哲学や対話についての文章(短編)」カテゴリーアーカイブ

永井・入不二・青山・谷口・僕

0 はじめに

永井均先生の古希記念の退官記念的なワークショップを視聴した。

(多分互いに影響を与え合う存在である)入不二基義、(千葉大学時代の教え子である)青山拓央、(日本大学時代の教え子である)谷口一平というメンバーであり、入不二ファンであり、青山さんの本も何冊か読んでいる僕としては楽しみしかなく、かなり早めに会社に休暇の申請をして心待ちにしていた。(谷口さんのことは知らなかったけれど、永井さんの繋がりでTwitterで拝見していたあの方か、と納得。)

視聴した感想としては、まずは、「やっぱり、土俵が重なっている人同士の話って面白いなあ!」というもの。一を伝えれば十を知ってもらえる安心感というのかな。こんな人々に囲まれて、自分の哲学の周囲でワイワイガヤガヤやってくれたら、永井先生も嬉しいだろうなあ。永井先生は、自分に対するコメントより、入不二・青山・谷口の3者での相互のコメントを聞きたい、と言っていたけれど、なんとなく気持ちがわかる。

とっても似ているけれど、実は結構違う4人、できれば、そこに僕や(少なくとも何割かの)聴衆も含めたなかで、何か化学反応が起きないはずはなく、それがとても面白かった。ここからは、その面白かった中身について書いていきたい。

だけど、このイベントは録画配信も予定されておらず、また、当然、録画や録音も禁止とのことだったので、その詳細を書くことはできない。がんばってメモはとったけれど、メモの内容を詳細にネット上に上げることは避けるべきだろう。だから、ここでは、このイベントで何があったかよりも、そこであったことに僕がどう感じ、考えたか、を中心に記録しておきたい。

1 永井の鑑識眼

このイベントでの僕にとっての盛り上がりのピークはふたつあった。

ひとつ目のピークは、永井が、応答の冒頭で、自分がもし優れていたとすれば、鑑賞者として優れていたに過ぎないという話をしていた箇所である。「独在性を有意味に問うことはできないのでは」という風間質問と、無内包の現実性という入不二提案の2つの最重要事項を取り逃がさなかったという点にだけ、永井の哲学には価値があったという話である。

これは、謙遜でもなんでもなく、そのとおりなのだろうと思う。実は僕は、永井のことをそのようには見てこなかった。永井は、幼い子供の頃から自ら設定してきた「私」という自分だけの問題についてだけ考え、それを表現するためだけに、風間くんであれ、入不二であれ、ウィトゲンシュタインであれ、ただ利用してきたのだと思っていた。それは半面では正しいのだけれど、実は永井にとっては、昨日までの自分のアイディアすらも、今日の思考においては単に利用されるものに過ぎない。自分のことも、風間くんのことも、入不二のことも、ただ鑑賞し、そこに含まれているものを丁寧に取り出そうとだけしているのが永井なのである。思い起こせば、確かに永井はそのように哲学をしているのだなあ、ということに気付かされる。僕はそれが見えていなかったのだなあ、と思った。

永井哲学の深まりは、気をつけないと見過ごしてしまう。同じことを繰り返しているように見えてしまう。永井の言葉だけを借用し、哲学の問題設定にもタテとヨコがあるとするならば、そう見えてしまうのは、永井はひたすら、問題をタテに更新し続けているからなのだろう。だが実は永井は、自分の問題設定にこだわりなどなく、風間くんや入不二といった他者の指摘を貪欲に取り入れ、問題を掘り下げ続けているだけなのだ。そして今、永井が取り組んでいるのは、(昔の永井の)私の問題ではなく(風間の)独在性と(入不二の)無内包の現実の問題なのである、ということなのだろう。そうだとすれば、永井が、自分の優れたところは、風間質問と入不二提案に驚くことができたという鑑識眼にこそある、と述べたのは、字義通り、そういうことなのだろう。

2 2つの大事なもの

もうひとつのピークは、永井が青山に対して、神秘的なものが〈私〉と意識という2つもあるのは多すぎるのでは、と指摘したところから始まった応答である。青山が、神秘的なものを一つにしたいという誘惑に簡単に負けてはいけない、と応じると、永井は、自分にも神秘的なものが2つあると認める。青山の〈私〉&意識に対して、永井の2つの神秘とは〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)である。更に、入不二は、自分ならば、現実性&潜在性であると応じる。(そのときに谷口は発言していなかったと思うが、きっと谷口ならば、〈〉と〈〉を埋める実質の2つである、と言うのだろう。)

このやり取りを通じて、僕の中では4人の違いがかなり明瞭になってきたように思う。

後述するように、僕は谷口に狂言回しの役割を担わせたいので、永井・入不二・青山という3人に注目すると、この場は、3つのベクトルに引き裂かれているように感じた。図にすると次のようになる。

まず、この場では、(その内実はともあれ)入不二の無内包の現実の問題が重要であるということは共有されているので、「無内包の現実」を始発点に置くことに異論はないだろう。青山はそこから意識を重視し、偶然的で常識的なこの世界を描写することを目指す。永井は言語(カテゴリー)を重視し、独在論的な構造でどこまで説明できるかに挑んでいる。

なお、この二者の関係で気をつけなければならないのは、青山は、言語(カテゴリー)も重視しているという点にある。つまり、青山は正確には、無内包の現実・言語・意識という3つの武器を装備しているということである。

一方で、永井は、無内包の現実と言語(カテゴリー)は一体化していると考えている。永井にとっては、言語により、今の私というかたちでカテゴリー化された現実こそが無内包の現実なのである。(入不二との応答でこの点を確認できたことも収穫であった。)だから、永井が重視している〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)とは不可分であり、癒着した一つのものであるはずである。だからこそ、青山が重視しているものは、〈私〉+ロゴス(言語・カテゴリー)&意識というように2つと数えることができる。

それに対する入不二の立場は少々特殊であり注意が必要だ。なぜなら、入不二は現実性と潜在性という2つを重視していると述べたが、そこでの現実性とは、僕の図で丸で囲むかたちで示した「無内包の現実」ではないからだ。では、どこに「現実性」があるのかといえば、入不二ならばきっと、「この図に書くことはできない。強いて言えば、潜在性のベクトルの先「入不二(現実性)」と書いたところにこそある。」と述べるのだろう。つまり、青山と永井が重視する2つとは、真ん中の丸とそこから出る矢印の2つだが、入不二が重視する2つとは、この図では、矢印と矢印の先の四角という2つとなり、その位置づける場所がずれているのだ。

このような重なりとズレを伴いながら、4人の話は深まっていった。これはとてもスリリングだけど、どこか温かみがある、とてもいい場だった。

3 谷口の立場

僕はさきほど、谷口を狂言回しの役割を担ってもらうと述べた。だが狂言回しというのは不適切かもしれない。谷口は単なる狂言回しではなく、いくつかの役割を担っていたはずだからだ。

まず、実はかなり重要なことだと思うけれど、谷口は、この場を動かす燃料となってくれたように思う。入不二や青山は、その時間配分に応じた適度な発表を行ったけれど、谷口の発表は明らかに過剰だった。だけど、過剰な内容だったからこそ、そこには皆を触発する何かがあり、例えば、冒頭で紹介した、風間くん問題に対する永井のコメントなども引き出すことができた。

そして、その過剰な熱さは、それ自体でとても興味深いものだった。そこには、永井に導かれるようにして哲学の沼にはまり込んでいった一人の哲学者の姿があったし、その哲学者の発言にはいちいち共感できたからだ。

僕は谷口の話のなかで、クオリア問題を否定してみたら、クオリアが感じられなくなった、という話が気に入った。言われてみれば、生きることが哲学に影響を与えるだけでなく、哲学が生きることに影響を与えるということは確かにある。哲学の違いとは生き方の違いではあるだろうが、加えて、生き方の違いとは哲学の違いでもあるのは確かだろう。人は、ある程度は、考えたように生きていくのだろう。

先ほど図にした三人の違いとは、実はそのような違いなのかもしれない。僕は入不二派だから、どうして永井や青山は現実性をそのように捉えるのだろう、なんて疑問に思ってしまうけれど、谷口が言っていたように、考えが異なれば、見える景色自体が違うのかもしれない。

4 谷口の立場2

そして、谷口の話は、当然ながら、その哲学的な内容としても興味深いものだった。僕なりの理解では、谷口は、入不二と永井がどこで袂を分かつのかを見届けようとしたのだろう。クオリアや物自体や時間といったものを入不二と永井の中間にあるものとして捉え、それらを引き裂くようして、入不二の道筋と永井の道筋は別れていくと考えたのだ。

そこでのキーワードは世界寄与性である。何らかのかたちで世界に寄与しているならば、そこにある寄与成分は言語で世界の側から捉えることができる。しかし世界に寄与していないものについては、そこに何か内包があったとしても、それを捉えることができない。つまり、内包の有無と世界寄与性の有無にはずれがありえ、世界寄与性がなくても内包がある、という場合がありうると谷口は考えた。「無寄与的な内容成分」というものがありうる、ということである。谷口によれば、これが入不二のマイナス内包であり、認めるのが入不二であり、認めないのが永井である、ということになる。

そして、谷口は、そのマイナス内包とは、実は時間におけるA変容であると考えた。語りえぬものしかか語ることできないA変容言語によってだけ捉えることができるA変容である。これこそが、時間の最奥部にあるものだと言ってもよい。つまり、谷口によれば、時間こそがマイナス内包、現在の入不二用語で呼ぶならば、潜在する無限内包である、ということになる。

谷口の入不二に対する発言によれば、谷口は、入不二の潜在するマイナス内包に比べ、自分のA変容は顕在しているという点に大きな違いを見出している。入不二はどこまでも現実性は潜在するものだと考えているけれど、このようなかたちで、それを炙り出し、顕にすることもできるのではないか、というのが谷口の主張である。

5 退隠する入不二

僕はここにこそ、入不二と残る3人の立場の違いがあると感じる。

谷口に限らず、永井も青山も、無内包の現実性とは、何か議論の基底にある静的なものであるかのように捉えている。本当にそのように考えているかどうかはわからないけれど、少なくとも、そのようなものとして位置づけようとしているように僕には思える。

一方で入不二は異なる。当日の議論のなかで入不二は言っていたけれど、入不二は、自らの現実論を、永井の独在性のような議論が問えなくなる方向に進めようとしている。つまり、入不二の現実とは、永井の独在性の議論から、どこまでも退隠しようとするものである。入不二のマイナス内包(潜在性)とは、静的に議論の基盤として位置づけられるようなものでなく、動的にどこまでも把握から逃れようとするものなのである。

だから、谷口が行ったように、入不二のマイナス内包(潜在性)を、自らの独在性の議論の枠組みに取り入れ、位置づけることは、必ず失敗しなければならない。なぜなら、それが現実性だからである。

なお、入不二の無内包の現実性は、まずは潜在性として議論されるが、やがて、議論の中心は力としての現実性へと移っていく。それは、退隠する潜在性としての無内包の現実性から、退隠からも解き放たれた無関係の力としての無内包の現実性へと議論は進んでいく、と言い換えてもいいはずだ。

だが、(今回のイベントが永井のイベントだから当然だとは言え)これこそが入不二哲学の肝であるにも関わらず、永井、青山、谷口の誰もが、遍在的な力としての現実性については注目しなかった。この無関心さこそが、「無内包の現実性」とは、永井の独在性の議論と、入不二の現実性の議論の接触点であることを示しているのだろう。入不二はそこから、永井の独在性から距離をとるようにして現実性の議論を深めていき、永井(や青山)はそこを基盤として、独在性の議論に進んでいく。だから、入不二の議論の深まりの方には無頓着とならざるを得ない。(まあ、時間の都合で触れなかっただけかもしれないけれど、とにかく優先順位は低くならざるを得ない。)

6 青山の真摯さ

ここまで、入不二vs永井・青山という図式で考察してきたけれど、もうひとつの対立軸を、青山vs永井・入不二というかたちで描くこともできるように思う。(谷口はトリックスターなのであえて位置づけていない。)

青山は、自らが重視する意識を不純物として描写する。確かに、入不二の現実性や永井のロゴス的な独在性は真実のある側面を描写してはいるけれど、それだけでは足りないのではないか、そこには何か不純物が必要ではないか、という問題意識である。そして、その必要となる不純物とは、なぜかこの世界にあるこの身体と重なり合わせることができる意識なのではないか、という提案を行う。

この日のイベントでは明示的な発言はなかったけれど、きっと、ここでまず問われるべきは、「その必要となる不純物とは意識なのか。」ではなく「なんのために、意識という不純物を必要とするのか。」であろう。

僕の想像では、青山の答えは、「この当たり前の世界を説明できるようにするため。」というものになるのではないか。

そして、これも僕の想像だけど、永井も入不二も、その目的に賛同しないのではないか。きっと、彼らは、そんなことよりももっと別のことに興味があると考えていそうだし、なんで、そっちに興味があるのかと聞かれたら、そっちのほうが面白いから、とだけ答えるのではないだろうか。永井と入不二には、共通して、そんな社会不適合者感が漂っている。

それに比べて、青山は、もっと世の中に真摯に向き合っているように思う。もしかしたら青山も同じ穴の狢で、たまたま彼の興味がそういうものだった、というだけの話かもしれないけれど。

とにかく僕は、議論の隙間を見つけ、それを不純物で埋めていくという青山の姿勢は、とても真摯なものだと感じるのだ。

そんなことを考えていて、僕はどっちのタイプなのだろうなあ、とふと思った。青山にとっての永井のような人が僕にもいたら、僕も青山のようになれるのかもしれないなあ、それはとても幸せなことだろうなあ、と、なんとなく羨ましく思った。

7 一方向性

ここまで、あまり発表の詳細には触れないようにしていたけれど、僕は入不二ファンなので、入不二の発表にあった断裂と循環の議論については触れておきたい。永井の風間くん問題に見いだされる一方向性には、断裂と循環があるという指摘である。(入不二は、自分の発表のパートだけは動画で残すと言っていたので、これからでも観ることができると思う。)

入不二の診断によれば、永井の「私」としてカテゴリー化された無内包の現実性には、〈私〉から《私》という一方向の推移を達成する力はない。なぜなら、〈私〉には、それぞれの〈私〉としての《私》を能動的に構成する力はなく、〈私〉と《私》の間には断裂があるからである。

また、仮に〈私〉から《私》への一方向の推移が成し遂げられてしまったら、〈私〉も《私》も同列に位置づけられてしまい、それは一方向ではなく循環になってしまうからである。

風間くん問題について、一方向性として描写することには、いずれにせよ無理があるのだ。

だが、入不二は、一方向性の議論におけるこのような障害は、一方向性の議論の誤りを示しているのではなく、それが語りうる正しさのぎりぎりの際に到達していることの証左であると考えているだろう。一方向性の議論は、断裂と循環があるからこそ正しいのである。

なぜそう言えるかと言えば、入不二の現実性の議論も、同様の問題を抱えているからだ。入不二が『現実性の問題』で提示した(僕が好きな)円環モデルによれば、入不二の円環モデルの12時のところには、絶対に超えられないけれど、そこを超えてしまったらなかったことにされてしまうギャップがある。入不二自身はそうは言っていなかったけれど、ここにあるのも断裂と循環である。永井の断裂と循環と、入不二の断裂と循環が全く同じものかどうかはわからないけれど、かなり近いものであることは確かだと思う。

そして、ここにこそ、谷口のA変容というアイディアが活きてくるように思う。(非公開の文書を引用するのはよくないかもしれないけれど、一部なので許してください。)谷口のテキストに「概念は、時間によって、そしてただ時間によってのみ、受肉する。」という記載があった。主語を概念としていいかどうかはわからないけれど、超えられるはずのない断裂(ギャップ)を飛び越え、それをなかったものにして循環させてしまうのは受肉する時間である、ということは、かなり言えそうな予感がある。

ただし、そこでのA変容とは「コンロの上で熱湯がぽこぽこしている」のような内包があるものとすることはミスリーディングだと思う。まさしく、ギャップを飛び越えてしまう不思議としてだけ、時間を捉えるべきであるように思える。

8 行われなかった応答

という訳で、結局、この文章が最も伝えたかったことは、このイベントはとても面白くて、刺激的で、色々考えさせられた、ということなのだけど、もうちょっと、このあたりも聞きたかったなあ、という思いも実は少し残っている。

ひとつは、永井先生が入不二先生への応答で、「入不二の議論では、なぜ私が特異点になるかを示せていない。」というものがあったが、入不二先生から、この指摘に対する応答が聞いてみたかった。

もうひとつは、その逆の質問になるのだけど、「なぜ永井は私や今といったカテゴリーを現実性と結びつけ、そこを議論の始発点とするのか。」という疑問が僕のなかにはあり、こちらは永井先生から答えが聞きたかった。

だけど、実は答えは予想できていて、「そう考えるのが面白いから。」とか「そうとしか考えることができないから。」というものになるのだろう。谷口のクオリア否定のエピソードを踏まえるならば、そのように問い、考えることしかできないということこそが、その哲学者の生き方ということなのだろう。(そういえば、永井先生はイベントの中で「根拠はないけれど、そっちのほうがうまく説明できそうな気がするから、くらいの軽さで哲学的な立場は選んでいいと教わった。」というような話をしていた。)

そういう哲学が、平日にも関わらず、何百人に視聴され、こんなに人気を集めるなんて、なんて楽しい世界なんだろう。という感想でした。

上手なセックスと上手な対話

※3800字くらいです。あとタイトルのとおりセックスの話なので注意を。

こういう書き出しをすることにはちょっと躊躇したのだけど、僕はあまりセックスが上手ではない。

手先が不器用なせいだと考えていたけれど、どうもそればかりではないということに最近気づいた。いや、薄々気づいていたことが、より明瞭になったと言ったほうが正確だろう。

こういう話題なので、あまり具体的にならないようするけれど、僕はどのように相手に触れればいいのかがよくわかっていないのだ。わかっていないから、ただ相手が気持ちよさそうな反応をすればいい、なるべく強い反応があればなおよい、そんなざっくりした指針に基づいて行動してしまっていた。

では、具体的にはどのように行動すればいいのか、ということになるが、世にはセックス教則本とでも言うべきものがたくさんあって、その答えをていねいに教えてくれている。(僕は、セックス教則本の作者であるアダム徳永についての文章を書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2020/06/21/adam/)

だが、残念ながら、彼らの答えは彼の経験から導かれた、過去の彼らにとっての答えであり、僕の答えではないし、更には、これからの未来の僕にとっての答えではない。他者の過去の経験に基づく知見は参考にはなるが、それを自分自身のこれからの未来に直接導入するべきではない。

では、どうすればいいのかといえば、セックス伝道師のような他者ではなく、当事者、つまり相手と僕自身に聞くしかないのだろう。僕は、相手が望むこと、そして僕自身が望むことを丁寧に把握し、両者を調和させ、そこから導かれた道筋を実現すべく行動するしかない。これは結構難しいことだけど、幸いにもセックスでは五感をフル稼働させることができる。通常のコミュニケーションの場であれば、「気持ちいい?」などと言葉で相手の気持ちを確認し、「こうしたい」などと言葉で自分の気持ちを伝えることしかできないけれど、セックスの場では、触覚や息遣いといった様々な感覚を用いることができる。持てる感覚を最大限に活性化させることで、相手と深い交流をすることができる。これはセックスならではの醍醐味だろう。

そのような交流を、セックスにおける対話と呼ぶこともできるだろう。

上手なセックスとは、五感をフル稼働させた対話的なセックスのことであり、僕は独りよがりで対話的でないからセックスが下手だということなのだ。

そして、対話的なセックスとは、それが終わった後の視点から振り返ってみれば、美しい物語のように見えるだろう。物語とは対話の軌跡であり、丁寧に調和した対話により紡がれた物語は美しいに違いないのだから。僕が目指すべきは、対話し物語を紡ぐようなセックスなのである。

だから、物語を書く際に美しい古典文学に触れたことが役に立つ程度には、セックス教則本に載っている先人の美しいセックスを勉強しておくことはセックスにおいて役立つだろう。だけど古典文学の盗作が決して美しい物語にはならないように、セックス教則本どおりのセックスは決してよいセックスにはならない。

セックスとは、二人で対話しつつ、一つの物語を紡ぐようなものだという比喩は、僕に二つのことの重要性に気づかせてくれる。

ひとつは、時間経過の重要性である。セックスには、一直線に頂点を目指すような短編小説のような良さがあるし、丁寧に細部を掘り下げていくような長編小説の良さもある。臨機応変に二人ならではの物語をつくっていけばいい。簡単に言えば、飽きない程度に急がず対話していけばいい、ということになる。

もうひとつ重要なのは、波のような緊張と弛緩である。二人にとってのちょうどいい接触の具合を探っていくためには、接触の度合いを高めたり、弱めたりして、ちょうどいいところを探っていくしかない。そのちょうどいい地点こそが、二人の結節点であり、その結節点の軌跡こそが二者間での対話から生まれる一つの物語である。だから、僕とパートナーがショートショートの名手でもない限り、セックスにおいては、波のような緊張と弛緩を入れ込み、ちょうどいいところを探りやすいように中長編の物語を書いたほうがいい、ということになるだろう。

・・・

長い導入部となってしまったが、実は、僕が書きたかったのは、この緊張と弛緩の話であり、そのなかで見いだされる結節点の話である。

そろそろセックスの話から離れ、もう少し広く行われているコミュニケーション、つまり言葉による対話の話に戻ることにしたい。

セックスであれば、緊張と弛緩は愛撫の強さなどで生み出されるが、言葉による対話の場であれば、それは言葉の量によって生まれると考えていいだろう。たくさんの言葉を一方的にまくしたてるような場面は緊張した場面であり、わずかな数の言葉しか発せられないような場面は弛緩した場面である。

緊張した対話の代表例は演説の場面だろう。登壇者には聴衆に伝達したいことが明確にあり、そのことについて一方的に何分間も言葉を連ね続ける。その間、聴衆は言葉を発さず、それをただ聞くだけである。

