哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

薄い膜と概念操作の話

1 薄い膜

いつの頃からか、時々、世界と自分との間に薄い膜があるように感じることがある。僕の身体の境界のあたりに貼り付くように、薄く目立たないけれど確実に身体をくまなく覆い尽くすように。

膜により僕は世界と隔絶されている。周囲の世界は僕抜きでもうまく回っていて、大縄跳びに入れない子どものように、僕は世界に上手に関わることができない。世界において僕は余剰物であり、僕の手が届かないところで得体のしれない世界は蠢いている。膜は実感として存在すると同時に、そんな気分を比喩的に表現するものでもある。

膜は僕のことを護ってもくれている。膜は、防風林のように、恐ろしい世界から僕を隔離し、小さな安全地帯を作り出してくれる。ちょうど一人分の大きさの凪いだ水槽の中を静かに漂うことを許してくれる。(僕は照明を落とした風呂に入り、(自分以外に入る人がいないとき)頭までお湯に沈んでしまうのが好きなのだけど、そのときに感じる感覚とどこか似ている。)

膜は、僕を世界から護ってくれる防御壁である一方で、僕を僕の身体に閉じ込める牢獄ともなる。僕は、時々、体の周りにぴったりと貼り付く膜に閉じ込められ、息苦しくなる。なんとか膜を破り、閉塞感から逃れたくなる。だけど膜を破ることはできない。最近は、このような閉塞感が気になるようになってきた。

多分、僕がこのような膜を身にまとうようになった経緯には、子どもの頃の人間関係の問題が影響している。大人になり、人間関係の問題にうまく対処できるようになり、そろそろ膜も用済みということなのだろう。

2 概念操作

薄い膜が僕を包んでいることによる影響は、僕の哲学の根幹に及んでいるように思う。

僕は独我論的で懐疑論的なことを考えがちなのだけど、その根底には、薄い膜により隔絶された外界のことなどわかりようがないという実感がある。往々にして独我論や懐疑論は単なる思考実験のように取り上げられる。だけど僕にとっては、そうではなく、膜がもたらす実感に基づく馴染み深い思考傾向なのだ。

僕の哲学は、独我論者や懐疑論者を仮想論敵とし、彼らを打ち破ることを目指すものだ。それはつまり、哲学的に薄い膜を打ち破ることを目指すことでもある。僕にとっての哲学とは、少なくとも一面では、僕を包む膜から逃れることを目的とした活動なのだ。

僕は哲学を通じて、この膜と格闘している。膜に力を加え、引っ張ったり縮めたりして変形させ、ついにはこの膜を破ることを目指している。この文脈においては膜を概念と言い換え、膜に力を加えて変形させる行為を概念操作と言い換えることができるだろう。僕は哲学において、概念を操作し、概念を打ち破ることを目指しているのだ。

概念のなかでも特に重要となるのは、世界や時間や人生といった概念だ。独我論的な僕の哲学において、僕を包む膜が、このような概念として表現されるのは当然だろう。僕は世界や時間や人生といった概念に閉じ込められているのだ。だけど、それらの概念をこねくりまわしているうちに、いつか完全に客観的に捉えることができたならば、そのときこそ、僕は膜を打ち破り、牢獄から逃れることができると夢見ている。客観的に概念を捉えるとは、つまり、僕をつつむ膜を、僕の外部の視点から捉えることだからだ。

哲学により僕を包む膜を打ち破るとは以上のような意味においてである。だから、僕の哲学は、概念との格闘であり、更には、僕にとっての哲学とは概念操作と等しいとさえ言えるだろう。

3 入不二基義

僕が重視する概念操作を手っ取り早くご理解いただくためには、(読んだことがある方は)入不二基義の哲学をイメージしていただければいいだろう。

入不二は概念操作の名手であり、存在、時間、運命といった概念を自由自在に操り、いわば手垢がついたこれらの概念の、全く違うあり方を鮮やかに示してくれる。

入不二は、概念を拡大解釈したり他概念と比較したりというような一般的な操作(水平的な操作)のみならず、概念を成立させるメタ概念を指し示そうとするような彼独特の操作(垂直的な操作)を通じ、概念をぎりぎりまで操作し、概念操作の限界を探る。彼が目指すことは概念の明確化というより、概念の操作可能性の限界を探り、概念の潜在的な力を解放することなのだろう。

実例は彼の本を読んでいただきたいが、概念操作の名手である入不二は、熟練した職人のような手際で概念を薄く引き伸ばし、概念という薄い膜の向こう側を透かし見るようにして垣間見せてくれる。

僕にとっての入不二哲学とは、単に正しかったり、読んで楽しかったりするだけではなく、このような実用的な意義があるものなのだ。だから僕は、彼のような概念操作ができるようになることを目指しているのかもしれない。

4 哲学以外

このように振り返ってみると、僕にとっては、どうも哲学よりも膜が先にあるようだ。僕にとっての哲学とは、膜から逃れるための手段でしかないのかもしれない。膜から逃れられるならば哲学でなくてもいい。その証拠に、僕は哲学以外にもいくつかのやり方で膜と格闘している。

例えば僕は旅が好きだ。僕にとっての旅とは人生や時間と深く関わるものだ。しばしば旅は人生に喩えられるけれど、この比喩には僕も深く同意する。飛行機が離陸して日本を離れるとき、僕は子どものように旅の始まりの期待に胸を膨らませ、そして旅が終わり、飛行機が房総半島に着く頃、僕の心は死を前にした老人のように達成感と喪失感で満たされる。このような感覚は、旅好きの多くが感じるものなのではないだろうか。ごく普通の意味で、旅をすることとは人生を知ることとは多少はつながっているように思う。

更には、旅は時間を空間に変換する装置だとも思う。例えば1週間かけて、タイのバンコクからシンガポールまでバスや電車で旅をしたとする。そのとき、1週間という時間は、バンコクとシンガポールを結ぶ、地図上の一本の線として描写できる。時間という捉えどころのないものを空間上の線に変換することで、客観的な視点から把握が可能となる。僕のバンコクからシンガポールまでの旅の思い出は、地図上の線分として持ち運び可能なものとなる。

当然、このような試みは完全には成功しない。昆虫標本に昆虫の生命を保存できないのと同じように、空間化された時間には時間の本質はないし、人生と旅は似て非なるものでしかない。だけど、僕を覆っている膜を人生と名付けるならば、旅により、その膜をなんとかしようとする、という僕の試みは、そう的外れなものではないように思う。

もうひとつの膜からの脱出の試みとして、僕は、マインドフルネスと瞑想の呼吸にも興味がある。僕の理解では、マインドフルネスとは「今ここ」という切り口で世界を捉えようとするものであり、呼吸は、「今ここ」に時空的な広がりを与え、「今ここ」と世界の全体、時間の全体とを接続する可能性を秘めたものだと考えている。

僕は初心者だから実際はそんな境地には達していないけれど、マインドフルネスや呼吸は、哲学よりももっと直接的に、僕を包む薄い膜を打ち破る力を持っているように思う。

これ以上は脱線となるので詳述しないが、それ以外にも、薄い膜を打ち破る可能性があるものとしては、スノーボードのジャンプや音楽やセックスといったものもある。僕が好きなものは、たいてい、僕を包む膜との格闘とつながっているようだ。

当然、僕は膜を打ち破ることを意識して、意図的に、哲学や海外旅行やマインドフルネスやスノーボードといった趣味を選んだ訳ではない。だけど、このように振り返ってみると、そこには偶然ではない一致があるように思う。

5 哲学の忘却

当然ながら、いくら概念を押したり引いたり伸ばしたりねじったりしても、概念を打ち破ることは不可能だ。入不二は確かに膜の向こうを垣間見せてくれるが、それは水泳の息継ぎのように一瞬のことであり、すぐに僕は膜の内側に引き戻される。僕は一生あがいても、膜に閉じ込められたままなのだろう。

だが、ここで吉報がある。僕はこの膜を常に意識している訳ではないのだ。というか、生活の場面ではほとんど気にすることもない。時々ふと思い出すだけだ。それならば、一番の解決方法は、気にせずに忘れることなのかもしれない。

膜も、哲学も、忘却してしまえばいいのかもしれない。歳をとり、色々と忘れることが多くなると、忘却という解決策は意外と現実的なやり方かもしれないと思う。

6 膜との戯れ

忘却のほかにもうひとつ、もう少し能動的な関与が可能な道があるように思う。それは遊戯という道だ。

入不二は哲学者という顔以外に、もうひとつ、レスラーという顔を持っている。彼は概念を相手にやっていることと同じようなことを人間相手にやっていると思うのだけど、やっていることの本質は、哲学よりもレスリングのほうがよく現れているかもしれない。彼によればレスリングは動物の子ども同士がよくやっている取っ組み合いによく似ている。彼がやっていることはレスリングという人間との遊戯であり、哲学という概念との遊戯なのだろう。レスリングという行為を思い起こすなら、遊戯という言葉には、破壊的な側面と、癒やしとでも言うべき側面の両面があるように思う。

僕も膜との遊戯を目指したらいいのかもしれない。膜を打ち破ることは所詮無理なことなのだから、それならば、もっと膜と戯れよう。膜と戯れることは意外と楽しいことなのかもしれない。哲学をしていると、少し、そんな気もしてくる。

※今回は入不二基義の哲学を取り上げましたが、もうひとり、永井均の〈私〉の独在論も膜からの脱出の試みに役立っているように思います。入不二のやり方を格闘や遊戯とするならば、永井のやり方は「無化」と言い表すことができるかもしれません。
永井の議論を僕なりに解釈するならば、〈私〉は、いわゆる私といわゆる外界というような二分法を無化する別次元の力を有していると言えるからです。だけど、〈私〉の独在的な力は、人間の手元に飼いならすことができるようなものではないので、膜を逃れたと安心した瞬間にその力は手元を離れてしまうので、その試みは一時的な成功にしかつながらない、ということになります。

※読み返してみると、ここで書いた薄い膜の話は半分フィクションのようにも感じます。僕を包む膜の感覚は通常はとても微弱なものだし、膜を感じる頻度もそれほど多くありません。この薄い膜の話は、僕の中にある感覚をうまく伝えるための誇張した比喩のようなものとご理解ください。

恐れと圧倒と個別具体性と概念化

1 僕の哲学の遍歴

僕は幼い頃の記憶があまりない。だから、きちんと記憶を遡ることができるのは小学校の頃までだ。

小学校入学したての頃、僕はできの悪い子どもだった。集団行動が苦手で、運動音痴で、学校での振る舞い方もピントがずれている、いわゆる落ちこぼれだった。

小学校に入るタイミングで引っ越したこともあり、仲のよい友だちもいなくて、近所の子にいじめられていたので、世の中とはとても怖いものだった。その怖さの感覚は転校生ポジションではなくなった後も残ったように思う。と言ってもそれはそんなに深刻なものではなく、他の子と同じように暗闇が怖くて、口裂け女が怖くて、誘拐されて香港に売られることが怖かったという程度のものだったかもしれない。

世の中はもっと整合的で理解できうるものだと知っていくにつれ、そんな他愛もない恐怖は薄れていった。記憶は曖昧だけど、小学校高学年になり色々なことを学び、恐怖を克服しつつあった僕に、恐怖の代わりに訪れたのは、宇宙に圧倒されるような感覚だったように思う。僕はSFを知り、SF的な宇宙の広がりに圧倒されたのだ。そのときの感覚を断片的に記述してみよう。

