哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

ネズミのおもちゃ

うちで飼っているネコが3歳になり、最近、ネズミのおもちゃであまり遊ばなくなってきている。 おもちゃを近くで動かすと、一応、捕まえようとするんだけど、いざ捕まえると、「捕まえてもなあ・・・」みたいな顔をする。
じゃれていて爪に引っかかったりすると、外すのに協力してくれたりする。
前ならば、夢中になって遊んで、いったん捕らえたら、 くわえたまま 嬉しそうに ベッドの下に潜り込んだりしていたのに。

そんなネコを見ていて哲学みたいだなあ、と思った。
最近、うちのネコは、「おもちゃで遊ぶ『ことになってる 』 んでしょ」と言っているように思える。
それと同じように、ある種のニヒリスティックな哲学は、 「人生って充実している『ことになってる 』 んでしょ」 なんて言っているように思える。

「ことになってる」と言えるのはメタ化した視点に立っているからだ。
大人になったネコは、おもちゃに夢中にならず、一段高いところから、おもちゃをおもちゃとして見下ろしている。
それと同じように、哲学に侵された人は、人生に夢中にならず、一段高いところから、人生を人生として見下ろしている。

僕が、それでもなんとか夢中になるように、がんばってネズミを振り回しているように、神様は、なんとか楽しい人生を味わえるよう、手を変え品を変え、頑張ってくれているのかもしれない。

だけど、いったん、おもちゃをおもちゃと気付いたネコは、新しいおもちゃや新しい動きを見ても、すぐにそれをおもちゃと見破るし、優秀な哲学者は、どんな目新しい体験でも、それが所詮人生だということを見抜いてしまう。
僕も神様もやりきれない気持ちだろうなあ。

僕はうちのネコにこう言いたい。
気合い入れて遊ばないなら、ネズミのおもちゃがしまってある引き出しの前で、せがむようにニャーっとなくな!

「真理のスイカ畑でつかまえて」をつかまえる

1 この文章の目的

僕がこの文章を書いたのは、哲学プラクティス連絡会の機関誌「みんなで考えよう」(http://philosophicalpractice.jp/journal/journal2/から読めます。)に掲載されている漫画「真理のスイカ畑でつかまえて」(以下、「スイカ畑」)が、誤解されるのを危惧するからだ。
「スイカ畑」はぶっとんでいる。かなりの割合の人は、「なんだこれ?」と思うのではないか。「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」と銘打たれているが、これでテツガクが終わる訳ないだろ、なんていう声が聞こえるような気がする。そして、理解されず、忘れ去られてしまうかもしれない。
僕は、この文章で、「スイカ畑」はそのように扱われるべきものではないということを明らかにしたい。よって、既に「スイカ畑」に価値があると考えている方は、この文章を読まなくていいかもしれない。なぜなら、この文章は、あなたとは違うかたちで真理のスイカを切り刻んだだけのものかもしれないのだから。

2 真理のスイカ説の評価

真理とはスイカのようなモノというのは、ぶっとんでいるようで、実は、かなり成功している比喩だと思う。
まず、真理にかたちがあるなら、球という完全な形状がふさわしい。
また、人間がひとりで抱えることができる限界に近い重さであり、身近にあるものと言えば、スイカしかない。このサイズ感と重量感は真実の比喩としてちょうどいい。
更には、甘さを真理に例えるなら、あまり甘くないところから、より甘いところに進むという、弁証法的な構造を組み込むことに成功している。これは、重層的なあり方をしている真理の比喩としては、いい線をいっていると思う。(この真理観は、コリングウッドの「哲学の方法について」で示したものに近い。)
当然、比喩なのだから足りないところはある。真理には、種はないし、縞模様もないだろう。
そこには目をつぶるとしても、真理は、スイカのように冷たく、硬いものではない。真理とは、冷たいだけでなく暖かく、硬いだけでなく柔らかくもあるはずだ。なぜなら、いずれか一方であったら、その真理はもう一方が欠けた不完全なものになるからだ。また、両者をとりこんだ弁証法的なあり方を強調するなら、真理とは、スイカのように静的なあり方はしておらず、もっと動的なものだ、とも言いたい。だけど、それを漫画で表現しろというのは、望みすぎというものだろう。

3 真理のスイカを言葉という包丁で切ることの不可能性

そして、その真理の象徴としてのスイカを「切る」という描写が「スイカ畑」では繰り返し登場する。多分作者も意識していると思うが、スイカを切る包丁とは、「言葉」の比喩であることは明らかだろう。
スイカという真理を、言葉という包丁で切ることこそが、哲学カフェでの哲学対話において行われていることなのだ。

では、哲学カフェにおいて、誰のスイカを誰が切っているのか。
「スイカ畑」では、登場人物、つまり哲学カフェの参加者がみんなで、ひとつのスイカを取り扱っているように見える。
しかし、それは誤りだろう。
僕の考えでは、一人ひとりがそれぞれ自分だけのスイカを持っている。他人のスイカは見えないし、ましてや手を伸ばして切ることなどできない。
あとがきで、この漫画はウィトゲンシュタイン的とされているけれど、まさにウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシのようなものとして、このスイカはあるはずだ。
なお、カブトムシの比喩とは、私的言語の文脈で登場するもので、自分だけが覗ける箱の中に入っている自分だけのカブトムシは言語ゲームに乗せることはできない、という文脈で登場する。
だから、「スイカ畑」の「天使の3分クッキング」において、スイカの切断は失敗する。 なぜなら、真理を丸ごと言語で他者と共有するなどということは、ウィトゲンシュタインが言うとおり不可能なのだから。

4 「哲学酔いどれ派」の扱い

「一人ひとりが、それぞれ自分だけがわかるかたちで自分だけの真理というスイカを抱えている」という世界観を認めてもらえるならば、「スイカ畑」における「哲学酔いどれ派」や「哲学ソウゾウ派」についても、僕なりの解釈を打ち立てることができる。
「哲学酔いどれ派」とは、星一徹のように「疑うことが哲学です」とちゃぶ台返しする人とされるが、これは、自分の手元に、自分だけのスイカがあることに気付いていない人だと言えるだろう。僕はこの「哲学酔いどれ派」を否定的に扱うが、カブトムシの比喩も用いて私的言語を否定した後期ウィトゲンシュタインは、ある意味、この流派に属するとも言えるので、哲学者のなかでは多数派なのかもしれない。
僕は、自分の手元にはスイカなどないという「哲学酔いどれ派」の主張を否定するために、プラトンが提示した探求のパラドックスを用いることにする。探求する対象を知らなければ、そもそも探求のしようがないし、一方で、既にその対象を知っていれば、やはり探求のしようがない。つまり、探求は不可能ではないか、という問題設定だ。
このパラドックスの解決策として、プラトンは想起説を提示する。何かを知るとは、つまりは既に知っていたことを思い出すことなのだ、というアイディアだ。
これは、一見して詭弁のように思える。しかし、探求のパラドックスを認め、それを正面から答えようとするなら、想起説と全く同じではないにしても、既になんらかを知っているというような考え方を取らざるを得ない、と僕は考えている。(僕は、コリングウッドが「哲学の方法について」で示したものが最もきれいな答え方だと思っている。)
プラトンの想起説的な考え方を認めるならば、人は、既に真理というスイカを抱えていることになる。プラトンならば、それをイデアと言うだろう。だが、残念ながら、そのことを忘れてしまっている人がいる。それが「哲学酔いどれ派」のおじさんだ。
自分の手元にある真理を見失い、自分の外に真理を求めるから、彼はどこまでも既に手に入れたものを疑い、疑いの先にある何かを求める。そこには何もないのに。 この滑稽さこそが、「スイカ畑」での「哲学酔いどれ派」に与えられた役割なのだ。

5 「哲学ソウゾウ派」の扱い

「スイカ畑」では哲学カフェ界隈の滑稽な人種として、もうひとつ、真理のスイカを理解しつつも、それを調理したがる人である「哲学ソウゾウ派」が挙げられている。
「スイカ畑」においては、「哲学ソウゾウ派」は否定的に扱われている。なぜなら、真理というスイカは丸ごとそのままに他者と共有することが可能なものとされているからだ。共有できるものを、あえて切り刻む必要はない。そこにも滑稽さがあるという訳だ。
しかし、残念ながら、その点は同意できない。
スイカを丸ごとそのままで誰かに手渡すことなどできない。真理というスイカを誰かに伝えようとするなら、言葉という包丁で切り刻み、なんとか伝えようと試みるしかない。
(また、今回の話からは脱線するが、自分自身で、自分が抱えるスイカを吟味し、このスイカがどのようなものかを、より明晰に把握するためにも、言葉という包丁を経由せざるを得ない。)
しかし、残念ながら、切り刻んだスイカは、もとのスイカとは似ても似つかないものに成り果てている。なんとか誰かに自分の真理を味わってほしくて、スイカのフルーツポンチを作ったと思っても、自分の手元には、全く伝わらなかったものとして、丸ごとのスイカだけが転がっている。 誰かと真理を共有しようとするなら、どこまでもスイカを切り刻もうとする「哲学ソウゾウ派」であることは免れることはできない。それが、どこまでも失敗する試みだとしても、だ。どうも、僕自身は、この「哲学ソウゾウ派」に近いようだ。

6 「スピリチュアル派」登場

なお、「スイカ畑」の作者のような人種は、あとがきで揶揄されているように「スピリチュアル派」と名付けるのはどうだろう。
先ほど言ったように、これは、いわば、真理というスイカを自ら抱えていることを知っていて、更に、それを、丸ごとそのまま誰かに手渡すことも可能だとする考え方だ。
このような考え方をする人は、それほど少なくはないように思う。
「哲学ソウゾウ派」である僕から見ると、仏教のような東洋哲学的なものに真理を見出している人や、愛や、魂や、時空や、因果や、科学といった、なにか特定の概念に真理を仮託している人は、「スピリチュアル派」という同じジャンルに分類できるように見える。
確かに彼らは真理というスイカをしっかりと抱えているのだろう。愛にせよ、魂にせよ、時空にせよ、因果にせよ、科学にせよ、仏教的な概念にせよ、彼らが用いる言葉が、そのスイカを描写していないとは言わない。
しかし、いくら難解な言葉であっても、いくら気の利いた言葉であっても、残念ながら、どのような言葉を使っても、その言葉を使った時点で、スイカは切り刻まれてしまっており、僕のもとには、その無残な残骸しか届かないのだ。彼らと、スイカを共有することはできない。
(このことを僕は、「スイカ畑」が載っている本と同じ本に、スペシャルワードという言葉を使って描写しています。)

7 三つの流派の関係と「スイカ畑」の評価

ここまで「哲学酔いどれ派」、「哲学ソウゾウ派」、「スピリチュアル派」と三種類の人種が登場したが、この三者の関係は複雑だ。
確かに、丸ごとのスイカを重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」である僕は、「哲学酔いどれ派」に対する限りでは「スイカ畑」の作者のような「スピリチュアル派」と共同戦線を組むことができる。
しかし、言葉という包丁も重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」は、「哲学酔いどれ派」と手を組み、究極的には言葉を否定せざるを得ない「スピリチュアル派」に対峙することもできる。
哲学カフェ界隈では、そんな三角関係が展開されているのではないだろうか。

以上は、哲学のかなり奥底に至ろうとしている話であり、「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」というのは言い過ぎにしても、「スイカ畑」が、そこにいざなう深さを持つ漫画であることは間違いないように思える。

8 対話の場の力 「哲学ソウゾウ派」視点

ここからは、「スイカ畑」を離れ、僕自身の哲学の話になるが、「哲学ソウゾウ派」と「スピリチュアル派」は、ある特別な関係にあると思う。二人が手を携えれば、「哲学酔いどれ派」を置き去りにして、スイカを丸ごと皆で味わうことができる世界にたどり着けると思うのだ。

その道筋は哲学カフェの現場で見つけることができる。
僕は「哲学ソウゾウ派」として、自分の真理を言葉で切り刻み、なんとか理解し、そして、なんとか他者に伝えようとしている。
その試みは、これまで述べたとおり、ウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシの比喩にあるような困難により、失敗せざるを得ない。
しかし、それでも、なぜか、哲学対話においては、その伝達が成功し、確かに他者に伝わったと感じる瞬間があるのだ。
それは自分が聞き手の側であっても同じだ。哲学カフェにおける誰かの発言が、その人の真実のスイカを垣間見せてくれたと感じるときが確かにある。
日常の生活ではなかなかないことだけど、哲学カフェにおいては、対話がうまく進み、盛り上がったとき、ほんの一瞬でも、参加者が皆、ひとつのスイカを見つめ、真実を共有していると思える瞬間がある。実体験として、僕はそう感じる。
そのとき、スイカは、対話の輪の中心に浮かんでいる。対話の場においてこそ、完全な丸ごとのスイカが、皆の前に姿を現すのだ。 そのとき、その丸い物体をより正確に例えるならば、それはスイカではなく、コミュニティーボールとしたほうが適切かもしれない。真理とは、ときには、毛糸のように柔らかく、手に馴染み、姿を変える存在でもあるのだ。

9 対話の場の力 「スピリチュアル派」視点

一方で、「スピリチュアル派」からも似たような道をたどることができるだろう。
「スイカ畑」には、スイカを共有した3人の主人公たちが登場する。彼らは、彼らの間では真理を共有していることを前提に、それを語ることができる哲学カフェを探している。
つまり「スピリチュアル派」の人であっても、最初から全ての人が真理を共有しているとは考えていない。仏教であれば仏教を信じる人だけが真理にアクセスできるように、「スイカ畑」では彼ら3人だけが愛という真理を知っている。その限定がある一方で、なぜか、これから、仏教にせよ、愛にせよ、選ばれし者のみが知っている真理は、多くの人に広めることができる、ということになっていなければならない。そうでなければ、この「スイカ畑」の物語は成立しない。
そのファンタジーを成立させるためには、どこかで、対話の場では真摯な言葉で真理を伝えることができる、という対話の場の力を導入しなければならない。主人公たちが理想的な対話の場を探しているということは、その象徴だろう。
以上は、対話の場で「哲学ソウゾウ派」がたどった道を、逆向きにたどるということにほかならない。「哲学ソウゾウ派」は、対話の場において、スイカという真理を伝えられることに不思議を感じる。それに対して、「スピリチュアル派」は、それを当然の前提として考え、それをただ求め、そして時に伝わらないことに傷つく。という違いがあるだけなのだ。

