3 受動的感謝の問題 ~「限定しない」~

この2つの感謝のうち、受動的感謝については説明が難しい。これまでは、受動的感謝について、「感謝の対象を限定しない感謝」、「自然に意識させられている感謝」、というような説明をしてきたが、このような説明では十分な説明とは言えない。しかしこれ以上の具体的な説明が難しい。
まず、「感謝の対象を限定しない」と言っても、この「限定しない」が何を意味するのかを説明するのが難しい。これまで「限定しない」ということの幅広さを説明した箇所としては、コンビニ弁当を食べられることに対する受動的感謝について説明する際に、「コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人に加えて、食材となる作物を栽培してくれた人、更には食料となってくれた生命や、生命を育んでくれた地球、食料を与えてくれた神様、といった幅広いものに感謝をしているとも言える。」と述べた部分がある。しかし、
この説明では感謝の対象が限定されてしまっており正確でない。実は、この説明は「限定しない」を十分に表現できていない。
そこで、より適切な「限定しない」についての具体的な説明の方法を考えてみると、大くくりである概念を用いて表現するというやり方が考えられる。例えば、生命を育んでくれた地球に対して感謝する、という言い方はどうだろう。しかし地球では地球の外の太陽への感謝が漏れるし、太陽を含めて銀河系としても、銀河系外が漏れる。最大限に時間的、空間的な広がりを持たせようとすると、「ビッグバン以降の宇宙全体」のようなものが、「限定しない」感謝の対象の有力候補となるだろうか。
しかし、この方法では、仮にビッグバンという科学的仮説が正しかったとしても、2つの問題が生じるためうまくいかない。まず、「ビッグバン以降の宇宙」から漏れるものがあるという問題が生じる。「ビッグバン以降の宇宙」と名指しするからには、それを成立させる場、つまりビッグバン以前の宇宙や、宇宙の外も含めた場があるはずである。なぜなら、名指しすることには、選ぶことが必然的に含まれるからだ。
これは、科学的に宇宙の外を想定することができるか、という問題とは違う、言葉の使い方の問題である。それは、果物がリンゴしかない世界においては、果物とリンゴという言葉は同じ意味となってしまうという問題に近い。果物としてリンゴとみかんがあるからこそ、果物とリンゴという言葉を使い分けることができる。果物のなかからリンゴを選び、名指しすることができる。果物にはリンゴしかなければ、果物のなかからリンゴを名指しすることは、不可能であるか、無意味である。
同じように、最大限に広い意味での世界とか宇宙とかといったものを仮に「全て」とし、「全て」と「ビッグバン以降の宇宙」とに違いがあり、「全て」から「ビッグバン以降の宇宙」を名指しすることができるならば、「ビッグバン以降の宇宙」と名指しされたものからは、何かが漏れなければならない。また、「全て」と「ビッグバン以降の宇宙」が同じ意味なのであれば、「ビッグバン以降の宇宙」と名指しすることは、不可能であるか、無意味である。「ビッグバン以降の宇宙」とは、単に「全て」の言い換えでしかない。
そして、このように用いられた場合の「全て」という言葉も、単に「限定しない」の言い換えでしかない。つまり、「限定しない」の意味を「限定しない」と説明しているに過ぎない。よって、「ビッグバン以降の宇宙」、「全て」という用語を用いても、何も説明ができていない。具体的な説明は失敗する。
もう一つの問題として「ビッグバン以降の宇宙全体」に対する感謝と言っても、それを具体的にイメージすることはできない、ということがある。例えば、「ビッグバン以降の宇宙全体に対する感謝」よりもイメージし易いだろう、もう少し小さい概念として「地球全体に対する感謝」というものを例に出そう。これでも、
かなり幅が広い感謝だ。食事をした後に、地球全体に対して「ごちそうさま」と言うことは、かなり私がイメージする受動的感謝に近い。
では、地球全体に対して「ごちそうさま」と言うとき、イメージされるものは、どういうものだろうか。私ならば、宇宙に青く輝く丸い地球である。もう少し違うものをイメージする人もいるかもしれないが、それほど大きな違いはないだろう。
しかし、そのようなイメージに対して感謝をすることが、果たして感謝の対象を限定しない感謝と言えるのだろうか。
受動的感謝は対象を限定しない感謝なのだから、あらゆるものが感謝の対象に含まれるはずだ。例えば、レストランで出てきたハンバーグのひき肉について列挙してみると、牛を育てた酪農家、牛を運んだ運転手、牛を加工した加工工場の従業員、レストランのコックさん、ウェイターといった、比較的思い付きそうな人以外にも、牛を運んでくれたトラックが走る道を舗装した人、とか、道を舗装する人を生んだ母親、とか、その母親が着ていたセーターの材料になった毛を取られた羊、とか、その羊が食べていた草が生えるために必要な受粉をした風、とかといった幅広いものが感謝の対象となるだろう。何故なら、
風が吹かず、草や羊が育たず、母親がセーターを着られず、母親が子供を生む前に寒さで死に、道路が舗装されず、牛が順調に運搬されなかったなら、ハンバーグのひき肉は入手できなかったかもしれないからだ。
果たして、「宇宙に青く輝く地球」というイメージのなかに、これら全てが含まれていると言えるのだろうか。「地球全体」に感謝をする際に、「牛を運ぶトラックが走る道を舗装した人を生んだ母親が着ていたセーターの材料になった毛を取られた羊」をイメージしているのでなければ、その羊に対して感謝しているとは言えないのではないだろうか。
少なくとも、「地球全体」に対する感謝に何が含まれるか列挙する際には、この羊も列挙しなければならないのではないか。
しかし、「地球全体」とか「ビッグバン以降の宇宙全体」といったものに対する感謝のなかに含まれるべき感謝の対象は際限がなく、この羊のような感謝の対象を漏れなく具体的にイメージしたり、列挙したりすることは不可能である。この羊のような感謝の対象をイメージできず、列挙できないままの「地球全体」とか「ビッグバン以降の宇宙全体」といったものに対する感謝とは、実は、中身のない空虚な感謝に過ぎないとさえ言えるのではないか。
この名指しできず、中身を列挙することはできないという2つの問題は、「ビッグバン以降の宇宙全体」でなくとも、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」のような大きく括った表現に共通する問題だろう。「神」、「全て」、「限定できない(もの)」と名指しできるならば、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」から漏れるものがある。また、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」には何が含まれるか列挙できないという意味で、空虚である。
よって、受動的感謝というものを「感謝の対象を限定しない感謝」という表現よりも、更に具体的に説明することは極めて困難である。私には説明する手立ては思いつかない。
「感謝の対象を限定しない感謝」というような述べ方でなんとなく理解してもらうしかない。