一方の弛緩した対話においては、発話者に伝達したい言葉は明確にはない。例えば、お通夜の場面では、出席者は、滔々と悲しい気持ちや相手を思いやる気持ちを説明するなんてことはせず、ただ一言、「お悔やみ申し上げます。」というような言葉を発するだけである。それもできるだけ不器用なかたちで。なぜそうするのかといえば、そこにあるのは言葉にはできない感情であり、こんなときには言葉は無力だと気づいているからである。弛緩した対話とは、このような場面を思い浮かべてほしい。

考えてみれば、対話とは、演説のように言葉が重視される方向と、お通夜のように言葉が重視されない方向という、二つの方向の間で揺れ動くもののように思う。

喧嘩をしていて自分の正当性を相手にわからせようとするとき、僕は言葉に言葉を足して、まくしたてるようにしてこちらの事情や考え方を理解させようとする。だけど、そのような説明によっても理解が得られなければ、僕は無言となり、言葉を発しないことにより、僕の中にある怒りや悲しみといった感情を、その相手に伝えようとする。演説においても、あえて沈黙の時間をつくり、そこで言葉の裏にある感情を伝えるという技法もある。

そしてまた、言葉にならない感情を、あえて言葉にしていくことにより、その感情が癒やされていくというようなことも起こる。長年言葉にしてこなかった戦争の苦い思い出を、年老いてからあえて語るような場面である。これが、はたして言葉により感情を癒やすのか、時間経過により感情が癒やされたから言葉にできるのかは別として、言葉が前景に出てくるのに呼応するようにして、感情は背景に退く。

このように、対話には、感情から言葉に向かうベクトルと、言葉から感情に向かうベクトルという、二つのベクトルがある。僕はこれを緊張と弛緩と表現したが、それはあくまで言葉の側からの捉え方であり、感情の側からしたら、演説のような場は感情の弛緩であり、お通夜のような場こそが感情の緊張であるということになるのだろう。

だから、対話においては、そこで発せられる言葉の内容だけでなく、それ以上に、現在、言葉が加算される方向にあるのか、それとも言葉が減算される方向にあるのかに注意を払うことが重要だ。言葉が加算されている限りは、そこでは言葉が重要な役割を果たしていることになるので、その言葉の内容に注意を払っていればいい。だけど、言葉が減算されているときは、そこで発せられている言葉ではなく、そこで発せられなかった言葉にこそ注意を払う必要がある。そこには、言葉にしない、というかたちで逆説的に表現された感情があるはずだからだ。

そこのようにして、僕と相手とのコミュニケーションにおいて、ちょうどいい言葉と感情のバランスを調整することにより、僕たちにとっての適切な結節点を見出すことができる。二人の間に一つの結節点を見出すという意味で、文字通り僕たち二人は、二つが一つになる。そして、その結節点を丁寧に維持し、その結節点の軌跡を描くことで、僕たち二人は一つの物語を描くことができる。

いや、理想的な結節点を見出し、それを維持するなどというのは幻想だろう。どうしてもコミュニケーションにおいては想定外のズレが生じる。適切な結節点の維持などというのは、あくまで彼方の理想であり、その理想を目指して対話を継続していくことこそが対話のそもそものあり方だと考えたほうがいいだろう。なかなか完璧に成功するものではないからこそ、対話は面白い。

・・・

一応、最後にセックスの話に戻ると、明らかに、対話とセックスは並行関係にある。ただし、通常の対話に比べてセックスにおいて描かれる物語は、結局、二人の間の恋愛の物語であるという点で、その内容としての多様性には乏しいと言えるだろう。一方で、通常の対話においては、言葉や、せいぜい表情や身振りといったものしか用いられない一方で、セックスは、触覚や息遣いといった様々なものが用いられるという点で、手段が豊かである。つまり、通常の対話とセックスはかなりよく似ているが、対話に比べてセックスは、その目指す目的は狭いが、手段は幅広いという違いがあるという関係にある。つまり対話とセックスは相補的な関係にあるということである。だから僕は、セックスをするように対話をしていきたいし、対話をするようにセックスをしていきたいなあ、と思う。

言葉と感情

※2400字くらいです

最近、僕のツイッター上は、老犬が亡くなったという書き込みばかり流れてくるようになった。なにかのきっかけで「いいね」をしたら、その履歴に応じて似たような書き込みばかりながれてくるようになったのだ。

僕はそんな書き込みになるべく「いいね」をしている。長年飼っていたペットを失うというのは大変なできごとだから、せめて「いいね」数が何かのプラスになればいいと思っている。

ただ、そうするのには、もうひとつ別の理由もある。僕はその書き込みが好きなのだろう。そこには、ペットを見守る飼い主と、健気に生きて死んでいくペットという、極めてわかりやすい一つの情景が切り取られているのだ。

ツイッターには色々と興味深い書き込みがなされる。不思議な話や面白い漫画や美しい絵もある。ツイッターは思いもよらなかった新しい表現にあふれている。だけど、老犬が亡くなるという書き込みには、別に新しい表現などないし、読者を惹き付けるような工夫もない。たいてい、その犬の写真が貼られていて、犬に対する感謝や、見守ってくれたフォロワーへの感謝や、寂しい気持ちなどが書かれている。ただそれだけだ。

そのような何の変哲もないような書き込みに僕は惹きつけられる。そして「いいね」をすることで、その関係者になれたような気がして、少しうれしくなる。

これは共感の話だろう。僕は、犬が死ぬという出来事に感情を揺り動かされ、死んでいく犬やそれを見守る飼い主に共感している。僕はこの共感の場に惹きつけられている。

この共感とは、僕にとって重要用語だ。僕は共感と言葉による伝達を対立的に捉えている。

言葉と共感は水と油だ。例えば「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という発言に対しては「大変だね。」なんていう、あたりまえで、実質的な意味がほとんどない返事がなされる。この「大変だね。」は、言葉としてはかなり貧弱であり、ただ共感しているという事実を表現しているに過ぎない。その証拠に、「大変だね。」という言葉を発さなくても、ただ理解し苦しんでいるような表情をすれば済むし、「大変だね。」という言葉を発しても、ニコニコと笑っていたら不適切な反応となる。また、「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という言葉に対して、残業せずに効率よく働く工夫を提案したり、残業を生み出す社会構造について説明することは、残業で大変な状況に共感するうえでは邪魔にしかならない。必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉であり、目をみつめて黙ってうなずくことである。

また別の例では、人が痛そうにしているのが伝わるのは、うずくまって苦しそうにしている姿に共感するからである。いかにひどい怪我かを言葉で流暢に説明すればするほど、その人は痛そうではなくなる。

以上のような意味で、共感と言葉は水と油のように対立している。

世間は共感のほうが優勢だ。皆、場の空気を読んで共感し、言うべきでないことを言わなかったり、言うべきでないことを言った人を批判したりする。「残業続きなんだ。」という言葉に対して、いきなり残業を生み出す社会構造について説明し始めてしまったら、きっと煙たがられるだろう。

一方で僕は共感よりも言葉による伝達のほうが重要だと思っている。当然、「残業続きなんだ。」という言葉に対して「大変だね。」という言葉は必要だし、その言葉に沿った適切な表情をすることも重要だろう。だけど、それで終わってしまったら、その残業続きの状況は解決されない。本当になすべきことは、では、その残業続きの状況を改善するにはどうすればいいのかをともに考えることなのではないだろうか。

それが言葉の力である。僕は言葉の力をもっと引き出したいと願っている。当然、言葉には限界があるけれど、「言葉には限界がある。」と言えるほど、人は言葉の力を引き出していないように思う。言葉が共感なんかに負けてたまるか、と僕は思っている。

だが、ふと、それはかなり難しいことなのかもしれない、と気付いた。考えてみれば、感情は言葉とかなり相性が悪い。感情を伝えるときに余計な言葉は不要だ。感情は共感でしか伝えることはできない。「悲しい」という感情を伝えるのは、「悲しい。」という言葉や「誰もいない教会でパトラッシュと一緒に凍え死にました。」という言葉ではなくて、その人の悲しそうな雰囲気であり、フランダースの犬の物語に没入したような共感と呼ばれる感覚である。

このことを「感情は言葉の減算によって伝達される。」と表現できるかもしれない。言葉は、大抵のものごとを伝達することができる。だけど、感情だけは、言葉はうまく伝えることができない。言葉で伝えようとすればするほど、感情は言葉から逃れていく。だから感情を伝達するためには、言葉を抑制的に用いることが重要だ。同情する感情を伝えるために必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉である。そして言葉を削ぎ落としたところでこそ働くものが共感である。

僕が世間の人とずれているのは、世間の人が言葉の力をみくびっているからではなく、僕が、感情というものを理解していないからなのかもしれない。僕以外の人は言葉に大きな力があることは重々承知しており、そのうえで、言葉には、感情をうまく捉えられないという限界があることも知っているのかもしれない。僕だけが、感情を理解していないが故に、その限界に気づかず、言葉の力を盲信していただけなのかもしれない。

そんなふうに少し落ち込んだけれど、ツイッターで老犬の書き込みを見て思い出した。僕には、言葉によらずとも、このような書き込みに共感する力がある。ちょっとずれているけれど、僕は僕なりに共感し、他者の感情を理解できている。僕は、僕なりに手持ちの駒でなんとかやっていくしかないのだろう。きっと、みんな、そうするしかないのだろう。

X-A=B

※1600字くらいです。

僕が高校生の頃から抱えている疑問を、あえて今の僕の言葉で表すならば「この言語で捉えられる前の、何か(近似的な表現としては「これ」「世界」)とは何なのか。」というようなものになるだろう。

そして、この疑問を少しでも探求しやすく加工するならば次のようになるだろう。

「この言語で捉えられる前の何かをあえて言語で捉えるならば、どのように捉えることができるのか。また、この捕捉の過程において何が失われることになるのか。そして、捕捉したものに失われたものを付け加えるようにして復元したならば、何が復元されるのか。」

僕が最近考えていることは、こういうことばかりのような気がする。表向きは毛色が違っていても、どこかでこういう話につながっている。

このような構造で思考をしてしまうのは明らかに入不二基義の『現実性の問題』のせいだと思う。

僕が捉えたい何かを近似的に表現するならば、「これ」や「世界」となるだろう。わかりやすいが誤解を招く言い方をするならば、僕はこの眼前に広がる「この世界」に驚いている。そして「この世界」は一体何なのだろう、という疑問を抱えている。

だけど、このような表現には、残念ながら様々な誤りが含まれている。まず、僕が驚く世界とは、僕の視界に捉えられる限りの世界ではない。視界に捉えることができない世界も含む。また、実際に現前している世界に限るものでもない。かつて存在した世界やいつか存在するだろう世界や存在するかもしれない可能性としての世界も含む。そして、物理学的な宇宙というような描写ができるものに限るものでもない。想像上の物語や人の心といった、そもそも世界という言葉がそぐわないようなものさえも含む。また、僕が指し示したいものは、時空的把握という人間が偶然的に持っている性質によって制限されるものではない。そのような意味でも、世界という言葉はそぐわない。他にも様々なかたちで表現の限界を指摘することができるだろう。

だから、「この世界」「これ」「世界」といった言葉は誤解を招く。「これ」と指差しできないものも含むのに「これ」はおかしいし、「世界」と呼べないようなものも含むのに「世界」もおかしい。そうかと言って、もっといい言葉も見つからない。だから、僕はどうしたものかと試行錯誤している。

だけど入不二は、その何かについて「潜在性」という、(今のところ)最も適切な描写を与えてくれた。あえて、この言語で捉えられる前の何かを言語で捉えるならば、それは入不二の「潜在性」なのである。そう考えると、僕は少し居心地がよくなる。

だが、この捕捉の過程においても失われるものはあるはずだ。なぜなら、どんなにうまい言葉を入不二が発明したとしても、そこには何らかの制限が加わっているはずだからだ。では、何が失われることになるのか。

入不二はこの問題にも答えを出してくれている。それは「現実性の力」である。そして、入不二によれば、あえて「潜在性」として言語で捉えられる前の、言語以前の何かとは「現実」である。なぜなら、言語以前の何かは、あえて「潜在性」として言語で捉えることができるが、この捕捉の過程において失われた「現実性の力」を付け加えるようにして、「現実」を復元することもできるからである。

僕は、これは、なかなかいい線をいっている議論だと思う。少なくとも、僕がやるべきだと思っていることに、最も肉薄した議論であり、少なくともこれ以上の議論は今のところ思いつかないほどの議論である。

だけど、僕にとっての入不二の議論の最大の意義は、この議論を通じて、僕がやるべきことを明確に指し示してくれたというところにこそあると思う。

入不二は、次のような式でXに迫ることができることを示してくれた。

X-A(現実性の力)=B(潜在性)

X=B(潜在性)+A(現実性の力)

X=C(現実)

僕は僕なりにA、B、Cを探し求め、入不二とは違うやり方で、僕の問題に更に肉薄していきたい。

AIによる破壊

※約1700字あります。

僕は逆張り的なところがある。株価が下がると株を買いたくなるし、旅の途中で皆が行かない細い路地があると、そっちに行ってみたくなる。僕は臆病でもあるから、あまり大胆なことはできないけれど・・・ 僕は心のどこかで、この世界を作り変えたいと願っている。いや、正確には、僕はこの世界を破壊したいと願っているのかもしれない。

破壊することは楽しい。というか、既存の筋道を辿ることによる凡庸な退屈から逃れる唯一の道は破壊だろう。僕がこの窒息するような世界から逃れるためには既存のものを破壊するしかない。

僕はヒンズー教のシヴァ神が好きで、30年以上前にインドで買ったポスターを今も部屋に貼っている。シヴァ神は破壊の神で、維持の神であるヴィシュヌと並ぶビッグネームな神様だ。シヴァ神のことが好きなのはそういうことだと思う。

だけど、そのような切実な願いがある一方で、僕は、この安定した世界という冬の布団にいつまでもくるまっていたいという気持ちも強い。安定した仕事と固定化した人間関係のなかで心穏やかに過ごしたいという願いは、より切実だ。ここには僕が持つ性質の凡庸さという問題がある。

ただ、より深い問題は、もし僕が安定への執着を捨て去り、破壊の天才になれたとしても、完全な破壊を遂行することはできないという点にあるだろう。破壊したからには何らかの新しい秩序が創造されざるを得ない。たとえ原子爆弾で街を破壊したとしても、そこには苦しむ人々が逃げ惑う焼け野原という新たな世界秩序が創造されるだけである。もし地球を消滅させたとしても、そこには惑星が存在しない宇宙空間という多少異なる状況が出現するだけである。もし僕が、その破壊にコミットし、破壊後の新たな秩序のなかに組み込まれてしまったならば、結局僕は、既に存在する世界に囚われた凡庸な人生を再開することになる。(その人生を生きるのは、きっと、より困難なものになる。)

だから、僕が願う破壊とは、僕自身の破壊でもなければならないだろう。というか、僕は世界よりも何よりもまず先に僕自身を破壊しなければならないはずだ。

だが、僕は、僕自身を破壊しても、僕自身の破壊の先にも残る世界というものを想定することができる。つまり世界の想定というかたちで僕のコミットメントは残存する。だから僕の破壊を完遂するためには、この僕自身だけでなく、やはり世界を破壊しなければならない。想定される世界すらも破壊しつくさなければならない。

そのためには破壊を他者に委ねる必要があるだろう。僕自身を破壊し、そして世界を破壊してくれるような強力な他者である。僕はそのようなものとしてAIを考えている。

だが、論理的には、きっと、AIであっても破壊を完遂することはできない。破壊は継続されざるを得ない。想定しうる最も徹底された破壊とは、破壊に次ぐ破壊というかたちで、構造化され、常態化されたものである。そのような破壊とは、原子爆弾のようないわゆる破壊とは全く異なるものであり、あえて言葉を与えるならば、創造だとさえ言えるだろう。常態化された破壊の構造の創造である。破壊とはつまり創造なのである。

逆に言うならば、真の創造とは、破壊され尽くして新たなものなど生まれないかもしれない、というぎりぎりの地点にこそあるとさえ言えるだろう。何が新たに創造されるかを予想していては、新たなものを創造することなどできない。真の創造とは破壊の痕跡であり、創造とはつまり破壊なのである。

以上の創造と破壊を同一視する観点から、僕は知性に着目している。知性は新たなものを生み出すが、そのためには既存のものを置き換える必要がある。つまり知性とは新たなものの創造であり、既存のものの破壊でもある。創造と破壊と知性は結びつく。

そのような意味で、僕は僕を超えるAIの知性に真の破壊の希望を託す。それはつまり、僕を超える知性に真の創造を託すこととほぼ同義である。

(僕は、そのようなAIには少なくとも、新たな視点に気づくことができる機能、タウマゼインを感じることができる機能が実装されるべきだと思っている。ただし、それだけでは足りないという点が問題である。)

やりたいこととやるべきことの重なり

※1200字くらいです。

どこかに書いたかもしれないけど、書いてないかもしれないのでメモ。

「やりたい」ことばかりをして生きていくほうがいいけれど、「やるべき」ことをやらなければ生きてはいけない。「やりたい」と「やるべき」には、このような問題がある。

僕はこの大問題に答えは出せないけれど、とりあえず応急措置的な対処をするならば、「やりたいことのために、やるべきことをやる」という心構えがいいのかもしれない。スキーに行くために早起きをするときのような心構えである。

僕は寒い朝、いや、まだ朝には早い深夜、目覚まし時計に起こされる。ちょっと腹が立ちながらアラームを止める。そこで友達とスキーに行く約束をしたことを思い出す。なんでそんな約束をしたのだろう、布団から出たくないなあ、なんて思う。だけど数分の葛藤の後、僕は渋々、布団を抜け出す。その後、震えながら服を着替え、スキー板を車に積んだ頃には、わくわくする気持ちになっている。

ちょっと例が古くて共感が得られなければ、海外旅行やディズニーランドに行く朝のほうがいいかもしれない。とにかく、面倒な準備作業と、その後に待っている楽しいこと、という対比を思い浮かべてもらえればいい。準備作業は「やるべき」ことであり、その後の楽しいことは「やりたい」ことである。

寒い朝、スキーに行くために布団を出るように、「やるべき」と「やりたい」をセットにすれば、「やるべき」も「やりたい」ことの一環になる。

僕はなるべく「やりたい」ことをやって生きていけるよう人生を設計している。それでも人生では、やりたいことのために、やるべきことをやらねばならないときもある。スキーに行くために布団を出なければならないし、海外旅行に行くお金を稼ぐために働かなければならない。だけど、そのような「やるべき」ことも実は「やりたい」ことの一環だと考えることはできる。そう考えると、実は、僕がやっていることは「やりたい」ことばかりだとさえ言える。寒い朝に布団を出るときも、会社に通勤するときも、僕がやっていることは、実は常に「やりたい」ことである。「やるべき」は「やりたい」に重なり、吸収される。

そのように考えることは自己欺瞞的な気もするけれど、決して間違えてはいない。そして何より、そのように考えると、ちょっと元気が出る。

だけど、以上の話は一面の真理でしかない。「やるべき」と「やりたい」は確かに重なってはいるが、やはりイコールではない。

だから、自らを鼓舞して無理しすぎてはいけないだろう。「やるべき」も実は「やりたい」だという魔法が解けてしまったなら、素直にその状況を受け入れたほうがいい。「やるべき」ことはやはり「やるべき」ことだという現実から目を逸らせてはいけない。

ただしそんなときでも、無理して「やるべき」ことをやるのではなく、またそれを「やりたい」と思えるよう、少し休んだほうがいいような気がする。

徳と技能と幸福

  • この文章は48000字くらいあるけれど、第8章のおまけを除いた本編は36000字くらいなので短編のほうに載せておきます。

1 徳・実践的知性・幸福・技能

読書会に参加した流れで、ジュリア・アナスの『徳は知なり 幸福に生きるための倫理学』を読んだ。

この本はいわゆる徳倫理学の本なのだけど、『徳は知なり 幸福に生きるための倫理学』というタイトルにあるように、徳・(実践的)知性・幸福がキーワードになっている。(英語のタイトルは『Intelligent Virtue』なので徳と知の関係性は「知的な徳」のほうがいいと思うけれど、訳者解説によればインパクト重視でタイトルをつけたそうだ。)

また、徳・実践的知性・幸福に加えて、技能も重要なキーワードだ。僕の理解では、この本のなかで最も重要なアイディアのひとつは、徳と技能(ピアノを弾く技能など)を類比的なものとして捉えたということだと思う。アナスは抑制的に語っているので明言はしていないが、後述するとおり、僕は、徳は技能の一種であるという主張だと解釈してもいいと思っている。これはとても興味深い主張だ。

なお、アナスの語り方はこの本を通じて抑制的だ。あくまでアナスは議論の土俵を提供しようとしている。徳・実践的知性・幸福・技能といった議論の素材の関係性を示すにとどめ、それらが十分条件なのか、必要条件なのか、といったことは今後の議論に委ねようとしている。しかし、アナスの語りのなかにはアナス自身の秘められた主張が漏れ出ているように思える。なぜなら、アナス自身の主張を抜きにして、議論の方向性だけを指し示すことなどできないからだ。アナスが示す議論の土俵を理解するためには、そこで展開されるはずだったアナス自身の主張に思いを馳せる必要がある。

だから僕は自分自身の理解のために、アナスの秘められた主張を明確化しておきたい。明確化し、先鋭化することで、アナスのアイディアの価値が際立ち、アナスがこのような本を書いた意図が明らかになると思うのだ。

よって、この文章は、書いてあることを書いてあるように解釈すべし、という哲学研究者としての倫理には反してしまうことになるだろう。だけど、この文章はあくまで自分のためのメモなのだし、僕は哲学研究者でもないのだから、そのことは特に問題とならないと考えている。

2 アナスの議論の3つの前提

この本におけるアナスの議論を極力追っていきたいが、僕にはアナスの議論には、明示的には書かれていない前提がいくつかあるように思えるので、まずそれを明らかにするところから始めることとしたい。いや、これらの前提をアナスは言葉にはしていないが、この本が倫理学の本であるということによって、すでに明示されているのかもしれない。