10 丸ごとのスイカを味わう

「哲学ソウゾウ派」によれば、言葉による真理の伝達など不可能なはずなのに、哲学対話の場では、なぜか奇跡的に成立することがある。しかし、ホーリズム的な視点も踏まえれば、真理などというたいそうなものではなくても、例えば「鳥」などという言葉がきちんと伝わることも奇跡と言える。「鳥」という言葉の意味を定義するためには、「脊椎動物」という言葉を使わなければならないが、「脊椎動物」という言葉を定義するためには「鳥」という言葉を使わなければならない。というように、すべての言葉は互いに絡み合ってひとつの構造となっており、その中からひとつの言葉だけを取り出して論じることはできないというのが、ここでのホーリズム的な考え方だ。だが、それでも、なぜか「鳥」という言葉で鳥について伝達できる。これが奇跡だ。
この奇跡を認めるならば、どこかで「スピリチュアル派」が言うことを渋々ながら認めなければならない。
一方で、「スピリチュアル派」も、これだけ伝わらない現状を踏まえるならば、謙虚に「哲学ソウゾウ派」の批判を受け入れるべきだろう。
「スピリチュアル派」の問題は、その派閥内で、愛やら魂やら科学やら、はたまた仏教用語など、どの言葉を重視するかで分裂し、派閥内での統一ができないことに象徴される。そのように混乱したままで、真理とまでいかずとも、何かをきちんと伝えることは困難だろう。

思うに、言葉によって人が人に何かを伝えることができる、という不思議が当然に成立することをうまく描写するためには、多分、完全に「哲学ソウゾウ派」であってもうまくいかないし、完全に「スピリチュアル派」であってもうまくいかないのだろう。
不思議と当然が同居するかたちで言語が成立するということは、僕も、「スイカ畑」の作者も、そして実は「哲学酔いどれ派」を自認する誰かも、どこか「哲学ソウゾウ派」であって、どこか「スピリチュアル派」であるということを意味する。
これが、僕が考えるスイカを味わう道だ。 つまり、言語が成立ということは、既に、ある一面では丸ごとのスイカを味わっているということなのだ。もう一方の面では、完全に味わうことを取り逃がしているとしても。

ロビン・ジョージ・コリングウッド「哲学の方法について」のアイディアの僕なりの拡張(メモ)

僕は、この本についてアマゾンにレビュー記事を書いた。
そこに書けなかった自分なりのアイディアをメモしておく。

この本の最重要アイディアである、「重複に起因する「形式の変移図」という哲学の方法のあり方」は正しいと思う。
ただし、僕のなかに取り込むにあたって4点修正を加えておきたい。
なぜなら、「重複」や「形式の変移図」というアイディア自体も弁証法的に乗り越えられなければならないからだ。
このような、いくつかの書き換えによる拡張が認められるなら、コリングウッドは、まさに僕が考えていたこと明確にし、更に、その先を示してくれた、とさえ思える。
多分、他者の哲学を理解するとは、そういうことなのだろう。コリングウッドはそんなことを感じさせる数少ない哲学者だ。

1 「形式の変移図」における類の設定の詳細化

コリングウッドの「形式の変移図」は、例えば「道徳」というような特定の類、僕の言い方ならテーマ設定がなされることから始まる。
それは正しいのが、テーマ設定はもっと厳密に行われるべきだろう。なぜなら、哲学とは、既に知っていることという出発地点(原理)と、既に知っていることのより詳しい描写という到着地点(結論)を、それぞれ照合しつつ更新するようなあり方をするからだ。
結論を厳密に考えるうちに、出発地点を捉え直し、再出発を図るということは哲学にはよくあることだろう。
そのことをうまく描写するためには、議論の出発点を「道徳」というような大枠で設定することは適切ではない。より、詳細に厳密に設定されるべきだ。厳密に設定するからこそ、出発地点を確認したり、照合したり、見直したりすることが可能になる。
多分、詳細なテーマ設定は、疑問文の形で行われるべきだろう。この意味で、コリングウッドの二つのアイディア、「問答論理学」と「形式の変移図」は接続する。
問答論理学において、問いと答えが重ねられ、問い自体が変化し推移することと、「形式の変移図」において下位の思想が上位の思想に弁証法的に置き換えられることは重なると、僕は考える。

2 「形式の変移図」の軸の単数から複数への拡張

コリングウッドにおける「形式の変移図」は、例えば「道徳」という単数の軸が固定されたうえで、きれいに下から上に積み上げられた構造物のように描かれている。
しかし、実はそうはならず、左右に揺らぐように、または蛇行するように積み重ねられていくはずだ。
なぜかと言えば、コリングウッドが言うような、下位の思想と上位の思想という、上下、つまりY軸のみの単数の評価軸では足りないからだ。

「道徳」を例とすれば、コリングウッドによれば、功利主義はカント流の義務論により完全に乗り越えられるとする。
しかし、先ほど論じたように、テーマ設定はより詳細に行われるべきだ。
その場合、コリングウッドが行ったのは「道徳的な善とは何か」というようなテーマ設定であったと言ってよいだろう。確かにこのテーマなら功利主義は義務論により乗り越えられるとしてよいかもしれない。

しかし、同じ、道徳についてのテーマであっても、功利主義者が設定したのは「どうしたら道徳を測定できるのか」や「どうしたら現実的な範囲で道徳的になれるのか」といったものだったらどうだろう。
その場合、必ずしも義務論が功利主義に対して優位に立つとは言えない。
つまり、これは、コリングウッドが導入していたY軸の評価軸とは別に、X軸やZ軸といった評価軸を導入するということである。
(多分、問いがいくらでも思いつくように、この評価軸はいくらでも設定できるのだろう。)
グラフ用紙の上に「形式の変移図」を描くなら、功利主義の左上に義務論は描かれる。この場合、Y軸(「道徳的な善とは何か」)では義務論の方が上位だが、X軸(「どうしたら道徳を測定できるのか」)では功利主義が上位となる。
これは、義務論者と功利主義者が同じ「道徳」について話しながら、別の問いを設定し、噛み合わない議論をしている状況を示した図だと言ってもよいだろう。

3 「重複」の「形式の変移図」への適用

コリングウッドのアイディア自体も、自らのアイディアの適用の例外とはならず、メタ的な適用がなされるべきだ。
つまり、コリングウッドの「重複」というアイディアを「形式の変移図」というアイディア自体に適用するなら、「形式の変移図」であることと、「形式の変移図」ではないことも重複していなければならない。
それならば、「形式の変移図」ではないということも、この「形式の変移図」のなかに書き入れられなければならない。
「形式の変移図」に書けない地点とは、評価軸のベクトルの先端の無限の彼方であろう。
それは例えば、「道徳的な善とは何か」というような問いの切先にあるということだ。
更には、これらの問いすらも「形式の変移図」に位置づけられるのだとすれば、問いについての問いの先端にあるということだとさえ言えるかもしれない。
そこでは、「形式の変移図」という図式は無力化されなければならない。
また、そこでは、これまでの哲学という積み重ねが役に立たない絶望のなかで、全面的に新しいアイディアが生まれることになるのだろう。
哲学には、コリングウッドの 「形式の変移図」 では論じられなかった、こういう側面もあるはずだ。

4 重複から包含へ

コリングウッドの言う「重複」とは、普通の重複ではない。
哲学における重要なキーワードは、重なり合うベン図のように静的な描き方はできない。
動的で、互いに互いを完全に包含し合うようなあり方をしている。
つまりは、ある哲学において、AとBという概念が重要だとすれば、全てはAであり、また全てはBであるとも言えるのだ。
このことについては、コリングウッドも「哲学的な段階に達するとそれは本来持っていた制限から解き放たれ、四方八方へと流れ出し、様々な領域へと進出していき、ついには現実そのものを完全に覆う。」としているとおり、同意してくれるだろう。
なお、すべての哲学用語が完全に互いを包含し合うようなあり方をしている訳ではないという反論があるかもしれない。
哲学用語がそのような無制限なあり方ばかりしていたら、哲学の言葉は空回りして何も語れなくなってしまうではないか。
たしかにそのとおりなのだが、コリングウッドが言うとおり「哲学の言葉は最重要であるか、何の意味もない言葉になっていく」という地点は確かにあると思う。
理想的な限界としての哲学というものがあるのなら、その哲学とは、完全な相互包含関係というかたちで描くしかないのではないか。
そうならずに人間の言語で捉えることができる範囲で収まっているのは、その哲学が突き抜けたところまで到達せず、少なくともある評価軸では「形式の変移図」がうまく働く下位の層にとどまっているからなのだろう。


(以下、自分用の章ごとのメモ)

Iはじめに
哲学特有の柔軟性

II部類[xiv]の重複
哲学は部類が重複するという特徴
「現代において、哲学は混乱の真っ只中にある。現代の思想家たちは互いの考えを容易に受け容れられず、場合によっては理解すらできずにすれ違う。」

III形式の変移図
対立と区別の部類の重複から、上位の項が下位の項を取り込みつつ乗り越える(よりよい別のかたちで把握する)という「形式の変移図」が描かれる

IV定義と描写
定義も既に定義づけられているものをより正確に定義するということ
定義も重複するから

V哲学的判断:質と量

肯定的判断と否定的判断 重複する
否定するときは対案を提示
「ある哲学的な言説を批判するということは、代わりにより良い言説を提示するということ」
肯定するときは否定が含まれる
「哲学的な考え―例えば、「哲学的な類の種は重複する」というような―を述べるときは、そこには必ず特定の考えを狙った否定が含まれているのである」
「もし哲学において何か価値のある真実を述べたいのであれば、他者の述べたことを丁寧に分析し、それらに然るべき修正を加えていく作業を怠ってはいけない」
「他の哲学者が言ったり書いたりすることを聴いたり読んだりするとき、その人が肯定していることを理解しただけで満足してはならない。必ず、そのとき同時に相手が何を否定しているのかにも注意深く耳を傾けなければならない。」


普遍・個別みたいな話 重要性低

VI断定的な考え方としての哲学
断定的な命題(科学における仮定的な命題とは違う) 語り終えることが断定かな?
超越論的証明

VII二つの懐疑的な立場
懐疑論と分析哲学 重要性低
「主題に対する興味を共有しないということ」

VIII演繹と帰納法
演繹
「哲学的議論は原理から結論へと至る一方通行なものであってはならず、原理が結論を支え、結論がまた原理を支えるというような、転換可能な[cxxxviii]ものでなければならない。」
両方を照らし合わせる
原理=なんとなく自明に思っていることかな?
「「我思う、ゆえに我あり」[cxxviii]の原理は超越論的に演繹されている。あるいは、私たちが実際に経験していること―この場合は、筋道だててものごとを疑う、という経験―がそもそも可能となるための条件として、それが示されている」
「カントは、哲学には公理が含まれてはならず、哲学の第一原理は証明を、それも独特の証明を必要としている、と述べた。」
「ヘーゲルはカントの導きに従い、哲学には自身の出発点の妥当性を示す独特の義務がある、と述べた。」

帰納 
「哲学についての理論は、それ自体が哲学の重要な一部分だ。あるいは、この原理をどれだけ明確に把握できているかは、ある哲学の成熟度を見極める基準であるともいえるかもしれない。」

IX体系の理念
「形式の変移図」という体系
「哲学の役目は、人間の知識の百科事典となることではなく、自分に特有の問いに、特有の方法で向き合っていくことである。」
「こうした状況や問題はそれぞれ独特なものである。そのため、一人の哲学者の体系は、修正なくしては他の哲学者たちに受け容れられることがない。」

X文学の一分野としての哲学
専門用語
「歴史的文章のねらいはこの「知識の核」を表現することであり、その外にある不確かさは無視する。疑念や問題をなるべく避けて通り、確信がもてることにのみ集中する。」
歴史=知っていること=読者のため 哲学=知らないこと=自分のため
「哲学的文章の真髄は告白―精神による精神自身の過ちの探究と、それを認めることによってそれを改善しようとすること―にある」

哲学書の読み方
「哲学者たちの作品を読むとき、私たちはかれらの「後に続く」[clxxxiv]。つまり、かれらの考えたことを理解し、かれらがそう考えるに至った過程をできる限り再現しようとする」
「読み手は自分から書き手の精神に入ることで、これを追体験するべき」
「優れた読み手は、優れた聴き手がそうであるように、集中するためにまずは沈黙するものである。かれは自分の考えを割り込ませようとはせず、書き手の考えをより良く把握しようと努める。それも、受け身になるのではなく、自分の活動によって、我が道をゆくことは遠慮し、書き手の導きに従う。」
「私たち自身が考えなければならない」
「読み手はそれに加えて、書き手を批判できるようになる必要もある。」
「批評家はそのため、作品の内部から仕事をする必要がある。」
「かれがまずもってすべきなのは、何かについて書き手が限られた視点から説明したものを、書き手がそのときに見落としていた側面を挙げること」

XI結論

磁石の話

磁石にはN極とS極がある。
この二つは反対の性質を持っていて、N極はS極を引き寄せ、S極はS極を遠ざけようとする、というようN極とS極についてだけを取り出して語ることができる。
一方で、N極とS極を切り離すことはできない。棒磁石を真ん中で切ると、それぞれがN極とS極を持つ。
だから、N極とS極は別には存在できず、磁石の一部であるという言い方ができる。
N極とS極は、磁石であるということに取り込まれてしまう。
しかし、完全に取り込まれてしまう訳でもない。
確かに磁石は他の磁石を引き寄せたり、遠ざけようとしたりする。
しかし、N極やS極という描写を失ってしまったら、棒磁石のどちら側を引き寄せ、どちら側を遠ざけようとするのかを明確に表すことができなくなってしまう。
N極とS極という事柄は、磁石という事柄に、完全に取り込まれるのでもなく、完全に独立しているのでもない。

