの名前しか知らない誰かでもいい。もしかしたら既にこの世にいない、遠い過去の人でもいいのかもしれない。

たいてい、その誰かとは、何か、僕に考えるきっかけをくれた人だ。行動や文章で、僕に何かを問いかけてくれた人だ。妻と喧嘩をしたことで、何かを考えさせられたなら、妻にあてて書くし、哲学的な文章により考えさせられたなら、筆者に向けて書く。

では、ラブレターのようでない文章とは、どういうものだろう。
文章は、大きく分けて3つありえると思う。誰か特定の一人に向けて書いた文章、複数の人に向けて書いた文章、そして自分に向けて書いた文章だ。

複数の人に向けて書いた文章にも、更に、数名の友人のような少数の人に向けたものと、不特定多数の人に向けた文章というような違いはあるだろう。
だが、ここで問題としたいのは、人数はともかく、複数の人に向けて文章を書くということが、そもそもありうるのか、ということだ。
例えば、僕が職場から、LINEで家族グループに対して、「晩ごはんは要らないよ。」とメッセージを送る。そのとき、僕は、家族という多数を思い浮かべて文章を書いてはいない。妻を思い浮かべ、そして、娘を思い浮かべ、それぞれに対して、メッセージを伝えることを考えている。当然、そこまで明確に意識はしていないけれど、そうであるはずだ。妻と娘を個別に思い浮かべ、個別事情があることに気づいたら、個別事情に応じてメッセージを変えるだろう。もし、娘が旅行中なら、「そういえば、そっちは何を食べたの?」なんて書き添えるだろう。
多数に向けて書く文章とは、誰か特定の一人に書く文章を、いくつかまとめただけのもののように思える。「晩ごはんは要らないよ。」というメッセージは、妻と娘とそれぞれに分けて送ってもいいけど、たまたま同じ内容でよいから、まとめて送っただけとも言える。(同時に送ることで、妻と娘が互いに同じメッセージを受け取っていると知ることができる、という意義もあるけど、その意義の話は別の機会に。)

僕が、誰か一人のために書いた文章がラブレターのようで特別なものだなあ、と思うのは、僕の文章は、大抵が僕自身のために書いたものだからだ。
僕は、いつも、僕自身という、僕のことをよくわかっている理想的な読者のために文章を書いている。僕は忘れっぽいから、昔自分が書いた文章を読み返すと、こんな文章を書いた意図さえ思い出せないこともある。だが、そんな文章でも、当時は自分だけはこの文章を理解してくれると思って書いていたはずだ。
僕は、そんな日記のような文章ばかり書いているから、時々書く、誰かのための文章は特別なものとなる。

僕自身は、誰かのために書いたラブレターよりも、自分のために書いた日記のほうが、哲学的に深いところに到達していて、哲学的な意義があると思っている。だけど、たいてい評判がいいのは、ラブレターのような文章のほうだ。(評判がいいと言っても、ほとんど読む人などいないから、なんとなくそう感じるだけ。)
また僕自身としても、読み返して理解しやすく、まとまっていると感じるのも、自分自身ではなく誰かのために書いた文章のほうだ。独りよがりの日記より他者のためのラブレターのほうが理解しやすいのは当然なのだろう。

だとするならば、僕の文章のクォリティ向上のためには、ラブレターを書きたいと思うような人との出会いが結構重要なのかもしれない。

ちなみに、この文章は、自分自身のための、独りよがりの日記パターンです。

言葉へのこだわり

哲学者とは、言葉にこだわる人のことなのではないか。

一般的に、世界のあり方とか、人生の意味とか、根源的なことを知ろうとする人こそが哲学者だとされているように思う。僕もそう思ってきたし、そうありたいと思ってきたけど、しかし、そうではないかもしれないと気づいた。

なぜなら、哲学者かどうかに関わらず、人は、世界や人生について、現にある程度知っているからだ。知っていなければ、世界のなかで人生を生きていける訳がない。当然、十分に知っているとは思っていないし、もっと知りたいと願い、知ろうと努めているだろう。ただし、強調したいのは、多くの人は、世界とか人生について、全く知らない訳ではないし、哲学者に比べて、その知っている程度が低い訳でもないということだ。

当然、哲学者としては、その知り方に不満がある。そんなのは、知っていることにならないと思う。だから哲学をする。

そうだとするならば、哲学者かどうかを分けるのは、根源的なことを知っているかどうかや、知ろうと努力しているかどうかではなく、その知り方なのではないか。

哲学者とは、その知り方として、どこまでも言葉にこだわる人のことなのだ。哲学者は、根源的なものごとについて、言葉にしたいと願っている。人々がすでに知っていることについて、それを知っているだけでは飽き足らず、それを言葉にしたいと願っている。

