「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~」カテゴリーアーカイブ

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 8 さいごに

8-1 まとめ:アミニズムの導入まで
まとめとして、ここで、これまでの議論を踏まえ、数式もどきに再登場してもらうことにする。
直近で示した数式はこうだった。
「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」
しかし、議論を踏まえ、修正し、更に並べ替え、言葉を補うと、「私の哲学」とは、
「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「作者としての私(作者性(原点性))、読者としての私(読者性)、読者としての他者(読者性)、読者ではない他者(哲学書上のみ)、区別(時間的区別・空間的区別・原点的区別)、独我論・独今論、アミニズム(希望=以下同様の規則・伝達(哲学)の成立)+α」 というようになろうか。
ここに記載した全てについて改めて触れることはできないが、ここまでの議論の大まかな流れを振り返ると、まず、私は、合意が得られやすいように形式的な捉え方から「私の哲学」というものを捉え、そこに「伝達」というものを見出し、そして「伝達」に「作者、読者、哲学書」という3つの側面を見出した。更には、自分自身に対する伝達という側面も踏まえ、主に読者性の担い手についての分析を経て、独我論・独今論に至り、また、それに対抗するものとして希望という意味でのアミニズムを導入した。
このようにして、私は、「私の哲学」において「伝達」という土俵を設定し、独我論・独今論といった懐疑主義的な主張と対峙することに注力し、区別、アミニズムという概念を持ち出すことにより、一定程度の勝利をおさめることができたと考えている。いや、おさめなければならない。それがアミニズムである。

8-2 独我論・独今論の意義
しかし、独我論・独今論について、「伝達」という土俵を設定したことの意味は、独我論・独今論に勝ったか負けたかというような矮小な話を超えた意味があると考えている。
通常、独我論・独今論のような懐疑主義は、私が陥っていた徹底的な懐疑主義のように、要は、難癖をつけているだけ、というように受け止められがちだ。何も夢だと思う理由などないのに「これは夢ではないか。」などと疑っているデカルトの夢の懐疑のように、疑いのための疑いのようなものだと思われがちだと思う。
しかし、私が「伝達」という土俵を設定して提示した「私の哲学」における独我論・独今論は、そのようなものではない。この独我論・独今論は、哲学自体の成立に対する否定ということを除けば、つまりは、作者の意図を完全に理解してくれる理想的な読者が存在することの否定という実感を伴ったものなのである。
例えば、何か物事を説明しても、なかなか相手方に伝わらず、わかってもらったと思っても実はわかってもらえなかったというようなことはよくあることだろう。私が理想的な読者はいないのではないか、と疑ったのは、このような素朴な実感に裏打ちされている。これが、独我論である。
また、先ほど思いついた哲学的なアイディアについてメモをする前に忘れてしまうというというようなことは、よくあることだろうし、また、自分が書いた文章について読み返した時、何が書いてあるのかよくわからなかったりすることも、容易に想像がつくのではないだろうか。私の独今論はこういうところから出発している。
このように、独我論・独今論については、通常の意味合いでは、疑うために疑うような、疑う理由のない底なしの懐疑のように受け止められがちであるが、哲学の伝達の場に限定をすることで、理由なく難癖をつけているようなものではなく、実感に裏打ちされた、理解が得られやすい懐疑となるのではないだろうか。
そして、このことで独我論・独今論が本来の力を取り戻すことができるのではないかとすら考えている。

8-3 独今論の傷跡 この文章の意義
ここまでは当初書き始める前におおむね想定していたものであったが、実際に書き始め、独今論について考察を深めるなかで、哲学の成立自体を否定するような独今論の破壊力に気付かされた。結局は、この破壊力についても、ドグマというものの位置づけを踏まえると、ドグマとして再拡張されたアミニズムで受け流されざるを得ないが、私にはこの独今論の傷跡が残っている。
つまり、私には、これまでの自分自身の哲学的思考を確実に受け止めた上で哲学を語ることができていないのではないか、という懐疑が傷跡として残っている。
確かにこの懐疑はアミニズムにより乗り越えられ、傷跡はないものとされるだろう。しかし、率直な思いとして、私はこの懐疑にどこかで同意できてしまう。
この懐疑への同意が何を意味するのかと言えば、この文章すらも、実は分断された思考を継ぎはぎしたもので、実は一塊の思考などではないのではないか、ということだ。それでも哲学を肯定するならば、この文章も含めた哲学は誤読によってできているとでも言わざるを得ないのではないか、ということだ。
しかし最後に、何度でも強調したいが、それでも、私がこの文章を一塊の思考として「伝達」しているという確信は揺らがない。
そして、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「作者としての私(作者性(原点性))、読者としての私(読者性)、読者としての他者(読者性)、読者ではない他者(哲学書上のみ)、区別(時間的区別・空間的区別・原点的区別)、独我論・独今論、アミニズム(希望=以下同様の規則・伝達(哲学)の成立)+α」という数式を「伝達」から導くことができたということの意義は、様々な概念が導かれたことにあったというよりも、「伝達」に、これだけの概念を導くことができる力があることを確認し、「伝達」という出発点の正しさを補強できたということにこそ、あったではないかと考えている。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 7 徹底的な懐疑主義

7-1 追い出すべきもの:懐疑主義
こうして、私がこの文章で語ろうとしたことは、ほぼ語り終わった。ここで、私は、このような方向でこの文章を書いた動機を述べたい。
私は、このような方向で考察を始めた動機はいくつかあるが、その最も大きなものは、懐疑主義的な考え方のうちのある一つを私の哲学から追い出したいという思いである。
「懐疑主義」と聞いて、最初の方で「懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあるだろう。しかし、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる。」と述べたことを思い出すかもしれない。そして、そのような哲学を自己矛盾に陥っているとして追い出そうとしていると思うかもしれない。
しかし、そうではない。既に述べたように、私はデカルト的な反論を受けて「哲学は伝達されている」という主張は早々に取下げ、「哲学は伝達されていると思われる、ということは疑い得ない。」というラインまで撤退している。よって、「哲学は伝達されていると思われるが、実は伝達されていない。」という懐疑主義的な主張は成立しうる。これが、この文章で述べた独我論であり、独今論である。
私が追い出したいのは、このような懐疑主義ではなく、この世界の全ての存在を疑い、否定し、無視するような徹底的な懐疑主義だ。何も積極的な論拠を示さずに、懐疑のための懐疑のような理由のない懐疑を提示し、全てを懐疑に晒すような懐疑主義とでも言えばいいのだろうか。
おわかりかもしれないが、徹底的な懐疑主義とは、私がこの考察を経ることで乗り越えたいと思っている私自身の考えだ。だから、徹底的な懐疑主義というものを説明するために、これまでの私自身の考えについて書いていくことにする。

7-2 徹底的な懐疑主義
私は、デカルトの「我思う故に我あり」という言葉について、哲学に本格的に触れる前から論理の飛躍があると思っていた。何故、我思えば、我があるのか、ということがわからなかった。デカルトにより近代哲学が始まったとされるが、私には、何かが始まったということは、なんとなく感じるのだが、何が始まったのかがよくわからなかった。
そして考えてみると、その疑問は、文の内容によるものではなく、文というものの性質そのものによるもののようだった。よって「我思う故に我あり」という文でなくとも同じだった。例えば、「我思う故に~あり」というように、「~」に色々な言葉を入れ、後段を色々と置き換えてみる。そうすると、例えば、「我思う故に「思い」あり」とか「我思う故に「我思う」あり」というようなトートロジーとなり、一般的には論理的に正しいとされるバージョンもできる。しかし、それでも私の疑問は消えず、この前段の「我思う故に」から、どんなものであれ後段の何かがなぜ引き出せるのかがわからなかった。文として何かの主張を引き出すということの意味がわからなかった。
この疑問について、この文章における議論を踏まえて言い直せば、「以下同様の規則」がどうして成立するのかがわからなかったとも言える。
例えば「我思う故に「思い」あり」という文で言えば、最初の「思う」と2つ目の「思う(思い)」が、なぜ同じ「思う(思い)」なのかがわからなかった、ということだ。また、先ほど用いた「A=A」のような数式で言えば、(左辺を指して)「これは「A」だ。」と言われれば、「わかった。」と答え、(右辺を指して)「これは「A」だ。」と言われれば、「わかった。」と答えるが、「よって「A=A」だ。」と言われると、「どうして?」と立ちすくんでしまうのだ。
それでも哲学書を読むためには、読み進めなければならない。そうすると、哲学書に「白い犬がいるとする。その白い犬が・・・」などと書いてあったときに、私は、なぜ1番目の「犬」と2番目の「犬」が同じだということになるのだろう、というところで止まってしまうことになる。「犬」を例に出したが、これは犬というような用語でなくても、真理などというような用語でも同じことだ。それなのに、哲学者達は、どんどん先に進み、真理とか、現実とか、時間とか、言語とか、豊富な用語を使い、色々な哲学的な議論を進めていってしまう。
私はその疑問に片目をつむったまま読み進めることで色々なことがわかってきた気にはなったけれど、根本的なところで何か気持ち悪さが残っていた。哲学書を読むと、いつも、どこかに感じてしまう疑問があった。「何が語られ始められているのだろう。」これが私の徹底的な懐疑主義としての実感だ。
その実感をあえて言明すると「確かな言明を行うことは不可能である。」とでも言えようか。だが、この言明すらも懐疑に晒される。これが、私が追い出そうとした懐疑主義だ。
この懐疑主義を、今まで述べた用語を用いて述べるならば、「以下同様の規則」への疑いと言えばよいのかもしれない。「以下同様の規則」は何によって成立しているのか、仮に、「以下同様の規則」を否定するならば何が残るのか。そこはつるつるの大地なのではないか、という疑いである。

7-3 徹底的な懐疑主義を越えて
ここで、私は、「伝達されているという思い」を確かなものとして「徹底的な懐疑主義」から決別して歩み始めたい。確かに、私が哲学という土俵に立たない限りは決して「確かな言明を行うことは不可能である。」という徹底的な懐疑主義を否定することはできない。しかし、私が一旦、哲学という土俵に立ち哲学を行うならば、この文章で述べたとおり、哲学を行うという営み自体から「伝達されているという思い」が確かなものとして導かれる。ここで私は、「私の哲学」において、デカルトの言葉を言い換え「我哲学する(我思う)故に伝達あり」と宣言したい。
この宣言によって、「私の哲学」における徹底的な懐疑主義は崩れる。なぜなら、反「徹底的な懐疑主義」側は既に「伝達されているという思い」という肯定の論拠を提出していることから、徹底的な懐疑主義側は、積極的に肯定できる論拠が何もないから肯定しない、という懐疑論特有の論法を用いることはできなくなるからだ。そして徹底的な懐疑主義が成立するためには、少なくとも一つは何らかの「伝達されているという思いを肯定しない論拠」を肯定しなければいけなくなり自己矛盾に陥る。
また、「以下同様の規則」への疑いという面から述べると、「以下同様の規則」を否定しても、そこには「伝達されているという思い」が残るということだ。
ここで、私は徹底的な懐疑主義を乗り越えることができたと考えている。しかし、どのレベルで乗り越えることができたのかは注意しておく必要がある。
これまで私が述べたことを、先ほど、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」 という数式もどきで表現した。
このうち、例えば、先ほどの「以下同様の規則」について言えば、「「以下同様の規則」を否定しても、そこには「伝達されているという思い」が残る」というような言い方をしなくとも、読者性から、数式の左辺の「以下同様の規則」は認められていたのではないか、「以下同様の規則」が徹底的な懐疑主義を突き破ったとも言えるのではないか、と思われるかもしれない。また、中辺の「作者」についての作者性の議論を持ち出し、哲学の「作者としての私」は否定出来ないことから徹底的な懐疑主義は成立しない、というような言い方ができると思われるかもしれない。(この場合、デカルトが言った「我思う故に我あり」にとても近くなる。)このように、この文章における数々の考察を経て、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」ということが認められたのではないかと思われるかもしれない。
しかし、私が「伝達あり」と宣言したことの確信は、その手前にある。この数式の中辺と右辺(=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則・・・+α」)は当面の最良と思われる説明を行うために導入したものであり、今後更によい説明に置き換えられる可能性はある。しかし、仮に今後、この図式のうちの中辺と右辺が再考されることがあったとしても、「伝達あり」との左辺についての確信は揺らがないのではないかと思っている。私が徹底的な懐疑主義を越えたと考えているレベルは、あくまでも左辺の「伝達あり」においてなのである。
これまで長々と述べたことを全否定しているようにも思われるかもしれないが、これが正直な思いだ。

