世の中には言ってはいけないことがある。嘘はいけないとか、宗教によっては、みだりに神の名を呼んではならないとか。世間では色々なことが言ってはいけないとされている。
そのなかでも、「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。例えば差別的な発言などをしてはいけない。」というのは、かなり普遍的なお約束だろう。
嘘については嘘も方便という考え方もあるとおりケースバイケースという人もいるだろうし、神の名についてもそもそも無神論者なら神の名を避ける必要などない。しかし、相手を傷つけるようなことは言ってはならないというのは、たいていの人が認めるだろう。
「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」
これは、言うのは簡単だが、やるのは結構難しい。
どのような話題で相手が傷つくか100%予測するのは困難だし、同じ話をするにしてもどのように相手に配慮した言い方をすればよいか、事前にはわからないのだから。
この難しさの根源には、言ってはいけない言葉かどうかを判断する権限が話し手側にはないということがあるのではないだろうか。
どんなに話し手が配慮しても、聞き手から「とても不快だった。」「傷ついた。」と言われたならば、その発言はすべきでなかったことになる。
しかし、そもそも、なぜ、聞き手だけが「そもそもこの発言はないほうがよいものだった。なぜならこの発言で私がとても傷ついたのだから。」という判決を下すことができるのか。
なぜ、話し手側から「私は十分配慮したのだから、あなたが傷ついたかどうかに関わらず、この発言はあったほうがいいものだった。」と反論することは許されないのだろうか。
なお、例外的に、話し手に判断権限がある場合もある。それは故意の場合だ。意図的に相手を傷つける意図をもって発言したなら、そのとき話し手は「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」というルールを破っていることに自ら気付いているはずだ。たとえ相手が傷つかなくても、話し手だけはそこに問題があることに気付いているはずだ。
故意という例外を除き、聞き手と並んで最も深い関係者である話し手に判断権限がないのはなぜなのだろうか。
このことを考えるために、興味深い例として、人を傷つけそうな発言なのに、発言が許される場合が少なくとも二つあることを思い出してみよう。
ひとつが、政治家や芸能人などの有名人を貶めるような発言であり、もうひとつが「愚妻」という言葉があるように、身近な人を貶めるような発言だ。
「安倍首相は偏った思想信条の持ち主で論理的な思考ができない。」とか「斉藤由貴は不倫をして貞操観念がない。」とかといった発言を聞いたら、多分、安倍首相や我らが!斉藤由貴は不快に思うだろう。(斉藤由貴ファンだったので・・・)そして多分、ネットが発達した現代なら、実際に一個人の発言が政治家や芸能人に届き、不快にさせる場合もあるだろう。
また「いえいえ、うちの妻は料理も上手じゃないし、気も利かないし。」という謙遜の言葉を横で聞く奥さんは内心いい気がしないだろう。
それでも、このような言葉を発してしまうのは、多分、安倍首相も、斉藤由貴も、奥さんも、配慮すべき「相手」ではないからなのだろう。安倍首相や斉藤由貴はとても遠く、奥さんはとても近いという違いはあるけれど。
要は「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」というのは、その相手が配慮すべき相手だからなのだ。これは、配慮すべき相手だから、発言も配慮しなければならない、という当たり前のことを言っているに過ぎないとも言える。
「相手を傷つけたり、不快にしたりするようなことを言ってはいけない。」のは、話し手自身が相手を配慮すべき人として認定したからなのだ。
話し手によるその認定行為が先行しているからこそ、相手は、「あなたは、私を配慮すべき人だと認定したのでしょう。その私が傷ついたと言っているのだから、あなたの配慮は足りなかったのですよ。」と言えるのだ。これは、発言が配慮されているかどうかを判断する権限を、話し手自ら、聞き手に譲り渡したということであり、つまり話し手は自ら判断権限を失ったのだ。
更に言えば、言葉を発する場面にかぎらず、人と人のコミュニケーションの根幹には、このような「譲り渡し」があるのではないだろうか。
例えば「殺人はなぜいけないのか。」という問題についてもそうだ。昔、世間で議論になったことがあるとおり、この問題は一筋縄ではいかない。
この問題にきれいに答えるためには、殺す側も殺される側も対等な同じ人間だという前提を設けなければならない。主人が奴隷を殺したり、飼い主がネコを殺したりするのは、人間が人間を殺すこととは違う。(奴隷殺しやネコ殺しは非難されるだろうが、殺人とは別の理由に基づく非難となる。)
