哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

芸術について

解散してしまったミドリというバンドの元ボーカルである後藤まりこのライブを観た。叫んだり、暴れたりしているだけのように見えて、それだけでもないような。とにかく圧倒的だった。

圧倒的な暴力性と否定に満ちた世界。
そういう体験は銀杏ボーイズなどで何度かあるけれど、久しぶりだった。小さいライブハウスだったからということもあるけれど、ライブの間、僕は彼女と目が合うのが怖かった。
僕は彼女を見ていたけれど、逆に僕が彼女に見つめ返されるようなことが起こらないでほしいと思っていた。僕は音楽にのり、体を動かしつつも、僕の心は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。動いたら何が起こってしまうのか不安で仕方なかった。

そこにあるのは強烈な一方向性だった。彼女から僕への一方通行の関係性。僕は完全に受け手だった。僕から彼女に何かを発するなんていうことは許されない。そんな気分だった。
これは、双方向性の否定と言ってもよいだろう。
僕が彼女のパフォーマンスに感じたある種のネガティブさは、この否定の力だったのだろう。

そこで僕が見たのは、いわゆる対話というものの一部を切り取り、不自然なほどに誇張した戯画だったのかもしれない。
通常、人間関係には双方向性がある。AさんとBさんが同じ場に居合わせたなら、どんな微かなものであっても、そこには、AさんからBさんへの影響とBさんからAさんへの影響の両方がある。
それを言葉の次元で表現するなら、AさんからBさんに語りかけ、BさんがAさんに応答する、という対話がある、と言ってもよい。たとえ言葉は発せられず、眼差しの交錯だけだったとしても。
そのうち、AさんからBさんに向けたベクトルだけを切り取ったのが、この場だったのではないか。Aさんが後藤まりこで、Bさんが僕だ。

対話というものについて興味がある僕としては、この不完全な片肺飛行とも言える対話の場に立ち会えたことは幸運だったと思う。

この奇妙な対話のサンプルは、僕を完全な対話の受け手の立場に置き、対話の受け手であるということがどういうことなのか、体でわからせてくれた。

思うに、受け手にとって、対話とは刺激そのものだ。
対話において、受け手は一方的に刺激を与えられる。その刺激により受け手の中に何かが芽生える。その芽生える何かを求めて、受け手は受け手としてあろうとするのではないか。

それでは、話し手は、対話において何を求めて話し手であろうとするのか。
それは伝達なのだろう。「私が抱えているこれが伝わってほしい。」そう思って人は伝達を行うのではないか。
対話とは、話し手Aが受け手Bに語りかけるとき、話し手Aにとっては伝達であり、受け手Bにとっては刺激なのだ。
そして、後藤まりこと僕の間ではそうならなかったけど、通常の対話では、次のステップでは、話し手Aと受け手Bの立場が入れ替わり、話し手Bが受け手Aに対して語りかけることとなる。
ここでのBの立場に注目するなら、受け手であるBに与えられた刺激は、次のステップではBを話し手にして、芽生えた何かを伝達しようとさせる。対話における刺激とは、受け手に話し手として伝達を行うことを促すものなのだ。

極めて簡単な説明で申し訳ないが、対話とは、話し手にとっての伝達、そして受け手にとっての刺激ということを認めていただいたとしよう。
それならば、対話ではない、つまり非対話であるとはどういうことだろうか。

話し手にとっての非対話とは、暴力のことだろう。
非対話であるということは、話し手は伝達を諦め、相手に言葉をかけること(これには身体的なメッセージを含む)を諦めなければならない。それでも、何らかの話し手性、つまり、相手に向かってのベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは暴力となるに違いない。

受け手にとっての非対話とは、無視のことだろう。
非対話であるということは、受け手は刺激を受けることを拒否しなければならない。それでも、何らかの受け手性、つまり相手から向けられるというベクトルを失わないぎりぎりの線を維持するならば、それは無視となるだろう。話しかけられていることに気付きつつ、それを無視するということが、受け手にとっての非対話にふさわしい。

では、非対話に陥る事態を避け、対話を成立させるにはどうすればいいのか。
まず、話し手は何かを伝達しようとするならば、受け手が許容できる程度の刺激に留まるよう努めなければならない。それは、いきなり叫んだり、意味不明な踊りを踊ったりするようなものではあってはならないし、また、話す内容も飛躍が大きくなりすぎないようにしなければならない。
また、受け手も話し手の伝達が成立するように努め、相手の言葉を傾聴する心構えをとらなければならないだろう。

だが、今述べたことは確かにそのとおりなのだが、どこか物足りない。
そんな去勢された振る舞いが本当に対話なのだろうか。
後藤まりこがあの日伝えたかったことは、受け手がそう簡単に刺激として受け止められるようなものではなく、そもそも伝達などという言葉でまとめたくないものだったのではないか。それは暴力という言葉のほうがふさわしい。
そして、この僕が受け取ったものも、単に刺激などという言葉で表現できるようなものではなく、どちらかというと、無視してでも拒否したかったのに、それでも受け取ってしまったとしか言いようがないものだったのではないか。そのときの僕の態度は傾聴というよりは無視と表現したほうがふさわしい。
本当の対話とは、暴力と無視に満ちた非対話的なものなのではないか。

確かにあの日、後藤まりこは歌い、踊っていた。傍目には叫び、暴れているようにしか見えなかったけれど。そして、僕も拳を振り上げ、踊っていた。ただ怖いもの見たさで立ちすくんでいただけなのに。
それこそが本当の対話であり、芸術というもののあり方のようにも思う。

(この文章で、最後に芸術に触れているのは、荒々しいタッチで描かれた、およそ装飾には向いていない絵こそが芸術であり、どちらかというと陳腐で芸術性に劣る絵こそが装飾に向いているのはどうしてだろう、という問題意識と重ね合わせていたからです。僕はドライブでは後藤まりこは流さないし、部屋には装飾的な絵を飾りたいです。)

自然科学の言葉を用いた詩

これから僕は、自然科学を全く科学的ではないかたちで用いて、言葉を紡いでいく。
これは、自然科学の言葉を用いた詩だと言ってもよいだろう。

なお、僕は、詩があまり好きではない。
たいていの詩は、焦点がぼやけ、何を伝えようとしているのかよくわからないからだ。
残念ながら、この特徴は、この詩も有している。

詩が、なぜこのような特徴を有しているのかと言えば、詩というものは、明確に何かを伝えようとするものではないからなのだろう。
ただし、それは、伝える意思の欠如ではなく、伝えようとする事柄についての詩人自身の知識の欠如による。
詩人は伝えたい。しかし、伝えたい何を明確に捉えられていないのだ。
そのような意味で詩とは、思考の途中経過としての暫定的な記録である。
将来の自分自身に対してのメモであり、描こうとしている作品のためのデッサンであり、思考の方向を定めるための観測気球のようなものだと言ってもよい。

また、だから詩は、とても不明瞭なかたちで真理という目的地に到達しているとは言える。
少なくとも到達しているような気にさせるし、真理に到達していないことがわかるということ自体が真理へ道のひとつなのだとすれば、そういうことも込みで、真理に到達している。

だけど、僕は、そして全ての哲学者は、それでは満足できない。だから精緻な思考により到達地点までの道のりを、より高い解像度で描こうとする。
それが哲学だ。
しかし、時々は、哲学から離れ、詩というかたちで全体像を荒々しく掴み取ることも必要だろう。
そして、本来は自分自身のためのメモに過ぎないものを、こうして公開することで、何か役立つこともあるかもしれない。

・・・

多元宇宙論によれば、世界全体は11の次元でできているという。
そして、この世界は11次元の世界に漂う、2次元だか3次元だかの膜であるそうだ。

ここで、「世界全体」と「この世界」という表現をしたが、「世界」については、まさに「この世界」と、この世界が所属する、より上位の「世界全体」という二通りの使い方ができる。
それを理解するためには、哲学的には、デイヴィッド・ルイスの可能世界論をイメージすればよいだろう。
可能世界論によれば、この現実世界とは別に数多くの可能世界があるとされる。
この世界は、安倍晋三が総理大臣であることが現実である世界だが、それとは別に、枝野幸男が総理大臣であることが現実である可能世界がありえる。
可能世界論とは、そのような可能世界は単なる想像上のものではなく、可能世界として存在する、という考え方だ。
この現実世界とは別に、枝野幸男が総理大臣である世界や、アメリカがコロンビアと呼ばれている世界や、ネコよりブタがメジャーなペットになっている可能世界が存在する。
大世界(この意味での世界を大世界と呼ぶことにとする)には、この現実世界と無数の可能世界が存在するのだ。

しかし、重要な点だが、無数とは言っても、可能世界の数は、無限ではなく有限の数にとどまる。
可能世界の分岐は、物事があるところで生じる。目の前にコップがあるならば、そこに代わりにペンがある世界や、コップもペンもない可能世界が立ち上がる。
しかし、何も着眼点がないところに分岐は生じない。
コップについて、人が認識できないほど微小な距離、例えば1ミクロンずれた場所に置かれていると想定することに意味を持たせることはできない。
また、ありうる可能性についても限定される。
コップの代わりに例えばそこに優しさがあるというように異なるカテゴリーの事柄が置かれていることはありえない。
このように考えると、想定できる可能世界は非常に多数に及ぶが、その想定には限界があり、人間の思考がその限界にたどり着けるかどうかは別として、有限の数に留まることは確かだ。

大世界には、この現実世界も含めて、極めて多数だが有限の数の可能世界が存在する。
これを、多元宇宙論における並行世界と考えてもよいだろう。
可能世界論における可能世界は、物理的には11次元の宇宙(この宇宙は大世界と読み替えることができる)における別の膜としての並行世界として存在するということだ。

これを、インフレーション宇宙論と重ねることもできる。
インフレーション宇宙論とは、この宇宙はビッグバンから始まったとされるが、それと同じことが、この宇宙のそこかしこで、1プランク長の微小な点を起点に発生しているとする考え方だ。
この宇宙は、この宇宙から生まれる子宇宙にとっては、ビッグバンが生じる前の親宇宙であるということだ。
これは、この僕をとりまく現実世界の一点一点、その全てが、それぞれ、宇宙を潜在的に宿しているということだと言ってもよい。

この宇宙を宿す潜在性を可能世界とつなげることができる。
この世界においては、インフレーション宇宙としての可能世界の生成がひっきりなしに行われている。
コップが置かれるとき、コップが置かれない可能世界が生成され、安倍晋三が総理大臣に選ばれるとき、枝野幸男が総理大臣に選ばれる世界が生成されるというように。
これは、比喩ではなく、実際に可能世界、つまり別の宇宙を生んでいるのだ。

これを、人の営みに重ねるならば、全ての営まれたことの総体がこの現実世界となり、営まれなかったことは全て別様の可能世界として生成される、と言ってよい。
僕の独我論的な世界把握に重ねるならば、全ての認識の総体がこの現実世界となり、別様の認識の可能性が可能世界となる、とさえ言うことができる。
または、僕が自分の人生について語ったことがこの現実世界となり、語られなかったことが可能世界となる、でもよい。
どのような述べ方でもよいが、僕の現実の人生は、可能世界としての宇宙の生成に取り囲まれている。

そういう意味で、この現実世界は、11次元の宇宙、つまり大世界において、僕の選択というかたちで切り取られた膜のようなものだ。
そして、その周囲には、無数の可能世界としての膜が漂っている。
現実世界の近くには、より可能性が高い可能世界が、遠くには、より可能性が低い可能世界が、というかたちで。

ただし、この膜は、いわゆる膜のようなかたちはしていないだろう。
僕は、それは歌のようなものだと思う。
(確か、この膜を音楽に例える本があったが、そうではなく、僕はあくまで歌に例える。)
歌は呼吸が生み出す。身体の根源的な動作としての呼吸が、僕の生を生み出し、この現実世界を生み出しているのではないか。

息を吸うとき、僕は潜在を見通す。そして、息を吐くとき、僕は、そのなかからたったひとつの潜在を選択し、顕在化させる。
深く呼吸をすればするほど、僕はより広い潜在のなかからひとつの潜在を選び、そしてその潜在をより深く顕在化させることができる。
それが、瞑想やヨガということなのではないか。

「旅人の憩い」を読んで

「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」というSFアンソロジーを読んだ。
とても心に残る題名だと思うのだけど、正月のスリランカ旅行で読んだから、という意味でも思い出深い。
そのなかに「旅人の憩い」という短編がある。
長く続く戦争の最前線にいた兵士が任務を解かれ、戦場から遠く離れた街に移り住むという話だ。
どこがSFなのかというと、戦争の最前線から離れれば離れるほど、時間の進み方が遅くなるという世界なのだ。最前線の1秒が、遠く離れれた街での1年になるというようなかたちで。
読んだときには面白いアイディアだな、くらいにしか思わなかったのだけど、最近、時々思い返す。

思い返せば思い返すほど、このSF的ギミックは、最前線の緊迫感というものをうまく表している。
そこには濃密な生がある。飛び交う短い単語での号令。一瞬の判断が命取りになる。何十年もかけて育まれた命が一瞬で失われる。戦場での一瞬の凄惨な光景が長年のトラウマとなり、そして一瞬の武功がその後の半生にわたる栄光となる。娑婆では決して味わえない絶望と興奮。
このようなものたちが濃縮された最前線を、なんとうまく表現しているのだろう。

そして、この最前線特有の時間の歪みのようなものは、この僕の日常にもあるのではないか、と僕は思いついた。
僕にとっての最前線とは、文章を書くことだ。
文章を書くという営みは、とても時間や労力がかかる。
この文章のような軽い文章でさえ僕は色々と費やしている。今朝、珍しく早く目が覚め、この文章の骨格となるアイディアを思いついたので、パソコンを立ち上げ、朝5時台に文章を書いている。ここまで30分くらいかかっている。より読みやすい表現はないか思いを巡らせ、正確な表現を考え、時々読み直し、文字を消し、書き直したりもしている。僕の才能、僕の労力、僕の時間といったものを濃縮するように生み出しているのが、この僕の文章だ。
更には、もっと哲学的な文章であればなおさらだ。数時間かけて書いた文章が、どうも整合しないのですべてボツになることもある。一行で表される主張を思いつくまでに数日かかることもある。僕の哲学的な文章は、僕のある時期の人生のかなりの部分を捧げたものだと言ってもよい。

正直言って、この僕の戦争は僕の日常を大いに侵食している。
文章を書くなんてことをしなければ、もっと色々なことができるだろう。
もっと稼いで海外旅行に行ってプールサイドでのんびりしたり、料理ができるようになって家族に手料理を振る舞ったり、部屋を片付けて奥さんに褒められたり、ネコを撫でたり。そこには、もっと人間的で好ましい世界が広がっているように思える。まるで戦場から遠く離れた街のように。

では、「文章を書く」という僕の最前線は、何の最前線なのか。
それは、人間の知の最前線なのだろう。
人間の知に新たなものを付け加え、人間の知の領土を拡大するためには、色々なものを費やさなければならないのだ。
僕には、知の最前線を闘い、新たな地平を開くような営みをしているという自負がある。

しかし、それがどうしたというのか。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、この「旅人の憩い」では、この戦争そのものの無意味さが暗示されている。
僕の知の戦争も、多分、僕の人生という側面からは全く不必要なことなのだろう。
今の僕の考えは、人生においては、「何をするか」ではなく、「どのようにするか」のほうが重要だ、という方向に傾いている。「文章を書く」ということに囚われた人生というのは決してよいものではない、という予感がある。人は、もっと自由に生きるべきではないか。

それでも僕は、戦場から離れられないことを悟った帰還兵のように、時々、こうして最前線に戻ってしまう。
それは戦場でしか得られない栄光と興奮を得たいから、だけなのだろうか。

(この文章を書くのに1時間15分かかった。このアイディアが形になるまで、ぼうっと夢想していた時間や、こういうことを考えられるようになるまでの知的トレーニングの時間も考慮したら、どれだけの時間がかかったのだろう。その時間が、あなたがこの文章を読む数分間に凝縮されている。これが、僕が感じている時間の歪みだ。)

<ものごとの理解の基本形式>について 「世界の独在論的存在構造」と「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」の先

1 問題提起
「世界の独在論的存在構造」(以下、「構造」)において、永井は、本の帯にあるとおり、私、今、現実といった彼の長年のテーマについて縦横無尽に議論を深めている。
(この縦横無尽さにはある種の凄みがあるのだが、それは、永井が論じたい問題が山積し、増加するにもかかわらず、彼の人生が終わってしまうということに由来するのだろう。(「構造」P.188))

