哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

心がこもった言葉と沈黙の時間

1 僕のパターナリズム的傾向

僕はパターナリズム的な傾向が結構強い。職場では放っておいても偉そうになりがちな年齢的になってきているし、参加者との平等な対話を目指す哲学カフェなんていうイベントもやっているので、日頃から、なるべく余計なことは言わないように心がけている。だけど、そういう場を離れると、妻や子どもには、つい、アドバイス的なことを言いたくなってしまう。

この話における一番大きな問題は多分わかっている。きっとこれは自他の同視に由来する問題なのだろう。僕は家族のことを自分の延長のように考えていて、まるで自分の手足のように妻や子どもを扱い、手取り足取り指示したくなってしまうという問題だ。これは単純に避けるべき行動であり、自分からそのような行動傾向を取り除くよう日頃から心がけることにより解決できるたぐいの問題だ。

2 最善の世界

だけど、ふと、別の問題が隠されているのではないか、と思いついた。僕は、つい言いたくなってしまいがちな独特の思考回路を抱えてしまっているのではないだろうか。

子どもを叱る場面を例として他の人との違いを描写すると、多分、多くの人は子どもを叱るのは、きっと自分にとって大切な子どもが幸せになって欲しいからであり、それが自分にとっての喜びであるからなのだろう。一方で、僕が子どもを叱るのは、その子どもの振る舞いが世界のあり方を損なっているように感じるからなのだ。僕は我が子のことをよく知っているから、彼女の潜在的能力をある程度わかっているつもりだ。その能力が適切に発揮されないとき、僕はそれが我が子にとってだけではなく、世界にとっての損失であると感じる。

当然、これは極端な述べ方であって、僕も子どもの幸せは願うし、多くの人も自分のことだけではなく世界のことを考えているだろう。だけど、僕は人よりも一般化して、世界というような視点で物事を捉えがちなのは確かだと思う。

僕は、世界は最も善いあり方を目指すべきである、と強く考えている。その奥には、僕自身が最善の世界を目指す営みに関わるべきという考えもある。更にその奥には、最善の世界を目指す営みに関わることこそが、僕自身の最善の生き方であるという考えもある。こうして、最善の世界という観点は僕自身に深く関わっている。

だから最善の世界を手に入れられなかったときに僕の中に生じるのは怒りというよりも後悔である。僕自身が目指すような生き方ができなかったという後悔である。

このような僕の思考回路と、僕のパターナリズム的な傾向は避けがたく関わっているように思う。

3 最善を見つけるための時間

だから僕は最善を目指すことにこだわりすぎていて、きっと押し付けがましい人間になっているのだろう。僕はこのこだわりを捨てるべきであり、せめて少し弱めるべきなのだろう。だけどそれは、ほぼ自己否定をすることに等しい。これは受け入れられないことだ。最近までどこかでそんなふうに考えていた。

だけど、ふと、その目標設定はこのままでいいのではないか、見直すべきは最善を目指すこととは別のところにあるのではないか、と思いついた。見直すべきは最善を目指すという目標設定ではなく、そのやり方、つまりテクニックなのではないだろうか。

僕は一気に最善に至ることを目指しすぎていた。だから僕は家族に一挙に説明し、彼らの理解を一度で得て、彼らが一挙に変化することを期待していた。だが、このような一気に最善を目指すようなやり方自体が既に最善なものではない。なぜなら、一気に最善に至るという道筋は、僕が既に最善を知っていることを前提にしているからだ。しかし僕は最善を知らない。なぜなら、関係者(または当事者)である彼らの考えを彼らの口から聞かなければ、僕は最善がどのようなものなのか知ることはできないからだ。最善を目指すにはまず、家族とともに最善を見つけなければならない。

なお、以前から僕はその点は意識していて、僕がパターナリズムを発揮するときにも、彼らの話を聞くように心がけてはいた。だが、重要なのは、彼らが話す準備ができているとは限らないということにある。彼らの話を聞くためには、彼らの考えがまとまり、それが自然に出てくるのを待たなければいけない。また僕自身も、彼らの言葉を聞いてそれを消化する時間が必要となる。つまり、究極の最善を目指すためには合意という手続きだけではなく、合意に至るまでの時間が必要なのだ。

だから、最善を目指すためには最善に到達しようとしすぎてはいけない。最善を目指すには時間が必要であり、その間も人はなんとか生きなければならない。それはつまり、最善ではない人生を生きざるを得ないということである。最善を目指す生き方をするためには、最善ではない人生を生きるしかないならば、性急に最善に到達しようとする心構え自体が大きな誤りだということになるだろう。

言い換えるならば、最善に至ろうとしていくら失敗しても、いくらでも再チャレンジは可能であり、それこそが最善に至るための唯一の道であるとも言うことができるだろう。そこでの失敗とは修正可能な誤りであり、最も大きな誤りは、一度限りで最善を目指すという考え方なのである。

4 最善を目指すコミュニケーションにおいて用いる言葉

僕は少し肩の力を抜いて、最善の世界を目指しすぎずに、最善の世界を目指していこう。

そのために必要な現実的なテクニックは、きっと、あまり押し付けずに言葉を小出しにすることなのだろう。

多分、僕の家族に限らず人は、人の話を聞くことができるキャパシティがある。その容量は人によって違うだろうし、気分や体調などによっても違いはあるだろうし、話の内容に対する興味などによっても違うだろう。僕は、きちんと説明しようとしすぎて、その限界を超えてしまうことが多かったのではないだろうか。人はそれほど人の話を聞くことはできないのだ。

また、僕は人に説明する際に、論理的にやりすぎていたように思う。論理的な説明は冗長になりがちだし、論理が複雑になるとわかりにくい。論理的な説明というのは、あまり理解をとりつけられないうえに、冗長で相手のキャパオーバーになってしまうことが多い。僕はそれを相手の論理的な能力の欠如によるものではないかと考えたこともあったけれど、きっとそれは僕自身も含めた人間というものの性向なのだと思う。

もしそうならば、僕はどうしたらいいのだろう。

僕は長らく論理的なやり方以外を知らなかった。少なくとも意識したことがなかった。論理的でない説明とは、単なる非論理的な説明であり、単純に誤りだと思っていた。論理的で冗長な説明を避けて説明を断片化するということは、単にその説明を非論理的で劣ったものにしてしまうということだと考えていた。

だが哲学カフェをしていて、論理的ではないけれど力を持つ言葉というものが存在することに気づいた。簡単に言うならば、非論理的であっても感情が乗った言葉には圧倒的な力があるのだ。言葉の濃度や重さと言ってもいいだろう。僕は哲学カフェでそのような言葉に出会い、ダンベルで殴られたような力を感じることがあった。(殴られたことはないけれど。)

きっと、最善を目指すコミュニケーションにおいては、このような言葉が重要なのだろう。僕は論理的に断片化されてはいても、そこに心がこもった強い言葉を語るべきなのだ。

5 伝達の速度・触媒としての言葉

もう一つ必要なのは、言葉にしない時間である。沈黙と言ってもいいだろう。

僕はどうも喋りすぎるところがある。だが言葉を理解するためには沈黙の時間が必要だ。それも人によって必要な時間が違う。僕は比較的短い時間しか要らないほうだが、哲学カフェをやっていて感じるのは、必要な時間は人によって全然違うということだ。哲学カフェの参加者のなかには、何分も経って話題がかなり進んでから、さっきの話題に戻る人が結構いる。ここにあるのは言葉が伝わるために必要な時間の違いなのだろう。決して能力の問題ではないのは確かだ。(僕は時間をかける人からのほうが、より面白い言葉が出る過可能性が高いとすら思う。)だから言葉をきちんと伝えたいならば沈黙の時間が必要だ。または非言語の時間と言ってもいいだろう。テレビを観てもいいし、全く違う話をしてもいいし、風呂に入って寝てもいい。その間に言葉はゆっくりと伝わっていく(こともあるし、伝わらずに終わることもある)。

なお、伝達が成功したとき、人は沈黙の時間または非言語の時間に何をしているのかといえば、きっと頭のなかで、自分の心の中で自分との間で言葉を交わしているのだろう。そのようにして、耳にした言葉を自分の言葉に置き換えたりして理解しようと努めているのだろう。またはさっき聞いた言葉を触媒のようにして、自分の考えを深めていると言ってもいいかもしれない。

きっと人の理解とは、誰かから聞いた言葉が直接理解につながるというようなあり方はしていない。多分、人は、自問自答するようにして発した自らの言葉でしか何かを理解することなどできない。それならば、僕が家族にできるのは触媒のような言葉を投げ、それにより彼らのなかで科学変化が起きるのを待つだけということになる。当然、その逆もしかりである。そこに必要なのは心がこもった言葉と沈黙の時間である。僕はそんなふうにして、世界と、または世界を構成する人々と、最善を目指していきたい。

僕の生き方の指針 3×3のマトリクス 時間と心身

0 はじめに

この文章では、僕にとって興味深かった2つの本を導入として用い、僕が考える生き方の指針について述べ、最終的には時間論と心身論(の入り口の話)につなげていきたい。なお書いた主な意図は、僕の生き方の指針を紹介するためである。

1 面白かった自己啓発書・ビジネス書

僕はあまり本を読まないのだけど、自己啓発書やビジネス書を何冊か読んだことがある。そこから全く新しい知見を得て、その人生訓を自分の人生や仕事に活かしたいというよりも、なにか哲学的問題に参考になるアイディアを見つけたい、世間で求められているものを知っておきたい、といった動機から読んでいる。

このジャンルで面白かったのは次の3冊だ。(仏教系、マインドフルネス・瞑想系、哲学者が書いた文章は除いています。)

①ビジョナリー・カンパニー2

②夜と霧

③7つの習慣

いずれも有名な本なので内容の紹介は省くけれど、①と②は新しい気付きがあったという点で僕にとって重要な本で、③は僕が考えていることに結構近くてうまくまとまっているという点で心に残ったものだ。

③については、いつか僕自身が自己啓発書を書くときに使いたいと思っているので、この文章では、①ビジョナリー・カンパニー2、②夜と霧という2つの本から気づいたことを取り上げたい。

2 ビジョナリー・カンパニー2

ビジョナリー・カンパニー2を読んで僕が感銘を受けたのは、企業には天命・ミッションのようなものがあり、そこにひたすら打ち込む企業こそが成功するという話だ。(このような述べ方はしていなかったけれど、あえて僕の理解で書くとこのような話だった。確かハリネズミやはずみ車に喩えていたと思う。)

僕はそれを個人に置き換えて解釈した。人には天命・ミッションのようなものがある。それこそが人生の意義であり、生まれてきた意味である。ただし、天命・ミッションとは探して見つけるものではない。ただそれをやり続けることで、振り返ってみるとそれが天命でありミッションであったと気づく類のものなのだ。

僕にとっての天命・ミッションは哲学をすることだ。これほど僕に合っていてやり続けることができているものは他にない。ビジョナリー・カンパニー2が言っていること(をより巷で使われている言葉に言い直すなら)、哲学とは僕が「できる」ことであり、僕が「やりたい」ことであり、やることが「求められている」ことだ。この3つが揃うなんてことはそうなかなかない。

(最後の「求められている」が怪しいけれど、僕自身は、僕の哲学には従来の哲学では述べられたことのない新たな発見が含まれていると確信しているので、そこに求められるべき価値があると信じている。)

だから僕は、僕自身が人生を生きるにあたっての指針に「天命」と書いている。僕は時々、そんなことを思い出しつつ生きている。

3 夜と霧

ビジョナリー・カンパニー2はビジネス書寄りすぎるので万人には勧めにくい。(例えば、僕がビジョナリー・カンパニー2に感銘を受けたのは、その主張の内容よりも、主張がデータで裏付けされているという点にあるのだが、そこを冗長だと考える人も多いだろう。)

もうひとつの夜と霧のほうは万人に勧めることができる。この本はとても深い。僕はそこから、これから述べるようなことを学んだが、人によって色々な読み方ができるだろうし、きっと読み返すたびに新しい発見があるだろう。

この本を読んだときの感想は既に書いている(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/)ので、ここでは、その一部だけをとりあげたい。

僕が心に残っているのは、あと数日後に収容所で死のうとする若い女性が人生に感謝し、マロニエの木と語らうエピソードだ。

このエピソードは、僕に、どんなときでも人は成長できるということを教えてくれる。絶滅収容所の中のような厳しい状況においても人は成長できる。それならば、きっと、いつでもどこでも人は成長できるはずだ。また、成長にそのような普遍性があるのは、人生において成長が必須のものであるからに違いない。だから僕は、僕自身が日々を生きるにあたっての指針に「成長」と書き加えた。

なお、成長は変化とも言いかえることができるだろう。僕は今までの自分に囚われず、日々新しくなってもいい。昨日までの自分が想像しなかったような僕になってもよい。なぜなら、それこそが人生の意義だからだ。だから成長とは変化であり、更には自由ともつながっている。

4 指針のリスト化

ここまでで僕の人生の指針には「天命」と「成長」という二つの言葉が書かれることとなった。

なんでもMECEなリスト化をしたくなる僕としては、他にも書き加えられるべきものがないか考え、思いつくままに書き出してみた。

まだ整理しきれていないけれど、当面のリストは次のようになる。

(既にどこかで書いていたらすみません。)

①成長

②天命

③上達:家事や趣味などに習熟して上達すること

④健全な心:うつ病になったりしないこと

⑤節制:酒に耽溺したり、極端な考えに囚われたりしないこと

⑥健全な体:肉体の健康と言ってもいい 体が資本というやつ

⑦こだわり:家族や趣味といったものへのこだわり(仏教なら執着か)

⑧記録:(この文章のように)書き記すこと

⑨身体的欲求:食欲、性欲など求めずにいられないもの

(なお、⑦と⑨については少し説明が必要かもしれない。いずれも、こだわりや身体的欲求を避けるべきという意味ではなく、積極的に求めるべきという意味である。僕は何にこだわるべきかについても既に列挙していて、こだわるべきものについては、それがたとえ煩悩や執着であっても人生において尊重していきたいと考えている。海外旅行をしたりライブではしゃいだりして煩悩や執着とともに生きていきたいと考えている。身体的欲求も同様であり、軽んじることなく、欲求とともに行きていきたいと考えている。)

以上のリストは思いついたことを列挙しただけで、整理しきれていないし、何か哲学的な含意がある訳でもない。ただ、僕自身にとっては、時々思い出して、自分が大事なものを見失っていないか確認するために有用なチェックリストにはなっている。ときどき見返して、リストに入っていないこと(仕事など)に囚われてしまっていたな、なんて反省することもある。

5 リストの整理

述べたとおり、このリストは単なる思いつきではあるが、それでは落ち着かないので、一応、とりあえず整理してみてはいる。ここからは当面の整理について述べていくことにしよう。

実はリストを9つにしたのは後付けである。当初は7項目だったが、9つにすれば、3×3のマトリクスにできる。3というのは説得力がある数字のようなので、3×3というのは更に説得力があるのではないか、また、そこから何かが見えてくるのではないか、ということで、③上達と⑧記録を付け加えている。

(1)時制による分類

まず、3というのは、時間の3時制、つまり未来・現在・過去に対応する。僕は時間論に興味があるので、人生訓を時制と紐付けることはいわば必然であるように思う。

対応関係は次のようにまとめることができる。

【未来】①成長、②天命、③上達

【現在】④健全な心、⑤節制、⑥健全な体

【過去】⑦こだわり、⑧記録、⑨身体的欲求

ア 未来について

未来のカテゴリーに含まれる「①成長」、「②天命」、「③上達」は、いずれも今後の人生に目が向けられていると言えるだろう。

まず「①成長」が未来と結びついていることは明らかだろう。なぜなら夜の霧のニレの木のエピソードは、過去の人生から解き放たれ、更に絶滅収容所にいるという現在からも解き放たれたところにこそ成長があるということを示しているからだ。

また、「②天命」とは、あくまで将来の道を定めるうえでの道標であり、既に行った現在や過去の行いを評価する視点としてのものではない。ビジョナリー・カンパニー2が描く優秀な経営者とは、過去の経営状況がミッションに沿っていたかどうかを評価するだけではなく、そこから、将来のビジョンを示すことができる人であるはずだ。天命とはそのように扱われるべきものである。

「③上達」についても、将来において、過去の自分を上回り、乗り越えるというところに意義がある。包丁をうまく砥げなかったとき、将来においてうまく砥ぎたいと思うからこそ、上達を目指して練習するはずだ。

イ 現在について

現在のカテゴリーに含まれる「④健全な心」、「⑤節制」、「⑥健全な体」は、いずれも現在の自分自身に目が向けられているように思う。

「④健全な心」も「⑥健全な体」も、この現時点での僕がきちんと機能するために必要なものである。今、うつ病になり判断能力が失われたり、体が動かずにやりたいことができなかったりしたら、現在の僕の人生に支障が生じるからだ。

なお、将来における健全な心や体も重要だと言う人がいるかもしれない。確かにそのとおりなのだが、残念ながらそれは望みすぎなのだ。夜と霧で明らかなように、人にはガス室送りにされる人生が待っているかもしれない。そこでは健全な心も体も望むことはできない。なぜなら死んで心も体も存在しないのだから。そのような不可能なものを求めて悩むことがないように僕はこのリスト化の作業を行っているとも言える。僕が望む健全な心と体とは、今ここでの心と体に限定すべきなのだ。

「⑤節制」は、もしかしたら僕に固有の課題なのかもしれない。僕は酒を飲みすぎたり、どうでもいいことをグルグル考えたりして、何かに耽溺してしまいがちなところがある。普通の人なら「健全な心と体」を標語にしておけばいいのかもしれないが、僕にとって「健全な心と体」を最も害するものは、この耽溺なので、あえてそれをネガティブリスト化し、節制を特出ししている。だから「健全な心と体」と同様に、節制も現在の問題である。

ウ 過去について

僕のリストのうち過去のカテゴリーに含まれる「⑦こだわり」、「⑧記録」、「⑨身体的欲求」は、いずれも過去からの経緯や過去を思い出すということに深い関わりがある。

「⑦こだわり」とは、これまでの僕の人生で重視してきたものごとのことだ。僕は何にこだわるべきかについてもリスト化しているが、全てを示すのは恥ずかしいので例示すると、「家族」や「趣味」といったものがある。これまで大事にしてきた家族は今後も大事にしていきたいし、若い頃から打ち込んできた趣味は今後もやっていきたい。成長や健康といったものばかりを追い求め、そんな当たり前を忘れてはいけない。過去を切り捨ててはいけない。そんな気持ちから、過去からのこだわりをリストに含めている。

「⑨身体的欲求」も同様であり、過去から一緒にやってきた戦友とも言えるこの身体が言うことは大事にしたい、という思いがある。身体の過去性を強調するのは、身体というものが、そもそも、食べられてしまった動物や、その食材を調理してくれた人といった過去の営みの結果として存在する、という思いがある。そのような他者との過去とのつながりがある身体の声を軽んじるべきでないということである。

「⑧記録」については、過去自体というより、想起という側面が強い。記録するということは、つまりは既に考えたことを記録に残すということだから過去とつながりがある。ちょうど今思いついたことであっても、思いついてから書くのであり、そこには時間的な前後関係があるはずだから厳密には過去である。

また、記録したものは未来において読まれるとも言える。つまり記録するということはその記録を過去のものとし、未来に譲り渡すということでもある。

以上のように、僕の人生の指針のリストはきれいに3つの時制に3つずつを割り振ることができる。(というか、そうなるようにリストに追加したのだけど。)

(2)心と体による分類

時制による分類を縦軸の分類とするならば、横軸による分類もできると考えている。それはいわば、心と体という視点による分類だ。哲学においては色々な二元論的な問題があるが、そのなかで最も有名なのはデカルトの心身二元論で有名な心身問題だろう。その問題には立ち入らないが、ものごとを心と体という二つの側面から捉えることは重要な視点であることは確かだと思う。

時制による分類を更に心身という視点で分類すると次のようになる。

【未来】心:①成長、中間:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、中間:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、中間:⑧記録、体:⑨身体的欲求

ア 心について

「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」については、いずれも心という側面が大きいのはわかりやすいのではないだろうか。

まず、夜と霧のニレの木と語る人に象徴される「①成長」が、身体のようなものと無縁であるのは明らかだろう。なぜなら、肉体は消滅しようとしているのだから。絶滅収容所における無慈悲な肉体の消滅とは全く無縁だからこそ、彼女の成長は尊い。

「④健全な心」はすでに心という文字が入っているので言うまでもないし、「⑦こだわり」とは家族や趣味への執着であり、心の中だけのものごとであることは明らかだろう。(心の中にしかなく実体がないからこそ、仏教はそれを煩悩と呼び、捨て去るべきと言っているのだろう。)

イ 体について

「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」についても、それらを身体的なものとして捉えることはわかりやすいだろう。

「③上達」とは、心に分類した「①(精神的)成長」に含まれないようなものを指している。つまり精神的な上達は成長に含まれるので、上達とはそれ以外のもの、つまり身体的な上達ということになる。包丁砥ぎを練習してうまくなるのと同様に、数学の問題集をやって数学の問題を解くのがうまくなったり、たくさん本をよんで思考するのがうまくなったりするのも身体的な上達に含まれる。(一方で、現に数学の問題の解き方をひらめいたり、新しい哲学的なアイディアを思いつたりするのは、どちらかというと精神的な成長に近いように思える。)

「⑥健全な体」と「⑨身体的欲求」については、いずれもすでに体という言葉が入っていることからも説明は要しないだろう。

ウ 中間について

「②天命」、「⑤節制」、「⑧記録」については、精神的な側面と、身体的な側面の両面を有するので、とりあえず中間と名付けた。

「②天命」は、何かを人生のミッションと心の中で考えるだけでなく、そのように決断して身体的に行動するという点が重要となるので両面性があり中間的であると言える。

「⑤節制」についても、ひとつの考えに囚われないというような精神的な節制と、タバコや酒を控えるという身体的な節制との両面がある。

「⑧記録」とは、思考したことを手で書くという、精神と身体をつなげるものだとも言える。

これらは、心と体の間にあるということから、いずれも中間に位置づけられることになる。

6 中間から調和へ

心と体の間にあるものをとりあえず中間とは名付けたけれど、どうも落ち着きが悪いと思っていた。

だが、今朝、5分くらいヨガをやっていて、ふと「調和」というキーワードを思いついた。前の日に色々考えてしまってなんだか心が落ち着かないなか、なんとか身体(または世界)とチューニングを合わせようとしていることに気づいたのだ。つまり、僕が今やっていること(つまりヨガ)って、心と体の調和をとる作業とも言えるのでは、と思ったのだ。