思うに、世の中の事柄は、こういう関係に満ちている。この関係を「半取り込み」と呼ぶことにする。
愛や恋、愛する貴方や憎むべき殺人犯、世界や私、そういった事柄において、この「半取り込み」は起きている。
愛も恋もあなたへの想いであり、貴方も殺人犯も人間であり、世界も私も「全て」の一部である。
しかし、愛と恋のニュアンスの違いや、殺人犯を同じ人間とは呼びたくない気持ちのように、そのようには取り込みきれないものが残る。というように。
これらの僕の語り方が正しいかどうかは別として、ここで行ったことは、N極やS極に対する磁石というように、対立する事柄に対して、より上位の事柄を持ち出すという論法の一例だ。

なお、「半取り込み」を起動する「対立する事柄に対して、より上位の事柄を持ち出す論法」の「対立」は必須ではないようにも思える。
明確な対立関係がなくても「半取り込み」は成立するからだ。
例えば、ネコと耳の関係がある。
ネコには耳がある。ネコの耳はネコの一部だ。だが耳はネコに完全に取り込まれている訳ではない。
耳から血が出ていることを伝えたいときなど、耳だけを特定して取り扱うときもある。
ここには対立関係はないが、「半取り込み」が成立しているように思える。

だが、やはり、ここでも「半取り込み」を起動するのは、「対立」構造にあると言うべきだろう。
ネコの耳に着目し、そこから血が出ていることを伝えたいとき、ネコを耳と耳以外に区分するはずだ。
ネコの目や鼻や足に対して、血が出ている耳と同等に注目するのではなく、耳だけに注目するだろう。
そこでは、ネコの目や鼻や足は、耳と同等ではなく、耳以外という地位しか与えられない。
耳に注目している状況を想定するなら、そこには、耳と耳以外という「対立」構造があるはずなのだ。
つまり、そこでは、耳以外のどこでもなく、ただ血が出ている耳に注目する、という「対立」構造を通じて、ネコの一部である耳が指し示されている。
つまり、耳と耳以外の「対立」構造を通じて「半取り込み」が行われているのだ。

更に論を進めるなら、ここで登場する耳以外という表現を「耳ではないもの」と言い換え、それを耳の否定と解釈することもできるだろう。
そうするならば、つまり耳と耳の否定との対立を通じてネコと耳との「半取り込み」が行われていると言い換えてもいいはずだ。
つまり、「半取り込み」は、あるものと、そのあるものの否定との「対立」構造により行われるのだ。
磁石におけるN極とS極の「対立」構造は、たまたま、N極の否定にS極という別の名前がついていたから、否定が「対立」構造を生むことがわかりにくくなっていただけなのだ。

否定を「ではないもの」と解釈するなら、否定できないものは世の中にはないだろう。
パソコンではないもの、ペットボトルではないもの、あなたではないもの、というように、何にでも否定を想定することができる。
いや、「全て」やそれと同等の言葉、「世界」や「宇宙」や人によっては「神」などについては、否定は考えられないかもしれない。
なぜなら「全て」を否定する「全て+ではないもの」であっても、それは、より上位の「全て」には取り込まれるからだ。
それを、「半取り込み」が空回りしていると捉えるか、無限に「半取り込み」が成立していると捉えるかは議論の余地があるだろう。
だが、少なくともそこにはある種の行き止まり感があるのは明らかではないだろうか。

よってここでは次のようにまとめることにする。
すべての事柄は、その否定との対立構造により、より上位の事柄に「半取り込み」され、最上位にある「全て」(「世界」「宇宙」「神」といったお好みの表現で置き換えることが可能)とつながっている。
または、
すべての事柄は、なんらかの事柄との上下関係のなかに位置づけられていて、世界は、完全に取り込まれるのでもなく、完全に独立しているのでもない事柄で溢れている。

なお、この「全て」を最上位とした構造は、きれいに一本の線でつながっている訳ではない。
先ほどのネコの耳の例えを使うなら、ネコの耳は、ネコの一部として考えるだけでなく、人間の耳とネコの耳の機能を比較するというように、耳だけを取り出して取り扱うこともできる。
この場合、ネコの耳の上位にはネコではなくて耳全般が位置づけられる。
ネコの耳は、人間の耳などの他の耳と対立関係により、耳全般に「半取り込み」されている。
このように、ネコの耳は場合によってはネコとつながり、また場合によっては耳全般とつながるというように、事柄は色々なかたちで色々な方向でつながる。
そして、いずれの道をたどっても、いつかは、「全て」や「世界」といった最上位の事柄につながる。
というような複雑なあり方をしている。

と、N極とS極の思いつきから考えてみたが、振り返ってみると、これはそれほど新しいアイディアではないかもしれない。
この、否定を通じて全体とつながっているという構造は、まさに言語というもののあり方のように思えるからだ。
ただ、N極やネコの耳に「注目する」という現実の振る舞いが、その言語構造と並行した重要性があるように思えることに気づけたことが、新しい収穫かもしれない。

解像度を上げる

最近、解像度を上げる、というキーワードが気になっている。
何かを大事にするとは、それを解像度を上げて捉えようとすることではないか、というように。
よく生きるとは、解像度を上げて生きるということなのではないかとさえ思える。

と言ってもなんだかわからないと思うので、僕にとって重要なものである哲学を例にしよう。
哲学とは、まさに、解像度を上げるということそのものなのではないかと思うのだ。

・・・

探求のパラドクスというものがある。既に知っていることはそれ以上探求できないし、まだ知らないものは探求しようがない、つまり、探求は不可能だ、というパラドクスだ。
「正義とは何か。」と問うことが可能なのは、既に正義について何らかを知っているからだ。それならば、既に知っているのなら、問う必要なんてないのではないか、ということになる。
このパラドクスを受け入れるならば、「正義とは何か。」と問うとき、僕たちは何をしているのだろうか。そもそも、哲学とは何をしているのだろうか。

「正義とは何か。」といった哲学的な問いへの対比として、「財布はどこにあるのか。」というような哲学的でない問いがある。
哲学的でない問いは、探求のパラドクスに陥らない。
「財布はどこにあるのか。」については、どうすれば、その問いに答えを出したことになるのかは明らかだ。
財布というものを見つけさえすれば、その答えを出したことになる、という決着のつけ方に誰も異論はないだろう。

なお「決着をつける」という言い方をしたが、「答えを出す」をそのように言い換えることには意外と深い意味があるかもしれない。
財布問題の決着のつけ方は、財布の場所を明らかにするだけには限らない。
財布を持って出るのをあきらめ、とりあえず金をむき出しでポケットに入れて慌てて外出する、という解決の仕方もあるだろう。
また、その財布は壊れていたから捨ててしまったことを思い出す場合もあるかもしれない。
いずれにせよ、これで決着がついた、と明らかにわかるのが、哲学的でない問いの特徴だ。

一方で、「正義とは何か。」といった哲学的な問いについては、決着のつけ方が簡単にはわからない。
「正義とは○○である。」というような答えらしきものが見いだされたとしても、それで本当に決着がついたのかどうかがわからない。

これこそが、探求のパラドクスが言いたかったことなのではないか。
「正義」というような哲学の対象となるような抽象的な概念については、僕たちはなんとなくしかわからない。
だから「正義とは何か。」と問いたくなるし、だけど「正義とは○○である。」と言われてもどうもピンとこない。
つまり、探求のパラドクスのとおり、知らないものは探求しようがない。
これが、哲学的な問いの難しさであり、哲学というものの難しさなのではないか。

「正義とは何か。」という問いを明確に捉えることができれば、それは、その問いの答えにたどり着いたのとほぼ同じことである。
なぜなら、それは、哲学的な問いを、「財布はどこにあるのか。」というような哲学的でない問いに変換することに成功したということなのだから。

こう考えてみると、哲学をするとは、哲学的な問題に答えようとすることではなく、その問題自体をより明確に捉えようとすることだとさえ言えるだろう。
頭に疑問が浮かんだとき、その疑問は何を疑問に思っているのか、掘り下げていくことこそが哲学なのだ。

このことについては、通常、前提を明らかにする、という言い方がされる。
「会社の経営方針をどうすればよいのか。」について考えるならば、会社の資産や人的資源の状況や、利潤最大化という資本主義の原則といったことが前提となるだろう。
また、先ほどの「財布はどこにあるのか。」問題であれば、僕が持っている財布が茶色の正方形のものであることや、財布を目視で確認できることなどが前提となるだろう。
これは、いわば、ある問いが何を前提にしているかを明らかにすることで、その問いの答えの出し方を明らかにしていくという作業だ。
これと似たことは、哲学的な問題においても行われているのではないか。
しかし、大きな違いは、哲学的な問題に対しては、前提を明示的に設定できないという点にある。

例えば「戦争は悪か。」と考えるとき、殺人は悪いということを前提に考えましょう、となってしまったら、それは哲学的な問題設定ではない。(と僕は思う。)
哲学とは、前提といったものによって制限することのできない、自由で無制約な知的活動なのだ。
(そうではない哲学もある、と考える人もいるかもしれない。その人と僕とは哲学というものに対する考え方が違うということだから、そのような方がいたら、僕のような考え方もあると思って続きを読んでいただくか、読むのをやめていただくしかない。)

なお、僕はどんな場合でも決して前提を設けるべきでない、と言いたい訳ではない。
前提というかたちで制約を加えることには大きな意義がある。
無制約な問題を制約することにより、その問題は扱いやすくなるのだから。
世界という言葉を、全てとか全体というような特別な意味で使うならば、前提を設けることで、世界を切り取り、扱いやすいサイズに加工できるのだ。
これが、哲学的でない問題の特徴であり、哲学的でない問題であれば決着がつくということである。
だが、どうしても前提を設け、切り取り、扱いやすいサイズに加工できない問題がある。そうしたいのに、そうできない問題がある。
それが哲学の問題だ。

どのような前提を拒否し、何を前提なしの哲学の問題として扱うかは人によって違うだろう。
ある人は、殺人は悪いことだ、という前提を受け入れるだろうし、またある人は、世界は時空的なあり方で存在している、という前提を受け入れている。
多分僕も、何らかの前提を受け入れて生きている。
僕は疑り深い性格だから、人より前提が少ないとは思うけれど、何らかの前提のうえで生きている。
ただ、多くの人が、殺人は悪いことや、世界が時空的なあり方をしていることを単なる前提とされることに違和感があるように、
僕は僕の前提が単なる前提と認めたくはないだろう。だから、僕自身では僕が何を前提としているのかわからない。
僕の哲学においても何かを前提としているのだろうが、その何かを明示することはできない。それが哲学の特徴だ。

なお、前提を設けて世界を切り取ると言ったが、哲学と非哲学の答えやすさの違いは、世界を切り取ることによるサイズの違いだけの問題ではない。
哲学の問題の難しさのかなりの部分は、その自己言及性にある。
哲学は世界を切り取ることを許さない。それは、つまり、問う本人自身や、問う営み自体も、その問われるべき世界に属するということを意味する。
哲学的な問いを行う主体と問われる客体はつながっており、そして、問うという営み自体も問われなければならないのだ。
哲学には、安全地帯もないし、確たる足場もない。いわば、自らの足場をスコップで掘り返そうとするような作業だ。

それならば、哲学的な問題に対処するとは、どういうことなのか。
それは、非哲学的な問題への対処の仕方とは全く違うものとなる。
非哲学的な問題であれば、問題がある地点から、その問題が決着がついた地点まで、いわば「移行」すればよい。
財布がない状況から、財布がみつかった状況や、財布がそもそも見つかる訳がないと気づく状況や、財布を買い直す状況や、財布を諦める状況に移行すればよい。
一方で哲学的な問題では、そのような「移行」はできない。
そのような移行先が見つかるということは、その前提としているものに気づくということであり、哲学の問題ではなくなるということなのだから。
だから哲学においては、ひたすら閉じられた場(正確には閉じられたとも気づかない場)のなかで自己言及的に、どこまでも問題の内部で問題に対処し続けなければならない。
そこでできることは、ひたすら精緻に考え、その問題の捉え方の解像度を上げることでしかない。
それこそが、哲学的な問題への対処の仕方なのだ。

なお、これは諦めのようなものではない。哲学的な問題に対して精緻に取り組むことで、具体的な前進は可能だ。
例えば「正義とは何か。」という問題を哲学的に考えるとしよう。
考えるうちに、「人から物を盗むことは悪なのか。」と考え、「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」という疑問に至ったとする。
そのとき、「正義とは何か。」という問題に答えは出ていないし、「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」についても完全な答えは見つかっていないと感じているだろう。
それでも、このような考察を経て、議論が深まり、「正義とは何か。」という問題が、より鮮やかにとらえられたのは確かだ。
なぜなら、「正義とは何か。」を考えるうえでは「飢えた子供のためにパンを盗むことは正しいのか。」という問題を考えることが重要だ、ということに気付いたのだから。
これは哲学における重要な前進だと言って良いだろう。

このようにして解像度を上げるというやり方こそが、哲学のやり方だ。
哲学とは自己言及的で出口がなくて息苦しい営みのように感じることも多い。
その場で足踏みを続けるような、無駄な悪あがきなのではないかとも思えてくる。
世のアカデミックな哲学は、傍目から見たらどんな成果を上げてきたのかわからないだろう。
だが、それは、非哲学的なものさしで哲学を捉えようとするからなのだ。
哲学には哲学のやり方がある。
解像度を上げるというやり方により、これまでも哲学は前進してきたし、今後も前進できるのだ。

