2-1 哲学の形式的な捉え方
私が「私の哲学」を捉えていくにあたって重視することは、この、いわば言いたい放題とでも言えるような哲学の力を極力損なわないように、慎重に哲学を捉えたいということだ。
私にとって哲学とは、飼いならすことのできない猛獣のように例えられる。その野生の力を損なわないまま手に入れるためには、猛獣が、自らが囲まれていることを気付かないような大きな檻を準備するしかない。これがイメージとしての哲学の理想的な捉え方である。では、具体的にはどのように捉えるべきなのだろうか。
一般的に、哲学を捉えるにあたっては、「どのような内容のものであれば哲学と呼ぶことができるのか。」というような内容的な捉え方と、「どのような形式のものであれば哲学と呼ぶことができるのか。」というような形式的な捉え方の2通りのアプローチがあると思われる。
そして、これまで哲学自体を対象に考察するにあたっては、西洋哲学と東洋哲学の違いであるとか、思想と哲学との違いであるとか、というように、その内容から、内容的なアプローチで語られることが多かったように思う。しかし、私は、慎重に哲学を捉えるという観点から、形式的なアプローチをとり、世の中で哲学とされうるものは全て哲学であるとしたい。これならば、哲学の力を取り逃がすことはないのではないだろうか。
なお、この文章においては、「形式的」という用語について、外から誰でも観察できる、という程度の意味合いで使っている。そして、「形式的」な捉え方であれば、極力、幅広い合意が得られると考えている。例えば、犬というものについて説明しようとするとき、「賢くて」とか「哺乳類で」というような、人によっては誤解がありうる、外から観察できない側面から説明するよりも、「4本足で」とか「毛が生えていて」というような外から観察できる側面から説明をしたほうが、理解が得られるだろう、ということだ。
そのような意味で、私は、どのような内容のものが哲学だ、という語り方はせずに、「世の中で哲学とされている、またはされうるものが哲学である。」という誰でも外から観察できる側面から、哲学を形式的にとらえることとする。
なお、この「形式的」な捉え方は、読者から幅広い合意を得るための有効な手段と思われることから、今後も、私がこの文章を書いていくにあたっては繰り返し用いることになる。

2-2 伝達されるものとしての哲学
それでは、形式的に哲学を捉え、世の中で哲学とされうるものを全て哲学として捉えるとは、どういうことだろうか。
そこで重視したいのは、「哲学は伝達されるものである。」という視点だ。通常、哲学は、哲学書として書物になっていたり、講義などで聴衆に伝えられたりする。最近ならばインターネット上に掲載されているかもしれない。いずれにしても、何かを通じて、誰かに伝えられている。このことは、古今東西、全ての哲学に共通で、誰でも観察することができる特徴であろう。中には、(この文章のように?)幼稚で哲学の名に値しないような哲学もあるだろうし、また、懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあるだろう。しかし、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる。
つまり、私は、哲学を「伝達されるもの」という形式的な側面から捉えることで、哲学というものを最大限に広く捉えることができ、世の中で哲学とされうるものを全て哲学として捉えることができていると考えている。これが、哲学の力を極力損なわない、最も幅広い哲学の捉え方だということだ。

2-3 反論その1 実は伝達されていない
この、哲学を「伝達されるもの」として捉えるという主張については、いくつかの反論が想定される。
まずは、「哲学は伝達されている。」という主張は、デカルト的な、この世界は大きな夢ではないか、この世界は全能の悪霊の欺きではないか、というような疑いに晒されるだろう。つまり、哲学によっては、「哲学は伝達されている。」と考えないものもあるのではないか、ということだ。これは、先ほど、懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあると述べたことにつながる。そのときは、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる、と述べたが、更に、その思いも疑うことはできる。
つまり、「哲学は伝達されているように思われるが、実は、哲学は伝達されていないかもしれない。」と疑うことは可能である。
そこで、私は簡単に、少し撤退することにしたい。その撤退ラインは、デカルト的に表現すれば、「哲学は伝達されていると思われる、ということは疑い得ない。」という線だ。「伝達されている。」ということを肯定しても否定してもいいし、もっと厳密に論点を整理してもよいが、哲学という営みが成立している以上は、その営みが成立していると思うこと、つまり「伝達されていると思われる。」ということが出発点にならざるを得ない。
つまり、「哲学は伝達されていると思われる。」ということは、全ての哲学に共通だということだ。
この「思われる。」ということが何を意味するのか等、更に検討すべき点はあるが、当面はここを出発点にするべきであると考える。

2-4 反論その2 自分だけの哲学
それでも、更なる反論がありうる。「著名な哲学者の哲学書や講義やインターネットで伝達された哲学だけが哲学ではない。誰に伝えることも想定しない自分だけの哲学を行っている市井の哲学者だっているだろう。著名な哲学者であっても、たまたま本も出版しているかもしれないが、哲学者自身の内面で完結する哲学こそが本来の哲学だ。」というような反論だ。
この反論に対しては、「自分自身に対して伝達することも、伝達に含まれる」という主張を追加することで対応したい。
「自分自身に対する伝達」などという主張は恣意的な主張に思えるかもしれない。しかし、この主張を否定するためには、「哲学という一塊の思考について、自ら考え出し、自ら理解するとはどういうことなのだろうか。」という別な疑問にも答える必要がある。この問いに対して、伝達という観点を用いずに答えが導けるならば、私の主張を否定してかまわない。しかし、後ほど詳述したいが、私は、結論としては、否定はできないのではないかと考えている。つまり、哲学的思考を行うということは、哲学を自分自身に対して伝達することだと考えている。