その幅広い議論のなかで、多分永井にはそのような意図はないと思うが、僕にとって非常に重要な、新しい概念が提起されている。「ものごとの理解の基本形式」(「構造」p.144初出)という概念だ。
「ものごとの理解の基本形式」とは、「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」(「構造」p.151)と言い換えることができるものだ。
この語は非常に重要であり、永井の問題は、すべて、この「ものごとの理解の基本形式」に関わるものだとさえ言えるように思う。
 どういうことかというと、永井が以前から用いてきた用語によるなら、<私>から<<私>>へと、<今>から<<今>>へと、<現実>から<<現実>>へと、つまり、< >から<< >>へと「受肉」とも呼ばれる変容をもたらすのは、この「ものごとの理解の基本形式」へと押し込めざるをえないからだ、とさえ言えるからだ。
(<< >>と< >の説明については、「構造」p.118あたりが詳しい。)

 <<私>>、<<今>>、<<現実>>つまり<< >>は「ものごとの理解の基本形式」に収まるが、<私>、<今>、<現実>つまり< >は、そこから逸脱する。このように永井の中心的な問題は「ものごとの理解の基本形式」という側面から鮮やかに描写することが可能となる。また、この語を用いて永井のこれまでの議論の中心をなしてきたものを表現するなら、「「ものごとの理解の基本形式」から逸脱する< >について正確に捉え、問題提起すること」こそが永井が長年にわたり格闘してきたことだとも言える。これらのことは、永井が既に繰り返し論じてきたことだが、「ものごとの理解の基本形式」という語を用いることにより、永井の議論は、より見通しがよくなったと言えるだろう。

僕は、この文章で、この「ものごとの理解の基本形式」という概念を用いて、僕の哲学的な問題意識を表現することを目指したい。
なぜ、そのようなことをするのかと言えば、僕の問題は、これまで、既存の哲学で取り上げられてこなかったように思えるからだ。
そして、その理由は、永井の問題がそうであるように、僕の問題も「ものごとの理解の基本形式」の外に関わるものだと思うからだ。
永井の問題が、「ものごとの理解の基本形式」から逸脱しているがために伝わりにくく誤解されやすいように、僕の問題も伝わりにくく誤解されやすい。この点で僕の問題は、永井の問題によく似ている。

 しかし、僕の問題は永井の問題とはやはり違うのだ。僕の問題には、永井が捉えることができていない側面がある。ただ、正直言って、僕自身が僕の問題をうまく言葉にできていない。
 だから、この文章では、永井の問題を補助線とし、永井の問題を僕の問題とはどのように違うのかを示しつつ、僕の問題を少しでも明確に表現できるよう努めてみたい。
 
 そして、僕は、もう一本、入不二基義という補助線を引きたい。

 永井は、他の哲学者が永井の問題を論じていない、としている。

「どういうわけか哲学史上、そちらの(私は「私」の一例ではないという)方向への探求がほぼまったくなされていない。」(「構造」p.108)
「いまだかつてこのように(実-虚と自-他のディレンマという)問題を立てた哲学者がいないようなのはただただ不思議と言うほかはない。」(「構造」p.236)
 とあるように。

 しかし、僕の見立てでは、少なくとも、入不二は、この問題を捉えている。
 入不二は、永井の問題を捉えたうえで、永井とは別の道を進み、永井とは異なるかたちで「ものごとの理解の基本形式」から逸脱した問題と格闘している。
 この文章では、時間、運命といった入不二の中心的な問題を追うことはせず、入不二にとっては傍流とも言える、独我論、つまり私についてウィトゲンシュタインを用いて論じた本「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」(以下、「消去」)に沿って、永井との関係という側面から入不二の議論を追ってみたい。
(蛇足だが、この本は、僕に、世の哲学だって捨てたものではないと教えてくれ、いわゆる哲学という枠組みのなかで思索を続ける勇気を与えてくれた思い出深い本だ。)
 これが、もうひとつの重要な補助線となるはずだ。

 この文章は、ここまでを1章とするなら、短い9つの章で構成されている。次の第2章から第8章にかけて、永井と入不二という二つの補助線を明確にしたうえで、最終章で、僕の哲学的な問題意識を表現することを試みたい。

2 永井における懐疑論
永井のテーマは、私、今、現実にまつわるものだが、やはり、主戦場は「私」にあると言ってよいだろう。
僕は、永井の「私」に関する議論に強い魅力を感じてきたが、一方で、僕の哲学的疑問とは若干のずれがあるように感じてきた。永井は、常識的な意味で、数多くの人間が存在していることを前提に、「なぜ、そのうちの一人が<私>なのか?」という問題を提起するところから論じているが、その第一歩に疑問を持ったのだ。

 僕は、懐疑論者だ。いわゆる懐疑論者よりも徹底した特殊な懐疑論者だと思っているが、とにかく、懐疑論者であることには間違いない。
 そんな僕は、永井が、極めて常識的に、数多くの人間が存在していることを前提に議論を提起していることが不思議でたまらなかった。永井ほどに徹底した議論ができる者ならば、いわゆる常識的な世界など容易に懐疑に付すことができるのではないだろうか。

 永井の議論における懐疑論者の扱いをみてみよう。「構造」には、懐疑論者について触れている箇所がある。そのひとつが「B系列的な過去や未来~もまた存在しないのではないかという懐疑は、~外界の物質の存在に対する懐疑論に対応することになるだろう。」(「構造」p.189)とされている前後の箇所だ。ここで永井の力点は、過去や未来における現在の存在に対する懐疑や他者の心に対する懐疑にあり、その対比として、過去や未来の存在に対する懐疑と外界の存在に対する懐疑が触れられている。
 僕の問題意識は、この両者のうちでは後者の懐疑に近い。他者の心があるかどうかより、まずは他者も含めた外界の存在自体を疑うべきではないだろうか。存在しないかもしれないものについて心があるかどうか疑っても仕方がないのではないだろうか。過去や未来が現在になるかどうかを問題にする前に、まずは過去が過去として存在し、未来が未来として存在するということ自体を懐疑に付し、問題とすべきではないだろうか。そのほうが懐疑として、より徹底しているのではないか。僕はそんなふうに考えていた。
だから、僕は永井がどうして前者に力点を置いた議論の立て方をするのかがよくわからなかった。永井は、一旦、過去が過去として存在し、未来が未来として存在し、世界には数多くの人間が存在している、という常識的な世界を描く。そのうえで、過去や未来における現在や、他者における私というものを問題にする。どうして、このような議論の進め方にこだわるのだろう。もっと手前から疑ってもよいのではないか。

 僕と永井との隔たりは、前掲の箇所の注記においてもあらわれている。

「外界の実在を懐疑する人は、外界の内部にいる他人たちの実在ももちろん懐疑するだろう。さて、その場合、その人たちのさらに内部にあると考えられている「他人の心」はどうなるのだろうか。当然さらに強い懐疑の対象とされそうなものだが、驚くべきことにむしろ懐疑されないのだ。この懐疑は、どういうわけか、懐疑しているこの心と懐疑対象の一つである他人たちがその内部に持つと想定される心とを早々に同一視してしまい、心vs物、精神vs物質といった対立図式を作りあげてしまうのである。同じことが過去や未来の存在に対する懐疑論についてもいえる。このような形の懐疑論は、「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まっている。」(「構造」p.190)

 正直言って、僕には、こういう展開になる理由がわからなかった。どうして自分の心と他人の心とを同一視するということになるのだろう。そもそも同一視するとは、どういうことだろう。もしかしたら、それは、自分の心と他人の心を同じひとつの心とするということであり、宇宙に唯一存在する宇宙意志のようなものなのかもしれない。それならば、その宇宙意志こそが唯一存在者であり、それに対比されるものとして幻としての物質世界がある、というような話につながる。または、自分の心も他人の心も、平板な心の次元のような領域に並列して存在している、というような話にいきつくのかもしれない。
 確かにそのような考え方は成立しうるが、いずれも、必然的にそのような考え方に至るとは言えないし、そのような展開をすることの重要さもよくわからない。僕から見れば、このような懐疑論は中途半端で不徹底である。
 永井は、その点に多分同意するだろう。永井も、その不徹底さを批判し(正確には、彼の哲学上重要ではないものとみなし)、「このような形の懐疑論は、「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まっている。」と言っているのだから。
これは、過去・未来、外界の存在を懐疑するというタイプの懐疑論に対する不当な扱いではないか。実はもっと根源的な懐疑の力がそこにはあるのに、勝手に不徹底な懐疑論を想定したうえで、それを不徹底として論破してしまっているのだから。

 これまで僕は、永井は懐疑論の持つ力を意図的に低く見積もり、与しやすい相手として不当にあしらってきたように感じてきた。または永井には懐疑論盲とでもいうべき特性があるのではないかとさえ思ってきた。
 しかし、「構造」を読み、永井がこのように捉えることにはやむを得ない事情があるのではないかと気づいた。
 「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収めなければうまく説明できない、という事情だ。
 永井は、自らの哲学について「ものごとの理解の基本形式」から逸脱するために説明が難しいとしてきたが、それは懐疑論も同じだ。懐疑論も「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まるようなものでなければ、うまく説明することは難しい。
 だから、普通に説明しやすい、わかりやすい懐疑論を論じるなら、それは不徹底な懐疑論とならざるをえない。それが、永井が論じた懐疑論なのだろう。
 僕は、もっと徹底した懐疑論がありえ、そこにこそ懐疑論の本当の力が隠されていると思っている。
 しかし、それは「ものごとの理解の基本形式」を逸脱するということであり、その逸脱したことを伝えることには大きな困難がある。永井によれば、この困難に打ち勝ち、「ものごとの理解の基本形式」の外について、これほど深く考察し、表現することに成功した者は永井自身しかいない。永井によれば、「ものごとの理解の基本形式」の外を明晰に把握する方法は、永井が通った道筋しかないのだ。「なぜ、数多くの人間が存在するなかで、そのうちの一人が<私>なのか。」この問いを生身で掴み取ることでしか、それをなしとげることはできない。
 この道筋はあまりにも狭い。永井一人しか通ることができない。だからこそ、永井は孤独な闘いを繰り広げているのだ。

 このような事情が、永井の懐疑論軽視につながっているに違いない。
 永井は、永井自身が通った道のほかに「ものごとの理解の基本形式」の外にアクセスする方法はないと考えている。つまり、それは、永井の道筋によらず「ものごとの理解の基本形式」の外にアクセスしようとする議論は語るに値しないということであり、「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱を可能とするような徹底した懐疑論という道筋などないのだ。

 以上が永井における懐疑論の扱いだ。
 このような事情があることから、永井における懐疑論の想定は「ものごとの理解の基本形式」に収まるような不徹底なものとならざるを得ない。

3 永井の二段ロケット
この文章において、僕は、永井に反し、僕の懐疑論を、なんとか「ものごとの理解の基本形式」の外に接続させたい。
この勇気とアイディアは、この永井の本「構造」により与えられた。しかし、永井に敬意を表しつつも、これから僕がたどる道は、永井の道を否定することから始まる。
なぜなら、永井が発見した「ものごとの理解の基本形式」の外に至る道筋を肯定し、受け入れる限り、他に道を見つけることはできないからだ。彼が見つけた道以外の道を指し示すためには、まずは、既にある道筋を一旦消し去らなければならない。

永井の道とは、端的に言えば「なぜ、数多くの人間が存在するなかで、そのうちの一人が<私>なのか。」という問いから始まる道だ。永井は、この問いを発することにより「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱が首尾よく達成されると考えている。
しかし、そのような困難な大事業が達成されるとは、どのようなことなのだろうか。

このことを論ずるために、まず、永井における「ものごとの理解の基本形式」からの脱出の道筋を確認しておこう。
永井の「数多くの人間がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」という一つの問いは、二つの問いに分けることができる。
ひとつめが、「複数の「私」(=人間)がいるなかで、どうして一人だけ<<私>>なのか。」という問いであり、
ふたつめが、「複数の<<私>>がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」という問いだ。
これらの二つの問いが一つの問いに組み込まれ、絡み合うことで、二段ロケットのように、「ものごとの理解の基本形式」の引力圏からの脱出を図るのだ。

では、どこで「ものごとの理解の基本形式」の引力圏を振り切ることになるのか。

まず、一段目の問い、「複数の「私」(=人間)がいるなかで、どうして一人だけ<<私>>なのか。」は「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まっていることは明らかだろう。
「ものごとの理解の基本形式」とは「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」であった。「私」とは、知覚等の原点性、中心性を持つ主体であり、現代の常識の範疇では、それは通常、人間と呼ばれる。何人もいる人間(「私」)のなかに、一人だけ、「現に」そこから知覚等をする人間(<<私>>)がいる。これは、「私」のなかにも例えば、ひげが生えているという特性を持つ「私」がありうるように、「現に」そこから知覚等をするという特性を持つ人間、つまり<<私>>がいるということである。それは、永井によれば、「世界中の歴代の人間の中で(ただ一人だけ)血液の中にI1という成分が流れている」(「構造」p.217)という特性であっても同じことだ。<<私>>であるということが、ひとつの特性として語られるということであり、言い換えれば、<<私>>は、この世界に複数個存在する「私」の一例であるということである。これは全く「ものごとの理解の基本形式」の範囲内の記述だと言えよう。

 一方で、二段目の問い、「複数の<<私>>がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」は「ものごとの理解の基本形式」の引力を振り切り、遠く離れている。
どうしてそう言えるかと言えば、この文で用いられている<私>という語が、そもそも複数的な存在を拒否することという意味を持つからなのだが、ここには非常に微妙な問題がある。

今、まさに僕は、この文章のこの箇所で、永井が行ったのとは別のやり方で<私>について語ろうとしている。しかし、それはつまり、永井とは別のやり方で「ものごとの理解の基本形式」を逸脱しようとしているということであり、それこそが僕がこの文章で成し遂げたいことであった。ここでそれを試みるのは時期尚早だ。ここでは、少なくとも二段ロケットの最終段階である<私>においては、「ものごとの理解の基本形式」の引力圏を脱出できると、ただ受け止めて読み進めていただく必要がある。

なお、僕のこの文章のこの箇所で生じている問題について念のため説明しておくと、僕がここで用いている<私>という表現は既に<<私>>に転落してしまっている。
これは表現に気をつければ簡単に避けられるような問題ではない。だからこそ永井は、<私>について、<<私>>と誤解され、複数個存在しうるものの一例という座に転落することのないよう、心を砕いて記述してきたのだ。

 とにかく、ロケットの一段目から二段目に移る中で、「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱を成し遂げたのだとすると、どうしてそれが可能となったのか。永井の「数多くの人間(=「私」)がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」という語り方が一定の成功を収めることができたのは何故なのか。
(「一定の」成功としているのは、それでも多くの人に理解されず、誤解されてしまうからだ。)
その成功のカラクリは、前述の一段目の問いと二段目の問いを組み合わせ、絡み合わせることで、「ものごとの理解の基本形式」の引力圏からの脱出を可能にする出力を得ているというところにある。
一段目の「複数の「私」がいるなかで、どうして一人だけ<<私>>なのか。」という問いと、二段目の「複数の<<私>>がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」という問いは明らかに同型であり類似性がある。
「私」から<<私>>への飛躍の延長として<<私>>から<私>への飛躍を描くことで、「私」から<私>への一気の飛躍を可能にするのだ。これは、一段目のアナロジーとして二段目を描くことで、本来は理解され得ない二段目を理解させることを可能としていると言ってもよい。
これが、永井の議論のおおまかな筋だ。

永井の功績は、<私>という問題を発見したことであると同時に、<私>に迫る、この語り方を生み出したことにあったと言ってもよい。
なぜなら、この語り方がなければ、<私>という問題を発見者である永井の個人所有物から解き放ち、世に知らしめることはできなかったのだから。

4 永井の問題
しかし、以上の永井の語り方には、その特有の語り方により生じる問題があると思うのだ。彼の伝えたいことは、アナロジーにより理解されると同時に、大切なものを失ってしまったのではないだろうか。

 どういうことかというと、一段目のロケットを首尾よく打ち上げるためには、「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」という「ものごとの理解の基本形式」に収まった議論を展開しなければならない。「私」は複数なければならず、そこから一人の<<私>>が立ち上がるのでなければならない。そこには複数と単数の対比がなければならない。この、「私」の複数性を前提としているところに論点先取り的な問題があるのではないか。