7-4 ドグマ
言い方を変えてみよう。
「私は、「伝達あり」との左辺についての確信は揺らがないのではないかと思っている。」と言った。これは、表現を変えれば、「哲学は伝達されていると思われる。」ということが、「私の哲学」の基礎付けであり、「私の哲学」の必要条件とも言えるというとになろう。
一方で、徹底的な懐疑により、「哲学は伝達されていると思われる。」という主張以外の全ての主張は未だ肯定されていない。ということは、「哲学は伝達されていると思われる。」以外の主張から何かを出発することは、「私の哲学」としては認められないということだ。つまり、これは、「私の哲学」の十分条件でもある。
このことをつなぎあわせると、「哲学は伝達されていると思われる。」ということは「私の哲学」の必要十分条件であり、「私の哲学」は全てそのこと「のみ」から始まるべきだということになる。
一般的に哲学において、このような基礎付けはドグマとして否定されることが多いだろう。しかし、全ての哲学には、それぞれの哲学者なりの「哲学の捉え方」があるという意味において、ドグマが含まれていると私は考えている。
そして、「私の哲学」における「哲学の捉え方」を確認するという行為は、実は、哲学に必然的に含まれるドグマを確認する行為であると考えている。なぜなら「哲学の捉え方」とは、哲学以前に既に定められているという意味でドグマだからだ。
ここで私にとっての「私の哲学」の立ち位置を確認しておきたい。「哲学は伝達されていると思われる。」というドグマは、数ある哲学におけるドグマのなかで、私にとって、最もましなドグマだということだ。

7-5 確信・ドグマ・再拡張されたアミニズム
この確信、ドグマは、独今論により、哲学の成立が否定されようとしたときに、原点的区別という概念を持ち込み、哲学の成立を維持した再拡張されたアミニズムと同じものであると考えられる。なぜなら、再拡張されたアミニズムは、あの「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」という数式における、左辺、つまり「伝達(する)」ということ自体から成立したものであり、この数式における「伝達」以外の中辺と右辺をいくら否定しようとしても、中辺と右辺に何かを加え、それを乗り越えようとする、左辺、つまり「伝達」への確信そのものであるとも言えるからだ。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 6 更なる問題 哲学の否定

6-1 独今論と「読者としての私」
ここまで、比較的順序だてて整理して説明をしてきたつもりだが、実は、順序だてた説明ができないため意図的に後回しにしたことがふたつある。
一つは、独今論について語るなかで、「自分自身に対して伝達することも伝達に含まれるのでなければ、哲学という一塊の思考は成立しない、~これも私には耐えられない。」と述べたことの問題である。
私は、先ほどは、この耐えられなさを、哲学の受け手である「読者としての私」に読者性がないことの耐えられなさと同列に語ってしまったが、実はそうではない。
哲学の受け手である「読者としての私」に読者性がないということは、つまりは、他者の読者性を認めないとした独我論と同様に、読者がいるかどうかという問題であり、既に述べたとおりである。
しかし、独今論を認めた場合、哲学が成立しないということは、この文章が成立していることすら否定することとなるのだから、先ほど述べたような問題とは、全く別の問題がある。
では、具体的にはどのように哲学が否定されるのか説明するためには、もう一つの後回しにした問題について語る必要がある。
それは「読者としての私」についてである。先ほど、「私」については「私」=「作者」と結論付け、「読者としての私」は「私」ではなく「他者」だとしたが、そこには、更に、まだ述べていない問題点が残っている。
その問題点を明らかにするために、改めて、自分自身の中で哲学的な思考を行うということを、「作者としての私」と「読者としての私」という概念を用いて整理してみることにする。
仮に、(時点という概念を不用意に用いることに片目をつむって)時点Aと、それより未来の時点Bがあるとする。
時点A、時点Bを導入し、そこに「作者としての私」と「読者としての私」があるとすると、私には、時点Aにおける作者としての私と読者としての私、時点Bにおける作者としての私と読者としての私、という4つの私がありうる。
これを、「私(A作者)」、「私(A読者)」、「私(B作者)」、「私(B読者)」と表すことにしよう。
なお、ここでは「私(A読者)」は省略することにする。何故なら、「私(A読者)」とはA以前の時点(例えばA‘)における「私(A’作者)」の哲学書の読者なので、「私(A読者)」について語るためには、更に導入する時点を増やさなければいけなくなり、議論が複雑になってしまうからだ。「私(A作者)」、「私(B作者)」、「私(B読者)」の3つに絞り、その関係を確認してみよう。
哲学的な思考を時点A、Bを通じて行ったとする。そうすると、まず、「私(A作者)」が語った哲学が、「私(B読者)」に伝わる。そして、「私(B読者)」と「私(B作者)」は、同じ時点における同じ私であるので、「私(B読者)」として理解した「私(A作者)」の哲学を踏まえ、「私(B作者)」は更に哲学を語っていくことになる。つまり、図示すると「私(A作者)→私(B読者)=私(B作者)→」となる。
これに、A以前の時点(例えばA‘)等の省略した時点も踏まえ、連続して哲学的な思考を行っている場面を図にすると、「・・・→私(A’読者)=私(A‘作者)→私(A読者)=私(A作者)→私(B読者)=私(B作者)→・・・」となり、思考が行われる限り、このような関係が続いていくことになる。
これが、自分自身に対して哲学を伝達するということの意味であり、私が私に対して哲学を伝達することで一塊の思考が成立するということの意味である。
この図において、これまで何を説明してきていて、何を説明していなかったのだろうか。
この文章においては、これまで、「作者としての私」から「読者としての私」への伝達という、この図における「→」のみを注目していた。しかし、実は、ある時点における「作者としての私」と「読者としての私」は同じであるという、この図における「=」も、哲学的思考が成立するためには必要なのである。
ここに、これまで述べなかった「作者としての私」と「=」で結ばれるものとしての同時点における「読者としての私」がある。(なお、ここまで「読者としての私」として登場していたのは、「→」で結ばれるものとしての別時点における「読者としての私」であった。)
このことを確認したうえで、独今論により、自分自身に対する伝達が否定され、哲学という一塊の思考が否定されたということの意味を、改めて捉え直してみたい。
この否定には2つの意味がある。一つ目は先ほど述べたような、独今論により、私という読者がいることを否定されると言った意味での否定である。これは、作者から読者への伝達、つまり、例えば「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達を否定するという、「→」の否定である。
もう一つは、独今論においては哲学が成立しないこととなってしまうと言った意味での否定である。これは、「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達を否定するということではない。なぜなら、一旦、違う時点での「読者としての私」の読者性が否定され、「→」が否定されたとしても、アミニズム、つまり「読者としての私」はいるかもしれないという希望により「→」は復活し得るので、哲学の伝達が成立しないとは言えないからだ。
では、何が否定されたかと言えば、例えば「私(B読者)」と「私(B作者)」という同じ時点における同じ私が作者として、また、読者として現れるということである。つまり「=」の否定である。この否定により、これまでの自らの思考を理解した上で更に思考を積み重ねることにより、一塊の複雑な思考を成立させる、ということが否定される。これが、哲学が成立しないということの意味である。
よって、前者の否定、つまり「→」の否定は、独我論において他者の読者性を否定したのと同じような意味しかないが、後者の否定、つまり「=」の否定は哲学の否定という全く別の否定である。
なぜ、この二つの否定の間で大きな差が生じるのか、ということについて、言い方を変えて述べると、この差は「区別」があるところでの否定なのか、「区別」がないところでの否定なのかという差である、という言い方もできよう。
独我論においては、「作者としての私」と「読者としての他者」という、空間的区別が働いていた。区別の向こうはわからないので、この区別により、読者は空間的な区別の向こうにいるため、読者はいないかもしれないが、いるかもしれないという希望も持てる、というアミニズムが働くことができた。
また、独今論においても、「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達ということであれば、同様に、時間的区別が働き、「私(B読者)」は時間的区別の向こうにいるため、読者はいないかもしれないが、いるかもしれないという希望も持てる、というアミニズムが働くことができた。
つまり、これらの前者の読者の否定については、「区別」というものがあるからこそ、アミニズムが働く余地があった。
しかし、後者の哲学の否定、つまり、例えば「私(B読者)」と「私(B作者)」という同じ時点における同じ私が作者として、また、読者として現れるということを否定するということには、同じ時点の同じ私のことだから、時間的区別や空間的区別は働かず、『「区別」の向こうだから、わからないけれどいるかもしれない。』というような希望を持つことはできない。よってアミニズムが働かない。これが後者の哲学の否定である。
「区別」を用いたアミニズムが働かないかたちで、哲学が否定されるということは、アミニズムで乗り越えることができないという意味で重大な問題だ。
そして重要なことは、この哲学の否定は、理由のない疑いのための疑いのようなものではない、ということだ。既に述べたとおり、私には、常に作者として私を読み込んでおり、読者には私を読み込んでいない、という素朴な実感がある。よって、作者には「私」というものを読み込まざるを得ない。これは、同時に、読者には「私」は読み込むことができないということを意味する。この素朴な実感に裏打ちされた「読者としての私」の否定が哲学の否定につながっている。
このように、私は、これまで問題を隠しつつ説明を行ってきたが、実は、独今論と「読者としての私」という観点からは、哲学の否定という大問題が生じるのである。