「宇宙が無限に広がり、人間よりもはるかに高度な文明を持った宇宙人がいるかもしれないのに、人類はそのことを全く知らずに地球にへばりつき細々と活動している。もしかしたら、この世界は高度な宇宙人が地球人の最後の生き残りである僕を飼うためにつくった檻かもしれないのに、僕はそれに気づくことすらできない。」という感じだ。

このような、SF的な宇宙のあり方への圧倒感が、僕の哲学のひとつの始まりであったように思う。

そんな僕も中学生になり、周囲が成長するにつれ、僕もそれに合わせてSFアニメやSF小説ではなく、部活や、恋愛マンガや、芸能人といったことに興味を移さざるを得なくなっていった。広大な宇宙に漂っていた僕は、捕らえられて学校のクラスという密室に閉じ込められてしまった。そんな感覚でいる僕がうまく集団生活をできる訳もなく、中学生の頃の僕は、多分いじめられっ子と言ってよい立ち位置だったと思う。こうして僕は、幼い頃に世界に対して感じていた恐怖と同じようなものを、周囲の人間に感じるようになっていった。

だけど高校生の夏、ふと、他の人間たちも健気に生きていることに気づいた。このときの感覚はとても印象深かったので何度も文章に書いているから省略するけれど、簡単にまとめると、僕が気づいたことは、僕も含めた人間は人生を精一杯生きているということだ。人は誰も、僕と同じように自分の人生を生きている。僕は人生というものがあることに圧倒されたと言ってもいい。

ここから僕は哲学的なことを考えるのが好きになり、人生や世界といったものについて考えるようになった。だれど、就職し結婚して子育てをして、と忙しくしているうちに哲学からは離れてしまった。

30代前半の頃、子供と一緒に図書館に行き、哲学的問題について思い出し、そこから50歳近い今まで15年くらい色々な哲学に触れるようになった。今は時間に興味があるけれど、それは人生というものがある程度まで、時間という言葉で置き換え可能であることを学んだからだ。その意味で高校生の頃の哲学と現在の哲学とは地続きでつながっている。

以上が僕の哲学の遍歴だ。まとめると、

小学生低学年:世界に対する恐怖

小学校高学年:SF的な宇宙の存在の圧倒(ひとつの哲学のはじまり)

中学校   :人間関係に対する恐怖

高校    :人生の圧倒(ふたつめの哲学のはじまり)

大人    :人生の時間への置き換え

というように要約できる。

2 圧倒と恐怖

こうして振り返ってみると、僕の哲学の遍歴において、哲学のはじまりとして二つの圧倒感という山が関係していたことに気づく。ひとつは、僕が小学生の頃、銀河鉄道999やガンダムや星新一のショートショートにはまった時に感じた、SF的な宇宙観に圧倒されるような感覚。そして、もうひとつは、高校生の頃、他の人にも人生があると気づいたときの目もくらむような圧倒感である。

それと対になるように二つの谷があったことにも気づく。小学校入学後と中学生時代という二つの時期における、学校のクラスになじめずに感じた恐怖の感覚だ。

この二つの圧倒と二つの恐怖は、僕の哲学的問題の遍歴を考えるうえで、大きな意味を有しているように思う。

僕は恐怖を圧倒感で克服しようとしたのではないだろうか。

小学校低学年の頃に感じた世界に対する恐怖に対して、小学校高学年の頃の僕は宇宙というものが持つ圧倒感で上書きし、そして、中学生の頃に感じた人間に対する恐怖についても、高校生の僕は人生というものが持つ圧倒感で上書きしようとしたと今になってみると考えられるように思う。

3 圧倒感と哲学

この圧倒感による恐怖の克服と、哲学のはじまりとは大きく関係しているように思える。

僕にとっては、圧倒感とは恐怖を忘れさせてくれるものだった。または圧倒感とは恐怖を解消するための鍵だと考えていたとも言えるかもしれない。恐怖から、恐怖が持つ力だけを取り出し、圧倒という力として純化することで、恐怖を圧倒に置換することができると考えたのかもしれない。

または、圧倒されるほど途方も無いものである宇宙や人生の謎を解き明かし、把握し理解することができれば、こんなにも恐ろしい宇宙や人生に正面から立ち向かい、打ち勝つこともできると思ったのかもしれない。

当然、当時はそんな言葉遣いをしたことなどなかったけれど、今の言葉で表現するならば、そんなことを考えていたような気がする。

このような自己分析がどこまで当時の状況を描写できているかはわからないけれど、とにかく、今の僕にとって、世界や人生というものが持つ圧倒感は、とても好ましいもので、あえて目を向けたくなるものだ。このような態度と、僕の中の哲学的志向は密接に関わっていることは間違いない。僕にとって、圧倒されるような世界や人生について哲学的に考える時間は、自らを癒やしてくれる、とても大切なひとときであることは確かだ。

4 概念化

僕にとっての哲学がこのような経緯を有しているということが、僕の哲学のあり方を決定し、限界づけているように思う。

僕の哲学は、口裂け女や中学校の同級生といった具体的な恐怖を克服するためのものであった。口裂け女がいたとしても、何十億年後に太陽が膨張し、地球を飲み込むことを考えれば、そんなことは大した問題ではないし、同級生のいじめっ子との関係に悩むより、そもそも暴力が悪であるかどうかを論ずるほうが重要で生産的だ。当時の僕はそのように思っていたのだろうし、今もそう思う。

このようなものとしての僕の哲学は、つまり個別的で小さな物事を普遍的で大きな物事に置き換えていこうとする作業だと言ってもいいだろう。

また、この作業は概念化と呼ぶこともできる。だからこそ僕がやっていることは哲学と名付けることができるのだ。

僕は、世の中に既にある哲学書や哲学者の言葉から哲学を始めたのではない。それでも、僕がやっていることを哲学と言えるのは、僕がやっていることが概念に関する営みだからなのだろう。僕は、生物についての学問が生物学であるように、概念についての学問が哲学であると考えている。

当然、世間には概念化ばかりを目指さない哲学もある。(詳しくは知らないけれど)応用倫理学のように概念と現実の個別具体的な事象とを結びつけようとするような学問領域もある。だけど、それは僕にとっての哲学ではない。僕の哲学とは、そのような個別具体的な事象を消し去ろうとするものだ。まるで口裂け女やクラスのいじめっ子から逃げるように。だから世間の哲学ではなく、僕にとっての哲学においては、ひたすら概念化を目指すことこそが哲学の効用である。

ただし同時に、ひたすら概念化を目指すことが僕の哲学の限界でもあると思う。恐怖を逃れようとして、ひたすら概念化を目指すということは、別の角度から描写するなら、個別性を喪失し消し去ることを目指していると捉えることもできる。確かに僕の哲学においては、個別具体的なものはどこにもない。なぜなら、僕が目指していることがそうすることだからだ。個別具体的なものを敵視し、消し去ろうとしていること。これが僕の哲学の限界だ。

個別具体的なものを消し去り、焼け野原のような世界を作り出そうとするもの。これこそが概念化を目指す僕の哲学の正体なのだ。

5 個別具体的なもの

僕の哲学は、現在、個別具体的なものの扱い方で行き詰まっている。

僕は、アルキメデスの支点さえあれば、そこから錬金術のように、すべての構造を生み出すことができると考えている。そのようにして世界の構造全体について、その始原から説明することができると考えており、それを目指している。試行錯誤はしているけれど、多分、その試みは一定程度成功するだろう。

なぜなら、僕が目指す哲学者は熟練した職人のように様々なものを生み出すことができるはずだからだ。哲学とは概念化することであり、哲学の技の妙はその概念をどのように操作できるかにかかっていると僕は考えている。ガラス細工職人が熱したガラスを曲げたり伸ばしたりして様々な形を作り上げることができるように、哲学の技を磨けば概念から様々なものを作り出すことができるはずだ。その点で哲学者は科学者よりも職人に似ている。熟練した職人であれば、概念から様々な構造を生み出せるに違いない。僕はそんな職人を目指している。

だが最近気づいたが、問題は、構造を生み出すところではなく、その構造にどのように個別具体性を付与するのか、というところにあるのではないか。

熟練したガラス職人はガラスで本物と見間違えるような象を作り上げることさえできるだろう。しかし、それは生きた象ではなくガラスの象でしかない。

同じように、熟練した哲学者は、様々な構造を作り上げることができるだろう。哲学者は、なにもないところから、唯一の支点を起点として、時間や空間や善といった様々なものを作り上げることはできるだろう。しかしそれらはすべて概念であり、個別具体的なものとなにもつながらないガラス製の時空や倫理でしかない。

確かに、僕の哲学は、そのあり方からして、個別具体的なものにつながりようがない。個別具体的なものを拒否し、そこから逃げるようにして行っている哲学が、個別具体的なものを説明しようとするなど、自己矛盾でしかないのだろう。

僕は、行き詰まっている。

6 世間の哲学

僕が哲学に対して抱いている困惑は、多分ほとんど理解されないだろう。だけど、少しでも伝わるよう、世間の哲学と接続した説明に挑戦してみよう。

概念化という言葉を最も適切に表現しているのは、永井均の「ものごとの理解の基本形式」という言葉だろう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」がものごとを理解するうえでは必要不可欠であり、ものごとを理解するということを支えているのは、このような基本形式にある。それならば、目の前に座るネコについてネコとして理解するためには、そのネコが複数存在しうるネコという種類の一例であることを受け入れなければならない。

僕はこの永井の考えは正しいと思う。だけど、同じことをイヌについても言えるかどうか考えてみると、哲学的には問題が生じるように思う。

当然、ネコと同様にイヌについても、「目の前に座るイヌについてイヌとして理解するためには、そのイヌが複数存在しうるイヌという種類の一例であることを受け入れなければならない」と言うことはできる。

だが僕はここで疑問に思う。そもそもネコとイヌを置き換え可能なものとして同列に考えられるのは、既に「ものごとの理解の基本形式」があるからなのではないか。イヌもネコも動物という種類の一例だからこそ、「同じ」操作ができるのではないか。つまり、「ものごとの理解の基本形式」を適用するという操作のなかに、既に「ものごとの理解の基本形式」が入り込んでいるのではないか。「ものごとの理解の基本形式」を経由せずに直接的に「ものごとの理解の基本形式」を適用することは不可能なのではないか。これが僕の疑問だ。

同じ問題を別のかたちで指摘しよう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」という定義は、そもそも、個別具体的なものを拒否しているのではないか。なぜなら個別具体的なものは複数個存在することはありえないはずだからだ。あのネコとこのネコは全く違うから複数個などというかたちでは捉えられないということが個別具体的の意味のはずだ。それならば、「ものごとの理解の基本形式」により個別具体的なものを捉えることはできないことになる。これは大問題でないか。

つまり「ものごとの理解の基本形式」というアイディアが正当なものであることを認めるということは、個別具体的なものは理解できないということを認めるということである。

そして残念ながらそのとおりなのだ。

多分、永井はそのことを指摘するために、「ものごとの理解の基本形式」というアイディアを提示しているのだろう。そして、更に永井は「ものごとの理解の基本形式」に当てはまらないものとして〈私〉があると言うのだろう。