たしかに、前からヨガというのは心と体の間にあるものだとは思っていた。トレーニング的な側面では健全な体につながるし、瞑想的な側面では健全な心につながる。その両側面があるヨガは、僕が人生を生きるうえでちょうどいいとは思っていた。だが更に、ヨガとは心と体の調和をとろうとするという意味で、心と体の間にあるものなのだ。

僕は、「④健全な心」と「⑥健全な体」の間にあるものは「⑤節制」だと思っていた。だけど、それは耽溺しがちな僕への注意喚起のためにあえてリスト化していただけであり、より正確には「調和」なのだろう。

そのように考えると、「①(精神的)成長」と「③(身体的)上達」との中間にある「②天命」も「調和」と言い換えることができように思えてくる。

実は僕は、このリストのなかでも特に重要なものである「①成長」と「②天命」について、不整合さを感じていた。なぜなら、成長の結果、天命・ミッションを変更することがありえるからだ。成長のなかには変化が含意されているから、成長することで従来のミッションを見直すことがありうるのでなければならない。一方で、天命・ミッションという言葉のなかには、ちょっとやそっとのことではそれを投げ出し、変更を加えてはならない、ということが含まれていなければならない。成長と天命を尊重しようとすると矛盾が生じる。

それならば、成長を単なる変化ではないものとして捉え、天命を単なる墨守ではないものとして捉えることが、この問題の解決の道であるに違いない。

そこで登場するのが「調和」という言葉である。天命とは、単なる墨守ではなく、また単なる変化でもない。その両者の調和を図るようなものであるべきなのだ。天命とは、変化という意味が強い成長と、墨守という意味が強い上達との間にあり、その両者を調和させつつ生きていくという姿勢を指す言葉なのだ。(ビジョナリー・カンパニー2も、企業が従来の方針を墨守することを推奨しているのではなく、変化のなかで自分自身を見失わないことの重要性を強調しているようにも思う。)

また、「⑦こだわり」と「⑨身体的欲求」の中間にあるとされる「⑧記録」も「調和」 と関係が深い。こだわりや身体的欲求は相互に対立することがある。家族のために家事をするというこだわりと睡眠欲という身体的欲求とは対立するし、家族と趣味のどちらを優先するかというかたちでこだわり内部でも対立はあるし、(「ごはんにします?それとも、わ・た・し?」というかたちで)食欲と性欲も対立する。

これらの整合をとるためには、考え、優先順位をつけなければならない。そのときに活躍するのが思考であり、思考を精緻に行うためには書き留めて記録することが役立つ。このように調和と記録は深く結びつくことになる。

ここまで、中間にあたる、天命・節制・記録は、いずれも調和と関係が深いと論じてきた。多分、いずれの中間も、より正確には「調和」という言葉に置き換えられるべきなのだろう。ただ、僕自身の人生訓がより実践的なものとなるように、調和のうちの、天命・節制・記録という側面を強調しているに過ぎないのだろう。

なお、調和というと予定調和のような、出来レース的なものをイメージするかもしれないが、僕は、調和という言葉のなかに、調和せず対立したままである、ということも含まれていると考えている。天命とはなにかひとつのことを定めるだけが天命ではなく、天命を求めて試行錯誤すること自体が天命でありうるし、節制とは、節制できないことをなんとか節制するという意味が込められている。記録についても、考えがまとまらなかったということ自体を記録する結果になるかもしれない。そう考えると、調和よりは止揚と言ったほうがいいのかもしれない。変化と墨守の対立を止揚し、変化でもなく墨守でもない別の道筋を見出そうとする営みを「調和」と呼んでいたということである。

(なお、この止揚に対する更なる止揚もありうる。例えば、「変化としての成長」と「墨守としての上達」の対立を止揚することで調和を図ったとする。この場合、その調和に対しては、成長とは単なる変化ではなく、上達とは単なる墨守ではない、という反論がありうる。そのような反論を調整すべく更なる止揚が導入されることがありうる。)

7 再び時間論へ

ここまでの議論を通じて、僕は、次のような人生の指針を定めたことになる。

【未来】心:①成長、調和:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、調和:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、調和:⑧記録、体:⑨身体的欲求

このうち、身体の領域に割り振った「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」は動物的でプリミティブな人生を描写しているように思う。身体的欲求に従い、健全な体をもって、上達を目指す生き方というものを想像すれば、僕が言わんとすることが伝わるのではないだろうか。

一方で、心の領域に割り振った「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」に従った人生とは、とても思索的なものだろう。僕は瞑想する仙人のような人を思い浮かべる。これまでの人生でこだわってきたものを吟味し、心を研ぎ澄まし、心の成長を目指す生き方というのは、どこか浮世離れしている。

その両者の調和を目指し、試行錯誤しながら、その過程を記録し、道を踏み外さないように節制し、人生におけるミッション・天命を見出してなんとか生き抜いていくという姿は、とても実務的であり、ある意味人間的である。動物と仙人との間にある人間的な生き方という感じがする。

僕が動物的としたような身体的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はひとつながりのものであるという時間観とつながっているように思う。世界は因果的で決定論的であり、獲物を食べれば腹が膨れるし、筋トレすれば筋肉がつくという時間観である。

一方で、僕が仙人的としたような精神的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はそれぞれ別個の時点であるという時間観とつながっているように思う。時点と時点との間には自由意志が介在する余地があり、自由意志に基づき、人は決断し、変化をもたらすことができるという時間観である。

僕たちは、その中間で、因果論的で決定論的だけど、自由意志があることを当然とする、矛盾しているけれど常識的な世界のなかで試行錯誤しながらなんとか生きている。それが、仙人ではなく動物でもない僕たち人間の時間観なのではないだろうか。

僕が3×3のマトリクスのような人生の指針を定めたのは、その背景に、こんな時間観があるからなのかもしれない。

なお、この考察は、心と体の間の接触地点に人間の生き方を見出したところから、更に私と世界との間の接点に身体を見出す方向に議論を進めることもできると思う。だが、それは別の機会としたい。

うまく生きる 思考と行為・ひらめき・身体・こつ

1 うまさという問題

僕自身の哲学の源流のひとつは、高校生の頃から抱いている「いかに生きるべきか。」という問題にある。

僕にとってのこの問題は、具体的な状況設定を用いるならば、海で溺れている人を見つけたとして、その溺れている人を助けるべきだろうか、という問題だと言ってもよいだろう。溺れている人は実は殺人鬼で、その人を助けたら何件も殺人が起きるかもしれない。実は病気による苦痛から逃れるために入水自殺しようとしていて、助けることで、更に苦痛を味わわせることになってしまうかもしれない。そんなことを僕は考えてきた。

(更には、生きることが望ましいことかどうかはわからない。望ましいからといって、生きるという選択をすることが正しいかわからない。正しいからといって、それを具体的な行為の選択につなげるべきかどうかはわからない。そもそも、このようなことを首尾一貫したかたちで論理的に思考できるかどうかさえわからない。それならば、溺れている人を助けるという一見当たり前の判断についても、その根拠は怪しいものではないか、そんなことを僕は考えてきた。)

それはそれで重要な問題だし、今後も考え続けていきたい。だけど、最近ふと思った。当時の僕が求めていたのは、そのような方向での答え「だけ」だったのだろうか。

溺れる人を助けるべきかどうかを解決したとしても、次には、助けるとして、「うまく」助けるにはどうしたらいいのだろうか、という問題を解決しなければならない。助けることを決心したとしても、更に、海に飛び込むか、ロープを探すか、それとも警察に電話するかを判断しなければならない。そこには、どうしたら「うまい」判断ができるのか、という独立した問題があるのではないか。

溺れる人の例だと現実味がないかもしれないけれど、日々、僕たちは「うまい」判断が求められている。洗濯と掃除のどちらを先にするか、晩ごはんの献立を何にするか、などなど。円滑に洗濯と掃除の両方を済ますべきというゴールや、晩ごはんまでの時間のなかで美味しくて栄養のあるご飯を作るべきというゴールは揺るぎないものであったとしても、そのゴールにどのようにして「うまく」向かうかが難しいのだ。

最も「うまさ」が求められるのは対人関係においてであり、特に言葉によるやりとりの場面においてだろう。人間の心は複雑だから扱いが難しくて、言葉で誤解をさせてしまうことが多い。振り返ってみると、実は高校生の僕の哲学的な悩みもそんなところから始まっていたように思う。こんなに複雑な心を持つ人間というものと、どうしたらうまく付き合っていくことができるのだろうか、そんな困惑があったような気がする。

若い頃の僕は、そこから、デカルトの方法的懐疑の方向に進み、懐疑論に至った。懐疑論に基づき「世の中は不確かなものだから、そんなことを考えても仕方ない」という大所高所からの一刀両断の答え、いわば「大きな答え」を与えることで満足してしまった。論理的に考えるならば、どうしたら溺れる人をうまく助けられるのかを悩むよりも前に、溺れる人を助けるべきかどうかを考えなければならないが、懐疑論に基づけば、その前段の問いに答えを出すことはできないのだから、その先を悩む必要はない。大学生の僕はそのように考え、高校生の頃から抱えていた疑問を封印したのだ。

だが30代半ばになり、哲学的に色々と考えを巡らせることを再開し、10数年そんなことを続けている。そのなかで、「うまさ」について、書くに値することを思いついたので、この文章を書いてみることとした。

2 「うまさ」が評価するもの ひらめき

「うまさ」または、その反対である「まずさ」とはどういうものだろうか。

まず言えるだろうことは、うまい答えとは唯一絶対ではないだろうということだ。溺れた人を見つけたとき、海に飛び込んでも、警察に電話しても、結局助かればどちらでもいい。

ただし、単なる結果オーライという帰結主義的なものでもないだろう。溺れる人を助けようとして凪いだ海に飛び込んだが、突然の高波に阻まれて助けることに失敗したとする。その後の検証で、警察に連絡をとっていれば、偶然近くにいた巡視船がすぐに現場に向かえたことが判明したとする。それでも、そのときの海に飛び込むという判断が「まずい」判断だったとは言わないだろう。その時点でできる限りの判断をしたと評価されるはずだ。

ということは、「うまい」か「まずい」かとは、その時点での何かが問われるものであり、その後の偶然には左右されないということになりそうだ。

では、その時点での何かとはなんだろうか。

まず、その人が泳げるかどうかというような身体的な能力は問題にならないだろう。泳げないから飛び込まなかったという対応は、まずい対応とは言わない。また、スマホを持っていなかったから警察に電話しなかったこともまずい判断とは言わないだろうし、来日したばかりの外国人が警察への電話の仕方を知らなかったということもうまさの問題にはならないに違いない。そうだとするならば、「うまさ」とは、泳げるかどうかという身体的能力や、スマホがあるかどうかという物理的な状況や、警察の電話番号を知っているかどうかという知識とは関係のないということになる。

では、「うまさ」とは、判断時点でのその人の何を評価したものなのだろうか。その人の能力や知識といった広義の物理的な状況ではないならば、何が判断の「うまさ」を左右するのだろうか。この問題を思考実験的に表現するならば、全く同じ能力や知識を持った二人が、全く同じ状況で別の判断を行った場合、そのひとつは「うまい」判断で、もうひとつは「まずい」判断となりうるが、その境目となるものは何だろうか。

それは「ひらめき」としか言いようがないものなのではないだろうか。能力や知識を含めて全く同じ状況にあっても、ひらめくかもしれないし、ひらめかないかもしれない。そのときのひらめきだけが判断を左右するように僕には思われる。

「ひらめき」は思考と行為を結ぶものとして非常に重要だと思う。とにかく何らかの行為をするためにはひらめきが必要だ。なぜなら現時点での状況をいくら精緻に分析しても、そこから行為を導き出すことはできないからだ。私は溺れる人を見つけて自己分析を始める。私は泳ぐことができる。私はスマホを持っている。私は警察の電話番号を知っている。私の泳力と波の高さを踏まえると10m先の人を無事に救出できるかどうかは五分五分である。わずかだが一緒に溺れる可能性もある。警察に電話した場合には救助の船かヘリが来るには多分10分以上はかかるだろう。そのような分析をいくら重ねても、そこから、海に飛び込むという行為を導き出すことはできない。そこには思考と行為との間のギャップが存在し、そのギャップを飛躍することが必要である。僕は、その飛躍を「ひらめき」と呼んでいる。

当然、ひらめいて飛躍する前の分析も重要である。精緻に分析しておくことで、より好ましいひらめきができるだろう。しかし、例えば溺れた人をみつけたのが幼児であった場合に、その幼児が現状をしっかり分析できなかったからといって、それがまずい対応と評価されることはない。分析する能力、分析力がある人が、その分析を怠れば問題になるが、そもそも分析力に乏しい人が分析をしなかったからと言って、それはまずい対応とは言わない。また、ただ分析を続ければいいということでもない。どこかで分析を打ち切り、救助に向かうことも、うまい対応のためには必要である。つまり、手持ちの分析力をどの程度時間をかけて活用するかどうかも、ひらめきに属する事柄なのだ。

そのようなことも含め、「うまさ」とは、行為への飛躍のあり方、言い換えればひらめきを評価する言葉だといえる。

3 ひらめきの事後評価

そして、その評価は事後的に行われる。溺れた人をうまく救出できたかどうか結果が明らかになってから、その時点での判断がうまいものだったかどうかが検証される。ただし、結果だけで検証されるのではなく、その人のその時点での知識や能力や状況を踏まえ、その制約のなかで、よりよい結果につながるような判断をひらめき、飛躍することができたかどうかが検証される。

ここに、「うまさ」の根本の問題があるように思える。飛躍やひらめきと表現されるようなものについて、事後的な視点から、あれはうまい飛躍だった、これはまずいひらめきだったと評価していることになるからだ。そのようなコントロールを超えたものこそが飛躍でありひらめきであるはずであるにも関わらず、だ。

当然、うまさを評価する側も、その問題は認識していて、直接的には、その飛躍やひらめき自体を評価はしない。

その代わりに、こっそりと別のものを評価する。言ってしまえば誤魔化しであり、その誤魔化しは、二種類の「ずらし」として行われているように思える。

ひとつは、一般化による「ずらし」だ。例えば、その人が日本人の成人ならば、常識的に日本で生活する人が備えている知識や能力を備えていることを前提として、離岸流に気をつけるべきだった、などと評価する。だが、その人は、離岸流など知らなかったのかもしれない。

もうひとつは、それ以前の別の判断を問題とするというやり方であり、時点の「ずらし」だ。スマホが手元になくて警察に連絡できなかった人について、外出するならばスマホくらい持っておくべきだった、と批判するような場合だ。これは、溺れている人を発見した時点ではなく、外出した時点に遡って、時点をずらして、その時点での判断を問題とするということだ。なお、このような「ずらし」は他者からの評価で用いられることは少ないが、自己評価においてはよく用いられる。つまり、あのときこうしていればという後悔だ。

人は、このような誤魔化しをしてまで、本来不可能なはずの「ひらめき」への評価を求めてしまうのだ。

4 自由意志の問題

自分自身による「うまさ」の評価には特有の問題がある。ひとつは先程触れた複数の時点の自分をつなげて同一の自分として解釈することから生じる後悔と呼ばれる問題だが、もうひとつは自由意志に関わる問題だ。自分自身がいくつかの選択肢に気づいていて、そのなかから一つの選択肢を選んだ場合、そこに自由意志の問題が生じる。溺れる人を発見した時点で、海に飛び込むことも、警察に電話することも可能だと気づいており、そのうちの一つを選択した場合、あとで振り返り、その選択がうまいものだったかどうかを問題とすることができる。この選択可能性を認めるということが、自由意志が成立する根幹にあるからだ。

だが、判断の際に必須のものである飛躍、ひらめきを正当に取り扱うならば、自由意志を捨てる道を進むしかないのではないか。なぜなら、選択可能性などなく、それしかないものとして行為するということが「ひらめき」には含まれているはずだからだ。

こうして、「うまさ」の問題は入不二の運命論に近づいていく。なお通常の決定論と大きく異なるのは、そこに無根拠の飛躍、ひらめきが介在しているという点にある。人生が運命に翻弄されるのは、その運命が決定されているからではなく、そこに無根拠の飛躍があるからだということになる。つまり僕が描いてきたのは入不二のケセラセラの運命論であり、ひらめきと名付けた無根拠の飛躍とは、入不二の円環モデルにおける始発点に至る飛躍のことである。

5 身体・こつ

「ひらめき」と名付けた飛躍が無根拠であるのは、行為が思考を超えているからだ。人は状況を認識し、自らの知識を使って、どのように行為すればいいか思考する。しかしその思考の結果と、どのように行為するか決心することとの間には断絶がある。その断絶を架橋するものとしてひらめきがある。思考を超えたところにあるという点で、ひらめきは無根拠なのだ。

つまり、これは思考と行為(またはその手前の決心)の問題である。

それならば、この両者をうまく架橋できるかどうかが、「うまさ」の問題であるとも言える。

そこで僕は、いかにうまく生きるかということを考えるうえで、身体というものに着目したい。なぜなら思考と行為をつなぐのは身体だからだ。身体とは、思考から全く切り離されたものではないが、思考に含まれるものでもなく、いわば思考の境界にある。また、身体は世界のなかに位置づけられ、行為するものでもある。つまり、思考は身体を介在し、行為するとも言える。それならば、「うまさ」の問題は、身体の使い方の問題だと捉えることもできるだろう。つまり、うまく生きるとは、包丁の使い方や車の運転の仕方と同じような、身体の使い方の問題であり、いわば、こつや慣れに属する問題なのだとも言える。

そのように考えるならば、包丁の使い方や車の運転の仕方について語るのと同じように「うまく生きる」うえでの実践的なコツを列挙することさえできるだろう。

僕が思いついたコツを二つ列挙しておきたい。

僕が考える第一のコツは、できる限り言葉の問題として扱うというものだ。

人生において「うまさ」「まずさ」が問題となる典型的な場面とは、溺れる人を助ける場面ではなく人間関係の場面だろう。だから「できる限り言葉の問題として扱う」というコツはかなり適用範囲が広いと思う。

実践的と言いつつ理屈っぽくなるが、僕は言語というものが「うまく生きる」うえでのコツにつながると考えている。正確には「まずく生きないで済む」うえでのコツになると考えている。そこで役立つのは、言語が持つ継続性という特徴である。簡単に述べると、この継続性とは、言葉は対話として継続し続けるものだ、ということである。対話が続いている限り「うまさ」「まずさ」の問題は生じない。対話の内容は、対話が続く限り更新され、確定しないからだ。確定しないものについて「うまさ」「まずさ」は生じない。一見、まずい発言をしてしまっても、対話を続けることさえできれば、その発言は訂正し、うまい発言にすることができる。

問題は、言葉には、継続するものとしての側面と、もう一つ、通常の行為としての側面もあるという点にある。対話が終わり、言葉が確定すれば、それは通常の発話という行為として確定する。そうすると、継続性という利点は失われる。言葉の継続性という利点を最大限に活かすならば、どこで語り終えるかはコントロールしなければならない。このコントロールのうまさは、「うまさ」の重要な要素になるだろう。継続性の最大の問題は相手の協力がどこまで得られるかどうかという点にある。そのために必要なのは話術だ。人を飽きさせずに興味を持って対話に参加してもらい、そして、できる限り最短距離で、その対話が至るべきところにまで進む。この話術という技能こそが、「うまさ」の重要な要素となるだろう。これは、対話の中にどの程度遂行性を含ませるかというさじ加減の技術だとも言える。

もうひとつのコツは、飛躍を細やかなものにするというものだ。溺れる人を助ける際に、いきなり助けるという最終目標まで飛躍する必要はない。まず、溺れる人の体力を見極めることを第一の目標として、まず冷静になるという決心をし、そこまで飛躍する。そのうえで、第二の目標として、役立ちそうな記憶を呼び起こし、これまで得た知識を整理するという決心をし、そこまで飛躍する。といった細分化があってもよいし、そのほうがより飛躍の難易度が下がる。

細やかさや細分化というと繊細さや力の弱さといったものとつながるイメージがあるので、解像度を上げると言ったほうがいいかもしれない。この比喩は当然、パソコンのモニタやテレビの画面のきめが細かくなるように、世界把握にあたって解像度を上げるということであり、これはどちらかというと鮮やかさや表現の力強さといったイメージにつなげることができる。

または、細かい把握を可能とするためには、冷静さや注意深さが必要であり、それを強調するならば、マインドフルネスやスポーツでのゾーン状態といったイメージと重ねることができるかもしれない。

これらのようなことも含めて、飛躍を細やかなものとすることがうまく生きるうえでのコツのひとつである、と考えている。つまり「うまさ」とはきめ細かさであるとも言える。

ここまで、実践的なうまく生きるうえでの実践的なコツについて、言語と細やかさという二つを挙げたが、実は、実践的と言いつつ、こっそりと僕の理念的な希望を込めている。

僕が目指すのは、うまく生きるということと哲学と瞑想への接続である。当然、言語は哲学と重なり、細やかさはマインドフルネスのイメージが登場したように瞑想と重なる。哲学と瞑想こそが、うまく生きるということに密接に関わる営みなのではないだろうか。今回の考察も、そのことを示すための一歩であったと考えている。

自然科学と人間原理

同じようなことを以前にも書いているかもしれないけれど、備忘録として。

僕は自然科学がどうしてこれほどうまくいくのかを説明したいと考えている。

そんなの簡単じゃないか、と思うかもしれないけれど、僕は形而上学的な意味で、議論の出発地点をかなり手前に置いている。この私や今や世界といったものが存在する、というような常識をそう簡単には認めないところから話を始めたいと考えている。

