2 3つの疑問
この本と「私の哲学にとっての哲学上の問題」との関係を捉えるためには、私が「ある、なる」を読んで感じた疑問から入っていくのがいいだろう。
私はこの本を読み返しても、最後まで3つの疑問が残った。これから述べるうえで整理するならば、一つの中心的な疑問と二つの付随的な疑問である。

中心的な疑問とは、「現実と時間は具体的にどのように絡み合っているのだろうか。」というものだ。
この疑問が中心的になるのは、あたり前とも言える。「ある」の現実と「なる」の時間の関係は簡単に言うことができないからこそ、「ある、なる」というタイトルのこの本の全体で伝えようとしたのだろう。
そして、この本は、この点について丁寧に述べてもいる。現実と時間の関係性については、プロローグから「ある、なる」の交錯配列、または交錯配列の反復と短絡という明確な述べ方をしている。いうならば最重要事項として扱われているといってもいいだろう。しかし、それでも、この本を読むと、それで具体的には何がわかったんだっけ?という疑問が、どうしても残ってしまうのだ。
この文章では、主にこの疑問について考えていきたい。

あとの二つは、そこから派生する疑問となるが、一つが、第22章で出てくる因果の充満という考え方の取り扱いについての疑問だ。この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の意味があるのではないだろうか、という疑問だ。
もう一つが、第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ<中間>という言葉でまとめて表現してよいのだろうか、という疑問だ。
実は、他にもいくつか疑問はあるのだが、いずれも、第25章とエピローグに関する疑問であり、この本は、第24章までと、第25章からでは、分けて扱ったほうがいいように思われるので、この文章では第24章までを扱うこととし、それらの疑問には触れないことにする。
(厳密には、第23章の「祈り」の問題、第24章の「思考の運命」の問題も、第25章以降の問題とあわせて扱うべきように思われる。)

それでは、中心的な、現実と時間の関係という問題について、私なりの答え、理解に至るまでの過程をたどりつつ、派生する疑問についても触れていくことにする。