2015年12月6日作

※ 入不二基義「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」について書いた文章です。以下、「ある、なる」または「この本」と呼びます。

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1 はじめに
この本「ある、なる」には二つの神が登場している。ベタの神とスカの神だ。神話には詳しくないけれど、シヴァとヴィシュヌ、いざなぎといざなみ、アフラ・マズダとアーリマン、そんな神たちにどこか似た二つの神がこの本の上には登場しているように思う。

そして、この本によれば、二つの神の間にあるのは、決して、どこかに落ち着くことはない「拮抗」だ。ベタ(黒)とスカ(白)が混じって灰色になることはない。黒いこの本のカバーを外すと白い本が現れることが、それを示している。カバーを外すという転換は一瞬だ。黒から灰色を経由して白に変わるのではなく、全面的な黒から全面的な白への瞬間的な転換である。その瞬間に垣間見られるものとして、運命が描かれている。

「ある、なる」には、正しさが含まれているという感触がある。
そう思う理由の第一は、今述べたように二つの神の拮抗として描くことができるような美しさがあるということにあるが、もう一つの理由は、読み返すたびに、何か新しいことに気付かされるということにある。
「ある、なる」を読んでいると、本と対話しているような気がしてくる。対話形式で描かれてはいないし、読者の気持ちに寄り添って優しく語りかけるように書かれているという訳でもない。それでも、読むたびに、新しいメッセージを見いだすことができるというのは、まさに本と対話しているということだ。そのような読み方ができる本には、ある正しさが含まれていると思う。
しかし、それは、つまりは、一度読んだだけではわからないということでもある。
最初に読んだときの感想を率直に言うと、「何かはわからないけれど、なんだかわかった。だけど、それで、何がわかったんだっけ?」というようなものだった。
読み返し、自分なりにこの本との対話を繰り返したあとで振り返ると、そう感じたのは、多分、この本が重きを置いて書いていないことが「私にとっての哲学上の問題」だったからなのだろうと思う。この本は「私にとっての哲学上の問題」を無視したのではないが、私にとってはペースが速すぎたのだ。
だから、私は、少し立ち止まって、引き返し、この本があえて述べなかった「私にとっての哲学上の問題」についての考察を書き足したい。そういう意図でこの文章を書こうとしている。
ということは、私は、これから、この本に書かれていない新しいことを書くつもりだが、実は、既に行間に書かれているとも言える。そのような意味では、この文章は、私が「ある、なる」を理解する過程での個人的なメモに過ぎないのかもしれない。