哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

マインドフル・ダイアログ

僕は哲学カフェという活動に興味があり、数年関わっている。だけど、そのネーミングには引っかかり続けている。

そもそも哲学という言葉がキャッチーではないということもあるが、どうも哲学カフェという名前は活動の本質を捉えていないように思えるのだ。哲学カフェの本質は、テーマ設定や、参加者の人数や開催場所にはないのでないか。

確かに、哲学的なテーマ設定であれば、話し手として自由な発言ができやすく、聞き手としても発言内容だけに注目しやすい。数人から十数人くらい、というカフェに入るくらいの人数も対話にはちょうどいい。だけど、それらは付随することに過ぎない。話し手が自由に発言し、聞き手が発言内容だけに着目することができたなら、その話題がいわゆる哲学的なものでなく、例えばアニメの話であっても、また何十人、何百人の集会であっても、それは十分に哲学カフェ的だと言っていいだろう。(さすがに、法廷での証言や、何千、何万人規模の集会が哲学カフェ的になることは事実上難しいだろうが、論理的には哲学カフェ的なものとなる道が閉ざされている訳ではない。)

それでは哲学カフェの本質はどこにあるのか。それは参加者の心構えにこそあるのではないか。哲学カフェでは、他の参加者の話を聞くとき、発言者の肩書や性別や年齢などは気にかけず、ただその発言内容だけに着目することが推奨される。発言するときも、こんな発言をしたら変に思われるかもしれない、人間関係に支障が生じるかもしれない、などと考えず、自らの考えを表現することが望ましい。哲学カフェの本質は、このような、他のことに気を取られず、対話だけに集中しているという参加者の心構えにこそあるのではないか。

という訳で、僕は、哲学カフェというネーミングが気に入っていない。そこで僕は、マインドフル・ダイアログという名前を思いついた。ダイアログは対話であり、哲学カフェは哲学対話とも呼ばれるから説明不要だろう。ポイントはマインドフルという部分にある。
マインドフルとは当然、マインドフルネスのことだ。皆さんご存知だと思うが、マインドフルネスとは、僕のざっくりした理解だと、仏教が、禅などの実践面に重点を置き、西洋的に解釈されたものだ。もしかしたら、ヨガなど仏教以外の要素も含まれているのかもしれない。だが、西洋的に解釈された仏教と考えておけば大きな間違いはないだろう。

マインドフルネスは、瞑想を通じて、日常の雑事を手放し、今・ここに集中することを重要視する。歩いているならば、ただ歩いていることだけに集中し、食事をしているならば、ただ食べていることだけに集中する。同様に、哲学カフェでは、ただ対話していることだけに集中する。これこそがマインドフルネスとしてダイアログ(対話)を行うということだ。

先ほど、哲学カフェでは、聞き手は、ただその発言内容だけに着目することが推奨され、話し手は、自らの考えを何にもとらわれずに自由に表現することが望ましいとした。そして、これこそが哲学カフェの本質であるとした。これはまさに、マインドフルに対話を行うことと一致する。それならば、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることは適切であろう。

僕は、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることを提案する。そして、マインドフル・ダイアログをマインドフルネスのひとつとして位置づけ、マインドフルな人生を送るためのツールとして整理することを提案する。

ただし、マインドフルに対話することは、マインドフルに歩くことや、マインドフルに食事することと同列には扱えない側面もある。なぜなら対話するとは、言語を用いるとも言い換え可能であり、思考も含めた言語活動全般を行うことでもあるからだ。言語の力を最大限に見積もるならば、マインドフル・ダイアログとはツールのひとつではなく、マインドフルに生きることそのものであると言ってもいい。

なんでこんな文章を書いたかというと、マインドフル・ダイアログという言葉は、僕が2020年7月5日に思いついたことを明らかにするためです。ネットで検索すると少し出てきますが、このような力点を置いている使用例はないと思います。いつか、この名前を冠して活動をしてみたいな。そのためにはマインドフルネスももう少し勉強しないと。

入不二哲学と僕の疑問についての備忘録

1 入不二信者であること
僕は入不二基義の影響を強く受けているから、存在論、意味論、認識論という三者関係の構図でしか、ものごとを考えられなくなっている。
この考えられなさは、正しさの証左なのかもしれないが、僕自身の限界のようにも思う。僕は入不二が描いた構図以上のものが思いつかないのだ。僕の思考には、今のところ、この三者関係の構図以上のアイディアがないということは、僕の思考と、この構図がぴったり一致していることを意味する。それは、その構図を信じることによく似ている。この限界こそが宗教の起源なのかもしれない。
この文章は、そのような意味での入不二信者が書いたものとして読んでほしい。

2 入不二哲学における存在論、意味論、認識論の三者関係
入不二の存在論、意味論、認識論の三者関係においては、最終的には存在論が優位となる。入不二はそうは言っていないが、僕はそう解釈している。
存在論の勝利は揺るぎないように思う。入不二は、三者の戦いの果てでの存在論の勝どきを「無内包の現実」と表現することがある。僕なりの言葉で説明するならば、ペットボトルやパソコンや私自身といった個別のものごとが存在する前に、それらの存在を成立させる場(または存在させる力)として「無内包の現実」がまずあるのではないか、というのが入不二のアイディアである。どんな物事があるか、などといったこととは関係なく、ただ現実は「ある」のだ。それは存在論の勝利の場面だろう。
なお、入不二の存在論は、物事が存在するという意味での通常の存在論に留まるものではない。「ある」は時間的な「なる」と結びつき、存在論は運命論と呼ばれることとなる。または、存在は現前と捉えられがちだが、エネルゲイア的な潜在も含めたものとして、現実と呼ばれてもいる。入不二の存在論は運命論であり現実論であると言ってもよい。
そこまで拡張された入不二の存在論は、哲学上の語るに値する議論領域全体をすくい取ることに成功しているように思える。入不二は、哲学の最深部にあるもの、哲学の基底にあるものを指し示すことに成功しているように思うのだ。
そこでは、認識論や意味論とは、哲学者が最奥部・最深部に向かって旅をするにあたってのマイルストーンに過ぎない。認識論や意味論は、限られた存在である人間が、神の領域に向かうために使われる梯子でしかない。存在の深奥に到達したならば、梯子は不要となる。
入不二の語り方とは違うが、僕は入不二の議論を以上のように理解しており、そこには絶対的な正しさがあるように思える。

3 僕の疑問
だが、それで本当に、存在論、意味論、認識論の三者の戦いにけりはついたのだろうか。
「「無内包の現実」というものを想定するような存在論から、どのようにして、この世界の内包を生み出すことができるのだろうか。」これが僕に残っている疑問である。絶対的な存在論優位の図式からは、この疑問に答えることができないのではないか。
この世界に、ペットボトルやパソコンや私といったものがあるとするならば、その個別のものごとは、この無内包の現実のなかに含まれているか、または、この無内包の現実とは別に居場所が確保されているのでなければならない。前者の道筋で考えるならば、無内包の現実には必然的に内包が含まれていなければならず、後者の道筋でいくならば、無内包の現実よりも物事の有内包性が優勢となる場面を認めなければならない。
いずれの道筋をとるにせよ、存在論が絶対的に優位である「無内包の現実」という構図からは逸脱することとなるのではないか。これはつまり、認識論や意味論が優位となる場面を認めることではないか。

同じことを人と神という用語を使って描写することもできる。
入不二が描こうとしたのは神の世界だ。または、入不二は、人としての限界を乗り越え、神を垣間見ようとしたと言ってもいい。人としての限界とは、認識論と意味論のことだ。入不二は認識論と意味論を乗り越え、存在論の絶対的優位性を認めることと、神を垣間見ることとを重ね合わせている。
だとするならば、入不二の存在論優位の「無内包の現実」という構図から逸脱するということは、人を、神と並び立つものとして認めることである。神の一元論から神と人の二元論に移行するということである。
以上のような意味で、「無内包の現実から、どのように内包を生み出すことができるのだろうか。」を問うことは、入不二の哲学の根底を疑うことにつながっていると思う。

4 認識論・意味論が存在論に優位するとは
では、認識論や意味論が「無内包の現実」という存在論に優位している状況をどのように描写することができるだろうか。
それは、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」という記述に要約できるのではないだろうか。
当然、見るとは認識論を指し、語るとは意味論を指す。認識論が成立するためには認識論が有意義に成立するような世界が必要であり、意味論が成立するためには意味論が有意義に成立するような世界が必要だ。そこでは、認識論や意味論が世界の存在のあり方を規定している。認識論や意味論が成立するためには有内包の世界が必要だ。存在論は認識論と意味論の下僕として、有内包性を認識論と意味論に供給しなければならない。
これは、カントのコペルニクス的転回に少し似ている。存在論から直接に内包の存在を導くことはできない。しかし、認識論や意味論からは、「ねばなならない」というかたちで、内包の存在を導くことができるのだ。
だが注意しなければならないのは、このような操作には転落がつきものだということだ。永井均によれば、カントはデカルト的な道筋の先にあるはずだった<私>を見落としてしまった。それと同じように、認識論や意味論からの操作を通じて導かれる内包の存在という描写は、存在というものの最も重要な側面を見失ってしまっている。
そのように考えるならば、ここには、認識論・意味論と存在論の間のシーソーのような相克関係が生じていると捉えることもできよう。「無内包の現実」が存在論優位の極であり、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」が認識論・意味論優位の極であり、両極が相互に優位となるような構図だ。
そのような視点移動を経るならば、そのような構図が現に存在するというかたちで、再度、入不二の存在論優位の描写は立ち返ってくる。この相克関係という図式そのものが入不二の「無内包の現実」の力により支えられていなければならないからだ。どうも存在論優位は揺るがないようだ。

5 身体論について
だが、僕はどうしても、世界には、このような存在論優位の描写に取り込まれないような抵抗感のようなものがあると感じてしまう。無内包に還元されてしまう前の、内包のざらっとした質感のようなものがそこにはあるのではないか。その質感があるからこそ、僕は、活き活きとしたこの世界で、このような人生を営んでいると言えるのではないか。
入不二はそこにも答えを出そうとしているように思える。入不二は近年、レスリングをしており、その経験も踏まえて入不二身体論とでも言うべきものを作り上げようとしている。まだ全貌はわからないが、それは、先程も用いた、神と人という用語を用いるならば、身体を通じて人から神に至ろうとする道であるように思える。しかしその道は、身体の破壊というかたちで、必然的な失敗へと至る道でもある。その挑戦と挫折とは、僕が感じる生の質感のようなものなのではないだろうか。そのようなものして、今後の入不二の議論は僕の問題意識と直結していく期待がある。
特に根拠のない予想となるが、入不二の身体論とは、存在論、認識論、意味論とは別に身体論がある、というあり方とはならないように思う。入不二は既に、存在論を時間論、運命論というかたちで拡張し、新たな現実論とでもいうべきものを作り上げている。身体論は、この入不二現実論のなかで、認識論・意味論との接続を担う立場となるのではないか。もしそうならば、入不二の身体を巡る議論は、直接的に僕の疑問に答えてくれるものとなるかもしれない。
入不二の今後の議論を楽しみにしているし、僕自身ももっと考えていきたい。