その問題を明らかにするために、世界に「私」が一人しかいないという独我論的な状況を想定してみよう。
その場合、永井の問いは、「唯一の「私」がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」というものに書き換えることができる。
また、永井の問いを構成する先ほどの二段ロケットとしての二つの問いは、
「唯一の「私」は、どうして<<私>>なのか。」という一段目の問いと、
「唯一の<<私>>はどうして<私>なのか。」という二段目の問いに変質する。
これは明らかに奇妙な問いだ。このような問いは理解不能なのではないか。
 例えば1つ目の問いは、以下のように解することができてしまう。
「確かに<<私>>がただひとつあることはわかる。そして、その<<私>>となりうる候補である「私」もただひとつあることはわかる。では、なぜ、この唯一の「私」が唯一の<<私>>なのだろうか。」
この、唯一の何かが唯一の何かである理由を問う問いに対する答えは、「どこにも疑問は生じず、当たり前だ。」というものになるはずだ。(または「そもそも問いとして成立しておらず、理解不能だ。」という答えもありうるが、どちらも同じことだ。)

いずれにせよ、このように独我論的な状況も想定に含めるならば、一段目の問いは着火せず、永井の議論は成功しない。
その困難は、永井自身が現実性について「それは一方向的存在でしかないので、客観的な視点から、すなわち並列的な視点から見れば、そもそも実在しないのだ」(「構造」p.107)と言っていることでもある。<私>から<<私>>、そして<<私>>から「私」へと「受肉」することはできても、それは一方向的であらざるを得ず、その逆を辿ることは普通のやり方では不可能なのだ。「ものごとの理解の基本形式」の引力を振り切り、この逆行を成立したように見せかけるためには、どこかで無理をする必要がある。
永井の場合には、複数の「私」を前提とするという一点に、そのしわ寄せがきている。

ここで指摘した問題は、例えば永井が最近用いている「タテ問題」と「ヨコ問題」という用語にも現れている。永井は複数の「私」のなかの唯一の<私>という自らの問題を、横に並列する私に関わる問題という意味で「ヨコ問題」に位置づけている。しかし、僕はそこに問題があると思うのだ。ヨコつまり複数性という想定自体が余計なものではないか。現実性の問題は、永井の言うとおりタテ問題ではないが、ヨコ問題とするのも不正確だ。

永井は、独我論的な状況を想定して論じたうえで、<私>の問題を明らかにしている、と反論するかもしれない。
確かに、「構造」において、永井は、東洋の専制君主、単独的存在者という思考実験を用いて議論を展開している。
東洋の専制君主とは、次のような想定である。

「なぜか与えられた世界においてその目からだけ世界が見えている・・・唯一の生き物であり、現実に世界がそこから開かれている唯一の原点であると解釈し、<私>と表記しよう。(僕のこの文章の文脈で<私>と<<私>>の違いを強調するならば<<私>>と表現すべきと思う。)この<私>はきわめて素直な人間で、この与えられた事実どおりに、この目からだけ現実に見えているし、この体だけ現実に感覚を感じる、等々と信じている。~まわりの臣下たちも彼の世界像を反対側からそのまま受け入れ、専制君主の言葉遣いに合わせてくれている。」(「構造」p.176)

これは、ある種の独我論者が周囲からそれを否定するような情報を得られないような状況だ。

また、よりラディカルな状況として、「なぜか知らないが、高度な知性をもった人間が、ともあれ最初から単独で存在している。(様々な経験・能力を有していると想定してよいが)他者の存在だけは経験したことがない。」(「構造」p.180)という単独的存在者を想定する。これは、僕がさきほど想定した独我論的な状況と言ってもよいだろう。

そのうえで、永井は、逆懐疑論を想定することができるか、つまり「このような者たちは、(自分と対等な)他者というものが存在する可能性を考え出すことができるであろうか。」(「構造」p.180)という問いを立てる。

 永井によれば、このような独我論的な世界観は、<私>の特別さと親和性があり、逆懐疑論、つまり、自分と対等な他者が存在するという常識的な世界観を構築することは困難にするという方向で議論は基本的に進んでいく。つまり、独我論的な状況であっても、いや、独我論的な状況でこそ、より容易に、<私>を捉えられる方向で思考できるということだ。

 ただし、永井自身が、この議論にいくつかの方向から問題を提起している。
 そのうち、もっとも有力なのが、時間による反論だと思う。

 「時間的他者(過去や未来における現在)の存在を知っているなら、それと同様な方法によって、人間的他者(その人における「私」)という矛盾した存在者の存在可能性も想定可能である。」(「構造」p.197)という反論だ。

 これは、空間や人称という観点からの複数性は放棄しつつも、時間的な観点から複数性を確保し、「ものごとの理解の基本形式」を密輸入したうえで、「受肉」の遡行をなしとげることは可能だという主張だ。永井が言うことはもっともである。
 
 複数性の問題をより厳密に考えるならば、僕のこの文章では、話を単純化するために時間的な視点は省略しているが、更に時間的な視点も含めて「私」の複数性を否定せねばならないだろう。ただ、ここでは<私>と<今>、空間や人称と時間については類似のものと捉えることに留めておきたい。

ここで疑問が生じる。空間や人称に加え、時間的な観点からも複数性を否定し、唯一の「私」を出発点としたら、そこから<私>への遡行に向けた議論を始めることはできるだろうか。この問いは、人称的にも、空間的にも、時間的にも徹底された独我論を出発点とするとは、どのようなことなのだろうか、と言い換えることもできる。これは、最後に示そうとしている僕の懐疑論における問題でもある。
(これと類似の問題意識から、時間論的な側面から論じているのが、「構造」第12章の唯物論的独我論者の苦境の議論だろうが、僕はここでは時間とは別の方向から論じてみたい。)

当然、これは「ものごとの理解の基本形式」を逸脱した議論を行うということだから、そこには大変な困難がある。根源的には不可能であり、わずかに議論の先を垣間見ようとするだけでも、永井が行ったように、どこかで無理をしなければならないのかもしれない。だが、無理を承知で、議論を展開してみたい。

5 ウィトゲンシュタインにおける「私」
このような困難に立ち向かうためには、僕だけの力では到底足りない。
しかし、幸運にも、ここには先人が切り開いた道がある。これを活用することで、わずかにでも先に進むチャンスがある。
活用したいのは、ウィトゲンシュタインの独我論、正確には入不二基義がウィトゲンシュタインを通じて述べている独我論だ。
入不二は前述した「消去」において独我論を論じている。ここで入不二は、いわゆる独我論を徹底し、独我論について新たな姿を見せることに成功している。
僕の理解によれば、この到達点こそが入不二のやり方で到達した永井の<私>である。
ここに永井とは異なる手法で<私>に接近し、<私>を垣間見せる道筋があるように思う。(より厳密には、永井の道筋で到達するだろう< >と入不二の道筋で到達するだろう< >は接近する、と言うべきだが、ここではその違いには触れない。)

それでは、入不二は「消去」において何を成し遂げたのか、その道筋を確認してみよう。
「消去」は、ウィトゲンシュタインの三つの時期、つまり、論理哲学論考が書かれた前期(以下、「論考」)、青色本などの中期、哲学探求(以下、「探求」)が書かれた後期という三つの章に分けて議論が進められている。そして、いずれにおいても「「私」は消去できるか。」という表題の問いに対し、おおむね消去できるという方向で答えられている。(この「おおむね」が重要なのだが、それについては後ほど言及する。)

前期のウィトゲンシュタインは、「論考」において独我論を論じ、いわゆる独我論と素朴な実在論という対立・反転関係を論じ、徹底された独我論と純粋な実在論という関係に純化する。(「消去」p.31の図)
いわゆる独我論としての「「世界」を包み込む「私」」は「世界の限界」に昇華され、素朴な実在論としての「「世界」の中の「私」」は「(世界内の)複合的なもの」に解体される。(「消去」p.32の図)
なお、「複合的なもの」とは、世界内の事実を写像関係として対応する、心的要素の複合体ということである。(「消去」p.49の図)
そして、この複合体は、世界内の事実であるから、世界内にきれいに収まることとなる。
このようにして、「私」は、世界の限界と世界内の事実という二つの側面に純化され、世界という枠組みにきれいに収まることとなる。
このようにして、「私」は消去される。

中期ウィトゲンシュタインにおける「私」を巡る議論については、無主体論としてまとめられている。
無主体論については、デカルトのコギトを用いて、「(デカルトの)懐疑の果てにそれでも残っている思考とは、「誰が」という人称的な輪郭など持たない、ニュートラルな思考そのものだろうから。ただとにかく思考が現れている根源的な事態には、”It thinks”という非人称表現がふさわしい。「いわゆる無主体論」ならばそのように考える。」(「消去p.69」)とされている。
しかし、入不二は、この無主体論はウィトゲンシュタインのものとは異なるものであり、「「いわゆる無主体論」と「ウィトゲンシュタインの無主体論」の差異こそが、重要である。」(「消去」p.74)としている。
そして、「ウィトゲンシュタインの無主体論」は「独我論としての無主体論」(「消去」p.74)であり、「直接経験は、「非人称的」「人称以前」だから無主体なのではなく、むしろ「超一人称的」「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのである。」(「消去」p.78)とされる。
 こうして、そもそも無主体論という語が用いられていることからも予想されるとおり、ここでも「私」は消去される。

後期の「探求」においては、「私」は言語ゲーム論における「私的言語」の考察として現れている。
「消去」において私的言語は主に感覚日記を例に論じられている。感覚日記とは、ある特定の感覚E(または感覚とさえ言えないE)が起こるたびに、カレンダーにEと書き込むという思考実験だ。この記号Eは私的言語なのだろうか。
入不二によれば、私的言語を想定しようとしても、その試みはディレンマに陥るとされる。

「私的言語の想定は、理解されてしまうことによって、「われわれの言語の圏域」に回収され、「私的言語の想定」になることができない。あるいは逆に、「われわれの言語」の圏域に位置づけられないならば、そもそも何かの想定として始まることができない。そのどちらかになってしまう。どちらにしても、「私的言語の想定」は達成されえない。」(「消去p.115」)

このようにして、前期、中期、後期のいずれの道筋をたどったとしても、私は消去される、というのが「消去」のおおむねの道筋だ。

しかし、「消去」はここでは終わらない。
「私的言語の想定」について「ディレンマに陥ってしまうということは、私的言語など不可能であるということなのだろうか。そうではない。むしろ「可能である」とか「不可能である」とか「断定」できるようにはなっていない。それこそが「言語ゲーム」としての「私的言語論」の特徴である。」(「消去」p.116)としている。
「消去」において入不二は、ついに「「ある」ことと「ない」こととは背反しない。」(「消去」p.119)という結論を導き出す。
 
このようなかたちで入不二が炙り出したものこそが、永井の<私>(より厳密には< >)と重なる。
確かに常識的な「私」は消去できる。しかし、ウィトゲンシュタイン(と入不二)により純化された<私>は消去することはできない。ただし、残念ながら、このことを直接的に言語ゲームのなかで表現することはできない。これは、永井の「ものごとの理解の基本形式」のなかにきれいに収めることができない、ということと同じ事態でもある。
これは「「ある」ことと「ない」こととは背反しない。」ということであり、「私」と<私>が重ね合わされたものとしての私は、消去されるのでもなく、消去されないのでもない、ということだ。

6 入不二における「私」
 しかし、ここで、多分永井側からは「ここで到達したのは<私>ではなく<<私>>に過ぎないのではないか。」という疑問が出されるだろう。実際、永井は次のように述べており、ウィトゲンシュタインが<私>に到達したのは中期のある時期だけとしている。

「<私>にかんする同型の問題は、かつてウィトゲンシュタインだけが『青色本』等で捉えたことがある。~「哲学探求」~における発言は、彼もまたその後問題を取り違えたことを示している。」(「構造」p.70)

 確かに、前期の「論考」で描かれているのは<<私>>だと言ってよいだろう。
そう結論付けられる理由を整理してみよう。
まず「論考」が描く世界の限界としての私も、世界内の事実としての私も、いずれも、ごく常識的な「私」言えよう。世界把握の原点としての「私」であり、「私」に中心化されたかたちで世界は立ち現れるというときの「私」だ。これは、この世界のどの人間にとっても同じようにあてはまる。論考で語られるのは「私」だ。
だが、さすがにそこでは終わらない。「論考」は語りえぬものに沈黙することによってのみ、語りえぬものを指し示すような本である。「論考」は常識的な「私」を浮き彫りにし、そこで語りをやめることで、常識的な「私」ということでは捉えられない何かを指し示している。
それが<私>である、と言いたいところだが、残念ながらそうではないだろう。「論考」が沈黙することにより指し示している何かとは、<<私>>だ。「論考」のような平板な記述では、<<私>>でさえも語ることはできないのだ。だから間接的に指し示すしかない。「論考」は「私」と<<私>>の間に横たわる限界を描いたものなのだ。
(なお、この平板さは「論考」の欠点ではない。平板であるからこその揺るぎなく明晰な正しさが、ある限定された領域内では成立している。)
<<私>>を語るためには、可能世界が<<私>>のレベルでは実在するとする様相実在論のような多元的世界観が必要となる。筆者ウィトゲンシュタインにとっての<<私>>の世界と、読者にとっての<<私>>の世界とが、全く独立に、しかしなぜか重なり合うようなかたちで描写されなければならない。しかし、そのような芸当は「論考」の平板な世界観では不可能だ。
よって「論考」における語りえないものとは<<私>>であり、語りえるもの、つまり論考の構造を支える土台としって<<私>>は位置づけられていると言ってよい。

同様のことは、「消去」で触れられている限りのウィトゲンシュタインの無主体論や、私的言語論でも言えるだろう。その理由は省略するが、いずれにおいても議論での私は「私」であり、<<私>>は議論を支えるように語りの外部にある。
(理由については、これから入不二の論を述べるなかで少し触れるが、簡単に言えば、ウィトゲンシュタインの議論において最高位に置かれている「私の全一性」は、<私>には到達していない、ということだ。)

それでは、「消去」は「私」と<<私>>の関係について描いているに過ぎず、<私>には到達していないということだろうか。
確かにウィトゲンシュタインは到達していないのかもしれない。(というか、そもそもウィトゲンシュタインは常識的な「私」から逸脱する方向に進みたくなかったのではないか。)だが、「消去」には入不二独自の議論も含まれている。そこを確認してみる必要がある。

入不二は、ウィトゲンシュタインにおける前期、中期、後期の三つの議論に、それぞれ自らの議論を加え、考察を進めている。

前期ウィトゲンシュタインを踏まえ、入不二は次のように述べる。

「(論考の)「ただ一つ」には、限界(終わり)のなさとしての「一」の意味と、限界(終わり)のないものの限界(終わり)としての「一」の意味とが、折り重なっている。前者の「ただ一つ」は、「語りえない」けれども「語ることのなかで示されうる」。しかし、後者の「ただ一つ」は、そのようには「示され」えないのではないか。なぜならば、その唯一性は、世界や言語の「形式」に属することがらではなく、「私=世界=生」が(どのようにあるかではなくて)そもそも「あってしまう」という神秘に属するからである。」(「消去」p.65)

これはつまり、語り得るものの外に、二種類の語りえないものがあるということである。「語りえない」けれども「語ることのなかで示されうる」ものと、「示されえないもの」があるということだ。このうち前者に<<私>>が属することは明らかであり、それならば、後者には<私>が属するのではないか。
 
このことは、後者に「神秘」という表現が用いられていることにも裏付けされている。
「私」のなかに<<私>>がただ一人だけいることは神秘ではない。なぜなら、永井のように語るなら、全ての「私」は、「「私」のなかに<<私>>がただ一人だけいる」というあり方をしているからだ。それは必然であり、神秘は全く無い。
(そこに神秘を感じてしまうならば、それは、永井的に言うならば、「「私」のなかに<<私>>がただ一人だけいるというあり方をしている多数の現実のうちの、たまたまこの現実だけが、この私が<<私>>となるあり方をしている。」という話が入り込んでしまっているということである。つまり、<<現実>>と<現実>の関係についての話が混入してしまっている。)
一方で、<<私>>のなかに<私>が一人だけいることは、他に例のない神秘だ。よって、入不二が神秘という語を使う背景には、<<私>>と<私>の違いについての意識があることは疑いようがない。