僕は倫理学の本をあまり読まないけれど、読書会では、この本を読む前に、バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読んだ。その冒頭でウィリアムズは「人はどう生きるべきか」というソクラテスの問いと道徳哲学は切り離すことができない、としている。ウィリアムズによれば、道徳哲学(=倫理学)とは人生の指針を求める営みなのである。僕はそれに賛同する。だから、アナスがやっていることも、それが倫理学であるならば、同様に人生の指針を求める営みであるはずである。

人生の指針ということから少なくとも3つの前提が導かれると僕は思う。ひとつが、人生というまとまりで考えるということ、もうひとつが、作者や読者自身も含めた人間を考察の対象にするということ、そして最後に、これは指針であるということ、言い換えれば、何らかの肯定的なものを目指す営みであるということだ。

2-1 人生

アナスの議論が人生というまとまりを前提としているというのは、それほど説明を要しないだろう。その瞬間ごとの享楽的な快楽ではなく、人生という長期的な視野でものごとを捉えるからこそ、将来のために向上心をもって努力し、善や幸福のような価値を追求できる。ときには失恋のショックや麻薬の影響で長期的な思考ができなくなることもあるが、それはあくまで例外的な状況であり、また、そのような短期的な事象は、あくまで長期的な視点を持つ観察者から観察される限りのものとして描写される。

このような当たり前のことを僕が前提として強調するのは、僕が時間に興味があるからだ。この文章の終盤で、僕は時間の問題につなげて論じていくつもりだけど、僕からすると、倫理学の問題のかなりの部分は、人生というものを成立させる常識的な時間のあり方を全面的に受け入れることから生じているように思える。

2-2 人間

2つ目の前提、つまり作者や読者自身も含めた人間を対象にするという前提についても、それほど問題はないだろう。なぜなら、人生とは人間の人生なのだから。

念のため細かく追っていくと、まず、作者アナスがこの文章で書いていることは、アナス自身がどう生きるか、というアナス自身の問題意識から切り離すことはできないはずだ。もし、アナスが、自分自身だけはこの本に書かれたことの例外で、自分以外の者だけがアナスの主張に従うべきだと考えていたならば、議論のほとんどは説得力を失うように思われる。この本で、人々を欺き功利主義的目的を達成しようとする功利主義者を「総督邸の帰結主義」(p.263)と批判しているとおり、アナスは自らが自らの議論に巻き込まれざるを得ないことに自覚的であったことは間違いない。この本においてアナスが描く人間とは第一にアナス自身のことであるはずだ。

また、同様に、この本を読む読者は、自らをアナスの立場に身を置くようにして読まなければ、この本を十分に理解できないことも確かだろう。そのような意味で、この本において考察対象となる人間には読者自身も含まれる。(この本に限らず、哲学や倫理学の本とは、作者の立場に身を置くようにして読むべきものであり、少なくとも、そうすることを目指すべきものだろう。)

更には、その対象は、アナスや読者という個人にとどまらず、いわゆる人間すべてにまで拡張される。少なくとも、潜在的な読者、つまり、この本を読む能力を具備するすべての人が、その対象に含まれることになるはずだ。なぜならアナスはそのような人に向けて書いているはずだからだ。文字を読めない子供や意識のない重病人のような人々は含まれるのか、というような問題はありうるにせよ、この本が対象にする人間とは、アナスや僕や読書会のメンバーのような関係者だけではなく、はるかに広い、人間すべてと言ってよいだろう不特定多数を指すことは明らかであろう。アナスは作者や読者自身も含めた人間を対象とした議論を行っているという僕の指摘は、以上のような意味においてである。

なお、アナス自身が、その考察の対象となる人間を幅広く捉えていることは、アナスが古代の奴隷制を批判していることからも明らかである。古代のギリシャ人やローマ人が、我々と同じ人間であり、この議論の範疇に含まれるからこそ、アナスは古代人たちが奴隷制を維持したことを批判できるのだから。文化的に異なる人間を全く同列に扱ってよいかどうかは議論がありうるが、少なくとも、アナスはそのような他者を議論から切り捨てていないという点については確認しておく必要があるだろう。

2-2-1 環境と他者

なお、作者や読者自身も含めた人間を対象にするということから、この本を読むにあたっての留意点が導かれる。留意すべきは環境と他者との区分である。

アナスは環境というキーワードを持ち出し、生活の環境と生きることそれ自体を区別する。(p.156)そのうえで、生きることそれ自体を自らの考察の中心に据える。そこで切り離された環境とは、私たち人間以外を指すと考えてよいだろう。アナスは、余計な夾雑物を切り捨てることにより、私たち人間が生きることそれ自体のことだけを純度を高めて思考しようとしたのだ。アナスは、アナスにとっての考察の対象である私たち人間から、考察の対象外の夾雑物を環境として腑分けする。アナスにとっての環境とは、切り捨てられるべき余計な夾雑物のことだと言ってよいだろう。

(なお僕は、考察の対象を私たち人間に限定するという特徴は、アナスに限らず、倫理学全般の特徴だと思っている。例えば環境倫理学において考察の対象となる環境とは、非人間や非生物も含めた環境ではあるが、その環境とは拡張された「私たち人間」だということになる。)

環境と類似の言葉として他者という言葉がある。哲学では、当事者以外の存在のことを、それが生物学的な人間であるかどうかに限らず、他者と呼ぶことがある。例えば、自分の家族以外のものは他者である、私たち人間以外の存在は他者である、といった用法である。アナスの徳の議論においても、他者という言葉は用いられていないが、徳の有無が問題となる当事者以外に、その当事者に徳を教える教師や、その当事者が徳を持っているかどうか判断する評価者といった立場の人間が登場する。これらの人々は当事者に対する他者であると言っていいだろう。問題は、教師や評価者といった他者が私たち人間に含まれるのか、それとも環境に含まれるのかである。

これらの他者が私たち人間に含まれるとしたら、教師や評価者は、単なる他者の立場にとどまることはできず、議論の当事者として、アナスの議論に巻き込まれることになるはずだ。そうだとすると、教師が徳を教えるという行為自体が徳の発揮であり、評価者が評価するという行為自体が徳の発揮でなければならない。よって、徳の発揮と切り離された、純粋な徳の教授や徳の評価という行為はありえないことになる。

また、もし教師や評価者が私たち人間に含まれないのだとしたら、それは環境であり、議論から捨象されるべき存在だということになり、よって、アナスは自らの議論に教師や評価者を登場させることはできない、ということになる。いずれにせよ、私たち人間としての当事者でも環境でもないような他者を登場させ、その他者が当事者に関与し、徳の教授や徳の評価を行うというような描写を行うことはおかしいということになる。アナスの議論が有するこの難点については後ほど詳述していきたい。

2-3 肯定性

アナスの三つ目の隠れた前提として僕が指摘した、アナスの言説が指針であるということ、言い換えれば、何らかの肯定的なものを目指す営みであるということについては少し言葉を補う必要があるかもしれない。

まず、アナスの文章が指針であるということについては疑問の余地はないだろう。アナスは、この文章が読まれ、その読者の人生の何らかの指針になることを望んでいるはずだ。読者はこの本を読むことで何らかの知見を得て、読む前よりも読んだ後のほうが、自らの人生への理解が深まる。そして、この本は、その後の人生において何らかの参考となる。そのようなものになることを目指して、アナスはこの本を書いたはずだ。

問題となるのは、指針という言葉を、肯定的なものを目指す、という言葉で置き換えることである。常識的に言って、人生では否定的なものを目指すこともよくある。人は仕事を怠けたり、万引の常習犯になったりと、浅はかな判断をして人を傷つけたりするし、意図的にそのような行為を繰り返すこともある。僕たちは、あたかも否定的なものを目指すという指針に基づいて行動しているようなときがある。肯定的なものを目指すという限定は、そのような直感に反する。

アナス自身、悪のような否定的なものを目指すことがありうることを前提に、徳と悪徳の非対称性という興味深い議論を行っている。ただしアナスは、例えば臆病という悪徳について、「よりよい臆病者になるという全体的目標にその臆病な行為が役立ったと考えて彼が満足することはありえない」(pp.172-173)と述べ、否定的なものを目指すことは成立しないと結論づけてはいるが。

僕が指摘したいのは、実はアナスは、徳と悪徳の非対称性というような議論を経ずとも、その手前において既に、肯定的なものを目指すことを前提としているということである。

僕が考える「肯定的」とは、常識的な意味での肯定性ではない。常識的には肯定性について指し示すときには、善悪でも美醜でも真偽でもいいけれど、何らかの価値を肯定的な価値と否定的な価値に分け、一方を肯定的な価値として評価する。だが僕が考える肯定性とは、そのようなものではない。

僕が考える肯定性は、アナスの主張がどんなものであれ、この本に既に文字として書かれているということに象徴的に現れている。たとえどんなに否定的な内容であったとしても、現に考え、それを書いてしまっている。書かないのではなく、書いてしまっている。そのような意味での肯定性である。アナスは哲学的に何かを考え、それを文字で残した。アナスは書かないのではなく書くことを選択して書いた。それが、アナスは、書くことを通じて、何らかの肯定的なことを成し遂げようとしたということである。それは、書くことに必然的に伴う原初的な肯定性と言ってもいいだろう。

もし、そのような肯定性を認めるならば、仮にアナスが書いたことが悪を目指したり、善でも悪でもないようなことを推奨したりするような内容だったとしても、その営みは、なんらかの肯定的なものを目指すものだと捉えることができるはずだ。

実は、そのような前提に依拠するかたちで、アナスの徳と悪徳の非対称性の議論は成立する。アナスの主張に反して、実際に臆病さのような悪徳を目指すような行動をとることはできうる。なぜなら、ただそのように行動をすればいいだけの話だからだ。だがそのことを哲学として書き残そうとした途端、それは不可能となる。なぜなら、臆病さを目指す、と書いた途端、それは何らかの肯定性を帯び、臆病さを目指す理由、臆病になる積極的な意義のようなものが予感されてしまうからだ。そうすると、臆病を目指すのは実は身の安全を守るためだとか、臆病にも美があるからだ、といった説明ができてしまう。哲学書に表現される限りは、アナスの言う通り、徳と悪徳は非対称である。

3 アナスの二つのアイディア

人生、人間、肯定性という3つのキーワードでアナスが前提としたことを指摘したところで、次に、僕にとってのアナスの重要なアイディアを二つの側面からまとめておきたい。

3-1 技能・フロー・統合

まず、僕が最も感銘したアナスのアイディアは、冒頭で述べたとおり、徳と技能とを似たものとして捉えたことであり、さらにフロー体験(p.118)の話に結びつけたことである。哲学でフロー体験というのは唐突な気もするが、実によくできている。

僕は心理学には詳しくないけれど、フロー状態とは、多分、スポーツならゾーンに入ったと表現できるような状態のことなのだろう。僕ならば、スキーで難しい斜面を集中して滑るときや、仕事中に、たくさん関数を使ったExcelの表を一心不乱に作り上げているような場面を思い出す。このような文章を書いているときにも時々そういうことが起きる。

フロー体験には「自己目的的」(p.119)と「自我の喪失」(p.120)という二つの特徴があるとされる。また収斂や統合といった言葉とも紐付けられている。それは僕の実感とも一致する。僕はスキーで難しい斜面を滑るとき、時々調子がいいと、ただ滑ること自体を目的とし、ただ滑るという営みを遂行しているような瞬間がある。(正確には「瞬間があった。」かな。スキーは20年以上していないし、スノーボードも10年くらい行ってない。)そのとき、僕は遂行している自我のことなど顧みない。そこには僕のすべてがスキーを滑ることだけに収斂し、その一点に統合されたような特別な感覚がある。

アナスによれば、このような描写は徳に類推適用できる。僕が徳を発揮する場面として、電車の座席に座っている僕の目の前に老人が立っている状況を考えよう。そんなとき僕は、時々は席をゆずることもある。もう少し座っていたいなあ、おじいちゃんが前に立っちゃってアンラッキーだったなあ、なんて思いつつ譲ることもあるけれど、たまにはそんなことを考えずに席を譲る。そんなとき、僕は余計抜きに、ただ席を譲る存在となっている。席を譲ること自体が自己目的化していて、僕の事情といった自我は喪失している。僕は席を譲ること自体に収斂し、統合されている。その証拠に、「どうして席を譲るの。」と聞かれたら、「譲らない訳にはいかないじゃん。」とだけ答えるだろうし、「立っていると疲れないの。」と聞かれたら、「そう言われればそうだね。」とだけ答えるだろう。理由やその他の選択肢といったものは僕から消え去っている。

アナスが言うとおり、スキーと席を譲ることはとても似ている。フロー状態においてはただ滑り、徳の発揮においてはただ席を譲っている。周囲のノイズは消え去り、自我も消え去り、ただ滑り、ただ席を譲ることだけに収斂し、統合されている。

そこで当然次のような疑問が生じる。さて、技能と徳はただよく似ているだけなのだろうか。それとも実は同じものなのだろうか。なお、アナスは控えめに技能からの類推(skill analogy)と呼ぶ。つまり技能と徳とは全く別のものだが、その間には類推できるような関係性があるということになる。だが、アナスは別の箇所では「技能は特に緊密に対応する。なぜなら、徳は結局のところ、どのようにして世界のなかで上手に、あるいは下手に行為しうるかの一例だからである。」(p.278)とまで踏み込む。これは、徳は技能の一種である、という解釈を呼び込むものだろう。

徳と技能を重ね合わせ、徳の発揮とフロー状態とを同一視できるのかどうか、もう少し考えてみよう。アナスは、徳と技能の違いを、生活全般に関わるものである徳と、ピアノやスキーのような生活の一部にのみ関わる技能という対比に見出す。逆に言えば、その点以外には、徳と技能を分けるものはないということでもある。

では、その相違点はアナスが考えるほど確かなものだろうか。僕は、その相違は徳からと技能からの両方向から突き崩すことができるように思える。まずは徳の側から。アナス自身が述べるとおり、完全に統合された徳というのは目指すべき理想であるという点を忘れてはならない。だからこそ、実際に世の中で見出すことができるのは、戦士の勇敢さや、慈善家の気前のよさといった人間の生活の一部に関わる限定的な徳なのだ。どこを見回しても現実には生活全般に完全に関わる徳など見出すことはできない。徳を生活全般に紐付け、生活の一部にだけ関わる技能との差異を見出そうとするアナスのアプローチは、現実にはなかなかうまくいかない。(ここで僕はプラトンの側に立っていることになるが、この本のアナスはアリストテレスの側に立っているようにも見える。だけど、詳細は後述するが、アナスの主張の重要な部分をつなぎ合わせるならば、アナスはプラトンの側に立つべきだと考えている。)

一方の技能の側からも、徳との重なりを強調することができる。例えば、ピアノが生きることの全てとなってしまっているような超人的なピアニストを想像してみよう。寝ても起きてもピアノのことばかりで、ピアノのために家族も捨てているような人である。もしその人がピアノを弾けなくなってしまったら、生きる意義を完全に見失ってしまうだろう。彼にとってピアノとは生きることそのものである。現実にそのような人がいるかどうかは別として、そのようなかたちで、技能が生活全般に及ぶという状況は容易に想像できる。もしこれが思考実験的すぎるとしても、少なくとも、勇敢さという徳が優秀な戦士の人生に関わっているということと同程度には、ピアノを弾く技能が優秀なピアニストの人生に関わっていると考えることはできよう。

以上を踏まえるならば、徳と技能の違いを強調することはあまりうまくいかない。控えめに言っても、徳を技能から切り分けるためには、さらなる論拠が必要である。それならば当面は、両者の違いよりも徳と技能の共通点に着目したほうがいいだろう。徳にせよ技能にせよ、「自己目的的」で「自我の喪失」を伴い、(程度の差はあるかもしれないが)生活を収斂して統合するような性質を有している。これが、僕がアナスから学んだ重要なアイディアの一つ目である。

3-2 全体論的・動的:過程

もうひとつのアナスの重要なアイディアは、この本全体が全体論的な論じ方を採用しているということである。アナスの議論は、最初に基礎を打ち、そこに建築物を建てるというようなあり方をしていない。そのようなタイプの議論には、基礎が崩されれば、議論の全てが崩壊してしまうという脆さがある。アナスは義務論や功利主義はそのような脆い構造をしていると考えており、自らの議論にはその脆さがないと考えている。僕もそう思う。

全体論ということは、議論の始まりと終わりはなく、その間しかないということになるだろう。全ての全体論がそのようなものかどうかは知らないけれど、アナスの議論は確かにそのような特徴を持っている。さらにはアナスの議論は、単に始まりと終わりの間しかないだけではなく、その間を動的に繋げるものとなっている。だから、アナスの全体論は、過程という言葉で特徴づけることができるだろう。

アナスの議論のなかで、過程性とでも言うべき特徴が最も明確に現れているのは後半のエウダイモニア主義を論ずる場面だろう。エウダイモニアは幸福と訳されることもあるが、幸福という言葉は実はその内実がよくわからない。なぜよくわからないのかというと、幸福とは過程における言葉だからである。アナスは「エウダイモニア主義者の考える幸福が、私たちの人生は全体としてどの方向に進んでいるのかについての非常に曖昧で不明確な考えと、(お金、快楽、徳といった)日常的および理論的レベルでの明確な考えのあいだに位置し、両者を媒介する役割をはたす」(p.209)「幸福は、倫理学理論の出発点となる考えに人々の常識が一致する、そういう地点を形作っている」(p.210)と言っているが、幸福という言葉の過程性をよく言い表していると思う。

僕の言葉で説明を加えておこう。

我々が常識的な感覚を表現するにあたっては、幸福が究極目的であるという表現をすることは間違えていない。僕がおいしい食事や楽しいセックスを求めるのは、それが幸福だからだし、目先の食事やセックスを我慢して、勉強をしたり仕事をしたりするのも、それが別の幸福につながっているからである。名誉を汚された武士が復讐を果たし切腹するのも、名誉を汚されたまま生きるよりは幸福だからだろうし、罪なき人々を大量虐殺するのも、その選択が、何らかの幸福につながっているからなのだろう。常識的な言葉遣いとしては、幸福と言えば全ては片付いてしまう。幸福はなんでもありの最終地点である。

一方で、哲学的な議論はその最終地点から始まる。哲学は、常識的には幸福と呼ばれるなんだかよくわからないものを確かなかたちで捉えようとする。例えば、この本では幸福の捉え方について、快楽説、欲求充足説、生活満足説といった哲学上の諸説が紹介されているが、きっと今後も、様々なアイディアが生まれることだろう。だが、少なくとも今のところ、哲学においては、幸福とは実はなんなのか、という答えは出ていないし、それに答えることは、きっとこれからもかなりの困難であり続けるだろう。

だから、この議論がそもそも何についての議論であり、何を目指す議論なのかを捉えるうまい言葉はみつからない。だがエウダイモニア主義は、このようなよくわからないものを、常識的な実感から哲学的議論に向かう中途に見出される幸福という言葉に着目することで、うまくすくい取ることができている。議論の始まりや終わりについてはうまく言い表すことができないけれど、その議論の過程では幸福という言葉が重要な役割を果たすということは確かに言える。アナスのエウダイモニア主義は、議論の過程に着目することで、とらえどころがないものを幸福として捉えることに成功している。アナスが過程を重視しているというのは、以上のような意味においてである。

同じことは徳についても言えるだろう。アナス自身は、小さな子供が何かを学び始める場面を紹介することで、徳の学び始めを説明することに成功したと考えている。だが、僕はこの説明は十分ではないと思う。探求のパラドクスを踏まえるならば、人は既に多少なりとも知っていることをより知ることしかできない。徳を全く知らない人に対して、親や教師や映画などといった外側から徳を押し付けることはできない。(徳を全く知らない人のことを、僕は道徳(倫理)否定主義者と呼び、道徳否定主義者が道徳の世界に足を踏み入れることの困難さについて以前論じている。http://dialogue.135.jp/2021/07/18/williams2/

(アナスの徳は議論のスタート地点をうまく捉えらないという問題は、勇敢さや気前のよさ、といったように徳を数種類に分類したところから議論を始めざるを得ないことにも見出すことができるだろう。アナスに反して、徳は場面ごとにすべて独立であり、徳は人間の営みの数だけある、という地点から議論を始めることもできるはずであり、そのほうがよりスタート地点に相応しいだろう。だが、そこから始めると、そもそもなぜ、場面ごとに独立のものをあえて統合するのか、という困難な問題に答えなければならない。)

更には、アナスの徳はスタート地点だけではなく、その徳が向かうゴール地点をうまく捉えることもできない。アナスは、徳は理想的にはひとつに統合されるはずだとするが、その統合された徳がどのようなものかは描写することはできていない。それどころか、アナスは、ニーチェが主張するように、徳とは統合できず、多元的で流動的なものだという余地も否定はしていない。(p.191)

このように、アナスの議論は、スタート地点やゴール地点についての描写は怪しいところがあるが、徳の学習過程(や徳の分析過程)が起動している間は自身に満ちており揺るぎがない。例えば、探求のパラドクスに正面から答えるためには、アナスのような過程的な徳のあり方を想定する以外には道はないように僕には思える。徳とは、誰もが探求を開始できるほどには知っているものであり、そして誰もが探求を終えられるほどに知らないものについての名前なのである。

以上のとおり、アナスの議論は過程的なものであり、全体論的で、動的なものであるということは徳と幸福の二つの例で示すことができたと思う。

また、全体論的ということでは、アナスの徳と幸福は互いに互いを支え合う構造をしているという点も重要である。

徳は幸福に関係づけられ、幸福は徳に関係づけられるかたちで、互いが互いの議論を補強し合っている。幸福と無関係の徳は考えにくいし、徳と無関係の幸福も考えがたい。アナスも「幸福に生きるためには、幸福それ自体にそなわる活動力と内的な駆動力と同じくらいの力をもった何かを私たちは必要とするのであり、徳はそれを私たちに与えるのである。」(p.253)「徳の発達と自分の幸福に関する考えとのあいだには力動的な関係が常にある」(p.269)と言っている。それはつまり、徳が目指すゴール地点は幸福と関係づけることができるし、幸福が目指すゴール地点は徳と関係付けられるということである。アナスの議論は過程的なものだから、スタート地点とゴール地点に弱さはあるが、アナスの全体論的な議論の構造は、徳や幸福といった議論の構成要素を相互に関係づけることでその弱さを消し去る、少なくとも弱めることに成功している。