6-2 再拡張されたアミニズムと原点的区別
それでも私は、一塊の思考の結果としてこの文章を書いている、と信じている。あえて、過去、現在という用語を用いれば、現在、作者としてこの文章で書いていることは、過去における私の思考の成果を読者として受け取ったものに基づいているという確信がある。つまり、「作者としての私」と同一時点において、「=」で結ぶことができる「読者としての私」を立ち上げようとする更なるアミニズムが働いている。ここに、哲学を否定するという独今論の破壊力をも乗り越え、再度拡張されるアミニズムの根の深さがある。
それでは、この再拡張されたアミニズム、つまり、「作者としての私」と同一時点における「読者としての私」を立ち上げるとは、どういうことなのだろうか。
再度、「区別」概念に登場してもらうことにする。時間的区別、空間的区別として導入した、あの「区別」概念である。
そうすると、この問いは、再拡張されたアミニズムを導入するためには「作者としての私」から同一時点における「読者としての私」を「区別」する必要があるが、その場合の「区別」とはどういうものだろうか、という問いに置き換えることができる。
答えを考えるにあたって、初めに、少なくとも言えることは、この「区別」は空間的区別とも時間的区別とも違うものだということだ。
しかし、「作者」の原点性、つまり「作者としての私」が起点となり、そこから何が区別されるか、という観点で検討を行うという意味では、空間的区別や時間的区別と違いはないだろう。つまり、空間的区別においては、「作者としての私」から見た「読者としての他者」が区別され、時間的区別においては、「作者としての私」から見た別時点における「読者としての私」が区別されたのと同じように、この区別においても、「作者としての私」から見た同一時点における「読者としての私」が区別される、という視点で区別が捉えられるべきだということだ。
そこで私は、この「作者」の原点性というもの自体が、この新たな「区別」を立ち上げているのではないかと考える。なぜなら、私は、同一時点で「作者としての私」であり、「読者としての私」であるのかもしれないが、この「私の哲学」においては、「作者」としての原点性の有無により、同一時点での「作者としての私」と「読者としての私」は明確に「区別」されるべきだからだ。
そして、この原点性により、「作者としての私」が優先され、「読者としての私」は、「区別」の向こう側にあるものとして、独今論により否定される一方で、再拡張されたアミニズムにより希望を持たれもする。これが再拡張されたアミニズムを導入するまでの経緯である。
この「区別」を原点的区別と呼ぶこととしたい。つまり、区別には、時間的区別、空間的区別、原点的区別の3つがあるということになる。
こうして原点的区別により再拡張されたアミニズムが成立し、「作者としての私」と同一時点における「=」で結ばれる「読者としての私」が立ち上がり、哲学が成立しうることとなる。
なお、付言すれば、これまで「伝達」という観点から出発して色々なことを語ってきたが、この「伝達」とは、「伝達する」ということであり、「伝達される」ということではない、ということに、原点的区別の「原点性」、つまり「作者」の優先性は起因しているのではないだろうか。つまり、哲学とは、語るものであり、語られるものではない、ということである。つまりは、今まで「伝達」としてきたものは、実は「伝達する」であり、この原点性は「伝達」という「私の哲学」の根幹に関わっているものなのである。
この捉え方は、(自己顕示欲が強くて、人から学ぼうとしない、というような私の個人的な性格とは関係がなく、)「私は哲学の読者である。」という哲学でさえ、私が作者として語らざるをえない、という哲学の原初的な構造に由来している。(と思う。)

6-3 区別の共通性1 時間的区別・空間的区別
独我論・独今論について検討し、「区別」という観点から原点的区別というものまで持ち出し、「私の哲学」の根幹の「伝達」自体にまで話は至った。それでは、これ以上、これらの「区別」について更に語るべきことはあるのだろうか。
ここで視点を変えて、「区別」の共通性という見地から考えてみたい。
これまで、私は、区別されたもの同士は何が異なるのか、つまり、例えば空間的区別においては、「作者としての私」と「読者としての他者」との違いは何か、というような相違点を中心にみてきた。しかし、区別とは、何らか共通しているものに相違点があるからこそ区別であり、共通性がなく相違点だけがあるならば、無関係でしかない。
よって、空間的区別における「作者としての私」と「読者としての他者」、時間的区別における、別時点での「作者としての私」と「読者としての私」、そして、原点的区別における、同一時点での「作者としての私」と「読者としての私」については、いずれも相互に何らかの共通性があるはずだということだ。
そこで、区別されるもの同士の共通性に着目してみたい。
空間的区別について言えば、哲学の「作者としての私」と「読者としての他者」との間では、伝達が生じるためには作者と読者は別である、という意味での「区別」がなければならないが、一方で、伝達ができるという意味での何らかの共通の土俵に立っていなければならない。この、何らかの共通の土俵、共通性とは何かと言えば、先ほど、読者性の議論において述べた、作者が述べたことを読者は、そのとおり理解できる、という「以下同様の規則」であろう。「以下同様の規則」が両者に及ぶからこそ、作者と読者が共通の土俵に立ち、伝達が生じうる。なお、原点性があるため、正確には「作者としての私」から「読者としての私」に対して「以下同様の規則」が及ぶと言うべきだが、原点性を捨象すれば、「以下同様の規則」が両者に及ぶ、という言い方ができるはずだ。
時間的区別についても同様で、哲学の「作者としての私」と「読者としての私」との間では、伝達が生じるためには作者と読者は別である、という意味での「区別」がなければならないが、伝達ができるためには、作者が述べたことを読者はそのとおり理解できなければならない、という意味で、「以下同様の規則」が両者に及んでいるという共通性がなければならないだろう。
このように、空間的区別と時間的区別における、区別されるもの同士の共通性とは、「以下同様の規則」であると言える。

6-4 区別の共通性2 原点的区別
一方で、原点的区別においては、区別されるもの同士に、検討するまでもなく、同一時点における「作者としての私」と「読者としての私」という明らかな共通性がある。同一時点における同一の私、これ以上の共通性はなく、相違点について述べることが難しいほどだ。しかし、共通点と相違点は相互に関連している。区別における相違点を乗り越えるものとして共通点はあるはずだ。つまり、同一時点における同一の私だから共通だ、ということだけでは、共通性の検討としては十分ではない。この問題を考えるためには、まず、原点的区別における相違点とは何なのか考える必要がある。
原点的区別により分断されたものは、自分自身から哲学を伝達され、自らの思考を理解した上で更に思考を積み重ね、自らに伝達することにより、一塊の複雑な思考を成立させている、という思いであり、「作者」と「読者」の相違、つまり、哲学を「伝達する」ことと、哲学を「伝達される」ことの相違が、原点的区別における相違点であると言える。
それでは、原点的区別における、相違点と対比されるものとしての共通性とは、なんだろうか。
原点的区別の相違点が「伝達する」ことと「伝達される」ことなのだとすれば、共通点は「同一時点における同一の私だ。」というようなものではない。
相違点が「伝達する」ことと「伝達される」ことなのだから、共通点は、表面的に言えば、いずれも「伝達」の一側面である、ということになる。そして更に、伝達されたことを読者として理解し、作者として伝達することが、一連の継続的な思考、つまり哲学を成立させているという見地から述べるならば、『「作者としての私」であること(つまり「伝達すること」)』も、『「読者としての私」であること(つまり「伝達されること」)』のいずれもが、哲学という営みの一側面であるということ、が、共通性の正体とも言える。

6-5 区別の共通性3 アミニズム
これまで、アミニズムとは、希望である、と述べてきたが、この区別における共通性、つまり、空間的区別と時間的区別における「以下同様の規則(があると言えること)」と原点的区別における『「伝達」(または、哲学という営み)の一側面であると言えること』が、アミニズムの正体であるとも言える。
よって、「作者としての私」が「読者としての他者」や別時点の「読者としての私」に「以下同様の規則」という共通性が認められることを強調し、また、「作者としての私」が同一時点の「読者としての私」に「伝達」の一側面を担い、ともに哲学を成立させているという共通性が認められることを強調することが、アミニズムなのだという言い方もできよう。
つまり、以下同様の規則、伝達(哲学)の成立に関わる区別と共通点について、区別(否定)を強調すれば独我論・独今論に至り、共通点(肯定)を強調すればアミニズムに至る。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ ‎5 導入されていたもの・区別

5-1 私
私は先ほど「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則+α」と述べた。
そして、その後更に、「独我論・独今論、アミニズム(希望)」を導入し、「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)+α」となった。
しかし、今までの文脈において、説明の都合上、このαにあたるものとして、更にいくつかの概念をこっそりと導入している。少なくとも、「私」、「他者」、「時間」、「空間」の4つの概念を導入している。
よって、この数式は更に見直され、「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」 ということになる。
しかし、このまま、これらの概念を密輸入したままにする訳にもいかないので、順序は違うが、ここで説明を行いたい。
まずは、「私」、「他者」、「時間」、「空間」のうち「私」について、この文章でどのように導入されていたかを確認してみよう。
先ほど、作者の作者性について述べる中で、作者というものを深く考えようとすると、そこに「私」を投影せざるを得ず、そのことを「作者性」と呼びたいとした。まず、ここに「私」が登場している。そして、この作者性の定義のとおり、この文章において、哲学書の作者の視点で述べるにあたっては、どのようなテーマについてであっても、その作者としての私が登場している。例えば、友人A、B、Cにて哲学書を読ませようとする哲学者として、また、自宅から駅までの道を歩きながら「犬」について考えを巡らせる者として、「私」は登場する。更には、この文章全般において、この文章の作者として「私」は登場している。
このように、「私」概念は、「作者」について述べる中で密輸入されている。全ては「伝達」つまり「作者、読者、哲学書」を経て述べるとしながら、勝手に「私」概念が既に入り込んでいる。これは、「以下同様の規則」というものが既に導入されていたところから、「読者」の「読者性」を経て導くことができると後付けで導入の経緯をせざるを得なかったことと同じ図式だ。
それでは、「私」については、どのような後付けの説明ができるのだろうか。
「私」概念については、永井均の哲学を持ち出すまでもなく、いわゆる(私の哲学に限定しない意味での)哲学においては、多面的な議論が可能な複雑な概念であると受け止められている。しかし、この文章、つまり「私の哲学」においては、「私」とは、あくまで、「作者」の「作者性」を超えるものではないと単純に考えている。なぜなら、全ての「私」という用語は、「この哲学書の作者」と置き換えることができるからだ。つまり、「私」と述べることは「作者」と述べることに等しく、単に「作者」=「私」ということだ。
この「私」は単純だという主張について、「私」は、この文章の作者として、哲学書の作者として、作者性の定義として、といった色々なレベルで登場しており複雑だと思われるかもしれない。しかし、この複雑さの原因は「作者」の方にある。「作者」には、先ほど述べたように、この文章の作者としての「作者」という意味と、この文章に語られている対象としての「作者」という二重性がある。つまりは、作者と、その作者が書いた文章に登場する作者という二重性だ。そして、この二重性は反復して適用されるため、「作者が書いた文章に登場する作者が書いた文章に登場する作者・・・」というように作者は重層的に繰り返し登場しうることとなる。このような「作者」の複雑さが「私」にも投影され、「私」は単に「作者」の複雑さを引き継いでいるだけにも関わらず、複雑なように見えるということだ。

5-2 読者としての私
また、既に、自分自身に対する伝達について述べるなかで「読者としての私」が登場しているではないか、という反論もあろう。これについては、「読者としての私」は、「私」ではない、と整理することとしたい。つまり、「私」は、「作者としての私」と「読者としての私」に分けられ、ここでは「作者としての私」を「私」とする、ということだ。
それでは、「読者としての私」とは何か、ということになるが、結論としては『「私」から時間的に「区別」された「他者」』と考えて頂きたい。「読者としての私」とは「他者」だ。
後ほど、この説明で用いている「他者」「時間」といったものについて述べることになるので、その後に理由を説明するが、当面はそう考えて頂きたい。(なお、「読者としての私」については、更に語るべきことがあるが、説明の都合上、更に分けて述べることとする。)