次に中期ウィトゲンシュタインを受けた入不二の議論を見てみよう。
入不二は、ここで後期ウィトゲンシュタインの言語ゲームを先取りし、「家族的類似」を用いた類比的な移行というかたちで論を進めている。
ここでは構造が重要であることから詳細は省略するが、
「類比関係は、「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「私の全一性」=・・・・・→∅と表記することもできる。」(「消去」p.91)という構造となっている。
この「私の固有性」が「私」にあたり、「私の全一性」が<<私>>にあたると言ってよいだろう。
ここで重要なのは、この構造が「私の固有性(「私」)」と「私の全一性(<<私>>)」の対比では終わっていないということだ。
その先にある「∅」について、入不二は「「∅」とは、「私」の類比運動の仮想の極点であり、まったくの「無主体」である。」(「消去」p.91)としている。
つまり、ここでも入不二は、「私」と<<私>>の先にある何か、つまり<私>に到達していると言える。いわゆる無主体論としての「私」、そしてウィトゲンシュタインの無主体論としての<<私>>の先には、まったくの「無主体」としての<私>が指し示されているのだ。

なお、この「家族的類似」を用いた類比的な移行という議論のかたちは、先程、二段ロケットと例えた永井の議論とよく似ている。
一段目の「複数の「私」がいるなかで、どうして一人だけ<<私>>なのか。」
という問いと、
二段目の「複数の<<私>>がいるなかで、どうして一人だけ<私>なのか。」
という問いは同型であり、二段目は一段目のアナロジーとして理解されるという話だ。
永井は明らかに、入不二が論じている類比的な移行という議論の型を用いている。
多分、この類比的な移行とは、「ものごとの理解の基本形式」から逸脱するという難事業をなしとげるうえで用いることのできる、数少ない道具立てのうちのひとつなのだろう。

(なお、後期ウィトゲンシュタインを踏まえた入不二の議論でも、類比的な移行を踏まえた興味深い議論を展開しているが、ここでは類比的な移行という型に着目したいため省略する。)

以上で、入不二が、永井の<私>も視野に捉えた議論を展開しているということは理解できたのではないだろうか。

7 入不二の語り方
そして、重要なのは、入不二が、永井とは異なるかたちで議論を行ったということである。さて、入不二は、永井の語り方の問題を乗り越えることができているのだろうか。
 
永井の問題は、「複数の「私」」を想定したうえで、そこから、「どうして一人だけ<私>なのか。」という議論を展開したことにあった。複数の「私」を想定するなど、論点先取りではないか、という問題だ。
そして、永井にとっての複数の「私」の想定は、 複数の「私」:単数の<<私>>→複数の<<私>>:単数の<私> という類比的な移行を行うためには必須のものであり、逃れ得ない問題であった。

それでは入不二においてはどうだろう。
入不二の「消去」においても「素朴な実在論」という語が登場しているように、複数の人間(=「私」)が存在する常識的な世界観が横たわっている。
しかし、「消去」の議論において、そこには重点はない。永井との対比を強調するなら、入不二が重視しているのは、類比的な移行そのものであり、類比的な移行の内容ではない。
永井ならば、複数の「私」から単数の<私>に至るというような、議論の内容そのものを重視する。その内容を読者に伝えるために、分裂する私や時計ならぬ人計といった魅力的な思考実験や比喩などを多用する。
一方で、入不二は、類比的な移行という形式を直接的に概念に適用する。入不二は直接的に概念操作を試み、「私」を<<私>>に、そして<私>に一気に変質させようとする。

 そのことが象徴的に現れている箇所を紹介したい。
「消去」の冒頭には、「不二の法門に入る」という序章が設けられている。ここでは、維摩経における、菩薩たちとマンジュシリーと維摩の議論のせり上がりが描かれている。
僕は色々な読み方ができるこの話が大好きなのだが、現在行っている考察との関係で重要なのは、この議論は必ずしも複数の人間(=「私」)の存在を必要としていない、というところにある。
どういうことかというと、まず、登場人物が菩薩たちというだけあって、ここでの話題は、生と滅、幸と不幸といった、抽象的な概念をめぐるものであり、複数の人間が存在する常識的な世界観を前提としていない。
また、確かに菩薩たちという複数の人物が登場するが、それは必須ではなく、誰かの独白としても理解することはでき、その点でも、人称的、空間的な複数性を必要としていない。
更には、この話全体が、菩薩の主張の一つ一つを味わうのではなく、議論のせり上がり自体を味わうようにできている。一人目の菩薩から話を始めなくても、任意に議論を開始しても話のせり上がりを味わうことは可能な構造になっている。これは、発言者の移り変わりのなかに時間経過を読み込み、この話が時間的な複数性を包摂していると解釈したとしても、その時間的な複数性は必須ではない、ということだ。突き詰めれば、この話は最後に登場する維摩の沈黙という一点だけでも成立しうる。その一点に「さとりとおおぼけ」を読み込むことさえできれば、この話を理解したことになる。実際に、維摩は、そこに至る菩薩たちとマンジュシリーの議論と全く隔絶して、その一点にもともといたからこそ「さとりとおおぼけ」の境地にあると言える。

これと同じことが、この序章だけでなく「消去」全体として言えると思うのだ。
先ほど、中期ウィトゲンシュタインに続く入不二の議論のポイントとして、「類比関係は、「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「私の全一性」=・・・・・→∅と表記することもできる。」(「消去」p.91)という箇所をとりあげた。これは、僕がこの文章で重視している「類比的な移行」について、入不二が最も鮮やかに描いた部分だと思う。
しかし、実はこの表現は若干不正確であり、入不二はすぐに別なかたちで図示し直している。(「消去」p.91)うまく書けないので、本で確認していただきたいが、「→∅」が「「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「私の全一性」」という構造全体を貫くように描かれているのだ。これは、入不二の議論のせり上がりは、全て「→∅」こそが駆動しているということを意味する。
入不二にとって重要なのは、「「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「私の全一性」」という内容ではない。内容を経由せずとも、例えば維摩の沈黙のような何かにより、「→∅」を直接的に掴み取ることができれば、それは、入不二の論を理解したということなのだ。
 入不二のこのような語り方は、複数の「私」という素朴な実在論というような道具立てを必須のものとせずに、「私」から<<私>>、<<私>>から<私>というせり上がりそのものを描写することを可能としている。

 このようにして入不二は、概念操作のみにより「私」と<<私>>と<私>を一つ軸の中で描き、重ね合わせることにより、一筆書きのように、一気に<私>を描ききったのだ。

8 伝達の神秘
しかし、永井によれば、入不二が行ったような<私>の直接的な把握は不可能だったのではないか。それができないからこそ、永井は複数の「私」とただ一つの<<私>>という対比から丁寧に議論を始めることにより、なんとか<私>を表現しようとしたのではないか。

それは、このように文章で表現する限り、確かにそうなのだ。

さきほど、入不二は、前期ウィトゲンシュタインの議論を進めるなかで、「神秘」という言葉を用いて<私>を表現しようとしていると僕は解釈した。
この神秘は、複数のうちの一つという「ものごとの理解の基本形式」に収まらない。「あの神秘もこの神秘も神秘の一種だということでは変わりがない。」というような語り方は可能だが、どこか神秘の本質を捉え損ねている。神秘には並び立つものはなく、ただ一つだからこそ神秘なのだから。
だからこそ入不二は、神秘という一言で、<私>を一気に指し示している、と解釈したいのだ。
しかし、いくら、神秘は唯一だと言っても、神秘という言葉で表現されたとたん、神秘はいくつかの神秘のうちのひとつに転落してしまう。それが「ものごとの理解の基本形式」ということであり、多分、言語のはたらきということでもある。
文章でいくら神秘という語を用いても、神秘を十分に表現し、読者に伝えることはできない。
神秘とは言葉で表現される限り神秘ではなく、<私>は言葉で表現される限り<<私>>に転落されてしまうのだ。

 しかし、本当の神秘は、それでもなぜか、神秘を神秘のまま、転落なしに読者に伝えることに成功することが起こりうるというところにある。現に僕は、入不二が語る神秘をそのままに理解することができているという自負がある。

 ここで起きている神秘とは、伝わる前に実は既に知っていたという神秘なのだろう。(永井によれば、実存の神秘と伝達の神秘は別のものとしており、この二つの神秘はイコールで結ばないほうがいいのかもしれないが。)
これは、「論考」の冒頭において「本書は、ここに表されている思想-ないしそれに類似した思想-をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう。」とされているのと、おそらく同じことだ。
 現に、既に知っている人だけが理解できるような語り方を入不二はしている。だから、既に知っている人に対して、直接的に伝達することが不可能なことを直接的に伝達することが可能となっている。
(なお、知っていることを語るという営みは無意味ではない。ぼんやりとなんとなく既に知っていたことに、明確に輪郭を与えるという意義がある。)

ここまで、あたかも入不二は永井を完全に乗り越えたかのような誤解を招く述べ方をしてきてしまった。誤解があるままでも哲学的には問題ないかもしれないが、世俗的な理由から、それは違うということは触れておいたほうがよいだろう。

まず、入不二は神秘という語を使っているが、永井も、ここまで何度も用いてきた”< >”という記号はもとより、奇跡、タウマゼインというような様々な言葉を尽くし、同じことを表現しようとしている。永井こそが、既に知っている人だけが理解できるような語り方をしようとしている本家本元と言ってもよい。
「構造」には、「ここで私は読者を想定した文章を書いているわけだが、もはやこの状況を読者とこのまま共有することはできない。もし読者がこの文章の真意を理解しようとするなら、~この議論を他人の書いた文章から知ったことは忘れて、あたかもすべてを自分で考えたかのようにこれを捉えるほかはない。」(「構造」p.21)という表現すらある。

また、永井は思考実験や比喩、入不二は概念操作というように単純化して手法の違いを際立たせてきたが、これは、あくまで便宜的な区分に過ぎず、当然、永井にも概念操作はあり、入不二にも比喩はある。あくまで比較的、永井には永井的な要素が多く、入不二には入不二的な要素が多い、ということに過ぎない。(しかし、それにしても、永井の思考実験は永井にしかできないものであり、入不二の概念操作にも入不二節としか言えない特別さがあると思うが。)

9 僕の懐疑論
ここまでで、永井と入不二という二つの補助線は引き終えた。この補助線を用いて、僕の問題意識を語りたい。

 「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱には、二通りの道筋がある。ひとつは、永井的な道筋であり、私の分裂というような思考実験や比喩により、そこにある問題の具体的な内容を読者に示したうえで、二段ロケットのような類比的な移行により、「ものごとの理解の基本形式」の外へ誘うという手法だ。もうひとつは、入不二的な道筋であり、概念間の類比的な移行というような構造を直接的に表現し、その構造自体の力で概念操作を行い、「ものごとの理解の基本形式」の外へ誘うという手法だ。
 僕は、これらの手法の重要性は理解しつつも、それとは別な手法が必要なのではないかと考えている。

 これら二つの手法は、内容と構造という対になるものを用いているが、単に対になっているだけではなく、互いに相手を裏で用いるという関係になっている。
 永井的に内容から論じる手法においては、内容単独では「ものごとの理解の基本形式」の圏域を逸脱することはできないことから、二段ロケットという類比的な移行のような構造の力を裏で用いている。

 入不二的に構造から論じる手法においても、どんなに理想的な読者に対してであっても、構造単独では何についての構造なのか伝えることさえできないことから、最低限の内容についての言及は必要となる。内容について言及することで、内容の力を裏で用いている。維摩の沈黙という極端な例であっても、そこには「維摩が沈黙している」という最低限の内容の描写がなければならず、その内容についての表現を”てこ”の支点として構造の力が起動する。(維摩の沈黙について、内容に言及せず、構造のみを示すとしたら、それは多分、白紙の紙のようなものとなるだろう。それでは読者には何も伝わらない。)
 永井が「ちょうどどんな天使にも最低限の質量があるように、いかなる< >にも最低限の受肉の事実がともなうのだ。」(「構造」p.137)と言っているのは、このことを指すのだろう。

 僕は、「ものごとの理解の基本形式」の外に至る道筋として、永井的でもなく、入不二的でもない、第三の道筋がないものかと考えている。
 永井的な道筋と入不二的な道筋は対になり、互いに互いを裏で用いているというだけでなく、もう一つ、双方とも、伝達の神秘とでもいうべきものの力を裏で用いているという共通点もある。
 永井的な道筋であっても、入不二的な道筋であっても、「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱が文章表現として成功するということは、その指し示そうとするものについて、その文章を読まずとも、実は既に読者が知っていたという神秘があるからであった。
 それならば、構造から論じたり、内容から論じたり、という迂回した方法をとらなくても、直接的に、この神秘の力を活用する方法があるのではないだろうか。
 僕にはまだ、具体的な方法は思いつかないが、そのように考えている。

 なぜ、そのような新たな論じ方を探し求めているのかというと、僕の哲学的な問題を論じるためには、永井的手法と入不二的手法では足りないという予感があるからだ。
 僕の疑問は、<私>という語を用いるなら、「私」から<<私>>更には<私>の先にある何かについての疑問であり、より厳密には、<私>というよりは< >の先にある何かについての疑問だ。入不二の「消去」における表現を用いるなら「→∅」についての疑問と言ってもよい。
 この疑問をあえて疑問文にするなら、(完全に表現しきれているという自信はないが)「何が始まっているのか。そもそも始まっているのか。」と、とりあえずは表現しておきたい。
 
 永井や入不二の議論が究極的な存在論であるとするなら、この僕の「何が始まっているのか。そもそも始まっているのか。」という問題意識は究極的な懐疑論だと思っている。
(そして、これは僕だけが思いついた疑問ではなく、多くの人が思いついたが「ものごとの理解の基本形式」から大きく外れるために適切に表現され得ず、忘れ去られてしまった疑問なのではないかと思っている。)
 このようなことを論じるためには、既存の道具立てでは足りないのではないだろうか。
 なぜなら、僕が目指すことは、「ものごとの理解の基本形式」からの逸脱ではないからだ。僕は「ものごとの理解の基本形式」を上向きに乗り越えたい。
 ここまで用いてきた「ものごとの理解の基本形式」とは、いつでもどこでも一般的に該当する法則なのだとすれば、僕は、「現に」その法則が該当しているという<<ものごとの理解の基本形式>>について論じたい。そして、そのような論じ方ではたどり着くことができない、本当に「現に」この理解が成立する地点、つまり<ものごとの理解の基本形式>を垣間見たい。
 「ものごとの理解の基本形式」という用語を仮に「言語」と置き換えるなら、僕は<言語>を垣間見たい。
(僕は「ものごとの理解の基本形式」の本質すらつかめていないが、少なくとも「言語」と置き換えることを許す側面はあるだろう。)
 これは、<私>や<今>や<現実>と比べても、論じることに困難があるのは明らかではないか。
 なぜなら、非常に控えめに荒っぽく表現するならば、<言語>とは、僕が今、行っている、この言語表現そのもののことであるはずだからだ。これは、指し示そうとする道具と指し示されようとする対象が同じものであり、更にその道具と対象が、僕の今という一点に絞られ、永井的な内容も入不二的な構造をも失ってしまうという事態だ。
 このような試みに大変な困難があるのは明らかではないだろうか。
 僕はこの困難に立ち向かう武器がほしい。既に永井と入不二から受け取った二つの剣は腰に差している。確かにこれらは大切な武器だ。だけど、もうひとつ武器がほしいのだ。
 
 これで僕の考察と伝達の試みはとりあえず終わった。
 拙いなりに、永井と入不二という内容と構造を用いて、そこから類比的な移行により、僕の問題意識を描いたつもりだ。もしこれが伝わらないとしたら、それは僕の技術が拙かったからなのだろうか。それとも、僕のこの問題意識を既に知っている読者がいなかったということなのだろうか。

ボヘミアン・ラプソディ

ボヘミアン・ラプソディという映画を観たくなり、予習のため、You Tubeで対訳付きの曲を観た。
こういう曲だったんだ。いい。
曲に刺激され、こんなことを考えた。

あんまり知らないけど、いわゆる西洋哲学には、ライプニッツやヘーゲルのような大陸系の哲学と英米系の分析哲学があるとされる。
僕が大学生のときに知り、幻滅したのは、いわゆる大陸系の哲学で、そこに何らかの決めつけ、世界観の提示というドグマ的なものを感じたからだ。
僕が分析哲学寄りなのは、そこに、ドグマの欠落という、ある種の素直さがあるからだ。

しかし、分析哲学にドグマがない訳ではない。はっきり言って、分析哲学は、当たり前の世界の成立をドクマとしている。
それこそが、ウィトゲンシュタインが言語ゲームと称したものなのだろう。

