哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

そばにいる

※『無目的のパーティー』の補足的な追記です。3000字くらいです。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

このマンガについては、もう3つも文章を書いたのでおしまいにしようと思ったけれど、ちょっと書き足りないことがあるので、追加で書くことにする。とは言っても、さすがに多分このマンガは登場しない。この文章は、あくまで『無目的のパーティー』という僕の文章(http://dialogue.135.jp/2022/11/16/mumokuteki/)の続きになるはずである。

僕は、『無目的のパーティー』で「そばにいる」という人間関係の重要性について述べた。

この気付きの重要さは、僕にとっては結構大きいことなので、そのことを強調しておきたい。

何度も同じ話になるけれど、僕は高校2年生のとき、僕のことを理解してくれて、僕の問題に答えを出してくれそうな人を好きになった。だけど僕の願いは叶えられなかった。

そのことと僕が哲学をしていることは結構重なっている。僕は彼女に求めて叶わなかったことを一人でやろうとしているのだ。僕は仕方ないから一人で僕自身のことを理解し、僕の問題に自分で答えを出そうとしている。高校時代以降、断続的ではあるけれど、僕はそのことに必死で取り組んできて、僕の人生のかなりの部分をそのことに費やしている。だから、友人関係についても、そのような視点で捉えてしまっている。つまり僕は、僕の哲学にその友人が役に立つかどうかという視点でその友人を評価している。当然、そう簡単に役立つ人などいないから、僕は友人というもの全般に対する評価が低い。ちょっとひどい言い方だけど、誇張して言うと、僕はそのようにして生きてきたのである。

(あくまでも誇張で、僕は友人について、趣味が合うかどうかとか、話が面白いかどうか、といったことも気にしてます。だけど、そのような事情で、友人関係全般に対する優先順位が低いのは事実です。)

だけど当然、こんなやり方はどこか無理があるので、僕自身、それでいいのかずっと心のどこかで引っかかってきた。そのひっかかりが『氷の城壁』をきっかけとして言語化できた。これが僕にとっての『無目的のパーティー』という文章の重要性である。

ようやく僕は、友人とは僕の哲学に直接役立たないからといって価値を減ずるものではないと気づいたのだ。いわば、哲学至上主義であったのを、軌道修正し、世の中の人間関係と折り合いをつけることにした、というのが『無目的のパーティー』での結論だったことになる。

では折り合いをつけるとして、具体的に僕はどのように人間関係を構築すればいいのか、という問題についての回答の指針が、この「そばにいる」である。つまり、あんまりあれこれ悩まず、ただ、そばにいればいいのである。

これまで僕は、僕自身がそうだから、周囲の人も、僕に何かメリットがなければ、僕を友人としないだろうと思っていた。僕を友人として選ぶのは、話が面白かったり、趣味が合ったりという長所が僕にあるからなのだろうと思っていた。だから、なるべく、長所がある人間になろうと心がけてきた。そして、多分、ある程度までそういう人間になることができたと思う。

だけど、実はそういうことは、まあトッピング的にはあった方がいい程度のもので、本質的には、友人関係というのは、ただ「そばにいる」だけでいい関係なのだ。

「そばにいる」それだけで、友人は僕の力になるし、「そばにいる」それだけで、僕は友人の力になることができる。一緒にいれば、それだけで互いの力になり、僕はその力を借りて、僕自身の幸せを掴み、そして、僕自身が成長することもできる。それは友人のほうも同じことで、僕が具体的な役に立たなくても、僕がそばにいるだけで、友人の力になることができるのだ。

そう言い切ってしまうと、どこかきれいごとのように思えるけれど、少なくとも友人関係の一側面としては、確かにこのような面があるはずなのだ。

そして、この、ただ「そばにいる」という姿勢は、僕の対話の哲学とも大いに重なる。僕は以前、哲学カフェにおける言明の二つの特徴として、継続性と誠実性というものがあると論じた。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

そして、更には、哲学カフェの言明にはそれしか要らないとも論じている。(http://dialogue.135.jp/2021/05/16/hairyo/

この「そばにいる」という友人関係は、まさに友人関係には、継続性と誠実性しか要らないということを示しているのではないだろうか。

友人とそばにいるということは、友人であり続ける限り、継続的に寄り添い続けるということを含意しているだろう。友人が役に立つからではなく、また、友人が善良だからでもなく、友人であるということそれだけで、僕は寄り添い続けるのである。「君がどんな人でも、どんなことがあっても、友人でいる限り、無条件にずっと寄り添い続けるよ。」というのが、「そばにいる」ということだろう。そして、そう言ったからには、嘘はつかず、実際にそばにいるという誠実性も必要である。つまり、友人関係の成立のために必要な継続性と誠実性を示す言葉が「そばにいる」なのである。

「そばにいる」とは、当たり前すぎて内容がない空っぽの言葉である。友人であるなら、物理的にはともかく精神的に「そばにいる」ことは当たり前で、もしそばにいなかったら友人ではなくなってしまうだろう。もし、友人なのに、友人でない他人よりも精神的な距離が遠かったら、それは友人ではないように思える。精神的な距離の近さを誠実に継続することだけが、友情を友情として成立させるための最低条件なのである。

だから、「そばにいる」という言葉は何か新たに重要なことを言っている訳ではない。話は逆で、「そばにいる」という言葉が重要なのは、他に何も付け加わっていないからなのである。話題の面白さや趣味の一致はあくまでオプションであり、友情の一丁目一番地は、精神的な距離の近さであり、そして、その誠実な継続なのだということを、「そばにいる」という言葉は表しているのだ。

そして、哲学カフェにおける言明、つまり対話と友情には、継続性と誠実性という共通点がある。その共通点から類推して少々踏み込むならば、友情と対話は明らかに密接に関係している。対話の成立のために友情が必要かどうかはともかく、友情の成立のためには対話が大いに役立つことは確かだろう。

もう『氷の城壁』の話は出さないつもりだったけど、『氷の城壁の魅力』(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)のネタバレの魅力5-1として取り上げたとおり、このマンガでも対話を重視するセリフがある。(皆さんに読んでほしいから詳細は書きません。)これは文脈としては恋愛における対話の重要性についてのセリフだけど、このマンガにおける恋愛は、友情の発展形だと言っていいから、これは、友情における対話の重要性を示している一例であると言ってもいいだろう。

僕は、これまで友情については色々とこじらせてきたけれど、「そばにいる」だけでいいと思うと少し肩の荷が軽くなる。更に、僕がこれまで取り組んできた「対話」という得意分野を活用できそうだと考えると見通しも明るくなってくる。

僕は人並みのことに気づくのにかなりの時間をかけてしまったけれど、残りの人生でもう少し頑張ってみたいと思う。

無目的のパーティー

※『氷の城壁』感想文シリーズ第3弾。ちょっと哲学濃度あり。14000字以上あります。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

さらに僕は、このマンガをきっかけにして、ぼくの子ども時代のことまで振り返った文章まで書いてしまった。(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/kodomo/

この文章で僕は、僕の中にまだ解消できていない子どもの頃の問題があって、それに正面に向き合いたい、という宣言をして終わった。これを書いたときは、こんなにすぐ、続きが書けるとは思っていなかったけれど、この文章を書いた翌日、ふと思いついたことがあって、それがとても重要そうな予感があったから、続きを書いてみることにした。

1 一緒に内面を成長できるような人とのつながり

僕の中にある解消されていない問題とは、同時並行で書いたもう一つの文章(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)に基づくなら、僕には『氷の城壁』の登場人物のように、一緒に内面を成長できるような人とのつながりがなかった、という問題である。

だけど、この「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という言葉は、このマンガを読むことを通じて、初めて言語化できたもので、それまではきちんと捉えることができていなかった。

たしかに僕は「人とのつながり」が欲しかった。だけど、中高生の頃の語彙力によるならば、僕の願いは、「クラスの中心人物の取り巻き」になりたかった、というものだ。クラスのすみっこにいた僕はクラスの中心人物とまではいかなくても、その周囲で楽しそうにしているくらいのポジションの人になりたかった。彼らのことを、普通で、人並みでいいなあ、と憧れていた。当時の僕は、人並みで普通なかたちでの人とのつながりが欲しいと思っていた。

もしくは、もうひとつ、当時の僕が憧れていた人間関係がある。それは高校2年生の頃好きになった女の子に対する思いである。僕は彼女に僕のことを理解してほしかった。色々考えている僕のことを見つけてほしかった。この、「僕のことを理解してくれる人」というのも当時の僕の語彙力で表現できる限りでの、当時の僕が求めていた人間関係である。

それにしても、「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とは程遠い。この程遠さが、僕の失敗の原因なのだろう。僕は僕が何を求めているのかを把握していなかったのだ。いや、ざっくりとは把握できていたのだけど、あまりにも理解の解像度が低くて、僕自身が求めていたはずのものを明確に捉えることができていなかったのだ。

僕が「クラスの中心人物の取り巻き」という表現に込めているのは、人並みになりたい、普通になりたい、という思いである。中高生の頃の僕は成長のスピードが遅くて、周囲の人についていけていなかった。だから僕より一足先に成長している、普通の人達が羨ましくて、そこを目標としていたのだ。

だけど、クラスのすみっこからクラスの中心を眺めて、その形だけを真似てもうまくいく訳がない。(今考えてみると、そもそも「クラスの中心人物の取り巻き」にいる人が僕より一歩先に成長している人かどうか怪しいけれど)彼らのように成長するためには、彼らに憧れるのではなくて僕自身が成長しなければならない。僕は形さえ真似れば内面も伴うのではないかと勘違いしていたのだ。

もうひとつの「僕のことを理解してくれる人」というのもまずい。この問題については当時、失恋して随分考察したけれど、僕のことを多少理解してくれる人はいても、完全に理解してくれる人などいる訳がない。理解してくれる人を求める限り、一部でも理解してくれていないと気づいたとたん、僕は傷つく。そして、やっぱり「僕のことを理解してくれる人」ではなかったのだ、と失望するのは必然である。

ただし、「クラスの中心人物の取り巻き」とは違って、万が一、「僕のことを理解してくれる人」がいたら、その人が僕の内面の成長にあたっては役に立つのは確かだろう。僕の内面の問題まで理解してくれれば、適切にアドバイスをしてくれたり、もしかしたら僕が導くべき答えまでおしえてくれるかもしれない。まるで学校の先生のように、または、テストの模範解答のように。

僕は、僕の内面の成長にあたっても、学校のテストと同様に、誰かが答えを用意してくれていると心のどこかで思っていた。僕のように駄目な人間より、遥かに優れた人間が世の中にはいくらでもいて、その人なら僕が知らない答えを知っているに違いないと思っていた。

このように考えてみると、僕が当時考えていたことは当たらずとも遠からずだ。「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、僕が実は求めていた「内面の成長」と多少は関係があるということだからだ。僕は僕なりに、内面を成長することが必要だと気づいていて、そして、そのためには人とのつながりが役に立つとも気がついていた。だけど惜しいことに、ちょっとずれていたのだ。

2 先送りのツケ

問題は、僕が中高生の頃、そのように考えてしまったことではなく、その間違いにずっと気付かず、今まで問題を先送りしてしまったことにある。僕は、大人になってからの長い間、中学高校時代の僕から目を背け続けてきてしまった。高校はともかく、僕の中学時代は明らかに黒歴史だ。だからそれを直視したくないのは当たり前とも言える。だけど、それにしても僕はその後、大学受験に成功してしまったり、哲学にハマってしまったりして、中高生の頃の問題に正面から向き合うタイミングを逸してしまった。そうこうするうちに処世術も身につけ、なんとなく、問題を上書きして、ないものにしてしまった。本当は向き合って解決しなくてはならなかった問題を、うやむやなまま先送りしてしまったのだ。

明らかに今、その弊害が出ている。僕の人間関係には、決定的に何かが欠落している。そのことには以前から心のどこかで気づいていて、僕は問題解決の方策を模索していた。だけど、うまい解決方法が見つからないどころか、何が問題なのかさえ掴みかねていた。

そんなタイミングで僕は『氷の城壁』を読んだ。このマンガは、僕の心に蓄積していたヘドロのようなものを溶かして、覆い隠されていた中高生の頃の問題を顕わにしてくれた。今の僕の問題は、目を背け続けてきた過去にこそ本当の起源があったのだ。

僕は「対話の哲学」なんていうブログをやっているくらいだから、対話的だと思う。対話とはつまり、他者を認めるということであり、そして自分を認めることでもある。自分を認めるとは、今の自分を認めるということであり、未来の自分の可能性を認めるということであり、過去の自分のことも肯定してあげるということでもある。

だけど僕は、過去の自分のことを抽象的なかたちで認めはしたけれど、きちんと、過去の自分に向き合ってこなかったのだろう。僕は、前に進むべきという未来志向を言い訳にして、過去に蓋をして生きてきてしまったように思う。僕は、前にすすむために辛かった過去など忘れてしまおうと決心し、そして実際、ある程度まで忘れてしまった。だけど、それでは本当の意味で前に進むことはできなかったのだ。

今ならば、僕の心の奥底で呟く中高生の頃の僕の声が聞こえる。「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」が欲しいとあの頃の僕が呟いている。大人になった僕は、これまで培った知見を生かして、その声に応えてあげたい。あの頃の僕に「こうすればいいんだよ。」と道を示してあげたい。なぜそうしたいかといえば、その道こそが、これから、この大人になった今の僕が、これから進むべき道に違いないからだ。これは今の僕の問題である。

3 僕が人間関係について考えていたこと

では、具体的にはどうすれば「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」などというものが手に入れられるのだろうか。

いや、そもそも、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とはなんだろうか。『氷の城壁』を読んだ人には、その答えは、こゆんちゃんとミナトくんと美姫ちゃんとヨータくんの関係のことだよ、と言いたいところだ。だが、そうではなくて、僕が彼らの関係のなかのどこに、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という関係性を読み取ったのか、という問題である。

このことを考える前に、『氷の城壁』を読む前の僕が人間関係についてどのように考えていたのか整理してみたい。(自分が何を考えていたのかなんて、整理しなくてもわかりそうなものだけど、経験上、意外とわかっていない。哲学カフェでやっていることの半分くらいはこんなことだと思う。)

僕はまず、人間関係について、友人関係と、恋愛関係や血縁関係の二種類に峻別していたように思う。そのうえで、恋愛関係や血縁関係は無償のもので、友人関係は利益でつながるものだと考えていたように思う。いや、そのように明確に区分していた訳ではなく、これまで断片的に考えてきたことを組み合わせると、そのように考えていたように思える、ということである。

僕にとっての好ましい友人とは、趣味が合ったり、話が合ったりする人だ。一緒にスキーに行ったり、共通の話題で盛り上がったりする人は、いい友人だと思う。付き合いが長い友人は好ましい友人になりがちだけど、それは過去の共通の想い出があって話が合うからなのだろう。そういう広い意味も含めて、僕は友人とは利益でつながる関係だと思っている。つまり一緒にいると楽しい時間を過ごせるという利益でつながった関係である。

僕は男性の友人よりも女性の友人のほうが好きな傾向にあるのだけど、それはきっと、かわいい女の子といると楽しい、あわよくば何か性的な意味でのいいことがあるかもしれない、という利益が僕の心の中のどこかにあるからなのだろう。(そんなことを四六時中思っている訳ではないので安心してください。)子どもの頃、男子グループの中に溶け込めず、いじめられたりもしたから苦手意識があるから、という事情もあるけれど、それを割り引いても、僕は女性と一緒にいたほうが楽しい。これもひとつの利益である。

また、僕が考える利益の最たるものは、高校2年生の僕が望んだ、僕のことを理解してもらう、というものだろう。僕のことを理解してくれるというのは、多分、他者から与えられうる最大の利益である。当然、そんなものを手に入れることは不可能に近いのだけど。

だから、友人といるより独りでいたほうが楽しい時間を過ごしたりできて利益があると思えば、友人とは会わない。僕は独りで家にいて、こんな文章を書いたりすることが結構好きだから、あんまり友人とは会わないで休日を過ごしている。

一方で、恋愛関係や血縁関係はそうではない。まず血縁関係は、外的に決められたことで、そこには責任がある。親や子どもと話していても、楽しさのような利益はありえるし、実際あるけれど、もし利益が全くなくても、僕には親や子どもとつながる責任がある。また、恋愛関係のほうは血縁関係とは事情が違って、恋愛には、何らかの利益が必ずつきまとうけれど、決して、利益があるから、その人とつながりたい訳ではない。恋愛には、肉体関係という性的な利益があるからなかなか見えにくいけれど、利益があるから恋愛をする訳ではないことは確かだ。恋愛と利益は密接に結びついてはいるけれど、利益はあくまで恋愛の副産物であり、利益があるから成立する友人関係とは大きく異なる。

4 そばにいてほしい

ここまでは、なんとなく、今まで考えてきたことだ。これまで、きちんと整理し、言語化することはなかったけれど、どこかで僕が意識的に考えてきたことだ。

だけど、書いていて、ふと疑問に思った。そばにいてほしい、という思いはどうなのだろう。つらいとき、独りではなく友人がそばにいたら嬉しい。(独りになりたいときもあるから、正確には「友人がそばにいたら嬉しいときもある」かな。)スタンド・バイ・ミーという曲もあるくらいだし、このような思いは普遍的だろう。では、この「そばにいてほしい」という思いは、利益を求める願いなのだろうか。

なぜこれが疑問なのかといえば、この「そばにいてほしい」という願いは恋愛そのものであるように思えるからだ。他の人にとってどうかはよくわからないけれど、僕には「そばにいてほしい」という言葉は、恋愛のほとんどを言い表しているように思える。遠距離恋愛もあるけれど、精神的な距離も含めるならば、恋愛のときの心情を表すのは「そばにいてほしい」という言葉だろう。少なくとも、「かわいい」とか「抱きたい」よりは恋愛の本質に届いた言葉だと思う。

だから、もし「そばにいる」というのが利益なのだとしたら、恋愛関係と友人関係との違いはなくなってしまう。まあ、違いがなくてもいいのだけど、そうすると、僕のこれまでの人間関係についての考え方が間違っていたということになってしまう。これは僕にとっては大問題だ。

なお、僕が「そばにいる」ことへの思いが重要だと気づけたのは、『氷の城壁』を読んだからだろう。『氷の城壁』の主要登場人物は互いに「そばにいる」。ミナトくんが悩んでいるとき、こゆんちゃんは、その悩みに答えを与えて、直接、問題を解決してあげているのではない。まあ、いいことを言ったりもしているのだけど、ミナトくんが悩みを乗り越えられたのは、きっと、こゆんちゃんが「そばにいてくれた」からだ。(ミナトくんに感情移入すると)君がそばにいてくれたからこそ、僕は悩みを乗り越えることができたのだ。同様のことは他の登場人物との関係でも言える。彼らは4人で互いにそばにいたから、壁を乗り越え、成長することができた。この「そばにいる関係」こそが、『氷の城壁』を通じて僕が気づき、そして僕が中高生の頃に求めていたはずの「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」なのではないだろうか。

という訳で、「そばにいてほしい」という思いは僕にとって重要すぎて、友情と恋愛をも飲み込み、両者の違いを無化してしまいそうなほどだけど、そこに更に踏み込む前に、ちょっと別の話をしてみたい。

5 無目的のパーティー

さて、僕がこの文章を書こうと思ったのは、「パーティー」という言葉を思いついたからだ。祝賀会などのパーティーではなく、ロールプレイングゲームなどでのパーティーのほうである。ふと、僕が中高生の頃に求めていた人間関係とは、「パーティー」なのではないかと思いついたのだ。

僕はクラスの中心人物やその取り巻きに憧れていた。けれど、では、そうなりたいかというと、、よく考えてみると、そうでもない。もし、中高生の僕がクラスの中心人物にメンバーに入るよう誘われたら、「無理!」と答えていただろう。オタクな僕ではドラマの話や誰かの噂話などの話題に合わせるのが技術的に無理ということもあるけれど、そもそも、そんなことに時間を使いたくないからだ。興味がない話題に付き合い、時間をかけることで、いじめられなくなったり、かわいい女の子と仲良くなれるというのはメリットだけど、別にドラマの話や噂話をしたい訳ではない。興味がない話に嫌々付き合っていても、きっとうまくいかないだろう。そのような意味で無理なのだ。

僕に合っているのは、ロールプレイングゲームでのパーティーのような人間関係だ。君は戦士で、あなたは魔法使いで、僕は盗賊で、力を合わせてダンジョンを攻略しようぜ、という感じ。ダンジョン攻略という共通目的があるから、別にドラマの話に話題を合わせなくてもいい。ダンジョンを歩いている間は、面白い話をせずに黙っていても、僕がイケメンじゃなくても、盗賊のスキルを活かして周囲を警戒していさえいれば、それで問題ない。僕は心穏やかにパーティーとしての人間関係を構築することができる。

だけど、パーティーにも問題はある。パーティーにはダンジョン攻略という目的があるけれど、そのような目的を共有した組織に所属したいかというと、それも嫌だからだ。僕は何十年も、パーティーに似たものである会社という組織に所属してきたけれど、その人間関係がいいとは思えないからだ。会社には、できるだけ金を稼ぐというような目的があり、その目的のために僕たちメンバーは働いているけれど、そもそも、会社のために金を稼ぐという目的が魅力的ではないから、その目的のために貢献する人間関係が好きにはなれない。同様に、ダンジョン攻略という目的が魅力的でなければ、冒険者のパーティーにも魅力がない。

そして、僕には、他の誰かと共有できるような魅力的な目的がないから、パーティーを組むことができない。僕にとっての魅力ある目的とは、例えば、この世界の存在の謎を解き明かしたい、といった浮世離れしたものだから、そんな目的を共有してくれる人などいない。宇宙科学などのアカデミックな分野になら対象者が居そうだけど、僕の興味は科学の枠内に収まらないから駄目だ。さすがに哲学者なら対象になるのではとも思ったけれど、今まで調べた限り、哲学にも色々と違いがあるから、僕と目的を共有できそうな人は見つけられていない。多分、僕は変人だから、そういう目的の共有が難しいのだ。

こうして僕は袋小路に陥っている。もし、僕が変人じゃなかったら、きっと、喜んでドラマの話やら隣のクラスの誰かの噂話をしてクラスの中心人物の取り巻きになれただろう。また、もし、僕が変人じゃなかったら、会社人間になって、弊社の組織目標を理解し目標達成に向けて邁進することまではできなくても、科学者としてアカデミックな人間関係のなかで、ともに力を合わせて宇宙の謎を解き明かそうとすることくらいはできたかもしれない。僕自身のコミュ力や理数系の能力はさておき、そのような可能性はあったはずだ。だけど、僕は変人だから、そのどちらもできない。

僕が心から欲しているのは、無目的のパーティーなのだろう。ダンジョン攻略も魔王討伐も目指さないパーティーなんて矛盾しているけれど、その矛盾したものを僕は欲しているのだ。

ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという言葉がある。ゲゼルシャフトとは会社のような目的を持った組織のことで、会社や冒険者パーティーなどが該当する。ゲマインシャフトとは地縁や血縁などによって成立している無目的な組織のことで、田舎の村社会や家族関係などが該当する。僕が欲している無目的のパーティーとは、つまり無目的なゲゼルシャフトということであり、その言葉からして矛盾しているのは明らかだろう。

社会学的にどうかは知らないけれど、僕は、学校のクラスもゲマインシャフト的だと思う。なぜならクラスのメンバーに共通する目標などないからだ。理想的には皆で知識を身につけましょう、という目的があるのかもしれないけれど、実態としては、そのような集団ではない。つまり、僕が学校の中心人物の取り巻きになりたいと思ったのは、村八分ではなく、ゲマインシャフトのメンバーになりたい、ということであり、だけど、無理!と思ってしまったのは、僕は変人だからその資格がないと思ったからである。僕のような者には農村社会のようなゲマインシャフトは無理なのだ。

では、都会に出て、会社のようなゲゼルシャフトに加入すればいいかというと、僕は変人だから、その組織の目的に賛同することもできない。探しても探しても、僕が賛同したくなるような組織を見つけることができない。

僕が感じている袋小路感とは、そのような感覚である。そして、その袋小路を抜け出る道筋として僕が思いついたのが目的のないゲゼルシャフトである。単に田舎に戻ってゲマインシャフトに加入するのではなく、新たに、この都会で目的のないゲゼルシャフトを創り上げる。それが僕が進むべき道なのではないだろうか。

6 ともに幸せになること

そして、『氷の城壁』における登場人物の4人がつくりあげている組織も、目的のないゲゼルシャフトである。先程述べた通り学校のクラスというのは単なるゲマインシャフトだけど、彼ら4人の組織には、単なるクラスメイトには留まらない、秘められた目的がある。このマンガは恋愛マンガだから、恋愛に覆い隠されてわかりにくいけれど、彼らに共通する目的は、内輪で恋愛模様を繰り広げることでは、決してない。彼らのなかには、言葉にはならない、秘められた共通の目的がある。

その共通の目的を、あえて僕の言葉で表現するならば、「ともに幸せになること」である。彼らは、ともに幸せになるという目的を目指して結成された組織なのではないだろうか。当然、そんな宣言などしておらず、多分、4人揃ってはそのような目的の確認すらしていないだろう。だけど、僕には、彼らの間にそのような暗黙の共通認識があるように思えてならない。

なお、「ともに幸せになること」という表現に違和感がある方もいると思う。僕も、「幸せ」という言葉は多義的なので、僕が伝えたいことをうまく伝えきれていないとも思う。だから、言い換えるならば、「一緒に内面を成長させること」でもいい。この方が、これまでの僕の言葉遣いに近いかもしれない。全く違う言い回しだけど、同じことを伝えようとしているつもりだ。

そのような言葉にしにくい何かを目指す組織こそが、無目的なゲゼルシャフト、または無目的なパーティーという言葉で僕が表現したかったものだ。目的がないのではなく、言葉にできない目的があるのだけど、それをうまく捉えることが難しいから、無目的のように見えるだけなのである。

僕はどこかにあるかもしれない、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーに加入するか、なければ自分で誰かと創り上げたい。

7 スタンド・バイ・ユー

では、僕が目指すものがわかったところで、僕は具体的にどうすればいいのだろうか。どうすれば僕は言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーを創り上げることができるのだろうか。

そのヒントになるのが、先ほどの「そばにいてほしい」という言葉なのではないだろうか。メンバー間で互いに「そばにいてほしい」と願ったとき、それが引力となり組織が形成される。そして、なぜ「そばにいてほしい」のかといえば、その人がそばにいることが幸せだからである。「そばにいてほしい」という願いにより形成された組織こそが、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーなのではないだろうか。

だけど、それだけでは足りない。互いに「そばにいてほしい」と願うだけでは一方通行で、そばにいるという状況にはならない。ミナトくんが風邪をひいて、「そばにいてほしい」と願ったとき、こゆんちゃんが哲学の文章を書くのに一生懸命で「そばにいたい」と思わなかったら、「そばにいてほしい」という思いは叶わない。また、ミナトくんの願いを渋々聞き入れてそばにいても、それは、哲学の文章を書くのを諦めたこゆんちゃんの幸せにはならない。無目的のパーティーにおいて、暗黙の「ともに幸せになる」という目的が叶うためには、「そばにいてほしい」だけではなく「そばにいたい」も必要なのである。

というか、「そばにいてほしい」なんていうのは、風邪をひいていたり、ちょっと弱気になったり、孤独を感じたりすれば、かなり容易に思えることだから、本当に必要なのは、「そばにいたい」のほうだと行った方がいいだろう。スタンド・バイ・ミーと歌うのはとても当たり前のことで、まあ、当たり前すぎるほど普遍的なことだから、あれだけ有名な曲になったけれど、本当に必要なのは、スタンド・バイ・ユーなのではないだろうか。(と思って調べてみたら、Official髭男dismに『Stand By You』という曲があって、同名のファンクラブまであるんですね。)