・・・

実は、解像度を上げる、というやり方は、非哲学的な場面でも役立っている。
先ほど説明したとおり、非哲学的な問題は、問題がある地点から問題に決着がついた地点への移行に例えられる。
財布がない状況から、財布がみつかった状況に移行できればよい。
ここでは確かに解像度を上げる必要はないように思える。
しかし実は財布がないことを明らかにするためには、その状況を解像度を上げて把握しなければならない。
出発点としての問題がある状況を把握し、確認するためには、一定程度、解像度を上げて状況把握することが必要なのだ。
財布がないかもしれないと気付いたとき、ひととおり周囲を見渡したり、バッグの中を探ったりするだろう。
これは解像度を上げて状況を確認したうえで財布がないと判断するということだ。
また「会社の経営方針をどうすればよいのか。」という非哲学的な問題について考えるためには、ライバル会社の動向や自社の資産の状況などを把握しなければならない。
どの程度調べるかは、ケースバイケースだろうが、ある程度解像度を上げて問題を捉えようとしなければ、対処のしようがない。
このように非哲学的な問題であっても、解像度を上げることは重要なのだ。
ただ、非哲学的な問題であれば、決着がついた地点への移行というもう一つの対処法があるから、その場に応じたちょうどいいバランスで二つを併用すればよい。
一方で、哲学的な問題の場合には、解像度を上げる他に選択肢がない、という違いがあるだけだ。

少々話は脱線するが、だから、哲学を学ぶことは非哲学的な場面でも役立つと言えるかもしれない。
解像度を上げること、それだけをこれほど学ぶ場は哲学以外にはないに違いない。
例えば、解像度を上げることの一側面は論理的思考とも捉えられるだろうが、論理的思考それ自体を学ぶことができる場面は少ない。
そのような意味で、哲学には教育的な存在意義があるという言い方もできそうだ。

最後に瞑想について。
瞑想も解像度を上げることにつながるのではないかと思う。
あまり詳しくないけど、瞑想は「今ここ」を重視する。
これは、過去、未来ではなく現在に焦点をあて、他の誰かではなく、自分自身に焦点をあてるということだ。
しかし、それは、過去や未来や他者を切り捨てるということではない。
時間的にも空間的にも、すべての広がりが「今ここ」のなかにとりこまれていると理解することを伴う。
このような考え方には、いくつかのバリエーションがあるが、ある考え方によるなら、
過去を思い出すのは現在においてであり、他者の感情を理解するのは自分においてである、というような話だ。
このような話に賛同できるかどうかは別として、このような道筋に対しては、先ほど哲学に感じた、出口のない息苦しさと同じものを感じるのではないか。
この息苦しさを打ち破るものとして「今ここ」を解像度を上げて捉えようとするものとしての瞑想があるのではないかと僕は思う。
これは、哲学における解像度を上げた思考とは別物かもしれないけれど、結構近いところにあるような気がする。

高齢化問題

今、日本では高齢化により年金制度が破綻するのではないかと問題になっている。
この文章では、高齢化問題を哲学と絡めて考えてみたいと思う。

そもそも高齢化はなぜ進むのか。
科学技術の発達とか、人権意識の向上とか、いくつかの理由があるだろうが、より根源的な理由としては、みんなに長生きしたいという希望があるからだろう。
みんな長生きしたいから医療が発達し、寿命が延びる。だから、高齢化する。
みんなの長生きしたいという思いが高齢化につながっている。
それだけの問題ではないが、そういう一面があるのは確かだろう。

では、なぜ長生きをしたいのか。
ひとつの動機としては、具体的にやりたいことが何かあり、その何かをやるために時間が必要ということがあるだろう。
革命を成し遂げるために時間が欲しいとか、子供が成人するまでは子供の世話をしたいとか、孫の成人式を見たいとか、そういうことだ。
そのような具体的な何かのために長生きしたいというのは、その内容の是非はともかくとして理解できる。
だが、ここでは、そのような具体的な動機とは別に、なんとなく長生きしたい、という漠然とした思いを問題としたい。
具体的な何かのためではなく、とにかく長く生きたい、というのはどういうことなのか。

僕は、これは単なる死の先送りなのではないかと睨んでいる。
生きたいのではなく、死を避けたいのだ。

考えてみると「生きる」というのは何をしているかよくわからない。
革命を起こすとか、子供の世話をするとか、孫の成人式を見るとか、そういう具体的な何かをするではなく、その前提として普遍的にある「生きる」をするとはどういうことなのか。
この疑問は「人生とは何か。」という問いに言い換えてもよいだろう。これは哲学的な大問題だ。
この問いへの答えがないから、人は死を避けたいのではないか。
もし「人生とは○○である。」と断言できるならば、その○○が達成されれば、いつでも死んでもいいはずなのだから。

特にやりたいことはなくても苦しいから死ぬのは嫌だ。それでいいではないか。という反論もあるだろう。
だが、そうだとすると、それこそが人生の定義となる。
それならば、その反論を「人生とは○○である。」の○○に入れ込まなければならない。「人生とは苦しみを避けることである。」というように。
そして、この定義はどのような場合でもあてはまるべきものでなければならない。少なくとも、他にありえる定義と併記して両立しなければならない。
「人生とは苦しみを避けることである。」という主張は一見当たり前のようだが、普遍的に適用しようとすると色々な問題が出てくる。
例えば、ある解釈をとるならば、苦しみを避けるならば、死刑や懲役刑のような苦痛を与える刑事罰は許されないということになるかもしれない。
(ここでは、「(普遍的な)人生とは(それぞれの個人の)苦しみを避けることである。」というような解釈をしたが、「(私の)人生とは(私の)苦しみを避けることである。」というような解釈をしても似たような問題は生じるだろう。)
これはあくまでも原則であって、細かい適用は具体的な状況に応じて判断するべき、としたくなるかもしれないが、これは人生の定義なのだから、それはどこまでも定義のなかに書き込まなければならない。

回りくどい説明となってしまったが、ここで伝えたかったことは、人生について、普遍的に誰もが納得するようなかたちで「人生とは○○である。」と定義することは、かなりの困難があるということだ。
「人生とは何か。」とは、これまで、どんな哲学者も答えることができていない問いなのだ。
答えたつもりになっている哲学者もいるだろうが、残念ながら、その確信は反論され反駁されてしまっている。

それでは宗教はどうか。
多分、ほとんどの宗教は、「人生とは何か。」という問いに答えた気になっている。というか、この問いに答えていることこそが宗教の条件のひとつだろう。
だから、現実的な第一の選択肢としては、宗教を信じてそこに答えを見つけるというやり方がありうる。
だが、それで満たされる人はいいけれど、残念ながら、現在は、宗教が信じられにくい時代だがら、なかなか宗教は通用しにくくなってきている。
また、残念ながら僕に対しては宗教の企ては成功していない。
当然、成功していると言う人もいるのはわかるが(そのような人がいるからこそ宗教なのだろうが)少なくともその成功は僕のもとには到達していない。

第二の選択肢としては、宗教に替わって信じられるようになってきている自然科学があるだろう(僕も信じるなんて言葉を使いたくないほど信じている)。
だが、自然科学が教えてくれる答えは、現在のところ、人生とは遺伝子の乗り物として生きることである、というようなもので、あまりワクワクしない。
これが「人生とは何か。」の答えだとはあまり思えない。

ということで、ほとんどの人は、答えなどないとあきらめるしかなくなる。
「自然科学が教えてくれるつまらない答えを握りしめつつ、これ以上の答えはないとあきらめつつ、でもどこかで、どこかで見聞きした宗教的な妄想を忘れられずにいる。」
これが、僕も含めた多くの人にとっての「人生とは何か。」という問いに対する対処の仕方なのではないか。

これでは安心して死ねない。だから死を避けたい。この問題を直視したくないから、先送りしたくなる。
これが高齢化問題の本質なのだろう。

更に、高齢化のどこが問題なのか考えてみると、高齢者を生かすために周囲が色々と負担しなければならないのも問題だが、まだ望みがある。
金さえあればなんとかなるのだから。(まあ、それが難しいのだが。)
より大きな問題は、いくら長生きしても、いつか人は死ぬということだ。
「人生とは何か。」の答えがないまま、逆に言えば「死とは何か。」の答えがないまま、人は死んでいく。
自然科学的なつまらない人生の意義と、宗教的な妄想と、あきらめを握りしめて死んでいく。
歳をとり、周囲に負担を色々とかけたうえで、結局は何も得ることができずに死んでいく。
これは、まさに人生の大問題だ。

この高齢化問題を根本から解決するためには、残念だけど「人生とは何か。」という誰も解いたことのない問題に向き合わなければならない。
それも、誰か頭のいい哲学者や宗教者や科学者といった誰かに押し付ければいい話ではない。
なぜなら、生きて死ぬその本人が納得する答えでなければならないのだから。
誰かが見つけた答えでは、これまでの宗教と同じことになってしまう。
そんなことで体に合わない既製服を無理やり着せられたまま、死に向かい合わなくてはならなくなる。
多くの宗教を信じきれない人たちは、それができなくて苦労しているのに。

それならば自分で考えるしかない。
一から自分ひとりで考えなくてもいいかもしれないが、既存のアイディアを組み合わせたり、誰かから聞き取ったアイディアを借用したりして、「人生とは何か。」について、自分が納得できる答えを探さなければならない。
少なくとも既存のアイディアのどれかを自分で考えて選び取らなければならない。
それは、まさに哲学するということだ。

これは、大変困難な道だろう。
一方で悲観はしていない。
なぜなら、まず第一に、これは自分だけが納得できればよいからだ。
先ほど哲学者が成し遂げられていないとしたのは、誰もが納得できる普遍的な答えを見つけることだ。
自分だけが納得できればよいなら難易度は低くなる。
ただ、誰かからの批判や反論には耐えなければならないし、また、誰かからの批判や反論がありうるものを真実だと思い続けることに耐えなければならない。
(僕にとっては後者のほうが困難な気がする。)

悲観しない二つ目の理由としては、僕にとっては、哲学をして、道を探し続けることこそが、当面の「人生とは何か。」という問いの答えのように思えるからだ。
これが本当の答えだと安住はできないけれど、少なくとも、もがき、体を動かし続ける限り、体は水面に浮いていられる。

いずれにせよ、自ら哲学することが重要という線で考えるならば、宗教的な確信がある場合を除いては、哲学をする人だけが人生を生きる価値がある、と考える方向につながるだろう。
宗教を信じず哲学的なことも考えていないような人は、人生というものを捉えられていないのだから生きる資格がない、ということになりうる。
もしそうならば、高齢化問題はかなり解決するだろう。
労働などを通じて社会に貢献できなくなったら、そういう人は死ねばいいのだから。
これは、ある種の選民思想と言ってもよい。

だが、それは誤りだろう。
なぜなら、逆説的には、宗教を信じず、かつ、全く哲学的なことも考えない人こそが「人生とは何か。」を知っているとも言えるからだ。
そのような人にとっての人生とは、日々を生きることなのだろう。
本当にそれでいいのか、などと疑わず、ただ生きている。
若くて元気に過ごしたり、年老いて病気になって苦しんだり、延命治療を受けたり、拒否したりしつつ、ただ生きている。
そのような人の人生について、生きる価値があるとか、ないとか、外野から評価することはできない。

問題となるのは、僕も含めた、そこまで割り切れない多くの人たちだろう。
僕たちは悩んでいるからこそ、人生というものを捉えきれずにいる。人生を見失っているとさえ言ってもよい。
その悩みを直視せずに漫然と生きることこそが、全力で生きていないということなのではないか。
そのような人には高齢化により周囲に負担をかけてまで生きる資格がないのではないか。
負担をかけるならば、全力で生きなければ申し訳が立たないのではないか。

「人生とは何か。」という問題に気付いたならば全力で答えを見つけようとしなければ生きる資格はない。
その努力の過程で、自ずから自らの生き時、死に時は見えてくるはずではないか。
これが高齢化問題についての僕の主張だ。

最後に、蛇足となるが、死ぬのを先延ばしにすることには現実的な効用があるという話をしておきたい。
死ぬのを先延ばしにするということは、歳をとるということでもある。
歳をとると、思考するうえで求められる基礎体力のようなものが衰えてきて、色々なものがどうでもよくなってくる。
ひらめきの鋭さのようなものは衰えなくても、切実なこととして物事を考えることができなくなってくる。
色々なことがどうでもよくなってきて、「人生とは何か。」など、どうでもよくなってくる。
先ほど挙げた、「人生とは何か。」など考えたことがない人にだんだん近づいてくる。
そうすれば死ぬのが嫌だとか、生きていたいなどと考えず、ただ毎日を生きることができるようになる。
このような方向で問題解決とまではいかなくても、解決に近づくこともできる。
これが死ぬのを先送りし、高齢化することの効用ともいえる。

ただ、これは、あまりにも自己中心的なやり方だろう。
真剣に考えるという道を選択せず、周囲に迷惑をかけつつ、時の流れに乗り、心を摩耗させることにより問題解決を図るというのは褒められるものではない。
このような受け身の解決方法をとらざるを得ないことは、ある側面では確かにやむを得ないとしても、それを当然とするのはどこか間違えている。
そのような人に対しては、周囲の人たちがそこまで負担できないということを明確にすべきではないか。

以上、高齢化問題の解決方法として、人生に正面から向き合わない人への福祉の削減を提案することで、この文章を終える。

哲学と教育の幸せなハネムーン

この文章は、土屋陽介氏の論文「子どもの哲学と理性的思考者の教育 ―知的徳の教育の観点から―」のうち、第3章と第4章を中心に読んだ後に書いたものですが、感想というほどの関連はなく、インスピレーションを受けて書いた、と言ったほうがいいものです。

・・・

1 僕にとっての論文の意義:認識論の徳論的転回

この論文では、徳認識論というアイディアについて、「知的徳」という観点からわかりやすくまとめられている。
そして、わかりやすいだけでなく、僕の問題意識に対しても刺激となるものだった。
僕が自身に引きつけて考えることができた手がかりは「認識論の徳論的転回」という言葉にあ

「ザグゼブスキの、目的は、「徳倫理学をモデルにした「認識者」を基本概念とする新しい認識理論の構築」という壮大なものであった。いわば「認識論の徳論的転回」とでも名づけられるようなこのような問題意識」(p.65)という箇所だ。