そう考えると、ドグマから目を逸らさず、ドグマをドグマとして練り上げようとする大陸系の哲学にも魅力があるようにも思えてくる。
たまたまスピノザを読んでいるからかもしれないが、最も美しいドグマを見出そうとする営みこそが、彼らの哲学なのだ。
しかし、美しさは一筋縄ではいかない。僕にとっては、ベルサイユ宮殿のような均衡がとれた美は一流の美ではない。その先こそが面白い。
そう考えると、
ドグマをドグマとして意識的に切り捨てることにより、逆にドグマを切り捨て得ないものとして浮き彫りにしようとしたウィトゲンシュタインや、
全てのドグマを捨て去るというドグマを見出したブッダや、
美しく構成されたドグマこそが正しいという価値観をひっくり返すようなドグマを見出したニーチェ
といった人たちこそが一流の哲学者なのかもしれない。

僕が思う美しいドグマとは、そのなかに、均整がとれた美しさを構成しようとする営みと、それを完全に破壊しようとする営みが内包されていなければならない。
究極の構築と究極の破壊が内包されていなければならない。
僕のことを抱きしめながら、ナイフで僕の内蔵をえぐり取るような、そんなドグマこそが僕が求めるドグマだ。

こう語ってしまったら、僕が求めるものに近づくことはできない。
僕が、その美しいドグマに耐えられるのか、本当にもとめているのかもわからない。
しかし、この狂気はとても重要なものだと感じる。

世界中の人々を抱きしめながら、重機関銃で皆殺しにし、そして声が枯れるまで泣き叫び、すべてを忘れて踊る。
これこそがロックなのではないか。と、ボヘミアン・ラプソディを聴いて思った。

「考えるとはどういうことか」を読んで

PDF:考えるとはどういうことか

哲学対話に深く関わっている哲学者の梶谷先生の本です。(哲学対話では、一般的に大学教授でも◯◯先生と言われるのは嫌がるので、しんちゃん(p.212)でもいいけど、以下、「梶谷さん」にしておきます。)
僕はイベントでお会いしたことがあるくらいだけど、とても面白そうな方です。
哲学対話界隈のSNSで話題になっていたので、早速Amazonで注文したところ、とても面白く、一気に読んだので感想です。

まず、全体として熱いです。哲学者が書いたものだから、俯瞰して冷静に分析した感じかな、はたまた、ノウハウを簡潔に紹介したものかな、と思ったら、そんなことはなく、どっぷり哲学対話に浸かった感じで熱いです。かと言って独りよがりなんてことはなく、哲学者としての知識と実践者としての経験に裏付けられた説得力があります。
哲学対話とはどういうものかを概念的に語る前半から、後半に移るにつれ実践的なノウハウの比重が高まっていきますが、その移行が自然で、概念とノウハウとが接続し、全体として理解できました。
哲学対話でのこのルールは、このような考え方から導かれているんだな、哲学対話に子供を参加させる意義はここにあるんだな、などと前半と後半が融合しつつ理解が進む感じです。
単に表面上のノウハウを知るだけでは応用が利かず不安だし、かと言って、概念だけだと実際やってみることもできないので、こうやって、概念的な理解と手取り足取りのノウハウとがパッケージで示されることで、とりあえず、哲学対話の場を作ってみよう、という気になれそうです。哲学カフェ主催者として読んでも、この本を読んだあとで、1回でも生で哲学対話の場に参加しさえすれば、とりあえず、哲学対話の場を開くことは可能だと感じました。

僕自身は、哲学カフェを紹介するサイトを作ったり、哲学カフェも10回以上開催しているので、この本に書かれていることのある程度の部分は既に知っていたり、自分でも考えたりしていたけれど、それでも、新たに気付かされることは多かったです。
一方で、自分自身が考えてきたこととの違いも感じました。なお、この違和感は、この本の欠点ではありません。そもそも哲学対話自体をこのようにまとめた書物というものは今までなかったと思います。そこに理論と実践をつなげた書物がようやく現れた。哲学対話の理論と実践に興味がある僕としては、ようやく、批判的に読み解くことのできる本に出会うことができてワクワクしているのです。

・・・

ということで、ここからは、細かく批判的に嬉々としてツッコミを入れていきたいと思います。ここからはネタバレなので、既に読んだ方だけが、どうぞお読みください。

1 この本の熱さについて
まず、僕の立ち位置を明らかにしておいたほうがいいと思うけれど、僕は、この本で言う「哲学好き」です。「もともと(哲学的な)疑問をもっていて、あれこれ悩んでいるうちに、どうやらこれは哲学というものらしいと気づくパターン」(p.121)です。残念ながら、哲学の道には進みませんでしたが。
だから哲学と対話で分けると、僕は、哲学から対話に入ったタイプです。たぶん、こういう人は少数派だと思います。
いや、そうでもないと思うかもしれません。哲学研究者もたくさんいるじゃないかと。確かに梶谷さんも含め、多くの哲学研究を出自とする方が哲学対話に入ってきています。ただ、哲学研究界隈の方は過去にひととおり哲学研究をどっぷりやっていてお腹いっぱいだったり、現在でも哲学研究を並行していたり、という事情があるからか、意外と哲学を哲学対話に持ち込んでいないように感じます。
しかし、私のような、「哲学好き」だけど哲学研究に関わることのなかったタイプの人間にとっては、哲学対話の場こそが哲学の場で主戦場なのです。

哲学対話に入ってくる人を分類すると、こんな感じでしょうか。

1)哲学はよく知らないけれど、哲学的なテーマで対話することに興味を持った人=多くの普通の参加者(哲学対話実践者としても多数派)

2)哲学を研究してきて、そのノウハウを活かせる対話の場として哲学対話に興味を持った人=梶谷さんなど(哲学対話実践者としては意外と多数派)

3)もともと哲学が好きで、哲学する場として哲学対話に興味を持った人=僕など(参加者としても実践者としてもいなくはないけど、どこでもちょっと肩身が狭い・・・)

3)に属する僕は、哲学から哲学対話に入った少数派として、どうしても、対話から哲学対話に入るということが理解できなかったのです。
対話を重視する方に対して非常に悪意に満ちた言い方をすると、「それなら、輪になってのんびり話せたら、別に哲学じゃなくてもいいんじゃないの?」と言いたくなる感じ。
まあ、そうは思えないからこそ、「そこで行われているのは一体なんなのだろう」と哲学対話の実践に哲学的興味を持っているのですが。

だから、梶谷さんが、この本で述べている、哲学対話の意義としての「考える」ということと、自由と責任の話はとても興味深かったです。対話から哲学対話に入る道はこうなっているのか、と腑に落ちました。
確かに、この本が述べるような意味で「考える」ということは大変重要だと思います。
僕の理解では、考えるとは、自分で自分の人生をしっかり言葉で捉えるということです。
そして、自分の人生をしっかり捉えるからこそ、自分の人生を生きる権利(梶谷さんの言い方では責任)が与えられ、自分の人生を真に自分のものとして生きる自由が生まれるのです。
(これは、多分、全く哲学書ではないけれど、僕がなかなかいい線いっていると思う「7つの習慣」の第一の習慣「主体的であること」と重なるし、多分「7つの習慣」の元ネタのひとつである、「夜と霧」で有名なヴィクトール・フランクルの考えとも重なります。いつか、これらの本が言っていることの説得力が何に由来するのか、哲学的な文脈で論じてみたいです。)

そのような意味での「考える」は、確かに、哲学好きであろうとなかろうと、哲学研究者であろうとなかろうと重要でしょう。
そして、哲学対話というやり方は、この「考える」を身につけるための唯一の道ではないにしても、かなりお勧めの道であることは確かだと思います。
多分、このような道筋で、人を哲学対話に導くのは、とてもまっとうなやり方であり、いわば、哲学対話への表玄関だと思います。

だけど、一方で、僕は、少数派であり、哲学のほうから勝手口を通って哲学対話に入ってきた人間です。
僕は、哲学対話は、哲学的に唯一の解であり、そこに哲学の本質があるのではないか、という仮説のもとに哲学対話に入ってきています。梶谷さんの言うようなお勧めというだけでなく、唯一と言ってよいような限定的な意味をそこに読み込もうとしています。
僕の考えはともかく、同じ哲学対話というものを見ていても、僕から見える景色と、梶谷さんから見える景色は、多分、見える角度が違い、違うものが見えている、そんな気がするのです。

その違いが現れていると思う代表例がルールについてです。
最初、ルールが列記されている部分(p.47)を読んで、まず思ったのは、「8つもルールがあるなんて多すぎる。」というものでした。
特に「②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。」については、僕の哲学カフェでは採用していないし、僕が参加者として、この点を注意されたら困ってしまいます。
ある意見に対してきちんと理由を明示して反論し、別の意見を主張するという過程は、議論を深めるうえでは必須のものとすら思います。
多分これは微妙な問題で、この本でも「人を批判するのではなく、相手の意見を批判するならかまわないということである。しかし、たいていの人は、冷静にそのような区別はできない。自分の意見を批判されただけでも、発言は慎重になり、言いたいことを言えなくなる。」(p.55)としています。
つまりは、「本当は人格の批判ではなく意見の批判ならいいけど、危ないから、便宜上、両方禁止しておきましょう。」ということなのでしょう。

同じような問題は、「進行役(ファシリテーター)の役割」の部分でも現れていて、「哲学対話にとって、参加者の自発性、主体性は何より重要である。対話の内容じたいは、進行役が上手に問いかけて導いていけば、哲学的になっていく。だがその場合、下手をすると、参加者はだんだん受け身になって、進行役がうまく進めてくれることを期待するようになる。」「進行役が有能であることは悪いことではないし、必要でもあるが、対話をどれくらい仕切るかは別問題であり、慎重でなければならない。」(p.234-5)とあります。
この部分を読んで、僕は自分自身の進行を振り返り、結構介入して、哲学的に深める方向にいっちゃってるなあ、これって梶谷さん的にはまずいのかなあ、なんて思いました。

あと、細かいところでびっくりしたのが、梶谷さんは、対話の時間は1時間くらいを推奨している点です。正直、哲学カフェでこれは短いのではないでしょうか。世の哲学カフェの標準開催時間は、多分、2時間から2時間半くらいだと思います。

だけど、これらの違いが、全て、梶谷さんと僕の見えている哲学対話の角度が違うから、ということであれば、全て腑に落ちます。
梶谷さんは、徹頭徹尾、全ての人に「考える」をやってほしいのです。
本気で「0歳から100歳まで」全ての人に、哲学対話に触れてほしいのです。
そのためには、誰にとっても安全な場でなければならならず、うっかり否定的な言葉を投げつけて傷つけられることなどあってはならない。また、少々哲学的な深みがなくても、主体的に「考える」ことだけは絶対に確保されなければならない。誰もが手軽に参加できるよう開催時間も短くしたほうがいい。ということなのでしょう。

確かにそのとおりだと思います。
一方で、僕の哲学対話は、あえて哲学カフェに参加しようと思うような一部の人たちに向けてのものだから、哲学的に深めたい、少々進行役が介入しても、否定的な発言があっても大丈夫だし、どうせ参加したなら、2時間くらい話しきったという満足感を持ち帰ってもらいたいし、となります。これは、参加者に応じた別の設計になっているということで、つまりは、僕は参加者を限定しているのだと思います。
だから、もし、僕の哲学カフェに参加して嫌だったら来なければいいだけだし、そもそも哲学したい人だけが来ればいいし、と、どこかドライに割り切っているのだと思います。

だけど、その割り切りを梶谷さんは許さない。一人残らず哲学対話に引きずり込みたい。そこにこの本の根底に流れる熱さの源流があるように思うのです。

この熱さはこの本全体に漂っています。
例えば、この本のノウハウの部分については、正直、かなり、梶谷さんなりのやり方「だけ」が書かれているなあ、と感じます。梶谷さんの理論と実践に裏付けられた確かなノウハウではあるし、僕のやり方のほうがいいとは言わないけれど、他に選択肢があるということをもう少し匂わせてもいいんじゃないかなあ、と思います。
だけど、それはあえて書かない。変に言い訳めいた選択肢を幅広く提示してしまったら、哲学対話の場を開きたいと思った人が戸惑ってしまう。大丈夫、この本に書かれていることをそのとおりやれば、とりあえずは哲学対話ができるよ、と力強く後押しすることに主眼がおかれているように思うのです。

進行役があまり介入しないやり方を推奨していることも、ルールをきちんと設けていることも、慣れない方が初めて哲学対話の場を開くことを念頭に置いていると考えれば腑に落ちます。
多分、進行役が上達したら、多少介入しても大丈夫です。ルールだってあえて事前に宣言しなくても、大抵の場合、問題が生じた時点でその場で解決できます。だけど、それは、そのうちできればいいことで、最初は、一番確かなやり方で、とりあえず、みんな哲学対話をやって、とりあえず「考える」を始めようぜ、ということなのだと思います。

2 自己との対話について
この本で特に嬉しかったのは、一人で哲学することも、哲学対話の仲間に入れてもらえたことです。「「問い、考え、語ること」という意味での哲学もまた、一般の哲学と同様、自問自答しながら「自己との対話」を通して一人で行うこともできる。」(p.33)というように。哲学対話界隈の方には、一人で哲学をすることがどうでもいいことのように思われているような気がして少々寂しかったのですが、こう言ってもらえてうれしかったです。
だけど、僕は別に孤独でつらい作業が好きな訳ではなく、哲学の中でも、僕の興味がある、ちょうどその部分を話せる相手がいないだけです。そういう意味では、世の普通の人が一人で「考える」のも同じことのような気がします。哲学対話で一般的な親子関係のことは話せても、自分の親と自分のことを細かい事情まで真にわかっているのは自分しかいないから、人は一人で悩み、考えざるを得ないのだと思います。
だけど、それでも、哲学対話をすると、みんな結構似てるんだなあ、なんて思えて、救われた気になります。この感じも、哲学好きでも、そうでない人でも、まあ、似たようなものなんじゃないかな、とも思います。

3 対話がうまくいってるときの浮遊感
この本の大きな成果のひとつは、「対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる開放感、などなど。」(p.40)と言語化したところだと思います。
確かにそのとおりで、これまで、なんとなく、そういうのあるよね、と話したことはあったけど、こうして明確化し、哲学的に重要なものとして位置づけたことはとても面白いです。
そして、そのような感覚は、机などに遮られず、きれいな輪になって座ったときのほうが訪れやすいというのも確かなような気がします。
なんとなく、僕は、哲学対話とは、円の中心に対話の神様が降ろす儀式でもあるような気がしていて、コミュニティボールというのは、その神様を象徴したもののようにも思います。
(この神様というのは、あくまでも比喩です・・・)

4 2時間のショータイム
梶谷さんは、熱く、理想的です。例えば、「心や体に病を抱えた人、親族を亡くした人・・・」(p.68)に対して「互いに恐れず、問題をしっかり受け止め、いっしょに考えることだ。」(p.69)と力強く宣言します。僕も全く同意します。哲学対話とはそういうことだと思います。
しかし、とても難しいと思うのが、2時間、または梶谷さんなら1時間という制約です。
僕は、哲学対話とは、哲学カフェに来ている2時間以外の時間でもやってほしいと思うからこそ、この2時間を、理想的な哲学対話の見本とし、そして哲学対話に良い思いを持って帰ってほしいと思っています。
その時間的制約があるなかで、あまりにも大きな問題を抱えることは、難しい場合もあるのではないか、と思います。
例えば、僕は、梶谷さんが避けようとしている批判的な発言についても、理想論としては、哲学対話で問題解決できると考えています。もし批判的な発言があり、それを嫌だと思う人がいたら、それがどうして問題なのかしっかり話し合えばいいのです。しかし、それをしていたら時間に収まらなくなるから、とりあえずは、批判はいけない、というルールをつくったほうがいい、となります。
それと同じように、個人的に悩みにどこまで立ち入るか、という問題についても、持ち時間を考えると、あまり立ち入らないという解決方法も、とりあえずはありうるような気がします。

5 哲学対話における「自由」
僕も、哲学対話により、人生を生きる自由を手に入れるという大筋は大賛成です。
しかし、自由のありかについては、違う意見です。
梶谷さんは、自由の根源を「感覚としての自由」(p.89)に求めます。そして、その感覚を、「自分から切り離し」(p.92)「相対化」「対象化」(p.93)することと接続させます。
自分を対象化、相対化して振り返り、自分から切り離すことで、先程話に出たような、哲学対話においてしばしば感じるような浮遊感が生じるということになります。
しかし、僕は、とりあえずは、この2つは別物だと思います。