と言っても僕の哲学的立場はわかりにくいので、ちょっと正確ではないのだけど、この世界は実は夢かもしれないと考えている懐疑論者を思い浮かべてもらえればいいかもしれない。夢かもしれないこの世界が、こんなに辻褄が合っているなんて不思議ではないか。いたるところで日々なされている新たな科学的発見がいずれも、この世界を秩序立てて説明するのになぜかうまく寄与している。一見、過去の科学的知見と整合せず不適当に見える発見であっても、科学的手順に則って慎重になされた研究結果であれば、いずれ、不適当であったのは過去の科学的知見のほうであり従来の科学的知見を修正して新たな研究結果を受け入れるべきであることが判明する。僕はこのことに、まるで何も見ずに適当にそれっぽく作ったジグソーパズルのピースが何故かうまく隙間にはまっていくような不思議さを感じる。

このような問題について哲学的に説明しきるためにはかなり遠大な道のりが待っていると思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思いついたので記録しておくことにする。

多分、この道程のゴールは、客観的な世界があることを明確にするような地点に設定されているのだろう。そこでは、私の認識や思考といったものとは何の関係もなく、ただ存在する世界というものを思い浮かべることができるはずだ。仮に僕が世界を認識し世界について思考できたとしても、その認識され思考された世界とは世界のごく一部であると考えることができるはずだ。

そこまでいけば、あとは弱い人間原理の出番である。僕が認識し思考できているこの世界とは、全体の世界のうちのごく一部の、たまたま秩序立てられ、(僕にとって)うまくいっている部分だけなのだ。(強い人間原理により考えられるように)決して、世界のすべてが僕の考える通りに秩序立てられたものとして存在している訳ではないし、世界をお望みどおりにうまく秩序だてるための新たな材料を導入する必要もない。

つまり、自然科学が何故かうまくいっていることを説明するためには世界が存在するということだけが必要であり、あとは弱い人間原理がなんとかしてくれるということである。これはかなり明るい見通しではないだろうか。

一方で、このようなゴールを設定するということは、そこへの道程を限定することになるかもしれない。弱い人間原理を導入するためには、観察者である僕が、この世界の構成要素のひとつであることを認めなければならないかもしれないからだ。少なくとも、弱い人間原理を有効とするためには、観察者の視点が観察対象と癒着していることが必要となるはずだ。

だが、〈私〉を世界の構成要素のひとつと位置づけるというような議論は永井の独在論に基づくならば端的に誤りである。よって、このようなゴールに向かって議論を進めるということは、どこかで〈私〉を単なる私に変換しつつ、それでも世界というものを捉え損なうことがないようなかたちで考察を行うということでなければならない。

これはかなり難しい注文になりそうだと予感しつつも、議論の方向性が限定されたという意味では更に見通しが明るくなったと言えなくもないように思う。

なお、この困難についての現時点での考えを示しておくと、この困難は当然、永井の〈私〉と大いに関係がある。〈私〉を私に変換するということは同時に〈世界〉を世界に変換することでもあるはずだ。この変換により何を失うことになるのだろうか。何も失わないとも言えるけれど、この問題を解く必要性自体も含めた全てを失ってしまうようにも思えるのだ。

一方で、この問題を解くことは対話というものにより可能ではないだろうか、とも考えている。僕は、対話こそが自己と他者とを完全に均すことなく接続するという困難を成し遂げる鍵ではないかと目をつけている。対話により〈私〉と私を接続し〈世界〉と世界を接続することこそが、この困難を乗り越えるための抜け道になりうるのではないだろうか。

内在・外在・特異点

1 はじめに

最近、2冊の本を読んだ。『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』だ。

これらの本について、昨年読んで、ずっと心にひっかかっている入不二の『現実性の問題』と、その流れで読んだ『現代思想』の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』とのつながりで思いついたことがあるので書き残しておく。

2 内在・外在

哲学的な議論には、大きく分けて、内側からの視点に基づき行う議論と、外側からの視点に基づき行う議論がある。その視点を内在的視点・外在的視点と名付け、また、その視点に基づき行われる議論を内在的議論・外在的議論と名付けてもいいだろう。イメージとしては、主観・客観という、多分そこから派生するだろう区分を思い浮かべてもいいだろう。

例えば、今、この僕を捉えている問題、つまり「僕は風呂を洗うか、それとも家事をさぼって文章の続きを書くか。」という問題は、僕の内側から湧き出るような問題であり、内在的視点に基づく問題設定である。

一方で、どこか神のような俯瞰した視点から、人は、家事と文章を書くのとどちらを優先すべきか、などと問うのは、外在的視点に基づく問題設定となるだろう。

(当然、家事をするのが正しいので、ここで中断します。)

なお、問題設定としては内在的なものであっても、その後、外在的に議論を行うということはありうる。僕が今、家事と趣味のどちらを選択するかを検討するにあたり、そもそも人間一般は家事と趣味のどちらを優先すべきなのだろうか、と視点を切り替えて考察するような場合だ。逆に、外在的な視点から設定されたものである一般的な家事・趣味優先順位問題を検討する際に、家事をしないことで奥さんに怒られるという現在の僕の内在的視点に切り替えるような場合もある。

このような単純化しすぎた例のようなかたちではないにせよ、たいていの哲学的検討は、気づかぬうちに外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように行われているだろう。なぜなら、たいていの哲学においては言語という外在的な側面と、感覚や感情といった内在的な側面とが重要な役割を果たすからだ。言語と感覚・感情を架橋した哲学体系を構築するためには、外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように論じるのが自然だろう。(または、そうならないため、言語も主観的なものだとしたり、感覚・感情も客観的としたりして、片側に寄せるような論じ方をすることもある。)

一応、議論に深入りしない範囲で補足しておくと、言語が外在的なのは、言葉とは人間が共有する客観的なものだからだ。一方で感覚・感情が内在的なのは、感覚や感情といった心の動きは、その唯一の実例が自分自身のなかにしかないような主観的なものだからだ。更に議論は深められるべきとはいえ、そのような特徴から、言葉の客観性は外在性と結びつき、主観的な感覚や感情といったものは内在性と結びつくことになるとは言えるだろう。また、言葉や感覚や感情といったものを全く用いない哲学などありえないから、たいていの哲学は外在と内在の両方にまたがって論じざるを得ないということになる。

さて、僕が内在・外在について気になったのは、最近読んだ『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』が、いずれも、内在的な視点が強いものであったからだ。ここからは、内在・外在という視点を重視しつつ、2つの本についての考察を進めていきたい。

3 『星の王子さま』

大学生の娘から面白かったと言われたので、はじめて星の王子さまを読んだ。確かに名作だと思ったけれど、特に心に残ったのがキツネの「なつく」という言葉だ。「なつく」という言葉は、キツネが星の王子さまに友達になる方法を説明するなかで出てくるものだ。

娘に本を返してしまったしネタバレするのもなんなので、本を離れて僕なりの理解としての「なつく」について僕自身の例で説明しよう。

僕は昔から男友達をなぜつくるのがよくわからなかった。女友達ならわかる。女の子って、とてもかわいいし、美しいし、優しいし、不思議だし、いい匂いがするし、もしかしたら付き合えるかもしれないという下心もあるし、是非、友達になりたいと思っていた。一方で、男は、仕事や車や野球といったつまらない話が多いし、(自分も含めて)なんだか汚いし、臭いし、一緒にいてもなにもいいことがないと思っていた。(過去形だし誇張しています!)

なお、男女を問わず、趣味友達が大事だというのはわかる。一緒にスポーツをするにも、飲みに行くのも、ある程度の人数がいたほうが楽しいし、できることも増える。哲学だって誰かと話せたらうれしい。(しつこいけど女友達なら更に別の目的を心に秘めている。)そのような目的のための手段としての友達ならよくわかる。だけど、そのような目的なく、ただ友達と一緒に過ごすことの利点がよくわからなかったのだ。

だけど、キツネは、友達になるには「なつく」(と「なつかせる」)が大事だと言う。僕はこれを、「友達っていうのは、何も理由付けがなくても、ただ相手を特別なものとして扱い、相手に時間と手間暇をかけることが大事なんだよ。」と言っているのだと解釈した。「友達というのは、なにか別の目的の手段ではなく、それ自体として大切なものとして扱い、そのように生き抜くことを通じて、ようやく手に入れられるものなんだよ。」と言い換えてもいいだろう。

つまりここには、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒がある。

これまでの僕は、友達になるということは、一緒に何か楽しいことをするというような目的のための手段であり、友達になるという決断をするためには、その人に何らか長所があるというような理由が必要だと思っていた。

だが、キツネが「なつく」という言葉で伝えようとしていたのは、友達になるとは、それ自体が目的であり、友達になるためには、ただ友達になるという決断だけがあればよい、という考え方だと言ってもいいだろう。そのうえで、すでに友達になった後に、振り返ってみてはじめて、そこに、面白そうな奴だと思ったから、というような友達になるに値する理由を見出すことができる。また、友達なった後だからこそ、その友達関係を手段として、別の何かを手に入れることができる。例えば一緒に過ごす楽しい時間といったものを。

キツネの議論には、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒と表現できるような、視点の転回があるように思う。(なお、ここでは、以前の僕のような考えとキツネの考えとのどちらが本来の姿なのか、といったことを議論したい訳ではない。以前の僕のような考えは、キツネの考えを転倒し、転回させたものだと言っても同じことだ。)

この視点の転回こそが、内在的と外在的という用語を用いて、外在的視点から内在的視点への転回と表現できるものだと思う。

友達に関する僕の以前の考えは、いわば外在的視点からのものだったといえるだろう。友達候補となる人を俯瞰的な視点で眺め、その人達を評価し、誰が友達に相応しいか選択し、やっと友達になるというプロセスを経る。僕の視点はどこか評論家のようで、部外者のものだ。

一方、キツネの考えは内在的な視点としての色彩が強い。キツネによれば、人は人生のなかで、偶然にでも運命的にでもいいけど、とにかくまず出会いがある。そこでただ「なつく」ことで相手との関係が深まり、そして、いつか友達になる。このようなキツネの視点とは、すでに人生に巻き込まれた当事者のものであり、いわば人生の内側からのものだと言えるだろう。

『星の王子さま』から僕が読み取ったのは、この外在的な視点から内在的な視点への転回であり、そこに感銘を受けたのだと思う。

繰り返しになるが、少なくとも現時点では、どちらの視点が優位かは決められない。なぜなら、そう簡単には内在的な視点だけから友達になるという選択の仕方を描写できないからだ。キツネの内在的な視点によれば、全ては既に決断されてしまっている。今後いかに選択するかがわからない。選択の場面を描写するためには何らかの外在的な視点からの比較や評価というものが混入せざるを得ない。内在的視点というのは、外在的視点と並べて比較できるようなものではないのだ。

だが、『星の王子さま』は考察ではなくて、物語であり詩だ。『星の王子さま』とは、詩が持つ力を通じて、理屈っぽくて外在的な視点が強い僕に、内在的な視点の重要さを再確認させてくれた本だと言ってもいいだろう。

4 『生き方について哲学は何が言えるか』

次に、もう一つの本『生き方について哲学は何が言えるか』(以下、『生き方』)について論ずることにする。

これは、永井均がTwitterで言及していたので興味を持ち、読んだものだ。この本は、僕の理解では、哲学をするうえでの限界を明らかにし、その限界のなかで如何に哲学するべきかを実践的に示すことを目指したものだと思う。この本が取り上げるテーマは倫理学の分野に属するけれど、倫理学のみには留まらない哲学全般に及ぶ示唆に富んだ本だと思う。

『生き方』が設定する哲学をするうえでの限界とは、つまりは、内在的な視点の限界だと言えると僕は考えている。先ほど述べたとおり、たいていの哲学は、外在的な視点と内在的な視点にまたがる議論を行うものなので、両者の視点を行き来するように論じられ、その視点は混在しがちだ。この本も例外ではなく、外在的な視点と内在的な視点を行き来するようにして議論は進められていく。

この本の魅力は、この視点の切り替えにかなり意識的であるという点にある。特に、内在的な視点から外在的な視点に切り替えるときに、何を得て、何を失うのかという点に非常に注意を払っているのだ。きっと、その取引の収支を明確にしておくことは倫理学にとって、かなり重要であると考えるからこそなのだ。

『生き方』で行われている議論は、一言でいえば、この本の冒頭で示されるソクラテスの問い「人はどう生きるべきか。」を巡るものだと言えるだろう。

僕が読解した限りでは、「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるにあたり、内在的な視点から外在的な視点に切り替わるとき、何かを得る代わりに何かを失うという大きな取引がされていることを、この本は明らかにした。「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるためには、本来、すでに巻き込まれているこの人生を離れることはできないはずだ。だが、そこから離れ、あたかも部外者のように人生を語るとき、僕たちは何かを得て、何かを失う。

この視点の転回により得られるものの代表例は客観性だろう。俯瞰的に外部から捉えることにより、安定した視座から複数の人生を見比べて優劣をつけることができるようになる。そこから生まれるものが道徳であるとも言える。

(なお『生き方』において倫理と道徳は異なるものを指す用語として用いられる。道徳は倫理の一部であり部分集合である。倫理とは伝統や慣習に基づくものも含めた判断全般を指し、道徳とはそのうちの西洋文明特有の一般化、抽象化された価値体系を指す。)

一方で、内在から外在への転回により失われるものは、当事者的なこの人生だろう。人生一般であれば、外在的な視点からいくらでも論じることはできる。だが、この人生については外在的に論ずることはできない。いや、そのような人生についても「この人生」として外在的に論ずることは確かにできる。ただし、それができるということは、既に内在から外在への転回を終えてしまっているということである。

実は、言語自体が外在的なものであることから、言語によりこの転回の問題を捉えることには特有の困難がある。外在的な装置としての言語を用いて内在的な視点を捉えるためには相応の注意深さが必要である。

『生き方』は注意深く内在的視点から外在的視点への転回が生じる地点を捉えることにある程度まで成功したと言えるだろう。この本がその点に注意深くあることが可能であったのは、この本のテーマが「人はどう生きるべきか。」というソクラテスの問いをめぐるものであることと大いに関係があるだろう。人生についての問いを検討するならば、人生一般と、当事者としてのこの人生との間にあるはずの違いに注意深くあることは極めて重要であるはずなのだから。

つまり、この本は、この人生という内在的な視点を見失わずに、一方で、人生一般も含めた外在的な視点も切り捨てずに、「人はどう生きるべきか。」について考え続けた思考の軌跡だと言えるだろう。当然それは非常に困難な事業であっただろう。僕にはその一大事業が完全に成功しているかどうかはわからないが、少なくとも僕にとっては、とても有意義なものであった。

以上のようなかたちで『生き方』においては、内在的な視点から外在的な視点への切り替えが大きな意味を持っていたと僕は考えている。

5 特異点

ここまでふたつの本について論じたのは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、特に内在的な視点の重要性について理解をしていただくためのものであった。さきほど述べたとおり言語とは外在的な装置だから、文章で内在的な視点の重要性について説明することには特有の困難がある。しかし、二つの著作の力も借りて、なんとか伝えることができたのではないだろうか。

ここまでは、いわば導入部であり、ここからは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、内在的な視点の重要性を踏まえ、入不二の議論について論じていきたい。

入不二の議論のうち、特に着目したいのは特異点という用語である。

入不二は、昨年出版された『現実性の問題』や、その出版後に『現代思想』で行った対談『哲学とは何か、そして現実性とは』において、特異点という用語を用いている。例えば入不二は対談において「近藤さんの「これ」や永井均さんの〈私〉はもう通常の視点ではなくて特異点です。」と述べている。

特異点というアイディアは入不二の現実論の体系において重要な位置を占めていると思うので、特異点について正確に伝えるためには入不二の著作を読んでいただくしかないのだけど、一応僕なりの理解を簡単にまとめておこう。

特異点とは、「現にこれはある」「現に私はいる」といったかたちで表現できるような圧倒的な現実性の力の強さが、可能性や偶然性といった様相システムを圧倒し、様相システムが機能不全を起こし、潰れてひとつに圧縮されてしまった地点を指す。ある一面からの描写にすぎないが、このように述べることで、断片的にでも特異点に込められたものごとの大きさを伝えることができただろうか。

試しに永井の〈私〉について様相システムを用いて描写してみよう。現に〈私〉はいる、というときの私は、実は存在しなかったという可能性などない。では私が存在することは必然なのかといえば、そんなことはなくて、私は存在しないこともありえるはずでなければならない。こんな不可思議なものとしての私が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。このように描写してみれば、〈私〉に対しては様相システムが機能不全を起こしていることは明らかであり、これが、〈私〉は特異点であるということの意味である。

では、特異点とは何の特異点なのかといえば、僕の考えでは、さきほど2つの本を用いて説明してきた内在的な視点と外在的な視点とをつなぐ特異点なのではないだろうか。(入不二はそのような述べ方はしておらず、入不二は、特異点について、現実性という直接的には指し示すことができないものを、あえて指し示そうとするときに生じるもの、と考えているように思われる。)

再び、私という例を用いて描写してみよう。私とは、外在的な視点で捉えるならば、この世界に何人もいる人間のうちの一人である。一方で、内在的な視点で捉えるならば、私とは、この人生を当事者として生きている唯一無二の存在である。(永井の議論は更に、人間は各自に自らを唯一無二の存在として捉え、当事者として人生を生きている、という方向に進むが、ここではその手前で止めておく。)この2つの視点が私という地点で重なるからこそ、そこで様相は潰れ、特異点が生じる。このような意味で、入不二の特異点には、外在的な視点と内在的な視点をつなぐものとしての側面があるということである。

6 特異点の列挙

なお、特異点は私だけではない。入不二の議論を踏まえるならば、今、(可能世界と対比しての)この現実世界、指差しで示された「これ」といったものを特異点として挙げることができる。

今が特異点であるということは、私とほぼ同型の描写により示せるだろう。現に今である、というときの今は、実は今ではない可能性などない。では今であることは必然なのかといえば、そんなことはなくて、現在はかつて未来であり、やがて過去になるのでなければならない。こんな不可思議なものとしての今が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。

現実世界についても同様だが、注意を要するのは「これ」である。僕が目の前のコップを指差し、「これ」と言ったときの「これ」、つまり、このコップも特異点なのである。その理由を端的に述べるならば、このコップが特異点であるのは、「これ」と指さされたこのコップは、私、今、この現実世界と同様の特別さを持つからなのだ。私が今、この現実世界において、このコップを指差すことで、このコップは私に今、この現実世界において指さされた「これ」としての特異点となるのだ。指差しという動作が現実性の力の流れを象徴的に示していると言ってもいい。入不二はこのことを、現実性の力が波及・還流すると表現する。現実性の力は、私や今やこの現実世界や「これ」(このコップ)といったものすべてを巻き込むように波及・還流しているのだ。

注意を要するのは、ここまでの僕の描写が不正確なものであったということだ。僕はあたかも、「これ」は指さされたことにより、はじめて現実性の力に巻き込まれるかのように描写してしまった。だがこの描写はいわば方便であり、私や今やこの現実世界といったものは現実性がない状態から現実性を持つように変化するのではないのと同様に、もともと現実性を持たなかったただのコップが「これ」と指さされることで現実性を獲得するのではない、という点に注意が必要である。このコップは指差しなどされなくても「これ」としての特異点を有する。特異点としてのこのコップが以前は特異点でなかったということはありえない。それは、私が実は私として生まれなかったということはありえないのと同じことである。

特異点として、僕の机の上のコップのようなもの含めるならば、あたりを見回すと、至るところに特異点を見出すことができる。パソコンもモニタもペンもイヤホンも掃除機もすべてが「これ」であり特異点なのだから。

また、特異点は「これ」という表現に馴染むようなモノに留まらないだろう。ネコや家族や友人や通行人Aも特異点であり、歴史上の出来事や概念といったものも、そこに現実性の力が流れ込んでいる限り特異点として描写することができる。

例えば2011年3月11日に大震災が現に起こったということは、実はそうではなかったという可能性などない。ではそれは必然なのかといえば、そんなことはなくて、それより前の時点では、ちょうどその日に大震災が起こる確率はかなり低いものであったはずだ。更にはその震災により特定の誰かが亡くなり、誰かが助かるというところまで完全に一致するような事態が生じるというところまで考慮すると、天文学的に低い確率で生じた偶然であったはずだ。だがその天文学的に低い確率でしか生じないはずの事態が現に生じている。これは確率が100%であると言ってもいい。天文学的に低い確率と100%をイコールで結ぶことができるということが、歴史的な出来事が有する特異点性を示している。

概念についても同様である。例えば「優しさ」という概念について考えるならば、現に僕が人生を生きるにあたり「優しさ」を重視して生きているならば、それは特異点性を帯びることになる。僕が人生のなかで自らの行動を決めるとき、「勇ましさ」や「誠実さ」ではなくて現に「優しさ」を重視しているからだ。そのとき、「優しさ」という概念は並列された概念のひとつではなく、ただ僕の目の前にある唯一の概念として、いわば「これ」として僕の前に立ち現れているはずだ。

このように考えるならば、すべては特異点であると言ってもいいだろう。入不二はそれを現実性の遍在と言っている。入不二は現実性の力を「現に」という副詞により表現するが、現にコップはあり、現に東日本大震災は起き、現に僕は優しさを重視して生きているのだ。

7 特異点の階層

ここまで、私、今、現実世界、「これ」といったものを特異点として列挙し、また、特異点について、過去の出来事や概念といったものにまで拡張してきた。

しかし明らかに、私や今やこの現実世界といったときの特異点と、コップや過去の出来事といったものとでは特異点としてのレベルが異なるように思える。この机の上のコップの特異点性は、この僕が私であるという特異点性から派生しているに過ぎないように思えるし、東日本大震災の特異点性も、この僕が住むこの現実世界の特異点性から派生しているように思える。

特異点とは階層的に整理できるのではないだろうか。特異点ヒエラルキーの上層には人称的な特異点としての私、時制的な特異点としての今、様相的な特異点としての現実世界があり、そこから派生するものとして、この僕が指差したコップや、この現実世界の出来事としての東日本大震災がある。

なぜ、私や今や現実世界だけを特異点とせず、あえて派生するコップや大震災を議論に持ち出してまで特異点を階層構造としたのかといえば、実は私や今や現実世界よりも上の階層には、より上位の特異点を位置づけることができるという図式を示したかったからだ。