だから、哲学という営みには、ウィトゲンシュタインが指摘したような言語の限界が横たわっている。言語の限界とは、思考の限界ではなく、哲学の限界なのだ。

このような定義の仕方は、かなりざっくりしたものだとは思う。ただ、明らかに言えることは、言語の限界のぎりぎりのところを目指そうとしない哲学は、哲学ではないということだ。哲学者には色々な定義の仕方があると思うが、僕は、哲学者とは、言葉に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことを指すのだとしたい。

なお、言葉へのこだわり方にも色々なやり方があるように思う。子どもが粘土で遊ぶように、ただ言葉をこねくり回すのが楽しい人、言葉を適切なかたちで並べたときの美しさに囚われた人などなど。

そのなかでも、言葉が持つ力に魅了された人のことを倫理学者というのだろう。正しい言葉には有無を言わせず世界のあり方を変える力がある。正しい言葉が正しくないことはありえないし、正しい言葉を無視することが正しいこともありえない。正しい言葉というものが持つこのような力に心を奪われ、正しい言葉を求める人こそが、倫理学者なのだろう。

哲学者とは、言葉というものの魅力に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことである。そう考えると、哲学という活動の輪郭が少しはっきりしてくるように思える。

半歩先の話

僕は何か思いついたアイディアを、誰かに「やってあげる」ことが好きだ。すべての人に届かないにしても、それが誰かの役に立つととても嬉しい。そこで、相手の評価はそれほど重要ではない。感謝されなくていいけれど、僕から見て、役に立っていると思えることが重要だ。

だから、往々にして、僕がやっていることは押し付けになってしまっているだろう。最も望ましい「やってあげる」は、僕が思いついたことではなく、相手が思っていることを「やってあげる」なのだから。

当然、独りよがりにならないよう、相手のことをなるべく知って、その人が望みそうなことを提供できるよう心がけてはいる。だが、僕の価値観上、やりたくないことはしたくない。(極端な例としては、殺人したいという望みに協力はできない。)それに、相手が明確に望むことばかりをしていたら、僕という存在が無意味なものに思えてきてしまう。(購買にパンを買ってこいと言われて買いに行くパシリか、道具のようなものになってしまう。)だから、それにも限界がある。

落としどころとして、相手が望むことの一歩先とまでは言わないけれど、半歩先を提供できるよう心がけている。相手が望むだろうことも理解しようとしつつ、僕の価値観ともすり合わせて、相手の望みと僕の思いの中間点あたりを目指している。

その試みがうまくいけば、相手は喜んでくれるし、僕もうれしくなる。そうすれば、相手は僕のことをもっと認めてくれるし、僕ももっと色々したくなる。その結果、更に相手は喜んでくれて、僕もうれしくなる。好循環が生まれる。もしうまくいかなければ、逆に負のスパイラルに陥る。

この成否を分けるのが、いわゆる相性なのだろう。ただ相性と言っても、お互いの価値観や性格だけではなく、上司と部下というような立場や、それまでの経緯というか、二人の間の歴史とでも呼ぶべきものまでも含んだものだ。

では、なぜ、僕は「やってあげる」ことが好きなのだろう。それは多分、自己実現とか承認欲求と呼ばれるものと大きく関係するのだろう。自分が思いついたアイディアを達成し、それを評価してもらえるのが嬉しいということは多くの人が同意してくれるように思う。特に僕にとっては、世界に貢献しているかどうかが重要だ。簡単に言えば、僕が存在することで、世の中が少しいい方向に進んだと思いたい。

もうひとつ重要な理由として、僕もそのようにしてほしいという願いがあるのだと思う。僕が願っていることの半歩先で、僕が思いもしなかったことを、だけど言われてみれば確かに望んでいたことを、提供してくれる人を探している。

この半歩先が難しいのは、自分のことも尊重しつつ、相手をしっかり見なければならないからなのだろう。一歩先なら自分のアイディアだけを見ていればいいし、0歩先なら相手が明確に望むことだけをしていればいい。半歩先を成功させるためには、相手と自分の両方に注意を払わなければいけない。それはとても手間がかかることだ。

半歩先は労力を要することだから、限られた人生においては、なかなか達成できることではない。だけど、なぜかうまくいくときもある。そんなときは、相手に興味を持ち、注目することが苦にならない。そして、無理をせずとも、自然と相手のことがわかる。そして相手が同じ思いだということもなんとなくわかる。それは幻想なのかもしれないけれど、確かにそのときには、そう思える。