僕もそれを認めることはやぶさかではない。だがそのような例外はそう多くない。この例外を特異点と言い換えるならば、僕の見込みでは、そのような特異点はどのような哲学体系においても一つか二つしかない。その特異点は〈私〉、神、言語、身体などと呼ばれる。これらの特異点とはこの文章での僕の表現を用いるならば、アルキメデスの支点のことだ。一つ(または二つ)しかない支点から、どのように個別具体的なものを錬成できるというのだろうか。

僕の哲学はここで行き詰まっている。この行き詰まりは世間の哲学の行き詰まりでもあると思う。僕は世の哲学において、個別具体的なものを密輸入せずにこの問題を解決している例を知らない。

僕はこの問題を解決し、アルキメデスの支点から、豊穣で精緻な、この当たり前の世界を錬成し、説明しつくしたい。そして、恐れを抱かずにこの世界に安住したいと願っている。それは無理な願いなのだろうか。

思考の限界と家庭と旅

哲学は思考の幅を広げてくれる。もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない。「氷を熱すると水になる。」「友達が多いことはいいことだ。」「目の前に見えるこのスマホは確かに存在する。」そんな当たり前を疑うところから哲学は始まる。当たり前という枠を取り払い、「友達なんていなくていいかもしれない。」「そもそも『いいこと』ってなんだろう。」なんて考えを広げていくのはとても哲学的な議論のあり方だろう。

ここで注意しなくてはならないのは、思考を進めるためには、思考を成立させるための枠組みが必要になるということだ。どんなに思考の幅を広げても、それは変わらない。特に重要な枠組みは3つあるように思う。①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、そして③認識論的な枠組みだ。

①科学的な枠組みとは、自然科学的な手法が有効であることを前提とするということだ。当然、どのような手法が自然科学的に正当なものかどうかは議論の余地がある。「科学において実験は必須なのか。」とか、「どの程度の反証可能性が必要なのか。」というような問題だ。そうだとしても、そのような議論を経て、その手法が自然科学的に正当なものであることが明らかになれば、それは有効な手法であるのは明らかだ。この枠組みには、科学者だけでなく、ほとんどの現代人が従っていると言っていいだろう。

②倫理学的な枠組みとは、この世界は他者で満ちているということを前提とするということだ。もし、この世界に人間が自分ひとりしかいなかったら、倫理学は始まらない。人間以外の生物についての倫理学や、もしかしたら無機物についての倫理学のようなものもあるかもしれないが、そうだとしても、そのような別の存在を他者として認めることが前提となる。

以上の二つの枠組みは極めて常識的なものであり、それらをあえて枠組みとして扱う特段の必要性などないと思う方もいるかもしれない。だが哲学においては例えば、デカルトの方法的懐疑のようなかたちで容易にその枠組みは乗り越えられる。自然科学が有効に成立しているのは夢の中だけなのかもしれない。夢から覚めれば、そこはリンゴが木から落ちずに虚空に吸い込まれるように飛んでいく世界かもしれない。またはこの他者に満ちた世界は悪霊が騙して見せている幻で、実は、この私は人類の最後の生き残りなのかもしれない。

デカルトの懐疑はとても強力で、多くの思考の枠組みを破壊してしまう。しかし、デカルトの懐疑を遂行するうえでは③認識論的な枠組みを前提としていることを指摘しておきたい。夢の懐疑では、実はあれは夢だったと気づくことを前提としている。また悪霊の懐疑でも、実はあれは悪霊に騙されていたと気づくことを前提としている。デカルトによれば、認識誤りを認識で正すことができる。デカルトの問題とは、どこまでも認識についてのものなのだ。そこには、認識は間違うこともあれば、認識は正しいものであることもあるという前提がある。これがデカルトに代表される③認識論的な枠組みだ。

以上、思考には①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、③認識論的な枠組みといったものがある。(ほかに重要なものとしては、クワインのホーリズムやウィトゲンシュタインの言語ゲーム論につながるような④意味論的な枠組みなどもあるが、本題とずれるので省略する。)

以前の僕は、哲学においては、このような枠組みを乗り越えれば乗り越えるほど哲学的に前進することになると思っていた。だから僕は、認識論や意味論の限界ぎりぎりのところを論じる形而上学以外の哲学に意義を見いだせなかった。倫理学なんて、無根拠に色々なことを前提としすぎていて、無駄な議論だと思っていた。(今もそう思ってしまう傾向はあるけど・・・)

だけど、哲学カフェに参加していて気づいた。誰もがデカルトの懐疑をやりたい訳じゃないんだ、と。「友達が多いことはいいことか。」を論じているときに、そもそも、悪霊に騙されて友達がいると思い込んでいるのかもしれない、と指摘しても、ほとんどの参加者は喜ばない。参加者たちはそのような話をしたい訳ではないのだ。(もうひとつの喜ばない理由は、手垢のついたつまらない展開だから、というものだが、脱線になるので省略する。ただ、トロッコ問題を持ち出すような展開を思い起こせばおおよそは伝わると思う。)

多くの人は、思考に限界を設け、その枠組のなかで、箱庭のような土俵の上で、議論をしていくことが好きなのだ。僕は、もともとの性向から、そのようなことに疎くて気づかなかったけれど、哲学の世界とは、そのようなものなのだ。だから冒頭で「もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない」としたのは誤りなのだろう。

哲学の魅力は少なくとも二つある。ひとつは、思考の限界を乗り越え、その先に進む魅力であり、もうひとつは定められた限界の中で精緻に議論していく魅力だ。

では、後者の魅力、限界のなかで議論することの魅力とはなんだろうか。多くの人はわかっていて僕だけがわかっていないのかもしれないけれど、この問題について考えてみよう。

ポイントは、その限界は限界として意識されていないというところにあるのだと思う。当然、倫理学者はデカルトの方法的懐疑くらい知っているし、哲学カフェに来ている人だって、「昨日会った友人や目の前のスマホが存在すると思っているのは夢の中だけの話かもしれない。」と言えば、言わんとすることは容易に理解するだろう。だけど、彼らは、そこに論じるに値するような切実な問題を感じないのだ。そんなどうでもいい話ではなく、もっと倫理的な問題について話したいのだ。そこに限界があることはわかるけれど、意識をそこに向けるのではなく、もっと別のところに向けたいのだ。そこにあるのは思考の限界とは別のもの、例えば倫理的な問題に対する愛着だと言っていいだろう。

そう考えるならば、思考の限界とは牢獄や檻のようなものではないのかもしれない。檻ならば、それを破壊して脱出すれば自由になることができる。僕にとっては思考の限界とはそのようなものだった。だけど実は、思考の限界とは家のようなものなのかもしれない。(家庭にも色々あるので良い比喩ではないかもしれないが)帰ってくると安心する、愛する我が家というイメージだ。倫理学者にデカルトの懐疑について論じさせることは、無理やり快適な我が家から嵐の中に連れ出すようなものなのだ。それは誰も望まない不幸な出来事でしかない。

それならば、思考の限界とは慈しむべきものなのだ。僕は哲学カフェを通じて、そのようにして生きていく人たちのことも少しは理解できるようになった。そのようにして生きることができるのは、とても幸せなことだと思う。なぜならば、思考の限界からはどこまでも逃れることはできず、思考の限界を乗り越えようとすることは、終わりのない旅のようなものだからだ。そこには安住の地はない。

だけど、楽しい旅行から帰ってきたときには、ああ帰ってきちゃった、と思うこともある。DVがあるような家庭であればなおさらだ。僕は僕自身の性向から、家の外に喜びを見出す旅人のように、思考の限界の先に進むような哲学をしていきたい。そして、そのような哲学ができる哲学カフェの場を今後もつくっていきたい。僕と同じように家の外に出ざるを得ない人たちには必要なことだと思うから。

マインドフル・ダイアログ

僕は哲学カフェという活動に興味があり、数年関わっている。だけど、そのネーミングには引っかかり続けている。

そもそも哲学という言葉がキャッチーではないということもあるが、どうも哲学カフェという名前は活動の本質を捉えていないように思えるのだ。哲学カフェの本質は、テーマ設定や、参加者の人数や開催場所にはないのでないか。

確かに、哲学的なテーマ設定であれば、話し手として自由な発言ができやすく、聞き手としても発言内容だけに注目しやすい。数人から十数人くらい、というカフェに入るくらいの人数も対話にはちょうどいい。だけど、それらは付随することに過ぎない。話し手が自由に発言し、聞き手が発言内容だけに着目することができたなら、その話題がいわゆる哲学的なものでなく、例えばアニメの話であっても、また何十人、何百人の集会であっても、それは十分に哲学カフェ的だと言っていいだろう。(さすがに、法廷での証言や、何千、何万人規模の集会が哲学カフェ的になることは事実上難しいだろうが、論理的には哲学カフェ的なものとなる道が閉ざされている訳ではない。)

それでは哲学カフェの本質はどこにあるのか。それは参加者の心構えにこそあるのではないか。哲学カフェでは、他の参加者の話を聞くとき、発言者の肩書や性別や年齢などは気にかけず、ただその発言内容だけに着目することが推奨される。発言するときも、こんな発言をしたら変に思われるかもしれない、人間関係に支障が生じるかもしれない、などと考えず、自らの考えを表現することが望ましい。哲学カフェの本質は、このような、他のことに気を取られず、対話だけに集中しているという参加者の心構えにこそあるのではないか。

という訳で、僕は、哲学カフェというネーミングが気に入っていない。そこで僕は、マインドフル・ダイアログという名前を思いついた。ダイアログは対話であり、哲学カフェは哲学対話とも呼ばれるから説明不要だろう。ポイントはマインドフルという部分にある。
マインドフルとは当然、マインドフルネスのことだ。皆さんご存知だと思うが、マインドフルネスとは、僕のざっくりした理解だと、仏教が、禅などの実践面に重点を置き、西洋的に解釈されたものだ。もしかしたら、ヨガなど仏教以外の要素も含まれているのかもしれない。だが、西洋的に解釈された仏教と考えておけば大きな間違いはないだろう。

マインドフルネスは、瞑想を通じて、日常の雑事を手放し、今・ここに集中することを重要視する。歩いているならば、ただ歩いていることだけに集中し、食事をしているならば、ただ食べていることだけに集中する。同様に、哲学カフェでは、ただ対話していることだけに集中する。これこそがマインドフルネスとしてダイアログ(対話)を行うということだ。

先ほど、哲学カフェでは、聞き手は、ただその発言内容だけに着目することが推奨され、話し手は、自らの考えを何にもとらわれずに自由に表現することが望ましいとした。そして、これこそが哲学カフェの本質であるとした。これはまさに、マインドフルに対話を行うことと一致する。それならば、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることは適切であろう。

僕は、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることを提案する。そして、マインドフル・ダイアログをマインドフルネスのひとつとして位置づけ、マインドフルな人生を送るためのツールとして整理することを提案する。

ただし、マインドフルに対話することは、マインドフルに歩くことや、マインドフルに食事することと同列には扱えない側面もある。なぜなら対話するとは、言語を用いるとも言い換え可能であり、思考も含めた言語活動全般を行うことでもあるからだ。言語の力を最大限に見積もるならば、マインドフル・ダイアログとはツールのひとつではなく、マインドフルに生きることそのものであると言ってもいい。

なんでこんな文章を書いたかというと、マインドフル・ダイアログという言葉は、僕が2020年7月5日に思いついたことを明らかにするためです。ネットで検索すると少し出てきますが、このような力点を置いている使用例はないと思います。いつか、この名前を冠して活動をしてみたいな。そのためにはマインドフルネスももう少し勉強しないと。