この特異点の階層構造は更に拡張できる。僕の考えでは、私や今や現実世界といった特異点よりも更に上位に、入不二の「現に」という副詞的な描写、つまり現実性を特異点として位置づけることができると考えている。

入不二はこの意見に同意しないだろう。入不二は多分「現に」とは特異点ではなく、現実性の力の現れそのものだと主張するだろうからだ。「現に」という現実性の力が人称システムと接触することにより特異点としての私が現れ、時制システムと接触することにより特異点としての今が現れるということになるのだろう。

だが、「現に」と表現し、「現実性の」力と名指しすることで、そこにはある種の不純物が混入してしまっているように僕には思えるのだ。入不二が述べたかった力とは「現実性の」力と限定的に記載されるべきものではなく、また、「現に」と描写されるべきものでもないはずだ。それは入不二自身が『現実性の問題』において、「現に、ソクラテスは哲学者である。」の「現に」を抹消することで示した道筋である。「現に」と明記されなくても現に「ソクラテスは哲学者である。」のである。

特異点ヒエラルキーの最上位には、「現に」という現実性が位置づけられ、第二階層に、私や今や現実世界があり、第三階層以下には、このコップといった「これ」や東日本大震災といった出来事や「優しさ」のような概念が位置づけられるということになる。

このような階層間の違いは、特異点階層の外にある力(としか言い表せないもの)に対して、どれだけの限定が加えられたかによって生じるのだろう。最上位で付加されたのは、現実性という限定のみだが、第二階層では、そこに、人称、時制、様相といったもののうちのいずれかが加わる。

同様に、第三階層以下についても、加えられた限定の数により階層は細分化するだろう。例えば、人称と時制という2つの側面からの限定が加えられると「今の私」が生じ、人称と時制と様相という3つの側面からの限定が加えられると「今の私の世界」といったものが生じていく。

(可能世界に対比されるものとしての「現実世界」という用語のうち、「現実」とは、入不二の議論を用いるならば実は第一階層の現実性由来のものであるといえるため、「世界」としている。つまり、様相システムとは、実は、世界を構成するものごとの複数性を示すものであると言えるだろう。この観点からは、様相システムというよりも、事物の複数性を導入するという意味で、内包システムと呼称したほうが適切のように思える。)

この特異点ヒエラルキーに更に説明的な文言を加えるならば、これは「現実性の観点からの特異点ヒエラルキー」であると言えるだろう。なぜなら、最上位が現実性であり、そこからすべての階層構造が始まるからだ。

このようにしてしか特異点ヒエラルキーを描くことができないという点に入不二の現実性の議論の正しさがあるように思う。なんとも名付けることができない力というものに輪郭を与えるために最小限の限定を加えるならば、それは「現に」という現実性しかないと確かに思えるからだ。ほかの観点からではここまで美しい構造を描くことはできないように思う。

(ここまで用いてきた特異点の例は入不二の議論からは大きくずれていないと思うし、多分、哲学の伝統にも概ね沿ったものだと思う。だが実は僕はこの特異点ヒエラルキーのかなり上位に、「対話」「肯定主義」「規則」「真のクオリア」というものを導入したいと考えている。できれば現実性に並ぶくらいのところに位置づけたいとさえ考えている。これはかなり野心的な試みになるのではないかと思う。)

8 特異点の特徴

ここまで、特異点を列挙し、階層というかたちで構造化する作業を進めてきたが、ここで特異点というものの特徴を示しておきたい。

特異点には、そこに視点を設定することで、唯一の視点から多くのものごとを捉えることができる、という特徴があるように思える。

例えば、今、現在という特異点に視点を設定してみよう。すると、過去とは現在において想起しているものであり、未来とは現在において予想しているものであるという捉え方ができるようになる。ここから、過去も未来もすべて現在であり、現在は永遠である、という考え方が導かれるようになる。今という特異点に視点を設定することで、多くのものごとを捉えるとは、このような捉え方のことを指している。同様の議論は私やこの現実世界という特異点でも可能である。

机の上のコップのような「これ」については当てはまらないのではないか、という反論があるかもしれない。だが「これ」とは指差され、現実性の力が波及・還流している「これ」である。いわば焦点が定められ、注目されているものである「これ」とは、注目しているこの現在におけるこの私にとっては、いわば全てである。僕が目の前のコップをただ見つめているとき、そのコップはこの今のこの僕にとってはこの世界全てであると言ってもいい。これはコップを通じてこの世界全てを捉えているとしてもいいのではないか。確かに、「これ」の特異点性を説明するためには、今、私、この現実世界といった道具立てを必要とするという点で、「これ」は全てではない。だが、控えめに言っても、かなり豊穣なものが、「これ」としての机の上のコップという特異点には込められている。以上の議論は、「これ」がコップのようなモノではなく、概念や過去の出来事であっても同様にあてはまるはずだ。

なお、特異点が持つ捕捉力とでもいうべきものが遺憾なく発揮されるのが、入不二の現実性という視点であろう。例えば命題という観点に立つならば「現に」という副詞は、どのような命題にも付加することができる。当然「ソクラテスは哲学者である」に付加できる一方で、「ソクラテスは哲学者ではない」も「現に、ソクラテスは哲学者ではない」であり、「ソクラテスはユーチューバーである」も「現に、ソクラテスはユーチューバーである(という文章が書かれた)」というかたちで「現に」を付加できる。更には、まだ一度も書き記されたことのない命題であっても、それは「現に」まだ一度も書き記されたことのない命題であり、決して起こることのない出来事も、それは「現に」決して起こることのない出来事である、というかたちで「現に」を付加できる。(このあたりは入不二の最深潜在性の議論に入っていると思う。)

入不二の現実性という視点は、「現実性」や「現に」という描写自体を除いては、すべてを捉えきっていると考えていいように思う。これが入不二の現実論の力であり、僕が入不二の現実性を特異点ヒエラルキーの最上位に置くべきと考える理由である。(一方で、「現実性」や「現に」というなんらかの限定からは逃れられないということが、入不二の現実性が特異点の外を指し示すことができず、特異点に留まると考える理由である。)

9 『現実性の問題』における内在的議論

さて、ここまで特異点について論じてきたのは、外在的な視点と内在的な視点とを接続するものが、この特異点だからであった。

僕は『現実性の問題』において入不二が立っていた視点は極めて内在的なものであったと思う。意図的なものなのか、それとも現実性というテーマ設定により必然的にそうなったのかはわからない。多分両方だったのではないかと思う。なぜなら、現実性には外部がないということを考察するためには、現実性を客観的に分析の対象とするような外在的視点に立つことはできないからだ。僕たちはどこまでも現実性の波及・還流として描写される力に巻き込まれている。僕たち自身がそのような事態を描写するためには内在的な視点に立つ必要がある。(一方で、その前の入不二の著作である『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外在的な視点と内在的な視点を行き来するように語り、そこに様々な「中間」という特異点を見出したと考えている。入不二の運命論とは、いわば「中間」という特異点をつなぎ合わせたようなものだと言えるだろう。そこでの議論には変幻自在な視点移動という点ではある種の自由さがある一方で、『現実性の問題』に比べると、焦点が定まりきっておらず、考察が突き詰められていないという側面があるように思う。)

『現実性の問題』において、入不二は極めて内在的な視点に立ちつつ、外がないはずの現実性の全体を捉えきろうとした。そこには矛盾があるにも関わらず、少なくともある程度までは成功しているように、僕には思える。

なぜ、現実性の内側から、現実性という考察対象全体を捉えるような芸当が可能になるのかといえば、入不二が特異点をうまく使ったからなのだと考えられる。外在的な視点と内在的な視点とをつなぐ特異点を抜け道として用いることで、入不二は現実性の内側に立ちながら、現実性をいわば全体から捉えることに成功したのではないか。

いや、入不二が行ったことはそれほど特別なことではないだろう。多分、特異点という抜け道は哲学者に限らず多くの人が使っているはずだ。なぜなら、内在的であるはずの思考というものを使って外在的に世界を捉えるためには、なんらかの抜け道を使う必要があるからだ。例えば、現代人にとって常識的な自然科学的で客観的な世界観を獲得するためには、時空や因果といったものを特異点とし、そこを蝶番にして内在的な視点と外在的な視点をひっくり返し、世界を客観的なものとして捉えなければならない。それはほとんどすべての人がやっていることのはずだ。

なぜ、このようなことがいともたやすくできるのかといえば、それは、この世界が特異点という抜け道に満ちているからだ。(世界という概念も含めて。)

だから、入不二が行ったことの特別さは、特異点という抜け道を使ったということではなく、どちらかというと、できるだけ特異点を使わず、極限まで思考を突き詰めることだったと言ったほうがいいかもしれない。だからこそ現実性という最上位の特異点を見出し、そこを経由し、最も高い次元で外在的把握を成し遂げたとも言えるのではないだろうか。入不二は特異点の使いどころがうまかったということなのだ。

10 内在的に生きる

『星の王子さまのキツネ』も、『生き方』を書いたバーナド・ウィリアムズも、『現実性の問題』の入不二基義も、内在的視点というものに意識的であるという点が共通していると僕は思う。

人間である限り、人はいとも簡単に外在的視点に抜け出てしまう。なぜなら、世界は特異点に満ちているからだ。特異点は特異な点などではなく、非常にありふれた点なのだ。

だからこそ、どの特異点を使い、どの特異点を使わないかという選択が重要となる。キツネもウィリアムズも入不二も使いどころをわきまえていた。三者の共通点は、意図的に目先の特異点にとびついて、あえて外在的視点に抜け出る必要などないという大方針だ。

僕たちが外在的な存在とならなくても、そこにはすでに外在的存在者がいる。それは神や死やヘビと呼ばれる者なのだろう。彼のお世話になるまでは、僕は僕の内在的な生を生きていくのだろう。

(なお、内在的に生きるにあたっては、できるだけ内在的な視点をやわらかなものとして拡張し、我が家を住みやすくしておいたほうがいいだろう。そのために役立つのが呼吸ではないだろうか。呼吸とは内在的視点と外在的視点の行き来を象徴するものであり、内在的視点から意図的に外在的視点に突き抜けては戻ってくるという練習になっていて、いわば内在的視点のストレッチになっているように思うのだ。(あくまで練習であるという点が重要である。))

『現代思想』2021年1月号を読んで

1 はじめに

僕は入不二基義という哲学者のファンなので(この導入を使うのは何回目だろう?)、彼の対談が載っている『現代思想』の2021年1月号を買った。2021年のエッセイ書き初めということで、正月に読んだこの本について書くことにする。

正月はコロナでどこにも行かず、時間があったので、まず、楽しみにしていた入不二基義・上野修・近藤和敬の3人の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下『現実性とは』とする。)を読んだ。正月ボケの頭には面白かったけど難しかった。一つ一つの言っていることは理解できる箇所もあったのだけど、どうしてこのように話が展開するのかがよくわからなかったのだ。対談の流れにうまく乗れないというのだろうか。

対談を読み終え、せっかくなので、ぱらぱらと面白そうな文章を拾い読みしてみた。いくつも面白いものがあったが、特によかったのは、T・ガルシアの『概念の羅針盤 現代実在論の認識的方向と存在論的方向』(以下『羅針盤』とする。)だった。ただ面白かったというよりは、驚いたと言ったほうが正確だろう。

タイトルを見る限り、入不二たちの対談は現実論がテーマであるのに対し、ガルシアの文章は実在論がテーマであるのは明らかだ。だから多少は関連性があるのではと期待していたけれど、読んでみて、両者の議論の重なりに驚いた。それぞれ読み返してみると、両者が互いに理解を深め合う関係にあるとさえ言える。ガルシアの文章を読むことで、どうして入不二たちの対談がこのような展開になったのか少しわかり、また、入不二たちの対談を読むことで、ガルシアが何を問題としているのかがわかった気がする。

(僕はあまりこういう雑誌を読まないのでわからないのだけど、編集者の才覚によりこのような化学変化を起こすことができるのだろうか。それとも、偶然の一致が生じやすいほどに、ありがちな議論だということなのだろうか。)

ということで、これから、この二つの文章をつなげるかたちで論じていきたいが、僕は入不二ファンなので、どうしても入不二に肩入れしてしまうことになるだろう。あくまでガルシアの文章は入不二たちの対談の導入として使うことになるし、入不二の対談相手についても、あくまで入不二の引き立て役として扱う予定だ。特に近藤については、そのような側面が強くなるだろう。

だが、当然ながら、ガルシアと近藤の議論には独自の価値がある。そのことを示すためにも、この文章の最後では、彼らの議論を踏まえるかたちで入不二に対してツッコミを入れることも目指したいと思う。

なお、彼らの議論を用いるうえでは、本来、正確に引用すべきだろうが、文章の流れを優先したいという理由から、また僕なりの読解を共有したいという理由から、正確な引用はあまり行わず、彼らの議論を僕なりの言葉で表現し直すこととしたい。だから、以降の文章は、実際には彼らが言っていないことを言ってしまっている箇所も多いと思う。いずれもそれほど長くない文章なので、是非お読みください。

2 『羅針盤』の紹介

まず、ガルシアの『羅針盤』を紹介するところから始めよう。これは、かなり長々と紹介することになる。僕にとってはとても示唆に富む文章だったので、自分のための備忘録を兼ねて丁寧にまとめておきたいのだ。

なお、その後の展開も前もって示しておくと、第2章での『羅針盤』の紹介を踏まえ、第3章では『現実性とは』について論じていくことになる。

その方向は、ガルシアが重視している「存在論的実在論」を更に二つに分け、ひとつを近藤に、もうひとつを入不二に割り振ることとなる。そして、二人の違いを踏まえ、哲学と非哲学との接触点を「書くこと」に見出し、哲学とその外との関係についても考えていきたい。この議論を駆動するのは、ガルシアの「無関心」というキーワードである。

さて、話を進めよう。

ガルシアは『羅針盤』において、実在論をいくつかに分類し、わかりやすく整理している。その整理自体も非常に興味深かったけれど、より重要なのは、その整理を通じて、実在論とは何か、更には、実在とは何か、ということを明確化してくれたという点にあると思う。

ガルシアは実在論について次のように分類する。

①認識論的・名詞的実在論:例:近年の現象学

②認識論的・形容詞的実在論:例:クワインの弟子たち

③認識論的・副詞的実在論:例:ウィトゲンシュタイン

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④認識論的・逆説的実在論:例:ルイス、思弁的実在論

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⑤存在論的実在論:例:アレクシウス・マイノング

区切り線を入れたとおり、①~③は一連のものとして扱うことができ、④との間にはそれらと違いがあり、⑤との間には更に大きな違いがあるという関係にある。

過去の高名な哲学者の議論をこのように区分できるということ自体も示唆に富むものだが、重要なのは、それぞれの議論の種類によって、実在という語に込めるものが大きく異なるという点にある。更には、その異なり方にも、いわばレベルの違いがあるという点が非常に興味深い。

簡単にその異なり方について述べるならば、まず、①~③の議論の相違点は、実在と非実在の切り分け方にあると言えるだろう。そして、①~③と④の違いは、非実在を実在論から切り離そうとする前者と、非実在を可能性というかたちで取り込もうとする後者の違いだと言っていいと思う。また①~④と⑤の違いは、なんらかのかたちで実在と非実在の違いを重視する前者と、実在と非実在の違いを重視しない後者の違いだと言えるのではないか。

詳細はこれから述べるが、なんとなく、ここには実在と非実在とに関わる議論のレベルの違いとでもいうべきものがあることを感じていただけると嬉しい。

そのうえで、それぞれの違いの説明に移ろう。①~③の議論の相違点についてだが、まずガルシアは、認識論的実在論を大きく名詞的実在論・形容詞的実在論・副詞的実在論の3つに分ける。僕なりの説明になってしまうが、名詞的実在論は、名詞、つまりモノの実在を考察の対象とする。だから、例えば、目の前のペットボトルや、夢の中のドラゴンや、彼女を愛する気持ちといったものが実在するかどうか、といったことを検討することになる。

形容詞的実在論は、例えば、このペットボトルは実在的である、というとき、どのような基準でそれを実在的と扱うか、といったことを検討するものだと言えるだろう。だから認識論的実在論のように、ペットボトル自体が実在するかどうか、ではなく、ペットボトルが実在するかどうかを判断する私たちの、いわば心の内側にある基準が問題となる。(心の内側というのが非常に問題があるけれど、ここではわかりやすさを優先しています。)

副詞的実在論とは、またペットボトルの例を用いるなら、「このペットボトルを実在的に扱う。」というとき、私たちが、どのように扱うのかを問題とするものだと言えるだろう。そこでは実在に対する私たちの態度が問題となることになる。

以上の3つの論を並べてみると、名詞的実在論においては認識対象のモノ、形容詞的実在論においては認識の働きの基準、副詞的実在論においては認識における態度といった違いはあっても、そこには共通項がある。いずれも、認識における実在と非実在の切り分け方についての議論であるという点で、認識論的実在論という同じグループの一員であると捉えることができる。

以降の議論につなげるために指摘しておきたいのは、そこには、議論の順序があるという点である。多分、最も素朴な実在論は名詞的実在論である。ここがスタート地点となる。(と言っても現在の名詞的実在論が素朴だということではない。なぜなら名詞的実在論はその議論領域のなかで議論が深められ、精緻化するからだ。魚類、両生類、爬虫類と進化したからと言って、現在の魚がトカゲより進化の度合いが低いとは言わないのと同じことである。)

そこから、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と議論が進むにつれ、実在と非実在の切り分けの歯切れが悪くなっていくという傾向があるのがみてとれるだろう。名詞的実在論では、外的なモノを明確に切り分けられたが、形容詞的実在論では、それは内的な基準にすぎないものとなっていく。更に副詞的実在論においては、その違いは、実在に対する態度と非実在に対する態度の違いという、非常にわかりにくいものになってしまっている。

副詞的実在論での実在と非実在の切り分けのわかりにくさについてはもう少し言葉が必要だろう。副詞的実在論が持ち出す非実在に対する態度とはそもそもなんだろうか。少し考えただけでも、非実在に対してなんらかの態度をとるということ自体、かなりの困難であるように思える。非実在について、実在と全く関係ないことと強く捉えるならば、実在と全く関係ないものに対する態度を実在論的に有意義に議論することなどできないのではないだろうか。そう考えると、副詞的実在論とは、実在論の成立ぎりぎりのところにある、とても歯切れが悪い議論であると言えるだろう。

その歯切れの悪さを引き継ぐような立場にあるのが、④の逆説的実在論である。①~③の議論はやり方の違いはあっても、いずれも、実在と非実在とを区分しようとするものだった。なぜ、そのような区分け作業をするのかといえば、非実在を実在論から切り離し、追放することで、実在だけの世界を作ることが目的だからだといえるだろう。いわば、いずれの議論も純血の実在の王国を目指すものだったのだ。一方で、逆説的実在論とは、非実在を追放するのではなく、王国の構成員になるのを認めることで、融和により王国の統一を図ろうとするものだと言えるだろう。

非実在を取り込むために重要となるのが、可能性であり、ガルシアによれば「可能なもの」というアイディアだ。実在論において非実在を捉えるためには、非実在を思考し、認識しなければならない。ガルシアはそれを「実在的でないものを思考し認識する奇妙な実在論的様態」と呼ぶ。この奇妙なことを成し遂げるためには、非実在を「可能なもの」とし、実在と同等に扱わなければならない。

ガルシアは、その道筋をふたつ提案し、「かもしれない」という控えめな留保付きの述べ方ではあるが、一方をデイヴィッド・ルイスの可能世界論、もう一方を思弁的実在論と結びつける。

ルイスは、「可能なもの」について、可能世界という考え方を導入することにより、現実世界とほぼ同等の地位を与える。そのことにより、「可能なもの」に重みを付けて、実在と等しいものとして認識しようとする。

一方で、思弁的実在論は、実在するものの偶然性を強調することで、実在が持つ重みを割り引き、「可能なもの」と等しいものとして認識しようとする。

前者は、「可能なもの」を実在と同等まで引き上げようとする試みであり、後者は、実在を「可能なもの」と同等まで引き下げようとする試みであるという点で、鏡のように正反対の対となるアプローチと言えるだろう。

こうしてついに、逆説的実在論において、実在と非実在の区分の歯切れの悪さは、積極的な区分の放棄というところまで進むことになる。

だがそれでも、実在と非実在を切り離そうとするか、取り込もうとするかの違いはあっても、両者の違いは重視されていた。

その違いの重視すらも放棄するのが、⑤の存在論的実在論である。ガルシアは①~④を、いずれも認識論的実在論としたが、なぜ「認識」論なのかといえば、実在と非実在の違いを認識することを目指すという点で共通点があるからだろう。認識の仕方や認識したものの取り扱いには違いはあっても、いずれの議論も実在と非実在の違いを認識することを重視するという共通点がある。

一方で、存在論的実在論とは、認識という言葉が含まれていないという点に示されているように、実在と非実在の違いを認識することを重視しない。認識論的実在論のある側面での最終形とも言える④逆説的実在論においては、実在と非実在を同等に扱おうとするベクトルが働いてはいても、そこには実在と非実在とを異なるものとして認識し、それぞれに別種の操作を加えることができることを前提としていた。だが、存在論的実在論においては、実在と非実在の間にある違いを認識することすらも放棄するものなのだ。

いや、ここで「放棄」という言葉を使ったのは不適切かもしれない。ガルシアは、それを「無関心」と表現している。

『羅針盤』において「無関心」は重要なキーワードである。彼によれば、①~④の認識論的実在論を駆動するのは「主体に対する無関心、認識するものに対する認識されたものの無関心」である。ガルシアは無関心が認識論的実在論を論ずる動機につながる経路を、見返りを求めない愛を比喩として用いることで説明している。つまり、私たちがペットボトルの実在について論じたくなるのは、いわばペットボトルを一方的に愛しているからなのだ。認識論的実在論とは、決して振り向いてくれない、そっけないペットボトルへの片想いのことなのだ。