というと、なんとなく恋愛っぽい話に聞こえるかもしれないが、恋愛に限らず、友人とでも、職場の人間関係でも起こることだ。それが相性であり、そのような人間関係を手に入れたくて、僕は人生の何割かを費やしているのかもしれない。

では、そのような相性のよい関係を手に入れられるかどうかは偶然に左右されるしかないのだろうか。運命の出会いという言葉もあるように、確かにそのような一面もあるように思える。だが、ある程度までは言葉で補うことはできるように思える。言葉でお互いの願いや価値観について伝え合い、二人の間の溝を狭める。生じてしまった誤解を言葉で丁寧に取り除くように努める。そのような努力を重ねれば、「言葉が通じない」一部の人を除く、多くの人と半歩先の関係を構築できるのではないか。

ただ、そこで重要なのは、単に言葉を交わせばいいのではないということだ。まず、発する言葉は真摯なものでなければならない。また、相手の言葉も真摯なものとして受け止めなければならない。そして、言葉は交わし続けなければならない。この3つのことさえできるのなら、大抵の人と、いい関係を構築することができるに違いない。

だけど、それはとても労力がかかることで、理想論に過ぎないとも思う。だからこそ僕は、そのような人間関係を手に入れたくて、僕の人生の何割かを費やしている。

コロナ騒ぎと生きるということ

コロナ騒ぎの渦中にある今、思うことを書き残しておく。

1 コロナの数値的な話

コロナにかかると、何%かの人が死亡すると言われている。実際に何%になるかは医療体制の状況や年齢によりけりのようだ。ここでは仮に1%としておこう。もし実際は2%や0.5%だったとしても、話を進めるうえでは大きな問題はない。

今後、コロナはどうなっていくのだろう。このまま対策をとらなければ、皆が感染して免疫を獲得し、これ以上、感染が広がることがなくなったところで流行は終わるのだろう。そうなるためには全員が感染する必要はないが、かなりの割合の人が感染する必要がある。ネットでは70%程度の感染が必要だという情報があった。その情報は正確ではなくても目安にはなるように思える。

つまり、世界の人口が70億人として、70億人×70%=約50億人が感染する必要があることになる。また、死亡率が1%とすると、50億人×1%=5千万人が死亡することになる。

スペイン風邪の場合は、当時の人口約20億人のうち、数億人が感染し、数千万人が死亡したということなので、この試算には大きなずれはないのではないか。

当然、飛躍的に医療が進歩しており、ワクチンや治療薬の開発も進んでいる。だが、開発には1年程度はかかるとされている。スペイン風邪が2年程度で終息したことを踏まえると、死者・感染者を半減させる程度の効果しかないように思える。

以上の僕の試算は、多分フェルミ推定と呼ばれるものだ。桁が合っている程度のざっくりとした推計を目指すものなので算出した数値はかなり怪しい。だから、推計が悲観的なものになりすぎないように、仮に、人間とウィルスの戦いが、特効薬や移動制限などにより人間側に有利に展開されたとしよう。その結果、70億人×感染率70%×死亡率1%=5千万人、という試算より大幅に死者数は抑えられ、死者は700万人だったとしよう。

これは、全世界の人口70億人の0.1%が死亡するという計算となる。

その場合でも、2020年3月29日現在の死者数が3万人なので、これから、これまでの200倍の死者が出るということになる。

仮にスペイン風邪と同じように終息まで2年かかり、それまでに均等に死者が出るとすると、700万人÷365日×2年=1万人が毎日死亡することになる。

また、日本に目を転じると、人口1億人の0.1%が死亡するとするなら、死者は10万人となる。2年間、均等に死者が出るとすると、1日あたりの死者は150人となる。

これは、世界を破滅させるような数値ではないが、現在の騒動がまだ序の口にあると思わせるに十分なものだろう。

2 将来の死の可能性への注目について

このような数値を書き連ねたのは、どうも、世間は、こういう数値に目をあまり向けていないように思えるからだ。

日々、何人が感染して何人が死亡したとか、誰が感染したというようなことはニュースになるけれど、今後の予想が話題になることはほとんどない。

そのような将来予測は専門家にしかわからないので、専門家に任せておけばいいということなのだろう。

ただ、専門家も、そのような将来予測を広く知らしめることはない。不確定要素が多すぎるからかもしれないし、専門家とはそれぞれの分野の専門家であり、全体としての予測を行うような立場にはないからかもしれない。