アダム徳永の話

1 アダム徳永の紹介

アダム徳永さんを知っていますか。
セックス・セラピストとして何冊も本を書いたりしている人です。セックスと言っても普通のセックスではなくスローセックス、ざっくり言うと、女性に対して優しい愛撫を長時間することを提唱している人です。
なんとなく昔、名前を聞いたことがあったなあ、というくらいだったのですが、ふと気になって調べてみたら興味深かったので、You Tubeを見て、何冊か著作も読んじゃいました。
彼の魅力は正しそうなところと怪しそうなところがいい感じで混ざっているところです。残念ながら実践では試せていないけれど、彼の中心的な教義であるスローセックスは多分、かなり正しいでしょう。根拠は示せないけれど、アダルトビデオのようなセックスより、女性を大切に扱うスローセックスのほうが正解に近いのは確かだと思うので。多分、それを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。男性からすると、まさに目からウロコです。
一方で、彼のことを怪しいと思う人も多いでしょう。彼は、スローセックスを説明するにあたり、気やチャクラといったものを持ち出します。愛撫する手は、単に優しく女性を撫でるものではなく、そこから気を出し、女性と気を交換するものでもあるのです。このあたりは多くの人が眉唾だと思うでしょう。
なお、僕はヨガなども好きなので、気やチャクラといった話には抵抗がありません。それが真理かどうかはわからないし、周囲に布教したりはしないけど、そういうことを否定しないことで得るものもあるように思っています。
僕がアダム徳永さんが問題だと思うのは、男女の違いを強調するところです。彼によれば、男性とは愛する存在であり、女性とは愛される存在です。そこにあるのは男性から女性に対する一方的に愛が向かっていくという図式です。そこからは必然的に、男性が守り、女性は守られる、というようなある種の役割分担、または、夫唱婦随的な、古き良き男女関係への憧憬が導かれます。僕はそこには同意することができません。
ただし誤解のないように言及しておくと、彼の魅力は、そのような主張をしつつも、その結果、男尊女卑には陥らず、男性性の発露は、ひたすら女性を尊重し、尽くすという主張につながっているという点にあります。役割分担があるからこそ尊重が生まれるという論法です。騎士道精神やレディファーストのようなものを思い浮かべるといいでしょう。残念ながら、彼の主張は100%正しいとまでは言えないでしょう。古色蒼然とした年寄りの妄想のように思えます。それでも僕は、どこか筋の良さのようなものを感じるのです。彼の言説は、単に固定的な図式で男女平等を唱えることでは描写できない何かを捉えることに成功しているように思えるのです。
彼の言説が捉えようとした何かに僕は興味があるのです。

2 アダム徳永の言説から引き出せるもの

彼は、男が女を愛するという一方的な愛の図式を水の流れに例えます。彼によれば、水が高きから低きに流れるように、愛は夫から妻に流れるとされます。つまりそこには上下関係、高低差があるということです。このような描写を多くの人は嫌悪感を抱くでしょう。だけど、僕はそこに(劣化はしていても)ある真実が隠されていると思うのです。
僕が見出した真実とは、それを愛と呼ぶかどうかは別として、よい人間関係には高低差が必要だということです。人間関係を川の流れに例えるならば、高低差という力の源が必要なのです。
男女の性差というような固定化を避けるため、男女を問わず、と前提するならば、愛においては、確かに、愛する人はとことん愛し、愛される人はとことん愛されるという一方向性が必要です。それは、この一方向性が失われることにより、「愛されているから愛する。」「愛したのだから愛されるべき。」というような悪しき双方向性に陥ることからも明らかでしょう。愛は見返りなく与えるものであり、また、見返りなく受取るものなのです。
ちょっと脱線になるかもしれませんが、愛は見返りなく与えるものという話はよく聞くけれど、見返りなく受け取るものという話はあまり聞きませんね。もしかしたら、あまりピンとこなかったかもしれません。確かに、人と人の愛の話だと、愛される側の立場からの愛の描写というのはこれまであまりなされてこなかったかもしれません。もしかしたら、人と神の間の愛に置き換えたほうがいいかもしれません。(神の愛というからには、キリスト教の神をイメージしてもらったほうがいいでしょう。ただ、僕はキリスト教に詳しくないので、間違えていたらすみません。)
人と神の愛において愛される立場にあるのは人のほうです。神は人を人として創造しました。神がなぜそんなことをしたかと言えば、それは神が人を愛するからです。人はこの世に存在するからには、ただ神に愛されるしかないのです。それは極めて一方的な関係性だと言ってよいでしょう。もしかしたら、明日、神は人を愛するのをやめてしまうかもしれない。それでも人はただそれを一方的に受け入れるしかないのです。
確かに、そうならないようにキリスト教の教義はあります。この教義を守っていれば神は人を愛することをやめないという神と人の約束がなされています。ただ、それも極めて一方的な約束です。どんなに人が神を信じたとしても、神はもしかしたら明日にはこの約束を反故にしてしまうかもしれない。神が人を愛するかどうかは神にしか決めることはできない。愛される立場にある人の側からは、愛する立場にある神に何かを働きかけることはできない。そういう一方向性があるのです。神を信じるとは、そういう無力さの現れでもあります。
このキリスト教の神を用いた比喩は、当然、人と人の間の愛についても当てはまります。愛する人だけが愛するかどうかを決めることができ、愛される人はただ愛されるしかない。そこには厳然とした一方向性があります。確かに現実には人と人の関係だから、愛される人は愛し返すことができ、愛される人は愛する人にもなります。だからそこに双方向性が生じます。だけど、そこにあるのは2つの独立した愛であり、AさんからBさんへの愛と、BさんからAさんへの愛は全くの別です。愛されているから愛するのでも、愛したのだから愛されるべきでもありません。
ちょっと長くなりましたが、このような意味で、愛とは一方的なものなのです。それをアダム徳永は言いたかったのです。
彼がそのことを、夫から妻への一方的な愛の流れとして描写したのは確かに不十分なものだったでしょう。妻が夫を一方的に愛することがあってもいいし、多分、実際には、夫婦間では、そのような独立した二つの愛が交差しているでしょう。
なお、アダム徳永は、一応、この問題を補正しようとしており、彼は、夫婦という役割の違いを重視しつつも、それ以外にも夫婦には、母と子、姉と弟というような多様な役割の側面があるべきだとしています。夫が子のようになり、妻が母親のようになることで、母が子を愛するように、妻が一方向的な愛を夫に向けることも重要だと指摘しています。残念ながら、この話は、夫が妻に甘えることの勧めという薄っぺらい話として読まれざるを得ないような書かれ方をしています。しかし僕は、そこに、より普遍的なものを読み込むことができると考えます。
また、彼が、夫と妻という役割の違いを強調したことには効用もあると思います。愛とは双方向的なものという固定観念が広まっている現状では、愛の一方構成を戯画的に強調するしかないのもやむを得ないでしょう。僕がここで論じたように、愛の一方向性を説明したうえで、実は妻から夫への愛というものが別にあってもいい、としてしまうと、やはり愛とは双方向的なものではないか、と誤解が生じてしまうのは確かでしょう。これは、彼の本の娯楽的な性格を踏まえると賢明な判断だったと思います。愛が双方的なものだと誤解されるくらいならば、愛が固定的ではあっても一方向的なものだと誤解されたほうがマシなのです。

3 静的な世界把握と愛

と書いても、多分、多くの人は同意できないでしょう。男女差別よりは愛を双方向的なものだと考えたほうがマシなのではないか、と思う人が多いのでしょうか。
僕がこの文章を書いたのは、本当の敵がそこにあり、それを論破したいと考えたからです。僕の仮想敵は「静的な世界把握」派と名付けることができます。彼らに愛を図示してもらうよう依頼したとします。白い紙を渡して、「AさんとBさんとの間の愛を図に示してください。」と頼むときっと何の躊躇もせずに
「 A -♡→ B 
    ←♡-   」
というような絵を書くでしょう。この躊躇のなさが「静的な世界把握」派の特徴です。
しかし、ここまで述べてきたように、愛とはそのようなあり方をしていません。そのことを明らかにするために、アダム徳永は、あえて、「 A -♡→ B 」と描写したのです。
確かに残念ながら、この描写も誤りです。では、本当はどのように図示するべきなのでしょうか。考えられるのは、
「 A -♡→ B 
  A ←♡- B
 A -♡→ B 
  A ←♡- B ・・・ 」
というように、一方向的な愛が独立して行き来するものとして描くというアイディアです。確かにこれでかなり先程論じたことに近くなってきています。多くの人はこれを答えとしてもいいように思います。このような捉え方をするだけでも、アダム徳永の先をいくことができるように思います。
彼は、愛が夫から妻への一方向的なものとしつつ、愛のエネルギーは循環すると論じます。そこには矛盾があり、一方向的なものがなぜ循環するかを示すことができていません。この図のような独立した一方向的な愛が交互にやりとりされるのだと考えることで矛盾は解消されるでしょう。めでたしめでたしです。

だけど、僕はこういうところに妙に敏感なので、あえて、この図にもケチをつけたくなります。この図は、AがBを愛することと、BがAを愛することとの間に因果的な関係性があるように見えてしまうという点で、やはりミスリーディングなのではないか。一枚の図に、二つの愛を同時に描こうとすること自体がそもそも誤りだったのではないか。僕はそのように主張します。つまり、僕の答えは、「AさんとBさんとの間の愛を図に示すことはできない。」というものです。
多くの人は、僕の答えにがっかりするでしょう。なぜなら、きちんと簡略にまとめられないということは、理解できないことだからです。あきらめるよりは、さきほどの矢印の連鎖の図のほうがマシだと思うのではないでしょうか。
僕が「静的な世界把握」派と名付け、戦いを挑んでいるのは、そのような考え方です。僕の敵は、劣化版ではあっても簡略にまとめることでよしとする考え方です。その劣化にこそ、重要な秘密が隠されているはずなのに、それを無視してしまったら全てが台無しではないか。僕はそう思うのです。
多くの場合、「静的な世界把握」派が無視している何かとは「時間」です。あえて言うならば、時点と時点との間に横たわる断絶です。(もうひとつ「人称」間の断絶も無視されがちですが、その話は永井均に委ねます。なお、この時間の話は永井均というよりは入不二基義の話です。)
この愛の話でも、AさんがBさんを愛している時点と、BさんがAさんを愛している時点とは全く独立した時点であり、互いに全くの無関係です。昨日、彼女が愛してくれたことと、僕が今日愛することとは全くの無関係だし、僕が今日愛したことと明日彼女が愛してくれることとは全くの無関係だ。その無関係性さ、言い換えるならば「見返りのなさ」こそがアダム徳永が強調した一方向性の本質であったはずです。その無関係さを正確に表現するならば、愛を図示することは諦めなければいけないのです。
アダム徳永どこまで意識していたかはわかりませんが、彼は、反「静的な世界把握」派の仲間だったと考えることができます。彼は、あえて「A -♡→ B」とだけ描くことで、動的なあり方をしている愛の、その瞬間を写真のように切り取ることに成功した。これがアダム徳永の話の魅力だと思うのです。
念のため、「静的な世界把握」派に対する「動的な世界把握」派としての僕が、どのように愛を描写するかを参考まで示すこととします。(ただし、このような描写自体が静的なものなので、限界があることはご了承ください。まさにこの限界の回避こそが「静的な世界把握」派の魅力なのです。)
「愛とは僕が一方的に与えるものである。または僕に一方的に与えられるものである。だけど、なぜか、時間的な断絶を乗り越えて、全く独立に、与えた愛は愛として帰ってきて、そして与えられた愛を与えてしまう。そこには理解を完全に超えた不思議がある。それこそが愛の不思議であり、時間の不思議だ。」