ただ「そばにいたい」と願うことは難しい。一緒に趣味を楽しめるから、楽しく雑談ができるからといった具体的なメリットがなくても、ただそばにいたいと願わなければならない。あえて言えば、一緒に幸せになれて、または、一緒に内面を成長させることができるから「そばにいたい」のである。そんな漠然としたことのために、あえて自分の時間を割いて「そばにいたい」と思うことは僕には難しい。僕にはそんなふうに思える友人なんているのだろうか。そんなのはマンガの中だけの話ではないだろうか。

そんなふうに考えていて、一人だけ思いついた人がいる。恥ずかしいので一度だけ言うと、それは僕の奥さんである。僕は彼女と出会い、本気で付き合うと決めたとき、この人と一緒に色んなことを経験し、時には嫌なことがあっても一緒に乗り越えていきたいと思った。実際、そのようにできているかは甚だ怪しいけれど、あのとき僕が抱いたのは、ただ「そばにいたい」という感情だった。それは、一緒に幸せになって、一緒に内面を成長させていきたいと思った、と表現し直してもいい感情だ。だから、もし奥さんも同じように思っていたなら、僕はすでに夫婦で無目的のパーティーを結成しているのかもしれない。

8 友人問題

ここで話を終えてしまったら、単なるノロケ話になってしまう。まあ今日はちょうど結婚記念日なのでそれでもいいけれど、もう少し考えを進めてみたい。

とりあえず、僕は幸運なことに、夫婦で無目的のパーティーを結成できているとしよう。だけど、僕が更に他の人にも、無目的のパーティーを拡げていくことはできないのだろうか。これは、少数の限られた人とだけと限定的に幸せになりましょう、なんて禁欲的になるべき話ではないような気がする。

なお、ここで注意しておくと、これは、うちの奥さん以外の人と付き合いたい、という話ではない。僕には結構ハーレム願望があって、酔ってそんな話をしたことがあるかもしれないけれど、この話にはそのような性欲的なニュアンスは含まれていない。

また、この話は、決して宗教の勧誘のような話ではない。確かに、キリスト教の教会なんていうのは、キリスト教的な幸せを目指す、いわば無目的のゲゼルシャフトだと言えなくもない。だけど僕が今考えているのは、そういう組織化の話ではなく、もっと私的な、一対一の人間関係の話である。

考えてみると、決意さえすれば、誰かと「そばにいたい」と願うことは難しくない。物理的にそばにいるためには同居しないといけないけれど、ここでの「そばにいたい」とは精神的な距離のことだから、ただそう願いさえすれば、あとは、時間や労力をその誰かにかけることで、そばにいることは実現するからだ。

もしかしたら、少なくない割合の人にとって、これはさほど問題ではないのかもしれない。誰かのために時間と労力をかけることが幸せへの道であるということを本能的に知っていて、迷いなくそうできる人は結構いるのかもしれない。考えてみれば、『氷の城壁』の登場人物も、極めて自然にそうしていたような気がする。たまたま僕が、自分自身や奥さんに時間と労力をかけたいと思うタイプだから、そこに問題があるだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、これから書くことは、そうなれなかった、僕のような自己中心的なタイプの人だけに意味があるのかもしれない。

では、ここからは、僕自身と、僕に似た人だけに対象を限定して、話を続けたい。

(1)条件の問題

僕にとってまず問題となるのが、どのような人を無目的のパーティーのメンバー候補として選定すればいいのか、という問題である。あまり大人数だと、自分自身や奥さんに時間と労力をかけることができなくなってしまうから、うまく両立するためには条件を絞って対象人数を狭めたほうがいい。また、明らかに、メンバー候補には不適当な人を除くためにも条件は必要だろう。ある程度長く生きてみると、本当にやばい、明らかにサイコパスな人がいて、どんなに理想論を掲げても、そういう人とは関わってはいけない、ということを知ってしまう。

ではここで対象を絞る条件として、趣味が合うかどうか、話が合うかどうか、といった基準を持ち出すと、目的があるゲゼルシャフトの話に戻ってしまう。そうではなく、無目的のゲゼルシャフトを創り上げるにはどうすればいいかを考えなければいけない。つまり、ともに幸せになり、ともに成長できそうな人を選び出すにはどうすればいいか、という視点で考えなければならない。

では、すでに幸せで成長した人を探し出して、その人からやり方を教えてもらえばいいのかというと、そうではない。それでは、高校2年のときに頭がいい彼女を好きになったのと同じ過ちを犯してしまう。僕が探しているのは、僕の先生やカウンセラーではなく、僕とともに歩んでくれる人なのだ。

だとするならば、僕のパーティーのメンバーを選定する基準は、僕と一緒に幸せへの道を歩んでくれそうかどうか、または、僕と一緒に試行錯誤して内的成長をしてくれそうかどうか、というようなものになるだろう。

これは、人生という言葉を使って、僕より早すぎもせず、僕より遅すぎもせず、同じ歩幅で人生を歩んでくれそうかどうか、という選定基準であると言い換えることができるだろう。または、人生に対して僕と同じような熱量を持っていて、人生に対して僕と同じような真摯さや誠実さを持っているかどうか、という基準である、と言ってもいい。なぜここで人生という言葉を持ち出すかというと、つまり、幸せとは人生における幸せであるからだ。そして内的成長とは人生における成長のことだから、つまり、人生を生きることそのものの問題であるはずだからだ。

(2)方法の問題

だけど、どうやって他人の人生に対する熱量や真摯さなんてものを把握すればいいのだろう。よく観察すれば不可能ではないけれど、そこまで観察できるためには、既にかなり近い友人になっていなければならないだろう。そこまで労力と時間をかけるのは現実的ではない。

周囲を見回してみると、マンガの中だけではなく、世間にはそのような関係を築けている人がたくさんいるように思えるけれど、彼らはどうやっているのだろうか。

きっと、彼らはそれほど考えていないのだろう。いわば嗅覚のようなもので、その相手を見つけているのではないだろうか。そして、多少悲観的になるならば、その嗅覚が最もよく働くのは、子どもの頃からせいぜい中高生の頃までで、だから、多くの人にとって幼なじみが大事なものになるのではないだろうか。残念ながら僕は、中高生の頃までその嗅覚を用いる機会がなく、こうして歳をとってしまった。ギリギリセーフで20代の半ばで僕の奥さんに出会ったときにこの嗅覚が働いたのかもしれないけれど。

だから、今後、僕には、昔のように、自然と、ともに人生を歩むことができるようなパーティーのメンバーを見つけることはできないのかもしれない。本来なら自然にできることを、このように、ぐだぐだと言葉で考えているということ自体がその困難さの現れなのかもしれない。

まあ、僕は奥さんを見つけられたのだから、良しとするべきなのかもしれない。だけど、不自然ではあっても、もう少し頑張ってみたい。なぜなら、もし、大人になってからでもパーティーのメンバーを見つける方法をみつけることができたならば、それは、僕自身にとってだけでなく、この世界にとっても意義があるだろうからだ。僕は、僕自身に加え、僕に似た人にも、君だってもっと、誰かと一緒に幸せになれるんだよ、と言ってあげたい。

(3)対話

そこで役立つのが対話だろう。確かに僕はこれまで対話を重視してきた。だけど、まだまだ解像度が荒くて、きちんと、それぞれの個人に焦点をあてて対話することができていない。相手と向き合い、相手を型にはめて一般化することなく、相手を唯一のオリジナルな存在として認めることで、その人の人生に対する態度も見えてくるはずだ。その労力を惜しんではいけない。僕はもっと他者と対話しなければならない。

その動機は、僕自身の哲学のスタンスにも由来している。僕は、僕一人でやる哲学が好きだ。僕は、僕の哲学にもっと時間と労力をかけたい。だけど、僕の哲学とはつまり、対話の哲学なのだから、僕の人生においてきちんと他者と対話をしなければ本末転倒だ。他者との対話にかける時間と労力を犠牲にして、自分自身の対話の哲学に注力することはできない。理論と実践はつながっていて、僕は対話を哲学的に理論化しつつ、僕の対話を実践していかなければならない。

(4)癒着

さて僕は今、「僕の対話を実践していかなければならない。」と表現したけれど、この「ならない」は義務ではない。

話が少しずれるけれど、こゆんちゃんのミナトくんに対する「そばにいたい」という思いは「そばにいなければならない」と言い換えても全く同じ意味である。この「そばにいなければならなない」も義務ではない。なぜなら、こゆんちゃんとミナトくんは、ともに幸せを目指すゲゼルシャフトの一員なのだから、「そばにいたい」という個人の目的と「そばにいなければならない」という組織の目的は完全に重なり、癒着しているからだ。だから、こゆんちゃんはミナトくんに対して「そばにいなければならない。」とも思っているに違いない。

更にはミナトくんのこゆんちゃんに対する「そばにいてほしい」という思いすらも重なり癒着している。あえて言えば、「そばにいたい」でも、「そばにいなければならない」でも、「そばにいてほしい」でもなく、ただ「そばにいる」のであり、「そばにいる」以外にはないのである。ミナトくんはそばにいてほしい、のではないし、ましてや、そばにいてもらう、でもない。こゆんちゃんはそばにいたい、ではないし、ましてや、そばにいてあげる、でもない。ただ二人は互いに「そばにいる」だけであり、それしかないのである。

僕が無目的のパーティーであるという言葉を使ったのはそういうことである。あえて幸せになるという言葉や内面を成長するという言葉を目指すものとして使ったけれど、正確には、幸せになりたいでもなく、成長したいでもなく、幸せにしたいでもなく、成長したいでもなく、ただ二人で、幸せになり、成長するのである。そのような意味で、幸せも成長も目的ではない。

これは、國分功一郎先生が『中動態の世界』で描いた中動態の話に少し似ている。

同様に、「僕の対話を実践していかなければならない。」とは、「僕の対話を実践していきたい。」でもあり、「僕の対話を実践していってほしい。」でもあり、より正確には、僕は「僕の対話を実践していく。」しかないのである。きっと僕という人格さえも、つまりは無目的のパーティーであるということなのかもしれない。

そして、僕は、そのような人間関係のあり方、幸せのあり方、内面の成長のあり方、または人生のあり方こそが、対話的であると考えている。対話の言葉により人はつながり、無目的に前に進むことができるのではないだろうか。

いくつも書いてきたけれど、『氷の城壁』の感想文シリーズは一段落かな。普通に色々できる人は羨ましいけれど、僕もこうやって言葉を捏ねくり回して何とかついていくぞ!

対話と組織化

※1700字くらいです。

今朝、ふと、哲学じゃなかったら、僕は組織論を勉強したいかもしれない、と思いついた。
単なる興味だけなら、語学や歴史もいいし、仕事としては、プログラミングも面白そうだ。だけど、今までの自分の仕事で培ったスキルと、自分の興味がうまく合致するものとしては、組織論がいいような気がする。そんなことを思いついた。
僕は、人が集団で働くという現象に興味がある。そこには、未だ発見されていない様々な仮説を立てる余地がありそうだし、そして、僕が思いついた仮説を科学的に明確に検証できるというのは哲学にはない面白さだろう。僕自身、そのような作業にある程度の適性があって、何らかの成果を残せそうな気がする。だから、もし僕が大学院に行ったら、哲学でなければ、組織論を勉強してみたい。分野としては、組織心理学なのかな。わからないけど。

さて、大学院の募集案内をネットで探し始める前に立ち止まって考えてみよう。このような思いと、これまでの僕の生き方、つまり僕がやってきた哲学とは、どのくらいずれているのだろうか。それは両立可能なのだろうか。両立しないならばどちらを選ぶのがよいのだろうか。
普通に考えるならば、哲学と組織論は大きく異なっている。例えば、科学に対する姿勢には大きな違いがあるだろう。哲学の面白さは、科学には収まりきらないところにあるけれど、組織論の面白さは、科学的に進められるところにこそある。哲学とは古くからある王道の学問だけど、組織論は新しくて、学際的で、ビジネスパーソン向けのいわゆる実学だ。
だけど、考えてみると、少なくとも僕の場合、両者は結構似ているようにも思える。僕が考えている哲学はブログのタイトルにあるとおり「対話の哲学」である。この対話を、常識的に人間と人間の間の対話と捉えるならば、集団としての人間の関係性を論じるもの(だろう)組織論とかなり接近する。対話とは、いわば、対話の参加者を組織化することであるとさえ言える。だから、哲学対話の世界では、「探究の共同体」などと言われることもある。対話とは、一人ひとりの対話の参加者を、共同体というひとつのものに組織化し、統合する働きであるとも言えなくもない。それならば対話とは組織化であり、組織とは対話である。組織論とは対話論であり、僕の「対話の哲学」とは、「組織の哲学」なのである、ということになる。このように考えると、僕の組織論への興味と、僕の哲学への興味はかなり重なってくる。
これで終わってもいいけれど、実は、僕は、「対話の哲学」について、あまりそちらの方向では考えていない。僕は、対話とは、単なる他者との対話であるだけでなく、自己との対話でもあり、自問自答としての対話でもあると考えている。更には、自己との対話こそがベースにあり、他者との対話は派生的なものであるとすら考えている。そのような自己への哲学的な興味と、他者との関係性としての組織化への興味とは両立しないように思える。
ただし、あえて組織という言葉を用いて僕の哲学を表現するならば、僕は、僕という主体が組織化され形成されることに哲学的な興味がある、とは言えるだろう。ここでの僕とは、永井均流に言うならば独在的な〈私〉であり、独在的な〈今〉である。「僕は今、ここで、私として存在する。」このように、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らか確定的に指示されるためには、何らかの組織化が必要であると僕は考える。少なくとも通常の意味では言葉にできない何か(例えば、原体験とも言われるもの)が、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らかかたちづくられるためには、組織化が必要なのである。僕はそのような意味での組織化には興味がある、とは言える。
この話は、通常の言葉の用法としての「組織(化)」や「対話」とはかけ離れているけれど、かけ離れたところで何らかのかたちでつながっているような気もする。このつながりと、僕の組織論への興味がつながっているかどうかは更に怪しいけれど、まったく無関係ではないような気もする。

以上のようなことは哲学的に考えることはできるし、少なくとも哲学よりは組織論のほうが儲かりそうだから、今朝、布団の中でふと抱いた組織論への興味は無駄ではないかもしれない。そんなことを思い、こんな文章を書いてみたものです。

目的と手段

※この文章は2000字くらいです。

カントは、人間を手段としてでなく目的として扱うべき、と言っている。

これは、広く捉えるならば、目的と手段を取り違えてはいけないという話の一種だと言えるだろう。例えば、子どもにいい会社に入ってもらいたくて、いい大学に入れようとして手段としての勉強をやらせていたら、子どもが勉強自体を好きになってしまって、哲学科に入って、そのまま大学院に進んでしまった、というようなことがありうる。これは、勉強という手段を目的と取り違えてしまった例だと言えるだろう。(この例は笑いを狙っている箇所です。)同様のことが色々なことに言えそうに思う。

特に、このような考え方が役に立ちそうなのは、「幸せ」についてである。

きっと多くの人が「幸せ」とは何だろう、と考えるだろう。そして、明確な答えは出ないだろう。考えた末に自分なりの答えは出ても、それが万人に当てはまる正解にはならない。だから僕たちは色々と悩み続ける。この「幸せ」についての問題も、手段と目的の取り違えに由来しているのではないだろうか。

僕も含めて大抵の人は、「幸せ」とは目的だと考えている。だから、幸せになるためには、お金持ちになればいいのだろうか、とか、健康であればいいのだろうか、なんて考える。これはつまり、「幸せ」が目的であり、お金や健康は、そのための手段であることを意味する。

だけど、実は、「幸せ」とは目的ではなく手段なのではないだろうか。まずは幸せになったうえで、そこから何をするか、というのが、本来の人生の問題の問い方なのではないだろうか。

ドラクエのようなRPGに例えるならば、手段とは、問題のスタート地点で装備する武器である。装備している武器を使って、時には武器をグレードアップして、最終的なゴール、つまり目的に到達することを目指す。

いい会社に就職するために勉強をさせる親の例に当てはめるならば、勉強が初期装備であり、いい会社に入ることが、魔王を倒すのと同じ意味でのゴールである。

同様に、人生の問題とは、実は、「幸せ」を初期装備として、そこから何を目指すか、という問題なのではないだろうか。

当然、初期装備としての「幸せ」を手に入れられていない人は多い。重い病気だったり、貧乏な家庭で育ったり、親が毒親だったりしたら、なかなか「幸せ」だとは思えないだろう。

だけど、それでは、病気が治ったり、お金持ちになったり、毒親から離れられたりしたら、それ「だけ」で幸せになれるかというと、そうはならないはずだ。もしそうだとしたら、健康で、お金持ちで、親がまともでありさえすれば、「幸せ」だということになるけれど、そのような状況でも不幸だと思っている人はいくらでもいる。

客観的な状況と、その人が「幸せ」であるかどうかは究極的には関係がないのではないだろうか。

きっと、どんな状況であっても、初期装備としての「幸せ」を手に入れ、人生というRPGを本当の意味で始められる道はあるはずである。それほど苦労していない僕には「どんな状況であっても」なんてことを言う資格はないけれど、フランクルの『夜と霧』を読んでいると、ナチスの絶滅収容所においても、その道筋は確保されているように思えてくる。

そして、僕自身はそれほど実践できていないけれど、きっと、マインドフルネスや瞑想といったものも、初期装備としての「幸せ」を手に入れるための技法なのだろう。

より正確には、初期装備としての「幸せ」を既に手に入れていることを思い出すための技法だと言ったほうがいいとおもうけれど。

(このように書くと、僕がまるで悟りを開いた人のように思えるかもしれないけれど、偉そうなことを書くのと、実際それを実践できるのではぜんぜん違うので安心してください。)

以上のようにして「幸せ」にまつわる取り違えを訂正し、「幸せ」とは目的ではなく手段であることを確認したならば、さて、僕たちは何を目的とすればいいのだろうか。初期装備としての「幸せ」を既に手に入れていることを思い出し、そこから人生というRPGを開始したならば、僕たちは具体的にどこに向かえばいいのだろうか。

僕はその答えを持っていない。けれど、きっと「遊び」がキーワードになるのではないかと予感している。なぜなら、すでに「幸せ」であるならば、そこにはやるべきことなど残っておらず、あとはすべて「遊び」であるように思えるからである。

いかに遊ぶか、それだけが人生の問題なのではないだろうか。

なお、この目的と手段の取り違えの話は、人生と幸せの話の他にも色々と当てはまりそうだと僕は思っている。今、僕が考えているのは、「思考」のことだ。僕は「思考」にも「幸せ」に負けず劣らず難しい哲学上の問題が色々あると思っている。特に僕が考えているのは、「思考により真実にたどり着けるのだろうか。」とでも言うべき問題である。

まだ考えている途中だけど、そもそも、思考を真実にたどり着くための手段だと考えているところに、この問題の難しさの原因があるのではないか、なんてことを考えている。

この話はまた別に書いてみたい。

ネコを撫でる

※1700字くらいの短い文章です。

チーズという飼い猫のことを何回か書いたけれど、もう、チーズが死んで4ヶ月になる。

だけど、あんまり、チーズのことを悲しむ暇はなかった。その後、残されたもう一匹のネコのタックンがなんだか元気がなくて、そっちの心配ばかりだったのだ。

あまり水も飲まないし、妙に甘えてくるし、ストレスからか、毛づくろいのしすぎで、お腹の毛もなくなってしまった。チュール(という麻薬のようなネコのおやつ)を水に溶かして水を飲ませたり、時間をかけてなでてあげていたら、少しずつ元気になってきたけど、前のタックンとは変わってしまったなあ、と心配だった。

そうこうしていたら、妻がやっぱりもう一匹飼いたいということで、3週間くらい前に新しいネコがお試しで来た。すると、先住猫タックンはすっかりもとに戻った。新参ネコに追いかけられたり、逆に、うざ絡みしたり、一緒に寝たり、楽しく過ごしている。もう、水も飲むし、ご飯も食べ過ぎなくらいで、僕に甘えてくることもあまりない。ようやく、僕らは落ち着き、心穏やかにチーズのことを思い出しながら、タックンのことを撫でることもできている。(新参ネコとも遊んでます。)

タックンのことを撫でながら僕は思う。タックンは幸せかなあ、と。そして僕は思う。きっとタックンは幸せなのだろうなあ、と。僕は、きっと、このタックンのことを幸せにできている。この僕の手の動きが、タックンのことを幸せにしている。

そして、撫でることで、撫でられるタックンだけでなく、撫でる僕も幸せを感じている。さわり心地がいいし、心が落ち着くし、何より、タックンが幸せそうにしているのがうれしい。この撫でるという作業は、タックンと僕の両者を幸せにしている。

僕にとって、タックンとは他者の象徴である。より厳密に言うならば、タックンとは愛すべき他者の象徴である。だから、撫でるという作業は、僕と他者との理想的な関係性を象徴していると言ってもいいだろう。他者が幸せになり、そして、僕自身が幸せになる、というのは極めて理想的なことである。

それならば、理想的な人生とは、ネコを撫でるような人生なのかもしれない。もし、ネコを撫でることが仕事で、ネコを撫でていればお金に困らず暮らしていけるならば、それは、多くのネコ好きの人にとって理想的な生活だろう。(ちなみに僕は、実はイヌ派です。)

ちょっと哲学的に味付けをすると、僕は時間論が好きだ。僕は、時間と人称の問題は同型の問題として論ずることができると考えている。永井均は、〈私〉と〈今〉は同型性があるとしているけれど、そういう意味である。

それならば、ネコを撫でるという、人称的な他者についての作業は、時間論的に拡張することができるはずだ。つまり、ネコを撫でるように、他の時点の自分自身を幸せにし、そして、そうすることが今の時点の自分自身も幸せにするような、理想的な作業があるはずではないか、ということである。

今の僕が、過去の僕や未来の僕を撫でる。そうすることで、過去の僕や未来の僕が幸せになる。そして、そうすることが、今の僕の幸せにもなる。もし、そのような理想的な作業を発見できれば、それが、僕の理想的な人生の送り方となるのではないだろうか。

残念ながら、今のところ、そんな理想的な作業の具体的な中身を想像することもできない。例えば、幸せな思い出を思い出すことは、今の僕を幸せにするけれど、過去の僕をより幸せにすることはできない。また、将来の目標に向かって努力することは、未来の僕を幸せにするけれど、今の僕を必ずしも幸せにしない。いずれも、ネコを撫でるほどにはうまく、現在と過去・未来の両者の幸せを両立してくれない。

ただし、過去と現在と未来をひとつながりのものとして捉え、過去を想起し、未来を予期することが、異なる時点における「私」の幸せを両立させるための鍵になるのは確かだろう。もし、過去を撫で、未来を撫でるように生きることができれば、それが幸せの道なのだろう。人称的には、他者を撫で、そして時間的には、過去を撫で、未来を撫でるということである。

ただ、僕には、過去の撫で方や、未来の撫で方はわからないし、むやみに他者を撫でたら犯罪になってしまうので、とりあえずはネコを撫でることにしよう。

うまく生きる方法

※15000字くらいあります。退行催眠とか気功とか怪しいことも触れてます。

1 まとまっていない

僕は自分自身がうまく生きることができていないと感じている。

僕は自分の人生に色々不満があるのだ。仕事が嫌だとか、やりたいことに集中できてないとか、面白い人に出会えないとか、時間が足りないとか。

では、具体的に僕はどのような生き方を望んでいるのだろうか。あらためてよく考えてみると、僕はイーロン・マスクのように金持ちになりたい訳でもないし、自分の会社を大きくしたい訳でもない。中国皇帝やアメリカ大統領になって大きな国を支配したい訳でもない。ハーレムで美女がうじゃうじゃ、というのはちょっと憧れるけれど、人生をかけてそれをしたい訳でもない。ジャニーズに入れるようなイケメンになるのもいいけれど、それだけじゃつまらない。

僕が望む生き方としてまず思いつくのは、あえて言うならば、芸術家のような生き方だ。それも、絵を描くこと自体が喜びで、その絵を誰かが買ってくれることできちんと生活が成り立っていて、絵を描くことによって周囲の人とつながっているような芸術家の生き方だ。芸術家が芸術家としてきちんと生きることができているような生き方と言ってもいい。僕はそういう生き方が羨ましい。ただし、より正確には、僕が目指すのは、芸術家ではなく哲学者である。僕が思い浮かべるのは大学の哲学科の先生というよりは、古代ギリシアの哲学者のような感じなので、芸術家という表現を用いている。

さて、なぜ望ましい生き方のことなど考えたのかというと、ふと、宝くじが当たるようなことがあって、そのお金で哲学ができたら幸せなのかなあ、なんて妄想したからだ。だけど、よく考えてみると、それは悪くはないけれど、芸術家のような生き方に比べれば、ベストではない。うまく言えないけれど、宝くじの当せん金で哲学をするような生き方は、「まとまっていない」と感じるのだ。

では、どうすれば「まとまっている」ことになるのだろうか。この文章では、今のところこんな漠然とした言葉でしか表現できない問題をもう少しうまく表現し、そしてその当面の答えを出すことを目指してみたい。

2 内と外の問題

では、「まとまっている」のことを考えるために、少し遠いところから始めたい。まずは、哲学とは関係ない僕の仕事の話である。

僕は、アラフィフのサラリーマンで、年功序列的に管理職のような仕事もするようになっている。そこで重要となるのは、部下との付き合い方である。人間相手というのは、どうしても複雑で難しい問題となってしまう。

そこで僕はこの問題を少しでも単純に捉えたいと思い、こっそりと、ひとつのモノサシを導入している。それは、「この人は、一緒に働きたいと思える人か、そう思えない人か。」というモノサシである。

もし一緒に働きたいと思えるならば、多少の欠点は目をつぶって、なるべくポジティブに捉える。なるべく長所を見るようにして、短所も個性だと思うようにする。つまりその人を否定しない。一方で、ある一線を越えてしまって、この人は同じ組織にいるべきではない、と判断したならば、その人のことをとことん、ネガティブに捉える。後者に該当する人は割合的にはほぼゼロだけど、その人が信頼を失うようなことを繰り返したり、人間性を疑うようなことをしたりして、ある一線を越えてしまったならば、僕は冷徹にその人を組織から排除すべく全力を尽くす。

そのように割り切ることで、「あの人もいいところがある。」「悪い人でない。」「家族もいるのにかわいそう。」などと考え、判断に迷うことはなくなる。排除すべき人を明確にすることで、そうではない人を迷わずポジティブに捉えることができるようになる。それがモノサシの効用である。

さて、なぜ、こんな話をしたのかというと、僕のこの捉え方は「(組織の)内と外の問題」に着目した把握の仕方であると言えるからだ。内と外とは、つまり、組織の内側の人だと認める限りはとことんポジティブに捉えるが、一旦、組織内にいるべきではない外側の人だと判断したならば、とことんネガティブに捉えるということである。僕はそのようにして部下の管理という複雑な問題を単純化していることになる。

同様に、僕の人生の問題も「内と外の問題」として、単純化して捉えることができるのではないだろうか。僕は、僕の人生がうまく「まとまっていない」と感じる。だから僕は、「うまく生きることができていない」と感じる。それならば、僕の人生を内と外に分けて単純化して捉えることが、「まとまって」捉えることに役立つのではないだろうか。

これが僕が最近思いついたアイディアである。僕は、僕の人生を内側からうまくまとめることで、うまく生きることができるのではないだろうか。そんなアイディアを思いついたから、このような文章を書いて、そのアイディアを検証してみることにしたのだ。