そうか、認識論については、個々の「認識や行為」といった場面が問題となっていたけれど、徳論においては、その行為などが帰属する「人」が問題となるということか。ここに視点の逆転があるのか、と腑に落ちた。

ざっくりと言えば、こういうことになるだろう。

「個々の場面における真や善について認識論的に分析することでは、個別に現れる真や善のそもそものありかを把握することはできない。その真と善のありかを指し示そうとするならば、(外在主義的に)それに携わる「人」の能力や性質、つまり徳とでもいうべきものと想定しなければならない。」

正直言って、ギリシャ哲学などで徳と言われても、どこかピンとこなかったが、こう言われると、徳も大事かもしれないと思えた。その意味でこの論文は意義深いと感じた。

2 論文の半歩外へ:徳と認識の相補関係

この論文を刺激として僕なりに思いついたことをふまえ、僕はここで、この論文においてなされた議論を半歩先に進めたい。なぜ半歩かと言えば、この論文の中で、そのことは暗示されていると思うからだ。
僕が思いついたこととはこういうことだ。

徳とは、あくまで認識と相補関係にあるものなのではないか。

徳とは、いわば、潜在する真・善である。つまり、徳を構成する能力や性質といったものは、常に潜在していて、必要とされる場面を待っている。そして必要となれば、真なる認識や善なる行為として発現する。
一方で、認識論的に把握し、個別に分析可能な真や善とは、顕在する真・善である。具体的な認識や行為として顕在化しているからこそ、具体的な分析の対象とすることができる。
このように考えれば、潜在する真・善と、顕在する真・善が相補的であるということは明らかだろう。
別の言葉で言い換えるならば、顕在した個別の認識・行為がどうして真・善とされるのかと言えば、それは、潜在している真・善としての徳に基礎づけられているからである。
また、潜在する徳がどうして真・善とされるのかと言えば、それは、潜在の発現としての個別の認識・行為が分析され、真・善なるものとして明らかにされるからである。
(よって、一般的な真理貢献性のようなものを措定するのは誤りであり、あくまで現に個々の場面で真理に貢献したことが明らかになるだけであると考える。)

では、この循環により、認識論と徳論はともに無意味なものとなってしまうのだろうか。
僕はそうはならないと考える。この相補関係が明らかになることにより、真・善についての理解が深まったのだから。それは、弁証法的な前進だと言ってもよいだろう。
真・善は、認識論と徳論を循環するようなあり方をしているのである。

3 論文の一歩外へ:徳・認識と対話の相補関係

3-1 問題意識

ここで僕は、調子に乗って、この議論を更に半歩進めたい。これは、この論文が行った議論を完全に一歩外れ、僕独自の議論を行うということである。
つまり、これは、この論文を乗っ取って、僕がこれまで行ってきた僕の哲学の続きを語るために使わせてもらうということでもある。
だから、ここからは、この論文からの単なる脱線だ。
だが僕の哲学とは、哲学と対話の関係性を重視するものだ。そして、この論文が「知的徳」と哲学対話をめぐるものであることを踏まえると、無意味な脱線とはならないと信じたい。

この論文において、徳をめぐる議論を通じて明らかにされた「知的徳」は、子どもに対して、哲学対話を用いた教育により身につけさせることができると論じられている。
それは、哲学的な観点から明確化された「知的徳」を身につけるためには哲学対話が有効だということを教育学的、心理学的な観点から検証するという議論の流れである。
そこでは、アリストテレス等の見解も用いて、哲学的な観点も触れられているが、それはあくまで補強としての議論である。よって、この論文によって、哲学的に「知的徳」と哲学対話の関係性が確認された、とまで位置づけることはできないだろう。

確かに述べられる限りのことについては誤りではない。特に具体的な実験により心理学的に明らかにされたことは興味深い。だが、哲学好きな僕の視点からは物足りないと感じる。僕は、哲学対話が役立つということについて、教育学的、心理学的な観点からだけではなく、哲学的な観点からの必然性のようなものを見出したくなる。

3-2 僕のアイディア

3-2-1 概要

この問題に対する僕のアイディアを述べることにする。

この議論には、裏方向から語られるべきもうひとつの議論があり、二つの相補的な議論として弁証法的に進められるべきものなのではないか。
いわば、この論文は、「知的徳」という目的と哲学対話という手段としての両者の関係性という方向で考えていると言える。だがそれだけではなく、まず、哲学対話があり、その実践により必然的に身につけることができるものが「知的徳」である、という方向性で考えるというもう一つの道があるのではないか。
この論文が挙げる「知的徳」の要素、つまり「人格の卓越性」「知識を求める動機」「信頼できる成功」といったものは、特に教育的な配慮などしなくても、ただ哲学対話を行うことにより、それだけで自ずと身につけることができるものなのではないか。

このアイディアの背景を説明するためには、まず、僕が対話というものをどのように考えているか説明する必要があるだろう。

僕は、いわゆる哲学対話に留まらず、一人での自問自答としての思考も含めた全ての知的行為は広義の「対話」であると考えている。
それはどういうことか、若干不正確になるが簡単にニュアンスだけ説明しよう。

「全ての思考は言語で行われるとするならば、他者と言葉を交わして行う狭義の対話と、一人で行う思考とでは何ら変わるところはない。そして、全ての思考や対話は、哲学書のように文章で言語的に書き残すことがきるのだから、全ての知的行為は広義の「対話」である。」

というような言語活動的な側面で捉えようとする道筋だ。
(この話は、もっと説明が必要だと思うが、そうするとこの論文と関係ない方向に脱線が申告になりそうなので、話を先に進めることにする。)

そして、この広義の対話の内容には、真や善といった価値判断は及ばないと僕は考えている。どのような対話をしても、そこには真や善だけでなく偽や悪もない。だから、「世界一高い山は富士山だ。」と言っても、(この論文で挙げられているように)「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」と言っても、それは間違えていないし、悪いことでもない。ましてや正しくもないし、良いことでもない。

このような言明が何か価値判断に関係すると感じるのは、それは対話の外に出ているからだ。「世界一高い山は富士山だ。」が誤りだと感じるのは、それは、言語活動としての対話の内容とは無関係に、現実の富士山のことを勝手に考え、それとの対応関係を勝手に設定するというようなことを勝手にやっているからに違いない。僕は対話について「世界一高い山は富士山だ。」という言葉から離れることなく捉えたい。僕は普段、一緒くたにしてしまっているものを、解像度を上げて捉え直し、対話とそれ以外のものの間に楔を打ち込みたい。

では、対話の対話たる部分を純粋抽出して捉えるという方向性に同意いただいたとして、何が対話における真や善なのかと問われれば、それは「対話を続けること」であると答えたい。一方で、対話における偽や悪とは何か、の答えは「対話を終えること」となる。

3-2-2 対話を続けること

このような考えは非常識であり受け入れがたいかもしれない。しかし、具体的な状況を思い浮かべるならば、それほど違和感はないだろう。
「世界一高い山は富士山だ。」と僕が言ったとする。
それに対してあなたが「富士山は日本一高い山だよ。」と答える。
僕は「え、世界って日本のことじゃないの?」と驚く。
あなたは「日本の外にも別の国があって世界は広がっているんだよ。」と教える。
僕は「日本の外の国も世界に含めるならば、世界にはもっと高い山があるんだね。」と納得する。
話を長引かせないために少々強引な例になってしまったが、なんとなくニュアンスは伝わったのではないだろうか。

僕の「世界一高い山は富士山だ。」という発言は、それ単体で捉えるならば誤りのように見える。しかし、僕はあなたの意見を聞く態度を持っており、あなたの意見を受け入れ、発言を訂正する余地を有している。だから、対話が続けられ、意見は訂正されることとなる。
「世界一高い山は富士山だ。」という発言は、そこだけ切り取って評価されるべきものではなく、あくまでひとつながりの対話のなかで捉えられるべきものなのだ。「世界一高い山は富士山だ。」が誤りであるという常識的な感覚は、それは、そこで対話が終わったとしたら、という仮定付きの特殊条件下での評価なのだ。
以上のような意味で、個々の発言は真でも偽でもなく、対話を続けるという態度だけが真への道である。このように考えれば、多少は僕のアイディアも受け入れやすくなるのではないか。

なお、善や悪についても同じだが、同じ説明をより冗長に繰り返すことになるだけなので、説明は省略する。

3-2-3 対話を終えること

ここまでの僕のアイディアを受け入れ、対話を続けることの重要性は認めるとしても、対話を終えることが一概に偽や悪につながるものではないと感じるかもしれない。

「世界一高い山は富士山だ。」から始める対話は「世界一高い山はエベレストだ。」で終わることに何の問題もないのではないか。
(ここからは、僕の懐疑論的傾向が全開になってくるので全員から同意は得られないかもしれないが、僕にとって自然と感じられる議論を進めていく。)

疑り深い僕は問いたい。
「世界一高い山はエベレストだ。」というのは本当だろうか。
世界にはまだ発見されていない山があるかもしれないし、エベレストの高さを測ったときの測量が間違っていたかもしれない。チョモランマやサガルマータでなければ間違いかもしれない。世界という語を地球上に限定せず、火星の山なども含めるという解釈もあるかもしれない。または、僕は全能の悪霊に騙されているかもしれず、僕は世界を正しく認識できていないかもしれない。
このように疑問を投げかける余地はいくらでもある。それでも通常の状況で発せられるだろう疑問の数は有限かもしれないが、最後に例として挙げたデカルト的な懐疑も含め、思考実験のような方向性も認めるならば、疑問は尽きないと言ってもよいだろう。

以上を認めるならば、対話を終えることは、このような重箱の隅をつつくような疑問であっても、その疑問が生じる余地を無視するということである。
つまりこれは考慮すべきことを考慮していないということであり、対話を終えることは誤りにつながる。
「世界一高い山はエベレストだ。」で対話を終えてしまうということは、未発見の山の可能性や、測量技術や、山の呼称や、世界の定義や、デカルトの方法的懐疑といった新たな知に触れる機会が永遠に失われるということであり、それはより大きな知への絶対的な不到達を意味する。これは、絶対的な偽である。

ここまでの主張を強すぎると感じるかもしれない。しかし、ここでの対話とは、僕の定義では広義の対話であり、自問自答も含めた知的行為全般であることを思い出してほしい。
そして、この知的行為としての対話は、切れ目なく人の人生の全てを覆うものであるはずだ。人生とはひとつながりの対話であると言ってもよい。後出しジャンケンのようで申し訳ないけれど、僕はそう考えている。
なぜなら、知的行為としての対話に切れ目があるということは、それは知識が完全に分断されているということを意味するからだ。一見すると、人生の場面ごとに、二人以上で行う狭義の対話や一人で行う思考は終わったように見えるかもしれない。しかし、僕は、後日、同じ言葉を使って思考を続けることができる。「ネコはモフモフしていてかわいい。」ということを考えた数日後、「だけどネコは毛が抜けて掃除が大変だ。」ということを考えることができる。このように狭義の対話や思考が続けられるなら、それは、広義の知的行為としての対話は継続されているということなのだ。
そうでなければ、「ネコ」はいつでも「ネコ」を意味するというように、ひとつの言語が一連の思考の基盤にあるということの説明がつかない。

このようにして、言語というもののそもそものあり方を踏まえるならば、対話においては、対話を続けることが真・善であり、対話を終えることが偽・悪である、という価値判断が成立するはずなのだ。
(このあたりは異論も多そうだが、反論は別の機会として、話を先に進めることとする。)

3-3 対話と「知的徳」の関係

さて、長々と僕の哲学的アイディアを説明してきたのは、対話と「知的徳」の哲学的な関係を明らかにするためであった。

この論文によれば、「知的徳」の要素は「人格の卓越性」「知識を求める動機」「信頼できる成功」であるとされる。

まず、このうち「知識を求める動機」については、僕のここまでの対話の話に対応させるなら、「対話を続ける動機」と対応することは明らかだろう。たとえ、世界一高い山をエベレストと思い込むような拙い考えを出発点としていても、相手の発言に耳を傾け、相手のアイディアを自らの内に取り込もうとする姿勢があれば、いつかは知識に近づくことができる。そのような姿勢こそが、「知的徳」としての本当の「動機」なのではないだろうか。

また、「人格の卓越性」については、対話の成果に結びつけて考えることができるだろう。
僕は対話を終えるということに特別な意味を持たせているので注意が必要だが、対話のある時点での成果を中間的な成果物として切り出し、評価することは可能だと思う。
そうしたとき、対話する前と対話した後では、僕の人格は変化しているだろう。
それは、対話の内容というより、対話を現に行ったということによるように思う。僕の思考の内容がどうこうというより、現にある一定の時間、対話に従事したという実績こそが僕の人格に反映されているのは確かだと思うのだ。
そのような意味で、この論文でモンマルケの性格特性として挙げられているような人格の要素「公明正大さ」「知的な冷静さ」「知的な勇気」(p.60)といったものは、まさに、具体的な対話の場において、現にとった態度であるはずだろう。
なぜなら、そのような態度がなければ、対話は成立しないからだ。他者の意見を「公明正大」に耳を傾け、「冷静」になって対話を打ち切らず、「勇気」を持って自分の意見を主張する、ということは対話が対話であるために必要な条件に違いない。
そして、そのような態度を現にとり、対話を行ったということは、僕は「人格の卓越性」をいかんなく発揮したということなのだ。

「信頼できる成功」についても、現に対話を行ったということにつながるだろう。
対話を行うということは、対話を始める前に持っていた視点とは別の視点に出会うということでもある。新たな視点に出会うことで、最終的な真理(そのようなものがあるとすれば)にたどり着けたかどうかは別として、真理に向けた方向に一歩進んだ(または誤りから一歩離れることができた)ことは確かであるに違いない。
そして、実際の対話を通じて、一歩前進するという成功を成し遂げたということは、成果と呼べるだろう。そして、そのような成果を何度も積み重ねることができたなら、その奥に、「知的徳」とでも呼びたくなるような潜在的な性質を見出したと感じることになるだろう。