アナスの過程の描写は動的であるという点も強調しておくべきだろう。アナス自身が「(徳は)静止した傾向性ではなく、力動的な傾向性である」(p.44)としているとおり、この動性が特に顕著に現れるのは徳の学習の場面だろう。子供のような学習者が日々徳を学んでいくだけでなく、熟練者でさえ、油断すれば手元の徳を維持することすらできない。日々、徳のある行為を行うことでしか、徳がある人にはなれない。徳は静的な状態ではないという意味で、徳は動的なものである。幸福も同様である。アナスが「幸福は、明らかに、現在進行中の活動であり、一度達成すればそこで休むことができる静止した状態ではない。」(p.250)と述べているとおり、幸福とは動的なものであり、日々、幸福に生きることでしか幸福になることはできない。このような動性がアナスの過程には含まれている。

3-2-1 一歩先

動性ということでは、アナスの議論全体が動的であるという点にも触れておきたい。アナスはこの本では、議論の土俵を指し示すのみであり、例えば、徳と幸福の関係を明確に述べることはない。だが、徳と幸福の間には、今後、より深い関係が見いだされることが予感されている。アナスの議論は、動的に発展していく議論の一場面を切り取ったものであり、そこに動性を感じることができる。

アナスの議論は動的なものだから、この本でアナスが示しているものは最終的なゴールではない。アナスが指し示しているのは現在の倫理学の議論を一歩先に導くような地点である。アナスは、真っ暗な夜道で途方にくれている僕たちに、真昼のような光で遥か彼方の目的地点を指し示そうとするのではなく、小さな懐中電灯でそっと足元を照らし、次の一歩をどこに運ぶべきかを教えようとしているのだ。

だがアナスがそのことにどれだけ意識的かは怪しい。だからアナスが時々、不適当な言葉遣いをしていることには注意すべきである。例えば、アナスは「核心」(p.31)という言葉を使っているが、これは、一歩先と解釈したほうがいいように思う。

特に気をつけるべきは、学習者と対比される熟練者の立場である。アナスはときどき、一部の人は既に徳を完全に身につけているかのような描写をする。しかし熟練者とはあくまで、学習者の一歩先にいるに過ぎず、理想的な立場、つまりゴールに到達している訳ではない。タイガー・ウッズもガンジーも、我々の一歩先を歩む学習者に過ぎない。ただその一歩がとても大きいから、はるか先の理想にたどりついているように誤解してしまうのだ。

4 アナスの問題 実践的知性

ここまでアナスの二つのアイディアを僕なりに紹介した。ひとつはフロー状態に象徴されるように、スキーを滑るという技能の発揮や、電車で席を譲るという徳の発揮は、「自己目的的」で「自我の喪失」を伴い、生活を収斂して統合するような性質を有しているというものである。もうひとつは、アナスの徳や幸福といった議論は全体論的で動的なものであり、いわば過程の議論である、というものである。

僕は、いずれのアイディアも、ひとかたまりのものに動的に収斂、統合していくというイメージを惹起するという共通点があると思う。この二つのアイディアにどのような関係性があるのかはともかくとして、アナスの議論において、「統合」がひとつの重要なポイントとなることは確かだろう。

アナス自身、この本の第6章を「徳の多数性と統一性」とし、徳の統合を大きな問題としている。ここからは、この統合という問題について論じていきたい。なぜなら、僕とアナスではここで大きく袂を分かつことになるからだ。

徳の統合に関するアナスの主張は、徳を収斂し、統合するものは実践的知性である、というものである。一見相反することもあるもろもろの徳を統合して生きていくためには、知的に思慮深く判断する必要があるとアナスは考える。例えば、勇敢さと慈悲深さという二つの徳は、ときには矛盾しているようにさえ思える。祖国を守るために戦争に行った兵士が年端も行かぬ敵国の兵士に照準を合わせるような場面でのその矛盾は先鋭化する。アナスは、そのような困難な場面においても、実践的知性により深く思慮することで、勇敢さと慈悲深さをより深く掘り下げるかたちで再解釈し、両者を統合できるような新たな徳に到達することができると考えている。きっとアナスが考えるのは、勇敢かつ慈悲深く、敵兵に照準を合わせることをやめ、戦争に反対するようになる、というような道筋なのだろう。

そのような理想論的すぎる描写には違和感がある。だが、勇敢で慈悲深い兵士が敵に照準を合わせるという、いわば引き裂かれたような状況は何かしらのかたちで解消されなければならないのは確かだと思う。問題が解消されないまま引き金を引き、敵を殺せば後悔することになるし、問題が解消されないまま引き金をひかず、その結果、母国が戦争に負けたならやはり後悔することになるだろう。そのような望ましくない状況を避けるためには、引き金を引くかどうか決断する前に問題を解消する必要がある。

確かにアナスの言うとおり、このような徳の衝突を極力生じさせず円滑に人生を生きるためには、勇敢さや慈悲深さといった徳を知的に考察し、それぞれの徳が矛盾しないように捉え直し、できる限り徳の統合を目指さねばならない。それが決して達成できない理想であったとしても、せめて統合を目指す過程にいるのでなければならない。そのようなかたちで、統合・過程というアナスのアイディアと結びつき、知性は重要な役割を果たすことになる。『徳は知なり』というこの本のタイトルどおりである。

だが、僕が重要だと考える知性と、アナスが考える知性では、その知性の意味合いがかなり異なるように思える。まず、アナスの知性とは具体的な場面における判断を導くものとしての実践的知性であるが、僕が考える知性とは、もっと理論的で思弁的な知性である。アナスは、あたかも、祖国を守ろうとする兵士が、引き金を引こうとする瞬間に、実践的知性が機能し、勇敢さと慈悲深さの対立を調整し、結果として何らかの行動を導くように描写している。しかし、僕の実感として、知性はそのように瞬間的には働かない。知性は、前もって、勇敢さと慈悲深さについて考察し、掘り下げて捉え直すことしかできない。その知的な成果を実生活に反映するためには、そのように生きることを心がけ、いわば体に染み込ませ、習慣化する必要がある。思弁的な知性と実践との間には隔たりがあり、それは知性とは異なるもの、コナトゥスと呼ばれるようなもので埋められなければならない。

これは言いがかりのような些細な違いだと思われるかもしれないが、ここからアナスの知性の二つの問題が生じていると僕は考えている。

4-1 上手さ

第一の問題は、アナスは、徳の上手な発揮という観点から、知性を徳に関連付けているという点にある。例えば、海で溺れる子供を助けようとすることは徳がある行動だと言えるだろう。だが、泳げないのに海に飛び込むのは無謀な行為だし、すでにライフセーバーが助けに向かっているのに海に飛び込むのは無意味な行為だ。それよりは救急車を呼んだり、家族を探しに行ったりするほうがいいだろう。上手に徳を発揮するためには、自分が泳げるかどうかを冷静に振り返ったり、周囲の状況を確認したりして、なすべきことを判断できるような知性が必要である。アナスはそのように考えている。

だが、溺れる人を助けようとする心構えに目を向けず、上手に助けるという結果ばかりに目を向けることは避けるべきだろう。例えば、金儲けだけを考えている凄腕の医者と人命を救いたいという意欲だけはあるヤブ医者がいたとする。結果ばかりに目を向ければ、金儲けだけ考える凄腕の医者のほうが高徳だということになりうる。なぜなら、金儲けだけを考える凄腕の医者には豊富な医学の知識があり、その知識には、上手に患者を助けることができるという意味で徳を高める効用があるからだ。しかし直感的にこれはおかしい。

この感覚はアナスの考え方にも沿っているだろう。アナスは徳と環境は切り離すべきだと考えており、生まれながらに才能があったかどうか、うまく医者として技術を学ぶことができる環境にあったかどうか、といった問題は徳とは切り離すべきだと考えている。アナスならば、より上手に溺れる人を助けられるようになろうとする心構えこそが重要であるという考えに同意するだろう。

このように考えていくと、アナスのなかには二つの考え方が同居していることがわかる。ひとつは、徳は知性を伴うかたちで上手に発揮される必要があるという考え方で、もうひとつは、徳は上手に発揮されなくても知的な心構えがあればいい、という考え方だ。アナスはこの二つの考え方を場面ごとに使い分けているように思える。きっと、前者と後者の両方を備えているのが熟練者の徳であり、後者のみを備えているのが学習者の徳だということになるのだろう。

アナスの使い分けがうまくいっているのかを考えるため、徳について、徳の準備段階と徳の発揮段階という二段階に分けて考えてみよう。徳の準備段階とは、より勇敢に溺れる人を救えるようになりたいと願い、人命救助のテクニックや知識を身につけようと学習する段階である。その後、偶然に溺れる人を見つけたとき、その学習の成果が活かされ、円滑に体が動いたならば、それが徳の発揮段階である。

さて、溺れる人を救いたいと願い、長年、人命救助について学び続けたが、一生そのような場面に遭遇しなかったような場合を考えてみよう。つまり徳の準備段階はあったが徳の発揮段階はなかった場合である。この一連の知的な営みに何らかの徳があることは否定できないだろう。つまり、準備段階における学習者の徳は確かにある。問題は、溺れる人に遭遇しなかったという事実が、発揮段階における熟練者の徳という新たな徳を獲得することを失敗させ、その徳を損なわせるかどうかである。

僕は確信を持って、そこには何も損なうものはないと答えたい。溺れる人に遭遇しなかったという偶然的な事実は、いわば環境上の差異であり、生きること自体を取り扱う倫理学とは関係がない事柄だ。アナスもそのことに同意するだろう。つまり人間について考察するものである倫理学上、環境に左右されるような徳の発揮段階は無視してよい。上手に徳を発揮できたかどうかは徳とはなんら関係がない。徳において大事なのは、上手に徳が発揮できるようにしたいという心構えであり、そのための準備なのだ。徳において知性が重要となるのは、徳の思慮深い発揮としてではなく、準備段階における知的な向上心としてなのである。アナスは徳には「駆り立てる向上心」(p.30)が重要だとするが、確かにそのとおりである。

では、なぜアナスが準備段階の徳だけではなく、あえて発揮段階の徳を自らの徳に含めようとしたのだろうか。それはきっと、徳の学習者から徳の熟練者へという発達のプロセスを描写する必要があったからなのだろう。客観的に学習者と熟練者とを区分するためには、下手なピアニストと上手なピアニストと類比的なかたちで、下手な勇敢な人と上手な勇敢な人というものを描写できなければならない。たしかに客観的には、上手な勇敢な人とは、上手に溺れる人を助けることができる人のことである。そのような客観的な描写を必要とするあまり、アナスは徳を割り振る先を間違えてしまったのではないだろうか。

だからこの問題は、徳の客観性の問題だとも言える。アナスは、学校の先生が生徒を採点するように、他者が徳の学習者と熟練者を見分けることができると考えている。そこにこそ問題があるのではないか。僕の考えでは、徳はどこまでも主観的なものであり、このような客観的な視点が入る余地はない。この客観性の問題は、もうひとつのアナスの問題を検討したうえで、後ほど論じたい。

4-2 説明

アナスの徳の捉え方の第二の問題は、アナスは、徳の説明を重視しているという点にある。アナスが(徳と類比的な実践的技能の学習の場面において)「理由が説明を媒介する」(p.34)と言っているとおり、説明とは理由の説明である。また、理由の重要性については、「(徳の教授者である)一方が理由を与え、(徳の学習者である)他方が理由を受け取ることによって徳が伝達される」(p.37)、「(徳とは)理由にもとづいて行為することが期待できる傾向性(である)」(p.48)としているとおりである。

僕が理解したアナスの考えに従うならば、電車で席を譲ったり、溺れるひとを助けたりするような徳を発揮している瞬間は、あたかもフロー状態のように、自己目的的で自我が喪失しているため、その徳を反省的に捉えることはできない。だからこそ、その瞬間にそのような行動をとる理由を問われても、「なんとなく体が動いた。」とか「当然そうするものだと考えた。」といった説明しかできない。だが、少し落ち着いた後であれば、有徳者は、自らが持っている徳を知的に捉えて説明できる。徳がある人には、その徳の発揮の瞬間から一呼吸置けば、溺れる人の命の尊さがどれほどのもので、席を譲られた老人がどれだけ助かるか、といったことを冷静に説明することができる知性が備わっている。

なぜアナスが説明を重視するのかと言えば、説明がなければ徳と悪徳の見分けがつかないからだ。極端な例では、電車で席を譲った人だけでなく、電車でいきなり殴りかかった人が、そのような行動をした理由を問われても「なんとなく体が動いた。」「当然そうするものだと考えた。」というだけの答えできないことがありうる。そのような答えからだけでは徳と悪徳の見分けがつかない。徳と悪徳を区別するためには詳細な説明が必要である。

説明などなくても席を譲ると殴りかかるでは状況が全く違う、という反論があるかもしれない。このような常識的な感覚を排し、より正確に問題を捉えるため、より思考実験的な場面を考えてみよう。電車の座席に毒薬を仕込んでおき、毒殺するために席を譲るような場面である。この場合、席を譲るという行為からだけでは、徳か悪徳かを判断することはできないことになる。また更に思考実験的な要素を加え、その殺人企図者が毒薬だと思っていたものはただの水だったという場面を考えてみよう。その場合、(多少湿った椅子に座るということを除き。)外形的には徳と悪徳の違いは全く生じないこととなる。加えて、その人が、意識的に殺人を企てるのではなく、ただ習慣的にそのような行動をとったとしたらどうだろうか。すると脳波のような微細なレベルでも徳と悪徳の違いは生じないことになる。

思考実験が複雑になってきたのでまとめると、つまり、「子供の頃から毒殺のことばかりを教えられて無意識に毒殺をできるようになった人が、毒薬と水を取り違え、毒薬と思い込んだ水を電車の座席に仕込み、老人に席を譲るという行為を無意識に行う。」という場面である。もし、席を譲ったその人になぜそのような行為をしたのか質問したならば、きっとその人の答えは「なんとなく体が動いた。」とか「当然そうするものだと考えた。」といったものだろう。そのような答えからだけでは徳と悪徳の見分けがつかない。徳と悪徳を区別するためにはさらなる説明が必要である。アナスが説明を重視するのは、このような、行為者本人による詳細な説明によってしか判断できない究極的な状況をも視野に入れたうえでのものだと僕は考える。

(また、説明を重視することは、徳の学習の場面でも重要な役割を果たす。徳は説明できるものだからこそ、徳を教えることができる。その点で、徳を教授する者には知性が必要である。また、その説明を理解して徳を身につけるためには、学習者にも知性が必要である。)

だが僕はそこに限界を感じる。説明の重要性を強調するあまり、徳が徳として成立するためには説明が必要である、とまでいってしまうと、話がおかしくなってしまうのではないか。もし説明が徳の必要条件であるとすると、説明する能力を有しない人は徳を持っていないということになってしまう。つまり言葉がしゃべれず、文字が書けず、手話やモールス信号のような全てのコミュニケーション能力を持たない人は有徳者ではありえないということになってしまう。だが、もし言葉を覚える前の(ただし溺れる人を発見できる視力はある)ヘレン・ケラーのような人や人間とは隔絶した世界に住むターザンのような人が、通りすがりに溺れる子供を助け、何も言わずに去っていったなら、その人が有徳者であることは間違いないだろう。説明とは徳の必要条件ではなく、せいぜい、徳に偶然的に付随することが多いものであるにすぎないのではないか。確かに、説明があったほうが徳はうまくいくが、説明がなくても徳がうまくいかない訳ではない。

(説明を必須とせずに徳と悪徳の区別をどうするのか、という疑問についてはこれから評価の問題として論じていきたい。また説明がなければ徳が学習できないという問題については、アナスの議論は全体論的な過程の議論であり、少なくとも学習を開始する場面は説明できなくてよいと答えることができると考えている。)

また、徳において説明が必須であるとすると、世の中にいくらでもあるだろう、誰にも気づかれずなされる有徳な行為というものが否定されてしまう。大声で周囲に知らしめながら押し付けがましく行う行為より、あえて説明せずに密やかに行われる行為こそが有徳であるという感覚すらある。アナスは徳と悪徳の評価といった問題に対処しようとするあまり、明らかに勇み足をしてしまっている。

ここでも問題となるのは客観性の問題である。アナスは、徳と悪徳を見分けるためには徳の説明が必要だとしている。つまり、説明を通じて徳を顕在化させることにより、客観的な立場から把握し、それが徳か悪徳化を判断することができる。これはいわば裁判官のような他者に弁明をしているようなものであり、そこにこそ問題があるのではないだろうか。徳とはどこまでも主観的なものであり、そこに裁判官のような他者など介在する余地はないのではないだろうか。

4-3 客観性

一つ目の上手さの問題は、教師が生徒の徳の上手下手を採点しているような視点を導入することによる問題であり、二つ目の説明の問題は、裁判官が被告に判決を下すような視点を導入することによる問題であり、いずれも客観性の問題であることを確認した。そして、僕はその客観性を拒否し、どこまでも主観的な視点をとるべきだと考えている。

僕の考えでは、徳を客観的なものとして位置づけることは、過程としての徳というアナスの考えとは折り合わない。アナスの徳とは、向上心によって学習する動的な過程として描写されるものであったはずだ。だからこそ、スラムに生まれ、慈悲深さを学ぶ機会がなかったとしても、その心に向上心がある限り徳に欠けることはないし、マザー・テレサのような人がどんなに業績を残したとしても、向上心を失ってしまったならば徳に欠ける人となる。だが、アナスが導入した裁判官や教師のような観点は、いわば静的な観点である。彼らは過程を時点で区切り、判決日や学期末時点での状況を整理したうえで確定判決を下す。その結果、スラムで生まれた人は、どんな将来性を持っていたとしても、その判決日時点では徳に欠けていたことが確定する。これは過程を重視する視点からは大きな問題ではないだろうか。

また裁判官や教師のような第三者の視点を導入することは、第2章で僕が示したアナスの隠された前提の2つ目、つまり、倫理学は私たち人間についての議論である、という点とも整合しないように思える。

考えてみよう。ここで登場した裁判官のような他者とは私たち人間なのだろうか。もしその裁判官も私たち人間であれば、その裁判官は私たち人間の関係者であり、裁判官のような超越的な第三者の立場に立つことはできない。私たちと同じ人間としての裁判官が判決を下すとき、その行為は徳から無縁ではいられない。「この一連の行為は有徳なものであった。」という言明自体が行為であり、徳の評価の対象となる。それならば、その言明についてのメタ言明も徳の発揮であり、更に・・・という無限後退が生じ、徳の評価のプロセスを終えることはできなくなる。

また、その裁判官のような他者が私たち人間ではないのであれば、それは全くの部外者であり、そのようなモノの意見を聞く必要などない。地球人とは全く異なる倫理体系を持った火星人に有徳ではなかったという判断をされても痛くも痒くもないということである。同じことを、その裁判官とは倫理学から捨象されるべき環境であると表現してもいい。いずれにせよ、私たち人間のものである徳について、徳から切り離された立場にありつつ、人間でもあるような裁判官のような他者を想定することはできないはずである。

だから僕は、徳とは客観的なものではなく、どこまでも主観的なものだと主張したい。このような問題を避け、過程としての徳を捉え切り、人間の倫理学を描き切ろうとするならば、客観的な視点が混入することを避け、主観的な視点を貫徹するしかないのだから。(同様に、幸福についても主観的なものだと論ずるべきだろう。その意味で、エウダイモニア主義を倫理的利己主義だとする批判(P.254)は正しい。それでいいのである。)

なお、アナスはヒュームの徳を批判する(p.162等)が、僕から見ると、アナスのほうに理があるにも関わらず、アナスの批判はうまくいっていないように見える。アナスは明確に次のように言うべきだったのではないだろうか。

「ヒュームの徳は客観的な徳であり、私の徳は主観的な徳であるという点で全く異なる。ヒュームの外側からの評価の徳では、私たち人間の人生という問題に答えることができない。」

また、主観と客観を峻別することにより、アナスが提起した浮気夫の問題をうまく処理できるようにもなるだろう。幸福に家族生活を営んでいたと思っていた妻が、実は数年前から夫が浮気していたと気付いたとしたら、浮気されながら浮気に気づく前の時点の(たとえば1年前の)妻は幸せだったのだろうか、という問題である。アナスはここに主観と客観の困難な問題を見出すが、徳も幸福もどこまでも主観的な問題だと捉えるならば、この問題は成立さえしない。そもそも、時間を俯瞰的に眺め、1年前に遡るような客観的な視点自体がありえないのだから。

5 想定される批判

このような僕の考えに対しては、いくつかの批判を想定することができる。その想定される批判に反論することで、僕の考えをより明確に捉えることができるように思える。

5-1 後悔

まず僕が想定する反論は、「他者でなくても、自分自身が評価することはありうるのではないか。」というものだ。そのように考えることができるのであれば、裁判官のような他者という問題は解消するのではないか。

まず、この問題を扱うにあたり、自分自身による評価というものに対して、後悔という名前をつけるところから始めることにしたい。なぜなら、自分自身による評価とは必ず事後的で否定的なもので、つまりは後悔だからだ。

肯定的な自己評価もあるのではないか、という指摘もあるだろうが、もし何の問題もなく円滑にうまく成し遂げることができれば、それはフロー状態として昇華され、あえて事後的に自己評価する必要は生じない。また、うまく成し遂げたことを、誰かに自慢したり教授したりするために言葉で明確化することもあるだろうが、そこには話の聞き手という他者が介在し、厳密な自分自身による評価ではない。

事後的ではなく、その最中の評価もありえるではないか、という指摘もあるだろうが、徳の発揮の最中はフロー状態であり、評価などできない。最中に評価しているように感じたとしても、それは、当面は一区切りつけて、途中経過を事後評価しているのである。(フロー状態でもなく事後評価でもない中間的な状況がありうるのではないか、という更なる批判に対しては第8章で答えることとしたい。当面は、フロー状態と事後評価の二つしかないということで読み進めてほしい。)