3 芸術家の生き方

と書いても、これだけでは僕のアイディアにピンと来ないだろうから、きちんと説明したい。

僕が憧れる芸術家の生き方を考えてみよう。彼の人生の内側には芸術しかない。彼にとっては、芸術こそが生きる喜びであり、芸術こそが生活の手段であり、芸術こそが生きる世界そのものである。彼の人生は芸術で満たされており、そこにその他の夾雑物が入り込む余地はない。彼の人生は芸術で統合されており、だから彼には迷いなどなく、幸せである。理想的な芸術家というものを、僕はそのように考えている。

僕の考えに基づくなら、もし、芸術家として満足していた人が、急に権力欲も持ってしまったら、彼は不幸になるだろう。なぜなら、彼は、どんなに素晴らしい絵を書いても、権力を持つことはできないし、彼が権力を得るために政治活動をしていたら、その間は絵を描くこともできなくなってしまうからだ。彼の人生は芸術家の人生と政治家の人生に引き裂かれてしまうことになる。これこそが人生の不幸である。

もっと他に取り上げるべき人生の不幸があると考える方もいるだろう。確かに、芸術家と政治家が両立しないという不幸よりも、身近な人がいなくなるという不幸や、祖国が戦争になるという不幸や、自分自身が認知症になり絵を描けなくなることのほうが、より重大な問題であるように思える。

だが、身近な人がいなくなっても、戦争になっても、認知症になっても、芸術に没頭できたなら、芸術家としての彼は幸せだろう。外国の軍隊に占領され、家族が殺されたとしても、もしアトリエに閉じこもり、思い通りに絵を描くことさえできたなら、彼は幸せなのである。周囲の人はそれを狂気と呼ぶかもしれないけれど、その周囲の声は彼の心の内側に届くことはない。ここには、内と外の明確な境界がある。彼の内側には芸術しかなく、彼の人生は世間の荒波など関係なく、芸術で統合されている。

特に認知症の例は別の観点からも示唆があるように思う。芸術家にとっては、芸術活動自体に価値があり、その結果としての作品には価値がない。芸術活動こそが人生の内側にあり、作品は芸術家の人生の外にあるのである。だから、たとえ認知症になって客観的には質が高い作品を残せなくなっても、芸術に没頭できればそれでいいのである。

このような意見に世の芸術家が同意するどうかはわからないけれど、芸術とは哲学の比喩であり、この芸術家とはつまり僕が目指す哲学者のことだから、それは問題とならない。僕が考える芸術家、つまり哲学者とは、そのようなものなのである。実際、僕自身は、今書いているこの文章は哲学的な文章であると考えているけれど、このような文章を書くことに価値はあっても、結果として書かれた文章にはたいした価値がないと思っている。

(ただし、僕にとっては、読まれるという期待も含めて書くということだから、少なくとも、書いている瞬間は、誰かが僕の文章に価値を認め、読んでほしいとは願っている。ただし、書いた後に、それを実際に読んでもらうことには、たいしてこだわりがない。このことについては、更に考えるべきことがありそうな気がする。)

4 拒否の道と受容の道

 以上のとおり、僕の人生をうまく生きることができていない、という問題に対する僕の処方箋は「内側からの人生の統合」であることを確認した。

僕の主訴は、僕の人生が引き裂かれてしまっている、というものである。持って回った表現ではなく率直に言うならば、もっと哲学をする時間がほしいけれど、仕事があるし、哲学だけじゃなくて、旅行のような趣味の時間もほしい。家族のことだって大事だ。あちらを立てればこちらがたたずで困ってしまう、という問題である。

当初は宝くじが当たればいい、と思っていた。だが、確かに宝くじが当たれば、仕事の問題は解決するけれど、やはり、哲学と家族と趣味は僕の中で競合したままなので、どれかを選ぶという困難は残ってしまう。

芸術家の例を考えるならば、僕には狂気が足りないのかもしれない。哲学だけに没頭したり、仕事だけに没頭したり、趣味だけに没頭したり、といったことのうちどれかができれば、僕は引き裂かれず、幸せになれるのかもしれない。だけど、僕にはできない。僕の中にあるもののうち、もっとも狂気に近いのは、高校生の頃に思いついた哲学的問題への執着だろう。だけど、だからといって、僕はそれだけで生きている訳ではない。家にこもって哲学をするだけではなく、時々は、素敵な景色のリゾートでのんびりして、美味しいものを食べ、できれば、かわいい女の子とプールサイドでいちゃいちゃしたい。数日すれば、やがて哲学的な問題についても考えたくなるだろうけれど、当面のバカンスの喜びにおいては、哲学なんて全く関係ない。僕はそういう凡人である。

では、狂気が足りない凡人の僕の人生は引き裂かれたままで、真の意味で幸せになることはできないのだろうか。ここで幸せになれないなどという言葉を使うのは不適切かもしれない。たしかに僕はお金に困っていないし、家族もいて、おまけにネコもいる。哲学をやる才能にもそこそこ恵まれていると思う。これで不幸と言ったらバチが当たるかもしれない。けれど、僕の人生が引き裂かれたままでは、真の意味では幸せになることはできないのではないだろうか、と問う資格はあるはずである。

ここまで、僕が思いついた人生の統合の方策は、狂気による統合と呼ぶべきものであった。狂気とはつまり、それ以外のものに目を向けなくなるからこそ狂気である。普通の人なら、芸術以外のこともきちんと目配りするはずなのに、その普通のことができないから、その芸術家は狂人として幸せなのである。つまり狂気による人生の統合とは、特定のものごと以外のことへの目配りの「拒否」による統合だと言ってもいいだろう。創作活動に没頭して恋人のことをほったらかしにしている芸術家は「恋人のことも考えたらどうですか。」とアドバイスされても「恋人なんてどうでもいい。」と躊躇なく拒否できるから幸せなのである。だから、もし、恋人をぞんざいに扱っていることへの呵責から、恋人を拒否しきることができないならば、彼は幸せではない、ということになる。哲学にせよ、仕事にせよ、趣味にせよ、それだけに注力し、それ以外を拒否することができれば、その特定の何かにより人生は統合され、その人は幸せになれる。これが狂気による統合であり、つまり、拒否による統合である。

だが、他にも、もう少しましな人生の統合の方法があるのではないだろうか。なんというか、狂気による幸せへの道だけしかないというのは狭すぎて、不自然すぎるのではないか、という直感が僕にはある。

そこで僕が仮定するのは、狂気が拒否による幸せの道だとするならば、ちょうど反対側に、受容による幸せの道がある、というものである。今のところ、この直感には根拠はない。ただ、狂気による幸せの道への違和感が僕にそう思わせるだけである。

5 ストーリー

ここで思い浮かべるべきはやはり「仕事」だろう。僕の人生が引き裂かれ、統合されていないと感じている最大の要因は仕事である。仕事以外のもの、つまり哲学や趣味や家族については、たまには面倒なことはあっても実際にはたいした問題にはならない。確かに、宝くじに当たるというような思考実験をすれば、仕事以外のもの同士にも亀裂を入れることもできるけれど、現実には、そのような問題は生じず、問題となるのはいつも、仕事とそれ以外との間での不整合である。そのようなものである仕事を僕の人生の内側に整合的に位置づけることさえできれば、事態は大きく改善するに違いない。

世の中には仕事とそれ以外のことをうまく整合させて生きている人も多いだろう。仕事自体が趣味であり、世界そのものである、という人も少数はいるだろうが、それでは先程の狂気の芸術家の話になってしまう。僕がここで取り上げたいのは、そこまでいかなくても、うまく仕事を受け入れ、自分の人生の中に整合的に位置づけることができている人のことである。大多数とは言わないけれど、一定の割合の人がそのようにできているのではないだろうか。だけど残念ながら、僕はそうではない。その違いをどのように捉えたらいいのだろうか。

うまく仕事と折り合いをつけることができている人は、仕事とそれ以外のもの(趣味や家族など)を統合するストーリーを持っているように見える。「仕事をして稼いでいるからこそ、趣味にお金を費やしたり、家族を養ったりできる。」というストーリーや、「仕事を通じて人と出会うことができ、それが趣味や人間関係の広がりにつながる。」といったストーリーである。そのようなストーリーを持ち、それを信じることができている人は、きっと、仕事のせいで趣味の時間がない、といった不満はかなり軽減されるだろう。

何かしら、仕事とその他のことをうまくひとつのストーリーで結びつけ、僕の人生をそのストーリーで統合することができれば、僕の人生は引き裂かれることはなく、僕は幸せになることができるのは確かだろう。それは、世間で広く行われていることであり、選ばれたごく一部の人だけができるようなものではない。これは、採用できるならば最優先で採用するべき対応策だろう。

だけど僕自身は、哲学でこじらせてしまったからか、世間で広く言われているようなストーリー、例えば、仕事があるおかげで趣味にお金を費やせる、というようなストーリーだけでは満足できない。僕には、もう少し手が込んだストーリーが必要となりそうだ。どんなストーリーがあるか、考えてみたい。

6 自由意志による選択、自然科学的な決定

考えてみて、僕自身を説得できるかどうかはともかくとして、かなり説得力があるストーリーを思いついた。それは、「自由意志による選択」とでも言うべきストーリーである。「お前は自由意志でその仕事するという選択をしたのだから、それを受け入れるしかないだろう。」というストーリーである。考えてみれば、僕が哲学をするのも、海外旅行をするのも、家族のためにケーキを買って帰るのも、そして、この仕事をしているのも、それはすべて僕自身の自由意志による選択の結果である。このストーリーに基づくならば、僕の人生はすべて、自由意志による選択というかたちで統合され、僕はその人生を整合的に受け入れることができることになる。

ブラック企業でサービス残業続きでも、もし嫌なら辞めればいいのに、あえてそこに勤め続けているということは、自由意志でそれを選択しているということであり、つまりそれは、自由意志により自分の人生を統合して生きることができているということであり、つまり幸せなのである。このようなアイディアは、悪く言うならば、自己責任論の一種とも言えるものであり、世間では広くはびこっている考え方のひとつであるように思う。

または、「自由意志による選択論」とは対極にある「自然科学的決定論」でも同程度に説得力があるストーリーを描くことはできるだろう。

これはつまり、僕が仕事をするということは、すでに自然科学と因果律により決定していたのである、という考えである。もう少し単純な行動、例えば僕は今、鼻の頭が痒くて掻いたけれど、これを例としてみよう。この場合、僕が自らの自由意志に基づき掻いた、とも言えるけれど、痒みを脳が検知して、脳が鼻の頭を掻くように指示した、とも言える。僕の思考とは脳の中での化学的な反応により生じていると考えるならば、そこに自由意志など介在させる必要はなく、自然科学と因果律だけによって僕の行動のすべてを説明することができるはずである。だから、僕が哲学のことを考えて文章を書くことや、出勤して仕事をするということも、すべて自然科学と因果律だけで説明がつく、ということになる。これが、(一般的な言い方かどうかは知らないけれど)「自然科学的決定論」である。これも、世間で広く受け入れられている考え方だと思う。

だけど、僕は残念ながら、哲学にかぶれてしまったから、そういう口当たりがいいアイディアを簡単に信じ込むことはできない。例えば、この両極端の二つのアイディアを両方並べることで、簡単にこれらのアイディアに含まれる問題を提示することができるだろう。自由意志による選択論に基づくならば、自然科学と因果律をどう処理するのか、また、自然科学的決定論に基づくならば自由意志をどう処理するのか、という問題である。いずれかの問題を解決し、そのアイディアの正当性を立証することはできるかもしれないが、そのためには哲学的な議論を尽くす必要があり、その過程で、それらのアイディアの口当たりの良さという長所は消え去ってしまうはずである。いずれにせよ僕は、より深く考えなければならない。

7 今を生きる

ここまで僕は「自由意志による選択論」と「自然科学的決定論」という二つの道筋を提示し、いずれも一見口当たりはいいけれど、実は更に哲学的に議論を尽くすべき課題があるということを指摘した。

ここからは、このうち「自由意志による選択論」のほうをベースに、議論を掘り下げてみたい。なぜなら、僕は人生の問題を「内と外の問題」として捉えることを目指しているけれど、「自然科学的決定論」とは、いわば、自分の心の内側を無視する議論だからだ。「自然科学的決定論」を出発地点にしてしまっては、うまく「内と外の問題」を描くことができない。

一方の「自由意志による選択論」のほうも、いわばすべてを自分の心の内側の問題に帰する議論だと言えるけれど、よほどの独我論者でない限り、自分の心の外側に世界が広がっていることまでは否定しないだろうから、「内と外の問題」という問題設定と相性はよいはずである。

さて、「自由意志による選択論」に基づくならば僕は、人生において自由意志に基づく選択をしているはずであり、確かにそのとおりである。そして、自由意志に基づいて選んだものなのだから、その選んだものを受け入れるべきだ、というアイディアには一定の説得力がある。

だけど、自由意志を無化するような究極的な状況を想像することで、その説得力は消え去ってしまうだろう。先ほど僕は、ブラック企業のサービス残業を例としたけれど、それでも自己責任論を持ち出すことができると考えるならば、更に厳しい状況、例えばアウシュビッツのユダヤ人や、激しいいじめを受けている小学生を想像してみればいいだろう。彼らには、どこにも自由意志による選択の余地などない。

僕ならば末期的な病気により、ベッドから動けず、治癒も見込めず、痛みに苦しんでいる状況を想像する。これは他の例に比べ僕にとってそれほど実生活からかけ離れた想定ではない。なぜならば、もう7年前くらいになるけれど、僕は胃がんになり手術をした後、ICUに1日だけ入って、こんな思いをしたからだ。僕はその日のことを忘れることができない。あれが死ぬまで続いたらどうなるだろう、と考えると怖くなる。あれは、自由意志による選択など無化された状況だと言っていいと思う。

そのような厳しい状況でも人生をうまく生きるためにはどうすればいいのだろうか。究極的な状況において通用するやり方こそが、日常においても用いるべき方策となるはずだから、そのようなことに思いを馳せることは無駄ではないだろう。

そこで着目するべきは「今」である。やがて死に至る病のために苦しむことがわかっていても、または、数分後にはガス室送りになることがわかっていても、または、明日学校にいけば苛烈ないじめに会うことがわかっていても、「今」だけは、「今」のことについて考えるくらいの余裕はあるはずである。だからこそ僕は、人生をうまく生きるためにはどうすればいいのだろう、などということを考えているのである。どんな厳しい状況でも、人生をうまく生きたいと望むならば、そのように考えることができている「今」に着目するべきである。

これはきっとデカルトが「我思う故に我あり」と言っていたこととほぼ同じことである。どんな状況でも今において考えることができていることを否定することはできない。たとえどのような状況であっても、僕は「今」を経路として、「うまく生きる人生」にアクセスすることができるはずなのである。

そして僕は、ストーリーにより人生を統合することで、人生を内側からうまく生きることができると考えている。その最小のストーリーとは、この「今」というストーリーなのではないだろうか。「今を内側から生きる」というストーリーに基づくことで、僕は僕の人生を内側から統合し、僕は人生を引き裂かれることなく、うまく生きることができるのではないだろうか。

考えてみれば、僕が病気で死ぬとか、ガス室送りになるとか、明日学校でいじめられるといったことは、やがて起こることではあるけれど、まだ起こっていない未来の出来事であり、よって僕の外にあるものごとである。また、病気の痛みで苦しんだこととか、アウシュビッツに灼熱の中を列車で連れてこられたこととか、昨日も学校でいじめられたといったことは、すでに起こった過去のことであり、よって、やはり僕の外にあるものごとである。僕の内側にあるのは、わずかな時間かもしれないけれど、人生をいかに生きるべきか、などといったことを考えることができる、この今という瞬間だけである。あとはすべて、未来か過去のことであり、要は僕の外のことである。

そして、僕は、管理職が組織の内部にいるべきと判断した部下だけを大事にするように、僕の内側にある、この今の瞬間のこの思考だけを大事にするべきなのである。それが、自由意志により「今」を選択するということであり、どんな状況であっても可能な、唯一の自由意志の発揮なのである。そして、それが「今を内側から生きる」という最小の、最も汎用性の高いストーリーを生きるということなのである。

8 一と二

これはかなりいい答えだと思う。だけど、いい答えすぎて、僕自身には不釣り合いすぎるとも言える。僕自身、では、この答えを受けて、具体的にどうすればいいのかがよくわからない。

僕の人生の内側を、「今」という瞬間だけに最小化することにより、病気やアウシュビッツやいじめといった問題を外に追放することに成功はしたけれど、では、一瞬だけという最小の内側において僕は具体的に何をできるというのだろうか。

僕はこうして文章で書いているのだから、その具体的な何かを言語化できなければならない。だけど具体的に言語化するためには、一瞬よりも大きい場所が必要である。なぜなら、何かを言葉で描写するということは、その描写に対応する反実仮想をも立ち上げるということだからである。例えば「ネコがベッドで丸くなっている」という言葉が有意味なものとなるためには、反実仮想としての「ネコがベッドで丸くなっていない」という言葉も有意味に成立していなければならない。両者が成立し、両者を対比できるからこそ「ネコがベッドで丸くなっている」と「ネコがベッドで丸くなっていない」のうちの、「ネコがベッドで丸くなっている」のほうである、ということを表現できるのである。つまり、言語が成立するためには、少なくとも「二」が必要である、ということになる。だが、「今」は一瞬であり、そこには「一」が成立する余地しかない。言語で捉えるためには、一瞬は短すぎるのである。

本当ならば、僕は、「今を肯定する」ということこそが、「今を内側からうまく生きる」ための秘訣だと言いたい。だけど、「今を肯定する」と言ってしまったとたん、そこには「今を否定する」が立ち上がってしまい、一瞬の今には収まりきらなくなる。その証拠に、「今を肯定する」ということが具体的にどういうことなのか、僕にはうまく説明できない。うまく説明できてしまったら言語が成立してしまい、言語の「二」が今の「一」を溢れ出てしまうからである。

9 遠い過去と遠い未来

そこから哲学の最も面白いところが始まるとも言えるけれど、僕がここでやろうとしているのは哲学を掘り下げることではなく、僕がうまく生きる道筋を探すことだから、多少、当面の現実に折り合いをつける必要があるだろう。そのためには、慎重に今の「一」を拡大し、言語の「二」が収まるようなスペースを確保しなければならない。

そうするためには、ただ「今」という瞬間だけに注目するのではなく、最小限は過去と未来にも目を向ける必要があるだろう。なぜなら、今を今としてただ肯定することよりも、過去を過去としてただ肯定することや、未来を未来としてただ肯定することのほうが簡単だからだ。今を今としてただ肯定するというのは修行を経た仙人のような人にしかできないと思えるのに対して、過去を過去としてただ肯定することや、未来を未来としてただ肯定することは、多くの人が日常的に行っていることである。(なお、ここでの「ただ肯定する」とは、今や過去や未来の具体的な内容に着目するのではなく、ただ、今海まであり、過去が過去であり、未来が未来であるということだけをもって、その今や過去や未来をただ肯定するということを指している。)

今を今としてただ肯定するとはどういうことなのか、僕にはよくわからない。例えば、今、大学受験に合格したならば、今をただ肯定することは容易であるように思えるけれど、よく考えてみれば、それはネットに受験番号が出ていたという過去の出来事を喜んでいるだけだと言える。または、未来の大学生活への期待から嬉しい気持ちを抱いているだけだとも言える。傍目から見てどんなに今、幸せそうな状況であっても、その当事者は、今を今としてただ肯定するなどということはしていない。

一方で、過去についてはそうではない。過去を過去としてただ肯定するということには明確な実例がある。過去を過去としてただ肯定するということが象徴的に示されるのは、例えば、はるか遠い過去を過去として懐かしむような状況である。たいていの過去は、それがたとえ忌まわしい過去であっても、やがて思い出として肯定的に受け止めることができるようになる。数十年前、僕が学生時代にやらかしてしまった失敗は、当時は、なかったことにしたいものだった。だけど、今ならば、あのときの失敗があったからこそ、今の僕があったとさえ思うことができる。このように思うとき、過去をその内容のいかんにかかわらず肯定しているという意味で、僕は、過去を過去としてただ肯定することができているように思える。その過去が今から遠く離れているほど、その過去を過去として肯定することが容易になるのである。

同様のことが、未来を未来として肯定する場合にも言えるだろう。直近の未来については、なかなか未来をそのまま肯定することは難しい。競馬場に行き、自分が買った馬券が当たるかどうか気になっているときに、数十分後の未来がどのような内容であってもただ肯定するという態度をとることは難しい。当然、自分が賭けた馬が一着になることが肯定すべき未来であり、そうでない未来は否定すべき未来である。だけど、もう50歳になる僕にとって、数十年後の未来はそうではない。いわば、そこに未来があるということだけで肯定したくなるような未来である。年寄りは若者に対して、若いというだけで素晴らしいことだと言いたくなるけれど、それは、その若者には、その内容はともかく、未来があるからだ。未来を未来として肯定するとはそのようなことである。その未来が今から遠く離れているほど、その未来を未来として肯定することが容易になるのである。

過去を過去として肯定するとは、はるか遠い昔を懐かしむようなものであり、未来を未来として肯定するとは、はるか遠い未来を夢見るようなものである。そんなにも遠い過去があるということ自体が喜ばしく、そして、そんなにも遠い未来があるということ自体が喜ばしい。そういう思いは、多くの人に想像がつくだろうし、実際、僕ぐらいの年齢となった人であれば、多くの人の共感が得られるように思う。

以上のことに同意いただけたなら、そのようなありがちな話を少々操作し、はるか遠い過去のことをより近い過去にも適用し、はるか遠い未来のことをより近い未来にも適用することもできるはずである。昨日のことであっても、それが過去としてそこにあるということだけをもって過去を肯定することはできるし、明日のことであっても、それが未来としてそこにあるということだけをもって未来を肯定することはできる。確かに、僕のような凡人では、それが壮絶ないじめを受けた昨日であったり、ガス室送りになる明日であれば、なかなかそのように肯定することはできないけれど、たいていの日常的な日々についてであれば、そのように肯定することは、心がけ一つで実際に可能であるように思える。

こうして、今から視線をずらし、未来と過去に目を向けることで、それ自体を「ただ肯定する」ことは容易に可能となるのである。

10 ワクワクと光

僕は、このようにして見出すことができる未来と過去の肯定性を、「ワクワク」と「光」という言葉に象徴させることとしたい。「ワクワク」のほうは簡単である。数十年後の未来であっても、明日であっても、未来を肯定するとは、未来にワクワクするということである。今やっている駄作朝ドラでいうならば「ちむどんどん」でもいいけれど、すぐに忘れ去られそうだから「ワクワク」にしておく。未来を未来として肯定するとは、その未来にワクワクするということである。買った馬券が当たっても当たらなくてもどちらでもいい。ただそのわからなさ、不確定さにワクワクするのである。ドラゴンボールで孫悟空は強敵との勝負の前、「オラ、ワクワクすっぞ~!」と言うけれど、このワクワクである。孫悟空は勝つか負けるか不確定な勝負に挑むことができるからワクワクするのである。未来の内容ではなく、その不確定さ自体に肯定性を見出す態度が「ワクワク」である。

一方の「光」は多少説明が必要だろう。この話は僕の私的で多少眉唾な経験に基づいている。僕は以前、退行催眠療法のようなものを受けたことがある。催眠により前世まで遡ることができる、との噂を聞き、興味本位で受けてみたのだ。カウンセラーの家に行き、催眠を受け、記憶?を遡っていくうちに、僕の感覚は小中学生まで遡っていった。だけど、僕は、小中学校の頃が嫌なものであったことまで思い出してしまい、そこで退行が止まってしまった。そこでカウンセラーが、子供の頃の僕に、光をあてて癒やしてあげましょう、と言ったのだ。ただ光を当てることをイメージすればいいらしいのでそのようにした。結局僕は、それ以上遡るのはいいです、と断って、僕の退行催眠は終了したけれど、なぜか、そのときにやった光を当てるという作業がずっと心に残っている。本当に僕は退行催眠に入ることができたのか、また、本当に過去にアクセスすることができたのか、といったことはよくわからないし、正直、かなり怪しいと思う。だけど、過去に光を当てるという作業だけは、そこに何らかの真実が含まれているように感じるのだ。

過去に光を当てるとは、つまり、過去の内容ではなく、その過去自体に肯定性を見出す態度であると言ってもいいだろう。どんなに楽しい過去でも、どんなに苦しい過去でも、過去は確定してそこにある。過去とは、その内容によって肯定されたり否定されたりするものではなく、そこに確定した過去があるということだけをもって、ただ肯定されるものなのである。その肯定を表現するのが、過去に光を当てるという行為なのである。

未来の不確定性を肯定するのが「ワクワク」であり、過去の確定性を肯定するのが「光」である。未来と過去の間にある今を生きる僕は、未来にワクワクし、過去に光を当てるようにして生きることで、ほぼ、今を内側から肯定的に生きることができていることになる。ワクワクと光とは、語りうる最小限の人生のストーリーにかなり近いと考えられる。

11 特異点

だが、未来と過去は今ではない。未来と過去をどれほど肯定しても、または、未来と過去をどれほど一般化し、具体的な内容から遠ざけたとしても、それは今という最小限の内側を肯定したことにはならない。

それでも僕は、少なくともある側面では、未来と過去を肯定することが、今を肯定することに直結すると言えると考えている。なぜなら、今とは、未来と過去が重なる地点のことである、という捉え方もできるからだ。今とは、未来と過去が重なる特異点のことであり、未来の不確定性と過去の確定性が重なる特異点である、という捉え方は、「今」のある一面を的確に把握できていると思う。

それならば、今をうまく生きるための方法は、未来と過去をうまく生きるための方法を応用すればいい。僕は、今にワクワクし、今に光を当てるように生きることで、今をうまく生きることができるはずなのである。今が持つ不確定性の側面に対しては僕はワクワクし、今が持つ確定性の側面に対しては僕はただ光を当てるようにして生きる。これが、今のところ思いつく、最良の人生のうまい生き方である。

12 厚み・気功

理論的には以上のようにまとめることができるけれど、そこには加えて実践面での難しさがある。一瞬でしかない今をうまく捉え、そこに未確定の未来の側面と、確定済みの過去の側面の両面を見出すということが技術的に難しいことは明らかだろう。

ここから実践面を考察するために念のため確認しておきたいが、この問題を解決するために、外部にある未来と過去を今に取り込むかたちで今を拡大することはできない。あくまで僕は、今という内側に未来と過去の両側面を見出そうとしているのであり、外在する未来と過去を内側に混入させようとしている訳ではないからである。

それならば、とるべきは、今を今として拡大するという道筋であり、いわば今に厚みを持たせるという方策となるだろう。

そこで実践的なヒントとなるのが気功である。以前から僕はヨガが好きだったけれど、最近、ちょっと気功&太極拳をかじってみている。哲学からは離れてしまうが、ここで、そのような話をしてみたい。眉唾なので話半分で聞いてもらいたい。

さて、ヨガでは呼吸を大事にする。吸気と呼気に意識を向け、体の中に気を巡らせる、なんていう捉え方もする。だけど、気功ではそうではないようだ。先日、初めて気功を体験したとき、ヨガっぽく、動きと呼吸を連動させていると、どうも息が続かなくて苦しくなってきた。そこで先生に聞いてみると、どうも呼吸はあまり気にしないほうがいいらしい。吸っているようで吐いていて、吐いているようで吸っている、という感じがいいようだ。また、興味深いことに、手の動きが、ヨガと気功では逆になる。体の前に出した手を左右に開いて閉じる動作を繰り返すとき、ヨガならば開くときに息を吸い、閉じるときに息を吐くことになると思う。手を開くにつれて肺が拡がると考えれば、これが自然だろう。だけど、気功では逆で、開くときに息を吐き、閉じるときに息を吸うらしい。きっとこれは、自然な動きとあえて逆の動きをすることで、吸っているようで吐いていて、吐いているようで吸っている、を体現しているのではないだろうか。