そのように言うと違和感があるかもしれないが、私たちがペットボトルの実在について論ずるのは、私たちが考察の主体であり、ペットボトルが考察の対象だから、とすることには同意いただけるのではないだろうか。決して、ペットボトルという客体が、客体のままに私たち主体を考察してくれることはない。

そこには主体と対象の非対称性がある。この非対称性を比喩的に無償の愛や片想いと表現することはそうおかしいことではないだろう。主体は認識の対象に関心を持たざるを得ない。なぜならそれが認識ということだからだ。一方で、対象は主体に対して無関心であらざるを得ない。なぜならそれが認識ということであり、もし対象が主体に関心を持ってしまったら、ペットボトルが主体で、私たちが対象ということになってしまうからだ。その非対称性を、ガルシアは見返りを求めない愛も用いて、無関心という言葉により指し示そうとしている。

この「無関心」とは、①~④の認識論的実在論においては非対称性のなかに位置づけられるものだったが、⑤の存在論的実在論においては拡張され、「無関心」が全面化していく。それをガルシアは「主体に対して認識の対象が無関心であることではもはやなく、対象と主体のあいだの無関心なのである。」と表現する。

認識論的実在論における無関心は、対象から主体に対する一方的なものであり、主体から対象に対する関心は、無償の愛に喩えられるように前提とされていた。しかし存在論的実在論においては、主体から対象に対する関心さえも失われ、双方向的な無関心という状況が現出することとなる。

ここには、主体から対象へという視点の切り替えがあり、この切り替えは、存在論的な転回とさえ言うことができるものだろう。

僕はこの転回に着目し、更に論じていきたいのだけど、先を急がずに、まずは、存在論的実在論とは何かという点について説明しておくべきだろう。

ガルシアは存在論的実在論について「対象それ自体の存在様態として(の)実在論」とする。そして「現実存在する対象よりも多くの対象が存在する」と論ずるものだとする。つまり存在論的実在論においては、主体が認識する対象よりも、より多くの対象が存在するということにある。これは、主体から対象に視点が移され、対象それ自体の視点から対象それ自体の存在について捉えようとすることからの当然の帰結だろう。主体の認識から解き放たれたならば、対象が主体の認識とちょうど同じだけしか存在しないとする理由はなくなる。対象は主体の認識をはみ出しているのだ。ガルシアによれば、マイノングはそれを「超存在」と呼ぶ。そして、マイノングは「そうした対象はそれぞれが、完全であれ不完全であれ、可能であれ不可能であれ、具体的であれ抽象的であれ、実在であれ非実在であれ、そのように存在する実在的な様態をもっている。」とする。

このようなマイノングの考え方はとても興味深いものだが尖りすぎているように思う。僕自身はこのような議論の方向が魅力的だと思っており、後ほどあらためて取り上げたいが、とりあえず存在論的実在論というもののイメージを捉えるには少々常識から離れすぎていて理解し難いように思う。存在論的実在論のとりあえずの理解のためには、ガルシアの別の表現を引用したほうがいいだろう。それは「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」という箇所である。つまり、存在論的実在論とは、主体としての人間を、動植物など生物全般のなかに同等のものとして再配置しようとするものである、ということになる。そこでは、人間にはもはや主体としての特権はなく、主体として対象に関心を持つという特別な地位に立つことはなくなる。このように描写される存在論的実在論においては、無関心の全面化により認識主体と対象という区分自体が無効化され、私たち人間を含む全てがただ平等に存在することになる。後ほど論ずるように、僕はこのような捉え方には問題が含まれていると考えるが、少なくとも、存在論的実在論の近似値を指し示すためには、十分にわかりやすい描写ではないかと思う。

ガルシアの『羅針盤』の議論を紹介するにあたって、最後に留意を促したいのは、認識論実在論から存在論的実在論に転回するにあたり、実在という語の意味も大きく変わっているということである。認識論的実在論においては、認識されるものだけが実在だが、一方で、存在論的実在論においては、認識されないものも実在である。つまり、実在という言葉が表すものは、明らかに前者よりも後者のほうが広い。認識論実在論から存在論的実在論への転回とは、実在の捉え方の違いに留まるものではなく、実在という語の適用範囲の拡張でもあるのだ。

以上、ガルシアの『羅針盤』の議論について、今後の議論に必要な範囲で抽出し、僕なりにわかりやすく紹介してみたつもりだ。ここから、更に議論を深めていきたいが、それは『羅針盤』単独で行うのではなく、入不二・上野・近藤の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下、『現実性とは』とする。)と絡めつつ行っていきたい。

3 『羅針盤』も踏まえた『現実性とは』の議論の考察

ここからは、『現実性とは』について、議論の論理的な流れはあまり気にせず、対談で出てきた話題の順序に沿って考察していきたい。

そこでは、先ほど紹介した『羅針盤』と絡めることもあるし、絡めないこともある、ということになるだろう。

(1)行って帰ってくる

対談の最初の方において、近藤は、哲学のあり方の問題として、「行って帰ってくる」という思考の運動のかたちを問題とする。これを僕は、「哲学とは、どんなに知的冒険をし、とんでもないところに議論が進んだとしても、そこから既知の日常に戻ってくることを目指すべきである。」という主張だと理解した。少なくともある側面では当然だろう。どんなに壮大な知的構造物をつくりあげたとしても、それが日常と乖離していたら説得力がない。

そのうえで近藤は、入不二は帰れていないのではないか、と問題提起をしている。更には、帰れているのは歴代の大哲学者のなかでもスピノザだけなのではないかとさえ言っている。(これに対して、上野が、そもそもスピノザは行って帰るのではなく、向こうから出発している、と応じているのが面白い。)

ここで注目したいのが、「帰ってくる」ことについての入不二と近藤の違いである。

まず入不二の立場について。擬製的創造の議論(擬製的創造については後ほど取り上げる)のなかで、対立するプラトニズム的創造との議論の対立により、両方の議論自体が抹消されるという話が出てくる。これに絡めて、入不二は「両方がいっぺんに消えることが「戻ってきたという徴表」だとすれば、私は実はもう戻ってきているのかもしれません。」と言う。確かに入不二は『現実性の問題』において抹消の作業を随所で行っている。最も鮮やかな例が、「ソクラテスは哲学者である。」という文から「現にソクラテスは哲学者である。」へと進んだうえで、更に「現に」を消去し、「ソクラテスは哲学者である。」へと至っている箇所だと思う。(第3章)

一方で近藤は、戻ってきているとするためには抹消だけではなく、なんらかの条件を満たす必要があるとする。その条件とは、僕の理解では、哲学を始めかた、つまり哲学の動機であり、哲学において目指すもののことである。近藤は、近藤にとっての条件を「私が人間以外のものの一部になる」ことだとする。つまり、近藤にとっての哲学とは、「私が人間以外のものの一部」として位置づけられるような結論となる考察を行うということであり、そうでない議論は、十分に戻ってきていないということになる。

僕はここに、重大な哲学観の違いを読みとる。僕は入不二ファンなので、はっきり言えば、近藤の主張は哲学ではなくて思想だと思う。もし、ある考察が、ゴールを定めて行われているのであれば、その考察とは、ゴールとして設定されている主張を行うための手段となってしまう。それは哲学ではなく思想と呼ばれるべきものではないだろうか。真の哲学とは、そのような手段として用いられるものではなく、ただ考察自体を目的として行うべきものなのではないだろうか。なぜなら、設定されているゴール、例えば、近藤の「私が人間以外のものの一部になる」とは、その議論においては決して侵すことのできない聖域であり、もしそれを侵そうとする主張があったならば、それは、この議論の目的に合致しないという理由から却下されるしかないからだ。このように聖域を確保したうえでなされる議論を、僕は哲学とは呼びたくない。

この方向で突き進むならば、実は、日常に「帰ってくる」という目標設定さえも哲学にとっては夾雑物だということになる。よくできた哲学とは「帰ってくるつもりもなかったけれど、帰ってきてしまった」というあり方をするべきものなのかもしれない。僕は詳しくないけれど、もしスピノザの哲学がよくできたものならば、それは、スピノザの議論が、無理やり帰ってこようとはしておらず、ただ帰ってきてしまったようにしか見えないからなのではないか。(ただし、上野の「うまくいけばいい」という言葉を踏まえると、スピノザも日常に戻ってくることを目指していて、そのように意図的に議論を構成していたように思える。)

僕はこの「帰ってきてしまった」というあり方に、『羅針盤』でのキーワードであった「無関心」と同種のものを感じる。また、入不二の『現実性の問題』における「ケセラセラの運命論」とつながるものを感じる。これらに共通する「力み」のなさにこそ、哲学の羅針盤があるように思える。

(2)円環モデルのギャップ

ここまで僕は近藤を貶めるように扱ってしまったが、僕は近藤の『〈内在〉の哲学試論』を読んでいないので彼の哲学の中身を知らない。だが、少なくとも、対談を読む限り、とても興味深い方だと思う。

例えば、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げないであろうという(ことになる)とは言うことができますが、次に泳ごうとして泳げたとき、そのあいだに何があったかということに関しては私の図式だと何も言えません。」、「常に、何が起こっても驚かなければいけないし、何が起こっても驚いてはならない」といった表現がある。これは、入不二の円環モデルの始発点のところにあるギャップを表現するものとして、入不二自身が言っていてもおかしくない表現だと思うし、とにかく格好いい表現だと思う。

(3)擬製的創造

入不二ファンの僕にとって、この対談のひとつの山場は、近藤の擬製的創造の入不二の扱いだった。入不二は他の哲学者の議論を自らの土俵に取り込み、拡張していくのが上手い。当然、もともとの議論が良い素材だからこそなのだが、僕はやはり、入不二の鮮やかな包丁さばきを見るのが好きなのだ。

入不二は擬製的創造の構図のなかに、二つの「ある」と二つの「なる」を見出す。「ある」と「なる」と言えば、入不二が運命論について論じた『あるようにあり、なるようになる』の題名にもなっているとおり、入不二の重要概念である。「ある」の無時間的な現実論と、「なる」の時間論とが織られるようにして運命論が駆動していくというのが、僕が理解する限りの入不二の運命論の概要である。

だから当然、入不二は、擬製的創造の構図と自身の運命論とは繋がっていると考えているはずなのだが、この対談ではそこまでは示されていない。だから入不二が述べるだろうと思われることについて、僕なりの理解を備忘録的に残しておくこととする。

僕の理解では、擬製的創造の構図のうち、現在の「ある」は遍在する現実の力により、無時制的な「ある」と接続する。なぜなら、「もともとそうであった」も「これからもそうである」も潜在的には「ある」からだ。しかし、この接続は円環モデルの始発点にあるギャップを越えなければいけない。

その困難を可能にするのが「なる」の垂直的生成である。決してなるはずがないことになるのだから、これはいわば創造と言ってもいいだろう。更には、それが波及するようにして、過去・現在・未来という時制間の水平的生成としての「なる」も立ち現れる。この創造の不思議を近藤は、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げない」はずなのに、なぜか次に泳げてしまうという驚きに喩えたのだろう。このような創造は決して起こるはずがないのに、なぜか日常的に起こっているという驚きである。

その鏡像関係のようにプラトニズム的生成がある。そこではイデア的な無時制的な永遠の実在としての「ある」が転落し、現在の「ある」として立ち表れることになる。これは現実論的には転落ではあるが、一方で、過去・現在・未来という時制の生成でもあるとも言える。

そのように捉えるならば、擬製的創造とプラトニズム的生成を組み合わせて、入不二の円環モデルを描くこともできるだろう。始発点としてのイデア的な実在が転落し、過去・現在・未来の3時制が生じる。更には各時点での過去・現在・未来が生じるというかたちで時制が豊穣化していく。ここまでが円環モデルの右半分にあたる。しかし、やがて豊穣化には限界が来る。なぜなら時制は豊穣化する一方で、現に手元にある現在がどんどん痩せ細っていってしまうからだ。それを取り戻そうとするのが、「そうである」を持続的現在と捉えることで、無時制的な「そうである」に繋げようとする近藤の擬製的創造というアイディアである。これは円環モデルを時計に喩えるならば6時のところで行われる転回であり、この転回により実在は時制的な分断から回復され、潜在的なものとして位置づけられていくことになる。これが円環モデルの左半分となる。

だから、入不二は「擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)の両方がいっぺんに消されるかたちで「ということになる」が抹消される水準もあるのではないか」とするが、僕の考えでは、その抹消は「いっぺんに」行うものではなく、円環モデルを丁寧にたどるようにして行うものであるように思う。

だから抹消された先にある祈りとは、突き詰めれば「現実性の力」のことなのだろうと思う。だが、入不二は、祈りは行為であり、内容があり、時制があるとしていることから、力そのものではないとも言えそうだ。「これ」や〈私〉が特異点であるように、「祈り」も完全な抹消の際(きわ)で垣間見ることができる特異点のひとつなのかもしれない。

(4)入不二の視点問題のエレガントな解決

特異点というつながりでは、上野の「じゃあ今あなたはどこから語っているんだ」という問いに対して、特異点を持ち出すという入不二の答え方はとてもエレガントだと思った。僕の勝手な解釈だと、これは、「上野さん、その問いを有効に成立させるための足がかり(投錨地点)としての上野さん自身=「この私」こそが既に現実論上の特異点なのだから、現実性の力に巻き込まれるようにしてしか、現実論を語ることはできないんですよ。」と答えていることになる。

以前、森岡からの「この現実はどこから語られているか。」という似た質問に対して「いや、どこからでもない」「あえて変な表現で言うならば~現実自身が現実を語っている」と答えていたけれど、それよりもいいと感じた。(『運命論を哲学する』)

森岡に対する回答は、現実自身をスタートに置くかたちになっていて、いわば外から現実を捉えたような回答だったけれど、上野に対する回答は、現実の内側から、特異点を通じて透かし見るようにしか現実論を語ることはできないという点が強調されているという点で、より正確なものだと思う。

(5)いわゆる存在論的実在論と、真の存在論的実在論

この章が『羅針盤』と『現実性とは』とを最も絡めたかったところだ。

最初に『現実性とは』を読んだ時、僕は、どこで入不二と近藤の議論がすれ違っているのかがわからなかった。例えば、上野が「近藤さんのドゥルーズ論で引っかかるのは、その思想を自然科学と捉えているところです。」と述べているのが、なぜここで、このような問題を持ち出すのかがわからなかった。

そのとき僕には、入不二は近藤をよく理解しており、近藤も入不二をよく理解しているように思えた。入不二ファンとしては入不二が近藤を理解しているのは当然として(笑)、近藤も入不二を明らかに理解していると思ったのだ。例えば近藤は、実在には事象内容性が伴っていて不十分だから実在性から現実性に向かうべきという入不二の提案に対して、「実在が事象性と一致するようにはわたしは考えていません。」と答えている。これは明らかに、入不二が現実論のなかで見出した潜在性(潜在性は事象内容性と離れていくベクトルを有していることが特徴である)を、近藤は実在に含めることができると応答していることになる。もしそうならば、事象(内容)性と潜在性を合わせたものを現実性と呼ぶか実在性と呼ぶかという名付け方の違いがあるだけで、少なくともここでのやりとりの限りでは両者の議論は一致することになる。一致する二人が何を問題としているのか僕はわからなかったのだ。

だが、『羅針盤』を読んで少しわかった気がする。先ほどひととおり紹介したとおり、『羅針盤』によれば、実在論をある観点から捉えるならば、名詞的・形容詞的・副詞的・逆説的と認識論的実在論の議論がせり上がっていった先に存在論的実在論があるといえるだろう。認識論的実在論においては、実在と非実在の違いについて、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と進むにつれ、徐々に歯切れが悪くなっていきつつも、なんらかのかたちで関与を保っていた。逆説的実在論に至っても実在と非実在を同視する方向に向かいつつも、それはあくまで違うことを出発点としたうえで違うものを同視するという議論だった。だがついに存在論的実在論において、実在と非実在の違い自体に目を向けない地点に到達する。

僕が入不二と近藤の違いがわからなかったのは、二人とも、(当然、上野も含めた三人とも、)存在論的実在論をしっかりと捉えているという点では違いがないからだったのだ。

そして、それでも二人に違いがあるのは、存在論的実在論にも少なくとも二種類あるということを意味している。その違いがわからないから『現実性とは』の対談が理解できなかったのであり、また『羅針盤』でガルシアが言っていることが腑に落ちなかったのだろう。僕の読解では、『現実性とは』でも『羅針盤』でも、この問題は明確に表現されていない。少なくとも僕にとっては、この問題は両者を参照し合うようにすることで、ようやく理解できるようなものだった。

では、この問題、つまり、存在論的実在論のなかにある二つの議論の違いとは何か、について、『羅針盤』を起点として考えてみよう。

僕が『羅針盤』を読んでいてわからなかったのは、存在論的実在論の中身である。ガルシアは存在論的実在論を説明するうえで、マイノングの超存在、デランダのフラット存在論、スーリオ、ラトゥールらによる質化する存在論としての存在様態の理論、(ガルシア自身の捉え方である?)鷹揚な存在論といったものを持ち出す。いずれの人名も『羅針盤』ではじめて知ったものなので、その限りでの理解となるが、僕にはそれらが同じものを指し示しているようには思えなかった。確かにそこには、主体から対象へという視点の転回という共通項がある。だが、例えば、不完全や不可能や非実在さえも、そのような存在として捉えようとするマイノングと、「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」というガルシアの描写との間には大きな隔たりがあるように思える。前者は尖っていて興味深いが理解し難い。一方で後者はイメージしやすいが何かを捉え損なっているように思える。当初、僕にはその違いが何を意味するのかがわからなかった。

そこで理解の助けとなったのが、『現実性とは』での入不二の自然と非自然の違いについての指摘だった。入不二は、近藤との違いを明確にするにあたり、「物理的な自然だけでなく、内在平面からカオスまで含めたすべてを自然と考え」られるとしたうえで「現実性は自然の力ではなく非自然(形而上)の力」であるとする。つまり、近藤の現実は自然の段階に留まっているが、入不二の現実性は形而上にまで突き抜けている、と言っていることになる。

この指摘を踏まえるならば、ガルシア=近藤の自然派と、マイノング=入不二の形而上派の対立が見いだされるということになる。ガルシアは、意図的かどうかわからないけれど、この両者を混淆させて語っていたためにわかりにくく、そこに実は違いがあったからこそ、入不二と近藤は対立していたのだ。

僕は入不二ファンなので、ガルシア=近藤の自然派を、わかりやすいが実在を捉えきれていないという点で「いわゆる存在論的実在論」と呼び、マイノング=入不二の形而上派を「真の存在論的実在論」だとしたい。だが後述するように、僕自身、そのように単純に優劣をつけたような評価できないとは考えている。

(6)閉塞感と開放感

上野は入不二の議論について閉塞感があると指摘する。(後ほど撤回するけれど。)なぜならば「現実には外がない」からだ。これに対して入不二は逆に開放感があると応じる。なぜならば閉じ込めるための壁や境界などありえないのだから。僕はこの対比は重要だと思う。確かに入不二の議論は閉塞感と開放感が同居している。

端的にまとめるならば、入不二の議論は一見閉塞感があるけれど、よく味わうと、そこに開放感が生じてくるようなものだと思う。外側から見たときと、内側から見たときとで景色が違うと言っていいだろう。あまりよい比喩ではないが、F1でレーシングカーがサーキットでレースをしているのを見て、あまり知らない人は、同じところをグルグル回って飽きないのかね、なんて思うかもしれない。だけどファンにとっては、そうでなければF1ではないのだから、そもそも楽しくもなんともない。そのような視点の違いがあるように思う。

ただし入不二の議論とF1で異なるのは、入不二の議論が、外側などないと主張しているという点だ。サーキットには外があるけれど現実性には外がない。いや、F1においても狂信的なファンならば、サーキットの外なんてないと言うかもしれない。それならばF1と入不二の議論は重なることになる。(その方向に進んでいるのが『キリギリスの哲学』だと思う。)

とにかく重要なのは、入不二の『現実性の問題』での議論が内側からの議論であるという点である。(『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外側から運命論を描写しようとしていたように思う。)

なお、内側・外側という視点の違いに留意するならば、上野が持ち出すスピノザの永遠の問いに対する入不二の答えも予想できるように思う。

完全に内側から捉えるならば、確かにスピノザの言うとおり、ひとつながりの永遠の現在しかない。だが特異点に視点を向けることで、外部が垣間見え、時制の一つとしての今が見えてくる。私たちは現にそのような日常を生きている。だが、更に注意深く特異点を見つめ、特異点を通して、あたかも外側から全体を捉えようとするならば、再度、そこには現実性の力そのものとしての神が垣間見えてくる。だが、それはあくまでも垣間見えるのみであり、そのように捉えきることはできない。

(7)非哲学

僕は入不二ファンなので、ここまで、どうしても入不二対近藤の勝負を、入不二優勢と判定してきた。しかし、僕が近藤の入不二に対する有効打だと思うのが、ドゥルーズの「非哲学」を持ち出すところだ。

僕なりに解釈すると、近藤は、入不二の「(哲学は、始めも終わりもないというかたちで)始めから終わっている」という主張に対して、非哲学を持ち出すことで反論している。確かに哲学単独ではすでに終わっているかもしれない。だけど、哲学の外、つまり非哲学という外部を考慮するならば、哲学には非哲学に対する関与という未来があるはずだ。近藤はそう言っているように思う。

確かに、哲学と非哲学にはある種の関係性が生じてしまう。哲学と非哲学は定義上無関係のはずだが、無関係というかたちで関係せざるを得ない。それはほぼ入不二の議論をなぞるものであり、入不二も同意するはずだ。更に時間論も導入するならば、無関係で「ある」哲学と非哲学が、時間経過により、なぜか関係することに「なる」のでなければならない。それがギャップの飛躍という謎だからだ。これも入不二は同意するだろう。そのうえで、入不二ならば、非哲学の領域にも現実性の力は遍在しているとするだろう。なぜなら、そのような遍在性こそが現実の力なのだから。

しかし、非哲学の側からは、そのような哲学的な言説は非哲学には届かないと反論するはずだ。なぜなら、それこそが非哲学なのだから。そのようにして、非哲学はどこまでも哲学から逃れようとする構造を有している。つまり、ここには入不二的なシーソー関係が現出している。近藤が持ち出す「非哲学」という視点には、少なくとも、入不二との勝負をドローに見えるところにまで持っていくポテンシャルがあるように思う。