5-3 他者
次に「他者」について考えてみよう。
「他者」については、文章の受け手として登場する。「他者」という言葉はあまり用いていないが、例えばアミニズムについて述べるなかで、『他者に対して作者と同じに解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である。』などとしている。これは、他者の一部が読者である、つまりは他者の部分集合が読者であるということが隠された前提になっているということである。
よって、先ほど「私」については、「作者」=「私」としたが、「他者」については簡単に「読者」=「他者」とは言えない。他者の部分集合が読者であると言ったとおり「他者」は「読者」をはみ出しているように思われる。
ここで、「他者」と「読者」の関係を検討するにあたって、先ほど、読者の「読者性」について、独我論とアミニズムという、相反した捉え方を行ったことに立ち返り、この2つを分けて検討してみよう。
この検討にあたっては、繰り返しの確認になるが、私は、全ては「伝達」つまり「作者、読者、哲学書」を経て述べることにしたいと言ったことを考慮する必要がある。つまりは、このいずれかから「他者」が導かれるのであれば、「他者」がいるとしてよいが、いずれからも導かれないならば「他者」がいるとは言えないということになる。
このことを踏まえ、まず、読者の「読者性」について厳格に解し、読者性を有する読者としての他者を否定する独我論における「他者」について考えてみよう。この場合、読者をはみ出した他者、つまり、「読者ではない他者」、伝達の受け手でない他者とは何を指すのだろうか。
先ほど、独我論において作者自身以外の読者はいないと述べた。また、作者とは私のことなのだから、作者は他者ではありえない。とすると、他者とは作者でもなく読者でもないということになる。つまりは、「他者」は作者・読者のどちらを経ても導入されない。とすると、「他者」はどこにもいないか、「哲学書」を経て導入されるということになる。
仮に「他者」は「作者、読者、哲学書」のうち「哲学書」を経て導入されるとすると、そもそも「哲学書」を経て導入されるとは、どういうことなのだろうか。
それは簡単に言えば、哲学書に他者について書かれているということなのではないだろうか。哲学には色々な哲学があるから、他者について全く触れられない哲学もあるだろう。しかし、「私の哲学」においては、少なくとも、今書いているとおり、「他者」について触れている。おり、「私の哲学」では、「哲学書(対象)」に他者が存在する。このことが、「他者」は「私の哲学書(つまり、この文章)」にいる、ということなのだと私は考える。
また、もう一方の、読者の「読者性」について希望のもとに幅広く捉えようとするアミニズムの場合の他者について考えてみよう。
アミニズムにおいては、独我論のように作者以外の読者は否定されない。よって、「読者としての他者」は読者のなかに認められる。問題は、読者をはみ出した「読者ではない他者」だ。アミニズムにおいては、読者になってくれるのではないかという期待により、読者は拡大していく。先ほどの例えで言えば、読者となってくれるかもしれないという期待を宇宙人やイルカにさえ持つことができるならば、宇宙人やイルカは読者だ。そうした場合、「読者ではない他者」とは読者とは思えないもの、例えばネズミやサボテンのようなものを指す。このようなものたちを他者と呼ぶことができるのだろうか。
ここで、「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」を経て述べることとしたことに立ち返り考えてみると、仮にアミニズムの観点からネズミやサボテンに読者性が認められないとすると、このような「読者ではない他者」は、独我論における他者と同様に、「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」のうちの作者でも読者でもないのだから、「哲学書(対象)」を経由してしか導かれないということになる。よって、アミニズムにおいても、ネズミやサボテンのような「読者ではない他者」は独我論と同じように「私の哲学書」のなかだけにいる、ということにならざるを得ない。
つまりは、独我論、アミニズムのどちらからアプローチしたとしても「読者ではない他者」は「私の哲学書」のなかにしかいないということになる。(独我論の場合、「読者としての他者」がそもそもいないのだから、全ての他者が「読者ではない他者」である。)
このように考えてみると、『他者に対して作者と同じに解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である。』などと、他者の一部が読者であり、他者の部分集合が読者であるように語り、「読者としての他者」と「読者ではない他者」はあたかも同列に比較可能なもののように語ってきたが、実は誤りであり、「読者ではない他者」については、「読者としての他者」とは全く導入のされ方が異なり、哲学書のなかでしか語ることができないものであったのである。
ここで整理すると、「読者としての他者」とは、独我論においては否定され、アミニズムにおいては「読者」のことである。そして、「読者ではない他者」とは独我論においても、アミニズムにおいても、哲学書のなかにあるものである、ということになる。

5-4 時間・空間:区別
次に、この文章において、「時間」概念がどのように導入されたのかを振り返ってみよう。
ここまでの文章で「時間」概念が登場していることを明確に述べた箇所として、自分自身に対する伝達について考えるなかで、白い犬のことを考えながら散歩する場面があった。そこでは、既に、「この説明は、散歩の例えで言えば「ガード下で」「小さな公園で」「一気に思考を行う」というように、時点や時間という考えを既に導入してしまっているという点で不正確なものとなっている。「ガード下で」「小さな公園で」という時点をひとつの時点と捉えるべきなのか、ひとつの時点で「一気に思考を行う」とはどういうことなのか、そもそも「時間」という概念を導入してよいのか、といったことについては現段階では何も検討を行っていない。」と明示している。
また、独今論について検討するなかでも、ガード下での私に対する小さな公園での私は、実は理想的な読者としては存在しない等と述べ、つまりは、ある時点での私とその時点より未来の時点での私の関係についての考察を行うことで、時点間の前後関係という意味での「時間」概念を導入していた。
ここで「時間」概念について検討するにあたっては、あくまで「私の哲学」における今までの議論を成立させるための必要最小限のものとして「時間」概念を捉えるべきということに留意する必要がある。ここまでの説明の都合上、時点の広がり、時点間の前後関係といった「時間」に関する様々な特徴、問題点を一気に密輸入してしまっているが、何が「私の哲学」において必須のものであり、何が、よりわかりやすく説明する都合上、便宜的に不必要に導入されたものなのかを見極める必要がある。
私は先ほど、散歩しながら白い犬のことを考える場面においては、ガード下での作者である私から小さな公園での読者である私に対して、思考、つまり哲学書の伝達が行われている、だからこそ、複雑な思考が可能である、と述べた。そして、この伝達を否定するものとして独今論があると述べた。
ここで注意すべきは、この作者と読者は別であるということである。「時間」概念のようなものを先取りしてしまえば、そんなことは当たり前だ、ということになるかもしれないが、ここでは「時間」というものが明らかでないところから、慎重に、必要最小限の「時間」を捉えようとしていることに留意して頂きたい。「時間」的なものを全て無視した場合、ガード下での「作者としての私」と小さな公園での「読者としての私」を「区別」するものは何もない。「区別」がなければ、この二つの私を作者と読者に振り分け、「伝達」というものを想定することもできなくなるのではないか。
この「区別」つまり「伝達」があるために必要な、作者と読者の「区別」を生み出すものが「時間」である。ガード下での「作者としての私」と、小さな公園での「読者としての私」を「区別」するものとして「時間」はある。これが必要最小限の「時間」の意味である。
ここには、更に、どこで哲学書、つまり思考の区切りがあるのか、「ガード下」と「小さな公園」で区切って本当にいのか、というような疑問がありうる。この疑問は時点の広がりというような別の議論につながるものかもしれない。しかし、この文章ではその方向には議論を発展させず、どこかで区切りがあるということは確かである、ということを確認するに留めたい。この区切り、区別を「時間」と名付けることが適当かどうかは別にして、何らかの「区別」という概念は導入せざるを得ない。これが、現時点で「私の哲学」から導くことのできる最小限度の「時間」の意味合いである。
また、「空間」についても、同様のことが言える。この文章では、「空間」という用語はここまで用いていないが、「作者としての私」と「読者としての他者」を分かつものとして、「空間」は存在する。「作者としての私」と「読者としての私」との間での伝達が生じるために必要な「区別」として「時間」概念を導入したのと同じように、「作者としての私」と「読者としての他者」との間での伝達が生じるために必要な区別として「空間」概念を導入することとなる。このように「時間」と「空間」は、いずれも「区別」概念の一形態と考えることができる。
よって、この文章においては「時間」「空間」とは「区別」のことであり、あえて「時間」「空間」という名称を用いなくともよいが、私はどうしても「時間」「空間」という用語を用いたくなってしまうので、そう呼ぶことにする。そして、「作者としての私」と「読者としての私」との「区別」を「時間的区別」と呼び、「作者としての私」と「読者としての他者」との「区別」を「空間的区別」と呼ぶことにする。

5-5 区別と独我論・独今論、アミニズム
この「区別」は、先ほど述べた独我論・独今論、アミニズムとも密接に関係する。
独我論や独今論は、「作者としての私」から見た「読者としての他者」や「読者としての私」を否定するものであるが、この否定は、「区別」の向こう側だからこそ発動する。「作者としての私」から、「読者としての他者」や「読者としての私」は、空間的、時間的に「区別」されているからこそ、「区別」の向こう側を否定することができる。
言い替えれば、この「区別」により「読者性」つまり「以下同様の規則」の力は、「読者としての他者」や「読者としての私」に及ばないという「以下同様の規則」の否定が、独我論・独今論の意味である、とも言える。
つまり、独我論とは、「作者としての私」から見て、「区別」の向こう側に理想的な読者がいるかもしれないということを、空間的区別により「以下同様の規則」は及ばないという理由から否定するという考えであり、独今論とは、ガード下での「作者としての私」から見て「区別」の向こう側にいる小さな公園での私が理想的な読者として存在するということを、時間的区別により「以下同様の規則」は及ばないという理由から否定する考えなのである。
しかし、一方で、「区別」は、否定としてだけでなく、肯定としても働く。「区別」の向こう側のことはわからないのだから、向こう側に読者はいるかもしれないという希望は持てる、という肯定的な考えをとることもできる。これがアミニズムである。よって、アミニズムも「区別」がなければ成立しない。「区別」がなければ、読者がいないことが明らかになってしまうのだから、希望は生まれない。
このように、独我論・独今論を立ち上げ、一方でアミニズムも立ち上げるものとして「区別」はある。

5-6 時間 過去と未来
時間という用語について、「区別」という意味で用いるとした。それは、つまり、時間には「区別」だけがあり、過去も未来もないということだ。
しかし、通常、「時間」には「区別」以上のもの、つまり、過去と未来という時間の前後関係といったものがあるものとして用いられており、少なくとも、私は、ここまで、そのように用いてきた。
ここで、過去、未来として述べてきたものが何なのか明らかにしたい。
注目したいのは、独我論・独今論と対比してアミニズムについて語る中で、「読者がいるかもしれない。」という希望があるとしたことだ。この希望には、『「未来には」読者がいるかもしれない。』という言葉が隠されているように思われる。
つまり、「読者としての他者」はいないという独我論を乗り越えようとするアミニズムの見地からは、今までは「読者としての他者」はいなかったが、未来にはいるかもしれないという希望があるということだ。これは、独今論を乗り越えようとするアミニズムの見地からも同様である。「読者としての私」という理想的な読者がいないという耐えられなさを乗り越えるものとして、未来の「読者としての私」には読者性があるかもしれないという希望がある。
つまり、独我論に対するアミニズムにおいても、独今論に対するアミニズムにおいても、過去には希望がなく、未来には希望がある、という意味での過去と未来の非対称性がある。
いや、正確に言うべきだろう。ここまでの議論においては、「伝達」=「作者、読者、哲学書」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」 というところまでしか語ることができていない。過去や未来を導入するには至っていない。
よって、言い方が逆である。つまり、他者であれ、私であれ、読者がいるかもしれないというアミニズム的な希望があることが未来であり、その希望が欠けていることが過去である。つまり、過去・未来という概念を新たに導入する必要はなく、アミニズム的な希望の有無という観点から説明が可能である。
以上を言い直すと、「区別」により希望を肯定し、アミニズムの立場に立つということが未来の意味であり、「区別」により希望を否定し、独我論・独今論の立場に立つということが過去の意味なのである。