だが、それらはすべてまやかしの言い訳だと思う。

本当は、皆、死から目を背けているのだ。

いや、当然、これまでの過去の死者には目を向けている。死者が何人ということは大きなニュースになるし、個々の死のエピソードにも注目は集まる。

正確には、皆、将来の死の可能性から目を背けている。誰もそれを見たくないのだ。

だが、実際に、死の可能性は目前にあり、死は僕たちを捉えようとしている。

僕のフェルミ推定的な計算結果は、多分、大きなずれはないと思う。将来、コロナによる死は0.1%の確率で僕たちを待っているのだ。

そこから年齢や健康状態などを考慮すれば、個人ごとの死亡率のばらつきはあり、例えば、0.01%~1%というような幅を広げた予測が必要となるかもしれない。

だが、無視できない確率での死が待っているということは確かだ。

3 死の意義について

このような暗い話をするのはなぜかと言えば、僕は、今回のコロナは悪くない話だと思うからだ。

僕たちは、1%か0.1%か0.01%かはわからないけれど、無視できない確率で、コロナにより死ぬ。いくら目を背けても多くの人はそのことを感じつつあるはずだ。これは、死により絶対的に失うものについて気付くということであり、失うかもしれないと思うからこそ、何を持っていたのか気付くことができるということでもある。それならば、その持っているものについて、大事にしようと思えるのではないだろうか。つまりこれは「死を思え」だ。ここにこそ、今回のコロナ騒動の意義があるように思える。

僕は、5年前にガンになった。実際には初期の胃がんで、5年生存率は95%とか99%というようなものだった。だけど、はっきりしたことは手術をするまではわからず、ガンができた場所も結構微妙だったので食道の進行がんかもしれないという話もあった。だから、5年生存率はもっと低いかもしれないと思った時期もあった。(食道は胃よりも組織が薄いので、組織からガンが漏れ出やすいようなのです。)

僕はがんになって、死なずに生きているということの意義を少し実感できた。当然、よりステージが進んだがん患者に比べればたいしたことない話だけど、ある程度の大きな数値で死の可能性を示されたことは、僕の人生において確かに大きな意味があった。僕は死を思い、生を思うことができたのだ。

つまり、僕にとってのガンと同じような意義が、コロナにはあるように思えるのだ。

皆、そろそろ死ぬ。そして、その「そろそろ」は意外と近いかもしれない。だとするならば、死なないのではなく、生きることを考えたほうがいい。そのためには、死に目を向けるべきなのだ。

4 コロナ対策について

死から生へ、と視点を変更するならば、コロナの感染を防ぐために、色々な活動を自粛することについても、よくよく考える必要がある。

コロナによる死者を減らすために、色々と対策をすることは当然必要だ。だが、それは、あくまで、死なないための取り組みに過ぎない。人間の営みとは、生きる営みであり、死なないための取り組みとは、その最低限の条件を整えるためのものに過ぎない。

死なないための取り組みの危険なところは、それ自体に、なにか大きな意義があるように感じられる魅力があるということだ。

今回のコロナで、医師が不眠不休で人の命を救ったり、製薬会社が新しい治療薬の開発に取り組んだり、市民が家に引きこもって買いだめした食材を食べてしのいだり、老人がマスクを探して薬局に並んだりしている。そこには「生」につながっているという高揚感があり、やるべきことをやっているという意義に満ちている。

だが実は、それらは全て、自分ではない誰かや、今の自分ではない未来の自分が生きるためのものだ。そこには、今の自分が生きるということへの考慮が欠けている。これらは、いわば死なないための取り組みに過ぎない。更に言えば、今の自分の「生」から目を背け、他の誰かや未来の自分に「生」を押し付けているに過ぎない。

だとするならば、他の誰かや未来の自分のために、今の自分の活動を自粛し、制限するということは、いわば、本物の金貨を差し出し、偽物の金貨を手に入れているようなものだとも言える。偽物には偽物の価値があるから、一概に悪い取引とは言えないが、そのような取引をしているということは心に留めておいたほうがいいだろう。

今回のコロナでの一番恐ろしい被害は、コロナにより死なないことを優先するあまり、この数ヶ月、または数年間、皆が生きることを忘れてしまうことだ。

人生が100年とするなら、この1年は全体の1%にあたる。若い人にとっては、実感としての割合は更に大きなものとなるだろう。

高齢者を中心に0.1%死ぬかもしれないことと、若い人も一律に1%確実に生きなくなることでは、後者のほうが問題ははるかに重大なのではないだろうか。

では、僕は具体的に何を言いたいのか。

僕はこう言いたい。「死なないしかしてない人は、生きるをしている人のことを邪魔しないでほしい。」