そのように解釈するならば、近藤のその他の主張についても、入不二への有効打になるように思えてくる。例えば、「行って帰ってくる」の議論のなかで、近藤は、哲学の動機や目的のようなものを持ち出し、そこに帰ってくることが必要だとした。僕はこれを思想に過ぎないと却下したが、これは非哲学との接続の試みだとするならば、見える景色が変わってくる。もしかしたら、僕は哲学の理想を「力み」のなさに見出したけれど、それも無色透明な哲学こそがよいものだという、いわば哲学の思想のひとつに過ぎないのかもしれない。哲学は思想からは逃れられないということになる。

(8)書くということ 動詞的実在論

哲学と非哲学との接点として僕がイメージするのは、哲学的な文章とは非哲学の日常のなかで書かれるものである、ということである。僕は今、ご飯を食べたり、ネコと遊んだりという非哲学的な日常のなかで哲学の文章を書いている。そこでは、文章を書くという行為は日常の一コマとしての出来事であるはずなのに、哲学的な文章を書くという行為にいったん視点を移すと、非哲学的な日常さえも哲学的な考察の対象のひとつとなっていく。書くという行為にはこのような不思議な魅力がある。

この話につながると思うのが、『羅針盤』においてガルシアが導入した「動詞的実在論」という考え方である。彼は「実在化するとは、実在に気づき、実在を説明し、実在にするということである。」と言う。つまり、思考されたものこそが実在するのだと言っていいだろう。更には、思考することと書くことを同一視するならば、書かれたものこそが実在するのだとさえ言っていいと思う。

なお、念のためだが、このガルシアの考えは、強く願えば「思考は現実化する」というようなどこかのビジネス書にあるようなものを指しているのではない。ガルシアは、思考することや書くことに何らかの力があるとさえ考えていないだろう。きっと動詞的実在論のアイディアの根底にあるのは、なんにせよ、思考されたものは、思考されたというかたちで実在していると捉えることができるという事実に違いない。どんなにありそうのないことでも、例えば、飛行機の部品を並べておいたら、ちょうど台風が来て、偶然にも寸分の狂いなくジェット旅客機が組み立てられるかもしれない、というようなことでも、それは、そのように言及されたから、実在するのである。(これが可能的に実在するということである。)

入不二もこのようなただ思考し、書かれただけの仮定の現実性を否定することはないだろう。このような仮定についても、現に仮定されているというかたちで現実性は流れ込んでいると言うだろうし、このような突拍子もない可能性についても、台風や飛行機の部品が有する潜在性として取り扱うことができるだろう。

そのように考えると、思考すること、または僕の言い方ならば書くことには、実在を論ずるうえで特別な意味がありそうだ。

ここで疑問に思う。それならば、もし思考せず、書かなかったら実在しないのだろうか。ガルシアは実在しないと考えているように思える。それは「実在にする」というような表現に現れている。また近藤も、具体的な言及はないが、同様に考えているように思う。なぜなら、彼は、哲学と非哲学を峻別し、「未来形式」というかたちで、将来的に哲学が非哲学にアクセスする可能性を見出しているからだ。未来において哲学が新たに非哲学に関わるということは、つまりは哲学的な思考をすることや哲学的な文章を書くこと自体に、新たな対象にアクセスする力があるということになるはずだからだ。

一方で、入不二はそうは考えないだろう。思考してもしなくても、書かれても書かれなくても、そのようなものとして現実はただそのようにしてあるし、なるようになる。だからこそ、哲学は始めから終わっている。

それは入不二自身の思考や執筆活動にも及ぶはずだ。入不二が本など書かなくても、『現実性の問題』で描写されたような現実性の力は現にある。そのような本として『現実性の問題』は書かれているのだろう。

ここにおいて、ガルシアが指摘した無関心はついに、哲学することへの無関心にまで拡大しているように思う。無関心だからこそ、軽快に「力み」なく哲学ができるのかもしれない。入不二自身がそのような態度にあるかどうかはわからないが、『現実性の問題』はそのような態度で書かれたものとして読まれるべきものだと思う。

だがそれでは話は終わらない。哲学をそのように捉えることは、一方で、その裏にあるはずの、達観せず、哲学を駆動する野生児・近藤のような哲学の重要さも浮かび上がらせるように思うからだ。哲学とは、非哲学と関係する何らかの動機と目的をもって、いわば哲学の思想を持って取り組むべきものだという強い決意があるということになる。それが入不二の哲学の哲学に対置されるだろう、思想の哲学であり、非哲学のなかでの哲学である。

(9)実在の質

最後に、ガルシアの側からの入不二への反撃の橋頭堡となるかもしれないと僕が考えるものを紹介したい。

ガルシアは「存在を量化するのではなく質化する存在論」を提案する。その考えは「様々な存在様態は、けっして互いに還元可能ではなく、またある一つの同一的存在の異なる質なのでもない。」と示される。

僕はこの文章しか読んでいないので、それが実はどのような主張かは想像するしかないが、この考えを極端に推し進めるならば次のように言えると思う。

「机の上のペットボトルと、その横にあるコップとは、モノという同じ種類のものではなく、あくまでペットボトルとコップという別のものである。現在のペットボトルと1秒後のペットボトルとは、同じペットボトルではなく、現在のペットボトルと1秒後のペットボトルという全く別のものである。さきほどのペットボトルとコップを別のものと捉える思考と、それを思い出している現在の思考とは同種の思考ではなく、全く別のものである。そもそも、ここで何回も登場した思考や存在という語さえも、それは同じ語ではなく、全く別のものである。」

このような極端な議論を仮に「超・質化存在論」とするならば、それは入不二の現実論への有効な反論になるはずだ。なぜなら、この議論は、現実論にせよなんにせよ、議論というものが有効に成立することを否定するものだからだ。

このような議論は否定のためだけのものであり価値がないと否定することはできない。なぜなら、この極端な議論は、全く何も生み出さない訳ではないからだ。ここには、このような議論を通じてしか指し示せないものがあると僕には思える。ここでは、哲学するということすらも抹消することでしか指し示せない、現実というものを暗に指し示すことに成功しているとも言えると思う。

これは、全てを語り切ることで哲学を消去し、それにより現実を指し示そうとする入不二のアプローチに対になるような、全く語り始めないことで現実を指し示そうとする、もうひとつの方向性だと言ってもいいように思う。

4 おまけ 質と量 ギャルの戦略

これで、『現実性とは』と『羅針盤』を読んで考えたことの備忘録は終わるが、もうひとつ『現代思想』のなかには印象深かったものがある。

それは『加工された自己イメージの「自分らしさ」』だ。これは、渋谷のギャルのプリクラ文化に始まる、日本の女の子の自撮りの歴史についての話なのだか、とても面白かったのだ。

久保は自撮りの歴史を「自分らしさ」というキーワードで紐解いていく。そして次のようにまとめる。

彼女たちの言う「自分らしさ」とは、他者に対する「自分らしさ」であった。具体的には二段階で成り立ち、一段目は、「社会」に対する、自分が属す集団の「自分らしさ」、二段目は、自分が属す集団内の他者に対する、個人の「自分らしさ」である。

この図式をあてはめると、例えば昔の渋谷のギャルは、ガングロメイクをしてプリクラにかっこよく映るという価値観を追求し、周囲から差別化することで、ギャル集団としての「自分らしさ」とした。更にはギャル集団のなかで、よりガングロメイクがうまくできるようになることで個人の「自分らしさ」とした、ということになる。その構図が時代の移り変わりとともに、プリクラから写メのブログ、写メのブログからインスタへ、という自撮り文化の移り変わりのなかで反復されていったのだ。

興味深かったのは、まず集団として質的に差別化し、そのうえで集団のなかで(順位をつけるというかたちで、いわば)量的に差別化するという戦略をとっているという分析である。確かにこれは理にかなっているように思う。

ギャル的戦略をとらない生き方としては、例えば、ただ金持ちになりたい、とか、ただ出世して偉くなりたい、という生き方がある。これらは、ただ、量的差別化だけに頼っている生き方だと言ってもいいだろう。金持ちになるとか出世するといった一般的な価値観をそのままに受け入れ、いわばレッドオーシャンで量の競争を強いられている。このような生き方では、いくら金持ちになっても、いくら出世しても、上には上がいて、なかなか満足できなくなる。更には、なぜ金持ちになりたいのか、なぜ出世したいのかと疑問を持ってしまったら、人生の価値さえも否定することになりかねない。

一方で、ギャルの戦略をとれば、競争する人数を絞ることができるし、そのような生き方をする理由についても疑問を感じることはない。なぜなら、ギャルは、どこかの時点で、ギャルとして生きることを意識的に選択したはずだからだ。どうしてかっこいいギャルになりたいのかと問われたら、自分で決めたから、と答えればいい。そして、もしいつかギャルとして生きることに疑問を感じたなら、その時点でギャルを辞めさえすればいい。それは自己否定ではなく、単なるギャルの卒業である。

このように推奨されるべき生き方としてギャル的戦略を取り上げたが、もうひとつの推奨されるべき生き方としては、全く順位付けのような量的差異に関心を持たないような生き方がありうるだろう。ただ人とは質的に異なる生き方をするという戦略である。これを世俗的に表現するならば、「世界に一つだけの花」戦略ということになるだろう。

だが、全く比較しないで生きることは難しい。だからこそ簡単に「世界に一つだけの花」と歌われることはどこか嘘くさくて不穏なのだし、その困難の克服を目指すためにこそ仏教があるとも言えそうだ。

また、この量的差異の比較という観点はとても根深く、哲学のなかでも見いだされる。この文章に関係するところで例示するならば、そもそも、実在と非実在を区分するという考え方が実在と非実在の間で順位付けをしようとするものだと言える。

それでも、時々、量的差異のしがらみにとらわれずに生きているように見える人がいる。(その人の実際の内面は知らないけれど。)そのような人は、たいてい、無関心で無頓着に見える。(みうらじゅん先生とか。)

この無関心こそが『羅針盤』でガルシアがキーワードとした無関心であり、入不二のケセラセラの運命論などに感じる力みのなさであり、入不二が開放感としたもののような気がする。ギャルがガングロメイクにより一定程度まで「自分らしさ」を確保することに成功できたのも、周囲の目への無関心だったと言えるだろう。

僕も、極力、無関心を目指しつつも、せめてギャル的戦略をとり、哲学により質的差異を確保したうえで、哲学集団ののなかで、哲学の順位付けを目指すような生き方をしていきたいと思った。

形而上学の素描 肯定主義、言語の規則、真のクオリア

1 導入

(1)入不二の肯定主義

先日、僕は入不二基義の『現実性の問題』についての文章を書いた。(http://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

そこでは色々なことを書いているけれど、ここで改めて取り上げたいのは「肯定主義」だ。肯定主義とは、入不二によれば、「肯定を否定に対して非対称的に優位に置く」( p.331 )考え方である。僕は、この肯定主義が入不二の議論全体を駆動していると考えている。

肯定主義は強力だ。肯定主義に基づくからこそ、入不二は多分、史上初めて「潜在性」という概念を見出すことができたのだ。

潜在性というアイディアの新しさを伝えるためには、すべてが潜在している状況を思い浮かべるのがいいのかもしれない。すべてが潜在しているということは、そこには目に留まるものが何もないということだ。例えば、部屋の中の物がすべて潜在している状況として、入居前のアパートの一室を思い浮かべるといいかもしれない。まだ机もベッドも顕在しておらず、部屋の中の机やベッドが置かれるべき空間だけが開けている。なにもない空間というのが潜在性の近似値としての比喩になるのだろう。当然、その空間は空気で満たされているし、空気を取り除いたとしても空間的広がりが残ってしまう。その点ではあくまでも比喩でしかない。それでも、なにもない引っ越し前の部屋に、やがて置かれる机やベッドの潜在性を認めるという議論の新奇さ伝わるのではないだろうか。

ではなぜ、潜在性を見出すために肯定主義が必要となるのかというと、肯定主義とは、肯定でも否定でもないニュートラルなデフォルト状況を肯定と捉えるものだからだ。プラスでもマイナスでもないゼロをプラスと捉えるものだと言ってもいい。肯定主義において、肯定は否定に優位する。あるものごとについて、肯定か否定かの判断を求められたならば、そこには中立という答えはありえず、否定でないならば肯定なのだ。これはつまり、肯定主義においては、肯定も否定も顕在化していない中立的な状況を潜在的な肯定と捉えるということである。

先程の例に戻り、引越し前のなにもない部屋を指差し、誰かに「ここに机はあるのか。」と問われたとしよう。僕は戸惑いながら「え、ないよ。」と答える。だが、その誰かは更に「では、ここには完全に机はないのか。将来的な可能性も含めて、ここには全く机性はないのか。」と問いかけてくる。肯定主義者である僕は(面倒くさいことになったと思いつつ)「まだ机を買うかどうかも決めていないけれど、潜在的には机はあると言えなくはない。」と答えることになる。なぜなら、完全な否定でないならば、そこに潜在的な肯定を見出すというのが肯定主義だからだ。

ここまでは肯定主義と潜在性の話だったが、もうひとつ、肯定主義が大きな力を持つ場面がある。それは、話の土俵を成立させる場面だ。例えば、「この世界は何故ないのではなく、あるのか。」という問いがある。この問いに正面から答えるのは難しい。なぜなら、世界の中でいくら考えても、それは世界自体が存在する理由にはつながらないし、世界の外から理由を導入しようとしても、導入した途端に、その外も世界の中に含まれてしまうからだ。だが肯定主義を用いるならば話は簡単だ。肯定が優先されるなら、明確に肯定も否定もできないものである世界は、ただ肯定的に存在することになる。僕はこれ以上の説明は思いつかないから、肯定主義に基づくからこそ、世界はないのではなく、あるのだと言ってもいいと思う。(これを、先程の潜在性の話と接続し、世界は潜在的なものとしてただ存在する、と表現するならば、入不二のマテリアルな潜在性の場という描写とも重なるように思う。)

(2)存在論、認識論、意味論

肯定主義に加え、もうひとつ、入不二の議論から流用したいものがある。それは、存在論、認識論、意味論という三者関係としての議論の枠組みだ。入不二はここに「可変的なジャンケン関係」(p.376)を見出す。その議論の詳細には立ち入らないが、ここで重要なのは、議論には、存在論、認識論、意味論の三つしかないという点である。入不二によれば、この三種類の議論に加え、より根源的なものとしての現実論があり、もうひとつ時間論があるということになるが、確かに、それ以外に、いわゆる形而上学の領域において、つけ加えるべき議論は思いつかない。(ここに含めない形而下領域にある議論としては、道徳、美といった価値論を想定している。)

以上のように道具立てを行ったうえで、これらを踏まえ、ここからは僕独自の議論を組み立てていくことにする。

2 肯定主義:存在論

ひとつめのアイディアは、肯定主義と「存在論」を結びつけることができるのではないか、というものだ。だが、これは入不二の考えに正面から反対するものである。

入不二に従うならば、肯定主義と「現実論」を結びつけることに異論はないだろう。なぜなら肯定主義は『現実性の問題』における入不二の現実論全体を貫いているからだ。だが入不二は現実論と存在論を峻別する。顕在的に存在しないもの、つまり潜在性までも射程に捉えた議論は存在論ではなく現実論と呼ぶのがふさわしい。そのような議論は従来の存在論では捉えられない。

僕もこの点は同意するが、あえて、入不二が行った議論は存在論「寄り」の議論だとは言えるように思う。入不二の議論は、言語や意味という切り口のものではなく、また思考や認識という方向からのアプローチによるものでもない。それならば、消去法的には、意味論ではなく、認識論でもないのだから、存在論的だということになるのではないだろうか。

なぜ、僕が存在論と位置づけることにこだわるのかというと、実は僕は、これまで存在論というものをきちんと理解できていなかったからだ。存在論特有の議論の組み立て方がわからなかったと言ってもいい。意味論ならば、言語の意味に焦点を合わせて論じるものだし、認識論ならば、人間が何かを認識し、思考して捉えるということ、いうなれば心の働きと切り離すことができない。一方で存在論とはどのような道筋で進めるべきものなのかがわからなかったのだ。

または、意味論や認識論は、対象と道筋が重なっているが、存在論はそうなっていない、と言ってもいい。意味論は意味という道筋で意味に接近するものであり、認識論は認識という道筋で認識に接近するものである。一方で、存在論は存在を対象とすることは明らかだが、その道筋が定かではない。普通に考えれば、存在に対しては、存在しているものを認識したり、存在の意味を検討することで接近したりするのが一般的だろう。だが、それでは認識論や意味論となってしまう。認識論や意味論によらず、存在論的に存在にアプローチするやり方があるべきだ。僕にはそれがわからなかったのだ。

しかし、『現実性の問題』を読んで肯定主義を知り、腑に落ちた。存在論とは、言語や思考といった道筋によらず、肯定という道筋を通じて考察の対象に接近するものではないか。

そのように考えるならば、この本での入不二の議論は存在論の範疇に含めることもできるだろう。なぜなら、潜在性の領域について議論するということは、潜在性というにわかに存在を認めがたいものについて、それを肯定することによって顕在化し、その存在を捉えるということだからだ。

だが更に入不二の側に立つならば、入不二は、潜在性を顕在化して捉えるという操作を加えることを認めないかもしれない。なぜなら、入不二の潜在性とは、少なくともその最深部においては、決して顕在化することがないものだからだ。

それでも僕は、その最深潜在性すらも、『現実性の問題』という文章を通じて、指し示すことができてしまっているではないか、と言いたい。従来の存在論とは異なる、超・存在論とでも言うべき入不二の議論においては、最深潜在性は顕にされ、その存在が指し示されてしまっているのだ。

たしかに、最深潜在性が存在するというとき、存在という語は、従来の顕在性をひきずった存在という用語とは全く異なる状況を指し示している。だが、そもそも、存在が顕在しているという条件は、存在を認識し、存在を言語化する際に必要となるに過ぎず、存在を肯定主義的に捉える際には必要ないはずだ。つまり、存在を認識論的に捉え、または存在を意味論的に捉える際には、顕在性が必要となるが、存在を存在論的に捉える際には、顕在性の有無は問題とならない。それならば、存在という用語は、顕在性から解き放たれることにより、ようやく、用語本来の意味に立ち返ることができたとさえ言えるのではないか。

先程僕は、『現実性の問題』において入不二は最深潜在性を顕在化して指し示していると言った。だが、この顕在化という言葉も、一般的な顕在化とは異なる特殊な用法なのである。

以上の考察を踏まえたうえで、僕は、入不二の現実論こそが真の存在論であると言いたい。肯定主義を用いることにより、従来の存在論に含まれていた認識論・意味論的な夾雑物を取り除き純化したものこそが、入不二の現実論であり、存在論なのだ。

3 言語の規則:意味論

ここまで僕は、現実論を存在論に読み替えることにこだわってきたが、なぜそのようなことをしたのかというと、肯定主義を通じて極北としての存在論を見出したように、入不二が、存在論と並んで三者関係として描写した意味論と認識論についても、極北としての意味論と認識論を見出すことができると思うからだ。

まず、意味論の極北は、すでに過去の哲学者が見出している。存在論においては肯定主義が重要となるのと同様に、意味論で重要な役割を果たすのは規則であることは疑いがないだろう。

ここには何も付け加えることもないので簡単に説明を終えるが、僕が規則の問題を最も単純なかたちで示していると思うのは同一律の適用の場面だ。僕は昔から「『Aである。』ということから、どうして『Aである。』と言えるのか。」という疑問にとらわれてきた。これはつまり、1つめの『Aである。』に登場するAが、2つめの『Aである。』に登場するAと同じであることを意味する。どうして、そのようなことを「前提」とできるのだろうか。いや、そもそも、1つめとされるAでさえ、それが有意義に成立しているとするならば、過去に別のAがあったはずであり、それと同一のAであることが「前提」とされなければならないのではないか。そのように考えるならば、何かを言明するとき、そもそも何がはじまっているのだろうか。そのような疑問だった。多分、この疑問には直接的な答えはない。少なくとも、意味論的には答えは出ないに違いない。なぜなら、僕が「前提」として求めたものは、つまり、ウィトゲンシュタインが「規則」とするもののことだからだ。規則があるからこそ、言語が成立し、「Aである。」というような言明が有意味となりうる。

非常に雑駁な説明だが、以上のような意味で、僕は規則が意味論を駆動していると考えている。

4 真のクオリア:認識論

最後に、認識論の極北、つまり認識論の最深部を支えるものだが、これこそ、僕がこの文章で新たに示したいものだ。僕は、真のクオリアとでも呼ぶべきものこそが、認識論を駆動していると考えている。

認識論を論じるにあたって使い勝手のよいのは視覚の例だろう。目の前にコップが見えるからコップが確かに認識されているというように。認識論的に存在を捉えるならば、目の前にコップが見えるから、確かにコップが存在するということになる。そこから更に、実は目に見えるコップではないコップ自体が存在するのではないか、などと考えるのは、認識論的な切り口からの存在についての議論の深化だと言えるだろう。

そのように議論を深めるうえで用いられるのが、錯覚や見間違いの例であり、蛇が見えると思ったけれど実はロープだったというような場面だ。このような場合も考えるならば、コップや蛇が見えるから、コップや蛇が存在すると即断できるかどうかは怪しいことになる。そこからは認識論的懐疑主義に進む道が開けてしまう。だからこそ、その道を塞ぐため、知識の整合性というようなものを持ち出し、真なる認識と偽なる認識とを切り分けていくことになる。僕は哲学史に詳しくないけれど、きっと、ここには無数の知的格闘があり、これまで、真なる認識と偽なる認識の切り分け方にはさまざまなアイディアが示されている。

だが、僕は、従来のどの学説にも納得することができなかった。僕からすると、いずれも、多くのものを導入しすぎているのだ。そのなかでも特に問題となるのが時間の扱いだ。僕が知る限り、認識論的な全ての議論において共通に入り込んでいるのが、通時的な時間というアイディアだ。