5-7 読者としての私(再考):原点性
先ほど、「読者としての私」とは、結論としては「私」から時間的に「区別」された「他者」と考えて頂きたい、とし、その理由については、「他者」「時間」「空間」について説明した後に述べることとしたので、ここでその理由を述べることとしたい。
「区別」について説明するなかで、「時間」と「空間」の類似性については述べたとおりなので、「作者としての私」と「読者としての他者」が空間的に「区別」されるのと同様に、「作者としての私」と「読者としての私」が、時間的に「区別」される、ということについて改めて説明する必要はないだろう。つまり、「読者としての他者」と「読者としての私」には「区別」される側であるという類似性がある。
そして、仮に「作者としての私」が「私」ならば、「区別」された「読者としての他者」や「読者としての私」を「私」と呼ぶことはできないということもご理解頂けるのではないかと思う。
問題は、なぜ「作者としての私」が「私」であり、「読者としての他者」や「読者としての私」は「私」ではないのか、ということだ。
ここで、「読者としての他者」が「私」ではないのはなぜか、という疑問はわかりにくいので省略すると、「作者としての私」が「私」であり、「読者としての私」は「私」ではないのはなぜか、つまり「作者としての私」と「読者としての私」のいずれかが「私」ならば、どちらが「私」かは、どのように決まるのか、という疑問に答える必要がある。
先ほど、独今論における時間的区別について述べるなかで、「作者としての私」と「読者としての私」が「区別」される状況において、当然のように、「作者としての私」を「区別」の手前に置き、「読者としての私」を「区別」の向こう側に置いていた。そして、「読者としての私」がいるかいないか、というような議論を行った。しかし、実は「読者としての私」を「区別」の手前に置き、「作者としての私」がいるかどうか、という議論もできたはずである。そうしなかったのはなぜかという疑問である。
この疑問に対する答えは、先ほど「作者性」について述べた際に触れたとおり、私は、常に哲学の作者であり、哲学の読者ではないという実感があるから、としか言えない。この実感がなぜ生じるか、というような話は更にできるのかもしれないが、疑問の答えとしては、そういう実感があるから、としか言えない。
この実感を原点性と呼ぶならば、原点性により「作者としての私」が優先される、と言い換えることができる。いや、「作者」=「私」なので、単に「作者」が優先される、と言ったほうがよい。それでも、「作者としての私」と言いたくなってしまうのは、「私」という語に、通常はこの原点性が込められているからなのだ。
よって、原点性のない「読者としての私」を「私」と呼ぶことはできない。これが答えである。
(それでも「読者としての私」と呼びたくなってしまう理由については次に少し触れることになる。)
なお、この原点性については、独我論における空間的区別においても同様のことが生じている。これが先ほど省略した「読者としての他者」が「私」ではないのはなぜか、という疑問の答えである。つまり、「作者としての私」と「読者としての他者」が「区別」される状況において、当然のように、「作者としての私」を「区別」の手前に置き、「読者としての他者」を「区別」の向こう側に置いていたのは、「作者としての私」の原点性によるものである。そして更に言えば、この「作者としての私」の原点性は、「私」の原点性によるものではなく、「作者」の原点性によるものだということに留意する必要がある。
以上、原点性という見地から述べたが、原点性は「作者」にあるということからも明らかなように、この原点性という述べ方は、前に述べた「作者」の「作者性」つまり、「作者」=「私」ということを、より正確に捉え直したに過ぎず、新たな概念を導入したものではない。つまり、「作者性」について、先ほどは、「私」に原点性があるかのようなかたちで「作者」=「私」と述べたが、「作者」に原点性があるという、より正確な形での言い換えを行ったに過ぎない。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ ‎4 読者性・アミニズム

4-1 私という読者
私は先ほど、「哲学的思考を行うということは、哲学を自分自身に対して伝達することだと考えている。」と述べた。この理由については、先ほど「読者性」から「以下同様の規則」が導かれると述べたことで大体の説明ができているのではないかと思うが、詳述することとしたい。
具体例として、散歩をしながら哲学的な思考をしている場面を考えてみる。散歩の途中なので、思考の結果をメモに書き留めたりはしていないとする。散歩のルートについては、勝手ながら、私の家から最寄り駅に行くまでの道をイメージしてみることにする。線路のガード下をくぐってから小さな公園を抜け、コンビニ等の数軒の店の前を通って駅に着く、5分くらいの道のりだ。まず、私が、ガード下あたりで「白い犬がいるとする。」などと考え、更に、小さな公園を通りながら「その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」などと考えたとしよう。
このような状況を想像すると、私には次のような疑問が立ち上がる。このガード下での思考と小さな公園での思考の2つの思考をそれぞれ独立した思考だと考えた場合、ガード下あたりで登場した白い犬と、小さな公園で登場した白い犬は、どうして同じ白い犬だと言えるのだろうか。小さな公園で「その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」と考えた時の「その白い犬」が、ガード下で思考した「白い犬がいるとする。」の「白い犬」を指すということは明らかなのだろうか。
この疑問の解決方法について考えてみる。
まず、一つの案として、小さな公園で、一気に「白い犬がいるとする。その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」と考えてはどうだろう。これならば、ガード下での思考を、小さな公園での思考が取り込んでいる。小さな公園でこのくらいの単純な思考を一気に行うことは、それほど違和感はないだろう。しかし、この続きを考えながら、駅に着くころには、更に複雑な思考になっているかもしれない。そして、更に電車に乗りながら考え続けたとしたらどうだろう。などと考えると、どのくらいで私の能力を超えることになるかはわからないが、どこかで、この解決方法はとれなくなるのではないだろうか。少なくとも、哲学書一冊分のような複雑な思考を、このように一気に行うことはできないだろう。
ガード下での思考と小さな公園での思考が独立していない、と考えたとしても、同じ問題が生じる。途中で、桜がきれいだな、などと思考が中断されることをどう考えるのか、一晩寝た前後でも思考が連続していると言えるのか、というようなことだ。
つまり、どこかで思考は、息継ぎをするように分けて行われざるを得ない。今回の白い犬の例よりも、もっと複雑な思考をしながら家から駅まで歩いていたとすれば、ガード下での思考と小さな公園での思考は別の思考でなければならない。ガードの下を過ぎたところで一息入れられていなければならない。
この息継ぎの前後の思考は別の思考だから、その思考をつなぎ合せる必要がある。そこで「以下同様の規則」が登場する。「以下同様の規則」により息継ぎの前の「白い犬」と息継ぎの後の「白い犬」がつなぎ合わされ同じ犬だとされるのだ。このように、自分一人で行われる思考においても「以下同様の規則」が導入される必然性が生じる。
「以下同様の規則」の登場の仕方が若干唐突かもしれないが、先ほどの「A=A」の同一律が、ここでは「白い犬=白い犬」として登場していることを鑑みれば、先ほど述べたような意味での「以下同様の規則」が導入されるということに違和感はないのではないだろうか。
そして、私はこの「以下同様の規則」は「読者性」から導かれる、と言っている。つまりは、少なくとも、本一冊分のような複雑な思考を成立させるためには、その思考が例え自分一人だけで行うものであったとしても「以下同様の規則」、「読者性」、更には「伝達」が介在していなければならない。つまりは「伝達」=「作者、読者、哲学書」=「以下同様の規則+α」 という意味での「伝達」を介在させなければいけない。
このようにして、自分一人で複雑な哲学的思考を行うためには「以下同様の規則」の力が必要であり、そのためには自分から自分自身に対する「伝達」という概念を導入する必要があるということが明らかとなった、と私は考えている。
なお、この説明は、散歩の例えで言えば「ガード下で」「小さな公園で」「一気に思考を行う」というように、時間という考えを既に導入してしまっているという点で不正確なものとなっている。「ガード下で」「小さな公園で」という時点をひとつの時点と捉えるべきなのか、ひとつの時点で「一気に思考を行う」とはどういうことなのか、そもそも「時間」という概念を導入してよいのか、といったことについては現段階では何も検討を行っていない。しかし、私が、「哲学という一塊の思考について、自ら考え出し、自ら理解するということについては伝達するという観点を用いずに説明はできない。」とし、「自分が自分に対して伝達することも、伝達に含まれる」と述べる理由についての概要は表現できているのではないかと思う。
なお、これまで、イメージしやすいように、思考という用語を使ったが、この文章においては、思考を指す概念は、既に「哲学書」という用語で登場している。つまり、私が、私という読者に対して、(頭の中で)1冊の哲学書を書き、伝達するということが、思考というものの正体だ、ということだ。
言い換えれば、自分自身に対して哲学が伝達される場面を想定することで、本、音声といった実際に用いられた「言語」という意味を込めて用いられている「哲学書」という用語は、先ほど述べたとおり、自分自身に対する伝達という場面で「実際に用いられている」思考を含んでいることが明らかになる、ということだ。

4-2 読者性の担い手 ~独我論~
「読者」というものについて更に読者の存在という観点から述べることとしたい。
私はこうして文章を書きながら、この文章を読んでくれる読者はどこかにいるとぼんやりと考えている。しかし、読者はどこにいるのかということを考えると、少し自信がなくなる。私が人気作家だったら(哲学界にそういう人がいるのかは知らないが)サイン会に来ている読者などをイメージできるかもしれない。しかし、実は、私には、この文章を読んでくれる人が具体的に存在している状況というのは、あまり想像できない。例えば、この文章をブログに掲載したとする。だれが目に止めるというのか。そして、更に運良く熟読してくれて、更に私が書いた意図を踏まえて内容を理解してくれるような奇特な人が現れる、などということがありえるのだろうか。この文章の読者なんて、本当にはいないのではないかという不安が私にはある。
しかしながら、悔し紛れかもしれないが、このような意味での、読者がいないのではないかという不安は作家として成功しているかどうかとは関係ないのではないだろうか。実はどんな人気作家にとっても、先ほど述べたような理想的な読者性を満たす読者などいないのではないだろうか。
ここで、ある実験を考えてみる。何人かに同じ哲学書を読んでもらい、その後、感想文を提出してもらうなどをして、どの程度作者の意図等を理解しているか判断し、理解している順に列に並んでもらったとする。その結果、しっかり読み詳細の感想を書いた哲学好きの人が最初の方に並んで、哲学には興味がない大人がその後ろに並び、最後の方にはひらがなしか読めない幼児が並ぶというようなことになったとしよう。この場合、列の後ろになるにつれ、徐々に並んでいる人の理解度が落ちていくことになる。
このような理解度順の読者の列があった場合に、何人目から先は読者性がなくなります、というように読者性の有無を明確に区分することは可能なのだろうか。仮に列の5人目と6人目に理解度に大きな差があり、5人目までは哲学を大学で学び専門用語の理解も適切だが、6人目以降は哲学に興味がなく用語も誤解しており、さっぱり哲学書の趣旨を理解していなかったとする。一見、そこで区切ることもできそうだ。しかし、更に5人目と6人目の間に10人を追加したとする。そのなかには、私のように専門用語も少しは知っている素人もいるし、哲学書を読んだことがなく専門用語についての知識は無いがいわゆる哲学のセンスがある人もいる、というような状況であったとしよう。その場合、どこに読者性の境を設けるべきか判断に迷うことになるのではないだろうか。列をどこで区切るにせよ、その判断は恣意的にならざるを得ない。
この、読者を理解の有無により明確に二分することはできないという問題を、砂山のパラドクスにおける「山」概念の曖昧さのような「理解」概念の曖昧さの問題と受け止めることもできるかもしれない。
しかし私は、そこに別の問題を見いだしたい。理解度順で先頭に並んでいる一人目の読者から既に読者性は失われている、ということが示されているのではないかと考えたい。
なぜなら、少しでも理想的な読者からのずれが生じた場合、そのずれに関する部分については、その読者の読者性は失われることとなるからだ。理想的な読者は、全てを作者と同じように理解しなければならない。そして、哲学書が全体で一つの思考を表しているのであれば、少しでも読者性が欠ければ、全体を理解したとは言えない。全体を理解するためには、読者は完全に作者の思考を取り込み、作者と同じように考えているか、全てにおいて更にそれ以上のことを考えているのでなくてはならない。そのような理想的な読者など現実にはどこにもいないのではないか。
いや、一人だけ理想的な読者となりうる者がいる。作者自身だ。作者自身であれば、作者と全く同じというようにも言えそうだ。ということは、作者が読者として語りかけているのは、実は作者自身だったということだ。
そこには、他者は登場せず、作者が作者自身を読者として哲学書を書いているという独我論的な状況が浮かび上がってくる。
このようにして、読者の読者性について厳格さを追求すると、哲学においての独我論に至る。