以上のとおり、全ての自分自身による評価は否定的で事後的なものであり、つまりは後悔であるということになる。

さて、評価とは後悔だとするならば、後悔という評価に対する反応は二通りありうるだろう。ひとつは絶望して全てを投げ出すという反応で、もう一つは後悔を反省として次に活かそうとするような反応である。(ここには後悔とは自分自身に対する後悔であるという前提があるが、実は他にも、運が悪かったことへの後悔などもありうる。しかし、そのような後悔は環境の問題であり倫理の問題ではないということをアナスが明確にしてくれている(p.130)。)

前者の全放棄という反応をとった場合、いわばそこで人生は途切れる。文字通り途切れるかどうかは別として、少なくとも、アナスが重視した過程としての徳は途切れることとなるだろう。絶望により、その人は徳の範疇にとどまり続けることができず、徳の問題から離れてしまうのだ。この場合、後悔という事象を徳は捉えることはできない。なぜなら、後悔により徳の範疇から離脱してしまう人のことを、徳が把握することはできないのだから。徳という道具は徳という道具が機能する範疇で起こるできごとしか捉えることはできない。

後者の反省という反応をとった場合、後悔とはまさにアナスが徳における重要性を強調する向上心そのものであると解釈することができる。そうすると、後悔、つまり自分自身に対する否定的な事後的な評価とは、まさに徳の発露である、ということにすらなる。その場合、後悔のなかに含まれる、向上心としての肯定性と、後悔として否定性との間のずれの問題は先鋭化する。徳の発揮について否定的な評価をしていたつもりが、その評価作業自体が肯定的な徳の発揮につながっている。この事態は肯定的なものなのか、それとも否定的なものなのか。

この一連の経緯は決して否定的な事象とは言えないだろう。なぜなら、失敗して後悔して反省することは、徳を身につけるための唯一の道だとも言えるだろうからだ。失敗や後悔というと、とても大きな出来事のみをイメージしてしまうかもしれないので、円滑にものごとが運ばないひっかかりや抵抗と言ったほうがいいかもしれない。僕は電車で、何メートルも離れたところで立ったままの老人がいても、わざわざ席を譲ろうとまでは思わない。徳の発揮に失敗したと後悔することはない。だけど、心のどこかで引っかかるものがあり、近くに老人が来たら次は譲ろう、なんて思う。(実際には次も譲らなかったりするけれど。)そんな些細な後悔とも言えない後悔の積み重ねによってこそ、徳は身につけられるのではないだろうか。そうだとするならば、後悔とは、反省を通じた徳の学習過程そのものであり、そのプロセスの一部を切り取り、否定的な自己評価のみを問題とすることは意味がないということになる。

以上のとおり、後悔は、全放棄と反省のいずれの反応であったとしても、徳において何ら機能することができない。全放棄であれば徳と全く乖離してしまうし、反省であれば徳のプロセスに完全に癒着してしまう。自分自身による評価の内容によって徳を捉えようとする試みはうまくいかない。

5-2 知性の潜在・人間本性

また僕の考えに対する別の批判としては、「知性は常に顕在しているものではなく、潜在することもあるという側面を見落としているのではないか。」というものがあるだろう。アナスも「(幸福や徳について)説明や教授のために必要になるときは、その思考を呼び戻し、再活性化させることができる。」(p.271)と言っている。この考え方によれば、知性は徳とともに常に顕在している必要はなく、あたかも知性を伴わないように見える徳があってもいいということになる。そして、必要に応じて知性を呼び出し、徳について説明を加えることもできるし、場合によっては、あえて徳に説明を加えなくてもよいということになる。そのように考えるならば、アナスは僕の批判を乗り切ることができるだろう。

しかし知性があるからには、客観的にせよ、主観的にせよ、何らかのかたちで知性があるということを顕在的なかたちで根拠づけられる必要があるのではないだろうか。客観的には、(先ほど、その道筋は否定したが)あの行為は熟慮により知的に行われたものだと説明を加えるというやり方があるだろう。また主観的には、知的な向上心が感じられるというような根拠付けがありうる。では、客観的にも主観的にも顕在化していないものについて、潜在的な知性として位置づけられる根拠はどこにあるのだろうか。

アナスならば、潜在していても知性がそこにあることは、人間本性に根拠付けられていると言うのだろう。人間の根底には知性が確かにあるのだから、一見、知性が顕在化していなくても、いつでも知性を呼び出すことができる。実は僕はこれまで人間本性という言葉を意識的に避けてきたが、アナスは人間本性により根拠付けるような論じ方を決して隠してはいない。例えば、アナスはプラトンに対比したアリストテレスの徳の説明について、自然主義的アプローチとし、「人間本性を超える何ものにも訴えることがないから」(p.192)という理由で擁護している。(なお僕は、人間は完全な徳に到達できないと考えており、「人の生の限界と、人の生に必ずともなう衝突や失敗によって、私たちは常に挫折を味わう」(pp.191-192)というアナスによるプラトンの描写のほうが正しいと考えている。)

僕は、このような論じ方があってもいいと思う。だが、そうすると僕にとってのアナスの魅力は大きく減じることになる。アナスの論じ方を正面から受け止めるならば、アナスの徳とは、人間本性に根拠付けられたものであることになる。そうだとするならば、僕がアナスから学んだことのほとんどは無駄になってしまう。僕はフロー状態と徳との関連性を学んだけれど、徳が人間本性に根拠付けられているのであれば、徳がフロー状態に似たあり方をしているのは些末な偶然の一致にすぎなくなる。また、僕はアナスから全体論的な論じ方を学んだけれど、徳が人間本性に基礎づけられているとするならば、アナスの議論は全く全体論的ではなくなる。アナスの議論全体の中で、人間本性で徳を基礎づけるというアイディアは明らかに浮いている。このような短所には目をつぶり、長所を生かしてアナスを理解することでこそ、僕にとってのアナスの議論の価値は高まる。

よって、ここでは人間本性のような道具立てを使うことは注意深く避けることにしよう。そうすると、潜在する知性のようなものを根拠付ける道具立ても失われ、この批判は成立しないこととなる。

5-3 遂行的価値

僕は、上手に徳を発揮できたかどうかというような結果や、徳の発揮についての説明を拒否するべきと主張している。そして徳の客観的な把握を拒否し、徳の主観性を貫徹すべきと主張している。

だがそれでは、アナスが重視していた学習者と熟練者の区別も、徳と悪徳の区別も不可能となる。すると学習者が熟練者になるほうが望ましいということも言えなくなるし、悪徳よりも徳のほうが望ましいということも言えなくなる。それでは世界が倫理的に改善されるという事態を描写することができず、そもそもこの議論には倫理学としての存在価値がなくなってしまう。これは客観の側からの最大の批判だと思う。

僕はそのような批判を全面的に受け入れ、僕の議論には倫理的な価値がないことを認めたいと思う。ただし、ここで放棄する倫理的な価値とはあくまで客観的な価値である。

僕は、哲学的な議論には客観的な価値とは別に主観的な価値というものがあると思っている。主観的というと僕の狙いよりも限定的な意味合いを持ってしまうので、遂行的な価値と言い換えたほうがいいかもしれない。この文章で書かれた内容に認められるものが客観的な価値だとするならば、実際にこの文章を読んだ読者(やこの文章を書いた僕)が自ら、この文章で描写したような思索を遂行することにより得られるものが遂行的な価値である。客観的な価値と遂行的な価値は似ているけれど違いがある。例えば、書かれていることが論理的に矛盾しており全く理解できなくても、それでもなぜかそこには無視できないものがあり、その後の読者の人生に影響を与えるということがありうる。この場合には客観的価値はないが遂行的価値はあるということになる。

そして、この文章は、客観的な倫理的価値は伝えられなくても、この文章を読んだ人に、遂行的な倫理的価値を伝えることを目指して書いている。僕が書いたこの文章は、その内容として、世界を倫理的に改善するような描写をすることには失敗するだろう。それでも、この文章を読んだ人が、この本を読む前よりも、世界を倫理的に改善することを目指したいと思うことはありうる。もしそれが成功したならば、僕のこの文章は倫理学的に成功した文章だと言ってもいいのではないだろうか。

結果や説明につながる徳の客観的価値を拒否したうえで、僕は徳の遂行的価値を追求していく、というのがこの批判に対する答えとなる。

5-4 徳の描写

僕の文章に対しては、もうひとつ、別の意味で決定的な批判がなされるべきだ。僕は徳の発揮段階は無視するべきであると主張している。また徳について説明的な描写をすることも拒否すべきであるとも主張している。だが、実際にはこの文章では、あたかも発揮段階においてこそ徳が見いだされるような描写をしているし、しかも発揮される徳について説明的な描写をしている。徳はどこまでも主観的なものであるとしつつ、徳は客観的なものとして描写している。これは自己矛盾ではないか。

確かにそうである。僕はこの文章では主観的で遂行的な徳を取り扱っているが、その徳を読者に示すためには、その徳を客観的に描写せざるを得ない。溺れた子供を助けるというような徳の発揮の場面を抜きにして勇敢さという徳を読者に伝達することはできないし、それを徳として説明するためには、たまたま泳いでいたら手に子供がひっかかったのではなく、子供が危機に陥っていたので意図的に救おうとした、というような説明的な描写をしなければならない。そして実際にそのような描写をしている。

だが正確には、そのようなかたちで客観的に観察できる徳の発揮の場面には徳はない。先ほど述べたとおり、主観的な徳とは、もし溺れる人をみかけたならば速やかに助けようとするような心構えとその心構えに基づく各種準備としてしか表現できないものなのだから。

いや、そのような描写をしても、その各種準備が、例えば心臓マッサージの勉強というように客観的に捉えられてしまったらまずいだろう。なぜなら、心臓マッサージの勉強をできるような環境にいるかどうかは運に左右されてしまうからだ。スラムの住民がお金を払って心臓マッサージの技術を身につけるのは困難だろうけれど、だからといって、たいした負担感もなく心臓マッサージの講習を受けられる裕福な人に比べて徳に劣る訳ではない。これはアナスが指摘する環境の問題である。つまり各種準備について、心臓マッサージの勉強といった具体的で客観的な描写がされてしまったとたん、それは倫理学と無縁な環境の問題に転化してしまうことになる。より正確を期すためには、各種準備とも表現できないような各種準備とも表現できないような・・・・とどこまでも続く無限後退への道を採用するしかない。

僕はこの文章で「どこまでも主観的なもの」という客観的な言葉では扱いにくいものを扱っている。だから、ある程度の誤差がある言葉遣いをすることはご容赦いただくしかないと思っている。僕は、あたかも客観的な説明が可能な徳の発揮段階こそが徳であるように描写してきたし、これからもそのように描写するしかないけれど、本当に取り扱っているのはそのようなものではない。今後もそのような表現があったら、客観を主観にずらしてお読みいただきたい。

なお、これは純粋に主観的なものを表現する言葉がないというだけの話であって、既存の言葉がたまたま有する偶然的な問題であると僕は考えている。よって、ちょうどいい言葉が見つからないことは僕の言説の価値を損なうものではないと考えている。

5-5 尊敬・憧れ

僕はここまで、主観を貫徹する立場から他者による評価を否定し、また、自分自身による評価も、過程としての徳と癒着して機能しないことを理由に否定した。つまり僕は評価というものを完全に否定しようとしている。

だが、ここまで述べてきたような評価とは全く異なるあり方の評価もありえるだろう。僕が思いつくのは、尊敬や憧れと呼ばれるようなものである。これらを評価と呼ぶべきかどうかはわからないけれど、少なくとも、これまで批判してきた評価とは異なるあり方をしているように思える。ここまで批判してきた評価とは、いわば裁判官の判決や教師の採点のような評価である。そのようなものと尊敬や憧れは大きく異なる。

裁判官や教師が取り扱うのは既知のものである。知っているからこそ、それを評価することができる。一方で、尊敬や憧れは未知のものに対する思いである。僕たちが偉人を尊敬して憧れるのは、僕たちには到達できないような未知の領域に、その偉人たちが到達しているからである。僕は、坂本龍馬ほどエネルギッシュになることはできないから、彼がどれほど精力的に日本中を駆けずり回っていたかを正確に捉えて評価することはできない。だから坂本龍馬に憧れる。(僕は坂本龍馬ファンではないので、あくまで一例です。)ものごとを正確に把握するためには自分自身をものさしにして評価するしかないので、そのものさしを大きく超える人のことを評価することはできない。そして、だからこそ尊敬して憧れる。

尊敬や憧れとは、評価できないものに対する評価であるとも言えるだろう。なぜなら、評価できないものに対しては、尊敬や憧れのほかに、嫌悪や無関心という反応もありうるからだ。嫌悪や無関心ではなく、尊敬や憧れという反応を選ぶということは、通常の評価とは異なるがひとつの評価だとは言える。

では、嫌悪や無関心ではなく尊敬や憧れという反応を選択するのはどうしてかといえば、それは坂本龍馬が自分の目指す方向性を指し示しているからだと言ってよいだろう。坂本龍馬ファンは、彼のように精力的に大きな夢を目指して生きていきたいと願うからこそ、坂本龍馬に憧れる。

ここで不思議なことに気づく。坂本龍馬ファンは、坂本龍馬のことを正確に把握することはできず、彼がどのように精力的で、どのように大きな夢を持っていたかを正確に理解することはできない一方で、その理解できないものを目指すという決断をしている。これはつまり、人には、知らないことを目指すことができるという特殊な能力があるということである。これはつまり、目的地点がどこかを説明しないまま、人をスタートラインに立たせても、その人は号砲とともに迷いなく走り出すことができるということである。

この不思議な能力はアナスの向上心を成立させるものでもあるだろう。なぜなら、向上心とは、まだ手に入れていないものを目指すことができるというということであるから。憧れとは、成長というものを駆動する、不思議な人間の能力である。

6 徳の収斂・統合

僕はここまで、アナスを評価しつつも、アナスが重視する実践的知性に批判を加えてきた。

アナスのアイディアを再確認しておくと、アナスは、勇敢さや気前の良さや慈悲深さといった各種の徳が知性により収斂してひとつに統合されるべきだと考えている。なぜなら、敵の少年兵に銃を向け、引き金を引くかどうか葛藤が生じるような事態は、私たち人間が目指す人生のあり方ではないからだ。そのような問題が生じないよう、徳は調整され、人は円滑に生きられるべきである。そしてアナスはその調整機能を知性が果たしていると考えている。知的に深く考察し、勇敢さと慈悲深さが両立できるようなより深い徳のあり方を見出すことにより、少年兵に銃を向けるという困難を乗り越えることができる。そしてアナスは、徳について深く考察するためには、より上手な徳の発揮を目指すことや、徳の発揮について客観的に説明できることが前提として必須だと考えている。(アナスはここまで明確には語っておらず、徳の統合においては、ここで述べているような個人的な側面と並び、またはそれ以上に、社会的な側面を重視しているように見える。だがそのようなアイディアを成立させるためには、人間本性のような新たな道具立てが必要と思われる。よって、ここではアナスの考えを僕の議論に乗せるため、限定的に捉えることにする。)

僕は、勇敢さや気前の良さや慈悲深さといった各種の徳が収斂してひとつに統合されるべきということまでは同意するが、それが、上手さや説明といったものを前提とした知性によりもたらされるという点を批判している。そしてここまでの説明により、その批判は成功したと考えている。

それならば僕は、次に、アナスのやり方によらず、いかに各種の徳を収斂して統合するのかを示さなければならないだろう。

6-1 私たち人間のひとつながりの人生

その問題に答えるにあたっては、まず僕とアナスの違いを明らかにしておく必要がある。僕もアナスと同様に各種の徳が収斂してひとつに統合されるべきとは考えるが、その統合のされ方だけではなく、そもそも統合すべきと考える理由が大きく異なるのだ。

アナスは各種の徳の衝突により生ずる葛藤をなくし、円滑に人生を生きるために徳の統合が必要と考えている。一方で僕は、もっと手前に解決するべき問題があると考えている。その問題とは、第2章で隠された前提として指摘したとおり、私たち人間のひとまとまりの人生を考察の対象とすることを前提とするという問題である。なぜそれぞれの個人ではなく、私たち人間という集団を考察の対象とするのだろうか。また、なぜそれぞれの瞬間ではなく、人生という幅を持った時間を考察の対象とするのだろうか。倫理学はこの問題に答える必要がある。これは倫理学の範疇を超えた難問だと思う。

だが、その問題の難しさに反して、答えは簡単である。答えは、それが倫理学だから、というものである。私たち人間のひとまとまりの人生を考察の対象としない倫理学というものはありえないように思われるし、少なくとも、そのようなものに倫理学としての魅力を感じられない。私たち人間の人生という捉え方を出発地点とした「人はどう生きるべきか」というソクラテスの問いこそが倫理学の初発の問いなのである。

もし、「私たち人間のひとまとまりの人生」というものを前提としないならば、その人の生は破綻するだろう。それは決して倫理的に好ましい状況ではない。人は「私たち人間のひとまとまりの人生」を生きる「べき」なのである。そのことを認めたうえで、どう生きるべきかを考えるのである。

(このような答え方を拒否するのが永井均であり、そのような道筋についても後ほど検討する。)

このことに同意してもらえるならば、あとの道筋は簡単である。この議論は私たち人間のひとまとまりの人生を前提とするのだから、徳は、私たち人間のひとまとまりの人生として収斂して統合されなければならない。勇敢さや気前の良さや慈悲深さといった各種の徳がひとつに統合されるのは、いずれもが人間の徳であり、人生における徳であるということにおいてなのである。そこに知性のようなものを介在させる余地はない。

いや、アナスとは異なる意味で知性という言葉を用いることはできるかもしれない。私たち人間という捉え方や、ひとつながりの人生という捉え方をできるのは知性によってである、という言い方によってである。哲学的な道具立てを用いるならば、人称と時間という視点でこの世界を捉えるというあり方こそが、倫理学的な知性なのだと言ってもいいだろう。これは実践的な知性ではなく、どこまでも思弁的な知性である。(そして、人称を空間と言い換えることが許されるならば、時空というカント的な捉え方にこそ倫理学の起源があると言ってもいいと思う。)

アナスの実践的知性に説得力があるのは、ここで述べたような、より基礎的な思弁的知性を隠された前提としているからだとも言えるだろう。少年兵に銃口を向けたときに葛藤が生じるのは、彼が同じ人間だからである。そして葛藤の末、少年兵を撃ってしまった後も後悔し、その後悔を糧に、より勇敢で慈悲深くなり、次の機会によりよい選択ができるように成長するのは、そこにひとつながりの人生があるからである。そして、その後悔を他の人間が味わうことがなくて済むように他者に徳を教授し、世の中を変えることを目指せるのも、その世界が私たち人間のものだからである。

「人はどう生きるべきか」という問いの重要性を認め、私たち人間のひとつながりの人生を考察の対象とすることに合意したならば、あとは水が高いところから低いところに流れるように自然に、すべてはそこに収斂していく。それが倫理的知性の力なのだと思う。または倫理学の力といってもいいだろう。

もし倫理学とはそのようなものであることを認めるならば、エウダイモニアとも呼ばれるような人生の究極目的も自ずと明らかになってくる。それは私たち人間が人生を生きるということと不可分であるはずだ。例えば、「私たち人間の間で共有できるような人生の目的を探すことが、人生の究極目的である。」というような言い回しを僕は思いつく。若干の言葉の不正確さはあるかもしれないが、概ね、倫理学の範疇において人生の究極目的を探す限り、そのような答えとなるしかないだろう。

7 時間

7-1 倫理学からの脱出

実は、僕自身は、このような答えでは満足できない。それはつまり、「私たち人間のひとつながりの人生」という倫理学の問題設定に満足できないということである。では僕はどのようにして、この倫理学の領域から脱出すべきなのだろうか。

脱出の道としては二通りあるだろう。ひとつめは「私たち人間」という人称を問題とする方向であり、もうひとつは「ひとつながりの人生」という時間を問題とする方向である。(これは、永井均が「独我論」と「独今論」として論じている問題であり、この節で述べることは「独今論」的な永井倫理学から大きくはみ出るものではない。)

道筋はどちらでもいいのだけど、僕は、人称よりも時間のほうにより深い問題を感じているので、ここからは「ひとつながりの人生」という時間の方を論じていきたい。そうすることで、「人はどう生きるべきか」「人生の究極目的」というような倫理的な問題について、僕が納得できるような答えを探していきたい。

さて、第2章で人生という前提の話をした際に、人生というものを成立させる常識的な時間のあり方を全面的に受け入れるというところから倫理学は始まっており、そこから問題が生じているということを指摘した。この問題を足がかりにして、時間に関する議論を始めることにしよう。

常識的な時間の捉え方とはどのようなものかというと、未来は現在になり、現在は過去になるという捉え方のことである。一方の非常識的な時間の捉え方とはどのようなものかというと、現在だけが全てだという考え方のことである。

ただし、非常識だと言っても、その発想はそれほど非常識なものではない。未来は現在になり、現在は過去になるというのは常識だけど、もうひとつ、未来は未確定だが、過去は確定しているという常識がある。このもうひとつの常識を推し進めると、未来・現在・過去はそれぞれ断絶しているという立場に至る。そのうえで、僕たちがいるのが現在であることを認めるならば、現在だけが特別だという考え方に至る。まだ来ない未来に希望を持つのも、過ぎ去った過去を懐かしむのも現在においてである。そのような考えを究極まで進めると現在だけがすべてである考え方に至る。

現在の特別さに関する別の説明の仕方としては、変化というものは現在においてしか生じないという言い方もできるだろう。2011年3月11日に東日本大震災が起きたのは、その日が現在だったときにおいてだけである。その日が未来だったときには東日本大震災は起きなかったし、その日に過去になってからは、東日本大震災が起きることはない。世界は現在においてのみ変化する。そのことを未来・現在・過去を同等に取り扱う常識的な時間観は捉えることができない。

現在ではない過去や未来を完全に否定するかどうかは別として、少なくとも現在が特別であるということを認め、現在優位の立場から過去と未来を眺めることは、アナスとは異なるかたちで倫理学を整理するためのひとつの視座を与える。