入不二哲学と僕の疑問についての備忘録

1 入不二信者であること
僕は入不二基義の影響を強く受けているから、存在論、意味論、認識論という三者関係の構図でしか、ものごとを考えられなくなっている。
この考えられなさは、正しさの証左なのかもしれないが、僕自身の限界のようにも思う。僕は入不二が描いた構図以上のものが思いつかないのだ。僕の思考には、今のところ、この三者関係の構図以上のアイディアがないということは、僕の思考と、この構図がぴったり一致していることを意味する。それは、その構図を信じることによく似ている。この限界こそが宗教の起源なのかもしれない。
この文章は、そのような意味での入不二信者が書いたものとして読んでほしい。

2 入不二哲学における存在論、意味論、認識論の三者関係
入不二の存在論、意味論、認識論の三者関係においては、最終的には存在論が優位となる。入不二はそうは言っていないが、僕はそう解釈している。
存在論の勝利は揺るぎないように思う。入不二は、三者の戦いの果てでの存在論の勝どきを「無内包の現実」と表現することがある。僕なりの言葉で説明するならば、ペットボトルやパソコンや私自身といった個別のものごとが存在する前に、それらの存在を成立させる場(または存在させる力)として「無内包の現実」がまずあるのではないか、というのが入不二のアイディアである。どんな物事があるか、などといったこととは関係なく、ただ現実は「ある」のだ。それは存在論の勝利の場面だろう。
なお、入不二の存在論は、物事が存在するという意味での通常の存在論に留まるものではない。「ある」は時間的な「なる」と結びつき、存在論は運命論と呼ばれることとなる。または、存在は現前と捉えられがちだが、エネルゲイア的な潜在も含めたものとして、現実と呼ばれてもいる。入不二の存在論は運命論であり現実論であると言ってもよい。
そこまで拡張された入不二の存在論は、哲学上の語るに値する議論領域全体をすくい取ることに成功しているように思える。入不二は、哲学の最深部にあるもの、哲学の基底にあるものを指し示すことに成功しているように思うのだ。
そこでは、認識論や意味論とは、哲学者が最奥部・最深部に向かって旅をするにあたってのマイルストーンに過ぎない。認識論や意味論は、限られた存在である人間が、神の領域に向かうために使われる梯子でしかない。存在の深奥に到達したならば、梯子は不要となる。
入不二の語り方とは違うが、僕は入不二の議論を以上のように理解しており、そこには絶対的な正しさがあるように思える。

3 僕の疑問
だが、それで本当に、存在論、意味論、認識論の三者の戦いにけりはついたのだろうか。
「「無内包の現実」というものを想定するような存在論から、どのようにして、この世界の内包を生み出すことができるのだろうか。」これが僕に残っている疑問である。絶対的な存在論優位の図式からは、この疑問に答えることができないのではないか。
この世界に、ペットボトルやパソコンや私といったものがあるとするならば、その個別のものごとは、この無内包の現実のなかに含まれているか、または、この無内包の現実とは別に居場所が確保されているのでなければならない。前者の道筋で考えるならば、無内包の現実には必然的に内包が含まれていなければならず、後者の道筋でいくならば、無内包の現実よりも物事の有内包性が優勢となる場面を認めなければならない。
いずれの道筋をとるにせよ、存在論が絶対的に優位である「無内包の現実」という構図からは逸脱することとなるのではないか。これはつまり、認識論や意味論が優位となる場面を認めることではないか。

同じことを人と神という用語を使って描写することもできる。
入不二が描こうとしたのは神の世界だ。または、入不二は、人としての限界を乗り越え、神を垣間見ようとしたと言ってもいい。人としての限界とは、認識論と意味論のことだ。入不二は認識論と意味論を乗り越え、存在論の絶対的優位性を認めることと、神を垣間見ることとを重ね合わせている。
だとするならば、入不二の存在論優位の「無内包の現実」という構図から逸脱するということは、人を、神と並び立つものとして認めることである。神の一元論から神と人の二元論に移行するということである。
以上のような意味で、「無内包の現実から、どのように内包を生み出すことができるのだろうか。」を問うことは、入不二の哲学の根底を疑うことにつながっていると思う。

4 認識論・意味論が存在論に優位するとは
では、認識論や意味論が「無内包の現実」という存在論に優位している状況をどのように描写することができるだろうか。
それは、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」という記述に要約できるのではないだろうか。
当然、見るとは認識論を指し、語るとは意味論を指す。認識論が成立するためには認識論が有意義に成立するような世界が必要であり、意味論が成立するためには意味論が有意義に成立するような世界が必要だ。そこでは、認識論や意味論が世界の存在のあり方を規定している。認識論や意味論が成立するためには有内包の世界が必要だ。存在論は認識論と意味論の下僕として、有内包性を認識論と意味論に供給しなければならない。
これは、カントのコペルニクス的転回に少し似ている。存在論から直接に内包の存在を導くことはできない。しかし、認識論や意味論からは、「ねばなならない」というかたちで、内包の存在を導くことができるのだ。
だが注意しなければならないのは、このような操作には転落がつきものだということだ。永井均によれば、カントはデカルト的な道筋の先にあるはずだった<私>を見落としてしまった。それと同じように、認識論や意味論からの操作を通じて導かれる内包の存在という描写は、存在というものの最も重要な側面を見失ってしまっている。
そのように考えるならば、ここには、認識論・意味論と存在論の間のシーソーのような相克関係が生じていると捉えることもできよう。「無内包の現実」が存在論優位の極であり、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」が認識論・意味論優位の極であり、両極が相互に優位となるような構図だ。
そのような視点移動を経るならば、そのような構図が現に存在するというかたちで、再度、入不二の存在論優位の描写は立ち返ってくる。この相克関係という図式そのものが入不二の「無内包の現実」の力により支えられていなければならないからだ。どうも存在論優位は揺るがないようだ。

5 身体論について
だが、僕はどうしても、世界には、このような存在論優位の描写に取り込まれないような抵抗感のようなものがあると感じてしまう。無内包に還元されてしまう前の、内包のざらっとした質感のようなものがそこにはあるのではないか。その質感があるからこそ、僕は、活き活きとしたこの世界で、このような人生を営んでいると言えるのではないか。
入不二はそこにも答えを出そうとしているように思える。入不二は近年、レスリングをしており、その経験も踏まえて入不二身体論とでも言うべきものを作り上げようとしている。まだ全貌はわからないが、それは、先程も用いた、神と人という用語を用いるならば、身体を通じて人から神に至ろうとする道であるように思える。しかしその道は、身体の破壊というかたちで、必然的な失敗へと至る道でもある。その挑戦と挫折とは、僕が感じる生の質感のようなものなのではないだろうか。そのようなものして、今後の入不二の議論は僕の問題意識と直結していく期待がある。
特に根拠のない予想となるが、入不二の身体論とは、存在論、認識論、意味論とは別に身体論がある、というあり方とはならないように思う。入不二は既に、存在論を時間論、運命論というかたちで拡張し、新たな現実論とでもいうべきものを作り上げている。身体論は、この入不二現実論のなかで、認識論・意味論との接続を担う立場となるのではないか。もしそうならば、入不二の身体を巡る議論は、直接的に僕の疑問に答えてくれるものとなるかもしれない。
入不二の今後の議論を楽しみにしているし、僕自身ももっと考えていきたい。

アダム徳永の話

1 アダム徳永の紹介

アダム徳永さんを知っていますか。
セックス・セラピストとして何冊も本を書いたりしている人です。セックスと言っても普通のセックスではなくスローセックス、ざっくり言うと、女性に対して優しい愛撫を長時間することを提唱している人です。
なんとなく昔、名前を聞いたことがあったなあ、というくらいだったのですが、ふと気になって調べてみたら興味深かったので、You Tubeを見て、何冊か著作も読んじゃいました。
彼の魅力は正しそうなところと怪しそうなところがいい感じで混ざっているところです。残念ながら実践では試せていないけれど、彼の中心的な教義であるスローセックスは多分、かなり正しいでしょう。根拠は示せないけれど、アダルトビデオのようなセックスより、女性を大切に扱うスローセックスのほうが正解に近いのは確かだと思うので。多分、それを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。男性からすると、まさに目からウロコです。
一方で、彼のことを怪しいと思う人も多いでしょう。彼は、スローセックスを説明するにあたり、気やチャクラといったものを持ち出します。愛撫する手は、単に優しく女性を撫でるものではなく、そこから気を出し、女性と気を交換するものでもあるのです。このあたりは多くの人が眉唾だと思うでしょう。
なお、僕はヨガなども好きなので、気やチャクラといった話には抵抗がありません。それが真理かどうかはわからないし、周囲に布教したりはしないけど、そういうことを否定しないことで得るものもあるように思っています。
僕がアダム徳永さんが問題だと思うのは、男女の違いを強調するところです。彼によれば、男性とは愛する存在であり、女性とは愛される存在です。そこにあるのは男性から女性に対する一方的に愛が向かっていくという図式です。そこからは必然的に、男性が守り、女性は守られる、というようなある種の役割分担、または、夫唱婦随的な、古き良き男女関係への憧憬が導かれます。僕はそこには同意することができません。
ただし誤解のないように言及しておくと、彼の魅力は、そのような主張をしつつも、その結果、男尊女卑には陥らず、男性性の発露は、ひたすら女性を尊重し、尽くすという主張につながっているという点にあります。役割分担があるからこそ尊重が生まれるという論法です。騎士道精神やレディファーストのようなものを思い浮かべるといいでしょう。残念ながら、彼の主張は100%正しいとまでは言えないでしょう。古色蒼然とした年寄りの妄想のように思えます。それでも僕は、どこか筋の良さのようなものを感じるのです。彼の言説は、単に固定的な図式で男女平等を唱えることでは描写できない何かを捉えることに成功しているように思えるのです。
彼の言説が捉えようとした何かに僕は興味があるのです。