僕はこう考えます。
哲学対話とは、言葉による営みです。言葉は、物事を相対化し、対象化します。そして、対象を詳細に分割し、そこに新たな選択肢を見出します。
例えば、悲しいことがあって言葉にできないほど落ち込んでいる人がいるとします。しかし、哲学対話により、それが、例えば「親の死に対する悲しみ」と名付けられたとたん、それは、一般的な「親」の「死」に対する「悲しみ」の話となります。そして、「悲しみ」と名付けられたからには、「悲しんでいない」状況も一つの可能性として立ち上がり、そして、これまで数多くの人たちがたどってきた、悲しみから回復する一般的な物語さえも立ち上がります。
そこまで極端な例ではなくても、言葉を紡ぐことで、その言葉が、思いもしなかった視点を提示し、そこに新たな選択肢を見つけ、そこに新たな可能性を見つけるということは、いわゆる哲学対話の場ではなくても、よくある話だと思います。
僕は、この言葉の働きこそが、哲学対話における「自由」なのではないかと考えています。

それでは、対話がうまくいってるときの浮遊感、あの自由な感覚はなんなのでしょう。
僕は、それは自分の殻を破ったという自由、自己からの自由だと思います。
梶谷さんが悪い例とする「(相手を受け入れ)相手と距離がとれずに一体化してしまったりする」(p.170)こととは別の意味での相手との一体感。
意見や感覚を共有する訳ではないけれど、存在レベルで、自分の境界が溶けて、相手と一体になるような一体感なのではないかと思います。うまく言えないけれど。
それが、少々、梶谷さんが言っている道筋とは違うけれど、まさに「他者と共に感じる自由」(p.96)なのではないかと思います。
そして、それを駆動するものは、「身振り手振り、表情や眼差しの交わりなどの身体的なレベルのやりとり」(p.174)であり「場を共有すること」(p.170)ではないでしょうか。

そして、言葉が立ち上げる自由と、他者と場を共有することによる自己からの自由とは、とりあえずは、別物と考えておいたほうがいいのではないでしょうか。(同じものの別な側面、という方向で論を進められそうな気もしなくはないですが・・・)

6 専門家の哲学
「哲学する」と「いわゆる学問としての哲学」の関係について、この本は少々歯切れが悪いけれど、僕は、哲学研究者ではなく、そこらの哲学好きだから、簡単に言えるので言います。
「いわゆる哲学研究者でも、哲学していなければ、哲学者ではない。」
逆に言えば、傍目から見て、そこらの一般の人が、いわゆる哲学の伝統から全くかけ離れていて、誰の参考にもならない妄想にしか見えなくても、本人が哲学していれば、その人は哲学者だということです。
以上は、揺るぎなく、自明のこととして正しいと思います。
このことを、この本では「思うに、元来は“哲学の問題”があるというよりも、物事の“哲学的な問い方”があるだけなのだ。」(p.124)と言っているのだと思います。

ここまでは当たり前すぎるかもしれないけど、見逃されてはいけないのは、傍目から見て、どんなに重箱の隅をつつくような、タコツボ化した些細な研究に見えても、その人にとって哲学的に重要で、彼の人生において問わずにいられないようなものであれば、それは、哲学だということです。
だから「専門的な哲学の問題は、結局のところ、誰にとってもほとんどの場合、実生活には関係ないのである。」(p.121)というのは誤りだと思います。誰にとっても関係なければ、それは哲学の問題ですらなくて、それが哲学の問題であるからには、それを、哲学対話における哲学と全く同じ意味で、本気で哲学してきた人がいるはずです。
そして、残念ながら、その人にとっての本気の「哲学する」なのか、そうではないのかは、なかなか研究を外見から見てはわからないのかもしれません。

一方で、逆にレベルが低すぎて哲学とは思えないような問い、例えば「今日は何を食べるか?・・・」(p.123)といった問いも、本気で問うているなら、それは哲学だと言っていいと思います。本気で問うならば、それは全て哲学的な問いだということです。だからこそ、このような問いも、少し加工するだけで「哲学的な次元に入っていくことができ」(p.123)哲学的な問いと地続きだと言えるのです。全ての問いは哲学的な問いなのだけど、そのうちのかなりの部分は、歴史的にいわゆる哲学の文脈で捉えられることはなかった、というだけのことだと思います。

このように幅広く捉えると、哲学という意味が拡散しすぎるかもしれないけれど、僕にはこっちのほうが楽しい話になりそうな予感があります。

7 受け止める
最後に、僕にとって一番分が悪いところを書いてきます。
梶谷さんの言う「受け止める」(p.166)が、実は、よくわかりません。
これは、梶谷さんの言い方や言っている内容が問題なのではなく、僕の方の問題のような気がします。どうも、直感として、梶谷さんはここでかなり大事なことを言っているようなのだけど、僕はそれを受け止める準備ができていない。そんな気がするのです。
もし、これを受け止めたら、少なくとも「5 哲学対話における「自由」」で論じたようなことは、ひっくり返りそうな予感があります。もう少し考えてみたいと思います。

・・・

以上、批判的なところばかり挙げてしまいましたが、しつこいですが、この本はとてもいいです。
例えば、知識と対話の関係について「確かな知識によって土台と軸が与えられれば、対話は焦点が定まった仕方で深めることができる。」(p.144)なんて、すごくかっこいい。
また「哲学対話をしていると、老若男女、世の中に本当にバカな人、訳の分からない人はいないという気がしている。」(p.158)なんて哲学カフェに自主的に来る人としか哲学対話していない僕には、わからない重い言葉だと思う。
このような素敵な言葉たちが、梶谷流哲学対話というひとつの体系のなかに、きちんと収まっている、それも行儀よく収まっているのではなく、熱く、挑発するように入れ込まれているというのは、とてもかっこよかったです。
僕も、読んでいて「グダグタ考えてないで、もっと哲学対話してみろよ。」と言われているような気がしてきました。
だから、この文章は、この本「考えるとはどういうことか」について、活字で哲学対話してみたつもりです。(当然、仮想の対話の相手は梶谷さんです。)

恋愛と哲学カフェ

PDF:恋愛と哲学カフェ

哲学カフェで知り合った人と飲んだときに、2つの話が出た。「モテるにはどうすればいいのか。」という話と「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話だ。この2つは関係なさそうに見えて、実は結構関係あるのではないかと思ったので、文章にしておく。

「モテるにはどうすればいいのか。」という問いの答えとして、そのとき僕が思いついたのは、「相手が望むことの半歩先を提供する。」というものだった。
会社の営業などでよく言われるようなことだけど、男女の恋愛でも同じではないか。
(文字数を減らすためLGBTs的な観点は抜きでいきます。)
例えば、意中の女性を落としたいなら、女性がしてほしい行動の半歩先を読んで行動するといいと思う。ケーキが食べたいと相手が口に出す前にケーキを食べようと誘う。できれば、相手がケーキを食べたいと思いつく直前にケーキを食べようと誘う。(まあ、できないし、落とそうとしないけど・・・)
または、こんなことをされたら落とされてしまうと思うのは、僕がその女性に投影しているイメージの半歩先を提供されたときだ。僕が知らなかった少しマイナーな本を紹介されたり、思いもしなかったタイミングで笑顔を見せてくれたり。こういう半歩先があると、ころっと落ちてしまう。(まあ、そんなことされないし、落ちないけど・・・)

よく言われることなので簡単にしか言わないけれど、「半歩先」というのは重要だ。一歩先では歩幅が大きすぎる。ケーキを食べたいと思う1時間前に「ケーキを食べよう」と言われても、まだ食べたくないし、いくら僕が哲学好きでも、いきなり自筆の論文をプレゼントされたら引いてしまうし、脈絡なく全力で笑顔を振り向けられても困ってしまう。
「想定内」と「想定外すぎて意味不明」の間のグレーゾーンを狙う必要がある。
そのことを強調するためには、半歩先は「小さな驚き」と言い換えたほうがいいかもしれない。「ケーキを食べたい」と言われてから、「じゃあケーキを食べよう」と言われても、そこには驚きはない。一緒にパフェを食べた直後に「ケーキを食べよう」と言われたら、驚きすぎて引いてしまう。「あ、気づかなかったけど、そういえばそうだね」というくらいがちょうどいい。

ここから、恋愛から哲学カフェの話につなげていきたい。

この驚きは、哲学カフェにおける驚きと同じものだと思う。

ケーキのことなんて考えてもいなかったのに、「ケーキを食べよう」と言われてみたら、そういえば、私、ケーキが食べたかったんだ、と気付いたとき。
哲学が好きなんだ、と話していたら、相手から、知らなかったけど、確かに読んでみたくなるような哲学書を紹介されたとき。
家の事情で人知れず落ち込んでいたら、同僚が励ますような笑顔を向けてくれたとき。
そこに小さな驚きを感じる。
これは、他者に対する驚きだ。
より長い言葉で表現するなら、「他者が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれたような感覚に対する驚き」とも言えるだろう。
確かに私はケーキが食べたかったんだ、確かに僕はこの本を読みたかったんだ、確かに僕はこの笑顔が欲しかったんだ、というように。

似たようなことは哲学カフェでも起こる。

例えば、哲学カフェで、「正しさ」をテーマに話していたとする。
僕は、論理的整合性みたいなことしか思いつかずに話していたけど、そこに、誰かが倫理的な正しさの話をぶち込んでくる。
僕は、あれ、そんな話してたっけ、と一瞬驚く。
だけど、よく考えてみれば、「正しさ」の話なのだからつながっているし、論理的整合性と倫理的な正しさとは、どんな関係があるのだろう、と展開することもできる。これはとても興味深い問題だ。
その結果、実は僕は、倫理的な正しさの話もしたかったんだ、と気づくことができる。
これは、哲学カフェでの相手の言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけてくれて、掬い取ってくれたと言ってもいいだろう。

そこに恋愛感情がないだけで、さきほどのケーキの話での他者に対する驚きと同じものだ。
僕は、哲学カフェの最大の魅力は、この驚きを味わえるところにあると思う。

しかし難しいのは、哲学カフェでも、この驚きは、半歩先の小さな驚きでなければいけないということだ。
「どうして過去の記憶が正しいと言えるのか。」という話をしているときに、いきなり「だけど、全部、愛だよね。」と言われたら、たいていの人は意味がわからず戸惑ってしまうだろう。
よくよく話を聞いてみると、「この世界の根本原理には愛がある。→愛という原理によりこの世界は整合している。→過去の出来事も過去の記憶が正しいという思いも世界のあり方として整合しているはずだ。」(例なので適当です。)というように、その人の頭の中では確かに話はつながっているとわかるけれど、ちょっと歩幅が広すぎる。
(あえて言えば、なんとか話を繋げられたなら、まだ半歩の範囲内とも言えて、本当に半歩を超えてしまう例としては、繋がりが不明のまま終わってしまった発言のほうがいいかもしれない。)
飛躍があり、かと言って飛躍しすぎない、自然な対話のペースのなかで受け止められるような半歩先の小さな驚きというのが哲学カフェでは大事となる。

ここでやっと、冒頭での「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話につながる。
僕は進行役をしていて、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあると感じる。
驚きというのは、あればあるほどいいものではない。
僕が好ましいと思う驚きとは、ただ相手の言葉に驚くだけでなく、言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるというプロセスを経るものだ。
これは、つまりは、自分の心の中を再構築し、自分が変わるということと言ってもよい。
このためには、ちょうどいい半歩先の驚きであることが重要となる。今出した例のような飛躍しすぎた一歩先では飛躍が大きすぎるが、飛躍がなさすぎてもつまらない。また人によってどの歩幅がよいかは違う。ある人にとっては半歩先でもある人には一歩先になってしまうことはある。
また、この自分の心の再構築という大事業を頻繁にやっていたら疲れてしまい、体がついていかなくなってしまう。どれだけの驚きを受け止められるかどうかには、体力の問題が関わるだろう。
また人によって自分の心の中を吟味するのに要する時間も違うだろう。頭の回転の速さの違いもあるだろうけど、問題意識の違いがより大きいだろう。普段考えなかったことなら吟味にも時間もかからないけれど、自分にとって重要な問題なら吟味に時間を要するはずだ。
自分の考えを再構築し変えることに対する慣れもあるだろう。自分の考えを変えることは快感もあるけど不安だ。このくらいの変化ならマイナスよりプラスが大きいと予測し、安心して変化を受け入れるためには慣れが必要となる。
更には、進行役をしていての実感だけど、受け流す技術というのもあると思う。本当なら自分の根幹を揺るがすような驚きのはずだけど、それを受け入れていたら進行役なんてできなくなってしまうので、とりあえずは軽い驚きとして消化し、先に進めるという技術だ。これは推奨される技術ではないが、この技術を持っている人と持っていない人との違いは確かにある。
違いの原因の話はとりあえずここまでにしておくけれど、様々な理由から、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあるのは確かだ。

そして、この違いが、対話のペースの違いにつながる。ぽんぽん対話を展開し、たくさん驚き、たくさん発言する人から、多くを語らず、ゆっくり対話し、一つの驚きを大事に抱え、もしかしたら哲学カフェが終わったあとも考え続ける人まで。
みんなが一緒にいないと驚きも生まれないけど、一緒にいると人によっての違いが際立ってしまう。
進行役としては、うまくペースを合わせ、この驚きという哲学カフェの最大の魅力をより多くの人が味わってもらいたいから苦労するのだ。
一方で、僕は進行役であっても、僕自身のペースで、僕自身が好ましいと思う驚きを追い求めることしかできない。そして、たいていの場合は、それでもなぜかうまく回ってしまう。だから苦労していないとも言える。そこにも対話の不思議がある。

・・・

これで予定していた話はおわりなのだけど、読んでみても、やっぱり恋愛での驚きと哲学カフェでの驚きは違うと思う方も多いかもしれない。
やはり2つの驚きは同じものだと伝えるためもう少し話を続けることにする。

これまで僕は、恋愛も哲学カフェも「相手の言葉(や笑顔などの仕草)が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるという小さな驚きがある」という点で共通点があるとしてきた。
これは、別の言い方をするなら、「他者が自分の変化を促す力になってくれる」ということだ。
自分だけでは、ケーキを食べることはできなかった。(なぜなら、言われるまでケーキを食べたいと気づかなかったから。)
自分だけでは、その哲学書に出会うことはできなかった。(なぜなら、紹介されるまで、その本を知らなかったから。)
自分だけでは、その笑顔で救われるとは思えなかった。(なぜなら、その笑顔をされるまで、笑顔に出会えるとは思ってもいなかったから。)
自分だけでは、「正しさ」には論理的整合性とは別の意味があるとは思えなかった。(なぜなら、言われるまで、倫理的な正しさという側面があるとは気づけなかったから。)
だけど、その相手が気づかせてくれて、新しい自分への変化を促してくれたのだ。

更に言えば、この変化とは、成長するということであり、未来を切り開くということでもある。
成長というと、なんだか大人という理想形があって、未熟な子供がその理想形というゴールに向かっていくという感じがするかもしれない。だけど僕がここで成長という言葉に込めたいのは、そうではなくて、ポジティブな変化という程度の意味合いだ。自分が望ましい方向に向かって、今、この瞬間に変わっていくこと、それが成長することだ。

この成長のためには、ここまで話してきた「驚き」が重要となる。
変わるためには、新しい何かに気づかなければならない。これまで知っていたことではなく、新たに何かを知らなければならない。
しかし、それは、完全に新しい自分の外にあるものでは駄目だ。完全に自分から離れたものには気づくことさえできない。
新たに気づけるものは、実は自分のなかにあったものを、新たに再発見するような、半歩先の小さな驚きを伴うものでしかない。

そして、このような驚きは、恋愛であれ、哲学カフェであれ、他者しかもたらすことはできない。
どうして他者なのかといえば、それは、他者とは、自分ではないけれど、全く自分からかけ離れたものではない、という中間的な特別な存在だからだ。
実は自分の中にあったものを再発見するというような中間的なことは、このような中間的な存在にしかできない。

他者は自分ではないのは当たり前として、他者は自分からかけ離れたものではないというのは異論があるかもしれない。自分とは全く違う他者もいる、と言いたくなるかもしれない。
しかし、それは僕の他者という言葉の使い方とは違う。
どんな嫌なやつでも、聖人でも、他者とは、完全に自分と違う人ではない。全く自分と違うなら、それは全く意思疎通もできない宇宙人か、または石ころのようなものになってしまう。(宇宙人は微妙で、宇宙「人」と認めるなら、それは他者とも言える。イルカのような動物も同じ。)
殺人者であれ、ヒトラーであれ、釈迦であれ、そこに人間性を認めるなら、それは他者だ。他者とは、その相手を自分と同じ人間として認め、相手の言葉をきちんと聞き、尊重することができる人のことなのだ。
そして、恋愛し、または対話するとは、そのような他者を自分に影響を与え、自分に変化と成長をもたらしうる存在として受け入れ、ともに生きることなのだ。