4-3 読者性の担い手 ~アミニズム~
「作者と同じ」に解釈してくれる理想的な読者とはどこにいるのか、という問題について、「そのような読者など現実にはいない。」という独我論につながる厳格な解釈をとらずに、他者に対して「作者と同じ」に解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である、という方向で述べることもできるだろう。この場合、希望という名において、他者に対して「作者と同じ」という読者性を付加することになる。これならば、私以外の読者が存在するということが維持される。
しかし別の疑問が生じる。他者に読者性が与えられるかどうかは、どのように決まるのだろう。
また先ほど出した理解度順に並んだ読者の列の例と似たような例を出してみよう。今度は、哲学者が哲学書を書き、3人の友人に「読んでくれ。」と言い、渡したとする。友人Aは、哲学好きだったのでしっかり読み、詳細な感想をくれた。友人Bは哲学には興味がなく「読んだけれど難しくてよくわからなかった。」という感想しかなかった。友人Cは読んですらくれなかった。とする。
この場合、友人Cは、そもそも読んでいないのだから、読者性云々について議論することはできないように思われる。友人Aは、厳密に作者の意図どおりに解釈してくれる可能性は、先ほどの独我論につながる厳格な議論を踏まえると限りなくゼロに近いかもしれないが、もしかしたらという希望は持てそうだ。友人Bは、読んではくれているが、わかってくれていない。現時点では「もしかしたら意図通りに解釈してくれるかもしれない。」という希望すら持てないだろう。しかし、将来、哲学に興味を持ち、ふとしたきっかけで、あの本で言いたかったことはこういうことだったのか、などとわかってくれる可能性が全くないとは言えない。希望を持てるかどうか難しいところだ。
とすると、友人Aには読者性があり、友人Bは微妙であり、友人Cは読者性がない、ということになるのだろうか。それとも、先ほどの独我論での話と同じように、友人Aであっても現実には作者の意図どおりに解釈してくれる可能性は限りなくゼロに近いのだから希望など持てず、友人A、B、Cつまり全ての他者に対して読者性などない、と宣言すべきなのだろうか。
私は、そのいずれでもないと思う。
他者に対する「希望」が読者性の正体であるならば、少なくとも、友人Aを否定することはできない。友人Aのような読者の読者性を否定することは全ての読者性を否定することにつながるのだから、つまりは「希望」というものを否定することになる。よって、「希望」という視点から読者性を捉えるならば、友人Aの読者性を否定することはできない。
それならば、友人B、Cについてはどうかといえば、私は友人B、Cの読者性も否定できないのではないかと思う。
何故なら、作者は、友人Aに対して読者となってくれるという「希望」を持ちつつ文章を書いていたのと同じ希望を、友人B、Cに対しても持っていたに違いないからだ。
結果として、たまたま、読んでくれなかったり、理解してもらえなかったりするかもしれない。しかし、あくまで、作者が持っている「希望」が問題となるのだから、友人Cが実際に読んでくれたかどうか、というようなことは問題にならない。作者は、この3人が読者となりうるという「希望」を持ち文章を書いている。そういう意味では、3人の友人全員に読者性を認めることとなる。
それでは、この「希望」という側面から捉えた読者性について、どの程度拡大できるのか。私は少なくとも全ての人間というところまで拡大できると考えている。文章を読んでくれるかもしれない人全てだ。そして、更に拡大できるかもしれない。知性があるならば、人間でなくとも、宇宙人でもいいかもしれない。また、人間の言葉を理解させる方法があるならばイルカでもいいかもしれない。このような拡大は、作者が希望を持てる限りどこまでも進めることができるだろう。ネズミでもいいだろう。魚でもいいだろう。サボテンでもいいだろう。岩でもいいだろう。というように。この他者への読者になりうるという希望の投影を、大森荘蔵が他者に心があるかどうかという問題を論ずる際に用いられた(と野矢が言う)アミニズムという用語をもじって、哲学においてのアミニズムと呼ぶ。
つまりは、読者性を最も厳格に捉えたところに独我論があり、最も幅広く捉えたところにアミニズムがあると言える。

4-4 読者性の担い手 ~独今論~
私は、独我論として、他者の読者性を否定し、自分自身のみを読者とするという考え方について述べた。それでは、自分自身を読者とすることについては、本当に確かなことなのだろうか。自分自身を読者とした「自分自身への伝達」は確実で疑問の余地もないものだろうか。
私は冒頭で「伝達」というアイディアを導入した際に、哲学は伝達されていないかもしれないが、伝達されていると思われるということは否定できない、と述べた。
このうち、他者に対する伝達について、伝達されていると思われても実は伝達されていない、と否定するのが独我論であったが、自分自身に対する伝達についても、同様に、伝達されていると思われても実は伝達されていない、と否定する考え方があっても全く問題は生じない。つまりは、自分自身は必ずしも理想的な読者とは限らないという考え方だ。先ほどのガード下をくぐって小さな公園を通るという散歩の例を用いれば、ガード下での私にとって、小さな公園での私は、実は必ずしも理想的な読者としては存在しないということだ。
私は、この考え方はとりうると考えている。これは、どういうことかと言うと、地球が一瞬後には崩壊してしまうかもしれない、とか、時間というものは否定され今しかない、というような大げさな考えをとらなくともよい。ただ、先ほど考えていたことを思い出せなかったりするというような状況を思えばよい。小さな公園を通りながら、ガード下で考えていたことを思い出そうとしても、うまく思い出せない、ということに似たことはよくある、という当たり前の話だ。私は実感として、自分自身の理想的な読者ではない。
少なくとも私はこの文章を書くにあたって、これまで書いた文章を正確に全て踏まえながら、この文章の続きを書いているとは思えない。先ほど、この文章のアミニズムについての部分を書いていた私にとって、この部分を書いている私は理想的な読者ではない。
このように考えると、自分自身といえども決して理想的な読者ではなく、読者性はない、と考えることに違和感はないだろう。
このことを、独我論と対比するという程度の効果を狙い、哲学においての独今論と呼ぶこととする。ただし、過去や未来が存在しないということを言っているのではなく、別の時点における自分自身が理想的な読者にはならないという意味で、過去と未来とが現在から分断されているという表現をしているに過ぎない。よって、この名称が誤解を呼ぶならば、他の名称でもいいだろう。しかし、通常の用法としての独我論と私がこの文章で用いている独我論とのずれとちょうど同じようなずれが、通常の用法としての(永井均が用いるような)独今論と私がこの文章で用いている独今論とでも生じているという意味では、独我論と独今論という対比がうまくできていると考えている。つまり、通常は私以外の世界や今以外の世界が存在していないのではないか、というような意味合いで用いられている独我論や独今論が、私以外の読者や今以外の読者が存在していないのではないかというような意味合いで、ずらして、哲学においての独我論や独今論として用いることができている、ということである。よって、この文章においては、このような考え方を独今論と呼ぶこととする。
なお、この独我論と独今論は、必ずしも同時に適用される必要はない。他者に読者性はあるが私には読者性がないという独今論的な状況もあれば、先ほど独我論として述べたような、他者に読者性はないが私には読者性があるという状況もありえる。
しかし、ここで注目しておくべきは、独我論と独今論が重ねて適用されている状況である。この場合、他者としての読者も、私としての読者もおらず、読者はどこにも存在しないこととなる。どこにも読者がいない状況で、作者が空しい伝達を試みつつ、伝達されていると思っている状況である。
このような、他者としての読者も、私としての読者もおらず、読者はどこにも存在しないという考えを「独我論+独今論」とでも名付けることとしよう。

4-5 独我論、独今論の耐えられなさ:拡張されたアミニズム
この「独我論+独今論」という思考の道筋は確かにありうる。しかし、この文章の作者である私にはこのアイディアを受け入れることは、耐えられない。この文章を書いていて、他者という読者も私という読者も否定しつつ、それでも作者として文章を書くということは想像できない。文章を書くことの意味がわからなくなってしまう。
更に具合が悪いことには、私は、自分自身に対して伝達することも伝達に含まれるのでなければ、哲学という一塊の思考は成立しない、と述べた。つまりは、独今論においては哲学が成立しないこととなり、つまりは、私が行っている、この営みは成立していないことになってしまう。これも私には耐えられない。
私は、この耐えられなさにより「独我論+独今論」は受け入れられないと考える。
では、この耐えられなさとは何なのだろうか。
先ほど、独我論と対比させる考え方としてアミニズムを登場させ、読者性を有しないかもしれない読者に対して読者性があるという希望を持つことをアミニズムと呼ぶこととした。これと同じことが、独今論においても可能であり、私という理想的な読者がいるという希望を持つということも、アミニズムと呼ぶことができるのではないだろうか。そして、この希望、つまりアミニズムを立ち上げるものが、独我論における私以外の読者がいないという状況の耐えられなさであり、独今論における私という読者がいないという状況の耐えられなさなのではないだろうか。
このようにして、独我論、独今論による読者の否定、哲学の否定という耐えられなさを認めるならば、それを乗り越え、読者としての他者を承認し、読者としての私を承認し、伝達を維持するために、希望つまりアミニズムが導入されざるをえない。
ここで、アミニズムは、独我論と対比されるものから、独今論とも対比されるものに拡張される。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 3 作者、読者、哲学書

3-1 伝達の3つの側面
以上を踏まえ、これから哲学の「伝達」について考察を進めることとするが、「伝達」をそのまま論じるのではなく、「伝達」を「発信者、受信者、(伝達される)対象」の3つの側面に分けて論じることにする。本をイメージして言い換えるならば、「作者、読者、哲学書」の3つと言ってもよいだろう。つまりは、哲学が伝達されるのであれば、作者がいて、読者がいて、哲学書があるはずだ、ということだ。(なお、今後の議論においては、何かをイメージしたほうがわかりやすいと考え、本を例に出し「作者、読者、哲学書」という用語を用いるが、当然、音声でもいいし、インターネットでもいいし、テレパシーでもいい。)
なぜ、このような捉え方をするかと言えば、先ほど述べたような形式的な視点による。つまり、「伝達」を「作者、読者、哲学書」の側面から捉えるということは、誰でも外から観察できる形式的な視点だということだ。つまり、哲学が伝達されているように思われるならば、作者がいて、読者がいて、哲学書があると思われることは誰でも外から観察可能で明確なことであり、例外がないということだ。
ただ、注意して頂きたいが、私は、決して、「伝達」というものが「作者、読者、哲学書」の3つの側面から捉えられるべきだと断定しているという訳ではない。この3つの側面から論ずるということは私が現段階で思いついているアイディアであり、恣意的と言ってもいい。よって、この文章ではこの3つの側面をベースに議論を進めるが、もしかしたら、今後、実は「作者、読者」の2つの側面だけから論じることもできる、というような更に整理された見解にたどり着く可能性もある。
現段階で「伝達」を「作者、読者、哲学書」の3つの側面に分けたことの力点は、少なくとも「伝達」には、この3つの側面以外は含まれない、ということにある。これはどういう意味かというと、今後、おいおい「時間、空間」等といったものも導入していくことになるが、これは、あくまで「伝達」を「作者、読者、哲学書」と捉えることを経由して、透かし見るようにして「時間、空間」等が導かれるものであり、直接、「伝達」から「作者、読者、哲学書」を経由せずに「時間、空間」等が導かれるということではないということだ。