なぜこんな話をしたのかというと、僕は、ヨガにおける吸気を未来と結びつけ、そして呼気を過去に結びつけているからだ。別に、逆の組み合わせでもいいのだけど、大事なのは、呼吸と未来・過去の時間とを結びつけることができるというアイディアである。そこから、呼吸というかたちで未来と過去を重ね合わせることにより、今を描き出せるという話を導くことができる。これは先ほどのアイディア、つまり特異点としての今を未来と過去の重ね合わせとして捉え、そして今の肯定を、未来と過去の肯定に読み替えるというアイディアとつながっている。

一方で気功では、呼吸の呼気と吸気の違いをあいまいなものとし、呼吸と未来と過去の関係をあいまいにしてしまう。これはつまり、今を未来と過去の重ね合わせとして捉えるのではなく、今に厚みを持たせ、そのなかに渾然一体となった未来と過去を見出すことだと言ってもいいのではないだろうか。気功が実際にそのように考えているのかどうかは知らないけれど、僕にはそのようなことを体現しているようにしか思えない。

素人の僕が解釈した気功によれば、今は一瞬ではない。今には厚みがあり、その今において呼気と吸気が渾然一体となって行われている。今の厚みとは、気功における気、それ自体の厚みであると言ってもいいだろう。気は丹田に貯まるらしいけれど、その気は全身をめぐる。つまり、気には少なくとも体の幅だけの厚みがあることになる。達人は気を大きく練ることができるから、その気の範囲の中で重心移動やら何やらをうまくこなすことができる。それは、つまり自分の気の範囲のなかで対処できるということであり、または、今の範囲のなかで対処できるということである。

ここまでの文脈に基づくならば、気功とは、今に厚みを持たせるよう練り上げられるものだと言ってもいいだろう。(または、永井均的に言うならば、〈私〉に厚みを持たせるように練り上げられるものだと言ってもいいだろう。)

僕は今にワクワクして、そして今に光を当てる。これこそが気を練り上げるということであり、そして今に厚みを持たせるということなのではないだろうか。

これが当面の、気功の秘訣であり、そして、僕がうまく生きる方法だということにしておきたい。続きがありそうだけど。

私と世界の対話 自然科学のこと

先ほど僕は、今僕は「動性」に関心があるという投稿をした。だけど実は、もうひとつ関心があることがある。それは「なぜ世界はこんなにうまく自然科学的に整合しているのか。」という問題である。この問題は、「動性」の問題よりも前から考えていて、ここ数年、頭の片隅に居座り続けている。(そういえば、すでに『自然科学について』http://dialogue.135.jp/2021/08/02/kagaku/ という文章も書いている。)

なぜ、自然科学の整合性がそれほどまでに大問題なのかというと、僕は、僕が考えている哲学のアイディアでは、二つの方向で捉え損ねてしまうものがあって、そのひとつが自然科学の整合性の問題だと考えているからだ。

(ちなみにもうひとつの問題とは、入不二の現実論や永井の独在論のような、形而上学的な存在論の問題であって、今僕が問題としている「動性」の問題は、そちらのほうに属する問題だと考えている。)

僕の哲学のアイディアとは、すでに何度か言及したかもしれないけれど、このブログのタイトルが「対話の哲学」であるとおり、「対話」という切り口から哲学ができるのではないか、というものである。

だが、この「対話」というアイディアでは自然科学の整合性をうまく説明することができない、それが大問題なのである。

自然科学の不思議さは、僕たち人間との対話などなくても、独立してうまく成立しているというところにある。人間や(人格を持った)神様のような存在などなくても、人間が解明した、または未解明の自然法則に基づき、世界はうまく成立している。ニュートンが解き明かす前から、リンゴはニュートン力学に沿って木から落ちていたし、アインシュタインが解き明かす前から、星の光は太陽の重力によって影響を受けていたはずなのである。

世界は、人間とは無関係に自然科学的に整合して存在している。それも、人間がすでに知っているあらゆる科学よりも遥かに精緻なかたちで。世界は、人間から発見されても発見されなくても、そんなことは関係なく、人間など関係なく、自然科学的に整合して存在している。人間は、そのようにすでに成立している自然から、事後的に発見するようにしてしか自然科学をやることはできない。世界は、人間との対話など無関係に、自然科学的な存在なのである。

なお、自然科学的のことを考慮にいれないならば、世界の存在を「対話」という側面から説明することはできる。

なお、僕は、今、「対話」を「問答」と言い換えたほうがいいかもしれないと考えている。(これは、入江幸男の『問答の言語哲学』の影響である。)そのうえで、世界を「問答(対話)」的に説明するならば、以下のように述べることができるだろう。

私があなたに問うのは、私が不飽和だからである。そして、私が問うから、あなたは答える。このようにして問答、つまり対話は成立する。

同様に、世界は不飽和だから、世界は私に問う。世界は、「現象する」というやりかたで問いを表現し、私はその「現象」を受け入れるから、世界からの問いを、問いとして理解することができる。そして、世界が問うから、私は世界に答える。世界から私が問われるとは、私が世界に関わるということである。

そして、私は、行為というかたちで世界に問う。そして、世界の「現象」を、私は私の問いへの答えとして受け取り、理解する。

このようにして、世界が存在し、そして世界が現象するということについては、「対話」的な説明が可能である。だが、その説明では、世界が自然科学的に存在し、そして、世界が自然科学の法則に沿って現象している、ということまでは説明できない。

だが実は、僕には、この世界の自然科学的な整合性の問題について、有望な解決策がある。(だからこの文章を書いた。)

それは、「自然科学がうまくいっているのは、私のほうが、自分とひとつながりの整合したものとして世界を受容せざるをえないからである。」というアイディアである。つまり、世界の整合性の秘密は、私のなかにこそ隠されているということである。

そのようなアイディアはありきたりなものかもしれない。だが僕は、入不二の現実論や永井の独在論を通じて、私というものをかなり拡張して考えることができると予想している。だから、このような解決の道筋は、単なるひとりよがりにはとどまらない広がりがあるだろうと思っている。

そして、僕はいつもこうなってしまうのだけど、この話は時間論に繋げられると考えている。世界の整合性の秘密とは、別の言い方をするならばこのようになるのではないだろうか。

私は、過去について、整合的にしか理解することはできない。そして、私は、未来についても、過去のような未来だと思うことしかできない。自然科学的に整合的な世界とは、そのような過去化された世界の別名である。

当然、まだまだ疑問はある。自然科学の整合性を有する理由について、もし、世界や自然科学の側にその理由があるのではなく、私や過去の側に理由があることが認められたとしても、その整合した世界が、なぜ、このような、いわゆる自然科学的な整合性を有していなければならないのだろうか。また、私と世界という二分法や、過去と未来という二分法は、この自然科学の整合性とどのような関係があるのだろうか。そして、そもそも整合性とはなんだろうか。自然科学的ではない整合性などありえるのだろうか。そんなことを考えたくなってくる。

世界の整合性が私や過去とつながる問題だと主張するということは、つまり、世界の整合性と、私の過去の記憶とは切っても切れない関係にあると主張するということである。世界の整合性とは、つまり記憶の整合性のことだと言ってもいいくらいだ。

当然、過去にも未来はあったし、現在もあった。過去にも想定外の未来はあったのだろうし、過去にも自由意志を発揮する隙間としての未来もあったはずである。だが、それが過去の出来事として理解される限り、そのような未来も現在も自然科学的な整合性から逃れることはできない。

これが自然科学的な決定論である。そのように未来や現在を過去化して捉えるということは、つまり人生を過去化して捉えるということであり、人生を、自然科学的に決定したもののして捉えるということである。

だがこれは、人生を、科学的決定の検算・検証のためだけの人生に貶めるということではないだろうか。これは極めてつまらない考え方であり、僕はもう少し抵抗を試みたい。

動性

とりあえず、これまで考えていたことが一段落したので、新しいことをモヤモヤと考えている。今、僕が考えているのは、「動性」についてである。

何にせよ間違いというのは、その何かを「動的」でなく「静的」なものととらえるところから、始まっているのではないだろうか。

これは、前から考え始めていたことだけれど、より強く考えるようになったきっかけは、ネコのチーズの死と、入不二の文章(動画も含む)だったように思う。より正確にいうと、入不二の文章から学んだことが、チーズの死に対する僕の態度に影響を与え、そして、チーズの死を通じて学んだことが、入不二の文章のより深い理解へとつながっているように思っている。ここには、チーズと入不二との動的な関係性があると言ってもいいだろう。

正直、僕はこの2,3ヶ月、立ちすくんでいた。チーズがいなくなり、そして同居ネコのタックンまで調子が悪くなり、そして仕事も忙しくなり、僕は消耗しきってしまって、動けなくなってしまったのだ。自分だけの時間がとれても、寝ることしかできなくなってしまった。ただし、それは1、2週間のことで、そのうち、携帯ゲームくらいはできるようになり、ようやく、映画くらいは観れるようになってきた。そして今、そろそろ、文章でも書いてみようか、という気持ちになっている。すごろくの「一回休み」の期間がそろそろ終わり、再始動しようかな、と思えるようになってきている。僕は「静的」な数ヶ月を過ごしてきたように思う。

そのような経験を踏まえても、「静」よりも「動」が望ましい。「静」というのは、あえて選ぶものではなく、動けないから「静」でいるしかないのである。

僕の「動性」のイメージは太極拳だ。昔、僕は、テレビのバラエティ番組で日本の気功家(そういう名称かは忘れたけれど。)と中国の気功家が対決しているところを観たことがある。数分間、二人が気を練り合って、その気を相手にぶつける、というものだった。面白かったのは、気の練り方の違いである。日本の気功家は、動かず、集中して、気を練り上げている一方で、中国の気功家はおどるようにして、指先や手を円を描くように動かしていた。その結果、先に相手に気をぶつけた日本の気功家の攻撃を中国の気功家はものともせず、その後、中国の気功家から気をぶつけられた日本の気功家はスタジオの端に吹っ飛んでいった。中国の気功家の勝利だった。

どうでもいいバラエティ番組だったけれど、それが妙に心に残っているのは、負けた日本の気功家が、どのような状況だったのかを真摯に説明していたからだ。うろ覚えだけど、確か、自分の丹田のところで練りあげた気が、それよりはるかに大きな気に弾き飛ばされたと言っていたように思う。僕は説得力があると思ったし、中国の気功家はすごいと思った。実は単なる催眠術かもしれないけれど、日中が真摯に対決した結果、気功にせよ、催眠術にせよ、中国が勝ったのだ。静の日本より、動の中国のほうが強かったのだ。

だから、僕が「動性」についてイメージするのは太極拳だけど、より正確には、あのバラエティ番組の怪しい中国の気功家の動きである。踊るように、指先や手を円を描くように動かす、あの動きである。実は、あれが太極拳と関係があるかどうかは全くわからないけれど、太極拳も円を描くように動くというし、似たようなものではないかと思っている。

そんな昔のことは忘れて、リハビリのため、携帯ゲームをしたり、パソコンで映画を観たりしているとき、ふと、「イップマン」という映画を観た。10年くらい前の比較的新しい、いわゆるカンフー映画で、なんにも考えたくなかった僕にはちょうどよかったのだ。そして、僕はふと、昔のバラエティ番組での中国の気功家を思い出した。やはり、「動性」はかっこいい。

イップマンは詠春拳という流派の達人で、ネットで調べたところ、詠春拳は比較的、棒立ちのような高い基本姿勢をとるようだ。映画の中のイップマンも、確かに、そのような姿勢から対戦を始めていくことが多かったように思う。

ただし、その棒立ちのなかには、無数の動性が秘められている。絶え間ない状況把握や、相手の僅かな動きに対する僅かな反応・調整などが、そこでは繰り広げられている。そこがかっこいいのだ。

だから、戦いのなかで大きな動きが始まってしまったら、逆に、そこで動性は失われてしまうと言ってもいいだろう。例えば、足を大きく振り上げて蹴りを繰り出したなら、その蹴りの動作を完了させるまでは、蹴り以外の動作をすることはできない。蹴りという一連の動作を行っている間は、動作は蹴りに固定化される。そこにあるのは「動」ではなく「静」なのである。

そのように考えるならば、「静」とは固定や固執と言い換えてもいいように思える。僕は、ネコの体調や、仕事のことが気にかかって、そこに僕の気持ちが固定され、僕は疲れて動けなくなってしまったのだ。一方の「動」とは、そのような「静」からの解放と言ってもいいだろう。僕は「動性」について、そのようなポジティブなイメージを持っている。

僕はそこに、僕が好きな時間論を結びつけたくなる。「静」とは過去への固執であり、「動」とは過去からの解放としての未来のことなのではないだろうか。どんなに正しく、美しいものであっても、それが過去のものとなり、固定化されてしまえば陳腐化する。僕とネコのチーズとの間の楽しい思い出も、それが過去のものである限り、陳腐化を免れることはできない。だから、僕とチーズとの関係をよりよいものとするためには、これから、未来に向かって僕とチーズの関係を創造していくしかない。なお、死んでしまったネコと関係を築くのはなかなか難しいので、そのためには、「ありがとう」という感謝が大事だということを、僕はチーズから学んだ。(先日、そんなことを書いている。『チーズから学んだこと』http://dialogue.135.jp/2022/05/30/junkan/

僕が考える「動性」とは全面的な「動」である。なぜなら、全面的な「動」でなければ、そこに「静」が取り残されてしまうからである。

気をつけるべきは、アルキメデスの支点である。何かを正確に描写するためには、固定的な視点が必要である。動性をうまく捉えるためには、その動性を捉えようとする視点だけは固定する必要がある。動く被写体をブレずに撮影するためには、カメラを三脚に固定する必要がある、ということに似ている。

だから、固定した視点にせよ、支点にせよ、それを拒否し、全面的な「動性」を捉えることは極めて難しい。例えば、この言語も固定的な装置であるとも言え、全面的な動性を描写するために言語を用いることはできないはずなのである。

だから、少しでも全面的な動性の把握に近づくためには、言語だけではない、身体性のようなものも考慮に入れる必要があるだろう。それが、イップマンであり、太極拳であり、気功であってもいいような気がする。

なぜ身体性かといえば、この身体の動きの遂行にこそ、全面的な動性に向かう経路を見出すことができるように思うからだ。より正確には、僕は人生を生きることを、日常的に、身体的に、遂行しているけれど、この遂行性にこそ、動性の核心があるように思えると言ったほうがいいかもしれない。僕は、遂行、身体、日常といったものを、思考、哲学、言語の対極に置くことで、全面的な動性についての議論を始めることができるのではないか、と今のところ考えている。

永井と入不二の相克

この文章は、『永井と入不二の対比 ~「現に」と「今の私において」~』http://dialogue.135.jp/2022/05/04/taihi/

の続きで、後半部分になります。35000字以上になってしまいました。

足して50000字近くになるはずなので、そのうち前半とあわせて書き直して長文のほうに載せようかな。

1認識論・意味論・存在論

(1)存在論の無内容性

ここからは、永井と入不二の違いに注目していきたい。だが、違いを述べるため、もう少しの間、共通点に目を向けていきたい。なぜなら、二人が袂を分かつその瞬間でこそ、その違いは鮮やかに浮かび上がるはずだからだ。

僕が理解している範囲では、二人の共通点として、哲学的議論は、認識論・意味(言語)論・存在論の三つに分けることができる、という議論の枠組みがあるように思う。また、永井と入不二はいずれも、明らかに、そのうちの存在論をやっているという共通点もあるように思う。つまり、二人は、認識・意味(言語)・存在について共通の捉え方をしているように思われるのだ。

では共通の捉え方とはどのようなものかというと、永井や入不二のような存在論をやる立場からすれば、認識論・意味(言語)論・存在論という三種類の議論は競合する並列の関係にはないという点が重要である。認識論と意味(言語)論は、存在論を論じるための手段である。だから、目の前にペットボトルが認識されているからペットボトルは存在している、とか、「ペットボトル」という言葉の意味によってペットボトルの存在が示されている、などと論じられることになる。存在論においては、存在こそが唯一の論点であり、認識や意味(言語)は存在を論じるための手段なのである。

その結果、存在論の議論における「存在」は抽象化していくことになる。なぜなら、存在自体には(少なくとも常識的な意味での)内容がないからだ。その存在がペットボトルだったり、コップだったり、三角形だったりといった内容を持つのは、そのような認識や意味があるからである。だが、存在論においては、認識や意味はあくまで存在論を前進させるにあたっての手段だから、なるべく、そのような便宜上の手段からは距離をとり、存在そのものに迫っていくべきだ、ということになる。その結果、存在論は、認識や意味により把握できる存在するものの内容(内包)ではなく、存在そのものを議論の対象としていかざるを得なくなる。こうして存在から内容が失われるのである。

こうして、存在論をやる限り、「(認識や意味ではない)存在とは何か。」という問いだけが真の存在論のテーマとなり、そして、永井や入不二が到達したように、存在とは「無内包(無内容)」である、という地点に到達するのは必然である、ということになる。以上が僕が素描する二人の存在論の共通点である。
(なお、永井ならば自分がやっていることは存在論ではなくて独在論だと言うだろうし、入不二ならば存在論ではなくて現実論をやっていると言うだろう。だが、いずれも従来の存在論とは全く異なる新たな存在論であると表現することはできるように思うし、そのような意味で、独在論や現実論を広義の存在論と呼ぶことを二人は否定しないように思う。よってここからは、存在論とは、独在論や現実論も含む広義の存在論を示す言葉として用いることにする。)

当然、存在論が認識論や意味論から完全に離れることはできない。なぜなら、認識や意味といった議論の手段なくして、存在という議論の対象を指し示すことはできないからだ。手段なくして対象に迫ることはできない。存在論においては、存在という議論の対象と認識・意味という議論の手段はいずれも欠くことができないのである。よって認識や意味についての考察を深めることを手段として、存在に迫ろうとしているということも二人の共通点であると言うことができる。

(2)意味論の強さ

ここからは、存在論において認識論と意味論が必要であると主張する根拠について述べていきたい。

まず、意味論が存在論において必要であることは、永井や入不二の議論から確認できるだろう。永井の独在論においては、共通認識としての「私」・「今」、実存としての《私》・《今》、独在的な〈私〉・〈今〉という三段階の考察により、私の今の議論が深められていく。そのうちの第一段階の「私」・「今」や第二段階の《私》・《今》については意味論とあわせて認識論も重要な役割を果たす。だが更に議論が深まり、第三段階の〈私〉・〈今〉にまで深まると、前半で述べた通り、認識論は役に立たなくなるが、それでも意味論的な説明からは逃れることはできない。永井の独在論をゴールまで運んでくれるのは意味論である。

(例えば僕は、前半で、「記憶や認識は関係がないという意味で、〈私〉は意味論的に時間連続性を有する、と言い切ってもいいだろう。」と述べている。)

入不二の現実論においても意味論が決定的な役割を果たす。例えば入不二は、現実性の力の透明な遍在性を示すうえで、すべての文に「現に」という語を付加することができる、という議論を持ち出す。「現に、ソクラテスは哲学者である。」、「現に、東日本大震災が起きた。」というように。これらの文は「現に」をつけずに、「ソクラテスは哲学者である。」、「東日本大震災が起きた。」としても全くその意味は変わらない。

また、入不二の主著『現実性の問題』においては、第一章の円環モデルや、追記とあとがきでのActu-Re-alityの構造のように、概念と概念の関係を図で示すような議論が重要な役割を果たしている。

これらの説明はすべて言語を用いた意味論的な説明であり、このような意味論的な説明を経由することで、入不二ははじめて、透明で遍在的な現実性の力を示すことに成功しているのである。

二人の議論は、具体的な観察や認識に基づかない議論であるという点で意味論的な存在論と呼ぶことさえできるだろう。永井の独在は、クオリアと呼ばれるような、ありありとした独在の認識とは関係なく、意味として独在なのであり、入不二の現実も同様に現実の認識とは関係なく意味として現実なのである。このように、別の二人の存在論において意味論は決定的に重要な役割を果たしている。

そもそも、哲学というもの自体が言語により論じるものであるという点で極めて意味論的な活動であり、哲学とは意味論であるとさえ言える。意味論を離れて哲学をやるということは、つまり、言語を用いずに哲学をやるということであり、それは永井であっても入不二であっても不可能なことである。彼らがやっていることが言語を用いる哲学という営みである限り意味論から逃れることはできない。意味論にはこのような強さがある。

(3)認識論の強さ 「真の実感」

では、もう一方の認識論はどうだろう。哲学において認識は言語ほどには重要ではない、と考えるならば、認識論は意味論に比べれば弱い議論だと思えるかもしれない。認識とは、我々人間という動物が持つ五感という機能にもとづく極めて偶然的なものだし、見間違いや夢の懐疑などにより容易に疑うことができるものである。これはコップではなくグラスである、というような認識の内容にはそれほどの哲学的な深みはないようにも思える。

だが認識の重要性としてまず指摘できることとして、哲学を始めるためには素材としての何らかの認識は必要なはずである、という点がある。認識の具体的な内容はともかくとして、何らかの認識は必要であり、全く認識がないとしたら、やはり哲学は始まらないようにも思われる。哲学において認識を全く欠くことはできないだろう。

だが僕は、哲学において認識が必要不可欠であるとすべき、より重要な理由があると考えている。言葉が意味を持つためには、「真の実感」とでもいうべき特殊な認識が必要である、というのが僕のアイディアである。言語とは、言語自体としての意味論と、「真の実感」としての認識論とがむすびつくことで、ようやく理解可能なものとなるのではないだろうか。そうだとするならば、哲学という言語活動が成立するためには、言語自体としての意味論と、「真の実感」としての認識論とが必要なのではないだろうか。

さて「真の実感」というのは僕が勝手に作った概念だから、説明が必要だろう。具体例をいくつか用いながら、「真の実感」という概念を導入していきたい。

まず「目の前にペットボトルがある。」という文について考えてみよう。この文が真であるためには、目の前にペットボトルがなければならない。しかし、「目の前にペットボトルがある。」という文があり、目の前にペットボトルがあるだけでは、その文は真とならない。なぜなら、視覚や触覚でそこにペットボトルがあることを認識しなければならないからである。だがそれだけでも足りない。なぜなら、ペットボトルを観察する主体は、本当に目の前にペットボトルがあるとは知らないから、それは見間違いや思い違いだと思うかもしれないからである。そのような可能性を排除するためには確かに「目の前にペットボトルがある。」という文は真であるという実感を持たなければならないはずだ。これが「真の実感」である。

同様に「2011年3月11日に地震があった。」という文が真であるためには、そのときの職場での記憶を呼び起こし、過去を再生するように認識したうえで、確かにその文が真であるという実感を持たなければならない。また「1025+4=1029」という文が真であるためには、暗算をしたうえで、確かにその文が真であるという実感を持たなければならない。

ここで3つの例を出したが、それぞれのプロセスの最後に付け加えられている「真の実感」はこじつけであり余計だと思われるかもしれない。常識的に考えるならば、目の前にペットボトルがあることや、東日本大震災の記憶が勘違いだと思うことはありえない。その文と、認識や記憶との対応を確認できさえすれば、更に真の実感など加えなくても、その文を真と認めることができるのではないだろうか。

だが僕はそれに反論したい。少なくとも最後の計算の例では、文に対応する認識や記憶がないので、頭の中で行った計算が計算間違いではなくて正しいものだと判断する手がかりは認識や記憶のようなものではないはずだ。そこで文を真とするのは「腑に落ちた」とでも表現したくなる「真の実感」しかない。そこに認識や記憶のようなものでアクセスできる客観的な手がかりがあるからではなく、自分の中の実感として、計算結果が腑に落ち、これ以上計算結果を疑い、検算しなくてもいいと感じたからこそ、その文が正しいことになるのである。もし、「真の実感」のようなものを必要とせず、検算との突き合わせにより真偽を確認できるとするならば、検算は無限に遂行されなければならないはずであり、検算をどこかでやめるためには、どこかで実感として腑に落ちる必要があるはずなのである。

それを認めるならば、ペットボトルや地震についても同じことは言える。外出するときに本当に戸締まりをしたか気になることがある。かすかに戸締まりをした記憶があったとしても、それは昨日の記憶かもしれない、なんて思うことは十分に日常でありえることだ。また、宝くじが当たるようなことがあれば、これは夢なのではないだろうか、なんて思って頬をつねることもあるだろう。戸締まりや宝くじの場合、「1025+4=1029」と同程度には検算が必要となるはずである。

更にそれを認めるならば、宝くじとペットボトルの認識の間にあるのは、または戸締まりと大震災の記憶の間にあるのは、程度の差でしかない、ということも認めなければならないだろう。ペットボトルの認識や地震の記憶について、悪魔に騙されているのかもしれない、とデカルトのように疑うことはできるはずなのに、あえて疑わないのは、その認識や記憶が腑に落ちて、見間違いや思い違いでないかどうか、または悪魔に騙されているのではないか、これ以上確認しなくていいと感じたからこそである。そのようなプロセスを経るからこそ、その文が正しいことになるのである。認識や記憶のプロセスのなかに含まれる「疑わない」という手順を見過ごさずに議論を組み立てるためには、腑に落ちたからこれ以上疑わなくてよい、という「真の実感」のようなものを想定することは必要不可欠なのである。

僕はこの「真の実感」こそが認識論の最深部だと考えている。そして、この「真の実感」は言語の成立そのものにも関わっている。言語自体としての意味論と、「真の実感」という認識論が共働することで、ようやく言語を成立させることができる。つまり、そこから哲学が始まるのである。

なお、例えば「目の前にペットボトルが見える。」というような感覚報告の文では「真の実感」が必要ないと考えるかもしれない。だがこのような感覚報告の文は、そもそも認識を必要とするから認識論の重要性を補強する例とも言える。または、このような感覚報告の文とは、「目の前にペットボトルがある。」ということを視覚で確認し、それに「真の実感」を感じることができた、というプロセスを表現した文だと捉えることもできるだろう。いずれにせよ、感覚報告の例は、認識論の重要性に対する反論とはならない。

(4)哲学とは存在論である

さて、哲学をするためには、言語自体としての意味論と「真の実感」としての認識論はともに重要であり、哲学の手段として、意味論と認識論は必須であるということを認めていただいたとしよう。では、意味論と認識論を手段として用いて哲学が何をするのだろうか。

その答えこそが存在論である。なぜなら、永井や入不二に習って、哲学を意味論と認識論と存在論の三つに分けることができるとするならば、意味論でも認識論でもないものは存在論しかないからだ。更に言うならば、哲学とは言語を手段として行うものだと捉えるならば、哲学とは手段としての意味論・認識論ではないもののことであり、つまり、哲学とは存在論なのである。

では、存在論とはなにかといえば、手段としての意味論や認識論ではないもの、という以上の内容の規定はない。だから存在論は無内容なのである。これは、意味や認識を切り離すならば、存在は無内容だというのと同じことである。

付言しておくと、世の意味論や認識論と呼ばれる哲学が、目的と手段を取り違えるような間違いをしているのかというと、決してそうではない。意味や認識という道具を研ぎ澄ますことによってこそ哲学は先に進むことができる。哲学を先に進める方法はそれしかないとも言える。意味論や認識論とは、意味や認識という手段の重要性を強調した場合の哲学の呼称なのである。そして、哲学とは存在論だとするならば、意味論や認識論とは、存在論を前進させるために必要な手段に着目した場合の存在論の別名であるとさえ言える。

逆に、認識や意味という議論の手段ではなく存在という議論の対象に着目している哲学者、つまり存在論をやっているとされる哲学者であっても、自らの存在論を前進させるためには、意味や認識という手段についての考察を深めるしかない、とも言える。存在論をやるためには、意味論や認識論をやるしかないのである。

つまり、存在論とは意味論・認識論であり、意味論・認識論とは存在論なのである。それこそが哲学であり、哲学とはそのようなあり方しかできない。その営みを、意味論・認識論・存在論のいずれの名前で呼ぶかは、その唯一のあり方しかない活動について、どの側面を重視するか、という選択でしかない。つまり名付け方の違いということである。