4 対話

僕がこんなに長々と愛について話してきたけれど、僕の哲学上の興味の本丸は愛にはありません。ましてやセックスについては、個人的には大好きだけど、とりあえず僕の哲学上の興味とは別ということにしておきます。
僕の興味は言葉や対話に対するものです。言葉についても、愛と同じ一方向性があると思うのです。対話においては、その役割につけられる名前は、夫や妻ではなく、話し手と聞き手です。夫が妻を愛するように、話し手は聞き手に語りかけているのです。そこには、アダム徳永が指摘するように落差が重要となります。
夫が妻を愛撫するとき、彼はスローセックスを提唱します。数分だけおざなりに触れるのではなく、ひとつの性感帯に数分は時間をかけ、全体としては何十分も何時間も時間をかけ、丁寧に愛撫することが夫の愛(すること)の表現だとします。そして妻は、その愛撫を受け入れて感じることこそが愛(されること)の表現だとします。そこで重視されているのは、愛撫する者と愛撫される者との落差、つまりセックスとして表現される一方向的な愛の落差だと言ってよいでしょう。
言葉や対話においても、この落差が重要なのではないでしょうか。話し手は聞き手を思い、聞き手に伝わるように丁寧に表現する。聞き手は話し手の言葉を素直に受け入れ、理解すること(または理解できないこと)を素直に表現する。これこそが対話の真髄ではないかと思うのです。
妻がいいところで夫の愛撫を中断し攻守交代しては愛撫が深まらないし、聞き手が話し手の言葉をいいところで遮って話し始めては対話が深まらない。いずれも十分深めるためには、じっくりと一方的に愛撫し、言葉が発せられなければならない。そして、それが頂点に達したとき、ちょうどいいところで、なぜか、愛する人が愛され、愛される人が愛することになり、また、話し手が聞き手となり、聞き手が話し手となる、という転換が生じる。このちょうどいい地点、頂点での転換は、時間の不思議さを重視する「動的な世界把握」派にしてみれば、まさに奇跡であり、これは愛の奇跡であり、言語の奇跡とも思えます。僕はこの話をしたくて、この文章を書いたのです。
最後の部分は十分に表現できていない気もしますが、スローセックスと対話との類似性が伝われば、この文章の目的は達したことにしておきます。

ハイデガーとアーレントのことを何も知らない僕のハイデガーとアーレントについての話

松島恒煕という方が書いた「対話と「公共性」の関連をめぐって」という論文を読んだ。
(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2019/05/02_Matsushima_Paper.pdf)
この方を全く存じ上げないが、考えさせられるものがあったので、記録しておく。

この論文は、ハイデガーとアーレントの公共性概念を用いて、哲学対話での対話の深まりについて考察したものだ。
僕は、ハイデガーもアーレントも興味がなく、読んだことはないし、多分、今後も読むことはないと思う。だけど、この文章を読んで、僕の関心と、彼らとの間にどのような関係がありそうかが、少しわかったように思う。
予備知識は全くないけれど、僕の言葉を使って、この論文の議論をざっくりとまとめておく。

ハイデガーは、日常的な場面における個人の同質性に着目する。
日常的な場面においては、個人の根源的な存在の違いなどは着目されず、ただ、その内容の違い、質的な違いだけが表面化する。だから、会話においても、話し手と聞き手の間に横たわる根源的な違いなどなかったものにされ、その会話の内容の違いだけが問題となる。そのような同質性だけが表面化する状況にいると、人々は安らぎを覚える。それは、存在の違いという根源的な問題を内容の違いへ頽落させ、隠蔽するからだ。
だが、ハイデガーはそれを頽落として批判するのではなく、それでも隠蔽しきれない内容の違い、質的な違いを端緒として、そこから根源的な違いに向かうことができるという可能性を見出す。それが哲学であり、頽落しても隠蔽しきれない違いこそが哲学を支えるのだ。

松島さんによれば、アーレントは、その先を描いている。
日常的な違いは、本来の存在の違いとしてのあり方を回復し、ハイデガー的な集団としての公共社会は、実は、個人の違いが確立した公共社会であったことが確認される。そこでは、現にそこで個人の力を発露して生き生きとした活動を行われる。そのようなかたちで根源的な違いが表現され、実現されるのだ。
このようなハイデガーからアーレントへ向かう道筋こそが、哲学対話が向かうべき道である、ということになる。

しかし、そこで松島さんは立ち止まる。差異が強調されるアーレント的な公共社会において、人はどのような合意を目指すことができるのだろうか、と。論文は、この問題を提示し、解決可能なものという見通しを示すことで終わっている。しかし、このままでは明らかに、この問題を解決することはできないだろう。少なくとも、松島さんの考察に何かを付け加える必要がある。

僕はこの文章で、ここに付け加えるべきと思われるものを提案したい。

その前に、合意という言葉づかいだと、僕の問題とずれてしまうので、僕の言葉で言い直したい。僕なりに表現するならば、松島さんの問いは、「公共社会に共通の目的・価値はあるのか。」という問いとなる。
もし、「ある」と答えるなら、アーレントが強調する根源的な差異は弱められ、個人は公共社会の道具や手段となり、ハイデガー的な日常的な社会に頽落してしまう。
一方で、「ない」と答えるなら、公共社会という考察の対象さえも見出すことが不可能となるだろう。なぜなら、目的や価値を否定したうえで、それを独立した物事として捉えることは不可能だろうからだ。もし、可能だとするならば、価値論と存在論を完全に独立して論ずることができるということになってしまう。可能だとする道筋はあるかもしれないが、それは多分、アーレントや松島さんが向かおうとする道とは別物だろう。

このような袋小路を救うのは、やはりハイデガーだと思う。
アーレント的な差異を強調する道筋は、やはりどこかで行き詰まり、ハイデガーが強調する同質性へと頽落せざるを得ないのではないか。
だが、頽落した日常がゴールではない。ハイデガーによれば、そこで再び哲学は立ち上がる。そして、アーレント的な公共社会に向かおうとする。このようなハイデガーとアーレントの間を行き来するような往復運動こそが、公共社会というもののあり方なのではないだろうか。
ハイデガーもアーレントも、それを静的な段階的な違いとして解釈するならば、そこには限界がある。限界を乗り越えるためには動的な解釈が必要となるのではないか。そして、ハイデガーとアーレントには相補関係とも言えるような相性のよさがある。両者を往復運動として接続することで、その先を描写する力が得られるように思える。

希望的観測を述べるならば、この往復運動は、同じところの行き来ではない。
哲学対話のあと、日常に戻ると、そこの景色は少し変わって見える。ほんの僅かの違いかもしれないし、数日すれば、その違いなど忘れてしまうかもしれない。だけど、僅かでも前進している。
ハイデガーとアーレントの間の往復運動は、螺旋階段のように、循環しながらも、少しずつ前進している。この前進の力となっているのが、アーレント的な生の力であり、対話の力なのではないか。

ラブレターみたいな文章

僕は時々、ラブレターのような文章を書きたくなるときがある。ただ、ある一人のためだけに書き、その人には是非読んでほしいと願う。なお、その人以外の人も読んでいいという点では、ラブレターとは違うけれど。
そういう文章を書くとき、僕は、その特定のある人が読むことで、喜んだり、何か感じたり、何か考えさせられたりして、その人の人生のなんらかのプラスになればいいと願っている。その人とは、友人や知人でなくてもいい。見ず知らずの名前しか知らない誰かでもいい。もしかしたら既にこの世にいない、遠い過去の人でもいいのかもしれない。

たいてい、その誰かとは、何か、僕に考えるきっかけをくれた人だ。行動や文章で、僕に何かを問いかけてくれた人だ。妻と喧嘩をしたことで、何かを考えさせられたなら、妻にあてて書くし、哲学的な文章により考えさせられたなら、筆者に向けて書く。

では、ラブレターのようでない文章とは、どういうものだろう。
文章は、大きく分けて3つありえると思う。誰か特定の一人に向けて書いた文章、複数の人に向けて書いた文章、そして自分に向けて書いた文章だ。

複数の人に向けて書いた文章にも、更に、数名の友人のような少数の人に向けたものと、不特定多数の人に向けた文章というような違いはあるだろう。
だが、ここで問題としたいのは、人数はともかく、複数の人に向けて文章を書くということが、そもそもありうるのか、ということだ。
例えば、僕が職場から、LINEで家族グループに対して、「晩ごはんは要らないよ。」とメッセージを送る。そのとき、僕は、家族という多数を思い浮かべて文章を書いてはいない。妻を思い浮かべ、そして、娘を思い浮かべ、それぞれに対して、メッセージを伝えることを考えている。当然、そこまで明確に意識はしていないけれど、そうであるはずだ。妻と娘を個別に思い浮かべ、個別事情があることに気づいたら、個別事情に応じてメッセージを変えるだろう。もし、娘が旅行中なら、「そういえば、そっちは何を食べたの?」なんて書き添えるだろう。
多数に向けて書く文章とは、誰か特定の一人に書く文章を、いくつかまとめただけのもののように思える。「晩ごはんは要らないよ。」というメッセージは、妻と娘とそれぞれに分けて送ってもいいけど、たまたま同じ内容でよいから、まとめて送っただけとも言える。(同時に送ることで、妻と娘が互いに同じメッセージを受け取っていると知ることができる、という意義もあるけど、その意義の話は別の機会に。)

僕が、誰か一人のために書いた文章がラブレターのようで特別なものだなあ、と思うのは、僕の文章は、大抵が僕自身のために書いたものだからだ。
僕は、いつも、僕自身という、僕のことをよくわかっている理想的な読者のために文章を書いている。僕は忘れっぽいから、昔自分が書いた文章を読み返すと、こんな文章を書いた意図さえ思い出せないこともある。だが、そんな文章でも、当時は自分だけはこの文章を理解してくれると思って書いていたはずだ。
僕は、そんな日記のような文章ばかり書いているから、時々書く、誰かのための文章は特別なものとなる。

僕自身は、誰かのために書いたラブレターよりも、自分のために書いた日記のほうが、哲学的に深いところに到達していて、哲学的な意義があると思っている。だけど、たいてい評判がいいのは、ラブレターのような文章のほうだ。(評判がいいと言っても、ほとんど読む人などいないから、なんとなくそう感じるだけ。)
また僕自身としても、読み返して理解しやすく、まとまっていると感じるのも、自分自身ではなく誰かのために書いた文章のほうだ。独りよがりの日記より他者のためのラブレターのほうが理解しやすいのは当然なのだろう。

だとするならば、僕の文章のクォリティ向上のためには、ラブレターを書きたいと思うような人との出会いが結構重要なのかもしれない。

ちなみに、この文章は、自分自身のための、独りよがりの日記パターンです。

言葉へのこだわり

哲学者とは、言葉にこだわる人のことなのではないか。

一般的に、世界のあり方とか、人生の意味とか、根源的なことを知ろうとする人こそが哲学者だとされているように思う。僕もそう思ってきたし、そうありたいと思ってきたけど、しかし、そうではないかもしれないと気づいた。

なぜなら、哲学者かどうかに関わらず、人は、世界や人生について、現にある程度知っているからだ。知っていなければ、世界のなかで人生を生きていける訳がない。当然、十分に知っているとは思っていないし、もっと知りたいと願い、知ろうと努めているだろう。ただし、強調したいのは、多くの人は、世界とか人生について、全く知らない訳ではないし、哲学者に比べて、その知っている程度が低い訳でもないということだ。