以上のような意味で、対話と「知的徳」は深い関係にある。
まとめると、対話において唯一必要なのは、僕の言葉で表すならば「対話を続けること」であり、それは徳論的には「知識を求める動機」と言い換えることができる。
そして、あくまで、その結果として「人格の卓越性」や「信頼できる成功」といったものがついてくるのだ。

以上、対話から「知的徳」に至る道筋を明らかにした。これは、対話というものを存在論的に認め、前提としたうえで、そこから「知的徳」に至る道筋だったと言ってもよい。
より正確には、その道筋の目的地は、先ほど徳論と認識論の相補関係としたものであったと言うべきだろう。更には、徳論と認識論の相補関係とは、つまりは個々の認識と、認識を成立させる人格の関係であるのだから、それは、つまり、対話という存在論から認識論に道筋であったと言うべきだろう。これが、僕がここまで描いてきた道筋だ。

よって一方では、認識論から存在論に進む道も認めなければならないが、それは、まさに、この論文が行っていることである。具体的な対話の状況を認識し、観察したうえで、それを証拠に対話というものの存在のあり方を描き出そうとする取り組みとして、この論文は極めて真っ当なことをしていると評価したい。(認識論から存在論に進む道とは、つまりは科学的道筋のことだから、僕個人の哲学的興味とは異なるけれど。)
そして、ここでも、二つの道筋があるということは相補的であり、弁証法的な前進なのだ。

中間的にまとめておこう。
まず最初に、この論文をふまえ、個々の認識や行為として捉える「いわゆる認識論」的な道筋と、「知的徳」というかたちで人格的に捉える「徳論」的な道筋は、相補的関係にあり、弁証論的に両者をとりこんだ「広義の認識論」とでも言うべきものを生み出した。これが、この論文の半歩先として読み込んだものである。
そして、それとは別に、ここまで長々と僕独自のアイディアとして紹介した対話の道筋がある。ここでは述べられなかったことも多いのでどこまで賛同いただけるかはわからないが、もし認めてもらえるならば、それ対話を存在論的に捉えるものということで「存在論」的道筋と呼ぶこととする。
この「存在論」は、さきほどの「いわゆる認識論」と「徳論」の弁証法的成果である「広義の認識論」に対して相補関係に位置づけられる。そして、更にこの両者は互いに巻き込まれつつ、弁証法的に更に一歩先に進んでいく。
この二段階の弁証法的前進こそが、この文章で最も僕が語りたかったことだ。

3-4 半分語り終えること

ここまでで、僕の大枠は語り終えたのだが、ひとつあやふやなままにしてきてしまったことがある。
それは「語り終える」ということだ。ここまで僕は、広義の知的活動としての対話は人生を通じて行われるものであるとしてきた。つまり、死ぬまで語り終えることはありえない。
一方で、対話の成果のようなもの持ち出し、語り終えた視点から、対話を振り返ることも可能であるように論じてきた。
これは矛盾ではないのか。

ここで「半分語り終える」という概念を導入したい。
僕は、語り終えるとは、知的活動を終え、現実世界にバトンタッチすることだと考えている。
「世界一高い山は富士山だ。」や「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」が誤りとなるのは、それは、そのような言葉に基づいて、現実の行動がなされるからだ。
地理の先生の「世界一高い山は富士山だ。」という発言で対話が終わり、先生がテストの採点を始めたなら、それは誤りとなる。
ヒトラーの「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」という発言で対話が終わり、ヒトラーがアウシュビッツを建設させたなら、それは誤りとなる。
それは明らかに「語り終える」ということの誤りである。
しかし、もし、生徒が「先生、この採点間違えているよ。」と言葉を発し、先生が誤りに気づいたなら、その誤りは訂正されうる。ヒトラーがホロコーストの途上で信念を変えたなら、その誤りは訂正されうる。
原理的には、地理の先生が定年後に誤りに気付いたとしても、ヒトラーがベルリンで自殺する瞬間に誤りに気付いたとしても、対話というものを最も広義にとるならば、人生という対話においては、気付きにより、誤りは誤りではなくなる。

以上は、対話というものを幅広く、人生全体としても捉えられるという方向で解釈した例だが、逆に狭く捉える方向で考えることもできる。
例えば、現代のドイツにおいてユダヤ人に対して「ある人種は、自分たちの人種に比べて劣っている。」と発言したら、そのユダヤ人は怒りを感じたり、傷ついたりするだろう。たとえ両者が対等な立場にあり、ユダヤ人が反論し、対話が継続され、最終的には両者で妥当な結論に達したとしても、その怒りや悲しみがなかったことにはならない。
対話というものを狭く解釈するなら、対話は現に現実世界に影響を及ぼし、現実の怒りや悲しみといったものを生み出したことになる。
そのように考えるならば、一言を発したとたんに、その対話は語り終えられたと言ってもよいだろう。

このように、対話を語り終えるということには、複層的な意味合いがあると思っている。
対話というものを最も狭くとるならば、一言ごとに対話は終えられ、都度、知的活動は現実世界に接続している。最も広くとるならば、人生がひとつの対話である。そして当然、その中間には、カフェを出て友達と別れるとともに対話(会話)が終わったり、夜ベッドに入り色々と考えていたけれど寝るとともに対話(思考)が終わったり、というような、常識的な使い方での対話の終わりもある。
そのように考えるならば、広義の対話とは、常に、終わってはいないし、終わってもいるというあり方をしているのだ。
これを僕は「半分語り終える」と表現することにする。

4 対話と教育

4-1 現実における対話の限界

対話は「半分語り終える」というかたちで、対話と相対するものである現実と接続する。
この対話と接続されるものである現実については、色々な視点から捉えることができるが、この論文では、それを「教育」という面で捉えている。
僕は、対話という知的活動と鋭く対立するものとして現実を捉えているが、この論文では、その現実の代表選手として「教育」が登場しているように思えるのだ。
つまり、対話と教育は鋭く対立する。それが、学校で対話を行うということの困難なのだろう。

学校において対話をするということは、対話の外にある現実に注意が向かざるを得ない。
対話を特にしたいと思っていない生徒に対話を始めさせ、そして、対話をした後も、対話の成果を把握し、教育に活かさなければならない。
これは、対話以前と対話以後に注意を向け、対話を分節化して、対話の持つ力を削がざるを得ないということである。

もう一つの教育と対話の間にある困難について説明するため、政治を例に持ち出したい。
僕が、対話との関係で特に問題となる現実の場面としては、教育ともう一つ、政治がある。
多分、既存の概念のなかで、対話と対立する現実というものを最もよく表しているのは「政治」という言葉だと思う。
政治と対話はセットでよく用いられる。「政治には対話は必要だ。」というように。民主主義という制度などは、まさにその代表だろう。民主主義とは、誰もが参加できる対話に基づいて政治を行うべき、という理想のもとにあるもののはずだ。

しかし、ここまでの議論の流れからわかると思うが、僕はこの民主主義の理想に疑問がある。
政治においては、どこかで対話を終え、決断しなければならない。消費税を増やすかどうか、アメリカに無条件降伏をするかどうか、といったことは、どこかで決断をしなければならない。そこに、どちらでもない、という選択肢はない。
つまり、政治とは対話を終えて決断するということであり、あえて言うならば、政治とは対話を終えるということ、そのものなのだ。

僕はここまで、対話というものを広義に捉え、対話というものが持つ力を最大限解放しようと努めてきた。その努力を認めていただけるならば、対話でないもの、つまり政治についても先鋭化して捉えることをセットで認めていただかなければならない。純粋な知的活動としての対話を認める代わりに、純粋な知的活動の終わりとしての政治も認めなければならないのだ。
すると、常識的な物事の捉え方は色々と変更を迫られることとなる。例えば、民主主義については大きなダメージを受けることとなる。この僕の考え方によるならば、対話に基づく政治という民主主義の理想とは、知的活動としての対話の継続と、決断としての対話の終わりとを取り違えた不純な混合物なのだ。

ここまで、なぜ、政治の話を持ち出したのかと言えば、対話と教育の関係においても同じことが言えるからであった。
最も純粋に理念的に捉えるならば、対等に対話するという知的活動と、先生から生徒に何かを伝えるという現実的な活動とは原理的に両立しない。対話に基づく教育というのもやはり、不純物なのだ。
そのような意味で、この論文における「しかし、そうであるとしたら、子どもの哲学を含む「『哲学』を『教育』する」という営みは一般に、いったい何をしていることになるのだろうか。それは、自身の内に根本的な矛盾を孕んだ、自己論駁的ないし自己破壊的な営みにならざるをえないのではないだろうか。」(p.164)という疑問は極めて正当なものと考える。

4-2 「知識を求める動機」の重要性

しかし、僕は悲観していない。
そこで、重要となるのは、この論文でも重視されている「知識を求める動機」だと思う。

確かに対話は無限に続きうる。
何度も登場した「世界一高い山は・・・」の例を使うなら、「世界一高い山はエベレストだ。」に対しては未発見の山の可能性や、測量技術や、山の呼称や世界の定義、そしてデカルトの方法的懐疑など、いくらでも話は展開できる。

しかし、そのなかで、対話の参加者が切実に答えを求めている議論の道筋はそう多くないだろう。
「世界一高い山はエベレストだ。」のような常識的な発言から展開できる現実的な話題はそう多くないだろうから、いくらでも議論は展開できると言っても、その展開の可能性の大半を占めるのはデカルト的な思考実験のような道筋に違いない。
そのような純粋に哲学的な疑問について切実に答えを求める人は少ないだろう。
だから、対話の参加者の「知識を求める動機」に沿って対話を進めるならば、たいていは中庸的な議論が行われ、そう長くない時間で「世界一高い山はエベレストだ。」についての対話を平和裏に終えることはできるはずだ。

そうすれば、この結論を確実な知として先生から生徒に伝えることができるし、この結論に基づいて正しい政治を行うこともできる。
きっと、極端に哲学的な道筋を避ければ、現実の教育や政治とうまく折り合いをつけることはできるのだ。
このようにして、現実には、哲学対話は、その動機が正当なものである限り、たいていは、うまくいくのだ。

4-3 哲学対話の注意点・「いわゆる哲学対話」の外と内

最後に、あまり哲学的でない、哲学対話を学校で行ううえで注意してほしいと思う点を二つ挙げておきたい。

一つ目は、先ほどの話の続きとしての注意点だ。
多分、多くの場合、哲学対話は中庸的に進められるだろうし、そのような対話が良い対話となるだろう。
ただし、極端に哲学的な道筋は「知識を求める動機」に沿うものではなく、単なる言葉遊びに過ぎないということが経験則的に明らかだとしても、全ての極端に哲学的な疑問を自動的に避ければいいということではない。
極端に哲学的な疑問が「知識を求める動機」により切実に発せられることはありうる。それは丁寧に扱うべきだ。そこに現実に教育をすることの難しさがあると思う。

ここで注意しなければならないのは、極端に哲学的な疑問はたいてい突拍子もないもので、飛躍しすぎてうまく言葉で表現できないことが多いということだ。多くの人が出会ったことがない問題だから、聞いている人も何の問題だかわからず、既に知っている別の問題と取り違えてわかったような気になってしまうことさえある。
(僕自身の恨みも交えると)哲学対話という名前を用いているからには、最も大事な道筋であるはずなのに、こうして哲学的な道は気づかれず埋もれてしまうことも多い。
できるだけそうならないよう、キリストが一匹の羊も見捨てないように、注意深く生徒を見てほしいと願う。

(1つ目は自分を投影しすぎたが、別のありそうな状況をふまえると)もうひとつの注意点は、哲学対話自体にそもそも参加しない、できない、という問題についてのものだ。
哲学対話を学校でやっても、何割かの生徒はうまいかたちで参加しないし、できないだろう。多分、あまり知的活動というものが必要ではない人たちもいるのだ。そのような意味では、何割かの先生自身もうまく参加できないように思う。
だが、このようなかたちでの否定は哲学対話にとって決して悪いことではなく、これこそが最も急進的に哲学的な道筋ではないか、と僕は思う。

哲学対話は、哲学対話に参加することを前提として組み立てられているはずだ。当然、いかにうまく参加してもらうか、というようなことは教育学的に色々と知見があるだろうが、哲学的には、哲学対話の外に居続けるという視点も成立するところにこそ面白さがあるように思う。言い過ぎかもしれないが、哲学対話という知的活動を最も哲学的にさせるのは、その外にある現実の存在だ。生徒が参加しない、参加できないという極端なかたちで、ある意味参加するということは、哲学対話としてとても意義深いものだということを忘れないで欲しいと願う。

以上、極端なことばかり注意を促したが、これは、哲学対話の力を否定しようとしているものではない。
僕には、哲学対話には、デカルトの方法的懐疑のような極端に哲学的な「いわゆる哲学対話」の先にある領域と、対話に参加しない生徒のような「いわゆる哲学対話」の手前にある領域があるということに注意を向けて欲しいという思いがある。
そして強調しておきたいが、その二つの領域の間には、とても豊穣なものとして「いわゆる哲学対話」の領域がある。
この三領域を戯画的に表現するなら、哲学対話など要らず既存の答えが欲しい人たちがいる。そしてどこまでも自分で突き詰めたい人もいる。その間に、どちらでもあり、どちらでもないような、いわゆる普通の人がいる。ただし、この描写はあくまで戯画的であり、僕も含めてたいていの人は、いわゆる普通のなかでのグラデーションのうちに位置づけられる。確かに僕が指摘したような「いわゆる」の外の視点も重要だが、「いわゆる」のなかでの違いや変化のほうだって同じかそれ以上に重要なのだ。
そのような意味で、理念的に行き過ぎていない、現実に行われている地に足がついた「いわゆる哲学対話」の力を信じたいと思う。