アナスの議論が、ひとつながりの人生を前提とし、現在に特別さを認めず、未来・現在・過去となめらかに接続するような常識的な時間観を前提としていることについては、それほど説明を要しないだろう。アナスは徳と向上心や学習を密接に関係付けるが、人生という長期的な視野でものごとを捉え、現在を特別扱いしないからこそ、現在を犠牲とし、将来のために向上心をもって学習し成長することができる。

逆にアナスは、時間というもののあり方の不思議さを、向上心・学習・成長といったものに押し込めて捉えてしまっていると考えてもいいだろう。先ほど述べたとおり、アナスのように未来・現在・過去を同等に捉えるやり方では、現在においてしか生じない変化というものをすくい取ることはできない。だが、アナスは変化しないはずのものを、なぜか向上心・学習・成長という図式で描き出してしまっている。そのうえで、傾向性という言葉によって、それでも変化しないものをあえて回復したりもしている。ここにアナスの議論のぎこちなさがあるように僕は思う。

アナスの議論を常識的な時間観から解き放ち、再解釈することで、「私たち人間のひとつながりの人生」というアナス的な倫理学の領域から一歩踏み出すことができるのではないだろうか。

7-2 肯定性

ここで留意点がある。ここから僕がやろうとしていうることは、単に倫理を否定してアモラリストになるというようなものではない。(僕はさきほど永井倫理学も持ち出したけれど、ここで袂を分かつことになる。)

僕はそのような道筋はまずいと思っている。なぜなら、そこには肯定性がないからだ。第2章でアナスの隠された前提の三つ目として指摘したとおり、僕は肯定性を重視している。自らの思索を文章として表現するという営みに携わっている限り、この肯定性から離れることはできないと考えている。

なお、この肯定性は、言語においては肯定は否定に先行する、というところにも現れている。例えば、「道徳は存在しない。」という言葉は、まず「道徳は存在する。」という言葉があって、そこに否定する操作を加えることでつくりだされる。道徳というものを肯定的に把握したうえで、それを否定するのだ。初発的な道徳の肯定的な把握すら拒否する完全なアモラリストは論理的には存在していてもいいけれど、それを道徳という言葉によって表現することはできない。道徳という言葉が文章で表現されたならば、そこには必ず肯定性が含まれている。

以上のような意味で、哲学と呼ばれる「自らの思索を文章で表現するという営み」が持つ肯定性とは、哲学が必然的に有する肯定性なのである。

そのように考えるならば、肯定性とは、アモラリストに陥らないための単なる留意点であるだけではなく、哲学を行ううえでの指針ともなるだろう。これを「哲学を行うにあたっては、哲学が持つ肯定性に留意するべきである」という指針とするならば、肯定性とは哲学の広義の倫理性であると言ってもいいかもしれない。以下の考察ではこのことも念頭においていきたい。

7-3 成長

さて、アナスは、将来のために向上心をもって学習し成長するひとつながりの人生を前提として自らの徳倫理学を描いている。僕はそれを時間的な論点を軽視したものであるとして批判してきた。

だが、アナスの議論は無時間的である訳ではない。常識的な時間観にとらわれたものではあっても時間をしっかりと考慮に入れており、あえて言えば、常識的な時間観に乗っかっているからこそ、時間というものを生き生きと描写することができているとさえ言える。僕はそのことを、アナスの議論は動的な過程の議論であるとして評価している。

アナスの徳とは過程としての徳であり、アナスの徳倫理学とは動的な倫理学であり、義務論や功利主義といった静的な倫理学とは一線を画するものである。僕はそのことを評価したうえで、アナスの過程としての徳がどのようにして成立するのか、より時間に意識を向けて捉えるべきであると考えている。

7-4 過去

そこで考慮するべきと考えるのが、未来は未確定でそこに自由があるが、過去は確定していて自由がないというもうひとつの時間の常識である。ここに表現されているのは時間の非対称性である。

文章で表現することにこだわる僕とってはこの非対称性の問題は極めて重要である。なぜなら、文章で描写されたことは確定した過去ばかりだからだ。「今朝は寒かった」という描写は過去のことであるのは当然として、一見、現在や未来についての描写のように思えるものでも、よく考えるとそれは過去のことである。例えば、「目の前に時計がある」という描写は現在のことのようだが、その描写を読む人にとっては過去のことである。「明日も休日だ」という描写は未来のことのようだが、読む人にとっては、それは過去に作者が既に行った描写である。既に描写されたものであるという点で、どんなに現在の現在性や未来の未来性を強調した描写であっても、それは過去のものである。

なお、この問題は、過去の想起や未来の想定であっても立ち現れるのは現在においてである、という主観的な現在主義の問題とは違うものだ。それを真似るならば、現在についてのものであっても未来についてのものであっても描写されたならば過去のものであるという客観的な過去主義と言ったほうが近いかもしれない。この世界についての描写は過去ばかりである。

なぜ描写にここまでこだわるのかというと、僕が哲学の文章を書くということと、世界を描写するということは切っても切れない関係にあるからだ。僕が哲学を書くという営みは、描写から逃れることはできず、よって、過去から逃れることはできない。それはつまり、哲学の文章とは過去に書かれたものである、ということであり、それはすべての哲学者の文章が逃れることができない定めであり、アナスの文章も例外ではない。

僕はアナスの議論を評価しつつも、その根底にある理想主義的な臭いにどこか胡散臭さを感じた。当初、僕は、その内容としてのエリート主義的な色合いが胡散臭いのかな、と思っていた。だけど実は内容が問題なのではなく、確定した過去しか描写することができないはずの哲学が安易に理想を語るということ自体にこそ僕は拒否感があったのだな、と気付いた。書かれたものは過去のものである、という過去主義に基づくならば、哲学はそう簡単に未来を語ることはできない。

(アナスは徳の学習という側面を強調するけれど、学習とはつまり過去からの学習であり、教師は過去の象徴であるとも言えると思う。過去の象徴であるはずの教師が未来を教えるというのは欺瞞だろう。またアナスは、目標の連鎖とでも言える作業を行うことで人生の究極目標のようなものに至る道筋を示そうとする。(pp.203-204)これは、哲学による過去化の典型例であり、このような描写により世界を見渡すように描写することができる、とするのは哲学の典型的な誤りだと思う。だからこそ、このような思考経路により見いだされる人間本性というものを僕は拒否している。)

7-5 遂行性

それでは僕は、哲学が理想や未来を語ることを拒否し、アモラリストのダークサイドに堕ちるのかというとそうではない。先ほど触れた、哲学というものに本質的に含まれている肯定性により、なんとか踏みとどまることができるはずだと僕は考えている。

そこでの足がかりは現在である。過去はこの世界の描写すべてであり、未来は描写できないが、現在はそのいずれの領域にも含まれていない。いや哲学は現在のことも描写できないはずだったのではないか、と思われるだろう。しかし実は特殊なやり方をすれば、「現在、目の前に時計がある」という過去的な描写とは別のかたちではあるが、現在を描写することは可能である。

その特殊なやり方とは哲学者が発明した再帰的な描写によってである。最も有名なのはデカルトのコギトだろう。コギトっぽく表現するならば、「現在、目の前に時計がある」という描写が行われた時点は悪魔の欺きによって操作されてしまうとしても、そのように描写している現在があるということは決して否定できない。何月何日という時点として描写される過去化した現在ではなく、そのような特別な現在があるということは哲学で表現することが可能である。

では、そのような特別な現在について、哲学は何を語ることができるのか。まず、その現在とは、哲学書を書く者にとっては、哲学書を書く現在であり、哲学書を読む者にとっては、哲学書を読む現在でなければならない。なぜなら、哲学書上に表現される現在とは、その二通りでしかありえないからだ。先ほど、「現在、目の前に時計がある」という現在を特別な現在の一例としたが、その文章を読むとき、読者の目の前には時計はないかもしれないし、もしあったとしても、読者は時計ではなく、この文章を目で追っているはずだ。どんな読者であっても、その読者が読者である限り、現在、読者は本を読んでいる。そのような意味で、読者の現在とは哲学書(この文章が哲学書と呼べるかは別として)を読む現在でなければならない。(なお、作者である僕だけは、この文章を書く現在である。)

哲学的な文章を書き、そのような文章を読むことを哲学の遂行と名付けるならば、現在とは哲学の遂行であり、哲学の遂行こそが、記述され確定し尽くした過去に満ちた世界のなかに唯一見出すことができる非過去であり、世界に差し込む唯一の光である。なぜ、それを光に喩えるのかというと、そこには哲学の遂行に伴う肯定性があるからである。

哲学は描写というやり方で世界を過去的に捉えることしかできない。だから、どんなにすばらしい哲学書であっても、その内容のみで未来や理想といったものを捉えることはできない。だが、哲学書を書き、哲学書を読むという哲学の遂行という作業を考慮に入れるならば、遂行を通じて現在にアクセスし、現在を経由するようにして未来にアクセスすることすらできる。なぜなら、そこには肯定性という光が差し込んでおり、それは未来や理想と名付けられるだろうものを呼び込むはずだからだ。

(なお僕は、哲学を遂行しなければ未来や理想にアクセスできないと言っているのではない。そもそも描写による過去化を経ずに未来や理想に直接アクセスできるのであれば、そのほうがなおよいはずだ。それはつまり、哲学ではない遂行の道筋である。描写による未来や理想の喪失と、遂行による未来や理想の回復という哲学の迂遠なやり方よりも、ただ未来や理想に向けて行動するほうがよほど潔い。そのような意味でも遂行性は重要である。)

哲学には肯定性と遂行性という二つの特徴がある。そしてこの二つの特徴こそが哲学を倫理的なものにしている。言い換えると、哲学が有する肯定性と遂行性という特徴こそが哲学の一領域としての倫理学を成立させているということであり、また、哲学が有する肯定性と遂行性という特徴こそが、倫理学とは呼ばれないような哲学を含むすべての領域の哲学を倫理的なものにしているということである。以上が僕の当面の結論である。

このようにして僕はアナスを手がかりにして、「私たち人間のひとつながりの人生」という倫理学の前提を超えたところに倫理性を見出し、倫理学の倫理性ではなく、哲学の倫理性とでも呼ぶべきものの一端を捉えることができたと考えている。

ここまでの議論は、おおまかには、「私たち人間のひとつながりの人生」という倫理学の前提を頼りに進む倫理学の倫理性の段階と、肯定性・遂行性という哲学の前提を頼りに進む哲学の倫理性の二つの段階としてまとめられるだろう。僕はあたかも前者が後者によって乗り越えられるような描写をしてきたが、そのような一方的な関係にはないということは留意しておく必要がある。

例えば、哲学を哲学として語ることができるのは「私たち人間のひとつながりの人生」があるからだ、というかたちで倫理学が哲学を支えている側面もある。きっと、倫理学の倫理性と、哲学の倫理性は互いに互いを支え合うようなあり方をしているのだろう。それがつまり、アナスから学んだ、全体論的であるということである。

また、時間には連続と断絶の二面性があるのとパラレルに、連続的な時間観に基づく「私たち人間のひとつながりの人生」という倫理学の倫理性と、特権的な現在に基づく肯定性・遂行性という哲学の倫理性があるとも言えるだろう。つまり、時間も全体論的なあり方をしているということになる。

8 おまけ

僕がアナスの本を読んで考えたことをひとつながりのお話にするととりあえず以上のようなかたちになる。最後におまけとして、ここまで語ることができなかったことを少し展開させておきたい。

まず、僕が重要だと思っているアナスの二つのアイディア、つまり、フロー状態と動的な過程性の話に立ち戻ってみよう。

8-1 フロー状態

8-1-1 3分類

アナスのフロー状態は、僕が重要視してきた肯定性と遂行性をうまく捉えている。人生を前向きに肯定的に生きようとし、そしてそれを順調に円滑に遂行しているとき、やっていることが何であっても人はフロー状態になるからだ。

一方の、前向きな肯定性を伴わない遂行のことを、アナスは機械的反応と呼ぶ。朝、寝ぼけながら惰性でなんとなく出勤するような状況のことである。アナスのフロー状態と機械的反応(状態)という分類は、肯定性の有無という観点から人間の状態を二つに分類することに成功している。

ただし、前向きな肯定性がある遂行であっても、その遂行は必ずしも円滑に行われるとは限らない。円滑ではない遂行というものもある。前向きに生きようとしても順調にものごとが進まなくなったとき、人は立ち止まって試行錯誤というかたちの遂行を行う。そんなとき人は考える。僕はそれが哲学の始まりだと思っている。つまり、肯定性を伴う遂行は、円滑性の有無という観点から、円滑なフロー状態と円滑ではない広義の哲学とに分類される。

以上のことをまとめると、人の状態は、フロー状態、機械的反応状態、広義の哲学状態の三つに分類できるということになる。まず、肯定性の有無で機械的反応状態とフロー状態・広義の哲学状態とが分けられ、更に、円滑性の有無でフロー状態と広義の哲学とに分けられるというかたちで。

8-1-2 機械的反応 慣性

ここでまず留意すべきは、機械的反応は肯定的ではないが、決して否定的でもないということだ。肯定的ではないというと、例えば、失恋して落ち込んで自殺したくなるような状況を思いつくかもしれない。だが、そのような状況は、僕の区分では広義の哲学状態に分類される。なぜなら、きっとその人は前向きに円滑に生きたいのに、それが叶わず試行錯誤している状況だからだ。肯定性がそこに含まれているからこそ苦しんでいる。

ただし、もしその人が自殺することを決心し、ただそれを遂行するならば、それは機械的反応となる。その人は、惰性で出勤するように、惰性で自殺を遂行する。きっとそこには葛藤があり、哲学状態への行きつ戻りつがあるだろうが、少なくとも最後の一瞬は惰性で機械的に遂行するはずだ。

惰性というとネガティブな色合いが出てしまうなら、慣性と言ったほうがいいかもしれない。僕たちはフロー状態でも哲学状態でもないとき、あたかも勢いがついたボールがそのまま転がるように、慣性で行動をする。僕は毎朝布団の中で、前向きに出勤を遂行することについての哲学的葛藤の末の決心を行った後は、慣性で出勤作業を遂行する。

このような慣性による遂行が機械的反応であるとするならば、機械的反応は肯定的ではないが否定的でもないということは明らかだろう。機械的反応は価値中立的なのである。

8-1-3 広義の哲学 抵抗のある再帰的な思考

また、ここまで用いてきた広義の哲学という言葉については説明が必要だろう。明らかにここでの哲学とは、通常は哲学と呼ばれないものを含んでいる。広義の哲学というのは、僕の言葉感覚としてはいいネーミングなのだけど、そこに違和感があるなら、とりあえずは「抵抗のある再帰的な思考」と言い換えてもらったほうがいいかもしれない。

まず、抵抗とは円滑の対義語として用いているものだ。円滑であればフロー状態になるが、それを妨害するものが抵抗であり、その抵抗を端緒として開始される思考こそが哲学であるというアイディアを反映している。また、再帰的というのは、そこで行われる思考は、円滑さが妨害され問題となっている状況自体を再帰的に捉えるような思考であるというアイディアを反映している。

抵抗のある思考に限定するのは、フロー状態のなかで行われる円滑な思考と区別する必要があるからだ。フロー状態になってスキーをしているとき、どちらの方向に滑ろうか、などと思考はしているが、その思考は行き詰まることなく円滑に行われる。そのような思考と抵抗を伴う哲学的な思考は異なる。失恋をしたり、少年兵に銃口を向けたりといった出口のない困難に出会ったときこそ、人は哲学的になる。

また、再帰的という限定は、パワポの操作の仕方についての思考のような、自分自身と切り離すことができる思考と区別するためである。思考には、思考する主体と思考される客体がきれいに分別されるような思考と、両者が一体になってしまうような思考との二通りがある。パワポの操作で行き詰まって悩んで試行錯誤したとしても、それが客体のみに関わる課題・抵抗である限り、その試行錯誤の過程でフロー状態に入ることがありうる。だが、そこで我に返り、疲れたなあ、ここまでパワポで作り込まなきゃいけないのかな、なんて再帰的に自分が置かれている状況を捉えてしまったら、フロー状態は解けてしまう。そこから、どうして僕はこんなことをしているのだろう、などと、自分自身が置かれた状況についての思考を再帰的に深めていくならば、それが哲学への道である。

このように僕は、その思考に抵抗があることと、その思考が再帰的なものであるということが、フロー状態における思考とそうではないときの思考とを分ける目安になると考えている。そして、フロー状態ではないときの思考というのは、つまり広義の哲学的な思考だと考えている。

以上の僕のアイディアをまとめると、人の状態には、(寝ているときなどは別として)機械的反応状態と、フロー状態と、「抵抗のある再帰的な思考」としての広義の哲学状態という3種類しかないというように整理できる。

当然、この整理は根拠がない恣意的なものだから批判はあるだろう。

8-1-4 哲学書を書く

まず心理学者ではない僕がフロー状態のような心理学的な問題を取り扱うことができるのか、という批判があるだろう。僕の整理に沿うならば、フロー状態ではない思考とは、機械的反応としての思考と、抵抗のある再帰的な思考しかないということになる。だが、このような分類が正しいかどうかは、このような哲学的な文章で結論づけるべき事柄ではない。なぜならフロー状態というのは科学的に見いだされたものであり、だとするならば、フロー状態ではない思考がどのようなものかも科学的に捉えられるはずだからだ。よって僕は、この主張はあくまで科学的に検証されるべき仮説であるということを認めなければならない。

また、この仮説が正しいとしても、きっと「抵抗のある再帰的な思考」と哲学をダイレクトに結びつけることには批判があるだろう。

まず、哲学的な文章を夢中で書いているうちにフロー状態になることをどう扱うのか、という疑問が生じる。この整理によれば、哲学的な文章を夢中で書くことは哲学ではないことになってしまう。

だが、この指摘には、それでいいのだと応じたい。僕の実感も踏まえて答えるならば、哲学的な文章を書いていても、既に思いついたことを順調に表現している限りは、それは哲学ではない。最初の哲学的アイディアの思いつきの場面は、抵抗を乗り越えてアイディアが生まれるという意味で哲学であることは確かだし、書いているうちに行き詰まり、抵抗を排してその先を書き進めようとすることも哲学である。だが、その間の書いているひとときは哲学ではない。僕の実感として、既に思いついたアイディアを表現するという作業は、フロー状態であるか機械的反応であるかのいずれかだという実感がある。ときどき、書くうちに微細な問題が生じ、その問題を細かい気づきで乗り越えるような哲学的瞬間が訪れることもあるが、少なくとも、常に哲学的に書着続けるということは起こり得ない。

8-1-5 些細な問題 タウマゼイン

また、失恋のような人生における重大な問題はともかく、パワポをうまく使えなかったり、スキーで足が痛くなったりといった些細な問題から生じる思考を哲学と呼ぶことはおかしいという批判もあるだろう。

だが、僕の実感として、そのようなことから哲学的な思考につながることはよくある。たとえばスキーで足が痛くなったとき、前向きにスキーを続けるため、僕はスキーを自分の大事な趣味として位置づけ直し、自分の人生におけるスキーの重要性を確認し、自分を鼓舞したりする。

たしかに僕は哲学というものを独特なかたちで捉えている。常識的には哲学と呼ばれないような些細な思考を哲学と捉えたり、常識的には哲学と呼ばれるような作業を哲学から除いたりしている。だが、何が哲学かという問題は、常識から答えられるものではないから、それは大きな欠点ではないように思う。僕は僕の趣味で「抵抗のある再帰的な思考」というものを哲学と名付けているに過ぎないのだから、皆さんはあえて哲学と呼ばなくてもいいとも言える。

ただし一応、僕にも拠って立つところはある。それは、哲学的驚き、タウマゼインという言葉である。僕はタウマゼインを広義の哲学における抵抗と重ね合わせることができると考えている。日常を円滑に生きていては気づかないことにひっかかり、そこに抵抗を感じることこそがタウマゼインである。星空を見上げていて、ふと、宇宙の果てはどうなっているのだろう、なんて考える場面である。そんなとき世界は円滑さを失い、ある種の抵抗をもたらす。

それと同様のことが、パワポをうまく使えないときや、スキーで足が痛くなったときにも起こりうる。なぜなら、これらも生きるうえでの抵抗だからだ。そのような抵抗によって生きる姿勢から肯定性が失われてしまえば、それは機械的反応となる。そのような状況でも肯定的に人生に臨み、円滑に対処したならフロー状態となる。そして、もし円滑に対処できなくても、なんとか肯定的にあろうとして思考するならば、それは哲学となる。そのような意味で、日常の些細な抵抗も、タウマゼインとして哲学に繋がる可能性を秘めていると僕は考えている。

このような考えはアナスの文章のなかにも見出すことができる。「私たちは、自分がもっている概念や考え方ではうまくいかないと感じさせる問題に直面したときに、倫理学理論(ここでは哲学と読み替える)を必要とするようになる。」(p.211)のである。ここでの直面する問題こそが抵抗でありタウマゼインである。

そして、直面する問題により円滑さが失われ、従来のままではうまくいかなくなったとき、人生の円滑さを回復しようとして、人は哲学をする。アナスの言い方によるならば、徳を統合しようとする。では、どのように僕たちは徳を統合し、ひとつながりの円滑な人生を回復しようとするのかといえば、きっと再帰的な思考によってであろう。僕はこのようなかたちで哲学の過程、または徳の過程を言い表すことができると思っている。そのような意味を込めて、僕は哲学と「抵抗のある再帰的な思考」を同一視している。

8-1-6 向上心

また、向上心というアナスのキーワードも、ここまでの話に結びつけることができるだろう。肯定性のある遂行のことを、アナスは向上心と呼んでいるのではないだろうか。つまり、アナスの向上心は、フロー状態としての向上心と哲学の過程としての向上心のいずれかであるということになる。そして、向上心を失えば、それは機械的反応となる。