当然、哲学者としては、その知り方に不満がある。そんなのは、知っていることにならないと思う。だから哲学をする。

そうだとするならば、哲学者かどうかを分けるのは、根源的なことを知っているかどうかや、知ろうと努力しているかどうかではなく、その知り方なのではないか。

哲学者とは、その知り方として、どこまでも言葉にこだわる人のことなのだ。哲学者は、根源的なものごとについて、言葉にしたいと願っている。人々がすでに知っていることについて、それを知っているだけでは飽き足らず、それを言葉にしたいと願っている。

だから、哲学という営みには、ウィトゲンシュタインが指摘したような言語の限界が横たわっている。言語の限界とは、思考の限界ではなく、哲学の限界なのだ。

このような定義の仕方は、かなりざっくりしたものだとは思う。ただ、明らかに言えることは、言語の限界のぎりぎりのところを目指そうとしない哲学は、哲学ではないということだ。哲学者には色々な定義の仕方があると思うが、僕は、哲学者とは、言葉に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことを指すのだとしたい。

なお、言葉へのこだわり方にも色々なやり方があるように思う。子どもが粘土で遊ぶように、ただ言葉をこねくり回すのが楽しい人、言葉を適切なかたちで並べたときの美しさに囚われた人などなど。

そのなかでも、言葉が持つ力に魅了された人のことを倫理学者というのだろう。正しい言葉には有無を言わせず世界のあり方を変える力がある。正しい言葉が正しくないことはありえないし、正しい言葉を無視することが正しいこともありえない。正しい言葉というものが持つこのような力に心を奪われ、正しい言葉を求める人こそが、倫理学者なのだろう。

哲学者とは、言葉というものの魅力に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことである。そう考えると、哲学という活動の輪郭が少しはっきりしてくるように思える。

『連続と断絶』・『断絶と無関係』の話

飯盛元章さんが書いた『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』を読み、その後、ネットで動画配信された『断絶と無関係』という飯盛さんと入不二基義さんの対談を観て思いついたことを書き残しておく。

0 感想

以前から、ホワイトヘッドという哲学者は、面白そうなことを言っているようだけど、どうも難しそうだし、その面白さをうまく教えてくれる解説書もないしとっつきにくいなあ、となんとなく思っていた。

そんななか、飯盛さんの本を読み、ホワイトヘッドのことをやっと理解できた「気がした。」

この本は多分、複雑怪奇なホワイトヘッドの哲学の全体像を伝えるものではないのだろうけれど、僕が知りたかったところをちょうどうまく切り取って教えてくれているように思う。それは飯盛さんの能力によるところが大きいのは確かだけど、多分、僕と飯盛さんの興味のポイントが似ているからでもあるのだろう。

飯盛さんは入不二さんや永井均さんのことが好きで、今回の対談も自分から声をかけたということなので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

だから当然、対談の方もとてもよかった。(You Tubeで視聴できます。)

二人の哲学観が深いところで重なり合っているためか、餅つきのようにテンポよく見通しのよい議論が深まっていった。(入不二さんが杵を振り下ろし、飯盛さんが餅を返すかたちで。)

とてもクリアに議論が進んだおかげで、ツッコミどころも明確になったようにも思える。だからこそ、是非、僕自身の考えで、議論を書き換えたいと思い立った。

ホワイトヘッドが提案する思弁哲学は、飛行機のフライトを繰り返し、思弁哲学の理想への漸進するものだ。それならば、思弁哲学の目的に寄与するものである限り、このような書き換えはどこまでも許容されるだろう。そう考えるならば、僕がこれからやろうとしていることがどんなに幼稚なものであっても、ホワイトヘッドの意向に沿っていると思いたい。

1 多という常識

この本を読んで、さらに動画配信を観てみて、ホワイトヘッドの僕にとっての面白さというのは、「常識への立ち返り」にあると感じた。

ホワイトヘッドの哲学体系は複雑怪奇だけど、これは意図的にそうしようとしたのではなく、なんとか常識に立ち返るために、常識を一つ残らず漏らさないよう色々と考えていたら、有機体の哲学という、化け物のような体系ができてしまった、というのが多分、実情なのだろう。その不気味さを嫌う人もいるだろうが、ホワイトヘッドにとってはそれしかありえない。そのような意味で、不細工な子供のような、愛すべき哲学体系なのだ。

そして、その愛と、確かに常識のすべてを漏らさず捉えているという圧倒感が、ホワイトヘッドの有機体の哲学を魅力的なものにしているような気がする。

そう考えると、対談では「常識」というものがあまり評価されていなかったが、実はとても重要なものなのではないかと思う。

特に重要な「常識」は、「多」という存在のあり方だろう。

最近、プラトンの『パルメニデス』を読んだのだが、パルメニデスは、「一なるもの」について議論するなかで、全く「一」ではないものとして「多多」というものを提示する。分割しても何をしても「一」にはならないものが「多多」である。「一」と「多多」という両極を想定するならば、世のたいていのものは一にもなるし、多にもなるし、という意味で、「一」でも「多多」でもない中間的な「多」だ。

(自然数を例とするならば、2は分割して1と1になるし、150という数も149と1とに分割できるので1が含まれる。そう考えるなら、少なくとも1以外のすべての自然数は「一」を含んでいるから、「多多」ではなく「多」であるということになる。)

常識的に考えるならば、世界は「多」で溢れている。ペットボトルは何本と数えられるので多だし、人間も何人と数えられるので多だ。世の中のものは、すべて「多」だと言ってもいいだろう。

ホワイトヘッドは、この常識に従い、同質・複数の「多」でどこまでいけるかに挑戦した哲学者なのではないか。

そして、ホワイトヘッドに断絶を読み込もうとした飯盛さんは、この常識に基づいた体系を基礎としつつ、断絶を読み込むことで、どれだけ非常識に近づけるかに挑戦したと言えるかもしれない。

では、なぜ断絶を読み込もうとしたのか。

対談のなかで、飯盛さんと入不二さんは断絶/無関係を求める動機として、「ほっておいてくれ」という倫理的動機と、面白いという美的動機を挙げていた。

多分、そこには常識にとらわれることへの違和感と、そこから脱することの解放感があるのだろう。

常識でとらえようとするホワイトヘッドvs常識にとらえられまいとする飯盛/入不二 という白と黒の図式がそこにはある。

対談で、(不滅かつ消滅は矛盾ではないかという入不二さんの指摘を受け、)飯盛さんが言っていたけれど、「両側面があるものだとしたら、もう片方の方も最大強度にしてあげたい。(矛盾表現にするとその強さが弱まってしまうから採用したくない。)」と言っていた。

この話は、ホワイトヘッドの連続vs飯盛/入不二の断絶/無関係の対立構造にもあてはまるように思える。断絶を拡張するならば、または、断絶の力をより引き出すためには、ホワイトヘッドの連続についても、更に拡張し、その力を引き出すべきではないのか。

2 ミクロの話

2-1 抱握

ホワイトヘッドの有機体の哲学の魅力は、「抱握」にあると思う。僕がホワイトヘッドについての本を読みたいと思ったのも、この言葉の不思議な魅力にあったように思う。飯盛さんは、とてもわかりやすく、明確なかたちで、この「抱握」について説明してくれた。そして、やはり僕の予想は間違えていなかった。「抱握」は魅力的だ。

ホワイトヘッドの有機体の哲学は、人間の思考についても適用され、哲学体系を構築する基礎的な単位である現実的存在には、人間の個々の思考も含まれる。

話を人間の思考に限定するならば、抱握とは、新たに思考が生まれるということだとも言える。新たな思考が生まれるにあたっては、過去の自らの思考や、見聞きするなどして、外部から得た現在の感覚のようなものが材料となる。それらの材料を用いて、新たな思考が生み出されることになる。そして、そこで生み出された思考は、次の瞬間には、過去の思考のひとつとなり、次の思考が生み出されるための材料となる。

抱握というアイディアは、この思考が生み出される瞬間のことをよく描写していると思う。色々なものを材料としつつも、それらとは異なる新たな思考が生み出される瞬間をきれいに切り取ることに成功している。

2-2 驚き

僕が、「抱握」を魅力的だと思うのは、少なくとも、それを人間の思考という場面に限定するならば、「抱握」は「驚き」と言い換えることができるように思えるからだ。

「驚き」とは、哲学的思考の場面に限定するならば、タウマゼインのことだ。

過去の記憶や現在の感覚を材料としながらも、全く新しいものが生まれる瞬間が「抱握」であり「驚き」である。有機体の哲学における「新しさ」とは、このことを指していると僕は思う。

だから、正確には、抱握においては、記憶や感覚は材料ではないだろう。それらを組み合わせて何かを創り上げるのではなく、それらに触発されるようにして、全く新しい思考という現実的存在が生まれるのだ。

また、少なくとも思考に限定するならば、パースペクティブに応じて、触発のされ方が限定されるとも言える。僕が目の前のケーキを見て食べたいと思うとき、僕は、ケーキの素材や重さなどではなく、美味しそうな見た目という側面に触発されている。そして、食べたいという思いが、驚きとして僕に訪れていると言える。これが現実的存在の分割可能性ということなのだろう。

このようにして、タウマゼイン的な驚きは、人間の思考のあり方全般に拡張することができる。ホワイトヘッドの抱握には、そのような含意があると思う。そう考えるならば、合生の過程を描写する決断という用語は、驚きというものが持つ、ある種の飛躍性をうまく表しているように思える。

このような解釈は、ハーマンの魅惑に接近しているかもしれない。だが大きな違いは、魅惑の場合、その接触に必然的に失敗するが、抱握はなぜか成功してしまう、または成功されたことになってしまうという点にある。

2-3 退隠

抱握における触発というあり方に注目するならば、だからこそ、現実的存在は持続すると考えることができる。現実的存在は、対象となり、その一面が触発されることはあっても、全体として消費されることはないのだから。

そのことを、この本に教えてもらったもうひとつの重要なアイディアだと思われるハーマンの退隠によって説明することもできると思う。充足し持続している現実的存在は、ある一面が触発の対象となることはあっても、全体としては退隠し、どこまでも捉えられることはない。ホワイトヘッドの現実的存在は、ハーマン的な退隠により、どこまでも消費されないまま持続することができるのだ。

ただし、充足した現実的存在がどこまでも持続するということは確かめられない。なぜなら、現実的存在は抱握し、その一面が触発されることでしか、その存在を確認することはできないのだから。よって、現実的存在が潜在的に持続するというアイディアは、時間を認める限りにおいて認めるべきものなのかもしれない。これは現実的存在が時間に付随するということである。

2-4 入不二さんの時間論

ここまでの話は、入不二さんの時間論と接続することもできると思う。

入不二さんは、『あるようにあり、なるようになる』で、過去・現在・未来がつながっていると考える時間原理Ⅰと、過去/現在と未来の間に断絶があるとする時間原理Ⅱがあるとする。

ホワイトヘッドの抱握は、過去の記憶と現在の感覚から新たな現実的存在を生むものだから時間原理Ⅱにつながる。

充足した現実的存在は、どこまでも退隠し、ただ潜在的に過去・現在・未来を通底している。これは時間原理Ⅰにつながっていると言っていいだろう。

入不二さんによれば、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱが絡み合っているように、抱握と退隠は絡み合っているのではないか。

2-5 神

ここまで、ホワイトヘッドの生成について、抱握と退隠を中心に述べたが、それ以外の、神や範疇的制約や永遠的客体といったホワイトヘッドの道具立ては、余計な不純物なのではないだろうか。いずれも、常識的で科学的な世界、つまりものごとが安定的に時間的に連続して存在する世界を確保するためのものだ。だが、そのようなものなど関係なく、僕たちのこの世界はなぜか、ただ、うまく回っている。それが抱握の力なのではないだろうか。その力を信じるのならば、抱握を驚きと言い換えることはそれほどおかしいことではないように思える。