(5)一流の哲学

そして、永井の独在論と入不二の現実論は、上記のようなことを重々承知のうえ、自覚的に存在論をやっているという共通点があるように思う。二人がやっていることは、あくまで意味や認識を道具として使うということを自覚しつつ、ひたすら、意味でも認識でもないもの、つまり存在に対する理解を深めていこうとするような議論なのである。

なお、彼らがやっていることは、そのようにして存在を突き詰めようとする存在論だから、常識的な意味での存在という言葉からは大きくかけ離れている。だから永井は、自分がやっていることは存在論ではなく独在論だと言うだろうし、入不二も自らの議論は存在論ではなく現実論だとするのである。

常識的には、存在という表現には、何かが存在している、という内容(内包)を伴うような語感がある。永井ならば、そのような内容の挿入、永井用語によるならば〈ものごとの理解の基本形式〉を拒否するものこそが独在である、と言うだろうし、入不二ならば、現実はそのような内容の挿入をすべて異論なく受容したうえで、そのような内容と存在は無関係である、とするはずだ。その理路は大きく異なるが、存在を無内包(無内容)と捉えるという点で、彼らの議論はいわゆる存在論からは明らかに乖離している。

だが、ここまで論じたように、広義の存在論というものを措定するならば、二人がやっていることは、認識論でも意味論でもないという限りでの広義の存在論、それも一流の存在論である。また、二人は、認識や意味という手段を極限まで研ぎ澄ましているという点では、一流の認識論や意味論をやっているとも言える。二人の哲学は、一流の存在論であり、そして一流の認識論・意味論であり、つまり一流の哲学なのである。

以上のように永井の独在論と入不二の現実論を重ね合わせることができる。

2拒否の力と受容の力

(1)嗅覚

ここまでが、永井と入不二を重ね合わせる作業であった。僕の言葉を用いるならば、永井がやっていることは、独在という存在のあり方についての議論であり、入不二がやっていることは、現実という存在のあり方についての議論である。ともに、意味や認識をあくまで手段として用いて、無内包で透明な存在そのものに迫ろうとしている。そのように二人の議論を結びつけて捉えるならば、存在を結節点とすることで、独在=存在、存在=現実、つまり、独在=存在=現実というようにして、存在・独在・現実を重ね合わせることができそうにも思える。では、二人が取り扱っている存在、独在、現実と呼ばれるものは、全く同じものなのだろうか。

僕は、この地点こそが、二人の議論の分岐点であると考える。だが、この分岐の議論を進めることには困難がある。なぜなら、二人がたどり着いた境地、つまり独在論、現実論と呼ばれる存在論は、少なくとも通常の意味での認識や意味を振り切っているという共通点があるからだ。そして、認識や意味を振り切っているのだから、認識や意味を手がかりにその内容の違いから異同を論ずることはできない。つまり、もし、独在論と現実論との間に違いがあるとしても、それは、認識や意味から把握できる内容の違いではないはずである。そして、その違いとは、言語自体としての意味論や、「真の実感」としての認識論、つまり言語の使用そのものからも離れた違いでなければならないのである。

ではどうすればいいのだろうか。哲学とは言語を使用する営みであるということに自覚的になったうえで、その言語の使用からなるべく距離をとり、哲学の対象、つまり存在そのものに切り込んでいくにはどうすればいいのだろうか。

それを曲りなりにも遂行するためには、言語使用のギリギリの際のところを見極め、そこで立ち止まるしかないと僕は思う。そのためには、僕たち読者は、彼らが書く文章の言葉遣いや、その文章を読んだときに読者として感じる「真の実感」のなかに残る僅かな痕跡を手がかりに、二人の議論の異同を嗅ぎ取っていくしかないと僕は思う。これを表現することは、永井や入不二ならばともかく、僕の実力では到底成し遂げることができない、アクロバティックな作業となるはずである。

(2)議論の力動性

残念ながら僕の力量では、その言語使用のギリギリの際を掬い取るような描写をすることはできないから、大雑把に僕が感じ取ったところを描写するしかない。

僕は二人の文章から「力」というキーワードを感じ取った。二人の議論にはともに力動性があるし、少なくとも入不二は「力」という言葉を重要視している。僕の嗅覚によれば、この力動性のあり方にこそ、二人の議論の違いがあるように思える。

更に大雑把に話を進め、結論から述べるならば、二人の間には、永井の力とは拒否の力であり、入不二の力とは受容の力である、という違いがあると僕は考えている。

(僕は拒否と受容について書いたことがある。『永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比』 http://dialogue.135.jp/2022/04/24/1houkou/

まず言えるだろうこととして、明らかに永井の議論には力動性がある。その力動性のうち、もっとも重要なものは、永井の〈私〉は、共通認識としての「私」、実存としての《私》、永井の独在的な〈私〉と議論がせり上がっていくようにして描写されるというところに現れているだろう。つまり、永井の議論には、「私」→《私》→〈私〉という力動性がある。

そのうえで、永井の力動性は拒否の力として捉えることができる。なぜならば、永井の議論における力の働き方のなかに拒否性を見出すことができるからである。それを最も象徴的に示しているのは、永井の〈私〉とは、共通認識としての「私」ではないし、実存としての《私》でもない、というように、「~ではない」という拒否の末に見出すことができるものであるということがある。そして、そのようにしてようやく見つけた〈私〉でさえ、永井以外の者が見出したものは真の〈私〉ではない、とされる。永井が到達した境地とは、そのようにしてすべてを拒否した末にたどり着く地点であり、より正確には、その到達すらも拒否する境地であると言ってもいい。以上が永井の拒否の力の素描である。

入不二の場合は、議論の力動性について、より自覚的である。『現実性の問題』における円環モデルには動性があるし、入不二自身が自らの現実性を「力としての現実性」と呼んでいる。

そして、入不二の力動性が受容の力であるというのは、つまり入不二の現実性とは、この世界にあるものはすべて現実であり、更にはまだこの世に存在しないものさえ潜在する現実である、というようにして全てを現実として受容した末に到達する境地であるからである。より正確には、そこに到達しないことをも受容することにより到達する境地と言ってもいいだろう。これが入不二の受容の力の素描である。

なお、二人が到達するのは、拒否や受容の結果として到達する静的な地点ではない。独在論や現実論はどこにも到達しない。その拒否や受容のプロセスとしての力動性にこそ、独在論や現実論のエッセンスがあるのである。

このことは、さきほど、哲学の対象は存在であり、意味(言語)や認識(真の実感)は手段である、としたことに重なる。彼らがやっているのは、哲学そのもの、という意味での存在論であり、その手段として、彼らは、言語使用そのものについての考察を研ぎ澄ませるということ、つまり意味論と認識論をやっているのである。意味論・認識論という手段=プロセスによってしか存在論という対象に迫ることはできないから、そこで行われる議論の重要性は、その議論の結果ではなく、その議論の力動的なプロセスにこそある、ということにならざるを得ない。存在とは議論の末に到達する静的な地点ではない。存在論とは、その議論(意味論と認識論)の力動的なあり方によってしか表現できないものなのである。

(3)独在から現実へと向かう無内包の力

二人の議論は、ともに力動性がありながらも、その力の働き方が拒否と受容という真逆のものである。僕の考えでは、これこそが二人の分岐点である。そして、これは分岐点だから、永井の拒否の力と、入不二の受容の力は、互いに互いを否定し合うような、対立するような関係にはない。あくまで同じものを共有しつつ、そこから分かれる二つの道である。

僕の言葉を用いるならば、二人の共通点は「無内包の力としての存在」というキーワードで表すことができる。永井と入不二はともに、実際に「無内包の現実」という言葉を使用しており、これらはほぼ同じことを表現していると言えるだろう。永井は、「私」→《私》→〈私〉とせり上がっていった先に、すべてを拒否し、内包を持つことすら拒否するような、無内包の独在としての力動的な存在を見出す。入不二は、どれも現実であるというかたちで全てを受け入れることで、内包など関係なくすべてを受け入れるような、無内包の現実としての力動的な存在を見出す。二人の共通点と分岐点はこのようにまとめることができる。

僕はこれを、西廻りと東廻りの2つの経路でのイギリスへの飛行機旅行に喩えたことがある。(『永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比』 http://dialogue.135.jp/2022/04/24/1houkou/)常識という成田空港から出発し、結局は、無内包の存在というロンドン・ヒースロー空港に到着する旅だとしても、西廻りの拒否・独在ルートと、東廻りの受容・現実ルートがあるという比喩である。

だが、この比喩は、西廻りの拒否の力と、東廻りの受容の力という、二種類の力がある、ということになってしまうという点で違和感がある。こんなに重要なものが二種類もあるというのはどうもおかしい。

そこで僕はこのように考え直してみたい。実は、二人は、同じひとつの力を、二通りの別のやり方で捉えただけなのではないだろうか。入不二はその力の流れに沿って、その力を受容するように捉え、永井はその力の流れに抗って、その力を拒否するように捉えたのではないだろうか。

そうだとするならば、入不二の現実とは、その力の到達地点を指し示す言葉となる。なぜなら、入不二の眼差しは、その力の流れに沿って、その力の行き先をみつめているからだ。一方の永井の独在とは、その力の出発地点を指し示す言葉だということになる。なぜなら、永井は、力の流れに抗って、その力の源をみつめているからだ。つまり、その力は、独在から現実へと流れているということになる。

     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

なお、この力には、そのようなあり方で存在しているということ以外の内包はない。あえて言うならば、ここには「動性がある」という内包だけがあり、そして、「動性を生み出すものならば、力という表現が適している」という以上の内包はない。そのような意味で、これは無内包の力である。

独在から現実へと流れているのだから、この力には「独在から現実へと流れている」という内包があるようにも思えるが、残念ながら、独在には力の出発地点である、という以上の内包はなく、現実には力の到達地点である、という以上の内包はない。だからこその無内包である。よって、やはり、ここにあるのは、唯一の無内包の力である、としか言えない。

こうして、一見、分岐したかのように思えた入不二の現実と永井の独在は、再び重ね合わされてしまう。入不二は、その唯一の力が現実へと向かっているという点を重視して無内包の現実論をつくりあげ、一方の永井は、同じ唯一の力が独在から流れ出ているという点を重視して無内包の独在論をつくりあげたのである。二人の哲学をこのようにして重ね合わせ、つなげることができる。

さて、ここまで、何かをうまく説明するには、二つのものを並列に議論することが必要である、ということを強調してきた。一つ目の例が永井の「私」と「今」の対比であり、もう一つの例が独在論と現実論の対比であった。「今」がなければ「私」は際立たないし、独在論がなければ現実論について十分に描写することはできない。その逆もしかりである。

だから、独在論と現実論を重ね合わせてしまったのならば、それを描写するためには、対比されるもうひとつの何かが必要となるはずである。だが、残念ながら、僕にはそれを見出すことができない。だからこそ、独在論と現実論を重ね合わせることで見出すことができた、「独在から現実へと向かう無内包の力」をこれ以上描写することには困難がある。なぜなら一つしか類例がないものについて、言葉を適切に用いて読者にうまく伝えることはできないからである。永井はそれを〈ものごとの理解の基本形式〉と言っている。僕は永井が言っていることは極めて正しいと思う。

そして、そのような描写困難なものをあえて描写するためには、永井や入不二のような嗅覚と筆力が必要なのだが、残念ながら僕にはそれがない。

だから、ここからは、「独在から現実へと向かう無内包の力」という僕のアイディアを正面から言葉で捉えようとするのではなく、僕の提案に沿うならばこのようにうまくいく、という実例を挙げることで、僕のアイディアを補強していきたい。

3入不二の円環モデル

(1)入不二の円環モデル

実例として取り上げたいのは、『現実性の問題』において入不二が提示している円環モデルというアイディアである。

詳しくは『現実性の問題』を読んでいただきたいが、これからの議論に必要な範囲で簡単に触れておこう。円環モデルとは、入不二の現実論を円のかたちで模式図的に示したものである。円環モデルをアナログ時計に喩えるならば、0時ちょうどの始発点において何らかのものごとの存在が生じる。そしてそのものごとは0時から6時まで進む過程において内容を獲得し、そして内容の過剰性が顕在化した存在を飲み込んでしまう。6時から12時は潜在性の領域であり、そこを進むにつれて、顕在する存在ではないという意味での潜在性が深まっていく。そして12時となる間際にはついに全ての内容が潜在する。12時、全てが潜在し、全てが凪ぎ、そこから先に進む手がかりが全て失われた刹那において、12時から0時への断絶を飛び越える飛躍が生じ、再び0時ちょうどとなり、何らかのものごとの存在が生じるというプロセスが再始動する。

僕の要約ではうまく伝わらないかもしれないけれど、この円環モデルの特徴は、とても滑らかに色々なものを説明し尽くしているという点にある。0時から12時に進むプロセスのなかで、言語、論理、認識、存在といったものたちを全てつなぎ合わせ、全てをきれいに説明することに成功しているのである。

(2)永井の円環モデル

この僕の論考は、永井と入不二を対比して論じるものなので、この円環モデルと永井の独在論をどのように重ね合わせられるのかを考えていきたい。つまり、永井の独在論からすると、入不二の円環モデルをどのように解釈できるか考えていきたい。

半円環モデル

まず言えることは、永井の独在論は、入不二の円環モデルの半分しか捉えていない、ということである。

入不二の円環モデルは、0時から6時の顕在性の領域と、6時から12時の潜在性の領域に分けることができる。

(なお、入不二は顕在性という語は用いておらず、存在と潜在という対比をしている。だが、現実論とは広義の存在論であることを強調するならば、顕在的な存在と、潜在的な存在という対比としたほうがいいと僕は考えるので、顕在と潜在とを対比することとする。)

永井によれば、入不二の0時の始発点とは、独在的な〈私〉である。しかし、言語により捉えられる限り、〈私〉はそのままの純粋さを保つことはできず、言語を用いる者なら誰でも持っているとされる〈私〉へと変質する。つまり独在的な〈私〉から実存的な《私》へと転落する。そして更に、言語を用いる人間が、それぞれ自分だけで理解できる《私》は、言語を用いて相互に理解し合える「私」へと変質する。つまり実存的な《私》から、人々の共通認識としての「私」へと転落していく。それはつまり、誰もがそれぞれ「私」であるということを、誰もが相互に理解し合っているという世界である。

そして、常識的な「私」へと到達した先には、ついに「私」を特別視することは幻想だ、という考え方が出てくる。この目の前にあるコップは、僕である「私」が見ても、あなたである「私」が見てもコップだけど、そもそも、このコップは、僕やあなたのような「私」が見なくてもコップである。そう考えるならば、僕やあなたのような「私」という視点など必要ない。そもそもコップがコップであるのと同様に、僕は一人の人間という動物でしかなく、あなたも一人の人間という動物でしかなく、そこには「私」という描写など必要ない、という考え方に至る。これは、主体としての「私」から、客体としてのコップへの視点の移動であり、主観から客観への視点の移動であり、そして、主体や主観の抹消である。(科学の素人の僕の知識の限りだけど、)基本的に、自然科学はこのうちの最終段階のような視点に立っているはずである。つまり、物理主義の視点だと言っていいだろう。

円環モデルの0時の始発点から〈私〉、《私》、「私」と進んできた永井の独在性の議論は、このようにして終わりを迎え、そして、このあたりで、円環モデルの時計の針は6時を指し示すことになる。

だが、入不二によれば、ここまでは0時から12時までの現実論のプロセスのうちの半分であり、まだ、そこからの6時から12時までの潜在性の領域の議論が残っている。ここからは入不二の独壇場である。よって、永井が論じる限りでの独在論は、入不二の円環モデルに位置づけるならば、半円環モデルなのである。

主客の転回

それでは、入不二の語り方とは異なるが、僕なりに永井の独在論の6時以降の続きを論じてみよう。

円環モデルの6時の転回点とは、主客の転回でもある。そこからの潜在性の領域では、主体としての「私」は背景に退き、客体の、例えば「コップ」が前面化してくることになる。だが、完全に「私」は抹消されない。なぜなら、その物体をコップとして解釈するのは「私」だからである。「私」という解釈者による解釈がなければ、これは、赤いプラスチックでできた円筒形の物体である。(今、僕は、ペン立てに使っているWFPに寄付するともらえるコップhttps://ja.wfp.org/get-your-redcupを見ています。)その円筒形の物体をコップとして解釈するのは僕という「私」である。そこには「私」が残り続けている。

わかりにくいかもしれないので、別の説明をしておこう。僕は野矢茂樹の「クリーニャー」という概念が好きなので、コップではなくて、こちらを使ってみる。クリーニャーとは、掃除機の上にネコが乗っている状況を表現する言葉である。確か、野矢は普通の掃除機にネコが乗っている状況を想定していたと思うけれど、僕は、ルンバにネコが乗っている状況を想像してしまう。ダイソンでもルンバでもいいけれど、説明の都合上、ルンバにネコが乗っている状況を想像してほしい。これがクリーニャーである。

ネコがルンバに乗ると、それはネコでもルンバでもなくクリーニャーと呼ばれ、ネコがルンバから降りると、それはネコとルンバと呼ばれ、クリーニャーとは呼ばれなくなる。大事なのは、クリーニャーとは、ネコとルンバによるクリーニャー状態ではない、という点にある。それは、「きのこの山」が、細長いビスケットと平べったいチョコレートによる「きのこの山」状態ではない、というのと同じことである。「きのこの山」は「きのこの山」であるのと同様に、クリーニャーはネコやルンバを経由しなくても直接的にクリーニャーとして把握される。

ここで、二種類の人間がいると考えてみよう。「ネコ」や「ルンバ」という語を用い、「クリーニャー」という語を用いない人間と、「クリーニャー」という語を用い、「ネコ」や「ルンバ」という語を用いない人間である。前者の人間は、例えば、「ルンバに乗っていたネコが、ルンバから降りた。」などと状況を描写するだろう。一方で、後者の人間は、同じ状況について、「クリーニャーが毛が生えた部分と、ツルツルの丸い部分とで分離した。」などと表現するはずである。

これは、同程度に正しい描写である。「きのこの山を半分食べられちゃった。」と「細長いビスケットのお菓子と平べったいチョコレートのお菓子をくっつけて置いていたら、細長いビスケットのお菓子のほうを全部食べられちゃった。」が同程度に正しいのと同じことである。どちらでもいいのに、僕たちは、たいてい、クリーニャーという語は用いず、ネコとルンバという語を用い、また、きのこの山という語を用いている。この選択は偶然的で、恣意的である。

そして、この選択をしているのは「私」である。「私」である僕も、「私」であるあなたも、「ネコ」や「ルンバ」や「きのこの山」や「コップ」という語を用い、「クリーニャー」のような語を使わないという選択をしているから、僕とあなたで共通の言葉を用いることができている。

これが、円筒形の物体を「コップ」として解釈するような、解釈者としての「私」が残っているということの詳細である。どれほど客体としての「コップ」が前面化しても、それをコップと呼ぶ限り、その背景には、解釈者としての「私」が必要なのである。

だから、自然科学においても、「私」は必要である。ブラックホールであっても、クォークであっても、それをそのような独立した観察・考察対象として切り出し、それを客観的な「もの」として位置づける限り、そのように解釈することを決定した解釈者が必要だからである。その解釈者を何と呼んでもいいけれど、それを普通は「人間」と呼ぶだろう。そして、その「人間」とは、単なる動物の種としての人間ではなく、永井の独在論によれば、独在的な〈私〉に起源を有する、一般化された「私」なのである。

しかし入不二の議論に基づくならば、6時から12時の潜在性の領域においては、そのような顕在性の残滓さえも潜在化されていく。客体の解釈者として背景に退いた「私」は、更に背景の背景に退いていくのである。

僕は、コップやクリーニャーやきのこの山を使った議論で、背景に退いた「私」を捉えることに成功したと考えている。しかし、そのようにして捉えた「私」を「私」として解釈するためには、更に「私2」がその背景にはいるはずだ、と考えなければならない。コップがコップとして成立するためにはその背景に私が必要であるのと同様に、私が私として成立するためには、その背景に私2が必要なのである。そして、同様に、私2が私2と成立するためには、その背景に私3が必要であり・・・と考えざるを得ないとするならば、私3、私4、私5・・・といくらでも同様の作業を繰り返すことになる。

この無限後退こそが潜在化のプロセスであり、そして、無限後退のベクトルの先に、潜在化の極を見出すことができることとなる。これが入不二の円環モデルの12時である。

永井の半円環モデルは、以上のように拡張することで、入不二の円環モデルと重ね合わせることができるのである。

もうひとつの拡張

なお、前半で論じたように、僕は、永井の〈私〉や〈今〉は不徹底であり、本当の独在論は、〈私〉や〈今〉を重ね合わせた〈今の私〉から始まるべきだと考えている。つまり、0時の始発点とは、〈私〉や〈今〉ではなく、〈今の私〉こそがふさわしいと考えている。

これは、0時1分から始まる永井の独在論に、0時0分から0時1分までの僕なりの拡張作業を行ったということになるだろう。0時1分から6時までの永井の独在論に、0時0分から0時1分までの僕の拡張と、6時から12時の入不二の拡張を加えることで、永井の独在論は円環モデルとして完成するのである。

(2)議論の優位性

以上のように、永井の独在論は、永井の円環モデルとして捉えられ、いわば入不二の円環モデルの一部として取り込まれることになる。入不二は、この円環モデルを用いて、論理や言語といった様々なことを論じており、その一環として、独在をも論ずることもできていると捉えることもできる。そのように考えるならば、入不二の現実論は永井の独在論よりも全面的に優位であると考えることもできる。

だが入不二の優位性にも綻びはある。アキレスの踵のように唯一、入不二の円環モデルには弱点があり、その滑らかさが失われている点があるのである。12時から0時の飛躍である。入不二は、0時から始まった円環運動が12時まで進むことは極めて円滑に説明しているが、12時に至ったところから、また0時に戻るという飛躍が生じてしまっているのである。入不二の円環モデルによるならば、10時、11時と進む円環運動は、12時で終わってもよいはずなのに、なぜか0時が来てしまう。これは、入不二自身が、12時と0時の間には断絶があり、12時から0時に至るためには飛躍が必要である、と論じているとおりである。この地点では、明らかに、ここまでうまく用いられてきた円環モデルを滑らかに前進させる力では説明がつかず、もう一つの別のベクトルの力が加わっているように見える。

なお、入不二の現実論によれば、ここで飛躍を成し遂げる力こそが真の現実性の力であり、そこにこそ現実論の真骨頂があるとされる。0時から12時までの円環運動と、12時から0時への飛躍では全く別なことがなされているように感じられるのは確かだが、その全く別なことに見えることがいずれも現実性の力であるという点にこそ現実性の力の妙があり、それこそが現実論の根幹である、と入不二は考えているのである。

僕は入不二に同意しつつも、この円環モデルにおける円環運動と飛躍の問題は、更に論ずべきことがあると考える。

この円環運動と飛躍の問題とは、入不二の現実論と永井の独在論の重なりを示すものなのではないだろうか。つまり、円環モデルのうち、円環運動を入不二の現実論が担い、飛躍を永井の独在論が担っていると言えるのではないだろうか。

12時から0時に飛躍するとは、つまり0時にすべてが始まるということであり、そのような意味で、0時とは、始発点という特異点である。始発点においては、そこで起きた何かこそが全てだという意味で、その何かとは無内容(無内包)である。

この、無根拠に理由なく全てがそこで始まってしまう始発点とは、明らかに永井の独在のことである。永井ならば、その始発点を〈私〉または〈今〉と呼ぶだろうし、前半の議論を踏まえるなら、僕はそれを〈今の私〉と呼びたい。〈私〉・〈今〉・〈今の私〉のいずれなのかはともかく、独在的な特異点が無根拠に立ち上がるところから永井の独在論は始まるのは確かだろう。

そのようなものである永井の独在論ならば、12時から0時の飛躍を説明できる。というか、0時となり独在的な特異点が立ち上がるということこそが独在論のすべてであるとさえ言える。そのように考えるならば、0時から12時の入不二の現実論と、12時から0時の永井の現実論が組み合わされることによってこそ、円環モデルは完成するとも言えるのではないだろうか。

(3)想定される反論

だがきっと二人は、僕のアイディアを受け入れないだろう。

入不二ならば、「現に」の現実性によってこそ、12時から0時への飛躍は生じるのである、と応じるだろう。あり得ないはずの飛躍がなぜか生じてしまうということも現実であり、それこそが現実の力なのである。

だが、この文章の前半で行ったように、「現に」の現実論と「今の私において」の独在論を対比し、並列的に扱うならば、入不二の「現に」にも二通りの力が含まれていることに気づくはずだ。

ひとつは、「現に、ソクラテスは哲学者である。」のような、任意の文に付加できる、無色透明の「現に」である。なぜ、この「現に」が無色透明なのかといえば、文つまり言語と相性がいいからである。僕がここまで行ってきた考察を踏まえるならば、この「現に」とは、言語自体としての意味論と、その言語を成立させるために必要な「真の実感」としての認識論にかかる言葉である。「ソクラテスは哲学者である。」という文は言語としてうまく意味を持っているし、そして、それに真の実感を感じることもできる。そのことを示すために、「現に、ソクラテスは哲学者である。」と言いたくなるのである。つまり、「現に、ソクラテスは哲学者である。」とは、「現に言語としてうまく意味を持っており、現に真の実感を感じているとおり、ソクラテスは哲学者である。」という言葉の短縮形であるとも言えるだろう。「現に」という言葉は「ソクラテスは哲学者である。」といった文が言語として存在するために必要な意味論と認識論が現に機能している、ということを、意味しているのである。そんな当たり前のことを「現に」は指し示しているだけだから、「現に」を付加し、「現に、ソクラテスは哲学者である。」としたとしても、そこには何の変化もなく、つまり無色透明なのである。

だが、「現に」12時から0時への飛躍は生じる、というときの「現に」はそうではない。「現に、登山道に蛇がいる。」や「現に、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできないのと同様の問題がそこにはある。いずれの文も、そこにある独在性を捉えそこねているのである。登山道に蛇がいるように見えるのは、今の私という特定の視点からだけであり、かぐや姫が月に帰って行ったという物語世界に没入しているのは、今の私という特定の視点においてだけである。同様に、12時から0時への飛躍が生じるのは、今の私という特定の地点においてだけである。他の地点に立っていたなら決して生じないことが、なぜか12時ちょうどの地点に立ったときにだけ生じるから、それは飛躍なのである。

それでも、「現に」12時から0時への飛躍は生じる、と言えてしまうのは、その「現に」とは、現実性と独在性の混交物だからである。遍在する現実性の力は独在性の力にも及び、「現に、今の私において」12時から0時への飛躍は生じる、と言えてしまう。つまり、入不二の現実論が独在性を持ち出さずに円環モデルのすべてのプロセスを説明できるように読めてしまうのは、現実性の力に加え、そこに独在性の力を取り込んでいるからなのである。

だから、ここでの話は、前半で僕が行った議論の焼き直しでしかないとも言えるだろう。さきほど僕は、見間違いやフィクションのような、現実性よりも独在性が優位となる場面と、想定外の出来事や他者の痛みのような、独在性よりも現実性が優位となる場面があると論じた。そのうえで、独在性優位の場面においても、現実の遍在性は独在をも包み込み、その独在を、現に独在である、というかたちで、現実性の描写として取り込むことに成功するし、逆に、現実性優位の場面においても、独在の遍在性は現実をも取り込み、その現実を、今の私において現実である、というかたちで独在性の描写と取り込むことも成功すると論じた。この話と、0時から12時の現実論の優位性と、12時から0時の独在論の優位性の話はきれいに重なっているのである。