5 ハネムーン

この、「いわゆる哲学対話」とは、哲学と教育の結婚における幸せなハネムーン期間のようだと思う。
たしかに、そのうち倦怠期となり、教育というもの自体を哲学的に疑うようなときも訪れるかもしれない。だけど、それでも、いつでも、あのときを思い出し、相思相愛の関係に戻ることはできる。
なぜなら、哲学と呼ばれるような知的活動と、教育や政治と呼ばれるような現実とは、動的に揺れ動く関係にあるからだ。その動的な関係こそが対話というものだと僕は考えている。
だから、いつでも、あのときに戻れるよう、しっかりとハネムーンを味わっておくべきだ。そうすれば、どこに戻ればいいのか見失わずに済む。それが哲学における哲学対話の意義のひとつだと思う。

そして、この論文における様々な考察は、「いわゆる哲学対話」をより望ましいかたちで行い、ハネムーンをより素晴らしいものとするうえでとても有用だろうし、このような考察が今後も重ねられていくことを願う。

哲学カフェを紹介するサイトを運営する理由

(読み返すとまとまっていないので、今のところ備忘録です。)

僕は、哲学カフェ・哲学対話ガイドという、哲学カフェを紹介するサイトを運営している。
時々「どうして、そんなサイトを運営しているの?」と聞かれる。
そんなときは「僕が哲学カフェというものを知ったとき、情報を見つけようとしても、なかなか一覧性のある情報がなくて困ったから。」というような返事をしている。
そのこと自体は嘘ではないのだけど、もうすこしきちんと説明しておいたほうがいいと思い、この文章を書くことにした。

僕にこんなことを聞く人は、こんな手間がかかることをして偉いねえ、というニュアンスを込めて質問しているように思う。直接僕と話すことのない人たち、このサイトを見るという関わりしかない人たちからも、誰かのために役立つことをしていて偉いなあ、と思われていそうな気がする。
僕の活動は倫理的に正しいものとして扱われている。それがなんとなく居心地が悪い。
確かに人の役に立っているように思うし、褒められるのは好きだから、もっと褒めて、ちやほやして、と思うけれど、やっぱり、どこか後ろめたい。

僕にとっての、このサイトははっきり言って名刺代わりだ。
僕は、哲学対話、つまり哲学の対話をする、または対話的な哲学をするということには哲学的に重要な意義があると考えている。
だから、この業界には、長期的かつ主体的に関わっていきたいと思っている。この業界のなかでの人間関係を密なものにしたいと考えている。
その目的に最も合致していて、最もオーソドックスなやり方は、哲学対話の研究者になり、修士、博士といった肩書を得て、学術的に関わるというものだろう。
ただ、40代社会人の僕には、そこまで金をかけられない。それに、今更、既存の学問の枠内に押し込まれて自由な活動ができないのは嫌だ。そんな時間はない。
だから次善の策として、僕の活動を効果的にアピールするという道筋を考えた。人に役立つようなもの(情報)を提供することで、その見返りに人から認知をもらうというやり方だ。

この業界は、明らかに売り方が下手だ。お金にできるかどうかだけでなく、こんなに魅力的なコンテンツを広めるのが下手だと思う。そこに、僕がつけ入る隙があったのだ。だから僕は、こんな紹介サイトを構築している。

なんていうことを当初は書こうと思っていた。
だけど書き進めるうちにわからなくなってきた。
そもそも僕は、何を得ようとしてこんなサイトを運営しているのだろうか。

人のためではない。自分のためだ。
僕は、この哲学対話業界に入っていきたい。そのための名刺代わりだ。
僕のことを認知してもらって、そこでの人間関係を築きたい。そのためだ。
ここまでは確かだ。
だけどわからなくなる。
認知してもらって、人間関係を築いて、その先で、僕は何をしたいのだろう。

それは、僕の哲学のためであったのではないのか。僕の「対話の哲学」のためであったのではないか。
整理しよう。僕は哲学において何をしたいのか。
僕は、僕が考える「対話の哲学」というアイディアに磨きをかけ、そして残していきたい。
当然、誤りがみつかれば撤回し、よりよいアイディアを探すということも込みでだけど。

そのためには、哲学対話界隈での僕の認知を高めることは、例えば本を出したり、多くの人に読んでもらったり、といったことにつながるだろう。それは僕の哲学に役立つ。
ただ、それは必須ではない。本ならばお金さえ払えば出せるだろうし、僕の哲学を残すことは読者の数が問題になる訳でもない。せいぜいあったほうがいい、というくらいの話だ。

この界隈は哲学対話について真剣に考えている人が多いから、そのなかには僕の「対話の哲学」に役立つアイディアを持っている人もいそうだし、もしかしたら僕のアイディアを色々と批評してくれる人もいるかもしれない。そのような人たちの力を借りて、僕は僕自身のアイディアをもっと良いものに練り上げることもできそうだ。そのような役立ち方もありそうだ。
だけど、あえて哲学対話の人間関係限定ではなくてもいい気がする。ある面ではアカデミックな哲学の場のほうが、より深い考察につながりそうにも思う。これまでのところ、実際にそうなっている気もする。

そう考えていくと、哲学対話のサイトの運営と僕の哲学とをつなげることには少々無理がありそうだ。
どうも僕は、僕の哲学とはあまり関係なく、ただ、この界隈の人たちに出会いたかっただけなのかもしれない。確かに、これまでの出会いはとてもよいものだった。そして、僕がこのサイトをやっていたからこそ出会えた人も多いように思う。

僕は、何かのため、という言い訳がほしかっただけなのかもしれない。
哲学のためでもなんでもなく、ただ、人と出会いたい、そんな理由で人との出会いを求めるのが恥ずかしかったのかもしれない。

また、こうして考えてみると、否定したかった、世のため人のためにこのサイトを運営しているというのもあながち間違いではないような気がしてきた。世に僕が好きな哲学が広まるといいなあ、そんな気持ちも僕の心のどこかにある。それが人のためかどうかはわからないけど。ただ、それでも、哲学対話を通じて広まっているあの哲学が、僕が大好きなこの哲学と同じものかどうかは慎重に検討する必要がある。

なお、僕は哲学カフェの開催もしているが、それはもう少し哲学的な意義があるように思う。なぜなら、哲学カフェでの対話は、直接的に哲学の刺激になるし、哲学をして消耗した僕を癒やしてくれもするからだ。そして、主催者としての関わり方は、参加者としての関わりとは少し違う。より深い刺激となり、また、より深い癒やしとなる。
最初はそこまで考えず、やはり名刺代わりの一環として、という思いもあったが、最近はそう思う。ただ、やりすぎると得るものよりも消耗するもののほうが多い気がするけど。

「僕らの世界を作りかえる哲学の授業」を読んで

ネタバレにならない範囲での感想はこっち( https://www.135.jp/2019/07/06/jugyo-2/ )に書いたので、ここではネタバレ&批判も含めた感想を。

一見、この本は、こどもの哲学を中心としたオーソドックスな哲学対話の紹介のように見える。実際それが目指されていて、門外漢の僕が見ても、現時点ではこどもの哲学を知りたいならまず読むべき基本書となっているように思う。コンパクトで読みやすいし。

だが、僕にとってのこの本の魅力は、そこかしこに土屋さんの独自の思いが表現されているというところにある。
いくつか挙げてみよう。

「哲学対話では、議論に「勝つ」ことよりも「負ける」ことのほうが重要だ。」(p.48)

これは、通常であれば、哲学対話は勝ち負けではない、と言われるところだろう。
それを、あえて、勝負として、そして、負けることだというところに凄さがある。
「哲学対話とは負けることと見つけたり」なんて武士みたいだ。
僕も、哲学対話が言葉を用いた論理的なやりとりである限り、どうしても論理的な勝ち負けという側面は顕在化してしまうと思う。それが人格的な勝ち負けにはつながらない、というフォローは必要だし、慣れるまでは勝ち負けを目立たせないような配慮も必要だ。だからといって、勝ち負けの側面を隠蔽することで論理を軽んじたと感じ、傷つくタイプの人もいるということも知っておいてほしいと思う。哲学対話の楽しみを知れば、大抵の人は、負けたっていいし、負けたいくらいなんだって自然と思うのではないだろうか。

「「無知の下の平等」とでも言うべき独特な関係」(p.79)

これも、あまり言われない言葉だと思う。通常、哲学対話は、論理力を身につけたり、何かポジティブな効果があるものとして語られる。だけど、ソクラテスではないけれど、哲学は人を無知の地平に引き下げる。それは、自分に対しても、相手に対してもだ。それを相手からの攻撃と受け止める人もいるだろう。だけど、その先にしか、哲学対話の魅力である本当の平等はない。そんな覚悟にもつながる言葉だと思う。

「「難解さ」ごときには怯まずに、過去の哲学者の著作を何度も繰り返し読んで吟味するべきです(こうしたことを面倒くさがる人は、本当の意味で「知を愛し求めている」とは言えないでしょう)。」(p.122)

これは、この本を読んでいて一番びっくりした言葉だ。こんなこと言っちゃっていいのかな、と。これは、前後の文脈を含めて僕なりに理解すると、こういうことだ。

「哲学対話と「哲学する」はかなり近いけれど、「哲学する」には難解な本を読むことが含まれ、哲学対話には含まれない点で異なる。だから、難解な本を読むことを避ける哲学対話は、本当の「知を愛し求めている」哲学ではない。」

そのとおりなんだけど、そう言っちゃって大丈夫なのかな、と。

一応フォローのために言っておくと、多分、もうひとつの読み方があるだろう。

「哲学対話は、難解な本を読むことも含む「哲学する」と地続きだ。だから哲学対話を通じて「知を愛し求める」ことを知ったなら、いつかは難解な本にもチャレンジしてほしい。(忙しいとか慣れてないとか色々事情もあるだろうけど)そのような思いを持ち続けることが「哲学する」ということだ。」

というように。

このように、哲学対話のなかに、いわゆる哲学というものが持つ厳しさをさらりと紛れ込ませているのが、この本のひとつの特徴だろう。

また、僕があくまで哲学的な側面から重要だと思った箇所が2つある。

まずは、知的徳(p.146)という概念だ。詳しくないけど、多分、哲学の第一線にある概念なのだろうと思う。それが実験的に確かめられたというのだから凄い。(博士論文ってどこで読めるのかな。)僕も哲学と哲学対話はもっとつなげて論じることができると思っているけど、こんなふうに繋げられるなんて思いもしなかった。

また、僕的にはこの本のクライマックスだと思っている「4.1」章から「4.2」章の流れの最後で、概念の洗練(p.136)と無知の気付き(p.138)という二つの概念を挙げたうえで、「(哲学者は)この2つの運動を、生涯をかけて延々と繰り返し続けるのです。」(p.141)としている点は哲学的に最重要だろう。
概念の洗練も無知の気付きも、確かに哲学の重要な要素だと思うけれど、「哲学とは、その二つを繰り返すことである。」というのはかなり強い主張だと思う。
疑り深い僕としては、本当にそうかな、と疑心暗鬼だけど、確かにぱっと考えて、それ以上のものが思いつかない。概念の洗練だけでも、無知の気付きだけでも足りないし、逆に第三の概念を加えることもできない。
これは、もう少し考える必要がある重要な提案だと思う。

以上、主に土屋さんの哲学観がにじむ部分を中心に見てきたが、永井均ファンとしては、土屋さんの師匠?として永井均が登場(p.123)してうれしかったし、全体として、かなり、僕と哲学観が近いと感じました。

だから、哲学対話というものに対する観方も近いと感じる。
まとめとして書かれている進行役のコツ(p.209)なんて、まさにそのとおりだと思う。

あえて付け加えるならば、土屋さんの表現で言うなら「進行役自身が~一生懸命考え」「進行役自身も考えることを楽しみ」ということが何より大切で、それ以外の「心得」のようなものは、そこから必然的に導かれる、ということだ。
進行役をしてみて実感するけど、進行役には心得を思い出す余裕はない。事前に心得のリストに目を通すことは大事だけど、僕ならば、本番では、そんな心得は脇に置いて、ただ、自分自身が一生懸命楽しむことに集中するくらいしかできない。そして、それで大抵は十分と感じる。(子ども向けではなく、大人向けの哲学カフェだからかもしれないけど。)

なお、批判も書いておくと、僕が最も同意できなかったのは、ただの会話と哲学対話の違いについての部分だ。(p.124以降)
僕は、ただの会話と哲学対話はきれいに二分できるものではなく、ゆるやかにつながっていると考えている。哲学対話のなかにもただの会話としての要素は含まれているし、ただの会話のなかにも哲学対話としての要素は含まれている。
そうでなければ、居酒屋でのただの会話のなかで「幸せってなんだろうね?」という言葉は出てこないだろう。ふと出た言葉でも、そこには、きっと、この問いの答えを知りたい、という目的地がかすかにでも含まれているはずだ。
また、ただの会話は散歩のようだとするが、哲学対話も散歩のようだという実感がある。頂上を目指すという目的を持って登山をしていても、道端の花を眺めるために回り道をしたりする。そのような登山のような散歩のような、どちらとも言えない雰囲気が哲学カフェの醍醐味だと思う。

また、書き方にもひとつ不満がある。
この本では、哲学対話でのやりとりを、そのまま会話調で表現している部分が何箇所かあるのだが、これは必要だろうか。
僕は、自分で哲学カフェを開き、その結果を簡単にまとめてもいるが、そこでの発言をそのまま書いて、うまくいった試しがない。
どう発言を記録しても、哲学対話の一番の魅力を取り逃がしてしまうと考えている。確かに、哲学対話を全く知らない人に、本を通じてイメージを持ってもらうためには、発言をそのまま載せる必要があるのかもしれないが、これを読んだ人が、哲学対話の一番の魅力を知らないまま、哲学対話を評価してしまうことを僕は危惧する。
だから、会話の部分は斜め読みをして雰囲気だけつかんで、あとは実際に哲学カフェに来てほしいと思う。

最後に、土屋さんは意図していないだろうし、大抵の人には関係ないだろうことなので読み飛ばしてもらっていいけど、僕にとっては大きな意義があったことを自分のために書き残しておく。