僕たちは、日々、瞬間ごとに、この世界がうまく回っていることに驚き続けている。そこに何かを付け加えることはできない。その驚きこそが神への驚きであるという表現はできるにしても。

3 マクロの話

3-1 断絶の連続性 通時的断絶から垂直的断絶へ

ここまではミクロの話だったが、飯盛さんは基本的にミクロの部分については、ホワイトヘッドの議論をそのまま受け入れていると言っていいだろう。

だが、そこからマクロの話に移ると、飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論の中で、議論の重み付けを操作することにより、ホワイトヘッドの議論の変形を試みている。いや、これこそが実はホワイトヘッドが言おうとしていたことであり、それを強調しただけだということなのかもしれない。どちらにせよ、飯盛さんがホワイトヘッドの議論から鮮やかにオリジナルなものを取り出しているのは確かだと思う。それは「断絶」だ。

飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論のなかに4つの断絶を見出しているが、そのなかで、特に第2の断絶から、第3の断絶、さらに第4の断絶と進む部分が重要だと思う。

飯盛さんは、第2の断絶を通時的断絶、第3の断絶を垂直的断絶とする。第4の断絶は名付けられていないので便宜的に体系的断絶とする。

ホワイトヘッドは、現在の物理法則に支配されている世界(現在の宇宙時代)が、時間経過により、未来には物理法則が変化し、全く別の物理法則に支配されている世界(未来の宇宙時代)に移行することがありうるとする。これが通時的断絶だ。

さらに大きな断絶として、物理法則が変わるのではなく、ほとんどの物理法則がない、カオスのような世界(根底的社会)との間の断絶があるとする。これが垂直的断絶だ。

飯盛さんは、この二つの断絶を別のものとして考えるが、物理法則の変化と、物理法則の喪失とを同次元で捉えることが許されるのならば、この二つの断絶を同種ものとして捉えることができるのではないだろうか。

例えば、現在の宇宙時代のなかの物理法則のうち、熱に関する法則を変化させるとする。例えばエネルギー保存の法則を変化させ、別のものにすると、世界のあり方は大きく変わるだろう。僕は科学に疎いので、どの程度の変化が生じるのか想像もつかないが、とにかく大きな変化が生じ、別の宇宙時代に突入するような事態が生じるとするならば、これが通時的変化だ。

同じように、熱に関する法則を消滅させるような変化も想定することが可能だろう。そうすると、そこには熱に関する法則というものが存在しない世界、つまり別の宇宙時代が生じる。これも同様に通時的変化だと言うことができるだろう。

同様に、ひとつずつ、自然科学に関する法則を失わせるような変化を積み重ねていくと、徐々に、その世界(宇宙時代)は根底的社会に近づいていく。そして、いつかは根底的社会に到達するに違いない。

このようにして、消滅を変化の一種と捉えるならば、通時的断絶の究極的なかたちとして垂直的断絶があると考えることもできるのではないだろうか。

3-2 断絶の連続性 垂直的断絶から体系的断絶へ

ホワイトヘッドによれば、垂直的断絶の先にある根底的社会とは、純粋な延長の社会である。僕はこれを空間が担保されている世界だと解釈した。それが正しければ、根底的社会には更に時間も必要となるだろう。なぜなら、時間と空間がなければ、複数の現実的存在が抱握するようなホワイトヘッドのミクロな生成論が成立しないからだ。また、この見方はカントの捉え方にも合致しているように思う。根底的社会とは時空のみが成立する場においてカオスが渦巻く世界なのだと考えよう。

それでは、更に、根底的社会から時空をも取り除いたならどうなるだろう。

そのようなことは、少なくとも二つの意味で想定することはできないだろう。まず、時空がなければ、ホワイトヘッドの生成論が成立しなくなり、有機体の哲学という哲学体系を逸脱することになってしまう。また、カント的に言うならば、時間と空間がないような事態を想定することは、超越論的に不可能だということになる。

しかし、ホワイトヘッドの思弁哲学に則るのであれば、そのような事態も想定しなければならない。もし、そのような事態を認めるのならば、そこには有機体の哲学という体系を超えた断絶が生じる。飯盛さんは、そのような断絶こそが第4の断絶であるとする。

以上は、飯盛さんとは別のやり方による第4の断絶、つまり体系的断絶の説明だが、このように説明することで、体系的断絶の別の姿が見えてくるように思える。

飯盛さんは、体系的断絶は、有機体の哲学の体系の外から体系自体を破壊しようとする力だとした。しかし、僕によれば、体系的断絶は、時空のみがある根底的社会から、時空を取り除くという操作により説明可能だ。それは、根底的社会がもう一段深まったに過ぎないとも言える。つまり、通時的断絶から垂直的断絶へと進んできた道筋の一歩先に体系的断絶が位置づけられ、いまだ、それは有機体の哲学の体系に収まっているという捉え方ができる。両方の捉え方に誤りがないとするならば、体系的断絶とは、有機体の哲学という体系の内からも外からも説明ができるようなものなのだ。つまり、そこには完全な断絶を見出すことはできない。

以上を踏まえると、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶は少なくとも存在論的には連続していると考えることができる。

3-3 断絶を可能にするもの

ところで、このようなかたちでの断絶を可能とするものはなんだろうか。

それは、有機体の哲学の体系のなかである限りは、ミクロな生成のプロセスによってでなければならない。なぜなら、有機体の哲学においてそのような断絶を可能とするような道具立ては、生成のプロセスしかないのだから。

だとするならば、僕の場合であれば、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶すべてが、また、飯盛さんの場合でも少なくとも通時的断絶と垂直的断絶については、抱握による生成のプロセスにより生じるということになる。

つまり、法則が変化し、失われるというような大きな変化さえ、抱握によってしかもたらされることはない。抱握は、それほどまでに大きな力を持っている。逆に言えば、過去と現在のすべてに触発され、そこから全く新しいものを生み出すものである抱握は、その抱握のあり方によっては、法則の喪失さえもたらす。抱握の新しさは、そのような飛躍をも含むものであり、そのことを強調するためにもそれは驚きと名付けるほうが適切なように思える。

そして、僕の捉え方によるならば、抱握が法則の喪失に向かって進むうちに、ついに、その最終段階では、現実的存在は、抱握により、カオス的な根底的社会から時空も失われたブラックホールにまで至ることができるのだ。到達する瞬間に、ホワイトヘッドの有機体の哲学体系全体とともに破壊されるとしても。

ここまでは、いわば、法則を失い、階層を下る道筋だったが、抱握による生成のプロセスを通じて、現実的存在は階層の上昇も可能だろう。

全く熱に関する法則が存在しない世界(宇宙時代)において、抱握により、新たに熱に関する法則がある世界(別の宇宙時代)に飛躍することはできる。そのようにして、根源的社会から、この常識的な法則が支配する宇宙時代にまで到達することは可能であるはずだ。

更には、僕の捉え方によるならば、時空が存在しないブラックホール、飯盛さんが実在の深みと呼ぶものから、抱握により、時空を持った根源的社会が生まれることさえも検討しなければならない。

さきほど抱握という生成のプロセスのためには最低でも時空が必要だとしたとおり、この点は慎重な検討が必要だと思う。だが、断絶の源となるブラックホールまたは実在の深みが「場のようなものとして在る」と考えるならば、そこからの生成のプロセスは避けられないように思える。場のような静的なものだとするならば、そこには空間性のようなものが認められるし、「在る」ということは「ない」との対比が可能であり、そこにはある種の時間経過が読み込めてしまうからだ。

もし、それを避けるならば、僕が考えた、法則の喪失というかたちでたどり着くブラックホールとは違うものとしてのブラックホールを想定せねばならず、その二つのブラックホールの違いについて説明する責任が生じるだろう。

多分、入不二さんであれば、それは、場のようなものではなくて破壊の力だとするのだろうが、法則の喪失によりたどり着く場のようなものしてのブラックホールと、破壊の力の発生点としてのブラックホールの関係性が、今の僕には捉えられない。

とりあえず、入不二さんの破壊の力を考慮外とするならば、有機体の哲学の抱握の力は、ブラックホールのような実在の深みにまで及び、すべてを連続させているのだ。

3-4 断絶側の反撃

当然、断絶側は、このような、抱握の力を最大限に引き出した連続側の攻勢に反撃を試みるだろう。そこで用いられる最も有効な武器は、退隠となるに違いない。

退隠により、別の宇宙時代として把握されることから逃れ、根源的社会として把握されることから逃れ、ブラックホールとして把握されることから逃れようとする。

この退隠はほぼ成功するだろう。なぜなら、抱握は、過去と現在としてすでに手元にあるものしか持ち駒にできないからだ。手元にない別の宇宙時代や根源的社会や実在の深みというブラックホール自体を抱握することはできない。

しかし抱握は、全く新しいものを生むことができるのだ。なぜか新しく抱握されてしまったなら、別の宇宙時代や根源的社会やブラックホールは、連続から退隠することはできない。

なぜか抱握が成功した地点から振り返れば、すべては連続しているしかないのだ。このようにして断絶側は敗北する運命にある。

それは、言ってしまえば、いったん有機体の哲学が描かれてしまったあとでは、それを否定することはできないということでもある。

だから、断絶側が勝利するためには、有機体の哲学が描かれる前に遡らなければならない。初発の生成が生じる前、初めての抱握が始まる前にしか、真の断絶を見出すことはできない。

これが、入不二さんが言う、無関係ということの意義なのだろうと僕は思う。

3-5 4つのベクトル

ここまでも、それほど確信はない思いつきなのだけれど、ここから更に怪しい話をする。

ここまで見出した力またはベクトルは4つある。

連続を重視するホワイトヘッドにおける抱握とは、過去と現在を束ね、そして新しいものを生み出すプロセスであった。そこには、束ねるというベクトルと、新しいものを生み出すというベクトルがある。

また、断絶側の武器としては、ハーマンの退隠がある。これはどこまでも逃れようとするベクトルである。加えて断絶側には入不二さんの破壊というベクトルがある。

連続側を白、断絶側を黒とするならば、白いベクトル2つと黒いベクトル2つがあると言える。

さらにこれらは2つの対にまとめることもできるだろう。白い束ねるベクトルと黒い退隠するベクトルという対、そして、白い生成のベクトルと黒い破壊のベクトルという対だ。

ホワイトヘッドは、有機体の哲学という体系を白い2つのベクトルのみをうまく組み合わせて描ききったのだろう。ただホワイトヘッドは黒いベクトルの力も無視しておらず、2つの黒いベクトルについては、神による充足した現実的存在の確保というかたちで無化していると言える。または、ゆるやかな宇宙的時間経過での変化というかたちで去勢したとも言えるかもしれない。

だとするならば、思弁哲学的には、全く別なかたちで、逆に、黒いベクトルが優位の哲学体系を描くことも可能だろう。しかし、一旦静的な体系として描いてしまえば、そこには連続性のある構造が含まれ、白いベクトルが優位にならざるを得ないので、図示できるような体系ではない、別の描き方が求められるように思う。

その闇の哲学がどのようなものになるのかは僕にはわからないが、ハーマンの退隠における、退隠した実体が時にマグマのように噴出することがありうる、という話は入不二さんの破壊の力と結び付けられるような気がする。また、消極的抱握から、完全な忘却につなげるような議論もできそうにも思う。