蛇とロープとを見間違えたという例を用いるならば、この話は、まず、蛇と思われるものを見るという時点から始まる。その後、数秒か数分かわからないが一定の時間が経過した後に、そこにロープを見るという時点が訪れる。つまり、ここには「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」という二つの時点があり、そのうえで、その二つを通時的に接続できるという構造を見出すことができる。

確かに、各時点における認識の正当性については、過去の哲学者は十分すぎるほどに認識論的な議論が深めてきたように思える。しかし、二つの時点を通時的に接続できるということを納得できるかたちで正当化する議論には出会ったことがない。もしそうならば、これまでの認識論的な見地からの真なる認識と偽なる認識の切り分けの試みはすべて失敗だったということになるだろう。

残念ながら失敗は必然であるように思う。なぜならば、時間経過自体をそのままのかたちで論じることにはかなりの困難があるからだ。入不二の議論にもあるとおり、時間経過は滑らかになされるものではなく、そこにはある種の断絶がある。その断絶を乗り越え、認識論的な議論を正当化するためには、時間経過は真であると所与のものとしてただ認めるしかないのではないか。

このような解決方法はそれほど悪くないように思う。なぜなら、時間が経過するというアイディア自体が不自然なものだからだ。時間経過がない世界と時間経過がある状況の世界とを想定し、両者を比べるならば、時間経過がない世界のほうが、時間経過がないという点で単純でありうる世界のように思える。時間経過がある世界は、あえて時間経過が付け加わっているという点で、より複雑で不自然なものである。それなのに、あえて時間が経過すると考えるのは、ただそう思えてしまうからでしかない。不自然であっても、理由がなくても、ただ時間は経過するとしか考えられない。それが時間経過というものの、少なくともある一面なのではないだろうか。不自然なものであるはずの時間経過を正当化するために自然な理屈を探すということ自体が無理筋のように思える。なぜ不自然なかたちで思えてしまうのかといえば、ただそうとしか思えないからなのだ。

このような時間経過に対する認識を、僕は、真のクオリアと呼びたい。時間経過には真のクオリアがある。だから時間経過は真なのだ。このことを、時間経過の認識論的把握は、真のクオリアが駆動していると言ってもいいだろう。

なお、真のクオリアは、時間経過だけではなく、認識論全般に及ぶことになる。なぜなら、通常の認識論が前提としている複数性は時間経過が前提となっているからだ。再度、蛇とロープの見間違いの場面に戻るならば、「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」の二つの時点を結ぶのが時間経過であるだけでなく、蛇を見る、ロープを見る、という個々の状況のみに着目してもそこでは時間経過が下支えをしているとも言うことができるだろう。

「蛇を見る」ということのなかには、ロープではなく、カエルでもなく蛇を見ているということが含意されている。そのためには別の時点でロープを見ることやカエルを見ることが成立していたのでなければならない。または、図鑑かなにかで蛇をすでに見ていて、ロープを見るのともカエルを見るのとも違う、蛇を見るということを知っていなければならない。いずれにせよ、別の時点での別の出来事との比較・対比でしか「蛇を見る」ことはできない。

それは、時間という装置を使わず、別の場所や可能世界で起こったこととしても、心の中での反実仮想といったような、空間的な装置を使ったとしても同じことである。なぜなら、ここでの議論においては、空間とは空間化した時間とも言えるし、または、時間化した空間と言っても同じことだからだ。時間にせよ空間にせよ、なんらかの複数性、並立性が「蛇を見る」ことの前提になければならない。僕は時間経過という装置を使うことで、ロープでもカエルでもなく蛇を見るという並立性を可能にしたが、他のやり方を使っていただいても一向に構わない。(ただし、その場合は見間違いについての説明が困難になると思われるが。)僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したように、直接的なかたちで並立性を可能とする装置を正当化していただけるなら、それでよい。そのためには真のクオリアとしか言いようのない、ただそう思えてしまう、という感覚が必要となることを思い起こしてもらえればよい。

とにかく、僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したのと同様に、「蛇を見る」という、ひとつの時点での出来事も真のクオリアによってしか正当化できない。なぜなら、それ以外に正当化する理由を持ち出すとするなら、それは複数性を招き入れることになってしまうからだ。例えば、このあたりには蛇が多いから、というような理由を用いるためには、ガイドブックを読むなどしてその知識を得るという別の時点が必要となる。または、注意深く見たことはたいてい正しいからというような理由を用いるためには、なにかを注意深く見たという別の時点での体験が必要となるだろう。

ロープかもしれない何かを見て、それを蛇だと認識し、その認識が正しいと考えるのは、それをそのように認識したとしか思えないからなのだ。それを、その認識には真のクオリアがあったのだと表現したい。

つまり、認識論においては、認識論以外の夾雑物を注意深く腑分けし、極力、認識論以外の材料(特に時空的な道具立てや反実仮想というような心理的な働き)を用いないよう心がけるならば、その正当化は根本的には真のクオリアによってしかなされないのだ。

更には、真のクオリアの導入にあたっては、認識論の純化とでもいうべき作業を行ったが、いったん導入された後は、あらゆる場面において真のクオリアを見出すことが可能となる。例えば、蛇らしきものを見るだけではなく、近寄って、数分間観察してみる。くねくね動いているし、口からチロチロと舌も出ているし、図鑑と見比べても、アオダイショウの頁に載っている絵とそっくりだ。そばにいる登山のガイドもアオダイショウで間違いないと言っている。そんなとき僕は「蛇を見る」を真であると考えるだろう。だが、実は近寄って数分間観察することや、図鑑を開くことや、ガイドの見解を聞くことは、真であると考えるうえでの決定打とはならない。なぜなら、それらのすべてが揃ったとしても、あえて真ではないと考えることも可能だからだ。それでも、これはヘビ型ロボットかもしれないと考えることはできるし、実際にそうかもしれない。

僕は、条件が整っても、なにかを真だと考えることができるし、条件が整わなくても、なにかを真だと考えることができる。条件を整えることが全く無意味とは言わないが、少なくとも直接的には条件の整備状況に関係なく、ただ僕は、真のクオリアを持てば、それを真だと考えることになるし、真のクオリアがなければ、それを真だとは考えることはない。

認識論の極北においては、認識論を駆動するものは真のクオリアであると僕は考える。

5 収斂と展開 形而上と形而下 自然科学

以上で、存在論、意味論、認識論という三つの議論に重ねるかたちで、肯定主義、言語の規則、真のクオリアという三つの駆動装置を提示した。肯定主義、言語の規則、真のクオリアが重なるようにして働くことで、存在論、意味論、認識論という三つの議論が展開され、そこに時間論が加わることで、形而上学が成立すると言ってもいいと僕は考えている。

以上は、存在論、意味論、認識論の起源までさかのぼり、その深層にあるものを発掘するような作業であったが、その対極には、存在論、意味論、認識論を十分に展開し、その議論の果てにあるものを見出すという作業があるだろう。いわば、前者が収斂の作業だったとするならば、後者は展開の作業であるとも言える。

まず、存在論を展開するとは、複数のものごとの関係を明らかにしていくような作業となるだろう。そこでは因果関係のような関係性を見出すこととなるだろう。また意味論を展開するとは、言語によって描写される世界というようなものを見出すことになるだろう。また、認識論を展開することにより、美や善といった価値が生まれ、どのようなものに価値を付与するかという価値体系が生まれていくことになるだろう。

そのように展開するなかでも、ある方向の極にあるものこそが自然科学であるに違いない。自然科学とは存在論、意味論、認識論が協働し、十分に展開されたところに見いだされるべきものだ。存在論が担保する複数性・平等性を前提に、意味論が世界としてまとめ上げ、そこに精緻な描写を加えることを可能とする。更に、実験・検証の結果の認識論的な価値付けに基づくフィードバックにより、真なるものの体系がより深められていく。だが、そこから先は、形而下領域の話として語られるべきだろう。

以上が、僕の形而上学の素描である。

「現実性の問題」の感想と僕なりの補助線

この文章は、「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた のうちの「1 距離ゼロ 感想・補助線」とほぼ同じです。そちらの方を読んでいただけると嬉しいです。http://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

0 はじめに

僕が大ファンである入不二基義先生の新刊「現実性の問題」を読みました。

色々考えさせられたので、疑問・反論?なども含めた考察を書き始めたのだけど、いつ書き終わるかわかりません・・・

ということで、とりあえずの感想と、もしかしたらどなたかがこの本を読むにあたって参考になるかもしれないところを先行して掲載します。

後日、考察部分とあわせて書き直すかもしれませんのでご了承ください。

1 戸惑い

僕がこの本を読むうえでの最初の関門は、この本がなにをしようとしているのか把握することだった。この本が目指すものは、入不二は冒頭から、いろいろなやり方で事前に丁寧に示している。だけど、「現実性の問題」とは、僕自身が考えてきたことや、僕が触れてきたこれまでの哲学に対して、どのように位置づけられるものなのかがよくわからなかったのだ。

実は、このような戸惑いには覚えがある。前著「あるようにあり、なるようになる」で運命論について論じた際にも、僕は、運命論という問題設定に対して同様の戸惑いを感じた。

これらの感覚は「おわりに」で登場する入不二自身の目眩のようなアンセルムス体験と似ているように思う。アンセルムスの神を入不二の文脈に位置づけるならば、アンセルムスは神について論じながら、(無意識にかもしれないけれど)従来の神とは全く異なる神について論じていたとも解釈できる。入不二も現実という言葉を使いながら、全く異なるものについて論じているとも言える。僕の戸惑いとは、そのことにより生じる目眩のようなものなのかもしれない。

2 重層性

この本の魅力は、その重層性にあると思う。

それは、この本の装丁にも表れている。白から黒に移行し、それが更になんと銀色に輝くというかたちで。この装丁は、この本で重要な位置を占める否定の力を表しているように思う。白が非白としての黒を立ち上げ、更に、非(白vs黒)としての輝く灰色(つまり銀色)を立ち上げている。

その重層性はこの本全体を貫いている。「はじめに」では、小学生の入不二少年が登場し、離別と死別の違いの話として「現実」について考察している。

入不二は、「はじめに」から第1章に入らず、「おわりに」、「追記とあとがき」と読み進めることを推奨している。ここでは入不二青年が登場し、また、realitiyとactualitiyについての比較的独立した考察が行われる。

そのようにして議論がせり上がっていき、第1章では円環モデルが提示され、第2章からが、いわば本編となる。

これまでの入不二の本でも、冒頭の導入部で補助線としてのエッセイを提示するというやり方をとることは多かった。しかし、このように多重的に補助線を引いたうえで本編に入るという書き方はしていなかったように思う。

このような長い助走、つまり重層性がこの本の魅力であり、また、それを必要とするほど独自で新しいことを提示しているという点が、この本の価値だと思う。(入不二は新しさによる戸惑いを読者が感じることを想定し、それを緩和するために重層的な補助線を準備してくれたとも言える。)

更には、重層性は、この本の内容だけではなく、この本の細部にも表れていると思う。註記と索引だ。

この本の註記は本文の単なる補助ではない。註記が独自に議論を展開し、時には本文に再合流する。本文でこれほど註記に触れて議論を進めるという書き方は珍しいのではないだろうか。

索引も充実している。数えるとなんと32ページもある。僕はまだ索引をきちんと活用しきれてはいないが、少し使っただけで、その威力が垣間見えた。充実した索引は、それがひとつの補助線となりうる。例えば僕は、相対主義について論じる中でp.313に登場する「無力」を索引で引いてみた。カギカッコ付きで登場するにも関わらず、唐突で、その後も二度と使われない言葉だったから気になったのだ。索引によれば、無力という言葉はp.121で祈りについて考察するなかで登場していたことがわかる。本文での明言はないけれど、相対主義と祈りはどこかで通じている。索引を通じてそんなことがわかる。

このようにして、註記と索引は、この本の重層性を更に深めている。

加えて、この本は過去の入不二の著作の集大成としての重層性も有している。入不二は、この本を通じて、過去の著作で取り扱ってきた主題を再び取り上げ、現在の入不二の視点から、それらをひとつのキャンバスに描こうとしている。それぞれの本で独立的に行われていた主張が、パズルのように一つの絵に組み込まれていくのは、とても心地よいものであるとともに、何かが「台無し」になってしまうような感覚がどこか生じていた。これまで、入不二の本を読み進めてきた僕の読者体験が、上から重ね書きされ、別のものに変容してしまう感覚というのだろうか。なお、台無しになることは快感でもある。

当然、入不二は全く別な絵など書きはしない。入不二の議論は、何度も絵の輪郭をなぞるうちに、その絵自体を塗りつぶしてしまうのだ。入不二にはそのような過剰さがある。その過剰さが入不二の魅力だ。

入不二はマーク・ロスコの絵画に何度か言及している。僕は、抽象画はわからないけれど、きっと彼が目指しているのは、何度も塗り重ねる果てに現れるマーク・ロスコの単純な絵なのだろう。重層性の果てに現れる単純さと言ってもいい。

単純を目指すからこそ、彼は重層的な本を書いたのだ。

3 円環モデル

彼がこの本の補助線として提示したもののなかでも特に重要なのは円環モデルだろう。もしかしたら、円環モデルとは、単なる補助線ではなく、彼が目指す到達点なのかもしれない。つまり、第2章以降は、この円環モデルを何度もなぞるようにして、重層的に大きな円を描く作業だったということになる。

彼の真意はわからないけれど、僕はそう読んだし、そのように読むことで理解も進んだ。第2章以降を読む中でも、常に、この話は円環モデルのどこにあたるのだろうと注意を払うことで、頭が整理されるように思えた。

円環モデルに何度も立ち戻るために僕が編み出した工夫は、円環モデルを時計の文字盤に例えることだ。

p.42の図でいくと、第1歩が1時、更なるもう一歩が2時、排中律が3時、無限の可能性が4時、転換が6時、6時から12時が潜在性の領域というようになる。(ギャップは12時から0時に飛躍することだと表現できる。)

これら僕が書く文章は、円環モデルにとらわれつつ論じていくことになるので、何度も、この時計の比喩が登場すると思う。

円環モデルについては、もうひとつ、別の比喩も思いついた。

時計は時計でも、アナログ時計の文字盤ではなく、太陽の運行自体を比喩に用いるというやり方だ。

p.42の図でいくと、第1歩が日の出となり、更なるもう一歩、排中律あたりが午前中で、無限の可能性が午後に生じて、転換が日の入りとなり、日が暮れてからが潜在性の領域となる。

こちらの比喩は議論の細かい部分を指し示すのには向いていないけれど、潜在性の領域を夜に割り振ることで、特に潜在性というものの特徴を示すことに成功しているように思う。さらには、この比喩においては、太陽とは認識論や意味論となり、星が潜在性の領域においても降り注ぐ現実性の光と捉えることができるかもしれない。(月だと太陽の光の反射となってしまうので、同等の恒星である星を潜在性の領域の光としたほうがいいだろう。)

特にこの比喩で気に入っているのは、朝日と夕日の美しさを表現できるという点だ。考察の際に詳述するが、この本のピークは、時計の文字盤を用いるならば、6時と12時にある。そこでの美しさを日の出前の朝日と、日の入り直後の夕日として表現できるように思うのだ。

4 肯定主義

「現実性の問題」について理解するのに入不二は重層的な仕掛けを準備してくれているが、もうひとつ追加してよいと思う補助線が、肯定主義という用語だ。(索引によれば)肯定主義という用語は第9章になってから登場するが、この言葉に出会って、ああ、これは肯定主義についての本でもあるのか、と腑に落ちた。ここでの肯定主義とは「ある」という肯定性優位の原理を徹底していくというものだと言っていいと思うけれど、○○主義や○○原理という名前がつくと理解がしやすい。

この本のなかで、入不二の議論が大胆な一歩を踏み出し、それがどうして正当化されるのかわからなくなったとき、これは肯定性優位の原理、肯定主義を適用した結果かもしれない、と考えれば、入不二の議論に(同意はできなくても)ついていくことはできるかもしれない。同意できるかどうかは、少なくとも第9章まで読み進み、肯定主義も含めた入不二の議論の全体像を捉えてから判断しても遅くはない。

ただし気をつけなければならないのは、○○主義や○○原理と名前をつけた時点で、それは本当に指し示そうとしたものから外れ、補助線のひとつになってしまうという点だ。この転落はこの本のいたるところで生じているし、入不二もそれを転落として言及している。

その意味では、この本の記述全体が転落を見越した補助線であるとも言えるかもしれない。

5 圧倒性

この本は、過剰なほどに重層的に補助線を重ね書きすることによって、そのようにしてしか到達できない何か単純なもの(この本では円環に例えられるような何か)を表現しようとしているように感じられる。

この議論の厚みは、レスラーの厚い胸板のように、または、猛獣の筋肉のように読者を圧倒し、僕を「現実性の問題」のもとに組み伏せているのだ。

入不二に実際にそのような意図があるかどうかは別として、この本の議論においては、そのように考えることが理解の一助となる場面があるように思う。

瞑想と哲学 実践と創造

1 この文章の問題設定 瞑想・マインドフルネスと哲学との関係

瞑想やマインドフルネスはブームだと言っていいだろう。色々な本が出版され、イベントも開催されている。僕も流行りものが好きだから、すでにいくつか文章を書いている。

哲学好きの僕は、瞑想やマインドフルネスと哲学の関係についても考えている。当然、哲学と野球よりは、哲学と瞑想のほうが関係は深いだろう。どちらも心と呼ばれる領域が重要だし、人生といったものへの対応方法をみつけようとする点も似ている。ここには考えるべきことが潜んでいるという予感がある。

まだ考えはまとまっていないけれど、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係について思いついたことがあるので、書き残しておこうと思う。

2 ヨガやスポーツの上達 芯となるもの

思いついたきっかけとなることがあった先週の土曜日(2020年10月10日)まで遡ってみよう。

僕はヨガも好きだから、その日も週1回のヨガに行っていた。クラスが始まる前の雑談で、ヨガの先生から、なんにせよ早く上達するためには自分の芯となるものがあったほうがいい、という話があった。サッカー選手なら、サッカーという芯があったうえで、サッカーにどのようにつながるかを意識しながらヨガをしたほうがいい、というような意味合いの話だ。当然、ヨガの先生なら、ヨガという芯があったうえで、ヨガにどのようにつながるかを意識しながら例えばダンスでの身体の使い方を学んだほうがいい、ということになる。

なぜ芯があったほうがいいかと言えば、芯になるものがなければ情報を取捨選択できないからだ。サッカーの先生からの指導とヨガの先生からの指導とが矛盾しているとき、サッカーとヨガが全くの対等だったら、どちらも選べず混乱してしまうだろう。だがサッカーのほうが優位だという芯があれば、迷わずサッカーを選ぶことができる。そうするとサッカーが上達するのは当然として、迷いがない分、効率よくヨガも上達できる。

確かにそうだろう。実は僕も似たようなことを考えていた。ヨガでは先生によって言うことが結構違う。あるポーズをするとき、足の外側に意識を向けるべきか、内股に力を入れたほうがいいのか、というような違いがある。そんなときは、A先生のファンだからA先生が言うことのほうを選ぼう、というように取捨選択をしている。その取捨選択はなるべく一本の筋が通っているほうがいいと感じていたのだ。

多分、最も人気のある筋の通し方は、師匠となる先生を見つけることだろう。正式な弟子にならなくても、こっそりでいいから、勝手に師匠を選び、その先生が言うことを最優先にするというやり方だ。それならば、師匠を芯とすることができ、ひとつの筋が通る。

もうひとつ、自分なりに自分で考え、自分自身を芯とするかたちで筋を通すというやり方もある。比喩的に言うならば、自分自身が開祖となってしまえばいいということだ。または、自分が自分の師匠になり、オーダーメイドで自分なりのヨガ体系を構築すると言ってもいい。こう書くとおおげさだけど、誰かの話を鵜呑みにするのではなく自分なりに考えて試行錯誤している人は多いのではないだろうか。(先日、ヨガの先生が言っていたのは、このようなやり方の効率が悪さを指摘するものだったと解釈することもできるが、いずれにせよ不可能ではない。)

なお、僕はその中間的な筋の通し方を選んでいるように思う。何人かのお気に入りのヨガの先生がいて、彼らが言うことを組み合わせて自分なりの芯となるものを構築し、その芯に沿って情報を取捨選択している。

3 その他の分野への拡張 瞑想・広義の哲学 

長々とヨガの勉強の仕方について書いてしまったが、スポーツが苦手でヨガ初級者?の僕がヨガについて書いても価値はないだろう。なぜこのようなことを書いたかと言えば、この話はヨガやスポーツに限らないと思うからだ。網羅的に検討した訳でないが、たいていのことに当てはあまるのではないだろうか。

この文章での考察に必要な限りで具体例を上げるなら、瞑想やマインドフルネスに関しては、明らかに師匠のような芯となるものがあったほうが上達は早いだろう。先日、ヨガの先生も言っていたけれど、世には数多くの瞑想法があるが、それらを全く並行して学んでいたらなかなか上達しない。どれかひとつを選び、その道を突き進んだほうが上達は早いに違いない。

また、哲学についても当てはまるように思う。と言っても、学問としての哲学ではなく、より広義に、経営哲学や人生哲学というように呼ばれるようなものとしての哲学についてではあるが。うまく会社を経営したり、人生を生きたりするためには、色々な考えを混乱したままに取り込むよりも、ひとつの芯となる哲学があったほうがいいのは明らかだろう。僕は詳しくないけれど、松下幸之助の本が中小企業の社長にもてはやされたり、相田みつをの言葉が誰かの家にトイレに貼ってあったりするのも、このあたりに理由があるような気がする。僕は彼らの言葉のありがたさはよくわからないけれど、彼らの言葉がひとつの芯となり、誰かの経営や人生に筋を通すことの重要性ならばわかる気がする。

その意味では、ニーチェやカントといった哲学者の言葉が名言として取り上げられることにも意味があるのだろう。彼らの思索の体系は理解されなくても、彼らの断片的な言葉が誰かの人生の芯となることはありうる。

4 学問・芸術 実践と創造

ここで問題としたいのは、やはり哲学についてだ。

ここまで、学問としての狭義の哲学と、人生訓のようなものも含めた広義の哲学とを分けて考察してきた。そのうえで、広義の哲学については、師匠のような芯を確保することは重要だとしてきた。では、狭義の学問としての哲学においては、師匠や芯といったものは必要ないのだろうか。