2 アダム徳永の言説から引き出せるもの

彼は、男が女を愛するという一方的な愛の図式を水の流れに例えます。彼によれば、水が高きから低きに流れるように、愛は夫から妻に流れるとされます。つまりそこには上下関係、高低差があるということです。このような描写を多くの人は嫌悪感を抱くでしょう。だけど、僕はそこに(劣化はしていても)ある真実が隠されていると思うのです。
僕が見出した真実とは、それを愛と呼ぶかどうかは別として、よい人間関係には高低差が必要だということです。人間関係を川の流れに例えるならば、高低差という力の源が必要なのです。
男女の性差というような固定化を避けるため、男女を問わず、と前提するならば、愛においては、確かに、愛する人はとことん愛し、愛される人はとことん愛されるという一方向性が必要です。それは、この一方向性が失われることにより、「愛されているから愛する。」「愛したのだから愛されるべき。」というような悪しき双方向性に陥ることからも明らかでしょう。愛は見返りなく与えるものであり、また、見返りなく受取るものなのです。
ちょっと脱線になるかもしれませんが、愛は見返りなく与えるものという話はよく聞くけれど、見返りなく受け取るものという話はあまり聞きませんね。もしかしたら、あまりピンとこなかったかもしれません。確かに、人と人の愛の話だと、愛される側の立場からの愛の描写というのはこれまであまりなされてこなかったかもしれません。もしかしたら、人と神の間の愛に置き換えたほうがいいかもしれません。(神の愛というからには、キリスト教の神をイメージしてもらったほうがいいでしょう。ただ、僕はキリスト教に詳しくないので、間違えていたらすみません。)
人と神の愛において愛される立場にあるのは人のほうです。神は人を人として創造しました。神がなぜそんなことをしたかと言えば、それは神が人を愛するからです。人はこの世に存在するからには、ただ神に愛されるしかないのです。それは極めて一方的な関係性だと言ってよいでしょう。もしかしたら、明日、神は人を愛するのをやめてしまうかもしれない。それでも人はただそれを一方的に受け入れるしかないのです。
確かに、そうならないようにキリスト教の教義はあります。この教義を守っていれば神は人を愛することをやめないという神と人の約束がなされています。ただ、それも極めて一方的な約束です。どんなに人が神を信じたとしても、神はもしかしたら明日にはこの約束を反故にしてしまうかもしれない。神が人を愛するかどうかは神にしか決めることはできない。愛される立場にある人の側からは、愛する立場にある神に何かを働きかけることはできない。そういう一方向性があるのです。神を信じるとは、そういう無力さの現れでもあります。
このキリスト教の神を用いた比喩は、当然、人と人の間の愛についても当てはまります。愛する人だけが愛するかどうかを決めることができ、愛される人はただ愛されるしかない。そこには厳然とした一方向性があります。確かに現実には人と人の関係だから、愛される人は愛し返すことができ、愛される人は愛する人にもなります。だからそこに双方向性が生じます。だけど、そこにあるのは2つの独立した愛であり、AさんからBさんへの愛と、BさんからAさんへの愛は全くの別です。愛されているから愛するのでも、愛したのだから愛されるべきでもありません。
ちょっと長くなりましたが、このような意味で、愛とは一方的なものなのです。それをアダム徳永は言いたかったのです。
彼がそのことを、夫から妻への一方的な愛の流れとして描写したのは確かに不十分なものだったでしょう。妻が夫を一方的に愛することがあってもいいし、多分、実際には、夫婦間では、そのような独立した二つの愛が交差しているでしょう。
なお、アダム徳永は、一応、この問題を補正しようとしており、彼は、夫婦という役割の違いを重視しつつも、それ以外にも夫婦には、母と子、姉と弟というような多様な役割の側面があるべきだとしています。夫が子のようになり、妻が母親のようになることで、母が子を愛するように、妻が一方向的な愛を夫に向けることも重要だと指摘しています。残念ながら、この話は、夫が妻に甘えることの勧めという薄っぺらい話として読まれざるを得ないような書かれ方をしています。しかし僕は、そこに、より普遍的なものを読み込むことができると考えます。
また、彼が、夫と妻という役割の違いを強調したことには効用もあると思います。愛とは双方向的なものという固定観念が広まっている現状では、愛の一方構成を戯画的に強調するしかないのもやむを得ないでしょう。僕がここで論じたように、愛の一方向性を説明したうえで、実は妻から夫への愛というものが別にあってもいい、としてしまうと、やはり愛とは双方向的なものではないか、と誤解が生じてしまうのは確かでしょう。これは、彼の本の娯楽的な性格を踏まえると賢明な判断だったと思います。愛が双方的なものだと誤解されるくらいならば、愛が固定的ではあっても一方向的なものだと誤解されたほうがマシなのです。

3 静的な世界把握と愛

と書いても、多分、多くの人は同意できないでしょう。男女差別よりは愛を双方向的なものだと考えたほうがマシなのではないか、と思う人が多いのでしょうか。
僕がこの文章を書いたのは、本当の敵がそこにあり、それを論破したいと考えたからです。僕の仮想敵は「静的な世界把握」派と名付けることができます。彼らに愛を図示してもらうよう依頼したとします。白い紙を渡して、「AさんとBさんとの間の愛を図に示してください。」と頼むときっと何の躊躇もせずに
「 A -♡→ B 
    ←♡-   」
というような絵を書くでしょう。この躊躇のなさが「静的な世界把握」派の特徴です。
しかし、ここまで述べてきたように、愛とはそのようなあり方をしていません。そのことを明らかにするために、アダム徳永は、あえて、「 A -♡→ B 」と描写したのです。
確かに残念ながら、この描写も誤りです。では、本当はどのように図示するべきなのでしょうか。考えられるのは、
「 A -♡→ B 
  A ←♡- B
 A -♡→ B 
  A ←♡- B ・・・ 」
というように、一方向的な愛が独立して行き来するものとして描くというアイディアです。確かにこれでかなり先程論じたことに近くなってきています。多くの人はこれを答えとしてもいいように思います。このような捉え方をするだけでも、アダム徳永の先をいくことができるように思います。
彼は、愛が夫から妻への一方向的なものとしつつ、愛のエネルギーは循環すると論じます。そこには矛盾があり、一方向的なものがなぜ循環するかを示すことができていません。この図のような独立した一方向的な愛が交互にやりとりされるのだと考えることで矛盾は解消されるでしょう。めでたしめでたしです。

だけど、僕はこういうところに妙に敏感なので、あえて、この図にもケチをつけたくなります。この図は、AがBを愛することと、BがAを愛することとの間に因果的な関係性があるように見えてしまうという点で、やはりミスリーディングなのではないか。一枚の図に、二つの愛を同時に描こうとすること自体がそもそも誤りだったのではないか。僕はそのように主張します。つまり、僕の答えは、「AさんとBさんとの間の愛を図に示すことはできない。」というものです。
多くの人は、僕の答えにがっかりするでしょう。なぜなら、きちんと簡略にまとめられないということは、理解できないことだからです。あきらめるよりは、さきほどの矢印の連鎖の図のほうがマシだと思うのではないでしょうか。
僕が「静的な世界把握」派と名付け、戦いを挑んでいるのは、そのような考え方です。僕の敵は、劣化版ではあっても簡略にまとめることでよしとする考え方です。その劣化にこそ、重要な秘密が隠されているはずなのに、それを無視してしまったら全てが台無しではないか。僕はそう思うのです。
多くの場合、「静的な世界把握」派が無視している何かとは「時間」です。あえて言うならば、時点と時点との間に横たわる断絶です。(もうひとつ「人称」間の断絶も無視されがちですが、その話は永井均に委ねます。なお、この時間の話は永井均というよりは入不二基義の話です。)
この愛の話でも、AさんがBさんを愛している時点と、BさんがAさんを愛している時点とは全く独立した時点であり、互いに全くの無関係です。昨日、彼女が愛してくれたことと、僕が今日愛することとは全くの無関係だし、僕が今日愛したことと明日彼女が愛してくれることとは全くの無関係だ。その無関係性さ、言い換えるならば「見返りのなさ」こそがアダム徳永が強調した一方向性の本質であったはずです。その無関係さを正確に表現するならば、愛を図示することは諦めなければいけないのです。
アダム徳永どこまで意識していたかはわかりませんが、彼は、反「静的な世界把握」派の仲間だったと考えることができます。彼は、あえて「A -♡→ B」とだけ描くことで、動的なあり方をしている愛の、その瞬間を写真のように切り取ることに成功した。これがアダム徳永の話の魅力だと思うのです。
念のため、「静的な世界把握」派に対する「動的な世界把握」派としての僕が、どのように愛を描写するかを参考まで示すこととします。(ただし、このような描写自体が静的なものなので、限界があることはご了承ください。まさにこの限界の回避こそが「静的な世界把握」派の魅力なのです。)
「愛とは僕が一方的に与えるものである。または僕に一方的に与えられるものである。だけど、なぜか、時間的な断絶を乗り越えて、全く独立に、与えた愛は愛として帰ってきて、そして与えられた愛を与えてしまう。そこには理解を完全に超えた不思議がある。それこそが愛の不思議であり、時間の不思議だ。」

4 対話

僕がこんなに長々と愛について話してきたけれど、僕の哲学上の興味の本丸は愛にはありません。ましてやセックスについては、個人的には大好きだけど、とりあえず僕の哲学上の興味とは別ということにしておきます。
僕の興味は言葉や対話に対するものです。言葉についても、愛と同じ一方向性があると思うのです。対話においては、その役割につけられる名前は、夫や妻ではなく、話し手と聞き手です。夫が妻を愛するように、話し手は聞き手に語りかけているのです。そこには、アダム徳永が指摘するように落差が重要となります。
夫が妻を愛撫するとき、彼はスローセックスを提唱します。数分だけおざなりに触れるのではなく、ひとつの性感帯に数分は時間をかけ、全体としては何十分も何時間も時間をかけ、丁寧に愛撫することが夫の愛(すること)の表現だとします。そして妻は、その愛撫を受け入れて感じることこそが愛(されること)の表現だとします。そこで重視されているのは、愛撫する者と愛撫される者との落差、つまりセックスとして表現される一方向的な愛の落差だと言ってよいでしょう。
言葉や対話においても、この落差が重要なのではないでしょうか。話し手は聞き手を思い、聞き手に伝わるように丁寧に表現する。聞き手は話し手の言葉を素直に受け入れ、理解すること(または理解できないこと)を素直に表現する。これこそが対話の真髄ではないかと思うのです。
妻がいいところで夫の愛撫を中断し攻守交代しては愛撫が深まらないし、聞き手が話し手の言葉をいいところで遮って話し始めては対話が深まらない。いずれも十分深めるためには、じっくりと一方的に愛撫し、言葉が発せられなければならない。そして、それが頂点に達したとき、ちょうどいいところで、なぜか、愛する人が愛され、愛される人が愛することになり、また、話し手が聞き手となり、聞き手が話し手となる、という転換が生じる。このちょうどいい地点、頂点での転換は、時間の不思議さを重視する「動的な世界把握」派にしてみれば、まさに奇跡であり、これは愛の奇跡であり、言語の奇跡とも思えます。僕はこの話をしたくて、この文章を書いたのです。
最後の部分は十分に表現できていない気もしますが、スローセックスと対話との類似性が伝われば、この文章の目的は達したことにしておきます。

ハイデガーとアーレントのことを何も知らない僕のハイデガーとアーレントについての話

松島恒煕という方が書いた「対話と「公共性」の関連をめぐって」という論文を読んだ。
(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2019/05/02_Matsushima_Paper.pdf)
この方を全く存じ上げないが、考えさせられるものがあったので、記録しておく。

この論文は、ハイデガーとアーレントの公共性概念を用いて、哲学対話での対話の深まりについて考察したものだ。
僕は、ハイデガーもアーレントも興味がなく、読んだことはないし、多分、今後も読むことはないと思う。だけど、この文章を読んで、僕の関心と、彼らとの間にどのような関係がありそうかが、少しわかったように思う。
予備知識は全くないけれど、僕の言葉を使って、この論文の議論をざっくりとまとめておく。

ハイデガーは、日常的な場面における個人の同質性に着目する。
日常的な場面においては、個人の根源的な存在の違いなどは着目されず、ただ、その内容の違い、質的な違いだけが表面化する。だから、会話においても、話し手と聞き手の間に横たわる根源的な違いなどなかったものにされ、その会話の内容の違いだけが問題となる。そのような同質性だけが表面化する状況にいると、人々は安らぎを覚える。それは、存在の違いという根源的な問題を内容の違いへ頽落させ、隠蔽するからだ。
だが、ハイデガーはそれを頽落として批判するのではなく、それでも隠蔽しきれない内容の違い、質的な違いを端緒として、そこから根源的な違いに向かうことができるという可能性を見出す。それが哲学であり、頽落しても隠蔽しきれない違いこそが哲学を支えるのだ。