とても駆け足なので疑問もあると思うけど、ここまで話が進むなら、恋愛も哲学カフェもそんなに変わらない、ということはなんとなくわかってもらえるのではないだろうか。

・・・
おまけ 飲んだときに話したことのフォロー


恋愛について出した半歩先の驚きの例は、大きく2つに分類できる。
一つが、期待する行動の半歩先であり、もう一つが、投影するイメージの半歩先だ。ケーキを食べようと誘うのは行動の半歩先で、本のプレゼントや笑顔は投影するイメージの半歩先となる。
飲んでいたときは、なんとなく、前者が女性の思考回路であり、後者は男性の思考回路だと思っていた。女性は現実的な行動で判断し、男性はイメージ、あえて言えば妄想で判断するという訳だ。
まあ、男女の脳の構造の違いなどから、実際、そのような傾向があるのかもしれない。だけど、よく考えてみれば、それは、あくまで程度の差であり、あえて男女の差を強調する必要はないだろう。人によりウェイトの置き方に違いはあっても、人には現実的な行動を重視する側面と、妄想を重視する側面との両方がある。デート中に「ケーキを食べよう」と言われてうれしいのは、ケーキを食べるという行動ができるからだけではなく、「ケーキを食べよう」と誘ってくれるような男性だと妄想できるからでもあるはずだ。


恋愛における僕の(多分多くの男性の)一番強力な妄想は、「僕のことを評価してくれて、認めてくれる女性がどこかにいる。」という妄想だろう。この妄想の半歩先が提供されたらもう・・・力を入れていた大仕事を終えてホッとしているときに、「先輩のプレゼン、勉強になりました!」なんて可愛い後輩に言われたら、まずい第一歩を踏み出してしまうかもしれない・・・

「みんなで考えよう」合評会に行ってきました。

PDF:「みんなで考えよう」合評会に行ってきました

「みんなで考えよう」とは、哲学プラクティス連絡会という集まりで発行することになった冊子で、これが第一号です。

(では、哲学プラクティス連絡会とは何かというと、哲学カフェや哲学対話は、哲学プラクティスとも言われるのですが、そういった哲学プラクティスを実践している人たちが色々連絡をとりあう場です。学会ではなくて、一応、普通のサラリーマンな僕でも当日の参加費を払えば、もう仲間だぜ、というゆるい感じが気に入っています。)

この本は、哲学対話の実践者が寄稿した文章17本で構成されていて、僕の文章も入っています。(実は、ここがこの文章の主題です!)
だから、書かれた文章は、広く捉えるなら、実際に哲学対話をやっている方による、実践を踏まえたその考察と言えますが、それぞれの文章の中身は、実践の記録にウェイトを置いたものから、実践には言及されず考察がほとんどというものまで、色々となっています。
(僕の文章は後者のつもりです。そうは見えないかもしれないけど・・・)

この合評会は筆者のうちの何名かとこの本を作っていただいた編集の方も参加して、とても実りあるものでした。本を作ってくれた方、こういう集まりを企画してくれた方に感謝です。

それぞれの文章については無料でネットにPDFが上がっているので読んでくださいということで、合評会で思ったことをメモしておきます。

まず、いちばん重要なのが、合評会は、「がっぴょうかい」と読みます。「ごうひょうかい」ではありません。僕は初めて知りました。注意!

あと、合評会とは、基本的に、その作品について批評し合う会のようです。僕はてっきり、この冊子全般のコンセプトを話したり、この冊子を題材に、哲学対話の実践者が哲学対話について考察するという営み自体について話す場だと勝手に思っていました。そうしたら、短い時間とは言え、自分の作品自体について批評されるとは、とんだ羞恥プレイでした。
(まあ嬉しかったですが・・・次回はパスしたい気も・・・)

と、前置きが長くなりましたが、僕が合評会「がっぴょうかい」で考えたことをメモ。

合評会の場で、この筆者Aは、哲学対話の外からの視点で書いているのかな、哲学対話にどっぷり浸かった中からの視点で書いているのかな、それとも片足だけ踏み込んだところで書いているのかな、という問題が出されました。
その場では、どちらかというと、実践の記録的な側面が大きい文章は当然として、多くの文章が、哲学対話の中からの視点で書かれていて、例外的にいくつかの文章が、哲学対話の外からの視点が強いよね、という感じの話だったように思います。

だけど、あとで考えてみると、実は、そこには大きな違いはなくて、全ての文章が、片足は哲学対話の外で、もう片足は哲学対話の中なのではないかなあ、と思いました。
なぜなら、まず、何かしら哲学対話について知らないと文章は書けない訳だから、片足は中に踏み込まなければならない。
一方で、完全に哲学対話に浸かりきってしまったら、哲学対話について書くことはできないから、片足は外に置かれなければならない。だって、全く哲学対話に浸かりきり、その外が見えなければ、哲学対話について客観的に捉えて、言葉にすることなどできないでしょうから。
その証拠に、合評会でも、堀越さんの文章は、そこに漂う冷静でクールな分析が評価されていた。これは、単に実践の記録にとどまらず、その実践を外部から捉え直していたことで、要は片足を外に置いていたことを意味すると思います。
また、しばたさんの文章も、単なる政治的主張ではなく、そこにパスカルを比喩的に登場していることが評価されていたことも同じです。
(しばたさんの文章がなぜ同じかというのは文字数が要りそうなので、合評会で出た話を僕なりの理解で要約しておきます。
『哲学対話の実践を文章にするやり方は、客観的に書くというやり方以外に、まさに哲学対話をするように主観的に書くというやり方があって、しばたさんの政治的主張部分については、まさに哲学対話を主観的に内から実践的に書いているものとして評価できる。そして、そこにパスカルを比喩的に登場させたことは、その実践的記述を客観化し、外部から捉え直したものとして評価することができる。よってしばたさんの文章も、内側からの実践の記録であり、かつ、外部から捉え直されたものである。』)

では、どの文章も片足は哲学対話の外で片足は内側なのだとしたら、内と外を区分する視点はあまり役に立たないのかというと、そうではないと思います。
大事なのは、どちらから一歩踏み出したのかであり、哲学対話の外から一歩踏み込んだのか、哲学対話の中から一歩踏み出したのか、という違いはとても大きいのではないか。
飛躍して、一気に僕の考えに引き寄せるなら、哲学対話の外とは、要は、伝統的なアカデミックな哲学です。そして、哲学対話の中とは、生(なま)の人々による生きる営みの実践です。このどちらに出自があるかで、哲学対話について考察する文章にも大きな違いが出てくるように思うのです。
そして、この双方向の流れがぶつかる場だからこそ、この哲学対話界隈は面白いのだと僕は思います。暖流と寒流がぶつかる海域が良い漁場となるように。
(さらには、僕は自分自身を哲学対話の外に出自がある少数派だと思うから、この抵抗感がなおさら心地よいのです。)

話は変わりますが、ここまでの話とちょっと重なって興味深いと思ったのが、芹沢さんの哲学ツーリズムの実践として東日本大震災の被災地に行った話です。
この文章に『「旅マエ、旅ナカ、旅アト」をそれぞれどうデザインしたらいいかということが肝になる』とあるように、この旅は、しっかりと事前準備され、しっかりと目的意識をもって実行され、そして事後も丁寧に結果として残そうと努力されています。
この旅は、いわば、被災地に行くという目的地が重要となっていると言ってもいいでしょう。
一方で、これまで、僕個人が旅に求めてきたものを思い返すと、この生活の場からの離脱のようなものだったような気がします。日本は息苦しいから海外のリゾート地でのんびりするというような。まあ、海さえあれば目的地はどこでもいい。
芹沢さんの旅は目的地が重要だけど、僕の旅は出発地(から離れること)が重要という違いがそこにはあるように思います。
(芹沢さんの旅も、観光客という言葉がキーワードとなっているように目的地に到着しきらない遊離感みたいなのが重要だし、僕の旅だって、目的地がどこでもいいという訳ではない、ということはあるけれど。)

このベクトルの違いは、さきほどの哲学対話の外からの一歩と、哲学対話の内からの一歩という踏み出し方の動きの違いとの話と重なるように思うのです。
傍目から見たら、旅をしているという点では僕も芹沢さんも同じだし、哲学対話の内と外に一歩ずつ置いているという姿勢も変わらない。だけど、そこにある「動き」が違う。離れようとしているのか、向かおうとしているのか。
哲学対話から外に一歩踏み出そうとするとき、それは哲学対話から離れようとしているのでしょうか。それとも、どこかに向かおうとしているのでしょうか。(そのどこかとは何か、という問いへの僕の当面の答えはアカデミックな哲学ですが。それはそれとして。)

そんなふうに「動き」に着目してみると、哲学対話も旅ももっと面白くなりそうだなあ、と思いました。

という感想でした。

哲学の狭い門 違和感の話

僕は、哲学対話や哲学カフェという、いわば哲学を広げる活動をしてますが、実は、僕には哲学について門戸を広げたいという思いと、もうひとつ、門戸を狭めたいという思いがあります。
広げるほうはよくある話だから、狭めるほうの話をしますね。

まずはじめに、門戸を狭めたいと言っても、門戸を閉じたいということではありません。
これは、ある種の人に哲学の門をくぐってもらうためには、その人だけが通れるよう、ちょうどその人のかたちに門をオーダーメイドしなければならないのではないか、という話です。

哲学対話をしている方のなかには「誰でも哲学ができる。」とか「誰にでも哲学が必要だ。」という言い方をする方がいます。だけど、この意見には反論も多そうです。
哲学なんて必要ない人もいるし、必要ないと思っている人に哲学なんてできる訳がない。
哲学を必要とし、哲学ができる人というのは、実は結構限られているのではないか。
それなら、哲学は「哲学を必要とし、哲学ができる人」向けに門戸を狭めてもいいのではないか、そんな意見です。
正直、僕もそう思ってしまう面もあります。
そこまで、みんなに哲学を押し付ける必要があるのかな、それって勝手な哲学の押し売りじゃないかな、ちょっと哲学を知っていることをいいことに、優位に立とうとしているだけないかな、って。

だけどそこで終わったら、哲学の門をオーダーメイドすべき、という話にまではいきません。この話には続きがあります。
僕には、この哲学の門は、「哲学を必要とし、哲学ができる人」より狭いように思えるのです。
つまり、世の哲学ができるとされている人だって、僕から見たら哲学なんてできていないように思えるのです。
更に言えば、有名な哲学者たちだって、彼らがやっていることは僕が思っている哲学とは違っているとさえ思っています。
はっきり言います。「僕以外に本当の哲学者はいない。」
そう、哲学の門をくぐるべき、ある種の人とは、僕のことです。
僕が通った哲学の門は、僕だけがくぐれるよう、ちょうど、僕の形をしていたのです。

いや、この僕自身だって、日頃、哲学者であり続けている訳ではありません。仕事をしたり、日常の生活をしたりしているとき、僕は全く哲学的ではない。
ほんの奇跡のような瞬間が訪れた時だけ、僕の思考が深まり、僕は、僕が思う哲学者になり得ている。そして、残念ながら、歳をとり、そのような瞬間は訪れにくくなってきている。
哲学って、こんなふうに、孤独と自負に満ちた特別な営みのように思うのです。

この孤独と自負の根源には、ある種の違和感があるように思います。この世界と僕は違う。他人とこの僕は違う。というように。
哲学とは、こうした違和感を本質とした営みなのではないでしょうか。
僕は、中高生の頃、この世界の当り前に違和感を感じ、哲学的なことを考えるようになりました。
そして、この違和感と同じことを誰も述べていないということに違和感を感じるようになりました。
その後、哲学だけでなく、いろいろな本を読んだり、いろいろな人と話すようになったけど、その違和感はまだ残っています。
僕にも大好きな哲学者がいるし、彼らはとても参考になるんですが、それでも、いい線いってるけど、ちょっと違うんです。
この違和感が僕にとっての僕の哲学の営みを駆動する動力源になってくれている。
この違和感を持つ人だけができる特別な営みだからこそ、真の哲学だと言いたいのです。

なんでこんなことを書いているかと言えば、それは、この思いが、僕のように哲学的な違和感を抱えている人に届いてほしいからです。
きっと、その人は、この文章を読んで「この文章の作者と自分とは違うなあ。」と違和感を感じるでしょう。
もしかしたら、「いいこと言ってるし、自分が考えていることと結構似てるなあ、けどやっぱり違うなあ。」という感じかもしれませんが。(そうだとしたらうれしい。)
それでも、何かがその人に届き、そして哲学カフェでなくてもいいので、何か哲学の門を開くきっかけになってくれればいいと思うのです。
確かにそれは、僕の哲学とは違う、あなたの哲学のかたちをしているかもしれない。
だから、僕は、あなたの哲学を哲学として認めないかもしれない。それでも僕は、僕と同じような違和感を感じるあなたの形に開いた哲学への門を届けたいのです。

確かに既存の哲学の世界には、あなたのその違和感の答えそのものは転がっていないかもしれない。だけど、なにか参考になるものがあるかもしれない。
先人たちが歩いた、哲学という、違和感を違和感として大事に抱えたまま生きる道があるんだよ、そう言ってあげたいのです。

この僕の思いは、要は「あなたのその違和感は、僕の違和感と似てるから、少しはわかるんだよ。」ということです。
つまり、みんな違和感を抱えている仲間なんだ、それぞれにとってのそれぞれの哲学を必要とする仲間なんだ、ということです。
だからこそ、その先に「誰でも哲学ができる。」とか「誰にでも哲学が必要だ。」といったことが言えるようになる訳です。
この意味でこそ「誰でも哲学ができる。」「誰にでも哲学が必要だ。」という意見に、僕は同意します。
こうして、哲学の門を狭めるという話は、哲学の門を広げるという話に接続することとなりました。
めでたしめでたし。

いや、待てよ。
誰にもわからない孤独なものだからこそ違和感であるはずなのに、それをなぜか少しわかってしまう。
「その違和感、よくわかるよ。」
これこそ、僕が一番避けたかった言葉だったはずです。僕の違和感は僕だけのもので誰もわかりようがない。それが僕の自負であり、哲学の原点だったはずです。
それでも、その言葉をかけずにはいられない。これは矛盾ではないか。
これまでの議論を整理すると、「1 いわゆる皆が共有できる哲学」「2 それぞれの人にとっての哲学」「3 僕にとっての哲学」という3種類の哲学があったことになります。
このうち、「1 いわゆる皆が共有できる哲学」と「3 僕にとっての哲学」はある意味純粋ではっきりしていますが、その中間の「2 それぞれの人にとっての哲学」というのは矛盾しているのではないか。そんな気がします。

だけど、とりあえずはそれでいいのではないでしょうか。
僕には、そんな矛盾したものが哲学のかなり根源的なところにはあるような気がするのです。
この矛盾は誤りの兆候として即座に消し去るべき悪しきものではなく、当面は矛盾は矛盾としてお付き合いしなければならないものなんです。
だからこそ、こうして、矛盾を抱えたこんな文章を書いた訳です。

ということで、色々と行き来しましたが、これは、哲学的な違和感を抱えた人が、ちょっと矛盾したかたちで少しは救われるかもしれない場として、哲学対話の場があるといいなあ、という文章でした。

居場所と友情

2017年3月4日作

PDF:居場所と友情

1 居場所
僕は、多分、居場所を探している。
といっても、僕は働いていて、妻も子供もいる。つまり職場や家庭という居場所がある。それも決して悪くない居場所だ。
職場では一定の人間関係を築き、年齢に相応しいポストに就き、当然、物理的な居場所、つまりデスクがある。冷暖房などの環境は良いほうではないが、日本のオフィス事情としては及第点だろう。仕事が極端につまらない訳でもないし、仕事に忙殺されている訳でもない。
プライベートでも、数年前に家を建て、妻と子供の3人で住んでいる。狭いけれど、建築家に希望を伝えて設計してもらったから、当然僕たち家族に合っていて気に入っている。家族の関係は良いし、更には自分の部屋もある。居間にいても、自分の部屋にいても落ち着く。
更には、もっと観念的な居場所もある。僕は時々ヨガをしているのだけど、ヨガでは、ヨガマットの上は特別な場所とされる。まさに居場所だ。そこでは世間から離れ、一人、自分の体と向き合うことができる。また、こうして文章を書くことも自分の居場所と言えなくもない。僕は文章を書くのが好きで、自宅や喫茶店でパソコンを広げて書いているのだけど、パソコンの前にいると落ち着く。そのようなことをする時間も、まあ、確保できている。
これで居場所がないと言ったら怒られる。
だけど、僕は、居場所をなぜか探している。
僕は、何を求めているのだろうか。