僕は、学校教育というものに否定的な思いを持っていて、こどもの哲学についてもどこか信頼していなかった。
従来型の学校で教育を受け、学校に恨みがある僕としては、「そんなにうまく哲学対話が子どもの頃の僕を救ってくれるのかなあ。」なんて疑いの眼差しでこどもの哲学を見ていた。
「学校の先生や学校の同級生も含め、誰も僕のことをわかってくれない。話しても話が通じる訳がない。」これがこどもの哲学に対する僕の根本にある懐疑だ。

だが、この本が紹介しているブラジルのこどもの哲学の事例は、そのような日本的な文脈とは全く別な景色を開いてくれた。
ブラジルでの哲学対話は、何かを学ぶためではなく、何かを忘れないためにある。
「貧しくて公正さを欠いた世界に住んでいると、「みじめさ」の感情は次第にあまり強く感じられなくなる」(p.71)そうだ。その不公正さ、みじめさを忘れないためにブラジルでのこどもの哲学は行われているということだ。
不公正さやみじめさが現にそこにあることを言葉で確認し、その思いを大切に慈しむということが、哲学対話の効用の一つの側面であることは確かだろう。

それは、不公正さやみじめさに苦しむブラジルの貧困層の子どもだけでなく、一般的な日本人としての子供時代を送ってきた僕自身についても言えるのではないか。
この世界は疑問だらけだ。それは「この世界はどうして不公正なのか。」というような社会的な疑問や倫理的な疑問ばかりではない。僕が子供の頃抱いた「宇宙の果てはどうなっているのか。」「1個の無限と2個の無限はどちらが大きいのか。」「物が確かに存在しているとどうしたら確かめられるのか。」というような科学的な疑問や哲学的な疑問だってある。
このような疑問につきあうのは面倒くさいから、世間の人たちは疑問をなかったことにする。僕はそのように扱われて傷ついてきた。
本を読んでも、それっぽい答えは書いてあるけど、どうも納得できず、どこか誤魔化されたような気がした。大人の世界全体が、僕の疑問をわざと無視して、隠しているように感じていた。
おとなになってから、それは、僕の周囲の大人の教育の低さや、僕自身の読解力の不足のせいであって、また、一番大きな問題は、哲学的に突き詰めれば、誰も答えを知らない、というところにあると知った。
だけど、子どもの頃の僕は、誰にも伝わらなかったから、そのような大難題を一人で沈黙したまま抱えてきた。そして、言葉にしなかったから、そのうち忘れてしまった。
このようなことは、僕だけでなく、多くの人が思い当たる体験なのではないだろうか。もし思い当たらないとしたら、それほどに深く傷つき忘れてしまったのかもしれない、とも思う。

だから、この本をきっかけに、「通じなくても、言葉にして誰かにそのまま認めてもらうだけでもよかったのかもしれない。」と気づくことができたのは収穫だ。
ブラジルの子どもが差別感を忘れずに生きることができるように、子どもの頃の僕も誰も答えてくれない疑問をそのままに抱えたまま生きていくことができる。
そんなこどもの哲学なら悪くないかもしれない。もっと早く出会いたかったなあ、と思う。まあ、こうして出会ったからいいのかもしれないけど。

ということで、とても楽しく拝読しました。
僕がやっている「哲学対話・哲学カフェガイド」のサイトも使っていただき、うれしかったです。人生初献本もいただいたし。
この本をきっかけに、少しでも良質なかたちで、学校に哲学対話が広がっていくことを願っています。

どうでもいいけど、僕が時々やっているあれは、プレーンバニラ(p.201)って言うのか。なんかかっこいいから、この言葉、今度使ってみよう。

自然科学の問題

僕には「対話の哲学」と名付けようとしている一連の哲学的アイディアがある。
これにより、かなりの哲学的問題について、考察を深めることができると考えている。
その問題とは例えば次のようなものだ。

・世界のあり方のような存在論的な問題
・時間や言語のような形而上学的な問題
・私や身体のような実存的な問題
・善や人生の目的のような倫理的な問題
・美のありかのような美的な問題

ざっと見てわかるように、僕のアイディアがカバーする領域の広さはなかなかのものではないかと自画自賛している。僕のアイディアが正しいかどうかは別にして。

当然、僕の考察はすべての領域をカバーしてはいない。
例えば、政治哲学や応用倫理学のような分野について今の僕が述べることは特にない。だけど、それは単に僕の興味が乏しいからであり、多分、僕の「対話の哲学」の延長線上で捉えることは可能だろうと考えている。

唯一、捉えたいのに今の僕の考察では捉えられないものがある。「自然科学」だ。

それがどういうことか伝えるために必要な範囲で僕の「対話の哲学」について描写しておこう。その内容についてもっと知りたい方は、僕の別の文章を読んでほしい。

僕の対話の哲学は、いわば、私と他者や世界との間の対話というかたちで、私と他者と世界を統合しようとしている。
その統合のプロセスの始点はあくまで「私」にある。対話の哲学の長所のひとつは、始点が私にありながらも、独我論に陥らず、豊かな存在として他者や世界を描くことに成功しているところにあると考えている。
(以上は、僕の哲学を、あくまでもこの文章で必要な限りで切り取ったものであり、不十分な要約です。実際は、この手前やその先があり、それこそが重要と考えています。)
ここでのポイントは、僕の哲学的アイディアは、「私」を始点として世界を把握しようとしているというところにある。
このことと「自然哲学」とは極めて相性が悪いのだ。
「私」を始点とする捉え方では、どうしても世界が「自然科学」的にできている、ということの説明がつかない。これは僕にとっては大問題だ。

なお、ここで「科学」ではなく「自然科学」としているのには理由がある。
なぜなら、論理学に代表されるような演繹的な科学的思考は僕の対話の哲学で捉えることが可能だからだ。対話を継続し思考を深めるということと、論理的で演繹的な思考とは不可分とすら言える。僕がここで問題としたいのは、実験で検証するなどし、現実世界を観察することで世界のあり方を把握しようとする帰納的な科学、つまり「自然科学」である。

僕の問題意識を明らかにするため、まずは「世界が自然科学的にできている」ということの不思議さを例え話で説明しておこう。

僕が赤ちゃんのように無知だとする。
僕が無邪気に消しゴムを握っていた手を放すと、消しゴムは下に落ちる。
僕は面白くなって手あたり次第に色々なものを手にとり、放す。すると鉛筆やスプーンやコップやネコは次々に下に落ちる。どれも下に落ちるので僕は喜ぶ。
そして、とうとう僕は、物は下に落ちるという法則を見出し、いつかは重力という自然科学上の知識を手に入れるだろう。途中を大きく端折っているが、これが自然科学的な知識を得るプロセスの素描だ。
実験を通し、世界の振る舞いについての知識を得る。世界はなぜか自然科学的な法則性に基づき僕に対して反応を返す。

しかし、ここまでは自然科学の不思議は特に生じていない。
では、無知な僕が重力という知識を得た後の話を続けてみよう。
無邪気に色々な物を落として喜んでいた僕は、そのうち、ヘリウムガスが充填された風船を手にとる。そして今までのように手を離す。
すると、風船は下に落ちず、上に昇っていく。
僕は、それに驚き、その理由を研究する。そのうち、空気より軽いヘリウムガスという別の自然科学上の知識を手に入れることになるだろう。

ここに自然科学の不思議がある。
僕が風船を手に取るまで、ヘリウムガスについての知識は僕の中に全くなかった。
僕の中にないことが、風船が上に昇るというかたちで、僕に突き付けられ、それに僕は驚く。
だが、その驚きは、実はヘリウムガスという気体があって・・・というかたちで、うまく自然科学的に帳尻が合ってしまう。

思い出してみよう。僕の「対話の哲学」は「私」を起点としていた。しかし、このヘリウムガスは「私」とは全く別のところで、自然科学的な整合性を持って存在している。僕がヘリウムガスの性質を発見する前から、ヘリウムガスはヘリウムガスとしての性質を持ち、「私」からは全く独立したかたちで自然科学的に整合したあり方で存在していた。そして、更に僕が研究を深めるなら、ヘリウムガスの原子構造などといったところまで含め、どこまでも自然科学的に帳尻が合うかたちに世界は発見されるはずだ。
世界は、「私」とは関係なく、どこまでも自然科学上の法則に基づいている。
僕の驚きは、常に自然科学に先回りされている。
このようなことがどうして起こるのだろうか。これが、僕の自然科学に対する疑問だ。

世界は自然科学的にできているのだからそんなことは当たり前だといわれるだろう。
そのとおりなのだが、それを認めることで実は別の大問題を抱えることとなる。

僕の「対話の哲学」は、多分、この自然科学の問題を除いては、ほぼ全ての問題を統一的な考え方で統合して答えることができる。そこまで大風呂敷を広げるかどうかは別として、かなりの領域をカバーしていることは確かだ。
しかし、「世界は自然科学的にできている」という考え方は、その広範な領域に届くことはできない。そこに問題がある。

いや、この述べ方だと、僕の「対話の哲学」が正しいということが、「世界は自然科学的にできている」という考え方ではカバーできない領域があることの理由になってしまうから訂正したほうがいいかもしれない。
僕の「対話の哲学」が見当違いだったとしても、「世界は自然科学的にできている」というアイディアからでは説明できないことがあることは確かなのだ。

どんなに少なく見積もっても、「世界は自然科学的にできている」という考え方では「私」については説明することはできない。「私」の問題とは、別の言葉を用いるならば、意識や、魂や、クオリアと言われるもので表現される問題群だ。これに対しては、科学的に説明できる、という意見もあるだろうから、更に撤退し矮小化して捉えたとしても、そのような語を用いて論じられているもののうちの、ある問題について、自然科学は答えることができない。
例えば、「この生々しく現前するトマトの赤さのクオリアを、自然科学的にどのように説明するのか。脳のニューロンの活動に随伴しているというのか。」というような問題だ。
(僕は、自然科学の哲学的問題は、このような表現で捉えてしまったら面白くないと考えているが、多くの人が納得してもらえそうな例として、この問題を提示している。)

ここには、自然科学とは別に「私」という問題群が存在する。
この「私」を説明するためには、「世界は自然科学的にできている」ということを前提とした自然科学的な説明とは別に、もうひとつ、「私」を始点とする説明が必要となる。
つまり、この世界を漏れなく説明するためには、自然科学的な説明のほかに、もうひとつ、「私」という見地からの説明が必要になるということだ。

二つの理論が並立してもいいではないか、と思うかもしれない。しかし、それは大問題だ。
僕はここで、世界を漏れなく説明したい、という話をしている。
しかし、二つの理論が並立したままでは、二つの理論が並立することについての説明が欠けている。これは世界を説明し尽くしていないということだ。
これを説明し、世界を説明し尽くすためには、二つの理論が並立することを根拠付ける理論が必要となる。しかし、二つの理論は全く独立しているから、それは無理な相談だ。

「どうしてこんなことになってしまうのだろう。」
長くなってしまったが、これが、この文章で僕が提示したかった僕にとっての疑問だ。
この疑問については色々な言葉で言い換えることができるだろう。
僕は、たまたま、これまで「私」からのルートでの世界の説明を目指してきたから、それでは捉えきることができない自然科学に不思議さを感じる。
だから「世界が自然科学的にできている」というのは、どういうことなのだろう、という疑問として、僕はこの疑問を表現する。

多分、多くの人はこれを、「私」に対して感じる不思議さとして表現するのだろう。
現代の常識的な考え方からすれば、世界はほとんど自然科学的に説明し尽くすことができる。
現代人一人ひとりは天才科学者ではないから、自然科学の全知識は持っていない。だけど、これまで自然科学者が発見した知識は、訂正したりされたりしながら自然科学全体の体系にきちんと位置づけられている。そして、それは今後も続くだろう。そのようなものとしての自然科学的な知識は、まだ発見されていない知識も含め、自立した唯一の体系として世界を覆い尽くしている。そんなイメージを多くの現代人は持っているのではないか。
だけど、僕の見立てでは、それでは唯一説明し尽くせないのが、意識や、魂や、クオリアといった「私」にまつわる問題なのだ。

そういったものも自然科学的な道筋で全てを説明し尽くせると考える人もいるけれど、それは問題を理解できておらず直視できていないだけだと、僕は思う。
そこにはかなりの確信があるから、そのような人たちの考えを誤りだと非難し、論争することは可能だ。だけど、僕は彼らの気持ちもわかるから、そのような無理強いはしたくない。
彼らが「私」の問題を受け入れられないように、僕も「自然科学」の問題をまだ正視できない。僕はこれまで、「対話の哲学」という方向で考えてきて、全てを「私」を始点として捉えることで説明し尽くせそうだった。せっかく、そこまでたどり着いたのに、どうもそこに自然科学という問題がありそうだという落胆は、多分、自然科学者がクオリアに対して感じている思いに近い。
彼らは多数派だから、問題を無視するという力技を使えるが、僕は少数派だから問題から目を背けることができないという違いがあるだけだ。

だが、僕は少し希望も持っている。
僕の「私」の道筋と自然科学者の「自然科学」の道筋は、ちょうど鏡像のような関係になっている。僕が右手を上げるとき、自然科学者は左手を上げるというように。これは、全く無関係ということではなく、真逆という関係があるということなのではないか。
そのような道筋から、両者を統合するようなかたちで、考察をひとつ深めることができるのではないか。
そして、それは、「私」と「自然科学」の対話というかたちをとるのではないか。
それは、今の僕が考えている「対話の哲学」とは全く異なるものになるかもしれないが、「対話の哲学2.0」(ちょっと古いネーミング)とでも言えるものになるのではないか。
今の「対話の哲学」は踏み台となり、全て破棄されてしまうかもしれないが、この考察は無意味なものではないのではないか。
そんな予感がある。

まずは、破棄されるものとしての「対話の哲学1.0」を仕上げてみよう。まずはそこからだ。
なんにせよ続きがあるというのは、とてもわくわくする。

(最後にしつこく注記ですが、僕の「対話の哲学」について、ここでは「私」を起点にしているとしましたが、厳密にはそうではありません。「私」としたほうが、永井哲学などともつながりイメージがしやすいので、そうしました。だけど、そこにある違いこそが、僕の「対話の哲学」というアイディアの生命線だと思っています。)