松島さんによれば、アーレントは、その先を描いている。
日常的な違いは、本来の存在の違いとしてのあり方を回復し、ハイデガー的な集団としての公共社会は、実は、個人の違いが確立した公共社会であったことが確認される。そこでは、現にそこで個人の力を発露して生き生きとした活動を行われる。そのようなかたちで根源的な違いが表現され、実現されるのだ。
このようなハイデガーからアーレントへ向かう道筋こそが、哲学対話が向かうべき道である、ということになる。

しかし、そこで松島さんは立ち止まる。差異が強調されるアーレント的な公共社会において、人はどのような合意を目指すことができるのだろうか、と。論文は、この問題を提示し、解決可能なものという見通しを示すことで終わっている。しかし、このままでは明らかに、この問題を解決することはできないだろう。少なくとも、松島さんの考察に何かを付け加える必要がある。

僕はこの文章で、ここに付け加えるべきと思われるものを提案したい。

その前に、合意という言葉づかいだと、僕の問題とずれてしまうので、僕の言葉で言い直したい。僕なりに表現するならば、松島さんの問いは、「公共社会に共通の目的・価値はあるのか。」という問いとなる。
もし、「ある」と答えるなら、アーレントが強調する根源的な差異は弱められ、個人は公共社会の道具や手段となり、ハイデガー的な日常的な社会に頽落してしまう。
一方で、「ない」と答えるなら、公共社会という考察の対象さえも見出すことが不可能となるだろう。なぜなら、目的や価値を否定したうえで、それを独立した物事として捉えることは不可能だろうからだ。もし、可能だとするならば、価値論と存在論を完全に独立して論ずることができるということになってしまう。可能だとする道筋はあるかもしれないが、それは多分、アーレントや松島さんが向かおうとする道とは別物だろう。

このような袋小路を救うのは、やはりハイデガーだと思う。
アーレント的な差異を強調する道筋は、やはりどこかで行き詰まり、ハイデガーが強調する同質性へと頽落せざるを得ないのではないか。
だが、頽落した日常がゴールではない。ハイデガーによれば、そこで再び哲学は立ち上がる。そして、アーレント的な公共社会に向かおうとする。このようなハイデガーとアーレントの間を行き来するような往復運動こそが、公共社会というもののあり方なのではないだろうか。
ハイデガーもアーレントも、それを静的な段階的な違いとして解釈するならば、そこには限界がある。限界を乗り越えるためには動的な解釈が必要となるのではないか。そして、ハイデガーとアーレントには相補関係とも言えるような相性のよさがある。両者を往復運動として接続することで、その先を描写する力が得られるように思える。

希望的観測を述べるならば、この往復運動は、同じところの行き来ではない。
哲学対話のあと、日常に戻ると、そこの景色は少し変わって見える。ほんの僅かの違いかもしれないし、数日すれば、その違いなど忘れてしまうかもしれない。だけど、僅かでも前進している。
ハイデガーとアーレントの間の往復運動は、螺旋階段のように、循環しながらも、少しずつ前進している。この前進の力となっているのが、アーレント的な生の力であり、対話の力なのではないか。

ラブレターみたいな文章

僕は時々、ラブレターのような文章を書きたくなるときがある。ただ、ある一人のためだけに書き、その人には是非読んでほしいと願う。なお、その人以外の人も読んでいいという点では、ラブレターとは違うけれど。
そういう文章を書くとき、僕は、その特定のある人が読むことで、喜んだり、何か感じたり、何か考えさせられたりして、その人の人生のなんらかのプラスになればいいと願っている。その人とは、友人や知人でなくてもいい。見ず知らずの名前しか知らない誰かでもいい。もしかしたら既にこの世にいない、遠い過去の人でもいいのかもしれない。

たいてい、その誰かとは、何か、僕に考えるきっかけをくれた人だ。行動や文章で、僕に何かを問いかけてくれた人だ。妻と喧嘩をしたことで、何かを考えさせられたなら、妻にあてて書くし、哲学的な文章により考えさせられたなら、筆者に向けて書く。

では、ラブレターのようでない文章とは、どういうものだろう。
文章は、大きく分けて3つありえると思う。誰か特定の一人に向けて書いた文章、複数の人に向けて書いた文章、そして自分に向けて書いた文章だ。

複数の人に向けて書いた文章にも、更に、数名の友人のような少数の人に向けたものと、不特定多数の人に向けた文章というような違いはあるだろう。
だが、ここで問題としたいのは、人数はともかく、複数の人に向けて文章を書くということが、そもそもありうるのか、ということだ。
例えば、僕が職場から、LINEで家族グループに対して、「晩ごはんは要らないよ。」とメッセージを送る。そのとき、僕は、家族という多数を思い浮かべて文章を書いてはいない。妻を思い浮かべ、そして、娘を思い浮かべ、それぞれに対して、メッセージを伝えることを考えている。当然、そこまで明確に意識はしていないけれど、そうであるはずだ。妻と娘を個別に思い浮かべ、個別事情があることに気づいたら、個別事情に応じてメッセージを変えるだろう。もし、娘が旅行中なら、「そういえば、そっちは何を食べたの?」なんて書き添えるだろう。
多数に向けて書く文章とは、誰か特定の一人に書く文章を、いくつかまとめただけのもののように思える。「晩ごはんは要らないよ。」というメッセージは、妻と娘とそれぞれに分けて送ってもいいけど、たまたま同じ内容でよいから、まとめて送っただけとも言える。(同時に送ることで、妻と娘が互いに同じメッセージを受け取っていると知ることができる、という意義もあるけど、その意義の話は別の機会に。)

僕が、誰か一人のために書いた文章がラブレターのようで特別なものだなあ、と思うのは、僕の文章は、大抵が僕自身のために書いたものだからだ。
僕は、いつも、僕自身という、僕のことをよくわかっている理想的な読者のために文章を書いている。僕は忘れっぽいから、昔自分が書いた文章を読み返すと、こんな文章を書いた意図さえ思い出せないこともある。だが、そんな文章でも、当時は自分だけはこの文章を理解してくれると思って書いていたはずだ。
僕は、そんな日記のような文章ばかり書いているから、時々書く、誰かのための文章は特別なものとなる。

僕自身は、誰かのために書いたラブレターよりも、自分のために書いた日記のほうが、哲学的に深いところに到達していて、哲学的な意義があると思っている。だけど、たいてい評判がいいのは、ラブレターのような文章のほうだ。(評判がいいと言っても、ほとんど読む人などいないから、なんとなくそう感じるだけ。)
また僕自身としても、読み返して理解しやすく、まとまっていると感じるのも、自分自身ではなく誰かのために書いた文章のほうだ。独りよがりの日記より他者のためのラブレターのほうが理解しやすいのは当然なのだろう。

だとするならば、僕の文章のクォリティ向上のためには、ラブレターを書きたいと思うような人との出会いが結構重要なのかもしれない。

ちなみに、この文章は、自分自身のための、独りよがりの日記パターンです。

言葉へのこだわり

哲学者とは、言葉にこだわる人のことなのではないか。

一般的に、世界のあり方とか、人生の意味とか、根源的なことを知ろうとする人こそが哲学者だとされているように思う。僕もそう思ってきたし、そうありたいと思ってきたけど、しかし、そうではないかもしれないと気づいた。

なぜなら、哲学者かどうかに関わらず、人は、世界や人生について、現にある程度知っているからだ。知っていなければ、世界のなかで人生を生きていける訳がない。当然、十分に知っているとは思っていないし、もっと知りたいと願い、知ろうと努めているだろう。ただし、強調したいのは、多くの人は、世界とか人生について、全く知らない訳ではないし、哲学者に比べて、その知っている程度が低い訳でもないということだ。

当然、哲学者としては、その知り方に不満がある。そんなのは、知っていることにならないと思う。だから哲学をする。

そうだとするならば、哲学者かどうかを分けるのは、根源的なことを知っているかどうかや、知ろうと努力しているかどうかではなく、その知り方なのではないか。

哲学者とは、その知り方として、どこまでも言葉にこだわる人のことなのだ。哲学者は、根源的なものごとについて、言葉にしたいと願っている。人々がすでに知っていることについて、それを知っているだけでは飽き足らず、それを言葉にしたいと願っている。

だから、哲学という営みには、ウィトゲンシュタインが指摘したような言語の限界が横たわっている。言語の限界とは、思考の限界ではなく、哲学の限界なのだ。

このような定義の仕方は、かなりざっくりしたものだとは思う。ただ、明らかに言えることは、言語の限界のぎりぎりのところを目指そうとしない哲学は、哲学ではないということだ。哲学者には色々な定義の仕方があると思うが、僕は、哲学者とは、言葉に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことを指すのだとしたい。

なお、言葉へのこだわり方にも色々なやり方があるように思う。子どもが粘土で遊ぶように、ただ言葉をこねくり回すのが楽しい人、言葉を適切なかたちで並べたときの美しさに囚われた人などなど。

そのなかでも、言葉が持つ力に魅了された人のことを倫理学者というのだろう。正しい言葉には有無を言わせず世界のあり方を変える力がある。正しい言葉が正しくないことはありえないし、正しい言葉を無視することが正しいこともありえない。正しい言葉というものが持つこのような力に心を奪われ、正しい言葉を求める人こそが、倫理学者なのだろう。

哲学者とは、言葉というものの魅力に囚われ、どこまでも言葉にこだわる人のことである。そう考えると、哲学という活動の輪郭が少しはっきりしてくるように思える。

『連続と断絶』・『断絶と無関係』の話

飯盛元章さんが書いた『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』を読み、その後、ネットで動画配信された『断絶と無関係』という飯盛さんと入不二基義さんの対談を観て思いついたことを書き残しておく。

0 感想

以前から、ホワイトヘッドという哲学者は、面白そうなことを言っているようだけど、どうも難しそうだし、その面白さをうまく教えてくれる解説書もないしとっつきにくいなあ、となんとなく思っていた。

そんななか、飯盛さんの本を読み、ホワイトヘッドのことをやっと理解できた「気がした。」

この本は多分、複雑怪奇なホワイトヘッドの哲学の全体像を伝えるものではないのだろうけれど、僕が知りたかったところをちょうどうまく切り取って教えてくれているように思う。それは飯盛さんの能力によるところが大きいのは確かだけど、多分、僕と飯盛さんの興味のポイントが似ているからでもあるのだろう。

飯盛さんは入不二さんや永井均さんのことが好きで、今回の対談も自分から声をかけたということなので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

だから当然、対談の方もとてもよかった。(You Tubeで視聴できます。)

二人の哲学観が深いところで重なり合っているためか、餅つきのようにテンポよく見通しのよい議論が深まっていった。(入不二さんが杵を振り下ろし、飯盛さんが餅を返すかたちで。)

とてもクリアに議論が進んだおかげで、ツッコミどころも明確になったようにも思える。だからこそ、是非、僕自身の考えで、議論を書き換えたいと思い立った。

ホワイトヘッドが提案する思弁哲学は、飛行機のフライトを繰り返し、思弁哲学の理想への漸進するものだ。それならば、思弁哲学の目的に寄与するものである限り、このような書き換えはどこまでも許容されるだろう。そう考えるならば、僕がこれからやろうとしていることがどんなに幼稚なものであっても、ホワイトヘッドの意向に沿っていると思いたい。