4 特異点の場所

対談において、入不二さんは、永井ファンでもある飯盛さんに向かって、永井さんやスピノザが見出したような特異点はどこにあるのか、と聞いていた。

ホワイトヘッドは同質・複数の「多」でどこまでいけるかを考えた哲学者であり、また永井ファンでもないので、そんなものはないと答えるだろう。飯盛さんだって、あくまでホワイトヘッドの枠内でオリジナリティを求めたのだから、そんなものがある訳がないように思う。

しかし、ここまで抱握について強調して述べてくると、どうもホワイトヘッドの抱握こそが特異点であるように思えてくる。

当然、抱握とは、世の中の出来事の数だけあるし、抱握により生じる現実的存在も様々だし、全く特異点的なものではないようにも思える。

しかし、考えてみれば、抱握により生じる現実的存在は様々だが、過去と現在のすべてを束ねて新しいものを生むという抱握のプロセスはひとつしかない。全く同一であるプロセスが多数あるということは、そこに特異さがあるという兆しではないのか。なぜなら、全く同じものが複数あるということは、それらをすべて合わせてひとつの群れとして捉えるか、唯一のものが複数のものとして現れていると捉えることが妥当だろうからだ。そう考えると、抱握を特異点と呼べるようにも思える。

もうひとつの特異点の候補を考えるにあたっては、ホワイトヘッドの哲学が思弁哲学であるというところに注目したい。ホワイトヘッドは、思弁哲学として、経験を十全に取り込んだ、論理的で整合的な体系を構築しようとした。飯盛さんによれば、その方針は非常に強力なものであり、その哲学の内容、つまり有機体の哲学の破壊をも許容するものであった。では、なぜこのような思弁哲学をホワイトヘッドが求めるのかというと、そこには何も理由はないはずだ。そこにあるのはホワイトヘッドの好みやこだわりでしかないだろう。

どこまでも「多」を追求したホワイトヘッドだが、ここで「一」個人としてのホワイトヘッドが登場してしまっている。つまり、思弁哲学という方針を定めた者であるホワイトヘッドこそが特異点なのではないだろうか。

5 有機体の哲学と思弁哲学の関係

ところで、飯盛さんは有機体の哲学と思弁哲学とは分けて捉えることができるとした。それが第4の断絶に続くという点で、まさに、この本の議論の山場だと思う。僕はその議論がとても面白いと思ったし、ここまでその線で論じてきた。

しかし改めて考えてみると、果たして本当にそうなのだろうか。

過去と現在のすべてを取り込もうとする抱握と、日記のようなものもふくめた知的営みをすべて取り込もうとする思弁哲学とには、強い関係性があるのではないだろうか。

この二つを対比してみると、思弁哲学自体が抱握というあり方をしており、また、抱握こそが思弁哲学の理想を具現化したものであると考えることもできるように思える。

そこには必然とでも言うべき関係性があるようにも思える。

そうだとするならば、ハーマンが自らの哲学を思弁哲学的に語るということはありえないということになる。思弁哲学においては、思弁哲学のような哲学が語られなければならず、有機体の哲学は、有機体の哲学のように語られなければならないのかもしれない。哲学の方法と哲学の内容は一致していなければならないのだろうか。

パルメニデスと非可算無限の話

プラトンの『パルメニデス』を読んだ。これは、僕の理解だと、若き日のソクラテスが、老パルメニデスに議論をねちっこく行う(永井的には「ひたりつく」)という哲学のやり方を教えてもらう話だ。
その教材として用いられるのが「一なるもの」についての話なのだけど、正直、その内容はねちっこすぎてさっぱりわからなかった。だけど、一つ収穫があったので、そのことを書く。

「一なるもの」についてなされる色々な話のなかに、一と無限を対比する箇所がある。これを読んでようやく、加算無限と非加算無限という数学上の概念が持つ意義が少しわかった気がしたのだ。
僕の文系なりの理解だけど、カントールは対角線論法により、加算無限と非加算無限では濃度の違いがあることを証明したとされる。これは僕がぎりぎり理解できた範囲で文系的な緩い説明するならば、加算無限の代表例である自然数と、非加算無限の代表例である実数とは、一対一に対応できないことを明らかにしたということでもある。
実数は自然数と一対一で対応できないのだから、自然数より実数のほうが大きい。これは、なんとなく文系の僕の実感とも合う気がする。自然数と実数を対応させるということは、実数を昇順に並べなければならないということだが、二つの実数「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・1」と「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・2」とを昇順に並べることは不可能だろう。なぜなら、二つの数の大小を判断するためには無限の1の羅列を最後まで目で追わなければならないが、それは不可能だからだ。非可算無限の集合とはつまりは、無限が含まれた数が要素として無限個含まれている集合のことだから、並べ替えてナンバリングすることなど不可能なのだ。その点で、ナンバリングできる無限である可算無限とは違う。
そこまではなんとなくわかるし、数学的には加算無限と非加算無限とを分けることには意義があるのだろうだけど、だからどうしたというのだろう。とにかく、僕には関係なさそうな話だな、そんなふうに考えていた。
しかし、『パルメニデス』を読んでいると、このカントールの話が哲学的に役立つように思えてきた。

老パルメニデスは、僕の怪しい理解によれば、一と一ではないもの(勝手に名づけるなら「非一」)との区別について論じている。
この区別は一見、容易なように思える。1、2、3という数字の羅列から、一と非一を分けろと言われれば簡単にできるし、ケーキが1つ乗っている皿と、2つ乗っている皿と、3つ乗っている皿を見せられて、これを一と非一に分けろと言われてもつまみ食いさえ気をつければ同程度に容易だろう。
だが、そこからパルメニデスは奇妙な話を展開する。
まず、パルメニデスは非一には一が含まれていてはならないことの同意を求める。確かにそうだろう。同意を求められたら、若きソクラテスでも僕でも同意するしかない。(「はい、そうではないことなどありましょうか。」などという言い方をするかどうかは別として。)
そこから、パルメニデスは、2という数字は1と1に分けられ、また、3つのケーキが乗った皿は、ひとつのケーキが三つ乗った皿という言い方ができるのだから、一が含まれているではないか、と指摘する。(実際はケーキを例にしていないけど。)そして、これらはいずれも、一が含まれているのだから、非一ではない、とする。僕もソクラテスもそれに同意するしかない。
この指摘に従えば、自然数や世の中の数えられる物体はすべてが非一ではないということになる。その物体が1つであれば、そこには一があるし、複数であっても、それを分ければ、そこに一が含まれているからだ。例えば、自然数以外の数の集合、例えば、{-3、1/3、π}という集合も、非一ではない。なぜなら、3つの要素をひとつずつ取り出せば、それは一つの数であり、そこに一が含まれるのだから。このように考えると、非一にあたるものなど何もないように思えてくる。

だが、パルメニデスは、非一にあたるものとして、「多多」というものを提案する。多多とは全体としても多であり、分割しても多であり、決して一にはならないようなもののことだ。当然、僕も、「多々」というようなものがあるなら、それは「非一」であることに同意するだろう。だが、そのようなものがありえるのだろうか。
例えば、3つのケーキは1つずつに取り分けると一になる。だがそのひとつのケーキを更に切り分けることもできて、そうすると1つのケーキは多になる。3つの多のケーキが多の部分に分解されるのだから、一見「多多」のようにも思える。しかし、残念ながらパルメニデスは、細かく切り分けられたケーキの一片をつまみ上げ、これは一ではないかと言うだろう。この例も一からは逃れられない。
それでは、すべての自然数というような、無限についてはどうだろう。残念ながら、この例もうまくいかない。なぜなら、全ての自然数という集合には、1が含まれており、そこから一を取り出すことは可能だからだ。または取り出す数字が1ではなくても、2でも3でも実は同じことだ。なぜなら、一つの数字を取り出すというということは、そこに一を見出すことができるということなのだから。多多であるためには、多としての全体から取り出した部分も多でなければならない。このようなことは自然数全体という加算無限については不可能だ。
では、非加算無限についてはどうだろう。残念ながら、実数全体というようなものを例とする限り、事態は変わらないように思える。実数全体のなかには、1は含まれており、それを取り出すことは可能だからだ。または、1が含まれていない非加算無限であっても、何か一つの数を取り出すことは可能であり、そこに一を見出すことができるとも言える。
このように考えると、パルミネデスの一と非一(=多多)とを対比する議論とは、そもそも非一(=多多)なるものなどないのだから、机上の空論であって、まさに頭の体操のように思える。

しかし、カントールの非加算無限の議論を思い出し、そこにヒントがあると気づいた。カントールによるならば、実は、非加算無限から、1であれ何であれ、ひとつの要素を取り出すことなどできないのではないだろうか。
どういうことか説明しよう。
非加算無限とは、加算無限である自然数と対応できないものであった。だから、非可算無限の集合、例えば、全ての実数という集合を昇順に並べ替え、ナンバリングするようなことはできない。ナンバリングできないということは、そこから一つの要素を取り出すことなどできないということではないか。なぜなら、要素を取り出すためには、どの要素を取り出すかを指定しなければならないが、非加算無限においては、その指定が不可能なのだから。つまり、要素の指定ということを厳格に考えるならば、非可算無限の集合から要素を取り出したり、非可算無限の集合を分割したりすることはそもそも不可能なのだ。
当然、要素の指定をせずに、非可算無限の集合のなかから、とにかく要素をひとつ取り出すことは現実には可能かもしれない。しかし、それは有限の集合や、可算無限の集合から、要素を取り出すこととは大きく異なる。有限の集合や可算無限の集合ならば、それを順番に目で追って、どれを取り出すか、取り出す前に指定してから取り出すことが可能だ。そして、実際に取り出したものが取り出そうとしていたものと一致しているかどうか確認することもできる。しかし、非可算無限集合の場合には、取り出すまでは何を取り出そうとしていたかはわからず、取り出して、その数を見て、初めて何を取り出したかがわかることとなる。この作業は取り出すというよりは、くじ引きを引くと名付けたほうがいいもののように思える。
僕のこのアイディアが正しいならば、実は、非加算無限の集合から、一つの要素を取り出すことはできない。これは、パルメニデスの言い方によるなら、非加算無限である多は分割できないということである。
パルメニデスの多多の定義とは異なるが、これこそが多多のことなのではないか。多を無限と読み替えるならば、多多とは無限の無限、つまり、加算無限のべき集合のことであり、非加算無限のことなのではないか。
このような意味で、多多(=非一)とは、非可算無限集合のことである、というのが、僕がこの文章で言いたかったことだ。

僕のような数学が苦手な文系の哲学好きのサラリーマンが、あえてこんな苦手分野の危うい話をしたのは、そこに哲学的含意があるからだ。
そのことを説明するために、一と非一(=多多)に加えて、もうひとつの分類を設けたい。一と非一(=多多)との間には、一多または多一または単に多とでもすべき領域があるのだ。