もう一方の、想定される永井からの反論についても論じておこう。永井ならば、〈私〉の独在論は時空的な連続性が確保されているから、そもそも入不二の円環モデルのようなものを想定しなくても、ものごとが連続的に生じるという事態を描写することができる、と考えるのではないだろうか。

だが、前半で論じたとおり、永井の〈私〉は不徹底であり、独在論をより徹底するためには、〈私〉と〈今〉をつなぎあわせ、〈今の私〉というより純粋な独在性を想定しなければならない。独在性が〈今の私〉に至ることを容認するならば、記憶のようなものを用いて〈私〉の連続性を確保することはできない。〈今の私〉が何らかのかたちで時間的に連続して存在しなければならないとするためには、〈今の私〉が連続的に生じるような構造を構築しなければならない。そして、そのような構造を想定するうえでは、入不二の円環モデルは、記憶などといったものに頼っていないという点で極めて有力な候補となると僕は思う。

当然、永井はそのような僕の問題設定自体を受け入れないだろう。だが、僕の哲学における僕の問題設定に基づくならば以上の再反論が成立することは必然だと僕は思っている。

二人からの想定される反論に対して再反論を加えることでより明確になったと思うが、入不二の円環モデルとは、0時から12時までの現実論と、12時から0時までの独在論が共働して作り上げられたひとつの「独在から現実へと向かう無内包の力」を描写したものなのである。

(4)逆円環モデル

逆円環モデル

だが、ここまでの議論をひっくり返してしまって申し訳ないけれど、実はここには大きな誤りが含まれている。実は、永井は全然、このような語り方を全然していないのである。

永井の独在論とは、〈私〉や〈今〉の独在性を読者に理解してもらうための議論である。常識的な世界にどっぷりと浸ってしまった人々は、独在性という問題があることになかなか気づくことができないから、永井は手を変え品を変え、それに気づいてもらおうと努力している。その努力の痕跡こそが永井の独在論である。

だから、永井は、独在的な〈私〉から出発して、いかにして、この常識的な世界が構成されるか、というようなことには興味がない。説明の都合上、そのような議論がされることはあっても、それはあくまで、独在的な〈私〉を説明するための便宜的なものである。永井によれば、いったん独在的な〈私〉に到達したならば、そこからこの常識的な世界が構成されるのは当たり前なのである。

よって、永井の独在論は、この常識的な世界から、いかに独在的な〈私〉を見出すか、という議論の経路をたどる。さきほどの僕の円環モデルに沿った、永井の独在論の描写は、全く逆なのである。

永井の議論とは、まずは「私」や「今」のような特権的な視点を認めない自然科学的な立場から出発し、そこに常識的な意味での「私」や「今」を認め、更に実存的な《私》や《今》を認め、ついには〈私〉や〈今〉を見出すような道筋である。永井の独在論は、〈私〉→《私》→「私」ではなく、どこまでも、「私」→《私》→〈私〉であり、〈私〉という問題の根源にたどり着くまでの果てしない旅なのである。

よって、円環モデルの時計の文字盤で永井の独在論を表現するならば、永井の独在論は、6時、5時、4時と時計を逆回りにたどっていくようなものである。つまり、入不二の円環モデルは右回りで、永井の円環モデルは左回りという違いがあり、入不二の円環モデルに対して、永井の独在論は逆円環モデルなのである。

逆向きの飛躍

この永井の独在論は、逆円環モデルとして、入不二の円環モデルとはちょうど反対に、12時から0時まで至る道筋として描くことができる。それならば、この逆円環モデルでは、入不二の円環モデルと真逆に、0時から12時へと向かう逆向きの飛躍が生じるはずである。

これがどのような飛躍なのかは説明する必要があるだろう。ただし、この逆円環モデルの逆向きの飛躍は、本来ならば〈今の私〉や潜在性を導入した拡張版の独在論で考えるべきだが、そうすると話が複雑になってしまうので、ここでは永井バージョンの独在論で考えることにしよう。

永井の議論に基づき、6時から0時1分へと至る逆「半」円環モデルを思い描いてほしい。そのうえで、この飛躍とは、0時1分から6時へと向かう飛躍であると考えてほしい。なお、永井の0時1分とは独在的な〈私〉であり、6時とは独在的な〈私〉だけでなく実存的な《私》や主体としての「私」のような何らかの特権的な私が完全に否定された自然科学的な世界観の地点である。

そうだとするならば、この飛躍とは、独在的な〈私〉が自然科学的な世界のなかに位置づけられ、自然科学的な世界のなかに主体としての「私」が誕生する場面として捉えることができる。または、同じことだが、独在的な〈私〉がいわゆる常識的な世界を構築する場面として描写することも可能だろう。永井ならば、そんなことは全ての人が日常的に行っていることであり、極めて容易なことだと言うはずだ。だが、本当にそんなことが可能なのだろうか。

これは、先日のワークショップで入不二が永井の一方向性の議論に対して提起した疑問である。永井の一方向性とは、「私」から〈私〉への移行は困難だが、〈私〉から「私」への移行は極めて容易であるというというものである。つまり「私」と〈私〉をつなぐ道筋は、〈私〉から「私」への一方通行であるという主張である。

だが入不二はワークショップにおいて、永井が極めて容易だとする〈私〉から「私」への移行にも、実は断裂と循環があると指摘した。まず、独在的な〈私〉には主体としての「私」を能動的に構成する力はなく、そこには断裂がある。また、一方で、いったん〈私〉から「私」への移行が成し遂げられてしまったら、容易に逆方向への移行も可能となって循環し、独在論の一方向性が失われてしまう。入不二はそのように論じ、〈私〉から「私」への移行には飛躍があるとしたのである。(このワークショップについて、僕は『永井・入不二・青山・谷口・僕』http://dialogue.135.jp/2022/03/19/nagaikoki/)で書いています。)

僕はこの入不二の指摘は正しいと思う。確かにここには飛躍があり、これこそが、永井の逆「半」円環モデルの飛躍なのである。入不二の円環モデルと同様に、決して乗り越えることができない断絶を、なぜか乗り越えられてしまうからこそ飛躍なのであり、そして一旦飛躍した後に振り返ってみても、そこには全く飛躍を見出すことができなくなってしまう。そのことを、入不二は断裂と循環として指摘しているのである。

ではなぜそのような飛躍が成し遂げられるかといえば、永井の独在論が入不二の現実論を取り込んでいるからである。独在的な存在を常識的な世界のなかに重ね合わせることができるのは、「現に」そうなっている、という入不二的な現実論の力を用いているからなのである。

そして、なぜそのようなことができるのかといえば、先ほどの入不二の話とちょうど逆であり、独在論の遍在性は現実性にすら及ぶからであり、だから独在論は現実論の力をも取り込むことが可能となるのである。

そして、これは決して独在論の欠点ではない。入不二がちょうど反対のことについて現実性の力の最大限の発揮の場面であると捉えたとおり、これは独在論が持つ力強さが最大限に発揮された場面でもあるのである。

以上のように考えるならば、僕が提示した永井の逆円環モデルとは、つまり、独在論優位で、独在論が現実論を巻き込むような構造を描写したものなのである。入不二の円環モデルと永井の逆円環モデルはちょうど鏡写しのような関係にあると言ってよいだろう。

そして、重要なのは、入不二がたどる時計の文字盤と、永井がたどる時計の文字盤は、全く同じものである、ということである。先ほど、僕なりに永井的に入不二の円環モデルを描写したつもりだ。もし、その描写が成功しているならば、永井の独在論と入不二の独在論はきれいに重ね合わせることができる。つまり、永井も入不二も「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力を描写しており、その違いとは、描写するときの視点の違いでしかないということになる。

(5)往復モデル

独在論と現実論の違いとは、「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力を捉えるときの視点の違いである、という捉え方を強調するならば、円環運動は往復運動へと書き直すこともできるのではないだろうか。僕は、入不二の円環モデルと、(僕が勝手に命名した)永井の逆円環モデルとの間をつなぐものとして、往復モデルとでもいうべきものを提案したい。

入不二の円環モデルとは、0時から12時に向かって右回りで円を描くモデルであり、永井の逆円環モデルとは、12時から0時に向かって左回りで円を描くモデルである。それならば、円を引き伸ばして数直線とし、0から12に数直線をたどる動きと、12から0に逆に数直線をたどる動きとして、二つの円環モデルを組み合わせることができるのではないだろうか。

このように考えることのメリットは、12時と0時との間にあるギャップを飛躍する必要がなくなる、という点にある。入不二の円環モデルに添って0から12まで進み、12に至ったら、駅で反対方向の電車に乗るようにして、永井の逆円環モデルに添って12から0まで進めばいいのである。そして0に至ったら、また折り返せばよい。

これはつまり、入不二の現実論に沿って顕在性の領域から潜在性の領域に進み、すべてが潜在してしまい、議論がそこで行き詰まってしまったら、その先に進むことを諦め、そこから反対方向に議論を進めることとし、永井の独在論を起動させるということである。(これは12時の折り返し)

また、永井の独在論に沿って、「私」「今」→《私》《今》→〈私〉〈今〉→〈今の私(私の今)〉と議論を進め、議論が行き詰まってしまったら、その先に進むことを諦め、そこから反対方向に議論を進め、入不二の現実論を起動させるということである。(これは0時の折り返し)

このようにすることで、12時と0時の間(または0時と12時の間)にあるギャップを回避し、飛躍する必要がなくなるのである。

また、それにより派生的に生じるメリットもある。円環モデルを採用した場合、12時から0時への飛躍のなかに独在性の力が押し込まれ、独在性の力が見えにくくなる。また、永井の逆円環モデルを採用した場合、0時から12時への飛躍のなかに現実性の力が押し込まれ、現実性の力が見えにくくなる。だが、往復モデルを採用することで、対等に両論を扱うことができ、入不二の現実論と永井の現実論を明示的に指し示すことができる。前半で論じたとおり、二人の議論はともに同程度に強力である。その強力な議論を並列的に議論として取り込むことができるというのは極めて大きな利点だろう。

先ほど次のように「独在から現実へと向かう無内包の力」を眺める二つの視点を描いた。

     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

これにもうひとつ、次のような視点を追加したということになる。

        僕
        ↓
    ←入不二 永井→
現実←-------------独在

僕は、入不二の視点と永井の視点という二つの視点を俯瞰的に眺め、0から12までは入不二の視点を使い、12から0までは永井の視点を使う、という使い分けを行っている。二つの視点を自由に使い分けることにより、僕は不自然なギャップを避けて、破綻のない議論を繰り広げることができる。

このような論じ方ができるということは、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」という僕のアイディアの正しさを間接的に示していると言えるのではないだろうか。唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」を、視点の違いにより、入不二は現実性の力と捉え、永井は独在性の力と捉えたのである。

(6)行き止まり

ここまで、僕は、三つの構造を提示してきたことになる。入不二の円環モデルと、永井の逆円環モデルと、僕の往復モデルである。

そのうえで僕は、僕の往復モデルこそが、円環モデルと逆円環モデルに内在する、飛躍の問題を回避できたと論じた。

では、僕の往復モデルに問題はないのだろうか。僕は、僕の往復モデルも、あくまで過渡的な描写であり、そこには乗り越えられるべき課題があると考えている。

その課題とは、どうやって、折り返し運動を行うのか、という問題である。僕の往復モデルとは、つまりは「独在から現実へと向かう無内包の力」を独在という始発点からたどり、現実という終着点まで到達したら、またそこから、反対方向にたどり直し、そして独在という始発点に戻る、という視点移動を往復するようにして行う、というものである。では、この視点移動を往復するようにしていかに行うことができるのだろうか。そこには、「独在から現実へと向かう無内包の力」とは異なる、往復運動をコントロールするような別の力が必要である。視点を動かす力である。だが、もしそのような力を認めてしまったら、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一の力ではなくなってしまう。

その点で、折り返し運動がない円環モデルや逆円環モデルのほうが有利である。だが実は、円環モデルや逆円環モデルでも同様の問題が生じている。そもそも、入不二は、なぜ右回りを選択し、そして、永井は、左回りを選択したのか、という問題である。

または、先ほどの、図によるならば、「←入不二 永井→」の二つの矢印はなんの矢印なのか、という問題である。これは明らかに、「現実←独在」という矢印とは別の矢印である。これでは、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一の力ではなくなってしまうではないか。それは僕の視点を加えても同じことである。

         僕
         ↓
     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

ここがとりあえずの行き止まりである。

ここまで僕は、二つの矛盾したことを主張してきた。ひとつは、入不二の議論も、永井の議論も、そして僕の議論も、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」の眺め方の違いとして捉えることができ、「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力こそがすべてをきれいに説明し尽くすことができてしまう、という主張である。

そしてもうひとつの主張は、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」では、入不二と永井と僕の間での眺め方の違いがなぜ生じるかを説明できないから、唯一の力とは別に、その唯一の力の眺め方の違いを生じさせるような何らかの別の力が必要となってしまう、という主張である。

僕は、いずれの主張も放棄することはできない。唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」というアイディアは放棄するには惜しいし、かといって、その唯一性に投げかけられる疑問も致命的で無視することはできない。

(7)飛躍モデル

どうやら行き止まりに来てしまったようなので、アプローチを変えて、円環モデルの飛躍の話に立ち返ってみよう。

ここまで行ってきた話とは、つまりは、0時と12時をつなぐやり方は何通りもある、という話であるとも言える。入不二は、0時から12時までの滑らかな円環運動と、12時から0時の飛躍という2つのつなげ方があると指摘した。永井(を拡張した僕)は、12時から0時までの滑らかな(逆)円環運動と、0時から12時までの飛躍という2つのつなげ方があると指摘したことになる。つまりつなげ方は次の図のように4通りあることになる。

そのうえで、僕は、入不二の円環運動と永井の逆円環運動を組み合わせ、往復モデルをつくりあげる、というようなこともした。

ここで気づくのは、もう一つの組み合わせがあるということである。つまり、0時の独在と、12時の現実とを、入不二の飛躍と、永井の飛躍とでつなげるというやり方である。これは、円環モデルのような滑らかな説明を拒否し、すべてを力による飛躍と捉えるような論じ方である。生の現実性の力の発露と、生の独在性の力の発露により、ただ飛躍だけしていくような構造である。

つまり、0時と12時をつなげるやり方は4通りあるということになる。

①入不二の円環モデル 円環+飛躍

②永井の逆円環モデル 逆円環+飛躍

③僕の往復モデル 円環+逆円環

④僕の飛躍モデル 飛躍+飛躍

である。

この4つのモデルと、「独在から現実へと向かう無内包の力」を捉える視点とを対応させることができるだろう。先ほど僕は、次のように、3つの視点を導入した。

        僕
        ↓
    ←入不二 永井→
現実←-------------独在

これに、僕は4つ目の飛躍モデルの視点を次のように書き加えることとしたい。

             ③僕の往復モデル
                 ↓
     ←①入不二の円環モデル   ②永井の逆円環モデル→
現実←----------④僕の飛躍モデル----------独在

入不二の円環モデルとは、「独在から現実へと向かう無内包の力」を、順方向にその力が及ぶ先である現実に着目して捉える視点であった。一方の永井の逆円環モデルとは、同じ力を、逆方向にその力の起源である独在に着目して捉える視点であった。そして先ほど僕は、その二人の視点を俯瞰的に捉え、二つの視点を使い分けるような、往復モデルという視点を導入した。

そのうえで、ここで僕は新たに、「独在から現実へと向かう無内包の力」に完全に巻き込まれ、その真っ只中に投げ込まれたような、第四の視点を付け加えることとしたい。これが飛躍モデルの視点である。

飛躍モデルとは、ただただ、現実性の力や独在性の力により、飛躍を繰り返していくような構造である。または、より正確に述べるならば、それは繰り返すといった描写や、構造としての把握すらできない飛躍そのものであり、モデル化というかたちでの把握から逃れてしまうとも言えるだろう。

比喩的に述べるならば、飛躍モデルとは、無内包の力という大波に飲み込まれ、溺れてしまったような状況であると言ってもいいかもしれない。

入不二は『あるようにあり、なるようになる』において、現実性の力(正確には運命の力)をビッグウェーブに喩え、そして自らの現実論(正確には運命論)をビッグウェーブに乗ると表現した。つまり、ここで登場している円環モデルを用いるならば、入不二は自らの現実論を、円環する現実の力の鋒にうまく順方向に乗っている状況をイメージしているということになる。

それに対して、僕の飛躍モデルとは、サーファーがボードから落ちてしまい、ビッグウェーブに巻き込まれ、ただただ、その力のなすがままになっているような状況であると言っていいだろう。

入不二や永井は、うまく「独在から現実へと向かう無内包の力」に乗り、進む方向はともかくとして、その力とうまく折り合いをつけている。だからこそ、その力を捉え、現実論や独在論のような議論を展開することができている。

一方の僕は、そのビッグウェーブから離れ、ドローンで空撮するようにして俯瞰的な往復モデルを構築するか、または、ビッグウェーブに完全に巻き込まれるようにして飛躍モデルを構築している。そう言うと、僕がやっていることには何か積極的な意味合いがあるように聞こえてしまうかもしれないが、実際のところは、僕が往復モデルを採用するとき、僕は、波に乗っている入不二や、波に抗っている永井を観察しているだけであり、波の力そのものを捉えてはいない。また、僕が飛躍モデルを採用するとき、僕は、ただ波に巻き込まれているだけであり、波のことなど考える余地はない。それはそれで、ビッグウェーブとの関わり方のひとつのあり方ではあるけれど、ビッグウェーブの力を捉えるという作業とは程遠い。

「独在から現実へと向かう無内包の力」を捉え、議論するためには、往復モデルでは遠すぎるし、飛躍モデルでは近すぎる。そこでは、入不二や永井のような絶妙な距離のとり方が必要なのである。円環モデルとして表せるような入不二の現実論や、僕が逆円環モデルとして捉えたような永井の独在論は、往復と飛躍の中間に位置づけられる議論であり、そして、俯瞰と没入の中間に位置づけられる議論なのである。この中間性こそが、(逆)円環モデルを議論として魅力的なものとしているのである。

4 哲学の力

(1)肯定性の力

最後に、僕が行き詰まってしまった問題について、できる限り考察して、この文章を終えることとしたい。僕は、入不二の現実論と永井の独在論を統合し、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」を提案した。一方で、入不二と永井とでは、その唯一の力の眺め方の違いがあり、その違いを生み出すような別の力があるはずである、ということも論じた。入不二と永井が論じた(と僕が考えている)唯一の力とは別に、もう一つの力があるはずなのである。この力とは何なのだろうか。

僕は直接的に答えることはできないので、更にもう一つ、別の力を付け加える、という作業をしてみたい。先ほど、次のような図を提案した。

             ③僕の往復モデル
                ↓
    ←①入不二の円環モデル   ②永井の逆円環モデル→
現実←----------④僕の飛躍モデル----------独在

僕はここにもう一つの力を見出すことができると思う。それは、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぶり浸かった④の視点から、①②への視点、③の視点へと引き上げる、上向きの力である。

僕は、この力を肯定性の力と呼びたい。

     ↑肯定性の力
  現実←--独在

なぜ肯定性なのかというと、「独在から現実へと向かう無内包の力」はないのではなくてあるからである。「独在から現実へと向かう無内包の力」などなくても一向にかまわないのに、なぜかある。そこからすべては始まる。そのはじめの一歩を踏み出すということは、その唯一の力を肯定的に捉えるからこそ可能となる。これが肯定性である。

なお、ここでの「ある・ない」の対比は通常の意味での「ある・ない」ではない。「独在から現実へと向かう無内包の力」など「ない」、と語ってしまったら、それは、一旦、その力を認めたうえで否定するということなので「ある」ということになる。ここでの「ない」とは、「独在から現実へと向かう無内包の力」のことなど、一言も触れないし、考えることもない、ということである。一度でも語られてしまったなら、それは「ある」なのである。

だから、ここでの「ない」とは、僕自身や、ここまで僕の文章にお付き合いいただいた読者には、決してたどり着くことができない境地である。僕の文章を否定的に読んだ読者でさえ、僕が論じていることの意味が断片的にでも理解できてしまったなら、例外なく、「ある」の肯定性の力が及んでしまっていることになる。

その点を踏まえると、この肯定性の力とは、議論すること自体の肯定性の力だと言ってもいいだろう。議論はされないのではなく、議論はされてしまっているという肯定性である。

なお、そのように考えるならば、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぶり浸かった「④僕の飛躍モデル」の視点に立つことは決してできないことは明らかである。なぜなら、そのような視点を考察すること自体が肯定性の力の発揮であり、それが「独在から現実へと向かう無内包の力」からの乖離・浮上につながってしまうからである。人は確かに「独在から現実へと向かう無内包の力」のことなど考察することなしに、ただどっぷりとその力に浸り、ただ飛躍することはできるはずである。だが、その境地に立ったまま、その力について考察することは不可能なのである。「独在から現実へと向かう無内包の力」を「④僕の飛躍モデル」の飛躍そのものとして考察するということは、決して戻ることはできない過去を懐かしむようなものだと言ってもいいだろう。

(2)逆転現象

そして、肯定性の力により「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上したうえで、入不二のように、その力が向かう現実の方向を向くか、永井のように、その力の起源である独在の方向を向くかは、その人の興味によりけりである、ということになるだろう。

永井の言葉づかいによるならば、ここでの興味とは、哲学的驚き、タウマゼインと呼んでもよいだろう。入不二は現実に驚き、永井は独在に驚いた。そこから、彼らの哲学は始まっているのである。

ここで興味深いのは、タウマゼインから哲学は始まるが、その哲学の内容としては、そのタウマゼインこそが哲学の到達地点になるという逆転現象である。入不二の現実論とは、模式的に述べるならば0時の独在から12時の現実へと至る議論であると言えるだろう。つまり入不二は、自らが驚いた12時の現実を説明するために、0時から12時までの長い円環モデルの道筋を描いているのである。永井も同様である。永井は0時の独在に驚き、その独在を説明するために、常識的な現実から議論を始め、0時の独在に向かう議論を独在論として展開していることとなる。

つまり、タウマゼインとは、哲学の始まりであり、かつ哲学における議論の到達地点である。それならば、議論を始めるためには、タウマゼインとは別に、議論の出発地点を設定する必要がある。

多少本筋とはずれるが、入不二と永井の違いは、ここにも見出すことができるだろう。入不二は、現実というタウマゼインとは別に、議論の出発地点をどこに設定するとうまい議論ができるか、ということに意識的であるように思える。一方の永井は、自らの独在というタウマゼインにはゆるぎがないが、議論の出発地点については無頓着である。だから、永井の議論は、入不二の円環モデルと比較すると、6時から0時に向かう半円環モデルのように見えてしまうのである。

多分、この違いは「独在から現実へと向かう無内包の力」からの二人の距離のとり方の偶然的な違いに由来するのだろう。若干ではあるが、入不二のほうが、この力から距離をとっていて、そして永井のほうが、より、この力に浸っているのである。

僕は入不二ファンなので、入不二の距離のとり方のほうが好ましいと感じるけれど、あくまで単なる好みなので、あくまで脱線の考察である。

この脱線から気づいたけれど、「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上するためにはタウマゼインとそれを語る意志が必要だということなのではないだろうか。

肯定性の力とは、議論すること自体の肯定性の力であるということは、つまり、タウマゼインとそれを語る意志こそが、「独在から現実へと向かう無内包の力」どっぷりから浮上する肯定性の力なのではないだろうか。現実にせよ独在にせよ、彼らはそれに驚き、論じようとしたからこそ、無内包の力にどっぷり浸った状況から離脱することができたということである。

力の肯定性を強調する言い回しをするならば、自らのタウマゼインを哲学的驚きとして認め、自らが哲学的議論を遂行する力を信じ、自らを哲学者として信頼する肯定性こそが、無内包の力から自らを浮上させる力なのではないだろうか。

(3)飛躍を遂行する力

議論を少し戻すと、入不二は現実に驚き、永井は独在に驚くというタウマゼインから哲学は始まっているのだった。そして興味深いことに、彼らの哲学の内容としては、そのタウマゼインこそが哲学の到達地点になるという逆転現象が生じている。入不二の現実論とは、独在という現実ではないものから、現実へと到達する道筋についての議論であり、永井の独在論とは常識的世界という独在ではないものから、〈私〉の独在へと到達する道筋についての議論である。

確かに議論を終えてみれば、入不二ならば、実はその議論の出発地点である独在にも現実性の力は及んでいたことが明らかになるし、永井ならば、実は常識的世界も独在性抜きでは説明がつかないことが明らかになる。だが議論の道筋としては、あくまで、タウマゼインとは程遠いように見えるところから、タウマゼインに向けて議論は始まるのである。これが僕が注目したい逆転現象である。

ここで僕が述べたいのは、この逆転現象こそが、円環モデルや逆円環モデルにおける飛躍を生じさせているのではないか、ということである。

円環モデルでも逆円環モデルでもいいけれど、入不二の円環モデルのほうを取り上げるならば、入不二は自らのタウマゼインである12時の現実に向かう議論をしようとして、そこから最も遠いところにある(と入不二が考える)0時の独在性を自らの議論の出発地点として定めた、ということになるだろう。そのうえで、0時から12時に向かう長い議論を進めるなかで、様々なものごとを説明し尽くすことを通じて、現実という自らのタウマゼインの正当性を論証し、そして読者に理解してもらおうとしたのである。

では、現実性の議論を終え、12時の地点に立ったならば、入不二はどうするのか。

入不二は、また、0時からの議論を始めるしかないはずである。なぜなら、入不二は、自らのタウマゼインにより12時の地点に立っていたにも関わらず、あえて0時からの現実性の議論を始めたはずだからである。一度その選択をしたならば、二度目も同じ選択をしない理由はない。議論のはじめにおいて、入不二は、自らのタウマゼインにより12時の地点に立っていたにも関わらず、あえて無根拠に0時の始発点から議論を始めたのだから、その無根拠さを貫くためには、12時の地点に立ち返ったならば、何度でも無根拠に、同じ議論を繰り返さなければならないのである。

この無根拠な議論の繰り返しこそが飛躍の正体である。つまり、自らのタウマゼインにより12時の現実の地点に立っているにも関わらず、あえて0時の始発点から12時に向けた議論を始めるという逆転現象こそが根源的な飛躍だということになる。

言い換えるならば、この飛躍とは哲学者の飛躍であるとも言えるだろう。

人は、生きているなかで、何かタウマゼインらしきものを感じることはあるかもしれない。いや、きっとほとんどの人に何かしらのタウマゼインが訪れるのではないか、と僕は想像している。だがそれをもとに、哲学を始めなければ、それは哲学的驚きとはならない。多くの人は「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷりと浸ったままで、そのような力に流されて生きていることにも気づかないまま、ただ生きているのだろう。一方で、哲学者ならば、タウマゼインに導かれるようにして哲学を始めることで、「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上し、距離をとることができる。これは、自らのタウマゼインについて、自ら考えることができる哲学者の特権である。

しかし、哲学をするとは、タウマゼインから距離をとったところから議論を始めるということである。これは僕が逆転現象と呼んだものであり、つまり、哲学者の飛躍である。哲学者が哲学を語るためには、語るために必要な議論の始点と終点の間の距離が必要であり、その距離は、無根拠に飛躍して設定するしかないのである。入不二ならば、それは0時の始発点から12時の現実までの距離であり、永井ならば常識的世界から独在までの距離である。

なおこれは優れた哲学理論に固有の話ではなく、例えば、「ヤカンを火にかけたらお湯が沸く。」という話であっても同じである。その話が成立するためには、ヤカンを火にかけることと、お湯が沸くことの間に距離が必要である、ということの延長線上の話である。もし距離がゼロであったら、「ヤカンに火をかけたら、ヤカンに火をかけるることになる。」というトートロジーになってしまう。