3-2 側面1 作者
「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」のうち、まず、「作者」について述べることにする。
実は、「作者、読者、哲学書」の3つのうちで、私が(少なくともこの文章のなかで)一番軽視しているのは「作者」だ。だから「作者とは何か」というのは、ここで中心となるテーマではないので簡単に述べることにするが、ひとつだけ留意点を述べる。この文章において、「作者」という用語は、ほぼ「私」という意味で用いるということだ。
何故、そのようになるかと言えば、私には「私」以外の者が哲学書の作者であるということが想定できないからだ。
この見解については、私以外の誰か、例えばデカルトが作者である場合もあるではないか、という反論もあるだろう。そのとおりだ。しかし、私が作者である状況と、デカルトが作者である状況では全く異なる。当たり前だが、私が作者の場合、私が作者の立場にいるが、一方で、デカルトが作者の場合、私は作者の立場にはなく読者の立場にあることになる。
そこで、私が読者の立場でデカルトの哲学書を読んでいる状況を想像してみる。デカルトの哲学書に、「我思う故に我あり」という文章があり、それを読んだとする。
この文章における「我」とは一見するとデカルトのように読めるが、この文章を私は「デカルト思う故にデカルトあり」とは読まないだろう。デカルトが存在するかどうかなど、私が存在するかどうかに比べればどうでもいい問題だ。読み方はあくまで「私思う故に私あり」であり、実は、この「我」とは私のことなのだ。
一つだけ例を挙げたが、このように、哲学書における「我」「私」とは、一見、デカルトのような有名な哲学者のようであるが、よく考えれば、その作者とは自分自身ということにならざるをえない。つまり、読者としての私が哲学書の作者としてのデカルトを深く考えようとすると、「私がデカルトだったら・・・」というように、私が作者である状況を想定し、作者に私を投影せざるを得ない。
この、作者というものを深く考えようとすると、そこに「私」を投影せざるを得ないということを「作者性」と呼びたい。
そして、この作者性については、読者である「あなた」にも適用され、あなたが作者というものについて考えようとした場合は、あなたは「作者」にあなた自身を投影し、「作者」=「あなた」と想定せざるを得ない、ということになるだろう。私が書いているこの文章でさえ、この文章の作者のことを考えた途端、作者は私ではなく「あなた」にならざるを得ないということだ。哲学と「あなた」との関係については、次に述べる「読者性」とも関係が深いと思われるので、そこで更に述べることとしたい。
(また、この問題意識については、永井均の独在論に全面的に影響を受けていると思われるので、詳細はそちらに譲ることとしたい。)

3-3 側面2 読者
次に「読者」について述べる。
読者について留意すべきことは、読者とは誰でもよいものではないということだ。読者は、作者と、世界観、文章の読解力、疑問といったものを共有している必要がある。簡単に言うと、読者とは、きちんと哲学書を読んでくれる読者である必要がある。
よって、世界観を共有するといっても、ビッグバン宇宙論を信じるとか、共産主義の正当性を信じるとかといった話ではない。例えば、哲学的な主張をするうえで、例示として、「白い犬がいるとする。・・・」というように、ある世界観を前提にした事例が示されたとする。そうした場合に、その事例が理解できるように、作者と読者では「白い犬がいる」ということを想像できるような世界観を共有していることが前提になるということだ。
文章の読解力についても同じようなことで、「白い犬がいるとする。・・・」と書かれていれば、読者は、ああ、あのことか、と文章として理解できるということだ。
疑問についても同様に、「白い犬がいるとする。・・・」の先に「白い犬は本当に犬なのだろうか、猫の見間違いということはないのだろうか。」と問われれば、読者は作者と同じように立ち止まって疑問を感じることができるということだ。
まとめて言い換えれば、「読者は、作者にとって望ましい読者としての能力、傾向を持っている。」ことが必要である、とも言えよう。これを「読者性」と呼ぶことにする。
もし、読者に、このような読者性が欠けていた場合、読者はきちんと哲学書を読んでくれないこととなり、つまりは「伝達」が正しく行われないこととなる。これでは読者とは言えないだろう。読者には読者性が不可欠であり、「伝達」のためには読者の「読者性」は必須である。
「読者性」という概念を導入したことで念のため強調しておきたいが、「読者」を「あなた」と自動的に読み替えてはならない。もし、あなたが作者と、世界観、文章の読解力、疑問といったものを共有しているのでなければ、あなたは、ここで言う「読者」ではない。もし、あなたが、「私がこの文章を読んだところ、作者の世界観は理解できない。」というような論拠を用いて哲学を否定するのであれば、否定されるのは、その哲学ではなく、あなたの「読者性」なのだ。
これが、哲学が何故言いたい放題なのかということに対する答えなのではないかと思う。冒頭に述べた、なぜ神はいるという主張と、神がいないという主張が哲学において長年併存してきたのか、という哲学に対する疑問の答えなのではないかと思う。つまり、作者である哲学者は、読者性を欠き、読者として適当でない者からの反論は無視するため、哲学者同士の議論がかみあわず、論点は棚上げになるということだ。これが哲学の長所なのか、短所なのかはわからないが、ただ、こういうものなのだと思う。

3-4 側面3 哲学書
最後に「哲学書」について述べる。
「哲学書」とは、先ほど述べたとおり、講義で話される音声や、インターネット上のファイルなども含み、特にその表現形式は問わない。よって、「哲学書」とはいわゆる「言語」にとても近い意味合いで用いているとも言える。あえて言えば、概念としての「言語」ではなく、あくまで本、音声といった実際に用いられた「言語」と言えばよいのだろうか。(なお、後ほど、思考自体も実体のあるものとして「哲学書」と呼ぶことになるので、「実際に用いられる」とは、思考されることも含めた幅広い意味で用いられているということにご留意いただきたい。)「哲学書」について、そのような意味での「言語」と考えても、少なくとも、この文章では大きな問題は生じない。
しかし、先ほど、「伝達」から「発信者、受信者、対象」以外の「時間、空間、言語」等が直接導入されるということではないと述べたとおり、いきなり「言語」という概念を導入することには飛躍がある。
ただし、その飛躍は全く理由のないものではない。そのことを説明するために、ルール違反とはなるが、逆に、現段階では導入する必要がない「言語」というものについて述べるところから始めてみたい。
私の「言語」観は、全面的に(野矢茂樹が解説する)ウィトゲンシュタインの影響を受けている。
そして、私は、野矢が述べていることを超えているかもしれないが、結論としては、ウィトゲンシュタインのいう「以下同様の規則」が「言語」つまり「哲学書」を構成していると考えている。
ここで、その意味について簡単に説明したい。
ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」において、言語を組み合わせることで、可能な事実の総体である「論理空間」が成立する、とした。その「論理空間」は、反復して同様の操作を行うことができるという意味での「以下同様の規則」により秩序付けられている。例えば、一旦、「2を足していく」ということを学べば、以下同様に「2を足していく」ことができるという「以下同様の規則」が働き、この規則により「2を足していく」ことが可能となる、ということだ。そして、この「以下同様の規則」は、日本語の文法等のあらゆる規則の成立に関わっているとされる。
私は、この「以下同様の規則」の力が最も単純な形で出てくるのが、「A=A」という同一律ではないかと思う。この数式の意味は、当然ながら、左辺と右辺に2回Aが出てくるが、これらは同じものだという意味だ。この数式は、2つのAを同じものだとみなす、という「以下同様の規則」の力がなければ成立しない。1回目のAは、言語として「A」で表現され、2回目のAも、「同様に」言語として「A」で表現されるからこそ、「A=A」となる。この「同様に」がなければ、1回目のAは「1回目のA」、2回目のAは「2回目のA」であり、等号で結ばれることはありえない。この、同じ名前で名指ししたものを同じものだと見なすという「同一律」を成立させるということが、私が注目したい「以下同様の規則」の力だ。
私は、この同一律により、言語は初めて、組み合わせるという操作が可能となると考えている。例えば、「本が机の上にある。」と「本が机の下にある。」という文があったとして、両方の文の「本」「机」が同一律により同じものを指すからこそ、「本が机の上にある。」と「本が机の下にある。」の両方の組み合わせが可能である、というような言い方ができるということだ。もし、「本」「机」に同一律が働かず別のものであれば、ただ単に「本が机の上にある。」であり、また、それとは全く別に、ただ単に「本が机の下にある。」である。そこに分節化して組み合わせるという操作が成立する余地はない。
このようにして、「以下同様の規則」が「論理空間」を成立させ、「言語」を成立させるのだと、私は考えている。これが、野矢の述べ方とは異なるが、野矢が解説するウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」から私が読み取った、「言語」と「以下同様の規則」の意味である。このようにして、私は「以下同様の規則」の力が「言語」を構成していると考えている。
以上、「言語」つまり「以下同様の規則」について簡単に述べたが、この「以下同様の規則」が先ほどの「読者性」の話、つまり読者とは作者のとって望ましい読者に限定されるという話とつながってくる。
先ほど「読者性」について、読者が、作者と、世界観、文章の読解力、疑問を共有し、作者にとって望ましい読者としての能力、傾向を持っているということだと述べた。これを「以下同様の規則」という概念を用いて言い換えるならば、「読者性」を有する読者、つまり作者にとって望ましい読者とは、作者がAと表現したものを、「同様に」Aとして受け取る読者のことだ、というように言い換えることができる。つまりは、読者に「読者性」を認めるということは、読者に「以下同様の規則」の力が及んでいることを認めるということなのである。
そして、先ほど述べたとおり「作者、読者、哲学書」とは、「伝達」の3つの側面であり、独立にあるのではなく互いに深く関わりあっている。つまり、私が「哲学書」と言えば、それは「読者性」を有する読者が読む「哲学書」のことである。それならば、「読者性」が備わっている読者、つまり「以下同様の規則」の力が浸透している読者が読む「哲学書」にも「以下同様の規則」の力が浸透していなければならないということだ。このようにして、「以下同様の規則」の力が浸透した「哲学書」と「以下同様の規則」により構成されているものである「言語」は、とても近い意味合いを帯びることとなる。(この文章では同じものとみなす。)
これが、「哲学書」に「言語」、「以下同様の規則」という視点を導入することの説明である。

3-5 3つに区分することの留意点:形式的であること
ここまで述べたところで、私は「作者、読者、哲学書」以外からは出発しない、としながら、「言語」のルートから「以下同様の規則」の力を勝手に導入している、という批判を受けることを危惧している。
一応は、そのような批判を受けることがないよう「読者」の持つ「読者性」という観点から「以下同様の規則」の力を導いたものであるが、述べたとおり、この「以下同様の規則」の力は「読者」に留まらず「哲学書(対象)」にも浸透しているものであり、「作者、読者、哲学書」の3側面という枠組みに収まりきらない面があることも確かである。
それでは、「以下同様の規則」について「作者、読者、哲学書」の3側面を経ずに、直接「伝達」から説明を行うことはできないのだろうか。
私は、それはできないと考えている。何故なら、私は、この文章を書くにあたっては、極力形式的に捉えていきたい、としたからだ。哲学を「伝達」という側面から形式的に捉え、更に、その「伝達」を「作者、読者、哲学書」という側面から形式的に捉えるところに、この「私の哲学」の意義がある。「伝達」から「以下同様の規則」を直接導入するということは、「伝達」の内容に直接切り込んでいくことになってしまう。
しかし、一方で、ここでの「以下同様の規則」の導入過程を見てきてお分かりのように、「作者、読者、哲学書」の3つの側面は密接不可分であり、単純に、各概念を細分化するようにして、「以下同様の規則」等の他の概念を説明していくものでないのも確かである。
あくまでも、「作者、読者、哲学書」の3側面とは、他の概念を「伝達」から導いていくうえでの舞台装置であり、「伝達」を「発信者、受信者、対象」と捉えることを透かし見るようにして、他の概念(「時間、空間」等)が導かれるというような述べ方をしていかざるを得ないということに留意する必要がある。
ここまでの議論を数式もどきの形で表現すると、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則+α」 とでもなるだろうか。
このαについては現段階では明らかでないが、可能な限り、この文章で徐々に明らかにしていきたい。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 2 伝達