※ 多多と同様に一についても一一とでも言うべき困難があるのだが、ここでは省略し、仮に一とし、1がその具体例とする。

この領域を「多」と呼ぶならば、多という領域には、数を例にするなら、2から数え上げられる自然数から始まり、加算無限までが含まれる。
また、数に限定せず、この世界のものごとに広げるならば、「多」には、ほぼすべてのものが含まれる。なぜなら、この世界にあるたいていのものは数え上げられるものだからだ。目の前にあるペットボトル、イスや机など世の中にあるものはたいていが数えられるものだ。少なすぎて数え始めることができない一や、多すぎて数えられない多多(=非一)ではないすべてのものは多であると言える。
さらには、数えられるものとは、名前がついていて、その名前により、そのものごとを指し示すことができるもののことだとも言える。なぜなら、名前で呼ぶことができるということは、複数存在しうるもので、数え上げる可能性を含むものだということだからだ。(永井的には「ものごとの理解の基本形式」に収まっているからだ、とも言える。)
いや、ペットボトルや椅子はともかく、液体状で数えようのない水や、ひとつしかないので数えようがない太陽のように、名前がついていても数えられないものもあるといわれるかもしれない。
しかし、水については、数え方さえ決めれば数えることは可能である。コップ3杯分の水を、水3つと言うことは、思考実験的にも、ラーメン屋的にも可能である。太陽についても、例えば、地球が二連星の惑星だった場合などを考えればいいだろう。その場合、その恒星のうちのひとつが雲で隠されていたなら、太陽が一つだけ見える、というようなことが言えるはずだ。つまり太陽はたまたま一つしかなかっただけに過ぎない。
これらは、一ではないが、ひとつひとつに分割することができ、一が含まれていることから、非一(=多多)でもないことから、いずれも多であると言える。

では、多ではないもの、つまり、一や非一(=多多)となるものは、数ならば、1や非可算無限のことであった。では、数以外の世界のものごとの場合には、何が一や非一(=多多)に該当するのか。
いずれも、数え上げることができないものであり、名前がついていないもの、または、名前がついていても、その名前で、そのものごとを指し示し切ることができないものだろう。
一については、今回論じていないので結論だけ言うならば、それは、自我や実存と呼ばれるようなものだろう。僕の実存が二つあるとは言わないし、僕の自我と誰かの自我という呼び方をしたとしても、僕の自我と言うときの「自我」と誰かの自我と言うときの「自我」が同じものを指すとは言えない。つまり、「自我」という言葉では、自我を指し示しきれていない。これらのことは、自我や実存が多ではないというということを示しており、それならば、多ではなく一だと言ってよいだろう。(この話は、永井均の独在論の入り口にあたる。)
では、非一(=多多)とは何かというと、それは、神のことなのではないだろうか。宗教学的な視点に立つ限りは、あの神、この神という言い方はできるし、神の数を数えることもできるだろう。しかし、信仰の内側に立つならば、神はひとつしかありえず、神を数えることはできない。(多神教であれば、神の数は、その登場する神の数で数えるのではなく、その神話体系の数で数えることとなる。)これこそが、多ではない多多のことなのではないだろうか。
なお、神とは、信仰がない人であれば、世界全体やスピノザ的な神と言い換えてもいいだろう。または、唯物論者なら科学の体系全てと言ってもいいかもしれない。これらは、多すぎて多を超えてしまった多多なのだ。

数としての1が自我や実存についての話に深く関わっているように、非可算無限は世界や神に至る道につながっているように思える。というか、非可算無限という特殊なあり方をしているものの先に見いだされるものは、世界や神といった特殊なものごとであるべきであるように思える。

このようなことが語りたくて、僕は、ここまで非可算無限の話をした。
非可算無限とは、世界や神といった、そう簡単に理解できそうにないものにつながる道の入り口にありながら、簡単に理解できるものだ。ここに、この話の面白さがあるように思う。
簡単な話を簡単なまま捉えることは簡単だし、難しい話を難しいまま捉えることも多分それほど難しくない。一方で、難しい話を簡単に捉えることはとても難しい。非可算無限という切り口には、その難しいことを可能にするような糸口があるように思える。
もしかしたら、非可算無限とは、本質的に理解できうるものと理解できえないものとの間の接点にあるのなのかもしれない。

永原真夏さんの歌

昨日、永原真夏さんのライブに行った。SEBASTIAN X 時代に行ったきりだから、7,8年ぶりかもしれない。(対バン?のむぎ(猫)目当てもあったのは内緒。。。)
ひさしぶりに、彼女の力強い声と、跳ね回る姿にパワーをもらった。

そのなかでも、昨日のMCでの彼女の言葉がとてもよかった。
歌い、踊りながら彼女は言った。「みんなも、歌ったりするといいよ!」と。

僕にとっての「歌う」とは、きっと、文章を書くことなのだろう。
僕は、彼女の歌声のような、彼女のステップのような、自由な文章を書きたい。僕は、僕の全存在が震えるような、魂を叩きつけるような、世界をハグするような、文章を書きたい。
というか、書いているつもりだ。
僕は、僕の文章に、愛とか喜びとか暴力とか、そういう僕の命の全てを込めようとしている。

僕が書く文章は哲学的なものだ。だから僕は、僕の文章が、論理的で、冷静なものであるように心がけている。
だけどそうするのは、僕にできて、僕がやりたくて、僕がやることが誰かに望まれている(かもしれない)ことが、たまたま、論理的で冷静な、哲学的文章を書くことだったからに過ぎない。それが僕の「歌う」なのだ。

「歌う」とは、やはり彼女のキーワードである「遊ぶ」に置き換えてもいいだろう。
だから、僕が、僕の文章の中で、誰かの主張を 論理的に論破し、 否定したとしても、それは、その人を否定したり、低く評価したりしている訳では全くない。更に言えば、その人の主張を否定した訳ではないとさえ言えるかもしれない。誰かの主張に注目することは、面白いおもちゃを見つけることに近い。文章のなかで誰かの主張を否定したり、分析したり、ずらして解釈したりするのは、ミニカーを並べたり、粘土をこねまわすことに似ている。怪獣にやられたミニカーをひっくり返したり、粘土をテーブルに叩きつけたりしても、それはミニカーや粘土を否定したことにはならないし、僕が文章のなかで誰かの主張を否定しても、それは誰かの主張を否定したことにはならない。
だから、少なくとも、僕が、僕の文章の中で、僕の主張が論理的に優位に立っていることを明らかにしたとしても、そのことが、「正しさ」のような、客観的に測ることができる価値に結びつくことはない。なぜなら、僕はただ歌っているだけなのだから。

昨日、彼女は、「言葉にしようとすると、どんどん逸れていってしまう気持ちがある。」とも言っていた。その気持ちとは、ステージ上で、まさに彼女が抱えている気持ちのことだ。
その気持ちを言葉にすることはできない。だから、彼女は、歌い、踊るのだ。

僕も同じように、決して言葉にできないから、僕なりの「歌う」として、哲学的な文章を書く。
そこに、僕の場合の「歌う」のややこしさがある。
僕の「歌う」は、「論理的で、冷静な、哲学的な文章を書く」ことだ。だけどそれは、「説明する」ことに似ている。だから、僕がやっていることは、決して言葉にできないことを、説明することのように見えるかもしれない。
明らかにそれは不可能だ。だから、僕がやっていることは、ある人からは、傲慢で、根源的な間違いを犯しているように見えるはずだ。
だけど、僕が哲学的な文章を書くときにやっていることは、あくまで、「説明をする」ではなく「歌う」だ。僕は、彼女のように、歌い、踊っているだけなのだ。

哲学における誤解や混乱の多くは、ここにあるように思える。
哲学以外の「歌う」がある人が、哲学に「説明をする」を持ち込み、哲学にしか「歌う」がない人が歌うのを聞き、それは説明としておかしいと問題視するようなことが起きる。
または、哲学にしか「歌う」がない人が、誰かの「説明をする」としての哲学を、歌だと勘違いし、それにあわせて一緒に歌おうとするようなことも起きる。
そういうことが続くと、僕は、誰かと哲学的とされるようなやりとりをすることが嫌になる。文章の上でのものであっても、リアルのコミュニケーションであっても。

だけど、昨日のライブに行き、そういう誤解や混乱さえもこねくり回して楽しむことこそが、「歌う」なんだろうなあ、と再確認した。彼女の内に宿っている、そんな根源的な肯定性に、僕は癒やされるんだろうなあ。

東京メタ哲学カフェで 『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』の話をしました ~「J-哲学対話」の提案~

1 はじめに

東京メタ哲学カフェという、哲学カフェの進行役をしている人などが集まって哲学カフェについて話す場がある。そこで、僕が進行役を務める会があり、土屋陽介さんの本『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を取り上げた。

この本の魅力は、やわらかい文章のなかに漂う哲学的厳しさの匂いにあると思う。

僕は永井均さんの信者(正確には永井さんよりは入不二基義さんのファンですが)なので、永井さんの弟子である土屋さんの文章のなかに漂っているのは永井的な匂いだと思っている。

進行役として、会の冒頭でひととおり本の説明をするにあたって、そのあたりについても説明した。永井さんの『転校生とブラックジャック』から「哲学的議論のための要諦」の文章なども使って。

2 永井とリップマン 哲学対話の厳しさ

そのせいか、参加者からは、土屋さんの本が描く対話像はちょっと厳しすぎるのではないか、という意見が多かった。例えば、哲学対話とは常に真理を求めるものだろうか、というような意見だ。

少々意外だったのは、そこに厳しさを感じる原因は、マシュー・リップマン的な批判的思考の重視と、ハワイのp4c的なケア的思考の重視の違いにあるではないか、という意見があったことだ。つまり、土屋さんはリップマン的だから哲学対話の厳しさを強調している、ということになる。

永井信者の僕から見ると、土屋さんの厳しさとは、明らかに永井さんの哲学的厳しさと同質のもので、リップマンの教育上の批判的思考の重視とは全く次元が違うもののように思える。

僕の見解をはっきり言うならば、永井は哲学だけど、リップマンは哲学ではない。それほどの違いがそこにはある。

その違いは、誰が探求の共同体への参加資格を有するかを問うことで明らかになる。リップマンならば誰でも参加できると答えるだろう。一方で、永井ならば参加できる人は限られると答えるはずだ。(さらには、参加できる人などほとんどいない、と答えるかもしれない。)

僕は、部外者で単なる哲学好きだから、永井の意見に全面的に賛同する。だけど、哲学者であり学校関係者でもある土屋さんは、そこで迷うのではないか。土屋さんは、悪く言えば、その間で揺らいでいるように思うし、良く言えば、その両者を架橋しようとしている。
つまり、誰もが、永井のような哲学をやることが可能となる世界を目指している。(実際やるかどうかは別として)

それは、確かに大事なことのように思うが、とても困難な事業だろう。だが、言葉や論理だけでは不可能だとしても、土屋さんの人格を総動員すれば、一歩、その方向に進むことは可能かもしれない、とも思う。

その理想的な到達点を表現する言葉はまだない。(あれば到達できてしまう。)それならば、その理想郷をなんとかそれっぽく描写するために、あえて永井的な視点とリップマン的な視点とを同一視し、両者の間に横たわる断絶をあえて圧縮し、同じものとして理解することには意義があるのかもしれない。(それは永井的には、〈私〉と《私》の同一視の問題に近いかもしれない。)

3 脱線と話の流れ

なんていうことは、会では「全く発言せず」に、話を続けた。すると、ほかにも興味深い話がいくつも出た。

まず、哲学対話とは一義的に真理を求めるものなのか、という話題のなかで、対話のなかで脱線した発言はどこまで許されるのか、という話になった。

哲学カフェの進行役として脱線があった場合の対応策としては、脱線したままがっつり話すとか、流れにまかせるとか、頃合いを見て元のテーマに戻すとか、少なくとも今何の話をしているかは明確化するとか、いろいろと出た。

それはそれで聞きたかったことなのだけど、もうひとつ、本当にそれは脱線しているのか、という問題の話が興味深かった。

傍目からは脱線しているように見える発言をしたように見えても、発言をした本人にとっては、その発言は脱線していないはずだ。その人にとっては、その発言は、話の流れの本流、ど真ん中にあるはずだ。だからこそ発言したのだろう。