(4)哲学の力

さて、ここまでの議論で、この章の冒頭で僕が設定した問題について、およそ答えは出たと思う。問題とは、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」について、入不二と永井とでは、その唯一の力の眺め方の違いがあるが、その違いを生み出すもう一つの力とは何か、というものであった。

僕の答えは、それは、哲学者が持つ「哲学の力」である、というものである。永井や入不二は自らに訪れたタウマゼインを逃さず、タウマゼインを論じることを選択し、タウマゼインから離れた地点に議論の出発地点を置くという対応をとった。この哲学者ならではの態度をとらせるものこそが「哲学の力」であり、この力こそが、議論の方向性、つまり哲学者の顔の向きを決めるのである。

そのように考えるならば、。「独在から現実へと向かう無内包の力」を語らないのではなく、あえて語るという肯定性の力と、自らのタウマゼインに基づき自らのタウマゼインとは異なる地点からあえて語るという飛躍を遂行する力はきれいに重なる。哲学者は、語らなくていいことをあえて語るからこそ哲学者なのである。その哲学者だけが持つ哲学の力こそが、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷりと浸るのではなく、そこから浮上した視点を持つことを可能とし、そして、その視点の向きをも決定するのである。

ここまでの議論をまとめるならば、ここまでの議論で二つの力を見出すことができたということになる。ひとつは「独在から現実へと向かう無内包の力」であり、もうひとつは、哲学者だけが持っている「哲学の力」である。そして、この「哲学の力」こそが、(逆)円環モデルの飛躍を成し遂げ、円環モデルを成立させる力となっているのである。

(5)自分語り

さて、残念ながら、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一のものだったはずなのに、それとは別に「哲学の力」なるものを認めなければならないようだ。最後に、この二つの力を統合できないものか、もう少し、あがいてみようと思う。

僕の議論には、まだ語ることができていない問題がある。それは、この文章も哲学の遂行であるならば、この文章を、この文章においてどのように位置づけるのか、という問題である。

僕は、入不二や永井の議論を材料として用いて、彼らの議論を俯瞰的に眺めることで、自らの議論を行ってきたつもりだ。俯瞰することにより、彼らでは見えなかったものを見ることができたはずだ、という自負はあるけれど、一方で、何か大事なものを取り逃がしてしまっているという問題意識もある。その取り逃がしてしまっているものとは、僕は僕の哲学を遂行しているという当事者性であり、自己言及性である。ここまで僕は、僕の哲学ではなく、入不二や永井の哲学のことばかり語り続けていた。

だから最後に少々、自分語りをさせてもらうことにしよう。

僕のタウマゼインとは、まだうまく言葉で表現できないけれど、この文章につなげて表現するならば、「なんにせよ、なにかが存在する」という驚きである。前半で論じたとおり、ここでの存在とは、言語でも認識でもない、という程度の意味しかないので、このタウマゼインは限りなく、入不二の現実性に近いものである。

そして、僕が当面、議論の出発地点としなければならないと考えているのは、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」ということである。これは、永井の独在性の亜種であり、永井ならば、何をしていても、それは私であり今である、というところを、哲学に限定したバージョンである。なぜ哲学に限定するのかといえば、僕がそういうことを考えるときは、常に、哲学の文章を書いているか、または、書いてはいなくても哲学のことを考えているからである。そして、更に限定するならば、今僕がやっていることは哲学の文章を書くこと以外ではありえないからである。

哲学的議論とは、任意で設定した議論の出発地点から、タウマゼインとしての議論の到達地点に向かうものだとするならば、僕の議論は、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」から始まり、「なんにせよ、なにかが存在する」で終わるものとなるはずである。これは、入不二の円環モデルにかなり近いものである。つまり僕の議論とは、「独在から現実へと向かう無内包の力」についての議論となるはずだとも言える。

一方では、僕の議論は「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」という地点から始まるものだから、この議論は「哲学の力」についての議論ともなるはずである。僕は「私は哲学の文章を書いている」ということを唯一の事例として、そこから哲学を構築することを模索している。それはつまり、哲学することについて哲学するという、哲学についての力動的な議論となるはずである。

まだ詳細を論じる準備はできていないけれど、こうして、僕の哲学においては、「独在から現実へと向かう無内包の力」と「哲学の力」はきれいに重なるという予感がある。

僕の哲学の枠組みだけ説明しておこう。僕は高校生の頃、「なんにせよ、なにかが存在する」ことに圧倒され、驚いた。なんだかわからないけれど、僕の前にはとてつもない世界が広がっており、そこでは様々な出来事が起きているようなのだ。だけど、一方で、僕の手元には何も確かなものがないということにも気づいた。僕は懐疑主義者で、なんでもデカルト流に疑ってしまったのだ。この世界には確かなものなんて何一つない、と気づいてしまったのだ。だけど、ある日、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いていることは確かである」というコギトの亜種から議論を始めてみようと思い立った。この出発地点はかなり恣意的なものだけど、そこに人生のかなりの時間を費やすことを意味する重い決断ではある。こうして設定した出発地点を独在と呼び、そして僕の目標地点である「なんにせよ、なにかが存在する」を現実と呼ぶならば、僕の歩んでいるのは、「独在から現実へと向かう無内包の力」に導かれて進む道のりである。そして、その力の別名は、考えなくてもいいことをあえて考え、語らなくてもいいことをあえて語っているという意味で、「哲学の力」である。

このように考えるならば、入不二と永井の議論の向きの違いなどという問題は霧消する。そこには僕の哲学というひとつの向きしかないからである。ひとつしか類例がないものについて、その向きを論じることは無意味である。

以上、なかなかうまいまとめかただと思うけれど、このようにまとめることには大きな問題もあるだろう。

今僕が述べたことは、要は、僕は「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷり浸り、哲学者をやっていく、という宣言でもある。ここには哲学者の優位性はなく、別に昆虫学者をやっていく、でもいいし、サラリーマンをやっていく、でもいいし、大工をやっていく、でもいい、ということになってしまう。

僕は、僕が哲学を遂行するという当事者性により、「独在から現実へと向かう無内包の力」と「哲学の力」を重ね合わせることに成功したつもりになっていた。だけど、その重ね合わせが完全に成功してしまったあかつきには、「哲学の力」などどこにもなく、ただ無内包の力に巻き込まれて生きる一人の人間がいるだけである。その人は、変な文章を書くのが好きだという理由で便宜的に哲学者などと呼ばれることはあるかもしれないけれど、ここでの哲学者とは、サラリーマンと僕が呼ばれることと何ら違いはない。僕は、水を飲んだり、風呂に入ったりするのと同じような意味で、哲学の文章を書くことを遂行しているに過ぎない。それが無内包の力である。

僕が先ほど提案した「飛躍モデル」とはこういう事態を指しているのだろう。僕は、書かなくてもいいのにあえて哲学の文章を書いている。つまり僕は無根拠に文章を書いているのであり、これは飛躍である。同様に、僕は、飲まなくてもいいのに無根拠に水を飲み、入らなくてもいいのに無根拠に風呂に入り、生きなくてもいいのに、無根拠に生きている。これは飛躍である。僕は飛躍を繰り返して生きている。そのような事態を僕の「飛躍モデル」は描写しているのだろう。このような描写は真実の一端は表現できていても、これは真実の全てではない。

「飛躍モデル」だけではうまくいかないし、かといってすべてを俯瞰する「往復モデル」だけでもうまくいかない。その〈中間〉が大事なのであり、その中間のひとつのあり方として、入不二の円環モデルや、永井の逆円環モデルは非常に魅力的である。

そのうえで、「飛躍モデル」「往復モデル」「円環モデル」「逆円環モデル」を自在に行き来するような、もうひとつの〈中間〉を追加することができたということは、僕にとって、とても意義深いことだったと思う。

僕は、僕が提起した問題にすべてを答えきれていないけれど、僕の考察はとりあえず、ここで終わりにしたい。

チーズその3 ごめんなさい

※22000字近くあります。僕にとっては結構大事な文章ですが、僕が先日、亡くなってしまったネコのことを書いて吐き出しているだけの文章とも言えます。

1 チーズが亡くなるまでの経緯

チーズといううちのネコのことを書くのは3回めだ。そしてようやく最終回になると思う。なぜなら、チーズは、亡くなってしまったからだ。僕は、僕のなかに何か強い感情があるとき、それを文字にして吐き出すと少し落ち着く。だから僕はこの文章を書いている。

そのような目的で書く文章だから、あえて前に書いたことを読み返さずに書く。だから、同じことを書いてしまっているかもしれない。けれど、同じことを二回も思いつくなんて、それはそれでいいじゃないか。

1回め http://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/

2回め http://dialogue.135.jp/2022/05/30/junkan/

チーズは5歳半で亡くなった。前には6歳と書いたはずだけど、家族で確認したら5歳半だった。なんでそんな勘違いをしていたんだろう。少しでも長生きしたことにしたいから、あえて考えないようにしていたのかもしれない。やっぱり早すぎる。

まず、簡単にチーズが亡くなるまでの経緯を記録しておく。

2022年5月16日、なんだか調子がイマイチに見えたので、念のため病院につれていったところ、原因不明(あとで考えると多分、心筋症によるもの)で暴れて吐いて、誤嚥性肺炎になった。

だんだんひどくなり、20日から23日までは入院した。一時は死んでしまうかと思ったけれど、退院できて、最初は強制給餌だったけれど徐々にご飯を食べるようになり、27日くらいからは結構よくなってきて、そこから1週間強、ちょっと活動量は低いけど以前と変わらないチーズ、くらいになって、色々とかわいい姿を見せてくれた。

ただ6月7日くらいから、なんとなく食欲が落ちてきて、機嫌はよさそうだったけれど、10日からは息がだんだん息が荒くなってきた。。もともと、14日(火)には病院に行く予定があったのだけど、それまでに胸水を抜いておけばいいのかな、と思い病院に連れていくことにした。そして、日曜日でもやっている病院をみつけ、12日(日)の夕方、僕のベッドの横で息は荒いけれどのんびり僕を見ているチーズを不意打ちで捕まえ、ケージに押し込めて午後5時45分頃に家を出て病院に連れていった。

診察の結果、胸水はなく、多分拘束型心筋症由来の肺水腫、心筋症はかなり悪いとわかった。利尿剤の連続点滴が至急必要なので24時間治療ができる病院に連れていくべきということになった。

移動するタクシーの途中で、口を開けて息をするようになり、目を見開き、吐きそうな動作をして奇声をあげた。15分くらいで病院に到着した頃には意識も朦朧で、そこから治療が始まった。それが18時45分くらい。

その病院では、利尿剤の効きが悪く、今夜を乗り切れるかはわからないと言われた。五分五分とは言われなかったが、それに近いニュアンス。2時間くらい病院にいたあと、家に帰り、午後9時頃、遅い夕食を食べた。

そして明日は仕事前に病院に面会に行こうと思ってベッドに入ってウトウトした頃、12時少し前、病院から電話があり、娘と一緒に病院に駆けつけた。それが2022年6月13日0時15分頃。だが残念ながら到着の直前、チーズは息をひきとったとのことだった。死亡時刻は0時15分とのこと。まだ温かくて、鼻や口からは液体が出ていた。聞くと、数時間は小康状態だったけれど、23時半くらいから息が荒くなり、そして亡くなったとのことだった。

僕はずっとチーズが亡くなるとき、苦しまないといいなあ、と願っていた。心筋症による肺水腫というのは水に溺れるような苦しさがあるらしい。そのような苦しみがなければいいと願っていた。チーズの場合は、少なくとも午後5時45分までは普通にしていたし、本当に苦しかったのは、多分午後6時45分から午前0時15分までの5時間半くらいだろう。とても苦しくて、とても頑張ったと思うけれど、それほど長く苦しまなかったのはよかったなあ、とも思う。

だけど、あっという間だった。直前まで、あんなに元気そうだったのに。日曜日の昼、僕と妻と娘は、ベランダでゴロゴロしたり、洗濯物にケリケリしたりしているチーズを見て、こんなかわいいチーズをもう少し見ていたいなあ、と思っていた。だけど、そのとき、皆、言葉には出さなかったけれど、今というのは、とてもかけがえのない時間だということはよくわかってはいた。

チーズはかわいくて、やさしくて、ひかえめで、かしこいネコだ。The RoostersのGirl Friendの歌詞のような女の子だ。きっとこれから、チーズを思い出すとき、BGMでこの曲が流れるのではないだろうか。歌詞と違うのは、結構、美人ネコだということくらいだ。

シルクのドレスがよく似合う あの娘がおいらのガール・フレンド そんなに美人じゃないけど とってもかわいく笑ってみせる ~ あの娘がおいらのガール・フレンド そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる ~ もしもあの娘が去ったなら おいら一日 泣き暮らす ~ G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L Oh GIRL FRIEND

あと、もうひとつ歌とは違うのは、チーズは僕のガールフレンドというより、妻のガールフレンドだという点だ。いつも妻のベッドで一緒に寝ていた。いつも妻に話しかけていた。(もう一匹、僕になついてるボーイフレンドがいるから、夫婦間の猫バランスはとれてました。)

妻はちょうどチーズを病院に連れていく直前、19日日曜日の午後4時頃、二泊三日の出張に出てしまい、チーズの最期に立ち会うことができなかった。僕が一連の判断と行動に関わるなかで、妻とチーズの関係を失わせてしまったのは心苦しい。

2 具体的な後悔

僕は、12日日曜日に病院に連れていくという判断をしたこと自体は間違いではなかったと思っている。病院に連れていくと思い至ることができた自分を褒めたいという思いもある。日曜日に開いている病院を探し、良い先生に出会い、適切な治療を試みることができた。チーズにやるべきことをやってあげられたという自負がある。

だけど、一方で、もし、この日、病院に連れていかなければ、あと数日、いや数時間は普段どおりのチーズでいられたかもしれない、という後悔がある。

病院の先生からは、このまま治療しなければ夜を越せないと言われはした。だけど、チーズは通院のストレスで容態が悪化する繊細なネコなので、通院さえしなければ、もう少しの間は大丈夫だったのではないか、とも思う。

そう思うと、どこかで妻に対して心苦しいし、妻と会えないまま別れることになってしまったチーズに対しても心苦しい。

僕は今回、本当に色々と後悔している。病院に連れて行かずに家でそっとしておけばよかったとか、いや、もっと早く病院に連れていけばよかったとか、色んな思いが交錯している。自分でも矛盾しているとわかっているし、そのときにはそうするしかなかったという慰めの言葉のほうが理屈があるというのもよくわかっている。だけどどうしても後悔してしまう。

昨年の10月、チーズの調子がおかしいと思ったとき、もっと検査をしておけばよかった。そうしたら、心筋症が早く見つかっていたかもしれない。

そこでは無理でも、4月になり、てんかんのような症状が出る頻度が多くなり、少し食欲が落ちているかな、と思ったとき、病院に連れていけばよかった。

一旦治療して落ち着いたあと、6月7日頃からまた食欲が落ちてきたとき、または6月10日、呼吸数が多くなっていると気づいたとき、病院に連れていけばよかった。

そして、6月12日は、病院に連れていかなければよかった。または、入院のためタクシーで移動するとき、そのままケージに入れずに洗濯ネットに入れてあげたら少しは落ち着けたかもしれない。調子が少し悪くなったあのとき、もう少しケージを開けてなでてあげたら、ストレスが軽減したかもしれない。

最後にチーズを抱いたのが、嫌がるチーズを病院に連れていくときだったというのもとても悲しい。僕のことを疑わずに僕のベッドに座って僕を眺めていたチーズを、不意打ちのように抱えて、ケージに詰め込んだのだ。最後のチーズとの関わり合いが、チーズの信頼を失い、チーズを苦しめるものだったというのは悲しいことだ。あれが最後になるとは思いもしなかった。(正確には、病院で治療中に動かないように少し抱いたりもした。)

加えて、僕の行動だけでなく、僕の心のあり方に対しても後悔している。

実のところ、5月下旬から6月上旬にかけて、チーズが低空飛行で頑張っていたときも、それを全力で応援することができなかった。僕はチーズの面倒をみることに少し倦んでいた。そしてそのような気持ちを言葉にしてしまったこともある。

具体的には、急変する直前、妻とチーズの面倒をみることの負担感について話し、それをチーズに聞かれていたことが、僕は心苦しい。あれが最後の日のことでなければよかったのに。あと一日、僕が言葉にしなかったら、僕はずっと、それを言葉にせずに済んだのに。

そして、以上のような諸々のことは、すべてチーズは赦してくれそうな気がする。だけどその赦し自体が僕の後悔を増幅する。

もし、病院に連れていかなければ、チーズは自宅で、もう少し長生きして、直前までそこそこ機嫌よく過ごし、そして突然、苦しまずに死ぬことができたかもしれない。だけど、もし、病院に連れて行かなければ、チーズの苦しみとは別に、どうして病院に連れて行って最善の治療を施さなかったのだろう、と僕はもっと後悔していただろう。

自分のことだけを考えたなら、僕の自己満足としては、やはり病院に連れて行ってよかったのだ。チーズは、そこまでわかっていて、あえて、僕のために連れ回されてくれたのではないか。少なくとも、僕は結果的に、チーズに助けられた。僕は最初からチーズに赦されていた。チーズのおかげで、僕は、やるべきことはやったと思うことができた。僕はチーズの手のひらの上で踊っていただけなのだ。

だけど、本当なら、僕は飼い主なのだから、その先をいって、チーズのことをもっとわかっておいてあげるべきだった。本当は、僕がチーズを助けるべきなのに、僕は、チーズが亡くなる最後の数時間まで、チーズに助けられてしまった。僕のなかにはそんな後悔もある。

後悔は色々あるけれど、やはり一番の心残りは通院のタイミングの判断だろう。チーズはもともと病院に行くこと自体が非常にストレスになるネコで、予防接種などで病院に行ったあとは、たいてい物陰に隠れていた。だから通院の判断はとても難しくて毎回悩んだ。

そして残念ながら、事実として、一連の通院の判断はほとんど裏目に出てしまった。

僕は少しでもチーズに長生きしてほしいと願って、いくつかの重要な選択をしたけれど、そのうちの多くは、結果的にチーズの寿命を短くしてしまい、そしてチーズに苦しみを与えてしまったような気がする。

3 パターナリズム的性向 

僕は思う。僕はチーズの飼い主として何点だったのだろうか、と。いくつかの選択に失敗しているのだから100点ではないだろう。だとしても70点くらいだったらいいなあ、とも思う。僕は後悔もあるけれど、そこそこ頑張ったという自負もある。僕は失敗もしたし、チーズを傷つけるようなことも言ったけれど、なかなか良い選択もしたし、チーズに優しくすることもできたではないか。そう自分を誇りたいとも思う。僕のなかには、後悔と自負が渦巻いている。

そう思えるほどには、僕はやるべきことをやった。チーズを病院に連れていき、容態が急変していく数時間、僕は意外と冷静だった。最善の選択は何か、チーズとここにいない妻のために何をすべきか、を常に考えていた。午後9時頃、病院から一旦帰宅するため、苦しむチーズとお別れをするときにも涙は出なかった。多分また会えると思っていたのもあるけれど、僕の涙は妻にもチーズにも役に立たないときちんと計算をしていたから、そういうことは差し控えたのだ。僕は自分の感情を殺して、やるべきことをやった。

だから、亡くなったチーズを連れて帰り、発泡スチロールに入れ、コンビニで氷を買ってきて、火葬の手配をした後も、最後のやるべきことをしている。

保冷剤の入れ替えという最後の作業である。14日の夜、出張から帰ってくる妻に少しでもきれいなチーズを見せてあげて、そして15日に火葬をするまで、チーズをきれいにしておく。妻とチーズの関係を少しでもよいものにするために支援をする。

チーズの魂はここにはないような気がするし、妻もそう言っていた。けれど、チーズの存在が何かを妻に伝えるだろう。そして妻が何かをチーズに伝えるだろう。そんな媒介としてのチーズの肉体を維持して妻に届けるための作業であり、そのような意味で、妻とチーズの関係に対して、僕ができる最後の貢献である。

僕は、何にせよ「やるべき」という義務ばかりを考えている。ベストのタイミングで病院に連れていく「べき」とか、妻にきれいなチーズをみせてあげる「べき」とか。

僕の態度は、極めてパターナリズム的だと思う。保護者的で、先回りして自分勝手にものごとを決めてばかりいる。チーズや妻が実際にどう思っているなんて考えず、僕は僕自身が「やるべき」と思うことばかりをしている。

特に、チーズのようなしゃべれない相手に対しては、僕のパターナリズムは暴走する。相手が人間なら、そんなことは求めてないよ、と否定してもらえるけれど、チーズはそんなことはしてくれない。だから僕は、僕の考えに基づき、チーズならばそう望むはずだと僕が考えることばかりを「やるべき」だと強く思ってしまう。

僕のパターナリズムの暴走は、僕自身の「やりたい」をも圧殺してしまう。「やるべき」の前では、すべての「やりたい」は甘えとなってしまう。僕の心が望んでいること、例えば、チーズの世話に疲れたから気分転換したいとか、チーズはこのくらいで赦してくれると思いたいとか、そういう僕の「やりたい」は、チーズのために最善を尽くしていないという点で甘えなのである。

チーズに対して僕のパターナリズム的な性向が強く出てしまうのはなぜかというと、僕はチーズのことを僕の所有物だと思っているからなのだろう。(妻の所有物でもあるというのはともかくとして。)

チーズは僕の所有物だから、僕に管理責任があり、僕には最善の管理をする義務がある。逆に、所有物なのだから好き勝手に処分する権利がある、と開き直ることもできるはずだけど、僕はどうしてもそうは思えず、所有者としての義務にばかり目がいってしまう。

思えば、僕は、チーズに限らず、ぬいぐるみや洋服や家電製品を捨てるのも苦手だ。僕という所有者だけが彼らを幸せにすることができるはずなのに、その彼らを捨てるのはよくないことだと思ってしまう。また、最近は、肉食もなるべく避けたいと思っている。これも僕の皿の上にある生命に対して僕は最善を尽くす義務を果たしていない、と思っているということなのだろう。一応、ゴミはきちんと捨てるし、普通に焼肉も食べるので、実生活と折り合いはつけている。けれど、僕にはそういうところがある。

それに比べれば、(子供を除く)人間は気楽だ。人間は自立していて、その人がその人自身に対して全責任を負っている。究極的には、僕は彼らに義務を負わない。(せいぜい、彼らに危害を加えない、という消極的な義務を負うのみである。)だから、ウクライナの人が死んでも、親が病気になっても、それは一義的には彼ら自身の問題であり、僕の問題ではない。だから僕は、チーズのことほどに苦しむことはない。

当然、そこには優しさや思いやりという別の問題がある。僕は彼らに共感し、彼らに優しくしたいと思い、そこから、やさしくする「べき」という、義務に近い感情も生まれる。だが、チーズに対して感じる義務感とは全く種類が違うものである。

チーズは自分自身では通院できないから、僕だけが病院に連れていくかどうかを判断しなければならない。だけど、人間なら、手助けはしても、最終的にはその人自身の判断である。

人間は、人間だけが理解できる精緻な人間社会をつくりあげ、そこに病院やら薬やらタクシーやらといった様々な「もの」やサービスもつくりあげた。人間ならば、そのような人間社会で好きに過ごせばいい。だがチーズやぬいぐるみや洋服や家電製品といった人間以外の存在は、人間社会における「もの」やサービスに直接アクセスすることができないから、人間が代わりに仲介してあげなければならない。そして、そのような人間社会にチーズたちを招き入れたのは僕であり、代わってあげられるのは僕だけなのである。僕は、チーズに対して、そのような、切迫した責任感がある。

もし、苦しむのが僕自身だったら、苦しむのは嫌だけれど、きっと後悔することはないだろう。また、苦しむのが僕ではない独立した存在、つまり人間であっても、きっとこれほど後悔することはないだろう。だが、僕自身ではなく、僕から完全に独立もしていない、僕が所有するチーズという存在だからこそ、僕はこのように後悔してしまうのだ。

4 具体的な内容がない「ごめんなさい」

だから僕は、自宅にチーズの亡骸を連れて帰り、妻のベッドの上に置いた後、チーズに「ごめんなさい」と言った。

実のところは、そのような言葉は発したくなかったし、発するとも思っていなかった。だけど、ふと、僕は「ごめんなさい」と言ってしまったのだ。あとから、なぜそのような言葉が出てしまったのかと考えると、ここまで書いてきたようなことがあったからなのだろう、ということになる。

僕には先ほど書いたような個別具体的な様々な後悔がある。特に通院の要否の判断は後悔ばかりだ。だけど、もし、すべての判断がうまくいっていたとしても、結局いつかチーズが亡くなってしまったなら、そのとき、きっと僕は「ごめんなさい」と言っていたはずだ。なぜなら、僕はチーズに対して原初的な所有者責任があるからである。

先ほど述べたように、チーズは人間社会の仕組みを人間ほどに理解することはできないから、僕がチーズの代わりに考えてあげなければならない。だが、それはチーズが何も望んでいないということではない。チーズには何らかの望みがあるはずであり、もし、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら、きっとこうしたかっただろう、という望みがあるはずである。僕は、その望みを知りえないままに自分なりに答えを出すしかない。だから僕は、チーズのためにすることは常に、多かれ少なかれ間違いなのである。

だから僕は、チーズの所有者として、常にチーズに「ごめんなさい」と言うしかない。それは、僕がそのような責任を負うと決めたからには逃れることができない「ごめんなさい」である。

なお、チーズの望みの知り得なさは、チーズが人間社会を理解していないことだけではなく、チーズと言葉でのコミュニケーションができない、ということにも由来するだろう。チーズはよくしゃべるネコだけど、僕にはチーズの考えを言葉で理解することはできない。だから僕は、チーズの望みも理解できない。

だが、もしチーズの言葉を理解することができたとしても、チーズは人間社会の仕組みを知らないネコだから、チーズの言葉に従えばいいとはならない。きっと、チーズが喋れたら、日曜日の午後、病院には行きたくない、と駄々をこねただろう。だけど、僕はチーズと違って、病院は嫌なことをするところではなく、治療をするところだと知っているから、無理やり病院に連れていくだろう。だから、チーズと言葉が通じたとしても、通じなかったとしても、結局、チーズは死に、僕は、チーズの亡骸に向かって「ごめんなさい」という言葉を発することになる。言葉が通じるかどうかに関わらず、僕の「ごめんなさい」は不可避なのである。

そのことを、僕がチーズに対して発した「ごめんなさい」という言葉には具体的な内容がない、と表現することもできるだろう。具体的な反省点があってもなくても、僕は「ごめんなさい」と言うだろうし、僕がチーズを所有するということだけを理由に僕は「ごめんなさい」と言うだろうから、その言葉には内容がないのである。

この具体的な内容がない「ごめんなさい」こそが本当の「ごめんなさい」なのではないだろうか。

これが今回チーズから学んだことだ。僕は前に書いた文章で、チーズに「ありがとう」を学んだと書いた。そして、この文章で書きたいのは、チーズに「ごめんなさい」も学んだということである。

5 具体的な内容がない言葉たち

先日書いたと思うけれど、「ありがとう」にも具体的な内容はない。具体的なことは何もしてくれなくても、チーズがそこにいてくれるだけで、僕はチーズに「ありがとう」と思う。具体的な内容のなさ、という点で「ごめんなさい」と「ありがとう」はとても似ている。

そして、僕は、「ごめんなさい」や「ありがとう」は特別な言葉だと思う。

僕は、なぜ親が子に「ごめんなさい」と言うようにしつけるのかが不思議だった。「ごめんなさい」と言っても失敗はなかったことにはならないのだから、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」でいいではないか、と思っていた。または「反省しているので、そんなに怒らないで許してください。」でもいい。そのような具体的な内容がなく、ただ「ごめんなさい」と言うことに何の意味があるのだろうかと思っていた。