1 多という常識

この本を読んで、さらに動画配信を観てみて、ホワイトヘッドの僕にとっての面白さというのは、「常識への立ち返り」にあると感じた。

ホワイトヘッドの哲学体系は複雑怪奇だけど、これは意図的にそうしようとしたのではなく、なんとか常識に立ち返るために、常識を一つ残らず漏らさないよう色々と考えていたら、有機体の哲学という、化け物のような体系ができてしまった、というのが多分、実情なのだろう。その不気味さを嫌う人もいるだろうが、ホワイトヘッドにとってはそれしかありえない。そのような意味で、不細工な子供のような、愛すべき哲学体系なのだ。

そして、その愛と、確かに常識のすべてを漏らさず捉えているという圧倒感が、ホワイトヘッドの有機体の哲学を魅力的なものにしているような気がする。

そう考えると、対談では「常識」というものがあまり評価されていなかったが、実はとても重要なものなのではないかと思う。

特に重要な「常識」は、「多」という存在のあり方だろう。

最近、プラトンの『パルメニデス』を読んだのだが、パルメニデスは、「一なるもの」について議論するなかで、全く「一」ではないものとして「多多」というものを提示する。分割しても何をしても「一」にはならないものが「多多」である。「一」と「多多」という両極を想定するならば、世のたいていのものは一にもなるし、多にもなるし、という意味で、「一」でも「多多」でもない中間的な「多」だ。

(自然数を例とするならば、2は分割して1と1になるし、150という数も149と1とに分割できるので1が含まれる。そう考えるなら、少なくとも1以外のすべての自然数は「一」を含んでいるから、「多多」ではなく「多」であるということになる。)

常識的に考えるならば、世界は「多」で溢れている。ペットボトルは何本と数えられるので多だし、人間も何人と数えられるので多だ。世の中のものは、すべて「多」だと言ってもいいだろう。

ホワイトヘッドは、この常識に従い、同質・複数の「多」でどこまでいけるかに挑戦した哲学者なのではないか。

そして、ホワイトヘッドに断絶を読み込もうとした飯盛さんは、この常識に基づいた体系を基礎としつつ、断絶を読み込むことで、どれだけ非常識に近づけるかに挑戦したと言えるかもしれない。

では、なぜ断絶を読み込もうとしたのか。

対談のなかで、飯盛さんと入不二さんは断絶/無関係を求める動機として、「ほっておいてくれ」という倫理的動機と、面白いという美的動機を挙げていた。

多分、そこには常識にとらわれることへの違和感と、そこから脱することの解放感があるのだろう。

常識でとらえようとするホワイトヘッドvs常識にとらえられまいとする飯盛/入不二 という白と黒の図式がそこにはある。

対談で、(不滅かつ消滅は矛盾ではないかという入不二さんの指摘を受け、)飯盛さんが言っていたけれど、「両側面があるものだとしたら、もう片方の方も最大強度にしてあげたい。(矛盾表現にするとその強さが弱まってしまうから採用したくない。)」と言っていた。

この話は、ホワイトヘッドの連続vs飯盛/入不二の断絶/無関係の対立構造にもあてはまるように思える。断絶を拡張するならば、または、断絶の力をより引き出すためには、ホワイトヘッドの連続についても、更に拡張し、その力を引き出すべきではないのか。

2 ミクロの話

2-1 抱握

ホワイトヘッドの有機体の哲学の魅力は、「抱握」にあると思う。僕がホワイトヘッドについての本を読みたいと思ったのも、この言葉の不思議な魅力にあったように思う。飯盛さんは、とてもわかりやすく、明確なかたちで、この「抱握」について説明してくれた。そして、やはり僕の予想は間違えていなかった。「抱握」は魅力的だ。

ホワイトヘッドの有機体の哲学は、人間の思考についても適用され、哲学体系を構築する基礎的な単位である現実的存在には、人間の個々の思考も含まれる。

話を人間の思考に限定するならば、抱握とは、新たに思考が生まれるということだとも言える。新たな思考が生まれるにあたっては、過去の自らの思考や、見聞きするなどして、外部から得た現在の感覚のようなものが材料となる。それらの材料を用いて、新たな思考が生み出されることになる。そして、そこで生み出された思考は、次の瞬間には、過去の思考のひとつとなり、次の思考が生み出されるための材料となる。

抱握というアイディアは、この思考が生み出される瞬間のことをよく描写していると思う。色々なものを材料としつつも、それらとは異なる新たな思考が生み出される瞬間をきれいに切り取ることに成功している。

2-2 驚き

僕が、「抱握」を魅力的だと思うのは、少なくとも、それを人間の思考という場面に限定するならば、「抱握」は「驚き」と言い換えることができるように思えるからだ。

「驚き」とは、哲学的思考の場面に限定するならば、タウマゼインのことだ。

過去の記憶や現在の感覚を材料としながらも、全く新しいものが生まれる瞬間が「抱握」であり「驚き」である。有機体の哲学における「新しさ」とは、このことを指していると僕は思う。

だから、正確には、抱握においては、記憶や感覚は材料ではないだろう。それらを組み合わせて何かを創り上げるのではなく、それらに触発されるようにして、全く新しい思考という現実的存在が生まれるのだ。

また、少なくとも思考に限定するならば、パースペクティブに応じて、触発のされ方が限定されるとも言える。僕が目の前のケーキを見て食べたいと思うとき、僕は、ケーキの素材や重さなどではなく、美味しそうな見た目という側面に触発されている。そして、食べたいという思いが、驚きとして僕に訪れていると言える。これが現実的存在の分割可能性ということなのだろう。

このようにして、タウマゼイン的な驚きは、人間の思考のあり方全般に拡張することができる。ホワイトヘッドの抱握には、そのような含意があると思う。そう考えるならば、合生の過程を描写する決断という用語は、驚きというものが持つ、ある種の飛躍性をうまく表しているように思える。

このような解釈は、ハーマンの魅惑に接近しているかもしれない。だが大きな違いは、魅惑の場合、その接触に必然的に失敗するが、抱握はなぜか成功してしまう、または成功されたことになってしまうという点にある。

2-3 退隠

抱握における触発というあり方に注目するならば、だからこそ、現実的存在は持続すると考えることができる。現実的存在は、対象となり、その一面が触発されることはあっても、全体として消費されることはないのだから。

そのことを、この本に教えてもらったもうひとつの重要なアイディアだと思われるハーマンの退隠によって説明することもできると思う。充足し持続している現実的存在は、ある一面が触発の対象となることはあっても、全体としては退隠し、どこまでも捉えられることはない。ホワイトヘッドの現実的存在は、ハーマン的な退隠により、どこまでも消費されないまま持続することができるのだ。

ただし、充足した現実的存在がどこまでも持続するということは確かめられない。なぜなら、現実的存在は抱握し、その一面が触発されることでしか、その存在を確認することはできないのだから。よって、現実的存在が潜在的に持続するというアイディアは、時間を認める限りにおいて認めるべきものなのかもしれない。これは現実的存在が時間に付随するということである。

2-4 入不二さんの時間論

ここまでの話は、入不二さんの時間論と接続することもできると思う。

入不二さんは、『あるようにあり、なるようになる』で、過去・現在・未来がつながっていると考える時間原理Ⅰと、過去/現在と未来の間に断絶があるとする時間原理Ⅱがあるとする。

ホワイトヘッドの抱握は、過去の記憶と現在の感覚から新たな現実的存在を生むものだから時間原理Ⅱにつながる。

充足した現実的存在は、どこまでも退隠し、ただ潜在的に過去・現在・未来を通底している。これは時間原理Ⅰにつながっていると言っていいだろう。

入不二さんによれば、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱが絡み合っているように、抱握と退隠は絡み合っているのではないか。

2-5 神

ここまで、ホワイトヘッドの生成について、抱握と退隠を中心に述べたが、それ以外の、神や範疇的制約や永遠的客体といったホワイトヘッドの道具立ては、余計な不純物なのではないだろうか。いずれも、常識的で科学的な世界、つまりものごとが安定的に時間的に連続して存在する世界を確保するためのものだ。だが、そのようなものなど関係なく、僕たちのこの世界はなぜか、ただ、うまく回っている。それが抱握の力なのではないだろうか。その力を信じるのならば、抱握を驚きと言い換えることはそれほどおかしいことではないように思える。

僕たちは、日々、瞬間ごとに、この世界がうまく回っていることに驚き続けている。そこに何かを付け加えることはできない。その驚きこそが神への驚きであるという表現はできるにしても。

3 マクロの話

3-1 断絶の連続性 通時的断絶から垂直的断絶へ

ここまではミクロの話だったが、飯盛さんは基本的にミクロの部分については、ホワイトヘッドの議論をそのまま受け入れていると言っていいだろう。

だが、そこからマクロの話に移ると、飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論の中で、議論の重み付けを操作することにより、ホワイトヘッドの議論の変形を試みている。いや、これこそが実はホワイトヘッドが言おうとしていたことであり、それを強調しただけだということなのかもしれない。どちらにせよ、飯盛さんがホワイトヘッドの議論から鮮やかにオリジナルなものを取り出しているのは確かだと思う。それは「断絶」だ。

飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論のなかに4つの断絶を見出しているが、そのなかで、特に第2の断絶から、第3の断絶、さらに第4の断絶と進む部分が重要だと思う。

飯盛さんは、第2の断絶を通時的断絶、第3の断絶を垂直的断絶とする。第4の断絶は名付けられていないので便宜的に体系的断絶とする。

ホワイトヘッドは、現在の物理法則に支配されている世界(現在の宇宙時代)が、時間経過により、未来には物理法則が変化し、全く別の物理法則に支配されている世界(未来の宇宙時代)に移行することがありうるとする。これが通時的断絶だ。

さらに大きな断絶として、物理法則が変わるのではなく、ほとんどの物理法則がない、カオスのような世界(根底的社会)との間の断絶があるとする。これが垂直的断絶だ。

飯盛さんは、この二つの断絶を別のものとして考えるが、物理法則の変化と、物理法則の喪失とを同次元で捉えることが許されるのならば、この二つの断絶を同種ものとして捉えることができるのではないだろうか。

例えば、現在の宇宙時代のなかの物理法則のうち、熱に関する法則を変化させるとする。例えばエネルギー保存の法則を変化させ、別のものにすると、世界のあり方は大きく変わるだろう。僕は科学に疎いので、どの程度の変化が生じるのか想像もつかないが、とにかく大きな変化が生じ、別の宇宙時代に突入するような事態が生じるとするならば、これが通時的変化だ。

同じように、熱に関する法則を消滅させるような変化も想定することが可能だろう。そうすると、そこには熱に関する法則というものが存在しない世界、つまり別の宇宙時代が生じる。これも同様に通時的変化だと言うことができるだろう。

同様に、ひとつずつ、自然科学に関する法則を失わせるような変化を積み重ねていくと、徐々に、その世界(宇宙時代)は根底的社会に近づいていく。そして、いつかは根底的社会に到達するに違いない。