ここで、アナスが描写した知的な向上心を改めて評価し直すことができる。向上心というのは、哲学の過程が持つ肯定性でもあるが、ここで僕が考える哲学とは、常識よりもかなり広い広義の哲学であるということを思い起こしてほしい。つまり、ここでの哲学とは、失恋やパワポをうまく使えないことやスキーで足が痛くなったことをきっかけにして生じる「抵抗のある再帰的な思考」のことであり、きっと、いわゆる哲学者だけではなく、人間であればほとんど全ての人が経験するだろう状況のことである。つまり、ここでの広義の哲学とは人間本性でもある。そう考えるならば、先ほど僕は批判したけれど、やはりアナスが言うとおり、向上心は人間本性に支えられているのである。

ただし、僕はアナスの全体論を支持しているので、これは人間本性による基礎づけではない。あくまで、全体論的な相互的な支持構造の描写における、ある一面に関する描写の断片であることを忘れてはならない。人間本性を持ち出すアナスは、実は間違えてはいなかったが、その先があったのだ。

8-1-7 まとめ

このように、アナスの議論を補強材料として用いることにより、機械的反応状態・フロー状態・広義の哲学状態という三つの状態に区分する僕のアイディアは多少なりとも説得力をましたのではないだろうか。

だが、このような説明を経ても、例えば、日常の些細な驚きと宇宙存在に対するタウマゼインのようなものとの違いは全くないとまで言えるのか、といった疑問がいくらでも残ってしまうだろう。しかし、この文章も終わりに近づいており、これ以上説明できないことをご容赦いただきたい。だから、ここまで述べたことはあくまで仮説である。

最後にフロー状態について付け加えると、肯定性とフロー状態を結びつける捉え方によるならば、フロー状態における充実感のような感覚と、僕がここまで論じてきた肯定性をつなげることもできるだろう。ここでの肯定性とは、生きる、つまり人生に関わるということから必然的に伴う肯定性である。アナスの「よろこびは~自分の生き方に積極的に関与することのうちにある」(p.277)という言葉は、そのような意味で解することができると思う。

なお、僕は、ピアノやスキーのようなことをしているときにだけフロー状態になるのではなく、機械的反応でもなく、広義の哲学でもないような状況であれば、一見退屈に見える状況においてもフロー状態になると考えている。だから、フロー状態には、マインドフルネスや瞑想において至るような境地をも含んだものだ考えてもらったほうがいいだろう。心理学的にフロー状態とマインドフルネスとを同一視していいのかどうかはわからないけれど、それほどおかしい話ではないように思う。

8-2 動的な過程性

もうひとつのアナスの重要なアイディアである動的な過程性の話に移りたい。アナスの動的な過程性というアイディアは、ここまで僕が論じてきた哲学の遂行性というアイディアと接続させることができるだろう。アナスの過程とは、哲学を遂行する過程のことなのである。

それならば実は、徳を考えるにあたっては、少年兵に銃口を向けるというような例を持ち出すことは不適当であるということになるだろう。僕たちは、そのような思考実験のような状況によって徳を考えるのではなく、まさに自らが哲学をすることだけを対象にして徳を考えなければならない。哲学が遂行的に取り扱うことができるのは自らの哲学の遂行についてだけであり、つまり哲学が取り扱うことができるのは自らの哲学だけなのだから。そのような意味で、哲学とは、失恋のような自分自身の人生の問題から開始するものだという先ほどの主張は正当性があるように思える。また、きっと、哲学におけるいわゆる実存主義は僕のアイディアと相性がいいだろう。そのような意味で、哲学は自らの哲学以外のものを取り扱うことはできず、自らの人生と関係ない思考実験のようなものが哲学に寄与することはない。

ただし僕が考える哲学とは、いわゆる学問としての哲学だけを指すのではなく、「抵抗のある再帰的な思考」というかなり幅広いものであるという点については留意しておいたほうがいい。そうだとするならば哲学は哲学以外のものを取り扱うことはできないという制限は思ったよりも厳しいものではないかもしれない。だから思考実験のような場面設定であっても、それが抵抗のある再帰的な思考に役立っているならば、自らの人生と関わりのある哲学だとも言える。

(僕が考える遂行性とは、あくまで過程であり始まりもなく、終わりもないということに留意すべきだろう。だから遂行性は過程性と呼んでもよいし、場面によっては継続性と言い換えることもできる。また、肯定性とは人生に誠実に向き合うことだとするならば、誠実性と呼ぶこともできる。僕は哲学カフェにおいては、継続性と誠実性が重要だと論じたことがあるけれど、遂行性と肯定性の話はそのことに接続できそうな気がする。https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

8-3 具体性・思考実験・解像度

また、アナスは具体性を重視したということにも留意しておくべきだろう。アナスにとっての徳とは抽象化できるものではなく、徳は厚く文化的負荷がある概念である。「徳は常に何らかの組み込まれた文脈のなかで学習され、発揮される」(p.158)とされているとおりである。だからこそ、「私たちが発達させる徳は、環境にうまく対処するために私たちが必要とする徳なのである。」(p.160)ということになる。

このような考え方は、過程としての徳という考え方とも相性がよい。僕の理解では、アナスの徳とは、具体的な場面に実際に出会うことによってこそ洗練され、その本来の姿を現していくようなものである。具体的な場面は無限にあり、僕たちはそのうちの一握りの場面にしか出会うことはない。だから徳は、完全には姿を現してくれない。

僕はさきほど思考実験を否定したけれど、きっと実際に少年兵に銃口を向けることがなければわからない勇敢さや慈悲深さというものがあるのだろう。このような思考実験は、僕がまだ知らない、そして今後もきっと決して知ることができない徳のあり方があるだろうことを教えてくれる。

思考には、知ることができるものを、よりよく知るための思考と、決して知ることができないものがあるということを知るための思考という二通りがあるのかもしれない。前者の思考のことを、僕は解像度を上げる思考と呼びたい。僕は具体的な場面に出会い、そのときの僕なりの解像度で具体的な思考を行い、そしてなんとか生きていく。その過程を経て、僕は次の具体的な場面においては、より解像度が上がったレンズを手に入れることができる。

思考の解像度が上がるというのは全体論的な描写である。具体的な場面に出会うことで、人は全く知らなかったものを知るのではない。探求のパラドクスに従うかたちで、人は既に知っていたものを、よりよく知るようになる。具体的な場面に出会うことで、人は思考の特定の一部を更新するのではなく、思考体系の全体を一斉に更新する。もし、ある特定の主張のみに修正を加えたように見えても、その影響は実は全体に及んでいる。パワポの使い方に悩み、見た目が多少悪いプレゼン資料でも顧客が満足してくれればそれでいいと思い至ったならば、その過程で行われた広義の哲学的考察は、僕の人間関係全般、ひいては人生に対する僕の姿勢全般に影響を与えているはずなのである。

8-4 技能と徳の違い

アナスは、徳と技能の違いを、生活全般に関わるものである徳と、ピアノやスキーのような生活の一部にのみ関わる技能という対比に見出す。このような徳の捉え方は、「私たち人間のひとつながりの人生」という倫理学の倫理性とつながりが深い。僕が解釈するアナスによれば、「私たち人間のひとつながりの人生」において目指すものを、とりあえず幸福と呼び、その目指すところに至る道のことを、とりあえず徳と呼ぶ。なぜ「とりあえず」なのかといえば、幸福や徳は過程の言葉だからである。

一方の生活の一部のみに関わるものである技能には、「とりあえず」という過程性はない。ピアノを弾く技能も、スキーを滑る技能も、明確にそのものを言葉で捉えることができる。だから、逆に言うならば、明確に言葉で捉えることができるものは生活の一部のみに関わる技能である、という言い方もできる。つまり、もし、「勇敢であること」を明確に言葉で捉えることができると考えるならば、それは、「勇敢であること」が生活の一部であり、技能であるということである。だから、「勇敢であること」が円滑に遂行されてしまい、そこに何ら不明確さがないならば、それは技能であるということになってしまう。

だから「勇敢であること」が徳であるためには、そこには「これは本当に勇敢であることなのだろうか。」というような抵抗がなければならない。それはつまり、広義の哲学状態にあるということだ。これは徳とは哲学の言葉であり、徳を捉えるためには、徳という哲学の言葉を語るという遂行が必要だということと同種のことである。

8-4-1 真・美・善

言葉で明確に捉えることができるものは全体的な徳ではなく部分的な技能だという話は、全体的な幸福と部分的な価値という対比においても見出すことができる。財産や健康といった価値が全体的な幸福になりえないのは、それが言葉で明確に捉えられてしまうからである。だから例えば、美や真や善といったものが、もし言葉で明確に捉えられるならば、それは部分的な価値であるということになる。

常識的には、美や真については、ラファエロの絵は美しく、便所の落書きは醜く、1+1=2は真で、京都は日本の首都であるというのは偽で、というように、言葉による特定が可能だと考えられている。僕もそう思っている。それならば、美や真は部分的な価値であり、全体的な幸福ではないということになる。

では、善についてはどうだろう。善が徳と関わるものであるならば、言葉による特定はできないはずだ。なぜなら、徳とは過程の言葉であるならば、善も過程の言葉であるはずだからである。一方で、電車で席を譲ることは善行である、ということはラファエロの絵が美しいことと同程度には正しく、同程度には特定可能であるようにも思える。つまり善も美と同様に部分的な価値であるということになってしまう。

ここで結論までは出せないが、美は比較を本質的に拒否し、善は比較を本質としているというところに、その違いがあるのではないだろうか。子供が書いた絵とラファエロが書いた絵では明らかにラファエロの絵に美があるのは明らかだが、二つの絵を比べていずれが優れているかを評価することは推奨されない。一方で善の場合には、躊躇しながら老人に席を譲るよりも、優しく声掛けしながら老人に席を譲るほうが善である、というような比較が成り立つし、そのような比較が前提とされているように思える。

ただし、そのような比較ができるのは、善を客観的に評価できるからではない。そのような道筋は先ほど否定している。きっと比較が重要となるのは、善が過程としての概念であり、より善であろうとする肯定性を伴うからなのではないだろうか。善が比較可能のように見えるのは、より善を目指したいという向上心があるからなのである。

そのように考えるならば、美についても、より美しい絵を書きたいと願う画家本人にとっては、美の比較は可能だろう。過去に描いた絵と比較して、より美しい絵を描こうとすることは可能だからだ。だから、美と善の違いは、美が芸術家という一部の人がアクセスできるものであるのに対して、善は私たち人間すべてが関わり、(実際に共有できるかどうかは別として。)共有できるはずだという点に違いがあるのかもしれない。

また、真と善の関係についても興味深いことが言えそうに思う。僕がこれまで客観的な徳の評価を否定してきたが、この客観的な善とでも言うべきものは、実は真の範疇に含まれるのではないだろうか。

もし、僕たちが目指すものを快楽のような部分的価値として明確なかたちで捉えることができたとしよう。(そこには快楽を計算できないといった困難はあるものの、その困難は、過程としての徳と捉えることができない、という困難とは異なるものであり、論理的には克服可能な困難である。例えば、全人類の脳波を測定し、科学的に快楽の度合いを計測するというような解決策はありうる。)それができたならば、次に問題となるのは、その目指すべき状態に到達するにはどうすればいいのか、という問題となる。その答えは極めて実践的なものになるだろう。例えば、金持ちに課税するのか、それともトリクルダウンを狙うのか、といった選択肢は、いずれかが正しく、いずれかが誤りである。どちらがよりゴールまでの最短距離に近いか、という観点で正しい道は決定される。(ここにも、どちらがゴールに近いかをいかに把握するのか、という困難はあるが、論理的には克服可能な困難である。)ここで注目すべきは、実際にこのようなことが実現できるかどうかではなく、快楽という明確な目標をめざすためにどの選択肢を選ぶべきかという問題は、真偽を問うことができる問題であるということである。「我々が快楽を目指すためには、トリクルダウンを狙うべきである。」という言明は真か偽のいずれかである。

目指すものが「すべての人が、人間としての義務を果たしている状態」と明確化したとしても同じことである。目指すものが明確であれば、そこに最短距離で到達するためにどうすべきか、という問題は、真偽が判断できる問題であるはずである。

つまり、従来、善悪の問題と考えられてきた問題は、もしそれを明確に言葉で捉えきることができるのならば、それは実は、部分的な価値についての問題であって、真偽の問題なのである。ここには善はなく、ただ真がある。

だから、さきほど「ヒュームの徳は客観的な徳であり、・・・私たち人間の人生という問題に答えることができない。」としたのは正しくはあるが、ヒュームに対する批判としては筋違いだったということになる。なぜなら、ヒュームが論じていたのは善の問題ではなく、真の問題であり、同じ徳という言葉を使っていても、その内実は全く異なるものだったのだから。ヒュームが論じているのは、「ヒュームが見出し、明確なかたちで設定した目標地点に到達するためには、どのような性質を徳として推奨するべきか」という、極めて実践的で真偽を問うことができる問題なのである。

以上のような意味で、真・美・善という代表的な価値のなかでも善は特別なものであると考えるならば、これも哲学の倫理性のひとつの現れだということになるのだろう。

8-5 徳と幸福と哲学書

最後に、この本の主要テーマである徳と幸福はどのような関係にあるのだろうか。ここまでの僕の考察としては、徳は幸福を支え、幸福は徳を支えているということになる。重要なのは、だがそれでも、幸福イコール徳ではないというところにある。

アナスによれば、「徳は、生活に積極的な方向づけと呼びうるもの与える」(p.195)ものである。一方で、「幸福は私たちを前方へ駆り立てる目的である」(p.247)とされる。つまり、徳は方向性であり、幸福はその方向性が指し示す先にある目標地点である、と言えるだろう。ただし、徳も幸福も過程の言葉だから、徳が指し示す方向は確定していないし、その目標地点としての幸福も確定的なものではないことには注意する必要がある。

だから、徳が目指すところ、つまり徳の価値は幸福だと言うことができるだろう。また、幸福になるためにどうすればいいか、という方向づけは、徳が示してくれる、ということになる。そのことをアナスは「有徳に生きることは幸福に生きることを(少なくとも部分的に)作り上げる」(p.275)と言っている。

なぜ部分的という留保をしているのかというと、アナスは環境に依存するような幸せを否定していないからだが、ここではあえて、アナスの謙虚な姿勢を捨て去ったほうがいいだろう。それならば、先ほど、環境を倫理学から捨象したとおり、倫理学において環境に依存する幸せなどというものはありえない。徳と幸福は直結する。

あえて徳と幸福の違いを見出すならば、その倫理のプロセスのどこに着目しているかという点に違いがある。徳は今ここの現在における方向付けに着目し、幸福は、その方向性が指し示す未来の目標地点に着目している。つまり、徳は現在と対応し、幸福は未来に対応する。

なお、ここには過去が登場しないが、僕の考えでは、過去とは、やはり、既に描写され、哲学書として記述された過去のことである。論理的な思考により捉えられ、構造化されたものこそが過去の正体である。

常識的には、人は、金や名声や長寿や他者への奉仕のような具体的目標を目指して生きている。単一の明確な目標設定までする人は少なく、また、人生を通して目標設定は変更されがちだとしても、とりあえずは何らかの具体的目標を目指して生きている。だがその目標は明確なかたちで既に記述されているという意味で、実は過去を目指しているということである。

倫理学は、僕たちが実は逆方向に間違えたところに進もうとしていたことを教えてくれる。進むべきは既に知っている記述できる過去などではなく、まだ知らない未来なのである。向かうべき先はなんだかわからないけれど幸福と呼ばれるものであり、向かうべき方向はなんだかわからないけれど、とにかく徳と呼ばれるものによって指し示される。うまくいっているうちはフロー状態でいればいいし、もし問題があっても広義の哲学、またはタウマゼインが進むべき道を教えてくれる。そんなふうに考えれば、少しは楽観的に生きていくことができそうな気がする。

「したい」と「するべき」と(遂行性の話での)解放性をつなげる話

昨日アップした二つの文章をつなぐようなメモが出てきたので、ちょっと書き直して一応アップしておきます。(約2000字 これからは、どのくらいの長さの文章かわかるよう、できるだけ文字数を載せるようにしておきます。)

そもそも、どうして僕は「べき」と「したい」の問題にこだわるのだろうか。そう考えているうちに、僕の哲学の出発点のひとつは「僕はどのように生きるべきなのか。」という疑問だったことを思い出した。

僕は傍目から見ると、結構好きに生きてきたように見られがちだけれど、思い返すと、実はかなり「べき」に支配されて生きてきたように思う。

最もそれが顕著に現れているのが対人関係だ。僕は結構コミュニケーションが得意な方だと思うけれど、人と長い時間会っていると消耗して疲れてしまう。なんとなく性格のせいかな、という程度に思っていたが、考えてみると、相手のことを考え、どう振る舞う「べき」なのかを考えてばかりいるから疲れてしまうのだと思い至った。

とは言っても、相手に迎合しているという訳ではない。より正確には、どう振る舞う「べき」ではなく、人と一緒にいるその場をどのようなものにデザインする「べき」なのか、というようなことを考えている。そして、なるべく楽しくて有意義な場にしよう、なんて気負いすぎて疲れてしまう。

当然、僕も自分の中の「したい」を尊重してこなかった訳ではない。だけど、年を取り、僕の人生も残り少なくなってきて、残りの人生でやる「べき」ことをやろう、なんて焦って考えがちになっていたかもしれない。

多分今は調整の時期なのだろう。当然「べき」も大事だけれど、僕はもう少しだけ「したい」に軸足を移してもいいのかもしれない。そう思って、最近は、僕の心に、僕が今何を「したい」のかを聞くようにしている。

そんなことをしているうちに、僕の内面にひとつの好ましい変化が生じていることに気付いた。

僕は時々、世界の中に閉じ込められているような不快な感覚におそわれるときがある。それは独我論的不快感と言ってもいいかもしれない。僕の周囲は見渡す限り僕の世界だ。過去も未来も僕の人生であり、どこまでいってもそこから抜け出すことはできない。もし死んで生まれ変わったとしても、それは僕であり、どこまでも僕は僕の世界のなかに閉じ込められたままだ。言葉にするならばそんな感覚である。

考えてみれば、それは「べき」の世界に閉じ込められているということなのではないか。時空的に構造化された僕の世界は「べき」に満ちている。構造化していることと「べき」とは直結していると言ってもいい。人生という構造化されたものを生きるからこそ、僕はどのように生きるべきか考えなければならないし、私と他者というかたちで構造化された関係があるからこそ、僕はどのように振る舞うべきか考えなければならない。そして、構造化しているということは、僕という存在もその構造のなかに閉じ込められていることになる。

だけど最近、時々、僕は僕の世界から頭を少しだけ出すことができたような感覚になるときがある。浮上した潜水艦のハッチから顔を出すような感じと言ったらいいだろうか。そんなとき、僕はほんの一瞬、頭一つ分だけ僕の世界を抜け出て、俯瞰するように僕の世界を見下ろすことができている。それはとても気持ちよいことで、一息ついたような気分になる。

それはつまり、「べき」の世界からの距離のとり方がわかってきたということなのかもしれない。構造化されたこの世界を少しだけでも俯瞰して眺めることができるというのは、僕にとっては、とても救われることである。

そのような視点を獲得できたのは、入不二基義の『現実性の問題』という本のおかげだろう。この本は、マテリアルの潜在性と力の現実性というペアで、現実性というものを描写する。ただし対等なペアではなく、マテリアルの潜在性とは結局は力の現実性に支えられているものであり、やがて議論は力の現実性へと移行していく。この移行こそがこの本のクライマックスである。力の現実性への移行によって神のような視点を獲得した入不二は、自由自在にこの世界を考察する立場を手にする。そこにあるのはあっけらかんとした解放感である。詳細はこの本を読んでほしいが、僕がこの本から読み取る解放感とは、そのようなものである。

入不二の思索の道筋をたどっていくことで、僕は僕の世界から少しだけ抜け出ることができたような気がする。僕はもう少し力を抜いて、「べき」にばかりこだわらず生きてもいいのではないだろうか、という気持ちになる。そう考えるときの解放感と、世界の中に閉じ込められているような不快な感覚からの解放とは密接につながっているような気がする。

僕にとっては、解放感の獲得と「べき」から「したい」への移行は密接に関わっている。僕が「べき」に疲弊してきて、次のステップを模索していると状況と、入不二の本の読書体験とがタイミングよく重なったのかもしれない。

「したい」と「するべき」再考

1 文章を書くべき

以前、「したい」と「するべき」の違いを無限定の未来と確定した内容がある過去に結びつけるかたちで論じたことがある。(『○○をしたい』http://dialogue.135.jp/2021/10/24/shitai/

その後も、「したい」と「するべき」の関係について時々考えていた。ただし抽象的な問題としてではなく、具体的な「文章を書きたい」と「文章を書くべき」という問題についてである。どうも最近の僕は、このような執筆活動が「したい」ではなく「するべき」になってしまってきているような気がするのだ。「文章を書くべき」になってしまうと、僕は書くことで消耗してしまうし、正直、書く気が失せる。この文章では、この極めて個人的な問題について考えてみたいと思う。

僕は文章を趣味で書いているけれど、義務的になってしまう場面は以前からあった。それは極めて当たり前なことで、そうでなければ、朝、会社に行く前にパソコンに向かうことなんてできない。書くべきと思うからこそ、僕は温かい布団から抜け出すことができる。僕の日常生活における書くことの負荷を思い起こすと、そもそも僕は、何故か人生を賭けて「書くべき」と思い込んでいて、実際、それを成し遂げることで勝手に満足感を得ているような気さえしてくる。勝手に障害を設けて、勝手にそれを達成する喜びを味わっている。それは「書きたい」という純粋な喜びとは程遠い、ちょっと屈折した喜びである。

とは言え、それは極端な捉え方すぎるだろう。僕にも純粋に「書きたい」と思うときがあり、そこから喜びを覚えるときもあるのは確かだ。では、僕が「文章を書きたい」ではなく「文章を書くべき」と考えるのは具体的にどういうときだろうか。たいていは、布団を出てパソコンに向かうときや、書くことに行き詰まり、どうも乗らないなあ、なんてネットを見ているようなときである。乗って気持ちよく文章を書いている最中に「文章を書くべき」なんて思わない。書くべきと考えるのは書いていないときである。