まず言えるだろうことは、大学や大学院といった教育システムにおいては、明らかに師匠は存在し必要とされている。指導教授と呼ばれるような人がそれにあたる。彼らに研究の進め方を学び、研究者として独り立ちしていくことになる。多分これは、哲学に限らず、すべての領域の学問で言えることだろう。

僕は経験がないので推測だけど、哲学に限らず研究の進め方を学ぶにあたっては、あまり多くの人の言うことに惑わされず、師匠の指導に従ったほうが上達は早いだろう。ここまではスポーツや瞑想と大きな違いはない。

だが学術研究の分野では、どこかで師匠とは袂を分かつこととなる。既存のものを組み合わせるにしても、新たなアイディアを思いつくにしても、何か新しいものを生み出さなければならない。試行錯誤をして、効率は悪くても、自分なりに何かを掴み取らなければならない。

ここに、スポーツや瞑想といったものと哲学のような学問との違いがあるように思う。プロ野球選手は新しさがなくてもホームラン本数が多いほうが評価されるし、オリジナリティがある瞑想をしなくてもマインドフルになればそれでいい。一方で学問はそうではなく、新しさ、オリジナリティが命だ。

なお、芸術は、スポーツや瞑想よりも学問に似ているだろう。上手なデッサンの仕方は学校で師匠から学ぶだろうけれど、どこまでも師匠という芯から離脱できなかったら新しい芸術は生まれない。

このように考えると、世の中には、新しさは求められずに芯となるものが重要となる実践の分野と、新しさが重要となる創造の分野があると言えるだろう。前者にあたるものとして、スポーツや瞑想や会社経営や(人生訓が役立つ限りでの)人生や(やり方を学ぶ段階での)学問や芸術といったものがあり、後者にあたるものとしては、(独り立ちした段階での)学問や芸術があることになる。

(更に厳密に捉えるならば、プレイのオリジナリティが評価されるプロスポーツプレイヤーのような場合は、スポーツであっても芸術と同様に創造性が必要となることもあるだろう。)

5 哲学と反実践 哲学の特殊性

ここまで哲学を学問全般に拡大し考察したけれど、しつこいが、僕が問題としたいのは、やはり哲学についてなのだ。

学問においては、師匠から学ぶ段階としての実践的な側面と、自分なりの新しい研究を行う段階での創造的な側面があるとした。それは哲学であっても、哲学以外の分野であっても変わらない。

だが、両者の間には本当に違いがないのだろうか。

哲学以外の分野においては、基礎となる研究の進め方というものがある。例えば自然科学なら、仮説を立てて、実験をして、検証するといったプロセスがある。そのような研究の芯は揺らぐことがない。

一方で、哲学の分野においては、そのような研究の基礎となる芯が存在しない。たとえカント研究者であっても、カントが言うことは絶対ではなく、あえて言うならば、カントを一部でも否定をして新しいことを生み出さなければ哲学者とは言えない。(多くの哲学研究者は、奥ゆかしく、カントの言葉に新たな解釈を行う、というかたちで、こっそりとカントを破壊し、否定している。)

言い換えるならば、哲学以外の分野では、(師匠から学ぶ段階としての)実践的な側面と、(自分なりの新しい研究を行う段階としての)創造的な側面という二面性が、研究の内容にまで及んでいる。師匠の実践知を引き継ぎ、そこに創造を付け加えるようなかたちで研究を進めることができる。

だが、哲学の分野では、論文のお作法というような研究のテクニックは別にして、研究の内容に実践知が入り込む余地がない。ただひたすらに最初からすべてを創造するしかない。より正確に言うならば、師匠から引き継いだ実践知を疑い、否定するところからしか研究を始めることはできない。

以上をまとめるならば、哲学以外では、実践と創造が結合しているが、哲学では反実践と創造が結合しているとも表現することができるだろう。

哲学にはやはり、このような特殊性があるのだ。

6 哲学の行き詰まりの打破 複数の体系とメタ体系

哲学は、引き継いだ実践知を否定するという反実践からしか創造を始めることはできない。それでは、哲学においては実践と創造をまったくつなげることはできないのだろうか。

僕はなんとかそれらをつなげたい。なぜなら、僕の哲学は、人生を生きるという実践から始まっているように思えるからだ。

さきほど、相田みつをの名言を例に出したとおり、人生はスポーツと同様に実践の分野に分類できるから、うまく生きるうえでは、芯となるものあったほうがいい。いい師匠をみつけて、迷わずにひたすら上達しようと努力したならば、きっとプロ野球選手がホームランを打つように、僕は人生をうまく生きることができるはずだ。だから人生において歩むべき道を示してくれるビジネス書や名言が書かれたカレンダーが売れたり、宗教が信じられたりするのだろう。

だけど、僕はそれらを受け入れることができない。だから哲学をしている。僕はそこに行き詰まりを感じている。

長い前置きだったけれど、ここでようやく、この文章で書こうとしていたことにつながる。つまり、冒頭で示した「瞑想・マインドフルネスと哲学との関係」について思いついたことの話だ。

僕は、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係についてのアイディアを思いつき、この行き詰まり感に光明を見出したのだ。

自分自身のなかにある手持ちの駒を整理してみよう。

まず僕は、哲学以外の分野については、そんなに悪い生徒ではない。ヨガでも瞑想でも先生が言うことを素直に受け止め、それらを組み合わせて自分なりの体系めいたものを作りかけている。ある程度の成果を挙げていると言ってよいだろう。

また哲学についても、わずかだが自分なりの体系めいたものを構築しつつある。哲学においても、芯がなくて効率は悪くても、自分なりに自分だけで自分独自のものをなんとかつくることはできる。(問題は、僕の哲学体系は体系と呼ぶには貧弱なものであり、僕が求めているような人生の実践には全く役に立たないという点にある。)

このように整理してみて気づくのは、僕の手元には複数の体系があるということだ。ここに挙げただけでも、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系という3つの体系がある。あのポーズのときは後ろ足を踏ん張ったほうがいいというような身体の使い方の体系、心を落ち着けるときには呼吸に意識を向けるといいというような心の使い方の体系、神には唯一性があるというような思考の体系というように。

今までは、体系が複数あるということが悪いことであるように思っていた。なぜなら、体系が複数あるということは、それぞれの体系が担当する領域に限定があり、それが体系の限界を示していると感じていたからだ。

しかし、それぞれの体系は接していて、体系相互に影響を及ぼしていると考えることもできる。また、単に影響を及ぼすだけでなく、複数の体系が、反発し合ったり、互いを包み込んだりと様々な関わり方をしていると考えることもできる。これはつまり、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系といった体系をつつむ、メタ体系のようなものを措定できるということでもある。

これは僕にとって吉報だ。なぜなら僕の哲学の道は行き止まりではなく、メタ体系という考察の道があるということになるからだ。

7 悟りと普通の人生 哲学的思索と何かの実践を組み合わせる道筋

いや、この道は単なる哲学的考察の道ではないかもしれない。瞑想やヨガの実践という方向からアクセスすべきものであったり、もしかしたら、哲学的思索と瞑想の実践を組み合わせて進むべき道筋なのかもしれない。

実は僕はこのあたりが最も有望だと思っている。僕が想定しているのは、哲学的思索の結果を瞑想に反映し、瞑想で得られたものを哲学に反映していくというようなやり方だ。これはかなり悟りを求める作業に近づいているように思える。

(このように考えるなら、悟りはそれほど難しくないだろう。なぜなら、悟るとは、瞑想的なレベルで自らの哲学的アイディアに深く納得するということに近づくからだ。悟りが難しいと言われるのは、悟るのが難しいからではなく、それが悟った状況だと他者に説明したり、他者から理解されたりするのが難しいからなのではないだろうか。)

または、僕が進むべき道は、哲学や瞑想に限定せず、友人や家族と楽しく過ごし、趣味を楽しむことまでも含めた、人生を生きることそのものの道であるかもしれない。限定がないという点で、こちらの道筋も有望なように思える。

いずれにせよ、孤独にゼロから思索して新しいものを創造するだけでなく、瞑想であれ人生であれ、師匠や先人のノウハウを活かし、芯が確保された効率のよい実践と結びつけていくという方向には大きな可能性を感じている。当面、その方向で考えてみたい。

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

1 ヨガにおける視線の重要性への疑問

「ドリスティ」というヨガ用語がある。ヨガの流派のひとつであるアシュタンガ・ヨガの用語で「視線」という意味なのだけど、ヨガにおいて重要なもののひとつとされている。このポーズのときには鼻先を見ろ、このポーズだと床の一点を見ろ、などと決められているのだけど、どうして視線が重要なのか、正直よくわかっていなかった。

アシュタンガ・ヨガにおいて視線以外に重要なものとしては、呼吸やバンダ(下腹部の引き締めというような意味)が挙げられるが、これらはなんとなくわかる。実は、ヨガ的には呼吸やお腹の引き締めの真の重要性は僕の理解より深いところにあるのだろうけれど、僕にもその重要さの方向性はわかる。

それに比べて、視線の重要さはわかりにくい。インストラクターからは、目からの情報に惑わされないようにするために視線を固定するため、という話もあった気がするけれど、それならば目を閉じていればいいようにも思う。視線を定めることには、視覚情報を遮断するという消極的な意味合いはあっても、積極的な意味などないように思える。それなのに、どうして視線が呼吸などと同等に重要なものとして位置づけられるのだろう。

2 視線の重要性についての僕なりの答え

オンラインのヨガフェスタで聞いた吉川めい先生の話をなんとなく考えていて、その答えを思いついた。それを思いつくまでの過程というのは、冗長で、読者の方にはあまり重要ではないだろうけれど、僕にとっては重要なことなので書き残しておこう。

吉川めい先生は、呼吸は一定に行うものであり、呼吸を一定に行うためには吸い(吐き)始めで吸い(吐き)すぎないように注意するといい、という話をしていた。

ヨガでは動きにあわせて呼吸をするから、直立の姿勢から前屈しながら息を吐き、前屈から伸び上がるように息を吸う、というような動作と呼吸の合わせ方をする。そうすると、例えば前屈から立ち上がるのと合わせて、勢いをつけるように息を吸いすぎてしまいがちだ。そうすると、立ち上がり、伸び上がり切るまでに息を吸いきって、呼吸が止まってしまう。それならば、動作を切り替え、呼気から吸気に切り替える際に、息を吸いすぎないように心がけるといい、という話だ。息を吸いすぎないためには、細いストローを吸うような意識を持ついい、という話もあった。

確かにそのとおりなのだけど、動作の切り替えで勢いがつくのに、あえて息を細くするというのはどうも不自然だ。我慢して息だけ細めている感じがある。自然であるべきヨガがそんな不自然なことを求めるのだろうか、と僕は疑問に思い、心に引っかかっていた。

考えているうちに僕なりの解決策をみつけた。いきなり前屈から伸び上がる動作に切り替え、同時に呼気から吸気に切り替えるから難しくなる。すべてを一気に切り替えるから、どうしても勢いがついてしまう。それならば、動作と呼吸の切り替えのタイミングをずらすか、動作・呼吸とは別の何かを先行して切り替えればいいのではないか。

僕はまず、試しに動作を先行してみた。悪くない。呼吸を細く始めることができる。だけど、動作と呼吸がバラバラになると、動作も呼吸もスムーズに流れなくなってしまう。だから、徐々に動作の先行幅を狭め、限りなく微細な先行に抑えるようにしてみた。

そうすると、そこに残ったのは、次の動作に入ろうとする意識と、視線の動きだけであることに気づいた。(僕はヨガの上級者ではないから、正確には、理念的に、そうなる「だろう」ことに気づいた。)

前屈しているとき、次の伸び上がる動作に入る準備段階として、上に伸び上がろうとする意識とともに目が上を向こうとする。この準備動作に注意を向けてから息を吸い始めると、勢いをつけずに呼吸を始動させることができるのだ。

きっと、あえて心がけなくても、伸び上がろうとする時、視線は上に向いているし、上に向こうとする意識は生じている。だが、その視線や意識に注意を向けると、その後の動作や呼吸がうまくいく。

これがドリスティ「視線」の重要さなのではないだろうか。これを呼吸に対する動作の先行と解釈するのか、または、呼吸・動作に対する意識・視線の先行と解釈するべきなのかともかく、アシュタンガ・ヨガが言っていることはこういうことなのではないだろうか。

3 日常生活における視線とマインドフルネス

ヨガにおける視線の重要さに気づいてから、日常生活でも視線が重要な働きをしているという仮説を立てて、ちょっと実験してみた。実験と言っても、視線に注意して街を歩いてみる、といった程度のことだけど。

店の看板や、公園の木や、すれ違うサラリーマン。僕はいろいろなものに視線を向けている。そして、たしかに視線を向けるごとに意識が切り替わり、僕の動作も切り替わっている。いや、動作は切り替わっていないのではないか。何を見るかに関わらず、歩くという動作は継続しているではないか、と思うかもしれない。確かにそうなのだけど、「歩く」よりも微細なレベルで、「看板を見ながら歩く」から「サラリーマンを見ながら歩く」に切り替わるというようなかたちで動作が切り替わっていると考えることもできる。視線に注意を向けるとは、このような微細な違いに気づいていくということなのだ。

そのように考えるならば、視線に注意を向けることは、マインドフルネスにつながっているだろう。店の看板を見る視線に注意することは、マインドフルに看板を見ることでもある。注意深く看板をじっくり見ることで、これは鳥貴族の看板だなあ、黄色地に赤の文字なんだなあ、フォントが変わってるなあ、なんて気づくことができる。

マインドフルネスという見地から「視線を向けること」を広義に「注意を向けること」と解釈するならば、僕の視線が向かうのは、看板や木やサラリーマンのような世の中のものごとに限らないだろう。僕の心の中のものごと、例えば、二日酔いによる不快感に視線を向けることができるし、人種差別的な事件についてのニュースを見たときにわきあがる怒りにも視線を向けることができる。

このように、鳥貴族の看板から不快感や怒りといった感情まで、幅広いものごとに注意を向けることと、ドリスティ「視線」はつながっている。

4 身体的な作業への変換

僕はマインドフルネスに興味があるのだけど、マインドフルでいることは難しい。マインドフルであるとは、ものごとに注意深くあることだとするならば、注意深くあるように心をコントロールすることが難しい。きっと心のあり方というようなとらえどころのないものをコントロールするのは至難の業なのだ。僕だけでなく大多数の人にとって難しいからこそ、瞑想法といった方法論が編み出され、訓練が必要になるのだろう。

だけど、視線という手がかりがあると、かなり難易度が下がる気がする。視線をどこに向けるかは、あくまで身体的な問題だから、身体レベルでコントロールが可能だ。鳥貴族の看板に対して注意深くマインドフルであれ、と言われてもなかなかできないけれど、鳥貴族の看板に視線を向けろ、と言われたら少しは楽にできるに違いない。

これは、自分の内面という物理的な視線が届かない領域であっても同じだろう。自分の中にわきあがる感情をマインドフルに見つめろ、と言われたら難しいけれど、意識的に自分の足元のあたりを見ろ、と言われたなら簡単だ。僕は自分の感情を捉えようとするとき、視線を下に落とすことが多い。奥さんと口喧嘩をしているとき、奥さんの顔を見たままでは自分の感情に注意を向けられないけれど、視線を足元に落とすと、自分の内面を見つめ、怒りで肩が震えそうになっている自分に気づくことができる。視線を意識的に動かすことで、心の動きをある程度までコントロールすることができる。

このようにして、マインドフルにものごとに注意を向けるという抽象的な作業は、視線の移動という身体的な動作に置き換えることができる。完全な置き換えが可能かどうかはともかくとして、これは重要なノウハウだと思う。

5 未来と視線

ここまではヨガやマインドフルネスについての考察だったが、例によって、ここからは哲学の話につなげていきたい。

(この文章だけを読んだ方にお伝えしておくと、僕は、哲学が好きで、そのなかでも存在論や時間論が大好きなのです。)

ここまで述べてきた視線とは、指向性と言い換えられるだろう。そうすると、ここまでの話は、心・意識がある対象に向かうことを、身体的な動作としての視線の動きとして置き換えることができる、という話だったことになる。

では、心・意識・視線は何に向かっていたのだろう。

ここまでの例では、それは鳥貴族の看板や奥さんに対する怒りのようなものごとだったのだが、そのような描写は少々不正確であって、より正確に述べるならば、視線が向かう先とは「未来」なのではないだろうか。

僕が街なかの看板に目を向ける時、僕はまだ看板を見てはいない。僕は看板がある方向に目を向け、それから、それが看板であることを認識し、そして鳥貴族の看板であることに気づき、さらには書体が独特であることに気づいたりもする。

僕が目をある方向に向ける時、あえて言うならば、僕は、未来の鳥貴族の看板に目を向けている。だが、正確には、僕の目は具体的な何かには向かっていない。または、僕の目は空白の未来に向かっている。

このように考えるならば、視線と未来は深く関わっている。僕は視線を定めることにより、未来を選択していると言っていいだろう。または、未来をコントロールしていると言ってもいいかもしれない。僕の身体は視線を通じて未来と接続している。

6 現在と呼吸

未来と視線がつながっているとするならば、現在は呼吸とつながっているだろう。

僕はこれまでも呼吸の重要性について書いてきたので詳細は省略するけれど、瞑想では呼吸に意識を向けるし、ヨガでも呼吸は重要だ。明らかに、呼吸は今ここの自分につながっている。

ここで気をつけなければならないのは、「呼吸に意識を向ける」ということに潜む矛盾だ。

どこに問題があるのかといえば、「意識を向ける」という表現にある。意識を向けることには指向性が含まれている。それならば、ここには未来に視線を向けるというかたちでの未来性が含まれている。つまり、呼吸は現在であり、意識を向けることは未来なのだから、呼吸に意識を向けるとは、現在と未来が矛盾的に接続するということである。

なお、この矛盾は拒否すべきものではない。未来と現在という相反するものを接続させるという極めて大切な働きをしているものだ。「呼吸に意識を向ける」という瞑想法の極意は、この意味で重要なのだろう。呼吸に意識を向けるとは、未来と現在との接点に焦点を合わせることであると言ってもいいだろう。

一方で、呼吸という現在を、未来性を介在させることなしに取り出すことはできないことに留意することも重要である。呼吸に意識を向けることなしに、呼吸というかたちで身体化されている現在を捉えることはできないのは明らかだろう。

現在を純粋なかたちで取り出すことの困難性は、フローやゾーンについての話として述べることもできる。

僕もあまり詳しくないけれど、フローやゾーンとは、話し合いに集中していて気づかないうちに数時間経っていたり、バッターボックスでの一瞬が長い時間に感じたりするようなことを指すようだ。

僕自身の少ない経験に基づくならば、僕は、フローやゾーン状態になっている時点では、そのときの自分自身の心境を客観的に捉えることはできない。自分を冷静に捉えようとすると、そのような状態から冷めてしまう。フローやゾーン状態とは、リアルタイムで捉えることはできず、あとになって振り返って、あのときにそのような状態だったなあ、と気づくしかないようなあり方をしている。

このことと、現在のみを純粋に取り出すことの難しさの話は同じことである。現在とはただ体験することしかできないものなのだ。

(なお、マインドフル状態と、フロー・ゾーン状態の違いが問題になることが多いようだが、僕の考えによれば、両者は全く違うものだ。あえて言うならば、マインドフルネスを長時間行っていると、マインドフルネス実践のゾーン状態とでも言うべき状況は生じる。だが、サーチ・インサイド・ユアセルフでチャディー・メン・タンが言っているように、一呼吸だけでもマインドフルネスは可能だとするならば、このゾーン状態はマインドフルネスにとって必須のものではない。ただ、マインドフルネス実践のゾーン状態とは、マインドフルネスが到達できる未来と現在の接続点から、一歩、純粋な現在に踏み込もうとするものだとは言えるだろう。)

7 過去と笑顔

ここまでで、視線としての未来、呼吸としての現在が登場したが、まだ過去が登場していない。視線、呼吸というように、身体的に未来・現在・過去という3時制を描くならば、過去とはなんだろう。

ヨガ初心者なりにインストラクターから言われることを思い出してみると、過去とは笑顔のことなのではないだろうか。

ヨガのクラスを受けていると、時々、ヨガニドラというものをすることがある。理論や歴史的なことは知らないので体験した限りでだけど、ヨガニドラとは大の字になって横たわり、体の部位ごとに少しずつ力を抜いていき、全身をリラックスするというものだ。

そのなかで、特に効果的だと感じているのが、顔の筋肉を緩めていく動作だ。指示されるままに目の奥を緩めたり、下の付け根を緩めたり、頬を緩めたりしていくと、普段から変なところに力が入っていたのだなあ、と気づく。

そして、顔の筋肉が緩んだとき、僕自身がなんとなく笑顔になっている気がする。僕は大の字になって横になり、少しにやけた顔をしている。傍目からは気持ち悪いだろうけれど、僕自身は気持ちいい。

過去とは笑顔のことではないか、というときの笑顔とは、この笑顔のことだ。

リラックスして自然とにじみ出る笑顔こそが、過去なのではないだろうか。

視線が未来と接続し、呼吸が現在と接続するように、笑顔は過去と接続している。僕は笑顔により過去と接続し、過去をコントロールすることができる。笑顔になるだけで、僕のこれまでの人生を肯定したくなる。なんだか僕の人生は幸せなものだったような気がしてくる。

笑顔とは、このような効果があるのなのではないだろうか。

このように僕は、視線、呼吸、笑顔というようにして、身体における3時制を駆け足で描いてきた。いずれも重要なものばかりだけど、あえてそのなかで最も重要なものを選ぶとすれば、それは笑顔だろう。笑顔は簡単な割に効果が高いから。

いずれ僕は死ぬ。死んだら視線を動かすことも、呼吸を続けることもできない。だけど、笑顔でいることはできる。笑顔だけは死後に残すことができる。それが過去の特権だろう。

そして僕が死んだなら、笑顔に加えて、今昔物語の入道のように口から蓮の花が咲いたら、なおいいなあ。