このようにして、消滅を変化の一種と捉えるならば、通時的断絶の究極的なかたちとして垂直的断絶があると考えることもできるのではないだろうか。

3-2 断絶の連続性 垂直的断絶から体系的断絶へ

ホワイトヘッドによれば、垂直的断絶の先にある根底的社会とは、純粋な延長の社会である。僕はこれを空間が担保されている世界だと解釈した。それが正しければ、根底的社会には更に時間も必要となるだろう。なぜなら、時間と空間がなければ、複数の現実的存在が抱握するようなホワイトヘッドのミクロな生成論が成立しないからだ。また、この見方はカントの捉え方にも合致しているように思う。根底的社会とは時空のみが成立する場においてカオスが渦巻く世界なのだと考えよう。

それでは、更に、根底的社会から時空をも取り除いたならどうなるだろう。

そのようなことは、少なくとも二つの意味で想定することはできないだろう。まず、時空がなければ、ホワイトヘッドの生成論が成立しなくなり、有機体の哲学という哲学体系を逸脱することになってしまう。また、カント的に言うならば、時間と空間がないような事態を想定することは、超越論的に不可能だということになる。

しかし、ホワイトヘッドの思弁哲学に則るのであれば、そのような事態も想定しなければならない。もし、そのような事態を認めるのならば、そこには有機体の哲学という体系を超えた断絶が生じる。飯盛さんは、そのような断絶こそが第4の断絶であるとする。

以上は、飯盛さんとは別のやり方による第4の断絶、つまり体系的断絶の説明だが、このように説明することで、体系的断絶の別の姿が見えてくるように思える。

飯盛さんは、体系的断絶は、有機体の哲学の体系の外から体系自体を破壊しようとする力だとした。しかし、僕によれば、体系的断絶は、時空のみがある根底的社会から、時空を取り除くという操作により説明可能だ。それは、根底的社会がもう一段深まったに過ぎないとも言える。つまり、通時的断絶から垂直的断絶へと進んできた道筋の一歩先に体系的断絶が位置づけられ、いまだ、それは有機体の哲学の体系に収まっているという捉え方ができる。両方の捉え方に誤りがないとするならば、体系的断絶とは、有機体の哲学という体系の内からも外からも説明ができるようなものなのだ。つまり、そこには完全な断絶を見出すことはできない。

以上を踏まえると、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶は少なくとも存在論的には連続していると考えることができる。

3-3 断絶を可能にするもの

ところで、このようなかたちでの断絶を可能とするものはなんだろうか。

それは、有機体の哲学の体系のなかである限りは、ミクロな生成のプロセスによってでなければならない。なぜなら、有機体の哲学においてそのような断絶を可能とするような道具立ては、生成のプロセスしかないのだから。

だとするならば、僕の場合であれば、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶すべてが、また、飯盛さんの場合でも少なくとも通時的断絶と垂直的断絶については、抱握による生成のプロセスにより生じるということになる。

つまり、法則が変化し、失われるというような大きな変化さえ、抱握によってしかもたらされることはない。抱握は、それほどまでに大きな力を持っている。逆に言えば、過去と現在のすべてに触発され、そこから全く新しいものを生み出すものである抱握は、その抱握のあり方によっては、法則の喪失さえもたらす。抱握の新しさは、そのような飛躍をも含むものであり、そのことを強調するためにもそれは驚きと名付けるほうが適切なように思える。

そして、僕の捉え方によるならば、抱握が法則の喪失に向かって進むうちに、ついに、その最終段階では、現実的存在は、抱握により、カオス的な根底的社会から時空も失われたブラックホールにまで至ることができるのだ。到達する瞬間に、ホワイトヘッドの有機体の哲学体系全体とともに破壊されるとしても。

ここまでは、いわば、法則を失い、階層を下る道筋だったが、抱握による生成のプロセスを通じて、現実的存在は階層の上昇も可能だろう。

全く熱に関する法則が存在しない世界(宇宙時代)において、抱握により、新たに熱に関する法則がある世界(別の宇宙時代)に飛躍することはできる。そのようにして、根源的社会から、この常識的な法則が支配する宇宙時代にまで到達することは可能であるはずだ。

更には、僕の捉え方によるならば、時空が存在しないブラックホール、飯盛さんが実在の深みと呼ぶものから、抱握により、時空を持った根源的社会が生まれることさえも検討しなければならない。

さきほど抱握という生成のプロセスのためには最低でも時空が必要だとしたとおり、この点は慎重な検討が必要だと思う。だが、断絶の源となるブラックホールまたは実在の深みが「場のようなものとして在る」と考えるならば、そこからの生成のプロセスは避けられないように思える。場のような静的なものだとするならば、そこには空間性のようなものが認められるし、「在る」ということは「ない」との対比が可能であり、そこにはある種の時間経過が読み込めてしまうからだ。

もし、それを避けるならば、僕が考えた、法則の喪失というかたちでたどり着くブラックホールとは違うものとしてのブラックホールを想定せねばならず、その二つのブラックホールの違いについて説明する責任が生じるだろう。

多分、入不二さんであれば、それは、場のようなものではなくて破壊の力だとするのだろうが、法則の喪失によりたどり着く場のようなものしてのブラックホールと、破壊の力の発生点としてのブラックホールの関係性が、今の僕には捉えられない。

とりあえず、入不二さんの破壊の力を考慮外とするならば、有機体の哲学の抱握の力は、ブラックホールのような実在の深みにまで及び、すべてを連続させているのだ。

3-4 断絶側の反撃

当然、断絶側は、このような、抱握の力を最大限に引き出した連続側の攻勢に反撃を試みるだろう。そこで用いられる最も有効な武器は、退隠となるに違いない。

退隠により、別の宇宙時代として把握されることから逃れ、根源的社会として把握されることから逃れ、ブラックホールとして把握されることから逃れようとする。

この退隠はほぼ成功するだろう。なぜなら、抱握は、過去と現在としてすでに手元にあるものしか持ち駒にできないからだ。手元にない別の宇宙時代や根源的社会や実在の深みというブラックホール自体を抱握することはできない。

しかし抱握は、全く新しいものを生むことができるのだ。なぜか新しく抱握されてしまったなら、別の宇宙時代や根源的社会やブラックホールは、連続から退隠することはできない。

なぜか抱握が成功した地点から振り返れば、すべては連続しているしかないのだ。このようにして断絶側は敗北する運命にある。

それは、言ってしまえば、いったん有機体の哲学が描かれてしまったあとでは、それを否定することはできないということでもある。

だから、断絶側が勝利するためには、有機体の哲学が描かれる前に遡らなければならない。初発の生成が生じる前、初めての抱握が始まる前にしか、真の断絶を見出すことはできない。

これが、入不二さんが言う、無関係ということの意義なのだろうと僕は思う。

3-5 4つのベクトル

ここまでも、それほど確信はない思いつきなのだけれど、ここから更に怪しい話をする。

ここまで見出した力またはベクトルは4つある。

連続を重視するホワイトヘッドにおける抱握とは、過去と現在を束ね、そして新しいものを生み出すプロセスであった。そこには、束ねるというベクトルと、新しいものを生み出すというベクトルがある。

また、断絶側の武器としては、ハーマンの退隠がある。これはどこまでも逃れようとするベクトルである。加えて断絶側には入不二さんの破壊というベクトルがある。

連続側を白、断絶側を黒とするならば、白いベクトル2つと黒いベクトル2つがあると言える。

さらにこれらは2つの対にまとめることもできるだろう。白い束ねるベクトルと黒い退隠するベクトルという対、そして、白い生成のベクトルと黒い破壊のベクトルという対だ。

ホワイトヘッドは、有機体の哲学という体系を白い2つのベクトルのみをうまく組み合わせて描ききったのだろう。ただホワイトヘッドは黒いベクトルの力も無視しておらず、2つの黒いベクトルについては、神による充足した現実的存在の確保というかたちで無化していると言える。または、ゆるやかな宇宙的時間経過での変化というかたちで去勢したとも言えるかもしれない。

だとするならば、思弁哲学的には、全く別なかたちで、逆に、黒いベクトルが優位の哲学体系を描くことも可能だろう。しかし、一旦静的な体系として描いてしまえば、そこには連続性のある構造が含まれ、白いベクトルが優位にならざるを得ないので、図示できるような体系ではない、別の描き方が求められるように思う。

その闇の哲学がどのようなものになるのかは僕にはわからないが、ハーマンの退隠における、退隠した実体が時にマグマのように噴出することがありうる、という話は入不二さんの破壊の力と結び付けられるような気がする。また、消極的抱握から、完全な忘却につなげるような議論もできそうにも思う。

4 特異点の場所

対談において、入不二さんは、永井ファンでもある飯盛さんに向かって、永井さんやスピノザが見出したような特異点はどこにあるのか、と聞いていた。

ホワイトヘッドは同質・複数の「多」でどこまでいけるかを考えた哲学者であり、また永井ファンでもないので、そんなものはないと答えるだろう。飯盛さんだって、あくまでホワイトヘッドの枠内でオリジナリティを求めたのだから、そんなものがある訳がないように思う。

しかし、ここまで抱握について強調して述べてくると、どうもホワイトヘッドの抱握こそが特異点であるように思えてくる。

当然、抱握とは、世の中の出来事の数だけあるし、抱握により生じる現実的存在も様々だし、全く特異点的なものではないようにも思える。

しかし、考えてみれば、抱握により生じる現実的存在は様々だが、過去と現在のすべてを束ねて新しいものを生むという抱握のプロセスはひとつしかない。全く同一であるプロセスが多数あるということは、そこに特異さがあるという兆しではないのか。なぜなら、全く同じものが複数あるということは、それらをすべて合わせてひとつの群れとして捉えるか、唯一のものが複数のものとして現れていると捉えることが妥当だろうからだ。そう考えると、抱握を特異点と呼べるようにも思える。

もうひとつの特異点の候補を考えるにあたっては、ホワイトヘッドの哲学が思弁哲学であるというところに注目したい。ホワイトヘッドは、思弁哲学として、経験を十全に取り込んだ、論理的で整合的な体系を構築しようとした。飯盛さんによれば、その方針は非常に強力なものであり、その哲学の内容、つまり有機体の哲学の破壊をも許容するものであった。では、なぜこのような思弁哲学をホワイトヘッドが求めるのかというと、そこには何も理由はないはずだ。そこにあるのはホワイトヘッドの好みやこだわりでしかないだろう。

どこまでも「多」を追求したホワイトヘッドだが、ここで「一」個人としてのホワイトヘッドが登場してしまっている。つまり、思弁哲学という方針を定めた者であるホワイトヘッドこそが特異点なのではないだろうか。

5 有機体の哲学と思弁哲学の関係

ところで、飯盛さんは有機体の哲学と思弁哲学とは分けて捉えることができるとした。それが第4の断絶に続くという点で、まさに、この本の議論の山場だと思う。僕はその議論がとても面白いと思ったし、ここまでその線で論じてきた。

しかし改めて考えてみると、果たして本当にそうなのだろうか。

過去と現在のすべてを取り込もうとする抱握と、日記のようなものもふくめた知的営みをすべて取り込もうとする思弁哲学とには、強い関係性があるのではないだろうか。

この二つを対比してみると、思弁哲学自体が抱握というあり方をしており、また、抱握こそが思弁哲学の理想を具現化したものであると考えることもできるように思える。

そこには必然とでも言うべき関係性があるようにも思える。

そうだとするならば、ハーマンが自らの哲学を思弁哲学的に語るということはありえないということになる。思弁哲学においては、思弁哲学のような哲学が語られなければならず、有機体の哲学は、有機体の哲学のように語られなければならないのかもしれない。哲学の方法と哲学の内容は一致していなければならないのだろうか。