4 受動的感謝の問題 ~「意識させられている」~

もうひとつの受動的感謝についての説明として、「自然に言わされている、または意識させられている感謝」という述べ方があったが、この説明も不十分である。なお、言うという行動と意識するということの関係という別の問題はあるが、この文章では一応、意識してから言う、という流れがあると想定し、「自然に意識させられている」ということに注目することにする。(もし、言わされるということと意識させられるということが一連の流れではなく別だと考えるならば、ここからの文章の「意識させられる」を「言わされる・意識させられる」と読み替えれば、この文章では特段の問題は生じない。)
実際に感謝を「自然に意識させられて」いれば、受動的感謝があったことは把握できるが、「自然に意識させられて」いないなら、そこに受動的感謝がないとまでは言えるのか、
という疑問が生じうるように思われる。把握できない受動的感謝は存在しないのだろうか。
受動的感謝は「自然に意識させられて」いるときにしかないのだろうか。
私は、受動的感謝とは、「自然に意識させられて」おらず、全く感謝をしようという意識を持たなかったときにもあると考えることは可能だと考える。
どういうことか説明するために、ここでも具体的な場面で考えてみよう。友人数人で居酒屋に行った場面を思い浮かべてみる。久しぶりに会った仲のよい友人と一緒なので話が盛り上がったとする。お酒も飲み、いい気分で、幹事が会計をしているときも、会計をしていることにすら気付かなかった店を出るときも、次はカラオケだ!などと言いながら出たので、店員と顔を合わせた記憶もない。ごちそうさま、と言った記憶もない。そうしたとき、当然、居酒屋の食事に対する受動的感謝は意識されていない。しかし、2軒目のカラオケボックスに行った時、突然、歌詞の代わりに、牛を飼っている少女の物語が画面に流れ始めた。その牛は、子牛の頃から少女に育てられ、ある時少女と別れる。そして、最終的には、先ほどの居酒屋で食べたサイコロステーキの映像へとつながる。そうしたとき、飲み会の盛り上がりは失われ、居酒屋の食事に対する受動的感謝が意識されることになるだろう。私は、「居酒屋を出るときに、ごちそうさまくらい言っておけばよかったな。」などと思うだろう。
この例え話の場合、もともと居酒屋ではなかった受動的感謝が、あとになってカラオケボックスで生じたということなのだろうか。それとも、もともとあったが意識されていないが存在していた受動的感謝が意識されたに過ぎないのだろうか。
この答えの手がかりは、私は、後から「居酒屋を出るときに、ごちそうさまくらい言っておけばよかったな。」と思う、というところにある。これは、もともと感謝はあったはずだから、意識して感謝の言葉を発しておけばよかったな、ということだ。もし、新たにカラオケボックスで受動的感謝が生まれたのなら、「居酒屋を出るときに、このような少女がいるかもしれないことも踏まえて感謝の気持ちを持っておけばよかったな。」と後悔することになるが、そうは思わないだろう。そこまで気付かないよ、というのが正直な気
持ちではないだろうか。つまり、もともと感謝はあったということだ。
また、それは、受動的感謝を「意識する」という言葉の意味から必然的に導かれると言ってもよい。意識するというのは、もともとあったものを意識するということを含意する。
意識することで何かが生まれることはないということが前提にある。つまり、受動的感謝を「意識する」というイメージがあるのなら、それはもともと受動的感謝があったということだ。
このように考えると、受動的感謝については、感謝を意識するときと意識しないときがある、と言わざるを得ない。あえて、受動的感謝とは無意識の領域に属する事柄であり、意識して把握しようとしても全てを捉えることはできない、と言ってもよい。
意識するときと意識しないときがある受動的感謝について全体を捉えるためは、意識された部分的な感謝をつなぎ合わせ、無意識も含めた全体としての感謝を類推せざるを得ない。
そのように考えると、受動的感謝を「自然に意識させられている感謝」とするのは不十分であり、あえて言えば、「自然に意識させられている感謝と、そのうち自然に意識させられることになるかもしれない無意識の感謝」とでも言うことになる。しかし、後段の無意識の感謝については、「自然に意識させられている感謝」として捉えられるまでは類推されるしかない。不明確なものである。
以上を踏まえると、受動的感謝についての「自然に意識させられている感謝」という説明は不十分ではあるが、それ以上述べようとすると不明確になるという意味では、妥当な説明である。
これらのことは、受動的感謝というものの不思議さを表している。
受動的感謝とは、外側のない全体であり、列挙しきれない全てであり、また、無意識の領域に属するものであることから言葉では言い表すことができないが、それでも、私は「ごちそうさま」と食後に言い、受動的感謝を行っている。説明はできないが、現に行っている。また「ごちそうさま」と言わず、意識もしなくとも、受動的感謝がそこにあることを知っている。これが、受動的感謝の不思議さである。