話の流れをどう捉えるかは参加者によって異なり、認識にずれがあるから他の人からは発言が脱線しているように聞こえてしまう。

それでは、話の流れとは何だろう。

参加者からは、論理的なものなのではないか、という意見があった。

論理的にしっかりとしたかたちで進むことこそが理想的な対話のようにも思える。例えば、理想的な対話は「Aである」「それはなぜか」「Bだからである」「いや、Cだからではないか」「なぜか」「BだとするとDの問題が生じるが、Cならばその問題は生じないからだ」というようなかたちで行われる。このように論理の流れに乗ることこそが、話の流れに乗ることではないか、という意見だ。

だが、哲学カフェでは、そのようなかたちでは議論は進まない。ある参加者が言っていたが、哲学カフェはまるでカラオケ大会のようだ。みんなが交互に楽しそうに歌い、交互にそれを聞いている。そこには一本の流れなどない。だから哲学カフェでの脱線は、「ある程度なら」ウェルカムだ。哲学カフェには確かにそういう側面がある。

4 カラオケ大会

ここからは会で発言しなかったことだが、カラオケ大会にも、よいカラオケ大会と悪いカラオケ大会があるのではないか。

よいカラオケ大会として思いつくのは、僕がファンである入不二基義と森岡正博の共著『運命論を哲学する』だ。

この本は、二人の哲学者の哲学の応答、再応答という構成をとっている。この本の中で、二人の主張は、絡み合い、離れ、また接近し、離れる、とダンスのように進んでいく。二つの哲学が互いを触発し、互いに触発されあいつつ、深まっていく。

ここで重要なのは、両者の議論が全く重なることはないという点だ。ある瞬間、両者が合意し、同じ景色をみているように見えても、それは仮のものであり、いずれは別の道を進んでいくことになる。だからと言って二人の議論がかみ合っていないかというとそんなことはなく、互いに影響を与え合い、二人は自らの哲学を研ぎ澄ませていく。

これこそが、よいカラオケ大会の代表例と言ってよいのではないか。このような、それぞれ自分の歌を歌いながらも、互いを高めあうようなカラオケ大会もある。

悪いカラオケ大会との違いは、聞き手のスタンスにあるだろう。よいカラオケ大会は、ほかの人の歌をきちんと聞いて、合いの手も入れるが、悪いカラオケ大会では次に歌う自分の曲を選ぶのに夢中でひとの歌など聞いていない。

また、歌い手側にも、聞くに値する歌を歌うかどうか、という違いがあるだろう。上手であれば当然聞きたいし、自分の興味に沿った歌なら上手でなくても聞いてみようと思うし、下手で興味と多少ずれていても本気の歌なら聞いてあげようと思う。だから、よいカラオケ大会では、選曲を気にしたりもする。あの人は松田聖子を歌っていたから、僕も少年隊にしこうかな、というように。悪いカラオケ大会では、めいめいバラバラなジャンルの歌を歌っている。誰も知らないインディーズバンドの間奏が長めの曲を歌ったりもする。

同じことが、哲学カフェでの発言でも言えるのではないか。

そうだとするならば、議論の流れのよしあしというのは、少なくとも論理の側面からのみ捉えられるような単純なものではないように思える。

5 哲学対話と会話の違い 新しさ

また、土屋さんの本では、哲学対話と会話の違いについて論じられているので、その話にもなった。「土屋さんは真理を求めるのが哲学対話としているけれど、違うのではないか。」「違うとしたら哲学対話とは何を求めるものなのだろう。」というように。

興味深かったのは、色々話した末に、哲学対話とは「新しい気付き」を求めるものだ、という(当面の)結論に至ったということだ。つまり「哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場である。その点でデザインされていない会話とは異なる。」という見解にたどり着いたのだ。(僕なりのまとめです。)

なかなかいい結論だと思う。少なくとも「新しい気付き」というのは哲学対話の重要なキーワードだろう。そのときの話にも出たが、河野哲也さんの本『人は語り続けるとき、考えていない』でも「新しさ」が強調されている。

通常の会話でも、たまたま新しい気付きが得られることはあるが、哲学対話というのは、ただ新しい気付きを得ることだけを貪欲に求める場なのではないか。その目的のために特化するかたちでデザインされた場なのではないか。

そして、「新しさ」は、「本気さ」とも関わっている。参加者からの本気の発言だからこそ、その新しさが浮かび上がる。どんなに珍奇で新しい話であっても、言葉遊びのような軽薄な思考実験のようなものでは心に響かない。哲学史的には手垢がついたようなアイディアであっても、それが誰かの心からの言葉であれば、それは新しさをもって立ち現れる。だから哲学対話では、「新しさ」と「本気さ」が重要だ。

(思考実験を否定的に扱いましたが、哲学では思考実験が重要となることがあります。それは、哲学者の本気を伝えるために思考実験が使われているからなのだと思います。)

この「新しさ」の重要性は、土屋さんの本のクライマックスとも言える、透明化・不透明化の話とも結びつく。

概念を鮮明化し、どんどんわかっていく過程としての透明化と、それに逆行するような、どんどんわからなくなっていく過程としての不透明化の話だ。

参加者からは、この不透明化という言葉が適切ではないのではないか、という話が出た。「そもそも」を問うことは、盲点のように見落としていた点に気付くとも捉えることもできるから、それも、わかっていく過程のひとつとしていいのではないか、という見解だ。いずれもわかっていく、であり、わかり方には二通りあるということになる。

確かにそれでもいいような気がするが、やはり、わからなくなっていく過程と考えたほうが、含蓄があるような気がする。そのほうが、参加者から出てきた「未熟」という言葉も活きる。

不透明化とは、自分が未熟であることに気付くということではないか、というようなかたちで「未熟」という言葉は登場した。「未熟」という言葉に力点を置くなら、不透明化とは、いわば、若返り、子供に退行するようなプロセスとも言える。

この、「未熟」になることと、「新しさに気付く」こととは直結するのではないか。

哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場であるならば、それは参加者が未熟になる場であると言い換えることもできるように思える。

このアイディアは、多分、河野さんの意見にかなり近いところにあるように思う。哲学対話を、透明化と不透明化の往復運動のように捉える土屋さんと、不透明化を重視する河野さんという力点の置き方の違いなのかもしれない。

6 ケア的思考

また、今回、他の参加者と話していて、僕にはケア的思考が欠落していることに気付かされた。

僕にとって、ケア的思考とは、哲学対話の場では、発言者が、上下関係とか、生活上の利害といったものから解放され、そのせいで発言者が傷つけられることはない、という程度の意味で解していた。土屋さんの本からは、多分、土屋さんもそのように考えているように読める。

だけど、今回の参加者の多くにとってはそうではなかったようだ。哲学対話を実践する人たちの多くは、簡単に言えば、「哲学対話の場においては、発言者は、ほかの参加者が傷つかないよう、配慮して発言すべきだ。」と考えている。これこそが、ケア的思考であり、そして、その配慮の有無が哲学と哲学対話の大きな違いだと考えている。僕が考えていたのは話し手に対するケアで、他の参加者が考えていたのは聞き手に対するケアだったのだ。

この観点は、今回の会で話に出た、「大人の哲学対話と子供の哲学対話の違いは何か。」という問題や、「哲学対話は共同体を構築するのに役立つのではないか。」といった話題にもつながる。いずれの問題も、ケア、他者への配慮、ひいては教育という問題が色濃く関係している。

ところで、土屋さんは、本の中で、哲学対話において行われていることを「議論」と表現している。哲学対話とは哲学と同じように、真理を求める議論であるという意味を込めているのだろう。

しかし、参加者からは、「議論」という言葉への違和感があるという意見があった。哲学対話で行われている「対話」とは「議論」とは異なる、もっと優しい営みなのだ、という意見だ。だから、膨大な知の蓄積を武器に、相手へのケアなどは考えずに議論を戦わせる哲学と、素手で、優しく相手を思いやりつつ楽しむ哲学カフェとは大きく異なる、ということになる。

別の参加者が、哲学と哲学カフェの違いを寿司とカルフォルニアロールの違いとも言っていた。うまいことを言うなあ、と思った。確かにそうだ。

だけど、その人は、哲学と哲学カフェの違いを強調する意味で、この比喩を用いていたけれど、僕の理解は違う。どちらも米と海苔を使っているじゃないか。やはり、哲学と哲学カフェはつながっているのではないか。寿司とカルフォルニアロールという言葉からはその、つながりも強調できるのではないか。

哲学と哲学カフェは、大きく違っているけれど、やはりつながっているのだ、と僕は思いたい。

そうだとするならば、ケア的思考に込められた二つの意味、つまり、安心して発言できるという話し手へのケアと、ほかの参加者を傷つけないよう配慮して発言するという聞き手へのケアともつながっているのではないか、と僕は思う。

話し手が心から安心して発言できる場が確保されていれば、それ以上の配慮は必要ないのではないか。そのような場では、自動的に、話し手の発言により聞き手を傷つけるようなことなど起こらないのではないだろうか。

7 さいごに J-哲学対話

この会では、他にも色々と面白い話が出たけれど、僕にとって特に興味深かった点についてだけ、それも、考えていたけれど話に出さなかったことや、そのあとに考えたことも含め、雑多にメモしてみた。

今回は、とても楽しくて、色々考えさせられた。それは、土屋さんの本と参加者の皆さんがいい感じで、そして、僕自身もいい感じだったからだと思う。最後に全員に感想を聞いたところ、それぞれ、重要と感じた点は違ったようだけど、皆さんにとって、いいカラオケ大会だったならいいなあ、と思う。少なくとも僕は楽しく歌わせていただきました。

ここまで書いたことを読み返すと、今回出た問題の根底には、冒頭に書いた、リップマンと永井の違いの問題があるように思える。

誰もが一緒に哲学を育むことができると考えるリップマンと、限られた参加資格を有するひとだけが、ともに哲学を育むことができると考える永井の違いだ。

永井的な道筋を重視することで、これらの問題は一挙に解決できそうな予感がある。

突然だけど、ここで出てきた日本人の哲学者、永井さん、入不二さん、森岡さんは、いずれも現代哲学ラボという哲学対話とも関係が深い活動に関わっている。(最近活動がないけど、活動再開を熱望します!)紹介した『運命論を哲学する』という本は、現代哲学ラボでの活動がもとになったものだ。

この本の前書きで、森岡さんは、彼らの哲学をJ-哲学と名付けている。僕の理解では、彼らの共通点は、自らの哲学的驚きに基づき、自らの言葉で、自らの哲学を構築しようとしているという点にある。このような本物の哲学が、今、同時多発的に、この日本で、日本語で行われているという稀有な状況にあるのだ。これが、J-哲学とあえて名付けたことの意味だろう。

そして、このJ-哲学は、アカデミックな論文ではなく、自らの言葉で構築されているという点で、哲学対話という活動に非常に親和性が高いように思える。そして、実際に、哲学対話と結びつこうとしている。

僕は、J-哲学と結びついた哲学対話をJ-哲学対話と名付けたい。J-哲学対話は、ソーテやリップマンやハワイのp4cといったものとは別の、もうひとつの哲学対話の潮流として位置づけることができるのではないだろうか。あえて言うならば、J-哲学対話こそが(そのネーミングがいいかどうかは別にして)、本物の哲学と直結した本物の哲学対話ではないだろうか。

意識的か無意識的かわからないけれど、それをやろうとしているのが、土屋さんの本のように思える。