2-1 哲学の形式的な捉え方
私が「私の哲学」を捉えていくにあたって重視することは、この、いわば言いたい放題とでも言えるような哲学の力を極力損なわないように、慎重に哲学を捉えたいということだ。
私にとって哲学とは、飼いならすことのできない猛獣のように例えられる。その野生の力を損なわないまま手に入れるためには、猛獣が、自らが囲まれていることを気付かないような大きな檻を準備するしかない。これがイメージとしての哲学の理想的な捉え方である。では、具体的にはどのように捉えるべきなのだろうか。
一般的に、哲学を捉えるにあたっては、「どのような内容のものであれば哲学と呼ぶことができるのか。」というような内容的な捉え方と、「どのような形式のものであれば哲学と呼ぶことができるのか。」というような形式的な捉え方の2通りのアプローチがあると思われる。
そして、これまで哲学自体を対象に考察するにあたっては、西洋哲学と東洋哲学の違いであるとか、思想と哲学との違いであるとか、というように、その内容から、内容的なアプローチで語られることが多かったように思う。しかし、私は、慎重に哲学を捉えるという観点から、形式的なアプローチをとり、世の中で哲学とされうるものは全て哲学であるとしたい。これならば、哲学の力を取り逃がすことはないのではないだろうか。
なお、この文章においては、「形式的」という用語について、外から誰でも観察できる、という程度の意味合いで使っている。そして、「形式的」な捉え方であれば、極力、幅広い合意が得られると考えている。例えば、犬というものについて説明しようとするとき、「賢くて」とか「哺乳類で」というような、人によっては誤解がありうる、外から観察できない側面から説明するよりも、「4本足で」とか「毛が生えていて」というような外から観察できる側面から説明をしたほうが、理解が得られるだろう、ということだ。
そのような意味で、私は、どのような内容のものが哲学だ、という語り方はせずに、「世の中で哲学とされている、またはされうるものが哲学である。」という誰でも外から観察できる側面から、哲学を形式的にとらえることとする。
なお、この「形式的」な捉え方は、読者から幅広い合意を得るための有効な手段と思われることから、今後も、私がこの文章を書いていくにあたっては繰り返し用いることになる。

2-2 伝達されるものとしての哲学
それでは、形式的に哲学を捉え、世の中で哲学とされうるものを全て哲学として捉えるとは、どういうことだろうか。
そこで重視したいのは、「哲学は伝達されるものである。」という視点だ。通常、哲学は、哲学書として書物になっていたり、講義などで聴衆に伝えられたりする。最近ならばインターネット上に掲載されているかもしれない。いずれにしても、何かを通じて、誰かに伝えられている。このことは、古今東西、全ての哲学に共通で、誰でも観察することができる特徴であろう。中には、(この文章のように?)幼稚で哲学の名に値しないような哲学もあるだろうし、また、懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあるだろう。しかし、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる。
つまり、私は、哲学を「伝達されるもの」という形式的な側面から捉えることで、哲学というものを最大限に広く捉えることができ、世の中で哲学とされうるものを全て哲学として捉えることができていると考えている。これが、哲学の力を極力損なわない、最も幅広い哲学の捉え方だということだ。

2-3 反論その1 実は伝達されていない
この、哲学を「伝達されるもの」として捉えるという主張については、いくつかの反論が想定される。
まずは、「哲学は伝達されている。」という主張は、デカルト的な、この世界は大きな夢ではないか、この世界は全能の悪霊の欺きではないか、というような疑いに晒されるだろう。つまり、哲学によっては、「哲学は伝達されている。」と考えないものもあるのではないか、ということだ。これは、先ほど、懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあると述べたことにつながる。そのときは、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる、と述べたが、更に、その思いも疑うことはできる。
つまり、「哲学は伝達されているように思われるが、実は、哲学は伝達されていないかもしれない。」と疑うことは可能である。
そこで、私は簡単に、少し撤退することにしたい。その撤退ラインは、デカルト的に表現すれば、「哲学は伝達されていると思われる、ということは疑い得ない。」という線だ。「伝達されている。」ということを肯定しても否定してもいいし、もっと厳密に論点を整理してもよいが、哲学という営みが成立している以上は、その営みが成立していると思うこと、つまり「伝達されていると思われる。」ということが出発点にならざるを得ない。
つまり、「哲学は伝達されていると思われる。」ということは、全ての哲学に共通だということだ。
この「思われる。」ということが何を意味するのか等、更に検討すべき点はあるが、当面はここを出発点にするべきであると考える。

2-4 反論その2 自分だけの哲学
それでも、更なる反論がありうる。「著名な哲学者の哲学書や講義やインターネットで伝達された哲学だけが哲学ではない。誰に伝えることも想定しない自分だけの哲学を行っている市井の哲学者だっているだろう。著名な哲学者であっても、たまたま本も出版しているかもしれないが、哲学者自身の内面で完結する哲学こそが本来の哲学だ。」というような反論だ。
この反論に対しては、「自分自身に対して伝達することも、伝達に含まれる」という主張を追加することで対応したい。
「自分自身に対する伝達」などという主張は恣意的な主張に思えるかもしれない。しかし、この主張を否定するためには、「哲学という一塊の思考について、自ら考え出し、自ら理解するとはどういうことなのだろうか。」という別な疑問にも答える必要がある。この問いに対して、伝達という観点を用いずに答えが導けるならば、私の主張を否定してかまわない。しかし、後ほど詳述したいが、私は、結論としては、否定はできないのではないかと考えている。つまり、哲学的思考を行うということは、哲学を自分自身に対して伝達することだと考えている。

「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 1 はじめに

平成24年の春から夏にかけて書いた、完全オリジナルの初の長編です。
長編としては2作目ですね。
PDF:watashino
・・・

1-1 はじめに
この文章において、私は、哲学というもの自体について、哲学とは「伝達」されるものである、という側面から捉え考察を行う。
そして、この私が書いている文章自体も含めた世の哲学とされるものが伝達されているということについて検討を行い、「伝達」自体を脅かしうる独我論のような懐疑主義的な考え方と対峙したい。そして、懐疑主義的な考え方をどこまで乗り越えることができ、乗り越えた先には何があるのか、というように検討を進めていきたい。
哲学自体を述べるということ自体が明らかに大風呂敷を広げてしまっているし、また、この文章を書いているということ自体について検討するという自己言及的な議論を進めていくことの困難もあるだろう。しかし、哲学とは「伝達」されるものであるという見地から議論を限定することにより、少なくとも私自身にとっては、何らかの書かれる意義が認められる文章とすることができるのではないかと考えている。

1-2 哲学の捉え方・私の哲学
それでは、まずは『哲学とは「伝達」されるものである』というアイディアを導入するため、哲学というものに対して抱いている私の疑問について語るところから、始めることとしたい。
私が哲学と言われるものに本気で触れるようになってから数年が経ち、自分なりに少しずつ哲学というものを消化しつつあると思っているが、どうしても消化できない疑問がある。
私は、哲学の歴史の大まかな流れを学んだとき、その歴史において、哲学上、Aという主張があり、それを否定するBという主張があるにも関わらず、いずれも淘汰されず、両方の主張が併存してきたということがとても不思議だった。例えば「神はいる。」という主張が一方であり、「神はいない。」という主張が一方であれば、結論はそのいずれかではないのか。あるいは、その両者を乗り越えて新たな問いが設定されるようなかたちで整理されるのではないか。哲学という同じ土俵で議論をしたからには、いずれかに軍配があがり、何らかの当面の決着がつくのではないか。という疑問だ。そして、その疑問は今でも拭えない。多分、私はどこかで、学問を学ぶとは、法学において通説、有力説等々を学ぶのと同じように、現時点での当面の結論と、その結論に至った議論の経緯を学ぶことだというイメージを刷り込まれてしまっているのだろう。
しかし今では、私にだって、実際はそうではないことはわかっている。もし、哲学に詳しい人に向かって今述べたようなことを言えば、何を勝手に思い込みで決め付けているのだ、哲学に対する大きな誤解だ、などと言われるだろうこともわかっている。哲学の大問題は、少なくとも簡単には答えは出ない。というか哲学者の数だけ答えがあると言った方がいいのかもしれない。そして、大事なことだが、哲学者にとっては、自らの営みが哲学と呼ばれるかどうかなど、どうでもよいのだろう。ただ、ひたすら自らの心がおもむくままに探求したものが、たまたま哲学と呼ばれているということなのだろう。(そういう意味では哲学者は、科学者よりも芸術家に似ているのかもしれない。)だから、そもそも哲学かどうかなど、どうでもいい問題なのだ。
それでもいいのかもしれない。というか、本来、そうあるべきなのかもしれない。そのような自由な営みである哲学というものを定義したりルールを設けたりして、何かを決め付けてしまうということは、哲学の力に何か制限を加えることになってしまうようにも思われる。
このように、私はわかってはいるが、戸惑い続けている。哲学は、私がこれまで触れてきた学問とは全くスタンスが違っている。私には、どうしても、哲学というのは何も体系付けられておらず、要は言いたい放題なのではないか、という戸惑いを捨て去ることができない。
それでは、哲学が哲学者ごとに異なる哲学として併存し、いわば言いたい放題とでも言えるような状況にあるのは何故なのだろう。
その理由は、簡単に言えば、哲学が語られる以前の、哲学者ごとに持っている思考の枠組みや方向性、問題意識のようなものが、哲学者ごとに全く異なるからではないかと思われる。
ここで、思考の枠組みや方向性と述べたものが何なのかを明確に示すことは避けることにする。なぜなら、「哲学により哲学以前のものについて定義する。」という、この文章で述べようとしていることとは別の哲学的な問題に入り込んでしまうからだ。
そこで、この文章では思考の枠組みや方向性と述べたものを、あいまいなかたちで、幅広く「哲学の捉え方」と名付けることにする。つまり、哲学者の間で「哲学の捉え方」が異なるから、同じ土俵での議論にならず、異なる哲学が併存しているということなのか、ということだ。
私は、この「哲学の捉え方」ということの意識が、これまでの哲学においては希薄だったように思える。よって、「哲学の捉え方」を意識するところから検討を始めることとしたい。
念のため言っておきたいが、私も、この「哲学の捉え方」というアイディアが哲学というもの自体の意味合いを変える、というような誇大妄想は抱いていない。なぜなら、「哲学の捉え方」を意識するということは、要は、哲学者ごとに異なる哲学が併存するということを認めるという結論を導くものであるが、普通の哲学者であれば、既に、異なる哲学が併存している状況を認めているからだ。つまり、私が「哲学の捉え方」を意識してたどりつくところに、普通であれば既にたどりついている。よって、「哲学の捉え方」を意識するかどうかは、他の哲学者が至った哲学の到達点に何も影響しない。
このことは、別の言い方として、私が「哲学の捉え方」に問題意識を持つということは、どこに問題意識を持つかという、哲学者ごとに異なるバリエーションの一つに過ぎない、とも言える。私はたまたま「哲学の捉え方」に問題意識を持つという「哲学の捉え方」をしたということだ。
つまり、「哲学の捉え方」に問題意識を持つということは、いわゆる哲学にとっては決して重要なことではないが、私にとっての哲学には重要なことなのだ。
このように「哲学の捉え方」に問題意識を持つという哲学の捉え方をすることを、私にとっての哲学の出発点としたい。そして、私にとっては、ここから書き始める哲学的な文章は、私の「哲学の捉え方」に基づいているという意味で、他のどの哲学とも違う、特別な哲学であるのだから、この哲学を「私の哲学」とカッコで括って用いることとしたい。
よって、これからは一般的な哲学における「哲学の捉え方」ではなく、「私の哲学」における、「私の哲学」の捉え方について述べていくことになる。