2 コミュニケーションの負荷
きっと僕は人とのつながりを求めているのだろう。
僕には「友人」と呼べる人が少ない。
確かに、一緒にスキーに行ったり、旅行に行ったりするような、いわゆる遊び友達はいる。これは、いわば目的に沿った関係であり、友情に基づく友達とは違う気がする。
だから僕は、相手から近づいてくるので友達になることはあっても、用もなく相手に近づくことはあまりない。。つまり誘われれば遊びに行く関係ばかりだ。これで友人が多いはずがない。

僕は人と会うと、うまくコミュニケーションをとろうとして、逆に自分のペースを乱し、傷ついてしまうことが多い。
傷つくと言っても、ささいなことだ。調子に乗って話しすぎてしまったり、場の沈黙を打ち消すために無理に話してしまったり、うまい言葉が出てこなかったり、適当な相槌を打ってしまったり、人の名前を思い出せなかったり、相手の間違いを指摘できなかったり、そういう、コミュニケーション上のちょっとしたミスで僕は傷つく。
また、目立ったミスはなくても、ミスがないよう気を配ることで、とても疲れる。
この傷や労力に見合う何かを得られるのでなければ、人になんて近づかなくていい。そこには人間関係の負荷のようなものがあるのだ。

当然、人に近づくことで得られるものが多ければ、つまり負荷を乗り越えるような何かがあれば人と近づくことになる。
だけど僕には、人間関係から得られるものは多くなく、基本的に割に合わないように思える。数少ない例外が、家族のような人たちだ。家族のような人間関係は、負荷が軽い割に、得るものが多い。効率よく、コミュニケーションの喜びとでも言うべき何かを得られる。

3 家族
ここで「家族」という人間関係の特別さについて考えてみたい。
家族とのコミュニケーションの負荷が軽いのは、家族という基盤があることが大きいだろう。
親子や夫婦という関係からは、なかなか離れられない。離れるためには、離婚や離縁という手続きが必要だ。それでも、元夫婦、元親子という関係はなくならない。これは、それ以外の関係、つまり友人と疎遠になることの自然さとは全く違う。
だから、家族とは、基盤があるので安心して疎遠になる可能性を恐れずにコミュニケーションをとることができる。
これと似たことは、レベルは違うにしても、同級生、同窓生、職場の同僚といった関係についても言える。そこには揺るがし難い、ある特別な親密さがある。名前がついた人間関係には、コミュニケーションの負荷を軽減する力がある。

4 友人・親友
それでは、「家族」「同級生」「同僚」のような名前がつかない関係、いわゆる友人、友情一般とは、何なのだろうか。
先ほど言ったように、僕は友人が少ない。親友なんて居ないかもしれない。
その理由は主に、僕の人付き合いの浅さによるが、もうひとつ、友人や親友という語のあいまいさがあるように思う。
知人と友人と親友の境界はあいまいだ。知人から友人になる契約や儀式がある訳ではなく、年に何回以上会ったら友人になる訳でもない。友人になったからといって、知人とは違う何かが手に入る訳ではない。友人から親友へのランクアップについても同様だ。

そこには多分、知人から友人、友人から親友というように、緩やかなグラデーションを描き連続的につながる何かしらの要素がある。それを多分友情と言うのだろう。
そして、僕は友情に疎いから、繊細なグラディエーションを感じることができず、友人や親友が少ないと思ってしまう。

友情というものの繊細さから、相手を友人、親友と呼ぶのを憚られるもう一つの理由が生じる。
友情とは捉えがたい繊細なものだから、この関係を相手がどう思っているか、なかなかわからない。お互いに友人と思っていなければ友人ではないし、お互いに親友と思っていなければ親友ではない。友人と思っていたら片思いということもある。だからこちらからはなかなか友人と呼びにくい。
実際、相手は明らかに友人と思っていそうだけれど、僕からは友人と思えないような関係もある。相手には申し訳ないと思うと同時に、かわいそうな気持ちにもなる。僕はそう思われたくない。

5 恋愛
僕だけの戦略かもしれないが、このような友情の微妙さを克服するために、僕は恋愛をするのかもしれない。僕は、友情というものの微妙なニュアンスを捉えるのが苦手だから、もっとわかりやすい恋愛というかたちに置き換えてしまっているのではないだろうか。
恋人とは、家族などと同じように名前が付いた関係だ。恋人になるためには告白というプロセスを踏む。お互いに恋人という関係に入ることに合意する。
恋は実らず片思いとなったとしても、告白し、失恋していれば、お互いに片思いという関係性をしっかり認識していることになる。また告白できず、思いを内に秘めていたとしても、自分自身は自らの気持ちを明確に意識しているし、また、相手がその気持ちに気付いていないことも明確だ。この状況は明確な片思いという関係性だ。いずれにせよ、恋愛からは、恋人や片思いといった名前がついた関係性が導かれる。
だから、どのような結果になるにせよ、恋愛は、友人よりもはるかに明確で安定的な人間関係だ。僕は、この恋が成就するにせよ、しないにせよ、こういう関係のほうが楽なのだろう。
このような事情から、僕は、ある人に近づきたいと思ったとき、実は、その動機は友情によるのかもしれないのに、それを恋愛感情と無理やり思い込んでしまっているのかもしれない。
そして、当然僕には性欲があるから、恋愛感情との思い込みに拍車をかけてしまう。性欲から誰かに近づきたいと思っているのに、それを恋愛関係のような、もっと正当化できる理由にしたいという気持ちは理解してもらえるだろう。恋愛感情というのは色々と便利な言い訳なのかもしれない。
このようにして、僕は、実は、異性に対する友情や性欲を恋愛感情に誤変換してしまっているのかもしれない。

6 コミュニケーションの喜び
ただし、僕にもわずかだけれど、家族以外にも、恋愛感情などによらず、近づきたくなる人達がいる。
人間関係が持つ、コミュニケーションの負荷という斥力を、コミュニケーションの喜びという引力が上回り、近づきたいと思う人達が、わずかだけどいる。
その人達を友人と呼ぶことに異論はない。もしかしたら親友と呼んでもいいのかもしれない。
コミュニケーションの負荷という斥力をコミュニケーションの喜びという引力が上回ることを友情と呼ぶ。これが、僕にとっての友情の定義になりそうだ。こんなに硬い定義をしなければならないというのが、いかにも友情下手な気もするけれど。

それでは、友情というものに関する僕自身の理解のため、コミュニケーションの負荷という斥力と、コミュニケーションの喜びという引力について、もう少し考えてみたい。
まず、コミュニケーションの負荷とは何か、という問いに対する答えは明確だろう。うまくコミュニケーションがとれず、コミュニケーション上のささいなミスをしてしまうかもしれないことこそが負荷の重さだ。家族と話すのは慣れていて緊張しないし、相手についての情報も多いから色々と予測や心構えができる。また、家族という揺るぎない基盤があるから、うまく話そうという気負いもない。だから負荷が軽い。こういうことこそがコミュニケーションの負荷の重さ、軽さだということは実感としてよくわかる。

それでは、もう一方のコミュニケーションの喜びとは何だろう。
例えば、僕にとって望ましいものである家族とのコミュニケーションで、僕は何を得ているのだろう。
妻とは趣味が合うので、ライブの情報など、色々な興味深い話が聞ける。子供も頭がよいので機転が利いた楽しい話ができる。会話の内容として面白い。それがコミュニケーションの喜びのようにも思える。
だけど、もしそうなら、ネット上で興味のある記事や書き込みを読んだほうが、よほど効率がいい。人によってはテレビのお笑い芸人でもいいだろう。いわゆる文化人のインタビューもいいかもしれない。そういう、特別な人の特別な話は面白い。一方で僕の家族は一般人だ。確かに、生活を共にし、長く接しているからこそできる話もある。だけど、話が飛びぬけて面白い、とまでは言えない。会話の内容自体が優れているとは言えない。
それでも僕は、あえて、その内容・情報という面では非効率な家族とコミュニケーションを積極的に行っている。
家族だけに注目すると、会話をしなければ家族関係が壊れ、ひいては離婚につながる。子供をほったらかす訳にはいかない、なんていう他の話が入り込んできてしまいそうだ。だから、数少ない僕の友人のことを思い起こしてみるが、それでも、やはり同じだ。話の内容は、ネットの情報には及ばない。話の上手さだってテレビの芸人には及ばない。
会話の内容からコミュニケーションの喜びを得ている訳ではなさそうだ。

コミュニケーションの喜びとは、コミュニケーションを通じて、家族が自分を尊重し、優しくしてくれることを確認できるから生じるのかもしれない。例えば、妻が僕に愛している、と言ってくれれば、僕は安心し、嬉しいだろう。そう考えることはできないだろうか。
しかし、よく考えれば、その安心や嬉しさは、コミュニケーションに由来するものではない。僕が嬉しいのは妻が僕のことを愛していること自体であり、妻の愛しているという言葉ではない。僕は、コミュニケーションの手前にある妻の気持ちが嬉しいのだ。
それでも、愛していると言われなければ、僕は妻の気持ちに気付くことができない、とは言える。妻からの愛情の存在という、僕にとって好ましいことであっても、言葉がなければ僕は知ることができない。コミュニケーションがあるからこそ、喜びを感じることができる。ここから、家族とのコミュニケーションでは好ましい情報を提供されることが多いということこそが、家族とのコミュニケーションで喜びを感じるということなのだと考えることもできそうだ。
しかし、そうだとすると、お得で好ましい情報が多いから、テレビの通販番組とのコミュニケーションは喜びに満ちている、なんていう考えもできることになってしまう。コミュニケーションの喜びの源泉は会話の内容ではないか、という先ほどの話と違いがなくなってしまう。

いくら考えても、コミュニケーションから得られるものとは、家族や限られた人とだけ交わすことができる、良質なコミュニケーションそのもの以外には思いつかない。
暫定的な結論かもしれないが、良質なコミュニケーション、つまり負荷が軽いコミュニケーションこそがコミュニケーションの喜びの正体であり、僕が求めているものなのだ。としたい。
それが、なかなか得られないから、僕は人に近づきたくないと思っている。だから僕は友人が少ないのだ。

7 負荷の軽さの再確認
この、「負荷が軽い」ということについて、誤解の無いよう確認しておきたいが、負荷が軽いコミュニケーションとは、当たり障りのない話をすることとは違う。初対面の人とは、天気の話のような、当たり障りのない話をすることが多いが、これは決して負荷が軽くはない。うまくコミュニケーションをとるために、相手の出方を探りつつ、なんとか一致する部分を見出そうとするような試みが水面下で激しく展開されている。これは、僕には、かなり負荷がかかる作業だ。
だから、重大な家族の会話、例えば、子供の進路を決める家族会議のような場だからといって、負荷が重い訳ではない。確かに、このような重大な場の前は、しっかり話そうと思い気を引き締める。それを緊張と言ってもいいかもしれない。しかし、これは、コミュニケーションでミスをしないように、という、あの緊張感とは違う。いわば、もっとポジティブな緊張感だ。

8 発想の転換
どうすれば、負荷が軽いコミュニケーションができるようになるのだろう。どうすれば、うまくコミュニケーションがとれないことや、コミュニケーション上のささいなミスを心配せずに済むのだろう。

ここで、発想の転換ができるのではないか。
傷つかないようコミュニケーションを避けたり、コミュニケーションのなかでなんとか被害が最小限になるようやり過ごすのではなく、コミュニケーションをしても傷つかないような状況を準備すればよいのではないか。
うまくコミュニケーションをとれるか心配なら、うまくとろうとしなくても、うまくとれる場を作ればよい。
自分のペースを乱されるのが嫌なら、乱されない場を作ればよい。
うまくいくように前もって場を準備すればよい。それが居場所だ。

こうして、どうすれば負荷が軽いコミュニケーションができるのか、という問題は、僕が探している居場所とは何なのか、という問題と重ねることができた。居場所は探すものではなく、作るものだったのだ。

9 留意点
ここで、居場所を作るにあたっての留意点を確認しておきたい。
まず、僕は、一人で居るのが好きで、そのような時間を必要としていることは認めるべきだ。常に、コミュニケーションを求めている訳ではなく、常に人と繋がることができる居場所に居たい訳でもない。これは個人差であり、多分、どうしようもない。どんなに理想的な居場所でも、僕はそこに長居したくないときもあるに違いない。
また、僕は、この居場所に誰構わず招きたい訳ではない。まず、僕が望んでも相手がが望まないならば、無理に来てもらわなくてよいし、また、僕自身が招きたくない人というのも、確かに居る。
つまり、僕自身は居場所に入ったり、入らなかったり選択できるのでなければならない。また、僕以外の他者がその居場所に入るかどうかも、僕自身とその他者自身が選べるのでなければならない。

10 聖域・儀式・祈り
そのためには、まず、居場所は、それ以外の世界、つまり外界と分けられていなければならず、居場所に入るためには、僕自身も他者も何らかの障壁を乗り越える必要があるのでなければならない。
日常と連続的につながっていては、僕はその居場所に入ったり、出たり、という選択をすることができない。常に入りっぱなしになってしまう。誰かを招いたり、断ったりすることもできない。
だから、僕は、隔離された空間・時間を居場所として確保し、そこを良質なコミュニケーションができるような場として整え、準備する。
できれば、心地よい場としたほうがいいだろう。ロケーションやインテリアにこだわり、音や匂いにも配慮する。空気感というか、皮膚感覚も含めた五感で快適さを感じられれば最高だ。
ここで、僕は、おしゃれな古民家カフェのようなものをイメージしているけれど、見方を変えれば、宗教施設のようだとも言える。清々しい神社ともイメージが重なる。これは、僕にとっての聖域なのだ。

そして、聖域に入るためには儀式が必要となる。
儀式とは、聖域に入った後は聖域のルールに従うという態度表明である。
聖域のルールはただひとつ。その場でのコミュニケーションのみを尊重することだ。
僕のコミュニケーション上の失敗は、コミュニケーションの場にあるもの以外を気にしてしまい、目の前のコミュニケーションをおろそかにしてしまうことから生じていると思う。
僕は、現にその場で交わされている言葉や、態度や、眼差しといったものから気をそらし、僕が勝手に想像で作り上げた相手のイメージや、その相手から見えている自分のイメージといったものに気をとられてしまうことがある。だから、勝手に心配したり、変に繕ってしまったりする。これが失敗の原因だ。
僕は、僕の想像するあなたではなく、目の前のあなたが現に発している言葉や、態度や、眼差しをしっかりと受け止めなければならない。また、僕が想像する僕自身の見られ方ではなく、僕が発する言葉や、僕の内面といったものをしっかりと見つめなければなない。そして、僕とあなたとの間で交わされる対話そのものを深く感じ取らなければならない。それは、他のことに気を取られつつ、片手間でできるようなことではない。その場では、ただ、その場でのコミュニケーションだけを尊重しなければならない。
これが、僕の居場所、コミュニケーションの聖域でのルールだ。
これさえ守られれば、現に行われているコミュニケーションが、何か別の事情により阻害されることはない。僕は傷つくことはない。

その結果、聖域でのコミュニケーションは、ある特別なものとなる。
そこには、場に対しての真摯な思いがある。ただし、真剣、真面目、集中といった言葉とは違う。これらの言葉には静的なニュアンスがつきまとう。コミュニケーションとは、軽やかで動的なものだ。そこには集中だけでなく解放、真剣さと気楽さ、真面目さと脱線という両極がある。なぜなら、聖域におけるコミュニケーションは、コミュニケーション以外の何者にも束縛されない、いわば全てなのだから。だから、コミュニケーションは、集中と解放、真剣と気楽、真面目と脱線といった両極も含めた全てを織り込むことになる。聖域でのコミュニケーションにおいては、僕たちは、その全てに真摯に向き合うのだ。
この動性には、広がる水の波紋や水の波紋に例えられるようなリズムがある。両極を揺れ動くリズムがあるからこそ、コミュニケーションは全てを折り込み、包み込むことができる。
そして僕は、自由なコミュニケーションの場において、傷つくことの恐れから解き放たれ、自由を手に入れる。天に向け駆け上がり、深海に潜るような生命の喜びを手に入れる。
この不思議なプロセスは、まるで祈りのようだ。