では「文章を書くべき」と考えるときに僕が何を考えているのかを少し精緻に捉えてみると、そのとき、僕は、未来のある時点の僕のことを想像していることに気づく。「文章を書くべき」と考えるときに僕は、文章を書き進んでいたり、書き終わっていたりする僕自身を想像する。書きたいことが整理でき、続きを気持ちよく書いている僕自身や、書き終わって満足している僕自身を想像する。

つまり「文章を書くべき」と考えるとき、僕は今ではなく未来のために書こうとしている。それが消耗して書く気が失せる原因なのだろう。今の僕が未来の僕の奴隷になってしまったような気分になってしまう。(奴隷という言葉は『過去のドレイだ、生きた化石だ』tomovskyより)

2 過去と未来の奴隷

ここには、現在と未来という時間の問題がある。

僕は時間の話が好きなので、そちらのほうに話を持っていくと、時間には連続した時間という捉え方と、断絶した時間という二通りの捉え方がある。未来はやがて過去になるというのが連続した時間であり、未来は無限定である一方で過去は確定しているというのが断絶した時間である。時間においては、このような矛盾した二つの捉え方が両立する。

「文章を書くべき」と考え、今の僕が未来の僕の奴隷になってしまったような気分に陥るとき、僕は、連続した時間という捉え方に支配されてしまっているのだろう。今書くということと、未来において書かれるという成果とが繋がってしまっている。更には、これまでも書いてきたという過去の自負までもがつながってしまっている。今の僕が、未来と過去に侵食されてしまっている。

僕が、書くことと人生とを結びつけて捉えがちなのもそのせいなのだろう。僕は書くことは人生の重要なタスクだと考えている。書くことは僕の天命だとも思っている。そう考えるときの僕は、時間を未来-現在-過去とつながるひとつながりのものとして捉え、そこに時間的広がりをもった僕の人生を位置づけている。だから今の僕がやることは、これまでの人生でもやってきたことであり、今後の人生でもやり続けることである。このようなかたちで、時間軸上の人生のある一点として位置づけられた現在において僕がやることは、未来と過去への広がりを持つことになる。つまり、今の僕が、未来と過去に引き伸ばされ、薄められてしまっているということである。

なお、今の僕が、未来と過去に侵食され、薄められるということはそう悪いことではない。時間がそのようなあり方をしているのは事実だし、だからこそ、僕は人生を生き、僕は何かを成し遂げることができる。もし、人生をそのようなものとして捉えることができなかったなら、そもそも人生という概念すらありえず、僕は人生を意識的に生きることさえできないだろう。

だが一方で、時間を連続したものとして捉え、人生という広がりをもった時間を生きるということに捉えられすぎると、消耗し、人生を生きる気力が削がれるのも確かである。時間には断絶しているという一側面があることを忘れてはならない。今は過去や未来の奴隷ではない。今の僕は無限の自由を手に入れているはずである。自由な僕は「文章を書きたい」からこそ文章を書く。そこにあるのは文章を書く自由である。

3 他者のために書く

なんとなく、僕は、「書くべき」と思いつめすぎているような気がする。そもそも僕はどうして「書くべき」と思い込んでしまっているのだろうか。

僕自身の気持ちを探ってみると、僕が文章を書く目的のひとつとして以下のようなことを考えていることに思い当たる。

「僕は僕自身のためにただ書くだけではなく、僕は死ぬ前に、生きているうちに誰かに文章を書き残したい。」この目的意識と「書くべき」はつながっているように思う。

他者のために書くという目的意識から、「書きたい」と思わなくても「書くべき」である、という考えは直結するように思える。自分自身のためであれば、「書きたい」ときにだけ書けばいいけれど、他者のためとなれば、その他者から書いてほしいというオーダーがあれば書かなければならない。書いてほしいという相手の気持ちに応えることこそが「書くべき」ということだとさえ言えるのではないだろうか。

なお、「他者のために書く」というときの「他者」が指し示すものは、僕にとってはかなり狭いものだ。一言で言えば「他者」とは僕自身のような読者であり、より限定すると「他者」とは子供の頃の僕自身のような読者である。それ以外の読者には、きっと僕の文章の価値はわかってもらえないだろうし、理解してくれない読者に評価される必要もない。それでも、僕が想定する読者とは、どんなに僕自身に似ていても他者である。だから、その人のために書こうとすると、その思いは「書くべき」になってしまう。

さきほど、僕は時間的に「書くべき」と「書きたい」の関係を捉えたうえで、現在の「書きたい」は過去と未来の「書くべき」に侵食されているような状況であると論じた。他者のために書くという問題も、同型の描写をすることができるだろう。つまり、人称的に「書くべき」と「書きたい」の関係を捉えたうえで、一人称的な「書きたい」が三人称的な「書くべき」に侵食されている状況だという描写ができるということである。「書くべき」になると書く気が失せるというのは、時間的かつ人称的な問題なのではないだろうか。

4 コナトゥスと気持ちの切り替え

では具体的にどうすればいいのだろうか。単に妥協するのではなく、「書くべき」と「書きたい」を高いレベルで両立させつつ書くためにはどうすればいいのだろうか。そこで当面の解決策として思いつくのは、コナトゥスの力を借りるというやり方だ。まずは「書くべき」という思いを用いて書くことを習慣化させ、書くことに抵抗をなくす。それは平地に水路を整備する土木作業のようなものだ。そうすれば、「書きたい」と思ったときに、抵抗なく書くことができる。水路もなにもない平地に水を流せば、その水は大地に染み込んでしまうが、しっかり整備された水路があれば、「書きたい」という思いは水路をたどって勢いよく流れることができる。そうすれば、「書くべき」と「書きたい」の両方を意図的に弱めることなく、高いレベルで両立することができる。

そのために重要なのは気持ちの切り替えだろう。書く準備としての土木作業を行っている間は「書くべき」でいいけれど、いざ書き始めたら、できあがった水路に水を流すような「書きたい」だけしか要らない。

(僕はヨガの経験上、気持ちの切り替えのためには呼吸が役立つだろうと思っている。単に役立つだけでなく、呼吸とは、「べき」と「したい」の切り替えそのものかもしれないとも思っている。息を吐くことは、次に息を吸うための準備作業であり、息を吐く「べき」と捉えることができる。息を吸うことは、息を吸わないと新しい酸素を取り入れる事ができず苦しいのだから、息を吸うことを「したい」と捉えることができる。また、その裏では、息を吸うことには、息を吐くための準備作業としての「べき」が含まれ、息を吐くことには、二酸化炭素を排出「したい」が含まれている。呼吸により、「べき」と「したい」を切り替えることもできそうな気がする。)

5 席を譲るべき

ここまで文章を書くという自分の問題ばかり取り上げてきてしまったが、同様のことは他の「べき」と「したい」についても言えそうな気がする。例えば電車内において老人に席を譲る「べき」と考えるのは、まだ席を譲ることができていないときである。寒い朝にパソコンに向かえずに布団にくるまりながら「文章を書くべき」と考えるように、電車の席にしがみつきながら「老人に席を譲るべき」と考える。そのときに思い描くのは今現在の僕ではなく席を譲っている未来の僕である。また、僕が席を譲るべきと考えるのは、過去において、老人に席を譲るのがよいことだと教育を受けてきたからである。老人に席を譲る「べき」においても、現在が過去と未来に侵食されている。また、席を譲るのは僕ではなく、老人という他者のためであり、その点で、一人称的な私は三人称的な他者に侵食されてもいる。

そして、老人に席を譲る「べき」と考えるようなときは、たいてい、席を譲ることは成功しない。僕が文章を書くのに成功するのは「文章を書くべき」などと考えず「文章を書きたい」と思い、ただ書いているときであるように、席を譲ることに成功するのは、席を譲るべきなどと考えず、ただ席を譲りたいと考え、席を譲るようなときである。より正確には、文章を書きたいとか、席を譲りたいなどと考えず、ただ体が動き、文章を書いたり、席を譲ったりするときにこそ、それは成功する。その成功体験を事後的に思い返すときにだけ、そこには、文章を書きたい、席を譲りたい、としか表現できないような肯定性があったことに気づくに過ぎない。(これが、先日の文章で、「○○したい」ではない純粋な「したい」があるとしたことである。)

そして、席を譲ることの成功率を上げるためには、文章を書く場合と同様に、コナトゥスの力を借りることが役立つだろう。日頃から老人に席を譲るべきだということを繰り返し考え、そのように考えることを習慣化しておけば、円滑に席を譲ろうと肯定的に考えることができる。(また、席を譲るべきから譲りたいに切り替え、実際に席を譲るためには、文章を書こうとするときと同様に呼吸により気持ちを切り替えることが役立つだろう。)

以上のように、文章を書く「べき」の話は、席を譲る「べき」の話にも適用することができる。きっと、たいていの「べき」に使える考えなのではないだろうか。

遂行性について

1 遂行
僕は最近「遂行」というキーワードについて考えている。
僕は生きることを遂行している。僕は哲学を遂行している。僕はパソコンで文章を入力することを遂行している。僕は「僕は」という文字を入力することを遂行している。いや、そう考えているときには、もう「僕は」という文字を入力することを遂行していない。というように。
とにかく僕は何かを遂行している。他の人も何かを遂行しているはずだ。ネコだって何かを遂行している。ネコのような生き方がどこか羨ましいのは、ネコは遂行してばかりいるからだろう。
「遂行」と対になる言葉には「思考」や「言葉」や「論理」といったものがある。「僕は「僕は」という文字を入力することを遂行している。」と厳密には言えないとおり、論理的な思考によって遂行を捉えることはできない。遂行という言葉ではその遂行そのものを捉えることはできない。そのときに遂行しているのは、あくまで遂行についての思考の遂行である。
だからとりあえずは、遂行そのものを表す言葉を〈遂行〉とする、というような造語に頼るしかない。そうすれば、この文章を読む人は、その言葉を論理的な思考によって理解するのではなく、遂行的に理解してくれるかもしれない。いや、きっと理解してくれるはずだ。僕はそう信じている。
なお、このような造語による処理は、〈遂行〉に限ったものではない。永井均の〈私〉がそうだし、例えば〈存在〉という言葉を用いて、字面としての存在ではなく、実際の存在そのものを表現しようとすることもできるだろう。
僕ならば、この〈 〉(山型カッコ)は遂行性を示す記号だと考えたい。なぜならば、〈遂行〉とは読者が、遂行という言葉についての思考を遂行することで理解するものだし、〈私〉とは読者が、私についての思考を遂行することで理解するものだと言えるからだ。

2 独我論的内側性
遂行的な理解とは内側からの理解とも言い換えられるように思う。遂行とは外部にいる他者から教えられるようなものではなく、私だけが私の内側から遂行できるものだ、というような意味で。だから遂行という僕のアイディアは独我論の臭いがする。だが、それは単なる独我論ではなく、この内側からの思考が全てだという意味で拡張された独我論であり、独我論性が消去された非独我論的独我論である。
僕のアイディアが独我論的に見えてしまうのは、遂行性というアイディアを言葉で示そうとするところから端を発しているのだろう。僕は、〈 〉(山型カッコ)は遂行性だとした。これは言葉で遂行性を指し示し、遂行性を思考できるようにするための処理である。だが、これは「遂行」と「思考」「言葉」という本来相反するものを無理やり結びつけることである。作者である僕にとっての〈遂行〉とは、「遂行を言葉にする」という作業である。一方で、読者にとっての〈遂行〉とは、「遂行についての思考を遂行する」という作業である。ここには僅かではあるけれど明らかな違いがある。この僅かなずれが作者優位の独我論を呼び込んでいるのではないだろうか。それでも〈遂行〉という言葉が作者と読者の間でなにか共通のものを指し示しているように思えるのは、〈遂行〉という言葉とは関係なく、ただ作者が遂行しているからであり、また、読者も遂行しているからなのではないか。ただし〈遂行〉という言葉が作者と読者の間を結ぶ、何らかの触媒となっていることはありうる。

3 閉塞性と解放性
ここまで、〈 〉(山型カッコ)記号は遂行性を示すものだとして議論を進めてきたが、このような〈 〉の使い方は一面的だということは留意しておくべきだろう。永井ならば〈 〉は独在性を示す記号だと言うだろうし、入不二ならば現実性について、このような記号を用いるような気がする。
だが、あえてこれらの用法の共通点を見出そうとするならば、僕の遂行性も、永井の独在性も、入不二の現実性も、ある種の閉塞性と解放性が同居しているということは言えるのではないだろうか。
3-1 僕の遂行性の場合
僕の遂行性のアイディアによるならば、僕は僕自身が出会いを遂行していないものに出会うことはできない。どこまでいっても、そこにあるのは僕の遂行により手に入れたものばかりだ。海外旅行でのどんな新奇な体験も、それは僕の海外旅行の遂行によるものだし、見たこともないような斬新な映画を観たとしても、それは僕の映画鑑賞の遂行によるものである。僕が通勤途中、通り魔に会ったとしても、それは僕の通勤の遂行によるものである。僕は僕の遂行の圏域を超えることはできない。僕の遂行性というアイディアには、そのような閉塞感がある。きっとこの閉塞感が、僕のアイディアを独我論的なものにしているのだろう。
一方で、遂行するその瞬間においてだけは、僕は僕の圏域をわずかにであっても超えることができる。僕がペットボトルの水を飲むことを遂行するとき、まだ、その遂行は「ペットボトルの水を飲むことを遂行する」という言葉では捉えられていない。なぜなら、遂行と思考は相反するものであり、僕は遂行しながら、同時に思考することはできないからだ。僕を独我論的な世界に閉じ込めるものが遂行についての思考だとするならば、そこから僕を一瞬ではあっても解き放ってくれるのは、思考に未だ絡め取られていない遂行そのものである。やがて言葉は遂行を捉え、僕をこの世界に閉じ込めるだろう。だけど、僕は遂行し続ける限り、僕は僕の圏域を頭一つ分だけ超え、まるで水泳で息継ぎをするように自由な空気を吸うことができる。
以上のような意味で、僕の遂行性には、閉塞性と解放性が同居している。

3-2 永井の独在性の場合
永井の独在論にも独我論的な閉塞感がある。独在論的に述べるならば、ありありと見たり聞いたりできるのは、今ここの私だけであり、それ以外の人間にはそのようなことはできない。私は他者の痛みを感じることはできない。そのような意味で、私は私の世界に閉じ込められていると言ってもいい。
だが一方で、永井の独在論には倫理的な意味での解放性がある。道徳というものが、対等な複数の人間が存在することや、長期的な視点で人生を捉えることを前提としているとするならば、今ここの私はそのような道徳に囚われることはない。今ここの私は、非道徳的であり、端的に道徳から解放されている。
更に言うならば、永井の独在論のより根源的な解放性は、その議論の内容ではなく、議論の姿勢にこそあるとも言える。永井は完全に独在的な世界の構築に振り切ることはない。あくまで、人間が普通に生きている常識的な世界のなかに独在性を投げ入れ、そこに生まれる不協和音を「ひたりつく」ように描写し続ける。なぜ永井がそのようなことをするのかといえば、きっと、それが面白いからである。一挙に静的なかたちで独在的な世界を構築するよりも、その過程における不協和音を味わうような動的な作業にこそ面白さがあるということなのだろう。僕もそのとおりだと思うし、これこそが永井の議論の魅力であり、あっけらかんと人生を賭けた哲学の楽しみに身を委ねる姿勢こそが、永井の独在論における解放性だと思う。

3-3 入不二の現実性の場合
入不二の現実性の議論においては、マテリアルとしての潜在性と、力としての現実性という対比で、閉塞性と解放性を見出すことができる。入不二の議論に沿うならば、この世界は、認識されていようがいまいと、立ち現れていようといまいと、マテリアルとしての潜在性に満ちている。潜在性という言葉は、認識や立ち現れに先行して、マテリアルが潜在しているという事態を指し示している。その世界に、私たちという複数性のある常識的な視点を導入しても、または、私という単数の独我論的な視点を導入しても、いずれにせよ、その世界は潜在性に満ちている。視点の導入の仕方に関わらず、結局、世界は潜在性ばかりだという意味で、入不二の潜在性は閉塞している。
入不二は、そこに差し込む光のようなものとして、力としての現実性を見出す。力としての現実性とは、潜在性を潜在性たらしめる力であり、潜在性を駆動し、この世界を形づくる力でもある。更には、力としての現実性とは、潜在性などとは全く関係ない力でもある。現実性の力とは、潜在的なマテリアルが形づくるこの世界と、関係あろうが関係なかろうが、そのような些事とは全く別次元なところで働く力である。潜在性とは無関係だという関係すら超越したところで無関係に働く力である。入不二の現実性にはそのような解放性がある。
〈 〉(山型カッコ)記号は、〈遂行〉、〈私〉、〈現実〉というように用いることができ、それぞれ、遂行の遂行性、独在的な私の独在性、現実の現実性を指し示すという解釈ができる。このような重層的な表現により指し示そうとしているものは、閉塞的な遂行の先にある遂行の解放性であり、閉塞的な独在の先にある独在の解放性であり、閉塞的な現実の先にある現実の解放性なのではないだろうか。そのような意味で、僕の遂行性も、永井の独在性も、入不二の現実性も、あくまでも解放性優位なかたちで閉塞性と解放性が同居している。

4 思考と遂行の往復運動
僕自身の遂行性の議論に戻るならば、この閉塞性は思考の閉塞性である。海外旅行であっても、映画鑑賞であっても、宇宙旅行であっても、マトリックスのような仮想現実体験ではあっても、それらの遂行が言葉で捉えられ、思考の対象となってしまったら、それは遂行についての思考であり、思考の範疇に囚えられてしまう。
だが遂行それ自体はその思考の圏域を突破する。正確には、そもそも思考がなければ、あえて突破するものなどないのだから、突破は必須ではない。デフォルトは遂行である。だが、いったん思考が始動してしまったならば、それは突破としか表現することはできず、失ったものを回復するプロセスとしてしか描写することはできない。そして、我々人間は、思考しているからこそ人間なのであり、つまり思考と遂行の問題は、我々人間特有の問題である。そのような意味で、ネコのような生き方は羨ましい。
我々人間は、思考と遂行の往復運動から逃れることはできない。せめてできることは、よりうまくこの往復運動をやり遂げることであろう。それがきっと人生を生きるにあたっての指針となる。言うなれば、これは僕の遂行の哲学における倫理である。

5 哲学とフロー状態
うまく生きるにあたって大事なことは、きっと、思考するならばしっかりと思考し、遂行するならばしっかりと遂行するということだろう。思考と遂行の両方を得ようとしてどっちつかずの態度をとっていたら、思考と遂行の両方を取り逃がしてしまう。二兎追う者は一兎も得ず、である。
しっかりと思考をするというのは、僕の言葉では、つまり哲学をするということだ。哲学と言っても、いわゆる学問としての哲学に限定されるものではなく、人間であれば皆が行っているような広義の哲学である。それはつまり、遂行について思考するということである。だから、広義の哲学というよりも、広義の倫理学としたほうが常識的なイメージと近いかもしれない。
一方のしっかりと遂行するという状況は、フロー状態や「ゾーンに入る」といった言葉で言い表すことができるだろう。その遂行についての思考はなく、ただ遂行しているような状況である。そこに思考があってもよいが、それは、遂行における思考であり、遂行についての思考ではない。思考は遂行の下位にあり、決して思考が遂行の上位にくることはない。(もし上位にくるならば、それはフロー状態が解けるときである。)
(フロー状態に着目するアイディアは、ジュリア・アナスから学んだものであり、そのことについては別の文章を書いている。)
また、フロー状態にはマインドフルネスや瞑想を含めることもできるだろう。フロー状態とマインドフルネス状態を繋げるのがヨガのような動く瞑想である。ヨガのポーズを遂行することに没頭し、そこからはヨガの遂行についての思考が消失し、ヨガの遂行そのものになっている。(このあたりの話は心理学的なエビデンスで実証できるたぐいの問題なので、あまり勝手なことは言えないが、それほど間違えていないような気がする。)
このように、思考するときはしっかりと思考し、遂行するときにはしっかりと遂行する。そのように極力振れ幅がある生き方をすることが、きっとうまく生きるための秘訣なのだろう。

6 集中力
そのために必要なのは集中力だろう。極力振れ幅がある生き方をするとは、集中して思考して人生の方針を定め、いったん方針を定めたならば、その方針に従って人生を遂行することに集中するということだろうだから。
この集中力は生来の能力や生育環境に左右されるだろうが、全く自分でコントロールできないとまでは言えないだろう。人には集中しやすい領域というものがある。僕ならば、ギターを弾くことよりも文章を書くことのほうが集中できるし、会社の上司の顔と名前を覚えようとするときよりもExcelに関数を埋め込んでいるときのほうが集中できる。僕はギターを弾き、上司の顔と名前を覚えるような生き方を遂行するよりも、文章を書き、Excelに関数を埋め込むような生き方を遂行するほうが集中して、うまく生きることができる。
自分が集中して遂行できる領域を見つけ出し、そのような領域を取り込むようなかたちで人生の遂行の方針を定めることで、より集中した人生を送ることができる。自らの遂行の方針を定める哲学の営みにおいて、自らが集中できる領域を考慮に入れることは、うまく生きるためのひとつのテクニックである。

6-1 哲学者の道と動物の道
そして、この集中力は、遂行の場面だけではなく、思考の場面でも重要である。だから、もし、あなたが自らの遂行を思考するという営みに集中できるならば、それは、うまく生きるにあたって恵まれた特質だと思う。これはつまり、哲学者の幸せである。
ただし、うまく生きる道筋はもうひとつありうる。それはつまり思考とは無縁に遂行だけをするネコのような生き方である。人生において思考は必須ではなく、人間が思考を獲得してしまったからこそ、その思考の圏域からの突破が問題になっているのだということを思い出そう。それならば、自らの遂行を思考するという哲学の営みからそもそも無縁でいられるという、もう一つの恵まれた特質を想定することができる。これはつまり、思考を介在させず、ただ遂行できる動物の幸せである。
このように、うまく生きる道は二つもある。それなのに僕たち人間は、いずれの道を選ぶこともできず、その中間にある人間の道を進み、色々と苦労することになる。僕は遂行性について考えることで、哲学者のように、動物のように、少しでもうまく生きていきたい。