殺人が罪となるのは、加害者が被害者を同じ人間と認め、被害者を配慮すべき者と認め、そこにコミュニケーションが成立し、加害者が被害者に対して、殺人という自らの行為の評価権限を譲り渡しているからなのだ。
反論がありそうなので立ち止まって考えてみよう。
例えば復讐による殺人のような場合、加害者が被害者を人として認め、相手に対して自らの行為の評価権限を譲り渡すなんてことをしているだろうか。
この問題をうまく処理するためには、加害者・話し手と被害者・聞き手という二つの立場に加えて第三者的な立場を考慮に入れるかたちで、これまでの整理を修正すべきだろう。
この第三者とは、まさに殺人や会話に関わっていない人という意味で捉えてもよいが、神や法律や社会通念や常識というかたちで考えてもよい。加害者・話し手は被害者・聞き手に対してだけでなく、このような意味での第三者にも判断権限を譲り渡していると思うのだ。
その結果、例えばこうなる。
「あなたは一般常識を受け入れ、どのような人に対して、どのように配慮するかについては、一般常識に則ることに同意しているのでしょう。だから私は、あなたの配慮が、あなたが受け入れた一般常識に反していると指摘しているのです。」
ここでは一般常識を例としたが、例えば法律においても同じことが成り立つ。その場合、自らの行為の評価権限を国家が定めた法律に譲り渡すことになる。このことを社会契約と呼ぶのだろう。
他者を承認し、他者を配慮すべき、というコミュニケーションの根幹には、直接の相手に対してであれ、第三者に対してであれ「譲り渡し」がある。人が人の世界で生きるためには、この「譲り渡し」からは逃れられないのだ。
そして、話し手・行為者側は、「譲り渡し」から当然に帰結するものである、相手方や第三者からの予期せぬ非難の恐れから逃れられない。
そのリスクを最小限に留めるためには、石橋を叩くように過度に配慮せざるを得なくなる。相手や常識という名の第三者を忖度し、怯えながら発言しなければならない。それはとても息苦しい世の中だ。
人はこの息苦しさによるストレスから、テレビのゴシップに乗っかって見ず知らずの有名人に対して攻撃的になったり、結婚したり生んだりしただけの家族に対して人間としての地位を認めないような特殊な対応をするのかもしれない。これは、人間の世界におけるコミュニケーションの泥沼のように思える。
それでは話し手は、この泥沼から逃れるすべはないのだろうか。
殺人のような修正できない一回限りの行為とは異なり、発話のような修正が効く行為については、もう少しうまいやりようがあると思う。
ここで着目したいのは、聞き手の「あなたの発言で傷ついた。」という言葉も発話であるという点だ。ここで聞き手と話し手は立場を逆転する。元聞き手であり現話し手の「あなたの発言で傷ついた。」という発言の妥当性の判断権限は、元話し手であり現聞き手である相手に譲り渡されるのだ。
そこで、元話し手は、「「あなたの発言で傷ついた。」というあなたの発言で、私は傷ついた。」と言うことができる。そして、当然、その発言に対して元聞き手は同じことができ、理論上はこのキャッチボールはどこまでも続けることができる。
当然、実際にこんなことを言い合うことなどない。それでも理論上はこのようなキャッチボールが可能だ。このことが意味しているのは、コミュニケーションは両者の共同作業であり、そのコミュニケーションの内容の評価・判断も両者の共同作業ということなのだろう。
しかし現実には共同作業になどならない。
それはなぜかといえば第一に、「あなたの発言で傷ついた。」という言葉による先制攻撃を受けたことで元話し手は大ダメージを受け、元聞き手に反論できなくなるからなのだろう。最初にきつい言葉を発し、問題を指摘した側が、自称被害者の立場を獲得し、有利な先攻を取れるのだ。
第二に、コミュニケーションは手間がかかるからなのだろう。だから実生活上は殆どの発言について共同作業による検証など行われず、たいていのことはキャッチボールの第一投で終わらせるのが礼儀となっている。だから、発言について共同での検証、評価が可能ということは一般的に広まっていない。正しさではなく効率性や怠惰や無知を理由に、そのような実情がある。
悪態をつきたくなるが、とにかく、このような現状をふまえると、これまでの考察で得られた知見を大きく見積もらないほうがいい。
ここまでのことから言えることは、あなたの発言により気分を害した人がいたとしても、あまり気にしなくていいということ、そして、怒りか何かにより、発言の評価という共同作業つまりコミュニケーションを拒否するような相手は、端的にただ間違えているということだ。
できるなら、僕は一歩踏み出してこう言いたい。
「君は僕の発言でなんだか気分を害したようだけど、とことん、そのことについて話してみようじゃないか。色々理由をつけて対話を避けるなら、それは君自身の問題であり、僕は関係ない。」