だが考えてみれば、「ごめんなさい」にはそのような具体的な内容がないからこそ、そこには特別な意味があるのである。

「ありがとう」も同様である。「ありがとう」という言葉がもし、「うれしかったので、次回も同じようにやってくださいね。」という具体的な意味を持っていたらさもしい。友人からの誕生日プレゼントの中身が全く欲しいものではなかったとしても、自分のことを思ってプレゼントを準備してくれたというそのことだけで、「ありがとう」と言うのである。これは具体的な内容がない「ありがとう」だろう。(このことは、以前「2種類のごちそうさま」としても書いた気がする。http://dialogue.135.jp/2018/02/18/nisyurui1/

「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉には、伝えるべき具体的な内容がないはずなのに、その言葉でしか伝えられない、言葉にできない何かがある。「ありがとう」や「ごめんなさい」には、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」のような別の言葉では言い換え不可能な、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉でしか伝えられない特有の意味がある。いや、より正確には、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉ですら伝わらないはずなのに、なぜか「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉をふと発してしまい、そして、なぜかそのことで伝わってしまう何かがそこにある。

チーズという言葉が通じない存在のことを考えることで、僕は自分のなかにある、具体的な内容がない言葉たちの存在に気づくことができた。「ありがとう」や「ごめんなさい」はチーズのような言葉が通じない存在であっても通じる言葉であり、そして、チーズのような言葉が通じない存在に対して語りかけるときにこそ、その本質が純粋なかたちで見えてくる言葉である。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発するとき、その言葉は通常の意味では通じなくても、いや通じないからこそ、意味を持つ言葉なのである。

そう考えてみると、世の中には、具体的な内容がある言葉と、具体的な内容がある言葉の二種類があるようだ。「お醤油を取って。」とか「明日は運動会だ。」というような具体的な内容がある言葉と、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉である。

6 内的世界の住民に向けた言葉

通常、言葉というのは、相手に通じることが前提となっている。「お醤油を取って。」や「明日は運動会だ。」という言葉を受け取った人は、その言葉の意味を言葉通りに理解することができる。つまり通常の具体的な内容がある言葉とは、相手に働きかけるための言葉であると言えるだろう。「お醤油を取って。」というのは、相手にお醤油をとるという動作をしてもらうための言葉だし、「明日は運動会だ。」というのは、親にお弁当を忘れないでね、と伝えるための言葉であったり、徒競走で転ばないかどうか不安だという気持ちを理解してもらうための言葉であったりする。それを僕は、具体的な内容がある言葉と呼んでいる。

一方の「ありがとう」や「ごめんなさい」はそうではない。僕のチーズに対する「ありがとう」や「ごめんなさい」は、チーズに何かを働きかけるための言葉ではないし、チーズに理解してもらうことも期待していない。もし、チーズが僕の感謝の気持ちを理解してくれたり、僕の謝罪を受け入れてくれたりしたら嬉しいだろうけれど、そんなことは望んでいない。そんなことは望まず、ただ僕は「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発しているだけだ。

このことは、人間に対する場合でも同じことだろう。もし「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が、相手に感謝の気持ちを理解してもらったり、相手に謝罪を受け入れてもらったりすることを期待する「だけ」の意図から発せられたとするなら、それは本来の「ありがとう」や「ごめんなさい」ではない。本質的には「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、そのような意図などなく、ただ発せられる言葉なのである。

では、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉たちは、何に向かって発せられているのだろうか。目の前にいる話し相手に対してではないし、単なる独り言ということでもないだろう。

唐突だけど、僕は、「ありがとう」や「ごめんなさい」は、自分の心の内側の内的世界にいる他者に対して発せられる言葉だと考えたい。

内的世界というアイディアはいかがわしいと思われるかもしれないが、極めて日常的な感覚として、このいわゆる物質世界とは別に、心的な内的世界とでもいうべきものがあるという捉え方をすることは自然なことだろう。

自然科学的な世界観からすれば、心的な内的世界なんて幻だと思われるかもしれない。だが、僕たちは例えばシャープペンシルをプラスチックや金属の塊としてではなく、文章を作成する道具としても認識している。それはつまり、物質世界に心理的な解釈を加えているということである。その心理的な解釈も自然科学により説明できると考えることは可能だろうし、哲学的には、そこから、心的な内的世界なんて本当にあるのか、幻ではないのか、いや、物質世界のほうが幻なのかもしれない、なんていう議論が展開されることになる。

だけど、それはともかく、そのような議論の出発地点として、物質世界と重ね合わせるように、並行して心的な内的世界があるという常識的な実感があることは否定できないはずである。つまり、この常識的な世界とは、シャープペンシルをプラスチックや金属の塊として捉えるような物質的な外的世界と、シャープペンシルを文章を作成する道具として捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。または、チーズを一匹の動物として捉えるような外的世界と、チーズを大切なペットとして捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。

そのうえで、哲学的な議論の末、僕の内的世界は幻であり、なかったことになってしまうかもしれないけれど、その議論の手前においては、僕の内的世界はここにある。だから、僕のこの世界は、常識的に考えるならば、物質的な外的世界と心的な内的世界の混交物である。だから僕は現に、その程度はともかくとして心的な内的世界を生きている、ということになる。

そして、その内的世界とは、僕だけのプライベートな世界であり、僕にすべての権限があり、そして僕にすべての責任がある世界である。

当然、僕だけの内的世界であっても、それを好き勝手に操作することはできない。物質世界において朝がくれば、僕の内的世界においても僕は起きて仕事に行かなければいけないし、僕の内的世界においても、もうチーズの姿を僕の家の中で見つけることはできない。

それでも、僕の内的世界においては僕は自由にものごとを解釈することができる。出勤を辛いことだと位置づけることもできるし、楽しいことだと位置づけることもできる。チーズの死を永遠の別れと位置づけることもできるし、まだチーズの魂は見えないけれど、このあたりでうろうろしていると想像することもできる。僕には、物質的な制約はあるけれど、その範囲内での心的な自由がある。

考えてみれば、ものごとの具体的な内容についての記述は、物質的なものである。「お醤油を取って。」というのは、テーブルの上にある醤油ボトルという物体を移動させる動作として描写することができるだろうし、「明日は運動会だ。」というのは、明日という時点において、たくさんの人間が小学校に集まるという物質的な状況として描写可能である。もし「ごめんなさい」が、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」という具体的な内容がある記述だとするならば、それは、約束を忘れないようにスケジュールに登録してこまめに確認する、というような具体的な動作として描写できるだろう。いずれも物質的な外的世界のできごとであり、僕はそこから離れることはできない。

だが、言葉には、具体的な内容のない言葉もある。「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉である。これらの言葉は、具体的な内容がないから、物質的に描写することもできない。その証拠に、ベランダでゴロゴロするネコという物理的な状況に対して、「ごめんなさい」と言うことも言わないこともできるし、または「ありがとう」と言うことも言わないこともできる。つまり、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容のない言葉を発するかどうかには、物質的な描写から離れた、心的な自由がある。

そのように考えるならば、「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、僕の心的な内的世界の住人に対する言葉だと言えるのではないだろうか。当然、心的な内的世界という捉え方自体がナイーブなものであり、哲学的にはいくらでも議論に付すことができるものだろう。だが、「ありがとう」や「ごめんなさい」が、単に目の前の他者に対する言葉ではなく、または、単に自分自身に対する言葉でもない、と考えるための出発地点としては、心的な内的世界という設定は、よくできているように思う。

だから、「ありがとう」や「ごめんなさい」といった具体的な内容がない言葉を発するとき、この物質的かつ心的なものとしての常識的世界は、物質性のベールを剥がされ、世界の心的な側面が顕在化する。もし物質的な世界観だけによるならば、「ありがとう」などと言わず、「次回も同じようにやってください。そうすれば私は喜びます。」と言えばいいし、「ごめんなさい」などと言わず、「怒るのをやめてください。同じことを繰り返さないように気をつけます。」と言えばいいはずだ。だが、そのような言葉ではなく、あえて「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を選ぶとき、僕はそれ以上の何かを伝えようとしている。だが、その何かを言葉で説明することはできない。だからこそ、その言葉は、具体的な内容がない心的な内的世界に向けた言葉である、ということになるのではないだろうか。

「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉を通じて、僕は自分自身の内的世界を垣間見ることができる。そこには、「ありがとう」や「ごめんなさい」と言うに値するたくさんの他者が住んでいる。そこはずいぶんと賑やかな世界である。そして、嬉しいことに、そこにはチーズも住んでいる。僕が「ありがとう」や「ごめんなさい」と語りかける限り、チーズはここにいる。そう考えることは、少しは慰めになる。

7 時間の超越と忘却

チーズはもうこの物質世界にはいないけれど、僕の心の中の内的世界にはいる。「ありがとう」や「ごめんなさい」とチーズに語りかける限り、現に僕は、チーズにアクセスすることができる。

だから、この常識的な世界が単なる物質的な外的世界ではなく、心的な内的世界との混交物だとするならば、この常識的世界においても、チーズは現に存在していることになる。僕が階段を見上げ「ありがとう」という言葉とともに、チーズの不在を確認するならば、チーズはそこにいる。僕のベッドで丸くなっているチーズを思い、「ごめんなさい」という言葉とともに、そこで撫でるように手を動かせば、チーズはそこにいる。なぜなら、僕の心はそこに向かっており、そして、そこにチーズの存在を内的に見いだしているからだ。

それを、チーズは今も「潜在的に存在している」と表現することもできるだろう。チーズは、チーズの不在として、僕に語りかけられるようにして存在している。

これを潜在的存在と呼ぼう。このような存在のあり方を認めるならば、潜在的存在は時間を超越する。僕がチーズに語りかけることで、チーズは時間を超えて潜在的に存在することができる。階段から僕たちを見下ろし、柱に頭を擦り付けて、「ニャー」とだみ声でなくチーズは、今でも潜在的に存在しているのだ。

ただし、チーズは潜在的に存在しているといっても、自由自在に存在はしていない。チーズが空を飛ぶことはないし、チーズが風呂に入っていることはない。(チーズは風呂に一度も入ったことがない。)チーズは僕が過去を思い出すようにして存在している。僕が、過去のチーズを思い出し、想像する限りでしかチーズは潜在的に存在することができない。

だから、僕がチーズのことを忘れていけば、チーズは潜在的にも存在しなくなっていくのだろう。この文章はチーズが亡くなった直後から書いているけれど、今日は25日土曜日でらり、もうすぐ2週間である。そして、チーズのことを思い出すことも少なくなってきている。だんだん、「ありがとう」とも「ごめんなさい」も思わなくなってきている。こうして徐々に、チーズは僕の内的世界からも退場していくのだろう。

僕は、こうして、チーズを忘れていくことに対しても「ごめんなさい」と思ってしまう。「ごめんなさい」とすら思わなくなることに対しての「ごめんなさい」であり、きっと、これこそが、チーズに対する最後の「ごめんなさい」である。

それは寂しくて、心苦しいことだけど、そう悪いことではないとも思う。なぜなら、僕が、僕の人生を生きるためには、チーズをある程度は忘れなければならないからだ。例えば、僕はこうして文章を書くことこそが、僕がやるべきことだと思っているけれど、今のままではチーズのことしか書くことができない。新しいことを書くためには、チーズのことを思い出してばかりはいられない。

かといって、チーズの死は無駄で、なかったことにするべきということでもない。チーズの死を経験し、そしてそれを忘却するというプロセスを経ることで、僕は何かを手に入れることができるはずだ。この成長のプロセスは、チーズを忘れ、僕が次の一歩を踏み出すことで成し遂げることができる。つまり、忘却は成長に変換されるのであり、そして今、僕はその作業を完遂するときなのである。

ここまで書いてきた僕の文章を読み直しながら思う。この文章は、僕とチーズの記録であり、僕の経験と忘却の記録であり、そして僕の成長の記録である。そして、僕は、この文章を書き終え、そしてチーズを忘却することでこそ、成長することができる。それはつまり、成長した僕の中で、チーズはいつまでも潜在的に存在し続けるということである。成長した僕をチーズに見せてあげることこそが、チーズがあのとき、確かに顕在的に生きていたという証をチーズに示してあげるということであり、そして、今もチーズが潜在的に生きているということをチーズに示してあげるということなのである。

きっと、他者と関わるとはそういうことなのだろう。僕はチーズからそのことを学んだ気がする。

8 ありがとうとごめんなさいの違い

ところで、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉である。では、いずれも具体的な内容がないという点では同じなのに、どうして、「ありがとう」と「ごめんなさい」との間には違いがあるのだろうか。

チーズはネコだから、人間社会を理解できず、人間社会における正解を知ることはできない。だから僕は、チーズへの「ごめんなさい」には具体的な内容がないと考えている。「ごめんなさい」が具体的な内容を持つためには、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら何を望むかがわかっていて、その望みを達成できなかったことに対して、「ごめんなさい」と言わなければらならない。だけど、それは叶わぬことだから、僕がチーズのためにすることは、その内容に関わらず、常に間違えてしまっている。だから僕は何をしても「ごめんなさい」と言うしかない。これが具体的な内容のない「ごめんなさい」である。

だが、考えてみれば、僕がチーズの望みを全く知らないというのは言い過ぎだろう。少なくとも、チーズが機嫌良さそうにベランダでゴロゴロしている時間が少しでも長く続くことこそが望ましい、という明確な望みは確かにあるのではないだろうか。僕と妻と娘は、チーズを病院に連れて行く直前の昼、少し息が荒いながらもベランダでゴロゴロと遊ぶチーズを見ながら、こんな時間がいつまでも続けばいいと思っていた。それはチーズも同じはずだ。ついでに言うならば、一緒にゴロゴロしていたもう一匹のタックンも同じはずだ。あのとき、確かに、その場にいた三人と二匹は、ベランダでゴロゴロすることこそが望みだ、ということを、言葉を交わさずとも共有していたはずなのだ。

そのうえで、もしチーズと言葉を交わすことができれば、「君と今後もベランダで遊べるように、今、病院に行っても体調は大丈夫?」と聞けるし、チーズに人間並みの知識があれば「タクシーで15分くらいかかるんだけど、乗り物酔いはしない?」なんて聞くこともできただろう。そのように確認しつつ、一緒に、ベランダでゴロゴロして遊ぶという明確な目標に到達するための方策を練ることもできたはずだ。

だけど、残念ながらそれができなかったから、明確な目標を目の前にしつつも、そこにたどりつくまでの具体的な道筋は僕一人で手探りで決めるしかなかった。そして僕はその判断が正しいものだったのか、最後まで知ることはできなかった。だから具体的な内容がない「ごめんなさい」なのである。

確かに「ごめんなさい」には具体的な内容がない。だが、その内容のなさは、ベランダでゴロゴロするというチーズの望みは十分に具体的に知りつつも、そこに至る道筋の具体的な内容がわからない、という点で、具体的な内容がないのである。

一方で、もうひとつの具体的な内容がない言葉である「ありがとう」は、「ごめんなさい」とよく似ているけれど、違いがある。

対比するようにして述べるならば、「ありがとう」とは、一緒にベランダでゴロゴロして遊べたことに対する感謝の言葉である。そのように考えるならば、「ありがとう」という言葉についても、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶ、という状況に対する言葉である、という明確な内容がある。

だが、「ありがとう」という言葉に具体的な言葉に内容がないのは、一見、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶという具体的な状況が大事なように見えて、実は、そこには何らこだわっていないからである。もし、チーズがベランダではなくてリビングでゴロゴロしても、または、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、または、チーズがベランダにもリビングにも、どこにもいなかったとしても、僕のチーズに対する「ありがとう」には変わりがない。確かに、「ありがとう」という言葉は、具体的な内容があったほうが発しやすい言葉である。だけど、それはあくまでもきっかけとしてあったほうがいいだけであって、すぐに僕は、そのような具体的な内容は重要でないということに思い至ることができる。僕が「ありがとう」というとき、たまたまベランダでゴロゴロして遊ぶチーズをイメージしたとしても、それはそれだけのことであり、僕は、そのような具体的な状況とは関係なく、ただチーズに「ありがとう」と言っているのである。

そのように考えるならば、「ありがとう」と「ごめんなさい」とでは、その具体的な内容のなさに違いがあると言えるだろう。「ありがとう」では、その言葉の対象自体に具体的な内容がないが、「ごめんなさい」では、その言葉の対象は具体的だが、その対象に至る道筋に具体的な内容がないのである。「ありがとう」の内容のなさは、目的の内容のなさであり、「ごめんなさい」の内容のなさは、手段の内容のなさだと言ってもいいだろう。

だが、「ごめんなさい」の内容のなさをもう一段深めて、もし、チーズが死んでいなくても、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、リビングでゴロゴロしても、または、チーズがベランダで幸せそうにゴロゴロしていても、チーズに対する「ごめんなさい」には変わりがない、と言うこともできるだろう。

実際、僕は、あの日曜日、幸せそうにゴロゴロしているチーズを前にして、荒く上下しているチーズのお腹を見ながら、苦しそうにしているなあ、もう少しなんとかしてあげられないかなあ、とも思っていた。僕は、自分の力不足を悔いていた。先ほど、僕たちは、幸せそうにゴロゴロしているチーズという正解を手に入れていた、と言ったけれど、それは一面的な捉え方であり、もう一面では、僕はその状況に不穏なものを感じ、そしてそれを恐れてもいた。

そこまで考慮に入れるならば、どんな状況であっても僕は「ごめんなさい」と言ってしまうという点で、このような「ごめんなさい」にはその道筋・手段として内容がないだけでなく、その対象・目的としても内容がない、と言うことができるだろう。僕は、具体的にどのような状況であれば「ごめんなさい」と言わずに済むのかわからないし、もし何らかの状況を目指すとしても、どのように目指せばいいのか、その具体的な道筋がわからない。そこには二重の具体的な内容のなさがある。

整理しよう。ベランダでチーズがゴロゴロする、という状況に対して、僕は、「ありがとう」と「ごめんなさい」という二つの態度をとることができる。その状況を肯定的に捉えるならば「ありがとう」であり、否定的に捉えるならば「ごめんなさい」である。そして、その肯定性や否定性は、具体的な状況を離れ、具体的な内容のない、肯定性や否定性へと展開されていく。

だが違いはもうひとつあり、「ありがとう」はその肯定的な状況をただ受け止めるのに対し、「ごめんなさい」は、その否定的な状況にただ注目するのではなく、その否定的な状況を避けるための道筋・手段に焦点が移っていく。だから、その否定的な状況ではなく、その否定的な状況を避ける道筋・手段が見つけられないことに対して、僕は「ごめんなさい」と言う。

9 「こんにちは」や「さようなら」

レベルの違いはあれど、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉だが、そのような言葉は他にもある。例えば、「こんにちは」や「さようなら」という言葉がそうだろう。

トレッキングをしていて、人とすれ違うとき、「こんにちは」と挨拶をする。そこから、頂上はまだ先ですか、なんて具体的な話になることもあるけれど、たいていは「こんにちは」と言っておしまいだ。その相手とは、これまで一度も会ったことがない人であり、そして、きっとこれからも二度と会わない人である。登山という行為を同じタイミングで同じ場所で一瞬だけ共有している、という関係しかない。あえて言うならば、登山の「こんにちは」には、そのような具体的な内容がある、と言えなくもない。だが、僕は、この人は登山をしている人だから共通点があるなあ、なんて考えて「こんにちは」と言うのではない。あえて言えば、木や山ばかり見ているなかで、急に言葉が通じる人間が登場したから声をかけたにすぎない。その人は、もしかしたら僕と主義主張が合わないネトウヨかもしれないし、もしかしたら殺人鬼かもしれない。それでも、その人がどのような人かどうかなど関係なく、その相手が人間だということだけを理由に、僕は「こんにちは」と言う。このときの「こんにちは」は極めて具体的な内容に乏しい言葉だと言うことはできるだろう。

似たようなことが「さようなら」でも言える。仲がいい人でも、それほどでもない人でも、別れのときには「さようなら」と言う。そこには、通常、「東京でもがんばれよ。」とか、「本当は行かないでほしい。」とか、具体的な内容がない言葉がつきまとっている。しかし、そのような内容をすべて言葉にしてしまったあとでも、それでもきっと、別れのときに「さようなら」とは言うだろう。そのときの出がらしのような「さようなら」は、極めて具体的な内容に乏しいはずだ。

「こんにちは」には出会ったときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はなく、そして「さようなら」は別れのときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はない。

だが、もう一つ具体的な内容があるとするならば、いずれも、肯定的な言葉だ、という共通点があるとは言えるだろう。それは「ありがとう」も同じである。

「ありがとう」も「こんにちは」も「さようなら」も、ほとんど具体的な内容がない言葉だが、その言葉を発する相手は肯定的な存在であり、その肯定性だけは内容として持っているとは言える。(「こんにちは」と「さようなら」は用いられる場面が限定されているので、「ありがとう」のほうがより具体的な内容がない言葉とは言えるだろうけれど。)

だから、これらを肯定的で具体的な内容がない言葉と呼びたい。

10 否定的な言葉の肯定性

一方の否定的で具体的な内容のない言葉にも、「ごめんなさい」以外のバリエーションがありそうだ。例えば、「ばかやろう」や「死ね」のような罵りの言葉が考えられる。これらは、相手の頭が悪いと言いたいのでも、本当に死んでほしいと願っているのでもないから、具体的な内容のない言葉だと言えそうだ。

このような罵りの言葉を、どのようなときに使うのかと言えば、口喧嘩をしているときだろう。僕が喧嘩をする相手といえば、妻だ。「ばかやろう」や「死ね」とは言わないけれど、僕は何らかの罵りの言葉を妻に投げかけているような気がする。具体的に何と言っているかは思い出せないけれど。

では、このような罵りの言葉を投げつける相手が否定的な存在なのかというとそうではない。僕は妻のことが好きで結婚したのだし、それは今も変わらない。時々、喧嘩をすることはあるけれど、妻のことは肯定的な存在だと捉えている。肯定的な存在であるはずなのに、その肯定性が欠けてしまったから、僕は口喧嘩をして、妻に罵りの言葉を投げかけ、その肯定性をなんとか回復しようとしているのだ。

同様に、「ごめんなさい」を言う相手も、チーズという肯定的な存在である。病気により、その肯定性が欠けてしまったから、僕はなんとか肯定性を回復しようとし、それがうまくいかないから、僕は「ごめんなさい」と言っているのである。

つまり、否定的な言葉にも、その奥底には肯定性がある。具体的な内容のない言葉は、一見否定的なものであっても、肯定的なものであっても、いずれにせよ、肯定的な対象に対して投げかけられる言葉であり、ある意味、肯定的な関係性を認めるからこその言葉なのである。

なぜ、そんなことを考えているのかといえば、僕は、チーズに向かって、「ごめんなさい」と思うのが苦しいからである。

チーズは、存在するだけで肯定そのものである。そして「ありがとう」はチーズの肯定性をそのまま受け止める言葉だけど、「ごめんなさい」はチーズの肯定性を一旦否定したうえで、なんとか肯定性を回復しようとする、というようなまわりくどいことをしている。チーズはそのままで肯定性のかたまりなのに、あえてチーズが病気になって肯定性を失ってしまった、と考え、そのうえで、がんばって治療して肯定性を少しでも回復しようとして、それに失敗してしまったことに後悔し、そして「ごめんなさい」と言っている。

だから、「ごめんなさい」はあくまで派生的であり、本質は「ありがとう」にある。僕は本当は、チーズに謝罪する必要などなく、ただ感謝さえしていればいいのだ。

そう思うことで、僕は少し楽になる。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も「こんにちは」も「さようなら」も「ばかやろう」も、そこにはほとんど具体的な内容はない。共通してあるのは、ただ、肯定的な存在を認める、という内容だけである。「ありがとう」が最もそれを純粋なかたちで示しており、「こんにちは」と「さようなら」は、そこに出会いと別れという場面の限定を加えたものである。「ばかやろう」は、その肯定性の欠如を回復しようとする場面で発せられる言葉であり、「ごめんなさい」は、その回復の試みが失敗したときに発せられる言葉である。

いずれにせよ、それらは、肯定的な存在そのものに対して向けられた言葉であり、その存在とは、僕の心的な内的世界における存在である。また、その存在は、この物質的な外的世界と心的な内的世界が混交した常識的な世界においては、潜在的なものとして存在することとなる。

だから、僕は、チーズに対して、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「こんにちは」、「さようなら」、「ばかやろう」といくらでも語りかけることができる。僕が忘却するまでは、そうすることが許される。だから、今のところ、僕は、チーズに「さようなら」とは言いたくない。「こんにちは、チーズ、ありがとう、チーズ、ごめんなさい、チーズ」と当分の間は言い続けることにする。(「ばかやろう、チーズ」と言ってもいいけれど、あんまりそういう気持ちにはならない。)

11 過去のなかの天国

チーズが亡くなってすぐ、家族で天国の話をした。もしチーズが天国にいったとしたら、そこは、どんな天国なのだろう、なんていうことを話したのだ。

チーズの天国はきっと、大草原のような場所ではないような気がする。なぜなら、チーズは、家のなかにいたことしかないからだ。せいぜい、チーズにとっての天国とは、窓が沢山あって、そこから色んな面白いものが見えたり、ダンボールがたくさんあって、いくらでもその中に入って遊べたりするような場所だろう。

天国というのは、いくらでも望みが叶う場所だとしたら、天国には、どれだけ望めるか、という想像力の限界があるはずだ。天国とは、想像できることしか叶わない場所なのである。

そして、想像できることは過去の経験に左右される。過去に経験したことのうち、最も望ましいことを繋ぎ合わせ、せいぜいそれを誇張するようにしてしか、天国を思い描くことはできない。天国で食べる料理は、あのときに食べた料理の10倍美味しいはずだ、とか、天国で出会う美女は、この世界の最高の美女の10倍美しい、とか、そんなふうに。

だから、天国は過去の経験のなかにある、とも言える。過去に出会ったものすべてに再会できる場所こそが天国なのである。だから、僕の天国には、きっとチーズもいるだろう。

さて、僕はこれまで、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉について考えてきた。その一方には、具体的な内容がある言葉がある。では、具体的な内容はどこにあるかというと、天国と同じように、過去の経験のなかにあるのではないだろうか。

僕の「ごめんなさい」は具体的な内容がない言葉だけど、「もう一度、あの日のようにベランダでゴロゴロすることができなくてごめんなさい。」と言ったとき、僕の言葉は、具体的な内容を獲得している。この言葉に吹き込まれているのは、過去における具体的な内容である。

そこに吹き込まれるのはあくまで過去である。だから僕は、「チーズと一緒に風呂に入れなくてごめんなさい」などと、過去に起こらなかったことについて言うことはできない。また「チーズに、来月発売予定のちゅーる(美味しいネコのおやつ)の新製品を食べさせてあげることができなくてごめんなさい」いうことはできるけれど、これは一見、過去とはかけ離れているように見えても、天国の美女が10倍美しい、というのと同じで、過去のちゅーるを加工して、誇張しただけのことであり、過去の具体性から離れることはできていない。

天国であっても、この世界であっても、具体的な内容は過去にあるのだ。

だからこそ、多くの具体的な内容がある無数の言葉のなかから、わずかに混ざっている、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉を見つけ出し、そこに着目することには意味がある。そのような具体的な内容がない言葉だけが、過去を離れる力を持っている。そして、それこそが僕が未来への一歩を踏み出す力となる。

僕はもう、チーズに対しては、具体的な内容がない言葉しか投げかけることはできない。それはとても寂しいことだけど、だからこそ、チーズは、僕に、前に進む道を示してくれているとも言える。

もう少し推敲して整えようと思ったけれど、またチーズのことで、その4を書くこともできるよう、ここで書き終えることにする。

ありがとう、チーズ。

※ この文章では、「具体的な内容がない言葉」や「潜在している存在」といった概念を用いたけれど、これらは、入不二基義が用いている、無内包や潜在性といった概念に触発されて用いたものです。